厳島神社

御神能用にしつらえる能舞台
厳島神社の能舞台は普段は、舞台と橋掛りがあるだけです。ですから切戸口を開けるとそのまま海という具合で、まわりには何もない造りですが、桃花祭の御神能のときに限って、演能用にしつらえられます。

厳島神社ならではの廃止曲
『清経』と『絵馬』は、現在この舞台における廃止曲となっています。清経は平家の行く末をはかなんで、戦わずして自害しています。これは敵前逃亡に等しく、よくないということで廃止曲になったらしいです。しかし、平清盛公が厳島神社を加護した経緯からすれば、清経は清盛の長男の子で直系であることからも、もう少し大切に扱ってもよいのではと思うのですが・・。敵前逃亡という考え方は、戦時中の思考のように思われます。見方を変えれば、『清経』という曲は戦さの愚かさをみせてくれ、反戦歌にもなっているので、これまでの慣習にとらわれず、復曲してもよいのではないだろうか、と私達演者は思っています。
『絵馬』の方は、忠臣蔵、赤穂浪士で有名な浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうずけのすけ)に刃傷を負わせたという知らせが、江戸からの早かごで届いたときに、城中で『絵馬』をやっていたことから、縁起が悪いということになったらしいですが、これも厳島神社と浅野家との関係であって、廃曲にする必要性があるのかは、疑問です。

楽屋翁後見の写真・・ここが厳島神社能楽堂の楽屋です。後見が御神酒をつぐために三番三、千歳、お囃子方を待っているところです。(詳しくは「能夫翁姿」の写真の説明参照)。この翁の演能前後、楽屋は女人禁制となりますが、その後は女性も入れます。
渡り廊下の写真・・舞台の後ろに渡り廊下をつくり、楽屋と切戸口との連絡通路にします。地謡も後見も出演者は長裃をつけて、この狭い廊下を通ることになります。昔はこの敷き板が外れたりしたため、足を踏み外し海に落ちそうになったり、怪我をしたり、裃を板に引っかけて破ったりと大変でした。現在、全ての出演者が一日中、長裃をつけているのは私の記憶ではここだけではないでしょうか。
見所の写真・・普段は特別に見所というものはないので、舞台のまわりに板をはって、桟敷見所をつくります。何年か前に、桟敷を組んでいる所に見物人が大勢腰掛けたため、紐がゆるみ、下に落ちたことがありました。幸い引き潮でしたので、びしょぬれにはならないで済んだようですが、それからはかなり念入りに作られているようです。
大鼓用の小屋の写真・・大鼓の人用に、切戸口の裏に小さな小屋があります。これが大鼓方の楽屋です。大鼓は皮を焙じるために火を使用します。神社側が火事を警戒して、海に一番近い所に専用の楽屋を作りそこで焙じるということで、やや寂しい楽屋になっています。渡り廊下の写真の奥に出っ張って見えるのが、この小屋です。
橋掛りの角度の写真・・橋掛りが舞台に対して、後方にふれているのが特徴です。現在の能楽堂は舞台に対して90度~100度の開きで作られていますが、ここは135度程とかなり開いています。つまり、演者が「おまーく」と言い揚幕を上げると、目の前に、ワキ座がまっすぐに見えるほどの角度になっているということです。名乗り笛の時、笛の方は幕が上がると吹き出すのがきまりですが、ここでは笛の位置から幕は見えません。また一曲が終わり演者が幕に入ったら笛が正面を向いて立ち、地謡も立って退場するのが作法ですが、このときも笛の方は演者が幕に入ったかどうかが見えません。実際、皆困っていますが、勘をたよりにどうにか対応しているようです。
この写真で揚幕から脇座が一直線に見えることを体感して下さい。
橋掛りの板の写真・・舞台の板は本舞台縦板、後座横板、橋掛板の三種で組み合わされていますが、この舞台は、橋掛の板がそのまま本舞台の縦板のところまで続いています。従って、後座が長方形ではなく、橋掛りの板で一部が切られ変形しています。我々演者はこの舞台の仕組みを頭にしっかり入れておかないと、能を演じるときに場所の勘が狂ってたいへんなことが起きてしまうのです。普通は橋掛りの板目を足の裏で感じ、次に後座の横板を感じて正面へ向きを変え、さらに縦板との継ぎ目を感じ常座に進みますが、この舞台では橋掛りの板の上をまっすぐ歩んで行くと、そこは大小前という本舞台中央近くについてしまうのです。
笛柱の写真・・笛柱は普通、壁の角に填め込まれているため、地謡は切戸口を出ると、笛柱をよけるようにして舞台の方に回り込んで地謡座につきますが、ここでは、笛柱が一本独立して立っているため、笛柱と壁の間を抜けることができます。実は喜多流の十四世喜多六平太記念能楽堂の笛柱も同じつくりで、この舞台の笛柱を模したものと思われます。このような笛柱は東京では他に靖国神社の能舞台しか見られず、珍しい形なのです。
階(きざはし)の写真・・見所から本舞台にかける階がありません。この舞台の階は、潮が引いているときには使えますが、満ちてくると浮いてしまうために、今日では外されています。従って、舞台から落ちても階から上がってこれないことになります。(この階、現在は楽屋の天井に飾ってありました)。
舞台の土台の中央に横に線が見えるのは、ここまで潮が満ちてくることを示しています。
御祈祷の写真・・御神能は4月16日から3日間、翁付五番立(今は3日目のみ、翁付ではない)で行われます。御神能は神事なので、太夫は本殿で御祈祷を受けてから楽屋に入り装束をつけます。優雅で厳粛な雰囲気があります。
 この写真は平成7年の粟谷明生 披キの時のものです。前列左は執事の出雲康雅氏です。
能夫の翁姿の写真・・装束をつけた後、翁飾り(段飾りになっていて、面箱やお神酒、お米、いりこなどが飾ってあります。正式には「饌米」「塩」「御酒」の三種だそうです)の前で、お神酒をいただきます。翁飾りのところに後見が待っていて、順番に太夫、三番三、千歳の役者、囃子方、地謡などにお神酒をつぎます。平成13年は、翁太夫の粟谷能夫が最初にいただきました。どこでも『翁』の前には同じような作法があり、通常は後見が御神酒を持ち出演者たちについでまわる形ですが、ここ厳島では演者が翁飾りの前に並び御神酒をいただきます。