『井筒』について 女能の名曲の魅力
粟谷明生
秋田県大仙市のまほろば唐松能舞台での定期能公演(平成18年8月27日)で『井筒』を勤めました。
『井筒』は三番目物といわれ鬘物の代表曲で、女能の名曲です。
能楽師ならば三番目物には憧れがあり、「いつか自分も勤めたい」と夢みているのではないでしょうか。
私は天の邪鬼なのか、ずっと二番目物や四番目物の現在物の方に心が向いていて、複式夢幻能といわれるものに興味を示さないでいましたが、40歳を過ぎるあたりから、能の真髄といわれる三番目物の魅力・味わいの深さを知り、いまはその世界に引き込まれ、虜となっています。
三番目物には、「本三番目物」といわれる最高位の曲がいくつかあります。
登場人物も高貴な女性で、緋色大口袴をはき、高位之序の序之舞を舞います。
喜多流では本三番目物を勤める順序は、『半蔀』や『東北』の入門編をまず習得し、『夕顔』『楊貴妃』『野宮』『江口』『定家』と徐々にレベルを上げていきます。
残念ながら『井筒』は鬘物の代表曲でありながら、「本三番目物」ではありません。理由は後シテの扮装が緋色大口袴を着けずに腰巻姿であること、そして序の舞が完全な高位之序でないからです。専門的になりますが、高位之序特有の序之舞の掛(かかり)の最後の拍子を踏みません。たぶん「本三番目物」に遠慮して、故意に踏まないのではないでしょうか。
『井筒』は世阿弥が「直(すぐ)なる能、上花なり」と申楽談義に自賛したほどの傑作で位の高い曲です。演者側としては本三番目物でなくてもそれに匹敵するように、同等に大事に扱っていますが、一度『野宮』を経験してしまうと、その層の違いは歴然と判る、というのが正直な私の感想です。
私は『半蔀』と『東北』は青年喜多会で、以後は『野宮』『楊貴妃』と勤め、18年10月の粟谷能の会では『江口』が予定されています。?本来『井筒』は『野宮』より前に披いておくべき曲ですが、『井筒』を大事に意識し過ぎたため、演能機会を逃してしまいました。今回、粟谷能夫の配慮で「まほろば公演」で、ぽっかりと穴があいていた私の演能記録に穴埋めが出来たことを感謝しています。
能楽師は、成長に合わせ順を追って大曲を適材適所に習得していく、判っていながらも、この教えの大切さを再認識させられました。
まほろば公演で『井筒』を選曲した理由には、実はもう一つあります。
正面に置かれる一叢の薄を付けた『井筒』の作物。
この風情がまほろばの自然の中でうまく季節感とからみ、秋の名曲が秋田の田園という特殊な屋外ロケーションで演じられれば、興業的に成功するはずという、私の計算でもありました。もしかすると、もうそこまで秋が来て、あたり一面に薄が見られるかもしれないという期待感もありました。興業主や演者は演じる環境設定に気を配るべきと、その必要性を説いてきたのは先人たちです。その教えを守りたいと、今回の演出を考えました。?当日は快晴に恵まれ、といって蒸し暑くてどうしようもないという程ではなく、お客様は日差しをよけながら扇子であおいでおられましたが、時折吹く風が演じていても心地よく、野外能の気持ちよさを演者と観客が一体となって感じられたのでは、と思っています。
『井筒』と『野宮』は形式が似ているため、よく比べられます。
演者側からすると、後者は六条御息所という高貴な大人の女性の複雑な女心を演じるので、若者には到底手に負えるものではありません。前者ならば純粋さを前面に強調したらどうにか若者でも勤められるかもしれない、という可能性に縋って(すがって)のことなのでしょうか、通常は『井筒』から取り組みます。
『野宮』には能役者の人生と演能の経験を通した心と技術の二つが不可欠ですが、
『井筒』には、乱暴な言い方ですが、一通り型付通りに動き、謡うことで、少々役者の力不足があっても作品をある意味成立させてしまう不思議な力があります。『井筒』という曲は、井筒の女(有常の娘)の業平に対するひたむきな愛、堪え忍び、ひたすら待つ女の純粋な愛を、余分なものをすべて削ぎ落とし、女性の心の襞という核心部分だけで訴えるという極めてシンプルで完成度の高い作品に仕上がっています。完成度が高いからこそ、若くても、少々未熟であっても、型付通り上辺をなぞることで、どうにか出来てしまうのです。何故私が『井筒』から遠ざかってしまったのか、それはその不思議な力に頼り過ぎては演(や)りたくない、という生意気な思いが自分自身の中にあり、その思いが固く固まりになりすぎたからなのです。
繰り返しになりますが、能役者は子ども時代から順を追って能の大きさを肌で感じ、その覚悟と喜びを体験していくものです。順序は乱れないに越したことはありません。
優れた能は演者が真摯に挑めば、いつでも必ず何かを返してくれる、そう信じて今回も勤めてみると、いろいろな発見がありました。
