粟谷 明生
今年(平成15年8月31日)の秋田県協和町のまほろば能公演で『弱法師』舞入を勤めました。
『弱法師』は第二回粟谷能の会研究公演(平成四年六月)で初めて勤め、今回は十一年ぶりの二回目です。私はこの曲が大好きで、どうしても早く演じたいと思い、それがために、自分で演じる曲を決められる個人の会、粟谷能の会研究公演を発足したと言っても過言ではありません。
『弱法師』は若年では難しいという演者側の意識か、私がまだまだ未熟だったのでしょう、研究公演旗揚げの第一回では『弱法師』のお許しは出ず、まずは体を動かす曲を勤めてからでもいいだろうという父の言葉に従い『熊坂』を勤め、その翌年の二回目の研究公演で念願が果たせたという経緯がありました。『弱法師』を若年には披かせないという現場能楽師の意識は判ります。曲としての品位、悲境の身を嘆きながら、一面風流に心を保つことの重要性を思うとそういう結論になります。
しかし単に若年では叶わないと決めつけるのではなく、演じられそうな技量がある人間がいて、そこに精神性があれば、大人は積極的に場を与え、若い演者はそれに応えていくべきではないでしょうか。『弱法師』はそういう積極性を必要とする曲だと思います。大人になれば自然と淡々として出来る曲というものではないようです。不遜な言い方ですが、『弱法師』という曲に歯が立たない演者を見たとき、若い時分に演じていればこのようにはならないのでは・・・などと思うことがあります。
生意気だとお叱りを受けるかもしれませんが、私の正直な感想です。年を経ぬ者は演じてはならぬと頭から拒絶する方法論の犠牲者かもしれません。しかしそれは演者に責任があるのか、さてどちらに落ち度があるのでしょうか。
能『弱法師』は、父、高安左衛門通俊の後妻の讒言により、父に捨てられ、悲しみのあまりとも、流浪の果てにとでもいうか、やつれ盲目となり乞食として生きるしかなかった孤独な少年俊徳丸の悟りと諦念、そして法悦を描いています。初演の時はそういう精神性以前に、それまでに経験できなかった「盲目の杖」、その扱いの習得が私の念頭にありました。
喜多流の修業過程では、まず扇で舞うものから入り、次に扇以外のものの習得となります。扇以外に扱う道具としては、羯鼓の撥、長刀、杖などがあり、それぞれ難しいものとされています。段階としては、まず羯鼓での撥の扱いがあり、次に『熊坂』や『船弁慶』『巴』などで、長刀の使い方を覚えます。そして『藤戸』や『烏頭』などで使う「突く杖」、また『是界』『鞍馬天狗』『山姥』などで「鹿背杖(かせづえ)」という、T字型の持ち手がついている大型のものも習います。こういう扇以外のものを使うのはそれ相当の練習が必要で簡単に習得できるものではありません。それよりもう一段階上にあるのが「盲目の杖」だと思います。
「盲目の杖」と呼ばれるものは『望月』のツレ(母)や『蝉丸』のツレ(蝉丸)、『景清』にも使われますが、『望月』は構えをするだけ、『蝉丸』のツレも『景清』も終始杖を突くわけではないので、技を駆使する究極は何といっても『弱法師』の杖ということになります。
この「盲目の杖」は見た目には簡単に見えますが、実際やってみるとなかなかどうして難しいものです。面をかけて視界が狭められると、杖の先が見えず、すると手首の癖も出て、どうしても左右どちらかにずれて突いてしまい、身体の正面中央に綺麗に突けません。これは経験、稽古によって習得するしかなく、早めに手がける必要があります。このようなことも若いうちにという根拠になるのです。
では舞台進行に合わせて感想を述べたいと思います。
シテの一声からサシコエ、下げ歌、上げ歌とまずシテ謡の聞かせどころがあります。
私はサシコエの一部分が気になっています。「それ鴛鴦の衾の下には立ち去る思いを悲しみ、比目の枕の上には波を隔つる憂いあり・・・」という『砧』にもある一文は、夫婦の別れの酷さを謡っています。
世阿弥自筆本では、シテ俊徳丸にはシテツレとして俊徳丸の妻がいて、最初に一緒に登場します。ワキは天王寺の住職でワキツレとして従僧も出て、父の通俊はシテツレまたはワキツレという位置づけです。時正の日(彼岸の中日)は日想感を拝もうと大勢の人々が天王寺の境内に集まったようですから、その様子を表すには舞台に大勢の役者が上がっていることが必要だったのでしょう。
