『杜若』を勤めて
杜若の精と伊勢物語
秋田県の大仙市にある唐松能舞台で、先日(平成27年8月30日)、三度目の『杜若』を20年ぶりに勤めました。唐松能舞台は大曲と秋田の中間よりやや大曲寄りの、JR奥羽本線羽後境駅から徒歩で10分ぐらいのところ、まほろば唐松中世の館にあります。秋田の大曲と聞くと、増田、十文字、横手、角館とともに、父・菊生が指導に通った地、十文字から増田への雪道を橇(そり)で行った話などが思い出されます。今では新幹線ができ便利になりましたが、昔はその地にたどり着くまで大変だったようです。
唐松能舞台は京都西本願寺の北能舞台を模して造られたもので、秋田県では唯一の舞台です。昔ながらの観能の形が楽しめるようにと、屋外の舞台になっています。今世紀初め、この舞台が建造された当初から、この時期に、粟谷能夫が大仙市から興業を依頼され、今回は私の『杜若』と、半能『鍾馗』を能夫が勤める番組となりました。開演前に一時小雨が落ちることもあり、お天気が心配されましたが、開演時には雨もやみ、夏の終わりを感じさせる爽やかな風を感じての演能となりました。
能『杜若』は旅僧(ワキ)が三河の国八橋の沢辺で、咲き乱れる杜若を眺めているところに、里女(シテ)が現れ、業平の詠んだ「唐衣着つつなれにし、妻しあれば、遙々来ぬる、旅をしぞ思ふ」の古歌を教え、旅僧を我が庵に招き入れます。
この歌はご存知「伊勢物語」第九段に出てくる歌です。「むかし、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとて、行きけり」と始まる「東下り」の段で、「かきつばたという5文字を句の上にすえてよめ」と言われて詠んだ歌です。伊勢物語には「男」を誰と特定していませんが、「唐衣・・・」の歌は古今和歌集では在原業平作となっているので、業平の歌であることは明らかです。
伊勢物語にはその前の三段から六段にかけて、男(業平)と二条の后・高子(藤原長良の娘)の禁断の恋の話が語られ、后となった高子にはなかなか近づくこともできない男の姿が描かれています。
能の舞台に戻りましょう。
旅僧を庵に招き入れると、やがて女は、高子の后の衣を身につけ、業平の透額(すきびたい)の冠を戴き、雅な姿で現れ、実は自分は杜若の精であると名乗ります。そして業平は歌舞の菩薩の化現であるから、業平の歌の恵みによって、非情草木に至るまで、皆が成仏出来ると語り、舞い、姿を消して終曲します。
シテは物着で、杜若の精でありながら、高子の后のようであり、業平のようでもあって、まるで両性具有のような姿となり、しかも業平は歌舞の菩薩でもあるというのですから、観ている側も演じる者も、焦点を絞れず正直戸惑ってしまうのではないでしょうか。
私自身も初演では、舞っていてどこか明確性を欠くように思いながら、答えが出ずに、ずるずると終わってしまった記憶がありますが、今、それが能の本質的な部分でもあるように思えて来ました。敢えて二重三重の姿にし、伊勢物語の情趣を厚く描きだしたところに、能『杜若』の魅力、面白さがあるように思えます。
父・菊生は、「『杜若』は、あまり深刻にならず、ただただ綺麗に気品と品格、そしてところどころに女性の優しさを盛り込めるといい」と話していましたので、そのように意識して勤めてみたつもりですが、その域まで達せたのか、まだ自分ではわからないでいます。
今回は、時間の都合上、少し短縮版にしてほしいと、主催者側からの要請がありました。短縮するにはどうするか。他流でもいろいろな小書で工夫されています。それらも参考にし、今回は観世流の小書「恋之舞」のような演出にしてみようと考えました。
この小書は序、サシ、クセを省き、地次第の「遥々来ぬる唐衣・・・着つつや舞を奏づらん」から直ぐに「花前に蝶舞ふ、紛々たる雪、柳上に鶯飛ぶ片々たる金」につなげ、序之舞を主軸とする演出です。
「恋之舞」は十五世・観世元章の創作小書です。先代・観世銕之亟先生は「在原業平に恋をしてしまう花の精は、儚さ純情さがストレートに出ていて、通常の『杜若』よりやり易い」と言われたようです。友枝昭世師からは「花の精よりも、業平と二条の后との関係に焦点を置いているように思える」と教えていただきました。
確かに、小書「恋之舞」は文字通り、業平と二条の后の「恋」に焦点を絞っているように見えます。クセを見ると、伊勢物語はどのような物語かを語る詞章が続きます。十五段から始まって初段、七段、八段の歌も引き、「ひとたびは栄え、ひとたびは衰ふる理(ことわり)」という当時の世相に敏感な無常観も入れられています。この能で伊勢物語の全体を味わってもらいたいという作者の意図があったのかもしれません。当時の観客には伊勢物語は人気で、各段の歌などが頭に入っていて、このクセを面白く聞いたことでしょう。
