粟谷明生
『国栖』は広大な吉野山を舞台にくり広げられる能です。国栖は奈良県吉野町にある地名。この吉野は熊野と並んで山岳信仰の修験道の発達した地である一方、国家権力への反逆者や政争の犠牲者が逃げ込んだ地域で、独自の世界を作り出していたようです。そのためここは敗北者の根拠地となり、そこに現れる蔵王権現は、その霊験が敗北者への味方になるとして、人々の信仰を集めていました。『国栖』に登場する浄見原天皇は天智天皇の弟、大海人皇子で後に天武天皇になる人です。弘文元年(六七二年)に起こった壬申の乱はあまりにも有名ですが、この大海人皇子と天智天皇の子、大友皇子との皇位継承をめぐる戦いです。この戦いでは大海人皇子が勝利し、以降比較的安定した世の中がつくられたようですが、『国栖』の舞台はその前の段階のお話です。
天智天皇は采女との間に生まれた大友皇子に皇位継承させようと画策し、それを察知して身の危険を感じた大海人皇子は剃髪して吉野に下り、壬申の乱で反撃に出るまでは、大友皇子の軍に攻め込まれたり、憂き目に会っています。『国栖』では浄見原天皇(大海人皇子、後の天武天皇)が吉野山に逃げ込んできたときに、尉と姥が機転をきかせて追手を追い払い、浄見原天皇を救うお話。後場では王を蔵すの名の通り、王を隠す霊験ありの蔵王権現が登場し、短く仕舞を舞って、後の天武天皇の御世を寿ぎます。
『国栖』という曲は、この広大で奥深い吉野山という地に思いを馳せ、当時さまざまに繰り広げられただろう、このような物語を味わっていただければよいのではと思います。私は喜多流自主公演(平成十四年四月)の『国栖』を、そんな気持ちで勤めました。
ここでちょっと一言。謡本では、浄見原天皇が皇位継承すべきところを「御伯父大友皇子に襲はれ給ひ」とあり、大友皇子が浄見原天皇の伯父にあたるように書いてありますが、史実は、おじ、甥の関係が全く逆。私はついこの間まで、この歪んだ謡本によって壬申の乱の歴史を誤って覚えていました。ときに謡本は歴史に忠実でない場合があるので注意が必要です。しかしそのこと自体が作品の主張に大きな障害を与えることがないのが不思議で、これが能という演劇のもつ特質かもしれません。
『国栖』は後場がツレの天女の舞とシテの短い仕舞ですから、やはり面白いのは前場です。そしてそのほとんどが台詞劇となっています。シテは囃子のアシライで出て、作り物の舟に乗り、唐突に「姥やたまえ」と謡います。ここの謡が曲をつくる難しいところです。紫雲が立つのは天子のご座所。遠い空に紫雲が立つのを見て、老人は奇瑞の起こる確信を持ち姥に言葉をかけます。紫雲を見るときの役者の位置、然るべき覚悟や思いを距離感を持って謡わなくてはいけないところです。強く強くと教えられていますが、生の強い声ではなく、老人の確信の強さが表面化しなくてはと思い、難しい限りです。
『国栖』は喜多流では古来の形を継承しているため、国栖という地方、田舎を思わす台詞が謡本に残っています。例えば「姥やたまえ」。子供の頃は何を言っているのか皆目検討もつかず、そのまま青年期を送ってしまいましたが、「姥や、見給え」が本来です。他には「まわこうよとて、おうじ姥は」は「いまはこうよとて」の意などがあります。観世流は明和の改正でかなり改訂変更しています。この改訂は国栖族の持つ民族性や方言らしきものを取り払ったため要領よく綺麗に整理され、私も理解するうえで大きな手助けとなりましたが、それだけに味わいが浅くなったきらいがあり、従来の古雅な方が良いように思えてきたから不思議です。
前場で唯一の型の見せ場は「鮎の段」です。短いながら技の利かせどころです。吉野川に放した鮎が素早く川を泳ぎ回り、君の再興を占うというものですが、老人でありながら急に活発に動く型で、短いだけにスケールは大きく、且つ凝縮して舞う、至難の技だと思います。
