粟谷 明生
7月の終わり(平成12年7月28日)に青森市の外ケ浜で薪能『船弁慶』を勤めました。薪能といっても最近は主催者や会場の都合で屋内で行うことが多くなりまして、今回も屋内の会場に薪が置かれる程度の演出でした。
『船弁慶』の子方(義経役)は20回勤めていますが、シテを演じるのは3回目です。今回は義経を子方でなく、ツレ(大人)で演じることになりました。
結果は、やはり義経は子方でなければということです。『船弁慶』は観世小次郎信光の作で、大衆的で見せ物的な華やかさ、おもしろさがふんだんに盛り込まれています。信光の作品は『安宅』『紅葉狩』『道成寺』などにみるように、どれもエンターテイメントに徹しているところがあります。観阿弥、世阿弥、金春禅竹などの幽玄美とは趣を異にし、おもしろ味のある作風であると思います。
舞台が始まり、まず最初にかわいい子方が側次(そばつぎ)や長絹に大口袴という扮装に梨打烏帽子や金風折烏帽子を付けて登場する、これだけで観客の視線は子方を先頭とする弁慶達に釘付けになるでしょう。子方にはこのような魅力があるのを計算に入れて信光は創作していると思います。
『安宅』も山伏姿の子方が先頭に立ち、シテの弁慶はじめ9人もの家来をつれての登場です。『紅葉狩』の場合は煌びやかな遊女達が次々と登場し、『道成寺』はあっと驚くような大きな釣鐘が大人数で舞台に運ばれてくるなど、信光らしい舞台の幕開きが印象的です。しかし何といってもかわいい子方の登場に勝るものはないでしょう。
義経を子方にするのは、舞台上でシテ(静御前や知盛)と脇(弁慶)の関係にもう一つ義経という大きな存在(大人の義経)を入れて、舞台の焦点が散漫になるのを避けるためと、シテをよりクローズアップさせるためだと思います。とりわけ曲名にもなっている脇の弁慶は、シテと繋がりを持ちながら型の動きが多く大活躍します。このような中で義経を子方にして全体のバランスを考えたのは信光の工夫のたまものと思うのです。
今回演じて感覚的にそのことが理解できました。例えば前シテ(静御前)が序の舞を舞いながら別れを惜しむ場面で、義経役に髭が生えた大人が座っていたのでは何か生々しい。かわいい子役の義経を見て泣くからこそ哀れが出て、説得力が生まれ判官贔屓の気持ちになるような気がします。能を初めて観る人や外国の方などは、義経が子方だというので驚かれるようですが、能舞台上では義経は大人ではだめで、子方でしかも小さい子供であればある程良く、これが能の世界での巧みなトリックなのです。
前シテが静御前で後シテが平知盛、この何の関係もない両者を、一人のシテが演じ分けるという大胆なことを、能ではやらせてしまい、能楽師はそれを平気でやってしまうおもしろさがあります。「前と後と役柄が違うのによくできますね」という質問を受けることがありますが、私はこう答えています。「船弁慶のお能のお稽古の前の段階で、先ずクセの仕舞、次に前場の舞囃子のお稽古、それが出来ると薙刀の持ち方から始まり後場の仕舞、後の舞囃子と進んで行き、面白いのはここで一段落して能の稽古となるまで時間があることです。しばらく時間が経ってさあ能の稽古となり最後に全部繋ぎ合わせ補充して出来上がる、つまり部分部分の修練から成立っているため、抵抗がないのです」と????。
一般の方は能『船弁慶』から始まると思われるから、難しく考えてしまうのかもしれません。ですから『天鼓』の様な前シテの老人と、後シテのその子供という役設定も全く気になりません。実際、部分から入り最後にお能を仕上げる教え方が良いのか悪いのか、わかりませんが、近年の喜多流はこのやり方を通してきました。
薙刀を使う能は、よく演じられるものとして『船弁慶』『熊坂』『橋弁慶』『巴』の四曲があります。『橋弁慶』の薙刀は悪僧武蔵坊弁慶が振り回す荒々しいものです。『熊坂』も盗賊の大将として同じように荒々しさが出れば良いでしょう。『巴』は女性が持つ珍しいケースで、薙刀さばきは美しく、華麗にしかも切れ味鋭く女性的な味わいが要求されます。
『船弁慶』知盛の場合は「桓武天皇九代の後胤」と仰々しく名のり出ますから、それなりの威厳があるものでなければならないと思います。薙刀はもともと僧兵や雑兵が、騎馬武者の馬の足を切って打ち倒すための武器で、平安時代武士同士が名乗り合って戦うときの武器ではありません。南北朝時代以後上級武士も愛用したらしいですが、敢えて知盛に薙刀を持たせたのは、華やかなショーを演出する一つの小道具になるように信光は考えたのではと思います。
