不朽の名作『隅田川』


 能『隅田川』は、昭和三十年代、四十年代のころ、学生鑑賞会で頻繁に演じられていました。それというのは、当時の古文の教科書の古典芸能の項目で、能『隅田川』が取り上げられていたため、現場の先生がお能を学生に見せたいと考え、実際に見せていた時代だったからです。先代喜多実先生も、早くから学生に能を見せることを提唱され、率先して学生鑑賞会を開き、自ら多く演じられました。ちょうどそのころ子供であった私は、子方として駆り出され、実に『隅田川』子方の演能記録は六歳から十歳まで十五回を数えることになりました。

そのうち四回は普通の公演で残りの十一回は学生を対象にした学生鑑賞能でした。喜多能楽堂をはじめ、大勢の学生が鑑賞できるように、文京公会堂や厚生年金ホールなどさまざまな会場で行われたのです。十五回のうち六回が実先生のおシテでした。先生がいかに学生観賞会にお力を入れられていたか、それにも増して、先生は『隅田川』がお好きだったのではと、推察いたします。

子方で思い出すことは、私が「南無阿弥陀仏」と謡い作り物の塚から姿を見せると、必ず会場にざわめきが起こり、笑い声が聞こえてくることでした。『隅田川』という曲の最後、悲劇の絶頂となる場面で、なぜ観客の特に女学生たちは笑うのか、いぶかしくもあり、不満でもありました。母に「何でみんなは笑うの」と聞いたら、母は「あなたがかわいいからよ」などと答えていましたが、子供心に「馬鹿。あそこは笑うところじゃないよ」と思いながら舞台を勤めていたことを思い出します。今考えると、学生に最初に見せる曲としては『隅田川』は重い曲で、選曲を工夫する必要があったと思えます。
実先生が高齢になられると、次第に、当時の青年喜多会(後の果水会)の方々が代わりに勤めるようになり、その学生鑑賞会が『隅田川』の披きになった方もおられます。

私の披きは四十一歳のときの「粟谷能の会」で、子方は息子の尚生が勤めました。『隅田川』を披くに当たり、能夫に「何て言ったら、親父は許してくれるかな」と相談したら、もし駄目と言ったら「自分の子供が子方をするときにシテができないような役者では悲しいじゃないですか」と言うからと、ここまで用意していたのですが、いざ、父菊生に話してみると「『隅田川』かあー、いいねえ」の一言。この一言で終わったことが嬉しくもあり、あっけなかったことと懐かしく思い出されます。
そして、今回の日立能(平成十五年一月二十六日、於・日立シビックセンター)の『隅田川』が、私には二回目の演能ということになりました。

『隅田川』という曲は謡中心で、最初にわずかにカケリがありますが、舞と呼べるものはなく、非常に少ない動きの中でさまざまな感情を表現しなければなりません。舞う要素が少ないだけに、基本動作のシカケやヒラキ、型の模写だけでは到底叶わず、複雑で微妙な動きや謡に込められた芝居心といったものが問われます。かといって、生でリアルすぎる演技では能の能たる仕組みを逸脱し、粗末な作品に堕してしまいます。能の仕組みでの精一杯の芝居心、ここに演者の工夫が求められ、現在物『隅田川』の難しさがあるのだと思います。

我が家の伝書に「此能哀傷第一也、然れども能の哀傷は悲しきことにては無し、無常なること也」とあります。なるほど、これがスタートだな、すべてのものがこれに含まれていると感じます。『隅田川』は哀しく傷ましいお話ですが、それをただ辛く、生々しく表現するだけでは駄目で、役者の体の中でいろいろな感情や人生体験が濾過され、そこから突き抜けたもの、伝書では無常という言葉を使っていますが、そういうものが生まれてくるのだと感じさせられます。

『隅田川』はまた、狂女物の能と言われます。物狂能は面白尽くしの憑き物によるものと、思い故に自分を失ってしまうものとに分けられます。前者は世阿弥の作品にあり、憑き物によって舞い狂う表現が主流になり、後者は『隅田川』に代表される元雅の作品に見られるように、戯曲的筋道重視が特徴になっています。元雅は祖父・観阿弥の芝居的な要素と、父・世阿弥の幽玄な世界を見つめ、どちらかというと観阿弥の芝居的な要素を濃くしながらも、自らの作風を作っていったと思われます。
そして、世阿弥の物狂能がハッピーエンドの祝言性を重視したのに対して、元雅の、とりわけ『隅田川』はアンハッピーで救いはありません。この曲の終曲は子供の死を知って絶望する母の深い悲しみを描いています。元雅の手がけた曲は『弱法師』にしても『歌占』『盛久』でも、重苦しいテーマを扱い、最終的には少し安堵感を見せ、『隅田川』ほどではないにしても、最後は本当に幸せになったのかと問いたくなるような曲ばかりです。

