紅葉の箕面大滝投稿日:2008-12-16

能『烏頭』(他流は『善知鳥』)に「和田の笠松や箕面の瀧つ浪も我が袖も・・」と謡われています。昔から、和田の笠松と箕面の滝は摂津の国の名所として知られていたようです。『烏頭』ではワキの僧がシテの漁師の蓑と笠を手向けることから、蓑と笠への掛け言葉で謡われるだけで、直接この滝が能『烏頭』の場面と関係あるわけではありませんが、謡に出てくるので謡蹟めぐりとして訪ねてみました。今回は紅葉の時期でもあり、格別に「箕面大滝」を満喫してきました。では写真で、ご案内いたします。

阪急石橋線の石橋駅で箕面線に乗り換え、終点箕面駅で下車します。改札口を出て北へ徒歩5分で箕面公園の入り口に着きます。箕面駅から滝まではおよそ徒歩50分程度です。

駅前の滝道に入ると右も左もお土産屋が並んでいます。
ちょうど秋で紅葉のてんぷらを揚げていたので撮影しました。焼き栗も有名です。

お土産屋と箕面観光ホテルを過ぎ10分程で夫婦橋です。この辺りから紅葉が見られました。

観音堂は2002年に、役行者1300年ご遠忌を記念して再建されました。
堂内の如意輪観音は、平安時代の作で重要文化財に指定されています。

瀧安寺は白雉元年、役行者が山林修業の道場として開き、箕面寺と称しましたが、
元弘2年護良親王の令旨に応じて、瀧安寺の名を賜り、以後、この名前になっています。
もとは大滝の直下にありましたが、慶長元年の大地震で全壊し現在地に移りました。

紅葉に映える本堂、弁財天をご本尊としています。瀧安寺の弁財天は竹生島、江ノ島、厳島とともに四弁財天の一として知られ、60年に一度開帳されます。

瀧安寺霊園の紅葉が綺麗なので、シャッターを押したら・・・、ほら、この通り。

唐人戻岩は駅から徒歩40分ほどのところにあります。昔中国の唐使が滝の評判を聞いて駕籠でこの巨岩のあたりまで来たが、山道の険しいのに驚いて立ち帰ったという伝説の岩。ここを過ぎたら滝まではあと少しです。

戻岩の近くにかかる戻岩橋を過ぎると、左に渓流が見え、少し登ると、滝が見えてきます。

紅葉の滝はさすがに圧巻でした。滝の形が箕に似ているので箕面滝と呼ばれています。

滝の近くには椅子があり、滝を見ながら食事をしたり休んだりと見物人が多くいましたが、これぐらいはまだ普通で、ピーク時は滝道が人で埋まるほどと言われています。
実はこの滝は道路拡張に伴い、水流を変えてしまったので、今は、水を人工的にポンプで汲み上げているようです。何となく、現実を知ると夢が醒めますね。

滝の下で昼食を食べるカップル。この二人、タイガースのファン?それとも尻に敷いているからアンチ・タイガースかな?
帰路は下り坂となりますので、幾分楽です。40分程度で箕面駅に到着しました。箕面大滝に行かれる時は、是非、紅葉の時期をお薦めします。
播磨路の旅投稿日:2008-10-16

平成20年の「菊生会・明生会合同ゆかた会」は塩田温泉の夢の井ホテルで開催され、
前日(7月3日)に須磨・明石などの謡蹟を尋ねてきました。
午前11時に山陽新幹線・新神戸駅に下車し観光案内所にて現地に詳しい個人タクシーの森さんを紹介してもらい、評判通りの名ガイドぶりで、一日親切に細かく案内して下さいました。
まずは、『松風』ゆかりの「松風・村雨堂」からはじまり、『敦盛』の「須磨寺」「敦盛塚五輪塔」、『千寿』の「重衡捕らわれの地」、『絃上』の「村上帝神社」、『忠度』では「一ノ谷戦いの浜」「忠度塚」「腕塚神社」。明石天文科学館の裏にある『草紙洗小町』で謡われる柿本人麿から「柿本神社」そして小野まで足を伸ばして謡蹟とは関係ありませんが、美仏で有名な「浄土寺」を拝観してきました。
6日は菊生会・明生会の会員と共に、書寫山・円教寺と姫路城を観光して、今回のゆかた会の旅行を終えました。
それでは森さんのお話も含めて写真でご紹介します。

松風・村雨堂、
山陽電鉄沿いにありますが、三代目の衣掛けの松は枯れてお堂に祭られています。

謡蹟保存会の立て札

在原行平のお世話をしたのは、須磨の浦の長の娘、「もしお」と「こふじ」でしたが、
姉の松風こと「もしお」は妊娠し子を産んでいます。その末裔が現在も在原性を名乗られているとか・・・。

青葉の笛
須磨寺は古い簡素なお寺を想像していましたら、今はよく整備された現代的なお寺でした。阪神大地震の時に被害を受けたようですが、綺麗に整備されています。
展示室にはいろいろと寺にゆかりの品が展示されています。青葉笛もありましたが、森さんの話では、専門家が調べたら??どうもあやしい??とか。
一応記念に撮影しました。

須磨寺にある敦盛塚
本堂から左に少し歩くと右側にあり、保存会の看板は隣に立っています

保存会の立て看板

敦盛首洗いの池

重衡捕らわれの地 山陽電鉄「須磨寺駅」駅前にあります。

村上帝神社 山陽電鉄沿いにある。

看板

戦いの浜
忠度の陣地と言われています、目の前は道路が走り奥には海が見えます。
一ノ谷の合戦時、平家は海上に赤旗をさした舟を浮かめて・・・
とは想像しにくい風景でした。

敦盛塚五輪搭
こちらは須磨寺よりも大きく立派です。
戦いの浜の近くにありました。

明石の忠度塚、
忠度の謡蹟は多くありますが、ここもその一つ。

腕塚神社への道
この標識がある国道より中に入ると小道があり、右折すると左手にあります。

腕塚神社
地元の方に守られている小さな祠の神社です。

腕神社 右腕でこすると御利益が??」あるというので早速、試してみました。

柿本神社
明石天文科学館の裏手に柿本神社はありますが、島根県益田にも柿本神社はあります。

明石東経135度

明石海峡をフェリーが通る
大阪湾と播磨灘とを分かつ淡路島北方の海峡です

浄土寺
ひっそりとした場所に阿弥陀様三体がいらっしゃいます。是非一度行かれるといいところですが、お寺、仏像に興味の無い方にはお薦めしません、なにしろ交通の便はあまりよろしくありませんので・・・。

西日があたる夕方、4時半ごろからがいいですよ!との檀家様のお言葉でしたが時間がなく、4時に渋々退出しました。ここはご住職がお一人でお忙しいので檀家さんが交代でお寺の管理をなさっています、今回朱印帳に書いて下さいました檀家さんです。
この時は我々だけ、今日一番のよいところでした。

書寫山円教寺にある弁慶のお手玉
こんな大きな石でお手玉が出来る訳がないのですが・・・

摩耶堂
トム・クルーズ主演「ラスト・サムライ」など最近は映画の撮影場所としても有名になっています。

常行堂
阿弥陀仏の名を唱えながら本尊の周りを回る修行の場所です。
ここで梅若六郎氏が能を舞われています。

開山堂の力士像
軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻がありますが、
そのうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言われています。
実際は盗まれたのではないでしょか・・・

好古園
姫路城西御屋敷跡に庭園があります。
庭園レストラン「活水園」でお庭を眺めながらの昼食はお薦めです

姫路城
法隆寺と共に世界遺産に指定された、別名白鷺城
天守閣までの階段の数は相当なものでしたが、その展望はすばらしい景色でした。
しかし、私はもう上がることはないと思います。お城は外から眺めるのがよろしいかと思います。
奈良 一日ひとり旅投稿日:2008-10-16

平成20年10月2日、大倉会大阪公演を終えて大阪大学謡曲部の稽古まで一日時間が空いたので奈良へ出かけました。
下調べを一切せずにぶらりと、ひとり旅です。
大阪難波駅から近鉄奈良駅まで、急行に乗車し40分で到着、行基上人像の前からタクシーに乗り「法華寺まで!」と行き先を言うと即座に「新大宮で降りたほうがよかったですね」言われました。やはり下調べは必要です。出だしから無駄足となりました。
法華寺は光明皇后(聖武天皇の皇后)のお姿を映した、と言われている本尊・十一面観音立像が有名で特に光背が特殊で面白いお姿です。是非一度見たくて出向きましたが、日頃はお前立ちしか見られません。毎年10月25日~11月10日までが特別御開扉で本物が拝見出来ます。境内はきれいに整備され、光明皇后が民のためにと作られた浴室(からふろ)や井戸は庭園(有料)にあります。
法華寺のすぐ隣には海龍王寺があり、こちらも本尊は十一面観音菩薩です。
この寺は応仁の乱や慶長の地震のため壊滅的な打撃を受け、明治時代に入ると廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響を受け多数の什器を失いました。いまもやや荒廃した感がありますが、それがまた古い歴史を感じさせてくれます。
佐保路三尊(法華寺、海龍王寺、不退寺)を見比べるために、何回か拝観している不退寺にもタクシーで5分程度なのでお参りしてきました。
ここは能『井筒』の在原業平ゆかりの寺です。業平寺とも呼ばれ、別名、南都花の古寺といわれるだけあって、本堂の周りには四季いろいろな花が咲きます。
本尊は聖観世音菩薩立像で、業平自身の作です。耳の上で結んだ大きなリボン(冠飾)が珍しい立像です。
奈良と言えば、東大寺の大仏様が思い浮かびますが、私のお気に入りは戒壇院の四天王、特に広目天のあの目が最高です。また実物が見たくなり立ち寄ってしまいました。
移動中に聖武天皇南陵があり、一時下車して撮影兼お参りをしてきました。
戒壇院の四天王は東大寺内の中門堂から移されたもので、戒壇院にはじめから設置されていた銅造のものは・・・今はありません、とガイドさんの説明でした。
奈良で写真家といえば入江泰吉です。その記念館があることを思い出し、急遽計画を変更して見学に向かいました。
戒壇院からすぐ下におりたところで、運転手さんが「ここがご自宅です」と車を止めて案内して下さり、カシャと一枚撮影。ひっそりと古風な趣のお家でした。
入江泰吉記念奈良市写真美術館の前で車を降りたら、残念! 展示会準備のため休館となっていました。事前に電話しておけば・・・・と、またまた反省。
では次は、今回の謡蹟めぐりです。
21年喜多流自主公演で『雲雀山』を勤めますので、その謡蹟を訪ねてきました。
高林寺(奈良市井上町32)の門碑に「中将姫修道霊場、豊成卿古墳之地」とあります。
高林寺は奈良時代、藤原右大臣豊成卿の屋敷跡に建てられた寺です。
豊成の姫のお一人が中将姫です。この地で誕生し、17歳にて世の無常を悟り出家して当麻寺へ入られるまで、この館で修道に励まれました。その旧跡です。
生憎、豊成・中将姫父子の木像は拝見出来ませんでしたが、豊成卿古墳は本堂の前にあり拝見出来ました。ご覧になりたい方は予め電話しておくことをお薦めします。
場X0742-22-0678 ご住職は稲葉慶信様です。
道一本となり筋に誕生寺と徳融寺(とくゆうじ)があります。
誕生寺は中将姫産井があるのですが、こちらは今回お留守のため拝見出来ませんでした。斜め向かいにある徳融寺には本堂左手に立派な豊成廟(右)その左隣には中将姫の墓があります。
近鉄奈良駅に戻り、時間がまだあったので、西大寺に向かいました。
西大寺は奈良から二駅目、下車すると秋篠寺の字が目に入り、タクシーに「秋篠寺まではおいくら?」と聞くと、「¥740ですわ」と即答。折角ここまで来たのだから・・・伎芸天を見なくてはと思い、直ぐに乗車、秋篠寺に向かいました。
タクシーで7,8分で秋篠寺です。ここは朱印をしないのが残念です。
ここにしかない伎芸天はほんとうに美しいです。
本来のお姿は女性ではないと言われていますが、私はどうしても女性を想像してしまいます。芸能の神といわれているので懇ろにお参りしてきました。
拝観を終えると本日の最終目的地、西大寺の「謡曲百萬の柳」を見て幕を下ろすことにしました。
西大寺駅より徒歩3分の近場にありながら、道が狭いため観光バスが入れず、東の東大寺に対して西の西大寺のはずですが、いまひとつにぎやかさがなく寂しい感がします。これはこれでかえって雰囲気がありよいところです。
本堂のご本尊は釈迦如来ですが、四王堂には巨大な十一面観音立像もあります。
四王堂の前に池があり、『百萬』で謡われる「西の大寺の柳陰、緑子の・・・」の柳が今もあります。百萬はこの池の影に我が子を思い、奈良坂を下りて西大寺、そして清涼寺まで歩いていかれたのです。
では、写真でご紹介します。

法華寺本堂
境内は綺麗に整備されています。庭園は別料金ですが、是非ご覧下さい。

海龍王寺境内
芭蕉葉は『井筒』に「松風や芭蕉葉の夢も破れて・・・」と謡われます。

佐保路のポスターより
左が法華寺、右が海龍王寺の十一面観音、是非本物をご覧下さい。

不退寺
花に埋もれるように見える不退寺、業平寺ともいわれています。

聖武天皇南陵
綺麗に整備されゴミ一つ落ちていません。

写真家入江泰吉氏の表札

高林寺の石碑
『雲雀山』の謡蹟です。

高林寺境内にある豊成卿古墳(手前)
ご住職は女性でした。

誕生寺
産井がありますが、生憎見られませんでした。

徳融寺
中将姫と豊成卿の墓があります。

豊成卿の墓

中将姫の墓

秋篠寺の敷地に石塔があり苔が綺麗でしたので撮影しました。

百萬の柳
西大寺境内にある柳の下には池があります。
『絵馬』を勤めてー天照大神の威光ー投稿日:2008-10-12

『絵馬』を勤めて
――天照大神の威光――

第84回粟谷能の会・故粟谷菊生三回忌追善能(平成20年10月12日・国立能楽堂)で『絵馬』女体を勤めました。
『絵馬』は寺社の縁起や神を扱った脇能と呼ばれるジャンルに入ります。
前場は落ち着いた雰囲気で老夫婦の絵馬の掛け馬の話、後場は古代の天の岩戸神話の繰り広げる雄大なスケールの明るい作品で、派手やかなショー的要素の強い神能です。
『絵馬』のシテは天照大神です。天照とは、天に照り輝く太陽、を意味し、一般的には太陽神の女神を想像するのではないでしょうか。
しかし喜多流の小書の付かない『絵馬』では天照大神が男体の神として扱われています。
小書が有る無しで、前場に変化はありませんが、後場は大幅に役柄が変わります。
小書無しでは、シテの面は「東江(とうごう)」または「三日月(みかづき)」を使用し、荒々しい男の神体をスピード感溢れる神舞で表現します。シテが男体であるため、二人のツレを天女として登場させ、珍しい神楽の相舞となります。
しかしこれを岩戸の前で神々が喜んだ天鈿女命(あまのうずめのみこと)の舞であると想像するには少々無理があり、また岩戸隠れ自体を表していると想像するにも難しく、良い演出とは言えないでしょう。
そのため流儀で普通の『絵馬』はあまり上演されていませんが、何故か父や叔父の辰三、最近では従兄弟の充雄と粟谷家の人が、この普通の『絵馬』を多く手がけているのは、なんとも不思議なことです。
昔、父が囃子科協議会にて普通の『絵馬』を勤めた時に「東江」の面をつけながら「どうしてこうなるのかな?」とこぼしていたこと、私もそばにいて「変だね」と相槌したことを思い出します。
今、私の知る限りでは、天照大神には女神説と男神説の両説があり、喜多流は男尊思想から男神説を取り入れた歴史があるようにも聞いていますが、確証がある訳ではありません。
シテ方五流を比較すると、観世流と金剛流は女神、宝生流と喜多流は男神として演じます。金春流には『絵馬』が無く、これは江戸時代、幕府に未登録であったためと思われますが、五流で一番古い歴史を持つ流儀がこの曲を手がけないのは残念な気がします。

「女体」の小書が付くと後シテは女神の姿となり、頭上に日輪を戴き、白狩衣に緋大口袴を穿いて、両手で中啓を笏(しゃく)のように見立てて持つ独特の構えで現れます。
天鈿女命(女ツレ)を先頭に、手力雄命(たぢからのおのみこと・男ツレ)を従えて厳かにゆったり現れる様は「女体」ならではの光景で、後半の見どころのはじまりです。
「女体」になると曲の位が上がり重い習となり、若年の者は勤められなくなります。
「神遊」や「女体」など小書が付くと位が上がる曲は、若い能楽師にとっては「いつか舞いたい!」と憧れる曲、小書で、私も実現出来たことに満足して喜んでいます。
今回、追善公演でおめでたい『絵馬』「女体」を勤めることは、いささか不似合とお思いの方もおられたと思いますが、今回の選曲は父が亡くなる前から決定していたことであり、またこの大曲を私が勤めてこそ、父も喜び、よい手向けになると思い、精一杯勤めることにしました。
ではまず『絵馬』のあらすじです。
大炊の帝(淳仁天皇)に仕える勅使、公能は伊勢大神宮へ参向する途上、老夫婦が連れ立って斎宮へ絵馬をかけにくるのに出会います。
由来を尋ねると、昔は馬の毛によって翌年の天候を占う習慣があったが、今は絵馬を掛けて明年の天候を占う、と答えます。
尉は白の絵馬を掛けて日照を、姥は黒の絵馬を掛けて雨を占うと、掛け絵馬について争うが、結局万民快楽の世にしようと二人は二つ掛けることにします。そして老夫婦は公能に自分たちは伊勢の二神、天照大神と月読尊(つきよみのみこと)であると告げ消えてしまいます。
中入
やがて天照大神が天鈿女命と手力雄命を従えて現れ、天照大神は自身神舞を舞い、岩戸隠れの様子も再現して見せます。
前場は五穀豊穣万民快楽の泰平を祝い、後場は天の岩戸の神話を描いていきます。
『絵馬』は脇能ですが、その構成は『高砂』『弓八幡』などの通常の脇能とは大幅に異なります。
ワキは五段次第で登場し、シテは真之一声から下歌、上歌は通常の脇能形式ですが、序・サシ、クセ・ロンギという脇能の構成を持たず、クセの途中で中入りするなど特異で、しかも地謡の和吟での斉唱は非常に珍しいものです。
そのため、強吟で謡うシテとツレは和吟で謡う地謡へのスムーズな橋渡しが必要で、ここにシテとツレの謡い方の心得があります。

「女体」の後場では、シテが「小面」をかけて神舞を舞い、天鈿女命が神楽を、途中から手力雄命の急之舞と、舞尽くしの舞台展開となります。
囃子方にとっても、技術力はさることながら、体力も必要な非常にタフな小書であるため、裏話をすると、囃子方からはやや敬遠されがちな小書なのです。
しかし、優れた囃子方が揃っての「女体」は見ていて圧巻、また自分自身舞ってみると、お囃子の音色が身体にビンビン響いてきて、わくわくしてしまいます。
「女体」はシテが神舞(五段)を舞い、力神(手力雄命)も急之舞(神舞の後半)を舞うため、同じ早い舞が続いてしまい、代わり映えのしない印象を受けます。
他流では、そこのところ、シテがゆったりと中之舞を舞い、それぞれの役柄に似合った舞の特徴が出てよい効果を生みだしています。
そこでお囃子方(笛・一噌幸弘氏 小鼓・大倉源次郎氏 大鼓・亀井広忠氏 太鼓・助川治氏)に「女神と力神の違いが出るように囃してほしい、神舞を『高砂』のようではなく、少しゆったりと囃してほしい」とお願いしました。
今回は手力雄命(力神)が特別に面「大天神」をつけること、流儀の面と装束のことなども説明すると、助川氏は観世流太鼓方としての「女体」の心得を話して下さり、全員すぐに納得同意して下さいました。
当日、出番前の亀井広忠氏に「魚町の面を見ておいて」と言うと、「うお?、なるほど判りました」と答えられました。彼なりに神舞・急之舞の世界を思い描いて囃してくれたと思っています。また他の囃子方もご自身の描く「女体」の世界を想像されていたようで、その結果、適度な具合のよい神舞と急之舞になったと、私は囃子方に感謝しています。
今回、私自身「天照大神の神舞(シテの神舞)をどのように舞うか?」を考えました。
「演者は細かな事は考えずに、真っ直ぐに舞っていればいいんだ」と、先人のお声が聞こえてきそうですが、どうも、はっきりさせたがる私の性分で、いろいろと考えてみました。
神舞は弟の素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまがはら)へ侵攻してくることへの怒りであると説明する方もあれば、小面を掛けて素早い舞を見事に華麗に舞う芸力を見せる、そうすれば自然と神に見えると唱える方もあり、また総神としての威厳が見せられればいい・・・、と色々様々です。
私は女神の威光、それは太陽そのものであり、広大な高天原にまぶしいばかりに輝く太陽光線のイメージではないだろうか・・・、天照大神の光臨、早い中にもゆったりとした包容力のある女性のやさしい身体の動きが見せたい・・・、いくら早くても乱暴な印象が残るのだけは避けたいと思い舞いました。
さて、皆様がどのようにご覧になられたかが、気になるところです。

今回、謡の詞章で気になるところが二つありました。一つはツレの謡です。
喜多流では、シテの「尉が絵馬を掛けて民を喜ばせばやと思い候」の言葉に対して、ツレは「さように謂われを宣はば、こなたも更に劣るまじ」と終わらせ、続いてシテが「力をも入れずして天地を動かし、目に見ぬ鬼神の猛き心を和らぐる」と謡います。そしてまたツレが「歌は八雲を先として、天ぎる雪のなべて降る、これらはいかで嫌ふべき」と続きます。
観世流はこの姥の尉に対しての反論をすべてツレの言葉として謡います。
それが当然だと思うのですが、どのような訳なのか、喜多流は尉が姥の反論まで謡ってしまう奇妙な演出です。
この老夫婦の言い争いを、自分の生活に置き換えてみると、確かに相手の意見を自らが喋ることもあるので判らないでもないですが、能の舞台という観客に状況を伝える場に於いて、この作りは少々不明瞭、不備だと思います。
今回観世流のように、ツレに反論の部分を全部謡ってもらおうかと思いましたが、披きでもあるので、新しい冒険は控えました。もっとも従来通りで正しいという意見があれば、お教え戴きたいと思っています。
次に後場の出端に謡われる「雲は萬里に収まりて、月読の明神御影の、尊容を照らし、出で給う」の詞章です。天照大神の弟、月読命があたかも登場するかのように謡いますが、実際月読命は登場しません。
これは前場の前シテと前ツレの老夫婦が、実は天照大神と月読命の伊勢の二柱だと告げているために作られた詞章なのかもしれませんが、「女体」でご覧になられる方には、これもまた不思議な光景と似合わぬ詞章だと思いました。
これはこじつけのような私見ですが、天照大神が月読命と両性を備えているとも考えられます・・・。これも同様にご説明して下さる方がいらしたらお教え戴きたいです。
今回は新聞(毎日・産経・日経、記載順)にも報じられましたように、豊橋・魚町能楽保存会のご協力を得て貴重な面の数々を拝借しての演能となりました。
我が家にも『絵馬』に使う面は用意出来ますが、古代の神話を桃山時代や江戸初期に創作された名品の面を借りて演能してみたいとの思いが叶い貴重な経験が出来ました。
前シテは出目友閑の小尉、少し面長な顔立ちですが、能夫は「尉髪の髷がのると丁度よく見える」と話していました。前ツレの姥は、先代金剛流宗家金剛巌氏が足利時代と目利きをされた面でした。しかしこれは生憎、面紐を通すあたりに問題が見つかり、急遽使用を諦めることになりました。万が一のときは、と予め用意しておいた我が家の姥を代用しましたが残念でした。
面は後生大事にお蔵に入れっぱなしでは、木も魂も死んでしまいます。
時には外気に触れ、人間の手に触れ、能楽師が使用してこそ、魂は目覚め生き返ると思います。今回の姥のように使えなくなってしまったり、修理をしなくてはいけない面は全国の神社や寺、または個人の家にもまだまだたくさんあると思われますが、手入れして、舞台にあがってこそ、面もそれを打った面打師も喜ぶのではないでしょうか。
至急、修理や保管の見直しなどの対応を急がなければ、取り返しの付かない事態になるのではと危惧しています。

後場の面は、シテ天照大神に井関河内作「小面」、天鈿女命に名品、出目是閑作「増女」、そして手力雄命には作者不明ですが、桃山時代の作と言われている「大天神」を使用しました。
中でも「増女」のすばらしさは楽屋での話題となりました。
実は私も「増女」を掛けて舞いたかったのですが、披きでしたので流儀の決まり「小面」で勤めました。こんなことを書くと河内「小面」に怒られ拗ねられそうですが、勿論この面も天下一の名品です。

ツレの面は本来「三日月」ですが、浩之君の芸風には「大天神」が似合っていると思い、また、使えるチャンスがあまりない面なので拝見したく、思い切って使用しました。楽屋内の評判はなかなかのもので、効果があったとの意見をいただき一安心しています。
私は能面や能装束が古いものならばなんでも良いとは考えません。新しいものであっても良いものもあります。大事なことは古くても、新しくても、そのものに訴える力があるかどうかです。見る者の心に伝わるものがあれば、それでいい、それが本物だと思います。
私は常に本物に触れていたいと心掛けています。
では本物はどのようにしたら見極める事が出来るか、それは感性が第一でしょうが、時間をかけての経験と、好奇心をもって見ていれば、見極める力は自然とついてくるのではないでしょうか。
今回、魚町保存会の方々のご支援で、よい経験をさせていただきました。魚町保存会に感謝申し上げます。
この貴重な経験を大事にして、次の能へとまた志を新たにして行きたいと思います。
(平成20年10月 記)
写真
1 後シテ 粟谷明生
撮影 吉越スタジオ
2 橋掛にて 左より手力雄命 粟谷浩之 シテ 粟谷明生 天鈿女命 内田成信
撮影 吉越スタジオ
3 後場 左より手力雄命 粟谷浩之 シテ 粟谷明生 天鈿女命 内田成信
撮影 岩田アキラ
4 前シテ 粟谷明生 前ツレ 大島輝久
撮影 岩田アキラ
5 小面 井関河内作
撮影 粟谷明生
6 増女 出目是閑作
撮影 粟谷明生
7 大天神 作者不明
撮影 粟谷明生
『采女』小波之伝の新演出投稿日:2008-09-05

『采女』小波之伝の新演出
大槻自主公演にて
粟谷明生
『采女』のレポートを書くにあたって、まず初めに、私に大槻自主公演(平成20年9月5日)での演能の機会を与えて下さいました大槻文蔵氏に深く感謝の意を申し上げたいと思います。
父(故・粟谷菊生)は大槻自主公演発足時より、喜多流を代表して、この会に客演したことをとても喜び、誇りにしていました。
異流公演となった『隅田川』(シテ・大槻文蔵氏、地謡・喜多流・地頭 粟谷菊生)の終演後、父が「よい思い出になるな」と笑顔で話していたのが、ついこの間のように思い出されます。父亡きあと、私にお声をかけていただきましたこと、父同様、私も大変光栄に嬉しく思っています。
ここで裏話をしますと、今回大槻文蔵氏からの出演依頼の曲は『邯鄲』でした。
しかし、『邯鄲』は、今年の春の粟谷能の会に予定されていましたので、演能意欲やチケットの売れ行きなどを考え、『采女』小波之伝では、とお返事しました。
すると「夜の公演で開始時間が遅いので、『采女』は長過ぎませんか」とのご意見でしたので、一時間程度で終わる小書「小波之伝」のご説明をさせていただき、ご了承いただいたという経緯がありました。

でははじめに、普通の能『采女』はどのような場面展開かをご紹介します。
前場は春日大社の縁起物語が多くを占めています。
一人の女(前シテ)が登場し、春日大社を建てた際、藤原氏が木を植えると春日明神が喜んだので、それ以後、参詣者は木を植える風習が流行った由来を語り、「盛りなる藤咲きて」と藤原家を賛美します。
前場の後半にようやく、采女という女性の仕事の役割の紹介や采女の入水の物語を語り、実はその釆女の霊と名乗ります。(中入)
後場は釆女の霊が女人でも成仏出来た喜びを中心に、法華経の賛美、クセでは安積山の故事の話、また藤原家の治める御世の祝言などが入り、作品の内容は豊富で、演能時間は二時間近くにもなります。このあまりにも長い演能時間とやや冗漫な作風のためか、我々能楽師は一度は勤めてみても再演となると、つい敬遠しがちになっています。
先代十五世喜多実宗家は晩年『采女』を再演される時、体力面で長時間の演能はきついと判断され、この主題満載の構成を短縮した小書を創案されました。
これが、当初『佐々浪之伝』と命名し、二回目以降『小波之伝』とされた小書です。
小書作成には土岐善麿氏が御相談役を引き受けられ、詞章部分は土岐氏の意見が反映されています。
しかし、残念ながらテーマの絞り込みの曖昧さなどを指摘する向きもあり、この小書はあまり評価されませんでした。
私は小書「小波之伝」を、能『采女』にこめられた主題を外さずに、しかも、喜多流能楽師が敬遠しないで、もっと身近に勤められるものにしたいと考え、粟谷能の会・研究公演(平成9年)において新演出を試み、その後、粟谷能の会(平成15年)に再度演出を変えて勤めました。今回、過去の二回の経験をふまえ、さらに工夫を重ね、テーマを一つに絞り込んで、コンパクトでありながら能として充分楽しめる曲作りを目指しました。
では、今回の改訂版「小波之伝」について、テーマと短縮された物語の展開をご紹介しながらレポートします。
采女とは、古代天皇の身の回りの世話に従事した女官です。彼女たちは地方豪族の容姿端麗な娘たちで、能『采女』は一人の若い采女を主人公としたものです。
小書「小波之伝」は、通常の『采女』の春日大社の縁起や藤原家を賛美した部分を削除し、采女の女が現世の苦患を超えて仏果得脱して清逸な境地を得ながらも、さらに昇華を望む物語として再考しました。
采女の女は入水し、地謡は「君を怨みし儚さは」と謡いますが、それは現世でのこと。
来世までも怨みや悲しみを引きずるのではなく、むしろ、死後の浄土の世界を美しく繰り広げるものです。そのため仏教賛美の色合いが少々濃くなりました。
女人も成仏出来ると説く法華経の教えは、女性はまず龍女となり次に男性へと変わって成仏するという考え方で、現代の女性にはご不満で腑に落ちない部分もあると思います。
しかし男女を問わず、人間の輪廻転生、生まれ変わる、という東洋人特有の願望を基盤にして一曲の組み立て方をしてみては、そこに焦点を当てるのはどうだろうと、改訂しました。
では舞台進行とともに改訂したところと私の意見をご紹介します。
都の僧(ワキと従僧ワキツレ二人)が奈良春日大社に着き参詣しているところに、ひとりの女が数珠を持ち、アシライ出にて本舞台に立ち「吾妹子が寝くたれ髪を猿澤の池の玉藻と見るぞ、悲しき」と和歌を詠みます。
僧が女に猿澤の池を尋ねると女は池へと案内し、采女の女が身を投げたこと、その謂われなどを語り、僧に供養を頼み、実は自分がその霊だと明かして池に消え、中入りとなります。
僧は里人にも采女の入水の話を聞き、夜の読経を池のほとりではじめます。
すると采女の女がありし日の姿で池の底より一声にて現れ、橋掛りの一の松辺りに立ち、読経の礼と成仏の喜びを僧に述べます。そして僧と釆女が「悉皆成仏は疑いない」とお互い確認しあうと、地謡はこの小書のテーマとなる「ましてや人間に於いてをや、龍女が如く我もはや、変成男子なり、采女とな思ひ給ひそ。而も所は補陀落の、南の岸に到りたり。これぞ南方無垢世界、生まれんことも頼もしや」を謡います。
恥ずかしながら、私はあの世とか浄土とは、何もしなくてもよく、楽に幸せに暮らせるところ、と想像していました。しかしどうもそう簡単で気楽なところではなさそうです。
仏教も、その教義はいろいろ様々でしょうが、ここでは能『釆女』の取り上げている法華経を主に考えますと、また男女差別のこととなり恐縮ですが、西方浄土は男性が、南方世界は女性が来世に行くところと区分けされていて、補陀洛は南方の観世音菩薩の修行の場です。
私は菩薩になれればそれなりに幸せでいられると思っていましたが、さらにその上の世界、如来の境地まで修行しなければ最高位にはなれないことを知りました。菩薩は涅槃に到るための修行の段階なのです。僧に幾重にも回向を頼むのはそのためかもしれない・・・・。
そう考えると、舞台上では池の底から現れる采女であっても、実は補陀落浄土という天上界の高いところから降りてくるイメージが思い浮かび、そのように、と勤めました。
話を舞台進行に戻します。
その後は、本来あるべき春日明神の賛美や、采女の安積山の歌物語などを省き、序之舞へと続けました。
「生まれんことも頼もしや」と僧へ合掌した後に、詞章を観世流の小書「美奈保之伝」のように「取分き」を「さるにても」に替え「さるにても忘れめや、曲水の宴のありし時、御土器(かわらけ)たびたび廻り、有明の月更けて、山杜鵑誘い顔なるに、叡慮を受けて遊楽の」に移行し、采女が帝に仕えていた時代の雅な情趣を少し添えました。
大胆な削除であっても、『釆女』という曲がもつ雰囲気、香気といったものを、残しておきたいと思い、ここは敢えて削除出来る個所であっても省くことをやめました。
昔、お酌をしながら眺めた、有明の月、山杜鵑の声も聞こえ、と遊楽ははじまるのです。
そして時間短縮でこの小書を面白くさせるもうひとつのカギ、それが序之舞の構成です。
今回の改訂では、序之舞の導入部分とその構成に心を砕きました。
前回は序之舞に凝りすぎて時間もかかり過ぎた反省があったため、その辺も考慮して、
あまり鈍重ならず、しかもしっとりして優美に、主人公が次第に昇華していく様を表現出来ればと考えました。
(ここからは楽屋内の細かい話となりますので、ご興味が無い方は、次の面の話へと読み飛ばして戴いて構いません。)
序之舞への導入は、通常、拍子不合(ひょうしにあわず)のリズムに合わないノリで和歌が詠われ、途中から笛が吹き出します。
例えば、『半蔀』ならば、地謡が「折りてこそ」と謡う途中から笛が吹き始め、序之舞が
はじまり、舞が終わるとまた繰り返すようにシテは「折りてこそ、それかとも見め、黄昏に」と和歌の全部を詠むのが定型です。
前回は「生まれんことも頼もしや」の後に先代宗家がなさった「吾妹子が・・」をいれて序之舞としましたが、今回は、普通ではない特別な対応をお囃子方(笛 杉市和、小鼓 成田達志、大鼓 白坂保行)にお願いし、この異例なことを了承していただきました。
地謡の「誘い顔なるに、叡慮を受けて遊楽の」という拍子に合った謡の直後に笛が吹き出し序之舞に入るという新形式です。序之舞の構成は掛・初段・二段と短い三段構成としました。初段オロシでゆっくりと池を見込む型が入り、次第に補陀洛世界へと昇華していく境地へと気持ちも高揚し、ノリも次第に早まり最高潮となります。
二段目は短く、橋掛り(一の松)へと移動し、舞の留めは『松風』見留の破之舞を真似て、譜は呂に落とし、「猿澤の池の面」と謡います。
それ以後本舞台には敢えて戻らず、僧から遠ざかりながらも、池の底へ戻りながら回向を願う型としました。
では今回使用した面についてご紹介します。
シテの面は喜多流では小面が決まりですが、私は前回粟谷能の会と同様に「宝増」を使用しました。この面は岡山の林原美術館にある「宝増」の写しですが、小面と増女の中間、かわいいと大人びた表情の双方の幽艶さがあり、私は気に入っています。
実は、前回は九世観世銕之丞氏にお願いして銕仙会所蔵の宝増を拝借しました。
そのとき、銕仙会の笠井賢一氏より、「あの面、君にとてもよく似合っていたよ」と言われ、それが忘れられないでいました。
父が愛用面とした「堰」の小面も先代喜多実先生から「菊生、いい面だね、おまえには勿体ないくらいだ」と言われたことがはじまりです。
面との出会い、面への信頼は能楽師の演能に大きな心の支えとなります。
以前から我が家にも「宝増」があれば、と思っていましたが、近年その願いが叶いました。今回この「宝増」が小波之伝や、私に力を発揮してくれたのでは、と私は信じています。
以上が今回の演能レポートですが、総括して振り返ると、
改訂小波之伝は、補陀落浄土という無垢世界に生まれ変わった喜びを優艶に美しく表現することが主題となったということです。
今回三度目の挑戦で、ようやく『采女』小波之伝の新芽が出はじめた感があります。
将来、どなたかにシテを勤めていただき、私は地謡にまわり別な視線、観点で舞台を創り上げたいと思っています。
最後になりましたが、この小書演出にご理解をいただきご指導と地謡を謡って下さいました、我が師友枝昭世師に深く感謝申し上げます。
また改作にご協力いただきました方々、「小波之伝」出演者の皆様、鳥居明雄氏、木澤景氏、横山晴明氏の方々にも厚く御礼申し上げます。
(平成20年9月 記)
写真 『釆女・小波之伝』
シテ 粟谷明生
撮影 森口ミツル
興行を請け負う立場になって投稿日:2008-08-01

興行を請け負う立場になって
―薪能で能の世界へどうぞ―
粟谷明生
午後2時の外気温は35度、猛暑日の夜、豊橋の吉田城本丸跡広場にて吉田城薪能(平成20年8月2日)が行なわれ、能『船弁慶』を勤めました。
今回の演能レポートは、能公演の依頼を受ける能楽師の立場を舞台裏からご紹介したいと思います。
今回主催する三河三座は能楽など古典芸能を地元三河地方に普及しようと発足されたNPO法人のボランティア団体です。その三河三座より薪能公演の依頼があったのは一年前でした。豊橋近郊のはじめて能をご覧になる方はもちろん、何度かご覧になられている方々にも、もっと能を身近に感じ楽しんでいただければ、そのお手伝いをしたいと思いご依頼を承諾しました。

能の催しの善し悪しは企画する側の取り組み方次第で決まり、面白くも平凡にも、またつまらない企画にもなります。
応援して下さる団体の経済力や宣伝力が興行に大きな影響を及ぼしますが、大事なのは実際現場で請け負う人がどのような考えに基づいて番組構成をして結果を出すかです。
能の興行の請負人には能楽団体の事務関係者や代表責任者もいれば、私のように能楽師自ら個人で受ける場合もあります。
今回、吉田城薪能の公演は三河三座から私個人に依頼がきましたので、私は私なりの薪能への考え方を反映したいと思い、企画に意見を言わせて頂きました。
“薪能”と聞くと「夏の夜の清々しい屋外で、雅で幽玄な世界の舞と謡」
などと想像されると思います。
確かにそのような好条件での薪能もありますが、それは非常に稀なことで、内幕は、まずほとんどが悪条件の下で能楽師も裏方現場スタッフも舞台を勤め、働いています。
演者は、蒸し暑い中、装束を着附け、出番前に既に大汗をかいています。
優美な篝火の炎の煙は、風向きによっては演者には煙たく謡に支障をきたします。
また舞台照明は虫などを舞台に集め、演者の妨げになることもあります。
また屋外での音声は音響技術を駆使しなくては観客には聞こえません。
吉田城薪能もこのような悪条件が容易に予測できました。
しかしどんなに暑くても、折角ご来場して下さる方々に「来てよかった!」「今度は能楽堂で観てみようかな」と思っていだだきたい、どのようにしたら、観客が満足して下さるか、を考えました。最近は様々なアイデアやプランがありますが、私は次のように考え企画演出しました。
まず第一に出演者の顔ぶれを揃えることにしました。
よい顔ぶれは当然、観客動員数を増やします。豊橋という地で、喜多流という小さな流儀の、しかも私のようなマイナーな個人が請け負う場合、当代の人気者能楽師の出演は力になり効果覿面です。今回は狂言師として、またテレビや映画でもご活躍の野村萬斎氏に狂言を、笛は幅広い音楽活動をしてご自身のバンドのCDも発売されている一噌幸弘氏に出演依頼して、能だけではない観客も取り込んでの公演にしようと思いました。
第二は曲目の選択です。能公演では出演者と同時に、能そのものに満足していただくことが重要で、曲の選択もカギを握っています。物語が判り易く、舞台進行の流れが良い曲が最適と考え、私は『船弁慶』を選びました。
今回、薪能の公演時間は二時間で、能の演能時間は一時間以内という制約がありました。
はじめは『船弁慶』は演能時間が長いので無理かと諦めかけていました。
しかし、一時間以内で、どうにか遜色のない見応えのある『船弁慶』短縮版を公演出来ないものかと思い、新演出を試みました。
はじめて能をご覧になる方、今までに一、二度しかご覧になられたことがない方々には、役者の動きが無い部分は退屈に感じられるだろう、出来る限り動きを中心にした舞台進行のよい流れに重きをおき、演出しようと考えました。

ここでちょっと『船弁慶』の曲について楽屋話をします。
『船弁慶』はシテ方の小書だけでなく、ワキ方や狂言方の小書も付くと長時間に及びます。
過去に霞会(脇方・故松本謙三氏の主催の会)でシテ・故粟谷新太郎で『船弁慶』真之伝・浪間之拍子・船中之語・早装束・舟歌の小書揃いで二時間二十分もかかった記録が残っています。もっともこれは特別で、通常最近の自主公演や例会では、一部を割愛して一時間半ぐらいにして演じています。
一番立ならば二時間を超えての番組も許されますが、三番立ての留(とめ)にあまり長時間の番組構成はバランス的にあまり誉められたことではありません。長時間の『船弁慶』を催す場合は、初番や真ん中の曲目を短めの曲や軽い曲にするという方法をとっています。
話しを薪能に戻しましょう。
では屋外の能、というものはどのように演じたらよいか。
私の経験上、屋外の演能は屋内の能楽堂や劇場とは違います。
屋外は、時折吹く風を感じ空気も清々しく気持ち良いものですが、反面、開放感が強すぎるためか、屋内で感じる演者と観客の密な緊張感は生まれ難いものです。
演じ手が精一杯舞台を勤めても、なんとなく物足りなさ、空振りしたような空虚さを感じることがあります。それは屋外と屋内の違いもありますが、それだけではなく、屋外に対応する能役者の取り組み方にも原因があります。
楽屋内の話しですが、能は屋外と屋内で同じように演じても、残念ながら同じ効果が出ません。そのことを能楽師が把握しておかなくてはいけません。
観客の皆様はさほどその違いがお判りならないかもしれまんが、楽屋裏ではこの微妙な違いを感じ、苦心し工夫をこらして演じている能楽師もいるのです。

もっとも、今のような屋内で屋根が付いた能舞台という奇妙な構造の劇場で演じるようになったのは近年のことで、能発生から江戸期の頃は、屋外中心の活動、興行であった訳ですから、昔の能役者は常に屋外用の演技をしていたことになります。
ですから私の意見は、今の演能ではどのようにしたらよいか、今に拘ってのことです。
私は、初心者向けで、屋外のしかも時間制限がある特殊な条件下の能は、短く判りやすい作品を選び、卓越した技の持ち主が観客にその思いが直に伝わるような設定を心掛けるべきと思います。
今回当日になって、音響映像担当者から一つのアイデアが提案されました。
舞台裏のお城に映像を映そうというのです。潮が巻いたり、波の音をたてたり、白色や赤色、青色の映像です。私は一瞬返事に困り、失礼かと思いましたが、すぐにお断りいたしました。
演劇には映像や音、煙など、いろいろな最新設備や技術を使った新演出があり、それを楽しみにしている方々もおられるかもしれません。それはそれでいいと思います。
しかし私は、能とは、観る者の想像力に委ねるところが最も大事なところだと思っています。観客の想像力を奪って、それをサービスだと考えるのは勘違いです。いくら時間を短くしても観能の基本からは外れたくないと思いました。
私が携わる能は演者たちの演じるエネルギーをより観客に伝わるようにと心掛け、それを最優先にしたい、それを邪魔するものはいらないのです。
粟谷明生に頼むと、最新型の演出は出来ない、奇抜な演出は期待出来ないと評判が立っても構わない。逆に、粟谷明生だから絶対に煙りが出たり不似合いな照明はない、と言われるほうがよいのです。
今回は二時間の演能時間の枠の中に、野村萬斎さんと私の舞台あいさつ、火入れの儀、舞囃子、狂言そして残った時間で能という流れになりました。演者たちは暑さを我慢し、エネルギーを集中して勤めてくれました。私も前シテ・静御前、後シテ平知盛と早代わり、両者の違った個性が引き立つよう懸命に勤めました。
地元の定盛友紀君の子方・義経の登場も新聞に取り上げられるほど興味を引くもので、ご来場の皆様には楽しんでいただけたのではないでしょうか。
時間の制約もありましたが、工夫を施せば短時間でも『船弁慶』を楽しんで頂ける、かえって制約があるからこそ、よい結果を出せたと思っています。
「あっ!もう終わってしまったの!もうちょっと見ていたかった!」と観客を唸らせられればと思っていましたが、後日、ご来場頂きました方から、「能や狂言の世界が身近に感じられた」「退屈するかと思っていましたが、充分楽しめた」というご感想をいただき、実は一番喜んでいるのは私なのかもしれません。
そして、スタッフの方々は舞台作り・会場整理からはじまり、すべてのことを献身的にやってくださいました。心より感謝申し上げます。
能を愛好する民間の人たちが、能の舞台公演に骨を折ってくださる、この様な試みを試行錯誤してやっていけたら、そして、こういうことを通して全国的に能が広がっていけばいいな、それも喜多流の能が広がっていけばよいな、と思いました。
(平成20年8月 記)
写真 撮影 新村 猛
写真1 ご挨拶 粟谷明生
写真2 能『船弁慶』前シテ 粟谷明生
写真3 能『船弁慶』後シテ 粟谷明生
友枝昭世の会『求塚』の地謡を勤めて ー 間語りから見えた男達の思い ー投稿日:2008-05-24


『求塚』は地謡がよくなくては成立しない!
と言われています。
「優れた演能には地謡がシテの演技を支える上で最も大切なの、
その充実を課題としたい」
と『求塚』を選曲し、友枝昭世氏にシテをお願いして地頭を粟谷能夫、私も微力ながらその隣で謡う会を試みたのは、粟谷能の会・第三回研究公演(平成5年5月)でした。
あれからもう15年が経ちました。
今回、友枝昭世の会の『求塚』(平成20年5月)で地謡を勤め終え、新たな発見がありましたのでここに書き留めます。
装束のこと、ツレのこと、いろいろな発見がありましたが、今回、一番気になったのは間語りです。地謡座で間語りをつぶさに聞いて、私のこれまでのいくつかの疑問が解けてきました。
間語りは、研究公演では野村万作氏、今回は山本東次郎氏がなさいました。
『求塚』の間語りは通常は菟名日処女(うないおとめ)が生田川に身を投げ、それを知った二人の男、小竹田男(ささだおのこ)と血沼益荒男(ちぬのますらお)が塚の前で刺し違え果てるところで終わります。
しかし近年はその後も語るのが普通の形式となって、かなり長い間語りとなります。
その後の語りの概要を先日の山本東次郎氏の語りを元にご紹介します。
「刺し違えた男の親達は嘆き、菟名日処女の塚の両隣に塚を作 り葬りました。
このとき小竹田男の親は刀を一緒に葬りました。あるとき旅人が求塚の前を通ると、ひとりの男が現れ、刀を貸してくれと頼むので、旅人は刀を貸すと、男は喜び消えていきます。
しばらくすると血まみれになった先ほどの男が現れ礼を言うと、また消えてしまいます。夜が明け男の塚を見ると血のついた刀が置いてありました」
このように終わります。
能の作品を読み込むとき、シテ方の私は流儀の謡本だけに頼りすぎる傾向がありました。
狂言方の間語りには本筋が述べられているので、曲の主軸をしっかり捉えるためには、間語りも把握しておいたほうがよいようです。
手元に研究公演の野村万作氏と今回の山本東次郎氏の資料があります。
双方を比べ、私のわからなかった謎解きをしながら、また後日に山本東次郎先生に伺ったお話を添えて、『求塚』の訴えたいものを探し出したいと思います。
まず喜多流の謡本では解読出来ないところ、私が気になったところをいくつか挙げ、その答えを間語りの中から見つけ、あらすじの裏打ちをしたいと思います。
謎1;二人の男はどこの人か?
山本家の間語りは小竹田男が摂津国、血沼益荒男は和泉国の者との紹介から始まります。
謎2;鴛鴦を撃って決着する提案は、菟名日処女が考えたことか?
喜多流の謡本には女の考えで鴛鴦を射止めた方に靡くとありますが、間語りでは女が両親に相談し親の指示であったと語ります。
謎3;菟名日処女の死骸を取り上げたのは誰か?
喜多流の謡本はまったく触れませんが、間語りでは、女の両親が嘆き取り上げ葬ります。
謎4;女はなぜ入水自殺をしてしまったのか?
間語りでは、恋路の判断のために鴛鴦を殺してしまった罪悪感と語りますが、私はそれ以上の何かがあったと思えてなりません。
謎5;女の入水で、なぜ二人の男が刺し違えなければいけないのか?
間語りでは、女が死んでは仕方がないと、両者落胆して命を落としますが、
これも謎4と同様、裏があるように思えます。
謎6;血沼益荒男の塚に刀が埋葬されなかった理由は?
和泉流の語りには、血沼益荒男の親は愚かなため刀を入れなかった、とあります。
以上のことから私の推察を書いてみたいと思います。
二人の男が一人の女に同時に恋をして、女は判断に耐えられず自殺する、実らぬ恋に男達も嘆き後を追い、命を落とす。
一見単純なラブロマンス・純愛物の作りに見えますが、実は裏側に大きな大人の力が働き、男女それぞれの運命を変えてしまったのではないでしょうか。
シテが「同じ日の同じ時に、わりなき思いの玉章を送る」と謡い、間語りでも二つの恋文が書き方までまったく同じと苦笑するかのように聞こえたところがあります。
同じ日、同じ時、同じ文面、何もかもが同じというのはどう考えてもおかしい、絶対裏があるはずと、疑いたくなります。
たとえ恋文にひな形らしきものがあったとしても、そこに個人の感情が溢れていないのは周りが作為したとしか思えません。この恋文も悲劇の隠し味になっていると思います。
では、この「裏」とは何でしょう?
それはこの恋が個人的な思いだけではない、家や村という組織をあげての女の獲得であり、そこに両者の駆け引きがあったと思われます。
仮説を立てると、菟名日処女には特別な力があって、たとえば霊力のようなものです。
それ欲しさに地元の小竹田男と隣国の血沼益荒男に任命が下だり、両者は女を手に入れるための道具となった・・・。
万が一、女を相手に取られたらば、家だけではすまない、村や地域という組織の存亡にもかかわる一大事となる。ですから男たちは是が非でも女と契りを結ぼうと必死になるのです。
個人的な「あの娘がかわいくて・・・」のような感情だけではない、男達に背負わされた重い責務があったのではないかと想像してしまいます。
しかし男達やその背後の努力も空しく、もくろみとは裏腹に結果は大事な女の死、という最悪な事態となります。そして、女の死は男達にとっても終わりを告げます。家に戻りこの結果をどのように報告、説明すればいいのか、そんな重圧が二人にのしかかります。
「もう家には戻れない」「行き先がない、死ぬしかない」と二人の男は追い詰められ、刺し違えて死ぬ、という哀れな結末となるのです。
これを、恋しい女に死なれ後を追う美談として、オブラートで包み覆っているのが、能『求塚』ではないでしょうか。
そして、菟名日処女と同国の小竹田男の両親は塚に刀を葬ります。�の血沼益荒男の塚には刀の埋葬がなかったのは、和泉流では「親が愚かのため」と露骨に語りますが、山本家の語りではそのような話は入りません。本当に親が愚かであったのでしょうか?
私は隣国の者がそう易々とその土地に入り得ない交通事情、部族のしきたりなどもあって弔えない状況、様々なものが遮って邪魔をしたのではないかと推察します。
それは小竹田男の男と血沼益荒男の名前からも想像出来ます。血沼益荒男は荒くれ者の感じで、侵入者のイメージです。
侵入者の血沼益荒男にとって、地獄に堕ちても、地元の小竹田男から永遠の責め苦をうけることになります。なんとも救いがたい恐ろしい世界です。
益荒男は一時、刀を貸してもらい反逆に出ますが、彼らは輪廻の如く地獄に堕ち続け、侵入者血沼益荒男は責め続けられるのです。そこに救いがまったくないのが男の私としては寂しくもあり、気になるところです。
そして『求塚』の最大のテーマ「そんなことまで私の科なのでしょうか」と女は旅僧に救いを求め回向を頼みます。
能の稽古をうけシテを経験し、実際の舞台で作品に触れると、一人の女が政治的に使われたことの哀れさが肌に伝わってくるようです。どうにかして救ってあげたい気持ちになります。
曲の最後に、地獄の有様を見せて暗闇となると、菟名日処女は火宅の栖を尋ね、求めて、塚の草の陰に消えます。
静かに『求塚』は終曲しますが、成仏できた、とは謡いません。
なんとも悲しい話ですが、私はこの悲劇を三役も含め役者全員が力を振り絞って演じ囃すことで、菟名日処女をひとときでも成仏させるのだ、と念じ謡いたいのです。
最後の「火炎も消えて」は強く謡い、次の「暗闇となりぬれば」で気持ちを変え、調子も変化させたい、むずかしい謡どころです。
友枝氏は
「昔はキリの謡の調子が高くて。張りすぎ、つっちゃってね。?暗闇となりぬれば?はもう転調せずにはいられない程で、自然と転調してしまう、それで演っていたんだよ。しかし、今それがいいかと言うとちょっと疑問だね?。あそこまで張るのがいいとは思えないからね?」
と話されました。
ここの謡い方については私の今後の課題となっています。
後シテの装束について、伝書には次のようにあります。
「後痩女・箔・腰巻・腰帯の上に水衣肩上げ」
「色大口袴・白練坪折ニテモ」
先人たちは水衣・色大口袴が多く、父も伯父の写真も水衣・大口袴ばかりです。
しかし、近年は色大口・白練坪折が主流と変わりました。
今、喪服は黒色ですが、日本はずいぶん長い間白色が主流でした。
昔は喪服といわず浄衣(じょうえ)と言い、清潔な着物を着せて死者を送ろうとし、純白こそ一番死者を送るのにふさわしい色だと考えていました。
『求塚』や『砧』など浄衣の姿を意識すれば、箔も白練も白色の着用が適当です。
今回も前回も、友枝氏はすべて白色を選択されたことは理に適っていて私は大いに賛成するところです。
引廻が下ろされ、後シテが現れた姿を見たときは、死者と言うよ
りも美しく輝きを発散する、凛とした女性、あの世からのメッセンジャーのように私の目には映りました。
救いのない『求塚』ですが、浄衣の姿で描き、地謡も役者もすべてが全力で弔う舞台になったのではないかと思っています。
痩女物の代表曲は春の『求塚』、秋は『砧』です。
壮絶な死を扱うのは『求塚』です。
私は『求塚』はまだ披いていないので、『求塚』への熱い恋心が覚めないうちに是非とも早く勤めたいものです。
今回の語りについて、後日、山本東次郎氏にお話を伺いましたのでご紹介します。
明生 「先日の『求塚』の語りは面白かったですが、あれは新たに横道萬里雄氏が創られたものですか?」
東次郎「いえ、違います。大蔵の分家、八右衛門家にあるものを当家が伝承しています。以前、寿夫先生が『求塚』を演られるときに、全部語る間を御存知で御所望されたので、やるはずでした。残念ながら寿夫先生が亡くなられましてそれは果たせずにいました。
その後、静夫先生(故観世銕之亟)のときに私が勤めました。
ですから、新作ではありません」
明生 「血沼益荒男の刀について、親が愚かだから一緒に埋めなかったとか、長年の怨み思い知れ!みたいなことを血沼益荒男が言うのは語られましたか?」
東次郎「いいえ、それはないです」
明生 「和泉流だけですね。この間語りを山本家では、東次郎先生しかやれないというのは本当ですか?」
東次郎「みんな長いから、やりたがらないだけですよ(笑い)。実は先代まではやっていなかったのですよ。私は今の時代ならばもういいかな、と思いやっております」
明生 「どうしてやらなかったのでしょうか?」
東次郎「たぶん、生々しくドギツイ語りが能に合わないと控えたと思います」
明生 「なるほど・・・。お聞きしてそんな風には感じませんでした。私は適度な壮絶感が気に入りました。お忙しいところすいません、有難うございました。」
下記に2つの公演の配役を記します。
(研究公演の配役)
シテ 友枝昭世
ツレ 内田安信・塩津哲生
ワキ 宝生 閑
アイ 野村万作
笛 一噌仙幸
小鼓 北村 治
大鼓 柿原崇志
地頭 粟谷能夫
副地頭 出雲康雅
(友枝昭世の会の配役)
シテ 友枝昭世
ツレ 内田成信・大島輝久
ワキ 宝生 閑
アイ 山本東次郎
笛 一噌仙幸
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 柿原崇志
地頭 香川靖嗣
副地頭 粟谷能夫
写真
カラー 『求塚』シテ 粟谷菊生
大槻自主公演 撮影 濱口工房
モノクロ 『求塚』シテ 粟谷菊生
喜多別会 撮影 宮地啓二
神戸近郊と三井寺、清涼寺投稿日:2008-02-16

神戸近郊と三井寺、清涼寺
平成19年7月7日と8日は全国菊生会・明生会合同ゆかた会が琵琶湖畔「琵琶湖グランドホテル京近江」で催されました。
前日の6日(金)には神戸近郊の謡蹟めぐりを、そして月曜日は社中の皆様と三井寺と清涼寺にお参りしてきました。
山陽本線の新長田(しんながた)駅で下車し、タクシーを利用して「清盛塚」「忠度腕塚」「胴塚(首塚)」、阪神淡路大震災と道路拡張で離散された、「平知章の碑」や「平通盛、木村源吾重章、猪俣小平六の石碑」を探し、鵯越墓園にある「義経駒つなぎの松跡」「蛙岩」を見つけ、山を下り願成寺にて「平通盛と小宰相の墓」にお参りして、JRで三宮駅まで移動し昼食をとり、駅から徒歩5分ほどの生田神社にも行ってきました。神社では「箙の梅の碑」と「梶原景季の井戸」と「生田の森」を眺めて、前半の神戸近郊の謡蹟めぐりを終了しました。翌日からの全国菊生会・明生会合同ゆかた会の会場となる「琵琶湖グランドホテル別館京近江」に向かい、会の準備をして、9日は三井寺と清涼寺を貸切バスで社中の皆様と楽しく謡蹟めぐりをして参りました。
では写真でご紹介します。(平成19年現在)

清盛塚
清盛塚は兵庫駅から車で7,8分ほど、高さ10メートルほどの十三の塔は北条貞時が清盛を弔うために建立したといわれています。神戸市兵庫区切戸町1-3

清盛塚の案内板
清盛塚も琵琶塚も以前は違う場所にありましたが現在の場所に移動しました。

琵琶塚
清盛塚の裏には琵琶塚があります。

琵琶塚の説明

平忠度の腕塚への案内
この案内碑は人家の片隅にあるのを見つけました。
長田区駒ヶ林町4丁目5番地

腕塚堂
漁業組合左横から入る道を少し進むと右上に腕塚堂とあります。

平忠度塚の灯籠
小さな灯籠ですが立派でした。

忠度の石碑
阪神大震災時には相当な被害を受けたようですが、現在は地元の方のご尽力により、狭いながらもきちんと復興されています。

堂内
中央に薩摩の守忠度と、左には忠度の部下、平家兵士と書かれている位牌がありました。

忠度胴塚
胴塚の所在が判らなくタクシーの運転手さんにお聞きして「このあたりでしょう」と案内されたら、ずばり!すぐに発見出来ました。右側の植木があるところが胴塚です。

胴塚
小さな看板で見落としてしまいます。

阪神淡路大震災で一度崩壊破損してしまいましたが、今は修復し元通りになりましたが、接着の跡は残りました。

忠度の系図
忠度は忠盛の五男。清盛とは腹違いですが、文武両道の達人です。能『忠度』のシテ謡は強吟と和吟の繰り返しでむずかしい謡いですが、文と武を表しているといわれています。

源平勇士の墓
平知章の墓、平通盛の墓、木村源吾重章の墓、猪俣小平六の墓が一個所に集められました。以前はそれぞれ別の場所に点在していましたが、震災後ここに再興されました。
村野高校グランド西側

猪俣、木村、通盛の墓(左より)
通盛と重章は差し違えて死にますが、死後も隣同士に葬られています。

案内板
石碑の経緯がここに記されています。

史跡、鵯越の案内碑
鵯越霊園の前の道路に建てられていますが、見落とすほどの大きさです。

神戸鉄道、鵯越駅
名所案内板が駅に飾られていましたので、それを頼りに駒つなぎの松、蛙岩などを探索しました。

高尾地蔵尊
霊園の山頂付近にある高尾不動尊の奥に、義経駒つなぎの松がありました。

駒つなぎの松跡
義経が鵯越を通過したときに、戦勝祈願で高尾不動にお参りし、そのときに馬をつなぎ留めた松が以前はありましたが、現在は朽ちてその跡だけがありました。

朽ちた松を見る筆者粟谷明生
無惨にも幹がすこしあるだけでした。

蛙岩、
一説にはここから山を下ったとありますが、平家方が陣をはっていたのは須磨一ノ谷ですから、ここからというのは信憑性が薄いと思われます。新緑地区

願成寺
平通盛と小宰相の墓があります。

通盛と小宰相の墓
左から住蓮上人、小宰相、通盛の墓。住蓮上人は鳴門の海に小宰相と共に入水した乳母、呉羽の義兄で願成寺の中興の祖といわれている。以前は上人の左側に呉羽の墓もあったが、地震で今は無くなっていてさびしい限りだ。

石碑「箙の梅」と謡蹟保存会の看板
生田神社通用門、左の駐車場前には箙の梅の石碑があります。
以前は道路際にあったようですが、一段高いところに安置されています。生田神社境内

箙の梅
草が生えて梅の字が読みにくいですが、確かに梅と書かれています。梅は石碑の左にあります。

生田神社山門
女優藤原紀香・お笑い芸人陣内孝則の結婚式場となり有名になった生田神社ですが、式のあった19年5月は参拝客が殺到したとのことです。

生田の森
神社の裏手が生田の森と呼ばれていますが、案内石碑も震災で破損、修理した跡が12年前(平成7年1月)を思い起こさせます。

矢を作った竹、武家の家には必ずこの竹を植えていたと言われています。

三勝修羅のひとつ『箙』のシテは梶原平三景季、箙に梅をさして戦った風流心を持つ武人です。

梶原の井
通用門右手にひっそりとあるので、見落としてしまいそうです。
源平生田の森の合戦の折、梶原景時がこの井戸水を掬んで生田の神に武運を祈ったと伝えられている。別説では景季がこの水を掬った時、箙の梅の花影が映ったともいわれている。

三井寺の仁王門
この門は徳川家康により甲賀常楽寺より寄進された。ここより境内全部廻ると3~40分かかる。境内は広く階段も多いので、ご高齢の方や、足腰に自信のない会員はバスで待機されることになりました。参拝には丈夫な身体と健康が必須のようです。

鐘楼
日本の三銘鐘は宇治平等院、高尾神護寺と近江八景「三井晩鐘」で知られる園城寺です。

閼伽井屋
天智、天武、持統天皇の産湯に用いられた霊泉から「御井(みい)の寺」三井寺と呼ばれるようになりました。

謡蹟保存会の立て札前にて
観音堂の観月舞台前に謡蹟保存会の立て札があり、ゆかた会参加者と記念撮影しました。

清涼寺本堂(釈迦堂)
広い境内は階段がなく高齢者には参拝しやすいお寺です。
本尊釈迦如来像は国宝。
本尊釈迦如来は釈迦37歳の生き姿を刻んだものといわれています。

昔お釈迦様が生母摩耶夫人に法を説くために忖利天(とうりてん)にのぼられたので、時の優填王(ゆうでんのう)は毘首竭摩(びしゅかつま)に命じて栴檀の香木で釈迦生身の尊像を作らせた。90日後、お釈迦様が戻られ、自分と寸分違わねこの像を見て「私亡き後この像が衆生を済度するだろう」と言われました。

清涼寺の謡蹟保存会の立て札
能『百萬』のクセはシテの母親が奈良坂から京都清涼寺まで子を尋ねる道行を舞い謡います。

謡蹟保存会の立て札
本堂前を左折、鐘楼と狂言堂の間にありました。

源融の墓
多宝塔と嵯峨天皇の宝塔の間に源融公の墓があります。立派で綺麗に整備されたお墓の前です。
『鵜飼』ゆかりの地を訪ねて投稿日:2008-01-16

平成19年12月27日(一泊二日)、明生会の有志四名と能『鵜飼』ゆかりの地、石和(いさわ)で謡蹟めぐりをし、一泊して温泉にも浸かり、楽しい一時を過ごしました。
石和温泉駅でジャンボタクシーを2時間借り切り、まず「鵜飼山・遠妙寺」、そして「法城山観音寺」から笛吹川を見ながら、「お硯水祖師堂」「岩落」などを廻り、それでも時間に余裕があったので、フルーツランドまで足を伸ばし、富士山を眺めて、ホテルに戻ってきました。今回は赤い風船の旅行プランを利用したため、宿泊費・交通費込でタクシー代金を支払っても一人二万円でおつりがあるほど、格安なお買い得プランだったことを付け加えておきます。
では写真でご紹介します。

石和温泉駅
石和温泉はJR中央本線新宿駅から特急「あずさ」で1時間半という近距離にある温泉地です。
駅前は工事中でした。近いうちに整備された綺麗な駅前になると思います。

鵜飼山 遠妙寺山門
石和温泉駅からタクシーで4、5分にある鵜飼山・遠妙寺(おんみょうじ)。
日蓮上人が弟子の日朗と日向と当地を廻ったとき、鵜使いの翁の霊に出会い、その霊を弔うために鵜飼堂を建て、その後に遠妙寺が建立されたといわれています。

仁王門
山門から仁王門、そして本堂が一直線上にあります。

遠妙寺の由来

漁翁堂
境内の本堂に向かい、左手に鵜飼勘作の墓があります。

謡曲保存会の立て札
謡蹟めぐりには欠かせない立て札。これを見つけると謡蹟めぐりをした実感が湧いてきます。

一字一石の供養塔
日蓮上人は法華経の一巻八部、六万九千三百八十文字を小石に一字ずつ書き、川に沈め
供養をしました。供養塔は本堂に向かい、左手の石像大黒天の裏にあります。

笛吹川に掛かる万年橋
現在の笛吹川は昔、鵜飼川、石和川と呼ばれていました。
上流にダムが出来る前は水量がもっと豊富だったとは、タクシーの運転手さんの弁。

御硯水祖師堂
万年橋近くに、日蓮上人が漁翁の霊を弔うために経を書き続けた祖師堂があります

御硯水(おすすりみず)の解説

井戸
祖師堂には日蓮上人の錫杖によって湧き出たとされている井戸があります。

井戸近影
もとは川近くにあったものが川の氾濫で移動されたようです。

岩落の場所を確認する、明生会会員と石和タクシーの運転手さん
御硯水祖師堂の説明文の中に「現在地東方百メートルの地に相生の老杉あり。その西側鵜飼川の本流に岩石そばたち水が衝いて瀧の如くに落ちたので岩落と称した」と説明があったので、岩落の場所を探しました。

相生の杉
祖師堂から万年橋を渡り右折して対岸の中央園芸社に相生の杉があることが判り、敷地に入れてもらい老杉を発見。この近くに岩落があったと言われています。

岩落と思われる場所
昔の面影はありませんが、たぶんこのあたりだろう、と撮影しました。

鵜飼勘作の石像
万年橋と笛吹橋の間の川端に鵜飼勘作の石像がありました。なんとなく鵜之段を舞っているように思われたので・・・・・

鵜之段の一部
真似してみました!
『満仲』ゆかりの地を訪ねて投稿日:2007-11-16

謡曲『満仲』ゆかりの謡蹟めぐりをしてきました。
能『満仲』の物語を簡単に紹介します。
源氏の祖、多田満仲は仏心篤く、我が子美女丸を僧侶にすべく中山寺に預けますが、武門の血筋を引く美女丸は僧侶になることを嫌い、ひたすら武芸に明け暮れています。父満仲は怒り、重臣藤原仲光に美女丸を手討にするように命じます。しかし若君に刃を向けることが出来ない仲光は我が子の幸寿丸を身代わりに殺し美女丸を叡山に逃がします。
仲光は偽りの美女丸の最期を満仲に伝え、自らは暇を願い出ます。そこに比叡山の恵心僧都が美女丸を連れて満仲に面会に来ます。満仲は幸寿丸を殺しながら、生き永らえている美女丸を強く叱り自ら手討にしようとしますが、恵心に諭され美女丸を許し、仲光もまた主君に仕えることになります。喜びの酒宴となり、仲光は舞を舞い、美女丸の仏道修行を励まし見送りますが、仲光の心の中には幸寿丸への思いが深く残るのでした・・・。
満仲公から義家公までが多田神社に祭られていますので、ここで御祭神の御事蹟を紹介しておきます。
源 満仲公(人皇56代清和天皇の御曾孫多田満仲は24歳で源姓を賜り源満仲と名乗る。86歳没)
源 頼光公(満仲長子。土蜘蛛退治、大江山、伊吹山鬼賊退治で武勲を立てる)
源 頼信公(満仲四男)
源 頼義公(頼信長子 前九年の役に武勲を立てる)
源 義家公(頼義長子 前九年の役、後三年の役に武勲を立てる)
美女丸は出家して源賢となりますが、満仲の五男ともまた四男という説もあります。
では、写真をご覧になりながら探訪をお楽しみ下さい。
(撮影 平成19年11月10日 粟谷明生)

阪急宝塚線、中山駅下車徒歩2分、駅前から門前町らしい賑やかな道を行くとすぐに中山寺(なかやまでら)山門です。

広大な敷地は昔からこの寺が繁栄していたことを想像させてくれます。
美女丸は最初にここに入山しましたが、経を読まずに武芸に没頭していたようです。

近年改築されて急な階段の横にはエスカレーターも設備され、お年寄りに配慮されています。食堂もハイカラで綺麗、思わず休憩したくなります。

阪急宝塚線、雲雀丘花屋敷駅下車阪急バスで15分ほど坂道を上がると満願寺停留所があります。下車し進行方向右手に満願寺があります。間違い易いのでこの立て札を探して下さい。

バス停留所から2分ほどで白壁造りの珍しい山門が見えます。
山門を過ぎ、参道を下ると本堂神秀山・満願寺本堂が見えます。

美女丸は出家して源賢僧都となりここに入山します。
満願寺は、満仲が摂津守となった時に、源氏の菩提寺となりました。

本堂左手奥に幸寿・美女・仲光の墓があります。

墓を近くで見るには狭く急な階段を6、7段上がらなければなりません。ご高齢の方は遠くからのお参りをお薦めします。

本堂右手奥に坂田金時公の墓があります。
源頼光は渡辺綱を召して上総の国に向かう途中、相模の国足柄山で幼名金太郎(坂田金時公)を見つけ主従の契りを結びます。金太郎の母が山姥だという説がありますが、私は能『山姥』とはどうしても結びつきません。

急宝塚線、川西能勢口駅で能勢電鉄に乗り換え多田駅下車、徒歩20分ほどで多田神社に着きます。今回は能勢口駅よりタクシーを使い、多田神社から小童寺を周りました。
猪名川を渡ると多田大権現と書かれた山門があり、そこにかかる源氏ゆかりの神社らしい笹りんどうの紋が象徴的です。

鳥居右手に宝物殿があり、源家の宝刀鬼切丸や昔をしのぶ甲冑が見たかったのですが、生憎閉館されていました。

小童寺は能勢電鉄、山下駅下車徒歩20分ほどですが辺鄙なところにあります。今回は多田神社から小童寺までは車を利用して10分ほどですみました。御参拝は車利用をお薦めします。
小童寺は川西市西畦野1-8、判りにくい場所です。急坂な石段を登るとお堂があります。

本堂は閉まっていて人もなく、左手には小童寺の縁起が書かれていました。

本堂裏手に幸寿丸を中心に右に美女丸、左に藤原仲光の墓があります。

幸寿丸の墓は今でも上に幸、右下に壽、その左に丸と刻まれているのが確認出来ます。

源頼光の四天王といわれた渡辺綱・ト部季武・坂田金時・平井保昌の墓(左から)があります。能楽師は「貞光、季武、綱、金時」と謡い馴れているため碓井貞光が眠っていないのが気になりますが、ここでは保昌が眠っています。保昌は『土蜘蛛』で独武者として登場したり『羅生門』では主脇連として登場します。

何故か、渡辺綱のみ四天王の左に別個に立派な墓がありました。
綱は『羅生門』に登場しますが、四天王の筆頭であったように思われます。

渡辺綱が筆頭と思われる理由の一つにこの小高い所にある御廟が大変立派だということがあります。一つのお寺に御廟とお墓があるのは神仏習合の名残でしょうか。
『三輪』における小書「神遊」の効果投稿日:2007-10-14

『三輪』における小書「神遊」の効果
女姿の男神
粟谷明生

第82回粟谷能の会 粟谷菊生一周忌追善(平成19年10月14日・於 国立能楽堂)にて『三輪』「神遊」(かみあそび)を披きました。
「神遊」は青年時代から先人たちの舞台を楽屋裏や地謡座から拝見しながら、「いずれ自分もあのような装束で、あのように舞えれば」と憧れた小書です。
『道成寺』を披いてから許される、という流儀内の暗黙の了解事項があるくらい位が高い小書でもあります。
今回の番組を決めたのは二年前、父に地頭を謡ってもらいと考えていましたが、まさかその父の追善でこの大曲を勤めることになろうとは思ってもいませんでした。
能楽師の憧れであるこの大曲を勤められたことを、きっと父は喜んでくれていると思っています。
『三輪』はよく演じられる秋の代表曲です。
私の初演は平成六年(三十九歳)とやや遅いですが、稽古は若いときからでも受けられ、青年の会の番組にもよく載ります。
我々喜多流では先輩方の地謡を謡い、また仕舞や舞囃子の稽古を積みながら理屈抜きの反復による稽古方法で習得してきました。「老いても間違えないでいられるには、若い時分に謡や舞を身体に染みこませておくこと」、父が話していたことが、いま52歳になり舞台への恐怖感を少し覚えるようになって実感しているところです。
しかし単に、体に染みこませ、覚えただけで作品の真意を見据えることを蔑ろにしてはいけない、『三輪』神遊の主旨は何か、また「神遊」とは何か、単に囃子の秘事の解明だけではなく、曲の深層部、真意などを探りたいと思っていました。
今回の演能ではいまの自分の状況を客観視でき、今後の方針も考えるよい機会となりました。
単純にみえて実はかなり混雑したこの物語を理解するために、まず、私なりの解釈であらすじを追ってみたいと思います。
奈良、三輪山麓に庵を結ぶ玄賓という高僧(ワキ)のもとに、三輪の里に住む中年の女(前シテ)が毎日樒と水を供えにやってきます。
女はただ徒に年月日を送った身を嘆き、罪の救いを求めて庵へ通います。
秋の日、いつものように救済を願う女は僧に衣を所望します。
観世流は「夜寒になり候へば」の詞章の通り、寒さから衣を所望するようですが、喜多流は「わらわに御衣を一衣賜り候へ」としか告げないため、私は衣を拝領して弟子になると解釈して演じます。
前シテの女は実は三輪明神の化身ですが、これで神が仏に帰依するという意味あいになり、現代人の我々には一寸しっくりこない複雑な関係で展開されます。
衣をもらった女は帰り際に住み家を尋ねられると、「三輪山の杉の立っている門を訪ねよ」と言って姿を消し中入となります。
里人(アイ)が三輪山に参詣すると御神杉に玄賓の衣が掛かっているのを見つけ僧に知らせます。玄賓は杉に掛かっている衣に金色の文字で記された御神詠を読み上げると、御神杉の陰から三輪明神(後シテ)の「神にも願いがある、人に逢うことは嬉しいこと」と声が聞こえ、シテは烏帽子と狩衣を纏い女姿で現れます。
明神は「神も人間同様に罪を背負っている」と嘆くと、僧は「神は人間を救う為に人間と同じ立場になっているだけですよ」と慰め諭します。すると明神は神代の昔物語として、神婚説話や天の岩戸の神隠れ伝説の神楽を再現して見せ、伊勢の神と三輪の神は本来一つであるが、仏が衆生の為にと仮に別々の姿で現れていると告げると、夜も明けはじめ僧の見ていた夢はそこで醒めます。
『三輪』は三輪明神が男神であるにも関わらず女神として現れます。クセでは古来より三輪山に鎮座する別の祭神、蛇神の神婚説話を取り入れ里の女になりすまし、また天の岩戸の伝説のくだりでは天照大神にも代わります。
単に三輪神社の祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、別名、大己貴神(おおなむちのかみ)という設定だけではない、様々なものが混じりあっています。
この複雑な神の役をどのように演じればいいのか。そんな素朴な疑問を抱いてしまいました。女姿ですから艶やかに、天照大神ならば堂々として、などといろいろ考えますが結局、一能役者の習得した謡と型の美に落ち着くのではないでしょうか。
天照大神また蛇神云々と言っても、型として清麗なもの、神楽を厳かに華麗に舞うことを第一とするしかないようです。
また先人たちもそのように取り組んでこられたのでは、と思いました。
能『三輪』は四番目ものですが、脇能的な要素も多い曲です。宗教的なメッセージを多分に持ちながらも、芸能を観て楽しんでいただくという娯楽的要素が強い能と言えます。
ですから演者は脇能を勤めるときと同様に宗教的な意識は持たず、淡々と落ち度なく、神舞や神楽を舞えればよいのだと、と勤めました。
(神遊について)
次に、今回取り組んだ重い習「神遊」という小書について触れてみます。
この小書は我が家の健忘斎の言葉を書きとどめた寿山の伝書には記載がありません。
つまり九代目古能健忘斎が文政十二年頃に逝去し、十代目寿山盈親は天保二年に没していますので、たぶんそれ以後の演出であると推察されます。我が家の小書伝書には記載されていますので、たぶん十一代古能の子、七大夫長景(嘉永四年没)から十二代能静(明治二年没)までの間に出来たものではないかと推察されますが、確かではありません。
『三輪』には各流独自の重い習の小書があります。観世流では宗家の「誓納」、片山家ご自慢の「白式神神楽」、金剛流では「神道」が演能され、金春流は近年金春信高氏が「三光」を作られています。喜多流の小書は「神遊」と呼ばれ、宝生流のみ小書を持ちませんが、作品の主旨を外したくない意図が強く残った結果かもしれません。
では、喜多流の「神遊」はどのようにして命名されたのでしょうか。
そもそも神遊とは、天照大神の岩戸隠れによりこの世が暗闇となり、それを嘆いた神々が相談し岩戸の前で舞い歌い魂を呼び入れたことをいいます。その鎮魂の奏法全体を表現しようとするのが喜多流の「神遊」です。ですから神々の戯れや歓喜する様すべてを表したいため、巫女的要素を入れず、また天鈿女命(あまのうずめのみこと)の舞であると考えられる御幣や榊などを敢えて持たずに、扇(中啓)で舞い通します。
『三輪』は小書が付くと吉田神道の影響からか、囃子事に関する秘事口伝が加わります。流儀の「神遊」でも、前場はワキ方に音取(笛の独奏)や置鼓(小鼓の独奏)が囃され、シテ方は習次第(ならいのしだい)に三編返(さんべんがえし=次第、地取、次第と繰り返す)と脇能的で儀式的な演出に替わります。
これは得てして楽屋内の約束事に縛られすぎて作品の本位から外れることになりがちです。囃子方の腕自慢とも思われますが、一説には習次第を打つための手馴れとも言われています。今回芸術的な趣向とかけ離れるのを避け、ワキの宝生欣哉氏と御相談して脇方の習の音取や置鼓はやめて、自らも三編返を行なわずに勤めました。
習次第と呼ばれる特殊な次第は、喜多流では老女物の『卒都婆小町』『檜垣』と『道成寺』そして『三輪』「神遊」にのみ囃されます。老女物二曲は老いの位を特に際立たせる演出といえますが、『道成寺』と『三輪』も勿論、位を上げることに変わりはありませんが、両曲に共通する「蛇体」の執心の強調とも神聖視とも捉えられると言われています。観客にはシテの重々しい登場が、あの正体はなんだろうと興味をそそるような雰囲気を持たせます。
昔、観世銕之亟先生(八世静雪)が、「『三輪』の次第は、三輪山への距離感ね。いまのように簡単に楽には行けないんだよ。だって三輪の山本道も無しって謡うだろ? サラサラ出てきたんじゃダメだよ」と仰ってました。いつか自分が演じるときには、と心がけてきた言葉です。幕の内から橋掛り、そして常座まで運ぶこの歩みに思いをこめ、勿論、謡い出しまでの寸法調整や位の確保を熟知していなければ囃子方とうまく咬み合わなくなりますが、そこに単に囃子にあわせるだけではない、役者の思いが感じ取れるようでなければいけないのです。これが至難の業です。
蛇足ですが、『三輪』神遊は『道成寺』を勤めた者に許されると書きましたが、この二曲を同日の番組にするのはあまり良くないといわれています。それは『三輪』での神婚伝説で蛇が出現し、『道成寺』でまた蛇体が登場するので、重なることを嫌う能楽界の慣習から「悪し」と記されています。
実際の舞台では両曲共に習次第になるのを囃子方が嫌うことから来ていると言われています。
装束は通常の長絹が狩衣に変わり、鬘は喝食鬘で結います。この格好では鬘帯を使用しないため、王朝趣味が取り除かれ太古のイメージが膨らみます。三輪明神は男神ですが、女姿に男の烏帽子と狩衣を着るという不思議な取り合わせが魅力的です。
喜多流では小書が付くと位が上がるので装束も同様に袷(あわせ)狩衣になるのが本来です。先人たちは『三輪』神遊、『絵馬』女体、『融』遊曲、曲水之舞などで袷を着ておられ、父もまたそうしていました。しかし伯父新太郎が晩年体力面を配慮して、白地の単衣狩衣で勤めた舞台がありましたが、その姿が美しく印象深く残っています。袷ではがっちりした固い感じになり、単衣独特の織りは華麗で柔らかな優しいラインになります。
いつか自分が演るときは是非単衣でと思っていましたが、幸い近年、袷では位や強さが強調され過ぎて小面に似合わないと敬遠されて単衣の着用が普通になってきたので、今回はその例に従い単衣を着ました。
面については、前場の曲見は常と変わらず、後場は父が生涯愛用した「堰」の小面を使いました。
喜多流は後場では小面が決まりですが、天照大神というスケールの大きな神を、かわいい、愛らしい表情の小面では成立しにくいので、他のものをとも思いましたが、初演であり父の一周忌でもあるので、父が大事にしていた「堰」をつけて手向けようと思いました。
「堰」は父のもの、これからもそっとしておいてあげよう、との思いもありましたが、能夫の「使ってみて今度は明生君の魂を吹き込んでみたら・・・」という言葉に押され使うことにしました。
今回、折角の面が少し照りぎみ(上向き)だったことは悔いが残る反省点でした。作り物の中での作業は懇ろに打ち合わせたつもりでしたが、面のつけ方やウケに関してももう少し配慮したい、烏帽子の紐も少々長すぎたなど反省すべきところは二度と同じことのないようにと、心がけていきたいと思っています。
後場の作り物の中から謡う「ちはやふる・・・」の謡がむずかしいところです。
引廻しがはられた作り物の中で謡うため、声が籠もりがちで聞こえづらくなるので大きな声が必要です。
では大きければいいのかというと、そうではなく、高音で透き通るように張りながらも芯がしっかりしているように謡うのが心得ですがだれもが苦心するところです。
ワキは呼び止められると振り返り、シテとの掛け合いとなります。
地謡の「女姿と三輪の神」で引廻しが下ろされると床几にかけたシテが現れます。仕舞所となるクセの前半はじっくり動かずに床几に掛けたままで、進行を地謡に任せ上羽前の「さすが別れの悲しさに」からシテは作り物から出て舞い始めます。作り物に左袖を掛けたり、留めに足拍子を踏み、「語るにつけて恥ずかしや」と面を隠す型など、「神遊」特有の型となります。そしていよいよロンギから神楽となります。
「神遊」の面白さは神楽の構成にあります。
序は六つと通常より増え、足拍子も常と替わり複雑になります。何故このようになるのか根拠は明らかではありません。
通常の神楽は神楽の部分と神舞(時には中の舞や序の舞)が一体となって構成されていますが、「神遊」は神楽と後半の舞とを分けています。後の神舞を破之舞に替え、短い二段構成とします。神楽が終わると「天の岩戸を引き立てて」のシテ謡になり「人の面、白々と見ゆる」で破之舞となります。
破之舞ははじめを舞台で舞い、途中から橋掛りに行き、二の松で左袖を頭上に担いで岩戸隠れを表す『翁』と同様の型をして、すぐに橋掛りから舞台に戻りはじめます。はじめはゆっくり、徐々に勢いを増して日がさす有様を見せ、本舞台に入ると袖をはねて『翁』の左袖を巻く型となり、神々の歓喜を表して「妙なるはじめの物語」と一段落します。
神楽の譜は笛方の流儀により異なります。一噌流が常の神楽の譜と変わらないのに対して、森田流は「神遊」特有の譜があり、したがって森田流でなくては「神遊」の面白さは半減します。
森田流は序のあとに、ラア、ラア、ラア、ラア、ラア、ラアと長い反復の吹き返しから始まり、二段目に十のユリや七つユリなどの、見ている者も陶酔するような特殊な譜となり雰囲気を盛り上げます。
楽屋内の話ですが、一時森田流寺井政数家では、大小鼓・太鼓と手組が揃わず具合が悪く、いつか改善出来ないものかと思っていました。我が家の伝書は、現在森田流のまとめ役をなさっている杉市和氏の譜と同様なので、この度中谷明氏のご了解を得て、槻宅聡氏には杉家の譜で吹いていただきました。
これで長年のかけ違いが改善されました。
今回、小書「神遊」を調べ、独特な譜や重い習を学び、クセの神婚説話のくだりも改めて読み直し、幼くてはわからない艶やかな内側の部分も知りました。若い時分は門前の小僧習わぬ経を読むように、ただ闇雲に意味もわからず丸暗記するだけでしたが、そこで止まっていた自分に気付き、「神遊」に憧れ始めた時からのことも思い出しました。
演能レポートを書いて十年以上が経ちましたが、演能にあたり資料を調べ、稽古を重ねていくと、次第にその曲の持つ魅力を知り、その作品に引きつけられます。
『野宮』や『井筒』などはもとより、はじめは気乗りのしなかった『千寿』や『盛久』でさえ勤めるとその魅力に惹かれていきます。
これは正直能楽師でしか味わえない喜びです。
『三輪』は魅力ある曲で、且つ憧れる曲ですが、稽古を積めば積むほど、その深さや味わいを知れば知るほど、不思議と演じにくさを覚えました。
禅竹の『野宮』や世阿弥の『井筒』、元雅の『隅田川』、『歌占』など人間の苦悩に焦点を当てたものは、繰り返しの稽古でその演じ方の深みや幅広さを感じ面白さを知りますが、『三輪』はそのようには感じられませんでした。
どうしてなのか?
勝手な私見ですが、「神遊」は破之舞で『翁』の型があるように、『翁』と共通する祭事の儀礼的要素がふんだんに込められ、それが人間の感情的なものを拒んでいるように思えます。女神のような気高さと色模様を含む神話の豊かさ、流麗な型と躍動感あるリズムに酔うこの曲の良さは充分判りながらも、いま一つ踏み越えられないものがあるとしたら、それは人間を扱うものとそうでないものの違いではないでしょうか、それがいまの私の感想です。
『翁』や『高砂』、『絵馬』も同様、祭事としては手応えがある位高い曲です。しかし、私の心に活力や遣り甲斐を持たせてくれるお能は、人間の苦悩や喜びをテーマにしたものなのです。
ですからこれを書きながら心はもう次回の『邯鄲』傘之出に移り初めています。もしかして、もっと年を経て人間の苦悩や喜びを突き抜けて憂き世を達観するほどになればまた違った感想になるのかもしれませんが、今の私がその年々の能を見つめるとき、そんな思いにとらわれているのも事実です。そう思わせてくれたのは『三輪』の神力かもしれません。
(平成19年10月 記)
写真
『三輪』 シテ 粟谷明生 粟谷能の会 撮影 石田 裕
シテ 粟谷菊生(モノクロ)撮影 清水 一
蟻通神社投稿日:2007-09-16

JR阪和線・長滝駅は各駅停車しか止まらず、夜遅くには駅員もいなくなる小さな駅です。その長滝駅を下車して徒歩10分ほどに蟻通神社があります。
天王寺駅から50分程で長滝駅に着き、駅員さんに「蟻通神社はどちらですか?」と聞くと徒歩12,3分と答えてくれましたが、時間に余裕がなかったのでタクシーを呼ぶことにしました。見渡すと駅前にタクシー乗り場はなく、ご用命は泉陽タクシー(072-465-1451)の看板があるだけです。電話して待つこと5分、日根野駅からタクシーが来ました。運転手さんの話では特急も快速も停車する日根野駅でタクシーを利用した方が賢明だということでした。多分私は二度と行くことはないでしょうが、これからお尋ねになる方のために、日根野駅からタクシーのご利用をお薦めします。
能『蟻通』の物語は歌人・紀貫之が和歌の神を祭る玉津島神社へ参詣する途中、雨の夜に蟻通神社の前を神域と知らずに下馬せずに通り過ぎたため、蟻通明神の怒りにふれ馬は倒れ貫之は落馬します。そこに老人の宮守が現れ、社への無礼を警告し、貫之に和歌を詠じて神慮を慰めるように薦めます。貫之は「雨雲の立ち重なれる夜半なれば、ありとほしとも、思うべきかは」と詠むと倒れた馬は再び立ち上がり、宮守は和歌の六義や和歌の心について語ります。貫之は宮守に祝詞を所望し共に祈ります。
神代以来の歌道を讃たえ舞歌を奏上すると、遂に宮守は自ら蟻通明神と名乗り鳥居に近づいたかと思うと、消えてしまいます。貫之は神の出現を喜び夜が明けると再び旅立つのでした。

蟻通神社
現在の場所は第二次世界大戦中に陸軍飛行場建設のために移転させられたところですが、もともとは熊野街道沿いに鎮座していたようです。蟻通神社の名前の由来となった「蟻通伝説」には熊野詣や玉津島参詣の人々が多く蟻の行列のようだったと記されています。しかし今は全くその面影もなく、能の宮守が「神は宜禰が習わしとこそ申すに、宮守一人もなきことよ」と嘆くと同様、閑散としていました。

蟻通神社鳥居
能『蟻通』のシテは最後にこの鳥居に御幣をあて、後に投げ捨てて消えてしまいます。

能舞台
周りから四本柱を支えているほど老朽化していて橋掛はありませんでした。

能舞台と本殿
前に見えるのが橋掛りのない能舞台、その奥に本殿が見えます。

紀貫之冠の碑
鳥居の右奥の池の中に冠之碑があります。能では烏帽子を落とすことには触れませんが、碑には落馬して冠を落としたことが記されています。実際に落馬した場所はここではなく、熊野街道沿いですが、現在は池の中に碑が建っています。
『盛久』と観世音信仰投稿日:2007-07-22

『盛久』と観世音信仰
ワキと共に創り上げる舞台
粟谷 明生

喜多流自主公演(平成19年7月22日)にて『盛久』を勤めました。
『盛久』は若過ぎても、また逆にあまり老体でも不似合いです。流儀ではやや重く扱っているためか若手能楽師が青年能などで勤めることはまずありません。演者の適齢期は40代後半から50代のようで、今回私はその時期に演能出来、良い機会となったと思っています。
『盛久』はシテ謡が多く謡っても謡っても終わらず、謡・言葉の多さが演者にとってプレッシャーの一つとなっています。喜多流では、若い時に能『盛久』の稽古を受けることが少なく、先輩方が演じられるのをつぶさに見て勉強するという環境もないので、楽屋内では遠い曲、やりにくい曲としてやや敬遠されているのが実状です。
まず簡単に、あらすじを記しておきます。
平家の侍、主馬判官盛久は捕らわれ鎌倉に護送されます。前場は京都から鎌倉までの道行を名文で綴り、鎌倉で幽閉された盛久は流転の身を嘆き、死を願います。処刑される前に観音経を読み上げ、仮寝した盛久は夢を見て観音の告げを受けます。
いよいよ処刑の時が来ると刑場の由比ヶ浜へと移ります。太刀取が太刀を振り上げると経巻から発する光に目がくらみ太刀を落としてしまい、太刀は二つに折れます。
後場は、このことを聞いた頼朝が盛久を呼び自分の見た夢と盛久の夢が同じであることを確かめます。
夢の一致に奇特を思った頼朝は盛久を助命し盃を与え、舞の達人と呼ばれた盛久の舞を所望します。
盛久は頼朝を寿ぎ、我が身の喜びも添えて舞を舞いますが、舞い終えると急ぎ御前を退出して帰京します。
この場面展開が多い曲を他の演劇のように幕間(まくあい)を作らず、主にシテ(平盛久)とワキ(土屋某)の二人の謡や動きと地謡で話を進めます。
また、後場の頼朝邸では頼朝の存在なしで、これもシテとワキが創り上げていきます。
作者は『歌占』『隅田川』『弱法師』などの名作を手がけた観世十郎元雅です。世阿弥が「子ながらも類なき達人」と讃えたほどの人物です。
主人公の心の動きを、この場面展開や歌舞によって巧みに描きながらも、背後に大きなテーマを感じさせる曲作りは元雅らしいと思います。
この能はワキ役が大事で、シテとワキの息のあった舞台運びが必須です。元雅により巧みに作られたこの曲はワキに恵まれなければ成立しません。
今回、その重要な役を旧友の森常好氏にお願いし、『盛久』を演じる上で大きな助け・力となりました。
ワキ役は年齢に関係なく舞台では超越しているものです。
しかし例外もあり、私は『満仲』のワキやこの『盛久』のワキなどは、シテの年齢を考慮して配役すべき曲だと思います。シテ側の気持ちとして、あまりに年上の先輩では遠慮が生まれ、若年ではシテ同様土屋某には成りきれないでしょう。
森氏とは演能前より意見交換をして、立つ位置や謡の詞章などの確認や打ち合わせをしました。
通常、喜多流自主公演の申合はシテ方だけで行います。
しかし位が重い曲や稀曲などの特別な曲は三役の方々にお集まりいただきます。
昔ならば『盛久』ぐらいでは三役をお呼びすることはなかったと思いますが、近年は事前の打ち合わせ、申合の重要性を尊重してか、シテの希望で三役を呼べるようになりました。
『盛久』は細かな打ち合わせなくして曲の充実は計れないと思います。
成果が出たかどうかは別として、事前の打ち合わせにより、双方が気持ちよく出来たことは事実です。

それでは舞台経過を追って今回のレポートをします。
シテの出(登場)は我が家の伝書には「輿に乗り出る」と記載されていますが、輿に乗る場面が多いと、舞台景色上少々うるさく感じるのではと懸念して取りやめました。
幕が上がり橋掛りをシテ、ワキ、ワキツレ太刀取、ワキツレ輿舁の順に出て、シテは笛座前で床几に腰掛けます。ワキは一旦後見座でクツロギますが、シテが床几にかけるのを見計らって常座で名乗ります。
観世流や金春流の『盛久』は京都清水寺で捕まる設定のため、ワキの名乗りはなくシテは橋掛りを歩みながら「いかに土屋殿に??」と呼びながら始まります。
この奇抜な始まり方は元雅らしいところです。
喜多流は丹後の国、成相寺(なりあいじ)で捕えられ京都に護送されたと改変しているので、残念ながらこの面白い演出は出来ません。
成相寺は天橋立の近辺の山頂にあり、私も一度行きましたが、急坂を登りとても辺鄙なところです。
よくこんなところまで逃げたものだ、よくここで捕えることが出来たと感心しました。
ワキの名乗りに「よき案内者をもって易々と生け捕り、云々」とあります。
今でいう内部告発でしょうか、簡単に捕まえたと語るあたりが頼朝側の名乗りらしいところです。
喜多流の演出は成相寺から一旦京都に護送される設定ですので、道中囚人の心持ち、捕らわれた体で勤めます。
ワキの名乗りを聞き、シテは床几にかけたまま「いかに土屋殿」と呼び掛け、清水寺の方角に輿を向けてほしいと頼みます。
シテは正面先に下居して「南無大慈悲の観世音」と謡い、いよいよ鎌倉までの道行となります。
この街道下りはシテと地謡のかけ合いで進みますが、謡愛好家には謡い甲斐のある名文が続くところです。
シテの「いつかまた清水寺の花盛り」に地謡が「帰る春なき名残かな」と受け、もう桜も見られないと死を暗示し、刑地に赴く寂しさの心で謡います。
この道行、本来喜多流はシテやワキなど全員が動かずじっとして長い街道を下っていく様子を表現しますが、この演出が今の時代にご覧になる方々がお判りになるか、少し不安に思い、今回は「熱田の浦の夕汐」の段で一度、一の松まで移動して、大井川や富士山、三保の浦を橋掛りで眺め、舞台に戻ると鎌倉に着くという動きを入れてみました。
これは他流にある演出ですが、喜多流としては今回はじめての試みです。
これが可か不可か、楽屋内にも観客の方にも賛否両論あると思います。
しかし、試すことが可能な演者がその危険を恐れずに一度ぐらい挑んでみてもいいのではないかと、いつもの好奇心から試してみました。
みなさまのご意見をお聞きしたいと思っています。
鎌倉に着いた盛久は、この曲のもっとも難しい謡いどころ「夢中に道あって・・・」の独白となります。過去を顧み、生きて人前に面をさらす自分を嘆き、それならば来世での往生を願い、死を覚悟します。
ここの謡は大きな声だけでは成り立たず、しかし蚊の泣くような声ではこの深い思いは観客に伝わりません。
深く込められた気持ちを見所の隅々まではっきりと独り言として伝える、演者の技量の見せ所です。
このあたりが若者には適わないところで位が高いのかもしれません。
土屋を呼び出し死期を知ると、観音経の読誦を祈願して読み上げます。観音経、これがこの曲のキーワードでもあります。
今回経文の謡い方に工夫を凝らしてみました。
経文は四字または五字で区切り謡うという約束事があります。
今回の観音経は五字で区切ります。
若い時に経文の区切り方を知らずに「生老病死苦 以漸悉令滅」を死と苦の間で息継ぎして「苦以漸」と謡い、「五字で区切るんだ」と叱られたことを思い出します。
盛久が土屋に経文を聞かせるところは、「或遭王難苦」(ある王の怒りにふれて苦難にあい)、「臨刑欲寿終」(刑に臨んで寿命が終わろうとしている)、「念彼観音力」(観音の力を信じて念ずれば)、「刀尋段々壊」(刀もいくつかに折れ、ばらばらに壊れるだろう)と、5字で区切って謡います。これはその後、現実の刑場でその通りのことが起こる重要な偈文ですが、ここの謡をよりお経らしく謡えないものかと考えました。
謡は平坦にだらだら謡っていると「お経じゃあるまいし! 謡を謡え!」と父の注意が飛んだことを思い出しますが、ここは逆に、謡らしくなく、お経らしく謡ってみよう・・・と。
以前、野村四郎氏が、「寿夫先生が『通盛』の弘誓深如海歴却(ぐぜいじんにょかいりゃっこう)をお経のように謡われた」と仰っていました。これがヒントになりました。悪い謡の代表を雨垂れ謡と言ったり、お経謡と戒められますが、今回はまさにそのように謡ってみたわけです。
由比ケ浜の刑場での刑の執行場面、ワキツレ太刀取が盛久を切ろうとすると、観音経で唱えられているように刀がばらばらに折れてしまいます。
この太刀の落としどころは流儀により様々で、喜多流はシテの左前方ですが、ここにうまく落としてもらわないとシテは困ります。
今回は太刀取役の舘田善博氏がとてもいいところに落として演りやすく助かりました。
いよいよ後場、盛久が頼朝の御前に出る場面になります。
シテは後見座で袈裟を外し直垂をまといます。
囚人ですが、頼朝に謁見するというので、鎌倉方が用意してくれた晴れ着に着替えます。
以前、父が『盛久』を勤めた時の写真を見ると、シテもワキも同じ黒い直垂を着ていました。
両者の装束が同じである方が自然なのかもしれませんが、私はシテとワキの区別をしたく変えたいと思いました。
森氏は「当然、ワキは黒を使うよ。処刑人は黒でしょう」との意見、それではシテ側を替えるしかないと思いましたが、生憎粟谷家にあるのは黒色のみです。
困っていると、森氏から「白地の直垂があるから貸してあげるよ」といわれたので、さっそく見せてもらい、柄も問題なし、寸法もピッタリ、少し派手かとも思いましたが、盛久の平家らしさが出るのではないかと思い拝借させていただきました。
これも旧友との緻密な話し合いがもたらしたご褒美だと思っています。
さて元雅は『盛久』で何をいいたかったのか。
平家の侍、盛久という人物の死を目前にした諦観でしょうか。もちろんそれもあるでしょうが、私は観世音信仰と舞台には顔を出さない頼朝の存在を意識しているように思えます。
宗教と政治、宗派と幕府の二点が気になります。
元雅の生きた時代は、末法思想にあって、人々は観世音信仰に没頭して、現世や来世への救いを求めた時代でした。
『盛久』には全篇を通して観世音信仰が満ちています。
京都に着いて、千手観音をご本尊とする清水寺に輿を向けてと頼んで自ら拝む場面、鎌倉に着いてからは「あっぱれ疾く斬られ候はばや」と一人ごとを言い、念仏すれば来世で救われると日夜観音経を読誦する場面、少し居眠りして観世音の尊い霊夢をこうむり、頼朝が同じ夢を見たことから命を助けられるという物語展開、全てに観世音信仰が語られます。
そして頼朝もまた観世音の信仰のもと、罪人を許す、慈悲ある人として描かれています。宗教と体制側への贔屓があったのでしょう。
盛久という人物は、平家物語では長門本にのみ登場し、主馬判官盛国の末子として描かれていますが、実在した人物かどうかは疑わしいところです。
主馬判官という役職も、馬署の役人というほどのもので、それほど重要な地位とも思われません。
盛久の人物像がこのようにはっきりしないことから、演者は、盛久という人物を演じにくい一面もあります。
しかし、元雅の関心は盛久その人にあるというより、観世音信仰があれば二世(現世と来世)で救われるという信仰のありがたさであったのではないでしょうか。観音信仰の宣伝歌、それを描くために、実在したかどうか分からない盛久という人物を借りて、劇的な物語を作り上げた気がしてなりません。
観世音信仰という難しい信仰の言葉を散りばめながら、それでいて、盛久という刑死を目前にした切羽詰った人物の心の襞を描き、観客をあきさせず、一つのドラマチィックな物語にして見せつける、シテも物語や謡に運ばれて演者自身の姿で勤め演じ切る、そのような戯曲を元雅は求めていたのかもしれない、と思います。
『隅田川』や『弱法師』、『歌占』を勤めたときと同じように、今回もまた元雅の、父よりも祖父・観阿弥に似た作風、現在能という形で人の心と信仰心を感じさせる戯曲作りの才能と成功をしみじみと感じました。
(平成19年8月 記)
写真 『盛久』シテ 粟谷明生 撮影 あびこ喜久三
『満仲』の地謡を勤めて投稿日:2007-06-24

