横浜能楽堂特別公演(平成16年9月11日)で、『半蔀』を「立花供養」の小書で勤めました。私の『半蔀』は昭和59年、青年喜多会が初演で、これが三番目物に取り組む最初でした。先代宗家・故喜多実先生は若い世代の三番目物として『半蔀』『六浦』『東北』などを選曲され、それらは若者にとって大いに勉強になりました。私は未だ演じていませんが、類似曲に『夕顔』があります。『夕顔』は世阿弥作で構成的にもよく整理され、源氏物語の夕顔の巻を題材に、夕顔の上という人物像、可憐で儚い人生を歩んだ女を前面に出している曲のように思えます。
一方、『半蔀』は夕顔の上という人物像よりは、夕顔の花、夕顔の精に焦点が当たっているように見えます。作者は内藤左衛門、内藤河内守で守護代クラスの武士で細川高国という管領の家臣であったと、松岡心平氏は説明されています。あまり聞いたことがない人物ですが、『俊成忠度』の作者でもあると言われています。
今回の小書「立花供養」では、立花を花人、川瀬敏郎氏にお願いすることができました。私が川瀬氏の能舞台での立花を拝見したのは、昨年の橋の会・二日公演の二日目、シテ友枝昭世氏の時でした。ワキの言葉「中んづく泥を出でし蓮」のとおり、蓮の花が一輪すっと見事に長丁場立っている、その斬新さと無駄のない簡素化されたお花に驚かされました。シテは喜多流の友枝昭世氏、地謡は梅若六郎氏を地頭に観世流の方々、喜多流と観世流との異流共演の番組で、地謡の謡い方も勉強になりました。今でもあの日の演能と立花は忘れられず、私の脳裏に焼き付いています。衝撃的な一日でした。
今回の横浜能楽堂の催しは、実はあの橋の会の時に企画されており、すぐにも交渉に入りたかったのですが、川瀬氏が立花をやられて直ぐだったこともあり、少し難航しました。私としては、どうしても川瀬氏のお花で『半蔀』「立花供養」を勤めたい思いがあり、演出家の笠井賢一氏のご協力と、また横浜能楽堂のスタッフの方々のねばりある交渉があったからこそ実現できたと思っています。今、笠井氏をはじめ、横浜能楽堂の中村雅之氏や原田由布子さん、そして横浜能楽堂のご尽力、ご協力に本当に感謝しています。
近年、立花供養は草月や小原流でも行われていますが、本来は池坊に限られたもので、流儀の伝書にもそのように記されています。花の種類は季節により異なるようですが、今回のお花はススキが中央にすっくと立ち、桔梗や女郎花などの草花をあしらって秋の風情が漂うものでした。当日、川瀬氏が生けられている時に、我が家にある「立花供養」の伝書をお見せしたら、「ここに書かれているこんなに沢山の花を生けたら花だらけで、シテの姿が見えなくなってしまう」と仰っていました。お話しをしながら、その鋭い感性で生けられていく後ろ姿を拝見して、やはり当代の第一級の貫録だと感じ入ってしまいました。この度、川瀬氏とご一緒に舞台ができたことは、私にとって名誉なことだと喜んでいます。
今回の小書「立花供養」を勤めるに当たって自分の立場はどういうものか、すばらしい立花を前にして、演者である自分がどう演じられるかを考えました。通常は、夕顔の上という女性や夕顔という花の精をベールに包んで演じればそれなりになると思うのですが、あの立花があることによって、違った作用が舞台に現れてくると察したのです。川瀬氏が立花を持って幕から出てきた瞬間に、見所の人たちの目は一斉に立花に釘付けになります。正先に置かれてからも、その花の存在は大きく、舞台全体を支配しているといっても過言ではありません。その出来上がった舞台設定の中に、シテが出て行くとき、それは花と演者の融合なのか、拮抗なのか。あの美しい花にすべてを委ねて、その後ろで夕顔(シテ)はきれいに舞っていればいいのだろうか。それとももう一つ何かが必要なのだろうか。こんなことを考えながらも、かわいらしい夕顔の上と夕顔の花が、万華鏡のように観客の目に映ればそれで良いのかなとも思ったのです。
立花とは、僧が一夏(いちげ・90日間)の間、安居(あんご)し、つまり行脚せず修業するときに仏前に花(きり花)を供えますが、一夏安居が終わったときに、その花の供養をしようというものです。福王流の福王茂十郎氏にお話を伺ったところ、流儀ではワキが立花に一輪挿して「敬って申す」と謡うのが本来です、しかし最近は省略することが多くなりました、と仰っていました。また、小書「立花供養」では、福王流、下掛宝生流とも、中入後、アイとの問答の時に特別のワキの語りが入ることがあります。特に下掛宝生流では一子相伝として重く扱っているようです。今回は時間的な事情にもより、語りはなしとしました。