この徹底的に描かれる闇の世界は、しかし絵空事ではなく、人間の本質や社会現象を的確にとらえています。人買いや人さらいなど、現在の私たちには無縁と思われるできごとも、昨年来の北朝鮮拉致問題を見てみれば、決して過去のものではないことを思い知らされます。いつの世でも、必要なところに強引に人を連れ去る行為は、悲しいかな存在しているようです。元雅という人は、当時の世相から、普遍性のあるできごとを鮮やかにすくい取り、その中に親子の別離や生と死という永遠不滅のテーマを提示し、不幸な結末が真実なのだ、舞台も不幸のまま終わっていいのだと一直線に描き切ってしまいます。この当たりが、元雅という天才のすばらしさで、かみしめればかみしめるほど味わいが深まります。

 元雅は三十二、三歳の若さで客死していますが、彼がもう十五年、いや十年生きて、能の作品をものにしてくれていたら、能という歴史も違ったものになったかもしれないと言われるほどで、元雅という人の短い生命の中に、凝縮した輝きがあったように思えます。観阿弥や世阿弥とは違う魅力、すばらしさを、私自身も今回『隅田川』を演じながら強く感じることができました。

 

さて、ここからは『隅田川』の舞台の進行にそって話を進めてみます。まず舞台はワキ(渡し守)の名乗りから始まり、ワキツレ(旅商人)の登場となり、二人の問答によって、シテが女物狂として紹介されます。狂女が来るから船を出すのを待とうと状況設定をさせるのはワキツレであり、さらに船中で、向かいの岸で念仏の音が聞こえるが、あれは何ごとかと、ワキに物語をさせるのもワキツレです。シテとは一度も言葉をかわさず、何の関係もないこのワキツレの登場により、物語を展開する手法は、元雅の巧みな作風であると感じます。

ワキはといえば、最初は粗野な地元の渡し守ですが、船中で子供が死んだ経過を語る重要な役どころであり、シテが探していた子が、まさにその子であるとわかったときの嘆きによって、シテをいたわるやさしい渡し守に変身していく様を表現しなければならない大役です。

シテは物狂という、一つのことに思いつめる、つまり、人商人にさらわれた子供を探して都から東国の果てまでやってきたという、物思いを持って登場します。そのときの一声「人の親の心は闇にあらねども、子を思う道に迷うとは…」の謡が非常に難しいところです。『隅田川』という曲は位取りも高く、大変重い曲ですが、ただ重苦しく暗い表現だけでは駄目で、慕情を込めながら強い訴えかけがなければなりません。登場した段階では、まだ子供が死んだとは知らず、都から遠い東国まで旅するだけの希望も気力もあります。希望は持っているが、子供と別れ別れになっている今の境涯が悲しいという表現にならなければいけないはずです。

 ただ重く暗く謡うと、先人たちは「駄目だね、子供の死を知っているような謡い方だ。隅田川の白頭かい、老女物じゃあるまいし」などと言われたようです。
シテは笠を着け狂い笹を持っての扮装ですが、この笠をかぶると、耳は鬘髪と笠の紐で塞がれ、自分の声が普段のように聞こえないのです。この悪条件のもと、謡いづらく、大事な第一声が余計にプレッシャーになり往生するところです。その後に続く、地謡の「松に音するならいあり」は、他流の調子を張ってさらりと謡うものとは違い、喜多流は独特の陰々滅々と謡うのが伝承であります。そのため、地謡の音の高さを誘い出すためにシテ謡が、とりわけ暗く低くなりやすいのです。

伝書に「初めより哀をみゆるもの嫌うなり」と注意書きがあり、演者の心得としては肝に銘じる大事であります。
シテが登場して船に乗るまで、ワキとの問答が前半の一つの山場です。在原業平の「名にし負はばいざ言問わん都鳥」という和歌を織り込んで粋な問答を繰り広げ、都の女の優雅さ、凛とした姿を見せてくれます。ここは美しく進め、遊興の趣があってよいところです。この辺から舞台に死相が出ているようでは作品の意図するものでなくなります。業平は妻を想って歌を詠み、この母親は子供のために詠うという、実にやり取りの面白い場面、その後の地謡、「我もまた、いざ言問わん都鳥」の段はぐんぐんとテンションを上げ華やかに謡い上げるところです。こういう華やかさを、この寂しい曲の前半に持ってくるところに元雅のうまさがあるように思えます。
シテの面は本来喜多流では「曲見」とされていますが、今回は、曲見よりはやや若い感じの「深井」を使いました。「深井」は「曲見」より表情に生活感が表れず、まだ仄かに艶が残る顔立ちだと思います。今回は「深井」で、都北白川の女を創造してみたいと選択しました。

