『満仲』の地謡を勤めて
粟谷明生
平成19年6月24日の喜多流自主公演の初番は『満仲』でした。
配役は、シテ・友枝昭世、ツレ・中村邦生、美女丸・狩野祐一、幸寿・友枝雄太郎、ワキ・宝生閑、笛・一噌仙幸、小鼓・大倉源次郎、大鼓・亀井忠雄、地頭は粟谷能夫で私は副地頭を勤めました。
『満仲』 シテ・粟谷菊生 美女丸・佐々木多門 幸寿 谷大輔
撮影・あびこ喜久三
自主公演で『満仲』が選曲されたのは一昨年のこと。何度か選曲委員が友枝昭世氏に『満仲』は?と打診をしましたが、友枝氏はなかなか承知されず、粟谷菊生が生きている内に、菊生の地謡で、という口説き文句に遂に了承された経緯があります。
当初の構想はシテ友枝昭世、ツレ粟谷能夫、地謡粟谷菊生、出雲康雅、粟谷明生の予定でした。これは内輪話ですが、実は最初ツレは明生でという、シテのご注文でありました。しかしこの多田満仲役は二人の子ども役の年齢を考慮すると、満仲と仲光の年齢差があり過ぎるのは・・・、と申し上げて、僭越ではありましたが敢えて辞退させていただきました。
しかし真意は、父が自分の十八番を、人情味あふれる現在物として、どのように謡うのかを、共に現場で謡いながら教わりたいとの一心でした。
そのような辞退の理由も説明させていただき、友枝昭世氏も納得して下さって、当初の構成となりました。しかし、不幸にも父逝去によりこの計画は実行出来ず、今年に入り再度番組編成をやり直すこととなりました。
『満仲』は旬のもの、年齢が近い二人の子方に恵まれなければこの能は実現できません。二人の子方があってこそできる能で、見守る大人としてはこの子たちが当日まで元気で風邪などひいたりしないかと、心配でたまらないのです。万が一のときに代役はいないので、子方のご両親、とくにお母さま方は相当神経を使われたことだと思います。このたび無事よく勤めてくれた子どもたちにも、お母さまにも「どうもお疲れ様、有難う。」と私は感謝とねぎらいの気持ちで一杯です。
私の『満仲』はシテ喜多実、ツレ粟谷菊生(昭和43年4月28日 喜多別会 喜多能楽堂)のときの幸寿役の1回だけですが、これが長い子方時代の最後の舞台となりました。
実先生じきじきのお稽古で「切られたら、すぐに横になって。でも頭は舞台につけてはいけないよ!」 このご注意は未だに頭に残っています。死んだら首は落ちるから舞台につけたほうがいいのにと、子ども心に、12歳なりに感じたことを覚えています。たぶん実先生は頭を舞台につけると演技が生っぽくなるのを嫌われたのではないかと思います。
頭を舞台につけないようにと身体を硬直させて、そして動かないように我慢する子方の身体から発散される緊張感が、舞台に横になり寝るという特殊な動作をも、能の型として表現するのがねらいであった、と私は思っています。
『満仲』 シテ・喜多実 美女丸・下村 幸寿・粟谷明生
撮影 あびこ喜久三
あの頃、私は声変わりで高い声が出ず苦しんでいました。美女丸役の下村君はきれいで透き通るような美声で、子ども心にもなんとも羨ましく、ねたましく思ったものです。
友枝昭世氏が「菊生先生がいらっしゃる間に一度は」と決められたのには、父の『満仲』演能回数3回ということが大きなウエイトをしめているかもしれません。『満仲』を3回も勤めている能楽師は珍しいでしょう。「うちの父は3人も幼い命を奪っていますから」と私は楽屋で冗談話をしていたのですが・・・。
父の『満仲』演能記録をここにご紹介させていただきます。
第一回 披き
昭和47年6月24日 喜多例会 梅若学院にて
シテ 粟谷菊生 ツレ 内田信義
美女丸 高林呻二 幸寿 粟谷知生 ワキ 村瀬登茂三
笛 中谷 明 小鼓 鵜澤 寿 大鼓 渡辺榮嗣
地頭 福岡周斉
第二回
昭和54年3月4日 粟谷兄弟能 喜多能楽堂
シテ 粟谷菊生 ツレ 粟谷幸雄
美女丸 井上雄人 幸寿 井上真也 ワキ 宝生弥一
笛 寺井政数 小鼓 幸義太郎 大鼓 柿原崇志
地頭 不明
第三回
昭和60年12月20日 国立公演 国立能楽堂
シテ 粟谷菊生 ツレ 友枝昭世
美女丸 佐々木多門 幸寿 谷 大輔 ワキ 宝生 閑
笛 寺井啓之 小鼓 幸義太郎 大鼓 安福建雄
地謡
(前列左から)
粟谷明生、粟谷能夫、谷大作、中村邦生
塩津哲生、地頭・粟谷新太郎、香川靖嗣、佐々木宗生
時代の移り変わりがこの記録で読み取れます。