『満仲』の地謡を勤めて
粟谷明生
平成19年6月24日の喜多流自主公演の初番は『満仲』でした。
配役は、シテ・友枝昭世、ツレ・中村邦生、美女丸・狩野祐一、幸寿・友枝雄太郎、ワキ・宝生閑、笛・一噌仙幸、小鼓・大倉源次郎、大鼓・亀井忠雄、地頭は粟谷能夫で私は副地頭を勤めました。
『満仲』 シテ・粟谷菊生 美女丸・佐々木多門 幸寿 谷大輔
撮影・あびこ喜久三
自主公演で『満仲』が選曲されたのは一昨年のこと。何度か選曲委員が友枝昭世氏に『満仲』は?と打診をしましたが、友枝氏はなかなか承知されず、粟谷菊生が生きている内に、菊生の地謡で、という口説き文句に遂に了承された経緯があります。
当初の構想はシテ友枝昭世、ツレ粟谷能夫、地謡粟谷菊生、出雲康雅、粟谷明生の予定でした。これは内輪話ですが、実は最初ツレは明生でという、シテのご注文でありました。しかしこの多田満仲役は二人の子ども役の年齢を考慮すると、満仲と仲光の年齢差があり過ぎるのは・・・、と申し上げて、僭越ではありましたが敢えて辞退させていただきました。
しかし真意は、父が自分の十八番を、人情味あふれる現在物として、どのように謡うのかを、共に現場で謡いながら教わりたいとの一心でした。
そのような辞退の理由も説明させていただき、友枝昭世氏も納得して下さって、当初の構成となりました。しかし、不幸にも父逝去によりこの計画は実行出来ず、今年に入り再度番組編成をやり直すこととなりました。
『満仲』は旬のもの、年齢が近い二人の子方に恵まれなければこの能は実現できません。二人の子方があってこそできる能で、見守る大人としてはこの子たちが当日まで元気で風邪などひいたりしないかと、心配でたまらないのです。万が一のときに代役はいないので、子方のご両親、とくにお母さま方は相当神経を使われたことだと思います。このたび無事よく勤めてくれた子どもたちにも、お母さまにも「どうもお疲れ様、有難う。」と私は感謝とねぎらいの気持ちで一杯です。
私の『満仲』はシテ喜多実、ツレ粟谷菊生(昭和43年4月28日 喜多別会 喜多能楽堂)のときの幸寿役の1回だけですが、これが長い子方時代の最後の舞台となりました。
実先生じきじきのお稽古で「切られたら、すぐに横になって。でも頭は舞台につけてはいけないよ!」 このご注意は未だに頭に残っています。死んだら首は落ちるから舞台につけたほうがいいのにと、子ども心に、12歳なりに感じたことを覚えています。たぶん実先生は頭を舞台につけると演技が生っぽくなるのを嫌われたのではないかと思います。
頭を舞台につけないようにと身体を硬直させて、そして動かないように我慢する子方の身体から発散される緊張感が、舞台に横になり寝るという特殊な動作をも、能の型として表現するのがねらいであった、と私は思っています。

『満仲』 シテ・喜多実 美女丸・下村 幸寿・粟谷明生
撮影 あびこ喜久三
あの頃、私は声変わりで高い声が出ず苦しんでいました。美女丸役の下村君はきれいで透き通るような美声で、子ども心にもなんとも羨ましく、ねたましく思ったものです。
友枝昭世氏が「菊生先生がいらっしゃる間に一度は」と決められたのには、父の『満仲』演能回数3回ということが大きなウエイトをしめているかもしれません。『満仲』を3回も勤めている能楽師は珍しいでしょう。「うちの父は3人も幼い命を奪っていますから」と私は楽屋で冗談話をしていたのですが・・・。
父の『満仲』演能記録をここにご紹介させていただきます。
第一回 披き
昭和47年6月24日 喜多例会 梅若学院にて
シテ 粟谷菊生 ツレ 内田信義
美女丸 高林呻二 幸寿 粟谷知生 ワキ 村瀬登茂三
笛 中谷 明 小鼓 鵜澤 寿 大鼓 渡辺榮嗣
地頭 福岡周斉
第二回
昭和54年3月4日 粟谷兄弟能 喜多能楽堂
シテ 粟谷菊生 ツレ 粟谷幸雄
美女丸 井上雄人 幸寿 井上真也 ワキ 宝生弥一
笛 寺井政数 小鼓 幸義太郎 大鼓 柿原崇志
地頭 不明
第三回
昭和60年12月20日 国立公演 国立能楽堂
シテ 粟谷菊生 ツレ 友枝昭世
美女丸 佐々木多門 幸寿 谷 大輔 ワキ 宝生 閑
笛 寺井啓之 小鼓 幸義太郎 大鼓 安福建雄
地謡
(前列左から)
粟谷明生、粟谷能夫、谷大作、中村邦生
塩津哲生、地頭・粟谷新太郎、香川靖嗣、佐々木宗生
時代の移り変わりがこの記録で読み取れます。
能『満仲』の舞台進行は、幸寿斬首までの前半と、それ以後の後半とに分けられます。学問に身が入らない子・美女丸に腹を立て、手討にしようとする主君・満仲を制し、ならば誅せよと命じられる仲光。主君の命とはいえ、主君の御子を殺すわけにはいかない。悩む仲光に、実の子・幸寿が、父が主君に仕えるなら、自分は美女丸に仕えている、忠義なら我を身代わりに誅せよと、けなげな言葉をかけます。逡巡しながらも、仲光は幸寿を切り、自らは暇を申し出ます。そこへワキ恵心僧都が現れ、満仲にこの顛末や仲光の苦しみを語り、美女丸への許しを請います。

シテとしては、幸寿を切る場面はもちろん難しい見せ場ではありますが、後半の満仲と美女丸の再会、祝宴での舞などがもっとも難しいところだと思います。
感情過多では能でなくなり、感情稀薄では感動の薄いつまらない能となってしまいます。

『満仲』 シテ・喜多実 ツレ・粟谷菊生 撮影・あびこ喜久三
我が子を殺してまでも守ろうとする忠義心、この感覚は、現代の我々にはなかなか素直に受け入れにくい話と思われます。私もつい封建的な忠義物語となると、まずは忠臣蔵を思い出し江戸時代の武士の慣習を頭に思い浮かべてしまいますが、多田満仲は平安時代の人ですから、その歴史の古さ長さを思い、この手の悲しい痛ましい話は昔からある出来事なのだ、人の世とは・・・と考えさせられてしまいます。
こんなお涙頂戴ものは能の本質とかけ離れている、忠義だての物語など古臭くて現代にはしっくりこない、このようなご意見もわからないではありません。しかし能『満仲』は人間の根本的な悲しみや苦痛、忠義心、責任のとりかたなど、現在の我々の社会にも充分通じるように人情話として脚色され、観客の心にあますところなく訴える力を備えていると確信し、私の好きな曲の一つになっています。
『満仲』という現在物の能は、現代社会と密接につながり確かに存在しています。命の尊さと一門、一家を守り抜く努力と苦悩、この曲が伝えるメッセージが普遍のものだからでしょう。『満仲』はそのような香りをふんだんに放つ曲だと思います。
私もそのうち機会に恵まれれば是非演りたい曲ですが、『満仲』という曲は、『野宮』と同じに、だれでも近寄れる曲ではなく、曲が演者を選ぶところがあるように思います。似合わぬ者が挑むと、途端にばっさり切られるような力も備えているのでは、と思っています。さて自分はどうだろうか? 試してみたいのですが・・・。
今回の友枝昭世氏の『満仲』は父が生きていたら、謡い終えて切戸口をくぐり、囃子方に挨拶しながら、シテに向かって「昭世ちゃん!」と言って、いつもの右手でオーケーサインをだして・・・と思いました。屹度父はどこかで見ていたと思います。
父の『満仲』は父のもの、友枝昭世氏の『満仲』もまた友枝氏の新工夫がなされていました。伝書の行間から読み取る芝居心、現代に生きる能楽師として決しておろそかにしてはいけない大事な術です。例えば、子方への対応、太刀の持ち方や、男舞での工夫、掛の段を伸ばしすぐに舞わないなどの、適切な処置が随所に冴えていました。とくに直面というむずかしさ。悲しみの表情を見せずに、無表情でありながら、しっかりと心に響く役者の底力、見習わなくてはいけないと肝に銘じました。
私は『満仲』を終え楽屋にもどったときに、ふと悲しくなりました。
仲光は「我が子の幸寿があるならば、美女御前と相舞させ」と謡いますが、
私は「我が父がここにいるならば、菊生と共に地謡を謡い」とかぶって仕方がありませんでした。
そして昭和60年、私が30歳の時、地謡にいながら涙が出て仕方がなかったこと、いまも目を閉じれば鮮明に蘇ります。それはシテが我が子幸寿を切る場面ではなく、最後の橋掛りで美女丸を見送るところです。「仲光、遙かの脇輿に参り、この度の御不審なほざりならず、構えて学問おわしませと、お暇申して留まりければ」と謡いながら感動しました。自分の子が犠牲になっているのだから、ちゃんと学問してくださいよ、仲光の切ない胸の内がズーンと響いてきます。
今から5,6年前、父に「おやじさんの十八番の『満仲』をそのうち演りたいが?」というと「子方が揃えばすぐにでもやれよ、おれが教えてあげるよ、いまはコツだけまず教えておくよ!」と、次のように教えてくれました。
この話はこの秋、父の一周忌に合わせて出版予定の「父・粟谷菊生から聞いた話」(仮題)に記載され重複しますが、ここでもご紹介させていただきます。
菊生:いいか、「或いはお主」で美女を見て、「子はお惜し」と幸寿を見る、「弓手にあるは我が子ぞと」と太刀を幸寿に当てるようにして持つ、そしてすっと右回りで後を向いて、ちょっと止まる、逡巡するんだな、そして鯉口を切って、そしてちょっと躊躇したように見せて、あとは一気に太刀を抜いて真っ直ぐに幸寿に近づき切り、拍子、太刀を遠くへ捨て近寄る美女を左袖で留めて見せないよう、そして美女をゆっくり連れてくつろぐ。
いいかい、鯉口を切る、ここだよ。
それからこれも覚えておけ、橋掛りで美女丸に構えて学問と、扇遣いを二回する、その二回目は強くな!強くだよ、しっかり勉強しろよ!お坊ちゃま!と心では美女の頭をたたくつもりでな。」
このあと父の話はまだまだ続きました。
「静夫ちゃん(故観世銕之亟氏)が『仲光』(観世流では『満仲』をこう呼ぶ。)を演るからというので、僕のビデオを貸してあげたんだ。そうしたら、いいね菊ちゃん、と褒めてくれてね。そのうち四郎ちゃん(野村四郎氏)が『仲光』演るので静夫ちゃんに相談したんだ。そうしたら、これを見て、と僕のビデオを渡したんだ。無断でビデオの貸し借りはどうかと思うけれど、一級の能楽師同士の貸し借りは大いに結構じゃないか、これは僕の自慢だよ」。
この時の光景もまた、鮮明に思い出されて仕方がありません。
今回、『満仲』が父を思い出すもっとも大きな曲の一つであるということを認識させられました。そして、この悲しい曲を謡いながら、父がいつも言っていた言葉、「能はなんでも最後は祝言の心で」もまた思い出しています。
(平成19年6月 記)
平成19年11月 追加レポート
末子・美女丸の出家の真相
能『満仲』では美女丸(子方)が父・満仲(シテツレ)に出家するように言われますが、武芸に励んで、学問や仏道に心を入れません。父は怒り家臣の藤原仲光(シテ)に美女丸を手討にするように命じますが、家臣が主君の子を討つことなど出来ず、仲光は仕方なく我が子・幸寿丸を身代わりにしてしまいます。
何故、美女丸が出家を拒んだのか、どうして学問に励まなかったのかが私は気になりました。
先日、写真探訪で「満仲ゆかりの地」の謡蹟めぐりの際、多田神社に参拝に行くと、多田神社略記にいくつかの参考資料がありましたので、それを元に私の疑問を考えてみたいと思います。
先ず初めに満仲のことを知る必要があります。
多田の庄に住む多田満仲は人皇五十六代清和天皇の御曽孫で二十四歳の時に源姓を賜っています。満仲には5人の男子がいます。長男・満正は満仲三十八歳の時に生まれますが、何故か源家の系図には記されていません。想像ですが、たぶん早世したのではないでしょうか。
続いて四十一歳の時に、能『大江山』『羅生門』や『土蜘蛛』などに登場する摂津源氏の祖頼光が誕生します。系図では頼光が長男となっています。その後、大和源氏の祖、頼親、河内源氏の祖、頼信、そして頼平が生まれ、最後5人目に美女丸が生まれ、後に出家し源賢と名乗ります。
満仲は晩婚だったのか、それとも系図にはない満正以前に子どもがいたかは判かりませんが、ここにあげた5人の子どもは当時としてはかなり遅い誕生と思われます。
満仲は59歳の時、心機一転、出家を帝に奏請しますが許されません。そこで満仲はその思いを美女丸に託し、自分の替わりに出家させます。この時美女丸がいくつかは判明していませんが、ここから悲劇が始まります。
ではなぜ美女丸が選ばれたのか? その起因がいくつか考えられます。
1. 美女丸がまだ若かったため。
2.生来の武門の血を引きその性格も活発で荒かったので、一門の安泰を考えてのこと。
3.文武両道を旨とした満仲は、一門繁栄のため武門は4名の子に、文化面は美女丸に託し、文武両面を把握することで勢力拡大を考えてのこと。当時の中山寺(美女丸を最初に預けた寺)の繁栄を思うとそれも考えられる。
4.自分の出家が許されない状況を嘆き、まったくの父親の我が儘で子へ強制した。
など、いろいろと考えられます。
いずれにしても父親の考えを強制させられた子の悲劇、それが幸寿丸や仲光の悲劇と繋がります。そして『満仲』という能が描いた悲劇はシテ仲光だけでなく、生き残った美女丸にも及んだことを知りました。
満仲という武将が、たとえ武芸達者で信仰篤き者であろうと、その勇者の陰に、ある横暴がひっそりと隠されているのが能『満仲』なのです。
二人の子方に恵まれた時、いつか『満仲』を演りたいと私は願望しています。
『翁』付『弓八幡』を勤めて投稿日:2007-04-16

『翁』付『弓八幡』を勤めて
――― 翁と繋がる弓八幡のクセ ―――
粟谷明生

平成19年4月16日、厳島神社御神能で4年ぶりに『翁』付脇能『弓八幡』を勤めました。披キの『翁』は同じ御神能で平成7年(39歳)ですから、丁度12年前、そのときの脇能も『弓八幡』でした。
現在、御神能は初日と三日目を喜多流の出雲家と粟谷家が、二日目は観世流大江家が受け持って、この伝統を継承しています。近年、喜多流の翁大夫は執事の出雲康雅氏が隔年に、その間を粟谷能夫と私が交代で勤め、すでに14、5年が経っています。
初日の番組は『翁』付の五番立が基本で、脇能は『高砂』『弓八幡』『養老』の三曲のうちの一曲が、二番目物も勝修羅の三曲『田村』『八島』『箙』のうちの一曲がそれぞれ順番に組まれ、毎年演じられています。
『翁』は「能にして能にあらず」といわれ普通の能とは異なり別格です。発生は平安時代や鎌倉初期といわれ、中世室町時代初期に出来上がった能に比べ、演出や構成に特異性が見られます。室町時代後期に吉田神道の影響を受けましたが、その形はほぼ現在まで大きな変化はなく伝えられています。
私が厳島神社で『翁』を勤める喜びのひとつに、屋外しかも海の上という特殊な場所で舞えることがあります。晴雨に関わらず翁烏帽子に装束を纏い日光や風、大地の香り、そしてここでしか味わえない潮の織りなすいろいろな現象を肌で感じながら勤める『翁』は貴重なひとときです。屋内の能楽堂では得られない自然の中で舞える喜びを満喫し、無事奉納が終わると能楽師として、さあこれからまた一年がはじまる、とけじめも付き意欲も湧いてきます。
さて観客の皆様は『翁』をどのようにご覧になっているのでしょうか。
もちろん、どのようにご覧になろうと自由ですが、『翁』は演劇を観賞するというよりも、神への儀式を芸術的に表現している芸能の鑑賞、と思っていただければと思います。
翁大夫は「天下泰平、国土安穏」とご祈祷を謡い、演じるというよりも神事に奉仕する気持ちで勤めます。しかしこの言葉に甘えて芸能者の精神まで神棚に上げてしまってはいけないと思います。
生意気な私見ですが、『翁』を勤める能楽師は能にあらずといわれる『翁』であっても、その大夫役者でなくては味わえない魅力を発揮し、大夫の個性を感じさせなくてはいけないと思います。芸能者として磨き上げられた択一した動きや謡の技が始終見え隠れしていなくては、信仰思想と遊離している現在の『翁』を奏す意味がないのでは、と最近思うようになりました。
昔、厳粛な行事の始まりには必ず『翁』が出され、江戸時代に江戸幕府の式楽とされてからは『翁』は完全冷凍保存されたように形式が整い、伝えられてきました。しかし近年、冷凍庫から取り出した『翁』は少しずつ溶け始めているように思えます。
元の冷凍保存されたままの形でよいのか、見せ物的要素を繰り広げご覧いただくか、それは今、現代人がどのような『翁』を求め、演者がどのように提供していくかで、いかようにも変化していくでしょう。
能楽師にとって『翁』は位が高く大曲です。しかし『翁』を数回勤めて、何故これが大曲であるのか、と疑問を抱くようになりました。
軽視はしませんが、喜多流の『翁』では、大夫が勤める時間は出入りの儀式を含めても僅か30分程度で実質舞うのは15分ほどです。いろいろ秘事はありますが所詮短時間で済みます。
私は『翁』を勤めるための秘事云々を学習していくうちに、神事を芸能化した『翁』を済ませた後に脇能を勤める、後シテでは神体となって颯爽と舞う、そのために2時間半を超す演能時間、支度から最後の三役への挨拶が終わるまでの時間を入れれば、有に5時間を超すこの長丁場の『翁』付脇能を勤めてこそ『翁』という曲や翁大夫云々を語れるものであると思うようになりました。
近年『翁』のみの興業は多くなりました。しかしそれは『翁』が持っている本来のものとは似て非なりで、まさに見せ物化してきています。見せ物が悪いとはいいません。芸能をいろいろな方に観ていただく一つの方法として私は歓迎しますし協力もします。
いま私がいいたいことは現場にいる能楽師がショーはショーとして勤め、楽をしてもいいですが、もう一方で『翁』付脇能という辛い本来の形もあるということを忘れないこと、と思うのです。これは私が演じる立場であるからこそ言える感想なのです。身近で手頃で楽な『翁』と同時に長くきつい『翁』付脇能を勤めることで、自分自身に何か見えてくるものがある、今回の『翁』付『弓八幡』はそれを強く感じさせてくれました。
今回『翁』の演能レポートは、私が下掛の能役者として白式尉の部分のみ記します。
一部他流と異なることや黒式尉に伴う記載がないことなど、予めご承知おきいただきご高覧いただければと思います。
では当日の進行を追ってレポートしていきます。
『翁』の構成は大きく白式尉と黒式尉の二つに分けられます。
前半の白式尉の舞の前には露払いの千歳の舞があり、上掛はシテ方が勤めますが、下掛では狂言方が勤めます。千歳は颯爽と力強く舞い、大夫は千歳の舞の途中に舞台上で白式尉の面をつけ、ご祈祷とどっしりとした位のある翁の舞を天地人と三個所の拍子で神に祈り捧げます。
後半の黒式尉の舞は、揉みの段と鈴の段に分けられ、どちらも狂言方の三番三(和泉流は三番叟)が舞いますので、下掛の『翁』は大半を狂言方が担っていると言っても過言ではありません。
つまり喜多流の『翁』でシテ方が受け持ち舞っている時間が15分程度となるのはこのためで、三番三を勤める役者に比べその疲労度は格段の違いです。それでもシテ方が『翁』を大事にしているのは、秘事云々もさることながら、脇能も勤めなければいけない長(おさ)の立場、その責務からです。

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江戸時代公儀の伝えでは「三日前より別火を喰い、殊に潔斎すべし」と、『翁』を勤める前の心得が記されています。我が家の伝書にも「翁大夫を勤める者の演能心得、前日、昼午の刻に沐浴、別火して精進潔斎して舞台に臨む」と記載してあります。これらは今の時代、生活環境のこともあって、現実問題としてその通りに行うのは難しい状況です。私は『翁』を勤める精神性を軽んじるつもりはありませんが、時代に合ったやりかたで、大夫がそれなりに真摯に対応していけばいいと思います。
今回は前日に宮島に入り、個室に宿泊し、朝5時に起床して身を清め、朝食は『弓八幡』で初ツレを勤める弟子の佐藤陽君ととり、気持ちを引き締めて舞台に臨みました。形は大切です、しかし形だけでなくそこに込められる気持ちの充実はもっとも大切にすべきことではないでしょうか。
翁大夫の装束は伝書には厚板色無、俗名「浮糸」と書かれていますが、ここ厳島では紅無柳模様の厚板がお決まりで紫指貫、狩衣となり腰帯は緞子となります。他流には金襴模様の狩衣を使われることがあるようですが、当流は使わないようにと伝書に注意書きがあります。
『翁』には翁飾りと呼ばれる祭壇が置かれます。翁飾りは上段中央に白式尉と黒式尉の二面、そして鈴を入れた面箱を置き、左に大夫の翁烏帽子、右に中啓が置かれ一時的に飾られます。下段に厳島では煎り子(煮干し)と洗米、横に土器が置かれ、御神酒が置かれます。本来、翁飾りは鏡の間に置かれますが、厳島では場所が狭いため楽屋に設置されています。装束を着けた大夫は最後に翁烏帽子を付け中啓を取り、翁飾りの前に着座し礼をして最初に後見から御神酒をいただきます。次に千歳、三番三と、まず役の者がいただき、その後に侍烏帽子に素袍上下を着した囃子方、狂言後見、地謡が同様に順番に御神酒を頂きます。御神酒を頂いたお囃子方はすぐにお調べをはじめ、千歳は面箱を戴いていよいよ出となります。(注意・お調べや御神酒の頂きかたは場所により異なることがあります。)残念ながら、これらを観客がご覧になることは出来ません。また女人禁制ですので、女性は楽屋入りも許されません。

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揚げ幕の内側では橋掛りの中央に役者が並び待機しています。橋掛中央部に立つことは『翁』だけに許された特権です。千歳が面箱を高々とかかげ、大夫の「おまーく」の掛け声で翁渡りが始まります。
幕が上がり、千歳に続いて大夫はどっしりと一歩一歩位をもって運びはじめます。
この位取りはなんでもないように見えますが、演者としては、ここがなかなか難しいのです。父はここの位取りは、歳を重ねれば自然と出来る、若い大夫はあそこにどうしても風格が出ない、と教えてくれました。確かに自分の披きのビデオを見ると、なるほど軽いと痛感しますが、今回もまだまだ、どっしりとまではいかなかったと反省しています。
他流の『翁』には初日之式、二日目之式、三日目之式、四日目之式とありますが、喜多流に伝えられているのは四日目之式と云われています。流儀の主張は、御神事であり見せ物ではないので毎回同じで構わない、と喜多六平太芸談に記載されています。
大夫は舞台正中から正面先まで進み、座礼します。
伝書には「偉い方は南に向いて座るから、北を向いて礼をする、北斗へ向かう心」と意味ありげな事が記載されています。北斗へ向かう心、これをどのように解釈するか、そこが味噌です。私は貴人や神社関係者に対しての礼ではなく、空を見上げ神に「これからご祈祷と舞を捧げます」とご挨拶の気持ちを込めて深々と礼をしています。

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座礼が終わり、大夫が地謡座近くに座ると千歳は面箱を大夫の前に置き、面箱から翁の面を取り出します。これを手際よく出来るのも千歳の技量の一つです。千歳が脇座に移動するのを合図に、橋掛りに着座していた囃子方から一同順に舞台に入ります。地謡は『翁』に限り囃子方の後(後座)に着座します。これは『翁』が平安末期か鎌倉時代初期に作られた名残だといわれています。囃子方が着座すると笛はすぐアシライを吹きはじめ、その間に小鼓三人は素袍上下の上を脱ぎ道具を取って連調となります。今は番組に小鼓三名の名前があり、その真ん中が頭取と呼ばれ主導権を持ち、その左右に脇鼓(見所から見て、右が手先、左が胴脇)が並び囃します。なんでも古い時代は一番初めに道具を持った者が頭取になったとも言われていますが、今はそのような事はありません。
三丁の小鼓の打つ手組を聞いて、大夫の「どうどうたらりたらりら、たらりあがり、ららり、どう」と意味不明な謡となります。
我が家の伝書には詳細に意味が書かれていますが、これは音だけでも充分楽しめますし、また呪文と思えば、それはそれで意味不明でもかまわないと思います。『翁』は詞章より、ノリ、躍動感あるリズムが命と思い勤めています。
千歳の舞は露払いです。この役は『翁』の中で唯一若やいだ役です。千歳の「所千代までおわしませ」の謡で大夫は舞台上で堂々と観客の前で面を付けますが、『翁』ならではの演出です。
昔、足利義満公の前で、観阿弥が敢えて若い息子 藤若(世阿弥)にこの大夫役を勤めさせたのは、舞台の一番はじめに美少年の世阿弥の素顔を見せ印象づけ、そして舞台で面を付け変身する舞台効果を充分知り尽くしてのことだったのでしょう。
面を付けた大夫は三番三と大小前で向き合い、三番三は揉みの段に備えて後見座にくつろぎ、大夫は正面に向きご祈祷となります。
「ちわやふる」「千年の鶴も萬歳楽と謡うたり、また萬代の池の亀は甲に三極を備えたり、天下泰平国土安穏 今日のご祈祷なり、ありはらや、なじょの翁ども」
このご祈祷の謡は、朗々とはっきりと張って、なお奥深い広がりが感じられれば最高位の良い謡、と評されるでしょう。私も屋内ではそのようにと意識していますが、ここ厳島では意図的に少し変えています。
ここで『翁』を勤めるには全身全霊で神に届くが如く、大声で張って謡うものだと思います。当然役者の年齢によりその声は違います。30代の張る声量や声質は40、50、60代のものよりもいたらないところが多々あるでしょう。若さ故は百も承知です。60代や70代の年を経れば、自然と落ち着いてきて、それでいて張りのあるものが出来上がるのは当然です。役者には自然と年を重ねることで体得出来ることもあるでしょうが、ここ厳島での『翁』はそのような言葉に甘えずに、老若関係なくその場を受け持つ役者が精一杯大きな声で唱えることに意味があり、そのような謡い方が必須だと思います。それが屋外の『翁』を勤める時の心構えだと信じています。
能楽師は例えば、厳島というロケーションであれば、その場をどのように思い考え、謡い方を探り見い出すか、その作業を怠っては八百万の神々がお怒りになるのでは、と私は怖れています。

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ご祈祷が済むと翁の舞となります。
喜多流は中啓を持つ右手をかかげ目付柱まで行き、そこで少し屈んで天の拍子を踏みます。次に脇柱近くに移動して地の拍子を同じように踏みます。
踏み終わると位が少し早まり、翁独特の型、左袖を頭部に翳し中啓で面を徐々に隠して天の磐戸隠れを現します。袖を返したり巻いたりして、そして最後に舞の終わりは人の拍子を踏み、萬歳楽・萬歳楽と大夫と地謡の掛け合いの謡で最後に礼をして大夫の舞は終わります。大夫は元の座に戻り面を外し、面に礼をして面箱にしまい、また正面先まで出て座礼をして幕へと帰ります。
これを翁帰りといい、高安流ワキ方は装束を着て幕の内で脇能のワキ役者が大夫を出迎え、受けるのが決まりです。
さて大夫が幕に入ると、大鼓は床几に掛けて揉みの段となり、三番三の出番となりますが、それらを大夫は脇能(今回は『弓八幡』)の前シテの装束を着けながら聞くことになります。
我が家の伝書に「太子伝の翁、云々」と記載があり、これが喜多流の『翁』の基盤となっていますので、その一部をここにご紹介します。
又其ノ後人皇三十三代推古天皇ノ御時、諸国疫癘多ク様々ノ天災有リ。其ノ時聖徳太子摂政シ給フ故、神仏ニ御祈願有シ時、天ヨリ面降リ下ル。太子是レヲ御覧ジテ、是レ翁ノ神楽ノ面也。天是レヲ下シ給フハ、此ノ神楽ヲ奏シテ災ヲ退クベシトノ御託也トテ、翁ノ神楽再興有リ其ノ時、庭上ノ御池ヨリ亀浮カミ出ル。甲ニ文有リ。「トフトフタラリタラリラタラリアラリララリトウチリヤタラリタラリラタラリアラリララリトウ」太子此ノ文ヲ考ヘ、諸鳥ノ囀ヲ以テ調子ヲ調ヘ、神楽ヲ作リ給フ。今ノ翁ココニ始ル。太子伝ニ曰ク、撥調ヲ改テ手調ト為ス。此ノ時ヨリ今ノ世ノ笛始リ、臺拍子ヲ改テ小鼓ト為シ、太鼓ヲ改テ大鼓ニ成ル。「千年ノ鶴ハ萬歳楽ト謡フタリ」トハ諸鳥ノ囀ニ依テ調子ヲ調ヘタル儀也。「萬代ノ池ノ亀ハ甲ニ三曲ヲ備ヘタリ」トハ則チ此ノ文ニ依ル也。此ノ時ノ神楽ハ五人立チニテ翁ハ聖徳太子自ラ舞謡フ。而シテ此ノ神楽ヲ秦河勝ニ伝ヘタフ。
河勝ガ子孫、大和国竹田ニ住ミ、世々御祈祷有ル時毎ニ勅ヲ蒙リテ此ノ神楽ヲ奏ス。世ヲ経テ後、竹田家故有リテ断絶シ、翁ノ神楽ハ神祇官 卜部家ニテ奏ス。又其ノ後、兵乱ニ依テ、卜部家翁ノ神楽断絶ス。足利義満公ノ時、武威盛ンニシテ武家ニ諸禮ヲ定メラレ、住吉神功皇后御凱陣ノ吉例ニ依テ、翁ヲ武家ノ式楽ニ定メラル。此ノ時翁ノ神楽「堂上」ニ絶ヘテ古実ノ伝ノミ 卜部家ニ残ル。今ノ世、吉田家ヨリ翁ノ古実ノ相伝有ル事此ノ故也 云々
ここからは秘事が多くなりますので、中断させていただきますが、室町時代後期に吉田神道と繋がりを持ち、どのようになったのかが詳細に書かれています。
要約すると、往古に金春家と吉田家が争論して故実は吉田より伝えられたが、舞様は金春より伝えられた、よって観世大夫、宝生大夫、金剛大夫は吉田家より故実を相伝して、金春大夫と当流は太子伝故、吉田伝は受けない、とあります。
喜多流はもっとも新しい流儀ですが、『翁』だけは金春と姻戚関係になったこともあるので、古いやり方が継承されているというわけです。
この伝書には、『翁』が災いを退くために天からのご託宣として降りてきたこと、「とうとうたらり・・・」の詞章、囃子の位置づけなどが生き生きと描かれています。しかも、その精神はここまでレポートしてきた現在の『翁』のなかに生きて伝えられていることがわかり興味尽きないものです。聖徳太子自らが舞い謡ったという記載も面白いではありませんか。
また、先に述べたご祈祷の謡、喜多流の謡本には「千年の鶴も・・・・・甲に三極を備えたり」とありますが、これは三曲の誤りで、このような間違いを今頃になって気づくのは少々勉強不足でお恥ずかしいのですが、これも伝書を読めたからこそ、とつくづくと伝書の大切さと面白さを感じました。
『弓八幡』について

『翁』が一通り終わると、脇能の『弓八幡』となります。
『弓八幡』は脇能の中でも渋い曲で演者にとっては、さほど遣り甲斐のある曲ではありません。世阿弥も「すぐなる體は『弓八幡』なり、曲もなく真直なる能、當御代の初めに書きたる能なれば秘事もなし」と世子申楽談儀に書いているように、特別演出する小書もなく特別な型所があるわけでもないので、『高砂』に比べると面白みは少々下がるように思います。
『弓八幡』のような簡素な曲は演者が見せるというより『翁』と同じように真摯に、ただただきっちりと正統に脇能らしく謡い、脇能らしい力漲る構えや運びに心がければいいと思います。観客はその中から泰平の御世を祝う心を想像されればよろしいかと思います。
今回初ツレを経験したのは昨年より我が家で勉強している佐藤陽君で、東北大学で勉学中にこの道に入りたくなり、今能楽師を目指している者です。
喜多能楽堂改修工事も無事終わり、4月には本舞台も使用出来るようになったので、佐藤君と本舞台で二、三度稽古しましたが、やはり厳島の能舞台は橋掛りの位置が喜多能楽堂とは違い特殊なので、前日に場当たりをして舞台に慣れておくことにしました。その成果があり、見当違いや間違いもなく無事勤めてくれたことは嬉しいことでした。これからの益々の精進を期待しています。

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『弓八幡』を再演するにあたって再度伝書を見ましたが、やはり「常の通り」とあるだけです。但、桑弓をワキに渡すところは通常初同で渡すとされていますが、意味合いからも「今日ご参詣を待ち申し、これを君に捧げ物と申し上げ候」とワキとの問答の時に渡した方がよいので、前回同様そのようにしました。
『弓八幡』の主題はこのワキとの問答にあると思います。弓矢をもって戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめるという平和主義者世阿弥の思想がここにあります。
スポンサーである武人足利氏を褒め称えながらも、帝を尊重する曲作りには世阿弥の芸能者魂がこのすぐなる能から伺えます。

『弓八幡』脇の五段次第、道行、シテの眞之一声、下げ歌、上げ歌、問答、初同となり、続いて序、サシ、クセ、ロンギ、中入となり舞があってキリの仕舞所と、典型的な脇能の構成で進行していきます。
サシから居クセまでは神功皇宮が三韓を従えさすために九州で祭壇を飾り祈ったこと、そして敵を滅ぼし応神天皇を生んだこと、その神が八幡山について石清水八幡宮となった故事を語ります。そしてこのクセの詞章が神楽発祥や『翁』に通じ、寿山が記載する伝書に同様に書かれていたのを知り興味が湧きました。
居クセが終わり、前シテの尉は自ら高良神(かわらのしん)であると名乗り消え失せ、中入となります。後場は高良の神躰として現れ、御世を寿ぎ泰平の御世を祝い舞を舞います。
では下記に『弓八幡』のクセと通じる『翁』の伝書の一部をご紹介します。
『翁』と『弓八幡』のは繋がりをご覧下さい。
人皇十五代神功皇后、三韓退治ノ時、九州筑前国博多郡ニテ諸軍勢ヲ集メ大酒ヲ給フ時、烏帽狩衣着シタル人、出来シテ、神功皇后ニ申サシ難所ノ瀬渡ヲ御渡リ給フ間、供奉申スベシトテ、則チ大酒シ給フ。此ノ時 神楽在リ武持神楽舞給フ。是レ武内神、高良ノ明神也。老人ハ「興玉神」「住吉大明神」也。千歳振、「高良明神」。翁ハ「八幡太神」。神功皇后懐妊ニシテ舞給フ故ナリ。
三番叟「住吉大明神」、此ノ時榊ノ枝ニ金ノ鈴ヲ附テ持チ給フト云フ。又一説ニモチノ枝ニテ舞給フトモ云フ。是レ鈴ヲ振ル始メ也。此ノ以前ハ竹ノ枝ヲ用ヰル也。今ノ世ニモ、三番叟ニ錫杖ヲ用ヰル事有ト云フ。竹ノ杖ヲ象リタルナルベシ。神功皇后三韓御退治ノ吉例ニ依テ武家祝儀ニ必ズ翁ヲ用フル也。其ノ時翁三人成ル故、武家ノ祝儀ニハ三人ニ立ニ限ル也。云々
『翁』は随所に秘事、秘技があり、芸事上いろいろな約束事を秘密に伝承しながら現代に伝えられています。今回、伝書を注意深く読み、面白い発見がたくさんありました。喜多流の『翁』の基礎となっている「太子伝の翁」の話や、『弓八幡』のクセが『翁』に密接につながっていること、こういう発見があると『翁』や脇能が自分の中で大きく広がって一つの宇宙をつくり上げてくれるようで、私の役者魂が躍ります。
伝書の記載事項が秘事であることは能楽師の一般常識です。もちろん秘すべしは悪くありません。公開しないことで浸食されず守りぬくことは大事でしょうが、今回敢えて、限度と節度を考慮しながら公開を決断しました。けしからんとお叱りを受けるかもしれません。しかし私は能の真髄を演者も観客も、ともに見極め共有することは必要だと思います。そのために資料公開がすこしでもお役に立つのであれば、それは悪とは呼ばれない、そう信じています。
伝承とは正しく伝え承ることです。
御神能後、体調を崩し私自身初めての入院を経験して、人間、万が一ということを身近に感じました。
書きとどめる作業、それがネット上であれ書きとどめたことで、私の役者魂が形をなして存在するかと思うと、花火のようにぱっと消えてしまう演劇活動に携わっている人間としては、たまらなく面白く、つい執筆に力が入ってしまうのです。
演能レポートを書きはじめて10年を超えましたが、これからも自分自身の能を見つめるために書きつづけていきたいと思っています。
今回の「『翁』と脇能」の演能レポートは、私事ですが健康であることの有り難さ、自然の中での体験のすばらしさ、伝書という先人たちの功績によって演能する意欲がさらに膨らんだことなど、たくさんの経験を書きとどめることができました。そして書くことでその思いを更に強くし、それだけでも充分価値あることだったと思っています。
(平成19年4月 記)
写真
能『翁』『弓八幡』 シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
面 翁 小牛尉 厳島神社蔵 撮影 粟谷明生
厳島神社能舞台楽屋 撮影 粟谷明生
『蝉丸』について投稿日:2007-03-01

『蝉丸』について
粟谷明生
愛知県豊田市にある豊田能楽堂3月能公演で『蝉丸』シテ粟谷能夫・ツレ粟谷明生を勤めました。実はこの企画は三年前に一度ご依頼をいただき、そのときは、当方の諸事情によりお断りしたのですが、再度、是非お二人でとのご要請をいただき今回お受けすることになりました。交渉は2年前でしたので、地頭は父粟谷菊生、副地頭に友枝昭世氏という豪華メンバーでの地謡を考えていましたが、昨年父が亡くなり我々の思い通りの形で実現出来なくなったことはとても残念に思えてなりません。
能『蝉丸』は、主人公のシテが延喜帝第三皇子逆髪であり、蝉丸はその弟で盲目の青年という設定です。能にはこのように曲名にある人物が主役でない場合がいくつかあります。例えば、喜多流では『満仲』、シテは藤原仲光ですが、曲名は仲光の主人多田満仲です。同じく、『葵上』のシテは六条御息所、『小督』のシテは源仲国、『張良』のシテは黄石公、『望月』のシテは小沢友房です。
能『蝉丸』は流離された身体に障害を持つ不遇な姉と弟の皇子の苦難の悲劇です。
申楽談義に「逆髪の能」とあるので世阿弥作と言われていますが、謡の詞章のすばらしさのためか、江戸時代は『砧』『小原御幸』『蝉丸』の三曲を能としては演能せず、謡だけで楽しむ曲にしてしまいました。これらの作品は能役者の謡の力が試される曲といえるでしょう。動きの型よりも謡の力を重視した曲ですので、謡のうまさが必須です。
うまさとは、技術的には音程が正確でしかも発声は綺麗で聞きとりやすいこと、そして観客へ訴える力、つまり謡の意味を伝えようという意識と説得力が加味されていなければいけません。これらを体得しはじめて蝉丸の役が降りてくるのだ、と先輩から教えられてきました。
戦前から戦時中は、二人が皇子という理由で不敬になると上演が禁止されていましたが、現在はそのようなことはありません。この重く悲しい世界、能だからこそ表現出来る世界ではないでしょうか。
私はツレの蝉丸を平成5年(第4回粟谷能の会研究公演・シテ 粟谷能夫)にはじめて勤め、その後、広島花の会では中村邦生氏にツレをお願いしてシテを勤めました。
今回は能夫との再演で、一回目のツレとシテの経験をもとに自分なりにレベルアップした役作りを心がけてみました。
盲目の青年皇子をどのように演じるか?
謡での表現はもちろんのこと、盲目の動き、殊に面遣いを意識して、私なりの工夫を凝らしてみましたが・・・・。
さて、それがどれほどのものであったかは、ご来場頂いた方々にご判断いただければと思います。
この曲では、ツレ蝉丸がワキと次第で登場してから最後の逆髪を見送るまで終始舞台にいます。ワキの藤原清貫は前場で退場し、シテも後場にしか登場しないので、この曲を支えているのはツレ役といっても決して過言ではないと思います。それだけにこのツレ役は重要で大事に位重く扱われています。
舞台進行は、盲目の皇子蝉丸がワキの清貫一行に連れられ都から逢坂山までの道中を謡い逢坂山に到着すると、勅命により出家させられ、この山に捨てられることになります。
ワキの道行が済むとツレは地謡前に移動して座り、おもむろに静かにしかし張った声で「いかに清貫」と清貫に呼びかけます。前半の作品の出来不出来を示唆するほどの一句です。盲目の青年は周囲の雰囲気を察知し「さて我をばこの山に捨て置くべきか?」と清貫に問いかけます。清貫も勅命で同行してきたことを嘆き、こころの動揺を隠すことが出来ないでいますが、蝉丸は自らの過去の行いが悪かったのであろう、きっと来世の為にとの父親の慈悲であるから恨むことはないと、逆に清貫を慰めます。このあたり、蝉丸の凜とした人物像を謡や座っている姿で表現しなければいけないところです。ここを上手く演じられると、次の落胆の場面とのギャップが大きくなり、観ている人の蝉丸への哀れみの気持ちも増す、というからくりでもあるのです。蝉丸役者の前半の仕事はここに集約されるので、ここをどう演じ切れるかが、私の課題の一つでもありました。
「御髪を下ろし・・・」と清貫に告げられ物着になります。狩衣を脱ぎ、髪を取り、角帽子をつけますが、これら物着の作業が後見二人によって舞台上でスムーズに行われると、それ自体にまた悲しみが込められるという演出です。いかに綺麗に的確に処置出来るかが後見の腕の見せ所といえます。今回は中村邦生氏と友枝雄人氏が手際よくやって下さったことに感謝しています。

物着が済むと「此は何と言いたることやらん」と先ほどよりもやや気弱な心持ちで、しかし強い意志で謡うのが教えです。実際に簑は着ませんが、蝉丸は簑を着て笠と杖を持たされ、清貫一行は都に帰ってしまいます。逢坂山にただ一人残された蝉丸は、杖にすがり琵琶を抱いて泣くばかりです。通常は舞台中央で下に伏してシオリをして泣く型となりますが、私は前回の時に「盲目にシオリ無し」と注意を受けたことがあったので、敢えてシオリをしませんでした。何でも医学的に・・・涙腺がどうのこうの・・・と説明を受けた覚えがありますが、演技的にも確かに手で涙を押さえる型より、何もせずに面遣いだけで深い悲しみを表現出来れば、その方がより強い表現になるのではないでしょうか。
アイ(博雅三位)は初同が終わると登場し、捨てられた蝉丸を見つけ藁屋へと案内します。このアイの名乗りや、ツレへの問答、ふれの言葉は多く時間がかかります。もう少し整理されてもいいように感じますが、これは蝉丸役者だけの感想でしょうか。
「源平盛衰記」では蝉丸が博雅三位に琵琶の秘曲をここで伝授したようですが、能ではそこは触れないでいます。
アイが退場すると漸くシテの登場となります。
一声で髪が逆立つ異体な姿で現れ、都から逢坂山までの放浪をカケリや道行の仕舞で演じます。
逆立つ髪と言っても能では、鬘の両鬢を垂らしたり、時には黒頭を付けることで髪の異常さを表現します。
道行が終わり、ツレの「世の中はとにもかくにもなりぬべし、宮も藁屋も果てしなければ」の謡の聞かせどころとなります。シテ逆髪は弟の声を聞きつけ、ここに姉と弟の再会場面となります。シテとツレの掛け合いは、徐々にお互いの謡の声や音の高さ、速度、張りなどを駆使し高揚させて絶頂に持っていき、地謡の「共に御名を木綿附の」にと繋げます。うまく繋がると、この再会の場面、自然と涙腺が緩むところです。

今回の演能にあたり、シテからの要望もありお互いに相談して、喜多流としては新たな演出を試みてみました。再会したあと通常は、蝉丸は藁屋の中に居続けますが、今回はツレが序で藁屋から出る演出にして、姉と弟の距離感を密なるものとしました。苦境にあるクセ謡の上羽「たまたま言訪ふものとては」を現行ではシテ謡ですが、意味あいから本来は蝉丸の言葉であるのでツレが謡うことに変え、また中啓を遣い琵琶を弾く型も取り入れ、謡だけの世界に少し視覚的な要素も入れてみました。

そして終盤、ロンギになり、シテとツレの最後の別れの場面、クライマックスとなります。
ここもまた能役者の力量が試される所です。
演者は単に作品の持つ力に頼りきるのではなく、謡と型の演技力で観客自身が感動のスイッチを自然と押してしまうほどのものを提供しなければいけないでしょう。
絶望感あふれる蝉丸の謡、それが判りながらどうしようもなく去らなければならない姉の逆髪。
お互いの謡の力と微かな動き、あとは観客の想像力にお任せしますが、そこまでの舞台作りをしてこそ一人前の能役者と呼べるのではないでしょうか。またそこまで求めているのが能『蝉丸』であり、世阿弥の思いだと思います。果たして私たちがそこまで出来たのかは気になるところですが、能夫と二人真摯に精一杯勤め、志があったことは確かです。
去る姉に弟は杖を突きながら、足弱く追いかけ見送ります。
「そこは右耳で聞く、そしてちょっと面遣いをするんだよ、それが出来るかどうかなんだ、そこが勝負だよ!」が父の言葉です。
これからも演能のたびに父の言葉を思い出し、父の顔が浮かぶことでしょう。父から教えられたもの、父が大事にしてきた先達の能、脈々と続く粟谷の能を伝承し、そして、粟谷明生の能というものを確立していきたいと生意気にも思っています。そうでなければと、能『蝉丸』の蝉丸が教えてくれたように思えてなりませんでした。
(平成19年3月 記)
写真提供 石田 裕
『千寿』について投稿日:2006-11-26


喜多流自主公演(平成18年11月公演)で『千寿』を勤めました。
『千寿』は最近では頻繁に演じられるようになりましたが、以前は楽屋内でいう遠い曲(あまり上演されない曲)でした。理由ははっきりしませんが、例えば『船弁慶』などは義経と静御前の恋事を一方が子方で演じることで、生々しくならないように、いやらしさを隠していますが、『千寿』は重衡を両シテのように重く扱い、大人が直面で演じるため、どうしても表現が露骨になってしまう衒いがあります。先々代十四世喜多六平太先生や先代喜多実先生はその当たりがお好みに合わなかったのでは、と私は推察しますが真相はわかりません。
実は私もこの曲が好みかと聞かれたら、ちょっと答えにくいです。
しかし能役者とは不思議なもので、好きではないと言いながらも取り組んでいくうちにその曲の良さを見つけてしまうものです。私もはじめは気乗りがしないで稽古に入りましたが、次第にその面白さ、よさが判るようになりました。
曲名の『千寿』ですが、他流では『千手』と表記します。本来は千寿の母親が「千手観音」に我が子の誕生を祈念し、その願いが叶い「千手」と命名したもので、吾妻鏡をはじめほとんどの文献で「千手」と記載されています。「千手」が正しい表記と思われますが、千手のふるさと磐田市や千寿保存会などのチラシにはあえて「千寿」と記し、そう呼んでいるようです。これも私の憶測ですが、本名は「千手」で白拍子の源氏名を「千寿」としていたのではないかと思うのですが、どなたか真実をご存じならばお教えいただきたいです。
能『千寿』は、一ノ谷の戦で生け捕られ鎌倉まで護送される平重衡と、頼朝の命令で遣わされた千寿との束の間の悲恋物話です。舞台で、シテの千寿、ツレの重衡、ワキの狩野宗茂の三人が三様に的確に役を演じ分け力を発揮するところに、この曲のおもしろさと魅力があると思います。余談ですが狩野宗茂は曾我兄弟の仇として有名な工藤祐経の従兄弟と資料にありました。
ではこれからは舞台の進行に従いレポートします。
舞台は囃子も何もなく、ツレ重衡が静かに出て脇座にて床几にかかります。鎌倉の館に拘束され処刑を待つ身という状況設定です。まず狩野宗茂(ワキ)が名乗り、頼朝が重衡に対し丁重な扱いをしていることを語ります。その扱いは武人として、平家の御曹司として相当に手厚いものであり「昨日もお湯をひかせ」と囚人に風呂を用意するほどです。更に頼朝お好みの美女十人衆のナンバーワン千寿をお世話係に付けるほどですから、その扱いは相当に上等な待遇であったことが判ります。
頼朝の命令により千寿は連日重衡のお世話をしていますが、雨の日に琵琶を奏して慰めようとするところからがシテの登場となります。
通常、『千寿』の次第は常座で謡いワキとの問答が終わると、一時後見座にクツロギ下居して、重衡の独白となる大事な謡い所を聞きながら待ちます。ここは素声(しらこえ)の節扱いがあり、わざと調子をずらすように謡いますが、「我はいつとなく敵陣に・・・」から謡本では三行も素声を謡うのは滅多にありません。異例です。うまく調子を取らないといい素声にならず重衡役者の力の見せ所ともいえるむずかしいところです。この大事な場面で正面にお尻を向け下居している舞台景色は綺麗なものではありません。以前からどうにかここを改善出来ないかと思っていたところ、我が家の伝書に橋掛で謡うこともある云々と記されていましたので、今回試しに取り組んでみました。楽屋内の反響としては橋掛が館の外、舞台が館の内という状況がより明確化されてよい演出であったと好評でした。
重衡は捕らわれの身でありながら頼朝に出家を願い出ます。平家の御曹司らしい我が儘ぶりが出ているところで、それまで丁重に庇護してきた頼朝ですが、さすがに許可出来ないと断ってきます。重衡の装束で気になるのは何故袈裟をつけるか、という問題です。出家していない重衡ですから本来袈裟はおかしいと思うのですが、喜多流では袈裟を掛けています。このあたりも御曹司の我が儘ぶりで袈裟ぐらい掛けさせろという解釈なのか、他流では袈裟なしの演出もあるといいます。
はじめは重衡に面会を断られる千寿ですが、頼朝の仰せである旨を狩野に伝えると重衡との面会となります。ワキが「只こなたへと請ずれば」と招きいれると、シテは「そのとき千寿立ち寄りて」と橋掛からするりと歩み寄り舞台に入り、「妻戸をきりりと押開く、御簾の追い風匂い来る」と戸を開ける型をして館の中に入ります。若い千寿が都人重衡の香の香りに反応する一瞬に演者は心して演じています。見落としやすいところですが、ここが大事な見せ場です。生前父は私の地謡を謡うはずでした。ここの謡い方について「どうも皆、ここをゆったり、ゆっくり謡っているが、僕はさらりと謡うよ。若い女が経験したことのないものを感じる一瞬だよ、都人のいい匂いをね。だからさらっと、風が吹くように謡いたいんだ」と言っていたことを思い出しました。
千寿は出家の願いを自分も頼朝に進言したが叶わなかったことを語り、心ふさぐ重衡を盃と琵琶で慰めようとします。菅原道真の現世安穏を祈る朗詠、死語の引摂を願う具平親王の句などが詠われ、はじめは心を閉じていた重衡も次第に心を開き、酒宴となります、ここからがシテの芸尽くしの舞となります。
謡曲では謡の聞かせどころはいろいろありますが、囃子方も一時囃子アシラヒを中断するほどの大事なところはいくつかありますが、喜多流ではつぎの三個所が有名です。
『江口』の「秋の水漲り落ちて」、『砧』の「宮漏高く」、そして『千寿』の「羅綺の重衣たる、情け無きことを機婦に妬む」の三つです。気持ちを込めて美しく張って透明感を持って謡います。役者にとって聞かせどころ、勝負のところです。
さて芸尽くしのクセ舞ですが二段クセとなります。舞の型は道行の詞章に合わせながら基礎的な型の連続で、それほど特徴がある面白いものではありませんが、だからこそ舞そのものの美しさ、役者そのものの力が必要で、それがしっかりと表現出来ないとこの能は成立しないでしょう。
他流では中之舞としているところもありますが、喜多流はしっとりとした感じを出すために序の舞です。今回は初番が『敦盛』で三段の舞を舞うので、同じ型が続かないように配慮して私は替の型で更に「つまみ扇」の型を取り入れて勤めました。
酒を酌み交わし琵琶を奏でてひとときの時間が過ぎると、そこは二人だけの一夜となり、その一時もやがて過ぎていきます。源平盛衰記ではその夜のことをプラトニックに書かれていますが、私は大人の愛の確認があったと、『千寿』を勤めました。

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千寿が重衡のもとに行かされたのは22歳。
年齢からも喜多流の小面を使用するのが順当ですが、艶、美女を前面に出して演じてみたい思いから、粟谷家蔵の孫次郎系統の面「柳孫」を使用してみました。華やかで、ちょっと大人の雰囲気がある面ですが、実は未だ使用したことがなかったので、いつか使いたいという役者心でもありました。

二人にとって貴重な時間が過ぎ、勅命によりまた都に戻ることになる重衡を千寿は泣きながら見送ります、最後の場面「はや着衣に引き離るる、袖と袖との露涙」と二人は舞台中央で交差しますが、ここをあまり近づきすぎると露骨になり舞台にイヤミがでてしまいます。少し距離をとりながらも二人の役者の心、息が上手く通じて、ぎりぎりのところで離れていければいいと思います。
ところで『千寿』のツレ重衡はシテと並列するほどの重要な役です。
『千寿』の演能心得として、謡はツレが一番重く、シテはその次ぎ一段高く張って謡うこととの教えです。
重衡を勤める者は、はじめから最後近くまで脇座で床几にかけたままです。私は未経験ですが、体験者はこの長丁場を腰掛けている辛さに苦しみます。膝や腰の苦痛は経験者しか判らないでしょう。今回狩野了一氏にお願いしましたが、重衡らしい良いツレを的確に演じてくれて私の舞台を盛り上げてくれました。
この重衡が床几に腰掛けている姿を拘束されている意味と先輩のある方は説明されます。申合で、重衡が心をひらき酒宴に加わり朗詠を聞くときと、琵琶を弾くときに床几から降りてみてはと思いツレに指示したところ、これは拘束されている意味だから不適とのご注意を受けました。重衡の床几についての考えは、それだけに断定してしまうのはいかがなものでしょうか。違う角度からの見方もあっていいのでは、確かに捕らわれ拘束の有様の表現ではありますが、それだけに留まらないものもあると思います。拘束されていると同時に、能『千寿』での重衡の役柄の位の高さを表していると思います。
当日は自主公演という流儀の催しでもあり、また狩野了一氏にご迷惑がかかるといけないと思い、今回は見送り普段通りにという師からのアドバイスに従いましたが、私としては少し気持ち悪さを残しました。
新しい試みが効果的か、また似合わぬ悪いものなのかは別として、能役者として常に心がけていなくてはいけないことがあると思います。それは常に能を演劇的に前向きに考え、演じる姿勢を崩さないこと、それが私のモットーです。
先日、ある方から「能はそれまでの体験が能(脳)力となって体力を越える」とのお言葉を賜りました。表現の枠組みを狭めたり、新風を吹かせないために、先を見つめる若き能楽師にプレッシャーを与えるようなやり方があっては流儀は繁栄しないのです。
能は決められた型や口伝など約束事もたくさんありますが、その理由については伝書に書かれてはいません。その真意は師や関係者から教わる中で、演者が思いを膨らます部分があることが重要です。情報はより広く、たくさんあるのがよく、それが正しいか間違いかは別として、考えて選択する作業ぐらいのことは、今の時代の能役者としての必須条件だと思うのですが。
千寿は重衡に名残があったのか若くして亡くなります。私は従来の重衡の型に新風を起こせなかったことに、名残があります。父が亡くなって初めての能、父への名残と共に、名残というキーワードで繋がる『千寿』でした。
(平成18年12月末 記)
能 「千寿」シテ 粟谷明生 撮影 あびこ喜久三
面「柳孫」粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
『江口』は普賢菩薩の心投稿日:2006-10-08


写真「『江口』後シテ 粟谷明生 撮影 石田裕
『江口』は普賢菩薩の心
粟谷明生
第80回の粟谷能の会(平成18年10月8日)は、祖父、粟谷益二郎五十回忌追善の催しとして、子である菊生、辰三、幸雄が仕舞を舞い、孫の能夫と私がそれぞれ大曲の『道成寺』と『江口』に挑み、一門全員が力を合わせ執り行うものでした。
父菊生は会の番組の挨拶に、孫たち(能夫と私)が大曲を追善として勤めること、自分は仕舞と『江口』の地頭として舞台に立つこと、「八十五歳に近くなって父の五十回忌追善能に参画出来るということは感無量、無上の喜びであります」と、晴れがましさと嬉しさをつづっていました。
その父が『江口』の申合せの前日に脳出血で倒れ、未明に入院、当日は病院のベッドの上で生死をさまようことになろうとは・・・・。
役者はどんな状況であろうと舞台を最優先しなければいけません。父の容態が気にならないわけがないのですが、この状況下で『江口』を勤めなければいけない私のことを察して下さったのか、ワキの森常好氏や囃子方の皆様(一噌仙幸氏、大倉源次郎氏、亀井広忠氏)、ツレも地謡も皆、心を一つにして父のいない舞台を盛り上げてくださる、それぞれの役者魂、舞台人魂を痛いほど感じました。そしてそれは舞台上の人だけでなく、観てくださる方々からも伝わってきて、まさに見所が一体になったような不思議な緊張感、胸打つものがありました。あの舞台を支えてくださった皆様にも、ここで厚く感謝、御礼申し上げたいと思います。
ここからは、いつもの演能レポートに入りたいと思います。
能『江口』の舞台となる、江口とは難波江(現在の大阪湾)の入口の意味で、昔、瀬戸の海を渡って来た人はこの江口で船を乗り換え、川舟で淀川を遡って目的地に行くという、水上交通の重要な地として華やかで賑わいを見せていました。鎌倉時代までは繁栄し、その後、次第に華やかさは消えていったようです。
現在、大阪市淀川区南江口には寂光寺があり、ここは境内に贈答歌を交し合った遊女・妙と西行法師の供養塔があることから、江口の君堂とも呼ばれています。以前、写真探訪(これは未公開)で訪れましが、静かな場所にあり、当時の賑やかな面影はまったく感じられませんでした。

写真 「寂光寺」 撮影 粟谷明生
『江口』は西行と江口の遊女との和歌贈答説話と性空上人が室の遊女を生身の普賢菩薩と拝したという二つの説話から構想されたものです。西行との贈答歌は新古今和歌集に載ったことで有名になりましたが、そこには遊女は妙と記載されています。一説には贈答歌はどちらも西行の歌ではないかとするものもありますが、能ではシテは遊女妙ではなく、江口の君とだけ謡われています。
いずれにしても、普通は僧が教える立場であるものを、僧が遊女に法を教えられるという逆転の発想が面白いです。女性は穢れたもので、女人成仏できないとされた当時の世相にあって、女性が僧に物申すという逆転場面は能の世界ではときにあります。『柏崎』では物狂いの母(シテ)が善光寺の女人禁制に対して「仏がそうおっしゃるのか」と住僧に抗議し、『卒都婆小町』のシテ・小町が卒都婆問答で僧を言い負かすなど、いくつかあげることができます。この逆転の発想が当時の観客にもおもしろく受け止められていたのではないでしょうか。
『江口』を演じるにあたって気になったことがいくつかありました。
まず遊女とはどのようなものなのか。私はすぐに映画「陽暉楼」のような遊郭にいる女性たちを想像していましたが、『江口』で描かれる女性たちはどうも少し違うようです。
『江口』を理解するには、世阿弥が描いた当時の遊女像で物事を考えないとわかりにくいかもしれません。故綱野善彦氏は以前、橋の会のパンフレットに遊女について、こう書かれています。
「近代、近世の遊郭の遊女のあり方から中世以前の遊女をおしはかってしまうのは大きな間違いである。世阿弥が昔を思い浮かべて描いた遊女は13世紀から14世紀のスタイルで今とはそのスタイルが違う。近世的、近代的な売春婦として単純に考えてはいけない。
つまり、遊女とは古くは一種の巫女、その職として芸能をする者であり、芸能者は神仏になることもあり、それが宮中との繋がりにもなったとも考えられる」と、あります。この状況下から、江口の君のような発想が生まれるのは不思議ではなく、歌舞音曲を業としながら集団生活をするひとたちと見るべきなのでしょう。
次に気になったのが普賢菩薩になる設定です。菩薩は仏陀になる前の悟りを求める者です。普賢菩薩は釈迦如来の脇侍で、智恵を司る文殊菩薩とともに、慈悲を司るものとして配されています。文殊菩薩が獅子に乗っているのに対して、普賢菩薩は白象に乗っています。私は今まで、菩薩は神仏そのものであると誤解していました。確かに神仏に近い存在ではありますが、まだ悟りまでは達していない、悟ろうとする修業の身です。
遊女が菩薩になるという、遊女を穢れた者とするのではなく、芸能をするものとして、芸能の価値を認めることで、神仏に近い存在とする考え方や設定は世阿弥の時代ならではの構想かもしれません。とりわけ普賢は美しいお顔なので女性の象徴のように思っていましたが、実は男性であるということなども判ってくると私の頭の中はまたこんがらがってしまい、あまり性別のことを持ち出しても意味ないとは思うのですが、まだ悟られていない身分であること、男性であることなどが、男性の能楽師たる私がこの曲に臨むにあたって取りかかりやすくなった要因のひとつということは事実でした。

写真 国宝普賢菩薩像 東京国立博物館蔵 ポストカードより
次にもう一つ気になったことは、演者として前場を里女や江口の君の幽霊という設定でなく、普賢菩薩そのものの心持ちで勤められないだろうか、ということでした。これは私の単なる思いつき、ひらめきなのですが、そのように演じたい、と稽古しながら思い始めました。
そこへ、幸流小鼓方の横山晴明氏から森田光風氏の「平調返の試問に答ふ」というお手紙を拝見させていただく機会に巡り会い、私のひらめきが満更大間違いでないことがわかり自信がついたのです。
お手紙の一部をここに引用させていただきます。
「西行法師と江口の遊女との歌問答の故事を前提として転倒迷妄の窮境(きゅうきょう)から、三途八難の悪趣に堕ちた遊女も、愛執の境涯を脱すれば忽ちに実相無漏の大海に棹さして普賢菩薩と現じ、白雲に乗って西方極楽浄土に往生すると云う一種の人生観を説いた幽玄極致の能であります。遊女が普賢菩薩であるといふ事は、説話で名高い撰集抄や十訓抄から材を求めたものであります。是に依って江口の仕手の本体を遊女―江口の君と観察してはなりません。即ち普賢菩薩であります。・・・・・・云々」
この最後シテの本体を遊女・江口の君と観察してはならない、すなわち普賢菩薩なのだという言葉に力を得て、私は前シテの登場から終始、普賢菩薩という気持ちで演じられたのです。もちろん詞章を変えたり、変わるわけではありませんが、あくまでも普賢菩薩の心で、という精神性だけのことですが、私は能役者こそこの精神性を大事に演じなければつまらない舞台、空虚な舞台になってしまうと思っています。
森田流の伝書には、さらにおもしろいことが書かれています。能の骨子は五行によって成立され、五行とはすなわち、木、火、土、金、水、季節では春、夏、土用、秋、冬の五季、方位では東、南、中央、西、北の五方、色彩では青、赤、黄、白、黒の五色、調子では雙調、黄鐘(おうしき)、一越(いちこし)、平調(ひょうじょう)、盤渉(ばんしき)の五調子、音では角、徴、宮、商、羽の五音です。『江口』の小書「平調返」では、五行の四番目、平調と同列の金、秋、西、白、商が関係してきます。『江口』は「秋」の曲で、「白」象が、「白」妙の「白」雲に打ち乗って、「西」の空に行き給うと、一貫して五行の理にそって統一されていることが面白く、演じる手助けとなりました。これらは「能劇逍遥」横道萬里雄著(筑摩書房)にも記載されていますので、詳細はこちらをご覧下さい。
ここからは曲の最初から細かい演出について記していきます。
前シテの出は、常は「のうのう」とワキに呼び掛けながら幕から出ますが、普賢菩薩の心でと思い、現世の旅僧に悟らせるために、和歌を口ずさんでいるそばに、すっと姿を現す、そう思えるような演出として、ワキのサシ声の謡で静かに橋掛りに登場しているようにしました。西行法師の歌ばかりでは真意はわからない、「仮の宿りに心留むな」の歌も忘れてはいけないと諭すあたりの心は普賢菩薩の陰りが伺えられるようなものです。
後場は舟を橋掛りに出して遊女三人が並びます。シテを中央に、左右のツレを従兄弟の充雄と浩之に勤めてもらい、粟谷家一門全員が舞台に立てて、粟谷益二郎も粟谷菊生もきっと喜んでくれたことと思っています。ツレとの連吟「秋の水、漲り落ちて去る舟の」は、囃子方が道具を一時置くほどの謡の聞かせどころです。ここをどのように謡えたのかが気になるところではありました。
通常、ツレは序で地謡座前に移動して最後まで残っていますが、今回はシテが普賢菩薩になり白象に乗って西の空に帰るときにツレの遊女が舞台に残っているのは、景色が悪いと思ったので切戸口から退場してもらいました。舞台には旅僧たちだけが残るほうが『江口』の終曲としてはいいはずです。
今回は「干之掛」と「彩色」(イロエ)の小書付でした。「干之掛」は五クサリの序のあとに高い干の音から特殊な譜を吹く序之舞の特別演出です。一噌仙幸氏は『江口』という曲を吹いて下さいます。序之舞だけに留まらない能『江口』の全体の世界を吹いて下さる希少な笛方で、私の演能の大きな支えになっています。今回は初段オロシでは一噌流独自の「普賢の手」という特殊な譜も入れていただき、舞いながら序之舞の世界を堪能出来たことは大きな喜びでした。また後で「彩色」も入ることで常の三段を二段に縮小するという試みにも応えていただき感謝しています。
「彩色」は「序之舞」との繋がりを軽んじていけないと思います。『江口』の「彩色」は特に主張があるといいます。常はシテ謡で「波の立居も何故ぞ、仮なる宿に」と一息に続けて謡うところを「波の立居も何故ぞ」で一端切り、「彩色」の型が入ります。「波の立居も何故ぞ」と衆生への問いかけがあり、その仏の答えとして「仮なる宿に」とまた謡う、これが彩色の仕組みです。森田流の伝書には「彩色」があるものが本説である意が記されています。つまり彩色(イロエ舞)は遊女が徐々に菩薩に変化し始めるきっかけということのようです。詞章では「これまでなりや帰るとて即ち普賢菩薩と現れ」で一瞬のうちに普賢菩薩になりますが、その前兆のようなもの、それが彩色という位の高さを演出だと考えられます。
今回の「彩色」は舞台を静かに一巡するものながら、そこに変化の意識が込められるもので、破之舞のように、序之舞と同等、もしかするとより大事に扱われている二之舞と同じと思って勤めました。もっとも喜多流本来の彩色は働系統の途中に段をとる形式的ものです。型は大小前へ左回り正面乗り込み、右回り大小前、左右とありますが、これはあまり笛の精神性とは似合いません。近年友枝昭世氏がイロエ系の段なしの余韻を大事にする型を試みましたが、私もそれを真似て勤めました。
終曲は「有難くこそ覚ゆれ」で幕に入るのが吉・徳ですが、今回は次の『道成寺』の最後が脇留です、同じ型が続くのは避けなければいけないので、敢えて橋掛りの三の松で留めて終曲としました。
面については、本来、喜多流は小面が決まりですが、『江口』のシテは遊女であり普賢菩薩にもなる程の高位の女性です。単に可愛らしいだけの小面では『江口』にはそぐわないです。観世流では増女を使用する時もあるようですから、小面のかわいらしさだけの表情には限界があるでしょう。
江口の君に似合う小面、凄いエネルギーを発散する力強い小面。残念ながらそのような小面は我が家にはありません。ならば小面の縛りを越えて、いっそ増女を使用しては、とも考えましたが、今回は披きでもあり、また流儀の主張である小面を使用する所以「なぞとき」もしてみたいと悩んでいましたら、その私の悩みを解決してくださるものと出会うことが出来ました。それは観世流・浅見家の名品の小面です。浅見真州氏とは日頃いろいろお話をさせていただいている間柄でもあり、また亡き父と真州氏とのお付き合いのお陰でもあり、今回貴重な小面を拝借させていただくことができましたことは、真に役者冥利に尽きます。この小面は絶品で私の『江口』演能の根幹となって力を与えてくれました、ここに浅見真州氏に感謝申し上げます。
父が倒れた日は嵐のように大雨の降る日でした。二、三日後の、粟谷能の会の当日(8日)は一昨日からの雨があがり、さわやかな秋晴れの日となりました。もう少し頑張って、この会が終わるまではという我々の祈る思いが通じたのか、あるいはさわやかな陽気のせいか父の状態も小康状態を保ち、何とか命をつないでくれました。会が終わって3日後、11日に力尽き帰らぬ人となりました。
父や新太郎伯父は、祖父益二郎が亡くなった後、一周忌追善能、三回忌追善能・・・と、祖父の追善供養といっては大曲に挑み、充実した会を催して、粟谷能の会を盛り立ててきました。私たちもそういう機会に思いのある曲を勤めさせてもらい、成長してきたように思います。「追善ですからこういうことをやらせてくださいと実先生(家元)に申し上げ、大きい会を催すお許しをいただくのよ。追善という名前を借りて、お客様にもたくさん来ていただいてね」と言っていた父のいたずらっぽい顔が思い出されます。
五十回忌といえば、追善供養も最後、死者が完全に神になるというおめでたいときでもあります。これが終わり、次は父の一周忌から始まるのかと思うと、輪廻を感じ不思議な気持ちになりました。「五十回忌で追善能もおしまい。種切れになるね。じゃあ、僕の一周忌からまた始めたらいいよ」と言いそうな父の顔が浮かび、なにか、粟谷能の会のために、ちゃんと計算して逝ったような気にさえさせられるのです。
父の死と遺志を思うと、父や新太郎伯父が取り組んできたように、能夫と私が先頭きって、それぞれの思いのある課題の曲、大曲に挑み、一門の者が一致団結して、粟谷能の会を継承し、盛り立てていかなければ、と心底思っています。
役者は常に光源体であるべき、どんなときでも輝いていなければいけないと思っています。父は確かに光源体であって、いつも輝いていました。もっと謡ってもらいたかった。駄洒落や面白話ももっと聞きたかった。今私は、一つの光が消え、闇があたりを満たしているように感じます。しかし、蛍が明るい昼間より暗闇の方が美しく見えるように、暗闇だからこそ光源体は光を放ち、闇があればこそ、その光り輝きが冴えるのだと、いま自分に言い聞かせています。
父のいない舞台で『江口』を勤め、こういう闇の世界だったからこそ、見えてきたものもある、と感じました。またそのように見てくださった方もおられ、随分と勇気づけられました。どんな状況でも、役者は舞台に立つ宿命をもっている、たとえ闇のなかでも役者は光輝いていなければならない、それがもし輝かなくとも、光る作業はしなければいけない、そう感じ教えられた披きの『江口』でした。
(平成18年10月 記)
あさば能舞台投稿日:2006-09-16

先日5/9、修善寺芸術紀行と題して、友枝昭世氏の『八島』が演じられました。
地謡は地頭、粟谷能夫・粟谷明生・谷大作・粟谷充雄・友枝雄人・粟谷浩之の6名でした。
天候も良く、ロケーションも最高のこの日の修善寺、あさば旅館の能舞台「月宮殿」を写真にてご紹介いたします。

近くを流れる桂川

近くの竹林は竹の子がたくさん

見所からの舞台(池にせり出すような舞台。見所は池を隔てて造られている)

地謡座から見る鏡板と橋掛かり

地謡座からの見所

舞台裏の楽屋への通路

幕間より舞台

舞台遠景 (夜は照明で舞台が浮かび上がるように見えます)

きれいな庭のツツジ
厳島神社投稿日:2006-09-16

御神能用にしつらえる能舞台
厳島神社の能舞台は普段は、舞台と橋掛りがあるだけです。ですから切戸口を開けるとそのまま海という具合で、まわりには何もない造りですが、桃花祭の御神能のときに限って、演能用にしつらえられます。
厳島神社ならではの廃止曲
『清経』と『絵馬』は、現在この舞台における廃止曲となっています。清経は平家の行く末をはかなんで、戦わずして自害しています。これは敵前逃亡に等しく、よくないということで廃止曲になったらしいです。しかし、平清盛公が厳島神社を加護した経緯からすれば、清経は清盛の長男の子で直系であることからも、もう少し大切に扱ってもよいのではと思うのですが・・。敵前逃亡という考え方は、戦時中の思考のように思われます。見方を変えれば、『清経』という曲は戦さの愚かさをみせてくれ、反戦歌にもなっているので、これまでの慣習にとらわれず、復曲してもよいのではないだろうか、と私達演者は思っています。
『絵馬』の方は、忠臣蔵、赤穂浪士で有名な浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうずけのすけ)に刃傷を負わせたという知らせが、江戸からの早かごで届いたときに、城中で『絵馬』をやっていたことから、縁起が悪いということになったらしいですが、これも厳島神社と浅野家との関係であって、廃曲にする必要性があるのかは、疑問です。

楽屋翁後見の写真・・ここが厳島神社能楽堂の楽屋です。後見が御神酒をつぐために三番三、千歳、お囃子方を待っているところです。(詳しくは「能夫翁姿」の写真の説明参照)。この翁の演能前後、楽屋は女人禁制となりますが、その後は女性も入れます。

渡り廊下の写真・・舞台の後ろに渡り廊下をつくり、楽屋と切戸口との連絡通路にします。地謡も後見も出演者は長裃をつけて、この狭い廊下を通ることになります。昔はこの敷き板が外れたりしたため、足を踏み外し海に落ちそうになったり、怪我をしたり、裃を板に引っかけて破ったりと大変でした。現在、全ての出演者が一日中、長裃をつけているのは私の記憶ではここだけではないでしょうか。

見所の写真・・普段は特別に見所というものはないので、舞台のまわりに板をはって、桟敷見所をつくります。何年か前に、桟敷を組んでいる所に見物人が大勢腰掛けたため、紐がゆるみ、下に落ちたことがありました。幸い引き潮でしたので、びしょぬれにはならないで済んだようですが、それからはかなり念入りに作られているようです。

大鼓用の小屋の写真・・大鼓の人用に、切戸口の裏に小さな小屋があります。これが大鼓方の楽屋です。大鼓は皮を焙じるために火を使用します。神社側が火事を警戒して、海に一番近い所に専用の楽屋を作りそこで焙じるということで、やや寂しい楽屋になっています。渡り廊下の写真の奥に出っ張って見えるのが、この小屋です。

橋掛りの角度の写真・・橋掛りが舞台に対して、後方にふれているのが特徴です。現在の能楽堂は舞台に対して90度~100度の開きで作られていますが、ここは135度程とかなり開いています。つまり、演者が「おまーく」と言い揚幕を上げると、目の前に、ワキ座がまっすぐに見えるほどの角度になっているということです。名乗り笛の時、笛の方は幕が上がると吹き出すのがきまりですが、ここでは笛の位置から幕は見えません。また一曲が終わり演者が幕に入ったら笛が正面を向いて立ち、地謡も立って退場するのが作法ですが、このときも笛の方は演者が幕に入ったかどうかが見えません。実際、皆困っていますが、勘をたよりにどうにか対応しているようです。
この写真で揚幕から脇座が一直線に見えることを体感して下さい。

橋掛りの板の写真・・舞台の板は本舞台縦板、後座横板、橋掛板の三種で組み合わされていますが、この舞台は、橋掛の板がそのまま本舞台の縦板のところまで続いています。従って、後座が長方形ではなく、橋掛りの板で一部が切られ変形しています。我々演者はこの舞台の仕組みを頭にしっかり入れておかないと、能を演じるときに場所の勘が狂ってたいへんなことが起きてしまうのです。普通は橋掛りの板目を足の裏で感じ、次に後座の横板を感じて正面へ向きを変え、さらに縦板との継ぎ目を感じ常座に進みますが、この舞台では橋掛りの板の上をまっすぐ歩んで行くと、そこは大小前という本舞台中央近くについてしまうのです。

笛柱の写真・・笛柱は普通、壁の角に填め込まれているため、地謡は切戸口を出ると、笛柱をよけるようにして舞台の方に回り込んで地謡座につきますが、ここでは、笛柱が一本独立して立っているため、笛柱と壁の間を抜けることができます。実は喜多流の十四世喜多六平太記念能楽堂の笛柱も同じつくりで、この舞台の笛柱を模したものと思われます。このような笛柱は東京では他に靖国神社の能舞台しか見られず、珍しい形なのです。

階(きざはし)の写真・・見所から本舞台にかける階がありません。この舞台の階は、潮が引いているときには使えますが、満ちてくると浮いてしまうために、今日では外されています。従って、舞台から落ちても階から上がってこれないことになります。(この階、現在は楽屋の天井に飾ってありました)。
舞台の土台の中央に横に線が見えるのは、ここまで潮が満ちてくることを示しています。

御祈祷の写真・・御神能は4月16日から3日間、翁付五番立(今は3日目のみ、翁付ではない)で行われます。御神能は神事なので、太夫は本殿で御祈祷を受けてから楽屋に入り装束をつけます。優雅で厳粛な雰囲気があります。
この写真は平成7年の粟谷明生 披キの時のものです。前列左は執事の出雲康雅氏です。

能夫の翁姿の写真・・装束をつけた後、翁飾り(段飾りになっていて、面箱やお神酒、お米、いりこなどが飾ってあります。正式には「饌米」「塩」「御酒」の三種だそうです)の前で、お神酒をいただきます。翁飾りのところに後見が待っていて、順番に太夫、三番三、千歳の役者、囃子方、地謡などにお神酒をつぎます。平成13年は、翁太夫の粟谷能夫が最初にいただきました。どこでも『翁』の前には同じような作法があり、通常は後見が御神酒を持ち出演者たちについでまわる形ですが、ここ厳島では演者が翁飾りの前に並び御神酒をいただきます。
善光寺に纏わる能投稿日:2006-09-16

先日の阪大喜多会戸隠での夏期合宿の帰路、長野に寄る時間がありましたので、善光寺へお参りがてら写真探訪してきました。
善光寺にゆかりのある能は、『土車』、『柏崎』、『山姥』、『道明寺』などがありますが、私が今までに勤めたことのあるものは、『柏崎』、『山姥』です。
『山姥』は善光寺へお参りにゆく百魔山姥(ひゃくまやまんば)という京の遊女が境川から上路超え(あげろごえ)の道を進むと真の山姥が現れるというお話で直接善光寺が関係してくるものではありません。
『柏崎』は、主人の死と息子の出家の知らせを受け、悲しみに打ちひしがれたシテが阿弥陀如来の慈悲を願い善光寺の如来堂を尋ねます。内陣に入ろうとすると住僧が「女人禁制」と制止するのを「仏が本当にそう仰っしゃるのか、ここは全ての人の往生極楽の門である」と逆に論破してしまう教養高い未亡人の善光寺信仰の話です。
本堂内陣の戒壇巡りは真っ暗なお堂の下を一廻りし、途中にある大きな鍵に触れると御利益があり極楽に行けるというものです。前回は不覚にも触れることが出来なかったので、今回は是非触れて御利益をの目的もありました。というわけで一応今回のお参りの成果は果たせました。

「牛に引かれて善光寺参り」で有名な善光寺は古くから宗派の別がなく、お朝事は一年を通し天台宗、浄土宗の順で行われています。寺の廻りには壁もなく、町と寺の境がないのも特徴です。

山門近くに佐藤継信、忠信の塚があります。 佐藤兄弟は源義経の家来で兄継信は八島の合戦に、弟の忠信は吉野にて義経の身代わりとして討死にしています。
能で佐藤兄弟に関連するものは、『八島』、『吉野静』、『二人静』、『摂待』などがあります。

この逆縁供養塔は兄弟の母梅唇尼が我が子の菩提を弔うため、信夫の里から山深い信濃の国まで旅をして善光寺に詣で建立したものです。

新城 富永神社能舞台投稿日:2006-09-16

愛知県新城市(しんしろし)には富永神社所有の能舞台があります。
新城市本町にお住まいの方々を中心に新城能楽社を結成し、毎年10月の第二金曜日を祭礼能として、長い伝統を引き継ぐ演能奉納をしてこられました。
私は月に一度稽古に伺っていますが、写真のように舞台が拝見できるのは、祭礼能の季節だけですので、今回の写真撮影と共に新城と粟谷家の繋がりをご紹介したいと思います。
<新城能楽社と粟谷家>
新城能楽社と粟谷家の繋がりは、祖父益二郎が当地に稽古に伺ったことから始まり、新太郎が引き継ぐ形となりました。その後は職分、長田 驍氏が指導にあたり、地元能楽社の方々の御研鑽のお力もあって、奉納能が長く伝承されて参りました。平成元年には、後継者育成の問題もあり、能楽社より祭礼能、及び新城薪能の指導をと再度新太郎に依頼があったため、新太郎の指示により、私、粟谷明生が伺うこととなりました。それ以来、月一度の稽古が始まり今日に至っています。
この舞台を拝見すると、私が子供の時(昭和45年7月14日:15歳)に行われた、奉納能を思い出します。
番組は 能、『三輪』(二段神楽)粟谷新太郎、『葵上』粟谷菊生、 舞囃子 『小袖曽我』 粟谷能夫 粟谷明生 でした。
私は、名古屋で主流の藤田流の笛で初めて男舞を舞ったのですが、初段オロシの拍子を踏むところが判りにくく、能夫と二人で踏みはずした苦い経験が思い出されます。
当時楽屋の裏に何故か鶏が沢山いまして、謡っていると「コケコッコー」と鳴くので「やかましい、邪魔するな」と謡ながら腹を立てていたことも思い出しました。今回久しぶりに参りまして、舞台裏に渡り廊下が出来、舞台も建物自体も修理され良くなって感心させられましたが、なにより驚いたのは、私を悩ましたあの鶏たちの多分子孫だろうと思われる何羽かに会えたことで、まったく懐かしく思いました。

JR豊橋駅より、飯田線に乗り30分ほどで、新城駅に着きます。駅舎に立ちますと、まず目に付くのが、天井高く飾られている「長篠合戦陣構え」の図です。

毎回、これを見ては、「新城に来たな」と思うほど、私には印象に残る図です。

富永神社能舞台の鏡松
日頃は引き戸で隠され中が見られませんが、祭礼の前後はこのように開放されます。

意外と長い橋掛り


二の松あたりより正面を望む

脇座より脇正面の桜の木を見る

能舞台全景

立派な能舞台屋根

後見座より正面を見る

脇正面より

今回の撮影にご参加頂いた、新城能楽社の方々
『女郎花』ゆかりの地を訪ねて投稿日:2006-09-16

平成13年11月8日、『女郎花』ゆかりの地、八幡市の石清水八幡宮、松花堂庭園を訪ねてみました。
京阪電車、八幡市駅下車、目の前に男山山上行きのケーブルがあります。
本来は40分程度徒歩にて、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居と参拝しながらが登るところに御利益もあるのでしょうが、今回は時間の都合上、登りはケーブル、下りは徒歩としました。

八幡市駅より待機する男山ケーブル
単線行き違い方式の運転で、途中に高さ50メートルの日本一の橋脚があります。
山上駅に着きますと、左手側に展望台がありました。早速行って見ると正面は高速道路建設中、右には淀の競馬場と昔を偲ぶ景色ではありませんでしたが、「鳩の峯越し来てみれば三千世界もよそならず」の言葉通り眺望はすばらしく、
淀川、木津川、山崎、天王山、遠くに京都も見えそうで感激しました。
『忠度』に「心の花か蘭菊の狐川より引き返し」とある狐川は、『謡跡めぐり京都編』(青木実著)によると、「淀川対岸の山崎に男山が迫り、流れが変幻極まりなく、狐川渡しの舟人は狐にたぶらかされているように感じるので、この地点だけを狐川と呼ぶようになった」とありますが、この当たりの風情をよく表していると思いました。
ただ後ろを振り向くと、汚い看板で「100万弗の展望」と銘うたれていて、少々興ざめでした。

100万弗の展望

参道途中にて


参道途中にある竹藪
男山は古来有名な竹の産地で、その種類もモウソウチク・マダケ・ハチクなど数多くあります。石清水八幡宮が平安王城の守護社として宮中と深く関係していたことから、かぐや姫伝説の発祥の地ともいわれています。

謡跡保存会の看板
石清水八幡宮にゆかりのある曲は、『女郎花』と『弓八幡』です。

石清水八幡宮
今回は平日でもあり人も少なく落ち着いて見られました。
只、妙に子供が多いなと思っていましたら、七五三でした。





三の鳥居より本殿を見る

三の鳥居の傍に神馬舎があり可愛い白馬がいました。

長い参道
参道は長くつづき、『女郎花』のシテの老人はよくここを登ったなと感心しながら下山しました。

参道途中の景色
「山下の人家軒を並べ」と謡う気分が判りました。真ん中に大谷川(放生川)が見えます。長い下り坂を降り、ようやく平地についたと思いふとみると、何故か『小鍛冶』にまつわる相槌神社の社がありましたので、思わずシャッターを切りました。

相槌神社
男山山麓には放生川が流れています、この川は大谷川というのですが、
八幡宮の目の前、放生会(ほうじょうえ・捕まえた生き物を放す行事)をするところのみのわずか十数メートルを放生川と呼ぶのだそうです。


安居橋の掛かる放生川
頼風と契りを結んだ京の女は、遙々ここ八幡市まで頼風を尋ね、頼風の心変わりと誤解して、世を儚んでこの川に投身しました。この川は昔より濁り江で、謡にも「和光の塵も濁江の河水に浮かむ鱗(うろぐす)は、げにも生けるを放つかとーー」とあり、決して綺麗とはいえません。京に不吉なことが起きる現象として3河川の話があります。「御手洗川に浪が立つ、五十鈴川が濁る、そして放生川が澄む」
これらのことが起きたら京に異変が起こるらしいです。この濁り江の放生川に身を投げたのですから、かわいそうな気がします。『放生川』という能がありますが喜多流では参考曲で、私は残念ながら
見たことはありません。



安居橋より男山を見る

頓宮
男山の麓、一の鳥居の傍にある頓宮は謡にも出てきます「神の御幸なる御旅所を伏し拝み」の御旅所、(仮の宮)のことだそうです。

頓宮
男山の麓、一の鳥居の傍にある頓宮は謡にも出てきます「神の御幸なる御旅所を伏し拝み」の御旅所、(仮の宮)のことだそうです。


立派な一の鳥居

石清水八幡宮のいわれ

高良神社(かわらじんじゃ)
頓宮の傍に高良神社があります。能『弓八幡』ゆかりの神社です。
仁和寺の法師が間違えて山上に本宮があるのを知らず、ここを参拝して帰ったそうです。
八幡宮を後にして頼風塚、そして女郎花塚のある松花堂庭園に向かいました。



頼風塚に入る、かどの石碑
頼風塚は地元のタクシーの方でも直ぐには判らず、無線で調べてもらいました。
頼風塚は和菓子屋の横の細い道を通り奥の狭い所にありました。



頼風塚
小さな五輪塔が寂しく感じられました。
女塚が立派な庭園にあるのに、この男塚は余りに貧相、頼風がかわいそうに
思えました。おもわず今回の演能の無事をお祈りしてしまいました。
頼風塚を見てから、松花堂庭園に向かいました。ここは本来男山の山中にあった松花堂昭乗の庵を戦後、麓に移し松花堂庭園とし、女郎花塚も一緒に庭園のなかに移されました。



松花堂庭園内 門の左に女郎花塚があります。


女郎花塚 男塚に比べると小高い所に立派に葬られていました。

新しい最近の石碑です。


正面が史跡松花堂です。
ここの庭はお薦めです。こぢんまりしていますが、最高の雰囲気です。
撮影禁止のため、ご紹介が出来ないのが残念ですが、皆様是非一度いらして下さい。それも平日に!です。これで「女郎花ゆかりの地を訪れて」は終了です。
この後、寺田屋、金札宮と、いろいろまわりましたが、楽しく面白い旅でした。
また企画し旅をしたいと思いました
熊野紀行投稿日:2006-09-16

平成14年5月1日から3日まで、明生会会員有志の皆様と熊野を探訪いたしました。
南紀白浜空港よりジャンボタクシーを調達、三日間貸切で走り回りました。初日は中辺路(なかへじ)より熊野大社本宮を経て新宮まで、二日目は新宮より那智の滝、阿弥陀寺などを廻り那智勝浦に宿泊、三日目は串本や白浜などの海岸線を走り南紀白浜空港へ戻るという行程でした。楽しく、実りある紀行を写真を添えご案内いたします。

清姫の墓
初日の天候は生憎の雨、白浜空港にて熊野第一タクシーの岡田さんの出迎えを受け、一路、熊野道、中辺路へ向かいました。先ず傍を流れる岩田川が見えてきました。この川は能『当麻』の道行に「帰り紀の路の関越えて、こや三熊野の岩田川、浪も散るなり朝日影」とでてきます。その畔に能、『道成寺』の清姫にゆかりの地がありますので、謡蹟めぐり隊の我々としてはまず清姫のお墓のお参りから始めました。安珍清姫物語で有名な清姫はここ真砂(まなご)に生まれ育ちました。

清姫が泳いだ岩田川
岩田川には幼い清姫が泳いだと伝えられている清姫淵や清姫の墓があります。また車で5分程走ると、清姫の菩提寺、福巌寺(別名、一願寺)があり、お参りしてきました。


清姫の菩提寺 福厳寺
いよいよ熊野古道です。昔は徒歩で二日かけて本宮にお参りしたようです。今でもハイカーはザックを背負い縦走しますが、謡蹟めぐり隊には時間と体力のことを考慮し、要所要所を車で廻るという効率的な探訪にしました。
古道には王子と呼ばれる休憩場が沢山あります。立派なお社や休み処があるところもあれば、今は荒れ果てて何もないところもあります。なぜ王子という名称がついたかの詳細は不明です。
能『鬼界島』の、成経、康頼の謡に
「我ら都に在りし時、熊野参詣三十三度の歩みをなさんと立願せしに、その半ばにも数足らでかかる遠流の身となれば所願も空しくはやなりぬ、せめてのことの余りにや、この島に三熊野を勧請申し、都よりの道中の九十九所の王子まで,悉く順礼の神路に幣を捧げつつ」とあります。
不信心者、俊寛が熊野や厳島信仰が薄かったのに対し、流された二人は、島に三熊野を勧請して幾つかの王子をこしらえ日夜参詣し、帰洛を神に祈っていたのです。

滝尻王子の石標

今回の第一番目の王子が滝尻王子、中辺路の古道の出発点です。


牛馬童子は中辺路のほぼ中間にあります。古道を歩いてきた人はこれを見て心が安らいだといいますが、ジャンボタクシーで走り廻っている謡蹟めぐり隊には、残念ながらその感動はなく、それよりもあまりの小ささに驚き、パンフレットなどにある写真が、まさにプロカメラマンの腕前によるのだと感心させられました。
像は高さ40センチほど、牛と馬の両方に跨る童子という珍しいものです。

岩間からでる野中の清水は日本名水百選にも選ばれたおいしい水。確かにおいしくいただきました。険しい峠越えに挑む参詣客はここで喉を潤したといいますが、私が飲んでいると、営業用に水を汲む人がポリタンクを山積みに持ち込んで列を作って待っていました。

中辺路の拠点で最も早く現れたのが近露王子といわれますが、今は社地のみが保存され石碑があるだけで寂しい所となりました。
湯の峰温泉を経て大斎原(おおゆのはら)に到着。ここは明治22年の大洪水があるまで熊野本宮大社の地でした。音無川と熊野川に挟まれた中州のような所ですが、当時の惨事の写真を見ると自然の破壊力の恐ろしさがよく判ります。12社殿のうち8社殿が損壊、被害を免れた上社の4社殿が現在地の高台に移築されました。

水が無かった音無川より熊野本宮大社の鳥居を見る

洪水を起こした熊野川

大斎原跡地

能『巻絹』のゆかりの地であることを教える謡蹟保存会の立て札

音無天神は大洪水で流失したので、今は左側の祠(ほこら)が残されているだけでした。

高さ約34メートル、笠木と呼ばれる最上部の幅42メートルの日本一の大鳥居。このあたりから天候が悪くなり、本宮到着時は一段と雨足が強くなって、お参りも手短にしてしまいましたが、宝物館には時間をかけ拝観し、能面など貴重なものを拝見しました。

本宮大社。左の社殿が証誠殿といわれる本殿です。
能『巻絹』にある 「証誠殿は阿弥陀如来」はここのことです。
本宮お参りの後、先に入湯予約をしておいた湯の峰温泉に戻り、つぼ湯につかりました。あいにく写真はありませんが、待つこと一時間、私と隊員一名が体験しました。この湯は小栗判官が湯治したことで有名ですが、一人又は二人がようやく入れるかという程の狭く小さい岩風呂です。「温泉と謡蹟」がモットーの我々には貴重な湯治体験でした。
つぼ湯を後に忠度出生の地を訪れました。熊野川を新宮に下る途中の宮井にその地の碑があります。忠度は清盛の腹違いの弟、文武両道に優れ、腕力強く、和歌も詠む粋人です。千載集に歌が選ばれましたが、読み人知らずと書かれたのが無念で、その執心を扱ったのが能『忠度』『俊成忠度』です。


忠度出生の地の石碑

昔は山側に忠度の小祠があったようですが、現在は国道沿いに移されました。

速玉大社と歴代天皇の御幸記録
熊野速玉大社の祭神はもともと神倉山に祭られていましたが、景行天皇の時代に現在地に遷座したといわれています。そのため神倉山を元宮、ここを新宮と呼ぶようになり、神倉山の地名が残ったようです。
神倉神社は山の中腹に鎮座するゴトビキ岩と呼ばれる巨岩がご神体です。ここにお参りするには、ほとんど垂直に近い絶壁の急斜面の登坂となり、隊員三名は無念の退却。はうように登りにくい急傾斜を上がると、連縄を張られた巨岩が現れ、その大きさに圧倒されました。またここからの展望はすばらしく、熊野灘や市街地の眺めが最高で、頑張って登ってきた甲斐があったと大満足、嬉しくなりました。


ゴトビキ岩に参る登り口の鳥居

ご神体の巨岩

まさに四つんばいになりながら上った斜面、後ろを振り返ると足元がすくむ。

下りで隊員一人が尻もちをついた、急階段。

神倉神社を後に那智の滝に向かいましたが、途中に政子が建てた頼朝供養塔に立ち寄りました。
頼朝は正治元年53歳にて没、死因は落馬と言われていますが、頼朝ほどの武将が落馬が原因で死んだとは信じられません。

