『海人』の後場の存在価値

粟谷 明生

喜多流に、私の年齢層が少ないこともあって、私は数多くの子方を勤めてきました。子方のときは、謡の言葉の意味などわかるはずもなく、ただ言われるままに鸚鵡返しに謡を覚え、自分の役割を忠実にこなしていたわけですが、それでも、舞台の一角にいて、先人たちの能をじっと見て、幼いながらも感じることはたくさんありました。

今回の研究公演(平成13年6月23日)で『海人』を勤めるに当たって、私自身が子方の房前の大臣としてシテを見つめていたときの子方の視点が曲づくりの出発点となりました。「メイロコンコントシテ、ワレヲトムロウオヒトナシ・・・・ゲニソレヨリハジウサアネン」と意味も解らず唱えていたときの子方の視点、シテの母親の感情、大臣淡海公と契りを結んだ海女少女(あまおとめ)像を考える前に、子方が母親をどう見ていたかを考慮してみたいと思ったのです。
子方はワキ、ワキ連を引き連れて登場すると、自らを房前の大臣と名乗り、亡くなったと聞かされている母の追善に讃州志度の浦に来たと述べます。そこへ一人の海女が現れ、ワキとの問答となり、海女が昔語りに大臣淡海公が志度の浦に下り、卑しき海女少女と契り、御子をもうけ、それが房前の大臣であると述べると、子方は「われこそ房前の大臣である、あら懐しい海女よ もっと詳しく語りなさい」と、母親と自分を結ぶ手がかりに喜び、自らを名乗って、自分は大臣の子と生まれ今は恵まれているが、気にかかることは「自分が生き残っても母を知らない」と涙します。母親が卑しい海女と知り、今は亡き母と側近から聞かせれているが、「いやもしかするとまだ生きているかもしれない」と願う一途な子の気持ち。シテはこれを受け止める側として十分な意識を持っていなくてはならないと、演技法が少しずつ見え始めてきました。

まず面に関してです。通常、後シテの面は「橋姫」か「泥眼」です。いずれも恐い顔で、とりわけ「橋姫」は『鉄輪』にも使われるように角はないが、怒り狂った鬼女なわけでたいへん恐ろしい顔つきですし、「泥眼」は眼光鋭く、嫉妬や怒りをたたえた『葵上』の六条御息所のイメージが相当強く、慈母の愛などを感じることは難しいものです。「龍女」という特殊な面もあるようですが、これも私の今のイメージには合いません。私が子方として、「どんなお母さんが出てくるのかな」と思いをふくらませているときに「橋姫」や「泥眼」では似合わず、子供心に「なんでこうなっちゃうのかな。こんな気持ち悪い顔がおかあさんじゃ、いやだよ」と思っていたものです。


そこで今回は、後シテの海女・母親像を考え直してみました。房前の大臣の供養により、龍女として成仏した海女。龍女ですから着付けは鱗模様の箔を、頭には女龍を戴きます。(喜多流には今まで女龍がなかったため、男龍に蔓帯をつけて牝であることを表していましたが、今回はやや細身の女龍を 大分の準職分、渡辺康喜氏に作って戴きました。)

からだ全体は龍を思わせますが、面はやはり、珠を取り戻すために海中に潜っていった若い海女少女の母の顔であり、悪魚と戦い死んでいくときの苦悩がにじみでてくる人間味ある顔でありたいと思いました。

淡海公と契りを結び、身籠り、房前の大臣を産んだすぐ後に、珠を取り戻してほしいといわれる少女、しかしこの少女はもう少女ではなく一児の母なのです、我が子の為なら命は露程も惜しくないと言いきれる無限の愛情を持つ母です。この子を世継ぎにするならと身分不相応の交換条件を提示したのは、賎の女では終わらない女の意地もあるかもしれませんが、我が子かわいさ,母親の情以外の何ものでもないわけです。海中深く、命がけの珠取りの行為、それは二度と戻れぬ死への旅路、その思いはどんなものだったでしょう‥‥。珠を目前にして、海上にわが子、父大臣も待っている、しかし自分の命と引き替えにしなければ珠を取り戻すことはできない、決死の覚悟をして手を合わせ、乳の下をかき切って珠を押し込めたときの、若き母親の苦悩が後シテの面に出てこなければ私は納得できないのです。龍女成仏はしていますが、成仏したことへの喜びだけではない表情が必要で、「泥眼」などが使われた経緯も、それゆえだと思うのですが。


今回は、『玉葛』(平成13年2月)でかけた「玉葛女」を使ってみました。眉間に皺を寄せ苦悩を表す増寸髪系の面です。『玉葛』を演じるとき、小面では玉葛の苦悩が表現できないだろうと使ったのですが、玉葛にはもう少し美しいイメージがかもしだされないといけないようで、もっとこの「玉葛女」の面が生きる場面はないものかと思いあぐねていました。今回は試験的にかけてみましたが、観る人にはどのように映ったでしょうか。