能の舞台進行では、ワキが立花供養をするのは前場の紫野・雲林院でのことで、後場の五条辺りは場所が変わるので、本来は、お花はシテの中入りと同時に後見が引くものとされています。お花を出すのも従来は後見が行っていました。今回のような瀟洒(しょうしゃ)な草花の場合は、後見が持って移動することは難しいので、川瀬氏が本幕から持って出て、正先に置き、そのまま据置の形としました。流儀の型としては、造花の夕顔を一輪、シテが左手に持って下居して立花に挿し、合掌してシテ謡となりますが、今回は敢えて挿す型は控えました。
シテは本三番目物としては珍しく、アシライ出で登場します。ワキが「敬って申す」と花に向かい読経をはじめると、シテは三ノ松まで進み出て、ワキ(僧)と立花を見る型となります。これは橋の会での友枝昭世師の創案の型です。再びアシライが始まると大小前に行き、立花に向かい下居して合掌し「手に取れば、たぶさに穢る立てながら三世の仏に花たてにけり」と謡います。『女郎花』では「折りつれば」と謡われる僧正遍昭の歌です。(花を折って供えれば手首によって穢れよう、咲いたまま過去、現在、未来の仏に奉る、の意)。そしてワキとの問答になります。立花の中に一輪、白い花夕顔がひとつ自分だけが楽しそうに微笑んでいるように見えるとのワキの言葉から、シテは自らが夕顔自身であると告げ、中入りとなります。
後場は、通常藁屋の作り物が常座に出されますが、今回は立花が据置のため、藁屋を橋掛の一ノ松辺りに置き、シテは作り物に入っての登場としました。
ワキが五条辺りに来て、寂れた小家を見つけると、中からシテの謡(一声)が聞こえてきます。そして地謡の「さらでも袖を潤すは廬山の雪の曙」でシテは姿を現します。
現在普通に舞われているクセの仕舞の型は伝書では座敷舞と書かれています。今回、正先に立花があるので、型はできる限り花に近づかないようにと心がけ、本来の、動きが少ない簡素化された型で勤めました。序之舞も、替の型で出来る限り花に近づかないようにし、三段のオロシ(序之舞の一部分)で袖を被き、とくと立花を見る型にしてみました。装束(長絹と箔)の質感や私の被き方に問題があったのか、三番目物らしくないというご意見や、あの立花にはあれぐらい派手な型が入っても良いのではとのご意見もあり賛否両論でした。
流儀ではシテの面は小面、後の装束は緋の大口袴に白の長絹が定番ですが、演じてみて、長絹はもう少し黄色味がかった時代を経たものの方が良かったかと、少し悔んでいます。
小書「立花供養」とは演者にとってどのようなものなのか、それが今回の勉強でした。花と演者の見事な融合とか、はたまた両者拮抗する反発力の美などと小生意気な思案をしていましたが、あの川瀬氏の存在感ある立花を目の当たりにしたとき、次第に遜色なく舞えればそれで良いかなと、消極的な自分が見えてしまいました。
花と演者が縦糸と横糸になって織り成していくような舞台をと、川瀬氏が話され、私自身もそのようなものを目指しましたが、存在感あるお花と向き合ってみると、立花が単なるオブジェではなく、みるみるその力を発散し始めるのに気づかされます。この不思議な感覚を舞台で感じることができるのは、正直、演者の私しかいないのではないかと有頂天になり、なにかマジックか催眠術にかかったような夢心地に浸りました。
日頃、演じるにあたってあれこれ考えようとしていますが、今回は曲の持つ主題や主張を云々するより、身体が感じたまま演じてしまったという反省が少しあります。いや、何を隠そう、それしかさせてもらえなかったという反省でもあります。それは、立花の持つ力もありますが、能『半蔀』が見事に簡素化され、夕顔の上の物悲しさ、源氏との恋、そして甘い思い出などを、ストレートに表現できないような仕組み、というより、そのように工夫されているからではないでしょうか。究極は、静かな回想の舞、序之舞をどのように舞えるかが勝負だというところに落ちると思うのです。そこに集中することがまずは第一かもしれません。しかしそれは演じ方、考え方としては一つの逃げかもしれない。
川瀬氏の立花を前に真の花を咲かすには、さらなる修業が必要だと痛感します。とは言え、横浜能楽堂特別公演という、大きな、立派な、華やかな、晴れ舞台に立てた贅沢な喜びに、まだまだ夢心地で浸っているというのが本音です。(平成16年9月 記)
写真
能『半蔀』前場 シテ 粟谷明生 撮影 神田佳明
立花 花人 川瀬敏郎 撮影 粟谷明生
小面 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
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