『卒都婆小町』を勤めて
ひねくれ小町だから面白い
粟谷 明生
古は絶世の美女、歌に優れ、多くの男性に求愛され、華やかに生きた小野小町が、貧しく醜く、物乞いをするまでに落ちぶれ、百歳の姥になって老残を晒している。そんな小町を描く『卒都婆小町』を、「粟谷菊生十三回忌追善能・粟谷能の会」(平成30年3月4日、於:国立能楽堂)で勤めました。父が亡くなって12年、月日の流れがあまりにも早いと痛感します。
父が『卒都婆小町』を披いたのは68歳のときでした。老女物は60歳を過ぎないと手に負えないと言われる程の難曲ですが、いつかは挑んでみたいと思い続け、今回、未熟ながらも62歳にして、父の追善能で披くことができ、とても喜んでいます。
父が披く頃に、「この歳になると、老いた者が味わう諸々のことがわかってくるなあ」と話していたことを思い出します。私の披キは年齢的には父より早いですが、諸々の老いは恥ずかしながらもう既に感じ始めていて、そんな父の感慨が分かるようになってしまいました。今回、「父にお叱りを受けない『卒都婆小町』を勤めたい!」と臨みました。
今回、シテとして初めて老女物に取り組み、一番苦心したのは「老女の謡」です。
老女だから、と声量を下げて弱く小さな声では客席に届きません。かといって、大声で朗々と謡うわけにもいきません。静御前のような若い女の謡では駄目であり、弁慶のような強い男の謡とも違うのは当然です。特に前半の次第、サシコエ、道行の場面では笠をかぶっているので自分の声が耳に共鳴し過ぎて、どの程度声が響きどう届いているのかがなかなか分かりにくい状況を強いられます。しかもお囃子の掛け声と道具の音色が入ると、か細い弱い声ではかき消されてしまいます。
本番前に亀井広忠氏に観世銕之亟先生の老女の謡の教えを尋ねると「弱吟なれど強吟の息遣いで謡う、声を出すのではなく声は肉体の内面に負荷をかけた結果、洩れたもの、と心掛ける、と仰っていました」と教えてくれました。後日「次第、サシコエ、道行は呟くように文字を吐き捨てるように謡うんだとも仰っていました」と更に教えてくれました。
なるほど、と得心しながらもなかなか難しく、まだ体得出来ていない、のが正直なところです。私としては、役者自身の心技体の内芯を強く意識することで、柔らかな外面を持つ老婆が浮かび上がるのでは、と思って勤めました。
稽古しながら、小町の栄華と零落、あんなに美しかった人がこんなに落ちぶれて・・・、かわいそう、哀れ、と単にそれだけを描くために、観阿弥は『卒都婆小町』を戯曲したわけではないだろう、もっと何かがあるのでは、それは何なのかを掘り下げてみたくなりました。
道行が終わり阿倍野松原に着くと、小町は疲れて苦しいと、近くに横たわっている卒都婆に腰かけて休みます。すると、卒都婆は仏体色相のもの(仏の御姿とこの世を形作る五大、地水火風空を表したもの)、そんな大事なものを尻に敷くとは、けしからん、とワキの高野山の僧が咎めはじめます。ここからがシテとワキの論争、「卒都婆問答」となります。
(ここのやり取りは難しい宗教用語が多く分かりにくいので、石井倫子先生の現代語訳を参考にして、明生風に「お芝居風・卒都婆問答」を作ってみましたので、レポートの最後をご覧ください。)
ワキの咎めに対して、「卒都婆が仏体という謂れは?」「功徳というけれど、卒都婆の功徳って何?」と畳み込むように質問をし、私は「仏体と知っていたから近づいたのだ」「卒都婆も伏しているから私も休んで、何か悪い?」と屁理屈を並べ、ついには「悪も善」「煩悩も菩提」「仏も衆生も隔て無し」「愚痴の凡夫をこそ救ってくれるのが仏では?」と理屈をこね、論破する小町です。ついに、高野山の僧に「真に悟れる非人(乞食)なり」と頭を下げさせ三度礼をさせてしまいます。
この卒都婆問答は、観阿弥が高野山の真言密教と禅宗の理論的な戦いを小町にかぶせて面白く戯曲し、禅宗に軍配をあげています。
あれ、小野小町が生きた平安時代前期に禅宗がありましたでしょうか? もちろんまだ存在していません。小町にこのような問答をさせることには無理がありますが、敢えて、善悪不二、仏も衆生も隔て無し、すべては空である、という禅宗の宗教観を入れた観阿弥の戯曲・演出の才能のすごさが冴えます。
