『富士太鼓』の小書「狂乱之楽」を見直す


 秋の粟谷能の会(平成十三年十月十四日)で『富士太鼓』「狂乱之楽」を選びましたのは、息子、尚生が子方のできるうちに一度一緒に勤めておきたいという気持ちは言うまでもありませんが、それ以上に、能夫の「狂乱之楽」に対する熱き思いがあったからです。

以前に小書「狂乱之楽」を舞ったが、自分の思いを果たせなかった、それを私に託したい、今回の舞台でこれこそ「狂乱之楽」というものを創り出してほしいという強い働きかけがあったからこそで、私自身の演能意欲も一段とかき立てられました。
子方が出演する曲は子方の登場によって、ほのぼのとした雰囲気が生まれ、心休まるものです。

しかし反面、幼い動きや謡により演能の妨げになる危険も兼ね備えています。この『富士太鼓』も子方がよく演じてくれなければどうにもならないものです。
とりわけ最初のシテとの連吟が重要で、ここはシテと子方がよくはもり、音をきちんとそろえないと聞き苦しいものになり、『富士太鼓』という曲の扉が開きません。
子方は精一杯高い調子で大きな声を出して謡うことが肝要で、シテはその調子に添って、しかも味わいのある謡を、というのが心得です。

今回は尚生が一生懸命勤めてくれたお陰で私の演能がいかに助けられたかは、ご覧になられた方にはご承知いただけたと思います。

この曲に使用する面は中年の女性ということで「曲見」(しゃくみ)をかけることになっています。
我が家の伝書では、「深井」は上掛りの面也、下掛にては用いず、然れども、曲見にては楽の拍子に似合わず、依って「深井」とあります。
今回は粟谷家の「深井」よりもう少し若い「浅井」を選んでみました。

では今回の眼目である「狂乱之楽」とはどういうものか…。

これは、住吉の楽人・富士の妻が、宮中の管絃の催しに志願して都に上った夫が、天王寺の楽人・浅間に殺されたことを知り、狂乱して舞う楽の部分に特別演出を試みるものです。
「狂乱する」とは、能では、苦しみや悲しみで気が狂うほどに我を失ってさまよう様を表し、非常に高揚し激していくテンションの高い部分と、逆にボーッとして何も考えていないような部分との温度差が大きい状態を言うのだと聞かされています。
ここでは楽の途中で、シテが橋掛りに行き、クツログ型を入れ、舞の緩急も常とは違ったものにします。


「狂乱之楽」は、笛が森田流、小鼓が幸流、大鼓が葛野(かどの)流の三流がそろったときが本流であると能夫は教えてくれました。
笛が楽を吹き出すと、大小の鼓は、序の舞の序の部分の手配りで囃します。
この拍子に合わない、ある種ねじれのような手配りが心の高揚を表し、非常に面白い演出となります。この手配りがうまく重なり合うのが、幸流と葛野流という組み合わせなのです。能夫が「狂乱之楽」を試みたときは、大鼓が高安流であったため、この部分が実現出来ず悔いが残ったといいます。

そこで、今回はこの幸流 葛野流をそろえた「狂乱之楽」をと考えました。笛は敢えて私の信頼する一噌流の名手、一噌仙幸氏にお願い致しました。

一噌流は、先代の家元・実先生のときに申合ができ、藤田大五郎先生が「狂乱之楽」用に譜を作られており、遜色なくできるという思いがありました。
小鼓の幸流と大鼓の葛野流は若手で固めてと、小鼓は広島から横山幸彦氏をお呼びし、大鼓は若手のホープ亀井広忠氏にお願い致しました。

では、「狂乱之楽」をどう演出するかですが、伝書には、ただ「全体ニ静、橋掛ニクツロギ、太鼓ヲ見込ミ、後ハ位ススム」と書いてあるだけで、何の面白味も感じられません。
クツロギとは、言葉通り大昔ではゆっくりくつろいで、演者が幕の内に入りお茶を飲んだことさえあったようですが、今はもちろんそんなことはなく、クツロギという少し休止する型を入れて、思いを込めるという意味合いになります。

そこで、思いを込めるためにも、富士の妻の狂乱はどういうものかを考えなければなりません。妻は物着(舞台上で装束を替える)で、夫・富士の楽人の装束を身にまとい、鳥兜をかぶるだけで気持ちが高揚し、太鼓を敵(かたき)として打とうとします。それを娘が、あれは敵ではない、乱心ではないかと、母を制しますが、母は高ぶった声で、あの太鼓があるために夫は殺されたので、あの太鼓こそ夫を奪った敵と言って、一緒に太鼓を打って怨みを晴らそうと促します。娘も同感し、母娘は「打てや打てやと攻鼓」と太鼓を打ち続けるのです。

