『道成寺』再び
粟谷 明生
平成26年3月2日(日)第95回粟谷能の会(於:国立能楽堂)にて『道成寺』を28年ぶりに(初演・昭和61年3月2日)再演しました。
能『道成寺』は「安珍清姫伝説」で焼失した道成寺の鐘の後日談「鐘供養伝説」を元に観世小次郎信光が能劇化したものといわれています。信光は安珍を登場させず、清姫もまた名前を明らかにせず、白拍子として設定し、鐘への執念をテーマにしています。
まず今回使用した面と装束についてご紹介します。
喜多流は本来、前シテの面は「曲見」、装束は「黒地丸尽縫箔」を腰巻にして「紅無鶴菱模様」の唐織を坪折(壺折)にするのが決まりです。しかし近年、若者が初演で年増女の「曲見」を使いこなすのはむずかしい、との配慮から「増女」に替えて勤める方が増え、私の披きも「増女」でした。装束は父の希望で「紅入蝶柄模様」の唐織でした。今回もやはり面は「増女」系で唐織も紅入りを考え、前シテの面は世にも不思議な女、妖しげな艶を出すために、梅若玄祥先生より、梅若家の名物面「逆髪」の写し、「白露」臥牛氏郷打を拝借し、唐織は『道成寺』に相応しい貴重な色入唐織「赤地鱗地紋花笠に獨楽糸(こまいと)」を観世銕之丞先生から拝借しました。両先生には感謝の気持ちで一杯です。
では舞台進行に合わせて演能を振り返ります。
『道成寺』といえば鐘ですが、この鐘の吊り方が上掛り(観世流、宝生流)と下掛り(金春流、金剛流、喜多流)では大いに違います。上掛りはあらかじめ狂言方の後見が鐘を吊り、その後に能が始まりますが、喜多流など下掛りは能の進行の中で、演技として鐘を吊ります。ワキ(道成寺住僧)が従僧を連れて登場して名のり、その後にアイ(能力)に鐘を吊るように告げ、ここではじめて狂言方が鐘を運び吊ります。吊り終わると、能力は道成寺で鐘供養が行われ、その間は女人禁制であることを、周りに「ふれ」伝えます。
そして前シテの出(登場)となります。通常の習之次第(ならいのしだい=出囃子)はシテが姿を現すまでに時間がかかります。今回は習之次第のはじまりに吹く、笛のヒシギ(甲高い音色)が鳴り響くと同時に幕上げとして、直ぐにシテが姿を現す替えの演出にしました。これは鐘への恨み、怒りを必死になって抑え我慢していた女が、鐘供養があるという知らせを聞いた途端に、鐘への恨みのスイッチが入り、自分ではどうすることも出来ない、制御が効かない行動になってしまう、その表れとして見ていただきたいとの思いでした。鐘への怨念に燃える魂は、女を白拍子姿に化し、鐘の吊られた地へと足を運ばせるのです。つまりアイのふれは、おとなしく恨みを抑えていた魂に火を付けしまったのです。
国立能楽堂の長い橋掛りは、鐘を目掛けての道中を演じるには格好です。今回は「作りし罪も消えぬべき・・・」の次第を一の松あたりにて謡い、名のり、道成寺への道行すべてを橋掛りにて行い、道成寺に着いた場所も一の松あたりとしました。その後、女人禁制だから供養の場には入れぬと断るアイに、白拍子はお構いなしに入り込みます。そのしたたかさを、謡いながら本舞台に入ることで見せ、アイに近づき「面白い舞だから、ね。いいでしょ?」と女の魅力を発揮し口説きます。
初演では「拝ませてたまわり候へ」の謡がうまく謡えず、父に「あんな謡じゃ、耕介(故・野村万之丞)がなんとも思わないよ」と叱られました。当時、白拍子は芸能を司る者として巫女的な待遇を受けることもあったといわれていますから、神事も行う芸能者ならば、鐘供養の場に入れてもよいかと応対する能力には、それなりの弁解理由になったかもしれません。が、しかしここは能力も男、不思議な女性の色仕掛けに負けてしまったと解釈した方が、人間らしく面白いと思われます。