卒都婆問答で高野山の僧をやり込める小町は、老いても才気煥発、とても百歳の老婆には見えません。こんな元気な老婆に喝采する人もいるかもしれませんが、私は演じながらふと「イヤな老婆だな、こんな性格の老婆が近くにいたらイヤだろうなあ」と思ってしまいました。
博学ですが人を小馬鹿にしてしまう性格。ここでも僧を軽くあしらっています。自分の思うまま、自信に満ちて生きてきた傲慢で強い女、という人間像が詞章や動きから想像出来ます。
父が「こういうタイプが長生きするんだよ」と笑って話していたのを思い出します。
そして、老婆は遂に僧に頭を下げさせたうえ、駄目押しをするように、戯れ歌を謡います。
「極楽の内ならばこそ悪しからめ、外は何かは苦しかるべき」
(極楽の内ならば無礼をしてはならないが、外なのだから、卒都婆に腰かけて何の差しさわりがあろうか。)
と、極楽の外の意の「外は」と「卒都婆」をかけてダジャレにし、意気揚々と謡い上げます。
現代社会でも、お年寄りの中にはマイペースで、他人のことはどうでもいい、と振る舞われる方がいます。老々介護をしている人などは、こういう人が身近にいると、身に染みるのではないでしょうか。ですから能『卒都婆小町』は百歳まで生き抜いた小野小町の人生ドラマの一コマを描きながら、現代の高齢社会にも十分通じる作品になっています。決して陳腐なものではない、630年ぐらい前に、このような普遍的なものを作った観阿弥の戯曲力には感心させられます。
ところで、この「卒都婆(卒塔婆)」、どのようなものと想像されるでしょうか。
現在ならさしずめ、お墓の周りに立て掛けられている細長い板を思い浮かべるでしょう。しかし、能『卒都婆小町』の「卒塔婆」は人の身長を超えるほどの大きな木材の仏塔です。月岡芳年が描いた「卒塔婆の月」(東京都立図書館提供)に、老婆が尻に敷いているかなり大きな卒塔婆を見ることができ、参考になります。これが朽ちて横たわっているなら、そこに腰かけることもあり得ることで、容易に想像できます。
能ではその卒塔婆を、「鬘桶(かずらおけ)」と呼ばれる黒い円柱形の椅子を置くことで、演出します。歩き疲れた老女の小町がその卒塔婆に休もうというので、鬘桶に腰かける場面、これがシテにとって一つの難所です。被っていた笠を取り左手に持ち、右手で杖を突きながら鬘桶の前に行き腰かける。面の視野は狭く、後ろを振り向き確認できない状態で座ります。ここは父が以前コツを教えてくれていたので、それを思い出し、無事座れました。なにしろここでうまく座れないと大減点なので、気を抜けない箇所です。
卒都婆問答で論破された僧は、老婆がただ者ではないと思い、後世を弔うから名を明かせと尋ねます。すると「跡を弔ってくれるなら、恥ずかしいが名乗りましょう」と返答する老婆小町です。稽古していると先ほどまで小馬鹿にした相手に、弔ってくれるならばと、態度を急変させる節操のなさが気になりました。一体この老婆の信念はどこにあるのだろうか、やや不信感がつのります。それまでの成仏など眼中に無いと言わんばかりの物言いはなんであったのか・・・と。しかしこれも戯曲としての観阿弥の演出力、人間の弱さを見せたかったのだろう、と思って稽古を重ねました。
卒都婆問答はシテとワキの問答(掛け合い)でしたが、序のシテの名乗りからは、ワキの気持ちを地謡が代弁して、シテと地謡との掛け合いで舞台は進行します。古の栄華と今の境遇の悲惨さをシテは中央に下居して語り合います。
栄華と零落については、すでにシテの次第やサシコエで謡われていますが、ここではさらにリアルに今の落ちぶれた姿を語り尽くします。背負った袋には垢まみれの衣、破れ蓑、破れ笠、「路頭にさすらひ、往来(ゆきき)の人に物を乞う」乞食になった・・・と。栄華と零落を二度に渡り繰り返すのも、老いることの悲しさ、盛者必衰の理(ことわり)、人生の無常など、この曲に通底するテーマを作者は言いたかったのかもしれません。
そして地謡が「乞ひ得ぬ時は(誰も施しをしてくれない時は)悪心、また狂乱の心憑きて声変わりけしからず」と謡うと、突然「のう物賜べのう」(ねえ、何か頂戴よ、ねえ)と、僧の前に笠を裏返しに突き出し、なりふり構わず物乞いをする小町に変わります。そして遂に深草少将が小町に憑依し狂乱の体となり、後半へと続きます。
