喜多流自主公演(平成18年11月公演)で『千寿』を勤めました。
『千寿』は最近では頻繁に演じられるようになりましたが、以前は楽屋内でいう遠い曲(あまり上演されない曲)でした。理由ははっきりしませんが、例えば『船弁慶』などは義経と静御前の恋事を一方が子方で演じることで、生々しくならないように、いやらしさを隠していますが、『千寿』は重衡を両シテのように重く扱い、大人が直面で演じるため、どうしても表現が露骨になってしまう衒いがあります。先々代十四世喜多六平太先生や先代喜多実先生はその当たりがお好みに合わなかったのでは、と私は推察しますが真相はわかりません。
実は私もこの曲が好みかと聞かれたら、ちょっと答えにくいです。
しかし能役者とは不思議なもので、好きではないと言いながらも取り組んでいくうちにその曲の良さを見つけてしまうものです。私もはじめは気乗りがしないで稽古に入りましたが、次第にその面白さ、よさが判るようになりました。
曲名の『千寿』ですが、他流では『千手』と表記します。本来は千寿の母親が「千手観音」に我が子の誕生を祈念し、その願いが叶い「千手」と命名したもので、吾妻鏡をはじめほとんどの文献で「千手」と記載されています。「千手」が正しい表記と思われますが、千手のふるさと磐田市や千寿保存会などのチラシにはあえて「千寿」と記し、そう呼んでいるようです。これも私の憶測ですが、本名は「千手」で白拍子の源氏名を「千寿」としていたのではないかと思うのですが、どなたか真実をご存じならばお教えいただきたいです。
能『千寿』は、一ノ谷の戦で生け捕られ鎌倉まで護送される平重衡と、頼朝の命令で遣わされた千寿との束の間の悲恋物話です。舞台で、シテの千寿、ツレの重衡、ワキの狩野宗茂の三人が三様に的確に役を演じ分け力を発揮するところに、この曲のおもしろさと魅力があると思います。余談ですが狩野宗茂は曾我兄弟の仇として有名な工藤祐経の従兄弟と資料にありました。
ではこれからは舞台の進行に従いレポートします。
舞台は囃子も何もなく、ツレ重衡が静かに出て脇座にて床几にかかります。鎌倉の館に拘束され処刑を待つ身という状況設定です。まず狩野宗茂(ワキ)が名乗り、頼朝が重衡に対し丁重な扱いをしていることを語ります。その扱いは武人として、平家の御曹司として相当に手厚いものであり「昨日もお湯をひかせ」と囚人に風呂を用意するほどです。更に頼朝お好みの美女十人衆のナンバーワン千寿をお世話係に付けるほどですから、その扱いは相当に上等な待遇であったことが判ります。
頼朝の命令により千寿は連日重衡のお世話をしていますが、雨の日に琵琶を奏して慰めようとするところからがシテの登場となります。
通常、『千寿』の次第は常座で謡いワキとの問答が終わると、一時後見座にクツロギ下居して、重衡の独白となる大事な謡い所を聞きながら待ちます。ここは素声(しらこえ)の節扱いがあり、わざと調子をずらすように謡いますが、「我はいつとなく敵陣に・・・」から謡本では三行も素声を謡うのは滅多にありません。異例です。うまく調子を取らないといい素声にならず重衡役者の力の見せ所ともいえるむずかしいところです。この大事な場面で正面にお尻を向け下居している舞台景色は綺麗なものではありません。以前からどうにかここを改善出来ないかと思っていたところ、我が家の伝書に橋掛で謡うこともある云々と記されていましたので、今回試しに取り組んでみました。楽屋内の反響としては橋掛が館の外、舞台が館の内という状況がより明確化されてよい演出であったと好評でした。
重衡は捕らわれの身でありながら頼朝に出家を願い出ます。平家の御曹司らしい我が儘ぶりが出ているところで、それまで丁重に庇護してきた頼朝ですが、さすがに許可出来ないと断ってきます。重衡の装束で気になるのは何故袈裟をつけるか、という問題です。出家していない重衡ですから本来袈裟はおかしいと思うのですが、喜多流では袈裟を掛けています。このあたりも御曹司の我が儘ぶりで袈裟ぐらい掛けさせろという解釈なのか、他流では袈裟なしの演出もあるといいます。
はじめは重衡に面会を断られる千寿ですが、頼朝の仰せである旨を狩野に伝えると重衡との面会となります。ワキが「只こなたへと請ずれば」と招きいれると、シテは「そのとき千寿立ち寄りて」と橋掛からするりと歩み寄り舞台に入り、「妻戸をきりりと押開く、御簾の追い風匂い来る」と戸を開ける型をして館の中に入ります。若い千寿が都人重衡の香の香りに反応する一瞬に演者は心して演じています。見落としやすいところですが、ここが大事な見せ場です。生前父は私の地謡を謡うはずでした。ここの謡い方について「どうも皆、ここをゆったり、ゆっくり謡っているが、僕はさらりと謡うよ。若い女が経験したことのないものを感じる一瞬だよ、都人のいい匂いをね。だからさらっと、風が吹くように謡いたいんだ」と言っていたことを思い出しました。
千寿は出家の願いを自分も頼朝に進言したが叶わなかったことを語り、心ふさぐ重衡を盃と琵琶で慰めようとします。菅原道真の現世安穏を祈る朗詠、死語の引摂を願う具平親王の句などが詠われ、はじめは心を閉じていた重衡も次第に心を開き、酒宴となります、ここからがシテの芸尽くしの舞となります。