能力のはからいで、シテは女人禁制の鐘供養の場に入れてもらい舞を舞うことになります。舞人の象徴である烏帽子をつけ身支度をして、いよいよ舞となります。はじめは遠くからぼんやり鐘を眺めている白拍子ですが、見るうちに興奮し走り込んで「あれにまします宮人の烏帽子をしばし借りにきて」と謡い掛け「乱拍子(らんびょうし)」の舞となります。
この白拍子の舞を模した乱拍子は、シテと小鼓の二人だけによる特殊な舞で、シテ方は小鼓方の流儀に合わせて舞(型=動き)を合わせます。初演では幸流の亀井俊一氏のお相手で勤めましたが、今回は大倉流宗家・大倉源次郎氏にお相手をお願いしました。足の動き(型)は単純な運動の繰り返しですが、小鼓の呼吸に合わせ、立つ姿勢を乱さず足の動きだけで演じるもので、そう簡単ではありません。身体の堅さをとり、ほんのりと女らしい柔らかみを感じさせるスムーズな身のこなし、初演は満足出来るものではなかったので、今回はどうにか自分の理想に近づきたいと挑みました。
幸流は掛け声と打つ音、その間(ま)を大事にし、自然と時間が長めになります。一方、大倉流、幸_流、観世流などは掛け声を長く引く間に合わせて足を動かすので、掛け声が終われば次の動きとなり、乱拍子の時間は幸流より短くなります。今回、ご覧いただいた方から「乱拍子が短く感じられた」とのご感想をいただきました。これは本来8段であるものを6段にしたこともありますが、小鼓の流儀の違いも大きな要因だと言えます。
「乱拍子」の舞は単純な動きですが、これを演者はなにと考え演じるのか? なにを真似て、なにを思うのか、そこの再認識が再演の課題でもありました。
道成寺の階段を蛇のように這い上がる心持ちを足遣いで表現するとも、足拍子を踏む乱拍子という踊りのステップのようなもの、とも考えられます。私はその両方を思いながらも、もうひとつ、女の道成寺という地、そして鐘への思いを内に抑えようとしながらも、どうしても外へ発散せずにはいられなくなるストレス、それがついには爆発してしまう、心の中の冷静と興奮の交錯でもあるように思えて演じました。
もちろん、どのように解釈されるかはご覧になる方のご自由です。単純な乱拍子の動きだからこそ、いろいろなことが想像出来るのかもしれません。
「乱拍子」の最後は「寺とは名付けたり」のシテ謡から大鼓も打ち出し、白拍子の思いは遂に炸裂し、速い舞「急之舞」に急変します。
この速い舞もまた、揺るぎの無い下半身としなやかな上半身の動きが必須で、剛柔のバランスをうまくとりながら、身体を乱すことなく俊敏な足さばきの中にも「女」を感じさせなくてはいけない、と父の言葉がまた思い浮かびます。静と動、速さこそ異なりますが、身体の扱いは乱拍子に共通するものがあります。
舞が終わり「春の夕べを、来て見れば」「入相の鐘に花や散るらん」と、シテと地謡は熱唱し舞台はクライマックスを迎えます。鐘入りは、この曲最大の見せ場であり難所です。何度もリハーサルが出来ることではないので、一発勝負となります。喜多流は烏帽子を後ろに払い落とし、片手を上げて鐘を目掛け、後ろ姿を見せたまま、鐘の真ん中で二つ足拍子を踏み飛び上がります。これが鐘後見の綱を放し鐘を落とすタイミングと合い、シテは頭を打ちながら姿を消すことになります。うまく綺麗に消えるほど相当強く打ちますが、まさに今回は数日傷みがあるほどでしたので、鐘入りは上手くいったということです。鐘入りはシテよりは、いかによいタイミングで鐘を落とすか、鐘後見の責任が大きく、今回、鐘後見の大役を受けて下さった中村邦生氏に感謝しています。