シテは物着で水衣を長絹にかえ、烏帽子を付け、深草少将が憑依した姿となります。ここが演者にとって、もう一つの難所です。男である演者が、取り憑かれた小町という老婆になりますが、同時に、取り憑いた深草少将という男の怨念をも、身体一つで表現しなければなりません。身は小町ながら少将に操られている心持ちで演じますが、その身体の使い方が難しいのです。
「私のところに百夜通ったら付き合ってあげるわ」という小町の揶揄い半分の言葉に、雨の日も風の日も雪深い日も、通い続け九十九日、あと一日というところで力尽きて死んでしまった深草少将。この無念ははかり知れません。その怨霊が、小町が悪心を持つたびに憑依し苦しめます。この作品の狙いは、少将を揶揄い死なせた悪事への報いなのか、はたまた、小町が悪心を持つたびに深草少将が鬼となり懲らしめにやって来る復讐劇とも、また逆に小町を守る守り神のように現れる、とも解釈出来、様々に想像出来ます。
一曲の最後、地謡が「怨念が憑き添ひて、かやうに物には狂はするぞや」と強く謡うと、一瞬静寂が訪れます。憑依が解けて少将が消え、格好は少将のままながらも元の老婆の小町に戻ったように演じなければ失格で、その気持ちと動きの切り替えの表現が難しく、しかし最大の見せ場となります。
これまで謡い囃していた舞台が静まり返り、空となる瞬間。深草少将が消え、これまでの物語がすべて消え、栄華も滅びも、恨みも喜びも、空となるほんのつかの間。やがて小鼓の掛け声の「ホー ホー」、そして静かに「ポン ポン」と打つ音が響くと、「これにつけても後の世を願うぞ誠なりける」(このような報いを受けるにつけても、後世を願うのが私のすることなのだ)と再び地謡が謡い出します。最後は「花を仏に手向けつつ、悟りの道に入ろうよ」と小町は手を合わせ祈り終曲します。この間の詞章はわずか4行、あまりに急転直下の終わり方です。
さて、ご覧になられた方はどう思われたでしょうか。
「小町さん、悟りの境地に入ろうとしたのね。よかったわ」
と思うのか、
「う?ん、小町さんは悟るのは難しいかもね」
と悲観してしまうか。
卒都婆問答で高野山の僧を論破する小町は宗教の教義をよく心得ているはずです。悟りの境地にならねばという気持ちの一方で、「でも本当に悟れるかしら」という不安な気持ちもあったかも。いやいやひねくれ小町のことだからそんなに急にお利巧さんになろうとはしないでしょう・・・などと二転三転します。その多面的な小町の裏の顔を覗かせるのが、作者・観阿弥のねらいだったかもしれません。私は、今でも答えが出せないでいます。
能はいろいろな見方があっていい。ご覧になる方が自由に想像してくださればいいのです。私もこのレポートを書きながら、小町の人柄、性格、人生に思いを馳せ、いろいろな見方ができることに気づかされました。現在物の能は、清純で美しく素直でソフトな能よりは、どこか角ばっていてひっかかりがあるものが魅力的です。
私は現在物の能に不思議と惹かれます。『卒都婆小町』の小町も嫌な性格の女だと思う一方で、そのひねくれ小町の複雑な心境が面白く、観阿弥の土臭く劇的、自由奔放な作品構成に惹かれ、遣り甲斐を感じます。能『卒都婆小町』はすべてが面白く、機会があればもう一度演りたいと思っています。
今回、面は「老女」を使いましたが、ただ優しいお顔の「老女」ではなく、私の演じたい小町は鼻っ柱の強いお婆さんでした。我が家の伝書にも「老女だが痩女が吉」と書かれています。もちろん「痩女」は死んだ女、霊になって登場する女にかける面で、現在物の『卒都婆小町』には不適なのかもしれませんが、どうしても「痩女」に近い「老女」が使いたくて、今回は、「老女」ながら痩女に近い表情のものを新たに能面師・石塚シゲミ氏に打っていただきました。今は落ちぶれ老いてはいるがそれなりに昔はきれいだったイメージ、口も達者な表情、と難しい注文をしましたが、自分では納得出来る面と認識し、感謝しています。
初めての老女物、いい時期にお披キが出来た、と思っています。老女物の型は一応決まっていますが、自由に創っていく余白の幅、遊び部分があります。これまで演能された諸先輩もこの余白、遊び部分を自由に創り、進化させてこられました。ただこの余白には基本的な技術が身についていない者が挑むとおかしなものが生まれる危険性もあります。
