『青野守』 青をめぐる演出考
粟谷 明生
近年の『青野守』はおそらく二百年ぶりの演能ではないでしょうか。
春の粟谷能の会(平成18年3月5日)で珍しい『青野守』を勤めました。
喜多流には他流にない、従来の曲名に色名を付けて演出を変えることがあります。たとえば『白是界』『白田村』『白翁』などです。『是界』には小書「白頭」がありますが、『白是界』になると位はより重くなり面や装束が変わって風格あるものになります。『田村』にも小書「祝言之翔」がありますが、『白田村』では面が「天神」となり装束も常とは変わって謡に緩急も加わり、より強さを強調した演出となります。『翁』には『白翁』があり、装束一式が白色になり、揚げ幕まで従来の幕を白色に変える演出となります。昭和29年1月9日、十四世喜多六平太氏は文化勲章受章祝賀能でこれを演能され、また、先代十五世喜多実先生が国立能楽堂舞台披きにて演能されたことが思い出されます。
これらはいずれも詞章を変えずに、謡の位や面・装束などを変えることで曲の位を上げています。『青野守』も同様に『野守』と詞章は変わりませんが、演じる精神性が違うと、私は思っています。
『青野守』については、我が家の伝書のひとつに喜多流の中興の祖といわれる江戸後期(徳川家治時代)の九世喜多七大夫古能健忘斎の教えを十世十大夫盈親寿山が書き留めたものがあり、そこに記載されています。実は昨年(2005年)、大阪で高林白牛口二氏が二百年ぶりに『青野守』を勤められました。私がお聞きしたところでは、我が家にあるものと同じ伝書をもとに掘り起こされたようです。これで途絶えていた『青野守』が陽の目をみることができました。私も同じ伝書を持つ身として、是非一度勤めてみたいと思い、今回粟谷能の会で私なりの初の試みとなりました。
私の『野守』の演能は、披きが厳島神社御神能で次は粟谷能の会での『野守・居留』と今まで二回でした。この経験をもとに三度目ということ、新たな演出を試せる年齢や環境が整ったのではないかと思い、私的な会である場で少し自由に勤めたいと考えました。
ここにその伝書の一部をご紹介します。
「野守の後を萌黄法被、萌黄半切にて致す事在り、是を俗に青鬼などと言う人あれどもさにあらず。野守は春の能なり、尤も切には地獄の所作あれども、まったく地獄の鬼にてはなし。春日野の陽精、また春神の心なり<中略>古能公披かれ候なり、世人知るべし」とあります。
後シテは萌黄法被、萌黄半切にする、春の能だということ、野守の鬼は地獄の鬼ではない、春日野の陽精、春神の心であるということが、私のイメージを大きくふくらませてくれました。先人にこんな風にしゃれた演出を考えた人がいたということも大いに刺激になりました。
若いときは後シテの扮装が法被、半切を着て赤頭に唐冠を戴き面は小ベシミで、『鵜飼』の後シテと全く同じ装束、地獄道や奈落という詞章からも『鵜飼』の閻魔大王と錯覚して勤めていました。地獄や浄玻璃の鏡という言葉から閻魔王と繋がるのは無理もないことですが、詞章を読み込んでいくと、『野守』の鬼神は鬼といわれながらも人に害を与えるような、また人間の悪霊のような存在ではないことが判ります。この鬼はもっと特異な存在として描かれている、そこが世阿弥らしいのです。「怖れ給はば帰らんと、鬼神な塚に入らんとすれば」と「あなたが怖いと思うならば自分は墓に戻るよ」といかめしい顔とは反対に素直な純朴な心の鬼神なのです。
では、鬼神とは何でしょうか。鬼神は「きじん」とも「きしん」とも発音して謡います。雑誌「観世・『野守をめぐって』」で京都大学教授の浜千代清氏は「きしん」の場合は超自然的な存在で神の方に重点がおかれ、「きじん」と濁ると変幻自在の鬼のほうになると説明されています。『野守』ではその両方の言い方をしているのが面白いところです。