初演の難関として鐘の中での着替えがあります。面を外し、唐織紐を解いて脱ぎ、般若を付ける。狭く暗い中での作業は不自由です。今回は垂れ髪を付ける新工夫に挑みました。下稽古ではなかなか綺麗にならず苦心しましたが、試行錯誤と仲間からのアドバイスもあり、なんとか形にはなったと思っています。ご感想はいろいろありました。例えば、般若の面は下から上へのベクトル、口も上に、角も上に、鬘の毛も上に向けて掴み上げます。それに対して垂れ髪は下への力が加わるので、上への力が半減されるような不思議な感じを受けました、と。このご感想はもっともで大いに学ばせていただきましたが、私の狙いはそのバランスを故意に崩すことです。怒るだけではない女の悲しみをどことなく感じてしまうようなものをお見せ出来たらという思いもありました。
世阿弥の言う「してみて、よきにつくべし、ぜずば善悪定めがたし」の精神が私は好きです。まずは試みてみよう、ということでした。今後あの垂れ髪使用がどのように扱われるか、流行るか廃るか、それはこれから人々が証明してくれることでしょう。
「あれ見よ蛇体は、現れたり」と謡われると後シテは姿を見せますが、後シテの面は喜多流では「般若」をつけます。蛇のようになってしまった女の恐ろしさを「蛇(じゃ)」という面で表現するのが順当と言えますが、敢えて「般若」を使用するところに、そうならざるを得なかった女の悲しさがより強調されるのではないでしょうか。
蛇体の女は大勢の僧に祈られ己のつく息でその身を焼くほどとなり退散し、遂に日高川に飛んで消えます。近年、最後は幕の中に飛び入り幕を下ろして姿を見せない演出が普通となりましたが、我が家の伝書にはそれは替え演出であり、本来は橋掛りにて飛び臥し、その後立って入幕すると記載されています。このやり方は、死んだとは謡わない、もしかするとまた心のスイッチが入り現れるかもしれない、そのような悲しさ、終わりのない女の怒りと恨みをより一層引き立たせる演出と思い試みてみました。
能・狂言の世界では、大きな曲に挑み演ずることによって、能役者の成長の証を示す慣習があります。その中でも『道成寺』は筆頭です。若き日の初演の「披き」は、能楽師として一人前になれるかどうかの卒業試験と言われる方もいらっしゃいますが、私は入学試験の意識であると考えています。では再演が卒業試験かというと・・・。人、生滅の間は成長途上の身でありますから、卒業ではなく、昇進のためのレベルアップ試験と思います。
昔も今も能楽師は『道成寺』を披いて、はじめて一人前とみなされますが、残念ながら披きはやはり無事に勤める、その域を超えることは出来ないのです。『道成寺』という戯曲の大きなテーマを若さあふれる者が一回目で演じきることには少々無理があります。今回58歳の再演にあたり、初演では出来なかったことへの再チャレンジ精神で臨みました。それは緩みがちな私の精神と肉体に負荷をかける絶好の機会となり緊張の日々でした。またNHKの公開録画が決まったことは更に追い打ちをかけ、技術向上はもとより、健康管理など、能役者としての、初心に戻る好機となりました。
「稽古をしっかり積めさえすればそれでいい、余計なことは考えるな」そう教えられた時代がありました。確かに間違いではありませんが、それがすべてではないように思えます。能を演じるには、まず自分の思う役作りを考え、それに似合う面と装束を選び、その面と装束を生かすための稽古を積む、そうあるべきではないでしょうか。
『道成寺』についていろいろと考えていくうちに、ふと見えて来たキーワードは「妖気」です。「美」と「妖」の交錯、相克です。「美」の静、と「妖」の動が、常にこの不思議な白拍子の女の魂を動かしているのではないか、と。
蛇体となるまでの女の執心、執念、拘り、その怒りの対象は昔恋した熊野参詣の僧でも、目の前で祈る僧でもありません。男を隠した鐘そのものと、鐘があるその土地、このふたつへの恨みです。「鐘がいけないのよ」「鐘さえなければ」という逆恨みともいえる鐘への恨み。怒り爆発ギリギリの精神状態の危険な女をどう再演出来るかが、私のテーマとなりました。