謡曲では謡の聞かせどころはいろいろありますが、囃子方も一時囃子アシラヒを中断するほどの大事なところはいくつかありますが、喜多流ではつぎの三個所が有名です。
『江口』の「秋の水漲り落ちて」、『砧』の「宮漏高く」、そして『千寿』の「羅綺の重衣たる、情け無きことを機婦に妬む」の三つです。気持ちを込めて美しく張って透明感を持って謡います。役者にとって聞かせどころ、勝負のところです。
さて芸尽くしのクセ舞ですが二段クセとなります。舞の型は道行の詞章に合わせながら基礎的な型の連続で、それほど特徴がある面白いものではありませんが、だからこそ舞そのものの美しさ、役者そのものの力が必要で、それがしっかりと表現出来ないとこの能は成立しないでしょう。
他流では中之舞としているところもありますが、喜多流はしっとりとした感じを出すために序の舞です。今回は初番が『敦盛』で三段の舞を舞うので、同じ型が続かないように配慮して私は替の型で更に「つまみ扇」の型を取り入れて勤めました。
酒を酌み交わし琵琶を奏でてひとときの時間が過ぎると、そこは二人だけの一夜となり、その一時もやがて過ぎていきます。源平盛衰記ではその夜のことをプラトニックに書かれていますが、私は大人の愛の確認があったと、『千寿』を勤めました。
千寿が重衡のもとに行かされたのは22歳。
年齢からも喜多流の小面を使用するのが順当ですが、艶、美女を前面に出して演じてみたい思いから、粟谷家蔵の孫次郎系統の面「柳孫」を使用してみました。華やかで、ちょっと大人の雰囲気がある面ですが、実は未だ使用したことがなかったので、いつか使いたいという役者心でもありました。
二人にとって貴重な時間が過ぎ、勅命によりまた都に戻ることになる重衡を千寿は泣きながら見送ります、最後の場面「はや着衣に引き離るる、袖と袖との露涙」と二人は舞台中央で交差しますが、ここをあまり近づきすぎると露骨になり舞台にイヤミがでてしまいます。少し距離をとりながらも二人の役者の心、息が上手く通じて、ぎりぎりのところで離れていければいいと思います。
ところで『千寿』のツレ重衡はシテと並列するほどの重要な役です。
『千寿』の演能心得として、謡はツレが一番重く、シテはその次ぎ一段高く張って謡うこととの教えです。
重衡を勤める者は、はじめから最後近くまで脇座で床几にかけたままです。私は未経験ですが、体験者はこの長丁場を腰掛けている辛さに苦しみます。膝や腰の苦痛は経験者しか判らないでしょう。今回狩野了一氏にお願いしましたが、重衡らしい良いツレを的確に演じてくれて私の舞台を盛り上げてくれました。
この重衡が床几に腰掛けている姿を拘束されている意味と先輩のある方は説明されます。申合で、重衡が心をひらき酒宴に加わり朗詠を聞くときと、琵琶を弾くときに床几から降りてみてはと思いツレに指示したところ、これは拘束されている意味だから不適とのご注意を受けました。重衡の床几についての考えは、それだけに断定してしまうのはいかがなものでしょうか。違う角度からの見方もあっていいのでは、確かに捕らわれ拘束の有様の表現ではありますが、それだけに留まらないものもあると思います。拘束されていると同時に、能『千寿』での重衡の役柄の位の高さを表していると思います。
当日は自主公演という流儀の催しでもあり、また狩野了一氏にご迷惑がかかるといけないと思い、今回は見送り普段通りにという師からのアドバイスに従いましたが、私としては少し気持ち悪さを残しました。
新しい試みが効果的か、また似合わぬ悪いものなのかは別として、能役者として常に心がけていなくてはいけないことがあると思います。それは常に能を演劇的に前向きに考え、演じる姿勢を崩さないこと、それが私のモットーです。
先日、ある方から「能はそれまでの体験が能(脳)力となって体力を越える」とのお言葉を賜りました。表現の枠組みを狭めたり、新風を吹かせないために、先を見つめる若き能楽師にプレッシャーを与えるようなやり方があっては流儀は繁栄しないのです。
能は決められた型や口伝など約束事もたくさんありますが、その理由については伝書に書かれてはいません。その真意は師や関係者から教わる中で、演者が思いを膨らます部分があることが重要です。情報はより広く、たくさんあるのがよく、それが正しいか間違いかは別として、考えて選択する作業ぐらいのことは、今の時代の能役者としての必須条件だと思うのですが。
千寿は重衡に名残があったのか若くして亡くなります。私は従来の重衡の型に新風を起こせなかったことに、名残があります。父が亡くなって初めての能、父への名残と共に、名残というキーワードで繋がる『千寿』でした。
(平成18年12月末 記)
能 「千寿」シテ 粟谷明生 撮影 あびこ喜久三
面「柳孫」粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
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