太古の時代、人間は死ねば神か鬼になる、生前の行いがよければ神になれるが、そうでなければ鬼になるしかないという信仰があったようです。死ぬと鬼というのはいささか悲しいですが、その鬼にも救いの解釈はあります。それは「鬼もまた神なり」という解釈です。荒ぶる神であると考えれば死後にもまた光が見えるのではないでしょうか? この「鬼もまた神」という言葉でこの伝書がいっそう身近なものになりました。
私は後シテの鬼神は地霊や国つ神、また守り神ではないかと思っています。東西南北有頂天から地獄まで四方八方全宇宙を照らし映し山伏に見せる神に近い存在です。最後の「奈落の底にぞ入りにける」の詞章や閻魔に似た扮装から恐ろしい地獄の鬼を連想しがちですが、伝書にある通り陽精とか春神です。春日野に太古から住んでいた土着民族の魂や霊が守り神に変化したのだと考えられます。先住の土着の魂や霊神は体制側の天つ神に押しやられ、徐々に引き退きながら地下深く隠れるしかなかったのです。ベシミの形相となり反抗を余儀なくされながらもけっして戦いを挑まない無言の抵抗者です。口をむすんで「もう何も語らない」とストレスに満ちた憤怒の形相で征服者を睨んでいる、そのストレスを同じ境遇にある芸能者が演じる、それが能発生当時の真髄と言えるのではないでしょうか。
『青野守』は後シテを地獄の鬼というより春神や陽精という位に一段上げた演出で、いみじくも太古の時代の現世に生きる者以外は鬼か神かになるという信仰と、伝書にある「陽精や春神の心」とがうまく一致しているように思えてなりません。ご覧いただく方にも、この一段位の上がった演出を観ていただきたいと思いました。
装束については、後シテは伝書にある通り法被・半切を萌黄色にしました。着付けの厚板の色の指定がないので、厚板を萌黄色にして裳着胴(モギドウ)姿というのも一案としてあがりましたが、やはり法被・半切萌黄色の記載にこだわり、法被を肩上げして萌黄色厚板に萌黄半切という三つの配色のバランスを考えて総萌黄としました。草萌える春の能のイメージ、『青野守』の青のゆえんでもあります。
頭(かしら)は何も戴かずに白頭にして、面は従来の小ベシミを大ベシミ型の「黒ベシミ」にしました。『大江山』や『紅葉狩』、『土蜘蛛』のようなショー的な鬼退治の話ではないので、神のような、スケールも大きい鬼のイメージでアニミズムの雰囲気を醸し出せればと考えました。
ではここからは舞台進行を追いながら今回の演出を記載したいと思います。
最初にワキの出羽国、羽黒山の山伏が登場します。この山伏は修行を積んだ立派な修験者で、だからこそ、野守の鬼神はその法味にひかれて出てくるのです。山伏がこの曲の軸を担っていると思います。そこで今回はどうしてもと、宝生閑先生にご出演依頼しました。一日の番組を考えると『柏崎』と『青野守』という二番能であれば、普通は『柏崎』を宝生先生が勤められ『青野守』は同年代の森常好氏があたるのが順当です。しかし敢えて『青野守』という新しい試みに大ベテランのご助力をいただきたいと思い、我儘をお聞きいただきました。この能はワキの占める位置がいかに重要かはご覧になられた方ならお解りいただけると思います。この山伏が一曲の進行役の存在で前・後場通してシテに大きく関連している役なのです。
『青野守』の前場は通常とほとんど変わりません。他流には小書が付くと前シテ(野守の老人)の一声(いっせい)の後の、下歌(さげうた)、上歌(あげうた)を省く演出もありますが、私は「昔、仲麿が我が日の本を思いやり~~」の上歌が好きで省きたくありません。以前、宝生先生に「仲麿なんていってもピンとこないだろう?」と言われたことを思い出します。確かに当時は「誰ですか? 人麻呂? 仲麿?」とお恥ずかしい返事をしたことを覚えています。二年前、北京と西安の中国旅行をした折、西安の公園で阿部仲麻呂の記念碑を見つけ描きこまれた詩を読んだとき、遣唐使として中国の地を踏み悲願の日本帰国が出来なかった史実を知ると、「我が日の本を思いやり、天の原ふりさけみると詠めけん、三笠山の山陰の月かも」の謡がなんとなく身体の中にすっと入り込んでくるのです。
