『竹生島』で脇能の妙を楽しむ

琵琶湖の北端に浮かぶ小さな島、竹生島。能『竹生島』は荒神をシテとした脇能です。脇能は神能とも言われ、舞台となる神社仏閣を誉め讚え、神の霊験を寿ぐ内容のものがほとんどで、『竹生島』もその例にもれず、島の神社に祀られている弁財天、そして琵琶湖の水の精ともいうべき龍神の霊験を讚え、国土安穏を願うという、筋書きは単純明快なものです。シテ(漁翁、実は龍神)とシテツレ(女人、実は弁財天)が前場で登場すると、一声で「のどかに通ふ舟の道、憂き業となき心かな」と謡いますが、そこには特別な悲しみがあるわけでなく、ゆえに曲全体の主張に心を砕くより、謡そのものの美しさ、後場の弁財天の可憐な舞や龍神の活発な動きを楽しんでいただければよいのであって、そういう軽やかな能であると思います。
私はこの『竹生島』を9月の広島「花の会」(平成14年9月7日)で勤めました。後シテの龍神の舞働は短い動きながら、豪快で切れのよさが必要で、あまり年齢を重ねては体力的にきつく、かといって、前シテの漁翁の風格や少ない型の中に風情を出すにはあまり若くてもやりこなせず、若過ぎても老いても難しいこの曲を、年齢的にはちょうどよい今の時期に一度はやっておいた方がよいということで取り組みました。

『竹生島』の舞台は、ときは春、琵琶湖畔には桜の花が咲き乱れ、まさに春爛漫の風情。醍醐天皇の臣下(ワキ)が、竹生島に参詣しようと、近くに舟漕ぐ漁翁(シテ)を呼び止め、便船を願います。舟に乗ると左手には比良叡山の満開の桜。山からの風(峰おろし<ねおろし>)に吹かれ、散る花はあたかも白雪の趣です。「所は海の上、国は近江の江に近き、山々の春なれや、花はさながら白雪の。降るか残るか時知らぬ・・・」と、この情景を謡いあげる地謡がまさに聞かせどころです。謡を聴きながら、春の景色、自然の美しさを想像していただきたいところです。

私は7月に浴衣会(全国の菊生会、明生会の有志が集まって謡い舞う会)が長浜にあったこともあり、9月に『竹生島』を勤めることも意識して、竹生島詣でをしてきました。(そのときの様子は、このホームページの「写真探訪」でくわしく記しましたのでご覧ください)。

そのとき感じたのは、真野の入り江から老人が手で漕いで渡るのは大変だろうということ。琵琶湖は広大で湖というよりはまるで海のようです。真野から竹生島までは相当の距離で、フェリーでも35?45分かかるところを、老人がよく漕いで行けたなと、その大変さが実感できました。それでも昔の人は老人と言っても思ったより若く、漁で鍛えられていて腕っ節も強かったのかもしれません。あるいはシテの老人が龍の化身とあらば、難なく漕ぎ渡たれたのだと想像するのも楽しいものでした。


それから、型付に、舟に乗った後、左側を見回し桜を愛でる型がありますが、実際のフェリーでも左側に比良の叡山が見え、右側に長浜の地が見えと、型付の方向と実際の地形がそのままで面白く感じました。

能に描かれる場所を訪ねたからといって、能そのもののできがよくなるという保証はありませんが、それでも演じるうえでの心の余裕になり、遊び心をくすぐってくれるもののようです。これまでに叡山にも行き、琵琶湖、竹生島を訪ねた経験が能のイメージをふくらませるのに何らか役立っているという気はします。

それにしても、叡山からの峰おろしで桜吹雪になる様子を白雪にたとえる当たり、やはり名文と感心せずにはいられません。

さらに舟が進み竹生島に着こうというとき、「緑樹影沈んで、魚木に上る気色あり、月海上に浮かんでは、兎も波を走るか、面白の浦の気色や。」とあります。これも名文で、美しい自然の情景が目に浮かんできます。「緑樹影沈んで、魚木に上る気色あり」とは、緑樹の影が湖に映って暗くなっているから、その樹木の影の当たりに魚があたかも木に上るように群がっているという意味でしょう。司馬遼太郎氏の風塵抄に「孟子に“木ニ縁リテ魚ヲ求ム”と言う比喩があって、木に登って魚をとるようなものだというのだが、しかし孟子はよく知らなかったのか、木と魚はきわめて因縁がふかい」とあり、この言葉が思い出され気になりました。ここに書き留めておきます。