能『鉢木』に「佐野のわたり雪の夕暮れ、かように詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり」とある、わたりはこの川(古くは狭野)にあったようです。このあたりより天候も回復してきて、那智の滝を見るには最高の天候となってきました。

那智の滝は本来四十八滝といわれる那智山に数多くある滝のうち、一の滝を那智滝と呼びます。初めて見ましたが日本一の大滝と称されるのにふさわしい大滝でした。
飛滝神社の奥にあるお滝拝所に行くと滝を間近に見られます。但し水しぶきが飛んでくるのを覚悟しなければなりません。
那智滝 一の滝の手前に御幣が立てられてあります。

那智の滝というと、この構図の写真が有名です。訪れるまでは滝の近くに赤い三重塔があると思っていましたが、実際はかなり離れていて、ポスターなどの写真は撮影技術で滝と塔が接近しているように見せているのが判りました。
那智山の那智スカイラインの終点に妙法山阿弥陀寺があります。ここの鐘は「妙法山の一つ鐘」といわれ、死者の霊は必ずここで鐘を一つ撞いてからあの世に旅立つといわれ、私は現世の安穏と先祖の弔いのため、生きているうちに一度撞いておきました。

阿弥陀寺

上人が火生三昧した地
下山途中で古道を歩くことにしました。有志三人快晴の中、滑る石段に注意しながら20分ほど歩いて下り、古道を満喫しました。

有名な大門坂付近

関跡より滝を眺める

二日目に時間の都合でお参り出来なかった補陀洛山寺にまずお参りしました。ここはインドから熊野灘に漂着した裸形上人が開祖の寺。現在は青厳渡寺の管理となり、ご住職はいらっしゃいませんが、管理人の方が日頃ご開帳していないご本尊 十一面千手千眼観世音を特別に見せて下さいました。
平成になり現在の補陀洛山寺に改修されましたが、それ以前は荒れ果てた寂しい寺だったといいます。
平成になり現在の補陀洛山寺に改修されましたが、それ以前は荒れ果てた寂しい寺だったといいます。

二日目に時間の都合でお参り出来なかった補陀洛山寺にまずお参りしました。ここはインドから熊野灘に漂着した裸形上人が開祖の寺。現在は青厳渡寺の管理となり、ご住職はいらっしゃいませんが、管理人の方が日頃ご開帳していないご本尊 十一面千手千眼観世音を特別に見せて下さいました。

補陀洛寺裏門

境内裏には平維盛、平時子供養塔があります


渡海船は屋形の周囲に四門、忌垣をめぐらし30日分の油と食料を携え、生きながら極楽浄土に旅立つ補陀洛渡海に作られた船です。

補陀洛寺をあとに橋杭岩、串本へと海岸線をめざします。
この紀行最後の見どころと思っていました橋杭岩です。ちょうど干潮時でしたので、奇岩の様子が見えて幸運でした。隊員も思いの外のすばらしい景色に歓喜していました。

橋杭岩は大小40もの岩が海にずらりと並ぶ不思議な所です。伝説では弘法大師と天邪気が串本から大島へ一夜のうちに橋を掛ける賭けをし、大師が次々と巨岩を海に投げ込み橋杭を作り出すので、負けるとあせった天邪気が鶏の鳴き声を真似て大師の手を止めさせたというお話で、以来今も橋杭だけが残っているのだといいます。




海金剛は大島の先端にあり、断崖絶壁と大小の切り立った奇岩の景勝地、朝鮮半島の海金剛に似た景観からこの名がついたといわれています。

大島から見る本州、タクシー岡田さんご推薦の景色

枯木灘海岸のすさみ(?)八景のひとつ、恋人岬。左右から浪がうち寄せるので有名です。
夕刻近くなり、白浜に到着、三段壁、円月島を見て空港に向かうこととなりました。三段壁には熊野水軍の船隠し洞窟もあり、源平合戦も屋島から壇ノ浦に移る頃、二百余艘の軍船に二千人もの猛将が乗り、ここから出陣したといわれています。地下へ高速エレベータで下ると荒波が洞窟の中まで打ち寄せる豪快な様子が見られます。

三段壁

地下にある熊野水軍の番所小屋です。鎧、兜を揃えていつでも出陣できるようにしていた様子が判ります。

今回最後の地、円月島は白浜のシンボル、中央にポッカリと洞穴が空いています。これを夕暮れに見て、るるぶご推薦の「ぎんちろ」で食事をして、南紀白浜空港に向かいました。

お世話になった熊野第一タクシーの岡田さんです。いろいろと詳しい案内をしてくださいました。三日目の奥様手作りのめはり寿司、ごちそうさまでした。わがままな私達にお付き合い頂き感謝しています。
竹生島参詣投稿日:2006-09-16

平成14年9月、広島花の会で『竹生島』を舞うにあたって、滋賀県近江の竹生島に参詣に行ってきました。
竹生島は能『竹生島』『経政』にゆかりある地で、この二曲を軸に探訪してきました。
能『竹生島』は醍醐天皇の臣下(ワキ)が四の宮、逢坂の関を越えて琵琶湖湖畔、志賀の里に着き、漁翁(シテ)の釣船に便船を願います。
ここで笑い話を一つ、『竹生島』の次第は「竹(たけ)に生まるる鶯の、竹に生まるる鶯の、竹生島(ちくぶしま)詣で急がん」ですが、ある人が最初に竹(たけ)を(ちく)と読んでしまった、聞いていた先生は怒りたかったが、まー返し(二回目)には気が付くだろうと黙っていた、しかしこの人、返しも(ちく)と謡ったから、さあーたいへん! 先生、怒り出し、怒鳴って「こらー、たけだーっ」と…するとこの人、竹生島(たけぶしま)詣で急がんと平気で謡ったとか…。
能『竹生島』に話を戻します。シテ(漁翁、実は龍神)とツレ(女人、実は弁財天)は釣船を浮かべ、浮き世の業を悲しみながらも、春の長閑な景色を眺め、湖畔から声の掛かるのに気付いて舟を寄せます。
ここのところを謡曲では
「真野の入り江の船呼ばひ、いざ漕ぎ寄せて言問わん」とありますので、志賀の里、真野あたりで乗船させたことになります。「所は湖の上…」からの謡では左に比良叡山を眺め、満開の桜の花であたかも雪が降っているようだといいますから、春爛漫長閑の極みで能『竹生島』の一番の聞かせ所です。
しかし、謡の言葉通り櫓で漕ぐ舟では志賀から竹生島は余りに遠く、現実には無理です。フェリーの船長さんにお話をお聞きしたところ、昔、竹生島北側の半島から櫓を漕ぐ舟で、一時間もあれば着くことが可能な航路があり、当時は風を利用して行き来していたということです。
このフェリー会社も実はそこが起こりと仰ってましたので、航路としてはこちらが本当らしいですが、今は謡ならではの航路と思われます。
つまらない、くだらないの前評判でしたが、私自身はいろいろ勉強になり楽しい一日となりました。
皆様も一度は、御足の丈夫なうちに行かれると良いと思います。

長浜港より12時15分の乗船予定が、不手際により長浜港に着いたとき、丁度船が出発したところでした。港の方に「次の竹生島行きは何時ですか?」と聞けば返ってきた言葉が「あれが本日の最終便」。目の前真っ暗になりましたが彦根港より竹生島行きの船があることがわかりタクシーを飛ばして彦根港へ急ぎました。ちょうど30分前に到着出来、出航まで他の客を待ちました。しかし待てども客は一人も来ない。驚くことに我等一行のみの乗船で完全貸し切り状態。照れくさいようでもありましたが、気分は爽快でした。

能『竹生島』の謡に「月海上に浮かんでは兎も浪を走るか…」とありますが、私の見た物は海鵜の小鮎を狙う大群で、船が近づいても驚きもせず海面を漁っている姿でした。

竹生島までは彦根港より35分、長浜港よりは25分で着きます。都久夫須麻(つくぶすま)神社が見えてきました。

能『竹生島』では「舟が着いて侯、御上り侯へ」となりますが、このフェリー桟橋には防波堤が無いため、この橋桁がかからなくなる波の高さ、1.5メートルを越すと欠航になるようです。実際翌日は台風の接近もあり欠航でしたので、上陸出来た喜びもひとしお、幸運でした。

港からの全景です。とにかく、坂、坂の急勾配ですので、足の不自由な方、お年寄りには、骨が折れ一苦労だと思いました。

竹生島神社の鳥居です。これを直進して登れば宝厳寺(ほうごんじ)に着きますが、先に都久夫須麻神社にお参りしたいため、順路を逆に進みました。

能『竹生島』に縁のある黒龍大神です。下界の竜神が現れた所です。




竹生島は能『経政』の平経正にも関連があります。
寿永二年、木曽義仲が五万余騎の軍勢で都に攻めるとの情報を得た平家一門は維盛、通盛を大将軍に、経正、忠度他を副将軍としてこれを迎え撃つこととします。平家の軍が海津、塩津に控えた日、詩歌管弦に長じた経正は渡島参詣をして弁財天に戦勝を祈願します。
僧たちは経正が琵琶の名手たることを知っており、仙童の琵琶を参らせたので、経正は上玄石上の秘曲を弾きます。弁財天は感応にたえず経正の袖の上に白龍が現れたとは「平家物語」の中に出てくる一部分です。

眼下に見える景色と遠く連なる琵琶湖近郊の山々を眺め、平家の公達も合戦の前に幽美な雰囲気を味わっていたのでしょうか。

都久夫須麻神社の本殿

この廊下は観音堂移築と同時に掛けられたもの。秀吉の御座船「日本丸」の船櫓を利用して作られたそうでなかなか趣のある廊下でした。

唐門。京都東山の豊国廟の極楽門を移築したもので、観音堂に続いて建てられた桃山様式を示す貴重な門です。

唐門


宝厳寺に到着したのが夕方4時。島には我々ぐらいしかいないので、管理されている方が扉を閉めかけていたところでしたが、事情を説明し開帳していただきました。

弁財天。この島の弁財天には手がたくさんありました。

閉館していた宝物館も開けていただき、見ることができました。中には能面もありました。第十三代彦根藩、井伊直弼公は竹生島弁財天への信仰に厚く、安政二年弁財天へのご祈祷により病気が回復した旨の礼状を寄せられ、井関の面、小尉と小面一対を寄進されたということです。井関家は桃山時代から江戸時代にかけての能面打ちの家系で室町末期に活躍、三光坊の弟子で代々近江に住んでいましたが、四代目家重は江戸に出て「天下一河内」と呼ばれました。蛇足ではありますが、父菊生愛用の小面は堰と書かれており井関家の作であるようです。

経政が弾いた琵琶は火災のため焼失しましたが、撥のみが現存していました。また仙童の琵琶を玄上の琵琶ともいうそうです。

経政の人物画

二股の竹。能『竹生島』では間狂言がワキに、竹生島にゆかりのある宝物をみせます。まず宝蔵の鍵、次に天女の持つ数珠、そして当島第一の宝、二股の竹などを見せ、最後に岩飛びをして帰ります。その二股の竹が本当に見られるとは、驚きました。
二股の竹とは、葛城、大峰山で藤の皮や松の葉を衣として練行し、神変不思議の術を得て修験道の祖とされている役の行者の小角が、島の岩窟で苦行し、ついには弁財天の霊験を得、持っていた竹杖を地に立て、「もしこの地仏法興隆の聖地なればこの竹生長すべし」と祈願されたところ、竹杖はたちまち二股に割(さ)け枝葉を生じたという由来のものです。行者が島に残した「二股の竹」から竹生島の名が生まれたと伝えられています。


経塚の石。昭和47年の集中豪雨の時、崖崩れの跡から数多くの石経(鎌倉期)が発見されました。薄く平たい石に一個一文字の墨字の経文が記されています。能『鵜飼』にも待謡でワキの僧侶が読経しながら一石に一字を書き経をよむところがでてきます。

宗近の鎧通、 三条小鍛冶宗近作。能『小鍛冶』に宗近が帝の命により天下守護の剣を鍛える(打つ)ことになり、伏見稲荷に祈願し、精進の結果、稲荷の神の加護によりめでたく神剣を鍛え得たことを謡っています。

急遽、彦根港行が我ら一行の希望をかなえてくれ、帰りの長浜港行きにつなげることができました。

長浜港に到着、正面の白い建物が、ゆかた会会場の、長浜ロイヤルホテルです。
『隅田川』ゆかりの地を訪ねて投稿日:2006-09-16

平成15年1月26日、「日立能と狂言の会」にて、能『隅田川』を勤めるにあたり、『隅田川』ゆかりの地を訪ねて来ました。現在の隅田川は能が発生した室町時代とは、その流れが大きくかわり、現在の位置とは必ずしも一致するものではありませんが、謡跡を訪ねる旅として、雑誌「観世」や「謡跡めぐり」(青木実著)などの資料をもとに、春日部の古隅田川と梅若塚、墨田区の木母寺にある梅若塚などを訪ねてきましたので、写真探訪にてご紹介いたします。

謡曲『隅田川』の隅田川は現在の春日部にある古隅田川ではないかといわれています。

小さな橋ですが「業平橋」の名称が刻まれていました。昔の写真には市の観光協会の立てた「在原中将業平朝臣の渡れし橋」の標柱がありましたが、今は撤去され公衆電話ボックスに変わっていて、面影らしきものは全くなかったので少々がっかりしました。

現在の川幅は大変狭く、これでは渡し舟が必要であったかと、疑問がもたれますが、伊勢物語、在原業平が詠んだ「名にし負はば、いざ言問わん都鳥、わが思う人はありやなしやと」の時代にはまた違う景色だったかもしれません。

古隅田川、業平橋より徒歩15分程で梅若塚のある萬蔵寺があります。

萬蔵寺前に梅若塚があります。

梅若塚には、『隅田川』梅若丸の由来が書いてありました。

逆光の撮影で写りが悪く解りにくいですが、宝生流、今井泰男氏の寄贈された柳があったのには驚きました。

今井氏は現在現役シテ方の最古老です(当時)

梅若塚は高さ2メートル程の小祠でした。

梅若塚の石碑

17世宝生流宗家の石碑もありました。

梅若塚遠景。右の大木が今井泰男氏の寄贈の柳です。

春日部より墨田区に移動し、隅田川沿いの木母寺にある梅若塚を訪ねました。

恒例の謡跡保存会の立て札。これがあるとほっとします。

木母寺の表札

梅若堂は破損が激しいため、ガラスの建物の中に大事に保管されています。

左に見える赤い柵の中に梅若塚跡があります。
木母寺と梅若丸伝説をご紹介いたします。
◇木母寺のあらまし
〇宗旨・天台宗 御本尊・慈恵大師
〇山号を梅柳山、院号を隅田院、別に梅若寺(うめわかでら)と古称す。
〇創建は平安時代中期の貞元2年(977)、開山は忠円阿闍梨と伝えられ、その由緒は、能『隅田川』の梅若山王権現の霊験譚にもとづく。
◇梅若塚(梅若山王権現堂)の由来
境内に鎮座する梅若塚は、謡曲などによって、広く知られている旧跡です。当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」は、次のような説話を伝えております。
「梅若丸は、吉田少将惟房(これふさ)卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太(しのぶとうた)という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。
旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元(976)3月15日なり。
いまはの際に和歌を詠ず。
尋ね来て 問はは応えよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖(ひじり)ありけるが、たまたまこの地に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標しとなす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来り、柳下に人々の群れ居り称名するさまを見て、愛児の末路を知り非歎の涙にくれける。その夜は里人と共に称名してありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨に、ありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其霊を弔いける、と。」

木母寺移築により、もとの梅若塚へ向かう途中にある梅若門です。都営住宅の中にありました。

旧梅若塚は榎本武揚像のそばにひっそりとあり、判りにくく探し当てた時は、思わず「あったー!」と声を出してしまいました。

やはり「この川は大事の渡りにて候程に、番に居って舟を渡し候」とワキが謡うぐらいですから、当時の川は現在の隅田川のように川幅があったのではないかと思いました。そこで隅田川の雰囲気を満喫するため水上バスに乗り、日の出桟橋まで遊覧することにしました。

水上バスに乗るまでに時間がありましたので、浅草名物、神谷バーに立ち寄り、名物「電気ブラン」を試飲してみました。味はブランデーベースでいろいろなものが入っているようで、かなりきつく、私は飲めずに結局残してしまいました。

夕暮れの吾妻橋を見ながら、浅草から日の出桟橋へ向かい出港しました。乗船時間は40分(¥640)。途中で潜る両国橋は武蔵の国と下総の国の二つの国に架かったため、その名が付けられたなどと、放送されるそれぞれの橋の説明を面白く聞きながらこの旅は終わりました。
天橋立と成相寺の旅投稿日:2006-09-16

平成18年7月29日、30日(一泊二日)に明生会有志会員9名と日本三景の一つ「天橋立」や京都の謡蹟めぐりなど、観光して来ました。
初日は生憎のお天気で、曇り空から雨になり傘をさしての拝観となりました。
二日目は快晴、京都では30度を越える猛暑となり、飛び入りで誠心院・誓願寺の謡蹟を尋ねることにして、午後からは予定通り国立博物館の「美のかけはし」展と三十三間堂を拝観してこの旅を無事終えました。
では行程の詳細から。
東京明生会組5人は東京駅から「のぞみ305号」にて、途中名古屋から新城明生会会員4人が合流し、今回の世話役、A・Iさんの待つ京都に向かいます。
京都で全員集合したところで「特急はしだて3号」にて福知山経由で近畿丹後鉄道天橋立駅まで行きます。なんと2時間もかかる行程です。
天橋立駅に到着すると昼食の予約をいれている老舗の宿「対橋楼」の送迎バスがお出迎え。歩いても行ける距離でしたが利用させてもらい、そこで昼食をとって、いよいよ観光開始となりました。
「対橋楼」の前には天橋立運河があり、本土にかかる橋として、全長3,6キロメートル幅20?170メートルの砂州で出来た天橋立があります。この橋は船を通すために橋が回転するので「廻旋橋」と呼ばれています。この辺りは観世流にしかない能『九世戸(くせのと)』の舞台となります。
「対橋楼」の目の前には山門があり、奥には日本三大文殊の一つに数えられる古刹、天橋立知恩寺(橋立文殊)があります。
三大文殊のあとの二つは山形県高畠町の亀岡文殊堂と以前探訪した奈良県桜井市の安部文殊院です。
拝観を終え、すぐ近くの汽船乗り場から遊覧船に乗り、天橋立の全貌を眺めながら、一宮 に渡ります。
船上からの景色を眺めるあたりから急に激しい雨が降り出しましたが、景色は何とか見ることができました。一宮港に着いて、手荷物を本日宿泊する「新風楼」に置かせてもらい、徒歩3分ほどの「元伊勢籠神社」に参拝し、ケーブルカーで「股くぐり」で有名な見晴らし台に登ります。
幸い、この一瞬だけ雨がやみ、記念切手やポスターで見られる絶景が眼下に広がりました。
『盛久』ゆかりの寺、成相寺まではバスで3、4分で急坂を登り到着します。
私は来年予定されている自主公演『盛久』の無事演能を祈願して、会員と記念撮影をしました。その後下山して本日の宿「新風楼」へ。
二日目は
京都に昼までに到着するには天橋立駅9時発の「特急はしだて4号」に乗車しなくてはいけないので、逆算すると、朝一番、7時半発の連絡船に乗らなければなりません。朝早く宿を立ち、船で渡り、橋立あたりを再度ゆっくり散策して時間をつぶし、京都には予定通り12時に到着しました。予約済の錦市場「かね松」の長寿ランチという野菜のみのお昼御飯を戴きました。
食後、謡蹟保存会の立て看板があるところに行きたいという希望があり、相談の結果急遽錦市場近くにある和泉式部の墓として有名な「誠心院」と「誓願寺」に向かい、謡蹟めぐりとなりました。
国立博物館で「美のかけはし」を拝観し、最後は隣の三十三間堂にお参りしてこの旅行を終えました。

文殊院
文殊の知恵の発祥の寺です。天橋立知恩寺の中にあります。

遊覧船にて
左から後方の山に向かって見える松原が橋立です。橋立を見ながら一宮港に渡ります。

ケーブルカー
急勾配を登り降りるケーブルカー。乗車すると既に傾いているように感じるほどの傾斜です。

天橋立
一の宮から知恩寺へと続く松原が日本三景の一つ「天の橋立」です。
今回の「天の橋立」で「松島」「安芸の宮島」と、日本三景をすべて行ったことになりました。

看板
このような案内の看板があり、皆真似して眺めてみました。

指示通りに
股のぞきしながら撮影した画面です

成相寺
平盛久は実在した人物か疑問もありますが、観世流では清水寺で捕らえられたとあり、喜多流ではワキの土屋三郎が「丹後の国成相寺にて捕らえ」とあります。

新風楼
このホテルの外観は古風な感じを受けますが、館内はシックながらハイセンスなお部屋で気に入りました。

部屋の景色
今回は私だけが男性なので、この部屋を独り占め、ゆっくりとくつろいでしまいました。

和泉式部の墓
錦市場から徒歩4、5分に誠心院があります。ここは『東北』『誓願寺』などに取り扱われている和泉式部の墓があるところです。

和泉式部の墓
生憎、謡曲保存会の立て看板はありませんでしたが、墓は立派でかなり大きなものでした。

誓願寺
誠心院からすぐ近くに誓願寺があります。
ここには「扇塚」があり、多数の舞台人、舞踏家が芸道精進を祈願して扇を納めています。

三十三間堂
宮本武蔵と吉岡一門との決闘でも有名な寺ですが、意外と平清盛建立のこと、そして
近くの法住寺に後白河法皇の墓がひっそりとあるのは知られていないようです
『黒塚』の白頭について投稿日:2006-09-02

『黒塚』の白頭について
粟谷明生
「ひたち能と狂言の会」(平成18年9月2日)で『黒塚』を「白頭」の小書で勤めました。
『黒塚』は私がこの道を一生の仕事と心に決めるきっかけとなった曲です。
今までに粟谷能の会で2回、国立学生能で1回、粟谷能の会福岡公演では、前シテを父の代演で勤めました。後シテを「白頭」で勤めたことはなく、今回初めての体験となりました。
喜多流の謡本の曲趣には「この貧しい女性は鬼女の化身であるが、初めは邪念も害意も示さず、月光のもとに生死輪廻を嘆くが、中入になり閨の内を覗くなというところから、鬼気のたちまち迫り来るものを感じさせる」とあります。
しかし、私は正直このような気持ちでは演じたくないと思っています。「閨の内を覗くなというところ」あたりは、まだ鬼になっていない、少なくとも前シテの段階では鬼ではないと考えて演じています。
安達ヶ原の女は元来の鬼ではありません、中年女性の独り身の寂しさが大きな背景になっています。昔覚えた都の流行歌を口ずさみながら、ひとり糸を繰りながらどうにかして生きていかなければならない惨苦を謡います。そして次第に窮地へと追い詰められていき、人肉を食らうという冒してはならない罪を冒した浅ましい鬼女の姿となるのです。(安達ケ原の女の身の上については、陸奥の安達ケ原に伝わる鬼婆の伝説によってうかがい知ることができます。演能レポート「『黒塚』の鬼女をどう表現するか」参照。)
禁じられた事は、一度破ると、もう後戻り出来ません。歯止めが利かなくなった人間の弱さが見え隠れして、人間とはなんであろうか、と自問自答したくなります。
いつかはやめよう! もうしないと思いながらも、また繰り返してしまう人間の性。
女は今度こそは、と修験者の山伏祐慶の仏の救いにすがろうとします。
やり直したい、それを手助けしてくれそうな山伏だからこそ、寒さを凌ぐために暖をとってあげよう、と親切心で夜の山に薪を取りに出かけます。
そこには、女のいじらしい反省と償いの気持ちがあります。
しかし、女はつい余計な一言を漏らしてしまいます。
「閨はみないで欲しい」と。
山伏はそんなことはしない、「言語道断」と言葉をはねのけ約束を守りますが、付添人の能力(アイ)にはそれが通用しません。その掟は破られます。
中入前に山伏に再度念を押して、山に出かける女は、橋掛で上を見上げ、裾をとり、ずかずかと切る足で運び幕に入りますが、私はそこで女が鬼になり、「さあ、いい獲物が来たぞ」とは思いたくなく、そうは演じていないつもりです。
夜の山道という危険をも恐れず、ただただ暖をとってあげようとして薪を拾いに行く、けなげな感じを出したいのです。そう解釈したいのです。
もっとも演者がどう言おうと、どう見るかは鑑賞者の自由ですが。
女が鬼に変わるのは、能力が掟を破り、閨の内を覗いたときと考えています。
私は楽屋で着替えながら、アイが閨の内をみて、「ぎゃあ、かなしや、かなしや」と叫ぶときに、「見たな」と鬼へと気持ちを変身させています。
面をつけるのが丁度そのときになるのが一番と、そのように私は思っています。これは楽屋の裏話のひとこまです。
今回、後シテの鬼女の扮装を白頭に般若、鬱金地立枠模様の厚板唐織を肩脱ぎで勤めました。
鬼女の姿も髪には、鬘掴みだし、黒頭、赤頭、白頭と4種あり、装束は紅有でも紅無でもよく、付け方も腰巻裳着胴(もぎどう)、着流肩脱ぎとバリエーションは豊富です。
(以前の演能レポート「黒塚」で過去の出で立ちを写真でご覧下さい。)
どれを選ぶかは演者の自由であり、演出に委ねられています。今回選択した「白頭」になると、面は「般若」、柴の持ち方(後に説明)も抱き柴となり、ただ恐ろしい鬼畜というより、鬼にならざるを得なかった女の悲しい定め、それを背負った女がより表現されるように思います。
以前から白頭で気になることがありました。それは白い毛と般若の面の彩色、つまり毛書きや顔色とのバランスがどうもぴったりしないこと。所持している白頭と般若の面、この二つを仕方なく合わせているからなのか、そんなことも考えていないからなのか、疑問を感じていました。
白頭なら、それに似合う般若がないだろうか。我が家にはない「白般若」みたいなものを付けたいと考えていました。
今回、面打師・石原良子氏の愛弟子たちの面の展示会「幻」で見つけた、やや白色の強い般若が白頭に似合うのではと思い、石原氏に相談し、打たれた土屋宏夫氏のご許可をいただき拝借し勤めました。
後の出は、女が怒り、逃げる山伏を、山から駆け下りて追いかける様を表現します。出囃子は「早笛」と「出端」の二通りがありますが、今回私は早笛で出ることにして、観世流の小書「急進之出」で演じました。
手掛ですぐに幕をあけ、三の松までするっと出て、逃げる山伏を捜している型をして、見つけると一端シサリ、幕に戻ります。この時一度幕を下ろすときもあれば、そのままもあるようですが、この度は下げずに太鼓の刻みで素早くまっしぐらに山伏目掛けて走り出し、「いかに旅人」と謡いかけました。
私としては、あの安達ヶ原の女が後半鬼女になるには、鬘の「掴みだし」か「黒頭」が似合う、早笛よりはむずかしいですが出端で登場する方が効果的だと思っています。しかし、毎回、同じ演出では観客にもあきられる、役者自身の鮮度も落ちる、興業主としての演出を考えたとき、今回のような選択となりました。
また、後シテの出のとき、山伏のために拾い集めてきた薪の持ち方も小書がない場合、ある場合で違いがあります。
通常は「負い芝(おいしば)」といい、薪を肩にかけます。
小書の時は「抱き芝(だきしば)」といって薪に自ら着ていた装束を巻きつけ左手に抱くように持って出ます。抱き芝のほうが女の薪にたいする思いみたいなものが表れているのではないでしょうか。私は抱き芝がいい演出だと思います。
「祈り」も演出を替えてみました。初段のあと、『道成寺』の鱗落しといわれるところで、通常打たない金春流の替え手を打ってもらい、そこで一度止まり、じっくり振り返り山伏を睨みます。そしてなかなか捨てられなかった薪ですが、遂に心の糸は切れて折角の薪を放り投げる型を入れました。もうここからあとは人食い鬼女そのものということでしょうか。
今回いろいろな注文に快くお相手していただいた囃子方(槻宅 聡・観世新九郎・亀井広忠・大川典良 敬称略)の皆様に深く感謝しています。
ひたち公演は私の責任で引き受けた興業です。受けたからには成功させたい。
曲目の選曲も私の考えで、粟谷能夫も『花月』を快く承知してくれました。
能楽師は自分の未経験の曲、それも中々出来ない曲をここぞとばかり取り出して演じたいものです。しかし、お客様に「ああ、楽しめた」と素直に喜んでいただいてこそ、公演の成功となると思い、選曲しました。そしてそれぞれが工夫を凝らして演じてみました。
今回試みた『花月』の弓矢を持っている謂われを説明する言葉の挿入や、『黒塚』の「急進之出」のようなものは喜多流にはありません。「ないのになぜ演る」と先人たちからのお説教の声や喜多流愛好家からの質問が聞こえてきそうですが、喜多流自主公演ならば、規律も守る必要がりますが、私的な会や地方公演で、よりサービスする演出もあっていいと思います。
昔、『道成寺』を替装束でなさった方がいらして、同輩から「あの替装束は喜多流にあるのか」と皮肉っぽく聞かれたそうです。すると、その方は「ない、しかし能にはある」と答えられたとか。私はこの言葉に能役者の精神のすべてが含まれていると思い気に入っています。流儀の決まりを蔑ろにするつもりはありませんが、その殻を後生大事に守ることだけが芸能の本質とは思えないのです。
「しかし能にはある」は、これからの私の演能活動の根幹となる言葉、そう信じて邁進したいと心新たにしています。
(平成18年9月記)
『井筒』について 女能の名曲の魅力投稿日:2006-08-27

『井筒』について 女能の名曲の魅力
粟谷明生
秋田県大仙市のまほろば唐松能舞台での定期能公演(平成18年8月27日)で『井筒』を勤めました。
『井筒』は三番目物といわれ鬘物の代表曲で、女能の名曲です。
能楽師ならば三番目物には憧れがあり、「いつか自分も勤めたい」と夢みているのではないでしょうか。
私は天の邪鬼なのか、ずっと二番目物や四番目物の現在物の方に心が向いていて、複式夢幻能といわれるものに興味を示さないでいましたが、40歳を過ぎるあたりから、能の真髄といわれる三番目物の魅力・味わいの深さを知り、いまはその世界に引き込まれ、虜となっています。
三番目物には、「本三番目物」といわれる最高位の曲がいくつかあります。
登場人物も高貴な女性で、緋色大口袴をはき、高位之序の序之舞を舞います。
喜多流では本三番目物を勤める順序は、『半蔀』や『東北』の入門編をまず習得し、『夕顔』『楊貴妃』『野宮』『江口』『定家』と徐々にレベルを上げていきます。
残念ながら『井筒』は鬘物の代表曲でありながら、「本三番目物」ではありません。理由は後シテの扮装が緋色大口袴を着けずに腰巻姿であること、そして序の舞が完全な高位之序でないからです。専門的になりますが、高位之序特有の序之舞の掛(かかり)の最後の拍子を踏みません。たぶん「本三番目物」に遠慮して、故意に踏まないのではないでしょうか。
『井筒』は世阿弥が「直(すぐ)なる能、上花なり」と申楽談義に自賛したほどの傑作で位の高い曲です。演者側としては本三番目物でなくてもそれに匹敵するように、同等に大事に扱っていますが、一度『野宮』を経験してしまうと、その層の違いは歴然と判る、というのが正直な私の感想です。
私は『半蔀』と『東北』は青年喜多会で、以後は『野宮』『楊貴妃』と勤め、18年10月の粟谷能の会では『江口』が予定されています。?本来『井筒』は『野宮』より前に披いておくべき曲ですが、『井筒』を大事に意識し過ぎたため、演能機会を逃してしまいました。今回、粟谷能夫の配慮で「まほろば公演」で、ぽっかりと穴があいていた私の演能記録に穴埋めが出来たことを感謝しています。
能楽師は、成長に合わせ順を追って大曲を適材適所に習得していく、判っていながらも、この教えの大切さを再認識させられました。
まほろば公演で『井筒』を選曲した理由には、実はもう一つあります。
正面に置かれる一叢の薄を付けた『井筒』の作物。
この風情がまほろばの自然の中でうまく季節感とからみ、秋の名曲が秋田の田園という特殊な屋外ロケーションで演じられれば、興業的に成功するはずという、私の計算でもありました。もしかすると、もうそこまで秋が来て、あたり一面に薄が見られるかもしれないという期待感もありました。興業主や演者は演じる環境設定に気を配るべきと、その必要性を説いてきたのは先人たちです。その教えを守りたいと、今回の演出を考えました。?当日は快晴に恵まれ、といって蒸し暑くてどうしようもないという程ではなく、お客様は日差しをよけながら扇子であおいでおられましたが、時折吹く風が演じていても心地よく、野外能の気持ちよさを演者と観客が一体となって感じられたのでは、と思っています。
『井筒』と『野宮』は形式が似ているため、よく比べられます。
演者側からすると、後者は六条御息所という高貴な大人の女性の複雑な女心を演じるので、若者には到底手に負えるものではありません。前者ならば純粋さを前面に強調したらどうにか若者でも勤められるかもしれない、という可能性に縋って(すがって)のことなのでしょうか、通常は『井筒』から取り組みます。
『野宮』には能役者の人生と演能の経験を通した心と技術の二つが不可欠ですが、
『井筒』には、乱暴な言い方ですが、一通り型付通りに動き、謡うことで、少々役者の力不足があっても作品をある意味成立させてしまう不思議な力があります。『井筒』という曲は、井筒の女(有常の娘)の業平に対するひたむきな愛、堪え忍び、ひたすら待つ女の純粋な愛を、余分なものをすべて削ぎ落とし、女性の心の襞という核心部分だけで訴えるという極めてシンプルで完成度の高い作品に仕上がっています。完成度が高いからこそ、若くても、少々未熟であっても、型付通り上辺をなぞることで、どうにか出来てしまうのです。何故私が『井筒』から遠ざかってしまったのか、それはその不思議な力に頼り過ぎては演(や)りたくない、という生意気な思いが自分自身の中にあり、その思いが固く固まりになりすぎたからなのです。
繰り返しになりますが、能役者は子ども時代から順を追って能の大きさを肌で感じ、その覚悟と喜びを体験していくものです。順序は乱れないに越したことはありません。
優れた能は演者が真摯に挑めば、いつでも必ず何かを返してくれる、そう信じて今回も勤めてみると、いろいろな発見がありました。
『井筒』のあらすじは、旅僧が在原寺を訪ね、在原業平とその妻になった紀有常の娘の跡を弔っていると一人の女性が現れ、古塚に花と水を手向けます。僧の不審にこたえて女は伊勢物語の歌などを引いて、二人の恋物語を語り、遂に女は実はその女だと名乗り、井戸の陰に姿を隠します。(中入)
夜も更けて僧の仮寝の夢に、業平の形見を身につけた先刻の女が現れ、業平を偲ぶ舞を見せ、やがて寺の鐘の声に夜も明け、僧の夢も覚める、というものです。
『井筒』のシテの面は喜多流では通常「小面」ですが、今回は「宝増」を選択しました。かわいらしい女だけでは井筒の女を表現できないからです。このことについては、東京文化財研究所の高桑いづみ氏が能楽観世座のパンフレットに「生いにけらしな、老いにけるぞや」「深井が見せる井筒の世界」と興味を引く文章を載せておられましたので、一部を引用して話を進めます。
高桑氏は室町後期から江戸初期に書かれた伝書には鬘物の前シテには「深井」をかける演出が一般的であったといいます。桃山時代には下掛が「小面」をかけるようになり、それが『井筒』の「おいにけらしな、おいにけるぞや」の「おい」を「老い」とするか「生い」に当てるかに関連してくると説明しています。下掛が「生い」と表記する背景として「小面」のイメージが大きくはたらいたのだろう、と説かれ、「老い」を当てるならば、時間の喪失感など若い女では似合わないので「深井」のような面の選択となったのだといいます。?
観世流には十世大夫重成が江戸初期の面打ち師「河内」に「若女」の面を打たせるまで、若い女性の面がなかったということで、「河内」以降も観世流では「深井」にこだわりをもっていたというのです。つまり『井筒』という作品に漂う「待つ女」の錯綜した内面は若い姿では表せないと感じていただろう、と書かれています。貴重な興味がわくお話です。
故観世寿夫氏は後シテの「老いにけるぞや」の謡い方に拘りを持たれていて、そこが銕仙会の大事な教えになっているといいます。内緒にしておかなくてはいけないのかもしれませんが、いかにも大乗の拍子に合うだけのような謡では駄目で、「老い」の「お」の字の発声に演者のストレスや焦れが必要である、リズムをはずす限界ぎりぎりまでの「ため」が大事だとおっしゃっていた、と聞いています。
はじめは、おっしゃる意味が理解出来ませんでしたが、今ようやく、それが井筒の女の「待つことの焦れ」の表現だと思い至ります。待つことの精神的な辛さ、そして年を重ねるという時間の喪失感、その二重苦の時間の流れこそが、井筒の女のテーマなのです。
父は『井筒』について、「昔、この国に、住む人のありけるが」で始まる曲(クセ)は幼い男の子と女の子が隣同士で住んでいて、次第に恋が芽生え、将来を誓うというふたりのかわいい思い出話だから軽くサラリと謡うものだ、その代わり「風吹けば沖つ白波龍田山、夜半には君が一人行くらん」のサシ謡、あそこは大事だから丁寧に謡うのだ。夫婦になり、夫が高安の女のところにいくことを知りながらも、妻は道中の無事を祈って見送る。ここがなんとも言えない『井筒』の裏側の、いいところだと言います。
そうなると、やはり青二才では歯が立たない曲ということになります。
夫と愛し合った時間、苦しんだ時間、一人の女性の喜びも悲しみもすべて含み込んで
ただ静かに舞う、シンプルだが、その中に人間の一生の深さを表現する、それが能の持つ力ではないか、と寿夫氏は語られていたといいます。
話を戻して、装束について触れておきます。
今回、後シテに流儀にはない、日陰の糸を付けてみました。
初冠に赤色(浅黄や白色もあるようです)の飾りの紐を左右に4本ずつ垂らし、笄(こうがい)に心葉(しんよう、またはこころば)を飾るものです。観世流は小書が付くと、宝生流は『杜若』沢辺之舞のときに使用すると聞いています。
後シテは、腰巻姿に長絹を着て、初冠に追懸という能特有の出立ちで、これが私の大好きなスタイルです。そして日陰の糸をつけることで、より雅な業平像を表したかったのです。地方の屋外の公演ということもあり、普段出来ないことにも挑戦したいという欲ばり根性を、観客へのサービスという言葉に移し替えて、我が儘を通してしまいました。反応は、「喜多流らしくない」や「華やかで結構」と賛否両論、いろいろなご感想があって然るべきだと思っています。
長絹は本来観世流では総柄模様がお決まりで、特に業平菱模様などが好まれていたようですが、観世寿夫氏は、あえて総柄ではなく男物の大紋模様の長絹を選ばれ舞われました。女が業平の形見を付けて舞うのですから、男模様が当然といえば、当然なのですが、そこに拘りを見出し従来の手法にとらわれない観世寿夫氏の芸術性の高い意識こそ、世阿弥の再来といわれる所以なのでしょう。今では大紋が主流と変わってきたといいます。
後シテの一声「あだなりと名にこそ立てれ」は男博士(おばかせ)と呼ばれ、男の気持ちでかかって謡うのが口伝です。「かように詠みしも」からは井筒の女にもどり、官能的なものも含まれてきます。
「形見の直衣、身に触れて」は後半の名場面のひとつ。謡もむずかしいところ、囃子の手組に合わせながら、左右の袖が業平に見えてきて、身体にそっと大事にしまい込むように胸にあてます。ここは、いろいろなやり方があるところですが、伝書には「懐かしや、昔男に移り舞」とシオリをするように書かれています。しかし私は昔を懐かしんで、めそめそ泣くのではなく、夢の世界でまた業平と一緒になれる喜びと回想の舞のはじまり、これから男と女が演者の身体を通して移り舞をはじまる、そこを表現したく、正面にじわっと一足つめる型に替えました。
能ならば、能だからこそ可能な手法ではないでしょうか。もっとも効果のほどは自分では判りませんので、ご覧になられた方に善し悪しをご判断いただきたいと思います。
また、後シテの扮装で太刀を佩く時と、佩かない時があり、太刀を佩くと一段と業平の形見のイメージが膨らみます。小書「段之序」が付くと太刀を佩くのが決まりです。今回小書ではありませんが、太刀を佩いてみたいと申し出たら、能夫が終盤のクライマックスの「業平の面影」と井戸をのぞき込む大事な型のときに、「太刀が井戸にあたるよ」と忠告してくれました。ここは見栄えより演技重視、太刀の着用は見送りました。
太刀には二番目物などの源平用の反りがある太刀と、業平や西王母など公家や仙女などの佩く装飾品に近い真之太刀があります。
最近喜多流では、『井筒』『杜若』『西王母』など飾太刀として使用する場合、真之太刀をそのまま使いますが、反りのある普通の源平武士用の太刀で代用する場合は柄の部分に鬘帯を付けてきました。これは装飾の意味で巻き付けていると認識していましたが、どうも誤解のようでした。真之太刀を使用するときは鬘帯を付ける必要がない、というのは誤りで、「禁中では、太刀が抜けないようにわざと紐で留めている、その意味での鬘帯の使用です」と観世流の方から教わりました。
これは勉強になりました。
能の最後には通常シテや脇留では脇が留拍子を踏み終曲します。
この留拍子を踏む方がいいか、踏まないで済ますか、とシテ方とワキ方が意見を交わしているのを拝聴したことがあります。
シテ方は、なにもなく静かに余韻を残して終わらせたいので、敢えて終わったという動作はしたくないから踏まない、しかし脇方は留拍子があるからこそ、旅僧の夢がさめるのであって、「私の夢を覚ましてくれなきゃ」と、踏むことを重視されます。
『井筒』の最後は芭蕉葉がばっと音を立てるように、旅僧の夢は破られ、夜明けと共に井筒の女の姿は消えていきます。
留拍子一つでも、踏むと式楽的な終曲処理となり、踏まなければ演劇的な舞台効果をねらったものになる、と思われますが、話の最後に「どちらでもいいじゃないの、要するにうまくやればいいの」と父の一言。まさに芭蕉葉が落ちるように、この言葉を聞きました。当日は、あの言葉が頭をよぎり、踏んで終曲してみました。
『井筒』は男の能役者が紀有常の娘という女に扮し、その女が業平の形見、初冠や男長絹を着け業平になろうとする、男装した井筒の女は井戸の中にその面影を見て永遠の一瞬を悟る。男の役者が女に扮し、そんな女の哀れを男の肉体の動きで表現する、このような作り方をしているのが能です。その典型が『井筒』だと演じて確信出来ました。
『井筒』を演じるにあたって幽玄、この言葉が気になりました。
幽玄とは、男が女になること、つまり女が表現出来ないことを表現すること。上品で清楚でしかも色気のある立ち居、振る舞いを言う、と私は教えられてきました。
能の成立過程や骨格、真髄というものを最優先すれば、自然と女流能楽師という存在には限界があり、存在そのものに問題があるように思えます。今、女流能楽師と言われている方には、男の能楽師よりその技術や精神において遙かに越えている方もいらっしゃいます、その昔女性が芸能者として能を演じていた時期がないわけでもありません。しかし女能(幽玄能)を突き詰めていけば、その根幹が何であるかが、問われます。女性がそれを演じるとき、能が本来の持っているものとは異質なものになってしまうのではないでしょうか。能が成立して600年余、男の芸能として追及され育まれてきたものは何であったか。男女平等や皇室典範改正云々とは違う時限で、能という伝統芸能のあり方、能の根幹である大事な能の精神を再認識するようにと、『井筒』の女が私に訴えかけているように思えてなりませんでした。
(平成18年9月 記)
千寿と湯谷(熊野)ゆかりの地投稿日:2006-07-16

平成18年6月30日、能『千寿』や『湯谷』のゆかりの地、磐田市の謡蹟めぐりをして参りました。
コースは磐田駅から千寿禅寺、傾城塚、朝顔の墓、行興寺の湯谷の墓、磐田伝統芸能館
の能舞台、最後は舘山寺九重ホテルまでと、およそタクシーで2時間の旅行となりました。
今回、千寿の墓の場所が判らなく、磐田市観光案内所に尋ねたところ、担当の坪井さんが
ご親切にたくさんの資料やパンフレットを郵送して下さいまして、それが役に立ちました。
ご親切感謝します。
謡蹟めぐりは辺鄙なところが多いため、今回もまたタクシーの貸切で効率良くまわることにしました。磐田駅で女性のタクシー運転手さんと1時間・¥5300で交渉成立。
早速「千寿禅寺、傾城塚、朝顔の墓に行って下さい!」とお願いしたところ、思った通り「あの??? 地図かなんかありますかね??」と少々頼りないお返事。観光案内所から頂いた地図を見せると、すぐに了解されて舘山寺までスムーズに二時間で回ることが出来ました。

千寿の母は永らく子どもに恵まれなかったので、千手寺にまつられている千手観音にお参りしました。しばらくして出産し、母は子どもの名前を千手観音に因んで「千手」と命名しました。
吾妻鏡などの文献では「千手」ですが、磐田地方では何時からか「千寿」と呼ぶようになったそうです。喜多流も能『千寿」ですので、ここではすべて千寿と記載させていただきます。

先の千手禅寺の住職が位牌を傾城塚から新たに千寿禅寺の本堂に移された由を、今のご住職、加藤幹人氏のお父様、加藤公男氏から伺いました。
このお寺は以前無人寺でしたが、最近住職ががお住まいになり管理されているようです。生憎ご住職は外出されていたのでお父上の公男様にご許可を頂き、位牌の撮影をさせていただきました。よく見ると新しい位牌であることが判ります。
場所、千手堂637―1

「傾城塚、千寿の前の墓」
磐田駅から南西へ約3キロメートルの野箱地内に傾城塚(千寿の前の墓)があります。
前には駐車場もありよく整備されています。
頼朝が12人の美女を揃えたという記録に「一番に千寿の前、二番に熊野の娘―――」とあるように、千寿は日本一の美女だったようです。このあたりの住所が白拍子町というのも千寿の影響でしょう。

「朝顔の墓」
松尾八王寺神社の近くに小さな祠がありますが、それが「朝顔の墓」です。とてもお寺や神社の敷地内とは思えない畑の真ん中にポツンと墓石があり、立て札に「朝顔の墓」と書いてありました。

「朝顔の墓」近影
小さな墓石です。枯れてはいましたがお花が手向けてあったのには驚きました。
朝顔は湯谷の母からの文を京都の宗盛邸にいる湯谷まで届けます。

「行興寺」
藤の季節は人でいっぱいになるほどの藤の名所ですが、私が行ったときは藤は終わっていて、人はなく、静かにお参りすることが出来ました。

「行興寺の謡蹟保存会の看板」
これがあるとほっとします。最近立てたものらしくまだ新しいものでした。

「墓の説明」
次回の『湯谷』演能の成功を祈願し、また朝顔の墓もここに来られればいいのに・・・と祈って合掌。

「湯谷と母の墓」
手前が湯谷の墓、奥は母の墓。いずれも立派な大きな墓です。

「磐田芸能資料館にある能楽堂」
見所が屋外ですので、お天気が悪いときのことが気になりますが、舞台は立派なものでした。
右手奥には資料館があり、『熊野』シテ・観世清和氏のビデオが流れていました。
中国、西安と北京の旅 ②投稿日:2006-03-16

平成14年7月9日より三泊四日、喜多流の、出雲康雅氏、粟谷能夫氏、長島茂氏と私の4名で中国、西安と北京に行ってきました。目的は兵馬傭坑と万里の長城の見学です。天気にも恵まれ、広大な中国の大地とスケールの大きさを痛感し、歴史ある史跡に感動してきました。
行程は初日が移動のみとなり、成田より北京経由にて西安に入りました。二日目、西安では華清宮、秦の始皇帝の兵馬傭、空海ゆかりの青龍寺(しょうりゅうじ)、阿倍仲麻呂記念碑、文字の博物館碑林、最後に大雁塔に登り、途中、強制的におみやげセンターに寄り道させられ、行程、おみやげ共にぎっしり詰まった旅でした。
三日目は朝6時起きで、北京空港に向かい、到着後直ぐに、明十三陵を見学して昼食をとり、万里の長城、八達嶺(はったつれい)から全員目標の見晴台まで無事に行ってきました。夕方には天安門広場を散策して、北京ダックのおいしい老舗、北京全聚徳飯店にて夕食をとり、夜は屋台の街を徘徊し試食してもいいかなと思いましたが、おなかを壊しそうな雰囲気でしたのでホテルに帰り、部屋で宴席としました。
帰国日は朝、天壇公園に寄り、故宮博物館を尋ね散策して帰国しました

北京空港に到着。マイクロバスを待っていると、空港警備員が駐車違反の車をレッカー移動し始めました。そうしたら軍人が大きな声を発しながら動いている車の屋根に飛び乗り、警備員と言い争いになりました。「白ナンバーは軍人です」とはガイドさんの第一声。

万里の長城、八達嶺に連なる天寿山の麓に点在する明十三陵の一つの定陵。

正門に向かう途中の橋より、前を撮影。

正門に向かう途中の橋より、後を撮影。

正面正門の地下27メートルのところに第13代皇帝神宗万暦帝の棺がありました。

正門に向かう途中の橋より、後を撮影。

正面正門の地下27メートルのところに第13代皇帝神宗万暦帝の棺がありました。

地下宮殿を造る時にこしらえたトンネル。

北京観光のガイド役の楊さん。

定陵の地下は撮影禁止でした。外の暑さを忘れるほど涼しかったです。

定陵の正門を横から見る。

万里の長城は登り口が幾つかありますが、今回は北京から北西の八達嶺に登りました。

望楼(砦)

八達嶺から西の砦を見る。

兵士が10人並べる広さにびっくり。

目指した見晴台(望楼)からの眺望

登った先にもずーと続く長城。

無事全員到着、記念撮影です。

万里の長城の雄大さには、月から見える建造物といわれるのも納得。

さあ下りです。慎重に急階段を下ります。

守衛の方も暑さにばてぎみ。

天安門広場前の道路から撮影。車、自転車、人の波、人口の多さを感じました。

毛沢東が眠る、毛主席記念堂。翌日はこの前に長蛇の列が出来ていました。

人民大会堂は日本の国会議事堂、5000人の収容宴会場があります。

夕食は全聚徳で北京ダックのコースをいただきました。

天壇公園にある皇穹宇(こうきゅうう)は祭祀の際、皇帝の位牌を置くところです。

祈念堂まで門がいくつもあります。

祈念堂への道。ここを通るとき、真中は皇帝、隣は皇后と決まっていたといいます。

道の端は宦官と定められていました。

祈念堂。

明、清の歴代の皇帝は五穀豊穣をここで祈ったといいます。釘を使わぬ建造物。

公園

公園には将棋をする人や歌を歌う人、羽を落とさないように蹴って遊ぶ人たちが沢山いました。

横縞の足を上げてる人は中国一の名人だそうです。羽を試しに一つ買いましたが、あっという間に羽が抜ける不良品でした。

午門は紫禁城の正門。

太和殿

太和殿前の外朝、広大な広場です。

体仁閣は正面横に見えます。

太和殿

皇帝の椅子(1)

宮殿は石を敷き詰めているため、植物は植えられません。

中和殿は皇帝が休むところ。

皇帝の椅子(2)

皇帝の椅子(3)

映画「ラストエンペラー」で皇帝が自転車に乗る場面はここで撮影されました。

皇極殿、珍宝館に入るにはオレンジ色の草履を買って履くことになっています。

規模は小さいが色が鮮やかな九龍壁。

皇極門の中は珍宝殿。

貴重品の殆どは蒋介石が持ち運びだしてしまったそうです。ですから中華民国、台湾の故宮博物館の方が、レベルが高いといわれています。

珍宝殿の天井。

西太后の椅子、ここで食事もしたらしい。

おしゃれな通り道

珍妃井

珍妃井は義和団事変の際 珍妃が西太后に強制的に投げ込まれた井戸。

故宮裏門の神武門

日本ではもはや見られぬ昔懐かしい、トロリーバス(1)

日本ではもはや見られぬ昔懐かしい、トロリーバス(2)

中国での最後の食事所、さすがに中華料理は飽きてきました。

食事を運んでくれるこの人は日本語が上手なので色々お話出来て楽しかったです。
中国、西安と北京の旅 ①投稿日:2006-03-16

平成14年7月9日より三泊四日、喜多流の、出雲康雅氏、粟谷能夫氏、長島茂氏と私の4名で中国、西安と北京に行ってきました。目的は兵馬傭坑と万里の長城の見学です。天気にも恵まれ、広大な中国の大地とスケールの大きさを痛感し、歴史ある史跡に感動してきました。
行程は初日が移動のみとなり、成田より北京経由にて西安に入りました。二日目、西安では華清宮、秦の始皇帝の兵馬傭、空海ゆかりの青龍寺(しょうりゅうじ)、阿倍仲麻呂記念碑、文字の博物館碑林、最後に大雁塔に登り、途中、強制的におみやげセンターに寄り道させられ、行程、おみやげ共にぎっしり詰まった旅でした。
三日目は朝6時起きで、北京空港に向かい、到着後直ぐに、明十三陵を見学して昼食をとり、万里の長城、八達嶺(はったつれい)から全員目標の見晴台まで無事に行ってきました。夕方には天安門広場を散策して、北京ダックのおいしい老舗、北京全聚徳飯店にて夕食をとり、夜は屋台の街を徘徊し試食してもいいかなと思いましたが、おなかを壊しそうな雰囲気でしたのでホテルに帰り、部屋で宴席としました。
帰国日は朝、天壇公園に寄り、故宮博物館を尋ね散策して帰国しました

華清宮は西安から30キロメートル離れた驪山(りさん)の麓にあります。3000年前西周の時代から温泉の湯元で歴代帝王はここで享楽に耽けっていたようです。能『殺生石』の謡に出てくる周の幽王は后を伴ってここで酒宴をし、秦の始皇帝も又この温泉に入ったと云われています。特に唐の玄宗皇帝はこの地に宮殿式建物を造営し「華清宮」と名付けました。前に見える池が華清池、奥に見えるのは驪山です。ケーブルカーがあり時間があれば乗って頂上に行きたかったのですが、今回は割愛しました

飛霜殿は玄宗と楊貴妃の宿泊所です。
この華清宮や驪山は謡にも出てくる有名な所です。
例えば
『楊貴妃』「昔は驪山の春の園に」や「げにや驪山の宮の中」
『湯谷』「驪山宮の秋の夜の月、終わり無きにしもあらず」
『遊行柳』「其の外玄宗華清宮にも、宮前の楊柳寺前の花とて」などです。

ちょっと夢が覚めてしまう様な楊貴妃の立像ですが、何故かここにて全員で記念撮影をしてしまいました。

華清池のまわりにある柳は情緒があって良い景色でしたが、建物の改装をしていたのが少し残念でした。

華清宮を見学の三人、(左より出雲、長島、能夫)左はガイドの張さん。

華清宮から驪山。驪山の山腹は蒋介石が張学良の護衛兵に捕まった所としても有名。

露天の風呂場に建物を建てたのは玄宗皇帝です。

宗と楊貴妃の専用風呂は海棠湯と蓮花湯です。

楊貴妃専用の風呂、大理石で蓮の形をしています。

玄宗皇帝の入った大きな風呂場、楊貴妃も一緒に入ったとか。とにかく広いです。(1)

玄宗皇帝の入った大きな風呂場、楊貴妃も一緒に入ったとか。とにかく広いです。(2)

玄宗皇帝の入った大きな風呂場、楊貴妃も一緒に入ったとか。とにかく広いです。(3)

楊貴妃は湯上がりにこの塔に上がり、好物の茘枝(れいし)を食べ涼んだといわれています。

リウマチに効く温泉が出ていましたが、有料なので素通りしました。

池の際に綺麗な花が咲いていました。植物がお得意の出雲氏より即答で「ブーゲンビリヤ」とご説明がありました。

華清宮の池。(1)

華清宮の池。(2)

水の流れ出すところは龍の頭を象っています。

ガイドの張さん、お世話になりました。

兵馬傭博物館、1号館

兵馬傭博物館、2号館

兵馬傭博物館、3号館。拝観は3号館の銅馬車から始めました。

3号館の銅馬車には一号車と二号車がありますが、写真は一号車です。
二千年前に作られたとは思えない程、精巧に作られていて、これは秦代の高度な冶金技術、車輪構造、工芸技術などの結晶といえます。

今回のメインの一つ、兵馬傭です。1号館の兵馬傭では坑の広さ、多数の兵馬傭に驚きました。

土壁で11の通路の溝を掘り、下に煉瓦を敷き兵馬傭を並べて埋めます。最後に上から丸木を差し渡し、その上に蓆を敷くのですが、蓆の上が土で覆われていたため最近まで存在が知られなかったのです。

この兵馬傭の発見者、楊志発さんは雨が降らないので、井戸を掘ろうとして、偶然見つけたそうです。楊さんは博物館売店で今はサイン入りの本を売っています。前は記念撮影にも加わってくれていたようですが、あまりのカメラのフラッシュの多さに目を患われ、最近は握手のみとなったそうです。今回のメンバーには記念撮影の希望者はいませんでしたが・・・。



前に学者がいるのが見えますか? 今も学者、調査隊は研究中、採掘中です。
兵馬傭は土に埋もれているときは、色彩鮮やかですが、掘り起こし大気にふれると、二日目には色が薄くなり、三日目には写真のように茶一色になってしまうのです。兵馬傭の顔はどれ一つとっても同じ物はありません。実際の人物を真似て作った為ですが、首のないものは、モデルが戦場に行ってしまい顔が作れなかったそうです。

馬傭を見て御満足の方々ですが、何故かこの写真、私にはみなさんが兵馬傭に見えるのです・・・。(1)

兵馬傭を見て御満足の方々ですが、何故かこの写真、私にはみなさんが兵馬傭に見えるのです・・・。(2)

西安のお土産センター。ガイドさん達は必ず一日に一、二個所、こういうところを案内してくれます。聞いてみたら、お土産屋でお客さんを案内したというサインしないといけないシステムになっているのだそうです。ですから「みなさん!何も買わなくても、いいですから!見るだけでいいですから!」というのですが、結局皆ここで買うことになりました。

高台にある空海ゆかりの青龍寺。遣唐使に随行した弘法大師空海はここで唐の名僧、恵果阿闇梨から真言密教を学び、3年後日本に帰国し、高野山に金剛峯寺を建立、真言宗を布教しました。恵果は空海との別れを惜しんだといわれ、帰国後まもなく亡くなられました。

青龍寺に現在、住僧はいません。この寺は、謡曲では『是界』にでてきます。

青龍寺(1)

青龍寺(2)

青龍寺(3)

青龍寺(4)

空海に因縁のある四国四県と日本真言宗門徒衆は中国仏教協会の協力の下に1982年に空海記念塔を建てました。空海は真言密教を中心に儒教、道教、医学、音楽、料理を勉強し、また漢字の草書体を利用して平仮名を作りました。

記念碑の前には展示室があり、空海とその関連文献などが展示してあります。

展示室となりには参拝者署名所があり、我々も署名してきました。署名は50年間保管され、次回訪れたときに、本人又は親類の者は希望すれば見ることができるそうです。

私の署名、記念になりました。

阿部仲麻呂の記念碑がある興慶宮、今は公園になっています。

大理石で作られた阿部仲麻呂記念碑。仲麻呂といっても知らない方もあるかもしれませんが、奈良の出身で遣唐使に従い留学生として長安(今は西安)に渡った人物です。この地に35年間生活し、祖国を偲んで、小倉百人一首で有名な「天の原、ふりさけ見れば春日なる、三笠の山にいでし月かも」を詠みました。
仲麻呂はあるとき玄宗皇帝の許可を得て、日本に向かいましたが、途中暴風雨に遭い、ベトナムに漂流。二年後に再び長安に戻り、唐の高級官僚として活躍し73歳で亡くなっています。
謡曲では奈良の春日を主題にした『野守』に「昔、仲麻呂が我が日の本を思いやり、天の原ふりさけ見ると詠めけん・・・」と謡います。
碑の側面には詩人、李白が仲麻呂の死を悲しみ歌を詠んでいます。

図書館といわれ入ってみたら、絵や字の売店でした。しかし今思うと、ここが一番良質で安かったようです。あー、あと二枚ぐらい買っておけば良かったと少し心残りでした。

西安碑林博物館。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑の集合を意味するものです。

西安碑林博物館(1)

西安碑林博物館(2)

ここに掲げる碑の字は卑の上の点がないのですが、これは字のバランスが良いということで取ってしまったそうです。

石台孝経は玄宗皇帝の自筆です。

鐘楼にあった鐘はここにおいてありました。

現地の中国人ではありません。出雲さん少しお疲れのようでした。

石碑のあった建物ですが、今は建物のみ。手前の芭蕉が立派で綺麗でした。

これはびっくり。木が屋根を突き破ったか、木を尊重して屋根をこしらえたか・・・。

大慈恩寺入口。

大雁塔は大慈恩寺の境内にあります。三蔵法師はこの大慈恩寺に仏像教典の保存を玄宗に願い出て許され、はじめは五層の塔を建てました。その後十層に大改造されましたが、戦乱で七層から上が崩壊し、今は七層が残っています。

大雄宝殿には釈迦如来がありますが、ご覧いただけるでしょうか。

講堂の前から正門を振り返る。

大雁塔入口、いやあ、高さを感じます。

法堂

これから3人で登ります。出雲氏は足をけがされていたので不参加でした。

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(1)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(2)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(3)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(4)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(5)

頂上よりの眺めはすばらしく、良いのですが、登りが辛かった。(6)

天井に書かれていました。意味不明。

3層目にありました。釈迦の足型です。

釈迦の足型の説明板。

出口より

下りて出口から見上げて、二度と来れないなーと思いました。

大雁塔出口付近、綺麗に整備されていました。(1)

大雁塔出口付近、綺麗に整備されていました。(2)

「疲れをとるためにお茶にしましょう」と言われましたが、ここもガイドのコースのひとつでした。

おいしいいろいろなお茶を出していただきました。

もちろん無料ですが、そこは礼儀、少々の買い物をして出ました。

夕食は餃子でした(1)

夕食は餃子でした(2)

ギョウザその1

ギョウザその2

いろいろな形、味で面白かったですが、最後は飽きてしまいました。

中国ではあまりビールを冷やして飲まない習慣らしいですが、最近日本人が多く来るようになり、冷えたビールも飲めるようになったとか。でも味は薄いので日本のビールが恋しくなりはじめました。

スープギョウザ

我々はこのマイクロバスで移動しました。


夜の西安の街は屋台や食事の店で一杯です。衛生面では問題があるでしょうが
中国の人は道路に出て食べていました。私は残念ながら食べたいという気持にはなれませんでした。

中国の男性はすぐ裸になってしまいます。あちこち裸の男性が多いのも西安や中国の特徴かもしれません。
(左 長島氏、右 出雲氏)

一日の疲れは足裏マッサージが良いというので、試してみました(1)

一日の疲れは足裏マッサージが良いというので、試してみました(2)
『青野守』 青をめぐる演出考投稿日:2006-03-05

『青野守』 青をめぐる演出考
粟谷 明生

近年の『青野守』はおそらく二百年ぶりの演能ではないでしょうか。
春の粟谷能の会(平成18年3月5日)で珍しい『青野守』を勤めました。
喜多流には他流にない、従来の曲名に色名を付けて演出を変えることがあります。たとえば『白是界』『白田村』『白翁』などです。『是界』には小書「白頭」がありますが、『白是界』になると位はより重くなり面や装束が変わって風格あるものになります。『田村』にも小書「祝言之翔」がありますが、『白田村』では面が「天神」となり装束も常とは変わって謡に緩急も加わり、より強さを強調した演出となります。『翁』には『白翁』があり、装束一式が白色になり、揚げ幕まで従来の幕を白色に変える演出となります。昭和29年1月9日、十四世喜多六平太氏は文化勲章受章祝賀能でこれを演能され、また、先代十五世喜多実先生が国立能楽堂舞台披きにて演能されたことが思い出されます。

これらはいずれも詞章を変えずに、謡の位や面・装束などを変えることで曲の位を上げています。『青野守』も同様に『野守』と詞章は変わりませんが、演じる精神性が違うと、私は思っています。
『青野守』については、我が家の伝書のひとつに喜多流の中興の祖といわれる江戸後期(徳川家治時代)の九世喜多七大夫古能健忘斎の教えを十世十大夫盈親寿山が書き留めたものがあり、そこに記載されています。実は昨年(2005年)、大阪で高林白牛口二氏が二百年ぶりに『青野守』を勤められました。私がお聞きしたところでは、我が家にあるものと同じ伝書をもとに掘り起こされたようです。これで途絶えていた『青野守』が陽の目をみることができました。私も同じ伝書を持つ身として、是非一度勤めてみたいと思い、今回粟谷能の会で私なりの初の試みとなりました。
私の『野守』の演能は、披きが厳島神社御神能で次は粟谷能の会での『野守・居留』と今まで二回でした。この経験をもとに三度目ということ、新たな演出を試せる年齢や環境が整ったのではないかと思い、私的な会である場で少し自由に勤めたいと考えました。
ここにその伝書の一部をご紹介します。
「野守の後を萌黄法被、萌黄半切にて致す事在り、是を俗に青鬼などと言う人あれどもさにあらず。野守は春の能なり、尤も切には地獄の所作あれども、まったく地獄の鬼にてはなし。春日野の陽精、また春神の心なり<中略>古能公披かれ候なり、世人知るべし」とあります。
後シテは萌黄法被、萌黄半切にする、春の能だということ、野守の鬼は地獄の鬼ではない、春日野の陽精、春神の心であるということが、私のイメージを大きくふくらませてくれました。先人にこんな風にしゃれた演出を考えた人がいたということも大いに刺激になりました。
若いときは後シテの扮装が法被、半切を着て赤頭に唐冠を戴き面は小ベシミで、『鵜飼』の後シテと全く同じ装束、地獄道や奈落という詞章からも『鵜飼』の閻魔大王と錯覚して勤めていました。地獄や浄玻璃の鏡という言葉から閻魔王と繋がるのは無理もないことですが、詞章を読み込んでいくと、『野守』の鬼神は鬼といわれながらも人に害を与えるような、また人間の悪霊のような存在ではないことが判ります。この鬼はもっと特異な存在として描かれている、そこが世阿弥らしいのです。「怖れ給はば帰らんと、鬼神な塚に入らんとすれば」と「あなたが怖いと思うならば自分は墓に戻るよ」といかめしい顔とは反対に素直な純朴な心の鬼神なのです。

では、鬼神とは何でしょうか。鬼神は「きじん」とも「きしん」とも発音して謡います。雑誌「観世・『野守をめぐって』」で京都大学教授の浜千代清氏は「きしん」の場合は超自然的な存在で神の方に重点がおかれ、「きじん」と濁ると変幻自在の鬼のほうになると説明されています。『野守』ではその両方の言い方をしているのが面白いところです。
太古の時代、人間は死ねば神か鬼になる、生前の行いがよければ神になれるが、そうでなければ鬼になるしかないという信仰があったようです。死ぬと鬼というのはいささか悲しいですが、その鬼にも救いの解釈はあります。それは「鬼もまた神なり」という解釈です。荒ぶる神であると考えれば死後にもまた光が見えるのではないでしょうか? この「鬼もまた神」という言葉でこの伝書がいっそう身近なものになりました。
私は後シテの鬼神は地霊や国つ神、また守り神ではないかと思っています。東西南北有頂天から地獄まで四方八方全宇宙を照らし映し山伏に見せる神に近い存在です。最後の「奈落の底にぞ入りにける」の詞章や閻魔に似た扮装から恐ろしい地獄の鬼を連想しがちですが、伝書にある通り陽精とか春神です。春日野に太古から住んでいた土着民族の魂や霊が守り神に変化したのだと考えられます。先住の土着の魂や霊神は体制側の天つ神に押しやられ、徐々に引き退きながら地下深く隠れるしかなかったのです。ベシミの形相となり反抗を余儀なくされながらもけっして戦いを挑まない無言の抵抗者です。口をむすんで「もう何も語らない」とストレスに満ちた憤怒の形相で征服者を睨んでいる、そのストレスを同じ境遇にある芸能者が演じる、それが能発生当時の真髄と言えるのではないでしょうか。
『青野守』は後シテを地獄の鬼というより春神や陽精という位に一段上げた演出で、いみじくも太古の時代の現世に生きる者以外は鬼か神かになるという信仰と、伝書にある「陽精や春神の心」とがうまく一致しているように思えてなりません。ご覧いただく方にも、この一段位の上がった演出を観ていただきたいと思いました。
装束については、後シテは伝書にある通り法被・半切を萌黄色にしました。着付けの厚板の色の指定がないので、厚板を萌黄色にして裳着胴(モギドウ)姿というのも一案としてあがりましたが、やはり法被・半切萌黄色の記載にこだわり、法被を肩上げして萌黄色厚板に萌黄半切という三つの配色のバランスを考えて総萌黄としました。草萌える春の能のイメージ、『青野守』の青のゆえんでもあります。
頭(かしら)は何も戴かずに白頭にして、面は従来の小ベシミを大ベシミ型の「黒ベシミ」にしました。『大江山』や『紅葉狩』、『土蜘蛛』のようなショー的な鬼退治の話ではないので、神のような、スケールも大きい鬼のイメージでアニミズムの雰囲気を醸し出せればと考えました。
ではここからは舞台進行を追いながら今回の演出を記載したいと思います。
最初にワキの出羽国、羽黒山の山伏が登場します。この山伏は修行を積んだ立派な修験者で、だからこそ、野守の鬼神はその法味にひかれて出てくるのです。山伏がこの曲の軸を担っていると思います。そこで今回はどうしてもと、宝生閑先生にご出演依頼しました。一日の番組を考えると『柏崎』と『青野守』という二番能であれば、普通は『柏崎』を宝生先生が勤められ『青野守』は同年代の森常好氏があたるのが順当です。しかし敢えて『青野守』という新しい試みに大ベテランのご助力をいただきたいと思い、我儘をお聞きいただきました。この能はワキの占める位置がいかに重要かはご覧になられた方ならお解りいただけると思います。この山伏が一曲の進行役の存在で前・後場通してシテに大きく関連している役なのです。
『青野守』の前場は通常とほとんど変わりません。他流には小書が付くと前シテ(野守の老人)の一声(いっせい)の後の、下歌(さげうた)、上歌(あげうた)を省く演出もありますが、私は「昔、仲麿が我が日の本を思いやり~~」の上歌が好きで省きたくありません。以前、宝生先生に「仲麿なんていってもピンとこないだろう?」と言われたことを思い出します。確かに当時は「誰ですか? 人麻呂? 仲麿?」とお恥ずかしい返事をしたことを覚えています。二年前、北京と西安の中国旅行をした折、西安の公園で阿部仲麻呂の記念碑を見つけ描きこまれた詩を読んだとき、遣唐使として中国の地を踏み悲願の日本帰国が出来なかった史実を知ると、「我が日の本を思いやり、天の原ふりさけみると詠めけん、三笠山の山陰の月かも」の謡がなんとなく身体の中にすっと入り込んでくるのです。
その後、前シテとワキの問答が始まり、野守の鏡に二つのいわれがあることや敏鷹(はしたか)の伝説が語られます。シテの語りの最後、「狩人ばっと寄りて」で、老人がすっと立ち正面先に出て水底を覗く型がありますが、ここの動きが老人ということをすっかり忘れて若さあふれる荒い動きとなると、以前注意された箇所です。近頃少し老人の動きとしての瞬発力とは何であるかが判ったように思えるのですが、果たして今回はそのように出来たのかはいささか自信がないところです。
この後の同音は「あるよと見えし」の強吟から「さてこそ敏鷹の」と和吟に変わる構成ですが、これは『鵺』『八島』にも共通していて、これが世阿弥の作風と聞いています。
続く同音では「敏鷹の野守の鏡得てしがな思い思わずよそながら見む」と新古今集の歌を取り上げ、帝を賛美しながら老人は老いの思い出の世語りに落涙します。このあたりは体制側へのお世辞のようで、演じていてしっくりこない部分でした。しかしこの場面だけでなく「ありがたや慈悲萬行の春の花」と春日野を賛え、決して帝の賛美を忘れない曲の構成は、世阿弥の芸能者としての置かれた立場が伺えるところです。
この話が終わると、山伏は「野守の鏡」を見たいと所望します。鬼の持つ鏡で、見れば恐ろしいことになるから、池の水鏡を見ろと言い捨てて、老人は姿を消し中入りとなります。
この場面、伝書に「中入り前に杖を捨てる型あり」とあり、私も今回試みました。杖を捨てることで老人の姿がすっと消え失せてしまう、そして杖だけが不思議に残る、という場面効果を狙ったもので、後シテへの期待感をもたせるいい型だと思います。
山伏は里人(アイ)に池の謂れを聞き、奇特を喜び塚に向かい祈りをあげます。すると塚から大地に響く歓喜の声があがり、鏡を持つ鬼神が塚の中から現れます。
通常の『野守』では引き回しを下ろさずにシテは後ろから出て塚の横に鏡を持って現われます。歴史資料を調べると江戸中期までは喜多流も他流も引き回しを下ろしていたようですが、後期になり下ろさぬ方がよいということになったようです。私の持っている伝書にも「下ろさぬが吉」と書かれています。しかし今回敢えて下ろす試みをしたのは、引き回しを下ろし鬼神が作り物の中から現われた方が土や守り神のイメージが塚と一体となって見えるのではないだろうかと思ったからです。下ろさずに横から現われる場合、小ベシミならどことなく愛嬌のある顔のため似合いますが、大ベシミのスケールの大きい形相では不似合ではと判断しました。
演者は面や装束を作品の主張を主体に考慮し選択すべきです。たとえ伝書に損だ大損だと記載されていたとしても、そこに工夫を凝らしよい効果を上げることが最優先されなくてはいけないと思います。それが伝書や謡本を深く読み込むことだと思っています。

ただ、この塚の中にいる演出にはひとつ問題があり、文献資料にも先人たちの苦労が書かれています。「怖れたまわば帰らんと、鬼神は塚に入らんとすれば」のシテの詞章は、常の塚からいったん出ている場合は、この言葉で戻る型となり問題ありませんが、この謡の中で塚にいること自体が道理に合わなくなるからです。この「塚に入らんとすれば」をどのように処理するかが苦心のところでした。昨年、高林白牛口二氏はワキの「怖ろしやうちひ耀く」の言葉の内に一度塚から出て演じられたようですが、私は塚の中にいて床几から降り下に居る型でこの問題を解決したいと考えました。
後場の象徴となる鏡については、本来喜多流では小さい鏡でその縁を持つ手法ですが、これでは面とのバランスがとれない、鏡もまたそれに似合ったスケールの大きさがなければいけないと考え、観世銕之丞家の特大の鏡を見本にさせていただき、今回新たに作りました。そのため今まで習得してきた所作では適わないところもあり、鏡を扱う所作の見直しという新たな稽古も加わりました。
鬼神が現われると山伏はひたすら祈り数珠を揉みます。もちろん鬼を退散させるためではなく、もっともっと見せてほしいと祈るわけですから、鬼神はそれに応え、祈られれば祈られるほど得意になり鏡を四方に照らし映し見せます。
私は鏡というものがものを映すだけではない、サーチライト、烽火のイメージで照らす意味合いもあると思って演じています。天地東南西北の四方全宇宙を映しだすと同時に照らし出すエネルギーも必要だと思うのです。
一般に位が重くなると、どうしても鈍重になりがちです。『白是界』のように「ベシミ悪尉」ならば納得出来ますが、今回は大ベシミです。鈍重過ぎては効果が半減してしまいます。そこで要所要所に起伏がほしいと思い、太鼓の観世元伯氏には「一金伽羅二制多迦…」から替え手を打っていただくために、「暇を得ず」の謡に緩急をつけ、強く締めて謡ってもらうように地謡にお願いしました。
最後に鏡を、観世流や宝生流が奈落まで持ち帰るのに対して喜多流はワキに手渡します。大事な神聖視された鏡を山伏に手渡すことの是非はあるでしょうが、演者としては最後の居留の型へのことを考えると手渡すことは都合がいいのです。前回の小書「居留」では中啓を持ちながら組み落としをしましたが、どうも中啓が似合わないのです。両手を大きく広げ半切袴の裾を持ち上げ飛び上がり安座して地下深く消える、この型には何も持たないほうが力感が出ていいのです。ならば思い切ってはじめから中啓を持たないで演じてみよう、とこれはかなりの冒険でありました。

この曲は「奈落の底にぞ入りにける」で終曲します。この「奈落」が気になります。この言葉がシテの存在を閻魔系統に錯覚させる元凶でもあるからです。奈落と謡うのは体制側に対する演者たち、いわゆる芸能者の立場の者のへりくだりだと私は思っています。所詮、役者分際は地獄に行きますとへつらっていると考えればどうでしょうか? 本当は土中とか地下とか水底という方がいいと思うのですが・・・。私は作品が訴えてくる深層部分に鬼の立場という逆側からのへりくだった描写があるところに、何か風刺的な面白さを感じます。
今回の新工夫した『青野守』は、『野守』という曲を深く掘り下げて研究することの材料となりました。能は調べればそれだけの答えが返って来ます。先輩や仲間に問いかけ尋ねると皆さん真摯に答えて下さいました。ここに感謝申し上げます。
春を間近にした穏やかな一日、萌えいずる草木、土の味わいを醸し出す青色の野守、これまでの『野守』の鬼とはひと味違う春の神をご覧いただけたでしょうか。私自身は春風に乗るような楽しい舞台でした。能楽師として、再考、再演出できた喜びを味わっています。
しかし『青野守』は一回の演能では完成度は高まりません。私も再演に再演を重ね、また他の能楽師の方にも演じていただき私では不足していたところを補っていただいて、そのことでより完成度の高い『青野守』が出来上がればよいと願っています。
(平成18年3月 記)
(喜多流宗家についての但し書き)
・九代喜多七太夫古能健忘斎・・・八代目十太夫親能の養子であったが、実は七代目部屋住み長義の子。
・十代目十太夫寿山盈親・・・九代目の養子だが実は八代目十太夫親能の嫡子。
写真撮影
『白翁』・『青野守』前 あびこ喜久三
『野守』居留 三上文規
『青野守』後1 あびこ喜久三
『青野守』後2 吉越 研
『木賊』について 親子の愛情と反発投稿日:2005-12-22

『木賊』について -親子の愛情と反発-
17年最後の締めくくりとして、粟谷能の会・研究公演(平成17年12月22日)にて、友枝昭世氏に『木賊』を舞っていただき私たち(地頭・粟谷能夫、副地頭粟谷明生、中村邦生、長島 茂、狩野了一、金子敬一郎、内田成信、粟谷充雄)は地謡を勤めました。普通はこのような大曲、殊に『木賊』のような老いをテーマにしたものは熟年の経験者、今ならさしずめ父菊生が地頭を勤めるのが当然ですが、能夫と私は地謡の重要性を責任ある立場で挑みたいと思い、研究公演を4年ぶりに再開しました。大先輩について謡うときにはありえない数回の地謡だけの稽古、その中での微細な節扱いの確認、声の張り方までの検討という作業は喜多流では珍しいものでした。
また私はこの曲を理解するために資料にも目を通すうちに、謡本の解題やその他の本の概要に書かれていることが作品の主旨と幾分違うのではと感じ、この曲を理解するには少し説明を加えたほうがいいのではないかと思いました。何か大事なものがどこかに隠れているように思えたからです。地謡に取り組む中で、私なりの読み込み・解釈が出来上がってきたのでここに個人的な見解として書き留めることにしました。
まずは老人(シテ)とその愛児(子方)松若の人物像を考えるところから始めたいと思います。
松若の父は老いた父親として登場します。従者を連れての木賊刈りの場面からも、それ相当の大家で、大地主のような、階級も上のクラスの人物だと思われます。木賊という植物は砥草(とくさ)の意で物を砥ぎ磨くのに用いられる常緑シダ植物で、今でも庭に観賞用として植えられる生命の強い草です。園原は木賊刈りの名所ですが、老人にとってのそれは生活のためではなく、気ままな暮らしの中での趣味的なものとして理解したほうがいいと思います。『鵜飼』や『烏頭』のシテのような切実な生業の労働とは異なります。
では突如消息を絶つ松若とはどのような人物であったでしょうか。
能では実際は大人であっても幼い少年を子方として採用し、おセンチな涙を誘う効果をもたらすことがあります。しかし、私は松若は資産家の跡継ぎという有望な将来を捨ててまで、あえて仏道を志すほどの人物だったと推測します。ですから、ある程度成長し自立心のある立派な息子のイメージです。父親はきっと仏門に入ることを許さないであろう、ならば無言で家を出るしかない、と覚悟を決めてしまうほど意志の強さを持った人物だと思います。一説に、松若は恋をして父親がその恋路を許さなかったので家を飛び出したのだとする、面白い説もありますが、私は恵まれた環境の中で日々送っていたがある日、一念発起して出家を志したと考える方がよいと思いますが・・・、そこは観客の皆様の自由です。
まずここがこの曲の主軸に大きく関連しているところです。老いた父はわが子が誘拐されたと主張し、子ども側からは自ら望んで出家したという、このねじれた構想が能『木賊』の根本であると理解しないとこの作品のよさはわからないのではないでしょうか。解説にある内容は「都の僧が弟子とした少年を伴って、その郷里である信濃の国、園原へ赴いたところ、たまたまトクサを刈る老人に会う。・・・・・愛児を連れ去られた父は愛慕と狂乱の舞を舞うのであった」(喜多流謡本)であり、「人に誘われて故郷信濃の国を出た松若が父に今一度会いたいと思い、都の僧に伴われて、信濃の国園原に下り、里人とともに木賊を刈る老翁に会った。・・・・・子を失った悲しさを物語り、わが子の常にもてあそんだ小歌曲舞などを謡い舞った」(『謡曲大観』佐成謙太郎著)で、あくまでも父親側からの心の動き、視点でとらえていて、松若側からの視点は隠されています。演者や観客はこの解説を元に舞台での展開を観賞することになりますが、この親子のねじれこそが重要で、それを踏まえての型と地謡が必要であると思いました。
では今回の舞台経過を振り返り書いてみます。
出家した松若は故郷信濃の国の父親の顔をもう一度見たいと思い、師である都の僧に相談します。ここにも息子の意志が働いています。師は松若を伴い郷里の伏せ屋の里に向かい到着します。そこへ木賊を肩に背負う老人と従者が現れます。シテとツレ三人が橋掛りに並び、一声で秋の園原山一帯の情景を謡い、続いて地謡が木賊を刈る風情を謡います。一曲にロンギが二度ある曲は『高砂』『弓八幡』など珍しくはありませんが、前場の前半に設定されているのは珍しいものです。このはじめのロンギの場面は卑しい身を嘆くかのような詞章もあり、このシテが身分の低い者と錯覚しがちですが、これは老人の卑下と考えるべきで、「人として心を磨かなければいけない、わが心のために心を磨く木賊を刈り取ろう」と木賊を刈る真似をする型所は前半の見どころ、聞かせどころです。この名場面を鎌で扱うときと中啓で処理する場合がありますが、今回、友枝氏は所作が難しいとされる鎌で演じられていました。
ロンギが済むと、僧は老人に「見申せば由ありげなる御事なるが其の身にも応ぜぬ業と見えて云々(わけありの姿ですが似合わぬ作業をしていますね)」と不審に問いかけます。老人は木賊がここの名草なので家裏(いえづと=おみやげ)にすると答えますが、この言葉から木賊刈りが老人の生業でないことがはっきりします。僧は老人に伏せ屋の里の箒木について問い「園原や伏せ屋に生ふる箒木のありとは見えて逢わぬ君かな」の和歌を引き出します。箒木は遠くからは見えるが近くに寄ると見えなくなる、それを実証しましょう、と老人は僧の手を引き案内します。この歌は恋の歌ですが、親子の心情にも当てはまり、この曲の根幹をなしていると思います。そして後半の曲舞、序の舞へとうまく絡む構成のうまさがひかります。
老人は旦過を立てているからと我が家へ僧を招きます。旦過とは旅僧を無償で泊めてもてなす習慣です。旦の字は元旦の旦、水平線より日が上がると僧は出発します。
僧は松若と共に泊まることになります。すると従者の一人が老人は時折おかしなことを言うかもしれないからその心積もりで相手してください、と注意を促し退場します。通常、主ツレといわれる従者は舞台にそのまま残りますが、今回は終曲場面にワキだけが残る形にしたいために退場することになりました。
このあと子方松若の重大な告白があります。師の僧にあの老人が自分の父だと告白しますが、僧のよろこびの言葉を聞きながらも、ひとまず名乗り出ることを固辞する応対をします。ここが『木賊』の最大の要、隠し味で松若と作品の主張が凝縮されているところです。
今までは、この思わせぶりな言葉の真意を無視し、能独特の演出であるとか、そうしなければメインの曲舞や老人の舞が見せられない、能ではこのようなパターンで場面展開の処理をするものだと聞かされ信じてきました。しかし今回この解釈ではあまりに不自然で説得力に欠ける、あの世阿弥であれば、きっと意図的なものがあるはずと考えました。松若ははじめ元気な親の顔さえ見られればそれでよい、名乗らなくてもいい、と思っていたのではないでしょうか。再会しても、どうにもならない後戻りできない現実があるのを充分知っていたに違いないのです。それでもせめて一度、遠くからでもいい元気な姿を見れば自分は納得出来るという気持ちがあったのではないでしょうか。
そうとは知らず老人は酒を持参し、僧をもてなします。飲酒は仏の戒めだと断る僧に老人を慰めようとする気持ちならば仏法の真清水だと思って飲め、と酒を薦める老人です。早くもなんとなく一癖ありそうな予感をあたえながら老人も飲みはじめ、酔狂の始まりとなります。わが子への追憶は曲(クセ)から序之舞へと展開します。このクセの部分の謡は普通に淡々と謡うだけでは成り立ちません。父は独特の謡い方でここを表現します。父の口癖は「おれの謡を浪花節というが、ナニワ節で結構、それが悪いか、といいたいね」そのニュアンスはわかるのですが、どのようにすれば酔狂ながらほろっとさせるクセが謡えるか、それも課題でした。演能後の宴席で「僕の浪花節?? 違うぞ、情感だよ!!」という父のフェイント的な答えに居合わせた者が思わず「あー、やられた!」と大笑い。その情感を込めて謡えたか、そこは観ていただいた方に是非お聞きしたいところです。
序の舞から酔いも思いも最高潮となり、親が物に狂うならば子供は囃すものだ、どうして今我が子はいないのかと嘆くところの大ノリ地の謡は最大の難所。このように劇的に展開する場面、酔狂の父を見続けた松若であるからこそ、ついにいたたまれなくなり自ら名乗り出てしまいます。
ここの場面を観世流のロンギの詞章が「何か包まん、これこそは、別れし御子松若よ」と僧が紹介するように謡うのに対して、喜多流や他流は「何か包まん我こそは」と松若自身が名乗る形となっています。こちらの方が説得力があり、リアリティーがあると思います。ですからここは、当然子方の心ですから軽い位で謡うことにしました。
では一体この曲は何がいいたいのでしょうか? もちろん父の子への愛の深さですが、通常の能の親子は母と幼子です。それをわざわざ男同士、それも父親を老人に設定したところに奥深い味わいが隠されています。結末に親子の再会があり祝言で終曲していますが、もちろんそこが芯ではありません。男親と子供の再会には『歌占』『弱法師』『花月』などもありますが、この『木賊』のように父親が老人となるのはこの一曲だけです。老女物に匹敵する男の老人物、しかも老人の狂いです。この曲は老人の頑な想いが主題ではないでしょうか。それを酔狂という表現方法で曲舞や序の舞へと展開するところに演者側の技の秘め事があり、大曲と言われる所以でもあります。が、今までは妙に重々しく考えるだけに落ち着いてしまっていたのではないかというのが私の素直な感想でした。
あまり若者は使わない「酔狂」という言葉。酒に酔い常軌を逸すること、また好奇心から変わった物事を好む意、と辞書にありますが、父は「酔狂なんて言葉、近頃の者にはわからんだろうなあ」といいます。この曲での酔狂とはただ酒癖が悪いというのではなく、思い込みの強さ、それを譲らない頑な心です。後半への繋ぎとなる物着も当初は僧を接待するために労働着から着替える程度の意味で肩上げした水衣の袖を下ろすだけというものでしたが、時代を経て愛児松若の愛用した装束を着て舞う形式となりました。喜多流にはこの曲専用の「おもちゃ尽くしの掛素襖」があります。父や先人たちは皆それを着用してきました。今回もその素襖を考えていましたが、寸法が大き過ぎるという問題が生じ諦めることになり、子方用の長絹の使用となりました。しかしこの曲に似合う長絹は流儀にはなかなかなく、最終的には大槻文蔵氏より拝借することとなりました。このような経緯でしたが、いくら父に現況を説明しても理解してくれず最後まで、「おもちゃ尽くしがいいのにねーー」を連呼するまさに「頑な」な有様でした。酔狂という言葉は確かにあまり実感しにくい言葉ですが、『木賊』を何度も謡ううちに不思議と馴染み理解出来るようになりました。父には悪いのですが、まさに木賊のシテと父が重なりかぶるからです。父がヒントとなり、時にはそのものずばりという存在が、この作品を理解する助けとなりました。


今回、この大曲に取り組んでくださった友枝昭世氏の『木賊』への意気込みは並々ならぬもので、シテとしての技量、品位の充実は舞台への参加者を圧倒しました。子方、地謡にも綿密な要望を出し、装束の選択や、たとえば舞い扇は子方用の中啓を使いシテ用は腰に挿すとか、緊張の緩む物着時間をうまく処理する仕方、終曲の演出など従来の詰めの甘さを払拭するような演能が出来たことは喜ばしい限りです。そしてその担い手の一員となれたことが誇りであり、よい勉強になったと感じています。
親の老いと子の成長、この自然摂理は同時進行しながらも、次第に相反し遊離するように見えます。あるとき子は自分の人生を求めて親から離れていきます。親は頑なに子供の行動を見ようせず、子を愛しながらもそれを勝手な行動として認めない。子は子で親を愛しながらも頑なに己の規範でしか物事を見ない親に反発し離れていく。現代にも通じます。所詮時間が過ぎれば、子は親の立場になり、その子は自分がしてきたことと同じようにまた行動する、その繰り返しなのですが・・・。観阿弥の作風を伝承しながらも独自の幽玄の世界を確立した世阿弥。その子、元雅は父と異なる作風を切り拓き、次男元能は出家の道を選びます。観阿弥、世阿弥、その子供たちにも同じような親子関係がありました。『木賊』の能はそんな普遍の親子関係を教えてくれているみたいです。箒木の和歌は、『木賊』の中では恋の歌ではなく、近くでは実感しない親子の心情、生き様を歌ったように私には聞こえたのです。
写真
『木賊』シテ友枝昭世 撮影 神田佳明
小結烏帽子 撮影 粟谷明生
装束 おもちゃ尽掛素襖 撮影 粟谷明生
美濃赤坂から湖北観音めぐり投稿日:2005-12-15

平成17年11月10日から二泊三日で、美濃赤坂からの謡蹟めぐり、そして翌日は琵琶湖湖北の十一面観音見物に行って来ました。
11月10日
JR大垣駅で下車し、まず今回の行程で一箇所だけ離れている「養老の滝」までタクシーで向かいました。片道30分ほどです。本来、参道を使い徒歩で滝壺まで行くべきでしょうが、時間の都合上、山頂まで一気に車で上り、タクシーを待機させて、逆に下りながら滝壷と、養老神社のお社を見学してきました。神社には能『養老』にまつわる「菊水泉」がありましたので試飲しました。春は桜の名所として大混雑だそうです。養老神社のすこし上から山頂まで濃尾平野を一望できるリフトがあったので、それに乗り、タクシーを待たせている山頂駐車場まで戻りました。
『熊坂』や『烏帽子折』で謡われる「赤坂の宿」を通り、子安の森の子安神社を経て、本日のメイン、朝長の墓にお参りしました。朝長の墓の道は二通りありますが、今回は裏道の朝長ルートで徒歩10分で到着しました。途中、足場は整理されていますが、マムシに注意の看板がいたるところにあるのは不気味でした。
昼食を時間節約のため、お墓をお参りしたあと刀置きの石近くでとり、下山して『熊坂』で謡われる「青野ヶ原」や「青墓の宿」を通り、「熊坂の物見松」に向いました。それから「垂井の宿」を通り、「野上の宿」で班女が化粧をしたといわれる池がある岩田千年氏(90歳)宅へお邪魔してお話を伺い、班女観音堂にもお参りして、最後は「関が原古戦場」を見て彦根のホテルへ帰りました。
11月11日
朝8時半にホテルを出発、多賀大社に行きました。荘厳で綺麗な社は貫禄があり伊勢大社の親とも言われています。社の右となりには現在はあまり利用していない能舞台がありました。二日目のメインは渡岸寺(どうがんじ=向源寺)の十一面観音像です。湖北は古いお寺が沢山あり、十一面観音の宝庫といわれています。
その後、石道寺から遊歩道を歩いて己高閣に向かいましたが、途中猿の大群が畑を荒らしているのに遭遇しました。さすがにあれほど多いとすこし怖くなります。己高閣の宝物館に石田三成の母の墓があったので謂れを聞くと、母の出身地だったようです。ですから関が原合戦に負けた三成は母の故郷の古橋村に落ち延びたのです。
説明を受けるうちに雨が降ってきたので、二日目の行程をここで終了することにして、京都のホテルを目指しました。夕食は八坂神社近くのととや魚長さんで今回の同行者4人で大宴会となり楽しい旅を終えました。

養老の滝
意外に落差のある大きな滝です。

養老神社
養老神社と、手前は謡蹟立て札です。

謡蹟立て札
最近立てられたようできれいな立て札でした。

菊水泉(掬水泉とも)
伝説は源丞内という者が、貧乏のため酒好きの父に酒を飲ますことができないでいました。ある日、山に薪を取りに行き苔石にすべり転んだところ、酒の匂いがしたので流れる泉を汲むとそれは酒でした。息子は毎日その泉を汲んで父に飲ませた、という話。これを聞いた帝が勅使を向かわせ、老人と男に会い泉の謂れを聞くというのが能『養老』です。ここは下から徒歩で登ると距離があります。もちろん泉は酒ではありませんが、長命になるというので試飲しました。味は別に変わりませんが、効果には期待したいと思いました。

神社から山頂までのリフト
あまり乗られていないリフトですが、今日の長い一日の行程を考え、つい乗ってしまいました。濃尾平野がきれいに見られました。

赤坂の宿
『烏帽子折』では金売り吉次や牛若丸がここで盗賊の熊坂長範に襲われますが、牛若丸は一人で見事に退治してしまいます。『熊坂』で「垂井青墓赤坂とて、その里々は多けれど」と謡われるように、昔は人が集まったにぎやかなところでしたが、いまは寂れた町となっています。

子安神社
『熊坂』「青野が原の草高く、青墓子安の森茂れば」のように、平安時代は鬱蒼として昼でも暗い子安の森であったようですが、今は昔の面影はありません。子安神社は子授けの神で、跨ぎ石を跨ぐとご利益があるといいます。

朝長の墓の入り口
墓までは二通りの道がありますが、裏からの近い道を選びました。

墓への道
道は整備されていますが、小川が流れているので湿地帯を歩く感じです。随所に「マムシ注意」の看板がありますが、どのように注意したらいいのかは書いてありません。

炭焼き小屋
ここまでが7割程度、あと少しです。近くに休憩所がありましたが、湿気があり、昼でも暗いところなので、とても腰を下ろして休む気にはなりませんでした。

岐路
あと少しで墓です。左は寺の跡ですが、今回はパスして右に曲がりました。上り坂があり、あと少しです。

刀置きの石
昔はこの石の上に刀を置いてお参りしたそうです。今回は私の懐刀の携帯電話を置いてみました。

朝長の墓
左から朝長、義朝、義平の墓です。入り口からは女性の足でも10分で着きました。

お参り
いつか演じるかもしれない『朝長』の上演も祈願して、合掌。

謡蹟の立て札
墓の前は狭く、立て札も道隅ぎりぎりに立てられていました。

大炊一族の墓
義朝をかくまった円寿の墓をはじめ大炊一族の墓がありました。

大炊家の説明
大炊家は長い歴史を持つ名家です。

帰路
次の垂井を目指し、軽快に坂を下る同行者の女性陣。

物見の松
熊坂の郎党は高い松に登って、襲撃する獲物の通行人を探したといいますが、残念ながらその松は今は枯れていました。二代目らしき松が横に植えられていましたが、隣に武内宿禰の墓がありました。

謡蹟立て札
この一帯を保存会の方が回られたようで、今回はみな新しい立て札でした。

班女の長者の屋敷跡、岩井千年氏のお宅。
ベルを鳴らすと、すぐにご老人が出て来られ、親切に中に入れてお話をして下さいました。

なぜか?縦笛
「信じる、信じないは別ですよ」と前置きがあり、「実はこれは班女が吹いた」と秘蔵の笛を見せて下さいました。千年氏は野上一帯を所有する地主で古文書も多くお持ちだそうです。班女の花子と吉田少将との間に生まれた梅若丸の木像もあるからと見せて下さいました。

岩井千年さん
前日転んでしまいお顔を怪我されたとのことで、このようにマスクをされていましたが、90歳でお元気です。いろいろご親切な説明と最後に庭も見せて下さいました。

庭
班女がこの水で化粧したといわれています。一部改修しましたが、池自体は昔のままであるとのことです。

班女の観音堂
国道の 「野上」と看板のある信号を新幹線側に入ると班女観音堂です。
昔の野上の宿は旧中山道にあり今の位置とは違うと岩井さんは説明されました。
実は岩井邸を探すときに道に迷い、見つけたのが岩出町。なるほどロンギの「岩出の森の下躑躅(つつじ)」はここの事と判りました。

班女観音堂
野上は東京から関が原に入る少し手前にあります。今回、美濃赤坂あたりの位置関係が少し判るようになりました。野上が栄え遊女がいたのは平安時代で、それ以降は段々さびれていったようです。

家康本陣
時代は戦国時代に変わり、天下分け目の関が原の合戦の東軍の初陣の桃配山です。西軍の陣構えを見るために頂上に上がり眺めてきました。

決戦場
東軍西軍の激戦地は今はのどかな野原となっています。

石田三成の旗印
私はこの面白いデザインが気に入っています。青空にマッチしていませんか?