焦点が絞りにくかったのもこのあたりにあったかもしれません。今回、業平と二条の后の恋に焦点をしぼり、やり易くなったことは確かです。能を短縮版にするとき、演劇的に省く根拠がなければいけない、そう思います。今回敢えて短縮版を勤めることで、根拠らしきものが見出せて、勉強になった、と思っています。短縮版を演じたからこそ、通常の『杜若』の魅力も再認識出来ました。
能『杜若』の主題、焦点はどこにあるのか? と自問自答したことがありましたが、今は、一点ではない、と答えるしかありません。伊勢物語絵巻の魅力を伝えたいようであり、能らしく草木の精としての杜若の花の美しさも見せたい。業平と高子の恋も大事であり、業平が歌舞の菩薩でその功徳で草木国土悉皆成仏、すべてが救われるという宗教性も絡めてしまうほど、ここが一番のポイントなのかもしれません。これらすべてを万華鏡のようにぐるぐる回して様々な模様でご覧いただけるのが『杜若』という能の魅力、味わいなのかもしれません。観る角度によりいろいろに変化する、つかみどころがない面白さ、それこそが能本来の面白さの一面でもある、と思えるようになりました。
料理で例えれば、通常の『杜若』がフルコース、短縮版「恋之舞」はそのメーン料理の魚か肉料理を省いて、少し軽目のコース料理といったところでしょうか。趣味の写真で
考えると、通常の『杜若』は花弁のひとひらから茎、根までを撮り、短縮版は花弁の中心部、業平と高子の恋を、あまり説明的にならず、杜若に近づいてアップして撮る、そんな感じではないでしょうか。
『杜若』は世阿弥作とも、また金春禅竹作ともいわれていますが、もともとはそれ以前のものではないかという気がします。ワキの名乗りから始まって、能の形式は整えられていますが、世阿弥や禅竹作なら舞台上で物着をさせずに中入りという形態をとったのではないでしょうか。それをしないところに演者としては古風な趣を感じてしまいます。
今回の演出で、初冠に「日陰の糸」を垂らし、あやめの花を挿して飾りとしました。
「日陰の糸」は喜多流にはありませんが、他流ではよく見られる形態です。とても雅な感じに見えるので、最近は敢えて付けるようにしています。
我が家の喜多寿山の伝書に「初冠の心第一也」と最後に書かれています。これは、女性の面をつけ、女性の装束を着ながらも、初冠、つまり男に、それは業平であることを忘れてはいけない、という教えであると演じる寸前に気がつき、今勤め終えてようやく理解出来た、というのが正直なところです。
喜多流の小書としては「働」と「合掌留(がっしょうどめ)」があります。
当初、「働」で演ってみようと計画していました。「働」は序之舞が終わり、シテ謡「昔男の名を留めし」を謡った後に囃子方のアシラヒが入る演出です。シテは舞台を一周するだけのもので、余韻を楽しむ風情ですが、序之舞のあとの謡は、やや声を張り上げ謡うのが鉄則です。その高揚を少し冷ます、シテ役者に冷静になる時間を与えるような意味合いがあると理解しています。そして「花橘の」と再び張り上げて謡うことで、演技の熱を上げたり下げたりさせる、それが「働」という高度な演出だと思っています。
実は、今回の「働」は、太鼓の金春国和氏と相談して、序之舞もやや長めにし、小書「恋之舞」を真似て、橋掛りでも舞うように試みたい、美しく群生する杜若を見て、そして自分の姿を映し見るような所作も入れるから、よろしく、とお願いしていましたが、昨年突然亡くなられてしまい、残念で堪りません。今回はご子息、国直氏が代演されることとなり、凝った演出は出来ませんでしたが、それでも「働」を試み、序之舞の寸法は変えずに、橋掛りに行く型は取り入れて替えの演出としました。
そして、最後は大小前にて合掌して留める小書「合掌留」を、番組には記載していませんでしたが加えました。故金春国和氏への追悼の気持ちを込めて、の替え演出です。
「合掌留」は残り留めという、謡が終わっても囃子方が延びて囃す演出があるようですが、伝書に「打延し候(残り留)事、これ無きこと也」と書かれていたので、今回は延ばさず勤めました。合掌は、本来舞台正面先におられる神様に向かって拝むものですが、今回は国和氏のご冥福を祈って手を合わせ、舞い終えました。
(平成27年9月 記)
写真 能『杜若』働 シテ 粟谷明生
撮影 石田 裕
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