また「月海上に浮かんでは、兎も波を走るか」は、実際に兎が波の上を走るわけではありませんが、湖面に映る月、月といえば兎の連想で幻想的な描写になったのでしょう。先人は、ここを波の上を走る兎を追うようにして、数回、面を素早く切るのだと言いますが、兎というのは、さざ波が立った風情と思い、私は面を二、三回切る面遣いをしました。


後シテの面は「黒髭」です。粟谷の家には「黒髭」の面は2面あり、1面はやや小ぶりな一般的なもの、もう一面は全体に縦長で顎がL字型にせり出し、舌も長く出ているスケールの大きな面です。最近あまり「黒髭」をつける機会はないので、今回はあの大きな面をつけてみようと、後者を選びました。
わが家の伝書には「キリの舞様大飛出の扱い也」とあります。一般に龍神といえば「細かく」、俊敏に運ぶのが心得で、決して大股にならず、大まかな動きをしないが決まりですが、反面細かくやり過ぎるとやや位が低いものになる恐れがあります。「黒髭」の心ばかりでは脇能に成り難いということで、体の動きは細かく俊敏で冴えたものでも、心持ちはどっしりということでしょう。要するに、「黒髭」で「大飛出」の心持ちとは「細かく強く」といった心得だと思っています。

『竹生島』の見どころは、前場の謡と後場の天女の舞と龍神の舞働と述べました。後シテの舞働は豪快ではありますが、大変短いもので、やや手ごたえに欠けるからか、喜多流と金剛流には、弁財天をシテにして、短い舞のかわりに楽を舞う小書「女体」という特別演出があります。

喜多流の「女体」は、前場は従来通りでシテは漁翁、シテツレが女人ですが、後場のシテとシテツレが入れ替わり、シテが弁財天、ツレが龍神となります。この小書、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼のご所望で創られたようです。位が上がった人、龍神の動きが体力的にきつい人は、この小書で勤めることがあります。しかし、この演出ですと、女人が作り物の宮に入って、後場で弁財天となって宮から出てきて舞うという従来の演出ができません。地謡は「社壇の扉を押し開き、御殿に入らせ給ひければ・・・」と謡っているの に、女人は宮(御殿)に入らず、幕に消え、翁の方も「水中に入るかと・・・」と謡っているときに、舞台上の宮に入るというちぐはぐな演出になっています。この辺はやはり、お能好きな大名が、天女の楽をたっぷり楽しみたいと、あまり深く考えず、勝手に創ってしまったという感じがします。


その点、シテとシテツレを前場・後場ともそっくり入れ替える演出の金剛流の「女体」の方が理にかなっていると言えるかもしれません。

いずれにしても小書の「女体」では、後シテは弁財天で盤渉(ばんしき)の楽を舞います。弁財天の勢いのようなものを見せたいというのが趣旨であり、演じる側もそういうものをやりたいということでしょう。しかし逆に龍神はツレになり、やや位が低い感じになります。今回私は小書のつかない普通の演出で試みましたが、両者を見比べてみるのも面白いと思います。

ところで、広島「花の会」は今回が最後ということになりました。平成4年2月に、広島にゆかりのある若手能楽師が集まって・・・ということで、出雲康雅、粟谷能夫、大村定、中村邦生、そして私の5人でスタートし、後に長島茂が加わって今日まで続けて参りました。父が祖父・粟谷益二郎の地盤を引き継ぎ、広島喜多会として、家元をお呼びして会を催したのが始まりで、そろそろ若い人にバトンタッチしようというので、我々5人が始めたものでした。年に2回(ここ2年ほどは年1回)、2月と9月に3番ないし2番の番組編成で行ってきました。

最近は経済的に問題があり、ここでひとまず休会にしようということになりました。これはひとえに我々の責任でありますが、メンバー6人、広島にゆかりがあるとはいえ、今では全員東京に居を構え、その地に居づいて活動できなかったことが大きな原因になったように思います。

「花の会」では同じ曲目が重ならないようにと、スタートから今回まで違う曲の番組構成をするなど、さまざまに心を砕き頑張ってきたつもりです。それなりの成果も上り、よい経験ができたと感じています。広島の喜多会の方、関係各位には、深く感謝の意を表し、厚く御礼申し上げます。またいつか、形をかえて、広島の地に何らかの会を催すことができるよう、努力していきたいと思っております。

(平成14年9月 記)

写真 竹生島 前 シテ 粟谷明生
ツレ 金子敬一郎
竹生島 後
シテ 粟谷明生 いずれも撮影 石田 裕
前シテ 三光尉
後シテ 黒髭 撮影 粟谷明生

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