『翁付高砂』について


平成15年の宮島厳島神社御神能で『翁付高砂』を勤めました。
御神能(ごじんのう)は毎年4月16日(初日)と18日(三日目)を喜多流、二日目は観世流が担い長い歴史を今に伝えています。初日の番組は翁付脇能に勝修羅物と定められ正式な五番立で演じられます。演目の組み合わせは『高砂』と『田村』、『弓八幡』と『八島』、『養老』には『箙』と決まっています。私が『翁』を披いたのは平成7年の『翁付弓八幡』で、その次は11年に『翁付養老』、今回『翁付高砂』を勤め、これで一循したことになり、達成感を味わっています。

近年、『翁』一曲のみの公演や『翁』だけを勤め脇能は別の能役者が勤める場合もありますが、やはり一人の太夫が翁と脇能の二番を勤めてこそ太夫を勤めたと実感できるのです。

『翁』について
『翁』は「能にして能にあらず」といわれるように、鎌倉時代以降今に伝わる猿楽の能以前に、寺社の行事や祭礼に奉仕する芸能として発生したもので、その形式を崩さず今に継承しています。そのため鑑賞本位の従来の能とは舞台芸術性が異なり、『翁』独自の構成、作法があるのが特徴です。上演時期は正月の初会や祝賀の会で演じられることが多く、そのため私は1月元旦の正月の節目と同様に、4月16日もまた正月に思えます。15日の桃花祭が大晦日、16日の初日を元旦として迎えるようで年の節目を感じるのです。

伝承では翁大夫は「勤める前日午の刻に沐浴し、食物の火を改め別火(べっか)致す事、服穢(ぶくえ)有る者に対面不致」とあり、楽屋は女人禁制がしかれます。とはいえ別火は現在の生活では不可能に近い習慣です。女人禁忌は女性の生理(月経や出産)による穢れを嫌ったもので、女性を不浄と見て聖所や宗教儀礼から締め出す習俗といわれ、私はあまり感心しません。かといって翁を勤める楽屋に女性が行き来しては長い歴史の流儀のしきたりからはずれるので楽屋入りはお断りしますが、女性の作った食事をし、心を落ち着け明日の演能を待つ、今の時代この程度の潔斎で良いように思っています。


『翁』を上演する時は、必ず、楽屋の鏡の間に「翁飾り」といわれる祭壇が作られます。上演前に最上段に白式と黒式の面と鈴を入れた面箱と翁烏帽子が飾られ、下段には洗米、塩、厳島神社は塩の代わりに炒子(いりこ)、盃がのせられ、お神酒が用意されて、『翁』独特の雰囲気となります。
シテは装束を着付け、最後に翁烏帽子を戴き中啓(ちゅうけい=扇の一種)を持ちます。準備が整うと翁飾りの前に下居し、面箱に向かって深々と礼をし、後見よりお神酒をいただいて出を待ちます。続いて出演者一同、まず三番叟、次に千歳から順に、囃子方、地謡方、後見とお神酒をいただき、洗米や炒子を口にして塩があるときはふり、心と身体を清めます。通常は、お神酒をいただく前に後見が切り火を行いますが、厳島神社では火に関しての細心の注意のためか、切り火はしないのが通例となっています。

『翁』の構成は上掛(かみがかり)と下掛(しもがかり)ではその配役が異なります。上掛は千歳(せんざい)の役をシテ方が勤め、別に面箱(めんばこ)を持ち運ぶ専門の役(この役名を面箱と言う)を狂言方が担います。これに対して下掛の喜多流では、千歳(狂言方)が面箱を兼ね、翁太夫(シテ方)、三番叟(狂言方・三番三は大蔵流の名称)がそれぞれ祝祷の歌舞を舞う形となっています。狂言方が千歳の披きを演じる際、下掛でなくてはならない所以はこの仕組みによるものです。