老女物は能楽師がこれまで積み重ねてきたものを糧に、自身で創り上げなければならないものと思っています。
小町はどういう人物なのか、指導者は教えてくれません。百歳の小町を自分自身で演出し演技しなければならないのです。シテ方能楽師は役者であり演出家です。そこが面白いところで、遣り甲斐もあります。自分で勉強し自分で創るもので、単に習うものではない。習ってもできるものではないのです。これまで培ってきたことを信じ、自分が感じるままに気負いなく自由に、そんな境地で老女物ができれば、と思っています。
今回は、ワキに朋友・森常好氏、囃子方は笛が松田弘之氏、小鼓が大倉源次郎氏、大鼓が亀井広忠氏、地頭にわが師・友枝昭世氏、粟谷能夫には副地頭を勤めてもらいました。
素晴らしい師と仲間たちが揃い、私を支えてくださったことに感謝します。
父の十三回忌追善能にこのような大曲、老女物を披くことができ、父へのよい手向けになりました。ご覧いただいた方々、支えてくれたスタッフ、すべての方々に感謝したいと思います。 (平成30年3月 記)
(補足資料/明生流訳「お芝居風・卒都婆問答」)
僧:「お婆さん、あなたが腰かけているのは仏体を形どった卒都婆ですよ。そこ、どきなさい!」
小町:「あら、仏体を形どっている、と仰っしゃいますが、もう文字も見えないから朽木と変わりないでしょ。」
僧「たとえ深山の朽木でも、花が咲く木はすぐにわかるものだ。まして仏を刻んだ卒都婆という木にしるしの無い訳がないだろう!」
小町:「私も賤しい埋れ木ですが、心の花は残っているよ。こんな私にも花があるんだから、私が座っている、という事は?、卒都婆に花を手向けている、という事なんだよ。
ところで、あなたが言う、卒都婆が仏体とは、どういうことかい?」
僧:「金剛薩?が人間に仏様の教えを示すために大日如来の誓いを形に表したものなんだよ!」
小町:「へえ?、どんな形なの?」
僧:「地水火風空、の五つ。万物の根本となる大事な要素なのだ!」
小町:「でもさ、人間も五大、五つの要素から出来ているから同じじゃないの?(笑い)」
僧:「形は同じでも心と功徳、功徳とは果報を得られるような善行のことですよ! それとは違うからね!」
小町:「じゃ?、卒都婆の功徳とは、なになのさ?」
僧:「一回卒都婆を見ただけで、永遠に畜生道、餓鬼道、地獄道の三つから逃れられるから有難いんだ!」
小町:「へぇ?、じゃあ、私だって言うよ。一念発起菩提心!!!
どうだい? 私だって一遍悟りを求める心を起こしたら、すごいよ。
たくさんの塔を作る事より、ずっと功徳があるはずだよ。卒都婆になんか負けやしないよ。」
僧:「じゃあ婆さん、菩提心があるなら、なぜ出家しないんだよ!」
小町:「してるわ、形の上ではなく、心でしているのよ。」
僧:「なに言ってんだよ、婆さん!
心が無いから、わからなくて卒都婆に腰掛けたんだろう?!」
小町:「違うわよ、仏体だと知っているから卒都婆に近づいたのよ。」
僧:「それならどうして拝まないで尻に敷くんだよ!」
小町:「どうせ倒れている卒都婆じゃないか。私も一緒に休んで、なにが悪いんだよ?」
僧:「それは順番が違う。まともなご縁の結び方になっていない!」
小町:「いいや、悪事がきっかけで出来たご縁だって同じことだよ。
だってあの極楽の提婆達多だって観音の慈悲で救われたし、愚か者の槃特も文殊の知恵と同じよ。
悪も善も同じで、煩悩だって菩提(悟った心)と同じ、菩提は菩提樹にたとえられるけれど、本当は植木のような物体ではないのよ。
澄んだ心は鏡と同じで台のようだと言うが、台に乗っかっているものではないんだよ。
すべてはね、空であり、実体はないんだよ!
そんな風に考えてみたら仏様も私達衆生も区別はないの。
あんたら順縁とか逆縁とか言うけどさ、元々は愚かな凡夫を救う方便だからね。逆縁だって救われるのよ、判ったかい?(笑い)」
写真
1 撮影 川辺絢哉
2 第101回 粟谷能の会当日番組より
7 添付資料 月岡芳年
14、15 撮影 石田 裕
その他 撮影 新宮夕海
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