その後、前シテとワキの問答が始まり、野守の鏡に二つのいわれがあることや敏鷹(はしたか)の伝説が語られます。シテの語りの最後、「狩人ばっと寄りて」で、老人がすっと立ち正面先に出て水底を覗く型がありますが、ここの動きが老人ということをすっかり忘れて若さあふれる荒い動きとなると、以前注意された箇所です。近頃少し老人の動きとしての瞬発力とは何であるかが判ったように思えるのですが、果たして今回はそのように出来たのかはいささか自信がないところです。
この後の同音は「あるよと見えし」の強吟から「さてこそ敏鷹の」と和吟に変わる構成ですが、これは『鵺』『八島』にも共通していて、これが世阿弥の作風と聞いています。
続く同音では「敏鷹の野守の鏡得てしがな思い思わずよそながら見む」と新古今集の歌を取り上げ、帝を賛美しながら老人は老いの思い出の世語りに落涙します。このあたりは体制側へのお世辞のようで、演じていてしっくりこない部分でした。しかしこの場面だけでなく「ありがたや慈悲萬行の春の花」と春日野を賛え、決して帝の賛美を忘れない曲の構成は、世阿弥の芸能者としての置かれた立場が伺えるところです。
この話が終わると、山伏は「野守の鏡」を見たいと所望します。鬼の持つ鏡で、見れば恐ろしいことになるから、池の水鏡を見ろと言い捨てて、老人は姿を消し中入りとなります。
この場面、伝書に「中入り前に杖を捨てる型あり」とあり、私も今回試みました。杖を捨てることで老人の姿がすっと消え失せてしまう、そして杖だけが不思議に残る、という場面効果を狙ったもので、後シテへの期待感をもたせるいい型だと思います。
山伏は里人(アイ)に池の謂れを聞き、奇特を喜び塚に向かい祈りをあげます。すると塚から大地に響く歓喜の声があがり、鏡を持つ鬼神が塚の中から現れます。
通常の『野守』では引き回しを下ろさずにシテは後ろから出て塚の横に鏡を持って現われます。歴史資料を調べると江戸中期までは喜多流も他流も引き回しを下ろしていたようですが、後期になり下ろさぬ方がよいということになったようです。私の持っている伝書にも「下ろさぬが吉」と書かれています。しかし今回敢えて下ろす試みをしたのは、引き回しを下ろし鬼神が作り物の中から現われた方が土や守り神のイメージが塚と一体となって見えるのではないだろうかと思ったからです。下ろさずに横から現われる場合、小ベシミならどことなく愛嬌のある顔のため似合いますが、大ベシミのスケールの大きい形相では不似合ではと判断しました。
演者は面や装束を作品の主張を主体に考慮し選択すべきです。たとえ伝書に損だ大損だと記載されていたとしても、そこに工夫を凝らしよい効果を上げることが最優先されなくてはいけないと思います。それが伝書や謡本を深く読み込むことだと思っています。
ただ、この塚の中にいる演出にはひとつ問題があり、文献資料にも先人たちの苦労が書かれています。「怖れたまわば帰らんと、鬼神は塚に入らんとすれば」のシテの詞章は、常の塚からいったん出ている場合は、この言葉で戻る型となり問題ありませんが、この謡の中で塚にいること自体が道理に合わなくなるからです。この「塚に入らんとすれば」をどのように処理するかが苦心のところでした。昨年、高林白牛口二氏はワキの「怖ろしやうちひ耀く」の言葉の内に一度塚から出て演じられたようですが、私は塚の中にいて床几から降り下に居る型でこの問題を解決したいと考えました。