笹尾山から桃配山を望む
石田三成の本陣は笹尾山です。ここまでかなり上がってくるので同行者もだいぶお疲れ状態でいやがっていましたが、是非ともここからの景色を眺めさせたく強制命令で上らせました。ここには布陣の図があり、どう考えても西軍の勝利のはずが、小早川氏の裏切りで西軍は敗北して石田三成は伊吹山を越えて故郷古橋村に帰ります。そこで村人の密告で捕まり、六条河原で斬首されます。それ以後、最近まで古橋村では外から嫁をとらない習慣が続いたと聞いています

多賀神社本殿
朝早いためか、人が少なく落ち着いた感じを受けた多賀神社境内です。

神社の神様の由来
古事記に記載されているほど歴史のある神社です。

能舞台
毎年正月には茂山家が翁(三番三)を奉納しているようです。それ以外は使っていないということでした。
裏には楽屋もあり、そのうち能が奉納されればと思いました。

地謡裏より
6枚の板に松が書かれている珍しい鏡板。

さざれ石
『老松』にも謡われる「さざれ石」。この「さざれ石」は立派です。

古橋村
石道寺から鶏足寺への遊歩道を歩くと古橋村に着きます。ここは石田三成が関が原で敗北して逃げて来たところです。数日近くの洞窟に隠れていた三成ですが、村人の密告により捕われてしまいます。

己高閣(ここうかく)
古橋村には国庫の補助を受けて建設された文化財収蔵庫、己高閣があります。中には本尊十一面観音、七仏薬師ほか重要な仏像が多数納められていて、古橋の村人がボランティアで説明、管理されています。
これ以後、降雨となり撮影が不可能になったため、写真探訪はここまでとなります。
『項羽』を演じて投稿日:2005-10-23

『項羽』を演じて
学生に中国の歴代の国名を尋ねたら、いとも簡単に童謡の「もしもし亀よ」にのせて「殷、周、秦、漢、三国、晋」とすらすらと答えはじめたのには驚いてしまいました。今回、喜多流自主公演能(平成17年10月23日)で『項羽』を勤めるにあたって、学生たちとの会話のひとこまです。
謡の世界で中国の古い話となると喜多流では『枕慈童』ではないでしょうか。魏の文帝の臣下が周の時代の穆王に仕えた七百余歳の少年の形相の慈童に出会う話です。
周の次が秦の時代で、兵馬傭で有名な秦の始皇帝の築いた秦王朝です。そして、次に漢の時代に入りますが、その前に劉邦と項羽の両雄が争う戦国の漢楚時代があります。秦末の紀元前200年ごろのことです。能『項羽』は、劉邦(後の高祖)との戦いに敗れた楚国の勇将、項羽の最期に焦点を当てています。
能では劉邦を高祖と謡いますが、劉邦の名前の方が一般には聞きなれているように思えます。やはり司馬遼太郎の著書「項羽と劉邦」の影響が大きいのかもしれません。この二人、同じ位の年齢かと思っていましたが、項羽が三十一歳で亡くなるとき、劉邦はすでに五十代であったということです。ちなみに虞氏は十代の後半でしょうか? 項羽が歳下でありながら、それまでは連戦連勝したわけですから、如何に猛将であったかが容易に想像出来ます。

この能は、烏江(うごう=揚子江上流)の野で家路につく草刈たちが川を渡ろうと船を待っているところに老人の漕ぐ船が現われるところから始まります。草刈たちはいつものようにただで乗ろうとしますが、老人が船賃を請求するので、草刈は諦めかけます。老人は船賃はいらないと乗船を勧め、やがて岸に着くと、また船賃を請求します。約束が違うと草刈は憤慨しますが、老人は草刈の持つ草花を船賃がわりに欲しいと言い、赤い花を一輪もらって、美人草の謂れを語ります。この花は項羽の愛妃虞氏を葬った塚から生えたために美人草といい、項羽は漢の高祖に七十回以上も連戦連勝したが味方の裏切りから四面楚歌となり、この烏江の戦いで自害した、実は自分は項羽の幽霊であると名乗り、あとを弔ってほしいと頼み姿を消します。草刈たちが功徳すると、草刈の夢に項羽が鉾を持ち、愛妃虞氏を伴って現れ、四面楚歌の中、虞氏の哀切な最後と項羽の奮戦模様を再現し消えていきます。

美人草は漢名「虞美人草」、ポピーの名称が一般的です。花色は紅、桃、白、絞りなどがありますが、伝書にはわざわざ赤色を使用するようにと記載されています。私は美人草から「ひなげし」、そして「芥子」につながり、アヘン、モルヒネへと禁断の世界を想像してしまいましたが、ひなげしには麻薬成分は含まれていないということで、この間違った認識は捨てることにしました。
この能は唯一、鉾を使用します。扱い方は長刀と同じですが、横から切り払う長刀と違い、鉾は槍の原形で突く型が特徴となります。

能や狂言では中国系統の曲には、装束にも工夫がなされることがあります。
例えば観世流の『三笑』『天鼓』など、狂言なら『唐人相撲』と、それぞれ似合った装束で登場します。尉髪に違いを出している流儀もあります。私は今回演じるにあたり、『八島』の義経の化身の前シテの尉と『項羽』の前シテの恰好が全く同じというのが気になり、工夫が出来ないものかと思案していました。
すると能夫が「我が家に一風変わった側次(そばつぎ=チョッキのようなもの)がある、『項羽』の前シテに似合うと思う」とアドバイスしてくれたので、今回は着付け方も工夫し着用してみました。仲間内ではなかなかの評判でしたが、観客の方がどのように思われたのかが、気になります。あれが普通だと観てくださるなら、違和感がなかったということで成功だと思うのですが・・・。

ツレの装束も本来は唐織着流しの上に側次を羽織るだけ、何も持たずに登場しますが、愛妃虞美人が『西王母』の侍女と同じスタイルというのでは、虞氏の位が表現出来ないと思い、舞衣に腰巻姿そして頭には冠をつけ鬢を垂らし、唐団扇を持たせて、より虞妃の存在を前面に出し、妃らしさを強調しようと演出してみました。面も前の舞台が『住吉詣』で小面が続きますので、あえて、虞氏は若く小面でもよいはずですが、艶を重視して宝増女を使うことにしました。

後シテの面は本来「東江(とうごう)」で、伝書に未熟なる者は使用しないようにと注意書きがあります。東江は喜多の専用面と言われていますが、その人相はお世辞にも凛々しいとはいえなく、私は嫌いなので、今回は「怪士(あやかし)」を使うことにしました。
後は舞台正面先に一畳台を置きます。これは虞氏が飛び降りるときの高楼にも、揚子江との境界にも考えられますが、この台は四方に何も立てずに置くため、何処から何処までが一畳台なのかが判らず、演者にとっては非常に危険を伴う型どころとなり、注意が必要なことが演じてみてはじめて判りました。一畳台で舞う『邯鄲』では視界に四本柱があり、目安になって結界も出来、そのため気持ち大胆に動けるように思います。正先に同じように出す『小鍛冶』も注連縄しか張られませんが、台の隅々まで動き回るわけではないのでそれほど苦ではありません。
今回『項羽』ではじめて経験して意外と一畳台での所作が怖いことが判りました。きっと二・三十代ぐらいの若さなら平気で一回転や飛び回りが出来たんでしょうが、型をするたびに内心「えーい!」と掛け声を掛けていたのは、すこし悲しい、情けない思いが込み上げてきました。面を着けて何度も稽古していれば・・・と、演じながら思いましたが後の祭りです。これからはこのようなことがないようにと反省しています。
前シテは烏江の船人となって登場しますが、これは項羽が烏江の岸に辿り着いた時、川を渡り逃げるようにと船を用意してくれた船頭に、同士を沢山殺させてしまった責任は自分にある、それをおめおめとは逃げ帰れない、ここで自決すると言って名馬騅を授け戦地に戻ってしまうことの因果関係からではないだろうかと思っています。項羽は戦いに明け暮れて31歳の生涯を閉じます。天命だからと自らに言い聞かせ自決した死骸には恩賞が掛けられていたので、呂馬童をはじめ、みな争って死骸を奪い取ったと言います。悲劇のヒーロー、項羽の生涯や性格を調べていくと、私には木曽義仲がオーバーラップしてきます。
勝者があっという間に敗者になる。しかしそれにはそれなりの理由があります。武力に優れていても、我が侭で人を信用しない性格は、強さと結集力を持つ反面、事態が急変したときには、その体制はもろく崩れていくようです。四面楚歌になる状況は、味方の裏切り、策略への注意不足などから生み出されたものです。人を信じなくなった権力者や独裁者の最後はいつの時代も変わらず惨めなものです。今現在も身の回りを見れば首肯けることが多いのではないでしょうか?
能の多くは、このような悲劇のヒーロー、ヒロインを主人公にしています。そして舞台化することでその影の部分に光を当て主人公を生き返らせる、という作者の思いを強く感じます。成功者、勝者の能『劉邦』など面白いはずがないと考えたのだと思います。それでも時の権力者から『劉邦』を主人公とする能の創作を強制されたらどうしたでしょうか……?
たぶん世阿弥なら祝言能『劉邦』を拵えて「楽」でも舞わせてお茶を濁していたのではないでしょうか……これは私の勝手な想像です。「何故こうなってしまったのか?自分が悪いわけではない」権力者の最後の言葉に数多見られます。項羽も然りです。権力者・独裁者の盲点・死角とは、本人が闇の死の世界に行かない限り、自らの死因や現世での不備を究明できないということです。世阿弥が日本だけではなく異国人の猛将も書けたのは、芸能者の立場から主人である権力者に向かって、万国共通のテーマ「権力者の落とし穴」を訴えかけたかった、そこにメスを入れたかったからではないか…と、これも私の想像です。
(平成17年11月記)
写真
能『項羽』 シテ 粟谷明生 ツレ 粟谷浩之 撮影 安彦喜久三
装束 側次、 面 怪士 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
『松風「見留」』の恋慕と狂乱投稿日:2005-10-09

『松風』の恋慕と狂乱
第七十八回粟谷能の会(平成17年10月9日)で私は『松風』を選曲しました。『松風』は二十代から幾度となくツレを勤め、シテとしてはちょうど十年前の研究公演(平成7年)で披いて以来で、粟谷能の会での再演の必要性を感じていました。再演ということで、初演のときにはできなかったことをいかに取り組むかが課題となりました。
まず考えたのが面の選択です。喜多流は本来、シテもツレも小面を使用します。小面にもいろいろあり、皆同じお顔をしているわけではないのですが、かわいい清楚な感じの妹の村雨に対して、少し大人っぽい姉の松風を演じるにはそれなりのお顔が必要です。行平への執心を引きずる姉と、過去を悔やんで償って罰を受けている妹では、面にも違いが出てきて当然ではないでしょうか。今回、敢えて流儀の主張とは違う選択をし、姉と妹の違いを出してみたいと思いました。
実は前回の研究公演でもシテは眉の銘のある万媚(まんぴ)系、ツレは小面としましたが、その成果はあまり発揮されなかったので、今回はよりいっそう姉を浮かび上がらせたい気持ちで、宝増女を使用しました。観世流は一般的に、若女を使用するようですが、銕仙会系統では寿夫先生のお好みを継承してか、増女を使用するのが通例のように聞いています。
面が替われば、それに伴い烏帽子も替わっていいのではと思いました。かわいい小面には金風折烏帽子が子どもっぽく相性がいいですが、増女にはどうだろうか疑問です。ぴんと切立っている黒い小立烏帽子は大人を演出してくれるのではないかと思い選択しました。先代実先生は小書「戯之舞」で小面に小立烏帽子を使用されています。
再演でもう一つ考えたのが小書演出です。当初は「戯之舞」という小書で演じようと考え、資料集めも始めましたが、囃子方を勤めてくださる小鼓の大倉源次郎さんや大鼓の亀井広忠さんの「戯之舞より、見留の方が魅力的!」の助言もあって、「見留」にしました。
喜多流には「見留(みとめ)」「身留(みどめ)」と紛らわしい二つの小書があります。「見留」は破之舞の留めに橋掛りに行き、扇をカザシ松を見る型となり、「身留」は大小前にてじっくり身体を正対させ松を見て留めます。一般的なのは「見留」のほうです。
『松風』は長丁場の曲です。今回は1時間50分でしたが、シテは中入りがない、この長丁場の曲を終始、気を抜くことなく緊張を持続させ、しかも観客に飽きさせず舞台に集中させる体力も気力も必要な、まさに大曲です。
そこでこの長丁場を、シテは三つの段落に分けて演じます。
第一の段落はワキ(旅僧)の名乗りから塩屋に入るまでの汐汲みの情景描写、第二はワキとの問答から行平の形見への思いの段まで、第三は形見を纏い恋慕の思いに狂喜して中之舞、破之舞を舞い、終曲します。
三つの段落に分かれているのは、この『松風』という曲の成り立ちからもうかがえます。『松風』は亀阿弥作『汐汲』がもとになっているといわれています。亀阿弥は田楽のころ、能がまだ確立する前の人ですから、月の光に照らされて、汐を汲む女の物真似芸を、それなりの見せ場を入れて創作したのだと思います。『松風』の第一段落の最後、「汐路かなや」で留め拍子を踏むところからも、あの場面までが『汐汲』に当たり、そこで終曲していたことがわかります。
その後、観阿弥が汐汲みする二人の乙女に行平という男をのせて『松風村雨』という戯曲に作り変え、世阿弥がさらに、そこから村雨を取り除いて『松風』とし、松風に焦点を当てたものと考えられます。
ここで、『松風』の第一の段落から見ていきます。
ワキの旅僧が摂津の国須磨に来て、松風、村雨の旧跡、磯辺の松を弔い、日の暮れそうなので宿を求めることにします。
真之一声の荘重な出囃子にて二人の海女が登場しますが、ここからが旅僧の夢の世界となり、真之一声は夢への架け橋となります。その導入部分に真之一声を持ってきたのは作者観阿弥や世阿弥の思い切った手法であり、うまい工夫です。
真之一声とは一般に脇能の前シテ・ツレが登場するときの囃子ごとをいいます。脇能の神霊の登場にふさわしく、荘重で品よく、しかも力強さが特徴です。脇能以外で真之一声でシテ・ツレが登場するのは喜多流ではこの一曲、『松風』だけです。脇能の荘重さとも少し違う、重苦しい雰囲気は二人の海女の賎の業、汐汲みというきつい重労働と、苦悩の深さをよく表現しています。
脇能以外にはほとんど使われないこの真之一声を観阿弥や世阿弥がなぜここにもってきたのか、その意図を探るなかで、作者がこの曲をどう改作し造形しようとしたかが感じ取れ、後の伏線になっていることが意識されてきます。
二人の海女(シテ・ツレ)が登場すると、橋掛りで向かい合い連吟となります。離れた二人の演者が声を揃えて謡うことはもとより難儀ですが、真之一声のため、ゆっくり重々しくと、いきなり難しいところから始まります。ここは騒がしくなってはいけませんが、去勢されたような軟弱な声では駄目で、「汐汲車、わづかなる、浮世に廻る儚さよ」が観客に適切に伝わらなくてはいけないと思います。
『松風』では、この出だしだけでなく、シテ・ツレの連吟や掛け合いが多く、お互いの波長を合わせなければ、舞台は台無しになってしまいます。私はツレを多く経験してきて、『松風』のツレは特に、シテと拮抗するぐらいの力がないといけないと感じてきました。そこで、ツレの大島輝久さんには、これまで私が習い覚えたツレの心得をできる限り伝えたいと思いました。特にこの真之一声の「汐汲み車・・・」は、しっかりと芯の強い謡で、お互いの謡がビリビリと響きあうように謡おうと話しました。それがどのように聞こえたかは当日ご来場の方にお聞きしたいと思っています。囃子方の小鼓、大鼓、そして笛の一噌幸弘さんも、謡を盛り上げてくださり、よいアンサンブルができたと感謝しています。
第一の段落は、その後、須磨の景色を謡いながら次第にロンギへと進んで行きます。ロンギの最後に「月は一つ、影は二つ」とありますが、水桶を二つ汐汲車に置く時もある観世流と、一つ置くだけの喜多流では読み取り方が異なります。喜多流では空にある月が一つ、その影は車に乗せられた水桶に写るものと、もう一つは海面に写るものと解釈しています。ここを男は一人、女は二人と読み取る方もおられるようで、水桶が二つで出ていればそのように解釈できるでしょうが、喜多流の場合は素直に月の風景描写に留めているのではないかと思います。
三つに分けた第一の段落は、男と女の恋物語に入る前の静かな情景描写です。私はこの場面では、月=空高くある白く小さな寒々とした月、夜の海・潮騒=寂しく、恐ろしさを感じるほどの浪の音、海女乙女=最下層の女性、汐汲み=最下層の海女の賎の業、地獄に堕ちた二人に課せられた重労働 といったことを意識して、それらが表現できればと勤めました。しかし、それはあくまでも重苦しく、執心の罪を背負った二人の海女乙女の次からの物語をどこかで暗示させるものでなければならないと思います。
中盤は、ロンギの後、塩屋での旅僧との問答から始まります。囃子方が床机からおり、シーンと静まり返った音のない舞台で、しっとりとしたワキとの問答。第一の段落とは明らかに趣が変わり、場面の転換がなされています。
『松風』は在原行平という男が姉と妹という二人に愛を与えたために起こる話です。身分を越えた最下層の女たちが、中納言の職にある色男の伽の指名を受けた喜びと衝撃はその後の姉妹の心に重くのしかかります。身分の違いもさることながら、男一人に二人の女性、それも姉妹という複雑な関係がこの戯曲の面白さでもあると思います。待つことを諦め、執心の罪を悟っているかのような冷静さを持つ妹の村雨、周りの環境に感化されやすい情熱的な姉。恋慕のあまり追憶に浸り、まだ待とうとする姉の松風。この二人の性格の違いがこの戯曲を最後までひっぱっていきます。
塩屋に一夜の宿を乞う旅の僧に、姉から言われたとはいえ、きっぱりと断る妹の村雨。その後、旅人が出家の身であると知ると、心が変わり宿を許す姉の松風。そこには、旅の僧なら自分たちを弔ってくれるかもしれない、常に救いを求めている松風の気持ちが隠されています。
案の定、ワキの僧は「わくらはに問う人あらば・・・」と行平の歌を持ち出し、松風・村雨の旧跡を弔ってきたことを告げ、二人の涙を誘います。
そして二人は名を名乗ることになり、自分たちの境涯を嘆くクドキへと導かれていきます。
クドキの最後には、「三年が過ぎ、行平様は都に帰られた、そしてそれから少し経ってお亡くなりなったらしい。ああ恋しい」と松風は待つ女の悲しさを切々と訴えます。シテが最も力を尽さなくてはいけないところです。
史実を知ると夢がさめつまらなくなりますが、行平は実際75歳ぐらいまで生きています。能では都に帰った後まもなく亡くなったことになっていて、そうでなければ、「あーら恋しや、さるにても」の謡に続きません。死者になった行平だからこそ、同じ死者である自分がもしかしたらまた会えるかもしれないと、松風は思い、ひたすら待っているのです。執心の罪を負いながら、まだ「待つわ」「会いたいわ」と一途な松風だからこそ「あーら恋しや」と謡い、その昂ぶりが狂気とも追憶とも取れる舞へとつながるのではないでしょうか。
そして行平の形見を抱いて、恋慕の情をつのらせる松風。ここはよい型どころで、先人たちはもっとも女らしいしぐさで型を見せてきました。自分もと思うのですが、なかなか上手くいかない至難の型所です。
今回、『松風』を演じて、一番難しかったのは、この塩屋のワキとの問答から形見の長絹を抱くまでの中盤です。松風の恋慕の情の訴えかけ、物着以降の狂乱へとつなげるための大切な場面です。ここが演じ切れたか、いささか不安でもあるところです。
終段は物着の後、磯辺の松を行平と思い、近寄ろうとする松風に、村雨が「あさましや」と鋭く制止する場面から話はエスカレートしていきます。ここにも理性的な村雨と恋慕の情がまさり、物狂いとなる松風との違いがくっきりと現れます。『松風』という曲はともすると松風ばかりを考えてしまいますが、この妹役のツレは大変重く影響力がある位の高い役です。私は理性が働く村雨役を経験してこそ、姉の一途な想いが理性をも撥ね退けるほどのエネルギーに変えられるのだと思っています。しかし、言い争う姉妹も最後には同じ思いに沈んでいくようにも見え、人間の感情の面白さ、深さを感じます。
そして、「立ち別かれ」の地謡でイロエ掛の中之舞となります。形見の長絹、烏帽子を身に纏った松風は恋慕の舞を舞います。続く破之舞は『野宮』と同じ二の舞として舞われます。短いながらも主張のある舞です。ここに松風自身の思いが凝縮されていて最も大切な舞とされています。最初に検討していた小書「戯之舞」は、この中之舞と破之舞を合体させるような演出ですので、私の破之舞を際立たせたい思いとは少し違ってくるようで、今回の断念の一因でもありました。破之舞の最後、シテは袖を被いて作り物の松の周りを廻り行平との契りを表し、橋掛りにて扇をかざし、行平にも見える松を思い留めます。
舞ううちに夜が明け始め二人は何処ともなく消えて行きますが、小書「見留」では脇留(わきどめ・ワキが常座で留めて終わる)になるため、シテ・ツレは「夢も跡なく夜も明けて」までに幕に入ります。父は「故金剛右京氏のそれは風が吹くようにすーっと走り込んですばらしかった」と口癖のようにいいますが、正直国立能楽堂のあの長い橋掛りを綺麗に、短い謡の詞章の中で幕に入り込むのは至難の技です。曲が終わるまでにシテ・ツレが舞台から掻き消える演出は、いま目の前にあったものは夢・幻だったと思わせてよいのですが、やりようが問題になります。勢いよく、すたこら逃げるように見えては一曲が台なしになってしまうからです。ここは地謡も囃子も含めて再考の余地があるように思えました。
今回は小書「見留」で演じましたが、当初は「戯之舞」を考えておりました。「戯之舞」は観世流から戴いた小書ですが、その経緯が明瞭でなく、実先生の初演以来途絶えてしまっているので資料集めも難しい状況でした。私が調べた「喜多流の戯之舞」の経緯について、驚くべき発見がありましたので、ここに書きとめておきたいと思います。
先代の15世宗家喜多実先生は昭和44年4月6日の12代喜多六平太能静百年祭能を水道橋能楽堂(今の宝生能楽堂)で初演され、その際、当時の雑誌「喜多」の座談会に「戯之舞」について述べられています。ここに引用させていただきます。
実先生:「戯之舞」は元来おやじさん(14世喜多六平太)が先々代の観世清廉さんに「求塚」と交換してもらう約束していたものだ、ずいぶんこっちはわりの悪い取引だけれども、それがやはり反対があったらしいね。それで取りやめになって、去年元正さんのところに行って僕が頼んで承知してもらった。もっともそのとき「鸚鵡小町」の型付けを戴いておりますと元正さんの話だったよ、そのことは僕知らなかったよ。あっちには「鸚鵡小町」ないのだね、観世は。梅若だけにあるとかいうので、観世にはないので「鸚鵡小町」の型付をあげたらしい。左近さんのときらしいね。その話おやじさんにしたら、忘れちゃったというのだ。で、まあ「戯之舞」は随分長い間懸案になったまま中止になっていたのだ。だから今度もらって。
このように記載されています。私は今まで「戯之舞」と『求塚』の交換が成立していたと思っていましたが、事実はこのように不成立で、その代わり『鸚鵡小町』を譲っていたのは驚きでした。「戯之舞」を戴いて、『鸚鵡小町』を差し上げる不均等さは私には理解に苦しみますが、割の悪いトレードを敢えて行われたことの裏に、なにかが隠れているようにも思えて仕方がありません。しかしもう藪の中で、追求することは控えたいと思っています。粟谷能の会での『松風』を「戯之舞」にと思ったことが、思わぬ面白い発見へとつながりました。
『松風』は最初に述べたように、十年前の研究公演に続く再演でした。一度勤めると、初演のときの新鮮さ、意気込み、情熱といったものが薄れ、何となくできると錯覚してしまいがちです。安堵し危機感をなくしてしまうのは役者にとって怖るべき悪魔の誘惑だと感じました。
世阿弥は慣れを嫌っていました。いつも新鮮な気持ちで舞台に取り組まなくてはと説いています。慣れで同じ舞台を繰り返しているだけではつまらないものになるでしょう。先人、先輩方で何度再演しても、いや再演するごとに新鮮でよい舞台を創り上げている方もおられ、感心させられます。
同じ曲を何度勤めることになっても、常に新しい気持ちで、チャレンジ精神を持ってやっていきたいと改めて思いました。小書への挑戦、面への選択もしかり、粟谷能夫と「我々はさきがけ隊でありたいね」と話しています。新しく切り拓くことには障害もあり、批判もあるでしょうが、さきがけ隊として、できる環境の中で、最善の努力と最善のチャレンジをこれからもしていきたいと考えています。
今年の粟谷能の会は新太郎追善能と銘打って行いました。能夫の『実盛』も私の『松風』も思い出してみると、新太郎が大好きで何度も勤めた能でした。いまそれらを勤められる環境にあることを感謝しています。
(平成17年10月 記)
湖西線の旅投稿日:2005-09-15

今年度(17年)の阪大喜多会の夏合宿は9月2日より3泊4日で、滋賀県安曇川(あどがわ)の丸三旅館で行われました。
折角、湖西近郊へ行く機会を得たのでいつもの謡蹟めぐりをと思いたち、湖西線近郊の謡蹟を尋ねてから、阪大の合宿に参加することにしました。
京都駅から湖西線に乗り換えて唐崎駅で下車し、『三井寺』で謡われる唐崎神社の「唐崎の一つ松」を訪ねることから始めました。
湖西線は昭和50年に開通したまだ新しい路線だと、後日、丸三旅館のご主人からお聞きしましたが、交通の利便性とは裏腹に、昔から営業していた沿線のもろもろのお店が次第に店をたたまざるをえない状況になったということでした。安曇川も以前は旅館がいくつかありましたが、今は一、二軒になったらしいです。
話を戻します。
唐崎駅前からタクシーを利用するつもりが、驚いたことに乗り場に一台も待機していません。地元の人に聞くと「呼ぶと西大津から来るから時間はかかるねえ」と言われ、仕方なく徒歩でいく覚悟を決めたちょうどそのとき、一台駅前に入ってきたので、もうすぐに両手を挙げて呼び止め、飛び乗りました。乗車して判りましたが、徒歩では少々時間がかかりすぎる距離でした。唐崎の一つ松のあとに坂本の日吉大社まで運んでもらうように交渉して、タクシーを待機させて松をゆっくり見物することにしました。
唐崎神社の一つ松はとても立派です。『三井寺』の謡に、「志賀唐崎の一つ松、緑子の類ならば松風にこと問わん」とあるように、狂女となった緑子の母は、遠くから見るこの一つ松が、わが子緑子と重なって映って見えたのでしょう。
琵琶湖に面したこの南部の場所は、近江八景の一つで「唐崎の夜雨」として有名です。因みに八景とは「比良の暮雪」「矢橋の帰帆」「石山の秋月」「瀬田の夕照」「三井の晩鐘」「堅田の落雁」「粟津の晴嵐」の八つをいい、中国の瀟湘八景に擬したものです。
最近はこの時期になると、藻の発生で湖水が濁り悪臭を放つようになってしまいました。のどかに写真撮影と思っていましたが、時折鼻をふさぎたくなるような臭いは、私を早々と坂本へ移動させてしまいました。
日吉大社の敷地は広大で大規模ですが、もとは唐松神社の方が古く、その後、分社として日吉大社が出来たといわれています。
日吉大社は全国3000余社の山王さんの総本宮で、入り口を入るとすぐに大宮川に掛かる石の橋があり、これは日本最古の石橋です。それより上り坂を上がると鳥居が見えてきます。中に入ると東本宮、西本宮、宇佐宮、牛尾宮、白山宮、樹下宮、三宮宮の七社の神が祭られている社殿があります。鳥居の近くに神輿庫があり七社の御神輿があります。平安時代、叡山の僧兵達がこの神輿を担ぎ、京の都に入り朝廷や平家に異議申し立てをしたのは有名な話ですが、よく京の都まで運んだものだと感心させられます。
この付近は『大江山』のシテ・酒呑童子が昔住んでいたところです。比叡山を開いたのは最澄ですが、能では土着民族を仏力で追いやる体制側に対して反対側からの視点で、追われる者の嘆きや敗北を演じます。
日吉大社の横には比叡山山頂へと続く山道があります。昔は信仰のため時間をかけて歩いて登っていたようですが、今はケーブルで山頂まで10分程で気軽に行けます。山頂に着くとさすがに涼しく、夜は温度もだいぶ下がるとのこと、さぞ冬の叡山は厳しいものがあると思われます。
比叡山に「延暦寺」という単一のお堂はありません。広大な比叡山そのものが延暦寺と呼ばれている聖域です。
『安宅』で「もとより弁慶は三塔の遊僧」とありますが、三塔とは東塔、西塔、横川のことで、弁慶は西塔に住んだと言われています。比叡山は現在三塔、十六谷七十三院百九坊の旧観を回復しました。
私は今まで根本中堂しか見たことがなかったので、今回は是非、武蔵坊弁慶に関わる西塔、『浮舟』にまつわる横川中堂と三塔すべてをまわるのが目標となりました。
坂本までお世話になったタクシーに山頂まで来てもらい西塔、横川とまわり、奥比叡ドライブウエイを堅田で降りて浮御堂を見学し、『竹生島』で「真野の入り江の船呼ばい」と謡われる真野海岸、そして脇能の稀曲『白鬚』の白鬚神社に参拝し、丸三旅館に夕方着きました。
では写真でご紹介します。

富山鉄道、東三日市の駅、左奥には黒部市民会館が見えます。

常世の遺跡は黒部市民会館の側にありました。

コラーレ会館に隣接した能舞台。大変失礼ながら、随分と使い勝手の悪い能舞台を創ってしまったと思いました。見所も少数しか設置出来ません。

梅田と桜井と松枝は遠く離れています。常世はどのように統治したのでしょうか、疑問が出てきました。

能楽堂よりコラーレを眺望。

意外と綺麗に磨かれている橋掛りや本舞台。

唐崎の一つ松
現存の松は三代目です。

唐崎の説明

日本最古の石の橋

日吉大社の鳥居

西本宮

東本宮

輿の説明

神輿近影

比叡山への道

叡山ケーブル

車内

文殊楼より根本中堂

常行堂と法華堂を渡り廊下で繋いでいましが、力持ちの弁慶がこの渡り廊下を天秤棒にしてこのお堂を担いだことから「弁慶のにない堂」と言われています

西塔の釈迦堂

修業中の御堂

横川中堂

横川中堂の説明

恵心院

恵心院の説明

浮御堂の入り口

浮御堂

真野入江

白鬚神社

湖上にある鳥居

白鬚神社全景
桜井の庄投稿日:2005-08-15

能『鉢木』は佐野源左衛門常世が所領を一族に横領され、上野国佐野に零落して生活しているところに、雪の降る一夜を、諸国廻国の僧(実は北条時頼)に宿を貸し、寒さを凌ぐために秘蔵の盆栽桜、松、梅を伐って火にくべて暖をふるまいます。また常世は僧が時頼とも知らず、「いざというときは馳せ参じる」と鎌倉幕府への忠誠心を語ります。後日、その事実を確かめるために時頼は鎌倉への参集のふれを出し、語った通り痩せ馬に乗って駆けつけた忠誠心あふれる常世に本領の返還と盆栽の木にちなんで梅田、桜井、松井田の三箇の庄を与えたという話です。
ワキの語りに「いで其の時の鉢木は、梅桜松にてありしよな、其の返報に加賀に梅田、越中に桜井、上野に松枝、合わせて三箇の庄、子々孫々に至るまで、相違あらざる自筆の状」とあります。越中の桜井は現在の黒部市三日市です。富山地方鉄道、東三日駅を下車すると、目の前に黒部市民会館があり、その横に「佐野源左衛門常世之遺跡」と書かれた大きな石碑がありました。
今回は黒部市国際文化センター・コラーレの開館10周年記念として「黒部 夏の能・狂言の会」が喜多流と和泉流にて公演されました。コラーレ会館に隣接して能舞台があったのには驚きました。
では写真でご紹介いたします。

富山鉄道、東三日市の駅、左奥には黒部市民会館が見えます。

常世の遺跡は黒部市民会館の側にありました。

梅田と桜井と松枝は遠く離れています。常世はどのように統治したのでしょうか、疑問が出てきました。

コラーレ会館に隣接した能舞台。大変失礼ながら、随分と使い勝手の悪い能舞台を創ってしまったと思いました。見所も少数しか設置出来ません。

意外と綺麗に磨かれている橋掛りや本舞台。

能楽堂よりコラーレを眺望。
曽我兄弟2投稿日:2005-08-15

お正月の箱根駅伝で有名な国道1号線の最高地点(海抜874メートル)の近くにある曾我兄弟と多田満仲の墓を探訪してきました。
元箱根から湯本へ下る1号線の右側に曾我兄弟の墓と虎御前の墓があります。
富士の裾野で父の敵、工藤祐経を夜討ちにして仇討ちを成し遂げた二人(能『夜討曽我』)ですが、兄の十郎祐成は新田四郎に討たれ、五郎時致は生け捕られ鎌倉幕府に送られ遂に斬首されてしまいます。兄弟の墓はここ富士の裾野の箱根に寄り添うように置かれていますが、兄の墓の隣には、生前愛した虎御前の墓もありました。この三つの墓を拝んでいると、ひとり大人になりきれなかった五郎の姿が目に浮かんで来て、哀れを誘います。
兄弟の墓から離れ、道路の下のトンネルをくぐると反対側には石仏石塔群がありました。
そしてそれよりすこし下ると、立派な多田満仲のお墓があります。
多田満仲は源氏の祖といわれ、能『満仲』(観世流は『仲光』)に登場します。
能『満仲』は家来の藤原仲光が主君満仲より美女丸を刺殺するように命を受け、苦渋の末わが子を代わりに手にかけてしまうという、現代では考えられない忠誠心の話です。家来という立場での悲しい状況を題材にした現在物で、父菊生の十八番でもありました。私もいつか演じたいと思っています。
では写真でご紹介していきます。

左に見えるのが国道1号線、右手前に曽我兄弟の墓が見えます

左に弟五郎、中央に兄十郎、その右隣に虎御前の墓。

供養塔の右に小さくある墓標。

曽我兄弟の墓の反対側に出るには最近完成したこのトンネルをくぐります。

トンネル内は意外と綺麗でした。

トンネルを出ると大きな岩に掘られている石仏が沢山見られます。

多田満仲の墓。

印塔の説明。

17年のゆかた会の翌日、観光日の写真探訪でした。あいにくその日は雨に降られてしまいました。
観世座の『小原御幸』投稿日:2005-07-21

観世座の『小原御幸』
法皇の重要性
粟谷明生

観世座で喜多流の『小原御幸』(シテ・友枝昭世氏)(平成17年7月21日)が公演された。観世座は観世清和氏が監修し、旧橋の会のスタッフが運営に携わっている。その観世座に喜多流が出演することに違和感を持つ方もおられるだろうが、優れた能楽師ならば広い視野で多様な演能があってよいのではないだろうか。もっともはめを外しては論外だが、能そのもののあり方や美を探求しようとする前向きな姿勢に私は賛同したい。
今回の配役はシテ・友枝昭世、法皇・梅若六郎、脇・宝生閑、内侍・狩野了一、大納言・友枝雄人に地頭は粟谷菊生。お囃子方は笛・一噌仙幸、小鼓・北村治、大鼓・亀井忠雄(以上敬称略)という豪華な顔ぶれであった。出演者は異流共演とNHKの公開録画という二重のプレッシャーがあったが、さすが名うての方々でそれぞれが持ち前の芸を惜しみなく披露し、私も地謡に連なり貴重な充実感を味わうことができたことを喜んでいる。
よい舞台・引き締まった舞台とは、優れた作品と優れた役者が必須だ。能も同様、シテ一人がいくら優れていても、その周りが劣っていてはその作品はもとより、時にはシテの技量さえも落としてしまう危険がある。三役をはじめツレ・地謡までが選ばれた一流の演者でなければ良いものは成立しない。当たり前のことだが、役者が揃うということは大変なことなのである。今回は役者が揃った感で申し分ないと思っている。特に法皇に梅若六郎氏を迎えたことで、ツレや地謡にまでよい波及効果があり、適度な緊張感が生まれた。地頭の父菊生も、いつもより気負って謡っているのが前に座りながら感じられた。流儀という枠をはずし、演者同士が力を出し技を競い合う、いわゆる「立会い能」といわれるものが効を奏し、結果、能がいかにすばらしい芸能であるかを証明する一番になったと、能に携わる者として誇りを感じている。
梅若六郎氏の謡は単に美声というだけではない。存在そのもののエネルギーはもとより、芝居・劇の領域の要素を含んだ謡に説得力あり、同業者として羨ましい限りだ。判りやすく言えば、5%の声量で100%を越える力のある謡になるということ、そこが私には魅力でならない。この謡にふれると喜多流の者はもっと謡に注意をはらわなくてはと反省させられてしまう。
後白河法皇が似合う能楽師は少ない。以前中尊寺白山神社で「銕之亟の会」があり、故観世銕之亟氏が父菊生を法皇にと依頼されたが、その理由が「あんな悪いやつはいない、あの悪役をこなせるのは菊ちゃんしかいない」であった。選ばれた父は、いいものやらどうやら……と、苦笑いをしていたが、正直私はあの時の父はそれほど似合っていると思えなかった。その後、広島で能楽座があり、父がシテ、観世榮夫氏が法皇をやられたが、これは衝撃的だった。
以前、演能レポートにも書いたが、これはもう拝見していて、法皇その人が憎々しく思えてくる。強い謡で強烈な自己表現がなされ、とてもお似合だった。これを超える人はいないだろうと絶賛したが、今回の梅若六郎氏はそれに拮抗していた。ごつごつした感じとは別な、ぬるぬるとした様な、貫禄とスケールの大きさを感じさせる後白河だった。これはもう、好きか嫌いかという個人の趣向ということになるので、これ以上は書かないでおくが、いずれも9月17日の14:50からNHKでテレビ放映されるので、是非このあたりも注意してご覧いただければと思う。
能『小原御幸』(観世流は『大原御幸』)は平家物語の灌頂(かんじょう)の巻を基に詞章もそのまま取り入れられている謡の名曲である。灌頂とは本来は頭に水を灌ぐ密教の儀式であるが、中世芸能伝授の際、奥義秘伝を授けることを灌頂といって、平家琵琶の伝授から生じたものである。平家物語では最終段の女院(にょおいん・建礼門院)の鎮魂を書きこんだ最後の巻の題となっている。
『小原御幸』は謡の曲で、シテの動きはまったくないと言っていいくらい少ない。最後に重い習の語りがあり壇ノ浦の合戦の有様を謡う。地謡は前場、後場と通して、それぞれの段を謡い分けなければならず、特にロンギの段、曲の段、最後の「今ぞ知る」に続く段は難しく、それぞれ心にしみる謡いどころだ。通常、語りの後のシテの「今ぞ知る」に続く地謡の「御裳濯川の流れには、波の底にも都ありとはと」の段が頂点となるが、今回は語りの前にある「まず一門西海の波に浮き沈み」から始まる地謡の曲(クセ)の部分にピークをもっていった感がある。平家一門の都落ちから西国での戦い、地獄道の体験談を騒がしくならず、品よくシテの心に突き刺すように謡うのが地謡の使命、役割だと私は思っている。ここをうまく劇的に謡い観客に女院の人物像を強くイメージさせることが出来ると、続くシテの語りが浮き立つのだ。
当日観世座より配布されたパンフレットに「エロスと救済」と題して水原紫苑氏が、平家物語では建礼門院が自ら六道の有様を語るのに対して、能の方は法皇が問う形になっていると解説している。
平家物語を読むと、女院は文治元年5月1日京都長楽寺にて剃髪して、お布施がないため先帝の御直衣を納めている。この御直衣は今でも見ることができて、幼い安徳帝のお姿を容易に想像させてくれる。そして女院は9月に寂光院に入るが、能『正尊』のシテ・土佐坊昌俊が義経に文治元年九月と空起請文を書き留めた、まさにその時である。それから一年後の夏、女院が静かに余生を過ごしているところへ、後白河法皇は御幸し、女院自らが六道の沙汰を語ることになる。
能『小原御幸』は法皇が一方的に女院から六道の輪廻の述懐を聞く形としている。歓迎したくない者の訪問を受け入れなければならない弱者の立場の悲劇がこの能のテーマになっているのではないだろうか。法皇は「どうだったのだ? 詳しく聞かせてくれないか?」といやらしく、すでに仏道に帰依している女院の心にずかずかと入り込む。己の立場を利用し興味本位に惨劇の思い出を引きずり出そうと問いかけるところに法皇の非情さの魅力があり、逆に女院の哀れさも法皇があることにより、より鮮明に浮かび上がる仕組みになっている。だからこそ、この法皇の役が『小原御幸』という作品の出来をも左右する最も重要な役と考えられるのだ。
能はしばしば史実通りではなく、作者の工夫がなされていることがある。例えば『八島』でも戦況の進み具合が違っていたり、このシテ(女院)の語りも同様で、必ずしも史実通りではない。
語りの「そのときの有様申すにつけて恨めしや・・・・。」は、壇ノ浦の合戦で戦況が不利になったので、ひとまず筑紫に帰ろうとみんなで相談し、薩摩の方がよいという緒方の案になったのだが、緒方は寝返り、潮も急に変わり薩摩へ落ちることが出来なく・・・・と読み取れる。しかし実際、緒方三郎はもっと以前、清経が入水する前に平家を見限っていて、この詞章は史実通りではない。謡曲の詞章を鵜呑みにすると史実を誤解するという危険があるが、しかし謡曲というものは、あえて歴史通りに創作しない作者の工夫があり、それが作品を純化させている、そこに芸能の面白さがあるようだ。鎌倉幕府ご用達の吾妻鑑が平安から鎌倉へと移行する歴史資料としては現在筆頭とされているが、それでさえすべてが真実かというと疑問もある、これはもう藪の中だ。
能楽の演者は謡本に書かれている詞章を第一として、そこからいろいろなものを読み取り創造して舞台を勤める、その作業があるからこそ能楽師という仕事は面白いので、この作業なしで、無神経に謡い型付け通りに動いていれば、きっとつまらなくなって、飽きっぽい私はもうとうに職業を代えていたかもしれない。様々な参考資料、関連するものをヒントに、作品の読み込み作業を私は重視したい。となれば後白河はやはり能の世界では悪役であってほしい。御幸して女院の話を聞いて、慰安のやさしい言葉を発して帰っては劇としての面白みはなく、凄みも出ず陳腐な作品になってしまうのだ。
『小原御幸』は登場人物が多く、法皇をはじめ、ツレの阿波の内待は藤原信西の娘、大納言の局は重衡の妻であり、シテを含めこの四人は花帽子を着用する。この花帽子は頭を布で覆う出家を表現するもので、この暑い7月にこの役を勤めることは皆避けたく、苦痛そのもの、まさに炎熱地獄なのだ。今回の放映をご覧になられる時にどうかこのことを頭の隅っこに置いておいて頂きたい。特に二人のツレは長い時間座っていて、耐えに耐え作品を作り上げている、それが地謡座から痛いほど感じとれたのだ。皆の必死な勤めが良い舞台を創ったと重ねてここで言いたいのである。
能『小原御幸』は後白河法皇はもとより、これら法皇とゆかりのある人びとが揃い、それぞれの生き様がからみあうドラマ。史実とは一味違う形で作者が創り上げた傑作だ。
蛇足だが、今回、地謡で不思議な体験をした。タイムスリップして平家絵巻物語の中に入り込んで浮遊しているような妙な感覚、一瞬なのだが味わった。正直、これを書きたくて筆をとったようなものだが、暑さで頭をやられたかと言われたくないので、ここで筆を、いやキーを叩くのを止めることにする。(平成17年7月 記)
多賀城周辺と塩釜、松島の旅投稿日:2005-07-15

平成17年5月5日、前日の仙台みちのく明生会の稽古の翌日は仙台近郊の謡蹟めぐりに行ってきました。
仙石線、あおば通り駅より多賀城駅下車、『烏頭』に謡われる、「末の松山」「沖の石」を探訪し、午後に予定されていた松島の島巡りまで時間の余裕があったので、「多賀城政庁址」まで足を伸ばしてみました。
多賀城駅に一度戻り、再度仙石線に乗車、松島海岸駅にて下車し、「雄島」を散策し塩釜港行きの遊覧連絡船を利用して、点在する島々を眺めながら「塩釜神社」を目指しました。
塩釜神社は丁度、特別天然記念樹「塩釜桜」が満開で絶好の時期で、最後に御釜神社に参拝して、管理人の御婆様に実際に御釜を見せて頂き、説明していただきました。午後2時に一応予定されたものはすべて廻れたので、いよいよメインイベント待望の塩釜といえば寿司のとおり、寿司屋を一軒決めて打ち上げの一杯となりました。
今回の同行者はみちのく明生会の小島 誠氏と泉田成美氏(この方は男性)と男ばかり3人という色気のない旅でしたが、男性のお弟子さんと和気あいあいと旅するのも、またそれなりにいいもので、楽しく勉強になる謡蹟めぐりとなりました。お二人のご協力には感謝しております。
では写真でご紹介いたします。

末の松山
多賀城駅から徒歩8分ぐらいに寶国寺があり、その裏山に「末の松山」はあります。二本の大木の松があるこのあたりまで、昔は海だったようで、『烏頭』「末の松山風荒れて袖に浪越す沖の石」や『砧』「末の松山千代までとかけし頼みは徒波の」と謡われています。

沖の石
末の松山から下ると沖の石があります。海の中にあった奇岩も現在は住宅街の中にぽつんとあり、情緒はまったく感じられません。

多賀城址
『田村』の坂上田村麿が東夷を平定するための根拠地が多賀城です。
左に見える覆堂は壺碑(つぼのいしぶみ)で城の位置を記載した古碑です。

政庁址
日本三大史跡は太宰府と平城宮と多賀城政庁です、今年(平成17年)は9月に太宰府で薪能があり一年で三ケ所を見られることになります

雄島
瑞巌寺の修行僧が座禅をした島として有名です

卒都婆
雄島に渡る手前の岸壁には卒都婆の形に掘られた洞窟がある。

籬が島
塩釜港の手前には「籬が島」があります。小さなお社がありますが、写真では見辛いですが、融の大臣はこの塩釜の風景を真似して、京の都で汐を焼いて遊んだのですから、なんともスケールの大きさを感じます。

男坂入り口
塩釜神社には男坂、女坂があり、男坂は急坂で上るのが大変です。私たちは女坂を車で上ってしまい、楽が出来ましたが帰りはこの急坂をおりることにしました。

塩釜神社
ここの枝垂れ桜が終わる頃、塩釜桜の見頃となります。

男坂
下に見える鳥居をご覧いただくときつい勾配が御判りになると思います。

狛犬
「東北地方は狛犬のお顔が違うでしょ」の泉田さんの説明に、「なるほど!」と思い、パチリ!!

塩釜桜
丁度満開な八重桜の塩釜ザクラ

融が岡
源融がここに来たと言う「融が岡」。京の都からココまで道中大変だったと思いますが、どうも実際は来ていないようです。

御釜神社
鳥居の左には融の大臣が都で塩を焼いた竃の原形とされる大鉄釜が保存されている。

御釜
中は撮影禁止。4つの御釜があり底の浅いのが1つ、あとは深いらしいです。実際に海水が入っていますが、木の葉が落ちていて赤茶色に濁って見えたのは残念でしたが、本当は透き通るように見えますと、管理人の説明でした。

現在使用する釜
一年に一度、御神事としてここで藻塩を焼き塩釜神社に献上する

しらはた寿司の裏
打ち上げ場所のしらはた寿司は魚市場の裏になり、新鮮な魚が安く豊富にありました。
奈良・飛鳥の旅投稿日:2005-07-15

平成17年4月29日から5月1日まで、奈良大和路の飛鳥を中心に謡蹟めぐりの旅に出かけました。
能の作品は奈良地方を題材にしているものが多く、謡蹟の宝庫です。
飛鳥(明日香)まで足を伸ばすとさすがに時代が古く、なかなか謡蹟はありませんが、今回は謡と無縁な所も写真にてご紹介します。
まずコースからご案内します。
■初日のコース■
★奈良駅より法隆寺・中宮寺~龍田神社
JR法隆寺駅を下車、駅前より小型バスにて法隆寺門まで7,8分。法隆寺境内は広いので空身で参拝したく、門前で一時荷物預りを捜しましたが、残念ながらありませんでした。昼食をとったお店にお願いして荷物を置かしていただき助かりました。境内は撮影禁止が多くここでご紹介できませんが、南大門、五重塔、金堂を廻りました。やはりこの日の目的の第一は大宝蔵院です。玉虫厨子などが有名ですが、なんといっても「百済観音」です。あの長身でしなやかな身体のラインは魅力的でおもわず触りたくなります。
西院伽藍から東院伽藍に移動しますと、夢殿があります。能『夢殿』は故喜多実先生のお作りになられた新作能であり、以前、現喜多六平太宗家が実物の夢殿を背景に舞われたことがあります。今回はちょうど、秘仏「救世観音像」が見られる幸運な時期でした。夢殿の奥に中宮寺があり、本尊「如意輪観世音菩薩半跏思惟像」は神秘的なほほ笑みをたたえていて、これも私のお気に入りの仏像です。
法隆寺の近くに『龍田』ゆかりの龍田神社があります。聖徳太子が宮を造る地をさがしているときに斑鳩の地を御告げになったのがこの明神と言われています。またここは坂戸座申楽の発祥の地でもあります。
■二日目のコース■
★在原神社~結崎の面塚~補厳寺~石舞台~昼食~酒舟石~飛鳥寺~橘寺~長谷寺(湯本、井谷屋宿泊)
二日目は貸切りタクシーにて、マニアックな謡蹟めぐりから始まりました。
まず『井筒』ゆかりの在原神社です。「西名阪国道バイパス開通のため、その場所を少し移動させられた」と神社の広場にてゲートボールを楽しむ地元の爺様婆様達が教えてくれました。
次に結崎座(観世流)発祥の地と面塚に向かいました。場所は川西町の寺川の横に結崎公園として綺麗に整地され、観世流の意気込みが感じられます。次に田原本町味間の世阿弥夫妻が出家した補厳寺(ほがんじ)を訪れ、石碑を見るだけとなりましたが、貴重な資料が門のところに置いてありましたので頂いてきました。
(読みたい方は添付ファイルからご覧下さい)
補巌寺をあとに、飛鳥の石舞台に向かいました。昼食を済ませ酒舟石を見学、飛鳥寺に着くと、丁度飛鳥時代の蹴鞠の再現をしていました。服装やルールなど面白く見られましたが、蹴鞠の技術はまだまだ未熟で、保存会の方々も「練習不足やー」と照れておられました。時間に余裕があったので橘寺にもまわり、いよいよ初瀬の長谷寺に向かうときに飛鳥川を見るのを失念していたことに気づき、運転手さんにお願いしましたが、時間がギリギリですからとの返答で諦めました。
長谷寺は今回で3回目ですが、お気に入りのお寺の一つです。丁度牡丹まつりで満開の牡丹を堪能できました。そのため大混雑で急に疲れてしまいましたが・・・。下山途中の東道に『玉葛』の「二本の杉」があり、私以外の参加者全員で『玉葛』の一節を、人が来ないかびくびくしながらも無事謡い終えました。直ぐ隣には定家と俊成の墓もあり合掌して参りました。
■三日目のコース■
★長谷寺~奈良国立博物館(館内にて昼食)~白毫寺~新薬師寺~海竜王寺~不退寺~東大寺戒壇院~奈良
朝早く目が覚めてしまい、尾上の鐘や真言宗の読経が聞きたくなって、ひとり急いで長谷寺に登ることにしました。五時半はさすがに人が少なく、鐘の音や読経が聞けて気持ちの良い一日の始まりとなりました。本堂前にてお経を聞いていると、二名の参加者も早く起きたからとお参りにやってきました。
その後、全員宿を出て、近鉄奈良駅に移動し、奈良国立博物館の常設展「仏教の美術の名品」を拝観しました。またも運良く唐招提寺の「木心乾漆薬師如来立像」が特別出陳されていました。お昼に昨日のタクシーにまたお願いして「白毫寺」に登り、閻魔様にご挨拶して、「新薬師寺」に行きました。
ここの十二神将は有名でみな国宝ですが、一体のみ昭和の作であるため、それだけが国宝ではないのだとか。十二神将は十二支それぞれの守り神です。では昭和の作は何年でしょうか?
答えは 辰です。
海竜王寺を拝観し不退寺に伺うと、住職さんが親切丁寧に説明して下さいました。その説明の一部をご紹介します。
「不退寺は業平寺とも呼ばれ、在原業平が住まわれたところです。どうぞどんどん前へ出られて構いません。見て下さい。丁度業平画像がございます。ゆっくりもっと近くで見て下さい。えー男でしょ、56歳ですわ。本堂は右に春日大明神、中央に聖観世音菩薩立像、左に阿保親王座像と神仏混合ですわ。奈良ではそうめずらしいことではないのですわ」
「一つお聞きしていいですか?釈迦涅槃の時に何かがいなかったですね? なにでしたっけ?」
「猫ですわ。理由? いろいろありますが、絵師が中国人で中国に猫がいなかったとか……、ほな涅槃図説明しましょう!(中略)で……お母様の摩耶夫人が天からお釈迦さまにお薬を投げられたんですわ。でも沙羅双樹にひっかかってしもうて……それでお薬出すこと投薬いいますねん」
参加者皆「へぇ………………」
そして最後は東大寺戒壇院の四天王をお参りして旅は終わりました。
私は今年、50歳になります。いつかはじめてみようと思っていた朱印帖。
初めのページが法隆寺というのもいいかな……と今回決断しました。
「年寄り臭い、お金がかかる」と言われそうですが、最近ついこの間のことなのに、どこへ誰と行ったか、思い出せないことが多くなりました。まずい、危険信号です。自分の軌跡確認のためにも写真探訪をまとめていますが、そこに朱印帖も仲間入りさせては……ということです。
奈良のお寺の朱印は¥300,拝観料は¥300が普通です。
ところが最近東大寺や白毫寺は値上げして¥500です。それでも京都に比べたら、まだいいのですが、お寺参り、仏像鑑賞となると意外に物入りです。気づくのが少し遅いのかもしれません。
では写真でご紹介いたします。
一部写真でご案内出来ないところもありますが、ご覧下さい。

南大門
法隆寺で撮影が出来たのは、ここだけでした。

龍田神社
法隆寺から車で2,3分。能『龍田』の舞台ですが、誰もいない寂しい神社でした。

金剛流発祥の地の石碑
龍田神社前の古道は奈良街道と呼ばれ、市(いち)が栄えていました。その市を拠点に活躍した坂戸座申楽が現在の金剛流です。

綺麗に整備された龍田川
『龍田』は紅葉の名所の龍田川を渡ろうとする旅僧に巫女、実は龍田姫が渡るなと制しますが、どこあたりか気になります。

三室山
「神南の三室の岸や崩るらん」と謡われる、正面の小さいお山が三室山です。

謡曲史跡保存会の看板
神社の石碑には表に在原寺、裏には在原神社と書かれていました。場所は桜井線の櫟本駅(いちのもとえき)下車、徒歩10分。

『井筒』の井戸
西名阪道路側よりの撮影です。

井筒板井
大きな木蓋が置かれていましたが、ゲートボールをしていた地元の大先輩の方々が親切に開けてくれました。

「業平の~面影」のポーズ
井戸には水があり、少し汚いですが、ちゃんとお顔が写るのです。
そこで はい!ポーズ! 「見れば懐かしや」・・・。

一叢薄
「一叢薄の穂に出づるは」と『井筒』の初同に謡われている一叢薄が実際にありました。

面塚
寺川沿いに面塚公園が出来ており、隣接して面塚がありました。その奥には観世発祥の地の大きな石碑があり、廻りを囲む石の柵に観世流の方々の名前が刻まれています。正面入り口の右に東京・観世元正、左には観世銕之亟と、沢山の方のお名前があり、この石碑がご寄付から出来たものと直ぐに解ります。

補巌寺の世阿弥参学の碑
世阿弥夫妻はここで出家し禅を学び、至翁禅門、寿椿禅尼と呼ばれ供養されました。

三輪山
石舞台に向かう途中にジャンボタクシーから撮影しました。左下に小さく、実際は巨大な鳥居がみえます。

石舞台古墳
「石舞台というから誰が、何を踊っていたのかなあ…」と呟いたら、「あら、やだ! 蘇我馬子の墓ですよ…」と恥をかいてしまいました。
しかしパンフレットには、実際は誰の墓か確定しておらず、名称も此の石の上に上って、踊っていた人がいたため石舞台と呼ばれている、と記載されていました。裏に廻ると地下に潜れてその大きさを体感することができます。

飛鳥寺大仏
日本最古の大仏ですが、撮影自由です。思いっきり近づき撮影しましたが、これ以上近寄ると何か祟りがありそうに思えてきて、ここの位置でパチリ!

飛鳥時代の蹴鞠
保存会の方、大汗かいて健闘されていましたが、なにぶんもうちょっと蹴り上げている時間が続くといいのですが……。はっきり言って稽古不足!ですね。

橘寺の塔址心礎
五重塔の心柱を支える心礎です。土門拳の作品にこの写真があり、真似して撮影したのですが、写真を見てこうも違うのかとガッカリです。当たり前ですが、負けず嫌いの私、カメラのせいにしています。

二本の杉への看板
玉葛が母夕顔の侍女右近に再会した二本の杉、石段の第一段の途中、宗宝蔵の近くにこの看板があります。右折するとお墓に行けますが、まずここを右折する人はいないでしょう。長谷寺本堂までの長い石段はまだまだ序の口で、これから第二段、第三段と続きます。でも今回は牡丹が最盛期でした。

長谷寺本堂前にて記念撮影
半跏思惟の構えの筆者を囲んで今回の参加者一同。撮影者は写らない伊奈山氏です

二本の杉
「謡蹟めぐり・青木実著」では朱塗りの拝殿が撮影されていましたが、現存していませんでした。拝殿がないとなんだか異様な景色に見えるのですが……、私だけかな………。

保存会の立て看板
「こんなにお世話になっているから、いつか保存会に寄付なさったほうがいいじゃないですか!」と周りから執拗にいわれています。

立ち連吟『玉葛』
謡い出したら、あたりのことなど気にならないのでしょうか……。
大きな声で揃って上手に謡えました。ホッ!

定家(中央)と俊成(右)の墓
藤原定家はここの鐘楼を「尾上の鐘」と詠んだためにここに眠られているのでしょうか?もう少し立派でもいいのにと思いました。

古河野辺(ふるかわのべ)
『玉葛』に「古河野辺に君を見ましやと…」とあります。この下を初瀬川が流れ、能ではここまで小舟で上るように謡いますが、実際舟では椿市までしか上れないのです。こういうところがお能の世界のいい加減でありながら、よいところではないしょうか?

旅館井谷屋さん
二日目の宿は温泉旅館です。本日の疲れを千人風呂の温泉で癒します

長谷寺の尾上の鐘
前日見落とした「尾上の鐘」。しかしどこを見渡しても見つかりません。
ふと上を見上げるとありました。

天井裏にある尾上の鐘
朝6時と昼12時の二回だけしか打ちませんので、丁度聞けたのはラッキーです。

鐘楼遠景
絵馬堂横から見ると鐘の位置がはっきり確認出来ます。

不退寺
在原業平が住まわれたお寺です。お若い住職様はお話上手です。質問には丁寧にお答え頂き感謝しています。
以上で終わります。ご高覧有り難うございました。
能『藤戸』ゆかりの地を訪ねる投稿日:2005-05-15

平成17年4月15日、厳島神社御神能の前日に時間が出来て、お天気もよく桜もまだ咲いている様子でしたので、岡山県倉敷市へ謡蹟巡りに出かけました。
広島駅から新幹線で新倉敷駅にて下車、タクシー乗り場に行き運転手さんに、
「藤戸町に行って下さい、藤戸の渡り、乗りだし岩などが見たいので」というと、
「それなんですか?」と先行き不安なそっけないお返事。それでも、とりあえず乗車しました。
「『藤戸』という能の曲がありましてねえ。それに関連したところに行きたいのです。かなりマニアックなところですが、よろしく」
「??…??…まあ…藤戸町まで行ってみますね。そこら辺で聞けば判るでしょう…」
「大丈夫かな……」と内心思っていると、
「お客さんねぇ…、普通はここからは行かんですよ。倉敷からの方が近いけね…」と。
どうも新倉敷駅から藤戸町までのタクシー利用は珍しいらしい。今度はお財布が心配になり「料金は幾らぐらいかかるの?…」と聞くと、
「行くだけで4000円越えるよ!」の答え。
もうしょうがない、あきらめて「いいですよ、地図に書いてあるところ全部廻るから、よろしく! これがその地図です…」
「はあ…見てもわからんけに……」
以上が車中の会話でした。
「謡蹟巡り西日本編・青木実著」を頼りに、まず「藤戸の渡り」があったと言われる、倉敷市有城小瀬戸に向かいました。
地図の記載がおおまかで詳細な所在が判らないので地元の人に聞いてみることに。タクシーの運転手さんがガソリンスタンドに入り若者に尋ねてくれました。
「有城1348下電バス小瀬戸はどこ?」
「え…、そんなん知らんな…」
「お客さん、知らんっていいますが…」
「乗り出し岩というところなんだけどなあ……」と私。
すると突然、「あっ、そこや!」と直ぐ近く指さすではありませんか。乗り出し岩はまさしく目と鼻の先の街道に面している所にありました。その後も考えていた順番通りにはことは運ばず、あっちに行き過ぎ、こっちへ戻りと捜し廻る、まさに謡蹟をめぐる旅となりました。
ではここから、どうやら見つけることができた能『藤戸』ゆかりの地、「乗りだし岩」「経ヶ島」「藤戸寺」「浮き州岩」「先陣庵」を写真でご紹介します。

乗りだし岩
道路添いにある「乗り出し岩」に佐々木盛綱は陣を敷き渡海作戦を練ったといわれます。当時の海峡はほとんど埋め立てられ中世の海の面影は全くありませんでした。岩は大きく高台になっていたので盛綱は平家方を見ながらこれでは攻め込めないと悔しい思いをしていたのでしょう。その後、盛綱は浦の男に浅瀬を教えてもらい、戦功を上げますが、浦の男の悲劇につながっていきます。

乗り出し岩の看板
看板の下には小さな潅漑用水が流れています。この川のあたりも昔は海水だったのかと思われます。

乗り出し岩
小道の右側の岩が当時大きな岩であった乗り出し岩。岩の上に盛綱の石碑があります。

盛綱の石碑
岩の上にある小さな佐々木盛綱の石碑。

藤戸寺近辺の地図
謡蹟巡りの本では判らなかった位置関係も藤戸大橋のそばにあるこの看板地図で把握理解できました。浮き州の岩も通り過ぎてここまで来てしまいましたが、その後この地図を頼りに捜しあてることが出来ました。

盛綱橋
藤戸寺(盛綱が戦没者を弔ったといわれる寺)と経ヶ島を横切る倉敷川にかかる新しい盛綱橋。

佐々木盛綱像
新しい盛綱橋には盛綱像があります。この橋を渡ると経ヶ島です。手前が藤戸寺、奥が経ヶ島。

経ヶ島入り口
倉敷川添いにあり藤戸寺から盛綱橋を渡り徒歩5分です。

経ヶ島の由来
経塚と浦人の供養塔がありました。

経ヶ島の祠
この塚のあるところだけが岩石で盛り上がった地形で、当時は海の上に突き出ていたといわれています

盛綱橋遠景
盛綱が藤戸寺に向かって馬を走らせているように見えませんか?

盛綱像後方
橋の向い側に藤戸寺があります。

藤戸寺
「春の湊の行く末や藤戸の渡りなるらん」は『藤戸』の次第です。盛綱役のワキが謡います。
春の曲にふさわしく、この日もまだ桜が咲いていました。

謡曲保存会の立て看板
これがあるといつもほっとします。

藤戸供養塔
五重の石塔は盛綱が戦没者の供養のために建立したもの。

浮き州の岩
なかなか見つけられなかった浮き州の岩。まわりは何もありません。あたり一面海とたやすく想像出来ます。

浮き州の岩碑
浦の男は盛綱に殺され、この岩の近く水の深い所に沈められたのです。

岩の碑
現在京都醍醐寺三宝院の池水に置かれている「藤戸石」は秀吉の計らいでここから運ばれました。

合戦場跡の碑
藤戸寺と先陣庵を結ぶ道路添いにこの碑はありました。広い畑の中に少しずつ住宅が立ち並ぶ光景の中にぽつんとある碑。ここがかつて激戦地だったことを思い浮かべてみましたが……。

先陣庵
乗り出し岩から海を渡って軍勢はここに上陸しました。ここも高台で眺めはよく、広大な平地は昔海であったと想像出来ます。

史蹟保存会の看板
先陣庵を最後にこの謡蹟巡りは終わりました。いつか藤戸を勤めるときはこの日を思い出し、一度「子方出し」の小書で演じてみたいと思いました。
『花月』について投稿日:2005-04-16

今年の厳島神社御神能(平成17年4月16日)で『花月』を、平成3年の御神能以来14年ぶりに勤めました。今回は『花月』地謡への奉納参加者をつのり、23名という多数の参加をいただきました。前列10名、後列13名、最後に出られた3名の方が後座に座るという異例の事態となり、東京国立博物館蔵の「能狂言絵巻」を思い出すような光景となりました。

父が地頭を勤めるのに、こんなに多くては地謡が揃うかどうか心配でしたが、その不安も何のその、意外によく揃ったのには驚きました。父にどのようにすると揃うのか聞くと、低い調子で謡うと皆が自分勝手に謡い出す、すると収拾がつかなくなる、最初からかなり高めの音で謡うのだ、すると皆揃えようとしてうまくいく、と教えてくれました。

能『花月』の面は「喝喰」をかけます。「喝喰」は喝喰行者に似せて作った美青年の顔で銀杏型の毛描きが描かれているのが特徴です。今回使用した厳島神社蔵の「喝喰」はお世辞にも美青年とは言えない面で、少し失望してしまいました。神社には傑作な「喝喰」があるのですが、奉納ではなかなかそのような逸品は出てこないのが御神能の近況です。
昔は楽屋を見渡すと、どれもこれも目を見張る面や装束が並び、それらに触れていると江戸時代にタイムスリップしたような感じで、貴重な体験をしました。管理する神社側の立場では、名品や逸品は大事にお蔵から出さずに保管し、いざという時だけ使うとの配慮になるのは仕方のないことですが、役者はどんな舞台でも最高の状態を望みますから、正直今回の「喝喰」は至極残念な思いが残りました。

喝喰とは本来禅家で大衆読経のあと大衆に食事を大声で知らせる役僧でしたが、のちに稚児ともいわれる有髪の少年達が勤めるようになり、そして時代が経つにつれ、芸能者の徒となり堕落していったと言われています。室町時代、能の創作期頃には多分寺院に関わることよりも、もっぱら道の者となり芸尽しの芸能者レベルでの生活にひたっていたのではと推察出来ます。
喜多流の『花月』の謡本の曲趣には、「喝喰物として芸能尽しに興趣の中心がある。<中略>深刻とか悲痛とかいう内容のものではなく、一脈の洒脱味が軽快明瞭な印象を与える。少年をシテとする可憐な遊狂の一曲」とあります。
ここに書かれている通り、この曲は親子対面劇が主軸ではなく、芸能者、花月の芸尽しの曲といえます。しかし、この曲が創作された当時の時代背景を考えると、主題は別に戯曲のなかにひっそりと潜んでいるように思えるのです。それは堕落した喝喰芸能者達への改心でもあり仏道修行への功徳ではないかと思います。今、私も含めて現代人が何とも感じない終曲部分の謡の詞章に「あれなるお僧に連れ参らせて仏道の修行に出づるぞ嬉しかりける」とありますが、どうもそこにメッセージは集約されているのではと、今回演じ終えレポートをまとめながら思えるようになりました。
ではここから、『花月』の舞台進行に合わせて今回の舞台をまとめてみます。

春、桜の満開な清水寺に旅僧(ワキ)、実は花月の父左衛門は清水寺門前の者(アイ)に曲舞の上手な花月の芸を所望します。すると喝喰姿の花月は弓矢を持って登場し、自分が何故「花月」と呼ばれるかを語りはじめます。花月の「月」は四季常住のもので、真如の意味だから皆判るだろう…。では花「くわ」は何だろうか…。春ならば花、夏は瓜、秋は菓、冬は火と皆同じ「くわ」の字だから季節に合わせて使えばいいのさ…、しかし因果の果と考えれば悟りを開く最後の文字としてふさわしいだろうと、いかにも自然居士の弟子らしい一癖ありそうな説教者ぶりです。
花月は門前の者に小歌を歌おうと誘われ、仲良く小歌を歌います。観世流の詞章には「春の遊び友達と仲違いしないようにと思って、お仲間入りにやってきたよ」という言葉が入りますが、喜多流にはそれがなく小歌を謡う導入部分が唐突で説明不足の感です。小歌とは室町時代の俗謡で、ここでは男性の同性愛を歌っています。同じテーマを持つ『松虫』などに比べ『花月』はシテがアイの肩に手をかけるなど演出表現がストレートです。大蔵流の中にはシテの腰に手を廻す型もあり、こうなるとかなり露骨でシテ方としては動きにくくなるので、この型は遠慮させてもらっています。小歌は和泉、大蔵二流ともアイが扇で顔を隠し「昔から今までも絶えないものは恋というくせ者、身にはさらさら覚えもないのに、いつの間にやら恋が心に忍び入り、恋しい思いで寝られない」と謡いながら舞台を半周します。
歌通り二人は仲の良い様子を見せていますが、急に花月はよそよそしく、何かを察したのか咄嗟にアイを振り払います。この払う所作を「もうこのへんにしておこうよ」とも「誰かの目が気になる」とも解釈出来ます。アイは払われ飛ばされると、目付柱近くで一旦伏し、ふと上を見上げ、「いや! これに目がある、いやいや目ではない。目かと思えば鴬じゃ」と鴬の目と桜のつぼみの芽とを掛けていいます。つい最近、朝早く鴬のきれいな鳴き声で目を覚ましたことがあります。丁度、満開の桜、その何処かの枝に鴬は止まってしきりに鳴いているようです。どこにいるのだろうと捜す自分の姿、それがこのアイの所作に似ているのに気づき、苦笑してしまいました。

型付には動きが書かれていますが、その心持ちまでは書かれていません。役者の想像を型に注入し精神性を生み出すのだ、とは最近教えられた大事な教えだと思います。アイを放す所作一つとってもいろいろな考え方があり、それが演者の楽しみであり、能という戯曲は断定を許さない余白部分があるからこそ面白いのだと思います。ここに登場する鴬も、単に鳥類とも、また無粋な清水寺の見物人とも考えられ、面白いのです。このアイとの一連の動きを型の真似だけで終わらせては、なんとも味気ない、つまらない作品になります。特にここは狂言役者の粋な器量が重要で、能は優秀な能役者がお互い力を出し合ってこそ世界に誇れる演劇となるのだと痛感します。
アイは鴬を矢で射殺せと花月へ進言し、花月は弓は花を踏み散らす狼藉者の小鳥を射るものだ、外さず射れば中國の弓の名人養由にも劣らないと豪語し、私の好きな軽快な弓の段となります。弓を引きいざ矢を放そうとしますが、仏の戒めの殺生戒を破ることは出来ないと信仰心が表れ弓を捨てます。通常は実際に弓を捨てますが、今回はアイがシテ謡の前にかがんで弓矢を拾い上げる景色が美しくないと思い、以前友枝昭世師が考案されたように、直にアイに手渡すことにしました。アイも殺生戒を破ってはと納得し、花月に清水寺の縁起を旅僧に語り舞うように勧め、クセの舞が始まります。そして、父との再会の場となります。
花月は再会した喜びに羯鼓を打ち、山めぐりの模様を表すキリの仕舞所となります。以前はこの戯曲の主張が何であるかなど一切無視し、ひたすらシカケ・開き・サシと順番だけを追ってそれらの型をきっちりと美しくとだけ考えていたのですが、深く詞章を読み込めば、軽やかに鼻歌まじりに長閑に謡っているキリ部分が、なんと残忍な有り様の描写ではないか、と恥ずかしながら最近知ったのです。

七歳の時、筑紫彦山に登りその時に天狗にさらわれ、それからはあちこちの山々に連れて行かれ、非常に悲しい思いをしたと嘆き羯鼓を舞いますが、つづく謡の内容は陰湿で暗いものです。
まず筑紫彦山、泣きながら四王寺、それから讃岐松山、雪の降り積む白峯、伯耆の大山鬼ケ城、この名前を聞くと天狗よりも怖いと、話しの内容は拉致、拘束、稚児趣味の同性愛とみな強制されるものです。暢気に春爛漫で謡い上げる内容ではないのです。天狗とはまさに悪僧であり、山から山へと連れて行かれたとは、何人ものお相手をさせられたことで、ホモセクシャルなお稚児趣味の世界であり、花月は悪僧達の遊び道具という犠牲者なのです。父と再会出来たのだから簓(ささら)はもういらないと投げ捨て、父と仏道修業に専念しようとこの曲は終わります。
キリの内容はこのようなものですが、舞台に立つとそこまで落ち込んで演じることが私には出来ませんでした。そこが『花月』という曲の持つ特性でもあり魅力なのでしょうか。かわいい少年や熟年の方がやられたとき、素直な芸風が、鑑賞する方にはよいのだと思います。しかし反面やはり創作当時の作風・息吹を度外視してはどうだろうか、とも思い悩むところです。今回、小品でありながら根深いものを見つけてしまったようで結論が出ませんでした。
ただ、ワキが最後に少年花月を連れて帰る場面で、花月をおいてさっさと幕に入り退場しては連れて帰るという表現が充分出ないように思えました。いやいや、出家なのだから、自分の子どもを連れて帰るというのが表面に出ては恥ずかしい、あれでいいという意見もあるでしょう。しかし私はここでどうしても親子共に退場することに意味を感じたいと考えました。今回はワキに一ノ松で止まって待っていていただき、終曲してから同幕で退場したい旨を申し上げて対応して頂きました。これで親子再会、親子共に仏道修行へと向かう決意みたいなものがはっきりとし、ほのぼのとした明るさも表現出来ると思います。
『花月』という小品、初めは小馬鹿にしていましたが、小馬鹿は自分であり、作品の読み込みを蔑ろにしてはいけないと花月が教えてくれたみたいです。読み込むことで面白さが増し、表現にもふくらみが出ることを、今回もまた思い知らされました。

花月がさらわれた筑紫彦山は昔「日子山」といい、嵯峨天皇が「彦山」と改め、その後霊元法皇の院宣で「英」の字を賜り「英彦山」と称せられたといいます。英彦山神社は社殿まで長い石段がつづき、途中に花月が腰掛けて休んだといわれる石があると「謡蹟めぐり・青木実著」には記載されています。機会があれば是非一度行って、花月を偲んでみたいと思います。
(平成17年4月 記)
写真
絵巻 「能の多人数合唱」 藤田隆則著より
能『花月』 地謡の人々 撮影 牛窓正勝
喝喰面 厳島神社蔵 撮影 粟谷明生
能『花月』シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
曽我兄弟と鎌倉武将ゆかりの地投稿日:2005-01-15

平成17年1月2日、3日は曽我兄弟と鎌倉武将の土肥実平や梶原景時などのゆかりの地を写真探訪してきました。富士の山には雲一つなく、すばらしい姿を見せ、私たちを迎えてくれているようで気持ちよい旅となりました。
初日は御殿場線の下曽我駅にて下車し、曽我兄弟が信仰していた力不動尊のある瑞雲寺、兄弟の墓のある城前寺へと徒歩にてまわり、一度国府津駅に戻り東海道線に乗り換え、湯河原駅にて、駅前ロータリーにある土肥実平館址、実平の像を記念撮影し、駅裏にある土肥実平、遠平親子の眠る城願寺を訪れました。
次に小田原駅まで戻り、小田急線にて箱根湯本駅近くの曽我堂を尋ね、最後は箱根湯本の湯を満喫して横浜に宿をとりました。二日目は横浜能楽堂近くにある御所五郎丸の墓を捜し、梶原景時ゆかりの地、鮫洲の海晏寺、西馬込万福寺をお参りし、写真は記載していませんが東京の大倉集古館、泉屋博古館分館にて大倉、住友の能コレクション(平成17 1/2~3/13公開)を楽しんできました。

国府津からの御殿場線は一時間に一本しかありません。乗り遅れると大変なので、今回は緻密に時刻表とにらめっこの旅となりました。

瑞雲寺や城前寺の場所が不明で困っていましたが、駅に案内があり助かりました。

瑞雲寺には曽我兄弟が念願成就のために祈願した力不動尊があります

祠に愛用のデジカメを入れ、レンズを回転させパチリ!

なんだかおかしな形のものがありますが、後ろに立看板が倒れていて「不動根」と書かれていて、読むと……。
男性には大きな力、たくましさを、子宝に恵まれたい女性はよい子を授けられます。男性は強く握って下さい、女性は跨いで下さいとあります。

城前寺は曽我兄弟の菩提寺です。曽我兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名があります。いつもは謡本が積まれている堂内が見られるといいますが、生憎、お正月でしたので閉まっていました。

城前寺より見る富士山。

左は兄弟、右は父祐信と母満江の墓で立派なものでした。

曽我家の家来団三郎、鬼王の碑。鬼王兄弟と記載されているのが私にはしっくりきません。能の世界では団三郎兄弟と謡っているためでしょうか。

この石は「五郎の沓石」といわれ城前寺の裏にあります。五郎が足を怪我し治った際、体力が衰えていないか心配になり試しに石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまい石の真ん中に足形が残っていると書かれていましたが、青木実著、謡蹟めぐりでは「時致の力石。五郎が身体鍛練のためバーベル代わりに用いていた」とあります。どちらが本当でしょうか?

下曽我駅前の正栄堂にて五郎力餅と曽我せんべいが売られており、名物のようです。名物にうまいもの無しというが、買い求めお餅は車中にて口にポイ!おいしいのだ!

湯河原駅前ロータリーには土肥実平像と館址の碑があります。土肥実平は頼朝の石橋山の挙兵に参じ敗戦するが頼朝を安房に逃すことになる、能『七騎落』のシテです。実平は頼朝再起に尽力し鎌倉幕府の重臣となり、「実平正しき忠勤の道に入る、弓矢の家こそ久しけれ」と謡われています。

城願寺は湯河原駅の裏山にあり見晴らしが良いところです。しかし徒歩でしか行けず、10分程度の登り坂ですがお年寄りには辛い場所です。

実平のお手植えといわれる、巨木のビャクシンは見事でした。

この保存会の看板を見つけると、ほっとします。

「はい! こちらが七騎堂です」。
能『七騎落』では「まず一番に田代殿、さて二番には新開の次郎、又三番には土屋三郎、四番は土佐坊、五番には実平候、六番には遠平、舳板には義實あり」と謡われますが、堂内には土佐坊の代わりに足達籐九郎盛長がありました。

土肥一族の墓。手前の左(少し茶色)が遠平、右端は実平の墓です。

箱根湯本駅から徒歩20分程で正眼禅寺に着きます。ここには曽我兄弟供養塔と曽我堂、五郎石突き石などがあります。

境内左手には、五郎が槍の石突で石を突き刺し強力を示したという石があります。
石は見たところどこを刺したかはっきり判らないものでした。

曽我堂へは少し坂道を上がって行きます。静かなところで、四季には様々な花が咲きそうです。

『夜討曽我』に登場する御所五郎丸の墓。この場所を捜すのに難儀したので、住所を記載します。横浜市西区伊勢町3-130。
御所五郎丸は曽我兄弟を祐経の館に導き見事仇討ちの本望を遂げさせ後、五郎を捕らえたとあります。能では女装してシテ五郎が油断したところを取り押さえると代わっています。

京急青物横丁、または鮫洲下車徒歩7分程で海晏寺がある。境内左手には囲いもない北条時頼の供養塔がありました。時頼は『鉢木』のワキとして最明寺殿といわれていた人物です。どうしてここにあるのだろうか?
梶原景時の供養塔を捜し、お寺の方にお聞きしたら「そんなもん知らんでーー」が返事でした。

馬込の万福寺には梶原景時の墓がります。

山門左手には名馬「墨麿=するすみ」の像があります。

能『箙』のシテ梶原源太景季はするすみを拝領しています。

梶原平三景時の墓。海晏寺の供養塔が確認出来なかったのは残念でしたが、万福寺の墓がたいそう立派なので安堵しました。梶原景時は『八島』『船弁慶』の謡にしか出てきませんが、お線香をあげてお参りし、今回の謡蹟めぐりはここで終了としました。
『鬼界島』を演じて投稿日:2004-11-01


『鬼界島』という曲名は喜多流だけの呼び方で、他流は皆『俊寛』です。
我が家にある九世喜多七太夫古能(健忘斎)の伝書には『鬼界島』と『草紙洗小町』の二曲の記載がなく、『鬼界島』が正式に流儀として演じられるようになったのは明治時代以降と思われます。では喜多流の『鬼界島』の変遷はどのようになっていたのでしょうか?
最近私が入手した七太夫長義(=おさよし、七世喜多十太夫定能と八世十太夫親能との間にて八世を継承すべきところ、部屋住みにて早生した。健忘斎の父)の型付には、表紙に喜多流極伝能手附とはっきり記載され、目録には『卒都婆小町』『鸚鵡小町』『小原御幸』などと共に、『俊寛』が記載されています。記載されている他の曲目を読むと、今でも他流とは異なる喜多流独自の形式が書かれているので、『俊寛』という曲名の記載だけで喜多流の伝書ではないと判断し、伝書自体を否定することは出来ません。『俊寛』の項に記載されている内容そのものは、現在の観世流にかなり近い演出となっているので、これが、どのような経緯で現代の形に変遷したかは、はっきりしません。ただ江戸期の資料がないと思っていたものが、実は『俊寛』という曲名で存在していたことを発見出来て、今回『鬼界島』を演じるにあたって(平成16年11月28日 喜多会)、曲目の歴史・変遷から次第に喜多家の歴史へと興味は大きく膨らみ、演能のよい手がかりとなりました。
現在演じられている型附は、十四世喜多六平太先生の創案だと思われます。
曲名が『俊寛』から『鬼界島』へと変更されていますが、若年の十四世喜多六平太が一人で再興したかは、いささか疑問です。これは推察ですが、当時の後見人の梅津家や紀家などの人たちと相談して、流儀独自の構成を創案したのではないでしょうか。曲名の違いからはじまる他流との相異点は数々あります。まず主ツレは他流は康頼ですが、喜多流は成経が主ツレとなり、成経が赦免状をもらい読みます。そのためツレを勤める順序も先ず若輩者が康頼を勤め、その経験を経て成経を勤めることができるという修業過程です。私は今まで『鬼界島』のツレを15回勤めましたが、その内訳は7回が康頼、8回が成経でした。伯父の新太郎や父がこの曲が好きで十八番であったためか、15回のうち10回までがこの二人のどちらかがシテでした。
次なる大きな相違点はシテの登場がアシラ匕出となることです。他流にある「後の世をー」の一声は省かれて、橋掛の一ノ松に出て「玉兎昼眠る雲母の地ーー」と謡います。このため一つの問題が浮上してきました。大鼓と小鼓は、アシラ匕出しの後のシテ謡には、道具を置き囃さないのが決まりです。例えば『湯谷』『巴』『砧』『半蔀』など皆そうです。しかし『鬼界島』はお囃子方の手附に「続けて囃す(アシラ匕)」と伝えられているのです。これは、明治の復曲の時に、三役と詳細な相談がされていなかったため、他流での一声から地謡、そしてサシ謡としての「玉兎昼眠るー」と定型パターンをそのまま導入したためです。アシラ匕出しでのシテ謡は静かに囃さずに謡うところに良さがあります。今回はお役の亀井忠雄氏、亀井俊一氏にお願いし了承して頂き、囃さない演出としました。
さて俊寛を演じる時その人物像は諸流同一ではないようです。喜多流の俊寛像は片意地はって人に従わず反逆精神を失っていない孤高の人物として描かれています。私は今まで俊寛は齡を経た人だと思っていましたが、史実は36歳という若さであったことを知り驚きました。能では、なかなか若輩の者には演能が許されないためか、どうしてもそれまで勤めてこられた諸先輩の方々の俊寛像が重なりあって、勝手に老漢と思っていました。実際、能の世界では実際の年齢よりも、少し老いた感じとして扱っていますが、37歳という若さで有王という弟子に看取られ、島で一人で亡くなっている、なんとも悲しい結末です。
『鬼界島』のシテの面は「俊寛」という専用面です。表情は流儀により様々ですが、我が家の面は、細面で彫りが深く独特の表情で、父はアラブ人の顔に見えると言います。確かに面だけを見るとそのように見えますが、花帽子をつけるとまるで表情が違って見えるから不思議です。
今回、『鬼界島』を演じるにあたり、平家物語や源平盛衰記の資料などを見て、意外な事実が発見出来て、演じるにあたり興味がますます湧いてきました。
まずことの発端は内大臣と左近衛大将を兼ねていた藤原師長(左大臣頼長の第二子)が左大将を辞任することから始まります。この師長という人物は能『絃上』のシテツレとして登場する琵琶の名手で妙音院の大臣といわれていましたが、太政大臣になるにあたり左大将の任を辞すことになります。そのため後任をめぐるポスト争いで野望を持つ三人の権力争いとなります。
本来、後任の最有力は徳大寺大納言実定でありました。この人物は一昨年、私の手がけた新作能『月見』の主人公で、徳大寺がこれに大きく関与していたことも驚きでした。そのほか花山院中納言兼雅や新大納言藤原成親もその地位を狙うという三者三つ巴の権力争いになるはずでした。しかし結果は意外、右近衛大将だった小松殿重盛が左近衛大将に昇格し、右近衛大将には次男の中納言でしかない宗盛が昇格するという大抜擢で、三人の野望は断たれます。この平家の横暴に反感を抱く者が次第に増え、成親、西光等の平家討伐を目論む者は団結して密議の回数を重ねていきます。そこにはあのしたたかな後白河法皇も参加するようになり、後白河法皇の近習の俊寛僧都(そうず)も自らの鹿の谷の山荘を提供し「鹿の谷の詮議」となります。
現在の「鹿が谷(ししがたに)」は昔、「鹿の谷(ししのたに)」といわれています。古く四つ足はみな「しし」と言い、いのしし、かのしし。鹿(しか)も、しし、と発音していたので「しかのたに」ではなく「ししのたに」と呼びます。(資料 「鹿の谷事件」 梶原正昭著 より)
ここでは蛇足ですが、徳大寺については後の記述があります。徳大寺実定は一旦落胆しますが、家臣の勧めで直ぐに平家ゆかりの厳島神社に参詣し、後に清盛の推薦を得て、小松殿重盛が左大将を辞任した後に宗盛を越してちゃっかり左大将になっています。
平家打倒を詮議するために集まった者は、後白河法皇、浄憲法印、西光法師、藤原成親、平判官康頼、多田行綱、それに北面の武士など、そして山荘を提供した俊寛僧都です。俊寛僧都は今は焼失してしまった法勝寺の執行で、僧都とは僧正の一つ下の位です。この俊寛という人は平家物語では元来信心深くなく、傲慢な性格で策士のように語られています。密議は、恐れをなした多田行綱の密告で発覚し、直ちに西光や成親は捕らえられ殺害されていきます。康頼と俊寛、そして成親の子息成経は薩摩潟の沖、鬼界島に死一等の流罪となります。源平盛衰記でははじめ三人はばらばらに小島に流されたようですが、しばらくして硫黄島に三人一緒になったとあります。
能『鬼界島』はそれから一年後、清盛の娘、建礼門院徳子の安産祈願のための非常の大赦が行われ、鬼界島の流人も赦免されるというワキ(平家物語に「丹左衛門尉基康という者なり」とある)の名乗りの言葉からはじまります。
ワキの名乗りのあと、舞台は鬼界島と変わります。薩摩の沖にある鬼界島とは、現在のどの島かは諸説あります。ツレの次第で「神を硫黄(斎う)が島なれば」と謡うところから硫黄島が有力説と考えられますが、鬼界島という名称の島も存在します。どこであろうと絶海の孤島にはかわりがなく、硫黄島の場合はとくに空から降る火山の噴煙が硫黄のため田畑が出来ない状況で、その生活の悲惨さは目に浮かびます。流人となった三人は、きっと島民の濃く毛が密生した焼けた肌色や訛りのある言葉、少数の島民しかいない非常に不便なところに地獄を見たのではないでしょうか。彼らはそこで一年を過ごすことになります。
ツレ二人(成経、康頼)は鬼界島に三熊野九十九所を勧請して信仰に余念がありません。上歌(あげうた)に「真砂をとりて散米に」と神に祈ることを忘れませんが、それに比べ俊寛は元来の信仰心のなさから全く信仰を捨てたかのように振るまい、この対比が悲劇の結末を暗示するように場面設定されています。三人が流罪になってから赦免されるまでは、およそ一年の月日となりますが、ではその一年間をどのように過ごしていたのかが気になりました。
諸説あり、三人だけしか流されていない、いや少しの供の者はいたであろうとも、また三人は同居していた、いや各々別々に生活していたと様々です。能の描き方では、やはり三人だけが流され、成経と康頼は信仰心もあり近くに居住していて、俊寛はひとり気ままな性格のためか、別のところに勝手に自分の住み処を持っていたのではないかと思われます。生活の実態は、成経と康頼へは都から手紙や食料物資が届けられていました。それは門脇宰相教盛の娘が成経の妻である親族関係であったためです。しかし俊寛には家族からの手紙も物資も送られてこなかったようで、そこにも俊寛の悲しみと怒りがあったように思えるのです。赦免される成経の帰国は俊寛にとっては今後の食料物資の停止を意味し、田畑が出来ない土地に残された者には、それは完全に生きる望みを断たれたのも同然で、悲劇性は計り知れません。

今回の演能では喜多流では久しぶりに纜(ともづな)を出す演出としました。昔は纜を使用することが普通でしたが、最近は途絶えていました。纜があることで、ツレが纜を跨がなくてはいけない、クセの後半俊寛が赦免状を投げ捨てる大事な場面でアイが纜を舞台に設置しなくてはいけないなど、少々演技に差し障りがありますが、今回はアイの深田博治氏と相談して出来る限り問題が起きないようと改善策を練りました。結果舞台進行に支障なく、纜出しの演出が出来たことを喜んでいます。
能を習得するには、まずは基本形を経験して応用編に移る仕組みが正統です。であるならば、纜を使っての演技を踏まえた上で、使用しない型を駆使する段階へと進むことが大事だと感じました。マイナス面があるからと、初めから諦めて使用しないのではなく、マイナス面を出来る限り少なくする努力をして、そして次の段階に進むやり方でいきたいと思っています。現在流儀には纜がないので、今回も日頃お世話になっている銕仙会、観世銕之丞氏にご協力いただきました。ここに御礼申し上げます。
私の『鬼界島』はこれで二度目です。『鬼界島』は現在物で、劇的で舞踏的要素を全く持たない能です。舞の基本となる「シカケ」「開き」という型、定型の動きが一つもありません。能全曲の中で、もっとも演劇性が要求され、能楽師が、役者としての技量を試される特殊な能です。ともすると作品自体の劇的要素に頼りがちになり、その上に胡座をかいてしまいがちですが、それでは薄っぺらな芸にしか感じられず、到底この作品を表現したとはいえません。俊寛の拗ねた態度や一時の歓喜、そして忿怒と無念、絶望へとそれぞれの移り行く場面でいかに表現出来るかです。芝居ぎりぎりの演技を、生(なま)にならず、能の世界で許される範囲で踏みとどまり、どのように演じるか、『安宅』や『望月』同様、演者自身の演じる張りや役にどれだけ入れるかにかかっています。
『鬼界島』は明治時代の復曲のころの事情からか、型付等の伝書がなく、流儀本来の決まりがないというのは悲しくもありますが、反面演じる自由さもあるため、役者自身を試される、やり甲斐のある曲目だと思います。今回はまだまだ力不足を感じ反省していますが、纜での演技が出来たことが、よい経験となりました。次回へのステップとしたいと思っています。
この曲は『隅田川』同様全く救いがない悲劇の最高峰です。それだけに俊寛一人に焦点を絞り、俊寛そのものを演者自身がいかに手がけるかがポイントであり、それが演じるものへの限りないテーマなのかもしれません。NHKが録画した観世寿夫氏のビデオは『井筒』と『俊寛』でした。この舞踏と芝居の両極端の二曲で観世寿夫を表現しようとした、当時の担当ディレクターの意図と意気込みが、不思議にビデオを通して伝わってきました。その一つの極に挑めたことは幸せであり、一方で、人間の悲劇を徹底的に描いてきた能という芸能の抜き差しならぬ凄さに、身が引きしまる思いがしました。
(平成16年11月 記)
明治に発行された謡本『鬼界島』

厳島神社にある卒都婆石、康頼が鬼界島から流した卒都婆はここに流れついたと言われている。

康頼燈篭

俊寛僧都山荘はこれから急坂を登ります。

俊寛僧都山荘跡

京都東山双林寺にある康頼の墓(右)。(左)噸阿法師(中)西行の墓。

面「俊寛」粟谷家蔵

以上、撮影 粟谷明生
トップの写真 シテ 粟谷明生 撮影 東條睦
纜の演出 シテ 粟谷明生 ワキ 宝生欣哉 撮影 石田 裕
『砧』について 研究公演の新工夫の成果を再演投稿日:2004-10-10


第76回の粟谷能の会(平成16年10月10日、国立能楽堂)にて『砧』を勤めました。
『砧』は6年前(平成10年2月)父の代演(練馬文化ホール能)が初演となり、その後、粟谷能の会研究公演(平成11年11月、シテ・粟谷能夫・ツレ粟谷明生)にて現行の演出の見直しを図りました。その成果に基づき、いつの日か能楽堂で再演したいと思っていましたが、今回その願いが叶いました。
最初に、演出を見直し、新工夫をした部分を簡単に説明したいと思います。
第一は、前場の初めにワキの名乗りとツレ夕霧へのことづてを入れたことです。
従来の喜多流の場合は、前場にワキが登場せず、ツレの「旅の衣の遥々と、芦屋の里に急がん」の次第で始まり、状況説明はツレの独白で済ませています。
それに対し上掛はワキが先ず名乗り、長年の在京となったが、故郷の妻の事が気になるので使いを出し、「この暮れには必ず帰る」とことづける場面があります。
夕霧も主人に「必ず」と念を押して九州芦屋に向かいます。これによって何某(主人)は無情な悪人ではなく、妻を思う心やさしい人として設定されます。
今回はツレ(内田成信氏)に観世流同様、ワキのあとについて出てもらい、常座後座に下居してワキの名乗りを聞き、呼び出され常座にてワキとの問答の形としました。ツレは何某を見送りながら、道行の謡となり、後は通常通りです。
従来の喜多流の演出では、ワキが下掛宝生流の場合、中入り後のワキの名乗りがないため、能『砧』全体を通して、どこにもワキの名乗りがない不自然なものになってしまいます。
喜多流の謡本だけを見ていると、ワキが中入り後に初めて登場し、そのときに名乗りを入れていますので問題はないのですが、能として見たときには、ワキ方や狂言方が担当する謡、語りとかみ合わないものが生じて全体のバランスが崩れ支障をきたしてしまいます。
では何故喜多流は現在の形式となったのでしょうか?
そのためにも、この作品の誕生の経緯を見ておく必要があります。
『砧』は世阿弥の晩年の作で、子息の元能に「このような能の味わいは、後の世には理解する人もいなくなってしまうだろう。そう思うとこの作品についてあれこれ書き残すのも気乗りがしない」と語っていて、元能の著、申楽談儀に記されています。
世阿弥の心配通り、その後の演能記録は音阿弥の二度の演能を限りに途絶えます。
慶長頃(戦国時代)には『蝉丸』『小原御幸』とともに、詞章のよさから座敷諷(ざしきうたい)として素謡専用曲となり、次第に能としての形体は曖昧なものになったと思われます。
そして江戸中期頃、幕府から各流に演能可能曲の申出が命ぜられました。
上掛の観世流、宝生流はその時に200何番かの中に『砧』を入れ復興し、次いで下掛の喜多流、金剛流も申し出ています。
金春流は『砧』の届け出をしなかったため、復帰は昭和も戦後になってからと、桜間金記氏は説明されます。
今日の喜多流の台本と演出が出来たのは、斬新な合理的演出を考案し他流と大差をつけ一線を引く、新流としての独自性を築きたいためだったかもしれません。
しかしこの合理主義の演出では、座敷諷ならまだよいとしても、能としてワキ方や狂言方と一緒に創り上げていくうえでは、矛盾に満ちたものにならざるを得なかったでしょう。
そして観客のみならず演者までも、この物語を誤解してしまう危険があります。
つまり、ワキの名乗りと状況説明がなくて一曲が始まると、どうしてもシテと夕霧という主従、都と鄙(ひな)、年増と若い侍女と二人の間のことのみに話が集中しすぎ、主人の「本当は帰りたいのだが、帰れない」という状況設定が希薄になってしまいます。
武智鉄二氏が「喜多流にある一種の合理主義は能楽の本質的リアリズムとは無関係だ」と言われたそうですが、現場にいる者として反論の余地はないと、痛感しています。
実際、喜多流の謡曲本を見ている喜多流愛好家は、どうしても中年女の若い夕霧に対する嫉妬が主題だと思い込み、同じ女の嫉妬を扱う『鉄輪』や『葵上』のような露骨で単純な復讐劇と誤解し、この曲の本質を見逃しがちです。
現に私が『砧』をお教えしたお弟子様のほとんどが、対夕霧の嫉妬復讐劇ですねと答えられていることからも、このことは実証されています。
演出の見直しの第2点は、シテと夕霧が砧を打つ砧の段「・・・・・ほろほろ、はらはらはらと 何れ砧の音やらん」の後、「いかに申し候」に続いて「只今都より御使い下り」を入れたことです。
従来は砧の段が終わると、間髪いれず「いかに申し候。殿はこの年の暮にも御下りあるまじく候」とツレの厳しい言葉が入ります。それでは余りに突飛すぎ、まるで夕霧が殿が今年帰らぬのを知っていて、わざと焦らして通告したように誤解を招く危険があります。
ここはワキ方、狂言方の科白にもあるように、やはりある時間の経過が必要で、また別に都から使いが来たという状況の言葉をシテ方も補わなくてはいけないと思います。
今回も研究公演同様、その状況の明確化と場面転換をはかるため、金剛流にあります、「只今都より‥‥」を付け加え、舞台進行の充実をはかりました。
妻はその知らせに、やはり夫は心変わりしたと誤解し病にかかり、絶命します。
なんとも悲しい最後です。誤解したまま空しくなるからこそ、後シテに繋がるわけですが・・・。
このように演出を見直し、台本を整える作業をしていくと、『砧』という曲は単なる復讐劇ではない、ましてやツレ夕霧への嫉妬劇でもないことが感じ取れてきます。
夫の芦屋の何某も妻のことを思い使いを出すくらいですから、善意に満ちた人です。
恨み復讐される対象ではないはずなのですが、残念ながら妻の思いとうまく噛み合わず、このずれが妻の心の恋慕、怨恨、哀傷といった様々の心模様に錯綜していきます。
その心の襞(ひだ)や屈折が作品の主題となっています。
『藤戸』の女が征服者佐々木盛綱に死を覚悟で殺意に溢れ訴える直線的なものとは意を異とします。