子方時代、この「鮎の段」を見て、焼かれてしかも食べられた魚がなぜ生き返るのか不思議に思っていました。今回の演能にあたり、ここはどうしても理解しておきたいところでした。これは焼いた鮎を川に放したとき、同じ形をした生きた魚が近づいて来て泳ぎまわったのを放した魚が生き返ったと錯覚したものであるらしいです。些細なことですが、天皇の吉凶を占う重要な場面、私としては理解しておかなければ動けないと思っていましたので、解決できてよかったです。
さて、最初に舞台に持ち込まれる舟の作り物。布地が張ってあり、出し入れは二人がかりでします。後に子方を隠すために重要なものですが、演者としてはこの舟への乗り入れが一苦労です。慎重にからだを運びますが、なかなか厄介です。ご老体が苦労なさっていた舞台を思い出しますが、今、この苦痛が判るというのは、少し早すぎるかもしれない、足腰の強化を心がけようと思いました。
老人夫婦は追手が来ることを告げられると、この舟に子方を隠します。私はこの子方を三回勤めましたが、それは暗く狭い舟の中での窮屈な時間でした。舟を開けたら子方が寝ていたとか、指で舞台の板の穴をほじっていたため、指が抜けなくなって大騒ぎとなったなど、エピソードにはことかきません。これらが嘘ではなく、本当のことであると証明できる子方経験者は何人もいると思います。
アイは追手として登場し、老人相手に威嚇しますが、この応対の台詞が一曲の聞かせどころであり、芝居心が必要とされるところです。シテは凛とした威厳、人を威圧する気迫と技巧、追手のアイは滑稽味を帯びた腰抜け侍の風情、両者相まって効果を出す腹芸といわれる世界でもあります。アイは和泉、大蔵の流儀により多少言葉やスタイルが異なります。喜多流には大蔵流の言葉がうまく合い、特に大蔵弥太郎氏や吉次郎氏は昔からこの曲にはいい味を出されていました。今回は吉次郎氏がお相手でやりやすかったことを喜んでいます。
中入り後は天女の舞となります。後ツレは前ツレと違う人間が演じるため、シテの中入りと入れ替わるように天女が登場します。シテは天女の舞の間に装束の着替えとなります。この天女の舞をこの曲に限り五節之舞といいます。シテの中入りに下り端(さがりは)二段、ツレの天女の舞に五段と、囃子方泣かせの繰り返しの連続、これには少しマンネリを感じてしまうのは私だけではないようで、観世流では楽で舞われることもありますが、ここはやはり下り端の吹き返しが順当のようです。五節之舞は日本書紀に「神女、五たび袖を返す」からの由来とあり、ツレは五回綺麗に袖を返すのが心得です。
続いて後シテ蔵王権現の登場となります。通常は地謡の内に無地熨斗目(むじのしめ 絹布の小袖、男性用の普段着)をカズキ、橋掛りに出ますが、今回は「不動」の面を使用することにしたので、幕の中にて「王を隠すや、吉野山」と謡い、「即ち姿を現して」と舞台に走り込む型としました。蔵王権現は悪魔降伏の憤怒の形相を示すもので、「大飛出」よりは、我が家にせっかく「不動」があるので、一度試してみようとの試みでした。父は「あのように早く動いては、不動と合わない」と注意してくれましたが、私としては、「不動」かけたさの一念、我がままを通してしまいました。ご覧になられた方のご感想を聞きたいと思っています。
子方時代に初冠をして舟に隠されたことを今でも鮮明に覚えている、この『国栖』、青年期に能夫のツレ、姥を経験して、今回となりました。月日の経つあまりの早さを感じつつ、「未来は、今何をしているかで決まるよ」といわれた先人の言葉が今、私の心をゆさぶり続けています。
(平成14年5月 記)
撮影 舞台写真 東條 睦
面 不動 粟谷明生
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