『融』を勤めて
小書「曲水之舞」
第106回「粟谷能の会」(令和6年3月3日)では、観世銕之丞氏をお迎えしての異流共演『蝉丸』のシテ・逆髪と『融』のシテを勤めました。一日に能二番を勤めることは、以前ならさほど苦にならなかったのですが、68歳になった今、体力と記憶力に気を配り精一杯勤めようと心に期し、両曲とも無事終えることができ、今はほっとしています。
まずは今回の『融』のあらすじです。
前場では、融の霊が汐汲みの老人(前シテ)となり、荒れ果てた六条河原の院に現れ、旅僧(ワキ)に河原の院の謂われ、そして都の周りの景色を教え、汐汲みを見せると、姿を消してしまいます。(中入)
後場は月の世界より舞い降りた融の霊(後シテ)が遊楽遊舞に興じていた頃を懐かしみ、舞い遊び、夜があける前に月に戻っていくのでした。
融は第52代・嵯峨天皇の皇子で皇位継承権がありながら、藤原基経に阻まれ天皇になれず降下し、源姓となります。その鬱憤を晴らすように、源融は六条河原の辺りに贅をつくした邸宅・河原の院をつくり、陸奥の塩竃の浦を模した庭に、難波から海水を運ばせて塩を焼かせ、その景色を楽しんだといわれています。しかし、融の死後、年月が流れ、素晴らしかった邸宅も廃墟と化しています。
融の霊はその旧跡に月からやって来て、最後に月に帰って行きます。前シテの一声の謡「月もはや」で現れ、ワキと問答をしていると月がやや高く上がって明るくなり「月こそ出でて候へ」と喜びます。月に照らされた周りの名所を教え、後場でも月の明かりに恍惚として舞い遊び、やがて、月が傾いて明け方になると「月もはや」と謡って、月の都に帰って行きます。「月もはや」で始まり「月もはや」で閉じられる、まさに月と共にある融とその詩情で作られていて、『融』のキーワードは「月」なのです。
前場は源融の霊が汐汲みの老人となり廃墟となってしまった河原の院に現れ、悔しく無念な気持ちはあったでしょう。ただ能『融』は不思議なことに、融大臣の無念な執心を晴らす仏教的な背景がまったく感じられません。それはワキの旅僧が一度も読経しないのが要因で、私はワキが普通の旅人でも良いと思いますが、敢えて旅僧にした訳が知りたいです。
今回の粟谷能の会では二番の演能となり、時間的な制約があることから、通常2時間近くかかる『融』を1時間15分ほどに短縮してご覧いただくことにしました。
短縮したところは2か所です。まず、前シテが登場して「月もはや、出潮になりて塩竈の。うら寂びまさる、夕べかな」と謡った後のサシコエ、下歌、上歌を省略しました。うら寂びまさる塩竈に自らの老いを重ねて嘆くところです。
次に、初同(地謡の最初の謡)の最後の謡「千賀の浦曲(うらわ)を眺めん」のあとのワキ謡とシテの語り、二同(地謡の2番目の謡)を省略しました。河原の院の謂れを語り、荒れ果てた姿を目の当たりにして、昔恋しいと慕っても願っても甲斐ない・・・と謡うところです。
通常の2時間近い演能に慣れている方が、省略したところは大事な場面で外せない、本来の能の姿を大切に壊すべきではない、と仰っしゃるのは分かります。その通りだと思いますが、先に述べたように、融の執心よりは月と融の詩情をテーマに決めて、全体の作品を壊さないように配慮した短縮版『融』も、これからは有りではないかと思います。
今、若者は映画など動画を倍速、三倍速で見るようで、タイパ(タイム・パフォーマンス)を重視する時代のようです。そのような意識を持たれる方には、2時間の能はあまりにも長く感じられるのではないでしょうか。これからの時代、粟谷能の会は能二番立の場合、一番は正規通り、もう一番は短めでという番組が良いと考えています。1時間40分の『蝉丸』をご覧になり、狂言の後に、1時間15分ほどの『融』をご覧になって、一日に二番「どちらも、それぞれ面白かった」と感じていただける興行を目指していきたい、と思っています。
