『満仲』ゆかりの地を訪ねて

謡曲『満仲』ゆかりの謡蹟めぐりをしてきました。
能『満仲』の物語を簡単に紹介します。
源氏の祖、多田満仲は仏心篤く、我が子美女丸を僧侶にすべく中山寺に預けますが、武門の血筋を引く美女丸は僧侶になることを嫌い、ひたすら武芸に明け暮れています。父満仲は怒り、重臣藤原仲光に美女丸を手討にするように命じます。しかし若君に刃を向けることが出来ない仲光は我が子の幸寿丸を身代わりに殺し美女丸を叡山に逃がします。
仲光は偽りの美女丸の最期を満仲に伝え、自らは暇を願い出ます。そこに比叡山の恵心僧都が美女丸を連れて満仲に面会に来ます。満仲は幸寿丸を殺しながら、生き永らえている美女丸を強く叱り自ら手討にしようとしますが、恵心に諭され美女丸を許し、仲光もまた主君に仕えることになります。喜びの酒宴となり、仲光は舞を舞い、美女丸の仏道修行を励まし見送りますが、仲光の心の中には幸寿丸への思いが深く残るのでした・・・。

満仲公から義家公までが多田神社に祭られていますので、ここで御祭神の御事蹟を紹介しておきます。
源 満仲公(人皇56代清和天皇の御曾孫多田満仲は24歳で源姓を賜り源満仲と名乗る。86歳没)
源 頼光公(満仲長子。土蜘蛛退治、大江山、伊吹山鬼賊退治で武勲を立てる)
源 頼信公(満仲四男)
源 頼義公(頼信長子 前九年の役に武勲を立てる)
源 義家公(頼義長子 前九年の役、後三年の役に武勲を立てる)
美女丸は出家して源賢となりますが、満仲の五男ともまた四男という説もあります。

では、写真をご覧になりながら探訪をお楽しみ下さい。
(撮影  平成19年11月10日 粟谷明生)

阪急宝塚線、中山駅下車徒歩2分、駅前から門前町らしい賑やかな道を行くとすぐに中山寺(なかやまでら)山門です。

広大な敷地は昔からこの寺が繁栄していたことを想像させてくれます。
美女丸は最初にここに入山しましたが、経を読まずに武芸に没頭していたようです。
近年改築されて急な階段の横にはエスカレーターも設備され、お年寄りに配慮されています。食堂もハイカラで綺麗、思わず休憩したくなります。
阪急宝塚線、雲雀丘花屋敷駅下車阪急バスで15分ほど坂道を上がると満願寺停留所があります。下車し進行方向右手に満願寺があります。間違い易いのでこの立て札を探して下さい。
バス停留所から2分ほどで白壁造りの珍しい山門が見えます。
山門を過ぎ、参道を下ると本堂神秀山・満願寺本堂が見えます。
美女丸は出家して源賢僧都となりここに入山します。
満願寺は、満仲が摂津守となった時に、源氏の菩提寺となりました。
本堂左手奥に幸寿・美女・仲光の墓があります。
墓を近くで見るには狭く急な階段を6、7段上がらなければなりません。ご高齢の方は遠くからのお参りをお薦めします。
本堂右手奥に坂田金時公の墓があります。
源頼光は渡辺綱を召して上総の国に向かう途中、相模の国足柄山で幼名金太郎(坂田金時公)を見つけ主従の契りを結びます。金太郎の母が山姥だという説がありますが、私は能『山姥』とはどうしても結びつきません。
急宝塚線、川西能勢口駅で能勢電鉄に乗り換え多田駅下車、徒歩20分ほどで多田神社に着きます。今回は能勢口駅よりタクシーを使い、多田神社から小童寺を周りました。
猪名川を渡ると多田大権現と書かれた山門があり、そこにかかる源氏ゆかりの神社らしい笹りんどうの紋が象徴的です。
鳥居右手に宝物殿があり、源家の宝刀鬼切丸や昔をしのぶ甲冑が見たかったのですが、生憎閉館されていました。
小童寺は能勢電鉄、山下駅下車徒歩20分ほどですが辺鄙なところにあります。今回は多田神社から小童寺までは車を利用して10分ほどですみました。御参拝は車利用をお薦めします。
小童寺は川西市西畦野1-8、判りにくい場所です。急坂な石段を登るとお堂があります。
本堂は閉まっていて人もなく、左手には小童寺の縁起が書かれていました。
本堂裏手に幸寿丸を中心に右に美女丸、左に藤原仲光の墓があります。
幸寿丸の墓は今でも上に幸、右下に壽、その左に丸と刻まれているのが確認出来ます。
源頼光の四天王といわれた渡辺綱・ト部季武・坂田金時・平井保昌の墓(左から)があります。能楽師は「貞光、季武、綱、金時」と謡い馴れているため碓井貞光が眠っていないのが気になりますが、ここでは保昌が眠っています。保昌は『土蜘蛛』で独武者として登場したり『羅生門』では主脇連として登場します。
何故か、渡辺綱のみ四天王の左に別個に立派な墓がありました。
綱は『羅生門』に登場しますが、四天王の筆頭であったように思われます。
渡辺綱が筆頭と思われる理由の一つにこの小高い所にある御廟が大変立派だということがあります。一つのお寺に御廟とお墓があるのは神仏習合の名残でしょうか。