しかしこの演出は江戸時代にはすでに廃れ、現行のシテの俊徳丸、ワキの父・高安通俊、アイ通俊の供人の三人だけに絞り込んだ形と変わっています。天王寺の群衆のざわめきやにぎわいも必要でしょうが、作品のテーマは俊徳丸という悲惨な運命を背負った少年の達観した孤独感と超俗的な悟りの境地、しかし実はそれらへの葛藤であり焦れだと私は思い演じています。これらを際立たせるには、やはり俊徳丸は一人で出なくては成立しません。
「弱法師の奥さんを出すなんて言語道断、奥さんが弱法師の手を引いて登場しては強法師になってしまう」とは、白洲正子氏の弁です。
今回サシコエを削除して謡ってみようかとも思いましたが、後半の「今また人の讒言により、不孝の罪に沈む故、思ひの涙かき曇り、盲目とさへ成り果てて」を謡わなくては盲目の身となった経緯と嘆きが消えてしまいます。今後対処を考え、いつか新たな試みをしたいと考えています。
三の松から二の松、一の松と橋掛りを歩みながらの上げ歌は天王寺への道行きです。中国の高僧、一行がやはり讒言によって果羅の国に流されたが、九曜の神々が行く道を照らしてくれたと謡い、天王寺の石の鳥居のところまで来るもので最初の見せ場です。
型は常座に入るとシテ柱を石の鳥居と見立て、杖を舞台の縁に当てながらシテ柱を探り当て、カチと叩いて「石の鳥居、ここなれや」と謡います。いろいろな方々のこの場面を拝見してきましたが、やはり私は父のが心に残っています。探り当て、右足を引きながら、右手をグーッと上げて柱を確認する、その時顔は反対方向に向ける、ここが味噌で、いいところです。盲目の人は耳で見る、見たいところに顔を向けるのではなく耳を向けるのだ、が父の口癖です。
今回は時間の制約が有り、クリ、サシ、クセの釈尊入滅から聖徳太子の功績に及ぶ天王寺の縁起物語の部分を省きました。「金堂の御本尊な・・・」で始まるしっとりとした居曲(イグセ)、上羽の「萬代にすめる亀井の水までも・・・」より張って謡い、「皆成仏の姿なり」とシテが合掌する最後までは地謡の高揚感が聞かせどころです。序、サシ、曲の部分は世阿弥の作詞、作曲で独立した曲舞として別にあったものを十郎元雅が借用したといわれているようです。
今回は「舞入」の小書で勤めました。「舞入」は「東門に向かふ難波の西の海、入り日の影もまごをとか」の後に通常のイロエを中之舞に替える演出です。イロエは、昔見慣れていた難波の風景を思い次第に高ぶる俊徳丸の心理過程を、舞台を一巡するだけのさりげない動きで表しますが、「舞入」はここに中之舞を入れる演出です。杖を左手に持ち替え、右手に扇を持ち、杖を突きながらの舞です。左手は利き腕ではないので、扱いが思うようにいかず難しい技です。気をつけないと杖扱いがお留守になってしまうので充分な稽古が必要です。
「盲目の杖」の扱いは、他流では「心」の字に扱って突くと伝承されているようですが、喜多流は別で、特殊な、かいぐるように扱います。まず一つ突いてから一足出す、これが教えです。杖と足が同時になってはだめで、これに顔の動きを加えて盲目らしさを出します。この中之舞の位はノリのスピードをどのくらいにもっていくかがお囃子方の苦心どころです。単に、盲目だからとゆっくり囃せばいいというものではありません。心静かな日想観の様をみせるといはいえ、盲目の人間の暗く沈んだ気持ちの舞ではつまらないものになってしまいます。若い盲目の遊狂心の興奮とでもいうか、目は見えぬが心の中ではすべてが見えるのだという法悦の舞、ただベタベタと重ったるい舞ではテーマから外れるのではないか・・・、かといってやはりスピードが早過ぎては舞いづらい、適度なスピードが大事ということになり厄介なところです。
父菊生は十四世喜多六平太先生に俊徳丸にとっては天王寺は通い慣れた道だ、どこに何があるかは知り尽くしているから、のろのろせずに意外と速く歩むのだと教えられたとか。昔、父が勝新太郎の座頭市の真似をして説明してくれた、あれはとても面白かったといまでも思い出します。