『砧』は一見ありふれた巷の出来事を素材にしながらも人間の奥深くある魂の呻きをテーマとして書かれています。故観世寿夫氏は「人の心の中の鬼、つまりー怨念ーといってもいい、人間が生きる上で苦しみ、悲しみといった、より人間的なものを鬼と据え、世阿弥自身の根源である鬼を得意とする大和申楽の規範に戻り新たに創作したのではないだろうか。それはいままで創り上げてきた『井筒』などの幽玄無上の夢幻能とは別の、自分が完成させた様式の破壊という新しい作品への凄まじいまでの創造意欲なのである」と述べられています。
私はこの文章に刺激され、作品に似合った演出が必要と思い始めました。
私の大好きな『砧』は中世という時を超越して、人間の心の弱みや恋慕の身勝手さを現代の我々にも鋭く抉るように訴えている、このことを蔑ろには出来ないと考えました。
前シテの面は通常、曲見か深井です。
伝書には小面とありますが、小面では色がありすぎ生々しくなり、孤独と不安、失意や時の喪失感などが表現しにくいです。
今回は粟谷家蔵の「若深井」を使用しました。
深井より少し若い感じの、憂いをおびた顔の面です。
装束は丁度、『砧』に合う、梶の葉模様の紅無唐織を仕立て直し使用することが出来ました。
シテはアシラ匕出で橋掛り三の松にてサシコエを謡います。
鴛鴦や魚の平目のように仲の良いものもやがて離れる宿命なのに、まして人間の情愛は当然だが、私たちのような疎遠な夫婦仲では…と、ここを冷えた切実な思いで謡えなければいけないのですが、なかなか難しく苦労するところです。
そして、シテは夕霧の訪問に、じわっと答えます。
「いかに夕霧」の一言にすべての思いが表現出来るようにと心得にある大事な謡です。
しっかりと内に込み上げてくる怒りを押さえながらも妻として年増女の強さがにじみ出なければいけません。
シテはツレの応答を待たずに、すかさず何故直ぐに連絡をしないのかと、叱りつけます。
その返答に夕霧は刺激的な言葉を返します。
「忙しくて連絡する時間がなかった、三年もの長い間都にいることになったが、それは自分の本意ではなかった」云々と。
この言葉はシテの気持ちを昂ぶらせ、人の言うことなど信頼出来ないと嘆かせます。
しかし今年には必ず帰るとの伝言に少し気持ちも晴れ、里人の砧打つ音に気がつきます。
蘇武の故事を語り自らも砧を打とうとする妻。
夕霧は賎しい者の業だが、妻の心が休まるならばと砧を拵えます。
その場所は妻の寝床と考えられます。それはかつて夫と共に過ごした場所でもあるのです。

前場はこのシテと夕霧との緊張感の中に、月の色、風の景色、影に置く霜、夜嵐、虫の音と、秋の風情を織りまぜ、シテの揺れ動く心情を、砧の音とともに謡い上げるところがみどころです。
夕霧については愛人だったとか諸説あるようです。シテは夕霧に対して「あんたお手がついたわね」というような気持ちで謡うのだと説明する先輩もおられ、その気持ちもわからないではないですが、それではあまりに許容範囲が狭過ぎると私は思います。
夕霧は芦屋何某の召使いです。当時の召使いとしての役割が、身の回りのお世話諸々となれば、そこには性的パートナーの面も含まれていたはずです。
『砧』の台本には夕霧が本妻の怒りを買うほどのライバル的な立場としては描かれていないと思います。
シテが夕霧に焼きもちを焼いて云々という事でこの戯曲が書かれたとは到底思えません。
少しの嫉妬はあるでしょうが、それは本筋ではないでしょう。
それではあまりに現代感覚過ぎます。
夕霧は妻公認の、かえって他でいたずらをしないためのお目付け役の女だと私は思います。
でなければ夕霧が側にいるのに、都の便りで主人の心変わりと思い込んで絶望して死んでいく件の辻褄が合いません。
夕霧もまた何某と同じで決して悪人ではないと思います。
ただこの夕霧は、妻の心を刺激し行動を起こさせるような微妙な言動を発します。
それ故に、ツレの夕霧は何某同様、この物語のもう一人の火付け人、キーパーソンとして重要な立場にいるのです。
その随所に面白いように妻が反応し癇癪を起こしたりするところに演じ方の難しさが隠されています。
砧の段に入って「宮漏高く立って風北にめぐる」と朗詠する謡がありますが、これを喜多流ではツレが独吟します。
囃子方も道具を下ろし、朗々と謡う聞かせ所ですが、ツレには難所です。
残念ながら、いままでこれは!という「宮漏高く……」は聞いたことがありません。
観世寿夫氏のパリ公演での『砧』の録音テープを聞く機会がありました。
観世流はここを地謡が謡いますが、その「宮漏……」のすばらしさには感動です。
地謡方のお名前を記載させていただきます。
地頭故観世銕之亟氏、山本順之氏、浅見真州氏、長山礼三郎氏、永島忠侈氏、浅井文義氏。連吟が見事に綺麗に揃い、透明感と緊張感がある逸品です。
この曲では「砧」がシテの心のありようを象徴しているように見えます。
後の地獄の責めでも砧を打ち続けなければならない因果応報。
それだけに、砧を打つ気持ち、作業がどのようなものなのかを詳細に演者が把握し表現できないと、おざなりの『砧』になり、手に負えない曲になると思いました。
この象徴ともいうべき「砧」の作り物について、我が家の伝書には記載がありません。
十四世喜多六平太先生が賎の者の作業するものを舞台に置くなどもってのほかと言われていた時期があると聞いています。
作り物は本来無いものでしたが、近年は曲そのものの象徴であり、出した方が演じ手も観客も判りやすいということから、十四世六平太先生もお考えが変わり、出されるようになり、今は出すのが当然になりました。
はじめは後場だけ出していた時期もあったようですが、最近は前場の物着の時に正面先に出し最後まで置いたままにしています。
そういう事情から、作り物を出した時の型付というのが喜多流には正直いってありません。
作り物を出すならば、それに似合った動きが必要で、今回、過去の資料などをもとにして工夫をこらす楽しみも味わうことができました。
砧を打つ型を二度にし、最初は「今の砧の声添えて、君がそなたに吹けや風」で少しヒステリックに打ち東の空を見送ります。二度目は「交じりて落つる露涙、ほろほろはらはらはら……」と意識も朦朧と憔悴寸前の態と、打ち方に変化をつけました。
ご覧になられた方はどのように感じられたでしょう。
感想をお聞きしたいと思っています。
後場は、妻の死を聞いた夫が帰国するところから始まります。
亡き妻に今一度再会したいがために梓の弓を引き、妻が砧を打った寝床で追善供養をします。
下掛宝生流の待謡は梓弓の弦を鳴らすことで、死後の妻と逢おうと願う男の気持ちが込められています。
喜多流の謡本では「かの跡弔うぞ有り難き」とありますが、これでは話は終わってしまい不適当です。
下掛宝生流のように「梓の弓の末はずに 言葉をかわす哀れさよ 言葉をかわす哀れさよ」となれば夫の妻への愛情が充分感じ取れます。

今回は後シテの出囃子を観世流の「梓之出」に近い演出でやりました。
我が家の伝書には、「この出端、鼓アズサ打つことあり、別の習い也」とありましたので、まったく喜多流に根拠のない事ではないので、御囃子方(一噌仙幸氏、大倉源次郎氏、亀井広忠氏、金春国和氏)のご協力のもと、流儀で初めて試みてみました。
アズサの音に引かれながら、シテは三の松にて一度止まり、砧の音を探します。
徐々に高鳴る砧の音とアズサの音に耳を傾けまた歩み始め、一ノ松にて「三瀬川沈み絶えにし……」と謡い「標梅花の光を……」で再び本舞台に入る演出です。
小鼓はアズサを打ち太鼓の音に執心が込められる、よい演出だと思います。
再度練り上げることで、より効果的な演出が考えられるのではないかと思っています。
後シテの面は「痩女」、装束は白練の坪折に大口姿です。
観世流の面は泥眼で鬼のような鋭い強さを表しますが喜多流の主張は痩女で、やつれて空しくなった女をひきずって寂々とした風情です。
そのため歩みも、「切る足」という独特の足遣いがあります。
炎熱の、または針の上を歩くが如く、また体力がなく痩せているからバランスが崩れているその様を表すとも、いろいろいわれていますが、先人達のそれを拝見してきてその手法が私の想い寄せる痩女の世界とは少し違う、隔たりを感じていました。
伝統とか、そのように聞いているからというだけではすまされない、技術的な問題があるように思えます。
現代は現代に似合った「切る足」であっていいと思い、今回はあまり極端な「切る足」は敢えてしませんでした。
これについては今後、流儀内での意見調整も必要だと思いますが、能という演劇が今という時間空間の上に昔を演じるのだということを理解したうえでことが運ぶといいと思っています。
キリの仕舞はじっくりとゆっくり演じるのが当流です。
しかし最後に怒りは押さえ切れずに勢いで夫に迫ります。
「夢ともせめてなど思い知らずや怨めしや」と。我慢の限界を越え、中啓を床に打ち、左手をさし出し夫に迫ります。
そして一方で、現世にいる夫であっても、今あなたと手を結び触れたい、でもそれも出来ないのかと悲しみます。ここは地謡も囃子方も激しく謡い囃すところで、シテもただメソメソするだけではない、荒くなってはいけませんが、強さ、激しさを込めなければなりません。ここもその度合いが難しいところです。
「思い知らずや怨めしや」が終わると、それが留めになってもおかしくないぐらいの一瞬の静寂、夫は法華経を読誦し、妻は成仏したと、この作品は終わります。後場での地獄の責め、死後も砧を打ち続けなければいけないという因果関係は、生前の恋慕の執念が死後の苦悩煩悩の地獄に落ちるという構図で、仏教思想を基盤にしてはいますが、『実盛』のような時宗の賛美のパターンとは異なり、そこが焦点ではないと思います。
法華読誦や成仏をクローズアップし過ぎてはこの作品が生きません。
世阿弥の時代背景を考え、作品構造上でのことと理解すればよいのです。
成仏とか宗教性とは別のところに、『砧』という作品の大事なメッセージがあると思います。
砧を打つ賎の業を主軸に、妻の夫への揺れ動く様々な感情の起伏。
一途に思うが故の怨みや激情。それはときに身勝手でありヒステリックでもあります。
女性だけでない、男性にもある、人類普遍の感情です。
現代風に身近な例をだすならメールのやり取りでもあります。
恋しい人にメールを送ったが返事が来ない。
どうしているのか?
私がこんなに思っているのに返事が来ない、あの人の冷たい態度はなんなのよと、怨み、怒り出します。相手はメールを見られない状況、見ても返信できない状態にあるかもしれない、しかしそんなことはお構いなしに送る方の感情は身勝手に増幅していくのです。

『砧』はそういった人間の普遍の感情の行き違い、心の葛藤を描いた集大成だと思います。
世阿弥は晩年、不遇の時を過ごしました。
体制の側にない芸能者のどうにもならない悲劇。
そこに耐え、あきらめながら、世阿弥はただひたすらよい作品の創造に執念を燃やし、そして仕上げた『砧』です。
生意気ですが「冷えた能」と世阿弥が自画自賛するのが、演じながら肌で感じられたような気がしたのです。
体の内部に熱い情念を持ちながらも、表面的には冷え冷えとした情感が漂うように演じなければいけない、演者にとって手ごわい能です。
私自身、人間にはどうしようもない事態がある、ということも少しわかってきた今、作品の曲目を深く読み込むことの重要性に気づき、演能レポートも書き始めました。
その作業の中で、私の演能形態に変化を与えた『砧』。
再演の喜びと初演の未熟さを恥ながらも、一つ一つの積み重ねの大事さが充分に身にしみる年となりました。
あまり思い詰めたり、物思いにふけることがない私が、いままだ『砧』の演能の余韻に浸り、演じ終えてしまった空しさを感じています。
そして世阿弥の残した「かようの能の味わい…」の「かよう」とはいったい何であったのだろうか、そのことがまだ心に残っているのです。
今回の演出の見直しを顧みて、昔なら演出を変えるなど、とても考えられない許されないことでだったと感慨を深くします。
今はよい時代となり、流儀では考え工夫する事が許される、さまざまな演出を試みることが出来きます。
本来出さなかった作り物は出すのが普通になり、切る足の所作も次第に変わってきています。
時代はよい方向に流れだしたと思います。
明治・大正の名人たちは魅力的で芸もすばらしかったでしょう、しかし現代の能も今を映しながら確実に進歩を遂げていると思います。
これからも作品の主張を見つめながら、一回一回の舞台を大事に真摯に勤めていきたい、そう思わせてくれた『砧』でした。
(平成16年10月 記)
能 『砧』前シテ 粟谷明生 撮影 あびこ喜久三
後シテ 粟谷明生
面 若深井 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
痩女 石原良子打 撮影 粟谷明生
唐織 梶葉模様紅無唐織 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
『半蔀』「立花供養」について投稿日:2004-09-11


横浜能楽堂特別公演(平成16年9月11日)で、『半蔀』を「立花供養」の小書で勤めました。私の『半蔀』は昭和59年、青年喜多会が初演で、これが三番目物に取り組む最初でした。先代宗家・故喜多実先生は若い世代の三番目物として『半蔀』『六浦』『東北』などを選曲され、それらは若者にとって大いに勉強になりました。私は未だ演じていませんが、類似曲に『夕顔』があります。『夕顔』は世阿弥作で構成的にもよく整理され、源氏物語の夕顔の巻を題材に、夕顔の上という人物像、可憐で儚い人生を歩んだ女を前面に出している曲のように思えます。
一方、『半蔀』は夕顔の上という人物像よりは、夕顔の花、夕顔の精に焦点が当たっているように見えます。作者は内藤左衛門、内藤河内守で守護代クラスの武士で細川高国という管領の家臣であったと、松岡心平氏は説明されています。あまり聞いたことがない人物ですが、『俊成忠度』の作者でもあると言われています。
今回の小書「立花供養」では、立花を花人、川瀬敏郎氏にお願いすることができました。私が川瀬氏の能舞台での立花を拝見したのは、昨年の橋の会・二日公演の二日目、シテ友枝昭世氏の時でした。ワキの言葉「中んづく泥を出でし蓮」のとおり、蓮の花が一輪すっと見事に長丁場立っている、その斬新さと無駄のない簡素化されたお花に驚かされました。シテは喜多流の友枝昭世氏、地謡は梅若六郎氏を地頭に観世流の方々、喜多流と観世流との異流共演の番組で、地謡の謡い方も勉強になりました。今でもあの日の演能と立花は忘れられず、私の脳裏に焼き付いています。衝撃的な一日でした。
今回の横浜能楽堂の催しは、実はあの橋の会の時に企画されており、すぐにも交渉に入りたかったのですが、川瀬氏が立花をやられて直ぐだったこともあり、少し難航しました。私としては、どうしても川瀬氏のお花で『半蔀』「立花供養」を勤めたい思いがあり、演出家の笠井賢一氏のご協力と、また横浜能楽堂のスタッフの方々のねばりある交渉があったからこそ実現できたと思っています。今、笠井氏をはじめ、横浜能楽堂の中村雅之氏や原田由布子さん、そして横浜能楽堂のご尽力、ご協力に本当に感謝しています。

近年、立花供養は草月や小原流でも行われていますが、本来は池坊に限られたもので、流儀の伝書にもそのように記されています。花の種類は季節により異なるようですが、今回のお花はススキが中央にすっくと立ち、桔梗や女郎花などの草花をあしらって秋の風情が漂うものでした。当日、川瀬氏が生けられている時に、我が家にある「立花供養」の伝書をお見せしたら、「ここに書かれているこんなに沢山の花を生けたら花だらけで、シテの姿が見えなくなってしまう」と仰っていました。お話しをしながら、その鋭い感性で生けられていく後ろ姿を拝見して、やはり当代の第一級の貫録だと感じ入ってしまいました。この度、川瀬氏とご一緒に舞台ができたことは、私にとって名誉なことだと喜んでいます。
今回の小書「立花供養」を勤めるに当たって自分の立場はどういうものか、すばらしい立花を前にして、演者である自分がどう演じられるかを考えました。通常は、夕顔の上という女性や夕顔という花の精をベールに包んで演じればそれなりになると思うのですが、あの立花があることによって、違った作用が舞台に現れてくると察したのです。川瀬氏が立花を持って幕から出てきた瞬間に、見所の人たちの目は一斉に立花に釘付けになります。正先に置かれてからも、その花の存在は大きく、舞台全体を支配しているといっても過言ではありません。その出来上がった舞台設定の中に、シテが出て行くとき、それは花と演者の融合なのか、拮抗なのか。あの美しい花にすべてを委ねて、その後ろで夕顔(シテ)はきれいに舞っていればいいのだろうか。それとももう一つ何かが必要なのだろうか。こんなことを考えながらも、かわいらしい夕顔の上と夕顔の花が、万華鏡のように観客の目に映ればそれで良いのかなとも思ったのです。
立花とは、僧が一夏(いちげ・90日間)の間、安居(あんご)し、つまり行脚せず修業するときに仏前に花(きり花)を供えますが、一夏安居が終わったときに、その花の供養をしようというものです。福王流の福王茂十郎氏にお話を伺ったところ、流儀ではワキが立花に一輪挿して「敬って申す」と謡うのが本来です、しかし最近は省略することが多くなりました、と仰っていました。また、小書「立花供養」では、福王流、下掛宝生流とも、中入後、アイとの問答の時に特別のワキの語りが入ることがあります。特に下掛宝生流では一子相伝として重く扱っているようです。今回は時間的な事情にもより、語りはなしとしました。
能の舞台進行では、ワキが立花供養をするのは前場の紫野・雲林院でのことで、後場の五条辺りは場所が変わるので、本来は、お花はシテの中入りと同時に後見が引くものとされています。お花を出すのも従来は後見が行っていました。今回のような瀟洒(しょうしゃ)な草花の場合は、後見が持って移動することは難しいので、川瀬氏が本幕から持って出て、正先に置き、そのまま据置の形としました。流儀の型としては、造花の夕顔を一輪、シテが左手に持って下居して立花に挿し、合掌してシテ謡となりますが、今回は敢えて挿す型は控えました。
シテは本三番目物としては珍しく、アシライ出で登場します。ワキが「敬って申す」と花に向かい読経をはじめると、シテは三ノ松まで進み出て、ワキ(僧)と立花を見る型となります。これは橋の会での友枝昭世師の創案の型です。再びアシライが始まると大小前に行き、立花に向かい下居して合掌し「手に取れば、たぶさに穢る立てながら三世の仏に花たてにけり」と謡います。『女郎花』では「折りつれば」と謡われる僧正遍昭の歌です。(花を折って供えれば手首によって穢れよう、咲いたまま過去、現在、未来の仏に奉る、の意)。そしてワキとの問答になります。立花の中に一輪、白い花夕顔がひとつ自分だけが楽しそうに微笑んでいるように見えるとのワキの言葉から、シテは自らが夕顔自身であると告げ、中入りとなります。
後場は、通常藁屋の作り物が常座に出されますが、今回は立花が据置のため、藁屋を橋掛の一ノ松辺りに置き、シテは作り物に入っての登場としました。
ワキが五条辺りに来て、寂れた小家を見つけると、中からシテの謡(一声)が聞こえてきます。そして地謡の「さらでも袖を潤すは廬山の雪の曙」でシテは姿を現します。
現在普通に舞われているクセの仕舞の型は伝書では座敷舞と書かれています。今回、正先に立花があるので、型はできる限り花に近づかないようにと心がけ、本来の、動きが少ない簡素化された型で勤めました。序之舞も、替の型で出来る限り花に近づかないようにし、三段のオロシ(序之舞の一部分)で袖を被き、とくと立花を見る型にしてみました。装束(長絹と箔)の質感や私の被き方に問題があったのか、三番目物らしくないというご意見や、あの立花にはあれぐらい派手な型が入っても良いのではとのご意見もあり賛否両論でした。
流儀ではシテの面は小面、後の装束は緋の大口袴に白の長絹が定番ですが、演じてみて、長絹はもう少し黄色味がかった時代を経たものの方が良かったかと、少し悔んでいます。

小書「立花供養」とは演者にとってどのようなものなのか、それが今回の勉強でした。花と演者の見事な融合とか、はたまた両者拮抗する反発力の美などと小生意気な思案をしていましたが、あの川瀬氏の存在感ある立花を目の当たりにしたとき、次第に遜色なく舞えればそれで良いかなと、消極的な自分が見えてしまいました。
花と演者が縦糸と横糸になって織り成していくような舞台をと、川瀬氏が話され、私自身もそのようなものを目指しましたが、存在感あるお花と向き合ってみると、立花が単なるオブジェではなく、みるみるその力を発散し始めるのに気づかされます。この不思議な感覚を舞台で感じることができるのは、正直、演者の私しかいないのではないかと有頂天になり、なにかマジックか催眠術にかかったような夢心地に浸りました。
日頃、演じるにあたってあれこれ考えようとしていますが、今回は曲の持つ主題や主張を云々するより、身体が感じたまま演じてしまったという反省が少しあります。いや、何を隠そう、それしかさせてもらえなかったという反省でもあります。それは、立花の持つ力もありますが、能『半蔀』が見事に簡素化され、夕顔の上の物悲しさ、源氏との恋、そして甘い思い出などを、ストレートに表現できないような仕組み、というより、そのように工夫されているからではないでしょうか。究極は、静かな回想の舞、序之舞をどのように舞えるかが勝負だというところに落ちると思うのです。そこに集中することがまずは第一かもしれません。しかしそれは演じ方、考え方としては一つの逃げかもしれない。
川瀬氏の立花を前に真の花を咲かすには、さらなる修業が必要だと痛感します。とは言え、横浜能楽堂特別公演という、大きな、立派な、華やかな、晴れ舞台に立てた贅沢な喜びに、まだまだ夢心地で浸っているというのが本音です。(平成16年9月 記)
写真
能『半蔀』前場 シテ 粟谷明生 撮影 神田佳明
立花 花人 川瀬敏郎 撮影 粟谷明生
小面 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
謡蹟巡り、木曾路の旅投稿日:2004-08-15

平成16年7月31日、8月1日と一泊二日で信州木曽路日義村に能『巴』の巴御前の故郷を訪ねる謡蹟巡りをしてきました。
東京よりJR長野新幹線にて長野へ、短い時間ながら善光寺にお参りし、篠ノ井線にて松本、塩尻を経て能『伯母捨』(喜多、金剛二流はこの字、他流は姨捨)の地、冠着山(姨捨山とも)のある姨捨駅で途中下車し長楽寺を訪ねました。姨捨駅は山の中腹にあるため、電車はスイッチバック方式と呼ばれる独特の運転で山を上ります。姨捨駅は電車の行き来も楽しめますが、ホームに降り立ったときの眺望のすばらしさは格別です。駅は無人、警報器もない踏み切りを横切り、先ず小高い姨捨公園で千曲川が流れる善光寺平の景観を堪能しました。公園から急な下り坂を500メートル程おりると長楽寺があります。この下り坂を歩きながら、同行のご高齢の方には帰りの上りがつらいのではと思い、途中で休んで待機されてはと申し上げましたが、皆さま頑張られ「棚田」などの名所を眺めることができました。中秋の名月ならばさぞ美しい景色でしょうが、この猛暑の中、汗を拭き拭き暑い暑いの姨捨で、それもまたよい想い出となりました。
再び乗車した電車は塩尻駅から中央本線へ入り、我々は日義村の宮ノ越駅で下車し、いよいよ今回の謡跡巡りのメインとなる『巴』や『兼平』そして喜多流にはない『木曾』にまつわるところをまわりました。
日義村は朝日将軍木曾義仲公の朝日の日と義仲の義をとり命名されるほど義仲贔屓の地で、義仲なくしては語れないほど、地元の人々に愛されています。宮ノ越駅からすぐ近くに木曾義仲の資料館「義仲館」があります。館のすぐ隣には義仲や巴そして家来達の墓がある「徳音寺」があり、山吹山に戻るように車を走らせると、巴御前が髪を洗ったと言われる「巴ヶ淵」があります。ここで参加者全員が『巴』を謡って供養し、義仲挙兵の地「南宮神社」と「旗挙八幡宮」にお参りし、最後に義仲の養父中原兼遠の墓のある「林昌寺」にもお参りしました。
宿泊地「駒の湯」は義仲が駒王丸と言われた若かりし頃、このあたりまで馬を乗り回していたであろうといわれるところで、静かな温泉地です。
翌日はこちらにも義仲の墓があるといわれる「興禅寺」にお参りし、能には関係ありませんが、江戸期に重要な役割を果たした山村代官屋敷跡を拝観しました。そして『兼平』『土車』に謡われる昔は難所の名所であった「木曽の棧」を見学し、喜多流にはない『寝覚』の舞台となる「寝覚の床」の景観を楽しみました。最後は上松(あげまつ)駅より南木曽(なぎそ)駅に移動し、妻籠宿を散策してこの旅を終えました。
涼しい、清々しい木曾路の旅を想像していましたが、今年の暑さは格別で、かなり疲れる旅となりました。それでも朝夕は気持ち良く、旅の疲れは同行の明生会社中の方々と温泉につかりながら・・・ということで、楽しい旅となりました。

暑い快晴の夏の日の姨捨駅。姨捨駅は全国でも珍しいスイッチバック式停車と列車給水の駅として明治33年(1900年)に開通しました。

姨捨駅ホームの右の線路は松本方面への下り線。

スイッチバック方式とは急勾配の途中に停車場を作るとき、本線から一旦分岐して折り返し停車する折り返し方式のことをいいます。写真で説明いたしましょう。まず松本からの電車は一旦駅をやり過ごします。

電車はバックして戻りホームに停車し、また方向を変えて中津川、名古屋方面に向かうというわけです。

姨捨公園より善光寺平の眺望。鏡合山から上る月がゆるやかに里に続く棚田や千曲川に映る美しさ。古来よりこの地を「田毎の月」と呼んでいます。一度秋に来てみたいものです。

長楽寺は決して大きなお寺ではありませんが、松尾芭蕉が更級紀行で名月の感動を歌に詠んでいます。

謡曲史跡保存会の立札、これを見つけると何故かほっとする。

駅近くにある丘陵地特有の棚田

姨捨駅は無人駅です。警報器のない踏み切りを渡る明生会社中。あるのは大きなミラーのみ。

電車のオレンジのラインと看板のラインが偶然一致しました。下車したのは我々10人だけでした。

宮ノ越駅近くにある義仲館には等身大の義仲の人形や絵画がありました。

義仲は平家物語では美男子と書かれています。この銅像もなかなかいい男。巴も美人で有名ですが、こちらはちょっと現代的な感じがしました。

義仲館の隣にある徳音寺は、義仲が母小枝御前を葬った寺で一族の菩提寺とされています。

境内には中央に義仲の墓、右側に小枝御前、家来の今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓碑があり、落ち着いた静かなお寺です。

義仲の墓

巴御前の墓には龍神院と書かれています。そのわけは?

巴淵は巴ヶ淵(ともえがふち)と呼ばれています。

巴御前の詳細が記されていますので、ご覧下さい。

山吹山の麓を迂回して形づくる深い淵に神秘的な渦がまくといわれています。眼下に見える淵の手前に浅瀬があり、巴御前にちなんで髪を洗えるところがあります。

周りに誰もいなかったので、安心して全員で『巴』の一節を謡い手向けました。

社中の方に、今回能『巴』を勤めると心に決めた方もいらしたようで、先が楽しみです。

義仲の戦勝祈願所。元は義仲の館を構えたところにあったようですが現在の場所に移されました。寂しい感じのする神社でした。

治承4年、源行家は以仁王の令旨を義仲に伝えました。平家追討の旗挙をして、この境内で戦勝祈願をしたことから「旗挙八幡宮」と呼ばれています。

拝殿脇にそびえる大欅は樹齢千年で幹の周囲は10メートルを越し日本古木の一つとして数えられていますが、近年落雷により二つに割れてしまいました。幸い片方の幹から緑の葉を広げ大木を今に残しています。

林昌寺は中原兼遠の菩提寺。墓地より木曾の山々が美しく見えます。

中原兼遠の墓。兼遠は巴の父であり、木曾義仲の育ての親でもあります。義仲の父、源義賢は武蔵大蔵庄にて源義朝の奇襲をうけ、その子悪源太義平に討たれます。義仲の母小枝は二歳の駒王丸を連れて畠山重忠を頼りますが、結局齋藤別当実盛によって木曾の中原家に届けられます。能『実盛』では「木曾と組まんとたくみしを…」と老兵実盛は自ら助けた木曾殿に首を打たれたかったようで、それを暗示しています。

宿泊地「駒の湯温泉」

興禅寺はきれいに整備されたお寺で義仲公の墓もありました。

義仲の墓。義仲は粟津が原で義経の軍に破れ31歳で世を去りました。その時の護衛はわずか5騎とも13騎ともいわれていますが、その中に巴の姿がありました。義仲は「死に臨み女を従えるは後世の恥」といって遺髪を巴御前に托します。ここにこの遺髪が納められているといいます。生憎今回は拝見出来ず残念でした。

木曾の棧は木曾街道の命がけの難所といわれ、木曽川の断崖に平行して掛けられた木の桟道でした。江戸期に消失してから石で補修し、今はその一部だけを見せていますが、謡で謡われた当時の面影を残すものは残念ながらありませんでした。

石が積まれているところが棧です。『兼平』のワキの道行には「信濃路や木曾の棧、名にしおふ」、『土車』では「殊更、当国信濃路や、木曾の棧かけてげに」と皆恐れながらここを通過したようです。

寝覚の床は木曽川の奇岩とエメラルドグリーンの水面が美しい名勝で、喜多流にはありませんが能『寝覚』の舞台です。延喜の御代に寝覚の床の三帰(みかえり)の翁が寿命めでたき薬を服し三度若やぎます。やがて天女や龍神が三帰の翁と共に現れ、薬を勅使に与え木曾の棧を打ち渡り、明け方の空に消えたという話です。また、竜宮城から戻った太郎が諸国を旅してまわり、途中で立ち寄った寝覚の里の美しさにひかれここに住んだといわれます。ある日昔を思い出し、床岩と名付けられた岩の上で玉手箱を開けた途端300歳の老人になったと伝えられています。岩の上の松の間には小さな祠の浦島堂がありました。

妻籠宿は全国ではじめて古い町並みを保存した宿場町です。この旅の最後はここでおみやげ三昧となり、無事旅行は終わりました。
駿河の国投稿日:2004-07-15

平成16年5月1日2日に明生会社中の有志にて企画された「三保の松原にて『羽衣』を謡うツアー」に行って参りました。また『羽衣』に因んだ場所や『三井寺』に関連する清見寺(せいけんじ)や『七騎落』にゆかりのある佐奈田霊社などの謡蹟も尋ねてきました。
能『羽衣』のキリの謡は「天の羽衣浦風に棚引き棚引く、三保の松原浮き島が雲の、愛鷹山や富士の高嶺…」とあります。この「浮き島」は富士山の噴火により出来上がったといわれる愛鷹山が太平洋との間に作った湿原地帯のことをいいます。このあたりは古代人の住み処でもあったようで、歴史資料の宝庫と聞いています。

沼津より三保の松原に向かう国道一号線の富士市付近の車窓から右手奥に富士山、手前に愛鷹山が見えました。浮き島とは国道と愛鷹山との間の一段低くなった湿原一帯のことです。

沢山の立派な松が群生しています。

天女が羽衣を掛けたと言われる「羽衣の松」。風の影響でしょうか、幹は大きくかなり曲がっていて松葉が少ないのが気になりました。能では漁師(ワキ)の名前は白龍(はくりょう)と書きますが、現地では伯梁(はくりょう)の字を当てています。

清見寺(せいけんじ)は東海道線興津駅の近くにあり、線路に面しています。
宗派は禅宗臨済宗で本堂は石を敷き詰めた中国式の形となっていると社中の松下宗伯氏が説明して下さいました。

丁度ツツジが見ごろでした。近くに「清見潟」というバス停がありましたので、昔はこのあたりも海岸であったと思われます。

左の塔が『三井寺』にでてくる鐘楼

清見寺の由緒

『三井寺』のシテは「常は清見寺の鐘を聞きなれしに」とこの鐘を聞いていたのです。

鐘楼からは太平洋が一望できますが、今は埋め立てが進みその景色は昔とはだいぶ違うようです。

『三井寺』の子方は「何のう清見が関の者と申し候か」と母に謡いかけます。ここは昔から重要な関所だったようです。

東海道線の根府川駅を下車して車で5分ほど早川の方に向かうと石橋山合戦場があります。「佐奈田霊社に訪れる人などいないでしょう?」とタクシーの運転者さんに尋ねると「いやー歴史愛好家が今でも沢山きますよ」と返事が返ってきました。

石橋山合戦と佐奈田霊社の説明。

佐奈田(真田とも)与一の塚。『七騎落』にツレの老兵岡崎義実が「自分の息子が佐奈田与一であり、頼朝に命を捧げた」と謡っています。

佐奈田霊社の全景です。

石橋山合戦の模様

戦いの時の与一の手形といわれる石。

これが与一の手形。本当かどうかは、わかりませんが、見ていると与一25歳の青年の無念な叫びが聞こえてきそうです。
貴重な大槻自主公演投稿日:2004-06-26

父、菊生の関西方面での最後のシテとなる大槻自主公演(主催観世流、大槻文蔵氏 平成16年6月26日)での客演公演、能『鬼界島』が無事盛会に終了しました。80歳を越えた高年齢や梗塞による障害、春の尻餅事件による腰痛の後遺症で、歯を食いしばっての父の力演でした。杖や床几の使用と特別な演出をし、ワキの宝生閑氏やアイの茂山千作氏と贅沢なお相手のお力添えを頂き、よい記念となる舞台となりました。
大槻自主公演の特色は演者を観世流一流に限定せず、広く他流の公演も催す画期的なものです。番組も計画的であり、毎回の斬新で優れた企画を私は高く評価しています。
父は喜多流の代表として、大槻文蔵氏よりシテを依頼されてから20年が経ちました。大阪という地は、決して喜多流の勢力が強いとは言えません。喜多流愛好家もさほど多くない状況下で大槻自主公演での喜多流の公演は貴重で、喜多流の能が観られる数少ない機会です。このようなお取りなしをして下さった文蔵先生には感謝の気持ちで一杯です。父は長年、大阪で指導に当たっていたこともありますが、それ以上に父と文蔵先生の親交の深さがその第一の理由であることは流儀の皆が周知しています。
この会では以前、能の前に観世流と喜多流の立合いの仕舞がありました。観世流は大槻文蔵先生、上田拓司氏、赤松禎英氏、喜多流は粟谷能夫、高林白牛口二氏、出雲康雅氏、そして私も競演の役を頂きおおいに勉強になり、良い刺激となりました。私がもっとも敬服することは、文蔵先生が観世流の内弟子さんに他流の能や仕舞の舞台を見せる機会を持ってきたことです。今このようなことを個人や団体で行っているのは少ないと思います。
昔、一時期故喜多実先生も他流の方々をお招きして、喜多流養成会なるものを起こし催しましたが、長くは続きませんでした。大槻自主公演の歴史の長さには頭が下がります。視野を広く学習させることは、流儀の良さ悪さが判り大切なことです。狭い思考になりがちな私たちの頭脳に大胆かつ新鮮な風を吹き込んでくれることと思います。今回、父の任は終えましたが、次に代わるものが生まれて、他流と交流する、このような喜多流の公演がなくならないことを私は切望しています。
幕に入り込むときの父の後ろ姿に、俊寛というよりは、役者粟谷菊生の舞台への必死な挑戦と達成を垣間見たように思いました。父の大槻公演での最後のシテの姿が俊寛にオーバーラップして私には残酷でもあり、悲しい場面として心に残りました。そして、父に教えられた言葉「芝居しては駄目、でも芝居心がなくては駄目」という名言が脳裏をかすめ、大槻自主公演で得た「他の舞台を良く見ること」の意識に立返ろうという思いも起こさせてくれたのです。
謡蹟めぐり 大阪近郊投稿日:2004-05-15

16年3月15日、住吉大社、浅澤神社、遠里小野(おりおの)、仁徳天皇陵、道明寺のコースで謡蹟巡りをしました。
津の国住吉の里は、昔住之江、墨江などと呼ばれ、能『高砂』の待謡「はや住の江に着きにけり」にある通り、難波の入り江は住吉大社近くまで迫り、大社前には燈篭がいくつもありました。今は埋め立てがすすみ住吉大社前は大きな住吉公園となって昔の面影はありません。
住吉大社近くの道場館の人に、浅澤神社や遠里小野への道を教えてもらい、昔を偲ぶ風情でもと、遠里小野らしい写真欲しさに、少し期待しながら熊野街道を歩きました。電車で4駅分もの長距離を歩いても、それらしき景色はなく、あきらめて堺市と住吉市を渡す「遠里小野橋」から路面電車に乗り住吉大社まで引き返しました。
昼食後、仁徳天皇陵へ向かいました。月曜日のため博物館、日本庭園は休館とは知りながらも、やはり近くまで来ると拝観出来ないのが心残りでした。
百舌駅から天王寺駅まで戻り、道明寺へ向かいました。道明寺は道明寺天満宮と寺と二つに分かれていますので、お寺から先に参りました。看板にご本尊十一面観音の記載があり、喜んで本堂に行くと拝観は18,29日のみとあり落胆しました。それでも絵はがきを買いお話を伺ううちに、自分が能楽師であると明かし、能『道明寺』のなかで謡われている木ゲン樹のことなどに話が及んでくると、「特別に拝観させてあげましょう」との尼僧のお言葉。大喜びして拝見いたしました。御堂で、尼僧が道明寺の歴史などいろいろ説明して下さり、実りある一日となりました。
天満宮はお寺の隣にあり、敷地は広く桜も咲き始めていました。本殿の前には能舞台が有り、5月には天神能が催されるようです。梅園は花の時期を過ぎていましたが、シーズン中はなかなかの混みようだろうと推察出来ました。
今回の旅では奈良や京都に比べ、謡蹟保存会の立て札も無く、昔を偲ぶ旅にはなりませんでしたが、楽しい一日を過ごすことができました。

住吉高燈篭は今は住吉公園近くの交差点にあります

急坂な太鼓橋の上より住吉大社。
昔は西の海に面し前には広大な松原があったようです。
『高砂』は「岸の姫松幾世経ぬらん」「松影もうつるなる」などこの地の松に縁があります。
他に『岩船』『住吉詣』にもゆかりの地です。

四社ある本殿は住吉三神と神功皇后が合祀されています。
『雨月』の西行法師もここに参詣しています。

浅澤神社は杜若苑ともいい、空濠には杜若が植えてある小さな社です。
『富士太鼓』『梅枝』の富士の妻とその子供を祀っているといわれています。

遠里小野にある街道石碑。家が建て込んで、能『雨月』の村雨の風情を感じるところではないと思いました。

今も街道は狭い。

遠里小野(おりおの)は能『雨月』では(とおざとおの)と謡います。

住吉大社に戻る車中。

路面電車

仁徳天皇陵

道明寺

小さくても品のある山門。

境内は静かで広い。

道明寺の解説。

十一面観音が安置されている本堂。

杏子と山門。

能『道明寺』のワキの夢枕に出た「モクゲン樹」。この木の「木の実」で数珠を作ります。夢はこの数珠で念仏百万遍を修業すると往生できるというもの。

道明寺天満宮

『老松』にも謡われる「さざれ石」。

「さざれ石」はいくつもの小石が集まり出来たものです。

橋掛りのない能舞台でした。

「白太夫が小忌の袖より取るや笏拍子…」の白太夫社。能『道明寺』の後シテは白太夫の神です。楽を奏し木の実を振るい落としたと見ると、僧の夢は覚めました。

本殿後ろに梅園があり、梅の香が匂う時期にまた来たいと思いました。
祝言の能『田村』について投稿日:2004-05-10


平成16年5月10日、広島薪能にて能『田村』を勤めました。『田村』は青年時代に稽古能でいたしましたが、公開のものでは今回が披きとなります。
先代宗家故喜多実先生は、青少年時代の稽古には厳格な一貫性をもって指導にあたり、我々直弟子はそれらを順次皆平等に平物(ひらもの=位が軽いもの)から稽古を受けて精進してきました。脇能ならばまず『賀茂』から始まり、『高砂』はなかなか許されませんでした。二番目物ならば、まず『経政』『知章』『箙』『田村』『敦盛』、次に『兼平』『巴』『八島』等が許されます。『清経』『通盛』は過去に記録がなく、勿論『実盛』『朝長』は論外です。『箙』『田村』『知章』『敦盛』などが選曲される理由は、前シテが直面の里男や『田村』のように少年であることが若いシテにとって取り組みやすいということではないでしょうか。特に『田村』の演能回数が多いのは、この曲が人間的な翳り悲しみとは無関係であり、心持ちより祝言性を基盤に脇能的な素直な稽古法で対応できることが大きな理由です。青年喜多会の過去の演能記録を見てもそれは歴然と判ります。
青少年時代、『田村』のキリの仕舞は『八島』と同様よく稽古させられたものです。少年時代は太刀を抜く能がかっこ良く憧れもあったので、『田村』を舞うときは「『田村』は刀を使わないんだなー」と子ども心にこの曲にもう一つ魅力を感じなかったことを思い出します。
キリの仕舞は「いかに鬼神もまさに聞くらん。千方(ちかた)といっし逆臣に仕へし鬼も…」と鈴鹿山の鬼神退治の話です。今昔物語には千方という頭領が鈴鹿山に立て籠もり、風鬼、火鬼、土鬼、隠形鬼と呼ぶ四人の手下を使って悪事をしていたので田村麻呂が退治したと記されています。白洲正子氏は山に住む異質の人種を「鬼」と呼んでいたと書かれています。私も鬼神、鬼の悪事とは先住民の抵抗であったと思います。能での「千方といっし」と謡われている世界と今昔物語では事実関係がすこし違っていますが、そこが能らしい演出なのかもしれません。
修行時代はとにかく「大きな声で…、張って謡え…」とひたすら身体で覚えさせられました。詞章がどうのこうのというのは問題外で、身体にたたき込んだものは意味も判らずとも詞章がすらすら出てくるので、これは究極の習得法だと今でも確信しています。しかし今、その指導法に感謝しながらも感じる事は、そこに停滞して満足していてはいかがなものか、それでは若き日となんら変わらず、なんとも情けないではないかということです。演能レポートを書きまとめるのは、そういう作業をすることで作品の見直しをし、もう一度身体に作品を浸透させるための手段だと思っています。
『田村』は勝修羅物と言われますが、実は修羅物ではなく祝言の能です。修羅物は修羅道という地獄に落ちた武将の妄執の責め苦を主題にしていますが、『田村』の詞章には「詞を交す夜声の読誦」と一言だけ仏教的な臭いがするものの、全体には祝言性に満ちています。修羅物と呼ぶのは江戸式楽の影響で、勝修羅三曲が特に武士に好まれたのは江戸期という時代背景によると思います。とりわけ初代征夷大将軍を扱う『田村』は征夷大将軍である徳川家には我が家の誉れを世にしらしめる恰好の曲だったのです。

前シテは通常、黒頭、水衣に着流し姿で面は童子(どうじ)です。面を喝喰(かっしき)にする時もありますが、そのときは喝喰鬘となります。この両者の面の違いは、演者が前シテを神道に関わる者と解釈するか仏教に影響を受けた者と受け取るかによります。地主権現の花守ならば神道系として「童子」が似合い、清水寺に関連づけると仏教色が濃くなり「喝喰」を選択したくなります。喝喰とは禅宗の寺に仕える半俗半僧の童子で食事などの世話をする少年を意味し、額に特別な髪型が描かれています。このたびは「童子」を選択し演じてみました。
後シテの装束は修羅物には頭に梨打烏帽子をつけるのが決まりです。梨打烏帽子は源平の区別で左か右に折ります。右に折るのが平家、左折(ひだりおり)が源氏です。昔、勝ったほうが左折で、負けが右だと誤解して装束をつけていた方がいらして、出る間際に折れ方が違うと言われ直していたことがありました。例えば『兼平』は戦では負けましたが、木曽義仲の家来ですから、源氏方、当然左折りです。ここで問題なのが『田村』です。当時はまだ源氏平家の区分けははっきりしていないので難しいところです。どちらに折るかと判断に困っていた時に「勝修羅だ、左折りにしておこう、そのほうが格好いいだろう」という意見が出てそのまま今に継承されているのが現状です。能夫氏が一度、折らずに真っすぐ立てて試みましたが、やは
りどちらかに折ったほうが落ちつき見栄えがよいというので、現在は左折りが主流です。
前場は春、桜の満開の京都清水寺地主権現に花守の少年が登場し、ワキの僧に清水寺縁起を語り僧に問われるままに名所案内をします。
現在地主神社の前には当時の桜はなく何代目かの地主の桜です。桜にも寿命があり、次第に枯れてしまうのだそうです。昔からある巨大な名物桜などを見ると永遠であるかのように錯覚していました。前シテは坂上田村麻呂の霊というよりも、神の使いとして大事な地主の桜を守る少年の花守として登場します。神聖な桜を折る者や花の下での宴から守るために花守が設定されているかと思うと、いつの世も衆生のあさましさを痛感します。以前、故観世銕之亟先生が夏の薪能で『田村』を舞われたとき、ワキ柱と目付柱に桜の造花を立てられたことがありました。先生が「こんなに暑い時に、いくら春の長閑さ、桜の満開を謡ってもお客様にはイメージが湧かないでしょう。薪能という機会だからこそ少しサービスをしてもいいのではないかな……」と仰っていたことを思い出しました。今回は桜の季節には遅れをとりましたが、春風を感じながらの『田村』は演じていても気持ちの良いものでした。
中入前の地謡に「地主権現のお前より、下るかと見えしが、下りはせで坂上の田村堂の軒漏るや月のむら戸を押し開けて内陣に入らせ」とあります。田村堂を想定して東方(揚げ幕の方)をカザシ見て、扉を開ける型をしながら中入りします。この田村堂の内陣は普通は拝観できませんが、先日テレビ番組でこの開山堂(田村堂)の内陣を見ることが出来ました。内部はお堂に向かい右側に田村麻呂の像、左側には高子妻室の像が安置されていました。能では田村麻呂が妻高子のために清水寺を建立したとは謡いませんが縁起物語ではそのようです(清水寺縁起しおり参照)。清水寺は修学旅行では欠かせない名所で誰でも一度は行かれていると思いますが、意外とその宗派は知られていません。唯識を唱えるこの寺は過去にいろいろな経緯がありましたが、奈良(南都)に対して京都(北)であるので北法相宗の本山となります。
後場は甲冑姿にて武将坂上田村麻呂が東夷を平定し、鈴鹿山の鬼神征伐の勝因は清水寺ご本尊千手観音の仏力であると讚えます。

勝修羅三曲では『箙』は「よく弔いて」と終曲し、『八島』は救済を求めない強い義経像を描いています。『田村』は喜多流には「祝言之翔(しゅうげんのかけり)」の小書や、また曲名の頭に白の字をつけた『白田村』があることからも、祝言性を強調した曲であるといえます。「祝言之翔」は面が「中将」となり、位が重く静かなゆったりとした翔になります。翔は翁の舞の片袖を捲く型が入り、戦況よりもめでたさを祝う特別な型となります。『白田村』は後の面が「天神」で鍬形を着し装束は白を基調として狩衣を衣紋に肩上して、型も橋掛りで行われ緩急が付く特殊な型となります。
今回、通常の『田村』を修羅物の枠から外し再考する、そのひとつの手段として、面や、出立ちにも特別な組合せを考えてみました。後の面については八帖花伝書や実鑑抄に「『田村』は祝言の修羅也、平太は祝言に掛けぬ面也。平太は坂東武者の顔也」と、「平太」は『箙』の梶原平太景季の専用面のように記載されています。「天神」では『白田村』に近づき過ぎてしまいます。今回は、我が家の伝書に「三日月」にもと記載されていましたので「三日月」とし、特別に鍬形を着けて試みました。装束は最後に記した通りです。父は装束を見ていると『白田村』のように緩急をつけて謡いたくなると笑っていました。能夫氏はこれぐらいの事をしないと曲が生かされないから、良い選択だったと賛同してくれました。今後も伝統や伝承を大事にしながらも、それを鵜呑みにしないで、自分なりの作品を立ち上げていく、作品を生かす演出や説得力のある舞台を勤めていきたいと、改めて気持ちを引き締めています。
ここに今回の後シテの出立ちを書き記します。
着付紅入厚板、白地狩衣(肩上)、紺地半切、太刀、面三日月、鍬形、梨討烏帽子、黒垂、勝修羅扇。
(平成16年5月 記)
能『田村』前シテ、後シテ 粟谷明生 撮影 石田裕
面 慈童、喝喰 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
清水寺の田村堂と音羽の滝 撮影 粟谷明生
(清水寺縁起しおり参照は下記)
清水寺の縁起

音羽山清水寺は、1200余年前、奈良時代の末、宝亀9年(778)の開創になります。
奈良子島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、幽邃の音羽山腹の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで永年練行中の行叡居士より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵にまつったのが、当寺のおこりであります。
その翌々年、坂上田村麻呂公が、高子妻室の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねて延鎮上人に会い、殺生の非を諭され、鹿を弔うて下山し、妻室に上人の説かれたところの清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置したのであります。
その後、延暦17年(798)上人は坂上公を助け、協力して更に地蔵菩薩と毘沙門天とを造像してご本尊の両脇士とし、本堂を広く造りかえました。

音羽の滝は、清水滾々と数千万年来、音羽の山中より湧出する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、ここより「清水寺」の名がおこりました。
古来、『源氏物語』『枕草子』にも記され、謠曲『田村』『盛久』らにも謠われ、浄瑠璃・歌舞伎『景清』に演じられ、広く篤い崇信を集めてきました。
寛永10年(1633)現在の規模に再建され、国宝の本堂、重要文化財の15建造物を中心とした堂塔伽藍の輪奐の美は、観世音の信仰とともに、観音霊場として多くの人々に渇仰されるところであります。
京都東山の中央・音羽山を背景にした絶佳の場所に位置し、京絡の町の南半を瞰下し、約13万平方メートルの寺域は春は桜、秋は紅葉と、四季の景観はすばらしく、観世音補陀洛楽土と仰がれております。
本尊の十一面千手観音菩薩は、霊験あらたかな観世音として著名で、西国三十三所観音霊場第十六番の札所として香華のたえることなく、全国屈指の名刹であります。
「松風や音羽の滝の清水をむすぶ心は涼しかるらん」
『八島』の修羅道について投稿日:2004-04-01


能『八島』は、喜多流では『八島』と書きますが観世流は『屋島』です。もっとも観世流も大成版以前は『八島』と書かれていたようですが、八の方が末広がりでめでたい感じがします。
私が『八島』の仕舞を勤めたのは今までに25回を数えます。それは若い時分、父が舞う機会があれば必ず『八島』と番組に記載したことに依ります。青少年時代は義経の修羅の苦患、妄執などは無縁で、ただ元気よく舞えばいいと思っており、指導法も強く強くと理屈抜き、身体を激しく動かすことに集中していました。子どもの頃は謡本を見ることなく、先生の謡われた通りの鸚鵡返しの稽古なので、シテ謡の「今日の修羅の敵は誰そ、何、能登守教経とや」を「今日の修羅の、かたき、わたそ(渡そう)、なにの とのかみ(何の、殿守)」と発音していました。音(おん)だけで覚えて起こる現象です。お恥ずかしい話ですが、それでも通用してきたので可笑しなものです。
ツレは6回勤め、その内3回が伯父故新太郎のシテでした。伯父は『八島』が好きだったようです。このツレは若者でなければ舞台映えしません。私も20歳に伯父のツレを初めて勤めてから、最後は37歳、父菊生のNHKテレビ放送の録画の時で、ぎりぎり間に合った感じです。以前は一声の「漁翁夜西巌に傍って宿す、暁湘水を汲んで楚竹を燃くも(老いた漁夫が夜に舟を西岸に寄せて宿り、明け方に湘江の水を汲んで楚竹を焚く)」の漢詩の意味など皆目判らず謡っていたのが実態で、今思い出しますと照臭い限りです。
私はこのツレが誰であるか気になりました。何者か判然としないこの役が物語を立体化させるとか、語りに立体感をもたらすための工夫だと言われる方もおられますが、どうも説得力に欠けます。演じる側としては、誰々と指定されたい気持ちが強く、大半の演者は義経の家来であると思っていて、とりわけ佐藤継信ではないだろうかという意見が多いのです。しかし佐藤継信ならば後場まで居残る喜多流の演出では弓流しの場に居合わせるのが理屈に合いません。高林白牛口二氏は、ツレは義経の霊の分身であると説明されます。義経の霊は漁翁一人として登場するのではなく、ツレの若い漁師にも乗り移って分身として登場するということです。これならばツレが後場まで残る喜多流の主張に合うはずと述べられました。私は今、この説が一番妥当ではないかと納得しています。

先代宗家喜多実先生は、シテの中入と同時にツレは後ろ(地謡側)を向くように指導されていましたが、これは見所に御尻を向け、しびれている足が丸見えで見栄えも悪く、現場はかなり抵抗感がありました。特にアイが「那須語(なすのかたり)」という那須与一が扇の的を射る話を演じる時には景色が悪く、野村萬斎(当時野村武司)さんの披きのときには、私(ツレ)は一旦立って笛座後方に移動し、後シテの一声の登場でまた地謡前に着座したと記憶しています。喜多流の場合、後場にツレが着座する必要性は弓流しの段にツレの謡があるからです。今回厳島神社の御神能という奉納の場でもあるので、試演として従来のやり方を見直し、ツレの友枝雄人氏には中入でシテと共に退場してもらい、後のツレ謡は地謡で謡うことにしました。また通常二同(にのどう=二つ目の同音)「鉢附の板より引きちぎって」のところでツレは立ち地謡前に移動しますが、今回は初同「さて慰みは浦の名の」にて移動して、シテとツレの舞台上での交差を避けてみましたが、効果ある演出と喜多流内部では好評でした。
『田村』『箙』『八島』の勝者の三番を勝修羅と言いますが、この区分けは江戸式楽以降の発想でいかにも武士好みです。作品内容を考えると『田村』は清水寺観世音菩薩の功徳を祝言能として描き修羅とはいえません。『箙』は梶原景季の勝修羅としての勇壮な能といえますが、『八島』の主題は修羅道(敗れても再生し戦い続け苦しむ世界のこと)に苦しむ武将義経の苦悩だと思うので、単に勝修羅と区分けすることに今は意味を見いだせないように思えます。この勝修羅といわれる三曲は青年期までに稽古し習得しておかなくてはいけない曲ですが、稽古順は『田村』『箙』、そのあとに『八島』となります。
能『八島』のシテは昭和59年(29歳)粟谷能の会で披き、今回(厳島神社・御神能 平成16年4月16日)は20年ぶり、「弓流」の小書での再演となりました。『八島』が世阿弥作であることは間違いないようです。作品構成は上手く整理され申楽談義にも「道盛、忠度、義常、三番修羅がかりにはよき能也」と載っています、『義常』は『八島』と言って問題なく、ワキの宿借りの問答は『松風』や『絃上』にも似て、シテもツレも言葉を間違え安く、気を遣うところです。

『八島』の前シテの面は本来「三光尉」ですが、今回御神能に用意された尉の面に「笑尉」がありましたので試しに使用してみました。表情は名前の如く、笑んだ顔のため修羅の苦患とは無縁な前シテとなってしまいますが、能楽師の好奇心で、一度はつけてみようという遊び心でつけてみました。結果は人物像に陰りが出ないのでいま一つだったように思えます。
塩屋に通された僧(ワキ)が八島の合戦の模様を尋ねると、老人(シテ)は「あらあら見及びたるところを語って聞かせ申し候べし」と語り始めます。この語りが聞かせどころで、あまり熱が入り力が外へ発散し過ぎては尉の語りには似合わず、抑制を意識し過ぎ内へ引きこもると臨場感の欠けた修羅場の語りではなくなり、面白味が半減します。丁度よい頃合いを体得することが演者の大事な修業過程の一つで、今回も苦労したところです。
老人は屋島の合戦の有り様をまず義経の装束描写と名乗りから始めます。ここは平家物語「継信最期」の原文に添って前半の見せ場の始まりです。語り終え我に返るように「今のように思い出されて候」と一旦落ち着くように謡いますが、能夫氏は、「菊生叔父や新太郎は、あそこは、最後まで強い口調で熱く謡っていたなあ」と話してくれました。能夫氏は一旦冷静に静まるからこそ、供の男(ツレ)が謡い出す戦況場面がまた生きてくるのではないかと言います。私も同感です。シテを挑発するかのような謡が、ツレの大事な仕事で、その触発にまたシテが語り始める、そのような繋がりの面白さなのです。
平家物語原文では、物語の進行は継信最期、那須与一扇の的、錣引き、弓流と進みますが、能では錣引きの後に継信最期の話となり、那須与一扇の的は狂言方が担当して、後場で弓流となります。子どもの頃より、能の世界で書かれた歴史に慣れ親しんできたため、誤って歴史を認識していたことを知りました。今回平家物語を読み直し、能の屋島の合戦が平家原本とどのように異なって戯曲化されているかを知り勉強になりました。

三保谷四郎と悪七兵衛景清の錣引き、ここも緩急と語る口調に気をつけなければいけないところです。やり過ぎては老人の枠から外れてしまい、内にこもり過ぎては気持ちが伝わりません。こういうところを偉大な先人たちはいとも簡単にやっておられたように思えます。見ていた時は自分も簡単に出来る気でいたのですが、いざ舞台に立つとなかなかうまくいきません。「鉢附の板より引きちぎって」で両手を放し両者が左右にどっと分かれる型がありますが、床几に腰掛けた少ない動きの中での型で難しいところです。この錣引きの模様は能『景清』の方が詳細にリアルに演じられています。『八島』では「これをご覧じて義経」でシテは床几から立ち、継信最期の話へと移ります。義経目掛けて能登殿が放った矢を、継信が身代わりになって受け、馬からどっと落ちます。平家方は教経の郎党、菊王丸が継信の弟忠信に討たれ、源平共に哀れに思い、互いに引き潮のように兵を引き、あとは磯の波や松風ばかりの音が寂しく聞こえるという地謡の謡で、シテはワキに静かに向かい下居します。小さな動きながらも激しい戦闘場面、ここが上手く繰り広げられなくてはと、演者が奮闘するところです。この後のロンギが唯一幽玄の世界となります。世阿弥はここを最も大事にしていたようで、最後の「よし、常の浮世の夢ばし覚め給ふなよ」は、義経と、よし、常の浮世の掛け詞でしっとりとした雰囲気を出し、悲劇の英雄義経の姿を垣間見せて中入します。
今回は小書「弓流」ですのでアイは「那須語」となります。語りの最後は「乳吸えやい、乳飲ませいやい」で終わります。この面白い表現、よくよく調べてみると、「よくやった、でかした与一、褒美に女性のところで甘えてくることを許すぞ」ということのようで、このいかにも武骨な武将らしい言葉の使われ方が私は好きです。
後シテの面は通常、平太(赤)ですが、小書の時は白平太になります。生憎厳島神社には白平太がなく、残念ながら常の平太(赤)にて勤めました。出立ちは厚板、半切、法被の肩脱ぎとなりますが、古来は厚板の上に法被と側次を重ねていました。以前『箙』の時も試してみましたが、なかなか重厚感ある扮装なので今回もまた付けてみました。
一声で「落下枝に帰らず、破鏡再び照らさず、然れども猶妄執の嗔恚とて…」と修羅道での苦悩、妄執を嘆きますが、不思議と救済を求めないのが、この曲の特徴です。おめでたい勝修羅といわれる所以でしょうが、根幹のテーマはやはり殺人者の懺悔、成仏への懇願ではないかと私は思っています。しかしそこを明らかにしないところに、この作品の妙な明るさと特別な味わいがあるようで、判官贔屓にはたまらないのかもしれません。私は今回演じて、何かふっきれない、すっきりしないもどかしさを感じました。勇壮なだけではない、義経自身の悔しさ、敗北者の悲劇がどうにか表現出来ないだろうかと試みましたが、手ごたえを感じるまでにはいかなかったことが反省点で、少し残念に思っています。

喜多流の弓流は、我が家の伝書には「囃子方、装束に変わりなし」、「舟を寄せ熊手にかけて、既に危うく見え給いしに」後に立ち、少し出て下居、「其の時熊手を切り払い」と切り払う型をするとあります。今回は下居せず元の座にシサリながら左手に弓(扇)を抱えたまま床几に腰かけました。弓流はこのもとの所に戻るのが難儀で技の見せ所です。「後見は床几にくれぐれも触れぬこと」と注意書きがされています。最後の仕舞どころに緩急がつき、橋掛りでの特殊な型が入り、「春の夜の闇より明けて、敵と見えしは群れ居る鴎」とまた舞台に入り、激しく面遣いして常座で廻り返しをして留拍子を踏み終曲します。
源義経という人は平家を滅ぼすためだけに生まれてきた人ではなかったでしょうか。義経が登場する能は『鞍馬天狗』『橋弁慶』『関原与一』『熊坂』『烏帽子折』『八島』『正尊』『安宅』『船弁慶』『摂待』などですが、シテが源義経(『関原与一』のシテは牛若丸)はこの『八島』だけです。負けず嫌いの源氏の御曹司は百戦錬磨の名将義経となりますが、壇ノ浦の合戦以降は、人生の歯車がかみ合わなくなります。政治家頼朝の策略に使い捨てのように使われ、奥州、藤原家を頼みに下向しますが、遂に衣川の戦いで自害して果てます。一の谷合戦の奇襲作戦、屋島の戦いの前に逆艪問題で梶原景時と対立し猪武者と言われても「勝ったるぞ、ここちよき」と尻込みを嫌う性格、壇ノ浦合戦では楫取、水夫(かこ)を射殺すルール違反の新戦法で勝利し、あくどさも見せつける義経。これらの出来事で修羅道に落ち、梵天に攻め上っては負け、攻め上っては負けという戦いの日々を暮らす義経の苦悩、これがこの曲の主題であり、そこが表現出来なくては意味がないと思っています。
大槻文蔵先生は、能は歴史の王道を歩いた人ではなく、そこからこぼれた人を描いている、平家物語は歴史を上から書いているが、それを下から描いているのが能だと仰っています。すばらしい言葉で心に残ります。
私はどうにかして義経の心の奥深いところにくすぶっている嗔恚(成仏を妨げる生前の怒りの心)と妄執の苦悩を表現できるような『八島』を勤めたいと、再挑戦を心に期しているのです。
(平成16年4月 記)
写真
『八島』 シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
面 笑尉 (厳島神社蔵) 撮影 粟谷明生
『野守』を舞って投稿日:2004-03-24

16年3月24日、囃子科協議会にて『野守』の舞囃子を勤めました。
「囃子科協議会に呼ばれたら一人前だ」と父がよく口にしていました。つい先日、観世流の野村四郎先生とお話した時も、やはり同じように仰っていたのを思い出します。昔は初めて囃子科協議会に出演依頼されたら後は祝杯をあげていたと聞いています。それほどシテ方には名誉なことなのです。
この会は、以前は年4回第三水曜日の夜の公演と決まっていましたが、最近は昼間の公演もあります。囃子科協議会は流儀の違う舞囃子が3,4番と狂言一番、そして一調があるときもありますが、最後に能が一番という番組です。出演依頼については、父のツレは別にして、初めて個人的に依頼を受けたのが平成8年、ちょうど40歳の時で『御裳濯』(みもすそ)の舞囃子でした。次に平成12年『女郎花』の舞囃子、今回は3回目となりました。
喜多流では『野守』の仕舞は位が高く難しいものとされていて、先代宗家喜多実先生は中、高校生の時分では手がけることをお許しになりませんでした。当時どうしてなのか疑問を抱いていましたが、その理由は能を勤めて判った次第です。
私の『野守』の披きは厳島神社の御神能でした。その時、小鼓の横山貴俊先生に後シテについてご注意を受けました。「キリ能でありながら、大嶺の雲を凌ぎからの小のりは『野守』独特のリズムがある、あれは土着民族のものです。それらしく謡い舞わないといけません」と。忘れらないお言葉でした。私としては気や力を抜いて勤めたわけでもないのにと当時は納得出来ず、深い意味が理解出来ませんでした。後に、軽快な動きが面の小ベシミや曲趣とうまくかみ合わなく映ったのではないかと、この曲はどっしりとした重みが必要であると知りましたが、その演技法を体得するにはそれからかなりの時間がかかりました。
その後粟谷能の会にて「居留」の小書で再演いたしましたが、とにかく『野守』は動きが激しいので、『鵺』同様あまり年を経てからの演能は敬遠しがちです。「居留」は最後に塚の前で飛び安座して奈落に落ちる様を表し、残り留めになります。『石橋』の留めと同じ型になります。この時の『野守』居留は当時、三役や他流の仲間たちと稽古し再考したものでした。これについては阿吽の稽古条々にもそのうち記載したいと思いますが、能を作り出す喜びを仲間と分かち合いながら楽しく過ごし、私にとって貴重な体験となったのです。
写真 『野守』居留 粟谷明生 撮影 三上文規

沖縄公演と観光投稿日:2004-03-15

平成16年2月28日、29日は「国立劇場おきなわ」の開場記念公演として「沖縄の伝統芸能に影響を与えた本土の芸能 能楽」と題し、観世流、喜多流二流の公演が催されました。喜多流は28日、半能『石橋(連獅子)』シテ香川靖嗣、ツレ塩津哲生、29日、能『船弁慶(真の伝)』友枝昭世の番組でした。
28日の喜多流の『石橋』は夜8時頃からの公演のため、昼は喜多流有志でマイクロバスをチャーターして、那覇市内を観光しました。
沖縄みやげ話
今回、食べ物の注文の仕方に驚きました。
普通「トンカツ」と注文したら「トンカツ」一品が出るものですが、沖縄では「トンカツ」といったら「ごはん」と「みそ汁」はセットになっています。
本土の人が、「トンカツ定食」を食べようと、メニューを見たら「トンカツ」としか書かれていないので、お店の人に「トンカツ」と「ごはん」それに「みそ汁」もと注文しました。店の人は少し驚いたようですが、注文した人が大変太っていたので、注文通り、品物を出すことになりました。
さて運ばれてくる品々を見てびっくり!「みそ汁」と「ごはん」が山のように並んだのです。
何故なら、頼んだ「トンカツ」には元々「ごはん」と「みそ汁」があり、本土の「トンカツ定食」にあたります。
しかし太った注文人は、ご丁寧に「ごはん」と「みそ汁」もと注文してしまったから大変です。まず「ごはん」が別に持ってこられ、「みそ汁」も注文したので、「みそ汁」が一つ出てくればよいのですが、「みそ汁」にも「ごはん」が付いているので、運ばれた「ごはん」は3杯となったのです。
つまり注文した人の前には「トンカツ」1つに「みそ汁」2杯、そして「ごはん」3杯が並んだということです。沖縄の「みそ汁」は大どんぶりに盛られてきます。後ほど写真をご覧下さい。
以上はタクシーの運転手さんが市内を説明しながら話してくれた、面白い話でしたが、まさか私たちが同じことを経験するとは思いませんでした。
今回の写真探訪は27日の沖縄入りから28日の那覇市内観光、そして能楽師の舞台裏までをご紹介いたします。

午後2時に那覇空港に到着、どことなく外国を感じる景色です。
空港を出てホテルに向かうタクシーからまず一枚、パチ!

我々(能夫氏と私)は、先発の出雲康雅氏、谷大作氏と今は少なくなった公設市場で待ち合わせ。待ち合わせの場所の目の前には、豚さんがいました。

海産物売り場で買ったものは二階の食堂で料理してくれるというので、試しに渡り蟹と伊勢エビを注文。お買い上げ!¥6000。

二階の食堂でビールを飲みながら待つこと4~5分、まず伊勢エビの刺し身が運ばれました。頭はみそ汁に、これが抜群においしかった。
魚を持ち込むと食堂では手数料として¥500といわれたので、「まあー仕方がないか」と我慢したら「一人¥500」というので驚きました。もちろん「安くして」と値切り、それでも一人¥400。土地の人は市場は観光客用なので、ちっとも安くないといって、行かないそうです。

国際通りにある、むつみ橋通り街の中に公設市場はあります。

骨董通りの中には三味線を作る店もありました。

宿泊地ロワジールホテルの夕食後、目の前のスーパーマーケットで酒と肴のお買い物。東京で¥4000ぐらいかなと思ったら、なんと¥2400!
レジの女性に「おー安い! 間違いじゃないの」といいましたら、「間違いじゃないよ、沖縄はものが安いの」とのお返事。

那覇市内観光バスの中。皆、元気です。

琉球王室、尚氏の墓室の玉陵(たまうどぅん)。

中央の女性は友枝雄人夫人。今回は友枝夫妻がツアーのお世話をして下さいました。

正面より、一同礼をして入りました。

玉陵の中。墓室は三つに分かれています。沖縄決戦で大きな被害を受けましたが、今は往時の姿を取り戻しました。

玉陵から徒歩3、4分で首里城公園です。入り口近くでは琉球衣装を着た女性が必死に記念写真の勧誘をしてきます。

門に向かう

友枝雄太郎君と私

金子敬一郎氏、出雲康雅氏、長島茂氏

首里城関係者は皆さん琉球王朝時代の衣装を着ています。

首里城は山の頂にあります。
「階段を見ると万里の長城を思い出すなー」と長島氏。
後ろ姿に早くも疲労が見られると思うのは私だけでしょうか?

首里城宮殿前の広場にて、中村邦生氏、粟谷能夫氏、友枝雄人氏。

広場では一日3回4つの琉球舞踊が無料で見られます。

宮殿全景

宮殿内の手洗いはお洒落。獅子の口から水が出ます。

快晴の観光日和でした。

この日の首里城は能楽師だらけ。宮殿を出た喫煙所でよくお見かけるする面々と遭遇しました。(左から)下掛宝生流の宝生欣哉氏、大日方寛氏、梅若の角当直隆氏、山崎正道氏に下掛宝生流の御厨 誠氏。

粟谷能夫氏

沖縄独特の屋根瓦の前で中村邦生氏。

「いろは亭」で沖縄家庭料理をいただきました。

沖縄のビールはこれ!さっぱり系で飲みやすいオリオンビールです。

何を食べようとすると、この顔になるのかなー?
狩野了一氏と出雲康雅氏

昼食後、識名園を観光。 識名園は琉球王家の別邸。

お茶のお点前に参加した友枝雄太郎君。お行儀よくお作法していました。御立派!

廻遊式庭園は広く、池の中には六角堂や石橋があります。
観光は2時に終了して一度ホテルに戻り、公演に備えました。

『石橋』の装束着付け、楽屋が狭く大変でした。

二日目、昼食の楽屋弁当に食堂でみそ汁を頼んだ出雲康雅氏と私。
このあと大変なことが!

国立劇場で出された弁当。これにみそ汁一杯をつけたつもりがー。

豚汁定食が出てきた! 確かに販売機で買う時¥450は少々高いなーとは思いましたが。

沖縄公演終了後、観世流の方と夕食会。場所はステーキハウス「碧」。
ここはスタッフが女性のみという珍しいお店。
参加者、観世流、武田宗和氏、岡 久広氏、関根祥人氏。
喜多流、粟谷能夫氏、出雲康雅氏、谷大作氏、長島茂氏と私。

能楽協会東京支部長、武田宗和氏が夕食会を手配して下さいました。

ワイン片手にごきげんな出雲康雅氏と岡 久広氏。

長島 茂氏と関根祥人氏。
これ以後の写真はホームページでは公開出来ませんので、ここで終了とさせていただきます。
ご高覧有難うございました。
『鵺』に託した世阿弥の思い投稿日:2004-03-07

粟谷 明生
春の第75回 粟谷能の会(平成十六年三月七日、国立能楽堂にて)では、父菊生が『月宮殿』、能夫が『当麻』、そして私が『鵺』を勤めました。
今回のメインは『当麻』。長時間の演能が予想されたので、前後は短めの軽い曲にと選曲しました。当日『当麻』は二時間二十五分という喜多流史上、最長記録となりました。80歳を越えた父は『月宮殿』のシテを勤めて直ぐに、あの長丁場の『当麻』の地頭を勤めましたので、終演後、疲れないですかと聞くと、舞台のいい緊張感があったからと、さほど疲れないと、元気に答えたくれたのには驚きました。トメは私が20代に一度勤めた『鵺』を再考したいと選曲しました。

演能レポートとしては話が外れてしまいますが、この曲で思い出したことがありました。私たち能楽師は、若い時から謡を覚えます。意味など二の次、判らなくとも、とにかく繰り返し謡う、丸呑み状態で頭にたたき込んで身体に染み込ませます。能楽師のほとんどの方がそうだと思うのですが、地謡を覚えるとなると、まず地謡のところだけ覚え始めます。若い時は曲の内容よりも、音でひたすら間違えずにと丸暗記します。初同(しょどう=地謡が最初に謡う個所)はシテが登場してワキと問答の後にあるのが定型ですが、『鵺』は異例です。昔、前シテの一声の途中に短い地謡「こがれて堪へぬ、古を」の一句があるのを見落としてしまい、周りの地謡の人がいきなり扇を持ち、私の知らない謡を謡い始めたから、びっくり仰天しました。あとで「あそこに謡があるのを知らなかったな」と先輩に叱られましたが、「いや実は自分も昔、同じ間違いをしてね」と言われほっとした、そんな懐かしい思い出があります。
では、ここからは『鵺』について考えていきたいと思います。
まず最初に『鵺』のあらすじを簡単に記載します。三熊野詣の僧が、津の国蘆屋の里に着き、一夜の宿を求めますが、その里の禁制により宿をとれず、やむをえず川岸のお堂で一夜を過ごします。すると空舟(うつほぶね=丸木舟)に乗った人影も定かでない不思議な男が現れ、自分は近衛の院の時に源三位頼政の矢先にかかり命を失った鵺の亡魂だと名乗ります。僧の求めに答えて、その時の有様を物語った男は、空舟に乗ると見えて夜の闇の中に姿を消してゆきます。
その夜、鵺の読経をしている僧の前に、頭は猿、尾は蛇、足手は虎という恐ろしい姿の鵺が現れ回向を喜び、自分が討たれた時の有様を再現して見せます。そしてまた遥かな闇の中に消えてゆくという話です。
演じるに当たり、鵺とは一体何であろうか、が気になりました。
秦恒平著の「能と平家物語」には鵺は崇徳院の怨霊ではないかと書かれています。崇徳院は後白河と皇位継承の争い(保元の乱)で破れ四国の讃岐に流されます。流されてしばらくは野心もあったのですが、乱を起こした償いとして「五部大乗経」を写経し、京の寺に納経して欲しいと送ります。しかし後白河は折角改心した崇徳院の書いた膨大な写経を「呪いが込められている」と讃岐に送り返します。怒った崇徳院はそれから、風呂にも入らず、身に付く物のすべてを切らないと心に決め、髪、爪を伸ばし、ついには「我は日本国の大魔縁となる」と呪いを込めて憤死します。これが能『松山天狗』です。秦氏は、鵺はこの崇徳院ではないかと説き、後白河側に味方した頼政が、夜な夜な御殿に来ては帝を悩ます崇徳院の霊を射殺す図式と説明しています。

鵺はトラツグミという実在の鳥の異称、鳴く声がおぞましく不吉であることから、この曲の中では、頭は猿、尾は蛇、足手は虎という、異様な姿とされていますが、このような造形は、どこから来たのか。
馬場あき子著の「鬼の研究」では、中国の古い書物『山海経(せんがいきょう)』(紀元前2世紀頃)が紹介されており、そこには、角付きの獣皮をまとった山の神々が数多く登場し、その姿は例えば、「竜身鳥首」「人面蛇身」等と言うように、多くは二種類以上の鳥獣の部から身をなしていたといい、また、日本においても「日本書紀 応神紀」に角つきの鹿皮を着た人が現れた話の他、正身(むざね)を見せたがらぬ神が、獣皮を着て神域への来訪者を見に出る話なども常套のことであった、といいます。
能の鵺の姿は、これらの山の主神に類似しています。では、なぜ、山の主神の姿をとったのでしょうか。このような国つ神、山の神は王朝支配体制の確立のために次第に排除され殺されていきました。王朝支配体制は一方的な勝者となり、土着の民や神々はもの言うことを封じられ、自由を奪われたのです。馬場あき子氏は、「修羅と艶」のなかで、あるものは、苦渋に満ちた足取りの重い神、例えば悪尉の面をかける神となり、あるものは、忿懣を押し込めたように口をへし曲げて結ぶ小ベシミの面の鬼神や大ベシミをかける天狗にと能の題材になっていったと説明しています。

私は以前『大江山』を演じて感じたことを思い出しました。『大江山』の鬼神が、進攻する中央政権勢力から理不尽に追い出された、土着の反体制の神や人々の魂であると感じたように、鵺の正体も、同じような過去を持つもののように感じるのです。鵺も、佛法王法の障りとなるべく悪心外道の変化の姿となったと考えられないでしょうか。王朝支配体制の象徴である天皇に狙いを定めたことで、鵺の反逆者としてのイメージは鮮やかに浮かびあがります。
『鵺』という曲は、頼政と鵺という勝者と敗者を合わせ鏡のように描いた作品です。故観世銕之亟先生は「頼政自体が鵺のように生きてきた、そこが面白い」と言われています。では頼政自体が鵺のように生きてきたとはどういうことなのでしょう。ここで頼政の生き方を簡単にたどってみることにします。
頼政は、保元の乱では後白河側につき、名だたる源氏の武士が去っていく中、源氏方では源義朝と共に生き残ります。その後、源義朝と平清盛が争う平治の乱では、頼政は源氏でありながら清盛側につき、義朝は破れ平家の天下となりますが、源家の大将として一人生き延びます。保元・平治の乱の間、さしたる武勲も立てずに、源氏の頭領としてうまく身をかわし、一族を守ってきた頼政です。そんな頼政の一面を見ることが出来るのが、平家物語、鵺退治の段で、最初にその顛末を短く記しています。そして平家物語では頼政は実は二本の矢を用意しているのです。一本は鵺を退治するため、もう一本は仕損じたときに、鵺退治に頼政を推薦した左大臣の首をねらうためです。戦さで指名されるならいざしらず、得体の知れない化け物退治に推挙されたことを、頼政は不本意に思っていました。勅命のため断ることもできず、また仕損じれば恥辱と不名誉な烙印を押されるいやな任務です。そんな気乗りのしない化け物退治と自らの命を天秤にかけさせられる不本意に、指名した公家を射殺すつもりで矢を二本用意していたと書かれています。頼政にとって、鵺退治はどのように心に残ったのでしょう。頼政が名を上げ、鵺は空舟押し込められ流されという、両者の明暗をはっきり見せる能『鵺』の描写も、その裏側まで見れば、加害者でありながら被害者でもあった頼政像が見てとれます。後の頼政の生涯を見てもそれは表裏一体、勝者と敗者の関係は逆転劇へと進展します。ここでは勝者に見える頼政も、人生においては、思うように行かない鬱屈を抱えた敗者でもあったのです。平家物語の「鵺」の段でも最後は「よしなき謀反を起こして」(以仁王に謀反を勧めた橋合戦)滅びてしまったと締めくくっています。頼政自身が鵺のように反逆者として葬られる運命だったわけです。
『鵺』は世阿弥の晩年の作と言われています。『井筒』など美しい幽玄の世界を極め描いた世阿弥が佐渡に流され、六十代後半で都に戻って、この鬼の能を手がけたのには何か意味があるのではないでしょうか。なぜ幽玄の世界を築きあげた世阿弥が大和猿楽本来の鬼の能に戻ったのか。やはりここには中央勢力から押し出された世阿弥の鬱屈があったのではないかと思えます。佐渡に流された無念の思い、鵺という化生のものと頼政という人間を対比しながら自分自身を描いていたのかもしれません。
能『鵺』は前場、後場とも僧に回向を頼みに出現し、鵺退治の仕方話を繰り返します。前場は空舟に乗った鵺の亡魂が頼政に扮し、鵺を射殺しその姿を自らが見るところが見せ場となり、後場は闇の霊界より御殿に飛び覆い帝を悩ます鵺を演じ、頼政の放った一矢を境に演者は頼政と変わり、両者の明暗を演じ分けます。御剣の獅子王を賜り、宇治の左大臣頼長(保元の乱で崇徳側に付き殺された)の詠んだ「ほととぎす、名をも雲居に揚ぐるかな」の句に、「弓張月の入るにまかせて」(いや、たまたま偶然に当たっただけですよ)と月を眺め名を挙げた栄誉を喜ぶ頼政。しかし舞台は忽ち一転、演者は空舟に押し入れられた鵺となり淀川に流され、蘆屋の鵜殿の浦曲の浮き洲に流れ留まります。この一連の型はこの曲の難所で最大の見せ場となります。
観世鉄之丞さんに先代観世銕之亟先生が『鵺』の中入りについてお話しをされていたことを教えていただきました。「『鵺』の中入前を喜多さんみたいに演やりたいんだがねー」と仰しゃったそうです。喜多流では「いくへに聞くは鵺の声、恐ろしや凄まじや」と常座にて振り返りながらズカッと面を切り、棹を胸に引きつけ最後に棹を捨てて中入りします。観世銕之亟先生はこの型がお好みだったのでしょう。これは『鵺』に限る特殊な型で、鵺の叫び声を聞かす心持ちで凄みの利く型です。今回は残念ながら『当麻』に同じように常座で杖を捨てる型があり重なるため、私の方は橋掛りにて棹を両手にて強く引きつける替えの型にしました。これは空舟に乗せられて闇の世界に帰っていく鵺が、今一度僧に弔いを願う気持ちが込められ、また闇の世界に流される抵抗と未練の気持ちとして棹で舟を止めようとする所作です。家の伝書にも「止める心」と記されています。

前場と後場に繰り返し登場する仕方話ですが、私は、前場は抑制した力の表現、後半はそれが開放されていく力の表現とはっきりと区分けされていると思います。鵺と頼政を入り乱れ演じ、討つ側と討たれる側、この全く正反対のベクトルを持つ両者を演じていくうちに、いつしか両者は演者の中で重なり合っていきます。そしてもう一方で二役を演じている演者自身の存在に気づかされるのです。そのトライアングルのような繋がりは演じる者でしか味わえぬもう一つの『鵺』の面白みなのです。
前シテの一声の「悲しきかなや身は籠鳥、心を知れば盲木の浮木・・・」と、地謡の「こがれて堪へぬ、古を—」が大事な謡ですべての思いが込められていると思います 。全体を通して流れる鵺の鬱屈し屈折した無念の思いが、自らが放った矢で逆に射殺され、刺し殺されるという皮肉な構図の中で描かれるところにも面白さを感じます。
『鵺』は五番目ものですが、世阿弥や禅竹の後の時代の、『紅葉狩』や『船弁慶』などとは趣が違います。後の時代のものは、枯れた奥深い味わいより派手な動きや場面展開の妙味で観てもらおう、能を享楽的に面白くしようとする傾向が強くなりました。しかし世阿弥は五番目ものとはいえ、後の遊興性のものとは違い、幽玄の流れを引きずりながら鬼の能の再考をしたのではないでしょうか。そしてその作りは格別の上手さです。サシ、クセ、ロンギなどの構成は、『井筒』などと似て、他の五番目ものには見当たりません。『鵺』は単に、頼政に退治された鵺の仕方話をテンポよく体を動かしていればよいのではなく、老成した世阿弥の深い思いを汲み取って演じなければならないと思います。そうでなければ、鵺、いや世阿弥が泣くでしょう。

面・装束について、前シテは常の通り、面は家にある是閑の「真角」としました。後シテの装束は本来、赤頭に半切、法被(肩脱ぎ)ですが、今回は特別に狩衣の肩脱ぎという当流では初めての試みをしてみました。このやり方は近年梅若六郎氏が発案され、銕仙会でも『重衡』などで試みられています。当流では裳着胴(もぎどう)姿にて演じる時もありますが、肩脱ぎの方がより強さが表現出来、鵺という化生のものと頼政を重ねるイメージにしたいと狩衣を着ることにしました。狩衣は銕仙会から萌黄狩衣を拝借し、それに合わせ半切は粟谷家にある白地波模様を選びました。この装束の選択が決まると白頭の方が似合うのではと思い白頭を選択しました。観世流では小書「白頭」となると緩急などの違いがでますが、喜多流では頭が白色に変わるだけで、緩急は変わりません。
本来装束は面を決めてから用意するものですが、今回は逆で、装束を決めていくなかで面を選択する形になりました。後シテの面は珍しい「青飛出」と銘名された面です。本来「小飛出」ですが、古代的な少し鈍重なイメージの表情で白頭に似合うものと探し選択しました。彩色の青がきつい印象をうけ、結果は賛否両論でしたが、喜多流のあの曲ならあの面、あの家ならあの装束が出てくると、見る側から見透かされてはつまらない、また現場もそれに慣れてしまっていてはどうだろうか、時には奇抜なアイデアで演者や興業者側の遊び心を出しても悪くないのではないか。今回の善し悪しは別として、演出上一つの冒険ができたことに喜びを感じています。
私は、二十代に『鵺』を披きました。あのころは、型付通り基本を教えられるままに体を動かしそれで納得していました。二十数年を過ごし、人生の浮き沈みも少しは知り、今、作品の奥深いところまで読み込むことの重要性を感じています。失いつつある若きエネルギーに対抗できるものがあるとしたら、それは、挫折や悲しさ、人生を重ねてきた経験を糧に能に込められた奥深いもの、裏側をも探っていくエネルギーではないかと思うのです。
この能の最後は「暗きより暗き道にぞ入りにける、遥かに照らせ山の端の月」と和泉式部の歌を引いて、海月に照らされ、海月と共に消えてゆく姿を詩情豊かに美しく描写しています。和泉式部の歌をこの鬼の最後の場面に引くみごとさ、大胆さ。美しい情景の中に流される鵺、いやそれは頼政であり、世阿弥自身の姿を表現しているのではないか、世阿弥の思いの深さを感じてしまいます。
(平成十六年三月 記)
写真
鵺 養成会 前 後 撮影 あびこ喜久三
鵺 粟谷能の会 前 撮影 石田 裕
後 撮影 東條 睦
青飛出 撮影 粟谷明生
鵺塚 撮影 粟谷明生
『鳥追船』を謡い思うこと ー左近の尉の我慢ー投稿日:2003-12-01


喜多流『鳥追船』の謡本には曲趣として次のようなことが書かれています。
「劇能としての構成を目的としたものではなく、一種の遊狂気分が中心である…中略…前段は後段への準備的な場面に過ぎず、これをただ劇的に扱ったのでは、能楽の本質から逸脱したものとなる。興味の主題は、狂女能に類する船中の情景にある。一幅の田園秋景とみるべきであろう」とあります。さてこの説明、皆さまにはどのように思われますか? 私はあまり納得できぬ説明のように思えるのですが、いかがでしょうか。
『鳥追船』の作者は不明とも、また金剛作ともいわれていますが、確かではありません。この作品が生まれてくる土壌となるものは、たぶん鎌倉時代末期から室町時代の風習や時代背景に起こった様々な出来事、事件からと思います。それ以後、この作品は戦国時代の下克上の不安定な世相やまたそれを禁じた江戸時代やその後の時代を背景に演じられてきたわけですが、それぞれの時代でどのようにとらえられていたのか興味が湧きます。はたして上記のような秋景描写に留まった意識での舞台であったのか…。
私は『鳥追船』という作品が、上流階級の支配する立場からも、また支配される下流階級の民衆の者までも、素直に身近に感じる、ドラマチックな作品として見られていたのではないかと思っています。
もしそうであれば、演じる側は狂女能に類する船中の情景描写と田園秋景いう言葉だけでは片づけられない大事なものがあると考えねばいけないのではないでしょうか。訴訟のために都に上り、十年も帰らない夫、それを待つ妻と子(花若)、そして家人。鳥を追う秋景描写だけの意識では、あの世相での花若やその母、そして家人の耐えねばならぬ我慢を描いたドラマチックな作品は舞台に立ち上がってきません。特に前場では、演者が一人ひとりの人間としての生き様を背負って、それぞれの役に扮し、この物語の劇的な展開を演じなければ、見ている側も物足りなさを感じるのではないでしょうか。
演者が『鳥追船』という作品の中に描かれている人間模様をいかに表現出来るか、シテ・ワキ問わず、それが演者の大事な仕事であり、それがあるからこそ生涯の仕事として演能に張り合いを感じるのだと思います。舞台の演能は花火のように瞬間に輝いて消えていきます。書き物は後の代までも残り不変で、その内容は後の世の人に多大な影響を与えてくれるものですが、時としてそれらが正しいとばかり言えないこともあります。ここにあげた謡本の曲趣についても、信じる、信じない、認める認めないは受け手の自由ですが、問題はいかに演者が気をつけて対応するかであり、それが蔑ろにされては観客に失礼ではないかと思います。台本、謡本の深い読み込みこそ演者の使命だと肝に銘じたいものです。

十五年十二月の自主公演はシテ花若の母(日暮殿の妻)、粟谷能夫、ワキ左近の尉、殿田謙吉、ワキ日暮殿、宝生閑、子方花若、高林昌司で演じられ、私は地頭、粟谷菊生の隣で地謡を謡いました。
私はこの子方を故友枝喜久夫先生と伯父の故粟谷新太郎のお二人のお相手をさせて頂いた記録がありますが、今も記憶にあるのは伯父新太郎との時のことです。この時は自分の謡う個所を間違えたようで、たぶんおシテには大変なご迷惑をおかけしたのだろうと、思い出すと今も恥ずかしくなります。舞台というものは不思議でスムーズに進んだものより、少々怪我をしたものの方が脳裏に残ります。若いうちに沢山間違えておけ、という言葉が今また胸に響いています。
『鳥追船』は台詞劇で、内容もそれほど複雑ではありませんが、あらすじを喜多流の謡本の詞章だけで理解しようとすると少し無理があります。それは左近の尉(ワキ)や日暮殿(ワキ)の謡の詞章が大幅に欠落しているためで、左近の尉の花若の母に対しての申し立てに不明瞭さを感じます。喜多流の謡本の解読だけでは、作品の意図や登場人物の真意をつかむのは難しい状況です。
喜多流の謡本で、左近の尉(ワキ)のシテに対する詞章の文意は、次の通りです。左近の尉(ワキ)は花若の母(シテ)に当年は自分の田に鳥を追う者がいないので、お恐れ多いことだが花若殿に鳥追いを手伝ってもらいたいと言います。母は花若の代わりに自分が追うと言いますが、左近の尉はそれこそ思いもよらないこと、ただ自分の名を立てたいためだと言い、突然「所詮言葉多き者は品少なし」と怒りだし、家を出て行けと怒鳴ります。母は花若一人では幼く心もとないから、一緒に行くのだとさらに答え、左近の尉を納得させます。しかしこの流れでは、左近の尉の唐突な爆発の真意がわからず、理解に苦しみます。言葉の足りない詞章は説明不足で喜多流謡曲の愛好家を困惑させています。
下掛宝生流の謡本は、当流とはかなり違い左近の尉の気持ちが判るように、言葉多く詳しく書かれています。そのためワキ方は喜多流相手の時は、詞章のやりとりに工夫をこらし対応されていますが、これらの言葉を聞くことで事の起こりから、左近の尉の心情を読み取ることが出来ます。ここで下掛宝生流の舞台の展開をご紹介します。
左近の尉の鳥追いの催促に、自分がでかけるという母の言葉に対して、左近の尉の言い様はこうです。
「それこそ思いも寄らぬ事にて候、女性上臈の御身にて御追い候はん事、ただ左近の尉の名をたちょうずる為にてこそ候へ、まず上臈の御身にても、御心を静めてきこしめされ候へ、それ人の御留守とは、乃至一年、半年をこそ久しきと申し候が。すでにはや十か年に餘て、世に無き主を扶持し申したる左近の尉は、情けなく候よなう」と大声で叫びます。
ここにしばしの間があり、「いやいや言葉多き者は品少なしと申す事の候。所詮今日よりしては、某扶持し申すことはなるまじく候。この屋を明けていずかたへもおんにであろうずるにて候。ーーーー」と続きます。
留守を守るといえども十年は長すぎると家人の苦労を愚痴るのですが、語るうちに長年の張りつめた我慢はついに切れてしまいます。ここを喜多流では「所詮言葉多き者は品少なし」と唐突に言うため、まるで言葉多い母(シテ)は品が少ないと言っているように思えますが、ここは左近の尉が世間では、一般論としての言葉として自分に言い聞かせるようにして言っているのです。
これは能を鑑賞し、言葉をよく聞き取らないと理解できないところですが大事なところで、今回ようやく左近の尉の真意が解明できました。

父は『鳥追船』の謡について、後場の「げにや夢の世の何か例えにならざらん…」の段が、粋なところでここをうまく謡わなくてはと言い、益二郎(菊生の父)からは船の舳先がきゅっきゅっと変わる、そんな感じで謡うといいと聞いていると教えてくれました。謡い方を単に調子を落とすとか張るとか、ノリよく、じっくりなどと言われるより、このようにイメージが湧いてくるような教え方をしてもらうと、指導される者は想像し工夫して謡う必然性を感じ、興味をそそられ、それが面白さへと変わっていくのだと思います。
演じた能夫の言葉ですが、「狂女物の代表作に『三井寺』がある。狂女物の作風の特徴の一つに、一曲の終盤前まで凝縮されたテーマや物語が盛り上がっているのに、不思議とロンギという定型パターンに入ってくると途端に親子再会の祝言の場面となり、これですべての結末を片づけてしまう傾向がある。それが好きになれない」と、私も同感です。祝言で終えるという形式主義を否定はしませんが、演者としては、どうしても少しのストレスを感じながら終曲しているのではないかと思うのです。
しかし能夫は「この曲は最後までテーマが重く強く繋がっているように思えた」と、「たぶんそれはワキや子方の退場の仕方や地謡の謡い方によるものではなかっただろうか」と感想を述べ、父の地謡に対して「これほど陰影を感じさせてくれた地謡を聞いたのははじめてでした。『鳥追船』という作品を面白く謡って下さって有り難うございます」と感謝していましたが、その横で謡うことができた私も良い勉強になったと思います。
写真 カラー『鳥追船』前シテ 粟谷能夫 脇 殿田謙吉 子方 高林昌司
カラー 後シテ 粟谷能夫 子方 高林昌司
モノクロ 後シテ 粟谷新太郎 子方 粟谷明生
撮影協力 あびこ喜久三
(平成15年12月 記)
奈良、京都の旅、15年秋投稿日:2003-11-15

15年の秋の紅葉の時期、今年も謡蹟めぐりに奈良、京都の旅を楽しんできました。
今年の天候は11月に入っても温暖な日が続いたため、京都の紅葉は生憎今一つでしたが、奈良は綺麗な紅葉が始まっていて、特に談山神社の紅葉は期待通り、見事でした。
いつものとおり、謡蹟めぐりを主に動き回る奇妙な旅ですが、今回は同行者に仏像フリーク、仏像大好きの方がいらっしゃったので説明を聞きながら、普通見ない所まで足を延ばし、くたくたになるほど歩き回り堪能してきました。
今回の旅のお目当ては、世阿弥が藤若と名乗っていたときに参勤したと言われている多武峰談山神社への参拝でしたが、スケジュールを組んでいるうちに聖林寺の十一面観音菩薩、浄瑠璃寺や岩船寺など、なかなか行けないところにも足を延ばしたくなり、また幾度と行っている、『頼政』や『浮船』に縁のある宇治も再度訪れたくなり、今年限りの清水寺奥の院の秘仏特別公開を見逃してはいけないと思ってと、かなりハードなスケジュールを組んでしまいました。それでも無事行って参りましたので、写真で一部をご紹介いたします。
(行程)
11月6日・初日
談山神社~聖林寺~安倍文殊院~奈良国立博物館(正倉院展)
11月7日・二日目
浄瑠璃寺~岩船寺~円成寺~般若寺~転害門~正倉院
宇治橋姫神社~平等院~青蓮院
11月8日・三日目
清水寺===大江能楽堂 高吟会出演

談山神社十三重塔
白鳳7年創建の藤原鎌足供養塔で現存唯一の木造十三重塔

拝殿
朱塗りの舞台作りで、ここで大倉源次郎氏が奉納しています。

権殿
ここで世阿弥が舞ったといわれています。今は閉鎖されていました。

権殿 2

東大寺転害門
『大仏供養』は喜多流では久しく出ていませんが、
シテの景清が社人の装束で箒を持って登場します。

東大寺転害門 2

橋姫神社
『江口』に「また宇治の橋姫の訪はんともせぬ人を待つも、
身の上と哀れなり」と謡われています。

橋姫神社 2

平等院
近年改修工事が完了して綺麗になりましたが、
公園のように整備されたのは少し残念です。
また入場料の高さに驚きました。
鳳凰堂に入るには別途支払いが必要です。奈良に比べて京都は高いと同行者は嘆いていました。

平等院 2

扇の芝
頼政が自刃した扇の芝は平等院に入りすぐ左側にあります。
扇と言われる通り三角の形をしていますが、後ろからご覧になると判りやすいです。

扇の芝 2

扇の芝 2

扇の芝 3

観音堂
『頼政』の「また釣殿と申して面白き所」とはこの観音堂を言います。
扇の芝の隣にある地味な建物で見落としてしまいがちです。

頼政公墓
墓は平等院鳳凰堂裏の景勝院の中にあり、立派に整備されていました。

頼政公墓 2

頼政公墓 3

宇治川の後方の朝日山
『頼政』で「名にも似ず月こそ出づれ朝日山」と謡われています。
朝日山の左には「いかさま恵心の僧都の御法を説きし寺」と謡われる恵心院があります。

宇治川は宇治川の合戦で有名です。
先陣争いの勝負に負けた梶原景季は能『箙』に登場します。

宇治川先陣の碑

恵心院
平等院より宇治川を渡ると恵心院があります。お花が沢山ある小さなお寺です。

恵心院 2

恵心院 3
『楊貴妃』を演じて ー会者定離の響きー投稿日:2003-11-01

粟谷 明生

今年(十五年度)の喜多流自主公演では十一月に『楊貴妃』を勤めました。
『楊貴妃』は、『定家』『小原御幸』と並び、三婦人と呼ばれ、貴い女性を描く位の高い曲です。絶世の美女の波乱にとんだ生涯を、格調高い言葉で謳いあげた白楽天の「長恨歌」を題材にして、金春禅竹が創作したものとされています。観世栄夫氏は「禅竹は世阿弥の整った作品よりも一つ影がある、能の言葉としても暗い影、奥行きがあり、そこに惹かれる」と言われ、私自身も幽霊ではない死者という不思議な立場のシテを演じてみて、その心情の深みを感じとれたことが驚きでした。我が家の十代寿山公の伝書には「鈔云ク、一番ノ心持結構トモテナス事、楊貴妃二極リ多リ」と『楊貴妃』が女能の中で真の能であり、位の高い曲であることが書かれています。通常、能の演出は、死んだ人間(シテ)が現世に現れますが、『楊貴妃』は現世の人間(ワキ)が死者の国へ行くという逆の構造です。禅竹は世阿弥とは違った発想で、死者の内情、内面を生者の方が引き出す斬新な手法を『楊貴妃』に取り入れ成功しています。
・動きの少ない能・
『楊貴妃』の謡は長恨歌の原文を崩さずうまく導入された名文ですが、シテの型の動きは非常に少なく、謡の曲とも言えます。演能前に父や能夫が、「『楊貴妃』は謡の曲ということにつきる」と話していましたが、舞台を勤めながら「なるほどこのように謡うのか」と教えられました。しかし、動きの少ない曲は、どうしても観客は退屈してしまいます。こういう曲こそ、いかに観客の心をつかむかが大事だと思いますが、静止した時間の連続を飽きさせないようにするのは容易ではありません。それなりの工夫が必要ではないでしょうか。演者自身の舞台へのエネルギーのかけ方は当然のことながら、それ以外にも装束や面、作り物にもこだわりを持ち、できる限り退屈させないようにと考えました。
・装束の工夫・

装束は近年、他流では舞衣などを着用する時もあるようですが、室町後期の代表的な能伝書「八帖花伝書」には「女御・更衣・其の他公家・上臈の御風情信りたる能、いかにも気高く美しく華やかに、いろがさねに念をいれ、出立べし。まづ、上着ハ唐織を本とせり。<中略>楊貴妃、取分唐織本なり…」と、装束はやはり唐織であると書かれています。今回は、本家のお弟子様(宇都宮粟谷会の原田寛子氏)のご協力により、氏の所蔵される唐織を拝借させていただきました。萌黄と白の花筏市松段模様の唐織は歴史を感じさせるすばらしい逸品です。落ち着いた色合いながら、舞台に上がるとその華かさは輝きを増し浮かび上がるようだったと、ご覧になられた方の感想でした。時代を経た本物を着られることは、能楽師として無上の喜びであり、原田様に感謝しています。
・面の工夫・楊貴妃の生涯と容姿から・