能『満仲』の舞台進行は、幸寿斬首までの前半と、それ以後の後半とに分けられます。学問に身が入らない子・美女丸に腹を立て、手討にしようとする主君・満仲を制し、ならば誅せよと命じられる仲光。主君の命とはいえ、主君の御子を殺すわけにはいかない。悩む仲光に、実の子・幸寿が、父が主君に仕えるなら、自分は美女丸に仕えている、忠義なら我を身代わりに誅せよと、けなげな言葉をかけます。逡巡しながらも、仲光は幸寿を切り、自らは暇を申し出ます。そこへワキ恵心僧都が現れ、満仲にこの顛末や仲光の苦しみを語り、美女丸への許しを請います。
シテとしては、幸寿を切る場面はもちろん難しい見せ場ではありますが、後半の満仲と美女丸の再会、祝宴での舞などがもっとも難しいところだと思います。
感情過多では能でなくなり、感情稀薄では感動の薄いつまらない能となってしまいます。
『満仲』 シテ・喜多実 ツレ・粟谷菊生 撮影・あびこ喜久三
我が子を殺してまでも守ろうとする忠義心、この感覚は、現代の我々にはなかなか素直に受け入れにくい話と思われます。私もつい封建的な忠義物語となると、まずは忠臣蔵を思い出し江戸時代の武士の慣習を頭に思い浮かべてしまいますが、多田満仲は平安時代の人ですから、その歴史の古さ長さを思い、この手の悲しい痛ましい話は昔からある出来事なのだ、人の世とは・・・と考えさせられてしまいます。
こんなお涙頂戴ものは能の本質とかけ離れている、忠義だての物語など古臭くて現代にはしっくりこない、このようなご意見もわからないではありません。しかし能『満仲』は人間の根本的な悲しみや苦痛、忠義心、責任のとりかたなど、現在の我々の社会にも充分通じるように人情話として脚色され、観客の心にあますところなく訴える力を備えていると確信し、私の好きな曲の一つになっています。
『満仲』という現在物の能は、現代社会と密接につながり確かに存在しています。命の尊さと一門、一家を守り抜く努力と苦悩、この曲が伝えるメッセージが普遍のものだからでしょう。『満仲』はそのような香りをふんだんに放つ曲だと思います。
私もそのうち機会に恵まれれば是非演りたい曲ですが、『満仲』という曲は、『野宮』と同じに、だれでも近寄れる曲ではなく、曲が演者を選ぶところがあるように思います。似合わぬ者が挑むと、途端にばっさり切られるような力も備えているのでは、と思っています。さて自分はどうだろうか? 試してみたいのですが・・・。
今回の友枝昭世氏の『満仲』は父が生きていたら、謡い終えて切戸口をくぐり、囃子方に挨拶しながら、シテに向かって「昭世ちゃん!」と言って、いつもの右手でオーケーサインをだして・・・と思いました。屹度父はどこかで見ていたと思います。
父の『満仲』は父のもの、友枝昭世氏の『満仲』もまた友枝氏の新工夫がなされていました。伝書の行間から読み取る芝居心、現代に生きる能楽師として決しておろそかにしてはいけない大事な術です。例えば、子方への対応、太刀の持ち方や、男舞での工夫、掛の段を伸ばしすぐに舞わないなどの、適切な処置が随所に冴えていました。とくに直面というむずかしさ。悲しみの表情を見せずに、無表情でありながら、しっかりと心に響く役者の底力、見習わなくてはいけないと肝に銘じました。
私は『満仲』を終え楽屋にもどったときに、ふと悲しくなりました。
仲光は「我が子の幸寿があるならば、美女御前と相舞させ」と謡いますが、
私は「我が父がここにいるならば、菊生と共に地謡を謡い」とかぶって仕方がありませんでした。
そして昭和60年、私が30歳の時、地謡にいながら涙が出て仕方がなかったこと、いまも目を閉じれば鮮明に蘇ります。それはシテが我が子幸寿を切る場面ではなく、最後の橋掛りで美女丸を見送るところです。「仲光、遙かの脇輿に参り、この度の御不審なほざりならず、構えて学問おわしませと、お暇申して留まりければ」と謡いながら感動しました。自分の子が犠牲になっているのだから、ちゃんと学問してくださいよ、仲光の切ない胸の内がズーンと響いてきます。
今から5,6年前、父に「おやじさんの十八番の『満仲』をそのうち演りたいが?」というと「子方が揃えばすぐにでもやれよ、おれが教えてあげるよ、いまはコツだけまず教えておくよ!」と、次のように教えてくれました。
この話はこの秋、父の一周忌に合わせて出版予定の「父・粟谷菊生から聞いた話」(仮題)に記載され重複しますが、ここでもご紹介させていただきます。