作者の観世小次郎信光はお囃子事が達者な能役者だったようで、『道成寺』は信光らしい囃子方のパフォーマンスが遺憾なく発揮されています。大鼓の一調、小鼓の乱拍子、初めから終わりまで随所におもしろ尽くしが散りばめられて、観る者を飽きさせることがない、おもしろ演出満載の『道成寺』です。
披きは、このおもしろ尽くしのお任せコースに乗ればいいのでしょうが、再演はこのコースをどのように扱うかが問われ、それこそが再演の意義であろうと思いました。
フィギュアスケートは技術点と芸術点で審査されます。能役者とアスリートを同様にしてはお叱りを受けるかもしれませんが、技術点の満点を目指すのが初演の披きだとすると、再演では技術点の満点は当然、芸術点に重きをおいて、両者の高得点でよい舞台を作るもの、そう信じています。
今、自分自身、点数はわかりませんが、ある満足感、達成感に浸っています。
それは、初心にもどり、『道成寺』が大勢の仲間の協力で出来上がるものであることを再確認し、仲間への感謝の気持ちがこみ上げてきたこと、公開録画という高いハードルの設定にどうにか応えられたこと、すべて自分のためになったという充実感などです。舞台を創ってくれた囃子方、ワキ方、狂言方、喜多流の地謡、後見、楽屋働きの仲間たち、観てくださった方々、『道成寺』にかかわったすべての人たちに感謝しています。
●能『道成寺』のあらすじ
紀州(和歌山県)の道成寺で釣鐘再興のための鐘供養が執り行われることになりました。女人禁制を申し付けられた能力(アイ)ですが、白拍子(前シテ)の所望を受け入れ境内に入れてしまいます。最初、白拍子は供養の舞を静かに舞い始めますが、次第に興奮し激しく舞いながら、人々が眠ている隙を見て釣鐘を落とし、その中に飛び込み姿を消します。
能力から鐘が落ちた報告を受けた住僧(ワキ)は、かつてこの寺で起きた事件について従僧に語ります。
昔、真砂(まなご)の庄司の娘は、自分の家を定宿としていた山伏
に恋をした。ある年、娘は山伏に同行を求め迫るが、山伏は驚き道
成寺に逃げ込み、住職と相談し鐘の中に隠れた。山伏に恋する娘は
日高川まで追いかけて来たが、水かさが上がって渡れない。しかし
恋に破れた女の激しい恨みは遂に蛇となり、やすやすと日高川を渡
り、道成寺に来ると鐘の落ちているのを不審に思い、鐘の中に山伏
がいると分かると焼き殺してしまった、と。
その時の娘の執心が今回の禍の元と判断した住僧は鐘に祈り、吊り上げると、中から蛇体(後シテ)となった白拍子が姿を現し、住僧達に立ち向かいます。が、しかし終に祈り伏せられ、日高川の深淵へと姿を消すのでした。
●能『道成寺』の元となった「道成寺縁起」
延長六年(929)、真砂庄司娘・清姫は奥州から熊野詣に来た修行僧・
安珍に一目惚れします。清姫の片思いに困った安珍は、熊野からの
帰りに再び立ち寄ることを約束しますが、立ち寄らず、約束は守り
ませんでした。待ちわびる清姫の思いはついに安珍を探し追い求め
ることとなります。清姫の怨念を恐れた安珍は、舟で日高川を渡り
道成寺に助けを求めると、寺の僧は安珍を鐘の中に隠しました。安
珍を追う清姫はついに大蛇となって日高川を渡り、道成寺にたどり
着きます。そして安珍が隠れている鐘に巻きつくと、その怒りの炎
で鐘を焼き、中にいた安珍を焼き殺してしまいました。
写真 能『道成寺』シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
文責 粟谷明生
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