私の『融』の初演は平成4年「妙花の会」、平成28年の「粟谷能の会」で再演し、2年後に「初秋ひたち能と狂言」でも勤め、今回が4回目です。過去3回とも早舞は「クツロギ」(橋掛りに使う特殊演出)で勤めていますが、今回の小書「曲水之舞」は最初に橋掛りを使う演出で重なるので「クツロギ」は出来ませんでした。
喜多流の『融』の小書は「曲水之舞」「笏之舞」「遊曲之舞」「遊曲」があります。
「曲水之舞」「笏之舞」「遊曲之舞」は、いずれも早舞の前にイロエやハタラキ的な短い舞が加わりますが、「遊曲」は早舞が無くなり、イロエだけの特別に重い習となります。
今回の「曲水之舞」は通常の早舞の前に曲水の宴を想起させる型が入ります。流れる盃を両手で掬い、その後は、左手で右袖(袂)を持ち、右手の中啓(扇)を盃と見なす演出で、早舞となるまで、終始右手で盃を持っている構えで舞います。盃を両手で掬うと、まずは水上(川上)を想定する幕際まで、右手を少しずつ上げながら行きます。そして、ゆっくり振り返り下に流れる曲水を見て、その流れに盃を流すように、また融自身が流れる盃になったような心持ちで幕際から徐々にスピードを上げて本舞台へと入り、円を描くように丸く廻ります。ここまでが曲水之舞で、その後に通常の早舞となります。今回は時間短縮もあり、掛を省略して三段構成で勤めました。
最初に橋掛りを使う小書「曲水之舞」は、同様に橋掛りを使う「クツロギ」と重なるので、敬遠されあまり多く演じられていません。父・菊生の『融』は「曲水之舞」しか演じていませんが、写真を見ると今でも当時の舞台が脳裏に浮かんで来ます。今回の短縮版『融』を父はどのように思っているのだろうか・・・、少し気になります。
後シテの格好ですが、通常は色鉢巻きを頭に巻いて面を付け、頭に初冠を載せるだけですが、今回はそこに観世銕之丞家より「馬毛頭」(ばすかしら)を拝借して付けました。
昔、野村萬先生がまだ万之丞時代、観世寿夫先生が『融』をお勤めになる際に、「面と初冠だけでは、人間の生の部分が見え過ぎて、夢の世界の融の霊には似合わないのでは?」と仰っしゃられたのを受けて、寿夫先生が工夫されて「馬毛頭」を付けられたのが最初だと能夫から聞いています。そのお姿は『観世壽夫 至花の風姿』でご覧になれます。
実は喜多流で初めて、寿夫先生の真似をして、馬毛頭に似た黒い毛(黒垂)を付けたのは私で、しかも初演のときでした。若輩ながら、自分の立場で、自分の出来る範囲内で、より良い演出をしたいと思い始めていた頃でした。当時は「あのような、奇を衒うことはしないほうがいい」など、陰口もあったようですが、時が過ぎると今ではそれが普通となり、陰口をたたく者もいないでしょう。いつの世も最初に挑む者に陰口は付き物ですが、今回の初番『蝉丸』の逆髪のように、自分の思う通りに演じたい、を貫いて生きている私はたいへん恵まれ、少し変わり者なのかもしれません。
演能は、より良い演出、より想像しやすい姿をご覧いただくのが大事で、最優先だと信じています。これからも、良いと思うことは周りを気にせず、我が道を邪魔されずに進みたいと思っています。
最後に、後シテは本来「指貫」を穿きますが、今回『蝉丸』のツレ・蝉丸で銕之丞氏が「指貫」を穿かれましたので、二番「指貫」が続くのは良くないため、ゲストを優先して、私が「色大口袴」を穿いたことを記しておきます。
(2024年3月 記)
撮影 新宮夕海
ワキ 宝生常三
笛 一噌隆之
小鼓 観世新九郎
大鼓 亀井洋祐
太鼓 小寺真佐人
(『融』については、演能レポート「『融』を演じて 月の詩情に寄せた名曲」(平成28年3月)に詳しく書いていますので、合わせてご覧ください。)
http://awaya-akio.com/2016/03/06/post480/