『景清』を演じて
――芸能者としての景清を親子で勤める――
粟谷明生
『景清』と言えば粟谷菊生、菊生の『景清』と言われるほど父は数多く勤め、十八番と賞賛されてきました。そのためか、私は父の存命中はなかなか『景清』を演じる気になれずにいました。亡くなってから、いつかは勤めなければ、と思っていましたが、いざ番組を組む段階になると、どうも父の顔が浮かんで来て、比較されるのも嫌で避けて来たのが、正直な本音です。
今年は父の七回忌の年です。それまでにはと思い、息子・尚生もこの道を目指し成長しはじめてきたので、ツレ役を配役して、親子で粟谷能の会(平成24年3月4日)で披らくことを決めました。それが出来たことは嬉しい限りです。屹度、一番喜んでいるのは、あちらにいる父かもしれません。
景清は藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏であったので伊藤景清とも、また平景清とも言われていたようですが、はっきりしません。上総介忠清の七男で、勇猛であったため悪の字を付けて通称・悪七兵衛景清と呼ばれていたようです。
平家方の侍大将として常に戦の陣頭に立つ勇者のように思っていましたが、勝ち戦の数が少ないこともあって、戦の雲行きが怪しくなるとすぐに退散するので、逃げ景清と陰口をたたかれていたようにも伝えられています。しかし、能『景清』はそのような弱いところは一切見せずに、落ちぶれても豪の者として描き、昔華やかに戦った時代を戦語りで見せます。
平(または伊藤)景清が能に登場するのは、『景清』と稀にしか演じられない『大仏供養』の二曲です。東大寺の転害門で頼朝暗殺を企て失敗する『大仏供養』は、若者でも演じられますが、『景清』は若年や未熟者では許されない高位な曲として、喜多流では扱っています。喜多流では「盲目」と「老人」というハンディを背負う曲を大事にして、若者や未熟な者には許さない風習が今もあります。
私も56歳になり、いつまでも避けていてはいけない、そろそろ手がけなくては、という思いもあり勤めました。
喜多流の景清像は老いても武骨魂の消えない、意地っ張りな盲目ぶりを強調します。
専用面「景清」には、顎髭が有る無しの二種類がありますが、喜多流は老武者の往時の面影を偲ばせるため、髭のある面を好んで使います。装束も着流し姿で乞食となった落魄ぶりを主張する流儀もありますが、喜多流は仰々しく、敢えて白色の大口袴を穿くのが決まりです。
さて、今回『景清』を勤めるにあたって、景清とはどのような人物なのか、どのように演じたらよいのかを考えました。
まず人の憐れみで暮らす語り芸能者像、次に零落しても武士気質を捨てることが出来ない性格、最後に一人娘の父親である事実、この三つ巴に「老い」と「盲目」のハンディを加えた非常に複雑な構成になっていて、そこが『景清』の面白さでもあると思います。
では舞台進行に合わせてその複雑構成のベールをはがすべく、演者がどのように取り組んだかを少しずつ明かしていきます。まずその前に、簡単に物語をご紹介します。
悪七兵衛景清は日向の国に流され零落しても武士気質を残し、人の憐れみを受けて乞食同然の暮らしを芸能者として生きています。そこへ鎌倉から遙々、娘の人丸が訪れ再会となります。束の間の幸せを楽しむ二人ですが、景清は娘に故郷に帰り、自分の亡き跡を弔ってくれ、と決断し見送ります。一緒に居たい気持ちを抑え、将来の娘のことを考えた父・景清を思うと自然と涙腺が緩みます。
さて舞台進行です。
舞台には引廻しに覆われた藁屋が置かれ、ツレ(人丸)とワキツレ(男)が次第で登場し鎌倉から宮崎までの道中を謡います。
二人が脇座に着座すると、藁屋の中から「松門の謡」と呼ばれる謡が聞こえてきます。「松門、独り閉じて、年月を送り、自ら清光を見ざれば、時の移るをも、わきまえず。・・・」、ここの細かな節扱いは謡本には明確に記載されておらず、先人からの伝承、口伝です。口伝というのは不思議なもので、例えば一人の伝承者から二人が習うと、そこに二つの伝承が生まれてしまいます。どちらかが正しい、良いということではなく、演者がそれぞれの感性で聴き取るので、「松門の謡」であれば二つの謡い方が生まれてしまう、これはどうしても起こる伝承の定めなのかもしれません。
