この度の研究公演(一九九九年十一月)に於ける『清経』では小書「音取」に取り組みました。そもそも「音取」とは何なのか。平家物語の中に、清経が「舟の屋形に立ち出て、横笛音取朗詠しあそばせけるが」と出てきます。この横笛音取とは、今様の朗詠を始める前に横笛で音を定めたことを言うらしいのですが「音取」の名称の由来はこのあたりかも知れません。「音取」ではシテ(清経)の登場から、小野小町の歌といわれる「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき」と謡う所までの演出に違いがあります。
常のシテの登場は橋掛りより舞台まで地謡に合わせて出ますが、「音取」では橋掛かりの歩みを笛の音と呼吸を合わせ、思いを込めて運びます。まず笛が地謡の「夢になりとも見え給え」で舞台地前まで進み出、幕をうけ、音取の世界となります。シテは笛の断続的な特別の譜に合わせ、笛が止めばシテも静止する、聞こえれぱ又動く、というように、死後の世界より妻の思い寝の夢の中へ、自分が好んだ笛の音と共に歩むというものです。笛は流儀により多少吹く長さが異なり、その音色は不思議に同流の方でも微妙に違って、個性が充分発揮されるところです。
さて、シテはこの音取をどのようにつとめたらよいものか。難しい笛との呼吸の合わせ方を、先人は手向けの笛に引かれる心を十分に感じて歩むのだ、などと言われますが、稽古していて、どうも釈然としないものを感じます。それは私自身、笛が何の心を吹き、シテは笛の何に反応すれば良いのかということが、十分理解納得していなかったからだと思います。演技とは思いを伝えること。言葉や音が演者自身の肉体を通して何かを伝えようとする、その働きを常に意識、作動させなくてはいけないと思います。
そこでいろいろとある資料を見ていく中で、一つ気になるキーワードを見つけました。それは森田流の心得にある「音取ノ出様ハ妻乞ノ鹿ノ心……」です。鹿という動物は夫婦仲が良く、遠く離れていても、雄が雌に向かって鳴くと雌もそれに答えて鳴くそうで、これを鹿の遠鳴きといっているそうです。尺八の曲に、深山幽谷に呼び交わす雌雄の鹿の鳴く音をテーマとする、琴古流本曲『鹿の遠音』があります。尺八二管が雌雄の鹿のように奏で合うもので、官能的で大変面白いものです。
『清経』の音取はこの響き合いに似ています。つまり、笛の音は清経という男の心の叫びであり、それを受ける妻の心情であって、音取はそれを一管に託した演出であろうと思われます。この様に思うと、演ずる心のよりどころを一つ掴めたようで、とても歩み易くなりました。音取という演出では、笛の音を利かせながら、行き違ってしまった二人の気持ちを、夢の中に於いて引き出すようなものに焦点があるように思われます。二人は互いの恨みごとを言い合うことになりますが、夢幻での再会はやはり美しく演出されなければならないと思います。
次に、シテの面をどうするかです。常の通り中将ですが、それぞれ面の表情が違うので、どのように演ずるか迷うところです。中将の名称は在原業平の面影を打ったというので業平の在中将からつけられたといわれています。中将の面は在原業平、光源氏、源融や天皇などの高貴な人々の亡霊系のものと、修羅道に落ちた平家武人の系統のものと、大きく二系統に分けられます。
清経は左中将で修羅道で悩む平家武人の代表的な人物です。私は今回、家にある平家武人系統の面の中から、強く苦悩を感じるものを探しました。能に登場する平家の武人で修羅道に落ちた者はたくさんいます。忠度、通盛、経政、敦盛、彼らはみな合戦で勇敢に戦って殺され、亡び行く者の中に死の美学さえ感じさせる武者たちです。ところが清経は平家の将来を憂えて、戦わずして身を投げ修羅道に落ちたのです。戦わず心弱く死んでいった者の顔は、立派に戦った武者の顔とはどこか違うのではないか。かといって、自ら死を選ぶ者の顔は決して弱いのではなく、逆に一番強い苦悩がにじみ出ているものでなければならないだろうと考えての選択でした。
清経は平重盛の三男。重盛の一族は小松殿と呼ばれ、内省的な家風があったようです。源氏方から追われ、身内からも孤立し、そして神からも見放され、そのような中での清経の深い孤独感、苦しみ等、選んだ面を見ながら、清経二十一歳の若き苦悩を思いました。
装束は、喜多流では本来長絹姿で、肩を脱いで舞うのが一般的ですが、今回私は単衣法被肩上という甲冑姿を試みることにしました。この姿は音取の場面ではとてもりりしく、効果的な風情が出るのですが、曲(クセ)を舞う時には少々難があるように思われます。つまり舞人の装いではないからです。しかし今回は研究公演ということもあり、思い切って挑戦してみたく、この事により何かを感じとれるかもしれないと、敢えて甲冑姿にこだわってみました。どちらが良いか、私の気持ちは五分五分というところですが、観る方にはどのように映ったのでしょうか。
ところで、能、『清経』は、戦わずして身を投げるのでは武士の士気にかかわると、江戸時代、藩によっては演能が禁じられたところもあったようです。今でも宮島・厳島神社での御神能では、『清経』は舞台に乗せてはならない慣習になっています。江戸時代の流れをくむものでしょう。
しかし現代、『清経』は人気曲の一つで、よく演じられています。平和な時代がこういう武将の物語を受け入れられることとなったのでしょうが、人気なのは何よりも、詞章の美しさにあると思います。
平家物語では清経に関する叙述はわずか数行、それを世阿弥があれだけの名文でつづり、ひとつの物語として完成させているのです。謡い上げ、舞い上げる中で、亡び行くものに花を咲かせること、これが役者の仕事ではないかと思っています。
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