『翁』の様々な特異性の一つに、シテが舞台に出るときには役柄に入っていないことがあげられます。通常演者は楽屋で面を戴き役柄に入っていきます。『高砂』ならば、前場は「小牛尉」(こうしじょう)の面をかけ老人の役になり、後場は「邯鄲男」をつけ住吉の神の役になります。しかし『翁』だけは演者そのものとして舞台に登場し、舞台で面をつけ翁の役となる珍しい仕組みです。地謡や囃子方もその配置や扮装構成までも『翁』独自のものとなります。扮装は囃子方、地謡方、後見方、みな素袍上下に侍烏帽子を着用して最高の礼装にて勤めます。地謡は常の地謡座ではなく、囃子方の後方の後座に座り謡います。これは今のような地謡座がなかった舞台の名残だそうです。囃子は小鼓のみ三人の連調という珍しい形となります。小鼓方は奏者が正面見所に向い、幸流では中央を頭取(とうどり)、右隣を胴脇(どうわき)、左隣を手先(てさき)と称し、位も頭取、胴脇、手先の順となります。

小書きは他流にはいろいろあるようですが、喜多流では白式(装束や揚げ幕までが白一色になる特別演出)のみで、型自体は通常と変わらないので、『翁』の型は一通りのみとなります。
面箱を両手に掲げた千歳を先頭に、シテ、三番叟、囃子方、後見、地謡と、みな橋掛りから登場します。通常、橋掛りの真ん中は歩まないのが能役者の鉄則ですが、『翁』のみ特別に真ん中を歩むものとされています。千歳が目付け柱近くに下居すると、シテの翁太夫は舞台正面先に出て下居して深々と礼をします。一見正面席の方々にお辞儀をしているように思えるこの動作、実は上空の北極星を見上げ、そして舞台正面先に神のよりしろとされる我々の目には見えない「影向の松」(ようごうのまつ)に礼をしているのです。

シテが着座し面箱が置かれると出演者は所定の位置に着座し、まず笛の音取がはじまり、小鼓三調との演奏となります。シテの「どうどうたらりたらりら、たらりあがりららりどう」と呪文のような謡がはじまり、まず千歳が勇ましい千歳の舞を披露します。シテは千歳の舞の途中で白式の「翁」の面をつけ、舞台中央でご祈祷の謡を謡い翁の舞となります。翁の舞は右手に中啓を広げて高く掲げ、天(てん)、地(ち)、人(じん)と目付柱、脇柱、大小前にて特別の拍子を踏む舞で、最後に万歳楽(まんざいらく)と唱和して終わります。

シテは元の座に戻り面を外し、また正面先にて礼をし、翁帰り(おきながえり)といわれる特殊な退場をします。
通常シテが幕に入るときは後見が幕内でうける(礼をして演者を迎える)習慣ですが、『翁』にかぎり幕入りする大夫を次の脇能を勤める脇が装束姿で迎えます。

今迄出番のなかった大鼓はシテが幕に入ると床几にかけ、揉みの段を囃し、三番叟の出番となります。直面で大地を踏む揉みの段、続いて、千歳より鈴を手渡され「黒式尉」の面をつけて種まきをあらわす鈴の段となり、五穀豊饒を祝い舞います。農耕儀礼の芸能化といわれる『翁』の演能時間は一時間ですが、シテより多い時間、舞台の大半が狂言役者の躍動的な舞となるのも特徴の一つだと言えます。

『高砂』について
「高砂の松の春風吹きくれて、尾上の鐘も音すなり」、これは能『高砂』の真之一声といわれる出囃子でのシテとシテツレの連吟の謡です。

この謡の詞章から読み取れる場所、季節、時刻はと問われたらどうでしょう。答えは、季節は早春、場所は兵庫県高砂市、時刻は夕刻で、語意は「高砂の松に春風が吹き、日も暮れかかり、尾上にある寺の鐘も響いてくる」です。私はどうしてもこの謡に夕刻を意識しにくいのです。