私は父のを規範として真似ていますが、稽古に入って一つの疑問が起こりました。
先ほどの複雑な景清のどの部分を強調し、どのような境遇で謡ったらよいのか、と。
残念ながらそこは父から伝授されていませんでしたが、「松門の謡」の底流に流れる人間景清に内在するもの、それが気になりました。
私は、「松門の謡」は、平家語りをする乞食芸能者の心持ちを全面に出して謡えればと思うようになりました。そのヒントとなったのは、角帽子の着用です。
景清は角帽子を付けますが、角帽子とは本来出家を意味する被り物です。
「なぜ出家していない景清が角帽子を被るのか?」
この疑問が発想の発端です。
「とても世を背くとならば墨にこそ、染むべき袖のあさましや窶(やつ)れ果てたる有様を・・・」(世を捨てた自分であるから、出家入道の姿をしているはずであるのに、墨染の衣も着ていない。俗体のままで零落している有様を・・・)と謡われるように、景清は出家していません。
であるのに何故、角帽子を付けるのか?
そこで調べてみると、盲目の方も検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)のような位のある方には特別に被り物が許されていた時代がありました。実際、検校や勾当が角帽子を着用していた訳ではありませんが、それに似たものをかぶっていたため、昔の猿楽師の工夫で角帽子を選んだのではないかと推察します。
つまり角帽子は、盲目で日向の勾当と呼ばれた、平家を語る芸能者の象徴なのです。
そこをクローズアップするのが「松門の謡」と「語り」ではないかと思い勤めました。老いた語り芸能者であっても、ひとたびスイッチが入れば、声は高々と朗々と語りはじめ、悦に入って大声を張り上げてしまう、そのような一面もあるのが景清ではないでしょうか。
「松門の謡」は昔から「鎧の節糸が古くなってぶつぶつと切れたように謡え」と言われています。これには納得出来ますが、「決して聞かせどころではない・・・聞こえても聞こえなくてもそんなことはどうでもいい。シテの腹の中に応えがあればいい」となると、少々乱暴な教えだと反論したくなります。
胸の内の思いだから声は小さく聞こえなくてもいい、というのは舞台に上がる者の言い分けではないでしょうか。
能は歌劇です。謡の詞章は言霊として観客に的確に伝えられてこそ、観客はそこから想像を膨らますことが出来るのです。聞こえなくてもいい、は想像しなくてもよい、ということになります。「松門の謡」は呂の音を主にして、観客に的確に伝えられなければ失格です。胸の内の思いを、声をひそめたり、半分の声で、という発想は間違いだと思います。
西洋の音楽のピアニッシモ(とても弱く)や更に弱いピアニッシッシモ(とてもとても弱く)も、弱くとも芯は堅く、屹度演奏会の会場の遠く奥までしっかりと聞こえるのではないでしょうか。
「松門の謡」も見所の奥まで伝わるものでなければいけないはずです。
もう一つの景清の芸能者の本領を発揮する場が、屋島の合戦模様を語る「語り」です。
はじめ冷静に語りはじめる景清ですが、次第に興奮してきて、声も荒げていきます。
不自由な足下でありながら、遂には立ち上がり、娘のために、というよりは、もう自然と動いてしまう、そのような興奮状態で三保谷四郎との錣引きの有様を見せます。
景清のもっとも華やかで脚光を浴びたあの時、もっとも自慢したいあの場面です。
強く謡う地謡陣の謡い声に後押しされながら、太刀を振り、錣を取る型が続きます。
景清が謡の能でありながら、唯一身体全身で動きを見せるところはこの段だけです。ここにも演者には細かな伝承がいくつかあります。
