『龍虎』を勤めて

『龍虎』を勤めて
龍と虎の爽やかな闘い

「虎の尾を踏み、毒蛇の口を逃れたる心地して・・・」とは、
武蔵坊弁慶ら源義経一行が厳しい関所の詰問をくぐり抜け、陸奥の国に落ち延びていく能『安宅』の最後の謡です。
虎の尾を踏んだり、毒蛇に噛まれるのは危険極まりない行為でご免こうむりますが、令和4年寅年のはじめ(1月8日)に、国立能楽堂普及公演にて、虎をテーマにした稀曲を勤めることが出来たのは幸いでした。

『龍虎』は観世小次郎信光作の龍と虎の勢いを争う闘いが見どころの風流(ショー的)の能です。当時人気だった「龍虎図」(龍と虎が向き合ってまさに闘い出さんとしている図)から発想して能の物語に面白く作ったもののようです。

物語は、諸国を巡った僧(ワキ)が天竺(インド)を目指し、まず唐(中国)に辿り着くところから始まります。僧が雄大な景色を眺めていると、樵の老人(前シテ)が若者(前シテツレ)を連れて現れます。老人は僧に天竺を目指すより自国に心を向けよ、と話し、竹林の巌洞に住む虎と、空高い雲より現れる龍も、人間同様に儚く闘うこと、そして中国の皇帝の龍と虎の故事を語り、ここで待っていれば闘いが見られると言い残して家路につきます。

前場は動きが少なく、静かな場面が続きます。ご覧になる方はやや退屈するかもしれませんが、よく耳を傾けると「心せよ、胸の月、よその光を尋ねても」(自分の胸、自国に心を向けよ)や、「争いは人の身も異らぬ(かわらぬ)ものを」、「畜類の闘ふ事も理や」などの真実をついた謡の聞きどころがさまざまにあります。
後場はガラリと景色が変わります。一畳台が舞台中央に運ばれ、その上に竹葉を葺いた山(岩屋)が置かれます。

僧が竹林を眺めていると、太鼓の撥音とともに、峰より雲が湧き上がり、龍(後ツレ)が勢いよく姿を現します。すると、岩屋にいた虎(後シテ)も負けじと飛び出して、悪風を吹き出し、激しい闘いの場面となります。
前場の曲(クセ)で「龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば(うそむけば:吼えれば)風生ず」と謡われた通り、龍は雲を虎は風を起こし、力が伯仲する両者は互いに譲らず、舞台狭しと闘いを繰り広げます。そしてついに勝負はつかず、いつしか龍は雲居に昇り、虎は巌洞に入って、僧の前から姿を消した、と終わります。

『龍虎』は何か特別なメッセージがあるわけではありません。凄惨な闘いというよりは、単なる畜類の威勢の競い合いの能で、深い心持ちなどもありません。サシの謡に「勢い妙にして・・・畜類と雖も位高く」と謡われるように、両者がじゃれ合うような妙なる風情もあります。平物なら平物らしく、爽やかにサラリとした舞台進行を心がけました。

装束について、前場でシテがワキの僧を見て「見馴れ申さぬ御姿なり」と謡うので、シテと日本の僧のワキの姿が違うことを意識して、今回は敢えて、水衣の上に側次(そばつぎ)を付けて唐人らしい雰囲気にしました。

面について、後ツレの龍は通常「黒髭」を付けて登場します。
龍がシテの代表的な演目に『竹生島』、『春日龍神』、『岩船』などがあり、またシテツレとして活躍する演目には『絃上』や『張良』がありますが、面は全て「黒髭」です。『玉井』のシテは大龍王ですので特別に「大悪尉」に代えます。今回は伝書通り「黒髭」にしました。
一方、虎の方は、謡本には「顰(シカミ)又は獅子口」となっています。伝書には、後シテ面「顰」にては取り合わせ悪し、口を明けたる面にては乗り合い悪しき也、長霊ベシミを用いても宜し、となっていますが、近年先人たちは「獅子口」を使われていましたので同様にしました。

また、虎も龍もそれぞれ虎、龍の立物を頭に戴き、どちらも本来「赤頭」ですが、我が家の伝書に「虎は白頭、紺半切にても宜し」と書いてありましたので、白頭に黒色竹模様の半切にしました。近年は、両者を区別するためか、虎を白頭にすることが多いようです。

さて、能のシテがこの世の動物になるのは、『小鍛冶』の狐などありますが、この狐は稲荷明神という神の使いです。シテが聖獣でもないこの世の虎に扮する『龍虎』は珍しい戯曲だと思われます。実際に演能の機会も少なく、もちろん私も今回が初演です。

ちなみに、国立能楽堂でも今回を含めて5回しか演じられていません。そのうち3回は喜多流で、1988年11月に香川靖嗣氏、2008年12月に出雲康雅氏、今回の私となります。他には、私が十代の頃に青年喜多会で大島政允氏が勤められた記憶があります。
今回、稀曲の『龍虎』を生涯に一度でも勤める事が出来、それなりに勉強になったことは確かで、寅年のはじめに、『龍虎』で虎に扮したのは何か吉運になるかもしれません。勇猛なパワーとエネルギーで、龍というよりはオミクロン(新型コロナウイルス感染症の変異ウイルス)を追い払い、よい年になるようにしたいと思いました。

写真提供 国立能楽堂
前ツレ 谷 友矩
後ツレ 佐々木多門
小鼓  鵜澤洋太郎
大鼓  谷口正壽
                           (2022年1月 記)