今年の夏(平成12年)は、7月28日に青森の外ケ浜薪能で『船弁慶』、8月4日に山口の野田神社で『小鍛冶』白頭、そして8月6日に鎌倉芸術館で『須磨源氏』を勤め、暑い夏に熱き演能が重なりました。
野田神社は山口市にある明治維新の宏業、毛利敬親公をまつる神社です。昭和11年旧長州藩主の毛利家が明治維新70周年を記念して建築奉納した能舞台で、大変立派な素晴らしい屋外の能舞台です。特に陽が落ちてからの薪能でのロケーションは舞台が浮かび上がるように見えて幻想的で、全国屈指の能舞台と言えるでしょう。もともとは神社旧参道横(現.野田学園運動場)に建立されていましたが、昭和43年、山口都市計画事業による市道の新設に伴い参道が分断され、運動場として野田学園に割譲されたため、一時能舞台は運動場の片隅にポツンと孤立した寂しい状態になっていたそうです。これではいけないということで、平成2年に神社内に移動し、それ以来毎年夏に山口薪能を催すようになりました。第一回は喜多流で始まり、粟谷新太郎、菊生が勤め、毎年順に他の流派にもお願いして継続してきました。今年は10年という記念すべき年に当たり能夫が『葵上』、私が『小鍛冶』白頭を上演することは、嬉しくもあり、また時代の流れを感じさせられるものでした。
この能舞台は地元の愛好家や能に好意的な宮司様のお力で保存状態が大変よく、本舞台も橋掛かりも板が平らで足の運びがスムーズにでき、演じていてとても気持ちのよい本物の能舞台でした。黒光りする柱や床、薄暗い舞台に浮かび上がる老松、すべてがとてもよい雰囲気で演者側から見ても感激します。
能楽堂の側に過去に奉納した能の記録があり、そこに祖父・粟谷益二郎の文字、先代喜多実先生や十四世六平太先生の名前が見えて、興味尽きないものでした。さらによく見ると、粟谷新三郎という名も見えます。新三郎というのは益二郎の祖父で、明治26年4月の御神能に『融』を演能したとあります。そしてその地謡に粟屋藤次郎という名が記されています。粟谷ではなく粟屋です。いったいこの人は誰だろう。「や」が違うから粟谷家とは無関係ではないか、いや、昔は粟屋と書いていた時期があるらしい、途中で粟谷となったとも聞かされている。地謡の粟屋氏は谷にしなかった何か訳があるのだろうか、もう少し調べてみたいところです。結論は出ませんが、能を我々の先祖が代々しっかり守ってきたのだという証しを見たようで誇りに思いました。
今回の野田神社での能は屋外での薪能。私の『小鍛治』白頭のときは、日が暮れる前だったため、火入れの儀式はその舞台の後となりました。能夫の『葵上』では、暗闇の中、薪がメラメラと燃えて、舞台を映し出し、ときには薪がバサッと崩れる音がして、ムードはいやおうなく盛り上がりました。ただ演じている方は、暑くて汗びっしょり、装束に煙はつく、湿気が多くあまり気持ちのよいものではありませんが、夏の風物詩として、観客のみなさんには喜んでいただけたのではないでしょうか。
さて、私が勤めた『小鍛治』白頭ですが、数ある名刀譚の一つで、名刀工・三条宗近(ワキ)が、帝の霊夢によって剣(つるぎ)を打たせる旨の命を受けたとき、稲荷明神(後シテ)が相槌(共に刀を打ってくれる名工)となって、見事にその任を果たした話です。