杖をつかなければ動けない者が、思わず杖無しで動いてしまう、その演技には細かな裏打ちされた教えがあります。
例えば、右手に持っている太刀を見る場合は、右を見ずに、わざと左に顔をそらします。掴んだ錣が切れた途端に、足の動きは順でなく、すべて逆の動きをします。
左へ動く型は常は左足から動かすのがルールですが、わざと逆足の右足から出て不自由さを見せます。逆の動作は自然ではないので動きにくく、稽古を重ね慣れるしかありません。そして先人の舞台をよく見て身体で覚えるしかないのです。いろいろな先人の方々や父のを参考にして勤めましたが、今ふり返ると上手く出来たところもあれば、やり直したいと思うところもあります。
昔語りを終えると、父景清は娘にもう帰れと促します。
最後の別れの場面です。『景清』については、父からたくさんの事を教えてもらいましたが、中でも最後の人丸を抱いて見送るところ「さらばよ止まる」とツレの背中を押して別れる型は、地謡の「さらばよ止まる、行くぞとの・・・」と父・菊生の左手がツレを勤める私の背中を強く押したあの感触を今でも忘れません。
強い、のですが、しかしそのタッチは柔らかでした。
「背中を押したら、すっと一の松まで行って、ふり返って、最後はシオリをしながら謡に合わせて幕に入れ」が、父の最初の教えでしたので、今回もそのように息子にやってもらうことにしました。
能の伝書には細かなことは記載されていません。このような場面の動きは演者の感覚、意識に委ねられ自由です。
さて、この「すっと一の松まで」がむずかしいのです。運ぶ(歩む)速度が速過ぎては荒く雑に見え、遅くては景清が「もう行け!」と押した効果が上がらず、涙に繋がりません。さて、どのように息子に教えたらよいのだろうか。
自分を振り返ると、「遅いよ」「速過ぎだよ」とご注意を受けたことはありませんでした。きっと上手くこなしていたのだろうと、自惚れていたのですが・・・。よく考えると、私は父の押す力を受け、それに委せて運んで(歩んで)いただけ、と気付きました。
私がほどよい力で息子の背中を押してあげればよいことなのです。
最終場面の最後、明生景清がどのように尚生人丸の背中を押すかが見どころですと、ご案内させて頂きましたが、今回は少々力が入り過ぎて叩き過ぎたようです。
後日「押し過ぎだよ」と尚生人丸に言われてしまい、面目ない明生景清でした。
まだまだほどよく押せない力不足を反省しています。
今回の『景清』は息子・尚生との初共演で、しかも親子の役でしたので、二人で稽古を重ねられたことも嬉しいことでした。「尚生は、まだまだ」と辛口の批評も仕方無いと思いますが、年齢と経験を計算すると十二分に勤めてくれたと、私は評価しています。
父の『景清』の披キ(昭和45年 第10回粟谷兄弟能)は40代後半のことでした。その後、昭和49年、55年と続き、生涯で28回の『景清』を勤め、『景清』は菊生の十八番でした。私はそのうちの9回にツレを勤めました。晩年の菊生の『景清』をご覧になられた方は多いと思いますが、昭和の舞台を観ておられる方は、もうそう多くはいらっしゃらないかもしれません。
私が規範としているのは昭和の、父が5,60代のころの『景清』です。溌剌として老いと盲目を真似る父の芸に憧れていました。
晩年「なんだか最近演る『景清』は自分の素のまんまでやれちゃうが…。それがいいんだかどうだか…」と、こぼしていたのを知るのは、たぶん私だけでしょう。
そのような裏側まで知った上で、意識して真似しない部分もありましたが、基本は父の『景清』の真似、これは紛れもない事です。
先日、「10年後に、また親子共演を観たいものです」とご覧になられた方が仰しゃられたので、「いや親子で9回はやりたいから、3,4年後にまた再演しますよ」と答えてしまいました。本当にそうなれば、そうしたいと思っています。
(平成24年3月 記)
写真提供 粟谷明生 撮影 青木信二
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