喜多流『鳥追船』の謡本には曲趣として次のようなことが書かれています。
「劇能としての構成を目的としたものではなく、一種の遊狂気分が中心である…中略…前段は後段への準備的な場面に過ぎず、これをただ劇的に扱ったのでは、能楽の本質から逸脱したものとなる。興味の主題は、狂女能に類する船中の情景にある。一幅の田園秋景とみるべきであろう」とあります。さてこの説明、皆さまにはどのように思われますか? 私はあまり納得できぬ説明のように思えるのですが、いかがでしょうか。
『鳥追船』の作者は不明とも、また金剛作ともいわれていますが、確かではありません。この作品が生まれてくる土壌となるものは、たぶん鎌倉時代末期から室町時代の風習や時代背景に起こった様々な出来事、事件からと思います。それ以後、この作品は戦国時代の下克上の不安定な世相やまたそれを禁じた江戸時代やその後の時代を背景に演じられてきたわけですが、それぞれの時代でどのようにとらえられていたのか興味が湧きます。はたして上記のような秋景描写に留まった意識での舞台であったのか…。
私は『鳥追船』という作品が、上流階級の支配する立場からも、また支配される下流階級の民衆の者までも、素直に身近に感じる、ドラマチックな作品として見られていたのではないかと思っています。
もしそうであれば、演じる側は狂女能に類する船中の情景描写と田園秋景いう言葉だけでは片づけられない大事なものがあると考えねばいけないのではないでしょうか。訴訟のために都に上り、十年も帰らない夫、それを待つ妻と子(花若)、そして家人。鳥を追う秋景描写だけの意識では、あの世相での花若やその母、そして家人の耐えねばならぬ我慢を描いたドラマチックな作品は舞台に立ち上がってきません。特に前場では、演者が一人ひとりの人間としての生き様を背負って、それぞれの役に扮し、この物語の劇的な展開を演じなければ、見ている側も物足りなさを感じるのではないでしょうか。
演者が『鳥追船』という作品の中に描かれている人間模様をいかに表現出来るか、シテ・ワキ問わず、それが演者の大事な仕事であり、それがあるからこそ生涯の仕事として演能に張り合いを感じるのだと思います。舞台の演能は花火のように瞬間に輝いて消えていきます。書き物は後の代までも残り不変で、その内容は後の世の人に多大な影響を与えてくれるものですが、時としてそれらが正しいとばかり言えないこともあります。ここにあげた謡本の曲趣についても、信じる、信じない、認める認めないは受け手の自由ですが、問題はいかに演者が気をつけて対応するかであり、それが蔑ろにされては観客に失礼ではないかと思います。台本、謡本の深い読み込みこそ演者の使命だと肝に銘じたいものです。
十五年十二月の自主公演はシテ花若の母(日暮殿の妻)、粟谷能夫、ワキ左近の尉、殿田謙吉、ワキ日暮殿、宝生閑、子方花若、高林昌司で演じられ、私は地頭、粟谷菊生の隣で地謡を謡いました。
私はこの子方を故友枝喜久夫先生と伯父の故粟谷新太郎のお二人のお相手をさせて頂いた記録がありますが、今も記憶にあるのは伯父新太郎との時のことです。この時は自分の謡う個所を間違えたようで、たぶんおシテには大変なご迷惑をおかけしたのだろうと、思い出すと今も恥ずかしくなります。舞台というものは不思議でスムーズに進んだものより、少々怪我をしたものの方が脳裏に残ります。若いうちに沢山間違えておけ、という言葉が今また胸に響いています。
『鳥追船』は台詞劇で、内容もそれほど複雑ではありませんが、あらすじを喜多流の謡本の詞章だけで理解しようとすると少し無理があります。それは左近の尉(ワキ)や日暮殿(ワキ)の謡の詞章が大幅に欠落しているためで、左近の尉の花若の母に対しての申し立てに不明瞭さを感じます。喜多流の謡本の解読だけでは、作品の意図や登場人物の真意をつかむのは難しい状況です。