後場の象徴となる鏡については、本来喜多流では小さい鏡でその縁を持つ手法ですが、これでは面とのバランスがとれない、鏡もまたそれに似合ったスケールの大きさがなければいけないと考え、観世銕之丞家の特大の鏡を見本にさせていただき、今回新たに作りました。そのため今まで習得してきた所作では適わないところもあり、鏡を扱う所作の見直しという新たな稽古も加わりました。
鬼神が現われると山伏はひたすら祈り数珠を揉みます。もちろん鬼を退散させるためではなく、もっともっと見せてほしいと祈るわけですから、鬼神はそれに応え、祈られれば祈られるほど得意になり鏡を四方に照らし映し見せます。
私は鏡というものがものを映すだけではない、サーチライト、烽火のイメージで照らす意味合いもあると思って演じています。天地東南西北の四方全宇宙を映しだすと同時に照らし出すエネルギーも必要だと思うのです。
一般に位が重くなると、どうしても鈍重になりがちです。『白是界』のように「ベシミ悪尉」ならば納得出来ますが、今回は大ベシミです。鈍重過ぎては効果が半減してしまいます。そこで要所要所に起伏がほしいと思い、太鼓の観世元伯氏には「一金伽羅二制多迦…」から替え手を打っていただくために、「暇を得ず」の謡に緩急をつけ、強く締めて謡ってもらうように地謡にお願いしました。
最後に鏡を、観世流や宝生流が奈落まで持ち帰るのに対して喜多流はワキに手渡します。大事な神聖視された鏡を山伏に手渡すことの是非はあるでしょうが、演者としては最後の居留の型へのことを考えると手渡すことは都合がいいのです。前回の小書「居留」では中啓を持ちながら組み落としをしましたが、どうも中啓が似合わないのです。両手を大きく広げ半切袴の裾を持ち上げ飛び上がり安座して地下深く消える、この型には何も持たないほうが力感が出ていいのです。ならば思い切ってはじめから中啓を持たないで演じてみよう、とこれはかなりの冒険でありました。
この曲は「奈落の底にぞ入りにける」で終曲します。この「奈落」が気になります。この言葉がシテの存在を閻魔系統に錯覚させる元凶でもあるからです。奈落と謡うのは体制側に対する演者たち、いわゆる芸能者の立場の者のへりくだりだと私は思っています。所詮、役者分際は地獄に行きますとへつらっていると考えればどうでしょうか? 本当は土中とか地下とか水底という方がいいと思うのですが・・・。私は作品が訴えてくる深層部分に鬼の立場という逆側からのへりくだった描写があるところに、何か風刺的な面白さを感じます。
今回の新工夫した『青野守』は、『野守』という曲を深く掘り下げて研究することの材料となりました。能は調べればそれだけの答えが返って来ます。先輩や仲間に問いかけ尋ねると皆さん真摯に答えて下さいました。ここに感謝申し上げます。
春を間近にした穏やかな一日、萌えいずる草木、土の味わいを醸し出す青色の野守、これまでの『野守』の鬼とはひと味違う春の神をご覧いただけたでしょうか。私自身は春風に乗るような楽しい舞台でした。能楽師として、再考、再演出できた喜びを味わっています。
しかし『青野守』は一回の演能では完成度は高まりません。私も再演に再演を重ね、また他の能楽師の方にも演じていただき私では不足していたところを補っていただいて、そのことでより完成度の高い『青野守』が出来上がればよいと願っています。
(平成18年3月 記)
(喜多流宗家についての但し書き)
・九代喜多七太夫古能健忘斎・・・八代目十太夫親能の養子であったが、実は七代目部屋住み長義の子。
・十代目十太夫寿山盈親・・・九代目の養子だが実は八代目十太夫親能の嫡子。
写真撮影
『白翁』・『青野守』前 あびこ喜久三
『野守』居留 三上文規
『青野守』後1 あびこ喜久三
『青野守』後2 吉越 研
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