知盛の薙刀のイメージを、父菊生は、義経主従に襲いかかる荒波を作り出すのだと言います。『船弁慶』の薙刀は『巴』のような華麗な切れ味のものでもなく、『橋弁慶』や『熊坂』のように荒々しさだけでもいけない、もっともダイナミックで、威圧的な薙刀扱いが出来なくてはと教えられてきました。この区別を上手に演じないと、「あれは知盛になっていないね」「巴御前でもあるまいし」などと言われるのです。
この薙刀を使う「後の仕舞」で思うことがあります。この仕舞、内弟子時代はなかなか実先生(先代宗家)のお許しがでないのです。ですからお許しが出たときは、何か自分の芸のランクが上がったようで、同時に自分自身が大人になった、大人の仲間入りができたように思えて嬉しくなり、大いに喜んだことを思い出します。
この仕舞を子供が舞ったのを見たことありますが、実先生がなかなか許可なさらなかったのが判りました。大人の身体になっていない坊やが舞うと、『船弁慶』の仕舞にならず、似合わず滑稽になってしまいます。そして不思議にその子自体の美しささえなくなって見えてくるのです。知盛という大きい像が、大人の標しとしての体毛の生え揃っていない幼い肉体を受け付けないように思えます。
子方の頃、後シテの演技の迫力に、本当に怖いと感じていました。今度は自分がシテとして知盛を演じるのですから、子方が怖いと思うほどの威厳のある薙刀さばきをし、迫力ある演技をしなければ子方に笑われてしまいます。後半のクライマックスにシテが薙刀を振り上げ、義経に襲いかかった後、子方に薙刀を払われよける型があり、上手くやらないと、本当に子方の首をはねてしまう危険な箇所があります。ここばかりは子方に怖い思いをさせてはいけません。
昔、この場面で心得た薙刀扱いをしないと、父が「うちの子を殺す気か」と演者に怒鳴り、「こうやるんだ」と真剣に教えていたことをよく覚えています。私も自分の子供がそんなことになったら、父のように注意出来るようにと思っています。この3月、父のお弟子さんが『船弁慶』をやられ、息子の尚生が子方を勤めたとき、「ここのよける型は菊生先生に口すっぱく言われていますからご心配なく、大丈夫です」と相手に先を越され、拍子抜けしてしまいました。
子方を勤めてきておもしろい話をひとつ。
子方は自分の台詞や前後の謡を耳から覚えます。謡本を見せられることはありません。それがどういう意味かわからないまま、しばしば違うイメージで勝手に覚えていくことがあります。
たとえば『船弁慶』では観世流の関根祥人さんも同じように間違えていたと笑い話になったことのある「このお船の陸地に着くべきようぞなき」というくだり。陸地と書いて「ロクジ」と読むのですが、子供は「六時」と覚えていて「大丈夫、今五時だから六時には着くよ」と思っていたという話や「いかに弁慶、静に酒を勧め候へ」を、自分は「静に」と言ったのに、弁慶はドタバタと荒々しく酒を進めているなと思った、などいろいろあります。
また「舟子ども・・」(舟子は舟を漕ぐ人々、どもは複数を表す)という言葉。それを聞いたらそろそろ立たなければという合図だったので、私はずっと「舟子供.舟子供」と覚えていて、どんな子供なのかな?、海の近くに住む子供かな?などと想像していました。まったく違う意味であったことがわかるのは大人になってからです。子方を経験してきた者同士で話すと、同じところを同じように勘違いしていることがわかり、おもしろいものです。
子供は謡を耳から覚える時期が必要です。理屈ではなく、感覚的にからだにしみ込ませる。しかし、ある時期からは謡本を全く見せないというのではなく、必要な場面では見せ読ませ、意味をわからせることがあってもいいように思います。また、自分が子方のとき、こんな風に勘違いをしていたということを話して聞かせるのもいいのではないでしょうか。
能の世界の子方は義経という名を背負って成長していくと言っても過言ではないと思います。初舞台の『鞍馬天狗』の花見から始まり子方の牛若丸へ、『船弁慶』『安宅』等の義経を勤め、斬り組みの型の勉強になる『橋弁慶』の牛若丸、そして最後は『烏帽子折』の牛若丸で子方を卒業する、このような修練過程になっています。
長く子方を勤めたから一層感じるのかもしれませんが、義経は「子方でなくては!」とつくづくと感じた舞台でした。長い伝統の中で必然になっていることが、今回も意味あることだと知らされました。
(平成12年8月 記)
(写真1 船弁慶 粟谷明生 平成4年三上文規 撮影)
(写真2 船弁慶 大矢克英 粟谷尚生)
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