そしてこの曲の一番の見せ場は、何といっても中之舞に続く仕舞どころのクルイです。時正の日は日想観といって、太陽が真西に沈むので、それを拝むことで、その先にある極楽浄土を想い願おうということです。そういう日であればこそ、俊徳丸もすべてのものが心眼で見えるぞと高揚感にとらわれるのです。「満目青山は・・・」で、左手を右の方から円を描くように大きく丸く動かし、「心にあり」と胸元に当て思いを込める、この一連の型に演者の精神誠意が込められ、すかさず「おう、見るぞとよ、見るぞとよ」と強く杖を突き、心眼の境地となります。そして東西南北の景色を眺め一瞬うかれたかと思うと、盲目の悲しさで行き交う人々にぶつかり、転び、人に笑われという現実にさらされます。ああ、やはり自分は悲しき盲人なのだと挫折し、「さらに、狂はじ」、もううかれたりはしないと落胆して座り込み絶望のうち心は閉じてしまいます。
最後はロンギの形式で、俊徳丸と通俊親子の対面の場面です。夜が更けていき、高揚のあとの挫折と落胆、そこに思いもかけぬ、父との再会。父と子は一つの舞台に居ながら、なかなか対面せず、焦らして焦らしてようやくの対面です。起承転結の結として見事に創り上げているといえますが、私にはどうしても、この結果が祝言ひと色には見えず、そこに元雅作らしさ、作品の深さを感じます。
元雅は世阿弥の嫡子ですが、時の将軍、足利義教が世阿弥の養子の音阿弥を寵愛し世阿弥や元雅を遠ざけたため、不遇の生涯を余儀なくされて、三十代前半の若さで没しています。そのためかどうか、『隅田川』『歌占』『盛久』に代表される元雅の作品は暗いテーマを扱い、最後に多少の光明を見せながらも(『隅田川』は最後まで救われない)、どこかに闇の部分を残して終わっています。『弱法師』も例外ではありません。
最後に父子再会を果たすとはいえ、通俊は息子だと気がついてからなかなか名乗らず、夜も更け、人がいなくなったころを見計らってようやく声をかけます。人目をはばかる通俊の態度に、俊徳丸の行く末は依然として暗黒の闇だと感じさせられます。高安の通俊は施行をするぐらいの人ですから身分も見識もある人でしょう。そういう人間が、この盲目の我が子をどのようにして面倒をみていくか逡巡する姿が想像できるのです。
安っぽい三文芝居なら、偉い人が現れて眼に手をかざしたら両の眼が開いた、これも日頃からの信心の賜物、めでたしめでたしということになるのでしょうが、元雅はそういう安易なハッピーエンドを嫌います。再会を“うれし”と喜びながらも、これからどうしたらよいかといった戸惑いを隠し切れない、現実とはこうではないか、もっとこのテーマを掘り下げてほしいという元雅らしいメッセージが伝わってくるのです。
最後は親子二人、手に手を取り合って戻るのではなく、少し距離を置いての退場としました。私は橋掛りを幕に向かって歩むとき、ゆっくりゆっくり、いまだに闇を背負っている思いで運びました。登場するときと同じくらいゆっくり、いや、登場するときは天王寺に光を求め信仰と希望に満ちているのですから、戻るときの方がもっと足取りは重いかもしれません。
俊徳丸は信仰の幻想と挫折を味わうのです。父に会ったが自分はこの先どうなるのかという暗い思い、父通俊にしても、讒言によって、この子をこんな酷いことにしてしまった、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔と戸惑い、これらの負を二人がずーっと背負っていくのだという暗くて長い旅路が暗示されます。
元雅の、現実をしっかり見据えまっすぐに描き切る作風、どの作品もドラマチックで心がうねるような面白さがあります。元雅の作品に取り組むたびに、元雅という人がもう少し長く生きて、多くの作品を残してくれたら・・・と、遠く思いを馳せてしまいます。
(平成15年9月 記)
写真
弱法師 シテ 粟谷明生 研究公演 撮影 あびこ
弱法師 シテ 粟谷明生 まほろば 撮影 東條 睦
面 弱法師 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
四天王寺石の鳥居 撮影 粟谷明生
亀井堂 撮影 粟谷明生
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