『井筒』のあらすじは、旅僧が在原寺を訪ね、在原業平とその妻になった紀有常の娘の跡を弔っていると一人の女性が現れ、古塚に花と水を手向けます。僧の不審にこたえて女は伊勢物語の歌などを引いて、二人の恋物語を語り、遂に女は実はその女だと名乗り、井戸の陰に姿を隠します。(中入)
夜も更けて僧の仮寝の夢に、業平の形見を身につけた先刻の女が現れ、業平を偲ぶ舞を見せ、やがて寺の鐘の声に夜も明け、僧の夢も覚める、というものです。
『井筒』のシテの面は喜多流では通常「小面」ですが、今回は「宝増」を選択しました。かわいらしい女だけでは井筒の女を表現できないからです。このことについては、東京文化財研究所の高桑いづみ氏が能楽観世座のパンフレットに「生いにけらしな、老いにけるぞや」「深井が見せる井筒の世界」と興味を引く文章を載せておられましたので、一部を引用して話を進めます。
高桑氏は室町後期から江戸初期に書かれた伝書には鬘物の前シテには「深井」をかける演出が一般的であったといいます。桃山時代には下掛が「小面」をかけるようになり、それが『井筒』の「おいにけらしな、おいにけるぞや」の「おい」を「老い」とするか「生い」に当てるかに関連してくると説明しています。下掛が「生い」と表記する背景として「小面」のイメージが大きくはたらいたのだろう、と説かれ、「老い」を当てるならば、時間の喪失感など若い女では似合わないので「深井」のような面の選択となったのだといいます。?
観世流には十世大夫重成が江戸初期の面打ち師「河内」に「若女」の面を打たせるまで、若い女性の面がなかったということで、「河内」以降も観世流では「深井」にこだわりをもっていたというのです。つまり『井筒』という作品に漂う「待つ女」の錯綜した内面は若い姿では表せないと感じていただろう、と書かれています。貴重な興味がわくお話です。
故観世寿夫氏は後シテの「老いにけるぞや」の謡い方に拘りを持たれていて、そこが銕仙会の大事な教えになっているといいます。内緒にしておかなくてはいけないのかもしれませんが、いかにも大乗の拍子に合うだけのような謡では駄目で、「老い」の「お」の字の発声に演者のストレスや焦れが必要である、リズムをはずす限界ぎりぎりまでの「ため」が大事だとおっしゃっていた、と聞いています。
はじめは、おっしゃる意味が理解出来ませんでしたが、今ようやく、それが井筒の女の「待つことの焦れ」の表現だと思い至ります。待つことの精神的な辛さ、そして年を重ねるという時間の喪失感、その二重苦の時間の流れこそが、井筒の女のテーマなのです。
父は『井筒』について、「昔、この国に、住む人のありけるが」で始まる曲(クセ)は幼い男の子と女の子が隣同士で住んでいて、次第に恋が芽生え、将来を誓うというふたりのかわいい思い出話だから軽くサラリと謡うものだ、その代わり「風吹けば沖つ白波龍田山、夜半には君が一人行くらん」のサシ謡、あそこは大事だから丁寧に謡うのだ。夫婦になり、夫が高安の女のところにいくことを知りながらも、妻は道中の無事を祈って見送る。ここがなんとも言えない『井筒』の裏側の、いいところだと言います。
そうなると、やはり青二才では歯が立たない曲ということになります。
夫と愛し合った時間、苦しんだ時間、一人の女性の喜びも悲しみもすべて含み込んで
ただ静かに舞う、シンプルだが、その中に人間の一生の深さを表現する、それが能の持つ力ではないか、と寿夫氏は語られていたといいます。
話を戻して、装束について触れておきます。
今回、後シテに流儀にはない、日陰の糸を付けてみました。
初冠に赤色(浅黄や白色もあるようです)の飾りの紐を左右に4本ずつ垂らし、笄(こうがい)に心葉(しんよう、またはこころば)を飾るものです。観世流は小書が付くと、宝生流は『杜若』沢辺之舞のときに使用すると聞いています。
後シテは、腰巻姿に長絹を着て、初冠に追懸という能特有の出立ちで、これが私の大好きなスタイルです。そして日陰の糸をつけることで、より雅な業平像を表したかったのです。地方の屋外の公演ということもあり、普段出来ないことにも挑戦したいという欲ばり根性を、観客へのサービスという言葉に移し替えて、我が儘を通してしまいました。反応は、「喜多流らしくない」や「華やかで結構」と賛否両論、いろいろなご感想があって然るべきだと思っています。
長絹は本来観世流では総柄模様がお決まりで、特に業平菱模様などが好まれていたようですが、観世寿夫氏は、あえて総柄ではなく男物の大紋模様の長絹を選ばれ舞われました。女が業平の形見を付けて舞うのですから、男模様が当然といえば、当然なのですが、そこに拘りを見出し従来の手法にとらわれない観世寿夫氏の芸術性の高い意識こそ、世阿弥の再来といわれる所以なのでしょう。今では大紋が主流と変わってきたといいます。