稲荷明神は狐の化身ですから、頭には狐の飾り物をつけ、白頭なので狐足という喜多流独特の足づかいをするのが特徴になっています。運びはすり足ではなく、踵をできるだけ床につけず、腰を一定の位置に決め爪先だけでピョンピョンと跳ぶような動きをします。まさに狐の動きを模したもので、非常に脚力が要求されます。後シテ・稲荷明神は普通は赤頭をつけ黄金色の狐を頂きますが、白頭は白い頭(かしら)に白い狐を頂きます。喜多流の小書きは白頭のみで、観世流にある黒頭の演出はありません。白頭(黒頭、赤頭)については研究コーナー『殺生石』のところで考察しましたが、「白頭」にすると、老体のイメージというよりは、劫を経て超越したものを表し、重々しい演出になるのが一般的です。しかし『小鍛治』の場合の白頭は狐の系統で狐足となり、重厚さというよりは狐のような俊敏な動きがテーマになります。伝書を見ますと「白頭の時、面は野干又は泥小飛出」とあります。一度「野干(やかん)」をつけてと思うのですが、やはり狐足の動きと合わないように思えてなかなかその気になれません。
ここで小鍛冶の面について『芸道読本』(高林吟二著)に十四世喜多六平太先生の面白い話がありますので紹介させていただきます。
「昔は小鍛冶の後は、何時でも野干だったそうだがね。どうも野干では白頭の狐足がうまくいかねえやネ、それでどうしたもんかと野干を床の間に掛けて工夫していたんだが、つい、うとうととした処へ『七太夫!七太夫!』と呼ぶ声がするのでハッと目が醒めた。そして床の間を見ると、確かに今まで野干を掛けていたのに、いつの間にか泥の小飛出になっているんだよ。ハハア!是で解った、さては今のは小狐の御告げかというわけさ。それから後、流儀の小鍛冶の白頭が泥の小飛出であんな風になったという事だぜ」
稲荷明神という神格化したものを表現するという意味では、面は金泥小飛出がふさわしく、装束は清楚、純粋、高位を表す白装束、そして白頭というのが似つかわしい、この演出はまちがいないところです。
この小鍛冶という曲は私の演能の節目にいつも関係しています。第1回目は昭和47年青年喜多会に入会した時、2回目は昭和56年粟谷能の会で舞えるようになった時、3回目は昭和57年我が母校(学習院)での学生能での演能、その後も二回程勤めていますが、思い返せば節目節目の記念すべき時にこの曲が当たっているように思われます。
さてここで、前半の仕舞いどころについて。日本武尊(やまとたけるのみこと)が使って武勲を立てた草薙の剣(くさなぎのつるぎ)【熱田神宮にて保存】の起こりや武勇伝を語る場面の仕舞には、速くかかって舞う場合としっかりとゆっくり舞う場合と二通りがあります。本来はゆっくり舞うのが常だったようで、先代喜多実先生はゆっくり力強くとよくいわれていました。技が冴える六平太先生が、キビキビした動作を入れ、速く舞ったことから、早い形もできたようです。六平太先生に習った方々は速い方で舞い、実先生の教えを受けた方々はゆっくり舞っているようです。このように流儀内でも指導者により多少やり方が異なるという事は昔からあったようです。父に聞いた苦労話ですが、両先生から教えていただいてた頃、六平太先生は右から、実先生は左から見るようにと、仰っしゃることが違うので、どちらの教えに従ったらよいか困ってしまい、本番両先生が見ておられる中、「えいしょうがない、真ん中を見よう」と中間をとったら、両方の先生に叱られたという話があります。
今私達は両方の型ができるように訓練されていますが、私自身は速くキビキビと演じる方が好きで、今回はそのようにやってみました。暑い炎天下の薪能であってみれば、観てくださる方々の為にも、さらりとしている方が合っていたのではないでしょうか。『小鍛冶』は短時間(約1時間)で終わる小品の一番ですが、分かり易い作品内容、激しい動きでの展開で、お能の魅力を身近に楽しんでいただけたのではないかと思っています。
(平成12年8月 記)
写真1、2 野田神社能楽堂
写真3 小鍛冶 白頭 粟谷明生 宮地啓二 撮影
写真4 泥小飛出
写真5 野干
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