面は上掛りでは増女や若女を使いますが、喜多流は小面が本来とされています。しかし楊貴妃の生涯を思うと可憐な小面で演じるには少し抵抗を感じます。
楊貴妃は十七歳で玄宗皇帝の息、寿王の妃となりますが、翌年皇帝の武恵妃が薨(みまか)ってしまいます。九年の月日が経ち、或者が皇子の妃、揚氏の容色が殊に勝れていることを皇帝に説いたので、皇帝は皇子には韋昭訓の女を授け、皇帝の貴妃として迎え入れてしまいます。楊貴妃は前夫の父親と再婚するという極めて異例なこととなります。帝六十歳(六十一、六十二歳とも)、楊貴妃二十七歳のときです。歌舞に長じ穎悟(えいご)の貴妃は皇帝の寵愛を一心に受け、揚家一門を悉く要職につけますが、皇帝の政はこの時分より疎かになるようです。その後、安禄山之乱が起こり、皇帝の家臣によって楊貴妃は馬嵬が原で殺され、三十八歳の生涯を閉じる運命となります。皇帝との幸せな時間を失った喪失感の深さ、会者定離の無常観がこの曲の主題といえるのではないでしょうか。これらを考えると可憐な乙女の小面では少し辛いように思うのですが。
話はそれますが、楊貴妃はふっくらと豊満な肉体だったといわれています。茘枝(れいし、またライチー)が大好物は有名ですが、手羽先もまた好物だったようで、鳥のゼラチン質がふくよかな身体や、つるつるのお肌を維持するには最適らしく、それがまた皇帝のお好みでもあったようです。そういえば以前中国旅行で華清池に行ったとき、そこで見た楊貴妃の像も、上村松園の描いた楊貴妃もぽっちゃりとした豊満な姿です。

そのことと、皇帝と霓裳羽衣の曲を楽しんでいた時期を思えば、小面もしかりとは思うのですが、ロンギで謡う「我はまた何なかなかに三重の帯、廻り逢はんも知らぬ身に・・・」と、別れのつらさと恋慕の悲しい思いで帯が三重にも巻けるほどに痩せてしまった、ということですから喪失感の深さは並々ならぬものがあり、本来は増女の選択の方が似つかわしいとも思うのです。しかし、今回は自主公演という流儀の公式行事でもあるので、敢えて流儀の決まりを守り、我が家にある小面の中から少しでも艶を感じる面として「眉」の銘のついた小面を使ってみました。
・作り物の工夫・

作り物の宮は、普通四本柱に白帽子(しろぼうじ=さらし布)を巻くだけですが、先代の喜多実先生のころから、『楊貴妃』に限り赤帽子(ぼうじ)で巻くようになりました。今回は更に、赤帽子の上に紅段を螺旋状に巻きつけ柱の柄としてのイメージをより強調してみようと試みました。
小書「玉簾」は、宮の作り物の前方と左右に鬘帯を多数垂らし、帳や簾に見せ楊貴妃の姿をあらわにせず、また宮殿の豪華さを演出するものですが、今回は後面と左右に鬘帯を垂らしてみました。これは以前に故観世銕之亟先生がなされて、とても綺麗で舞台効果があったという能夫の助言からの試みです。この演出は引き回しを下ろしたときに、シテの姿が一段と栄えて見え、後方の囃子方との距離も置ける効果があります。作り物の宮は中国の蓬莱宮という未知の世界の宮殿という設定です。作り物は能楽界では簡素化された適応性の良さ、持ち運びの便利さが売りということはありますが、現況の舞台活動で日本と中国のものが同じでよいという気風は気になります。『大社』や『竹生島』に使用する宮と同じものが舞台に出てきては、観客は中国蓬莱宮を想像しにくいのではないでしょうか。私は中国らしさを少しでも出したいと思いました。従来の喜多流の引き回しの色は紫でしたが、近年萌黄や茶色のものも揃い、最近友枝家が緋色をお作りになりましたので、それを拝借することにしました。緋色を使うことで古代中国人の空想した仙界のイメージや華やかさが表現できたらと思いました。そして屋根にも蓬莱宮らしい工夫が施せないかと考え、今回特別に長絹の露(つゆ)を飾り結びにし、瓔珞をイメージして取り付けてみました。効果のほどは、いかがなものか、ご覧になられた方のご意見は様々のようです。
・シテ謡・
舞台の進行はまず、引き回しをかけた宮の作り物が大小前に据えられます。蓬莱宮と見立てられた作り物の中に、シテはじっと床几(鬘桶)に座って出を待ちます。ワキ(方士)の名乗り、楊貴妃の魂魄を訪ねる道行があり、ようやく蓬莱宮のある常世の国に着いたと説明します。アイに太真殿の場所を教わると脇座に着きます。ここまですでに三十分程の時間がかかります。
シテは作り物の中から「あら物凄の宮中やな。昔は驪山の春の園に共に眺めし花の色…」と謡います。ここはシテが最も気品をもって謡う聞かせどころですが、引き回しの中からの謡のため、か細い声では見所には届かず、馬鹿声をはりあげたのでは作品にふさわしくなく、難しく苦心する所です。
観世流、宝生流の上掛り(かみがかり)は「あら物凄の宮中やな」の謡はなく、「昔は驪山の春の園に・・・」から始まりますが、金春、金剛、喜多の三流の下掛り(しもがかり)は「あら物凄の宮中やな」と二回繰り返し謡い、「昔は驪山の・・・」と続けます。最近は観世流の方でも「いきなり、昔は驪山の・・・などとは謡えないね。あら物凄の・・・という導入があるほうが良いですよ」と言って謡われている方もいらっしゃるようです。
小鼓の大倉源次郎さんは故観世銕之亟先生から「あら物凄の宮中やな」の謡のイメージについて「例えば、敦煌あたりの一面砂ばかりの広大な大地に、一陣の風がシューッと吹く、すると砂がむくむくと立ち上がって形を成していく。それは宮殿であったり、楊貴妃の体になったりする。そんな雰囲気を想像して謡ってはどうだろうか」と聞かされたそうです。このような話を沢山聞いた源次郎さんは「面白い銕之亟先生の発想だなー、能って面白いなあ」と刺激され、「こういうことを教えて下さったからこそ、今鼓打ちやっているのかもしれないなー」と私に明かしてくれました。すばらしい人の深みのある言葉によって、人は衝撃を受け、志や発想が生まれてくるのだと思いました。私自身も諸先輩にいろいろな話をしていただいたことが大変役に立っています。今回の話も、歴史の奥底に埋もれた未知の世界の蓬莱宮のイメージやそこに佇む楊貴妃の面影が幻想的に、私の脳裡に浮かび上がってきたから不思議です。
謡は、声の音量や高低、息の使い方など技術的なことは言うまでもありませんが、しかしそこだけに留まっていては作品や役柄の訴えかけが充分に伝えられないように思います。この曲は何を言いたいのか、主題が何であるかを演じる者自身が理解し体現するという、次の段階の作業に携わらなくては作者や作品に申し訳ない気がします。イメージを演者の体の中に埋め込んで謡えるかどうかで、謡は違ったものになるといわれます。敦煌の砂嵐をイメージしてという先人の言葉は貴重であり、大きな手がかりになりました。自分の中にイメージを広げ、言葉に感情が入って、謡が体に染み込んでくるようにと精進しているのですが、なかなか道は遠いようです。
・ ささめごと・

ワキの方士は蓬莱宮に行った証に、楊貴妃と会って来たしるしのものを所望します。シテは釵(喜多流では冠)を手渡しますが、方士はこの釵ならばどこにでもある品物、これでは帝が信用なさらないでしょう、あなたと帝が人知れず話し合ったお言葉を聞かせて下さい、そうすれば帝も納得なさるでしょうと言います。
ここからが、父がこだわる謡のポイントです。つまり、二人だけしか知らないささめごとのくだりです。同音の「天に在らば願わくは、比翼の鳥とならん、地に在らば願わくは連理の枝とならんと誓いしことを、密かに伝えよや、ささめごとなれども今漏れ初むる涙かな」、ここは心を込めて謡うのだと。ここを乱暴に謡うと、父はかならず「二人は抱きあっているんだ、ベットインだよ。やさしく、静かに、内緒話だろー」と、私が『楊貴妃』というと思い出す言葉なのです。
・シオリ、泣く動作・

この曲は動きの少ない曲ではありますが、シオリという泣く動作の型が頻繁に出てきます。
シオリ(シオル)は喜多流ではシテは左手にて二回、ツレは右手にて一回、下から額に向けて手をすくい上げる単純な動作として行います。『楊貴妃』のシテはこのシオリを六、七回します。
単純な動作ですが、これを無意識な型の複写というだけ、型をなぞるだけで行うと、世界に誇る日本演劇の能としては、ちょっといただけないことになるでしょう。能の演技としてのシオルには、心の作業が必要だと言われます。演者自身の身体の中に悲しさ、ブルーな気持ちになる動作が起こり、すると自然と体が前に倒れ始め、面の受けを曇らせ悲しい表情となる、涙腺が緩んで涙がこぼれ、思わずその涙をそっとぬぐうという一連の動作なのです。これを形だけ真似た所作では本当の強い表現とはならない、父や能夫がしきりにこだわる注意点です。私自身も意識し注意を受けながらも、シオリの大事さを感じました。この単純な型を行うために、能役者は大汗かきながら歯を食い縛って身体を支え、必死にやわらかい手の動きで表現しているのです。ご覧になられている皆さまは、そんなこととはお判りにはならないかもしれませんが、こういう表現方法こそが能独特な世界であると、演者が身体を張って泣いているとご覧いただきたいと思います。
・舞う時期・
「八帖花伝書」には先程の続きに興味ある言葉が書かれています。「太夫三十のうち苦しからず。年よりたるシテはこれを斟酌(しんしゃく)すべし。その子細は年よりぬれば、つまはづれ、身入、身なり、姿かかりまで、若きときに違い、いやしき物なり…」とあります。若々しい肉体の持ち主でなければ楊貴妃の能は見られたものではない、年よりは姿がみっともなくて下品だから遠慮すべきであると、まあこういう意味で書かれています。(雑誌観世、研究十月往来142 小田幸子氏より引用)
華であったあのころを思い起こして霓裳羽衣の曲を舞う楊貴妃、若く美しい女性像を描くという意味ではこの条件もわからないではありません。しかし、役者の人間的な厚みを重要視する現代の能に照らし合わせてみると若く美しければいいという、三十歳以前の演能条件には少し違和感を覚えます。楊貴妃の素性はクセで語られています。「上界の諸仙たるが・・・仮に人界 に生れ来て」と謡われるように、能の中では仙女として描かれています。もともと天上界にいらしたが、縁あって人間界に下りて楊家に育てられた。死後も、蓬莱宮という天界の島に戻り昔を思い悲しく日々を送っている」と。この作品はシテは死んでいるので現在物とは言えず、また幽霊ではないので夢幻能ともいえない不思議なジャンルの曲です。執心に苦しみ、地獄の責め苦にあうといった酷さはなく、あくまでも上品で優雅な旧懐思慕と哀傷の世界です。
しかし一方で、『楊貴妃』を演じるとは、喪失感の深さ、会者定離の無常観を、役者がどれだけ魂を注ぎ謡い、少ない動きの中にも心を動かすという作業ができるかということでしょう。そうでなければ、この作品を生かすことはできないだろうと思います。
会者定離。この悲しい言葉の響きがなんとなく心に染みる年になった自分が、ある程度人生経験を積み、かといってそう年老いてもいないこの時期に、『楊貴妃』という美しくも哀しい曲を勤めることができたということは幸せなことだったと、今思うのです。
(平成十五年 十二月 記)
撮影者 能 「楊貴妃」神田佳明、あびこ喜久三
その他 粟谷明生 上村松園の楊貴妃画像は日経ポケットギャラリーより
『采女 佐々浪之伝』の新工夫投稿日:2003-10-12

粟谷 明生
『采女?佐々浪之伝』といえば、六年前(平成九年)、粟谷能夫と私で主催する粟谷能の会研究公演でのスローガン、「新しい試み」に挑んだ思い入れのある曲です。
今回、秋の粟谷能の会(平成十五年十月十二日)では、もう一度、この『采女』を取り上げ、研究公演の成果と反省を踏まえ、一歩進めた、粟谷明生の『采女』を観ていただきたいと思い勤めました。
通常の『采女』の上演時間はおよそ二時間、長い作品です。粟谷能の会のように三番立の番組では、一曲にたっぷり二時間はかけにくい状況があります。
もちろん二時間なければ成り立たない曲であれば、番組構成を工夫し、その時間を確保することになりますが、現状の『采女』という作品ではどうでしょうか。
やや散漫な筋立ては、曲位として無駄な重さが感じられ、そのためか『采女』の上演回数は決っして多くなく、せっかくの優れた作品がどこかで損をしているように思えてなりません。
構成の散漫さを整理することで、『采女』のよさを十二分に引き出し、現代にも通じる能として再生、普及できないものか、これが私の挑戦であり、かなえられそうな夢だったのです。
では、『采女』の散漫さとはどこにあるのか。それは春日明神の縁起と猿沢の池に身を投げた采女の物語の二本立て構成にあるのではないでしょうか。『采女』は世阿弥作となっていますが、もともとは古作の『飛火』が原形で、それを世阿弥が改作したようです。
原形は、春日山の賛美が主体で、そこに後から采女の話をつけ加え作品化したものです。
しかしそのやり方は、当時はよかったのでしょうが、現代から照らしてみると、私には少し冗漫な作品として写ってしまうのです。
『采女』の小書は、昭和五十年、先代・喜多実先生が「小波之伝」(当初は「佐々浪之伝」)として、長時間の作品を凝縮するために創案されました。それを基に、私は先の研究公演で前場の春日明神の縁起や、後場の序、サシ、クセを省き、改訂版「佐々浪の伝」として試演してみました。
今回の小書再考にあたっては、演出家の笠井賢一氏にご協力をお願いしました。
新演出を作成するとき、演者ばかりでは思考に片寄りが生じ、つい演者のやりやすい方向に流れると感じてきました。
演劇、演能はあくまでも観客を対象としたもの、演者の自己満足、観客無視の舞台ではよくありません。
新たな事を起こす時こそ舞台全体を客観的に厳しい目で見ることのできる人が必要ではないかと思い、平素、研究公演などでお世話になり、ここ十年の私の舞台を気にかけてくださっている笠井氏に依頼いたしました。
まず新たな台本作りの検討からはじめました。研究公演での詞章を更に絞り込むことにし、前場は春日神社の由来、藤原氏の人々による神木の植樹の草木縁起を完全に削除し、後場は序、サシ、采女が安積山の歌を歌ったという采女の身にまつわるクセや、宮廷での酒宴の様の部分、そして「月に啼け・・・」の和歌に継ぐ御世を祝福する祝言を削除し、入水した采女の、現世の苦患を超えて仏果得脱の清逸の境地に焦点を当てたいと思いました。
春日山の植林から始まる春日縁起の段は興福寺、春日大社を讚える宗教賛美であり、藤原氏を讚える権力者賛美です。また「月に啼け・・・」以降は天下泰平、国土安穏という祝言性の強いもので、采女という女性には関連性が薄いと思います。これらをふまえて、今回の詞章を作成しました。
(どのように詞章が変わったか、粟谷能の会の当日に配付した資料を添付ファイルにてご覧ください。)
この能は、采女という女性の恨み悲しみではなく、得脱の晴れやかな境地を表現出来ればと考えました。采女は帝の寵愛を失ったと嘆き哀しみ、猿沢の池に身を投げますが、帝はそれをあわれと思い、「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」(我が愛しい人との契りの後の寝乱れ髪が、今は猿沢の池の玉藻のように見えることの悲しさよ)と歌い弔ってくださったのです。帝の心も知らず恨んで恥ずかしい、浅はかだったと・・・、そこにはドロドロした恨み節はひとかけらもありません。采女はすでに変成男子、成仏し生まれ変わっているのです。
「佐々浪之伝」の主題は、入水した采女が現世の苦患を超えて、浄土を喜ぶ清らかな境地、法悦の余情と功徳、昇華した成仏得脱の境地です。詞章をきりつめて削った意図は、最小限の言葉によって能『采女』を表現する、能でなければ成しえない新たな『采女』の創作なのかもしれません。おそらく、これほどまでに言葉を削れば通常の芝居なら支障がでるはずです。最小限の凝縮された言葉や、言葉では語れない思いを序ノ舞という舞に感情移入し、舞歌という能の世界で濃密な時間と空間を織りなしてみたい・・・。
梅若六郎氏は能は基本的に無駄なものを削ぎ落としていく木彫芸術のようなものだが、それも程度問題で、削ぎ落とし過ぎると演者は理解していても観客には意味がつかめない事も起こる、程度が問題だ…と言われています。
この、程度が難しく、今回も絞りに絞った狭いテーマを扱いながらも、観る人の想像に任せる余白を大事に残し、面白く観ていただければ・・・、決して単なる仏法讃歌ではなくお説教曲でもない、新たな『采女』という作品を蘇らせたい、その一念だったのです。
ではここからは、実先生の「小波之伝」と、私の研究公演の「佐々浪之伝」とを引き比べながら、今回の『采女?佐々浪之伝』を見ていきたいと思います。
まず、実先生の「小波之伝」を簡単に紹介しておきます。昭和五十年六月、喜多実先生は土岐善麿氏の協力のもとに「佐々浪之伝」を創案され初演されました。配役はワキ・宝生弥一、笛・藤田大五郎、小鼓・幸円次郎、大鼓・安福春雄です。同じ年の九月二十六日の「能に親しむ会」が初公表となり、小書名もこのとき「小波之伝」と変えられました。以後はこの形が伝承され、友枝喜久夫氏、狩野丹秀氏、佐々木宗生氏などが勤められています。

(雑誌『喜多』に、土岐善麿氏の『采女?小波之伝』の考察の手記があり、作成主旨がわかりますので、添付ファイルにてご紹介致します。)
ここでシテの出を見てみましょう。実先生の台本では、アシラヒ出で「照りもせず曇りも果てぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」という新古今集の大江千里の歌を謡い、すぐワキとの問答になります。続いて、語りが一部変更されていますが、初同以下は従来通りで、春日縁起も省略されていません。
私の研究公演でも、出は実先生と同じアシラヒ出で、大江千里の歌を謡い、その後植林の話を残しながらも「蔭頼みおわしませ、唯かりそめに植うるとも神木と思し召せ、あだにな思い給いそ」で止めて、以後の初同の春日縁起の謡は削除しました。
今回の「佐々浪之伝」では、植林の話も削除するため、シテの登場をどうするかが問題となりました。観世流の「美奈保之伝」では「のう、のう」とシテがワキに呼び掛け猿沢の池へ案内します。この「美奈保之伝」のやり方を踏襲することも考えたのですが、やはり喜多流らしさ、違いを出したほうがよいと考え、実先生のアシラヒ出を生かしながら「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の・・・」という帝の歌を謡うことにし、ワキとの問答につなげました。ワキの着きセリフの後に、「猿沢の池があるのでところの人に聞いてみよう」の詞を宝生欣哉氏に入れていただき、流れを整えました。
以前、観世流の片山慶次郎氏が雑誌『観世』の『采女』の記事の中で、「美奈保之伝」も呼びかけの言葉に工夫が必要では・・・例えば「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の・・・」と謡うアシラヒ出の可能性もあるのではと語っておられますが、これは今回の演出を選択する上での大きな自信ともなりました。
ただ問題もあり、「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の・・・」の謡が前場だけで三回もあり、少しくどい感じになります。そこで、シテの朗詠する形、シテの言葉で謡う形、地謡の小のりで謡う形と三種三様に彩りをつけての対応としました。
この曲のテーマともなる「吾妹子の・・・」の歌は史実は帝の歌ではなく、柿本人麻呂が詠んだ歌です。そのため実先生、土岐先生は「然れば天の帝の御歌に」を「然れば柿本の朝臣人麻呂」と変えられていますが、やはり帝が詠んだからこそ、采女は喜び物語が生きるのであって、柿本朝臣の歌では説得力に欠けます。能ではしばしば歴史にそぐわないことがありますが、能自体フィクションであり、物語の効果を考えれば、時には改変も許されるのではないかと思います。
後場は、実先生のは一声のあと、すぐに序、サシ、クセ、序ノ舞となり、序ノ舞は二段オロシから後見座にクツロギ物着となる斬新なアイデアです。
長絹を脱ぎ、蔓の両鬢を垂らし、裳着胴姿にて橋掛り一ノ松に出て入水、解脱のイメージを強めます。
小回りにて留め、シテ謡「猿沢の池の面」となり、「采女の戯れと思すなよ」と舞台に入り、最後は常座にて留め、終曲します。
研究公演では、序、サシ、クセを削除し、序ノ舞は物着をせず、替えの三段構成にして、掛(かかり)に「干之掛(かんのかかり)」、二段オロシに特別に老女物の譜を入れ、池への思い入れを型にしました。シテ謡「猿沢の池の面」からは終始橋掛りにての型に替えて勤めました。

今回後シテの出に関して、笠井氏より定型の常座でのシカケヒラキではないもの、「美奈保之伝」の被衣に替わるような演出はないだろうかと提案され、一声の留めを一ノ松にして、囃子方にお願いして特殊な手組を入れていただき、池水からの心情がこもる謡が謡えればと試みました。ここの「あら有難たの御弔いやな」の謡は笠井氏に、音、調子だけではない、有難いという感謝の念の訴えかけ、透明感のある謡を謡うことと、再三注意され、私には難所でしたが、これからの課題でもあることが再認識できたことは、有り難いことと思いました。
序ノ舞は、今回も序を「干之掛」にし、采女という女が昇華していく様とも、また我が家の伝書にある「采女一日曠れ也」のキーワードの如く、采女にとっての晴れやかな時を表現したいと思いました。
「一日曠れ」の絶頂感は官能的な高音から始まる干之掛の舞であればこそで、演者には一段と緊張をしいられる演出です。
二段オロシで中正面を池と想定して見渡し、池のほとりを浮遊する風情、妙なる調べを聞き、御光に照らされるかのように正先に出て、ふと合掌して祈る。静かで穏やかな特殊な舞の時間があってもよいのではないだろうかという、私なりの冒険でした。
「美奈保之伝」では水のイメージを重視して、拍子を踏まぬ、袖を返さぬが教えですが、私は采女が現世に現れて、補陀落の世界へ行けた法悦の舞を舞うことにしたかったのです。
凝縮されたひとときの舞、ただそれだけを念頭に描いてみました。ご覧になられたかたはどのように思われたでしょうか。
さて、このようにして作品を練り直し始めると、時代や人物の設定が気になります。
采女とはその歴史の中でどのような女であり、何を職務としたのか、采女という女がなぜ入水自殺をしなければならなかったか、それが知りたくなりました。
歴史的なことをあまり掘り下げてもどうかとも思うのですが、作品を見直し創作するには、この作業も大切ではないかと思い、私なりの采女像と事件背景をまとめてみました。
采女とは、その長い歴史の中で変化しています。古く七世紀?八世紀の古事記、日本書紀を編纂した古代貴族たちによると、采女とは専制的権力をふるった古代の天皇の侍女をさすようです。従って天皇の気分次第でどのような事も起こり得る、そこに悲話も生まれます。
例えば、五世紀の話。木工の名人・猪名部真根(いなべのまね)は木を削るのが上手で、石を台にして一日中木を削っていても、決して斧を石台にあてて刃をこぼすことはなかった。
あるとき、雄略天皇が「誤って刃をこぼすことはないか」と問うと、「ない」と自信満々に答えた。それを聞いた天皇はたちまち采女たちを呼び集めて、上着も下着も脱がせ、たふさぎ(猿股のようなもの)をはかせ相撲をとらせた。
いわゆる裸相撲です。そのため気が散って心を乱した猪名部真根は、斧を石台に当てて刃をこぼしてしまいます。
するとたちまち天皇は猪名部真根を殺してしまった…ということです。
残酷な話ですが、しかしここに出てくる采女の姿は猪名部真根に劣らず惨めです。
そこには女のはにかみも、こだわりも許されない。天皇の一言で否応もなく人々の前に肌をあらわにしなければならない悲惨な状況が実在したのです。
古代宮廷生活の一こま、軽く読み流せないエピソードです。これは門脇禎二著『采女?献上された豪族の娘たち』からの引用です。
采女は地方第一級の豪族の娘たちであり、郷里にいれば豪族の娘として大切にされ、生活も保証されていたはずの立場でした。
そのような娘が采女という立場に追い込まれざるを得なかったのは、豪族たちが天皇への忠誠の証として、娘を献上したからです。
采女は天皇と豪族との支配と隷属の関係から生まれた服従の証、美しい少女たちは人質だったのです。
天智天皇の時代にも歴史のひとこまに采女が登場します。中央政権は古代から中国の制度を取り入れたため、天皇には皇后のほかに、妃、夫人、嬪(ひん)がいて、その人数も決められていました。
采女は天皇のほか、これらの人々のお世話もしますが、身分的には決して高くはなかったようです。
天智天皇は皇后や妃、夫人との間に後継者に恵まれず、采女を召して子を生ませ後継者としました。それが大友皇子です。
以後、大友皇子は、天智天皇の弟の大海人皇子(後の天武天皇)の脅威となります。当初、大海人皇子は吉野へ逃避していますが、天智天皇が亡くなると、巻き返しを開始、采女を母とする大友皇子はにわかに形勢不利となり、その権力争いは壬申の乱へと拡大します。
瞬く間に大海人皇子は勝利し、大友皇子は最後には自殺という悲しい運命となります。
(能『国栖』はこの時の事件を背景に作られた作品です。
演能レポート『国栖』をご参照下さい。)悲しい運命ではありますが、この時代ぐらいまでは、采女という女性たちは、身分は低いながらも、天皇の寵愛を受ける機会があったということです。

以後、采女は地方豪族の娘たちであることに変わりないですが、生活や仕事、身分が厳しく規制されるようになり、天皇と恋愛できるような間柄はなくなっていきます。さらに時代が下って平安時代以降になると、采女の仕事は食膳係、裁縫係と限定され、天皇との関係は一層遠いものと変わっていったようです。
では能『采女』に登場する采女はどのような女だったのでしょうか。謡曲の詞章には「天の帝の御時」とあるように、故意に帝の名前の記述を避け、時代限定ができないようにしています。それでも、奈良・猿沢の池という地から、また『大和物語』に奈良の帝と記載されているため、平城京時代、つまり奈良時代の事件であったことは確かです。
平城京遷都は壬申の乱の40年ほど後、当時の采女は天皇と恋愛できる間柄ではなかったと思われます。采女のよき時代を想定してこのような物語が作られたのではないでしょうか。
そして采女は十四?十六歳ぐらいの生娘。帝に召され、純粋故の一途な思いが募ったのでしょう。
それに比べ帝は大勢の女性たちに囲まれ、采女の一途な思いなど気づかなかったかもしれない。
一度召してあげたのだから本望であろう、これで郷里の一族の地位は保証されるであろうぐらいの思いだったかもしれません。
帝と身分の低い生娘の間の契りには、支配する者と支配される者の価値観の違いもあり、それが悲劇の発端となったとも言えます。
しかし能『采女』はそのことによる恨み辛みを述べる怨念劇ではありません。帝の愛を失ったと悲観して入水した采女に「吾妹子が・・・」と歌を詠み哀れんでくれた帝の気持ち、ここに救いの始まりがあります。
法華経の祈りで女の身でありながら成仏できた喜びを美しい舞いでみせる、采女の悟りの境地と理解出来るのではないでしょうか。
序の舞が終わると、女は「猿沢の池の面」と謡い、「よく弔はせ給や」と、祈り続けることを願って池の底に消えていきます。
重ねて祈ることで、采女の魂の鎮魂を永遠の祈りに高めているように思えます。
采女はあくまでも美しくきれいに、人間味はなく、水と同化していく様にも見えます。
采女にとって、水や池は死に場所ではなく成仏の場所と変わっているのです。
采女が重ねて弔いを願い永遠を求めるように、私たちが携わる伝統芸能の世界も繰り返し反復することが神髄かもしれません。
しかしその反復の中にも、新しい試みや改良が必要です。
変えていく力を失うことは、能という伝統芸能のダイナミズムが失われ、抜け殻のようになってしまうのではないでしょうか。しかし伝統芸能の“変える力”というのは、根こそぎ変えるのでなく、伝統の持つよさ、匂い、臭さというものを残しながらのもののようです。
「名曲は伝承されつつ、その時々の工夫が加えられ、名曲であるが故に一層の磨きがかかってくる」これも梅若六郎氏のお言葉で、今回の作業をするにあたり大きな支えの力となりました。
演じ終え、この「佐々浪之伝」という小書を是非とも普及させたく、多くの方に体験していただきたいと思っています。

今回、囃子方を前回の研究公演のときと敢えて代え、笛は森田流(松田弘之氏)から一噌流(一噌幸弘氏)へ、小鼓は観世流(観世新九郎氏)から大倉流(大倉源次郎氏)へ、大鼓も高安流(佃 良勝氏)から葛野流(亀井広忠氏)にお願いしました。
それも多くの方々に体験していただきたいと思えばこそ。
みなさま私の試みを快く理解してくださり、協力してくださいました。深く感謝しています。
地頭を引き受けてくださった私の師・友枝昭世氏が「そこそこの作品になってきたね。序之舞を再考すれば・・・、今度自分もやってみようかな」と言ってくださいました。
この小書が多くの舞台で演じられることは嬉しい限りです。
コンパクトながら、能の世界を十二分に楽しめるそんな作品になるように、さらに改良を加えていきたい、あの池の采女が喜んでくれるような作品になればと思っています。
(平成十五年十月 記)
写真
佐々木宗生氏 「采女」あびこ写真
粟谷明生「采女」石田裕
頼政の男気投稿日:2003-09-20

粟谷能の会福岡公演(平成15年9月20日)『頼政』では、父の体調を配慮して、私が後シテを代演しました。
『頼政』は粟谷能の会(平成9年)の初演以来、能楽座静岡楕円堂公演(平成12年)でも急遽、父の代演をし、今回またと、何か因縁を感じます。頼政像が父の姿と重なるようで感慨深いものもあり、私なりに思うところを後半に重点をおいてまとめてみました。
『頼政』の後場は平家物語に基づいて作られています。治承四年の夏の頃、頼政は以仁王にご謀反を勧め、三井寺(園城寺)の援軍を頼みにしますが、平家方の知るところとなり、敢え無く、宇治平等院に御座を敷き平家を向かい討ちます。宇治川の橋合戦の様を語る床几に掛けての仕方話は、老将である頼政と、平家方の若武者、田原又太郎忠綱の二者を演じ分けるところに演者の力量が出て面白いところだと思います。特に忠綱の指揮による三百余騎が川を渡り攻め入る様子は、能『頼政』ならではの面白さ、見どころです。
床几での型には、それぞれ口伝が秘められていて充分な稽古が必要ですが、ともすると型の模写に留まってしまい、頼政という、老体であり法体そして軍体であるという、複雑な捻くれた人間像を見失う傾向があるので、演者はここを注意しなくてはいけないと思います。しかし言うは易く行うは難しで、私も完璧にはできません。
頼政は七十六歳(七十七歳とも)の老体ですが、目に金環がある専用面「頼政」を使用します。いかにも老武者らしくと三光尉をかけて「老い」を前面に出す『実盛』とは異なります。頼政の面には、老いて猶強い現世への執着、人間離れしながらも、何か生臭い執念のようなものを感じます。
修羅物を演じるとき、役者は命を懸けて戦っている様や、その戦慄を舞台に表現できなくてはいけないといわれます。『頼政』に触れるたびにこの言葉が思い出され、同時にシテを勤める時だけではなく、地謡を謡うときも、それが芸能の課題であると感じます。
能『頼政』を勤めるに当たり、源三位頼政という老武者がなぜ挙兵に及んだのか、どのような執心があったのかを、もう一度繙いてみることにしました。このことは、前回の静岡公演『頼政』でも書きましたので、参照していただきたいと思います(演能レポート「『頼政』の鬱屈と爆発」)。今回は、頼政と以仁王を結ぶ意外な人物がいたことを知り、興味深く感じましたので、簡単にふれてみたいと思います。
私は、平家物語の一段「月見」を能形式の作品にしたことがあります。月見の段は藤原(徳大寺)実定が福原に新都なるとき、旧都の月を恋い慕って、京のさわ子(太皇太后多子とも言う。近衛帝と二条帝の二代の妃となった実定の妹、また姉ともいわれている)宅を訪ね、月見をし、歌を詠み、互いに昔を偲ぶという短い話です。実は、この人々が頼政に関係があり、以仁王にもつながっているのです。
後白河法皇の第三子、以仁王は親王ではなく王という称号です。これは安徳帝を推す平家方による圧力があったのか…、高倉帝と徳子の間に安徳帝が生まれると、以仁王の帝位継承の目は完全に無くなりました。以仁王は父後白河法皇の指示か、また平家方に疎んじられていたためか、親王の号は最後まで許されず、元服も人目に着かぬ秘密の内に行わなければならなかった経緯があります。そしてその場所に選ばれたのが、さわ子宅でした。その後それが原因でさわ子は出家することとなりますが、そのさわ子宅の隣に屋敷を構えていたのが源頼政でした。さわ子の小侍従と頼政が歌を交していた事実もあり、遂には屋敷を交換したほどの関係であったようです。
平家方の横暴が激しくなるにつれ、荘園さえも没収された以仁王、安徳帝が帝位につくことになると、もはや武力行使しかないと思っていた矢先、頼政は以仁王に平家追討の令旨を出させ決断をさせます。以仁王の苦渋を見守ってきた誼も一つの要因であったかもしれません。一方、嫡男・仲綱は伊豆守を任命され着任していますが、当時、伊豆には流人頼朝がいます。そこで接触があったことは紛れもないことで、それらの報告は逐一、父頼政の耳に入っていたことでしょう。
以仁王との関係、宗盛の頼政一門への嫌がらせ、そして子息仲綱兄弟の決起催促、そこに、仲綱と宗盛の愛馬争いが事件の発端となり、旗揚げの口火となったことは確かで、今まで我慢に我慢を重ねてきた老将の感情を一気に挙兵へと爆発させたのだろうと思います。七十六、七歳、死に場所を失っていた頼政という老武者に、平家を裏切るという、これほどの決起をさせたのは、これら複数の原因はもとより、最後の一花咲かそうという男気があったからではないでしょうか。
能『頼政』では、「木の下=このした」という愛馬に絡む話を中心に、頼政の決起のいきさつをアイが語ります。私はこのアイ語が好きで、後シテではこの語られたものを背負って登場しているつもりです。そして宇治川の橋合戦の仕方話へと繋がり、最後「兄弟の者も討たければ…」と息子達もすでに討ち死にしたと知るや、ここで敗戦を認め自害を決意します。子どもがいない戦はもう意味をなさなかったかもしれません。私は頼政の親としての心情を思い演じています。
『頼政』に関連した能に『鵺』があります。宮中を騒がす化生の物、鵺は頭は猿、尾は蛇、足手は虎の如くと謡にあるように、奇妙な化け物です。ここで頼政は宮中の弓の名手の警護武将として登場し、家来の猪早太(いのはやた)と二人で鵺退治をし名声をあげます。やはり頼政は宮中が似合っていたのではないでしょうか。宮中警備係筆頭であればよかったものを、似合わぬ場所に首を出したため、鵺のように退治されてしまいます。昔、観世銕之亟静雪先生に「頼政自体が鵺みたいに生きてきたんだよ、だからそこに繋がるものがあるんだ」と伺ったことを思い出します。『実盛』に「深山木の其の梢とは見えざりし、桜は花に現れたる」と頼政の歌がありますが、一花咲かす男気があったからこそ、歌人頼政の名声が今にあるのかもしれません。
今回、半能ではありますが、『頼政』を演じることで、この課題を作品にした世阿弥の老いての苦悩、苦労人世阿弥という人がひしひしと感じられるのです。次回の粟谷能の会ではこの『鵺』を演じます。頼政に因縁を感じつつ、『鵺』の中で、頼政像をもう一度見つめてみたいと思います。
(平成15年9月 記)
写真
面 頼政 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
能 頼政 シテ 粟谷明生 撮影 堤 恒子
『弱法師』俊徳丸の孤独と闇投稿日:2003-08-31

粟谷 明生
今年(平成15年8月31日)の秋田県協和町のまほろば能公演で『弱法師』舞入を勤めました。
『弱法師』は第二回粟谷能の会研究公演(平成四年六月)で初めて勤め、今回は十一年ぶりの二回目です。私はこの曲が大好きで、どうしても早く演じたいと思い、それがために、自分で演じる曲を決められる個人の会、粟谷能の会研究公演を発足したと言っても過言ではありません。
『弱法師』は若年では難しいという演者側の意識か、私がまだまだ未熟だったのでしょう、研究公演旗揚げの第一回では『弱法師』のお許しは出ず、まずは体を動かす曲を勤めてからでもいいだろうという父の言葉に従い『熊坂』を勤め、その翌年の二回目の研究公演で念願が果たせたという経緯がありました。『弱法師』を若年には披かせないという現場能楽師の意識は判ります。曲としての品位、悲境の身を嘆きながら、一面風流に心を保つことの重要性を思うとそういう結論になります。
しかし単に若年では叶わないと決めつけるのではなく、演じられそうな技量がある人間がいて、そこに精神性があれば、大人は積極的に場を与え、若い演者はそれに応えていくべきではないでしょうか。『弱法師』はそういう積極性を必要とする曲だと思います。大人になれば自然と淡々として出来る曲というものではないようです。不遜な言い方ですが、『弱法師』という曲に歯が立たない演者を見たとき、若い時分に演じていればこのようにはならないのでは・・・などと思うことがあります。
生意気だとお叱りを受けるかもしれませんが、私の正直な感想です。年を経ぬ者は演じてはならぬと頭から拒絶する方法論の犠牲者かもしれません。しかしそれは演者に責任があるのか、さてどちらに落ち度があるのでしょうか。

能『弱法師』は、父、高安左衛門通俊の後妻の讒言により、父に捨てられ、悲しみのあまりとも、流浪の果てにとでもいうか、やつれ盲目となり乞食として生きるしかなかった孤独な少年俊徳丸の悟りと諦念、そして法悦を描いています。初演の時はそういう精神性以前に、それまでに経験できなかった「盲目の杖」、その扱いの習得が私の念頭にありました。
喜多流の修業過程では、まず扇で舞うものから入り、次に扇以外のものの習得となります。扇以外に扱う道具としては、羯鼓の撥、長刀、杖などがあり、それぞれ難しいものとされています。段階としては、まず羯鼓での撥の扱いがあり、次に『熊坂』や『船弁慶』『巴』などで、長刀の使い方を覚えます。そして『藤戸』や『烏頭』などで使う「突く杖」、また『是界』『鞍馬天狗』『山姥』などで「鹿背杖(かせづえ)」という、T字型の持ち手がついている大型のものも習います。こういう扇以外のものを使うのはそれ相当の練習が必要で簡単に習得できるものではありません。それよりもう一段階上にあるのが「盲目の杖」だと思います。
「盲目の杖」と呼ばれるものは『望月』のツレ(母)や『蝉丸』のツレ(蝉丸)、『景清』にも使われますが、『望月』は構えをするだけ、『蝉丸』のツレも『景清』も終始杖を突くわけではないので、技を駆使する究極は何といっても『弱法師』の杖ということになります。
この「盲目の杖」は見た目には簡単に見えますが、実際やってみるとなかなかどうして難しいものです。面をかけて視界が狭められると、杖の先が見えず、すると手首の癖も出て、どうしても左右どちらかにずれて突いてしまい、身体の正面中央に綺麗に突けません。これは経験、稽古によって習得するしかなく、早めに手がける必要があります。このようなことも若いうちにという根拠になるのです。
では舞台進行に合わせて感想を述べたいと思います。
シテの一声からサシコエ、下げ歌、上げ歌とまずシテ謡の聞かせどころがあります。
私はサシコエの一部分が気になっています。「それ鴛鴦の衾の下には立ち去る思いを悲しみ、比目の枕の上には波を隔つる憂いあり・・・」という『砧』にもある一文は、夫婦の別れの酷さを謡っています。
世阿弥自筆本では、シテ俊徳丸にはシテツレとして俊徳丸の妻がいて、最初に一緒に登場します。ワキは天王寺の住職でワキツレとして従僧も出て、父の通俊はシテツレまたはワキツレという位置づけです。時正の日(彼岸の中日)は日想感を拝もうと大勢の人々が天王寺の境内に集まったようですから、その様子を表すには舞台に大勢の役者が上がっていることが必要だったのでしょう。
しかしこの演出は江戸時代にはすでに廃れ、現行のシテの俊徳丸、ワキの父・高安通俊、アイ通俊の供人の三人だけに絞り込んだ形と変わっています。天王寺の群衆のざわめきやにぎわいも必要でしょうが、作品のテーマは俊徳丸という悲惨な運命を背負った少年の達観した孤独感と超俗的な悟りの境地、しかし実はそれらへの葛藤であり焦れだと私は思い演じています。これらを際立たせるには、やはり俊徳丸は一人で出なくては成立しません。
「弱法師の奥さんを出すなんて言語道断、奥さんが弱法師の手を引いて登場しては強法師になってしまう」とは、白洲正子氏の弁です。

今回サシコエを削除して謡ってみようかとも思いましたが、後半の「今また人の讒言により、不孝の罪に沈む故、思ひの涙かき曇り、盲目とさへ成り果てて」を謡わなくては盲目の身となった経緯と嘆きが消えてしまいます。今後対処を考え、いつか新たな試みをしたいと考えています。
三の松から二の松、一の松と橋掛りを歩みながらの上げ歌は天王寺への道行きです。中国の高僧、一行がやはり讒言によって果羅の国に流されたが、九曜の神々が行く道を照らしてくれたと謡い、天王寺の石の鳥居のところまで来るもので最初の見せ場です。
型は常座に入るとシテ柱を石の鳥居と見立て、杖を舞台の縁に当てながらシテ柱を探り当て、カチと叩いて「石の鳥居、ここなれや」と謡います。いろいろな方々のこの場面を拝見してきましたが、やはり私は父のが心に残っています。探り当て、右足を引きながら、右手をグーッと上げて柱を確認する、その時顔は反対方向に向ける、ここが味噌で、いいところです。盲目の人は耳で見る、見たいところに顔を向けるのではなく耳を向けるのだ、が父の口癖です。

今回は時間の制約が有り、クリ、サシ、クセの釈尊入滅から聖徳太子の功績に及ぶ天王寺の縁起物語の部分を省きました。「金堂の御本尊な・・・」で始まるしっとりとした居曲(イグセ)、上羽の「萬代にすめる亀井の水までも・・・」より張って謡い、「皆成仏の姿なり」とシテが合掌する最後までは地謡の高揚感が聞かせどころです。序、サシ、曲の部分は世阿弥の作詞、作曲で独立した曲舞として別にあったものを十郎元雅が借用したといわれているようです。

今回は「舞入」の小書で勤めました。「舞入」は「東門に向かふ難波の西の海、入り日の影もまごをとか」の後に通常のイロエを中之舞に替える演出です。イロエは、昔見慣れていた難波の風景を思い次第に高ぶる俊徳丸の心理過程を、舞台を一巡するだけのさりげない動きで表しますが、「舞入」はここに中之舞を入れる演出です。杖を左手に持ち替え、右手に扇を持ち、杖を突きながらの舞です。左手は利き腕ではないので、扱いが思うようにいかず難しい技です。気をつけないと杖扱いがお留守になってしまうので充分な稽古が必要です。
「盲目の杖」の扱いは、他流では「心」の字に扱って突くと伝承されているようですが、喜多流は別で、特殊な、かいぐるように扱います。まず一つ突いてから一足出す、これが教えです。杖と足が同時になってはだめで、これに顔の動きを加えて盲目らしさを出します。この中之舞の位はノリのスピードをどのくらいにもっていくかがお囃子方の苦心どころです。単に、盲目だからとゆっくり囃せばいいというものではありません。心静かな日想観の様をみせるといはいえ、盲目の人間の暗く沈んだ気持ちの舞ではつまらないものになってしまいます。若い盲目の遊狂心の興奮とでもいうか、目は見えぬが心の中ではすべてが見えるのだという法悦の舞、ただベタベタと重ったるい舞ではテーマから外れるのではないか・・・、かといってやはりスピードが早過ぎては舞いづらい、適度なスピードが大事ということになり厄介なところです。
父菊生は十四世喜多六平太先生に俊徳丸にとっては天王寺は通い慣れた道だ、どこに何があるかは知り尽くしているから、のろのろせずに意外と速く歩むのだと教えられたとか。昔、父が勝新太郎の座頭市の真似をして説明してくれた、あれはとても面白かったといまでも思い出します。
そしてこの曲の一番の見せ場は、何といっても中之舞に続く仕舞どころのクルイです。時正の日は日想観といって、太陽が真西に沈むので、それを拝むことで、その先にある極楽浄土を想い願おうということです。そういう日であればこそ、俊徳丸もすべてのものが心眼で見えるぞと高揚感にとらわれるのです。「満目青山は・・・」で、左手を右の方から円を描くように大きく丸く動かし、「心にあり」と胸元に当て思いを込める、この一連の型に演者の精神誠意が込められ、すかさず「おう、見るぞとよ、見るぞとよ」と強く杖を突き、心眼の境地となります。そして東西南北の景色を眺め一瞬うかれたかと思うと、盲目の悲しさで行き交う人々にぶつかり、転び、人に笑われという現実にさらされます。ああ、やはり自分は悲しき盲人なのだと挫折し、「さらに、狂はじ」、もううかれたりはしないと落胆して座り込み絶望のうち心は閉じてしまいます。


最後はロンギの形式で、俊徳丸と通俊親子の対面の場面です。夜が更けていき、高揚のあとの挫折と落胆、そこに思いもかけぬ、父との再会。父と子は一つの舞台に居ながら、なかなか対面せず、焦らして焦らしてようやくの対面です。起承転結の結として見事に創り上げているといえますが、私にはどうしても、この結果が祝言ひと色には見えず、そこに元雅作らしさ、作品の深さを感じます。
元雅は世阿弥の嫡子ですが、時の将軍、足利義教が世阿弥の養子の音阿弥を寵愛し世阿弥や元雅を遠ざけたため、不遇の生涯を余儀なくされて、三十代前半の若さで没しています。そのためかどうか、『隅田川』『歌占』『盛久』に代表される元雅の作品は暗いテーマを扱い、最後に多少の光明を見せながらも(『隅田川』は最後まで救われない)、どこかに闇の部分を残して終わっています。『弱法師』も例外ではありません。
最後に父子再会を果たすとはいえ、通俊は息子だと気がついてからなかなか名乗らず、夜も更け、人がいなくなったころを見計らってようやく声をかけます。人目をはばかる通俊の態度に、俊徳丸の行く末は依然として暗黒の闇だと感じさせられます。高安の通俊は施行をするぐらいの人ですから身分も見識もある人でしょう。そういう人間が、この盲目の我が子をどのようにして面倒をみていくか逡巡する姿が想像できるのです。
安っぽい三文芝居なら、偉い人が現れて眼に手をかざしたら両の眼が開いた、これも日頃からの信心の賜物、めでたしめでたしということになるのでしょうが、元雅はそういう安易なハッピーエンドを嫌います。再会を“うれし”と喜びながらも、これからどうしたらよいかといった戸惑いを隠し切れない、現実とはこうではないか、もっとこのテーマを掘り下げてほしいという元雅らしいメッセージが伝わってくるのです。
最後は親子二人、手に手を取り合って戻るのではなく、少し距離を置いての退場としました。私は橋掛りを幕に向かって歩むとき、ゆっくりゆっくり、いまだに闇を背負っている思いで運びました。登場するときと同じくらいゆっくり、いや、登場するときは天王寺に光を求め信仰と希望に満ちているのですから、戻るときの方がもっと足取りは重いかもしれません。
俊徳丸は信仰の幻想と挫折を味わうのです。父に会ったが自分はこの先どうなるのかという暗い思い、父通俊にしても、讒言によって、この子をこんな酷いことにしてしまった、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔と戸惑い、これらの負を二人がずーっと背負っていくのだという暗くて長い旅路が暗示されます。
元雅の、現実をしっかり見据えまっすぐに描き切る作風、どの作品もドラマチックで心がうねるような面白さがあります。元雅の作品に取り組むたびに、元雅という人がもう少し長く生きて、多くの作品を残してくれたら・・・と、遠く思いを馳せてしまいます。
(平成15年9月 記)
写真
弱法師 シテ 粟谷明生 研究公演 撮影 あびこ
弱法師 シテ 粟谷明生 まほろば 撮影 東條 睦
面 弱法師 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
四天王寺石の鳥居 撮影 粟谷明生
亀井堂 撮影 粟谷明生
『烏頭』 ー殺生の業についてー投稿日:2003-07-01


本州最北端の地、青森市で催される「外ケ浜薪能」にて『烏頭』(他流では『善知鳥』)を勤めました。外ケ浜(注・謡曲では外の浜)は謡曲『烏頭』の舞台として知られ、また版画家、棟方志功の出身地であります。棟方志功には能『善知鳥』を題材にした善知鳥版画巻があり、「善知鳥」(世阿弥元清原作、ブルース・ロジャース、メレディス・ウェザビー訳、棟方志功装幀、昭和22年旺文社発行)に掲載されています。今年は彼の生誕百年祭である為、今回の実行委員の方々が『烏頭』を選曲されました。
能『烏頭』は陸奥・外の浜でうとう鳥(ウミスズメ科の海鳥)を獲る猟師が、死後地獄の責めに苦しみ、僧に救いを求める物語です。
舞台は、越中の国(富山県)立山へ禅定(ぜんじょう=山中の霊場を廻る修業)した僧(ワキ)が目のあたりに地獄の光景を見て感慨し下山するところから始まります。そこに去年の春、外の浜で死んだ猟師の霊(シテ)が老人として現れ、禅定を終え陸奥へ向かう僧に、死別した妻子に麻衣の袖を届け、蓑笠を手向けてほしいと伝言します。立山といえば嶮しい霊山。今は立山黒部アルペンルートがあり、バス、ケーブルカー、ロープウェイを利用して簡単に立山から信濃大町まで横断できますが、その昔は、修験の山として信仰され、霊が集まる恐山、峻厳な秘境であり、立山に入ることは修行でありました。
私も学生時代に山に登った経験がありますが、残念ながら立山への登山は果たしていません。しかし室堂までは行ったことがあり、あのあたりの景色は今も覚えています。弥陀ケ平には「がきの田」といわれる、立山餓鬼道に堕ちた死者の霊が飢えを凌ぐために田植えをする田があって、この山に霊が集まるという立山信仰をあらわす不思議な場所でもあります。
後場の舞台は立山から遠く隔てた本州最北の外ケ浜となり、殺生を生業にする人間の罪という重いテーマを、前場、峻厳の地の立山と、後場、辺境の地の外ヶ浜を結んで描くところに、能『烏頭』の展開の面白さが感じられます。
今回は、初めてご覧になられる方もいらっしゃるのではないかと思い、物語が少しでも解りやすいようにと工夫を試みました。
一つは、日頃から気になっていた既存の簡略化されたアイの言葉の見直しです。横道萬里雄氏は著書「能劇そぞろ歩き」に『善知鳥』のアイの試案を書かれています。今回ご承諾を頂き、そのアイの言葉を野村万作氏のご協力を得て深田博治氏に勤めていただきました。通常、僧(ワキ)が外の浜在所の者(アイ)に猟師の家を訪ねると、「さん候、去年の春みまかりたる猟師の家は、あれに見えたる高もがりの内にて候。あれへ御出であって、心静かに御尋ね候へ」と非常に手短に、ややそっけなく答えます。それに対してワキは「ねんごろに御教へ祝着申して候」とたいそう仰々しく受けて謡いますが、私はここをかねてより不自然に感じていました。今回はご当地ソングでもあり、外ケ浜や主人公の猟師の説明などを丁寧に語ることにより、内容も一段とわかりやすくなり、ご覧になる方に身近に親しみを持っていただけるのではと思い試演してみました。
また「出し置き」の手法をとらないことにしました。出し置きとは、本来その場にいない人物を、最初から舞台に出しておくやり方です。『烏頭』の前場は立山が舞台ですから、外ケ浜の妻子がいるはずがないのですが、子方とツレは最初に登場してワキ座に座っています。初めて能をご覧になる方は、きっとここに戸惑いを感じると思うのです。「出し置き」は、能という中世の日本の演劇の特徴的な手法で面白いとは思いますが、敢えてわかりやすさに重点を置いて、中入り後、場面が外ケ浜に転回するところで、猟師の子どもと妻(子方とツレ)を登場させ、アイはワキに呼び出され幕から登場していただくことにしました。

面は前シテが小牛尉、尉としては品のよい顔で、喜多流では『高砂』や『弓八幡』などの脇能に使用しますが、なぜ身分の低い猟師の霊が小牛尉を使用するのか、品位の落ちる三光尉でよいと思うのですが、その理由ははっきりしません。研究の余地がありそうです。
前シテは呼掛で橋掛りにて留まり、片袖を脱ぎ取りワキに渡します。シテは本舞台へ入るぎりぎりのところで、ワキは決して橋掛りに入らずに受け渡しをするのが流儀の心得です。シテのいる橋掛りは霊界、ワキの立つ本舞台は現世とされています。その境で「立ち別れゆくその跡の」と二人の歩みが糸を引くように同じように離れて行くと良いと父は言いますが、これはワキとよくよくお稽古しなければ、そう上手くはゆかない難しいところです。
後シテは「痩男」の面に、羽蓑を腰につけ杖をつき猟師の霊として登場します。
『烏頭』のメッセージはシテ自らが謡う「何しに殺しけん」に集約されていると思います。人間が生きていくために、他の動物の命を奪わねばならぬという悲しい業。地球上のあらゆる生き物は弱肉強食のルールの上で成り立ち、人間も又例外ではありません。もし猟師の殺生が罪というならば、それは人間の背負った宿命的な罪と言うべきであり、道義的に許されない不条理であっても、これはもうどうしようもないものと目をつむるしかなく、理屈だけでは割り切れないことでしょう。生きるための生業ならば、致し方ないと思うのですが…。
『烏頭』『阿漕』『鵜飼』の三曲を三卑賎と呼び、いずれも殺生を生業にする猟師達の話ですが、『阿漕』『鵜飼』の猟師達が弔われ成仏していくのに対して、『烏頭』の猟師は、地獄に落ちて呵責の責めを負い続け、最後まで成仏せずに消えていきます。救われない何かがあり、それが『烏頭』の特徴ではないでしょうか。
では、救われない何かとは何か。答えは狩猟方法にあるように思います。幼い雛鳥を狩猟するところに問題点があるのではないでしょうか。度重なる殺生のうちに、いつの間にかそれ自体が快楽となり、罪の意識が薄れてしまった猟師。雛鳥と感じた瞬間、もう目の色を変えて散々に打ち尽くす姿は、正気を逸し、まるで何かに取りつかれたとも思えます。

猟師が鳥を打つ様を描く「カケリ」は「追打ち之カケリ」とも言われ、修羅道に堕ちた武者たちの苦悩や、狂女の心の狂いの様を表すカケリとは明らかに違います。型は正先に置かれた笠を巣に見立て、はじめは親鳥を狙い打ち、逃げられ空を見上げ悔しがります。二度目は橋掛りで「うとう」と親鳥の声をまねて謡い、それに答える雛鳥を見つけます。今度は散々に打ち殺し捕獲します。親鳥はそれを見て空から血の涙を流しながら泣き叫ぶという悲惨な場面となります。猟師は親鳥の血の涙が身にかかるのを嫌い、笠をかぶり蓑を着て身を守ります。現代でも人間が烏(からす)に襲われる事件がありますが、親烏は雛を守るために、巣に近づく者の頭めがけて襲いかかるといいます。襲われた人が帽子でもかぶっていたらよかったと言う言葉で、私は『烏頭』の笠と蓑というキーワードに繋がりました。前シテの猟師の霊の「蓑笠手向けてくれよと」と哀願する謡が、殊更強く切実な叫びとならなくては、と…。
稽古しているうちに、このカケリの動きが、親鳥を狙うものか、雛鳥を狙った狩猟なのかと、疑問を抱きはじめました。「うとう」と親鳥の鳴きまねをして、それに答える雛鳥を捕まえる猟法であれば、目的は雛鳥であるように思えます。あるいは雛鳥をおびき出して助けに飛んでくる親鳥諸共に打ち落としたいのかとも考えられます。我が師、友枝昭世氏ははじめの空を見上げる型は、雛鳥を打ちに行くと親鳥が猟師目掛けて襲いかかるので、親鳥への威嚇を表しているのではないかと言われます。でなければ一連のカケリの型の辻褄があわないと教えて下さいました。またある方は主眼は親鳥か雛鳥かではなく、猟という惨状の有様の表現ではないかと教えて下さいました。どちらであってもいい、観る方の想像にお任せすればという声が聞こえてきそうですが、どうも私は演者が自分の型、動きに説明ができないようでは問題ではないかと思う性分。師の教示でもやもやした疑問が晴れすっきり納得できました。
能『烏頭』は雛鳥の生命を絶つ罪の深さを、人間と鳥類の親子の情にからめて描いたところに主張があります。うとう鳥は親子の情愛が深い鳥だと言われています。「平沙に子を産みて落雁の儚や親は隠すと」も、外敵に見つからないように、親は懸命に巣を隠して子を守ろうとします。ところが、親鳥が「うとう」と鳴くと「やすかた」と答える習性があり、その親子の絆の深さがかえって命取りになっているわけです。そして、親子の別離は猟師の霊にも降りかかります。ひと目妻子に会いたいと外ケ浜までやって来る猟師の霊ですが、子供の髪を撫でようとしても、「横障の雲の隔てか」と阻まれてしまいます。まさに因果応報、罪の深さを鮮烈に描き出しています。
この救済なき罪にもがく猟師の心境。そこをどう表現するかが演者の力であり見どころです。後シテの「一見卒都婆永離三悪道、この文の如くんば・・・」と、経文を唱えれば助けてもらえるはずなのに、何故俺は救われないのか・・・という悲痛な謡を、単に朗々と謡ってはその苦しみが表現できるはずがなく、陰々滅々と気持ちを埋没して謡うだけなら容易いことですが、あの苦しみの訴えは通じないのではないか…。父は淡々と落ち着いて力強く謡う中に本当の強さが生まれ、それが聞いている人の想像力を掻き立てる、あまり前面に押し出すような謡ではいけないと教えてくれました。演じる心に余裕を持ち、下の下の身分の嘆き、実盛や頼政などの武将のような訴えかけの強さとも違う、低い身分にありながらもそこに強い張りと内圧のある叫びのような謡ができればと思うのですが、今回もつくづくその難しさを実感させられました。

私が『烏頭』の子方を初めて勤めたのは六歳の時、父菊生がシテでした。シテツレも二十三年前の昭和五十五年にやはり父菊生のシテで、奇遇にも青森喜多会の公演でした。私自身シテは、十年ほど前の妙花の会以来の二回目の演能です。
子方で思い出すことはたった一度の稽古で「ツレが立たせに来たら立ってシテの傍まで行きなさい、シテが触ろうとするから、触られないように長袴を踏まないようにもとに戻り、あとは最後まで座っていて、終わったら立って帰るんだよ」とこの程度の指示で、最初から舞台に出されたあのときの心境です。中入りが過ぎるうちに段々、いつシテの近く行くのだろうと不安になりながらも座っていました。シテが我が子の髪を撫でようと寄って来るところを、スッと後ずさりして逃げる動作は子ども心にも難しいと思い緊張しましたが、何よりもシテと向き合って、その面の顔をまともに見た瞬間、本当に恐ろしいと驚きました。これは髪を撫でてくれるのではない、殺しに来るから逃げるのだと思いました。それほどの恐怖を覚えたのです。もちろん、その場面はただ恐ろしいというものではありませんが、触りたいけれども触れない無念さで歩みよるその緊迫感が、子方の私には異常な恐ろしさと映ったのでした。
このシテツレは本来は年相応の者が勤めるべきものですが、流儀では若年でも勤めるチャンスがあります。シテが若年で勤める場合はどうしても、さらに若い者にということでこの役がまわってきますが、このツレを見事に演じた若年の舞台を見たことはありません。若い身体に「曲見」の面は似合わぬではないのですが、問題は「げにやもとよりも定めなき身の習いぞと」に始まるツレの謡を聞くと違和感を覚えます。若さでは表現出来ないツレの謡。父が言うように何回も何回も謡い、謡い込んでいくうちに、徐々にそれらしく謡えるようになるとはまさにその通りです。自分の過去を振り返れば恥ずかしい限りです。
終曲に、猟師は「助けて賜べや御僧」と嘆願しますが、救いはなく成仏は難しいようです。作者は、猟師に救済処置を施さず、永遠に地獄の責めを負わせることで、幼い命を奪うことの悪を教えているように思えます。最近の幼児殺害という悲惨な事件の数々。大人、子どもを問わず人間のもって生まれた残虐性と愚かさをこの作品は戒めているのではないか、現代にも通じる強いメッセージになっているように思えてなりません。人間が生きるかぎり『烏頭』は廃曲にはならず、永遠のテーマとして演じ続けられるでしょう。猟師の魂はあの恐ろしい地獄の有り様を表す立山の霊山に永遠に彷徨い続けていると、私は思っています。
(平成十五年七月 記)
小牛尉 痩男 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
烏頭 シテ 粟谷菊生 子方 粟谷明生 モノクロ 撮影 あびこ喜久三
烏頭 シテ 粟谷明生 カラー 撮影 石田 裕
能楽鑑賞教室の『黒塚』を演じて投稿日:2003-06-23

粟谷 明生
平成15年度の国立能楽堂主催の能楽鑑賞教室は喜多流の能『黒塚』、大蔵流の狂言『樋の酒』で催されました。6月23日(月)から27日(金)までの五日間、午前、午後の二部構成で十回公演、これを十人のシテ方が担当し勤めました。
能楽鑑賞教室は以前学生観賞能とも言われ、中高生など学生たちを中心に幅広く能、狂言に親しんでもらおうと催されるものです。シテ方は各流儀が交替で勤め、今年は喜多流の担当となりました。今年で20回を数えます。

歌舞伎役者や文楽など長期興行に慣れた方々は同じ曲目を繰り返し勤めることはさほど抵抗がないでしょうが、能楽師、特にシテ方は、一回一度きりの公演に身を置くことに自然と慣れているので、長期の公演はどうしても気の緩みが出てしまいます。その中で、いかに緊張感を持続させ、より良い舞台をつくるか、この五日間の興行をどのように過ごすかは、それぞれのシテ担当の能楽師、つまり太夫の責任に因るものと思います。
昔から興行が続く場合、例えば『翁』などの御神事のものは初日の式、二日目の式、と少しずつ演能形式を変え、演じる側の緊張を持続させ、観客にも飽きさせないような工夫が凝らされていたようです。伝書にも、続くとき、立ち会いのときには、それに似合った演じ方で演じ分ける心がけが必要と書いてあります。今回の興行はそのことを再認識する良い機会でした。
昔は家元から装束が出されれば、毎回同じ扮装、格好で登場することになります。幸い今は各々の演者が装束を調達するため、幾分個性が発揮され、一緒に舞台に出ている我々出演者の目も楽しませてくれますが、毎回同じ扮装、格好ですと、いささか興ざめしてしまいます。
今回、私は木曜日の午前を担当しました。前日までの演能形式に変化をつけようと考え、時間の短縮や、出囃子を変えることを試みました。地謡をはじめ、ワキ、アイ、囃子方すべての人の舞台慣れした空気を少し変えてみたいと思ったからで、必ず良い舞台効果を生むと確信していました。
前場は地次第「眞赭(まそう)の絲を繰り返し昔を今になさばや」のあと、シテの一声からクセまでを省いてロンギに続け、糸繰る労働歌「さてそも五条わたりにて夕顔の宿を尋ねしは」と糸繰る段に焦点を当てました。観世流には「長絲之伝」といい、枠枷輪を回し続ける小書がありますが、それにならってロンギの間、シテ謡を謡ながらも回し続けて糸繰りの動作をクローズアップしてみました。
黒塚の女をどのように勤めるか、どのように表すかは、演者の意識によりさまざまです。過去に人が人を食うという、犯してはならぬ罪障を背負った女が、今度こそは自らの過去を語り、懺悔したいと救済を求めている。夜陰の寒さに、通い慣れた山に薪を取りに出掛け救済者に暖をとらせようとする貞淑な女、私は決して前場で鬼女らしき所作は見せぬと思って演じています。中入りの橋掛りで一旦止まり、じっくり山を見上げ、裾を上げ、カッカッと大股で幕に入る型があります。ご覧になられた方から、「あのとき鬼女になったのですね」と言われましたが、私は、中年の女が真夜中、山へ薪を取りに向かうという強い意気込み、ある面尋常ではなくなる精神状態を表したいのです。庵で糸を繰る状態と山に出掛けようとする女の身体に異変がおきる、そこが表現出来なければと思うのですが。しかし能はあくまで、ご覧になる方の想像によるものです。鬼に変わったと思われればそれもまた良しなのですが、私としては鬼女になるのはその後と思って演じているので、演技の仕方に問題があったかもしれません。次回は型自体の修正も考え改善したいと思いました。山に向かった女の気持ちとは裏腹に約束は破られ、見られたくない閨の内を見られたその瞬間、彼女はまた鬼女となり、救いを求めようとした山伏をも食おうと襲いかかります。黒塚はこの怒りがテーマではないでしょうか。
今回後シテの装束は本鬘の掴み出しに般若をつけ、紅無腰巻の格好、登場の場面もそれまでやられていた早笛(はしり)を流儀本来の出端としました。これもまた工夫をこらし、怒りの鬼女は出端のはじめより幕から出て、三の松に止まり、逃亡する山伏達を見つけた途端、囃子が急速になるや、凄まじい形相で追いかけます。ここに鬼気迫る姿を表現したいと思いました。

鬼女は柴を持って登場しますが、持ち方に二通りあります。通常は負柴といい、肩に柴を背負うやり方、もう一つは抱き柴といい、左手に着物で包んだ柴を抱えながら登場する方法です。抱き柴は本来白頭で千鳥に(ジグザグに)橋掛りを歩むときの持ち方ですが、私はこの抱き柴に女の思いを感じます。あの人のためにと木々を集め自らの着物で束ね大事に抱えるその姿。それが救済者であろうはずのその人に祈られ退治されようとするのですから、女はついに抱き柴をほうり投げ、鬼女の本性を剥き出しにします。私はここに鬼女の精神の完全な断絶があると思って演じています。
祈りという型、動きは『葵上』『道成寺』『黒塚』の三曲が有名です。(稀曲『飛雲』もありますが、見た人はいません。)『葵上』はねちっこく、『道成寺』は激しく、『黒塚』は強くと教えられてきましたが、祈られる者は三曲とも女です。
強く激しくと動き、型ばかりが先走りしてとても女とは思えない後輩達の祈りをみると自分もかつてこうであったなと反省しますが、今祈りに、もがき苦しみ襲いかかる女の姿が見えないとやはり本物ではないと思い演じています。後半はキビキビした仕舞所があり、鬼女は祈り祈られ次第に弱り、夜あらしに紛れて消えていきます。
能楽鑑賞教室はそれぞれの演者が競い合い、見比べられる場。これにどう対処したらよいか、自分なりに考え、成果を示す良い機会となりました。日頃もそうですが、こういう機会こそ、それぞれの役者が切磋琢磨し、喜多流全体のグレードを高めていくものではと強く感じました。
(平成15年6月 記)
写真 前・後 石田裕
奈良の旅投稿日:2003-05-15

平成15年2月1日は全日空のキャンペーン、一万円一日乗り放題がありました。どこに行っても一万円! これを見逃す手はないと思い、奈良に日帰りの旅に出かけました。
相変わらず、能に関連した謡蹟めぐりという、特殊な旅行でしたが、写真にてご紹介いたします。
まず、今年10月の粟谷能の会に演能する『采女』、また『春日龍神』にも謡われる猿沢の池を皮切りに、興福寺の五重塔、東金堂や宝物館を訪ねました。
今回の目的はこの宝物館、私のお目当ては阿修羅像でしたが、拝観していてびっくり仰天、『海人』に謡われる、銅造華原磬(どうぞうかげんけい)と石造泗濱浮磬(せきぞうしひんふけい)が目に飛び込んできました。謡本にも「二つの宝は京着し」と興福寺にあることは謡われていますが、実際に本物を目の前にすると、その素晴らしさに興奮しました。もちろん、ほかにも興味は尽きない名品が沢山ありましたが、この二つの宝が見られたことは何よりで、はるばる奈良に来た甲斐があったと満足しました。
喜多流の謡では、「しひんふけい」を、「しびんせき」と何か下腹部が痛くなるような名前ですが、実際は「しひんふけい」が正式のようです。宝物館の中は撮影禁止のため、この宝をご覧頂くことは出来ず残念です。是非本物をご覧になることをお勧めします。いずれまた演じる『海人』のイメージが膨らみ、良い思い出となりました。
また『三輪』の玄賓僧都の像もあり、充実した拝観でした。
宝物館をあとに、『氷室』『野守』にゆかりの氷室神社、『野守』『春日龍神』に謡われる飛火野、そして金春流が参道で翁を奉納する春日大社、謡曲に直接関連はありませんが、東大寺二月堂、途中で偶然にも三条小鍛冶宗近ゆかりのお店にも立ち寄り、最後は場所が解らず苦労した『百万』ゆかりの西照寺を探し当て、供養塔にお参りしてこの旅行を終わらせました。

采女神社
猿沢の池のそばにある見逃すほどの小さな社ですが、
中秋の名月の夜には采女の春姫を追悼する采女祭が催されます。

采女神社 2

采女神社 3

猿沢の池
徒歩で五分もあれば一周出来る小さな池です。
『春日龍神』では「龍神は猿沢の池の青波蹴立てて」と謡われます。

猿沢の池 2

五重塔
長い歴史を感じる塔。

氷室神社
『氷室』に「まずは仁徳天皇の御宇に、
大和国闘鶏(つげ)の氷室より、供え初めにし氷の物なり…
末代長久の氷の供御の為、丹波の国桑田の郡に氷室を定め申すなり」と、
謡われていて、この氷室明神は闘鶏の氷室明神を勧請した社です。

氷室神社 2

氷室神社 3

鷹の井
『野守』の語りにある、御狩にて見失った鷹を翁が水に映る木にとまった鷹でありかを教えた故事の井です。
「鷹乃井」と刻まれています。

若宮御旅所
春日大社参道の途中にある、御旅所では能も演じられると
巫女さんが説明してくれました。

若宮御旅所 2

飛火野
飛火野は春日野の別称で、
枯草、雑木を積み上げ烽火を上げて外敵に備えたことからいうようです。

『野守』の舞台となった飛火野にある、謡蹟保存会の立て札

春日野
平城京防備の烽火の番人を「飛ぶ火の野守」といい、
謡曲にはよく出てきます。

春日野 2

昼食は春日大社の参道にある食事処に入りました。温かいお粥膳は冷えた身体を暖めてくれました。

温かいお粥膳

春日大社本殿
春日大社の創建は『采女』に神護景雲二年と謡われています。
丁度結婚式が行われていました。

能『小鍛冶』の京都、三条小鍛冶宗近の末裔の家が奈良にあるのは発見でした。

表札
この家の名字が小鍛冶には驚きました。


お店内部
ご主人が包丁に銘を打たれていましたが、撮影はしませんでした。
店内には刀、包丁、はさみなどいろいろ。

東大寺二月堂

東大寺二月堂 2

二月堂階段
「御水取り」では、僧侶はこの急階段を駆け登ります。

二月堂階段 2

西照寺
場所が解りにくかった能『百万』の百万の供養塔がある西照寺。
丁度ご主人が出ていらして、説明して下さいました。

西照寺 2

供養塔 立派な大きな供養塔でした。
「たまに能を舞われる方がお参りにいらっしゃいます」とはご主人の弁。

供養塔 2
『梅枝』と『富士太鼓』の比較、そして「富士殺害事件の真相」投稿日:2003-05-01

『梅枝』と『富士太鼓』、この二曲には浅間、富士というふたりの楽人の名前が出てきます。富士に浅間、どちらも日本を代表する火山です。作品が作られた当時、二つの山はどのような噴火活動をしていたのでしょうか。能『富士太鼓』では、「信濃なる、浅間の嶽も燃ゆるといへば、富士の煙のかひや無からん」とあり、浅間山が富士山より激しく噴火していたと推察できます。富士や浅間の名前を使っての作者の工夫は大変興味あるものです。

さて『梅枝』は『富士太鼓』の後日談の能です。『富士太鼓』が4番目狂女物の現在物の分類に対して、『梅枝』はシテが富士の妻の幽霊として恋慕の情に苦しむ懺悔物語で、三番目物に近い夢幻能の作風となっています。これらの二つの作品は共通する一つの事件が引きがねとなって展開します。
花園天皇(萩原の院)の御代、内裏にて管絃が催されることになり、国々の役者に勅命が下ります。中でも太鼓の役は天王寺の浅間に勅命が下りますが、住吉の楽人、富士は自慢の腕前からか自ら望んで参内してしまいます。天皇は二人の太鼓を聞き比べ、富士も上手だがやはり浅間の方が上だと賛美したため、まわりの人々は以後、富士が上手と言わなくなりました。
もしここまでの話で殺害事件が起きたと聞かされたら、誰もが富士が自分の負けを恨み、ライバルの浅間を殺害したと思うでしょう。しかし事件の真相は浅間が富士を殺害するという思いもよらない展開となります。
『梅枝』のシテの語りに「浅間、富士とも内裏の管絃の役を争い、互いに都に上り、富士がこの役を賜ったのを浅間が安からずに思い、富士を討った」と語りますが、これは被害者、富士の妻側からの一方的な訴えで、富士が役を賜ったという事実はないのです。では実際はどうであったのか、気になるところです。
喜多流の『富士太鼓』のワキの名乗りには、浅間が富士を討った理由がはっきりせず、聞きなれた下掛宝生流の詞章でも謎は解けません。浅間が勅命という大義名分での参内だったのに対し、富士は所望されていない身でありながらの身勝手な図々しい参内です。この身分不相応の態度、そしてそのような相手と内裏で役を争わなくてはならなかった屈辱感、これらのことで殺意に及んだとなると、浅間という人物は随分短気で、乱暴な男と解釈せざるを得ません。天皇から認められた浅間なのです、勝者なのにと、私はどうも腑に落ちないのです。
先日喜多流自主公演(平成15年4月、シテ中村邦生氏)の『梅枝』で、大蔵吉次郎氏の間語(あいがたり)が、これらの謎を一掃してくれるものでありました。
大蔵流の語りには大事な一言が語られていました。それは浅間が召されたあとの富士の言動、「富士、散々にいいなしければ」の一言です。天皇からお呼びがかかった役者でもないのに図々しく参内し、その上負けの裁定を受けながらもなお、「浅間などたいした楽人ではない、本当は自分の方が上手なのだ、本当の勝者は私だ」などと吹聴する富士、さすがの浅間もこれを聞いては怒りが爆発し殺害に及んだと語ります。
ここに、天皇が浅間の勝ちと認めているにもかかわらず、事件を起こさざるを得なかった根拠がはっきりと語られています。
シテ方はともすると謡本の詞章からのみ作品を読み込んでしまいがちです。ワキやアイのお話や詞章をうかがうことで、取りこぼしたことなどを再発見することがあります。これらは作品全体を把握する上で大事なことです。今回の大蔵吉次郎氏の間語は私にとってこの曲の事件の全容を理解する有意義な一言でした。
『梅枝』は羯鼓台に舞衣を掛けるために支えの棒をとりつける特異な曲です。昔は中入りで舞衣を外すときに、支えの棒も一緒に取り外していましたが、昨今支えている棒はそのまま付けた状態で演じられています。先日もそうでしたが、私は舞衣がとられた後の羯鼓台の景色が気になります。演者側からみて右に一本張り出た棒が妙に気になって仕方がありません。羯鼓台は左右対称であってほしいので張り出す棒も左右均等にし、装飾を施すなど、見栄えもよく、舞台進行上、見劣りがしないやり方があるはず、新たな規格を考慮してもよいのではと思えるのです。次回には改善したい個所だと思っています。
『梅枝』を演じる難しさは、しっとりとした夢幻能の世界を作ることです。楽というやや明るくなりがちな舞を恋慕の思い深く静々と舞う、「『梅枝』の楽は序之舞を舞うように」が心得です。『梅枝』という曲名は「梅が枝にこそ、鴬は巣をくえ」と囃される越天楽より名付けられました。しっとりとした曲(クセ)からロンギへ、そして楽(がく)となって、終曲では夢幻能の代表曲、『井筒』の最後を思わせるような節と型、共通するものを持っています。
喜多流での『梅枝』上演の歴史は祖父益二郎の名演から始まります。伯父新太郎も祖父の名演で刺激されたのか、一時志しましたが、ついに演じることはありませんでした。その後、昭和54年当時の喜多例会にて父、粟谷菊生が久々に演じ、それ以来たびたび上演されるようになりました。
昔この名曲が何故封をされていたのかはここでは語りませんが、祖父、父の上演を機に『梅枝』が世に出たことは、たいへんすばらしいことだと思い、嬉しい限りです。『梅枝』と『富士太鼓』、共に名曲です。私自身は『梅枝』を平成6年、妙花の会にて、『富士太鼓』を平成13年、粟谷能の会にて勤めました。これらを演じてはじめて、それぞれの曲の持つすばらしさとテーマが私の心に残りました。
(平成15年5月 記)
写真は 梅枝 粟谷明生 撮影 三上文規
『翁付高砂』について投稿日:2003-04-16


平成15年の宮島厳島神社御神能で『翁付高砂』を勤めました。
御神能(ごじんのう)は毎年4月16日(初日)と18日(三日目)を喜多流、二日目は観世流が担い長い歴史を今に伝えています。初日の番組は翁付脇能に勝修羅物と定められ正式な五番立で演じられます。演目の組み合わせは『高砂』と『田村』、『弓八幡』と『八島』、『養老』には『箙』と決まっています。私が『翁』を披いたのは平成7年の『翁付弓八幡』で、その次は11年に『翁付養老』、今回『翁付高砂』を勤め、これで一循したことになり、達成感を味わっています。
近年、『翁』一曲のみの公演や『翁』だけを勤め脇能は別の能役者が勤める場合もありますが、やはり一人の太夫が翁と脇能の二番を勤めてこそ太夫を勤めたと実感できるのです。
『翁』について
『翁』は「能にして能にあらず」といわれるように、鎌倉時代以降今に伝わる猿楽の能以前に、寺社の行事や祭礼に奉仕する芸能として発生したもので、その形式を崩さず今に継承しています。そのため鑑賞本位の従来の能とは舞台芸術性が異なり、『翁』独自の構成、作法があるのが特徴です。上演時期は正月の初会や祝賀の会で演じられることが多く、そのため私は1月元旦の正月の節目と同様に、4月16日もまた正月に思えます。15日の桃花祭が大晦日、16日の初日を元旦として迎えるようで年の節目を感じるのです。
伝承では翁大夫は「勤める前日午の刻に沐浴し、食物の火を改め別火(べっか)致す事、服穢(ぶくえ)有る者に対面不致」とあり、楽屋は女人禁制がしかれます。とはいえ別火は現在の生活では不可能に近い習慣です。女人禁忌は女性の生理(月経や出産)による穢れを嫌ったもので、女性を不浄と見て聖所や宗教儀礼から締め出す習俗といわれ、私はあまり感心しません。かといって翁を勤める楽屋に女性が行き来しては長い歴史の流儀のしきたりからはずれるので楽屋入りはお断りしますが、女性の作った食事をし、心を落ち着け明日の演能を待つ、今の時代この程度の潔斎で良いように思っています。

『翁』を上演する時は、必ず、楽屋の鏡の間に「翁飾り」といわれる祭壇が作られます。上演前に最上段に白式と黒式の面と鈴を入れた面箱と翁烏帽子が飾られ、下段には洗米、塩、厳島神社は塩の代わりに炒子(いりこ)、盃がのせられ、お神酒が用意されて、『翁』独特の雰囲気となります。
シテは装束を着付け、最後に翁烏帽子を戴き中啓(ちゅうけい=扇の一種)を持ちます。準備が整うと翁飾りの前に下居し、面箱に向かって深々と礼をし、後見よりお神酒をいただいて出を待ちます。続いて出演者一同、まず三番叟、次に千歳から順に、囃子方、地謡方、後見とお神酒をいただき、洗米や炒子を口にして塩があるときはふり、心と身体を清めます。通常は、お神酒をいただく前に後見が切り火を行いますが、厳島神社では火に関しての細心の注意のためか、切り火はしないのが通例となっています。
『翁』の構成は上掛(かみがかり)と下掛(しもがかり)ではその配役が異なります。上掛は千歳(せんざい)の役をシテ方が勤め、別に面箱(めんばこ)を持ち運ぶ専門の役(この役名を面箱と言う)を狂言方が担います。これに対して下掛の喜多流では、千歳(狂言方)が面箱を兼ね、翁太夫(シテ方)、三番叟(狂言方・三番三は大蔵流の名称)がそれぞれ祝祷の歌舞を舞う形となっています。狂言方が千歳の披きを演じる際、下掛でなくてはならない所以はこの仕組みによるものです。
『翁』の様々な特異性の一つに、シテが舞台に出るときには役柄に入っていないことがあげられます。通常演者は楽屋で面を戴き役柄に入っていきます。『高砂』ならば、前場は「小牛尉」(こうしじょう)の面をかけ老人の役になり、後場は「邯鄲男」をつけ住吉の神の役になります。しかし『翁』だけは演者そのものとして舞台に登場し、舞台で面をつけ翁の役となる珍しい仕組みです。地謡や囃子方もその配置や扮装構成までも『翁』独自のものとなります。扮装は囃子方、地謡方、後見方、みな素袍上下に侍烏帽子を着用して最高の礼装にて勤めます。地謡は常の地謡座ではなく、囃子方の後方の後座に座り謡います。これは今のような地謡座がなかった舞台の名残だそうです。囃子は小鼓のみ三人の連調という珍しい形となります。小鼓方は奏者が正面見所に向い、幸流では中央を頭取(とうどり)、右隣を胴脇(どうわき)、左隣を手先(てさき)と称し、位も頭取、胴脇、手先の順となります。
小書きは他流にはいろいろあるようですが、喜多流では白式(装束や揚げ幕までが白一色になる特別演出)のみで、型自体は通常と変わらないので、『翁』の型は一通りのみとなります。
面箱を両手に掲げた千歳を先頭に、シテ、三番叟、囃子方、後見、地謡と、みな橋掛りから登場します。通常、橋掛りの真ん中は歩まないのが能役者の鉄則ですが、『翁』のみ特別に真ん中を歩むものとされています。千歳が目付け柱近くに下居すると、シテの翁太夫は舞台正面先に出て下居して深々と礼をします。一見正面席の方々にお辞儀をしているように思えるこの動作、実は上空の北極星を見上げ、そして舞台正面先に神のよりしろとされる我々の目には見えない「影向の松」(ようごうのまつ)に礼をしているのです。
シテが着座し面箱が置かれると出演者は所定の位置に着座し、まず笛の音取がはじまり、小鼓三調との演奏となります。シテの「どうどうたらりたらりら、たらりあがりららりどう」と呪文のような謡がはじまり、まず千歳が勇ましい千歳の舞を披露します。シテは千歳の舞の途中で白式の「翁」の面をつけ、舞台中央でご祈祷の謡を謡い翁の舞となります。翁の舞は右手に中啓を広げて高く掲げ、天(てん)、地(ち)、人(じん)と目付柱、脇柱、大小前にて特別の拍子を踏む舞で、最後に万歳楽(まんざいらく)と唱和して終わります。
シテは元の座に戻り面を外し、また正面先にて礼をし、翁帰り(おきながえり)といわれる特殊な退場をします。
通常シテが幕に入るときは後見が幕内でうける(礼をして演者を迎える)習慣ですが、『翁』にかぎり幕入りする大夫を次の脇能を勤める脇が装束姿で迎えます。
今迄出番のなかった大鼓はシテが幕に入ると床几にかけ、揉みの段を囃し、三番叟の出番となります。直面で大地を踏む揉みの段、続いて、千歳より鈴を手渡され「黒式尉」の面をつけて種まきをあらわす鈴の段となり、五穀豊饒を祝い舞います。農耕儀礼の芸能化といわれる『翁』の演能時間は一時間ですが、シテより多い時間、舞台の大半が狂言役者の躍動的な舞となるのも特徴の一つだと言えます。
『高砂』について
「高砂の松の春風吹きくれて、尾上の鐘も音すなり」、これは能『高砂』の真之一声といわれる出囃子でのシテとシテツレの連吟の謡です。
この謡の詞章から読み取れる場所、季節、時刻はと問われたらどうでしょう。答えは、季節は早春、場所は兵庫県高砂市、時刻は夕刻で、語意は「高砂の松に春風が吹き、日も暮れかかり、尾上にある寺の鐘も響いてくる」です。私はどうしてもこの謡に夕刻を意識しにくいのです。
厳島神社御神能は初日と二日目は翁付で始まる旧来の本式番組で朝9時より始まります。翁や脇能は、燦々とした朝日を浴び、すがすがしい気持ちで午前に演じるものと思い込んできました。能に限らず演劇は時間や場所を超越して演じるものとは承知しながらも、この真之一声での夕刻を謡う謡にどうしても少しの抵抗感を覚えてしまいます。奉納する役者は、屋外で朝日に照らされ爽快な気分で勤める、こんな厳島の習慣にすっかり慣れ親しんできたためです。
今回、能には詞章を越える役者の気分、心模様があるだろうと演じたのですが、演じるまではこれではいけないのではと答えがでませんでした。しかしなにはともあれ、演じてみて、翁と脇能は朝一番でなければと、確信しました。とりわけ厳島神社の御神能はこうでなければ・・・、詞章とは違ったこの感覚が抜けないのです。

『高砂』は本脇能ともいわれ、夫婦和合、寿命長遠、国土安穏を寿ぐ能で世阿弥作とされ、古名は相生といわれていました。
物語は、九州阿蘇の宮の神主友成が播磨の国高砂の浦に立ち寄ると老人夫婦が現れ、松のめでたさと相生(相老)の夫婦の情愛、和歌の徳をたたえるところから始まります。夫婦は実は高砂・住吉の松の神であると告げ住吉で待つと小舟で沖へ出てしまいます。神主友成が住吉に着くと住吉明神が出現して御代を祝福し、春浅い残雪の住吉の景色を描き軽快に颯爽と神舞を舞います。最後は「千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命を延ぶ、相生の松風、颯々の声ぞ楽しむ、颯々の声ぞ楽しむ」の祝言の謡で留めとなります。
『高砂』の老人夫婦は今でいえばさしずめ別居結婚の形です。尉(実は住吉明神)は現在の大阪府の住吉に、妻の姥(高砂明神)は兵庫県の高砂に国を隔て住んでいます。互いに距離を置きながらも心は通い合っている、いや遠くに住んでいるからこそ新鮮で相生(相老)の夫婦となる、通い結婚のすばらしさでしょうか。なんとも進歩的なうらやましい神様達です。
脇能の前シテは尉ですが、この尉は喜多流に限らず老いを前面に押し出すようには演じません。謡も型も溌剌と力強さとスピードをもって神の化身を表現します。だらだらと謡うべたついた謡、よたよたとした老いの運びなどは脇能の世界には似合いません。クセの中の型どころに面白い言い伝えがあります。「掻けども落ち葉の尽きせぬは」と杉箒で左へ二つ、右へ一つ落ち葉を掻き寄せる型をしますが、これは幕府時代の大禮能の秘事の名残で、長久の久の字を逆さまに書いて演じたとされています。このような型や中入り前の「蜑の小舟に打ち乗りて」と小舟に乗る型などいずれも、力強く硬質に演じるように伝えられています。総じて脇能の尉は直線的で衒いがないのが第一、あくまでも荘重が心得との教えです。
少し能からは外れてしまいますが、中入りでアイとの問答の後に謡われる待謡。「高砂やこの浦舟に帆をあげて、月諸共に出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり」は結婚式で謡われていますが、本来は新郎が新婦花嫁の着座を待つ時に迎え入れる心で待謡として謡われ、これからの二人の門出を祝したようです。このときは特別な作法があり、返し(同じ言葉を繰り返し謡う)の「この浦舟に帆をあげて」は二度目となるようで悪いというので謡わず、また「出で潮」の出るも縁起が悪いと「入り潮」や「満ち潮」に言葉を変えて謡うのが礼儀とされています。
話をもとにもどします。
後シテは初日に限り、七五三二一(しちごさんにいち)といわれる正式な寸法の出端で登場します。面は江戸時代の初期には「平太」や「怪士」を使用していたようで、最近でもたまに「三日月」をつけるのはこれらの名残のようだといわれています。現在は「邯鄲男」をつけるのが当たりまえのようになっていますが、本来この邯鄲男は名の通り『邯鄲』のシテ、苦悩する中国・蜀の国の青年廬生を表現して打ったものです。従兄弟の能夫はこのふくよかさを持つ「邯鄲男」を日本の神能に採用した当時の役者の芸術センスのよさに感服すると言い、私も同感です。
今回は御神能執事の出雲康雅氏にお願いして厳島神社所有の珍しい「神体(しんたい)」を出していただきました。以前よりいつかつけたいとの私の念願が叶い、よい記念となりました。「神体」はその名のとおり脇能、特に『高砂』に似合うのではと思い使用してみました。形は面長で目に金環があり、鼻がきりっと高く彩色はやや赤みがあり、一見西洋人かと思われる独特の顔です。近くで見ると凛々しさがあり、迫力を強く感じる面ですが、面長な形が私に合わないのか、私の技量不足でしょう、演じた結果、私としてはやはり「邯鄲男」に軍配が上がるように思えました。

『高砂』の小書きは各流様々にありますが、喜多流では真之舞、真之掛之舞、祝言之舞、真之留、颯々之留があります。真之舞は神舞の初段に達拝(たっぱい=立ちながら拝む動作の型)をします。真之掛之舞は掛(かかり)の段が延びて掛で達拝をします。これらは、舞のはじめは必ず達拝をするというきまりがありながら、『高砂』では「二月の雪、衣に落つ」と神舞の前に左袖を見る型があり達拝ができないので、どこかに達拝を入れようとする儀礼重視の工夫です。祝言之舞は二段目のオロシに左袖を卷く特別な型が入り、片手で中啓を持ち変える難儀な型があり上演機会は少ないです。真之留は終曲に通常二つの留拍子を三つ陽の拍子として踏むもので、颯々之留は「颯々の声ぞ楽しむ」と左右シトメをして留拍子となっています。何れも儀礼的要素が強く、芸術的な演出効果を狙った小書とは異なるものです。
後場の見どころはなんといっても颯爽としたスピードあるダイナミックな神舞です。この神舞をどのように舞えるかが能楽師にとっての課題です。非常に速いスピードある囃子の演奏に負けない舞の技術と共に風格をも兼ね備えることが必須です。私の経験から、まず脇能は『弓八幡』からはじめ、次に『養老』、最後に『高砂』を勤めるのがいいと思い、幸い私の場合は丁度その順番になったのは恵まれていました。
中学から高校時代、先代宗家喜多実先生に舞囃子のお稽古を受けたとき、まず『弓八幡』、そして『養老』、となかなか『高砂』の名前は出ませんでしたが、最近その理由がわかりました。舞囃子でさえ若造の『高砂』は似合わぬということだったのでしょう。そのためか時が経ちお許しがでた時の喜びは一入でした。演目には若く元気溌剌ですむものもあれば、それだけでは叶わぬものもあります。『高砂』はそのような曲なのです。能楽師は青年時代の修業を経て、徐々に神体らしい気品と力強さと爽やかさを兼ね備えることを目標とします。これは言うは易いのですが、どうしても時間がかかるものです。力強さが単なる粗鋼、荒々しい喧騒に止まってしまうだけではいけないという体験を経て、力強さと幽玄の調和の美を現出する、これが神能の真髄と思います。
今御神能の翁付脇能は執事出雲康雅氏が各年、その間を従兄弟の粟谷能夫と私で交代に勤めています。来年が出雲康雅氏、その次が粟谷能夫となり、私の出番は4年後ということになります。はるか先の4年後などと思っていても、時間がたつのは早そうです。今を大事により良い演能に精進しようと、この節目の今回の翁付でまた志を強く持てたことが良い経験となりました。
写真
翁 撮影 牛窓正勝
翁飾り(喜多能楽堂にて) 撮影 粟谷明生
高砂、前、後 撮影 石田 裕
(平成15年4月 記)
能楽協会アーツプラン愛媛公演内子座から投稿日:2003-04-15

平成15年2月25日から三日間、能楽協会アーツプラン愛媛公演がありました。演目は三日間とも『景清』で、初日は八幡浜市にてシテ・粟谷菊生、二日目は内子町にてシテ・塩津哲生、三日目は丹原町にてシテ・香川靖嗣で公演いたしました。
中でも二日目の会場となった内子座(うちこざ)は大正天皇ご即位を祝って創建され、歌舞伎も文楽も公演可能な木造劇場です。一時老朽化により取り壊しになるところを町民の熱意により復元し、昭和60年10月に再出発しました。現在は年間7万人もの人々が訪れています。
今回のように、内子座での能の公演は大変珍しく、貴重な体験となりましたので写真でご紹介いたします。

内子座へは大型バスが通れるような広い道がないので、
出演者は皆、市役所でバスを降り、徒歩で向かいました。

内子座は木造劇場(収容人数 650名)です。

内子座の由来

大正時代、当地が生糸や木蝋の生産で栄えていた時、
芸術、芸能を愛してやまない町の人々の熱意で建てられました。

花道に立つ藤田六郎兵衛氏、狩野了一氏、友枝雄人氏。

歌舞伎劇場の特色を最も表している花道。

当日シテツレ(金子敬一郎)とワキツレ(則久英志)は
この花道を橋掛りのように使い登場しました。

裏にあるこの扉が楽屋口です。入るとすぐに井戸や釜があり、
昔ながらの情緒を感じさせる建物でした。

出演者、スタッフは舞台の下見に余念がありません 2

検察台。昭和の戦時中は芝居の内容を見守る役人、
警官が座っていました。

出演者、スタッフは舞台の下見に余念がありません 1

奈落への階段は狭く急な勾配でした。
奈落とは舞台や花道の下の地下室のことです。

舞台下の奈落への道。降りてびっくり、
大人一人がやっと通れるぐらいの狭さです。

二階席から見る舞台。二階席正面には大向(おおむこう)といわれる
低料金の客席があり、常連や劇通が多く座ります。
「大向をうならせる」とは芝居が上出来ということです。

奈落の説明。

奈落の下。舞台中央の円形部分は人力で回転します。

「すっぽん」とは花道の七三の位置にある切穴のことを言います。
この場所からせり上がり登場出来ます。

三日間の本公演の日の昼は学生のためのワークショップが開かれ、
装束の着付けやお囃子の道具の説明、
そして体験教室も行われました。
お囃子は大野誠氏、曽和尚靖氏、柿原光博氏、前川光範氏の4名でした。
二日目終了後、参加者への慰労会がありました。
写真は乾杯の音頭をとる藤田六郎兵衛氏。

高安流大鼓の柿原光博氏(東京在住)

幸流小鼓の曽和尚靖氏(京都在住)

金春流太鼓の前川光範氏(京都在住)
『鉄輪』の女の恨みと未練投稿日:2003-03-02

粟谷 明生
能『鉄輪』は頭に火を灯した蝋燭をいただく鉄輪(五徳)を載せ、怪奇な鬼の姿で形代を打ちすえる女の復讐を丑の刻詣と絡ませ、捨てられた女の男への呪いと恨みの物語です。春の粟谷能の会(平成15年3月2日)では、この『鉄輪』を勤めました。
舞台は最初にアイ(和泉流は神職、大蔵流は社人)が登場し、シテ(男に捨てられた都の女)の願いを貴船明神が叶えるとご託宣があったと口開(くちあけ)の形で始まります。そこへ前シテが笠を被り人目を忍び登場します。浮気な男と契りを結んだのは結局自分の心の到らなさの報いとは思うが、それではあまりに口惜しい、来世とはいわず今この世で罰が当たるように貴船神社に願をかけるのだと、丑の刻詣を決意します。
丑の刻詣とは時代により変様しているようですが、丑の刻(午前二時)に人目を忍んでに密かに参籠し祈願することで、特に人を呪う行為とされています。女にとって通い馴れた道とはいえ、暗闇の中を一人「糺す森」を抜け「御菩薩池」を通り、「市原野」、「鞍馬川」そして橋を渡り貴船神社に向かう片道二、三時間程の長い行程は念願成就のためとはいえ大変だったと思います。しかも七日間の参籠は、当時は衣食にも並々ならぬ不便があったでしょうから、それを押しての参籠には思い込みの凄さと恐ろしさを感じます。
アイは参拝しているシテを見つけると貴船明神のご神託を告げます。この問答の言葉は流儀により異なるため、シテはお相手のアイにより型、演技を変える必要があることを今回知りました。その問答をここにご紹介します。
和泉流はシテに向かい「丑の刻詣するのはそなたか。あなたの祈りを叶えるとのお告げがあった。先ず鉄輪の三つ足に火を灯し戴き、身には赤き丹を塗り、赤き衣を着て怒る心を御持ちあると、必ず望みは思いのままである」とまずお告げの内容を言い、それを聞いたシテは「いやいや私ではない、人違いでしょ」と言葉を返します。すると「いや確かにあなたのことだ、あー恐ろしいこと。こういう内に顔色が変わって恐ろしくなった。あー恐ろしい、恐ろしい」と退散します。これに対して大蔵流は「おい女の人よ、あなたの望みを叶えるとの明神のお告げですよ」と問い掛け、シテはすぐに「いやいや私ではない、人違いでしょ」と返します。すると「いや確かにあなただ。その訳は鉄輪の三つ足に火を灯し、顔には丹を塗り、身には赤き衣をまとい、怒る心を御持ちあれば、思う望みは叶えるとのことである、うわーこんな事を言っているうちに顔の気色が変わって恐ろしくなった、こんなところに長居は無用だ、急いで戻ろう。あー恐ろしい、恐ろしい」となります。問題はシテがどこで面を曇らせ顔色を変えはじめるかです。