渡し守の嫌がらせにも屈せず狂女は船に乗り込み舞台は一変、船中となります。なにやら向こうの岸から大念仏の声が聞こえてきます。大念仏とは大勢で念仏を唱えることをいい、おそらく平安後期の良忍(1072?1132)の説いた「融通念仏」の影響を受けているのでしょう。一人で念仏を唱えるよりは、多くの人が念仏し互いに融通し合って往生するという思想で、この阿弥陀信仰が以後の時宗へも影響を与えたのではないだろうか、室町時代の能の聴衆にも通じるものがあったのではないだろうかと私は思っています。

船中では、旅商人(ワキツレ)にうながされ、渡し守(ワキ)が梅若丸の最後を語ります。最初は人ごとに聞いていた母(シテ)が、都北白川と自分の里の名前が出た瞬間に聞き耳を立て、吸い込まれるように聞き入って、最後、その子が死んだとわかると愕然と力が抜け母の心の支えである希望の糸は絶たれます。川を渡る間に、子供は生きているという希望から、死んだという絶望へと場面転換が起こります。隅田川はあたかも生と死をわける川のようにとうとうと流れ、あちらの岸はまさに彼岸となります。
渡し守の語りが終わって、船が向こう岸に着いても茫然として立ち上がれない母(シテ)。死んだ子というのは本当に自分の子なのか。それは「いつのことか」「どこの者か」「父の名は」「稚児の年は」「稚児の名は」と聞きながら、確かに自分の子だと絶望の淵に落ちていく、そのワキとの問答の謡も難しいところです。母の昂ぶった気持ちを表現しなければならないけれども、あまりにリアルに生っぽくなってはいけない。劇的に演じることと生になることの境の難しさを痛感するところです。それをいかに表現するかが『隅田川』という曲全体のテーマであり、最初に述べた、能の仕組みの中での芝居心の葛藤となるのです。

女物狂の子供が、今まさに大念仏している子だと知ると、渡し守は母(シテ)をいたわり、そっと手を添えて、塚の前まで導いていきます。
役者の意識も前半の女物狂から後半は母そのものへと変化します。その変化は例えば足の運び方にも表れます。前半は普通の運び(摺り足)ですが、船中で愛児の死を知らされ、船を降りて塚まで導かれて行くときから、運びは老いの足(抜く足、切る足)といって、力のない、よろけるような運びに変わります。ここで舞台上での工夫を一つ。最後の場面で子供(子方)の姿が見え始めると一瞬普通の運びにしますが、また我が子が消えると老いの足に戻します。先人、先輩がここを上手に演じられていたのが、目に焼き付いているのです。いつか自分もあのようにやりたいと。でもこういうのはなかなか言葉で教えてもらうものではないようです。父がよくいう口癖、観て盗む、これしかないなと、はっきり解った一場面です。
塚を案内されクドキの謡を謡い、塚を掘り返せと渡し守に迫り泣き崩れる母。そして地謡がもっとも静かにしっとりと無常を謡う「残りても、かひあるべきは空しくて」の段、ここをシテは下居して静かに聞きます。現在物のこの能にあって、唯一幽玄的な雰囲気で演じる者が冷静に悲しみを感じ取れるところだと思います。

そして、念仏の段で弔いが始まりますが、実際に鉦鼓(しょうご)をチーン、チーンと打ち鳴らします。鳴らさない人もいますが、私は鉦鼓を一つの楽器として使うことで、その効果音がより一層の悲しみを表すのではと思っています。音のたて方も様々で、父は「南無阿弥陀仏」と繰り返し謡う中で「な・だ・あ・み・ぶ・つ」と当てて打ちますが、私は「なむあみだぶつん」を逆さまにして「ん・つ・ぶ・だ・み・あ・む・な」と当てて打てと教わっています。この打つ個所を微妙にずらすやり方は意味がないように思われるかもしれませんが、こういう込み入ったことに神経を使うことで、シテの感情が過度に高まらないように、生っぽくならないようにという、演技上の工夫であると聞かされています。

念仏の謡に子方の声が聞こえ始めると舞台はクライマックスになります。今回は六歳の友枝雄太郎君が小さいながらも最初から作り物に入って立派に勤めてくれました。梅若丸の年齢は十二歳ということになっていて、確かに人商人がさらっていくのには、労働力としての期待があったわけで、ある程度の年齢でなければならないでしょうが、能『隅田川』という舞台ではやはり小さい子の方が、その幼さゆえにより涙を誘い、効果的のようです。
塚の中にいて長い時間待つのは、ワキ座にじっと座っているよりは、中で何をしていてもいいので気楽ではありますが、それでも閉鎖的な空間は息苦しく、私も経験がありますが、あまり居心地のいいものではありません。そこを頑張って我慢し、一生懸命大きな声を出してくれた雄太郎君、将来が楽しみだと思いました。

