能『絃上』は喜多流ではこのように書き、「けんじょう」と読みます。この絃上とはそもそも琵琶の名器の名前ですが、いろいろと説があるようです。「玄象(げんじょう)」と書かれる観世流のものは、仁明天皇の御物で藤原貞敏が唐より持ち帰られた楽器らしく、「玄上」は村上天皇のお使いになった琵琶だったそうです(資料提供は宮内庁式部職楽部)。二つとも残念ながら戦争で消失してしまったそうで、現存していません。ですから喜多流の「絃上」はこのどちらにもあてはまらず、当て字のように思われます。
琵琶の種類は現在大きく楽琵琶と俗琵琶に分類されます。楽琵琶は雅楽の演奏に用いられ、俗琵琶としては、盲僧琵琶(荒神琵琶)、筑前琵琶、薩摩琵琶などがあります。平曲の伴奏に使われる平家琵琶は楽琵琶と盲僧琵琶を折衷したようなものになるようです能『絃上』の琵琶は楽琵琶です。楽琵琶は大きいため横に倒して弾きますが、俗琵琶は形が小さく縦にして構えるものもあるようで、両者は弾き方も異なります。
喜多流の『絃上』では琵琶は作り物として登場しますが、本来は前場の「絃上」に本物の琵琶を使用し、後場での「獅子丸」(これも琵琶の名器)は作り物を使うようにと伝書にあるようです。今回の『絃上』(平成11年9月16日 シテ高林白牛口二氏)は国立能楽堂の協力を得て、琵琶演奏家の田中之雄氏から楽琵琶を拝借することで、本来通りの舞台が実現しました。私もツレ藤原師長を勤めることで、あの重く大きい楽琵琶をこの手に直に触れることが出来幸運でした。
師長という役柄上、床几にかけ琵琶を持ちますが、やはり弾くときは床几から降りて下に居て弾いた方が落ち着くように思いました。あのずっしりとした重みのある琵琶を床几にかけて弾くのは少々景色が悪かったように思えますが、ずり落ちないように必死に抱きかかえたことは、良い思い出になりました。
琵琶を弾くために本物や作り物を用意するなど、前場は謡と型がよく合っていて、当てぶりな具体的な所作なども多い演出となってます。師長が塩屋を出ていこうとする場面でも「忍びて塩屋を出で給えば」と謡って、脇座にて後ろに向いて座り、出ていくことを見せるやりかたも分かり易くなっています。
一般にお能では、例えば『経政』や『蝉丸』で琵琶を扇にて表現するように、本物を使う、あるいは当て振りな表現をすることは少ないのですが、今回のように、伝書通り思いきって本物を使うのも面白いと感じました。
琵琶の道を極めんと入唐渡天を志す藤原師長を、思い止まらせるために老人夫婦として須磨の浦に現れ、琵琶と雨の音を調和させるすばらしい演奏を聴かせる村上天皇(シテ)は前場では素性を明かさず、宿を提供する老夫婦として師長に琵琶の演奏を所望します。
師長が琵琶を弾くくだり、「恋い侘びて泣く音に紛ふ浦波の 思う方より風や吹くらん」と謡い、琵琶を奏し始めると、にわかに雨が降り始め琵琶の音をかき消してしまいます。老人(村上天皇)は板屋根に苫を葺いて、甲高い雨の音を和らげる心づかいをみせます。この場面で森田流の笛は真の会釈(アシライ)笛を吹きます。最初の師長の謡いに合わせ双調の呂、地謡の上歌の琴の言葉に合わせ黄鐘の高音、雨という言葉に合わせ盤渉中の高音とそれぞれ三調をアシライで吹かれるのですが、琵琶,琴、雨を表現しとても良い演出で、今回、京都の杉市和さんは情感豊かに吹かれ、演者の私も思わず聴き入ってしまい、味わい深いものがありました。
雨に対する心づかいに、師長はこのふたりはただの老夫婦ではないことに気づかされますが、さて、しての村上天皇はどのような人物なのでしょうか。
平成八年の、演能に当たって調べた事を掘り起こしてみました。村上天皇は醍醐天皇を父として14番目の皇子として生まれたため、ほとんど皇位継承権は期待出来ず、政に関心を持つより、ただただ琵琶を弾き毎日優雅に遊ばれていたようでした。ところが、次々に兄弟が病により亡くなると、急遽皇位につくことになります。それまでは天皇と皇子は琴を弾く習慣となっていたようですが、この村上天皇の御代より琵琶を弾くことになるようです。この特異な生い立ちは能として登場するに十分の題材であったと思われます。
後半では龍神に持ってこさせたもう一つの名器「獅子丸」を師長に弾かせ、天皇自らも「絃上」を弾かれ、早舞を舞います。この演出の真意は、「師長、おごる事なかれ、唐に渡らずとも、ここに琵琶の名手がいるではないか」と語りかけるように天皇が師長に琵琶の秘技を伝授する様子を表現しているように思われます。
しかし、現状のままの早舞をご覧いただくだけで、観る人にこのことを理解していただくのは、やや辛く無理があるように感じます。
前場とのバランス(当て振り的なものが多い)を考えれば、例えば早舞の間、師長が伝授されている風情で琵琶を弾く型をするとか、また梅若六郎氏が一度なさった様に、実際に本物で弾いてしまうというのも効果的で、そのくらいのアクションがあっても良いのではと思います。ここのところ、書き物にある 「少ししっかりした位にて舞う也」、とあります。「しっかりした」の解釈にもよりますが、単に伝書の言葉止まりにならず、やはりそこには村上天皇という人物を表現するために、スケールの大きい、力強いダイナミックな舞を基盤に、色々と工夫を凝らすことが出来るのではと思います。次回には何か工夫してみたいと思っています。
また最後の舞台上の役者の動きの処理も、喜多流では師長が龍神に引かれてゆく動きですが、龍神がしてを先導してゆく風情を大事にするならば、他流のように師長が『須磨の帰洛ぞ有り難き』と最後に止め拍子を踏んで一曲を終えるのもよいのではと思います、またいつか機会があれば勤めてみたいものです。
1999/10月記
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