元来、喜多流は大蔵流と申合が出来ているので、「私ではない」と返事後、火を灯せ、丹を塗れ、赤き衣と聞くうちに、徐々に面を曇らせ形相を変えるやりかたが合うのです。和泉流がお相手の場合は、こちらが早めに対応をしないと兼ね合いが悪く、シテはこの違いをあらかじめしっかり把握して演技する必要があることを知りました。シテは「これは不思議の御告かな」から一変、地謡も次第に激しく囃子のテンポも速くなり前場の一番の山場となります。「恨みの鬼となって人に思い知らせん」と笠を投げ捨て、怒りは最高潮に達し中入りします。観世流はそれまでの籠められた怒りが我慢できず遂に爆発して走り込み(速足)の中入となりますが、流儀では走らずズカリズカリと力強い運びで怒りを表す教えです。走り込むエネルギー以上に演者の体から怒りや殺意が漲ってこなければならず、並大抵では出来なく能役者の技量が計られるところです。
ワキツレ(シテのもとの夫)はワキ(陰陽師・安倍晴明)に女(シテ・前妻)の呪いを調伏する祈祷を依頼します。舞台正面に一畳台と三重の高棚の作り物が置かれ、祭壇を表します。棚の四隅に五色の弊を立て、男の形代として侍烏帽子、女の形代として鬘が乗せられ、これらはそれぞれ男と新妻の象徴です。後シテの女は頭上に鉄輪を載せ赤地摺箔を着て鬼となって現れます。しつらえた祭壇の夫婦の形代に忍び寄り、捨てられた女の恨みを述べます。「あなたと夫婦の契りを結んだ時は、いつまでも変わらないと思っていたのに…。捨てられて恨めしく、でも恋しいとも思ってしまう、この苦しい思いを私にさせたあなた。もう命も今宵で終わり、お気の毒なことよ」と強い恨みの中に恋しさ、悲しさが同居している複雑な女心です。「命は今宵ぞ、痛はしや」の「痛はしや」を相手への憐れみとするか、それとも冷たく言い放つ心に扱うかで、その表現も変わってきます。
キリの仕舞所ではいよいよ祭壇に上がり、恨みが募って執心の鬼となったと迫り、まず後妻の形代の髪を手に絡ませ一撃のうちに打ち殺します。恨めしく憎いのは男であり、悪いのは男のはずですが、鬼となった女はまず同性の後妻のところに怒りをぶつけます。ここが女心の不思議なところです。後妻を殺し今度は「殊更恨めしき」と男の形代に目を向けます。私は地謡の「あだし男を取ってゆかんと、伏したる男の枕に立ち寄りみれば」の「取ってゆかん」の解釈が演ずるときのキーワードではないかと思います。「命をとる」と解釈するか、「連れ去ろう」と読み取るかでこの女の心持ちは決まります。「連れ去ろう」と解釈することで鬼にならねばならなかった悲しい女の性と激しい嫉妬心が浮かび上がるのだと私は思います。

後妻を容赦なく殺し、薄情な浮気男も殺したいほど憎いはずなのに、でももとの夫と思うと殺さずに連れ戻したいと思ういじらしい女心。願わくば夫の気持ちがまた私の方へと向いてくれればという哀願、未練を感じます。ところが、そんな頼みや願いは無残にも打ち砕かれます。男の形代には晴明の祈祷で三十番神の神々が守っていて鬼女を一歩も近づけさせません。安倍晴明の陰陽道と貴船明神のご神託による呪縛との争いとなります。
新妻はいとも簡単に殺され、男は神々が守っている、下京邊の男、つまり鉄輪の女のもとの夫は、新妻と自分の二人の命ごいをしたのではなく、自分だけ助けてくれるようにと祈祷を頼んでいたわけで、随分と身勝手な男として描かれています。
上田秋成作『雨月物語』の「吉備津の釜」は『鉄輪』の後日談のような話です。女に恨まれている男が、やはり陰陽師に祈祷を頼みます。四十二日間(女が亡くなってから四十九日間)、家の戸を閉めお札を貼っておとなしくしていれば大丈夫と言われ、男はその通りにしていますが、あと一日という日に、疲れが溜まってか、たいして眠ったつもりはなかったが戸を叩く音で起こされます。見ると外はもう明るいので、女の恨みからやっと逃れられたと喜び戸を開けてしまいます。しかしまだ外は暗かった、明るいと思えたのは満月の明かりだったのです。男は四十二日が過ぎたと錯覚して戸を開けてしまった。するとその瞬間、女が飛び込んで来て男を殺してしまうという劇的な結末です。

能『鉄輪』では、女は男に近づけず連れ去ることも殺すこともできません。結局安倍晴明の祈祷が貴船明神のご神託を阻止したことになります。しかし、最後に「時節を待つべしや、まずこのたびは帰るべし」と、今日のところはひとまず帰るが、またいつか来て必ず恨みを晴らすと消えてしまいます。男は、安倍晴明に祈祷を頼んだ後は舞台に出てきませんが、この結末を見て、ああ良かったと手放しで喜べるかどうか。世の男共にとっても肝が冷える、真底恐ろしい終わり方かもしれません。それにしても、呪い殺すと出てくるのは、死後、霊になってというのが能の通常のパターンですが、今この世に生きている間に恨みを晴らしたいと、直線的、直情的な恨みを描くところが能『鉄輪』の特徴です。幽玄な能とは全く趣向の違うこの能の直情的な感情、恨み、嫉妬を生々しくならずストレートに演じ、且つ能という枠内で表現する兼ね合いがこの曲の難しいところだと思います。
京都清水寺の森清範貫主に、何事もみな表と裏がある、その二つの真ん中には中庸があり、そこが大事であるというお話をうかがいました。能の表現法も同じような気がします。『鉄輪』では、女の嫉妬、恨みを直情的に表現するものであると断定するのも一つのやり方だと思います。また裏からの見方として、この女の本音はどこにあるのか、男への恨みは未練や恋しさの裏返しかもしれない、であるならばそこに主眼を置くような演じ方も可能でしょう。しかしそれらにはさまれた共有し得る主旨はと考えると、それはこの女の不憫さではないかと思い至るのです。それが中庸というものかなとも考えたりします。この曲を恨み呪い殺害と図式化することは間違いではありませんが、それだけではないメッセージがあるように思えるのです。

能役者が作品をどう表現するか、演者の身体が能の様式の中ぎりぎりで演じきる真実性の芝居、それは鬱屈した動きの型でもあり、内実を辛く謡うことで膨らんでこないといけないという教えを守らなくてはこの曲は演じきれないようです。型通りに動いていればよしというものではないとは充分理解しているつもりですが どんな作品でも曲の持つメッセージを深く読み込む作業を常に怠ってはいけないと、今回の『鉄輪』という曲が教えてくれたように思っています。
(平成15年3月 記)
能「鉄輪」 前、後 粟谷明生 撮影 東條睦
鉄輪の井 京都鉄輪神社 撮影 粟谷明生
面 泥眼、橋姫 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
不朽の名作『隅田川』投稿日:2003-02-01


能『隅田川』は、昭和三十年代、四十年代のころ、学生鑑賞会で頻繁に演じられていました。それというのは、当時の古文の教科書の古典芸能の項目で、能『隅田川』が取り上げられていたため、現場の先生がお能を学生に見せたいと考え、実際に見せていた時代だったからです。先代喜多実先生も、早くから学生に能を見せることを提唱され、率先して学生鑑賞会を開き、自ら多く演じられました。ちょうどそのころ子供であった私は、子方として駆り出され、実に『隅田川』子方の演能記録は六歳から十歳まで十五回を数えることになりました。
そのうち四回は普通の公演で残りの十一回は学生を対象にした学生鑑賞能でした。喜多能楽堂をはじめ、大勢の学生が鑑賞できるように、文京公会堂や厚生年金ホールなどさまざまな会場で行われたのです。十五回のうち六回が実先生のおシテでした。先生がいかに学生観賞会にお力を入れられていたか、それにも増して、先生は『隅田川』がお好きだったのではと、推察いたします。
子方で思い出すことは、私が「南無阿弥陀仏」と謡い作り物の塚から姿を見せると、必ず会場にざわめきが起こり、笑い声が聞こえてくることでした。『隅田川』という曲の最後、悲劇の絶頂となる場面で、なぜ観客の特に女学生たちは笑うのか、いぶかしくもあり、不満でもありました。母に「何でみんなは笑うの」と聞いたら、母は「あなたがかわいいからよ」などと答えていましたが、子供心に「馬鹿。あそこは笑うところじゃないよ」と思いながら舞台を勤めていたことを思い出します。今考えると、学生に最初に見せる曲としては『隅田川』は重い曲で、選曲を工夫する必要があったと思えます。
実先生が高齢になられると、次第に、当時の青年喜多会(後の果水会)の方々が代わりに勤めるようになり、その学生鑑賞会が『隅田川』の披きになった方もおられます。
私の披きは四十一歳のときの「粟谷能の会」で、子方は息子の尚生が勤めました。『隅田川』を披くに当たり、能夫に「何て言ったら、親父は許してくれるかな」と相談したら、もし駄目と言ったら「自分の子供が子方をするときにシテができないような役者では悲しいじゃないですか」と言うからと、ここまで用意していたのですが、いざ、父菊生に話してみると「『隅田川』かあー、いいねえ」の一言。この一言で終わったことが嬉しくもあり、あっけなかったことと懐かしく思い出されます。
そして、今回の日立能(平成十五年一月二十六日、於・日立シビックセンター)の『隅田川』が、私には二回目の演能ということになりました。
『隅田川』という曲は謡中心で、最初にわずかにカケリがありますが、舞と呼べるものはなく、非常に少ない動きの中でさまざまな感情を表現しなければなりません。舞う要素が少ないだけに、基本動作のシカケやヒラキ、型の模写だけでは到底叶わず、複雑で微妙な動きや謡に込められた芝居心といったものが問われます。かといって、生でリアルすぎる演技では能の能たる仕組みを逸脱し、粗末な作品に堕してしまいます。能の仕組みでの精一杯の芝居心、ここに演者の工夫が求められ、現在物『隅田川』の難しさがあるのだと思います。
我が家の伝書に「此能哀傷第一也、然れども能の哀傷は悲しきことにては無し、無常なること也」とあります。なるほど、これがスタートだな、すべてのものがこれに含まれていると感じます。『隅田川』は哀しく傷ましいお話ですが、それをただ辛く、生々しく表現するだけでは駄目で、役者の体の中でいろいろな感情や人生体験が濾過され、そこから突き抜けたもの、伝書では無常という言葉を使っていますが、そういうものが生まれてくるのだと感じさせられます。
『隅田川』はまた、狂女物の能と言われます。物狂能は面白尽くしの憑き物によるものと、思い故に自分を失ってしまうものとに分けられます。前者は世阿弥の作品にあり、憑き物によって舞い狂う表現が主流になり、後者は『隅田川』に代表される元雅の作品に見られるように、戯曲的筋道重視が特徴になっています。元雅は祖父・観阿弥の芝居的な要素と、父・世阿弥の幽玄な世界を見つめ、どちらかというと観阿弥の芝居的な要素を濃くしながらも、自らの作風を作っていったと思われます。
そして、世阿弥の物狂能がハッピーエンドの祝言性を重視したのに対して、元雅の、とりわけ『隅田川』はアンハッピーで救いはありません。この曲の終曲は子供の死を知って絶望する母の深い悲しみを描いています。元雅の手がけた曲は『弱法師』にしても『歌占』『盛久』でも、重苦しいテーマを扱い、最終的には少し安堵感を見せ、『隅田川』ほどではないにしても、最後は本当に幸せになったのかと問いたくなるような曲ばかりです。
この徹底的に描かれる闇の世界は、しかし絵空事ではなく、人間の本質や社会現象を的確にとらえています。人買いや人さらいなど、現在の私たちには無縁と思われるできごとも、昨年来の北朝鮮拉致問題を見てみれば、決して過去のものではないことを思い知らされます。いつの世でも、必要なところに強引に人を連れ去る行為は、悲しいかな存在しているようです。元雅という人は、当時の世相から、普遍性のあるできごとを鮮やかにすくい取り、その中に親子の別離や生と死という永遠不滅のテーマを提示し、不幸な結末が真実なのだ、舞台も不幸のまま終わっていいのだと一直線に描き切ってしまいます。この当たりが、元雅という天才のすばらしさで、かみしめればかみしめるほど味わいが深まります。

元雅は三十二、三歳の若さで客死していますが、彼がもう十五年、いや十年生きて、能の作品をものにしてくれていたら、能という歴史も違ったものになったかもしれないと言われるほどで、元雅という人の短い生命の中に、凝縮した輝きがあったように思えます。観阿弥や世阿弥とは違う魅力、すばらしさを、私自身も今回『隅田川』を演じながら強く感じることができました。
さて、ここからは『隅田川』の舞台の進行にそって話を進めてみます。まず舞台はワキ(渡し守)の名乗りから始まり、ワキツレ(旅商人)の登場となり、二人の問答によって、シテが女物狂として紹介されます。狂女が来るから船を出すのを待とうと状況設定をさせるのはワキツレであり、さらに船中で、向かいの岸で念仏の音が聞こえるが、あれは何ごとかと、ワキに物語をさせるのもワキツレです。シテとは一度も言葉をかわさず、何の関係もないこのワキツレの登場により、物語を展開する手法は、元雅の巧みな作風であると感じます。
ワキはといえば、最初は粗野な地元の渡し守ですが、船中で子供が死んだ経過を語る重要な役どころであり、シテが探していた子が、まさにその子であるとわかったときの嘆きによって、シテをいたわるやさしい渡し守に変身していく様を表現しなければならない大役です。
シテは物狂という、一つのことに思いつめる、つまり、人商人にさらわれた子供を探して都から東国の果てまでやってきたという、物思いを持って登場します。そのときの一声「人の親の心は闇にあらねども、子を思う道に迷うとは…」の謡が非常に難しいところです。『隅田川』という曲は位取りも高く、大変重い曲ですが、ただ重苦しく暗い表現だけでは駄目で、慕情を込めながら強い訴えかけがなければなりません。登場した段階では、まだ子供が死んだとは知らず、都から遠い東国まで旅するだけの希望も気力もあります。希望は持っているが、子供と別れ別れになっている今の境涯が悲しいという表現にならなければいけないはずです。

ただ重く暗く謡うと、先人たちは「駄目だね、子供の死を知っているような謡い方だ。隅田川の白頭かい、老女物じゃあるまいし」などと言われたようです。
シテは笠を着け狂い笹を持っての扮装ですが、この笠をかぶると、耳は鬘髪と笠の紐で塞がれ、自分の声が普段のように聞こえないのです。この悪条件のもと、謡いづらく、大事な第一声が余計にプレッシャーになり往生するところです。その後に続く、地謡の「松に音するならいあり」は、他流の調子を張ってさらりと謡うものとは違い、喜多流は独特の陰々滅々と謡うのが伝承であります。そのため、地謡の音の高さを誘い出すためにシテ謡が、とりわけ暗く低くなりやすいのです。
伝書に「初めより哀をみゆるもの嫌うなり」と注意書きがあり、演者の心得としては肝に銘じる大事であります。
シテが登場して船に乗るまで、ワキとの問答が前半の一つの山場です。在原業平の「名にし負はばいざ言問わん都鳥」という和歌を織り込んで粋な問答を繰り広げ、都の女の優雅さ、凛とした姿を見せてくれます。ここは美しく進め、遊興の趣があってよいところです。この辺から舞台に死相が出ているようでは作品の意図するものでなくなります。業平は妻を想って歌を詠み、この母親は子供のために詠うという、実にやり取りの面白い場面、その後の地謡、「我もまた、いざ言問わん都鳥」の段はぐんぐんとテンションを上げ華やかに謡い上げるところです。こういう華やかさを、この寂しい曲の前半に持ってくるところに元雅のうまさがあるように思えます。
シテの面は本来喜多流では「曲見」とされていますが、今回は、曲見よりはやや若い感じの「深井」を使いました。「深井」は「曲見」より表情に生活感が表れず、まだ仄かに艶が残る顔立ちだと思います。今回は「深井」で、都北白川の女を創造してみたいと選択しました。
渡し守の嫌がらせにも屈せず狂女は船に乗り込み舞台は一変、船中となります。なにやら向こうの岸から大念仏の声が聞こえてきます。大念仏とは大勢で念仏を唱えることをいい、おそらく平安後期の良忍(1072?1132)の説いた「融通念仏」の影響を受けているのでしょう。一人で念仏を唱えるよりは、多くの人が念仏し互いに融通し合って往生するという思想で、この阿弥陀信仰が以後の時宗へも影響を与えたのではないだろうか、室町時代の能の聴衆にも通じるものがあったのではないだろうかと私は思っています。
船中では、旅商人(ワキツレ)にうながされ、渡し守(ワキ)が梅若丸の最後を語ります。最初は人ごとに聞いていた母(シテ)が、都北白川と自分の里の名前が出た瞬間に聞き耳を立て、吸い込まれるように聞き入って、最後、その子が死んだとわかると愕然と力が抜け母の心の支えである希望の糸は絶たれます。川を渡る間に、子供は生きているという希望から、死んだという絶望へと場面転換が起こります。隅田川はあたかも生と死をわける川のようにとうとうと流れ、あちらの岸はまさに彼岸となります。
渡し守の語りが終わって、船が向こう岸に着いても茫然として立ち上がれない母(シテ)。死んだ子というのは本当に自分の子なのか。それは「いつのことか」「どこの者か」「父の名は」「稚児の年は」「稚児の名は」と聞きながら、確かに自分の子だと絶望の淵に落ちていく、そのワキとの問答の謡も難しいところです。母の昂ぶった気持ちを表現しなければならないけれども、あまりにリアルに生っぽくなってはいけない。劇的に演じることと生になることの境の難しさを痛感するところです。それをいかに表現するかが『隅田川』という曲全体のテーマであり、最初に述べた、能の仕組みの中での芝居心の葛藤となるのです。
女物狂の子供が、今まさに大念仏している子だと知ると、渡し守は母(シテ)をいたわり、そっと手を添えて、塚の前まで導いていきます。
役者の意識も前半の女物狂から後半は母そのものへと変化します。その変化は例えば足の運び方にも表れます。前半は普通の運び(摺り足)ですが、船中で愛児の死を知らされ、船を降りて塚まで導かれて行くときから、運びは老いの足(抜く足、切る足)といって、力のない、よろけるような運びに変わります。ここで舞台上での工夫を一つ。最後の場面で子供(子方)の姿が見え始めると一瞬普通の運びにしますが、また我が子が消えると老いの足に戻します。先人、先輩がここを上手に演じられていたのが、目に焼き付いているのです。いつか自分もあのようにやりたいと。でもこういうのはなかなか言葉で教えてもらうものではないようです。父がよくいう口癖、観て盗む、これしかないなと、はっきり解った一場面です。
塚を案内されクドキの謡を謡い、塚を掘り返せと渡し守に迫り泣き崩れる母。そして地謡がもっとも静かにしっとりと無常を謡う「残りても、かひあるべきは空しくて」の段、ここをシテは下居して静かに聞きます。現在物のこの能にあって、唯一幽玄的な雰囲気で演じる者が冷静に悲しみを感じ取れるところだと思います。
そして、念仏の段で弔いが始まりますが、実際に鉦鼓(しょうご)をチーン、チーンと打ち鳴らします。鳴らさない人もいますが、私は鉦鼓を一つの楽器として使うことで、その効果音がより一層の悲しみを表すのではと思っています。音のたて方も様々で、父は「南無阿弥陀仏」と繰り返し謡う中で「な・だ・あ・み・ぶ・つ」と当てて打ちますが、私は「なむあみだぶつん」を逆さまにして「ん・つ・ぶ・だ・み・あ・む・な」と当てて打てと教わっています。この打つ個所を微妙にずらすやり方は意味がないように思われるかもしれませんが、こういう込み入ったことに神経を使うことで、シテの感情が過度に高まらないように、生っぽくならないようにという、演技上の工夫であると聞かされています。
念仏の謡に子方の声が聞こえ始めると舞台はクライマックスになります。今回は六歳の友枝雄太郎君が小さいながらも最初から作り物に入って立派に勤めてくれました。梅若丸の年齢は十二歳ということになっていて、確かに人商人がさらっていくのには、労働力としての期待があったわけで、ある程度の年齢でなければならないでしょうが、能『隅田川』という舞台ではやはり小さい子の方が、その幼さゆえにより涙を誘い、効果的のようです。
塚の中にいて長い時間待つのは、ワキ座にじっと座っているよりは、中で何をしていてもいいので気楽ではありますが、それでも閉鎖的な空間は息苦しく、私も経験がありますが、あまり居心地のいいものではありません。そこを頑張って我慢し、一生懸命大きな声を出してくれた雄太郎君、将来が楽しみだと思いました。
子方を出す出さないについては、観客の方にもいろいろな思いがあるようです。申楽談議の第三段には、世阿弥と元雅が子方の演出の考え方の違いを語る有名な話があります。
「隅田河の能に、内にて、子もなくて、殊更面白かるべし。此能は、現はれたる子にてはなし。亡者也。ことさら其本意を便りにてすべし、と世子申されけるに、元雅は、えすまじき由を申さる。かやうのことは、して見てよきにつくべし。せずは善悪定がたし。」と。
世阿弥が子方は亡霊なのだから、本意を生かし、子を出さない方がよいと忠告したのに対して、元雅は「えすまじき」、「出さなくては演じられない」と強く反論しています。最後に父・世阿弥は「して見てよきにつくべし。せずは善悪定がたし」、「そうだ、演じてみてよい方を選べばいいね」と言ったということで、世阿弥の父親としての懐の広さが出ていて、この名文は現代にも通じる教育法ではないでしょうか。
子が出ない方がよいという意見は、塚から出た子方とシテが追いかけっこになるようで嫌だということらしいのですが、喜多流の型は、シテと子方が向き合って互いに手を上げ、子方はするりとシテの後ろに廻り込み塚に入るというもので、私には追いかけっことは思えないのです。多分他流のをご覧になってのご意見ではないでしょうか。私が子方のとき、シテの手の上げ下げに合わせるようにと言われ、実先生のお相手で特に重々しい立派な上げ方には子供心にゆっくり、ゆっくりやらなくてはと自分に言い聞かせていたのを覚えています。
ある作家の方が子方の起用について、塚の後ろからチラチラ出没して、子方特有のボーイソプラノで謡われては邪魔だ、と書かれていますが、そうでしょうか。ここに私が感銘を受けた観世銕之亟先生のご意見の一部をご紹介させていただきます。
「我が子の死を弔う念仏を唱和するなかに、子供の明るくて元気な声が突然混じり合った時に、鮮烈な生と死を感じさせることが出来るのです。(中略)子供の幻影を追い求めるところから夜明けとなり、広大な関東平野を流れる大河と母の世界でこの曲を終わらせるということが大事で、子方が出ないと情緒的に流れたままで終わってしまうことになります。子供の声、姿が失せてしまった後に広大な母なる大地の広がりと、ドラマの広がりとが合体して終わることで、この隅田川の曲がいかされるのではないでしょうか。」(銕仙421号)
私も元雅や銕之亟先生のように、子方を出した方がよいと考えます。出さなければ、演劇として『隅田川』という作品を観ることに、全く救いはなく、観客もそして演者もこの暗過ぎる気持ちをどのように処理していいのか、多分戸惑うことになるでしょう。子方の登場は観客や演じる私の心に何かしらのやすらぎ、安堵感を生じさせてくれます。また昔こんなお話があったのだ、と気持ちを落ち着かせてくれる要因にもなります。そしてなんといっても究極は、私自身、子方と共に作るこの場面が役者冥利に尽きる最高の見せ場であると思って疑わないからです。
そして終曲は、子の亡霊が朝日の光によりかき消され、立ちすくむシテの姿を描きます。もう二度と子供に会えない、これからどうして生きていったらいいのかという絶望の中の、広大な関東平野の無常な夜明けです。もう一方で、この塚から私は決して離れないという塚への愛着。この二面性を、じっくりと脇正面から正面へ空を見上げる型と、塚に手をかざしてじっと見込み、最後に正面を向いてシオリ(泣く型)だけで表現します。ここはまさに能ならではの表現だと思います。
燃え盛る憤怒と悲痛を少ない型で表現する難しさ、感情を露骨に出しては品がなく、型をこなすだけでは真実味に欠け、きれいごとの動きだけでは本物とはなり得ない。『隅田川』とは役者がいかに生きてきたか、どの程度できるか露呈してしまう、まさに踏み絵のような曲です。自分がこれまでに仕込んで蓄積したものを通して、いかに理解し表現したかを如実に語ってしまう曲なのです。
元雅という天才が生み出した永遠不朽の名作『隅田川』。今の時代でも古びない、現在に生きている我々にもその叫びがまっすぐに伝わってきます。世阿弥が確立した舞と歌の二曲で構成する能とは異質でありながら、異彩を放つ元雅の能。謡を中心として劇的感動的に展開する現在物のこの戯曲を、能として成り立たせるためには私もまだまだ課題がたくさんあるようです。だから一回や二回ではできない。披きのときよりは今回の方がはるかに手ごたえがありましたが、私はこれからもこの傑作を三回、四回、いや五回、六回・・・とやり続け、完成型に持っていきたいと思うのです。
(平成15年2月 記)
写真撮影「隅田川」東條睦
スタンプは木母寺
『絵馬』女体の力神を演じて投稿日:2003-01-03


平成15年の「新春・能狂言」・喜多流『絵馬』女体(シテ友枝昭世、地頭粟谷菊生)が、1月3日午前7時よりNHK教育テレビにて放送されます。
喜多流の本来の『絵馬』は、後シテ(天照大神)が男神として面・東江(とうごう)をつけて現れ、荒々しく神舞を舞った後、二人のシテツレの天女が神楽の相舞(あいまい)で、シテを岩戸の作り物から引き出す演出となりますが、「手力雄の明神引き開け…」という詞章と合わず、作品の構成としてやや問題が残る形です。それに比べ「女体」の小書がつくと、本来の天の岩戸隠れに沿った演出となり、シテは女姿で、女ツレ・天女=天鈿女命(あめのうずめのみこと)と男ツレ・力神(りきじん)=手力雄命(たぢからおのみこと)を従えての登場となり、舞台は豪華絢爛たる展開となります。
シテは女面(通常小面、今回は増女)をつけてスピードある神舞を舞います。狭い視野を強いられるなかで、修練した高度な技と役柄としての貫録、この二つを必要とし、流儀では重い習いとされています。
実はこの小書は囃子方泣かせで、シテの神舞五段に続いて天女の神楽、そして途中から力神の急之舞と変化に富んでいるため、これらを囃すには達者な顔ぶれが揃わなくては成立しません。観世流のシテがゆったりとした中之舞、天女の神楽、そして力神の急之舞となるのに対して、喜多流は初めから早い舞となり、神楽で少し緩んだかと思うと最後にまた急之舞でもっとも早い舞となり、奏す囃子方も技と体力を必要とするやり甲斐のある曲であることは確かです。今回も抜群のリズム感と音色鮮やかなお囃子方の面々、笛は一噌幸弘氏、小鼓は大倉源次郎氏、大鼓は亀井忠雄氏、これは前回、ご好評の中日名匠能と同じ方々で、太鼓はご都合により金春惣右衛門氏から助川治氏になりましたが、その演奏のすばらしさは聞き応え十分です。
力神は急之舞を舞うため『道成寺』を披いた者でなければ勤められない決まりがあり、私の力神の披きも『道成寺』演能後、平成7年の「粟谷能の会・大阪公演」(シテ粟谷能夫)においてでした。以後「大坂城薪能」(シテ粟谷菊生に代わり粟谷能夫)、「粟谷能の会・福岡公演」(シテ粟谷幸雄)、「中日名匠能」(シテ友枝昭世)にて勤めてきて、今回が5回目となりました。
力神を演じる難しさは、安座して、神舞、神楽の舞を待つ間の足のしびれの心配と、いきなり急に激しく舞うテンションの高さをどのようにするかのコンディション作りです。そしてなによりも力神としての力強い役柄が舞台に表現されないといけないのです。岩戸隠れの話では天照大神が岩戸に隠れると、神々が相談して外で面白く皆が楽しんでいれば、きっと天照大神も外を見たくなるだろう、そして岩戸を少し開けたその時、約束通り力持ちの手力雄命が岩戸を開ければ…と神々が相談し仕組まれた話です。この時の注意を誘う天鈿女命の舞が、お臍を出しながら色ある舞を舞い神々が喜んだという我が国最初のストリップであることは、古事記に書かれよく聞く話で、神楽の始めとされています。また御神楽とは別に里神楽の伝承などでは手力雄命は宴席で居眠りを始め天鈿女命に起こされるというものもあり、それらの引用から能『絵馬』の戯曲が出来上がったかもしれないと想像してしまいます。
力神の舞は、神楽の終わりに天鈿女命が御幣を振り上げ力神に合図を送りますが、それに応えて左手で天女を強くさし、面を切ります。このタイミングも難しく、天女との呼吸が合わなければこれからの舞が舞いにくくなります。私は安座している途中から徐々に面を曇らせ(下を向く)寝ている風情にも見せ、いざそのときが来ると強くしっかりと面を切る、これで強調されて見えると教えられてきました。天女は華麗に艶をもって、力神は力強くダイナミックに重量感をだしてが信条です。
今回、シテがはかれた赤地指貫は粟谷家蔵ですが、今までほとんど使用したことがありませんでした。友枝昭世氏がこの曲で起用したことにより、この装束まさに息を吹き返したかのようで、天照大神にぴったりと合いました。私もいつか『絵馬』女体を勤めるときは、是非使用したいと思っています。(平成14年12月 記)
写真 初演「絵馬・力神」 粟谷明生
『松風』のシテツレを演じて 投稿日:2002-10-17

粟谷明生
平成14年10月17日、広島県、宮島厳島神社能舞台の観月能にて『松風』(シテ=友枝昭世)のシテツレを勤めました。
厳島神社能舞台での演能は、毎年4月16日から始まる三日間の桃花祭御神能が恒例の行事として行われていますが、観月能は中秋の名月を背景に、ここ5年程前より友枝昭世氏により(主催=厳島観月能実行委員会、中国新聞社、友枝昭世の会、特別協賛=積水化学工業、住宅カンパニー)公演されています。

観月の名にふさわしく、日時は、天候、月の加減などを考慮して決められ、開演は夜6時半の満潮に合わせて始まり、特設の照明効果により舞台は美しく海の上に浮かび上がり独特の趣をかもし出しています。御神能の時は切戸口(きりどぐち)を使用するため、橋掛りの後方の壁板ははめたままとなり、舞台裏には仮設の通路が設置されますが、観月能では切戸口を使用しないため、橋掛りの背景には海が見え開放感を味わうことができます。
そのためすべての演者の出入りは本幕からという昔風の古い手法で演じられます。見所は回廊に椅子を並べ、また近年は特設桟敷席が作られるようになりましたが、見所からの美景とは反対に、演者側の感じる舞台状況は優美な世界とはかけ離れ、やりにくいものとなっています。
舞台を美しく照らす照明ですが、その光は、面をつける私達演者の目に入り視界を狭めてしまいます。周囲一面真っ暗に見えるため、演者は見当や方向を見失う危険にさらされます。また舞台の床板は平素吹きさらしの状態のため滑りが悪く、板は波打ち通常の運び(はこび=歩行)のようにはいかず、覚悟はしていましたが、舞台に立ってみるとかなりの戸惑いを感じました。しかしこれほどの過酷な条件下にあるにもかかわらず、私や観る人に少しもその不自由を感じさせずに舞う友枝昭世氏には、改めてその強靱な足腰、完熟の芸に圧倒、魅了され、敬服してしまいます。
私は今年47歳、そろそろ『松風』のシテツレをする機会も最後かもしれません。初めて父菊生のシテツレを20代で勤めてから幾度か勤め、7年前にシテを披き演じてみると、シテツレという立場がどうあるべきか、どのようにしたらよいかが、少しずつでもわかってきました。今回はそれらの経験をもとに勤めることを心掛けました。

本来シテとシテツレの登場は橋掛りで謡う真之一声(しんのいっせい=出囃子の名称)といわれるものですが、今回は特別に普通の一声(いっせい)で登場し、「潮汲み車わずかなる浮き世に迴る心かな」と謡い、続いて二の句といわれる「浪ここもとや、須磨の浦」というシテツレの謡につなげます。ここがシテツレ独吟の最初の謡いどころとなり、シテツレとしての位やその演者の技量の程度までが決まると言える大事な謡です。謡の位が重すぎてはシテツレとして失格、軽すぎて世界が広がらないのは問題外と言われ、演者としては悩むところです。舞台に出る間際、小鼓の横山貴俊氏にここの位について、「どの程度の位で謡うのがよいのか、たっぷり謡うべきでしょうか」などとお尋ねすると、「『松風』という曲は銀座のクラブナンバー1という気持ちです。少しやくざなんです」と答えられました。先日勤めた『野宮』の御息所の高貴な謡と比べると、なるほど『松風』の位の位置づけはそうかと思い、その言葉で『松風』に似合うシテツレの位取りが、電光石化閃いて、同時にその答えの面白さに妙な緊張が解け気持ちが楽になって、力まず謡え助かりました。
『松風』のシテツレはシテとの連吟が多く、その謡は重要です。シテツレとしての謡がシテに頼り寄り掛かるようなものでは、シテは疲労しストレスが溜まり良くありません。かといって、自分の勝手な調子を押し通す謡ではシテツレの立場をわきまえていないことになります。存在感がありながら出過ぎず、しっかりとシテを支える、これがシテツレの第一の心得と思います。言うは安く行うは難しですが。

私はかねがね、難しいシテツレの謡が三曲あると教えられてきました。ここがうまく謡えれば一人前、次の段階に進めるのだと思い強く意識して謡い、また聞いてもいます。その三曲とは、『葵上』の「四阿(あずまや)の母屋の妻戸に居たれども」と、『砧』の「宮漏高く立って風北にめぐり」、そして『松風』の「幾程なくて世を早う」です。『葵上』はシテの怒りを誘い出す謡、『砧』は囃子方もアシライを止めるほど、じっくりと独唱する聞かせどころ、『松風』は姉、松風の心を狂わす仕掛け人の謡です。それぞれ皆シテの心を奮い立たせ、導火線に点火する触発の謡と教えられてきました。とりわけ『松風』のそれは難しく、ツレとしての音の張りや高さを持ちながらも、決して調子をはずさず、しっかりと火をつけなくてはいけない難しい謡いどころです。ここが成立していないと、シテが次に進めないといっても過言ではないぐらいです。
シテ方能楽師にとってシテツレという役はシテ役への一つの関門です。『山姥』を舞うには、あの長時間座り続ける肉体的苦痛をシテツレ「遊君百魔山姥」という役を通して体験しておくべきで、『松風』を勤めるにはシテツレ「村雨」という役を通しての難しい謡やシテと連動した動きを習得しておく必要があります。シテツレの経験が少ないのに、一足飛びにシテにシフトしては、型としては成立しても訴えの弱い能、痩せた能になるのは当然です。今の喜多流の状況があまり威張れた状態ではないように思うのは私個人だけでしょうか。
能楽師はまず舞歌の稽古、つまり謡と舞の稽古から始まるといわれますが、一方子方の稽古のように能の舞台としての稽古も並行してはじまります。青年期になると子方からシテツレへと移り、徐々に役がつくようになります。役がつけば一生懸命稽古し、時には失敗をしながらも段階を少しずつあげ、これから何回も舞台に立てるようにと心掛け精進します。その結果、次第にシテを勤める機会に恵まれるのです。シテの立場にたつと、今までやり残してきた山積みの課題が見えてきて、それらに取り組むためひたすら稽古に打ち込むこととなります。この夢中で稽古一筋に取り組む時期が大切なのは言うまでもありません。そして次第に広範囲に目を向け、演能に役立つものはすべて吸収し稽古する心、単に芸達者になるというのではなく、自己の演技を自分で確立しうる人になるということ、つまり「能を知る」必要を感じ、皆それぞれ個人の次にやるべきことに向かい修練し、一人前の演者になるのだと聞かされています。父は言います。本当にお金のとれる舞台ができる能楽師になれ!と。それが一人前ということだと。

私はシテが充分にできる演者がまたシテツレという役柄に戻ってきたときに本当のシテツレが出来るのではと思うのです。世阿弥は却来(きゃくらい=高い境地に達した後、また下位の境地に立ち返ること)という言葉を使い、上三花(じょうさんか=曲や演者のレベルが最高位)から下三位(げさんみ=曲や演者のレベルが低い位)へ却来する、つまり最終の本物の芸とは最高位を経験したものが曲のレベルが低いものを演じたときでも、単に表面的なおもしろさに終わらせず、曲そのものの豊かな広がりを感じさせるということで、この本物へたどり着く過程で却来をすすめています。
私はこの却来の流れを自分の理想の規範においています。今、身近ではシテツレから徐々に始めるという、時間のかかる手法が少しないがしろにされ、手短かに易くシテを舞う機会が多くなっているように見えます。誤解しないでいただきたいのですが、私はこれからの人に早いうちにシテを勤めるのがいけないといっているのではありません。本物になるためには時間をかけた下積みのしっかりした芸も同じように必要であり、それがシテツレの勉強、稽古であると、まずシテツレの役が沢山つくように日頃の修練が大事だと言いたいのです。そうでなければ、よい能が出来ぬシテや、シテツレも出来ない中途半端な能楽師が氾濫するような気がするのです。本物の芸の華を咲かそうとする栽培方法をもう一度、今の大人たちが再考する必要があると、今思い始めています。
(平成14年10月記)
写真 能舞台裏
回廊より鳥居
特設桟敷席より橋懸り
橋懸りに立って
撮影 粟谷明生
実盛の兜(多太神社)と仏御前ゆかりの地投稿日:2002-10-15

平成14年8月8日から10日にかけて、大阪大学喜多会の夏の合宿が加賀温泉、山代にておこなわれたため、前日の自由時間を利用して、前回見落とした多太神社の実盛の兜、仏御前の墓などを探訪することにしました。
先年、『実盛』演能を機に、「首洗い池」や「実盛塚」などを見て廻りましたが、その折、多太神社に保管されている実盛の兜を見逃し心残りでした。機会があれば是非一度見ておきたいと思い、多太神社に連絡を入れました。ご長寿で有名な93歳のご住職は残念ながらお亡くなりなられ、今はご子息が跡を継がれ神社を守られているようです。
通常、団体の予約でなければ開けてくださらない宝物館ですが、特にお願いして特別に開けていただき、貴重な兜などを見ることができました。
また喜多流では参考曲扱いの能『仏原』の仏御前のお墓も近くにあると知り、足をのばして見てきましたので、写真でご紹介いたします。

多太神社

多太神社の鳥居

鳥居横にある石像の兜

石像の解説

石像の解説

芭蕉の句「むざんやな かぶとの下の きりぎりす」が石碑に刻まれている

恒例の謡蹟保存会の立て札

多太神社本殿

斎藤別当実盛の兜の説明

兜 近景1

兜 近景2

兜 近景4

兜 近景5

具足

義仲公の矢

鎧 1

鎧 2

髭を墨で染める絵

仏御前を祀っている民家

民家

仏御前像を祀って守り続けているのは一般の民間の方です。
文化財でないため国からの援助がないのには驚きました。

仏御前像

仏御前は左端にありました(祭壇)

林 美枝(はやし よしえ)様83歳(当時)
この方が説明をして下さいました。

墓の看板

墓の説明

仏御前の墓(右端)
『野宮』での心の作業投稿日:2002-10-13


能楽師を志し、それを生業とするならば、一年に一番は心体ともに駆使するような大曲に挑み、つい緩む己自身にねじを巻くように鍛え上げる機会を自ら求めなければと思うようになりました。秋の粟谷能の会(平成十四年十月十三日)の『野宮』はまさにそういう試練の曲で、私にとっては大きな一番となったのです。
『野宮』は源氏物語を題材にし、もの寂しい晩秋の嵯峨野を舞台に、光源氏を愛した六条御息所の狂おしいまでの恋心と諦念を描いています。源氏物語「賢木の巻」や「葵の巻」を中心に、源氏と御息所の関係や背景をある程度理解したうえでないと、能『野宮』を観るのは苦しいはずです。これは観る方だけでなく、我々演ずる方にも言えることで『野宮』という曲の位の高さであるとも思われます。
そこで、『野宮』という曲に触れる前に源氏物語に目を通し、源氏と御息所の関係や人間像、二人の間で起こったできごとなどを自分なりに整理し稽古にかかりたいと思いました。この作業が、能『野宮』を演じるのに必要か不要か、演者はあまり考えすぎるとろくなものにはならないという声も聞きますが、自分自身舞台上での何かの助けになるのではと試みてみました。
御息所は十六歳で東宮妃(皇太子妃)になられますが、二十歳で東宮が突然亡くなられ未亡人となってしまいます。東宮妃としてのプライドが高く、一途な性格の持ち主だったようです。東宮妃として将来を約束されていた方が、いきなり東宮の死にみまわれ、いくら高貴の出とはいえ、経済的、社会的地位を失い没落していく寂しさを感じていたことは間違いありません。そこへ現れたのが光源氏です。七歳年下のプレイボーイ。年下とはいえ、経済力があり、恋の遊びにはたけています。年上の女性、藤壺との禁断の恋も経験ずみ、高貴で教養があり美貌の夫人に興味を持ったのも自然の成り行き。御息所の寂しい心にすっと入って虜にするのはそう難しいことではなかったのでしょう。御息所は簡単に源氏の誘惑に負け、恋に落ちていきます。源氏十七歳、御息所二十四歳のことでした。
これが御息所の間違いの始まり、不幸の始まりだったのです。手に入れた女性には興味がなくなるのがプレイボーイの常、次第に源氏の訪れは間遠になっていきます。御息所の幸せな期間は短く、悲しみの時間が長い、薄幸不運な生涯を生きた人というのが、御息所の大前提になっています。
御息所はプライド高く、教養があって美貌の持ち主、申し分ない女性ではありますが、このプライドの高さが一つの落とし穴になって、車争いをめぐる正妻への激しい嫉妬に結びついていきます。
夕顔や葵上に嫉妬を感じ始めたとき、御息所はこんな恋をしてはいけない、この恋は成就するものではないと察し、御代替わりで、娘が伊勢斎宮として選ばれた段階で自分も伊勢に行ってしまおうと、一度は決意しています。
そんな折、葵上との車争い事件が勃発します。ある日賀茂の斎院の御禊があり、その行列に源氏が出ると聞き、御息所も見物に出かけます。そこで後からきた葵上の車と出くわし、車置きの場所で争いになり、権力の衰えつつある御息所は無惨にも車を押しのけられてしまいます。御息所の車と承知の上での雑仕等の乱暴、この屈辱を受けたことが、御息所の敗北感と葵上に対する恨みへ増幅していきます。そして、葵上が妊娠していると知ると、生き霊となって葵上に取り憑きます。自分の意識ではもうどうにも制御できない、恐ろしいまでの恨みであり嫉妬です。そしてついに葵上を呪い殺してしまうのですが、そのとき源氏に自分の生き霊の姿を見られてしまい、これで源氏に自分の本性を知られてしまった、本当に嫌われてしまったと絶望します。手を洗っても髪を洗っても、葵上の物の怪を払う祈祷時に使われていた芥子の実の匂いがとれず、その絶望感は一層深いものとなっていきます。
ここで御息所は完全に伊勢に行くことを決心します。葵上亡き後、次の源氏の再婚相手は御息所ではないかと世間では噂されますが、そんなことはない、源氏の心が冷えきっていることを知っているのは御息所自身です。伊勢に行くことをもっと早く決断していればこんなに嫌な思いをしないですんだかもしれないと思いつつ、源氏を思う気持ちを断ち切れず、最後に大きな傷を負ってしまう御息所。『野宮』の謡「物見車の力もなき、身の程ぞ思ひ知られたる。よしや思えば・・・」に、その万感の思いが込められている気がします。
伊勢に行く前に皇女は精進潔斎のために、一時宮にこもります。その宮が嵯峨野にある野宮。御息所も娘につき添い、野宮に引きこもっています。そこに源氏の訪れです。源氏物語では、源氏は伊勢に行く御息所にご挨拶もしないのは礼儀知らずで無粋な男だと思われてはまずい、世間体を気にして出かけたように書かれています。愛情というよりは世間体。もう二度と逢うことはないだろうから、御息所の鎮魂のためにも一度は行かねばという気持ちだったのでしょう。それでも嵯峨野に入ってみると寂しい秋の風情です。もののあわれが加わると、一度心を動かした女性への愛しさが蘇ってきます。源氏は榊を神垣にはさんで御息所に歌を送ります。歌のやりとりの後、禁忌の野宮にずうずうしくも入っていく源氏、それを拒むことができない御息所。そして一夜の契りを結ぶことに。それが謡の詞章に繰り返し出てくる長月七日、あの日なのです。
御息所にとって、長月七日はどういう日だったのでしょうか。源氏との恋は終しまいにする、あれほど心に固く決めていたのに、なぜ受け入れてしまったのかという後悔の念であったか、それともあの日を自分にとって永遠の日にして大切にしまっておこうとしたのか。ここをどう解釈するかによって、前シテのイメージのふくらませ方が違ってきます。私は、長月七日を永遠のものにし、これにより救われないことになってもいいという強い情念ではなかったかという気がします。仏の世界から見て身の程知らない、これでは成仏できないと言われても仕方ない程の愛執、これが最後の「火宅留め」にもつながっていくと思うのです。
御息所はその後、娘が斎宮としての伊勢神宮奉仕が終わると、ともに都に戻りますが、間もなく重い病の身となってしまいます。源氏は今をときめく内大臣。死を悟って尼になった御息所を見舞うと、御息所は娘の将来を源氏に託します。幸薄い、短い生涯であったと思われます。
ざっと源氏物語を整理してみました。これが私が『野宮』を演じるために、原文や解説を読み込んでベースにしたものです。そして次は、演者が謡本という台本を通して何を読み込むか、能作者はこの能に何を言わせたいのか、能『野宮』をどのように表現し世界を創り上げるか。源氏物語原文の読み込みは、台本を読み解くための一つの手段と言えるでしょう。ちなみに『野宮』の作者は世阿弥と昔の喜多流の謡本に書かれていましたが、今は金春禅竹作が定説になっています。
『野宮』の構成は、前場で賢木の巻を基に晩秋の野宮に源氏への想いを語る御息所、後場は車争いの場面を再現して舞台には登場しない対葵上との世界を創り出し、源氏の来訪を回想しての序之舞、破之舞を舞い、再び車に乗って火宅を出たであろうかと終わります。
ここからは、私自身の能『野宮』を通して順を追って振り返っていきたいと思います。
まず、後見が小柴垣のついた鳥居の作り物を舞台正面の先の方に持って出ます。喜多流の作り物は正方形の台輪に鳥居を立て、台輪の左右の辺上に小柴垣を取りつけて、台輪の内を神域とし、外と区別していますが、観世流では台輪を使用しませんので小柴垣はその左右に張り出す形となります。喜多流の小柴垣のつけ方ですと、作り物に榊を置く型や足を踏み入れる型が、正面の限られた人にしか見えないので支障があることは承知しているのですが、今回は披きであるため、敢えてそれには触れず、従来の手法に従い勤めました。
面は本来「小面」となっていますが、これまで説明してきたような御息所像を思うと、小面では少々難があり、多少大人っぽい小面を選ぶとしても、やはりそこには限界があります。理知的で少しヒステリックなものが良いのではと、今回はお許しを得てやや柔らかい表情の「増」を使用いたしました。
前シテは次第の囃子で登場します。里女と謡本に書かれていますが、ここは確実に御息所の霊の意識です。ゆったりと囃す次第にゆっくりゆっくり執心を引きずりながらの登場ですが、ワキの「女性一人忽然と来り給ふ」の言葉通り、この女性は霊界から一瞬のうちに嵯峨野に舞い降りてくるという、この世のものでない不思議さと存在感を漂わせ、運びにもゆっくりとした想いと、忽然として現れるスピード感が同居しています。単に鈍重な物理的歩行にとどまらないが心得で、この次第のノリと運びの難しさではないでしょうか。
そして作品の主題となる次第の謡、ここの謡に緊張と不安がふくらみます。何度と稽古を重ねても、本番当日での状態でどのように声が出るかは本人も判らない未知なもの、曲の主題を謡う大事な瞬間であるから尚更そうなるのです。「花に慣れ来し野宮の・・・秋より後はいかならん」は、この野宮のあたりで、咲き乱れた花を眺めて楽しく過ごして来たが、秋が過ぎ花の散ってしまった後はどんなに淋しいことだろうというほどの意味で、秋を飽きに掛けて源氏に飽きられ捨てられたれ淋しい御息所の心情を謡います。ここをどのように表現出来るか。次第はシテが作品をいかに把握出来ているかを試されるところで、集中度の高さが要求され、演者には一番怖いところです。
忽然と現れた御息所の気位の高さはワキとの問答の中に隠されています。能の多くの場合、執心に悩む霊は、僧に成仏を願うため現れますが、御息所の場合は、長月七日は源氏との最後の契りを結んだ大切な日、宮を清め御神事をするのだから関係のない人は僧でもさしさわりがある、「とくとく帰り給へとよ」と強く訴えます。他にはみられない手法で御息所のプライドの高さが表されます。
私は前場で次の三ヶ所が好きで、いつも謡ながら興奮してしまうところがあります。それらは謡と型の融合するすばらしい見せ場と思っています。一つは初同の「うら枯れの、草葉に荒るる野の宮の・・・」と入り、「今も火焼屋のかすかなる、光はわが思い内にある、色や外に見えつらん、あらさびし宮所、あらさびしこの宮所」です。火焼屋から漏れる光が源氏にも見え、また自分の魂にも見えるのでしょうか。その光は遠くに消えていくかと思うと、不意に自らの胸にすーっと入りこみ、体をめぐり、女性そのものをほてらせます。目付柱先をじっくりと見、次第に正面に直し、とくと一足引いて左に廻るという簡素な型付けのなかにも、謡い込まれるものはエロチシズムにあふれています。「あらさびしこの宮所」とは、ほてる肉体を持つ己の悲しさ。寂しいのは嵯峨野のうら悲しい景色だけではない、己の心が、肉体が寂しいのだという心の叫びが非常に美しい詞章に織り込まれているとは父からの教えです。
二つ目は、クセの上羽後です。『野宮』のクセは観世流では下居(したにいる)ですが、喜多流では床几にかけます。クセで「つらきものには・・・」と秋の景色を謡い始め、源氏との禁断の逢瀬があり、そして御息所と娘は桂川でのお祓いを受け伊勢へと旅立って行くことになったと語ります。作り物の鳥居は伊勢の鳥居にも、また鈴鹿川にも見え、「身は浮き草の寄る辺なき心の水に誘われて・・・」と、シテはおもむろに床几から立ち、自然に動き始める心持ちの型どころとなります。床几にかける意は、御息所の位の高さを表しているとも言われますが、私はこのふと立ち上がる風情が、なにかに取り憑かれたようにも、またどこかへ引き込まれてくようにもみえ、また見せるためではと思え、たまらなく好きなのです。「伊勢まで誰か思わんの・・・」とじっと遠くを見、距離感を出しながら歩みだす姿、両手を広げ娘の手を引こうとする御息所とも、また手を引かれる娘のようでもあるといわれ、「ためし無きものを親と子の、多気の都路に赴きし心こそ恨みなりけれ」とシオリ下居る型どころは、伊勢に下る御息所を描く絶頂だと感じています。
最後は中入り前の地謡の「黒木の鳥居の二柱に・・・」の謡です。シテは鳥居を見込み佇んでいるかと思うや、その姿は光のように消え魂だけが残る風情。この最後のところで、囃子方も地謡も気をかけ少しかかり気味に囃し謡う心得で良いところですが、また、もっとも難しいところだと思います。三番目物で中入り前がこのように強くかかるのも御息所の性格がなせる珍しい手法ではないでしょうか。
中入後のアイ語りは和泉流の野村与十郎さんが勤めてくださいました。本来の語りは車争いのことにはふれないのですが、近年野村家では、前場でふれない賀茂の車争いの話と、御息所が生き霊になった話を入れ、野宮に源氏が訪れた後、鈴鹿川の歌を詠み交わしたという話に続けています。車争いの段が入った事が、後の場面に続く橋渡しになり、わかりやすく良い語りであると思います。
後シテは車に乗った様子で登場し一声を静かに謡います。車争いの場面を語り、序之舞、破之舞と続きます。ここは情景描写であり、舞でありと、動いて表現できるので、前シテのように動きの少ない中に感情表現をしなければならない難しさと違って、取り組みやすさは感じます。
車争いの後、「身の程ぞ思い知られたる・・・」と舞台を二まわりしますが、これは妄執の闇から逃れられない輪廻の世界を表しているのでしょうか。「身はなお牛の小車の」で左手を高くつき上げ肩に乗せる場面は、牛の角がせり上がる真似であり、牛車を引く型と言われていますが、昔、後藤得三先生が「あの左手は光源氏、男性そのもので、あれが御息所の肩に重くのし掛かる。そこがわからなければ・・・」とおっしゃったことが甦ります。
序之舞は「昔に帰る花の袖」「月にと返す気色かな」と謡い始まります。美貌も地位もあった東宮妃のころ、あるいは初めて源氏との逢瀬があったころ、そして野宮での最後のあの時を回想し、月夜に舞を舞おうという情趣でしょう。森田流の伝書には「序之舞とは謡では表現出来ない所作を舞に感情移入して一曲を盛り上げる」と、舞が楽劇の原点であると書かれています。このことは『野宮』など三番目物の序之舞のほとんどに通じ、役者がその役になるのではなく、つまり六条御息所としてではない別な世界、演者自身の思いを持ち舞うということなのです。あのゆったりとした時の流れと四つに組み、速く動きたくてたまらない自分を、じっと我慢させ苛める苦痛そのものが舞としての表現の真髄だということが、今回少しわかったような気がしました。
では破之舞とはどのようなものか。流儀には、太鼓ものでは『羽衣』、大小物ではこの『野宮』『松風』『二人祇王』の三曲しかありません。破之舞とは「本音の舞、二の舞ともいって、主人公の具象的な表現の本音である」と伝書にあります。「野の宮の夜すがら、なつかしや」という御息所の本音の心、その最後の夜がなつかしいという心の興奮や高ぶりを舞います。通常の舞は、歌舞音曲の形式にのっとって、ひたすら舞う抽象的な動きや型ですが、破之舞には心がある、本音の舞であるということです。この二つの舞の表現法を区別し意識することが大事な心得です。
喜多の九代古能(健忘斎)は「舞の後の破之舞は難しい。が、もっと難しいのがある。それは舞後のイロエや働き、余韻をあらわす、これが一番難しい」と。イロエや働きは、囃子方があまりにすばらしく囃したご褒美に、シテがもう少し舞い続けたいという気持ちから拍子を踏みだすと、自然とイロエや働き入りになるという約束事ですが、一つの舞を舞った後に本音の心を表す所作だといえます。いずれにせよ、舞後の舞が重要で、本音でここを掌握出来なくては駄目だということは確かなようです。
最後はこの曲に限っての火宅留めです。「火宅の門をや、出でぬらん、火宅の門」と謡う観世流、「火宅」で留める喜多流。御息所は火宅というこの世の苦しみの世界を出られるでしょうか、いやいやとてもでられない……。成仏できなくともよい、源氏とのあの日の思い出を大事に抱いていたいという強い意志があるように私には思えるのです。「火宅……」と留めた後の静まり返った舞台の緊張感の持続、これがこの曲の終演です。
今回の演能にあたり雑誌観世での野村四郎氏の対談『野宮』が私の演能に大きな力を与えて下さいました。「『野宮』は作品が役者を選んでくるように思います。下手すると作品の方が拒否反応を起こす。貴方にはまだ無理だよというような。」「人物像だけをぎゅっと絞り込んでいったからといって『野宮』にはならない、御息所になるわけではない」と語っておられます。これは心に残るメッセージで、私の心に衝撃が走り心引き締まる思いとなりました。たとえば『羽衣』なら天女になって舞おうという作業がある程度できるのですが、『野宮』ではそれができないと思い知らされるのです。また「ベースに季節感、秋深く木枯らしが吹きすさぶような世界、そして深い森をイメージし、御息所という高貴で複雑な女性の情念の世界や諸々の性格を、演者が身体の中に思い宿らせて演技という形にしていく」と、つまり心の中での作業が行われないと全く歯が立たない作品だとおっしゃっています。外面上の御息所を真似ても能『野宮』には成りえない、また最小限の動きで、最大限の描写をするところに能の最も大事な要素があり、『野宮』はまさにそうであるという野村四郎氏のお話は原文を読み込む作業など吹き飛ばすほどのものでした。
私にとって『野宮』という大曲は心と体を切り刻むような思い出の曲になりました。粟谷能の会の三番立ての真ん中を、父や能夫がゆずり押し出してくれる形で挑むことができた、そのうれしさと重圧をひしひしと感じています。 (平成十四年十月 記)
撮影、「野宮」東條氏
野宮神社
野宮神社鳥居
神社のまわりの小道
鳥居の説明
以上 撮影 粟谷明生
『竹生島』で脇能の妙を楽しむ投稿日:2002-09-07

琵琶湖の北端に浮かぶ小さな島、竹生島。能『竹生島』は荒神をシテとした脇能です。脇能は神能とも言われ、舞台となる神社仏閣を誉め讚え、神の霊験を寿ぐ内容のものがほとんどで、『竹生島』もその例にもれず、島の神社に祀られている弁財天、そして琵琶湖の水の精ともいうべき龍神の霊験を讚え、国土安穏を願うという、筋書きは単純明快なものです。シテ(漁翁、実は龍神)とシテツレ(女人、実は弁財天)が前場で登場すると、一声で「のどかに通ふ舟の道、憂き業となき心かな」と謡いますが、そこには特別な悲しみがあるわけでなく、ゆえに曲全体の主張に心を砕くより、謡そのものの美しさ、後場の弁財天の可憐な舞や龍神の活発な動きを楽しんでいただければよいのであって、そういう軽やかな能であると思います。
私はこの『竹生島』を9月の広島「花の会」(平成14年9月7日)で勤めました。後シテの龍神の舞働は短い動きながら、豪快で切れのよさが必要で、あまり年齢を重ねては体力的にきつく、かといって、前シテの漁翁の風格や少ない型の中に風情を出すにはあまり若くてもやりこなせず、若過ぎても老いても難しいこの曲を、年齢的にはちょうどよい今の時期に一度はやっておいた方がよいということで取り組みました。
『竹生島』の舞台は、ときは春、琵琶湖畔には桜の花が咲き乱れ、まさに春爛漫の風情。醍醐天皇の臣下(ワキ)が、竹生島に参詣しようと、近くに舟漕ぐ漁翁(シテ)を呼び止め、便船を願います。舟に乗ると左手には比良叡山の満開の桜。山からの風(峰おろし<ねおろし>)に吹かれ、散る花はあたかも白雪の趣です。「所は海の上、国は近江の江に近き、山々の春なれや、花はさながら白雪の。降るか残るか時知らぬ・・・」と、この情景を謡いあげる地謡がまさに聞かせどころです。謡を聴きながら、春の景色、自然の美しさを想像していただきたいところです。
私は7月に浴衣会(全国の菊生会、明生会の有志が集まって謡い舞う会)が長浜にあったこともあり、9月に『竹生島』を勤めることも意識して、竹生島詣でをしてきました。(そのときの様子は、このホームページの「写真探訪」でくわしく記しましたのでご覧ください)。
そのとき感じたのは、真野の入り江から老人が手で漕いで渡るのは大変だろうということ。琵琶湖は広大で湖というよりはまるで海のようです。真野から竹生島までは相当の距離で、フェリーでも35?45分かかるところを、老人がよく漕いで行けたなと、その大変さが実感できました。それでも昔の人は老人と言っても思ったより若く、漁で鍛えられていて腕っ節も強かったのかもしれません。あるいはシテの老人が龍の化身とあらば、難なく漕ぎ渡たれたのだと想像するのも楽しいものでした。

それから、型付に、舟に乗った後、左側を見回し桜を愛でる型がありますが、実際のフェリーでも左側に比良の叡山が見え、右側に長浜の地が見えと、型付の方向と実際の地形がそのままで面白く感じました。
能に描かれる場所を訪ねたからといって、能そのもののできがよくなるという保証はありませんが、それでも演じるうえでの心の余裕になり、遊び心をくすぐってくれるもののようです。これまでに叡山にも行き、琵琶湖、竹生島を訪ねた経験が能のイメージをふくらませるのに何らか役立っているという気はします。
それにしても、叡山からの峰おろしで桜吹雪になる様子を白雪にたとえる当たり、やはり名文と感心せずにはいられません。
さらに舟が進み竹生島に着こうというとき、「緑樹影沈んで、魚木に上る気色あり、月海上に浮かんでは、兎も波を走るか、面白の浦の気色や。」とあります。これも名文で、美しい自然の情景が目に浮かんできます。「緑樹影沈んで、魚木に上る気色あり」とは、緑樹の影が湖に映って暗くなっているから、その樹木の影の当たりに魚があたかも木に上るように群がっているという意味でしょう。司馬遼太郎氏の風塵抄に「孟子に“木ニ縁リテ魚ヲ求ム”と言う比喩があって、木に登って魚をとるようなものだというのだが、しかし孟子はよく知らなかったのか、木と魚はきわめて因縁がふかい」とあり、この言葉が思い出され気になりました。ここに書き留めておきます。
また「月海上に浮かんでは、兎も波を走るか」は、実際に兎が波の上を走るわけではありませんが、湖面に映る月、月といえば兎の連想で幻想的な描写になったのでしょう。先人は、ここを波の上を走る兎を追うようにして、数回、面を素早く切るのだと言いますが、兎というのは、さざ波が立った風情と思い、私は面を二、三回切る面遣いをしました。

後シテの面は「黒髭」です。粟谷の家には「黒髭」の面は2面あり、1面はやや小ぶりな一般的なもの、もう一面は全体に縦長で顎がL字型にせり出し、舌も長く出ているスケールの大きな面です。最近あまり「黒髭」をつける機会はないので、今回はあの大きな面をつけてみようと、後者を選びました。
わが家の伝書には「キリの舞様大飛出の扱い也」とあります。一般に龍神といえば「細かく」、俊敏に運ぶのが心得で、決して大股にならず、大まかな動きをしないが決まりですが、反面細かくやり過ぎるとやや位が低いものになる恐れがあります。「黒髭」の心ばかりでは脇能に成り難いということで、体の動きは細かく俊敏で冴えたものでも、心持ちはどっしりということでしょう。要するに、「黒髭」で「大飛出」の心持ちとは「細かく強く」といった心得だと思っています。
『竹生島』の見どころは、前場の謡と後場の天女の舞と龍神の舞働と述べました。後シテの舞働は豪快ではありますが、大変短いもので、やや手ごたえに欠けるからか、喜多流と金剛流には、弁財天をシテにして、短い舞のかわりに楽を舞う小書「女体」という特別演出があります。
喜多流の「女体」は、前場は従来通りでシテは漁翁、シテツレが女人ですが、後場のシテとシテツレが入れ替わり、シテが弁財天、ツレが龍神となります。この小書、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼のご所望で創られたようです。位が上がった人、龍神の動きが体力的にきつい人は、この小書で勤めることがあります。しかし、この演出ですと、女人が作り物の宮に入って、後場で弁財天となって宮から出てきて舞うという従来の演出ができません。地謡は「社壇の扉を押し開き、御殿に入らせ給ひければ・・・」と謡っているの に、女人は宮(御殿)に入らず、幕に消え、翁の方も「水中に入るかと・・・」と謡っているときに、舞台上の宮に入るというちぐはぐな演出になっています。この辺はやはり、お能好きな大名が、天女の楽をたっぷり楽しみたいと、あまり深く考えず、勝手に創ってしまったという感じがします。

その点、シテとシテツレを前場・後場ともそっくり入れ替える演出の金剛流の「女体」の方が理にかなっていると言えるかもしれません。
いずれにしても小書の「女体」では、後シテは弁財天で盤渉(ばんしき)の楽を舞います。弁財天の勢いのようなものを見せたいというのが趣旨であり、演じる側もそういうものをやりたいということでしょう。しかし逆に龍神はツレになり、やや位が低い感じになります。今回私は小書のつかない普通の演出で試みましたが、両者を見比べてみるのも面白いと思います。
ところで、広島「花の会」は今回が最後ということになりました。平成4年2月に、広島にゆかりのある若手能楽師が集まって・・・ということで、出雲康雅、粟谷能夫、大村定、中村邦生、そして私の5人でスタートし、後に長島茂が加わって今日まで続けて参りました。父が祖父・粟谷益二郎の地盤を引き継ぎ、広島喜多会として、家元をお呼びして会を催したのが始まりで、そろそろ若い人にバトンタッチしようというので、我々5人が始めたものでした。年に2回(ここ2年ほどは年1回)、2月と9月に3番ないし2番の番組編成で行ってきました。
最近は経済的に問題があり、ここでひとまず休会にしようということになりました。これはひとえに我々の責任でありますが、メンバー6人、広島にゆかりがあるとはいえ、今では全員東京に居を構え、その地に居づいて活動できなかったことが大きな原因になったように思います。
「花の会」では同じ曲目が重ならないようにと、スタートから今回まで違う曲の番組構成をするなど、さまざまに心を砕き頑張ってきたつもりです。それなりの成果も上り、よい経験ができたと感じています。広島の喜多会の方、関係各位には、深く感謝の意を表し、厚く御礼申し上げます。またいつか、形をかえて、広島の地に何らかの会を催すことができるよう、努力していきたいと思っております。
(平成14年9月 記)
| 写真 | 竹生島 前 | シテ 粟谷明生 | ||
| ツレ 金子敬一郎 | ||||
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竹生島 後
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シテ 粟谷明生 | いずれも撮影 石田 裕 | ||
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面
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前シテ 三光尉 | |||
| 後シテ 黒髭 | 撮影 粟谷明生 |
『橋弁慶』について投稿日:2002-08-04

小島誠様よりのご意見をいただいております。文末に掲載させていただきました。
粟谷 明生
牛若丸(後の源義経)と西塔の武蔵坊弁慶の出会いの場といえば京都の五条大橋。昔は「京の五条の橋の上・・・」と小学唱歌で歌われたほど、国民的によく知られたお話です。豪傑弁慶が牛若と主従を結ぶことによって、後の義経の力を確固としたものにし、源平合戦の功労を支え、最後は頼朝との不和により追われる身をかばう立て役者になったことは、多くの人の知るところです。それだけに、牛若と弁慶との出会いは劇的でなければならず、それが五条大橋の立ち会いに結晶しているといえます。

今年の夏(平成14年8月4日)、山口県、野田神社での山口薪能で『橋弁慶』のシテ・弁慶を勤めました。この『橋弁慶』こそ、牛若・弁慶の五条大橋(実は現在の松原橋)での出会いを描いた作品です。子方の牛若は、息子の尚生(たかお)が勤めました。尚生は今年小学校六年生、そろそろ子方卒業の年ごろで、今回の舞台がおそらくシテと子方という配役では最後の親子共演となるだろうと思われます。野田神社には、昭和11年、旧長州藩主の毛利家が明治維新70周年を記念して建築、奉納した大変立派な能楽堂があります。そこで思い出になる舞台を勤めることができたことに今感謝しています。真夏の大変暑い日でしたが、薪を舞台よりやや遠くに炊くなど配慮していただいたこともあり、薪能独特のやりにくさ、煙や灰により演者の謡で声がむせんだり、装束が汚れるなどがなく、気持ちよく勤められました。薪の火が近いと演者には大変暑く、飛んでくる火の粉は能楽堂には危険でさえあるのです。
さて、『橋弁慶』という曲に戻ります。牛若と弁慶との劇的な出会いの場となった五条大橋。しかし、小学唱歌で歌われるお話と、能『橋弁慶』の内容には、多少のねじれ逆転現象があります。つまり、小学唱歌の方は『義経記』によるものと思われ、千本刀を集めようと刀狩りをする荒僧・弁慶が、あと一本で千本というときに牛若に出会い、打ち負かされ、これほど強い相手ならばと家来になり、主従関係を結ぶというものですが、能『橋弁慶』は、千人辻斬りをしている悪逆無道の牛若を、五条大橋辺りで成敗してやろうと、弁慶が出かけていくという立場が違う話になっています。アイ狂言が牛若に斬られそうになって、怖い怖いと逃げ惑う場面は、観客のそれまで判官贔屓として描いていた牛若像とはまったく違い、少し戸惑う場面ですが、狂言方の演ずる気弱な都の者が普通の間(アイ)の科白ではなく、狂言調で通すところはなかなか面白く、『夜討曽我』の間、大籐内(おおとうない)に似て理屈抜きで楽しめるところです。
では本当の歴史はどうだったのか。まず牛若の経歴をたどってみます。平治の乱で父の義朝が敗北し、母・常磐御前は三人の子供を連れ大和国に逃れますが、平家方に捕らわれ、清盛の取り調べを受けます。常磐の美貌や周りの助命嘆願により牛若は幼少(生まれたばかり)であることから、命は助けられ、鞍馬寺の覚日阿闍梨に預けられることになります。常磐御前は平家の稚児に笑われないようにと、牛若の好みに任せて唐絹を山鳩色に染めさせ直垂袴など贈らせたとの記載もあり、七歳の春には、母に暇を乞い、具足、刀、笛などを餞別に得て鞍馬に登山しています。しかし牛若は平家の稚児達と一騒動を起こし、別当の押さえや常磐の諫めで一応おさまるもののさまざまな事件を起こし、とかく暴れん坊の問題児だったようです。
十一歳ごろ牛若は沙那王と呼ばれ、僧正ヶ谷に通って大天狗に兵法を学んだといわれています。この話は能『鞍馬天狗』にもなっていますが、天狗に象徴される強い力が、平家討伐のために牛若に力添えを約束するというものです。天狗とは実は源氏の残党ではないかといわれ、鞍馬山に源氏の御曹司がいるなら、彼を育て、源氏再興をと密談していたのではないでしょうか。幼い牛若に平家の横暴や義朝の非業の死、源氏再興の願いなどを話し、源氏の無念を晴らすのだと教育したものと思われます。現に牛若は天狗に会ってからは学問そっちのけ、剣術ばかりに打ち込んで、ますます暴れん坊に磨きをかけていきます。
天狗の教育が利いてか、牛若は十五歳になると、父の孝養のために千人辻斬りの願を立てます。非業の死をとげた父の無念を晴らすためといわれています。千人斬りの相手は恨みある平家方の武士だけではなく一般町民にも及んだようです。それにしても千人とは大変な願だったと思われます。
このように見ると、歴史的には能『橋弁慶』が描くように、牛若の千人斬りのほうが信憑性があるように思えてきました。この作品が出来た当時の人たちも、このことは当然のこととして知っていて能として創作されたのではないかと思われるのです。義経が主人公の『義経記』では、極悪非道、暴れん坊の肩書きが牛若には不似合いなので、悪として千本刀狩りをする弁慶像をこしらえたのではないでしょうか。判官贔屓の日本人の体質に合わせ、義経の伝説はときに美化されている節があります。
実際 美男子と思われていた義経はそれほどでもなかったようで、平家物語では背が低く小柄で出っ歯の醜男と書かれ、また性格も梶原景時が義経の奇襲戦法の卑劣さ、身勝手さを頼朝に注進するほどで、戦法的にも問題はあったようです。例えば、壇ノ浦の戦で舟戦では船子に向かい矢を放つなど、当時はタブーとされていたことを平気で命令し勝利する、そんな傲慢な性格は幼少時代より持っていたのではないでしょうか。
また、吉次と奥州へ向かう途中、今の蹴上(地名・けあげ)にて平家の武士の乗る馬のはねた水が首途に水を差したと怒り、九人を忽ち切り倒す事件も起こしています。そういう気性の義経であれば、十五歳の千人斬りの願も、まんざらうそとも思えず、うなずけます。
しかし能をご覧になる時は、実際の歴史がどうであったかなどは、さほど問題ではないかもしれません。世阿弥が美少年で活躍した時代を考え合わせれば、かわいい美少年が舞台に出て、立ち居ふるまいが美しく、豪壮な弁慶の薙刀さばきと、それに立ち向かう華麗な牛若の太刀さばきが見られれば拍手喝采で、舞台とはそれでいいのでしょう。子方というヒーローと大人の弁慶のからみの妙味、すがすがしさを見ていただければよいと思います。小品でもある『橋弁慶』、それはそれでよいのですが、息子と一緒に勤める機会に恵まれ、少し調べてみて、能で描かれている牛若の千人斬りが実は事実らしい、父の孝養のため、源の家の人間としての憂さ晴らしとしてあり得ただろうと自分なりに納得できたのが面白い発見でした。
私自身、子方(牛若)のときに後場の一声で、「さても牛若は、母の仰せの重ければ、明けなば寺へ登るべし。今宵ばかりの名残りぞと、川波添えてたちまちに、月の光を待つべしと」と謡うところは当然意味も解らず、大きな声で朗々と勤めてきましたが、今回、息子に謡を教えながら、これはどういう意味だろうかと疑問が出てきました。詞章を読む限りでは、母の仰せが何であるか、夜が明けたら何故寺へ登るのかなど、理解できず、この子方の唐突な謡の持つ意味や重要性に気が付きませんでした。
これは観世流にしかない小書「笛の巻」にふれなくては解決できません。「笛の巻」では、通常の前場と様相がガラリと変わり、前シテが常磐御前、ワキが羽田秋長となり、ワキが牛若の千人斬りを常磐御前に伝えます。常磐御前は牛若を呼び、涙を流して悲しみ、弘法大師伝来の笛を渡して牛若を諭します。牛若は母の仰せに従い、明日にも寺へ登って学問に励むと約束して、今宵ばかりは名残の月を眺めて来ると出かけます。しかし実際には五条で月を見ると言いながらも、謡では「通る人をぞ待ちにける」と、最後の相手を待ち望んでもいるようで、後場の弁慶との出会いにつながっていくわけです。これが重い母の仰せです。
小書がない喜多流では、ワキは登場せず、前場でまずシテ・弁慶が出て、名乗ります。「さても我宿願の子細有るにより」と語り、北野へ、一・七日(七日間)丑の時詣で、今夜より十禅寺に向かうと述べます。この弁慶の宿願とは何であろうか。能『橋弁慶』が『義経記』によらないものとすれば「千本刀狩り」の願とは考えにくい、では何であろうか。そして十禅寺に向かうのはなぜか。観世流は五条天神に向かうとなっているので、こちらならわかるのですが、十禅寺となると不明です。未だ解明できないままこのレポートにとりかかっています。どなたかのご指導を仰ぎたいと思っています。

また能では、二人は五条大橋で出会い、その場で主従関係を結ぶことになっていますが、『義経記』では、弁慶が五条大橋で一度負けて逃げ延び、翌日、清水坂で再会して、そのとき完全に打ちのめされて家来になります。能ではこの二回の戦闘場面を一場面に集約して表現します。「さしもの弁慶合はせかねて、橋桁を二、三 間退って(しさって)、膽(きも)を消したりけり」と、シテは橋掛りで膝を打ち、悔しがります。斬り込みが一段落し、その後にもう一度、「薙刀柄長く追っ取り延べて・・・」とかかっていく形になっていますが、これはもしかしたら、前段を五条大橋の場面、後段を清水坂の戦いと、二日間の戦闘を意識したものではと私は思います。
最後は、弁慶が降参して主従の関係を結び、牛若は弁慶を従え、「九條の御所へぞ参りける」で留めとなります。この九条の御所とは何を意味するのでしょう。九條の御所とは、常磐御前つまり母の住む御所を指しています。九條というのは常磐御前が義朝の妻になる前に、近衛天皇の皇后・九條院の女官をしていたことからはじまり、九條は常磐御前の代名詞のよう使われているのです。六条御息所が居所が変わっても、六条と言われたのと同じです。ですから、この曲の最後は、こんな豪壮の者を家来にして意気揚々と、母・常磐御前に報告に行ったことを暗示しています。しかし、暴れん坊の牛若を心配し、学問に専念してほしいと願った母・常磐は果たしてこの出来事を喜んだかどうか・・・。疑問です。
さて、弁慶を勤めるに当たって、面、装束をどうするか。型付には、前シテは直面、後シテは長霊ベシミ又は直面とあります。『橋弁慶』は現在物で前シテと後シテは同一人物、後が亡霊になるわけではないので、前が直面で後に面をつけるのはいかがなものかと思い、両方とも直面で勤めました。後の面「長霊ベシミ」を、兜についている顔当ての心持ちのように書き物にありますが、私はどうも不自然に感じしっくりしません。最近では、高林呻二氏が伝書通り後に長霊ベシミをかけて長範頭巾で勤められましたが、私は直面で勤めました。
伝書に、長霊ベシミ、長範頭巾とありますが、「面つけないときは衆徒頭巾の心なり」とあります。衆徒というのは叡山(比叡山)の僧兵のことで、衆徒頭巾は叡山の頭巾のこと、つまり袈裟頭巾です。今回は直面に袈裟頭巾の選択で勤めました。
もう一つ気になるところは前場の初同(地謡が最初に同吟するところ)です。「神変不思議奇特なる、化生の者に寄せ合はせ・・・」では、通常、シカケ・ヒラキの型付ですが、地謡が謡うところとはいえ、五条方面に行くと牛若という強い者がいて危険だから行かないでください、都が広いといってもこれほどの者はありませんという、太刀持ちの言葉に合わせてシテがシカケ、ヒラキをするのはそぐわないという意見もあり、私も今回は大袈裟なシカケ・ヒラキを控えてみました。
それにしても、勤めてみて弁慶という役を演じることの難しさを感じました。『橋弁慶』は小品ですが、そこにはどっしりとした弁慶像が浮かび上がらなくてはいけません。しかしあまり重々しくなり過ぎても、この能の妙味が損なわれます。淡々としてこの曲の弁慶らしさが出せればよいのですが、それはなかなか至難の技。ある年齢を重ねる必要があると思う一方で、あまり歳の弁慶が登場してはこれまたおかしく思えます。淡泊過ぎても、やり過ぎてもいけない良い加減とは? 弁慶らしく勇壮で重厚感がなければいけないが、お能の枠組からはみ出してもいけない・・・。『安宅』での弁慶でも感じた、能の世界ぎりぎり限界での演技、その難しさを、今回も充分感じました。最近耳に残る「人は一度味噌臭くなれ」の言葉が脳裏をかすめ、一度やれるだけやってみようと今回は非難を覚悟で臨んでみました。結果には多々あり、それだけ難しいことを再確認しています。
『橋弁慶』のシテは弁慶ですが、子方の牛若の役も重要で、シテに匹敵するほどの役どころです。尚生は六月の喜多流の自主公演で、シテ・粟谷能夫と『橋弁慶』に出る機会がありました。それで、能夫にせっかくのチャンスだから、親子で共演できる機会を持ったらということで、一年半前から話が進み、今回の舞台が実現しました。
子方の稽古は、子方の指導者が、理屈抜きにここではこのようにと型を教え込み、子方も繰り返し覚えていくもので、シテとは申合せ一回で舞台に臨むというのが通例です。そのため指導者が教えたことと、シテの型が違っていたりして、子方はかわいそうに面食らうこともあるのです。六月の自主公演のときは、能夫が「こういう曲は稽古のときから子方とやって、一緒に舞台を創っていくのがいい」と言い、何度も稽古をさせてもらいました。「一緒に創りながら覚えていく」、このような稽古ができたのがとてもよかったと思います。自主公演では私は地謡を謡い、子方の指導も私の役割だったので、シテとの稽古のときから参加して、まさに創りあげていく体験を三人でできたことを私は喜んでいます。
特にこの曲は、シテと子方の斬り込みが一番の見どころで、そこはやはり一人では稽古しにくいところです。相手が攻めてくるから受け、引けばこちらが攻めるという呼吸が大事ですから、相手あっての稽古が重要なのです。

斬り込みでは、互いの刀を触れず、合わせる寸前のところで止める勢いと気迫が大事と教わってきました。弁慶の薙刀も牛若の刀も竹光ですから、もし触れたら、そこには鈍い木材の音が聞こえ、金属のような鋭い音はしませんので、やはり触れずに表現する、これが第一の鉄則でしょう。能夫との稽古のときも、尚生は「ただ太刀を振るだけではなく、薙刀と当たるギリギリのところでしっかりと止められるように力を込めて」と注意を受けていました。細かい指導のおかげで、能夫のときも私のときも、子方として気迫のこもった斬り込みができたと思います。
尚生は子方の最後が近づいています。能夫と丁寧に稽古を重ねることができ、二度目の今回の舞台は暑い中ではありましたが、適度な緊張と余裕を持って無事勤めることができました。揚げ幕が降り、鏡の間で尚生と終演の挨拶をしたとき、私はこの子の役者としての一つのページがめくれ、今まさに一つの時代が変わろうとしていると感じ、少し寂しいような、また嬉しいような不思議な気持ちになりました。我が子を見ながら、共演の喜びと共に時間の過ぎ去る早さを痛感し、私にとっても尚生にとっても、良い思い出の舞台となったと、心に刻んでおきたいと思いました。
(平成14年8月 記)
橋弁慶 シテ 粟谷明生 撮影 野田神社
橋弁慶 シテ 粟谷能夫 撮影 あびこ
私も今回、みちのく明生会で橋弁慶を謡い、この能に対する興味が湧いてきたところでした。先生の演能レポートを読み、大変興味深く拝見したのですが、弁慶に関する点については私も少し考えたところがありましたので、以下、私なりに頭の整理を兼ねて書き出してみようと思います。あくまでも仮説ですので、史実誤認等ありましたらお許し下さい
まず、この能には、登場人物からすると当たり前ですが、実は一言も書かれていない主題として、打倒平氏という主題があると思います。牛若の母常盤御前は、平治の乱で義朝が殺された後も、平清盛の寵を受け、かつその側近と再婚したと言われています。従って、母常盤の美貌ゆえ命を救われたとはいえ、父義朝の仇である平家方から生活の保証を受けていた牛若は、自身の置かれた立場の矛盾に悩み、その発露として千人斬りという異常とも思える行為に駆り立てられた、と考えることができます。「義経記」と異なり、牛若が千人斬りをしているという状況は、より彼の苦悩を際立たせているのではないでしょうか。
一方、この能のシテである弁慶の装束が直面の場合「衆徒頭巾」であること、「宿願の仔細」があって「十禅寺」へ向かうことは、彼が天台宗、叡山の僧兵であることを象徴していると考えます。当時の叡山は、必ずしも常に平氏と敵対していたわけではないのですが、強力な院政を敷いた白河法皇ですら手を焼いた言われるほどの、一大反権力勢力だったわけです。平家物語巻一には、鹿ヶ谷の陰謀が発覚するなど、物語の全ての始まりである治承元年(1177)、叡山の天台座主である明雲僧正が法皇の不興を買い罷免されるという事件があったとき、宗徒が「十禅寺」へ集まり会議を開いた、とあります。
弁慶がいかなる目的で「十禅寺」へ向かったのか、「宿願の仔細」はどのような内容なのか、答えはここに隠されているような気がします。叡山と京を結ぶ線の中間の山科にある十禅寺は、いかにも衆徒が集まって鹿ケ谷のような打倒平氏の密談をしていそうな場所、というイメージを喚起させる単語として使われているものとも想像できます。作者はおそらく、登場人物に直接的に打倒平氏を語らせるのではなく、弁慶が反権力側の人間である象徴として「衆徒頭巾」「十禅寺」という記号を効果的に配しているのではないでしょうか。
こうして考えてくると、ロンギの部分で結ばれる主従の「契約」が、いかなる性質のものであったのかが良く理解できます。源氏の残党ではない衆徒弁慶と、まだあどけない牛若が、打倒平氏という共通の目的を持っていることを悟り、固い絆で結ばれるというストーリーは、平家物語に登場する「十禅寺」「衆徒頭巾」という記号を介してこそ、室町時代の観客に自然な形で受け入れられたのではないかと考えます。
小島 誠(2002.9.17記)
吉野山にくり広げられる『国栖』の世界投稿日:2002-05-01

粟谷明生

『国栖』は広大な吉野山を舞台にくり広げられる能です。国栖は奈良県吉野町にある地名。この吉野は熊野と並んで山岳信仰の修験道の発達した地である一方、国家権力への反逆者や政争の犠牲者が逃げ込んだ地域で、独自の世界を作り出していたようです。そのためここは敗北者の根拠地となり、そこに現れる蔵王権現は、その霊験が敗北者への味方になるとして、人々の信仰を集めていました。『国栖』に登場する浄見原天皇は天智天皇の弟、大海人皇子で後に天武天皇になる人です。弘文元年(六七二年)に起こった壬申の乱はあまりにも有名ですが、この大海人皇子と天智天皇の子、大友皇子との皇位継承をめぐる戦いです。この戦いでは大海人皇子が勝利し、以降比較的安定した世の中がつくられたようですが、『国栖』の舞台はその前の段階のお話です。
天智天皇は采女との間に生まれた大友皇子に皇位継承させようと画策し、それを察知して身の危険を感じた大海人皇子は剃髪して吉野に下り、壬申の乱で反撃に出るまでは、大友皇子の軍に攻め込まれたり、憂き目に会っています。『国栖』では浄見原天皇(大海人皇子、後の天武天皇)が吉野山に逃げ込んできたときに、尉と姥が機転をきかせて追手を追い払い、浄見原天皇を救うお話。後場では王を蔵すの名の通り、王を隠す霊験ありの蔵王権現が登場し、短く仕舞を舞って、後の天武天皇の御世を寿ぎます。
『国栖』という曲は、この広大で奥深い吉野山という地に思いを馳せ、当時さまざまに繰り広げられただろう、このような物語を味わっていただければよいのではと思います。私は喜多流自主公演(平成十四年四月)の『国栖』を、そんな気持ちで勤めました。
ここでちょっと一言。謡本では、浄見原天皇が皇位継承すべきところを「御伯父大友皇子に襲はれ給ひ」とあり、大友皇子が浄見原天皇の伯父にあたるように書いてありますが、史実は、おじ、甥の関係が全く逆。私はついこの間まで、この歪んだ謡本によって壬申の乱の歴史を誤って覚えていました。ときに謡本は歴史に忠実でない場合があるので注意が必要です。しかしそのこと自体が作品の主張に大きな障害を与えることがないのが不思議で、これが能という演劇のもつ特質かもしれません。

『国栖』は後場がツレの天女の舞とシテの短い仕舞ですから、やはり面白いのは前場です。そしてそのほとんどが台詞劇となっています。シテは囃子のアシライで出て、作り物の舟に乗り、唐突に「姥やたまえ」と謡います。ここの謡が曲をつくる難しいところです。紫雲が立つのは天子のご座所。遠い空に紫雲が立つのを見て、老人は奇瑞の起こる確信を持ち姥に言葉をかけます。紫雲を見るときの役者の位置、然るべき覚悟や思いを距離感を持って謡わなくてはいけないところです。強く強くと教えられていますが、生の強い声ではなく、老人の確信の強さが表面化しなくてはと思い、難しい限りです。
『国栖』は喜多流では古来の形を継承しているため、国栖という地方、田舎を思わす台詞が謡本に残っています。例えば「姥やたまえ」。子供の頃は何を言っているのか皆目検討もつかず、そのまま青年期を送ってしまいましたが、「姥や、見給え」が本来です。他には「まわこうよとて、おうじ姥は」は「いまはこうよとて」の意などがあります。観世流は明和の改正でかなり改訂変更しています。この改訂は国栖族の持つ民族性や方言らしきものを取り払ったため要領よく綺麗に整理され、私も理解するうえで大きな手助けとなりましたが、それだけに味わいが浅くなったきらいがあり、従来の古雅な方が良いように思えてきたから不思議です。
前場で唯一の型の見せ場は「鮎の段」です。短いながら技の利かせどころです。吉野川に放した鮎が素早く川を泳ぎ回り、君の再興を占うというものですが、老人でありながら急に活発に動く型で、短いだけにスケールは大きく、且つ凝縮して舞う、至難の技だと思います。
子方時代、この「鮎の段」を見て、焼かれてしかも食べられた魚がなぜ生き返るのか不思議に思っていました。今回の演能にあたり、ここはどうしても理解しておきたいところでした。これは焼いた鮎を川に放したとき、同じ形をした生きた魚が近づいて来て泳ぎまわったのを放した魚が生き返ったと錯覚したものであるらしいです。些細なことですが、天皇の吉凶を占う重要な場面、私としては理解しておかなければ動けないと思っていましたので、解決できてよかったです。
さて、最初に舞台に持ち込まれる舟の作り物。布地が張ってあり、出し入れは二人がかりでします。後に子方を隠すために重要なものですが、演者としてはこの舟への乗り入れが一苦労です。慎重にからだを運びますが、なかなか厄介です。ご老体が苦労なさっていた舞台を思い出しますが、今、この苦痛が判るというのは、少し早すぎるかもしれない、足腰の強化を心がけようと思いました。
老人夫婦は追手が来ることを告げられると、この舟に子方を隠します。私はこの子方を三回勤めましたが、それは暗く狭い舟の中での窮屈な時間でした。舟を開けたら子方が寝ていたとか、指で舞台の板の穴をほじっていたため、指が抜けなくなって大騒ぎとなったなど、エピソードにはことかきません。これらが嘘ではなく、本当のことであると証明できる子方経験者は何人もいると思います。
アイは追手として登場し、老人相手に威嚇しますが、この応対の台詞が一曲の聞かせどころであり、芝居心が必要とされるところです。シテは凛とした威厳、人を威圧する気迫と技巧、追手のアイは滑稽味を帯びた腰抜け侍の風情、両者相まって効果を出す腹芸といわれる世界でもあります。アイは和泉、大蔵の流儀により多少言葉やスタイルが異なります。喜多流には大蔵流の言葉がうまく合い、特に大蔵弥太郎氏や吉次郎氏は昔からこの曲にはいい味を出されていました。今回は吉次郎氏がお相手でやりやすかったことを喜んでいます。
中入り後は天女の舞となります。後ツレは前ツレと違う人間が演じるため、シテの中入りと入れ替わるように天女が登場します。シテは天女の舞の間に装束の着替えとなります。この天女の舞をこの曲に限り五節之舞といいます。シテの中入りに下り端(さがりは)二段、ツレの天女の舞に五段と、囃子方泣かせの繰り返しの連続、これには少しマンネリを感じてしまうのは私だけではないようで、観世流では楽で舞われることもありますが、ここはやはり下り端の吹き返しが順当のようです。五節之舞は日本書紀に「神女、五たび袖を返す」からの由来とあり、ツレは五回綺麗に袖を返すのが心得です。

続いて後シテ蔵王権現の登場となります。通常は地謡の内に無地熨斗目(むじのしめ 絹布の小袖、男性用の普段着)をカズキ、橋掛りに出ますが、今回は「不動」の面を使用することにしたので、幕の中にて「王を隠すや、吉野山」と謡い、「即ち姿を現して」と舞台に走り込む型としました。蔵王権現は悪魔降伏の憤怒の形相を示すもので、「大飛出」よりは、我が家にせっかく「不動」があるので、一度試してみようとの試みでした。父は「あのように早く動いては、不動と合わない」と注意してくれましたが、私としては、「不動」かけたさの一念、我がままを通してしまいました。ご覧になられた方のご感想を聞きたいと思っています。
子方時代に初冠をして舟に隠されたことを今でも鮮明に覚えている、この『国栖』、青年期に能夫のツレ、姥を経験して、今回となりました。月日の経つあまりの早さを感じつつ、「未来は、今何をしているかで決まるよ」といわれた先人の言葉が今、私の心をゆさぶり続けています。
(平成14年5月 記)
撮影 舞台写真 東條 睦
面 不動 粟谷明生
『殺生石』「女体」にカケリを入れる投稿日:2002-03-03


平成十四年、春の粟谷能の会(三月三日)で『殺生石』を小書「女体」で勤めました。この小書はもともと金剛流のもので、先代宗家喜多実先生が宗家就任記念として先代金剛巌氏よりお祝いとしていただき、その御礼として喜多流の『富士太鼓』「狂乱の楽」をお渡ししたいきさつがあります。以後この小書を両流で共有することになりました。
「女体」導入初期は、扮装のみ女の姿で、型は従来ある白頭の型にとどまる演出でしたが、平成九年に友枝昭世師が、前場の曲(クセ)を居グセから舞事にし、後場も激しく動き回りながらも艶やかな演技に創作して、新形式で演じられました。あの舞台は従来の、殺生石に封じ込められた狐の執心にとどまらず、美しい玉藻前の妖艶な肢体の内に激しく燃える怨念を見る思いがして、地謡を謡ながらも感動しました。この曲に込められている真意を新たに表現する可能性がある、いつか自分も「女体」で演じてみたいと、演能意欲が高まりました。
『殺生石』の舞台は那須野が原。そこに置かれている大きな石。その石は、人も鳥類畜類も近くに寄るものすべてを殺してしまう殺生石。それは昔、玉藻前が王法を滅ぼそうと鳥羽院の宮中に入り、帝を病にさせるが、安倍泰成の占いによって、玉藻前の仕業と明かされ、妖狐の正体を現して那須野の原に逃げ去る、しかし勅命による三浦介と上総介に射殺されてしまい、死後も執心とどまらず、殺生石となって害を及ぼしているというものです。
この殺生石に込められた魂はいかなるものか。後場で石を割り現れた後シテは、「野干(やかん・狐の意)の形はありながら、さも不思議な人体なり」と言われるように、正体は狐ですが、天竺(インド)にあっては斑足太子の塚の神、大唐では幽王の后、わが朝(日本)にては鳥羽院の玉藻前と転生してきたことをうかがわせる不思議な姿で、その魂は妖狐であり、魔性の女であり、石という生命体の石魂でもあるというものです。そこには幾重にも重ねられた暗く深くおそろしい闇の世界がうごめいている。そのような意識が「女体」に取り組む一つの基盤になり、演出にも、面や装束選びにも反映したと思います。
面は前シテが通常「増女」、玉藻前の容顔美麗に似合う美しい面ということで決まりとされています。しかし今回は、「石に近寄るな」と強い口調で言い放つほどの女ですから、それに似合う力強い執心が溢れ、異様な雰囲気が漂う面はないかと思い、岩崎久人氏打ちの創作面「玉藻其の四」を使わせていただきました。恐ろしい目、人相もきつく、髪をもふり乱しての特異な表情です。これは後シテ用に打たれたものでしすが、敢えて前シテでと試みてみました。
後シテは通常「小飛出」が決まりで、小書「白頭」では「野干」となりますが、いずれも鬼畜系です。小書「女体」ではそれら鬼畜系を除外します。今回私は、女という枠の人面ではあるが、女狐にも見え、またこの世にはない怪奇な力を持つような異次元の形相に思いを巡らせて、やはり岩崎氏の金泥「玉藻其の二」をかけることにしました。
装束は、「女体」の特徴である緋長袴を軸に、黒垂、舞衣のところを、近年流行の白頭に、私の考案で狩衣を衣紋に着けてみました。後で述べる「カケリ」の演出を意識したものです。
演出は、全体としては鮮烈な印象を受けた友枝師の型付を踏襲し、そこに後半、観世流で導入され始めた「カケリ」を入れて自分なりの創作を試みました。
前場の曲(クセ)では、友枝師が金剛流の型をもとに創作された通り、私も居グセではなく舞うことにしました。光を放って清涼殿を照らす玉藻の前の姿や、御幣を持ち占う安倍泰成など、当て振りな型を多く取り入れた舞です。ここは「その石に近寄るな」と制止する強い女、後シテの殺生石の魂につながるような強さを、舞という動きで表現したいところです。居グセよりはわかりやすくご覧いただけたのではないでしょうか。
石の作り物が割れて後シテが登場する場面は、他流には石の作り物を出さない演出もあるようですが、喜多流はほとんど作り物を使用し、玉藻前の霊(あるいは石魂)の念力で割れるイメージで、後見が両側から引いて割ります。今回は二つの石の間を少し開けて、玉藻前の姿を一瞬見せ、すかさずシテ自身で石を払って出る演出としてみました。このやり方には賛否両論あるでしょうが、シテの押し出す力があって割れるというのも一つの方法で、玉藻前の霊の強さが出るのではないかという思いでいたしました。
そして後半の「カケリ」を入れる演出、これは私の創作で行いました。カケリは修羅道の苦しみや物狂いの心を現す所作で緩急の激しいものですが、『烏頭』のように猟師が鳥を捕る場面にも用いられます。今回の「女体」では具体的には「草を分かって狩りけるに」の後、橋掛りを往復する所作を入れます。三の松に行くときは、玉藻前を追いかける二人の武士、三浦介と上総介の姿を、三の松から一の松に戻るときは、逃げ惑う玉藻前の様子をカケリで表現します。追う側と追われる側をひとつのカケリの中で同時に表現できないだろうか、難しい一つの実験でもありました。後シテの装束を緋長袴に狩衣としたのもその両方の姿を見せる狙いでした。追う両介が狩装束で馬にまたがり弓を引き、追われる玉藻前は、王朝に忍び込んでいた姿で、最後は、“玉藻前ここにあり”と果敢に挑み正体を現す型で留めるというものです。
しかしそのいさましさも空しく、玉藻前は統治者という力を誇る体制側の武士にあえなく射殺され、征服されてしまいます。『殺生石』ではこの玉藻前の死後の執心や恨み、女の情念をいかに表現するかではと思うのです。
殺生石に幾重にも込められた魂、玉藻前の執心、『殺生石』の闇の世界。それを演ずる舞台空間には、異様な空気が流れ、ただならぬ不気味な雰囲気が満ちてくるようでなければなりません。後の出端で、シテが「石に精あり。水に音あり、風は大虚に渡る」と謡う場面、太鼓の観世元伯氏に「とてつもなく変な臭いがして、異様な生ぬるい風が吹き起こるようなイメージの音色、掛け声で打てないだろうか」と話したところ、「それは難しいよ、できないよ」と即答されましたが、本番彼は何となく私の意を汲んで下さったのか、それは今までに体験したことのない、何か重苦しい出端であったように私には思え満足しています。
囃子方は他に大鼓は亀井広忠氏、小鼓の鵜澤洋太郎氏、そして笛は重鎮の一噌仙幸氏で、舞台の緊張感を盛り上げてくださいました。広忠氏は先代観世銕之亟静雪先生考案のカケリを最初に手がけており、若手ながら経験豊富。彼に相談して、追う側と追われる側の二段構成ながら、その段落を単に掛声とともに鮮明に区別するのではなく、舞台上での役者と囃子方が共有する独自の意思を基盤に、ある特殊の間で世界が切り替わるような狙いで練り直してもらいたいとお願いいたしました。手組の寸法にこだわらず、演じ手と囃子手の呼吸の見計らいで表現してみようということでした。舞台上では強い意気と緊張感が感じられ、舞いやすかったのですが、テーマにした追う、追われる様が表現できたか、今後の課題でもあるように感じました。
今回後場で予想外の事態が生じました。一畳台の前で、緋長袴を後ろに蹴り上げ、右足を台に乗せ膝をつく型で、膝が台から少し外れてしまいました。あのような事が起きた原因は何であったか。
今回、カケリを創作するにあたり、見ごたえあるものにするにはどうしたらよいかを考え、喜多流には本来無い、欄干に足をかける危険な動きなど稽古の過程で念入りに創りあげました。ところが、事の起きた場面はすでにある型を鵜呑みにして演じたところでした。創作者とは、何度も試み、危険箇所を入念にチェックし、動きを体にしみ込ませていくものです。それを、型だけをまねたレベルでの動きにとどめていた自分。そこに思わぬ落とし穴があったのだと思います。自分で創作した型と、型を真似ただけのものと両方あるときに、一方に気をとられ、もう一方に思わず落とし穴が生まれる。新たなものを創り出すとき、演者はその落とし穴を埋め尽くして演じなければならないものなのです。そして緋長袴の扱いの難しさ。早く動くときに袴の先が思うほどには動いてくれないこともわかりました。この教訓を今後の演能に生かしたいと思います。
「女体」は導入されて以来、金剛流の型付をベースにしながらも、さまざまな手が加えられてきました。後シテは緋長袴を採用することが多くなり、それまで喜多流に存在しなかった緋長袴を、各家で持つようにもなりました。しかし、まだ確固たる喜多流独自のものが確立されているわけではありません。友枝師の創作で方向は見え始めましたが、まだまだ工夫の余地はあるように思えます。手を加える事が許される曲だからこそ、今回のカケリのように自分なりの新しい試みが出来て面白く、心に残る体験ができたのだと思っています。
(平成十四年三月 記)
写真「殺生石」 粟谷明生 撮影 伊藤英孝
粟谷菊生と観世栄夫氏の『小原御幸』投稿日:2002-01-13