子方を出す出さないについては、観客の方にもいろいろな思いがあるようです。申楽談議の第三段には、世阿弥と元雅が子方の演出の考え方の違いを語る有名な話があります。
「隅田河の能に、内にて、子もなくて、殊更面白かるべし。此能は、現はれたる子にてはなし。亡者也。ことさら其本意を便りにてすべし、と世子申されけるに、元雅は、えすまじき由を申さる。かやうのことは、して見てよきにつくべし。せずは善悪定がたし。」と。
世阿弥が子方は亡霊なのだから、本意を生かし、子を出さない方がよいと忠告したのに対して、元雅は「えすまじき」、「出さなくては演じられない」と強く反論しています。最後に父・世阿弥は「して見てよきにつくべし。せずは善悪定がたし」、「そうだ、演じてみてよい方を選べばいいね」と言ったということで、世阿弥の父親としての懐の広さが出ていて、この名文は現代にも通じる教育法ではないでしょうか。
子が出ない方がよいという意見は、塚から出た子方とシテが追いかけっこになるようで嫌だということらしいのですが、喜多流の型は、シテと子方が向き合って互いに手を上げ、子方はするりとシテの後ろに廻り込み塚に入るというもので、私には追いかけっことは思えないのです。多分他流のをご覧になってのご意見ではないでしょうか。私が子方のとき、シテの手の上げ下げに合わせるようにと言われ、実先生のお相手で特に重々しい立派な上げ方には子供心にゆっくり、ゆっくりやらなくてはと自分に言い聞かせていたのを覚えています。

ある作家の方が子方の起用について、塚の後ろからチラチラ出没して、子方特有のボーイソプラノで謡われては邪魔だ、と書かれていますが、そうでしょうか。ここに私が感銘を受けた観世銕之亟先生のご意見の一部をご紹介させていただきます。
「我が子の死を弔う念仏を唱和するなかに、子供の明るくて元気な声が突然混じり合った時に、鮮烈な生と死を感じさせることが出来るのです。(中略)子供の幻影を追い求めるところから夜明けとなり、広大な関東平野を流れる大河と母の世界でこの曲を終わらせるということが大事で、子方が出ないと情緒的に流れたままで終わってしまうことになります。子供の声、姿が失せてしまった後に広大な母なる大地の広がりと、ドラマの広がりとが合体して終わることで、この隅田川の曲がいかされるのではないでしょうか。」(銕仙421号)
私も元雅や銕之亟先生のように、子方を出した方がよいと考えます。出さなければ、演劇として『隅田川』という作品を観ることに、全く救いはなく、観客もそして演者もこの暗過ぎる気持ちをどのように処理していいのか、多分戸惑うことになるでしょう。子方の登場は観客や演じる私の心に何かしらのやすらぎ、安堵感を生じさせてくれます。また昔こんなお話があったのだ、と気持ちを落ち着かせてくれる要因にもなります。そしてなんといっても究極は、私自身、子方と共に作るこの場面が役者冥利に尽きる最高の見せ場であると思って疑わないからです。

そして終曲は、子の亡霊が朝日の光によりかき消され、立ちすくむシテの姿を描きます。もう二度と子供に会えない、これからどうして生きていったらいいのかという絶望の中の、広大な関東平野の無常な夜明けです。もう一方で、この塚から私は決して離れないという塚への愛着。この二面性を、じっくりと脇正面から正面へ空を見上げる型と、塚に手をかざしてじっと見込み、最後に正面を向いてシオリ(泣く型)だけで表現します。ここはまさに能ならではの表現だと思います。
燃え盛る憤怒と悲痛を少ない型で表現する難しさ、感情を露骨に出しては品がなく、型をこなすだけでは真実味に欠け、きれいごとの動きだけでは本物とはなり得ない。『隅田川』とは役者がいかに生きてきたか、どの程度できるか露呈してしまう、まさに踏み絵のような曲です。自分がこれまでに仕込んで蓄積したものを通して、いかに理解し表現したかを如実に語ってしまう曲なのです。

元雅という天才が生み出した永遠不朽の名作『隅田川』。今の時代でも古びない、現在に生きている我々にもその叫びがまっすぐに伝わってきます。世阿弥が確立した舞と歌の二曲で構成する能とは異質でありながら、異彩を放つ元雅の能。謡を中心として劇的感動的に展開する現在物のこの戯曲を、能として成り立たせるためには私もまだまだ課題がたくさんあるようです。だから一回や二回ではできない。披きのときよりは今回の方がはるかに手ごたえがありましたが、私はこれからもこの傑作を三回、四回、いや五回、六回・・・とやり続け、完成型に持っていきたいと思うのです。
(平成15年2月 記)

写真撮影「隅田川」東條睦
スタンプは木母寺

コメントは停止中です。