後シテの一声「あだなりと名にこそ立てれ」は男博士(おばかせ)と呼ばれ、男の気持ちでかかって謡うのが口伝です。「かように詠みしも」からは井筒の女にもどり、官能的なものも含まれてきます。
「形見の直衣、身に触れて」は後半の名場面のひとつ。謡もむずかしいところ、囃子の手組に合わせながら、左右の袖が業平に見えてきて、身体にそっと大事にしまい込むように胸にあてます。ここは、いろいろなやり方があるところですが、伝書には「懐かしや、昔男に移り舞」とシオリをするように書かれています。しかし私は昔を懐かしんで、めそめそ泣くのではなく、夢の世界でまた業平と一緒になれる喜びと回想の舞のはじまり、これから男と女が演者の身体を通して移り舞をはじまる、そこを表現したく、正面にじわっと一足つめる型に替えました。
能ならば、能だからこそ可能な手法ではないでしょうか。もっとも効果のほどは自分では判りませんので、ご覧になられた方に善し悪しをご判断いただきたいと思います。
また、後シテの扮装で太刀を佩く時と、佩かない時があり、太刀を佩くと一段と業平の形見のイメージが膨らみます。小書「段之序」が付くと太刀を佩くのが決まりです。今回小書ではありませんが、太刀を佩いてみたいと申し出たら、能夫が終盤のクライマックスの「業平の面影」と井戸をのぞき込む大事な型のときに、「太刀が井戸にあたるよ」と忠告してくれました。ここは見栄えより演技重視、太刀の着用は見送りました。
太刀には二番目物などの源平用の反りがある太刀と、業平や西王母など公家や仙女などの佩く装飾品に近い真之太刀があります。
最近喜多流では、『井筒』『杜若』『西王母』など飾太刀として使用する場合、真之太刀をそのまま使いますが、反りのある普通の源平武士用の太刀で代用する場合は柄の部分に鬘帯を付けてきました。これは装飾の意味で巻き付けていると認識していましたが、どうも誤解のようでした。真之太刀を使用するときは鬘帯を付ける必要がない、というのは誤りで、「禁中では、太刀が抜けないようにわざと紐で留めている、その意味での鬘帯の使用です」と観世流の方から教わりました。
これは勉強になりました。
能の最後には通常シテや脇留では脇が留拍子を踏み終曲します。
この留拍子を踏む方がいいか、踏まないで済ますか、とシテ方とワキ方が意見を交わしているのを拝聴したことがあります。
シテ方は、なにもなく静かに余韻を残して終わらせたいので、敢えて終わったという動作はしたくないから踏まない、しかし脇方は留拍子があるからこそ、旅僧の夢がさめるのであって、「私の夢を覚ましてくれなきゃ」と、踏むことを重視されます。
『井筒』の最後は芭蕉葉がばっと音を立てるように、旅僧の夢は破られ、夜明けと共に井筒の女の姿は消えていきます。
留拍子一つでも、踏むと式楽的な終曲処理となり、踏まなければ演劇的な舞台効果をねらったものになる、と思われますが、話の最後に「どちらでもいいじゃないの、要するにうまくやればいいの」と父の一言。まさに芭蕉葉が落ちるように、この言葉を聞きました。当日は、あの言葉が頭をよぎり、踏んで終曲してみました。
『井筒』は男の能役者が紀有常の娘という女に扮し、その女が業平の形見、初冠や男長絹を着け業平になろうとする、男装した井筒の女は井戸の中にその面影を見て永遠の一瞬を悟る。男の役者が女に扮し、そんな女の哀れを男の肉体の動きで表現する、このような作り方をしているのが能です。その典型が『井筒』だと演じて確信出来ました。
『井筒』を演じるにあたって幽玄、この言葉が気になりました。
幽玄とは、男が女になること、つまり女が表現出来ないことを表現すること。上品で清楚でしかも色気のある立ち居、振る舞いを言う、と私は教えられてきました。
能の成立過程や骨格、真髄というものを最優先すれば、自然と女流能楽師という存在には限界があり、存在そのものに問題があるように思えます。今、女流能楽師と言われている方には、男の能楽師よりその技術や精神において遙かに越えている方もいらっしゃいます、その昔女性が芸能者として能を演じていた時期がないわけでもありません。しかし女能(幽玄能)を突き詰めていけば、その根幹が何であるかが、問われます。女性がそれを演じるとき、能が本来の持っているものとは異質なものになってしまうのではないでしょうか。能が成立して600年余、男の芸能として追及され育まれてきたものは何であったか。男女平等や皇室典範改正云々とは違う時限で、能という伝統芸能のあり方、能の根幹である大事な能の精神を再認識するようにと、『井筒』の女が私に訴えかけているように思えてなりませんでした。
(平成18年9月 記)