そうして打っていると、ふと、無念の死で成仏できずにいる富士の霊が現れ、妻のからだを借りて怨みを表白する移り舞となります。

ですから「狂乱之楽」の場面では、あるときは妻自身の狂乱であり、あるときは富士の霊の狂乱となるわけです。

最初、妻の気持ちが現れているところでは、ボーッとした感じで、ややゆっくりした動き、妻自らの葛藤した思いを表します。舞の途中から富士の霊の力が強くなると、怨みを前面に出したように激しく動き、またしばらくすると、自分自身に戻り、再び穏やかな動きになります。ときには、敵のはずの太鼓が亡き夫・富士のようにも見えてきて、なつかしく、ふと触れてみたいような衝動にかられるのではないでしょうか。

こんなややねじれた狂乱は、通常の型付では、なかなか表現できるものではありません。

今回は、妻と富士の怨みが入り乱れる様を表し、一方で妻が夫をいとおしむ所作も入れてみたいと考え、友枝昭世師や能夫とも相談して、太鼓に触れる新しい型を創作してみました。楽という抽象的な舞の中にやや写実的な、舞自体に意味を持たせるような、ドラマチックな演出があってもよいのではないかと思ったのです。

私はシテを演じていて、この富士の妻というのはとてもできた女性だと感じました。最初に夫の富士が管絃の催しに出るために都に上ると言ったとき、管絃に出られるのは直命が下った楽人だけである、富士はそれがないのだから行くべきでないと諭すなど、精神的にしっかりした方だという印象です。

そういう人でも狂乱してしまう、その辺を加味しながら演じなければと思いました。
このような「狂乱之楽」への思いを囃子方にもお伝えし、単に緩急をつけるにとどまらず、かけ声による演出効果も工夫していただき、妻自身の狂乱と富士の霊が取りついたときの狂乱の微妙な色合いをつけていただきました。


狂乱之楽が終わると、シテは「持ちたる撥をば剣と定め」と謡い舞った後に、怨みも少し晴れたのか、娘を伴って、郷里へと帰っていきます。この終盤の場面で、シテは「修羅の太鼓は打ち止みぬ・・・千秋楽を打たうよ」「泰平楽を打たうよ」と謡い、急に煩悩の雲が晴れ、明るいイメージになります。

お能はもともと祝祭的な芸能でもあったことから、こういう最後になる場合はありますが、ここでは、ただ泰平楽を謡うにとどまらず、あくまでもこの曲の主張となる、二人の親子の残像を演じ出さなくてはならないと思います。

最後に、夫の装束や鳥兜を脱ぎ捨て、最初にかぶっていた笠をかざして、「太鼓こそ思へば夫の形見なれど見置きてぞ帰りける」という地謡の謡で、シテは太鼓をじっと見込み、留拍子を踏みます。
そのとき、その後姿に、果たしてこの母娘の行く末は一体どうなるのだろうかというメッセージが見えないといけない、そうでなければ現在物『富士太鼓』が演じられたとはいえないだろう、などと考えて勤めました。

「狂乱之楽」という小書は、先代の実先生が先代宗家金剛厳氏との間で、この小書と金剛流の『殺生石』(女体)とを両派で共有すると約束され、現在この二流にしかないものです。
喜多流では『殺生石』(女体)は面白い小書として、頻繁に演能していますが、金剛流での「狂乱之楽」はあまり演じられていないようです。
伝書通り、「楽にクツロギが入る」だけでは面白味も無く、興味も湧かないのでしょう。
この小書が精彩を放つ演出法をみつけだし、必然性のある納得出来る小書きに再生しようと能夫も私も挑んだのです。
今回のように「狂乱之楽」の見直しができたのは、私自身が冒険のできる年齢であり、周りの温かい環境も含め、友枝昭世師や能夫のようなよき理解者がいたお陰と深く感謝しています。
能夫より託されたことができたかは不安もあり、改善の余地も多いと思います。

しかし、従来の伝承、伝書通りとその上に胡座をかき、曲、小書本来の持つ主張を見いださなくては、演者の怠慢と言われても返す言葉もありません。
これからも曲の主張を深く読みとり自分にしかできない演能の世界を創り上げていきたいと思っています。


思い起こせば四十年前、父・菊生が広島の粟谷益二郎七回忌追善能で「狂乱之楽」を勤めたときは、私が子方でした。
小鼓は横山幸彦氏のお父様の貴俊氏、大鼓が亀井広忠氏のお祖父様の俊雄先生、ちょうど今回のメンバーの一世代前の顔ぶれでした。役者があまりにもピッタリはまって驚くと共に、一つの舞台がここに伝承されたのではと感慨深いものがありました。 

平成十三年十月

富士太鼓 粟谷明生、粟谷尚生 撮影 石田 裕
橋掛かり      撮影 あびこ

モノクロ      撮影 吉越 研

富士太鼓 粟谷菊生 粟谷明生 撮影 不明

コメントは停止中です。