喜多流の謡本で、左近の尉(ワキ)のシテに対する詞章の文意は、次の通りです。左近の尉(ワキ)は花若の母(シテ)に当年は自分の田に鳥を追う者がいないので、お恐れ多いことだが花若殿に鳥追いを手伝ってもらいたいと言います。母は花若の代わりに自分が追うと言いますが、左近の尉はそれこそ思いもよらないこと、ただ自分の名を立てたいためだと言い、突然「所詮言葉多き者は品少なし」と怒りだし、家を出て行けと怒鳴ります。母は花若一人では幼く心もとないから、一緒に行くのだとさらに答え、左近の尉を納得させます。しかしこの流れでは、左近の尉の唐突な爆発の真意がわからず、理解に苦しみます。言葉の足りない詞章は説明不足で喜多流謡曲の愛好家を困惑させています。
下掛宝生流の謡本は、当流とはかなり違い左近の尉の気持ちが判るように、言葉多く詳しく書かれています。そのためワキ方は喜多流相手の時は、詞章のやりとりに工夫をこらし対応されていますが、これらの言葉を聞くことで事の起こりから、左近の尉の心情を読み取ることが出来ます。ここで下掛宝生流の舞台の展開をご紹介します。
左近の尉の鳥追いの催促に、自分がでかけるという母の言葉に対して、左近の尉の言い様はこうです。
「それこそ思いも寄らぬ事にて候、女性上臈の御身にて御追い候はん事、ただ左近の尉の名をたちょうずる為にてこそ候へ、まず上臈の御身にても、御心を静めてきこしめされ候へ、それ人の御留守とは、乃至一年、半年をこそ久しきと申し候が。すでにはや十か年に餘て、世に無き主を扶持し申したる左近の尉は、情けなく候よなう」と大声で叫びます。
ここにしばしの間があり、「いやいや言葉多き者は品少なしと申す事の候。所詮今日よりしては、某扶持し申すことはなるまじく候。この屋を明けていずかたへもおんにであろうずるにて候。ーーーー」と続きます。
留守を守るといえども十年は長すぎると家人の苦労を愚痴るのですが、語るうちに長年の張りつめた我慢はついに切れてしまいます。ここを喜多流では「所詮言葉多き者は品少なし」と唐突に言うため、まるで言葉多い母(シテ)は品が少ないと言っているように思えますが、ここは左近の尉が世間では、一般論としての言葉として自分に言い聞かせるようにして言っているのです。
これは能を鑑賞し、言葉をよく聞き取らないと理解できないところですが大事なところで、今回ようやく左近の尉の真意が解明できました。
父は『鳥追船』の謡について、後場の「げにや夢の世の何か例えにならざらん…」の段が、粋なところでここをうまく謡わなくてはと言い、益二郎(菊生の父)からは船の舳先がきゅっきゅっと変わる、そんな感じで謡うといいと聞いていると教えてくれました。謡い方を単に調子を落とすとか張るとか、ノリよく、じっくりなどと言われるより、このようにイメージが湧いてくるような教え方をしてもらうと、指導される者は想像し工夫して謡う必然性を感じ、興味をそそられ、それが面白さへと変わっていくのだと思います。
演じた能夫の言葉ですが、「狂女物の代表作に『三井寺』がある。狂女物の作風の特徴の一つに、一曲の終盤前まで凝縮されたテーマや物語が盛り上がっているのに、不思議とロンギという定型パターンに入ってくると途端に親子再会の祝言の場面となり、これですべての結末を片づけてしまう傾向がある。それが好きになれない」と、私も同感です。祝言で終えるという形式主義を否定はしませんが、演者としては、どうしても少しのストレスを感じながら終曲しているのではないかと思うのです。
しかし能夫は「この曲は最後までテーマが重く強く繋がっているように思えた」と、「たぶんそれはワキや子方の退場の仕方や地謡の謡い方によるものではなかっただろうか」と感想を述べ、父の地謡に対して「これほど陰影を感じさせてくれた地謡を聞いたのははじめてでした。『鳥追船』という作品を面白く謡って下さって有り難うございます」と感謝していましたが、その横で謡うことができた私も良い勉強になったと思います。
写真 カラー『鳥追船』前シテ 粟谷能夫 脇 殿田謙吉 子方 高林昌司
カラー 後シテ 粟谷能夫 子方 高林昌司
モノクロ 後シテ 粟谷新太郎 子方 粟谷明生
撮影協力 あびこ喜久三
(平成15年12月 記)
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