 そして、子方のときあっけない幕切れだと感じていた後半の演出にさまざまな工夫を凝らしてみました。よく『海人』は前場が勝負で後場は付け足しのようなもの、なくてもよいぐらいの言われ方をしますが、私はこれには異を唱えたいと思います。流儀内には、前場さえうまく謡い、舞えばよい『海人』になるという傾向、偏見があり、これは我々演者が知らず知らずに陥りやすい落とし穴です。作品の主旨を見失い、各部分の積み重ね、例えば『海人』の場合、一声を謡い、ワキとの問答常の如し、居クセアシライ常の如し、仕舞所玉の段、経を子方に渡し中入、後シテ舞囃子の通り最後にトメ拍子と、これでどうにか対応してしまおうと思ってしまうのです。私も以前は、能を演ずるとき、先輩より拝借した型付けをただ自分の謡本に写し、ここで立つ、右に回るそしてシカケヒラキ、あとは囃子型付け通りと、演能を軽く安易に考えていました。、また不思議にそれでもある程度はできてしまうところがあります。しかしこれでは、自分の一生の仕事たる能、情熱を傾ける能にならない、それより第一、観客にお見せする能にはならないと、今では思っています。


 確かに前半は「玉取りの段」があり、子供のために、珠を取りに海中深く潜り、乳の下をかき切って珠を隠し、息も絶え絶えに、海上に浮かび出てくる仕方話は迫力があり圧巻です。ここに力を入れなければならないのは当然のことです。しかし、勇ましく海女の手柄話をし、子供は立派に大臣になったけれども、親になった早々、子供と死別させられて悲しいと消えていく前半だけでは、やはり優れた作品とはいえず、観る側に物足りなさ、ストレスがたまるでしょう。世阿弥もそう考え後半を付け加わえねばならなっかたはずです、その意味をくみ、私は私なりの工夫で『海人』を作りあげたかったのです。

 能の構成が序破急という導入、展開、解決から成り立っているのに、急すなわち解決なくしてはおさまりが悪いです。能の最後は、余韻を残す幕切れであっても、切れ味が良い終わり方、これは演者の力量によるものですが、これが巧くできなければ作品全体の味わい、充実感が与えられるものではないと思うのです。

 『海人』の後場は大変短いものですが、後場があって、充実してこそ、一曲として成立するのです。海女の霊が母として、龍女として、歓喜、報謝の舞を舞うところまで、充実感あふれる演出が必要です。立派になった子供に会えた喜び、前半に通い合った親子の情が後半も又くっきりと現れていなければいけないと思います。讃州志度寺縁起物語であるとだけで終わったのでは、作品の本筋からは外れてしまうのではないでしょうか。

 そこで、後シテの登場の「出端」(大小太鼓で囃子、笛があしらう)では二段返(にだんがえし)という小書付の演出にしてみました。二段返は、出端を通常二段構成の寸法のものに打ち返す、つまり一段追加して三段にする演出です。この演出は、喜多流では昭和61年に粟谷新太郎が東京式能で金春惣右衛門氏、穂高光晴氏、柿原崇志氏、松田弘之氏で勤めた記録が最も新しくそれ以来となります。
この二段返しは素晴らしく、私の二段返しの構想に大きな力となりました。
二段返しを取り組むに当たり、金春惣右衛門先生や観世流の助川治氏にお教えをいただきました。金春先生にお尋ねしたら「観世寿夫さんとお相手した時は、シテは幕の中で床几に腰掛けていたね。本来は二段目で幕から出て、三の松まで出るんだよ、金春流の主張は上手が集まったときに、囃子方の技を見せるもの」と教えていただきました。助川氏からは「観世流は木魚をたたくような、管絃講の読経をイメージしてと元信先生から教えていただいています。ですから荘重に厳粛に打ち、クツロギはせぬが主張です」と教えていただきました。

このように観世流と金春流での二段返の考え方の違いが解ったのは大きな収穫でした。私は今回、金春先生の「三の松まで出る」を試み、観世流の仏教音楽を奏でるイメージを合わせて演出してみました。

また「出端」の前に、子方の言葉を受けて地謡が「いざ弔はん」と待謡がありますが、ここを今回はワキ方に謡ってもらいました。太鼓の観世元伯さんが、「この出端を打つときが難しい。お弔いの出端なのであまり騒がしく打ってもいけないと思うけれど、五流とも、その前に地謡が大合唱しているので抵抗がある」と言ってくれたのがヒントになり、ワキ方で謡ってもらうのはどうかと宝生閑氏に相談したところ、本来、ワキ方の謡本ではワキが謡うことになっているというので問題無しとすんなりとできました。
そして盤渉早舞(ばんしきはやまい)ですが、今回は「経懐中之舞(きょう、かいちゅう、の、まい)」の小書でいたしました。常は早舞の前に経巻を子方に渡すのですが、経懐中之舞は経巻を胸に懐中して早舞を舞います。大事な経巻を身体に温めその温もりを我が子に渡すとも、また経巻の力により舞い動ける母の霊、手放すときが我が子との別れのしるしともとれる、この演出。そしてクライマックス、舞の最後に子方に経巻を渡し「今この経の、徳用にて」と謡い、子方は高々と経巻を持ち上げる自然で説得力があるこの小書が私は好きです。
これらの演出を通して、後半を充実させ、『海人』という一曲を完結させていく、決して、多くの人が言うところの、前半だけが華ではない、後半の存在価値を見直したところに今回の研究公演の意味があったのではないかと思っています。

(平成13年6月 記)

写真撮影
カラー海人 石田裕氏
モノクロ海人 伊藤英孝氏
中啓 玉葛女 紋大口 粟谷明生

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