菊生:いいか、「或いはお主」で美女を見て、「子はお惜し」と幸寿を見る、「弓手にあるは我が子ぞと」と太刀を幸寿に当てるようにして持つ、そしてすっと右回りで後を向いて、ちょっと止まる、逡巡するんだな、そして鯉口を切って、そしてちょっと躊躇したように見せて、あとは一気に太刀を抜いて真っ直ぐに幸寿に近づき切り、拍子、太刀を遠くへ捨て近寄る美女を左袖で留めて見せないよう、そして美女をゆっくり連れてくつろぐ。
いいかい、鯉口を切る、ここだよ。
それからこれも覚えておけ、橋掛りで美女丸に構えて学問と、扇遣いを二回する、その二回目は強くな!強くだよ、しっかり勉強しろよ!お坊ちゃま!と心では美女の頭をたたくつもりでな。」
このあと父の話はまだまだ続きました。
「静夫ちゃん(故観世銕之亟氏)が『仲光』(観世流では『満仲』をこう呼ぶ。)を演るからというので、僕のビデオを貸してあげたんだ。そうしたら、いいね菊ちゃん、と褒めてくれてね。そのうち四郎ちゃん(野村四郎氏)が『仲光』演るので静夫ちゃんに相談したんだ。そうしたら、これを見て、と僕のビデオを渡したんだ。無断でビデオの貸し借りはどうかと思うけれど、一級の能楽師同士の貸し借りは大いに結構じゃないか、これは僕の自慢だよ」。
この時の光景もまた、鮮明に思い出されて仕方がありません。
今回、『満仲』が父を思い出すもっとも大きな曲の一つであるということを認識させられました。そして、この悲しい曲を謡いながら、父がいつも言っていた言葉、「能はなんでも最後は祝言の心で」もまた思い出しています。
(平成19年6月 記)
平成19年11月 追加レポート
末子・美女丸の出家の真相
能『満仲』では美女丸(子方)が父・満仲(シテツレ)に出家するように言われますが、武芸に励んで、学問や仏道に心を入れません。父は怒り家臣の藤原仲光(シテ)に美女丸を手討にするように命じますが、家臣が主君の子を討つことなど出来ず、仲光は仕方なく我が子・幸寿丸を身代わりにしてしまいます。
何故、美女丸が出家を拒んだのか、どうして学問に励まなかったのかが私は気になりました。
先日、写真探訪で「満仲ゆかりの地」の謡蹟めぐりの際、多田神社に参拝に行くと、多田神社略記にいくつかの参考資料がありましたので、それを元に私の疑問を考えてみたいと思います。
先ず初めに満仲のことを知る必要があります。
多田の庄に住む多田満仲は人皇五十六代清和天皇の御曽孫で二十四歳の時に源姓を賜っています。満仲には5人の男子がいます。長男・満正は満仲三十八歳の時に生まれますが、何故か源家の系図には記されていません。想像ですが、たぶん早世したのではないでしょうか。
続いて四十一歳の時に、能『大江山』『羅生門』や『土蜘蛛』などに登場する摂津源氏の祖頼光が誕生します。系図では頼光が長男となっています。その後、大和源氏の祖、頼親、河内源氏の祖、頼信、そして頼平が生まれ、最後5人目に美女丸が生まれ、後に出家し源賢と名乗ります。
満仲は晩婚だったのか、それとも系図にはない満正以前に子どもがいたかは判かりませんが、ここにあげた5人の子どもは当時としてはかなり遅い誕生と思われます。
満仲は59歳の時、心機一転、出家を帝に奏請しますが許されません。そこで満仲はその思いを美女丸に託し、自分の替わりに出家させます。この時美女丸がいくつかは判明していませんが、ここから悲劇が始まります。
ではなぜ美女丸が選ばれたのか? その起因がいくつか考えられます。
1. 美女丸がまだ若かったため。
2.生来の武門の血を引きその性格も活発で荒かったので、一門の安泰を考えてのこと。
3.文武両道を旨とした満仲は、一門繁栄のため武門は4名の子に、文化面は美女丸に託し、文武両面を把握することで勢力拡大を考えてのこと。当時の中山寺(美女丸を最初に預けた寺)の繁栄を思うとそれも考えられる。
4.自分の出家が許されない状況を嘆き、まったくの父親の我が儘で子へ強制した。
など、いろいろと考えられます。
いずれにしても父親の考えを強制させられた子の悲劇、それが幸寿丸や仲光の悲劇と繋がります。そして『満仲』という能が描いた悲劇はシテ仲光だけでなく、生き残った美女丸にも及んだことを知りました。
満仲という武将が、たとえ武芸達者で信仰篤き者であろうと、その勇者の陰に、ある横暴がひっそりと隠されているのが能『満仲』なのです。
二人の子方に恵まれた時、いつか『満仲』を演りたいと私は願望しています。
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