厳島神社御神能は初日と二日目は翁付で始まる旧来の本式番組で朝9時より始まります。翁や脇能は、燦々とした朝日を浴び、すがすがしい気持ちで午前に演じるものと思い込んできました。能に限らず演劇は時間や場所を超越して演じるものとは承知しながらも、この真之一声での夕刻を謡う謡にどうしても少しの抵抗感を覚えてしまいます。奉納する役者は、屋外で朝日に照らされ爽快な気分で勤める、こんな厳島の習慣にすっかり慣れ親しんできたためです。

今回、能には詞章を越える役者の気分、心模様があるだろうと演じたのですが、演じるまではこれではいけないのではと答えがでませんでした。しかしなにはともあれ、演じてみて、翁と脇能は朝一番でなければと、確信しました。とりわけ厳島神社の御神能はこうでなければ・・・、詞章とは違ったこの感覚が抜けないのです。

『高砂』は本脇能ともいわれ、夫婦和合、寿命長遠、国土安穏を寿ぐ能で世阿弥作とされ、古名は相生といわれていました。

物語は、九州阿蘇の宮の神主友成が播磨の国高砂の浦に立ち寄ると老人夫婦が現れ、松のめでたさと相生(相老)の夫婦の情愛、和歌の徳をたたえるところから始まります。夫婦は実は高砂・住吉の松の神であると告げ住吉で待つと小舟で沖へ出てしまいます。神主友成が住吉に着くと住吉明神が出現して御代を祝福し、春浅い残雪の住吉の景色を描き軽快に颯爽と神舞を舞います。最後は「千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命を延ぶ、相生の松風、颯々の声ぞ楽しむ、颯々の声ぞ楽しむ」の祝言の謡で留めとなります。

『高砂』の老人夫婦は今でいえばさしずめ別居結婚の形です。尉(実は住吉明神)は現在の大阪府の住吉に、妻の姥(高砂明神)は兵庫県の高砂に国を隔て住んでいます。互いに距離を置きながらも心は通い合っている、いや遠くに住んでいるからこそ新鮮で相生(相老)の夫婦となる、通い結婚のすばらしさでしょうか。なんとも進歩的なうらやましい神様達です。

脇能の前シテは尉ですが、この尉は喜多流に限らず老いを前面に押し出すようには演じません。謡も型も溌剌と力強さとスピードをもって神の化身を表現します。だらだらと謡うべたついた謡、よたよたとした老いの運びなどは脇能の世界には似合いません。クセの中の型どころに面白い言い伝えがあります。「掻けども落ち葉の尽きせぬは」と杉箒で左へ二つ、右へ一つ落ち葉を掻き寄せる型をしますが、これは幕府時代の大禮能の秘事の名残で、長久の久の字を逆さまに書いて演じたとされています。このような型や中入り前の「蜑の小舟に打ち乗りて」と小舟に乗る型などいずれも、力強く硬質に演じるように伝えられています。総じて脇能の尉は直線的で衒いがないのが第一、あくまでも荘重が心得との教えです。

少し能からは外れてしまいますが、中入りでアイとの問答の後に謡われる待謡。「高砂やこの浦舟に帆をあげて、月諸共に出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり」は結婚式で謡われていますが、本来は新郎が新婦花嫁の着座を待つ時に迎え入れる心で待謡として謡われ、これからの二人の門出を祝したようです。このときは特別な作法があり、返し(同じ言葉を繰り返し謡う)の「この浦舟に帆をあげて」は二度目となるようで悪いというので謡わず、また「出で潮」の出るも縁起が悪いと「入り潮」や「満ち潮」に言葉を変えて謡うのが礼儀とされています。

話をもとにもどします。

後シテは初日に限り、七五三二一(しちごさんにいち)といわれる正式な寸法の出端で登場します。面は江戸時代の初期には「平太」や「怪士」を使用していたようで、最近でもたまに「三日月」をつけるのはこれらの名残のようだといわれています。現在は「邯鄲男」をつけるのが当たりまえのようになっていますが、本来この邯鄲男は名の通り『邯鄲』のシテ、苦悩する中国・蜀の国の青年廬生を表現して打ったものです。従兄弟の能夫はこのふくよかさを持つ「邯鄲男」を日本の神能に採用した当時の役者の芸術センスのよさに感服すると言い、私も同感です。

今回は御神能執事の出雲康雅氏にお願いして厳島神社所有の珍しい「神体(しんたい)」を出していただきました。以前よりいつかつけたいとの私の念願が叶い、よい記念となりました。「神体」はその名のとおり脇能、特に『高砂』に似合うのではと思い使用してみました。形は面長で目に金環があり、鼻がきりっと高く彩色はやや赤みがあり、一見西洋人かと思われる独特の顔です。近くで見ると凛々しさがあり、迫力を強く感じる面ですが、面長な形が私に合わないのか、私の技量不足でしょう、演じた結果、私としてはやはり「邯鄲男」に軍配が上がるように思えました。

『高砂』の小書きは各流様々にありますが、喜多流では真之舞、真之掛之舞、祝言之舞、真之留、颯々之留があります。真之舞は神舞の初段に達拝(たっぱい=立ちながら拝む動作の型)をします。真之掛之舞は掛(かかり)の段が延びて掛で達拝をします。これらは、舞のはじめは必ず達拝をするというきまりがありながら、『高砂』では「二月の雪、衣に落つ」と神舞の前に左袖を見る型があり達拝ができないので、どこかに達拝を入れようとする儀礼重視の工夫です。祝言之舞は二段目のオロシに左袖を卷く特別な型が入り、片手で中啓を持ち変える難儀な型があり上演機会は少ないです。真之留は終曲に通常二つの留拍子を三つ陽の拍子として踏むもので、颯々之留は「颯々の声ぞ楽しむ」と左右シトメをして留拍子となっています。何れも儀礼的要素が強く、芸術的な演出効果を狙った小書とは異なるものです。

後場の見どころはなんといっても颯爽としたスピードあるダイナミックな神舞です。この神舞をどのように舞えるかが能楽師にとっての課題です。非常に速いスピードある囃子の演奏に負けない舞の技術と共に風格をも兼ね備えることが必須です。私の経験から、まず脇能は『弓八幡』からはじめ、次に『養老』、最後に『高砂』を勤めるのがいいと思い、幸い私の場合は丁度その順番になったのは恵まれていました。

中学から高校時代、先代宗家喜多実先生に舞囃子のお稽古を受けたとき、まず『弓八幡』、そして『養老』、となかなか『高砂』の名前は出ませんでしたが、最近その理由がわかりました。舞囃子でさえ若造の『高砂』は似合わぬということだったのでしょう。そのためか時が経ちお許しがでた時の喜びは一入でした。演目には若く元気溌剌ですむものもあれば、それだけでは叶わぬものもあります。『高砂』はそのような曲なのです。能楽師は青年時代の修業を経て、徐々に神体らしい気品と力強さと爽やかさを兼ね備えることを目標とします。これは言うは易いのですが、どうしても時間がかかるものです。力強さが単なる粗鋼、荒々しい喧騒に止まってしまうだけではいけないという体験を経て、力強さと幽玄の調和の美を現出する、これが神能の真髄と思います。

今御神能の翁付脇能は執事出雲康雅氏が各年、その間を従兄弟の粟谷能夫と私で交代に勤めています。来年が出雲康雅氏、その次が粟谷能夫となり、私の出番は4年後ということになります。はるか先の4年後などと思っていても、時間がたつのは早そうです。今を大事により良い演能に精進しようと、この節目の今回の翁付でまた志を強く持てたことが良い経験となりました。

写真
翁            撮影 牛窓正勝
翁飾り(喜多能楽堂にて) 撮影 粟谷明生
高砂、前、後       撮影 石田 裕

(平成15年4月 記)

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