広島県廿日市市のさくらホール主催の能公演を能楽座で承り、ぜひ能らしいものをという要望でしたので『小原御幸』を新年早々の1月13日に公演いたしました。シテの建礼門院は父・粟谷菊生、法皇は観世栄夫氏という異流共演、私は地謡を勤めました。

父はこのところ、足に痛みがあるようで、幽玄な女物の演能はやめていました。父が若い女を演じるときは、面は必ず井関河内の小面が決まりで、この面は当家のものではありますが、誰も使わぬというルールが自然と生まれているぐらい、あの面に対しての父の愛着は絶大です。父の毎度の言葉、他の面を使おうとすると「浮気しちゃダメよ」と言われそうでね、というわけで60年来愛用してきたこの小面、実は3年ぐらい前に、もう女物はやらないだろうというので修理し、お蔵でお休みされていたのです。今回、父はこの小面に当て物(裏面に面のウケが良くなるようにつける添え物)をつけ、つくづくと眺め、「もう二度とつけることはないと思ったが、再会したなあ」とつぶやいて、感慨深げでした。
父は七十九歳、今年には八十歳になろうというのに、あの沢山の謡の文句を一つも間違えることなく勤めました。肉体そのものは若き建礼門院とは遠いはずですが、寂寥の中に凛とした風情と品格、まぎれもなく、そこに建礼門院が浮かび上がっている、寂光院『小原御幸』の世界がつくり上げられていると、父の役者としての偉大な力を感じてしまいました。
今回、観世栄夫氏が引き受けてくださった法皇役は、シテと対座する大変難しい役どころです。この役をこなせる能楽師は極めて少ないというこの言葉に異論をとなえる関係者はまずいないと思われるほど、この役のはまり役は限られた人なのです。前に先代観世銕之亟静雪先生が中尊寺白山神社で『小原御幸』をなさったとき、法皇は是非粟谷菊生さんで「後白河は菊ちゃんでなければだめ」とおっしゃられて、父が勤め異流共演となったことを思い出しますが、この法皇がはまり役になるかならないか、役者としての気持ちはなかなか微妙なものがあるのです。
それは法皇という人となりに関連します。つまり後白河法皇は建礼門院の舅に当たります。建礼門院は平清盛の娘・徳子ですが、後白河法皇の息子の高倉天皇の中宮になり、後に安徳天皇となる皇子をもうけます。しかし平家の栄華はつかの間。壇ノ浦の戦いで一門の者はほとんどが死に、子の安徳天皇も二位殿(清盛の妻)と共に海に沈みます。自らも続いて入水しますが、源氏の武士に助けられ都に連れ戻されてしまいます。その後は、一門の人々や安徳天皇を弔うために、尼となって大原寂光院に幽居します。後白河法皇はといえば平家と縁戚関係を結び、時の権力に取り入っておきながら、源氏が巻き返してくるや、平家追討の院宣を出し、平家を滅亡へと追い込んでいく、大変な策士です。孫となる安徳天皇を見殺しにすることさえ厭わなかった人です。
そんな後白河法皇が、建礼門院が侘び住まいする寂光院を訪ねるのですから、建礼門院の心中はいかばかりだったでしょう。しかも、建礼門院の姿を見るやいなや、壇ノ浦で生きながらにして見た六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の世界を語って聞かせよ、先帝・安徳天皇の最期を物語せよと迫る残忍さです。今は完全に弱者の立場である建礼門院は問われるままに、その有様を語りますが、静けさ、諦念の中にも、一瞬炎が燃え立ったのではないでしょうか。後白河法皇と建礼門院の間の緊張感、鬼気迫る場面です。ここを単に、幽居する嫁を慰めるために法皇がおしのびでやって来たと見るだけでは、『小原御幸』のすごさは理解できないわけです。
ですから、この後白河法皇という、策士であり、片や今様に凝って喉をつぶすほどの遊び人、聞かれたくない六道の様をほじくり出す神経の持ち主、この大変な悪役を演じるには、役者としてのスケールの大きさが必要です。それに直面という難しさもあります。ある貫禄をもった役者が法皇を演じるのでなければ、『小原御幸』は成り立たないのです。
今回の舞台について、父が「こんなにいい法皇はないなあ」と栄夫氏を讚えたところ、「悪役だからだろ」とかわしておられたそうですが、観世栄夫氏という法皇役者のすばらしさをつくづくと感じさせられました。七十九歳と七十四歳、朋友二人の意気のあった熱演を見ることができ、よい舞台になったと思いました。
大納言の局は若い大島輝久君、阿波の内侍は内田成信君が勤めました。二人とも異流共演という緊張の中で、よい謡を聞かせてくれました。特に内田君はこの役は二回目、初めてでは固くなるところを、二回目という余裕が見られ、かといって慣れず、異流の大先輩のお相手をするという緊張感でよい味を出してくれました。この役は花帽子をかぶり、ほとんど呼吸しにくい状態(これはシテも大納言も同じ)でずっと座り続けるつらい役ですが、立派によく勤められたと思います。彼の父・安信氏が昔はこの役のはまり役者で長い間やっておられましたので、ここにきっちりと継承されているなと感じました。
地謡は地頭が粟谷能夫、副地頭が出雲康雅氏で、私は能夫の隣、後列の端に座りました。父は私に『小原御幸』の地謡についてこんなことを教えてくれました。「観世流の地謡は、きれいな絵巻物のように美しく謡うが、喜多流のそれは、ただきれいというのではない、描かれているものがぐにゅぐにゅ動き始めるように謡うのだ」と。絵巻物の中にある炎が燃え立つように、劇的に謡ってこそ喜多流としての『小原御幸』が成り立つのでしょう。前半はしっとりした感じですが、後半の曲(クセ)の部分、後白河法皇に問われて六道の様を語る当たりはやや激した謡い方になります。そして最後、先帝の入水する様を語るシテの長い語りとクドキの後、地謡の「御裳濯川(みもすそがわ)の流れには、波の底にも都ありとはと・・・」は、ぐんとテンションが上り、音も甲高くなり大合唱となります。今回もこれまで肌で感じてきた父の謡い方を継承して、そのように謡おうと、地頭能夫を軸として皆懸命に謡いました。
『小原御幸』という曲は、一曲の中に舞が入らない珍しい曲です。室町時代には演能記録が見当たらず、初めは謡い物としてつくられたのではないかといわれています。舞がなくとも能が成立するということは、『小原御幸』全体が、強い訴えかけのある謡で占められているということです。謡が重要な『小原御幸』、これをいかに謡うか。私自身は中学・高校までは大曲のため、『小原御幸』の舞台には上がれませんでした。二十歳近くなり、伯父新太郎や友枝喜久夫先生の建礼門院を聴き、父の地頭の声を背中で聞き謡い、最近では研究公演で能夫が勤めたときに、初めて後列で地謡を謡わせてもらいました。『小原御幸』を数多く謡う機会があったこと、自分なりにさぐっておいたこと、謡い込んでこそ、建礼門院の悲しさや後白河法皇の怖さがわかってくるのです。名文に酔い、節使いに胸が高鳴り、心が張りつめてくる、こんなことを経験しながら、最近は謡の魔力に取り憑かれているみたいです。
終演し、やや放心状態、長い曲で謡い手も大変、役者もあの花帽子で苦しく大変だったとはいえ、父が元気で得意な謡を聴かせてくれ、しまい込んであったあの大好きな井関の小面をかけられて良かったと思うばかりでした。
面 河内堰 撮影 粟谷明生
(平成14年2月 記)
『女郎花』にみる男の一途投稿日:2001-11-25

喜多流自主公演(平成13年11月25日)で『女郎花』を勤めました。女郎花で思い出すのは、中学生のころ漢字の読み方テストで女郎花が出たときに、得意になって「おみなめし」と書いて、しっかり×をもらったことです。「先生、お能ではおみなめしと読むのですが・・・」と言ったところ、 先生は「お能はそうかもしれないけれど、読み方はおみなえしですよ」と教えてくださったのですが、×には違いなく、がっかりしたことを覚えています。

お能では「おみなめし」と読みますので、お間違いのないようにして下さい。
女郎花=おみなめしは、おみな=女、めし=召しで、女が身を投げる前に着ていた(召していた)衣を土中に埋めたところ、その衣が朽ちて花が咲き出たため、その花を女郎花と言うようになったということのようです。
女郎花は秋の七草の一つで、茎は細長く、その先がいくつかに分かれ、黄色い可憐な花をつけます。曲の中では、この女郎花、頼風が近寄ると「怨みたる気色」でくねり、離れると「もとの如し」でシャキッとします。男の私の感覚では、頼風が近づけば嬉しくて元気になり、離れると寂しくて萎れてしまうと思うのですが、本当の女心とは近寄るとすねる、この花のようでいいのと、女性から教えられました。「くねる」は風に吹かれてたわむのほか、すねる、怨むという意味がありますから、この女郎花の怨みの深さ、頼風にすねてみせる女のかわいらしさが見え、普通とは違う風情になるのでしょう。
能『女郎花』は、このような女郎花の花のイメージを一曲の中に通しながら、女郎花にまつわる古歌の論争、石清水八幡宮への信仰に、舞台の多くを費やし、そして中入り直前にようやく、男塚、女塚を紹介して、男と女の悲しい恋の結末へと物語を進めています。
それだけに、男と女が共に身を投げ、成仏できずに邪婬の責め苦があるといいながらも、さほど深刻にならず、この曲のありどころを不明瞭にしています。戯曲の組み立てそのものが手ぬるいといえるかもしれません。

後シテの装束を見ても、戦陣の物語ではないのですが、平家の公達のような格好をしています。喜多流は長絹の肩脱ぎ姿で、面は中将です。「肩脱ぎ」は舞を舞うときや修羅や邪婬に苦しめられている風情を表すときに使いますが、今回はもちろん後者の意味です。しかしこの美しい公達姿、邪婬の悪鬼が身を責めてというには、余りにもスマートです。観世流では単衣狩衣を着るぐらいですから、頼風という男、身分も高く上品なイメージなのでしょう。『通盛』も後場、夫婦で登場するのは似ていますが、シテは梨打烏帽子に太刀をつけての修羅の業に苦しむ公達武者の定型パターンがあって、その苦しむ様がそれなりに想像できますし、『船橋』も、二人の仲を反対する親が、橋の板間を外して橋を渡る男を殺し、女もまた急に消えた男を捜しながら共に川に落ちて死んでしまうという悲劇的な内容で、怨みは強く、かける面も怪士系の恐ろしい顔ですから、川に沈んだ苦しさを表現しやすいのですが、『女郎花』の二人の場合は、これら二曲に比べ、人格描写が曖昧で緩いように思え、地獄に落ちて苦しむ様を表現するのが難しいところです。
流儀の本には「情けは深けれど執拗ならず、哀切なれど酷烈ならず」と述べていますし、怨念や執心に焦点を当てるよりは、女郎花に寄せる美しい詩情を表せばよい、これもお能の趣きであるというようなことがよく言われます。しかし、もう少し人物像をくっきり描いてもよいのではないかというのが、稽古してみて、私が第一に感じたことでした。
そこで、この曲の男と女はどのような人物かを考えてみたいと思います。頼風は訴訟のために都に上り、都の女と契りを結びます。訴訟が終わって帰るとき、後で必ず迎えを差し向けるからと約束しますが、何の便りもありません。そこで女は八幡の男の家までやってきますが、家の者は、主人は山上していないと邪険な扱いです。女はさては男の心変わりか、裏切られたと感じ、このまま京にも戻れないと絶望し、放生川に身を投げてしまいます。讒言のみで怨みを助長し、あっけなく自殺してしまう胸狭き女で、六条御息所のような積極的な嫉妬の情とも違う弱き心ではないかともとれますが一方で、自らを空しくすることで、頼風の心の中に永遠に生き続けるのだという特異な強さを持っている女であるともとれます。
男の方はどうかというと、本妻がありながら、都の女と契るのは浮気男であるともとれますが、当時、本妻の他に通う女がいるのはごく普通のことで、身分の高い人であったと思われる頼風には、それほど非難されることではなかったはずです。都の女が誤解して自殺したと聞いて、泣く泣く死骸を土中に埋めて弔います。ここまでは普通ですが、そこから咲き出た女郎花がくねる姿を見て、女のあわれを思い、自らも身を投げるのですから、浮気男というよりは純粋で一途さを持った男のように私は思ってしまいます。本妻ではない女郎花の女に結構惚れてもいたのでしょう。女が身を投げた後も非常に嘆いて、この女が死んだのは、家族の讒言によると責任転嫁せず、自分のせいであると自らを責める誠実さも持ち合わせています。

そして、頼風は、共に地獄に落ちて邪婬の悪鬼の責め苦を受ける覚悟で、身を投げます。この当たりは、女の一途と男の一途がかみ合わずに不幸な結末となったとも、昇華された純愛ともとれるのです。
このような人物像が見えてくると、このお能の居所も少し鮮明になってくるのではないでしょうか。しかし、舞台を一度見ただけでは、そこまで読み取れないところに、この戯曲の弱さがあるのだろうと思います。
そして、この男と女の物語があいまいに感じられるのは、前場の女郎花による歌争いや、石清水八幡宮の神が宿る霊地を大観する趣きに力が込められていることにもよると思われます。男塚、女塚の話を期待している人にとっては前半は中だるみし退屈なものかもしれません。しかし歌争いの中身を知って聞いてみると、前シテの尉の茶化し心が面白く感じられると思います。
ワキの僧が女郎花を手折ろうとすると、花守だと名乗るシテの尉が現れ、菅原の神木にも「折らで手向けよ」とあるとか、古き歌にも「折りつればたぶさに穢る(けがる)立てながら三世の仏に花奉る」と言って、手折ることを押し止めようとします。そうすると僧も負けていないで、僧正遍昭の歌の上の句「名に愛でて折れるばかりぞ女郎花」を引き、女郎花という名にひかれて折っただけだと反論します。シテの尉は、その下の句は「我落ちにきと人に語るな」とあるではないかと言って、女郎花を折ったために自分は落馬してしまった(深く忍んでいる女と契り、草の枕を並べてしまった)ことを語るなと言っている、だからその歌を引くのは出家の身としては誤りと反論し、この歌争いに勝利します。それでも最後には古歌の故事由来を知っているから、それに免じて一本折らせてやろうなどと言うのですから、この尉もなかなか茶化し心がある面白いおじいさんなわけです。歌争いの部分はそういう面白さを感じながら謡えというのが心得です。
歌争いの後には、石清水八幡宮を大観する場面が続きます。全体の物語からすると、中だるみの要素となる部分ですが、謡としてはとてもよいものがあって、落とすわけにはいかないところです。「鳩の峯越し来て見れば三千世界もよそならず・・・」の当たりは、男山の頂上に立ってあたかも三千世界が見えるかのように謡い上げ、謡愛好家には、ゾクゾクと体が震えると評判が良いところです。お能にはこのように、物語を追うだけでない醍醐味があるといえるでしょう。
そして中入り前にようやく頼風と女の物語に入っていきます。後場は曲(クセ)などの仕舞どころがあって、テンポよく進んでいきます。仕舞どころはよい型があるため、仕舞や舞囃子でよく舞われ、親しまれています。私自身も物語がわからない中学生のころから、何回も稽古し、舞台を勤めてきました。

曲も終盤。「あら閻浮、恋しや」と謡った後にカケリとなり「邪婬の悪鬼が身を責めて」と大ノリとなって盛り上がります。しかしここは『八島』や『田村』などの軍体もののそれとは違って「カケリがあまり激しくならないように」というのが諸先輩からの教えです。『女郎花』は花の情趣に寄せてあまり激烈にならないという全体の色合いがあるからだと思われますが、私は激烈にならないからといって、ただおとなしく舞えばよいというものではない、頼風の一途を表現するためにも、カケリはカケリらしく、やや激しさをもってキリリと引き結んだ演技があっていいのではないかと思います。戦物語の主人公とは違うとはいえ、地獄の責め苦にあえいでいる場面は度外視できません。
笛の森田流の伝書には、この部分「責めなり」とあります。責めの意識で吹けということでしょう。「あら閻浮、恋しや」と、昔の人間世界を思い出す表現もあるかもしれませんが、「邪婬の悪鬼は身を責めて」への導入部分としてのカケリともとれるのです。森田流の伝書にあるように、邪婬の責めや苦しみが表現されなければいけないのなら、それなりの強さが必要で「カケリは激しくならない」とするのは後シテの装束の優雅さにひかれた、形を優先させたものだと思うのです。やはりある強さが心に入っていないといけないのですが、実際には、それを表現する度合いが難しいように感じました。
カケリは荒くなくという通り一遍の教えを鵜呑みにするのではなく、今回私は少々荒くて良いのだ、そうせずにはいられないのだという思いで舞いました。伝承されていることを鵜呑にするだけでは何も生まれない、自分なりに、なぜそうするのかという考えを持って演じることが大事で、その考えに従って演じてみて、それがどうだったかを検証する姿勢が必要ではないでしょうか。
最後に、観世会の演能のしおりに、観世芳宏氏が『女郎花』について面白いことを書いておられましたので、ご紹介します。
「女の濃厚過ぎる愛情は、恨みにまで進展してしまうことがある。愛し愛される事は罪ではないが、男がいったん外にでれば色々なつき合いがある。それを理解しないで勝手に恨むから地獄行きとなるのである。巻き添えを食って地獄に落ちた男はやりきれない。」
『女郎花』は純愛ラブロマンス、当時の聴衆もこんなのないよというぐらいの過度の純愛が、また逆に面白かったのかもしれないと思いつつ、現代でも、およそ考えられない純愛物が、妙に受けることがあるかもしれないと感じながら、私は『女郎花』で男の一途さを演じたつもりですが、私自身の現実は、「男がいったん外にでれば色々なつき合いがある」という観世芳宏氏の一文に共感するところ大で、「ちょっとしたことで誤解しないでくれよ・・・」というのが本音かな・・・というところです。
(平成13年12月 記)
能 女郎花 前 粟谷明生 撮影 伊藤英孝
面 中将 満志作 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
能 女郎花 後 粟谷明生 撮影 伊藤英孝
女郎花とリンドウは新城の加藤佳子氏のお庭にて撮影 撮影 加藤佳子
刺激的な会となった「大槻文蔵の会」投稿日:2001-11-21

一曲を異なる流派で共演する「異流共演」、能や仕舞、舞囃子など、同種の内容で異なる流派が競演する「立合」、鼓一人、謡い手一人で演ずる「一調」、これらの珍しい内容を盛り込んだ会が実現しました。大槻能楽堂で催された第7回大槻文蔵の会(平成13年11月21日)です。我々演じ手にとっても刺激的な会になりました。
番組は、最初に舞囃子が二番、私の『猩々乱』から始まり、次がシテ観世暁夫氏(平成14年元旦より観世銕之亟を襲名)、ツレ片山清司氏の『三山』。これが喜多流と観世流の「立合」となります。そして一調「笠の段」(能『芦刈』の一部)を小鼓が曽和博朗氏、謡が粟谷菊生の、人間国宝同士の競演。狂言は茂山千作・千之丞氏の『昆布売』で、最後は能『隅田川』。これがシテ大槻文蔵氏、地謡が喜多流(地頭が粟谷菊生)による異流共演ということでした。
この会のしおりのご挨拶で、大槻文蔵氏はこの会が実現に至った思いを次のように書いておられます。
「一昨年七月能楽堂の公演で『通小町』がありその折、シテ粟谷菊生・ツレ観世栄夫・地謡観世銕之にて私も隣で謡わせて頂きました。流儀による主張の違いが、より盛り上がりとなり、常と違う緊迫感を生みいいもんだなあと思いつつ、地頭の銕之亟師のいつもと違うもっていき方になるほどと感じた事でした。そんなこともあって今回粟谷菊生師に是非とも地謡を謡って頂きたいとお願いして、実現の運びとなりました」
このような文蔵氏の思いと、そのご挨拶に続いて書いておられるように、大槻家と粟谷の家との祖父の代からの長きに渡る親しいつき合いがあったからこそ実現したのだと思います。特に、父菊生は二十年近く、大槻自主公演に参加し、何曲も能を舞わせていただいておりますから、仲間意識も強いのです。
私自身は今回、舞囃子の『猩々乱』、一調で思いがけなくも父の助吟をし、『隅田川』で地謡を勤めさせていただきました。めまぐるしい中にも、感じること、学ぶことが多くありました。
舞囃子『猩々乱』

『猩々乱』は『猩々』の中ノ舞を「乱」という特別演出にするもので、曲名そのものに乱と言う字が入るほど特殊なものです。「乱」は、猩々という人面で猿類の獣身、架空の怪物というよりは仙童ようなものですが、このお酒好きな猩々が海中より、酒に酔って現れ波上を乱れ舞うという、写実的でものまね舞踊化された舞です。「乱」の舞い方は流儀によって様々で、観世流はまさに妖精のような動きで、水を軽快に蹴る感じで舞いますが、喜多流は腰を落とし中腰のままゆっくりした動きで、アメンボのように足を大きく回しながら水の上をすべり舞うようにします。演じる方にはこれがきつく、大変な体力を必要とします。この違いを、各流儀で見比べてみるのはとても面白いと思います。
乱のように特別な型というのは、最初は目新しく面白く見ることができますが、六、七段も長く続くと、どうしてもだれて、飽きがきてしまいます。文蔵先生に「観世さんの乱はエレガントで妖精みたいで良いですね」とお話したところ「面白いけれど、あれも長いと飽きる」とおっしゃっておられたので、どの流儀でも特別な型というのは飽きる要素があるのだと発見でき面白く感じました。序ノ舞などシンプルで簡素化されたものとは対照的です。
今回は夜の公演で時間が限られているうえに番組も盛りだくさんだったことから、私の『猩々乱』は短い時間でその真髄を見ていただけるものにしようと考えました。それで乱の独特の型はすべて盛り込み、三段半の短い形にまとめてみました。
私にとって『猩々乱』は披きで一回、その後に囃子の会で一回、今回は久しぶりで三回目となります。披きのとき器械体操のような硬い動きで稽古していると、父に「どうも違う。猩々は酔っぱらっているんだぞ。もっと柔らかさ、ソフトなホワーッとした感じがないと。お前のは硬すぎる」と言われました。二回目の囃子の会のときも、やはり硬い直線的な動きに終始していたと思います。

若いときは体が動くに任せて直線的な硬い動きになりがちで、そこには若さあふれる運動美のようなものがあるのも確かですが、やはりお能の持つ優美さ、猩々の酒を酌んでは酔い、酔っては乱れという姿を表現するには、どこか柔らかな動きが必要だと感じ、今回はそこのところを心がけてみました。柔らかい動きというのは、鋭く速い動きよりはるかに体力がいるもので、面や装束をつけているときはその負担は大変なものです。その点、今回は舞囃子で、紋付袴姿、面もつけていませんから、身が軽く、やりやすかったということもあります。柔らかい動きをしてみて、父の言っていたことがこういうことだったのかと改めて理解できたことは一つの収穫でした。今回このような機会がなければ、私の乱は器械体操に止まっていたでしょうから、よい体験ができたと思っています。
私の舞囃子『猩々乱』の後は観世暁夫氏による舞囃子『三山』で、まさしく「立合」となりました。立合は昔から各流儀が己の芸で競い合うもので、出る以上は勝たなければ自らの食い扶持を減らされたり、失うほどの厳しいものでした。世阿弥も立合のときは、先の流儀の舞台を見て、急に演出方法を変えたり、色や形が重ならないように、装束を変更したりした様子を書き残しています。すぐに対応できるよう数種類の装束を持参するのが常で、それがうまくできないと失敗し、負けるので注意が必要とも書かれていて、非常に厳しい情況だったことがわかります。
立合といえば有名なのは、細川藩主が金春流の桜間家と喜多流の友枝家をかかえ、両家を競わせたことです。当時は、広島の浅野家なら粟谷というように、一藩主が一家をかかえるのが普通でしたが、細川氏は二家をかかえていたわけです。ですから両家は常に「立合」をさせられます。だからこそ両家からは素晴らしい役者が輩出し、今もその伝統が受け継がれているともいえるのです。
現在は「立合」といっても、具体的に勝った負けたの評価を下すものは何もありません。しかし私は、立合には「負けない」と思い舞台を勤めますし、演者自身も心の底では「勝った」とか「負けた、やられた、相手はすごい」と感じるものがあるはずと思っています。今回、文蔵先生が「面白いなあ、あの喜多流の乱もいいな」と盛んに言ってくださったので、先生の会で、それなりの責任が果たせたかなと、胸をなで下ろしているところです。
一調「笠の段」

一調とは小鼓、大鼓や太鼓が一人、謡い手が一人で勤めます。ここに笛が入った場合は一調一管といいますが、いずれにしても、それぞれのパートは一人で担当するものです。ところが大槻文蔵の会の一調は、父菊生の体調が不調のため私が助吟(じょぎん)をする変則的なものになりました。
このような突然の故障のときは、お相手の方に非礼を詫びるのが礼儀です。父も曽和先生に「すみません。体調が悪くなり声が出ませんので、明生に助吟をさせます」と申し上げ、私が助吟することになりました。
一調というのは、特別な手組で囃すのに対して、謡がそれに唱和するというもので、あくまでも囃子が主体となります。相手が常とは違う手組で打つ恐さ、一人ですから、絶句してしまえば成り立たない恐さがあります。それだけに恥をかきたくないと尻込みし、一調をやりたがらない人が多いのは確かです。その点、父はそのスリルが面白いとなにか楽しんで挑んでいるように見えるときがあります。囃子科協議会の調べでは、一調を勤めた回数が一番多いのが粟谷菊生ということですが、おそらくそれは間違いないところでしょう。
そして、父がこれまでの一調の中で助吟を許したのはわずか一回だけ。広島の会で、幸流小鼓の一調の中でも重い扱いの一調一声『玉葛』を勤めたときで、鼓が幸宜佳氏、助吟は粟谷能夫でした。
一調は、曽和先生いわく「慣れたらアカン」。慣れたら面白くない、一調は真剣勝負、ピリピリ神経を研ぎ澄ませてやらなければということなのです。申合をしても本番でその通りに打つとは限らない。父は「曽和さんはいつもそうなんだよ」と笑っていましたが、幸流の若手で、曽和先生のお弟子さんの成田達志さんは「あんな手組、初めて聴きました」とやや興奮気味でした。私はというと、「申合とは違うぞ」と思いながらも、曽和先生が巧みに打ち込まれてくる面白みを味わうことが出来ました。恐いながらも、小鼓との真剣勝負、一調「笠の段」を体験できたことが、一つの勉強になりました。
父は「一調をうまく謡えるようになるのは慣れ。父・益二郎の助吟をよくやらされたから。あれで場に慣れたんだよ」と言います。今回、父との助吟ができ、よい思い出ができました。
異流共演『隅田川』
今回の異流共演はシテが観世流、地謡が喜多流という大変珍しいものになりました。異流共演そのものが珍しいうえに、共演といえば、前シテと後シテとか、シテと重いシテツレということが多いので、今回のような共演は異例中の異例ということになります。
文蔵先生が「菊生さんに是非」と言ってくださり、曲目もこちらに任せるということだったので、父の得意曲である『隅田川』を提案し催す運びとなりました。
『隅田川』は詞章も両派それほど違っていないので、よい選択だったと思います。それでも、喜多流が念仏を五回唱えるところを観世流では三回しか謡わないなど微妙な違いがありますから、申合で調整しなければなりませんでした。シテのクドキの後「さりとては人々。此の土を覆して(かえして)今一度。この世の姿を母に見せさせ給えや」と謡うところは、喜多流では「さりとては人々」とシテが謡い、「この土を」から地謡が謡うことになっていますが、文蔵先生より「さりとてはから地謡で謡ってほしい」と言われ、「えーっ」と驚いた場面もありましたが、あとはさほど問題なく進めることができたと思います。
多少の違いがあっても、地謡が喜多流であれば、我々は喜多流らしく謡うことが肝要だと思うのです。文蔵先生の主張も「喜多流らしさを存分に発揮して謡ってほしい、それに乗せて観世流の主張で舞う」というもので、そこに現れる両派の緊張が演じ手には一番大切だと思います。ですから共演だからといって、相手にべったり合わせるのではなく、そこには両者拮抗した状態を創りあげることが必要になってくるわけです。
とはいえ異なる流儀が共演するには少なからず困難なことがあります。その困難を乗り越えて共演する意義はといえば、それは一つの流儀に閉じこもらず、新しい風を入れることで、新境地を開くことでしょうか。私自身、自分の中に閉じこもって行き詰まってくると他流の舞台を拝見したくなります。異流共演はただ外から見るだけでなく、その懐に入って、同じ舞台を共有することで強烈に感じ取れるものがあります。
今回も、都の女(シテ)が隅田川に着いて、遠くを見やりながら「あれに白き鳥の見えたるは。都にては見慣れぬ鳥なり。あれをば何と申し候ぞ」と謡われたとき、その謡や立ち姿、全体の雰囲気から、ああ、ここは東(あずま)の地なのだ、隅田川が見える、鴎が鳴く声が聞こえると、私には本当にその場の情景が立ち昇ってきたのです。今までそんな風に感じたことはありませんでした。役者の存在そのものがエネルギッシュで私に訴えかけてきて興奮しました。
そして、船に乗る前の動きも両派では異なります。喜多流は持っている笹で地面と思われる舞台をバチーン打ってから願うのですが、観世流は手をさしのべ願いを乞うた後に打つ、さし迫り方の表現も様々です。こういうことが発見できるのも面白いことです。観世流の舞台を観に行くことで、このような発見もできるかもしれませんが、舞台の中で、ほんの二、三メートルの近さで、自分が謡いながらその情景をみることのすごさ、こんな強烈な吸収の仕方は他にはないと思うのです。

また最後、子供の幻が塚の中に消えて、夜がほのぼのと明けてくる場面では、文蔵先生の限りなく強い塚への執着に対して、私は「東雲の空もほのぼのと、明け行けば跡絶えて」と塚から離れ明け行く広大な関東平野の夜明けの空を眺め、その情景の中にこの母親はどうなるのかという風情を感じさせて終わらせたいと思い謡っています。この当たりの事を、観世流の方を初め他の方々の感想もうかがい、お互いの感じ方をつき合わせることができました。よりよいものも多く吸収し、こういう異流共演が出来たことを私は喜んでいます。
今回は父が地頭を仰せつかりながら、本番で声が出なくなり、父を挟んで座った私と能夫で、父の分まで謡おう、観世さんにご迷惑はかけられない、異流共演の責任を全うしようと使命感を持って精一杯謡いました。異流共演は一種の立合、喜多流それも粟谷の地謡を力の限りシテにぶつけ、それでどうなのか答えを出してもらおうと必死でした。父の負を背負ったからこそ、私も能夫も大きな力を持て集中できたといえるかもしれません。
最後にもう一つ。子方の上田顕崇さんが、伸びのあるすばらしいボーイソプラノで立派な子方を演じられ感心しました。観世流では日ごろから子方には高い声で謡う稽古をされているようです。その成果が現れて子方らしくすばらしいと思ったのは私だけではないと思います。このことは、我々喜多流の子方の指導の仕方についてもう一度考え直すべきとの忠告に思えました。これから沢山の子方が育ちはじめますが、今まで通りの地声尊重ではいけないのです。あの舞台に座っていたお父さんたちがそれに早く気付いてくれればと思っています。
父菊生は他流の方々とも友人が多く、流派を越えてよいおつき合いをさせていただいています。私もこのよき伝統を受け継いで、一つの流儀や家に閉じこもることなく、他流の方々からも多くの刺激を受けて精進していきたいと思います。今回の会はその思いを新たにいたしました。
(平成13年12月 記)
写真 舞囃子、猩々乱 粟谷明生
写真 一調、笠の段 粟谷菊生、粟谷明生 曽和博朗
写真 能、隅田川 大槻文蔵 上田顕崇
写真提供 大槻文蔵
写真撮影者 浜口昭幸氏
『富士太鼓』の小書「狂乱之楽」を見直す投稿日:2001-10-14


秋の粟谷能の会(平成十三年十月十四日)で『富士太鼓』「狂乱之楽」を選びましたのは、息子、尚生が子方のできるうちに一度一緒に勤めておきたいという気持ちは言うまでもありませんが、それ以上に、能夫の「狂乱之楽」に対する熱き思いがあったからです。
以前に小書「狂乱之楽」を舞ったが、自分の思いを果たせなかった、それを私に託したい、今回の舞台でこれこそ「狂乱之楽」というものを創り出してほしいという強い働きかけがあったからこそで、私自身の演能意欲も一段とかき立てられました。
子方が出演する曲は子方の登場によって、ほのぼのとした雰囲気が生まれ、心休まるものです。
しかし反面、幼い動きや謡により演能の妨げになる危険も兼ね備えています。この『富士太鼓』も子方がよく演じてくれなければどうにもならないものです。
とりわけ最初のシテとの連吟が重要で、ここはシテと子方がよくはもり、音をきちんとそろえないと聞き苦しいものになり、『富士太鼓』という曲の扉が開きません。
子方は精一杯高い調子で大きな声を出して謡うことが肝要で、シテはその調子に添って、しかも味わいのある謡を、というのが心得です。
今回は尚生が一生懸命勤めてくれたお陰で私の演能がいかに助けられたかは、ご覧になられた方にはご承知いただけたと思います。
この曲に使用する面は中年の女性ということで「曲見」(しゃくみ)をかけることになっています。
我が家の伝書では、「深井」は上掛りの面也、下掛にては用いず、然れども、曲見にては楽の拍子に似合わず、依って「深井」とあります。
今回は粟谷家の「深井」よりもう少し若い「浅井」を選んでみました。
では今回の眼目である「狂乱之楽」とはどういうものか…。
これは、住吉の楽人・富士の妻が、宮中の管絃の催しに志願して都に上った夫が、天王寺の楽人・浅間に殺されたことを知り、狂乱して舞う楽の部分に特別演出を試みるものです。
「狂乱する」とは、能では、苦しみや悲しみで気が狂うほどに我を失ってさまよう様を表し、非常に高揚し激していくテンションの高い部分と、逆にボーッとして何も考えていないような部分との温度差が大きい状態を言うのだと聞かされています。
ここでは楽の途中で、シテが橋掛りに行き、クツログ型を入れ、舞の緩急も常とは違ったものにします。
「狂乱之楽」は、笛が森田流、小鼓が幸流、大鼓が葛野(かどの)流の三流がそろったときが本流であると能夫は教えてくれました。
笛が楽を吹き出すと、大小の鼓は、序の舞の序の部分の手配りで囃します。
この拍子に合わない、ある種ねじれのような手配りが心の高揚を表し、非常に面白い演出となります。この手配りがうまく重なり合うのが、幸流と葛野流という組み合わせなのです。能夫が「狂乱之楽」を試みたときは、大鼓が高安流であったため、この部分が実現出来ず悔いが残ったといいます。
そこで、今回はこの幸流 葛野流をそろえた「狂乱之楽」をと考えました。笛は敢えて私の信頼する一噌流の名手、一噌仙幸氏にお願い致しました。
一噌流は、先代の家元・実先生のときに申合ができ、藤田大五郎先生が「狂乱之楽」用に譜を作られており、遜色なくできるという思いがありました。
小鼓の幸流と大鼓の葛野流は若手で固めてと、小鼓は広島から横山幸彦氏をお呼びし、大鼓は若手のホープ亀井広忠氏にお願い致しました。
では、「狂乱之楽」をどう演出するかですが、伝書には、ただ「全体ニ静、橋掛ニクツロギ、太鼓ヲ見込ミ、後ハ位ススム」と書いてあるだけで、何の面白味も感じられません。
クツロギとは、言葉通り大昔ではゆっくりくつろいで、演者が幕の内に入りお茶を飲んだことさえあったようですが、今はもちろんそんなことはなく、クツロギという少し休止する型を入れて、思いを込めるという意味合いになります。
そこで、思いを込めるためにも、富士の妻の狂乱はどういうものかを考えなければなりません。妻は物着(舞台上で装束を替える)で、夫・富士の楽人の装束を身にまとい、鳥兜をかぶるだけで気持ちが高揚し、太鼓を敵(かたき)として打とうとします。それを娘が、あれは敵ではない、乱心ではないかと、母を制しますが、母は高ぶった声で、あの太鼓があるために夫は殺されたので、あの太鼓こそ夫を奪った敵と言って、一緒に太鼓を打って怨みを晴らそうと促します。娘も同感し、母娘は「打てや打てやと攻鼓」と太鼓を打ち続けるのです。
そうして打っていると、ふと、無念の死で成仏できずにいる富士の霊が現れ、妻のからだを借りて怨みを表白する移り舞となります。
ですから「狂乱之楽」の場面では、あるときは妻自身の狂乱であり、あるときは富士の霊の狂乱となるわけです。
最初、妻の気持ちが現れているところでは、ボーッとした感じで、ややゆっくりした動き、妻自らの葛藤した思いを表します。舞の途中から富士の霊の力が強くなると、怨みを前面に出したように激しく動き、またしばらくすると、自分自身に戻り、再び穏やかな動きになります。ときには、敵のはずの太鼓が亡き夫・富士のようにも見えてきて、なつかしく、ふと触れてみたいような衝動にかられるのではないでしょうか。
こんなややねじれた狂乱は、通常の型付では、なかなか表現できるものではありません。
今回は、妻と富士の怨みが入り乱れる様を表し、一方で妻が夫をいとおしむ所作も入れてみたいと考え、友枝昭世師や能夫とも相談して、太鼓に触れる新しい型を創作してみました。楽という抽象的な舞の中にやや写実的な、舞自体に意味を持たせるような、ドラマチックな演出があってもよいのではないかと思ったのです。
私はシテを演じていて、この富士の妻というのはとてもできた女性だと感じました。最初に夫の富士が管絃の催しに出るために都に上ると言ったとき、管絃に出られるのは直命が下った楽人だけである、富士はそれがないのだから行くべきでないと諭すなど、精神的にしっかりした方だという印象です。
そういう人でも狂乱してしまう、その辺を加味しながら演じなければと思いました。
このような「狂乱之楽」への思いを囃子方にもお伝えし、単に緩急をつけるにとどまらず、かけ声による演出効果も工夫していただき、妻自身の狂乱と富士の霊が取りついたときの狂乱の微妙な色合いをつけていただきました。
狂乱之楽が終わると、シテは「持ちたる撥をば剣と定め」と謡い舞った後に、怨みも少し晴れたのか、娘を伴って、郷里へと帰っていきます。この終盤の場面で、シテは「修羅の太鼓は打ち止みぬ・・・千秋楽を打たうよ」「泰平楽を打たうよ」と謡い、急に煩悩の雲が晴れ、明るいイメージになります。
お能はもともと祝祭的な芸能でもあったことから、こういう最後になる場合はありますが、ここでは、ただ泰平楽を謡うにとどまらず、あくまでもこの曲の主張となる、二人の親子の残像を演じ出さなくてはならないと思います。
最後に、夫の装束や鳥兜を脱ぎ捨て、最初にかぶっていた笠をかざして、「太鼓こそ思へば夫の形見なれど見置きてぞ帰りける」という地謡の謡で、シテは太鼓をじっと見込み、留拍子を踏みます。
そのとき、その後姿に、果たしてこの母娘の行く末は一体どうなるのだろうかというメッセージが見えないといけない、そうでなければ現在物『富士太鼓』が演じられたとはいえないだろう、などと考えて勤めました。
「狂乱之楽」という小書は、先代の実先生が先代宗家金剛厳氏との間で、この小書と金剛流の『殺生石』(女体)とを両派で共有すると約束され、現在この二流にしかないものです。
喜多流では『殺生石』(女体)は面白い小書として、頻繁に演能していますが、金剛流での「狂乱之楽」はあまり演じられていないようです。
伝書通り、「楽にクツロギが入る」だけでは面白味も無く、興味も湧かないのでしょう。
この小書が精彩を放つ演出法をみつけだし、必然性のある納得出来る小書きに再生しようと能夫も私も挑んだのです。
今回のように「狂乱之楽」の見直しができたのは、私自身が冒険のできる年齢であり、周りの温かい環境も含め、友枝昭世師や能夫のようなよき理解者がいたお陰と深く感謝しています。
能夫より託されたことができたかは不安もあり、改善の余地も多いと思います。
しかし、従来の伝承、伝書通りとその上に胡座をかき、曲、小書本来の持つ主張を見いださなくては、演者の怠慢と言われても返す言葉もありません。
これからも曲の主張を深く読みとり自分にしかできない演能の世界を創り上げていきたいと思っています。

思い起こせば四十年前、父・菊生が広島の粟谷益二郎七回忌追善能で「狂乱之楽」を勤めたときは、私が子方でした。
小鼓は横山幸彦氏のお父様の貴俊氏、大鼓が亀井広忠氏のお祖父様の俊雄先生、ちょうど今回のメンバーの一世代前の顔ぶれでした。役者があまりにもピッタリはまって驚くと共に、一つの舞台がここに伝承されたのではと感慨深いものがありました。
平成十三年十月
富士太鼓 粟谷明生、粟谷尚生 撮影 石田 裕
橋掛かり 撮影 あびこ
モノクロ 撮影 吉越 研
富士太鼓 粟谷菊生 粟谷明生 撮影 不明
『石橋』の連獅子を舞う投稿日:2001-10-14

今年の秋の粟谷能の会(平成13年10月14日)では三番目の舞台『石橋』連獅子を、シテ親獅子・粟谷能夫、ツレ子獅子・粟谷明生で勤めました。

私が子獅子を勤めるのは、これで7回目となります。最初は、『道成寺』披きの後、34歳のときで、シテの親獅子は父・菊生でした。そのあとの3回は友枝昭世氏と、その後2回は能夫と勤めまして、今回が7回目となります。
父と勤めた披きのときは半能(前場を省略する)で、ワキの名のりの後、いきなり後場の獅子舞から演じるものでした。舞は、当時一般的に行われていた新しい型。これは、先代の喜多実先生が香川靖嗣氏に連獅子を披かせるときに一緒に舞われるために、やや型を少なくして創られたものです。それ以来その型で演じることが多くなり、私も新しい型で披きました。友枝昭世氏とは、東京駅の駅コンでの公演をはじめに笛の中谷明氏の明音会、青森能での公演の3回。この明音会(平成4年)のときから友枝昭世氏が従来の型に戻そうということで、以後は喜多流本来の型に戻り、実先生が考案された省略型は演じられなくなりました。
能夫とはすでに2回勤めています。昨年の秋田の協和町まほろば唐松能では、私の不注意で胃の中にアニサキスという虫が入ってしまい、大変体調が悪く、無事勤めましたが、自分自身不本意に思っていました。そのとき能夫が、私をいたわるように「今度、連獅子のやり直しをしよう」と言ってくれて、今回は私にとって、そのやり直しの気持ちの舞台ということだったのです。
これまで私が勤めてきた子獅子は、父と勤めた披きの舞台からすべて後場だけ演じる半能でした。今回は、前場もある正式な能で勤めるという、能夫の強い思いがあり、70回記念の粟谷能の会で実現することとなりました。今回は仙人が三人も登場する替えアイの特別演出を野村与十郎氏にお願いしました。中入り後、シテが装束の準備をしている間
に、三人の仙人が酒を酌み交わし、石橋のありさまや獅子の登場を予感させる語りの場面は、一人で語る通常のアイより楽しめるものと、シテが依頼したものです。
前場ではクセが謡の重い習とされています。力を込め大きなスケールでまさに唸るようにと父は言います。居グセのため、シテはじっと動かず、地謡が謡う、幅は一尺もなく、長さは三丈、谷をのぞめば千丈あまりという石橋のすさまじさ、そして、石橋の向こうにある文殊菩薩の住む浄土の美しさに耳を傾けながら、心の中にて共に謡うという、静の能です。観る方にとっては、いつ獅子が出てくるのか、待ち遠しい思いで、じりじりとしてくるところでしょう。中入りした後も、仙人が長閑に謡いながら出てきますから、ここでも焦れて焦れて、まだなのかと獅子の登場を待ちます。この焦れがあるからこそ、後場の獅子の舞の豪快な動きに心踊らせるのではないでしょうか。
出の、激しい乱序の囃子で、半幕にて姿を見せる親獅子。幕が上がりどっしりとした運びで一の松にて石橋を見込み、さあ来いとばかり子獅子に合図を送ると、それを受けて子獅子は激しく軽やかに飛びはねシテについて舞台に入り、獅子舞の相舞となります。獅子とは文殊菩薩に仕える霊獣です。牡丹で飾られた2台の一畳台を所狭しと躍動し、飛び乗り飛び降り、息もつかせぬ動きで舞い遊びます。親獅子はゆっくり、ゆったりとしながらも力強い動き、子獅子は面も激しく振り、機敏に軽やかに子供のように飛びはね、すべてが敏捷に強く、そして子獅子らしくかわいらしさもあるというのが、父や先人たちからの心得として教えられてきました。前場と後場、鮮烈な静と動の対照。この対こそ能『石橋』の望ましい形であり真髄ではないでしょうか。
ツレの面は通常は子獅子口やシカミを使用します。私の披きのときは、銕仙会から「青鬼」という面を拝借しました。父は気持ちの悪い顔だと不満げでしたが、私は、青二才ならぬ、金泥に成長する前の段階として青い顔でもよいのではないかと思って、その恐ろしくパワフルな青鬼を使わせていただきました。拝借するときに観世暁夫氏は「我が家では青鬼は親獅子に使います」と仰っしゃられ、私自身も果たして赤頭に似合うか心配でしたが、つけてみるとよく似合い満足できました。後日『谷行』の鬼神役に梅若六郎氏が赤頭に青鬼をつけられたのを拝見し、おかしな選択ではなかったと安心したのを思い出します。
それ以後の公演は、粟谷家にある子獅子の面を使ってきました。この子獅子は残念ながらやや迫力に欠けるもので、私としては晴れの70回記念の粟谷能の会、能夫との『石橋』で、前回の不本意な舞台を一掃する気持ちも込めて勤めるとき、何か強い面をと思っていました。そんなとき、能夫より「実は良い獅子がある、ただ金泥なんだ。今回は披きではないからいいだろう…」と言われました。子獅子の顔は肉色(にくしき)といって、本来肌色で金泥は使わぬのが決まりなのです。親獅子は本家のお弟子所蔵の面を拝借し、久々の金泥獅子口の親子の再会となったわけです。
『石橋』は他流に比べ、喜多流では特に重い大曲とされています。それは獅子を重く大事に扱うということと共に、喜多流独特の赤い巻毛をつけた一人獅子が特別に重い扱いになっている所以だと思います。しかし、私は獅子に勿体をつけて、なかなか演じられない現状は不健全だとかねがね思っていました。連獅子のツレは20代の身体がきれる時期にやるべきです。ただ動きが活発なだけ、まるで運動会のようだ、能の演技とはいえないなどと言われても構わず、まず披きで一度猛烈に動くという体験をして、その経験を次につなげ、30代、40代と年齢を重ねながら、動きの妙味を覚えて円熟していき、子獅子を完成させていけばよいのです。そうしてゆくことで次の段階、目標の親獅子というものが見えくるのだと思います。そして、親獅子も同じように早め早めにと挑み、白い親獅子を作り上げていくべきと思うのです。そのためにも若い人たちに、早く挑んでほしいのです。私たちの諸先輩はみな、20代、24、25歳でお披きをしています。私が子獅子を披いたのが34歳ですから、これさえ遅いぐらいだったのです。
今回はとりわけ、二人で頑張って九段の舞(通常『石橋』は八段、『望月』は七段)でやろうと決め勤めました。激しい動きの子獅子を、歯切れよく舞いながらも、一回転半の飛び廻りに恐怖感を抱くようになりました。私も40代半ばを過ぎ、そろそろ自分の髪の毛に白いものも混じってまいりました。それにふさわしく次の目標、白獅子にシフトしていきたいと思います。
「早く来たれよ、若き獅子たち」と、思うこのごろです。
(平成13年10月 記)
石橋 披き 粟谷明生 撮影 あびこ写真
石橋 青森公演 友枝昭世 粟谷明生撮影 撮影 不明
石橋 まほろば公演 粟谷能夫 粟谷明生 撮影 東條 睦
面 獅子口 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
石橋 ツレ 粟谷明生 撮影 伊藤 英孝
千秋公園の蓮と、中世の館「唐松城」能楽殿投稿日:2001-09-15

2001年9月2日に秋田県協和町まほろば唐松城能楽殿にて、喜多流の公演がありました。番組は能『枕慈童』(シテは友枝昭世氏)、能『葵上』(シテは粟谷能夫氏)、狂言『萩大名』(大名は野村万作氏)です。
私は前日の夕刻に秋田入りし。ホテルに向かう途中、千秋公園の綺麗な蓮の群れが目に止まり、思わずシャッターを押しました。しかし暗くて思うような撮影が出来ず、翌朝改めて撮影に出かけました。
能と蓮の関係で思い起こされるのが『羽衣』です。喜多流では『羽衣』に小書きが付くと、牡丹の花を頭につけますが、これは多分伝承の間違いで、本来は蓮だと思われます。他流に蓮をいただくところもありますし、宗教的な意味合いからも蓮の方が似合うような気がします。最近、私は意識して白蓮をつけていますが、平成5年のまほろば公演の『羽衣』舞込(菊生の代演)では、従来の牡丹をつけて勤めています。(次の写真)。それから『当麻』『誓願寺』なども蓮が似合う曲目だと思います。

平成5年 『羽衣』舞込 粟谷明生

翌朝撮影の蓮


中正面より舞台

中世の館、まほろぼ唐松、唐松城能楽殿の遠景です。
この能楽殿は平成2年に完成し、私はここで『羽衣』『鬼界島』『石橋』連獅子を勤めてきました。

正面入り口より

切戸口より舞台

後見座より地謡裏。風通しが良く開放感のある景色がたまらなく気持ちが良い…

三の松より正面席

舞台裏

切戸口への廊下
『海人』の後場の存在価値投稿日:2001-06-23

粟谷 明生

喜多流に、私の年齢層が少ないこともあって、私は数多くの子方を勤めてきました。子方のときは、謡の言葉の意味などわかるはずもなく、ただ言われるままに鸚鵡返しに謡を覚え、自分の役割を忠実にこなしていたわけですが、それでも、舞台の一角にいて、先人たちの能をじっと見て、幼いながらも感じることはたくさんありました。
今回の研究公演(平成13年6月23日)で『海人』を勤めるに当たって、私自身が子方の房前の大臣としてシテを見つめていたときの子方の視点が曲づくりの出発点となりました。「メイロコンコントシテ、ワレヲトムロウオヒトナシ・・・・ゲニソレヨリハジウサアネン」と意味も解らず唱えていたときの子方の視点、シテの母親の感情、大臣淡海公と契りを結んだ海女少女(あまおとめ)像を考える前に、子方が母親をどう見ていたかを考慮してみたいと思ったのです。
子方はワキ、ワキ連を引き連れて登場すると、自らを房前の大臣と名乗り、亡くなったと聞かされている母の追善に讃州志度の浦に来たと述べます。そこへ一人の海女が現れ、ワキとの問答となり、海女が昔語りに大臣淡海公が志度の浦に下り、卑しき海女少女と契り、御子をもうけ、それが房前の大臣であると述べると、子方は「われこそ房前の大臣である、あら懐しい海女よ もっと詳しく語りなさい」と、母親と自分を結ぶ手がかりに喜び、自らを名乗って、自分は大臣の子と生まれ今は恵まれているが、気にかかることは「自分が生き残っても母を知らない」と涙します。母親が卑しい海女と知り、今は亡き母と側近から聞かせれているが、「いやもしかするとまだ生きているかもしれない」と願う一途な子の気持ち。シテはこれを受け止める側として十分な意識を持っていなくてはならないと、演技法が少しずつ見え始めてきました。
まず面に関してです。通常、後シテの面は「橋姫」か「泥眼」です。いずれも恐い顔で、とりわけ「橋姫」は『鉄輪』にも使われるように角はないが、怒り狂った鬼女なわけでたいへん恐ろしい顔つきですし、「泥眼」は眼光鋭く、嫉妬や怒りをたたえた『葵上』の六条御息所のイメージが相当強く、慈母の愛などを感じることは難しいものです。「龍女」という特殊な面もあるようですが、これも私の今のイメージには合いません。私が子方として、「どんなお母さんが出てくるのかな」と思いをふくらませているときに「橋姫」や「泥眼」では似合わず、子供心に「なんでこうなっちゃうのかな。こんな気持ち悪い顔がおかあさんじゃ、いやだよ」と思っていたものです。

そこで今回は、後シテの海女・母親像を考え直してみました。房前の大臣の供養により、龍女として成仏した海女。龍女ですから着付けは鱗模様の箔を、頭には女龍を戴きます。(喜多流には今まで女龍がなかったため、男龍に蔓帯をつけて牝であることを表していましたが、今回はやや細身の女龍を 大分の準職分、渡辺康喜氏に作って戴きました。)
からだ全体は龍を思わせますが、面はやはり、珠を取り戻すために海中に潜っていった若い海女少女の母の顔であり、悪魚と戦い死んでいくときの苦悩がにじみでてくる人間味ある顔でありたいと思いました。
淡海公と契りを結び、身籠り、房前の大臣を産んだすぐ後に、珠を取り戻してほしいといわれる少女、しかしこの少女はもう少女ではなく一児の母なのです、我が子の為なら命は露程も惜しくないと言いきれる無限の愛情を持つ母です。この子を世継ぎにするならと身分不相応の交換条件を提示したのは、賎の女では終わらない女の意地もあるかもしれませんが、我が子かわいさ,母親の情以外の何ものでもないわけです。海中深く、命がけの珠取りの行為、それは二度と戻れぬ死への旅路、その思いはどんなものだったでしょう‥‥。珠を目前にして、海上にわが子、父大臣も待っている、しかし自分の命と引き替えにしなければ珠を取り戻すことはできない、決死の覚悟をして手を合わせ、乳の下をかき切って珠を押し込めたときの、若き母親の苦悩が後シテの面に出てこなければ私は納得できないのです。龍女成仏はしていますが、成仏したことへの喜びだけではない表情が必要で、「泥眼」などが使われた経緯も、それゆえだと思うのですが。

今回は、『玉葛』(平成13年2月)でかけた「玉葛女」を使ってみました。眉間に皺を寄せ苦悩を表す増寸髪系の面です。『玉葛』を演じるとき、小面では玉葛の苦悩が表現できないだろうと使ったのですが、玉葛にはもう少し美しいイメージがかもしだされないといけないようで、もっとこの「玉葛女」の面が生きる場面はないものかと思いあぐねていました。今回は試験的にかけてみましたが、観る人にはどのように映ったでしょうか。
そして、子方のときあっけない幕切れだと感じていた後半の演出にさまざまな工夫を凝らしてみました。よく『海人』は前場が勝負で後場は付け足しのようなもの、なくてもよいぐらいの言われ方をしますが、私はこれには異を唱えたいと思います。流儀内には、前場さえうまく謡い、舞えばよい『海人』になるという傾向、偏見があり、これは我々演者が知らず知らずに陥りやすい落とし穴です。作品の主旨を見失い、各部分の積み重ね、例えば『海人』の場合、一声を謡い、ワキとの問答常の如し、居クセアシライ常の如し、仕舞所玉の段、経を子方に渡し中入、後シテ舞囃子の通り最後にトメ拍子と、これでどうにか対応してしまおうと思ってしまうのです。私も以前は、能を演ずるとき、先輩より拝借した型付けをただ自分の謡本に写し、ここで立つ、右に回るそしてシカケヒラキ、あとは囃子型付け通りと、演能を軽く安易に考えていました。、また不思議にそれでもある程度はできてしまうところがあります。しかしこれでは、自分の一生の仕事たる能、情熱を傾ける能にならない、それより第一、観客にお見せする能にはならないと、今では思っています。

確かに前半は「玉取りの段」があり、子供のために、珠を取りに海中深く潜り、乳の下をかき切って珠を隠し、息も絶え絶えに、海上に浮かび出てくる仕方話は迫力があり圧巻です。ここに力を入れなければならないのは当然のことです。しかし、勇ましく海女の手柄話をし、子供は立派に大臣になったけれども、親になった早々、子供と死別させられて悲しいと消えていく前半だけでは、やはり優れた作品とはいえず、観る側に物足りなさ、ストレスがたまるでしょう。世阿弥もそう考え後半を付け加わえねばならなっかたはずです、その意味をくみ、私は私なりの工夫で『海人』を作りあげたかったのです。
能の構成が序破急という導入、展開、解決から成り立っているのに、急すなわち解決なくしてはおさまりが悪いです。能の最後は、余韻を残す幕切れであっても、切れ味が良い終わり方、これは演者の力量によるものですが、これが巧くできなければ作品全体の味わい、充実感が与えられるものではないと思うのです。
『海人』の後場は大変短いものですが、後場があって、充実してこそ、一曲として成立するのです。海女の霊が母として、龍女として、歓喜、報謝の舞を舞うところまで、充実感あふれる演出が必要です。立派になった子供に会えた喜び、前半に通い合った親子の情が後半も又くっきりと現れていなければいけないと思います。讃州志度寺縁起物語であるとだけで終わったのでは、作品の本筋からは外れてしまうのではないでしょうか。
そこで、後シテの登場の「出端」(大小太鼓で囃子、笛があしらう)では二段返(にだんがえし)という小書付の演出にしてみました。二段返は、出端を通常二段構成の寸法のものに打ち返す、つまり一段追加して三段にする演出です。この演出は、喜多流では昭和61年に粟谷新太郎が東京式能で金春惣右衛門氏、穂高光晴氏、柿原崇志氏、松田弘之氏で勤めた記録が最も新しくそれ以来となります。
この二段返しは素晴らしく、私の二段返しの構想に大きな力となりました。
二段返しを取り組むに当たり、金春惣右衛門先生や観世流の助川治氏にお教えをいただきました。金春先生にお尋ねしたら「観世寿夫さんとお相手した時は、シテは幕の中で床几に腰掛けていたね。本来は二段目で幕から出て、三の松まで出るんだよ、金春流の主張は上手が集まったときに、囃子方の技を見せるもの」と教えていただきました。助川氏からは「観世流は木魚をたたくような、管絃講の読経をイメージしてと元信先生から教えていただいています。ですから荘重に厳粛に打ち、クツロギはせぬが主張です」と教えていただきました。
このように観世流と金春流での二段返の考え方の違いが解ったのは大きな収穫でした。私は今回、金春先生の「三の松まで出る」を試み、観世流の仏教音楽を奏でるイメージを合わせて演出してみました。
また「出端」の前に、子方の言葉を受けて地謡が「いざ弔はん」と待謡がありますが、ここを今回はワキ方に謡ってもらいました。太鼓の観世元伯さんが、「この出端を打つときが難しい。お弔いの出端なのであまり騒がしく打ってもいけないと思うけれど、五流とも、その前に地謡が大合唱しているので抵抗がある」と言ってくれたのがヒントになり、ワキ方で謡ってもらうのはどうかと宝生閑氏に相談したところ、本来、ワキ方の謡本ではワキが謡うことになっているというので問題無しとすんなりとできました。
そして盤渉早舞(ばんしきはやまい)ですが、今回は「経懐中之舞(きょう、かいちゅう、の、まい)」の小書でいたしました。常は早舞の前に経巻を子方に渡すのですが、経懐中之舞は経巻を胸に懐中して早舞を舞います。大事な経巻を身体に温めその温もりを我が子に渡すとも、また経巻の力により舞い動ける母の霊、手放すときが我が子との別れのしるしともとれる、この演出。そしてクライマックス、舞の最後に子方に経巻を渡し「今この経の、徳用にて」と謡い、子方は高々と経巻を持ち上げる自然で説得力があるこの小書が私は好きです。
これらの演出を通して、後半を充実させ、『海人』という一曲を完結させていく、決して、多くの人が言うところの、前半だけが華ではない、後半の存在価値を見直したところに今回の研究公演の意味があったのではないかと思っています。
(平成13年6月 記)
写真撮影
カラー海人 石田裕氏
モノクロ海人 伊藤英孝氏
中啓 玉葛女 紋大口 粟谷明生
『経政』「烏手」を演じて投稿日:2001-03-01

3月の粟谷能の会は、粟谷新太郎三回忌追善能という事で、私は初番に『経政』「烏手」(からすで)を勤めました。
『経政』は、所演時間45分程の小品であるため、少年の初シテや素人弟子の初能に選ばれたり、曲目編成で重い曲が重なるときに、そのバランスをとるために配されたりすることがあり、今回もその例にもれず、能夫の大曲『三輪』、父菊生の『鞍馬天狗』「白頭」へと続くことから、初番は軽く、追善能にふさわしい曲ということで選びました。

『経政』は小品とはいいながら、詩情豊かで香り高い曲趣の中に、適度な緩急があり、舞っていても楽しく面白い作品です。修羅能ですが戦闘場面はなく、わずかに修羅の苦患を表現するのみで、全体としては琵琶の妙音に導かれながら、芸術魂をふるわすような趣向で、修羅能としては他にあまり類のない曲です。
平経政(観世流は経正)は、平清盛の弟、経盛の長男で、幼少のころより仁和寺の稚児として、鳥羽院第五皇子の覚性法親王と次の代の後白河院第四皇子の守覚法親王などに仕え、寵愛を受けていました。そのころより琵琶の名手と言われ、帝より琵琶の銘器青山(せいざん)を預け置かれるほどでした。それが都落ちの際、自らの運命を見定めた経政は、大切な琵琶を返上しに守覚法親王の許を訪ねます。そのときの様子は平家物語にくわしく語られていますが、親王と経政がかわす和歌や、仁和寺の僧・行慶(能ではワキ)とかわした和歌に、切々たる惜別の情があふれ、貴公子経政の人となりが感じさせられます。
能『経政』は平家物語とは場面をガラリと変え、物語は一の谷の合戦で果てた経政の霊を弔おうと、仁和寺で青山を出して管絃講(音楽による弔い)を催そうというところから始まります。
執り行うのは、和歌をかわして別れを惜しんだ僧・行慶。一般の能では一見の旅の僧が幽霊に出会い、回向を頼まれて弔うというものですが、ここではシテとワキが生前の親しい関係という形になっています。消え消えに、有るか無きかの様子で恥じ入りながら現れたシテ経政と、それを受け止めるワキ行慶。やがて夜更けて、花鳥風月、詩歌管絃を楽しんだころを懐かしみ、琵琶をかき鳴らして、夜遊の舞を披露します。突然、修羅の苦患に襲われますが、修羅道に落ちた自分の姿を人には見られたくない、恥ずかしいと言って「燈火を消し給え」と訴えます。最後は経政自ら燈火を吹き消し、修羅のまま消えていくのですから、成仏というより、暗闇の中に芸術を愛した自らの美意識 をひた隠しにする貴公子像を表現しているようです。
経政が琵琶の名手なら、弟の敦盛は笛の名手、父経盛も琵琶をよくし、経政の家はまさに音楽ファミリーでした。戦乱の時代の音楽家は美しくも悲劇的であったことは容易に想像できます。
能『経政』は、詩歌管絃に親しんでいた幼少のころの楽しさ、優雅さ、そして修羅の苦患を恥じらう繊細さを緩急つけて表現し、さわやかな小品として仕上げなければならないと思います。
『経政』は少年の演能によく選ばれると述べましたが、私自身も10代で初演して、近年2度ほど勤めました。今回勤めるに当たり、小書「烏手」というものに携わりたく取り組むことにしました。
「烏手」は喜多流と笛の森田流の間でしかない小書で、管絃講に惹かれ登場するシテが特に琵琶の音色に聞き入るという演出です。「烏手」は琵琶の演奏方法の一つだそうで、琵琶の音を笛に託すということです。もちろん笛の音が琵琶の音に聞こえるわけではありませんが、一曲の能の中で一管の音色の面白さを楽しむという稀な演出で笛方の重い習の演出方法だといえます。過去の記録では祖父粟谷益二郎が大正7年に演じているようです。
シテは琵琶の音(実際には笛の音色)を舞台にて下居て聞く型を演じ、独奏が終わると「あら面白の琵琶の音や」と心持ちを大事に謡います。シテは、管絃講の数ある楽器の中から、自分が親しんでいた、最も執心のある琵琶の音を聞き分け、右から聞こえてくるのか左からかと探っている風情の動きをします。
観世流は、この「あら面白の琵琶の音や」という詞章がなく、いきなり「風枯木を吹けば・・」と謡います。「あら面白の・・」の詞章がないことが、他の流派に笛の音を楽しむ「烏手」の小書がないゆえんなのでしょう。喜多流の「烏手」では「風枯木を・・」から「妄執の縁こそはかなけれ」までを省略し、笛の音に耳を傾ける型に思いを込め一つの見せ場としています。
能の世界では『絃上』や『蝉丸』など、琵琶の音を笛一管で奏で、そのイメージを表現するという手法があります。「烏手」「音取」のような小書では、笛がいかにその演出意図に合った演奏をするかがカギになり、同時にその吹き手の独奏自体を味わう事も大きな要素となります。
半年前、松田弘之さんが師である田中一次先生の「烏手」のテープを持ってこられ、「このように吹ければ…」といわれ、私に聞かせてくれました。その「烏手」は、すばらしく特にその音色に魅了され感動しました。松田さんとは、私の動きと吹き込むタイミングを繰り返し申合せしながらも、最後はお互いにあまり気にせず自己表現しあおうと決め舞台に臨みました。そして彼の力演で、「烏手」という今まであまり見向きもされなかった喜多流にしかないこの小書きが、あらたに息を吹き返したように思えたのは私だけではなかったと思います。
「烏手」になると常は「十六」と決まっている面を「中将」に替え、年齢も位も少し上がることになります。経政が一の谷の合戦で亡くなったのは二十歳か二十一歳ですから中将にすると死んだ時のお姿ということになるでしょう。しかし能『経政』に登場する経政は、仁和寺で詩歌管絃に親しんでいた平和で幸せな時期でのお話です。
我が家の伝書にも「中将」と記されているのですが、私はどうしても曲の文意から「十六」からあまり離れたくない思いがあります。例えば梅若六郎家が所有されている、「十六中将」のような両者の中間にあるような面はないかと思っていましたところ、面打ち師石原良子氏とのお話の折り、「十六」と「中将」の間にあるという面を拝見し、今回は敢えて「中将」に拘らず拝借することにしました。
装束は伝書には白地厚板唐織、紫長絹それに萌黄大口袴と華やかなものに定められているようですが、残念ながら我が家ではなかなかそこまで揃いません。そこで観世暁夫さんにお願いし、銕仙会から拝借することができたことは嬉しく、暁夫さんには感謝しています。昨年銕仙会の夏の虫干の場に伺って装束を拝見させていただいたときに、紋大口袴がずらりと並んである中に紫と萌黄の紋大口袴が目にとまり、気に入ってしまいました。
是非『経政』「烏手」の時に拝借したいと、烏手や我が家の装束の内情などの話をして拝借させていただくことになりました。拝借に伺うときまで、萌黄色か紫色かで迷っていると、「うちの父はこの組合わせで清経の音取をいたしました」と、紫大口袴と白地の銕仙の花模様の厚板唐織、花色の長絹を見せてくださいました。もうその一言ですんなり決まりました。何しろ観世銕之亟先生と同じ扮装がつけられる事はこの上ない幸せですから。
今回も他流の人とお話をさせていただくことで、いろいろな面で得ることが多く、自分自身の意識を高めることにもなり、大変貴重な経験が出来たと思っています。喜多流の特徴を基盤にしながらも、決してその殻に閉じこもることなく、より広く、深い意識を持続したいと考えています。

『経政』の詞章の中に「情(こころ)声に発す、声文(あや)を成す事も」という言葉があります。喜多流の謡に関する伝書に、九代目七太夫・古能・健忘斉が書いた「悪魔払」という本があります。ここにも「情声に発す、声文に成す事」という一文があり、声に文があるように心がけて謡えと教えています。しかし未熟者がいたずらに文をつけると、文が嫌味に聞こえてよくないとも書かれています。「文を成す」という短い言葉の中の深い意味。この一文はいつも私自身の課題を指摘してくれるように思えるのです。
今回も、内向した中でどれほど外への訴え掛けが出来るか、その具合、程度の微妙と声そのものの質、張り、位と悩む中でこの言葉が浮かんできました。ただ謡らしき声を出し、節さえ正しく謡えば良いというにとどまらず、真実味のある演劇として、訴え掛けの強い謡を保つのはやはり難しいことです。自分の謡をもっとレベルアップしていきたいとあれこれ悩むときに、この言葉が脳裏をよぎります。
小品といわれるこの曲も、掘り出せば、まだまだ掘り尽くせないものがあります。それが古典としての存在する所以でしょう。
今回「烏手」を通して、いくらか掘り進んだとは思うものの、能の奥深さ、無尽蔵な宝の山は、掘れども掘れども、なかなかその正体を明かしてくれません。だからこそ掘り甲斐があるのだと思うのです。
(平成13年3月 記)
写真撮影 経政 東條 睦
石原良子打 創作面・仁和寺本堂 粟谷明生
一期一会の舞台となった『鞍馬天狗』白頭投稿日:2001-03-01

粟谷 明生 春の粟谷能の会(3月4日)のトメ(一日の最後の曲目)『鞍馬天狗』白頭は、父菊生が左足の不自由を押しながらも重厚な山伏、大天狗姿を見せてくれ、息子尚生も子方(沙那王)として、祖父の力演に元気に応じ、緊張感のあるよい舞台になったのでは…と思っています。
シテが菊生78歳、子方が尚生10歳、地頭が能夫51歳、後見の私が45歳、この4人が四角形のやぐらのようにガップリ組んでできたことが、私達のこの上ない喜びです。
子方は、幼稚園から小学1~2年生頃迄がまだ身体も小さく、舞台に立つと本当に幼気でかわいらしく、よい時期なのですが、反面身体の小ささの為か、喉はまだ完全に出来上がってなく、体力も充分とはいえないので、声の調子や張りにやや不足するところがあるのは仕方がありません。
尚生は小学4年生、子方として今が一番充実しているときです。大きな張りのある高い声でその充実期を通過することは貴重で不可欠なことですが、それは夏鳴く蝉の様にその命は短いものです。あと何年かで、子方独特の高い澄んだ声が出なくなるのは間違いなく、身体の成長と共に表舞台からは遠のく時期が来るのです。
父もまたこれから傘寿を迎えますが、今回ほどの底力ある演技がどのくらい続いてくれるか‥‥、そう考えると、今回の舞台はまさに一期一会、舞台役者の花を見るようで、感慨深いものがありました。
『鞍馬天狗』のシテと子方は親子より、祖父と孫の関係ぐらいの方が、案外冷静にことを運べるようです。後方の後見座から二人を見ていると、役としての距離をおきながらも決して遊離するでもなく、互いの間にしっかりとした緊張の糸を張っているようで、能『鞍馬天狗』を演じる空気が漂っていると感じました。ご覧頂いた皆様にも十分に楽しめる舞台になっていたものと確信しています。
同じ舞台にいて、父の長刀の使い方や謡の間の取り方などを目の当たりにすると、やはり貫禄があり勉強になります、私自身いつか真似して、盗んでみせると思う一方で、尚生も本物にふれ、舞台での各演者のエネルギーを心やからだに感じ取ってくれたのではと思いました。
父の舞台は、身体が楽々と自由に動いていた10年前と今では明らかにその動きに違いが生じていますが、足の痛み、梗塞による左側の不自由と動きがままならない部分を巧く舞台技術で補い、再びこの曲を舞うことがないのではという思いが込められ演じるところに、花咲くものであったのでしょう。孫との共演はもとより、将来の喜多流を担う大勢の「花見」(牛若丸を先頭に花見に行く平清盛の稚児たち)を従え、華やいだ気持ちの充実も後押しとなったことは間違いありません。
当日楽屋で、父は珍しく、花見の子供たちをみんな集めて、写真撮影をしていました。楽屋は小さい子供たちでにぎやか。「楽屋が子供たちでうるさいぐらいでないと、流儀は栄えない」と上機嫌で、大勢の子供たちに笑顔を振りまいている父の姿が印象的でした。
私の初舞台の花見の時は、近い年齢の子供がいなくて何人かの先輩の方々にご迷惑をお掛けしたようです。父がシテ、子方が能夫、花見は谷大作さん、佐藤喜雄さん(佐藤章雄氏の弟)が並んでくださいましたが、谷さんに後日談を聞くと「こんな大きなからだで花見に出されて本当は恥ずかしくていやだったんだよ」と苦笑されていました。どうも人数不足で無理矢理駆り出されていたようです。
当時、「大法輪」という雑誌に「子役」と題して、そのときの写真が掲載されましたが、良い記念として今でも残っています。そのときの花見の稚児が四十代半ばになり、その子供が今、子方を勤めて写真に納まっている、時の流れの早さを感じさせられます。
今回の申合せ(リハーサル)で、花見の子供達に長袴をはかせていると、ふと自分の花見の時のことが思い出されます。先輩たちが私の稽古時間に合わせて集まって一緒に稽古を受けてくれたこと、父が長袴姿の私に、こうやって出て行き、ここに座り、こうやって帰る、そして大事なことが一つ、絶対前の人の長袴を踏んではいけないよと教えてくれたことなど。今でもあの時の事は鮮明に思い出せるのです。 ですから、花見の子供達には当日の装束をつけて動きも実際にやらせてみる、本番の顔ぶれで共に舞台に立たせるなどして、本番に向けての緊張感や仲間意識を高めてやる必要があると感じます。これで、能舞台にあがるという特別な気持ちが子供達の心に刻み込まれるのではないか。こういうことが能楽師としての出発点であってほしいと思うのです。
舞台を勤め終わったあとも、父は舞台に立てた喜びが大きかったようです。夜、電話で尚生が父にその日の舞台のお礼と「もう一回、キクオチャマとやりたいなあー」と感想を言うと父が「これからもよろしくお願いします」と神妙に応じ、すかさず尚生が「こちらこそ」と答えたというので大笑いになったとか。こんなこともよい思い出になりそうです。(平成13年4月 記)
写真1
写真2
写真3
写真4
写真5
写真6
写真説明
1.鞍馬天狗 前シテ 粟谷菊生 撮影 東條睦
2.鞍馬天狗 後子方 粟谷尚生 撮影 あびこ写真
3.鞍馬天狗 子方と花見 手前より 粟谷尚生 谷友矩 高林昌司 狩野祐一 友枝雄太郎 撮影 東條睦
4.鏡の間にて 左より 狩野祐一 友枝雄太郎 粟谷尚生 谷友矩 粟谷菊生 高林昌司 金子龍晟(今回出演せず)
5.「大法輪」 左より 粟谷菊生 谷大作 粟谷能夫 粟谷明生 佐藤喜雄
6.稽古 左より 粟谷菊生 粟谷明生 佐藤喜雄 佐藤章雄 粟谷能夫
『玉葛』の漠としたわかりにくさとは?投稿日:2001-02-01

玉葛の業因とは何だったのだろうか。回向を頼まれた僧(ワキ)が中入り後シテを待って謡う「たとひ業因重くとも、照らさざらめや日の光」という一文。はかなく逝った夕顔の忘れ形見であり、美しく、あまたの男たちに愛された玉葛が、なぜ業因に苦しめられなければならないのか。能『玉葛』を勤める(平成13年2月4日・広島「花の会」)に当たり、最初に感じたことは、この漠としたわかりにくさと、謡本だけ読んでいても作品の主旨はつかめないということでした。
『玉葛』に対する一般的な評価は、優雅さに欠けた平凡な曲であるとか、玉葛の苦悩が何であるかがわかりにくい、四番目能に入っているが、妄執や狂乱はそれほど強調されている訳でもなく、むしろ抒情的な曲である、といったものです。曲全体をみても、序の舞などの舞はなく、カケリ(動揺や苦悩を表す所作。緩急の変化がある)とキリの仕舞所があるだけで、後場の狂乱の部分もわずかに十五分くらいで終わるあっさりした作品となっています。
このキリの仕舞は、初心者用仕舞付に入っていて、ある種の乗りの良さのため身近で手軽な曲として扱われています。これが悪弊になっているというか、教える側も教わる側も曲趣を深くさぐることもなく、ただただ型のみの伝承に終わってしまう傾向にあると思います。そして私を含め能楽師達は「もう一つ面白味に欠ける、やり甲斐を感じない、玉葛の苦悩がはっきりしない…」とすすんで勤める者が少ないのが本当のところです。
しかし、今回演じる状況になり、そこに留まっていたのでは演じようもなく、また観る人に何も伝わらずじまいになるのは如何なものか、自分なりに納得して演じたい、そのためには作品の主旨を自分なりに掘り下げてみる必要があると感じ、謡本の向こうまで足を踏み入れることになりました。
『玉葛』は金春禅竹の作品です。彼の作品は『芭蕉』『定家』にみるように、芭蕉という植物に象徴される精神的なスケールの大きさ、式子内親王の恋の妄執の心の動きを定家葛になぞり緻密かつ大胆に描く発想の曲趣があります。『玉葛』も源氏物語をよく読み込んでいた禅竹が、その中から精神的な何かをすくいとって一曲に仕上げたのではないでしょうか。当時の観客は源氏物語をごく一般の教養として知っていたようですので、内容も十分理解して楽しんでいたはずです。
源氏物語の中で、玉葛に関する物語は「玉葛」から「真木柱」まで十帖にも渡り、作者・紫式部が力を入れて書き込んでいることがわかります。玉葛は頭中将と夕顔の間の子。母・夕顔は源氏との逢瀬で突然物の怪に襲われて急死します。母の行方がわからないまま、玉葛は乳母に育てられ、四歳で乳母の夫の赴任先、筑紫へと下ります。二十歳になり美しく成長した玉葛。大夫の監や多くの男性の求愛を受けますが、田舎に埋もれさせてはならじと決死の逃避行。無事都に着きますが頼る者もなく、卑しい人たちと暮らしながら、何一つ事態は好転しません。かくなる上は神仏にすがろうと母との再開を祈願する初瀬詣にでると、夕顔の侍女で、今は源氏の北の方・紫上に仕えている右近に出会います。右近の報告で、源氏は玉のように美しい夕顔の忘れ形見を引き取り、養父として大切に世話します。柏木、蛍兵部卿宮、髭黒大将など多くの男性たちからの求愛、それにも増して養父源氏からの恋慕に戸惑う玉葛。物語では最終的には髭黒の妻となり、子供ももうけ幸せな生涯を送ります。
玉葛の一生をたどってみれば、早くに母を亡くし、田舎に下ったつらさはあるものの、源氏に迎えられてからは一見幸せな生活ぶりです。「業因」とか、払えども払えどもついてくる「執心」「妄執の雲霧」とは無縁のように思えますが、禅竹は何をもって玉葛の執心と考えたのでしょう。
一つは玉葛の美し過ぎるための罪です。大夫の監、柏木、蛍兵部卿宮など、多くの男の心を悩ましたことへの罪。中世の仏教思想には、女は生まれながらにしてけがれたもので、男の心を乱れさせ苦悩を与えるのは業因の深い罪障となると考えられていました。その罪が成仏するのにさしさわりになるということです。美しさが罪つくりで、そのために妄執に悩まされ成仏できないなど、現代ではとても理解できない考え方で、玉葛という舞台を曖昧に終わらせてしまう一因でもあります。
そしてもう一つは源氏との関係における罪です。源氏にとって、夕顔は愛情が頂点に達したときに突然、死によって断ち切られた存在。その思い出は美しいままに結晶されています。その忘れ形見である玉葛は夕顔の面影を残し、愛しくてたまりません。源氏は養父としての立場を保とうとしますが、その思いはあふれ、ときに玉葛を困惑させるまでになってしまいます。
瀬戸内寂聴氏は『わたしの源氏物語』(集英社文庫)の中で、源氏が玉葛に添い寝する場面について「几帳の中に入り手を握っているのだから、その接近度は密接である・・・源氏の着ているものは直衣と指貫だっただろうから、それを脱ぐというのは、ぴったり女に寄りそいたいためで、あわよくば、そのまま、抱いてしまうつもりだった。ところが玉葛があんまりびっくりして身を硬くして辛そうに泣きだしたので、さすがにそれ以上のことは出来なくなってしまった。…(そして)出て行きぎわには、ゆめゆめ人に悟られないようにと注意したのは、いい気なものにもほどがある」と書いています。源氏の恋慕、それに困惑する玉葛。ここにも女の罪障があるというわけです。
私は今回、後場の一声でシテ(玉葛の霊)が謡う「恋いわたる身はそれならで玉葛いかなるすじをたどり来ぬらん」で、つくづく源氏との関係を意識させられました。この歌は「母を恋い慕って初瀬にやってきた。今は現し身にない私がどうしてここに来たのでしょう」というほどの意味で、玉葛の気持ちが表現されています。源氏物語ではこの歌とほとんど同じ歌を源氏が詠っています。つまり「それならで」が「それなれど」、「たどり来ぬらん」が「尋ね来つらん」と違うだけであとは全く同じ。「私は今も夕顔を恋い慕っているけれども、その娘である玉葛がどういう筋で私のところに尋ねてきたのだろう」という源氏の気持ちです。禅竹がこの歌を意識しているのは当然で、後場でいきなりこれをシテに謡わせるのは、やはり玉葛の苦悩の一番目にくるのは源氏との関係だと考えます。
私自身、玉葛の歌を謡いながらも、布石になっている源氏の歌を合わせ鏡のように体に感じずには、謡えませんでした。
しかし、玉葛の執心は、美しさや源氏との関係のみに集約されるものではないと思いま<す。時を経て髭黒の妻になり暮らしながらも、なぜ髭黒というそれほど愛してもいない男と一緒にならざるを得なかったか、待つだけの時代の女の悲しさを思ったり、または過去に心を悩まさせた男たちのことを思い浮かべたり、もちろん源氏の息づかいや語り口をも思い出し熱くなることもあったでしょう。現代の私たちでも共有する、幸せな結婚生活をしながら、時折、若き日の恋の遊びと痛手が思い出され、心にチクリと刺される感触、そういうさまざまな執心のようでもあります。全体にそれほど深刻なものではないにしても、二重、三重にも重なる執心、雲霧のように晴れない妄執が、玉葛を苦しめているとみることが出来るのではないでしょうか。 
今回の演能で、普通は前場も後場も小面というのが喜多流の手法ですが、後シテで我が家の「玉葛女」という、苦しみが漂う面を使ってみました。観世流では十寸髪(ますかみ)という、髪が乱れ眉間にへこみと皺のあるものを使うようです。
喜多流本来の小面を選択する意図は「喜多の女物は小面」という規定であったり、また持ち運びの簡素化に歪められながらも、やはり世にも稀な清純な美人を考えてのことでしょう。しかし私はやはり後シテの執心に苦しめられている玉葛を想像するに、小面のお顔では、それを表現するには似合わなく、あまりに難しい演出になると思います。苦悩し、屈折した表情があってこそ訴えかけが生まれると思いたいのです。
能『玉葛』では、玉葛の長い一生のうち、いつの時期を想定して登場するのだろうかと考えてみました。美しさに磨きがかかってくる十代の玉葛をイメージし、成人する女性以前の乙女のような段階ではないかという人もいます。私は稽古を重ねるに従い、源氏の影に悩んでいた二十一歳過ぎのころそのままの玉葛と、物語にはあまり書かれていない落ち着いた生活に入りながらも時々心の奥底に蘇るあの時を思う大人の玉葛なるものを思い巡らして演じました。
そして「居グセ」の部分。筑紫から早船を仕立てて逃亡する道行的な場面で、松浦潟、浮島、響の灘など原作を知らないとわかりにくい暗示的な文体でつづられています。ここを舞う型付が狩野家に伝わっており、今回はそれをお借りして舞ってみました。心の内をじっくりと地謡が謡う表現、またそれにつられてどうしても動きたくなる自分の体の反応が面白く感じられました。
シテの出(登場の仕方の出囃子)で、たまに前場も後場も同じ出になることがあります。玉葛も前場、後場で一声(いっせい)という出で舞台へ登場しますが、この出の気持ちを我が師、友枝昭世氏は「前場は棹を持ち、女舟人の風情だから、船の流れを意識し、いくぶんサラリと運び、後場は執心を持ちながらも、お経にひかれて出てくるので、やや重々しく運ぶと良い」と教えてくださいました。また当日お相手して頂いた小鼓の横山貴俊氏に、一声をどのように打ち分けられるのか、お聞きしましたら、「そう違いはないけれども、簡単にいえば、生きた人間と死んだ人間の違い、そう思って打っています」ということで、これもなかなか面白い見方だと思い、心に留めておくことにしました。
今回の広島の公演は、『芦刈』『玉葛』『海人』の三曲構成でした。私の後の『海人』の装束が腰巻・水衣で、私の『玉葛』と重なってしまうので、私の方の装束を常とは変えてみました。舞台上、一日の公演で装束や作り物が重なる番組構成は好ましくなく、通常は重ならないように調整するのですが、仕方がない場合は両者がゆずり合う習慣があります。
前シテは唐織着流しの肩脱ぎにしてみました。肩脱ぎは本来、後シテの狂乱姿のものですが、肩脱ぎには労働を表現するという意味もあります。今回は女舟人、棹を持ち舟を漕ぐという事で、そのようにしました。後シテは上衣は金の摺箔で、緋大口袴の裳着胴大口袴という形でいたしました。鬘は常は片方だけ垂らすのですが、大口袴とのバランスを考え両側の髪を垂らしました。今回は装束が常とは大きく違い、面も替えの玉葛女ということで、観る方には多少戸惑いがあったかもしれません。
演者としては伝書を基に、謡本や源氏物語を読み、演出に工夫を凝らし、いろいろ考えて勤めてみましたが、やはり『玉葛』は難しく、演じにくいと言わざるを得ませんでした。万物は決して一重ではない。玉葛の妄執も決して源氏のこと一色だけではなかったはずです。業因だとか妄執といいながら、劇的な葛藤というほどのものでなく、もしかしたら、夢の中で、あの頃の輝かしい時代にひととき浸っていたいという贅沢者の悩みであったかもしれないのです。実際、この曲の終わり方は「長き夢路は覚めにけり」(玉葛が迷いの夢から覚めたと見て、僧の夢も覚めた)というもので、成仏したとか救われたとかではありません。だから『玉葛』は単純な解釈では消化しきれない難しさがあるのです。
我々は修業過程で「気をかけて」とか「気持ちを張って」と教えられてきました。これは芸に心を込めてという意味らしく、とても重要で深い内容のある言葉ですが、ともすると、一手一足の誠意の込め方が足りないときに、叱咤激励として発せられる言葉に変化し、受け取る側もただ力を入れるに留まってしまいがちです。『玉葛』という曲は、この気合いとか気の張りといったものがおよそ似合わない曲のように感じます。強い妄執を演ずる時、我々はその思いを体の中に一端蓄積し、加工しそして発散しますが、玉葛の妄執はそれとはちょっと異質です。蓄積されたものを、故意に外へ訴えかけるのではなく、演者自身の体の中へ中へと取り込んで、幾重もの思いを熟成させていくもののように思えるのです。ですからこの『玉葛』は、人生経験を積んだ本当の大人がさりげなく演じたときに、すばらしい作品に開花するのかもしれません。
(平成13年2月 記)
撮影 「玉葛」前後 石田 裕
面 「玉葛女」 粟谷明生
『実盛』で老体の執心に取り組む投稿日:2000-12-07

『実盛』で老体の執心に取り組む
粟谷 明生

二十世紀最後の研究公演(平成十二年十一月二十五日)で、私はかねてからの夢、憧れの大曲『実盛』勤めました。『実盛』は老武者の執心を描く大曲です。前場は老人の独唱が大半を占め、後場は老体ではあるが型所が多く、その動きの中に老武者の心情を入れなければならないため、若い演者には手も足もでない難曲と言われていますが、私はこの名曲を是非四十代で演じたいと研究公演発足の頃より計画していました。
能の世界では、ある年齢にならないと老体ができないという消極的な考えが、さも本筋本流のように美化されているところがありますが、本来そういうものではなく、技量を持ち得た志のある演者ならば、若年であろうと許されるべきもので、演者は年齢に左右されることなく、常に前向きにそれぞれの高い目標を見据えることが肝心だと思うのです。でなければこの世界は閉鎖的であまりに悲しいではありませんか。今四十代で老体を経験しておくのは、それを演じるのにふさわしい年齢になったからといって、いきなりできるものではない、若い時に取り組む必要性を充分心得てのことです。そして何よりもよき指導者からの芸の伝承を逃すわけにはいかないという本筋の信念にほかなりません。今回四十代半ばの私の実盛がどうであったか、それにしてはへたじゃないか、といわれれば一言もないのですが、志がそこにあったことは、間違いないのです。
若い人が老体を演じるのが難しいと言われる要因は、老体のからだなり、動きに、なりきれないということがありますが、もっと本質的なことは、尉である実盛の霊としての謡が謡えるかということにあると思います。声の質や発声を、老体らしくする工夫は当然必要ですが、それ以上に、実盛という人物像をどのように理解し、謡の意味するところは何かを明確に把握し、自分の中で消化して、イメージすること、だからこう謡うのだという裏打ちされたものが必要です。それが言葉の強弱や張り、位に反映し、強い訴えかけになっていくのだと思います。
そこで私はまず「実盛の執心とは何だったのか」を考えてみました。「老武者とて人々にあなずられんも口惜しかるべし、鬢鬚(びんぴげ)を墨に染め、若やぎ討ち死にせん」と常々言っていて、それを実行に移した実盛。そこには、人生五十年時代に、七十三歳まで生きた男の、生き過ぎたという思い、どう死すべきか、人生の幕引への切ないまでの美学があったと思うのです。平家の衰退はわかっている、篠原の戦いが自分の死すべき場であろうと覚悟を決め、それならば若々しく、日本一の剛の者として果てたいと考えていたのでしょう。修羅の中に生きた老武者の死に場所は戦さの場こそがふさわしい。これが多くの戦さで人を殺してきた修羅の業でもあったのです。
ところが実盛の思うように事は運ばない。二歳の頃、実盛が命を救っている敵の大将・木曽義仲、彼に討たれるならそれもよしと立ち向かう老武者の心意気を、家来の手塚の太郎光盛にはばまれてしまう無念。討たれた後、首を洗われ老体を暴かれてしまう無念。それによってあっぱれな武者として名を残すことになったことへの恥ずかしさ。これらが複雑に絡み合って、実盛の執心となって成仏できず、二百年もの間、幽霊となってこの世をさまようことになるのです。戦さの場でも名を名乗らず、二百年後、他阿弥上人の前に立ち、安楽国に生まれ変われると歓喜したときも、名を名乗らぬことに固執したところに、ひねくれ者・実盛の執心の深さが見てとれます。
さて、実盛を知るために、ここで少し、彼の生い立ちを見ておきたいと思います。斎藤別当実盛は越前の生まれ、藤原氏の藤と、藤原の斎宮の頭を勤めたことから斎をとり斎藤の名字をもらったようです。別当は荘園の管理をする職で、それほど高い位ではなく、下級武士ほどの身分だったと思われます。保元・平治の乱では源氏につき、義朝のもとで手柄を立てています。二十年を経て篠原の戦いでは平家につき、これは二股武士ではないかと文楽などで脚色されているようですが、当時の田舎の下級武士は、自らの領地を守るために、その時々の領主につくことはよくあることでした。ましてや源氏方で戦ったときから二十年の歳月が流れているとあれば、何らの問題はなかったはずですお能で取り上げられ、あっぱれな武将と讚えられると、高貴な人と勘違いされがちですが、実盛の場合はごく身近にいる下級武士で、偉いのは人物像であって位ではないことをわきまえて演じるべきだと感じました。

父菊生は謡が難しいものに『葵上』があるが、やはり一番難しいのは『実盛』だろう、その中でも前シテならば「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上、聖衆来迎す落日の前・・」と「深山木の、その梢とは見えざりし、桜は花に現はれたる、老い木をそれとご覧ぜよ」は、とりわけ難しいがいいところなんだと言います。
「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上」は能『石橋』で登場する大江定基、出家し寂昭法師となった人の臨終の和歌です。ここは浄土への距離感と透明感をもって遥かを見やりじっくりと謡うのが鍵のようです。
また、「深山木の…」は名を名乗れの問答の後に自らをほのめかして謡いますが、大鼓の亀井広忠氏が「本来道具を取り準備するところですが、とても動けない」と言われるごとく、訴えかけのある大事なところです。これは頼政の和歌ですが、執心を残している老体同士をここにはめ込んだ世阿弥らしい洒落た演出を感じさせられます。
そして物語も最後「老武者の悲しさは、戦には為疲れたり」。戦さ上手の実盛のはずが、老いて、戦さにも、人生にも疲れたと独白するところは、壮絶であり悲しくもあります。そして、篠原の土になることを願い、弔いを乞います。実盛の執心、心の揺れを常に意識しつつ気持ちを張りつめ謡っていくこと、この作業なしではこの作品は成り立たないように思えました。
世阿弥は、斎藤別当実盛没後二百年目にして、その亡霊が時宗の他阿弥上人の夢枕に立ち、言葉を交わし、十念を授けられたという噂話に魅かれ、これを戯曲にします。当時流行の時宗のPRにもなるのではないかと思いたったようで、江戸時代に曾根崎で心中事件が起こると、即座に心中ものを戯曲にしてしまう近松門左衛門のように、作り手の名手達は、いつの時代も、世の中に流布する話に敏感でパワフルに対応していたのではないでしょうか。

修羅物としては珍しく、狂言口開け(アイが最初に舞台状況を説明する)で始まり、シテの老人を幽霊として登場させ、後半は甲冑姿にて極楽世界を謡い、強い執心の表現としての大ノリのリズムにも多分に踊り念仏を意識させ、全体に宗教色を強く現わしています。実盛の執心に焦点を当て、静かにその心の内を語らせながらも、ただ静謐さに留まらず、後半の踊り念仏の場や戦さ語りで盛り上げ、一人の男を描いていく当たり、さすが世阿弥、物語作家としての面目躍如というところです。
四十代で『実盛』という老体を勤めて、今後五十代、六十代でのよりよい実盛への布石となったことは確かです。この曲が実盛という人物を通して、男の生涯はどうあるべきか、どう生き、どう幕を下ろすかという重いテーマを我々に投げかけているように思え、研究公演で取り上げ、深く掘り下げておく意義があったのではと思っています。
(平成十二年十二月記)
実盛写真
舞台写真撮影 石田 裕
首洗い池・実盛塚 粟谷明生
『班女』を演じて夢幻能へ投稿日:2000-10-01


能の世界を夢幻能と現在能という分け方をすることがあります。
(注=夢幻能という言葉は中世には存在せず、大正15年ラジオ放送にて佐成謙太郎氏が造語されたものです。「夢幻能」田代慶一郎著より)
夢幻能は死者が旅僧や旅人の夢の中に亡霊として姿を現し、在りし日の栄光や苦しみを謡い舞う表現手法で、最後は闇の世界に消えて行く死者側からのメッセージです。世阿弥が確立したといわれる夢幻能によって、能は人間の運命との葛藤を幻想的に描き人間の奥深くにある情念を普遍化して、能を永遠なものに高めたといっていいと思います。
現在能は文字通り生者を登場人物にし、そこで繰り広げられるドラマ、喜怒哀楽を表現する舞台で、この現在能も大きく三つに分けられます。まず言葉(台詞)のやりとりを中心にした『自然居士』『望月』『鉢木』など、次に自分の体験を語る「語り」を中心にすえた『小原御幸』『景清』など、そして言葉と舞いの両方を重視したもの、例えば恋人を慕い、母を想い舞い尽くす手法をとった作品、『班女』『花筐』『湯谷』などがあります。
秋の粟谷能の会(平成12年10月8日)ではこの現在能の『班女』を勤めました。
我家の伝書には『班女』「ただただ舞詰める也」と、舞い尽くす心得が記されていて、三番目の部類に入ることがうなずけます。
現在能を演じる時、私はちょっと複雑な心境になります。それは現在能では演者がどのように生き、どういう舞台を踏んできたか、その人の芸風がどのような物で、どういう素質があるかといったことが舞台にはっきりと現れるからです。もちろん、どんなお能でも現れますが、とりわけ現在能は、それらが如実に出るので恐い曲なのです。『班女』や『湯谷』はその代表的な曲といえるでしょう。夢幻能の方は、幽霊として生身の人間とは違うところで演じ、抽象化し、達観して演じられる部分があるので、演者自身がむきだしにならず、演者達の一つの救いや余裕になっているのは確かです。このようなことがあるからか、現在能である『班女』を「妙に濃艶で生っぽくて嫌いだ」と言う人もあり、私もこの気持ちはわからないでもありません。
一方、一世代前の先輩の方々の『班女』への思いは大きく上演回数も非常に多かったので、私も多くの方々の『班女』を拝見してきました。中でも友枝喜久夫先生、伯父新太郎と父菊生のは、それぞれ強烈な個性のある舞台で今も私の脳裏に焼き付いています。その演じ方は世阿弥のいう「恋慕専ら也」の如く、純粋に少将を慕うかわいらしい班女であったり、女の恥じらいを持ったやや大人の遊女であったりして、それぞれ自然とその役者の人となりが表現されてくるのですから不思議です。先輩達は人間性の出る現在能を競演し楽しんでいたようにも見えました。
今回演じて難しかったことの一つは、シテ花子の出のところです。野上の宿の長(アイ=狂言方)が、花子という上臈は吉田の少将殿に酌をとり、愛のしるしとして互いの扇を交換して以来、扇を胸に少将のことばかり思い、他の客の酌をとらないと腹を立て、このような有様では宿から出ていってもらわなければならないと、花子を呼びたてます。そのとき花子は幕から出てきますが、うつろな様子で歩みもゆっくり、長の思うようにやってきてくれません。その様子に長は一層もどかしがりイライラをつのらせます。シテとしては、相手をジリジリさせる歩みが必要で、見ている方もじれったく思われるでしょうが、大事な演じどころなのです。稽古の時は運びが早過ぎると言われ、申し合わせ(リハーサル)ではやり過ぎと注意されました。その頃合いが微妙で、程の良さが必要で難しいところです。
野上の宿の長はアイが勤めますが、この部分、和泉流と大蔵流では演出が違います。和泉流はシテが橋掛りの三の松まで出たころで、シテの方を向き文句を並べますが、すぐに舞台に入ってしまい、じっと我慢して待っているという、気持ちを重視した演出です、大蔵流はシテの近くまで寄り、何をウジウジしているのだ、早くしろと矢継ぎ早にののしりの言葉をかけ、右から左からとまくし立てるしつこい演出です。和泉流の気持ち重視の演出はややさっぱりとして物足りなく、大蔵流の執拗なまでの演出も少々やり過ぎの気がして、中間ぐらいの程度のものがあるとよいと思うのですが…。このようなアイとのからみの中で、シテは相手を焦らすようで、実は心ここにあらずの放心状態、少将のことしか頭にないという風情を、運歩(はこび)一足一足で表現しなければならないのです。
次に、喜多流の『班女』の序之舞について考えてみます。他流では現在物の場合は中之舞を舞うのが常のようですが、喜多流は序之舞を舞うことがあります。「喜多流の『班女』や『船弁慶』の序之舞はおかしい」という方々がおられますが、これからの説明で序之舞を舞う意味がお判りいただけるのではないかと思います。
まず喜多流の中之舞と序之舞の区分けを整理してみましょう。
中之舞? (大小物) 『飛鳥川』『賀茂物狂』『草紙洗小町』『雲雀山』『湯谷』
※『松風』
(太鼓物) 『西王母』『猩々』
序之舞? (大小物) 『采女』『住吉詣』『東北』『半蔀』『井筒』『野宮』
『芭蕉』『檜垣』『夕顔』『楊貴妃』『江口』『定家』
※『千寿』『班女』『二人静』『船弁慶』『紅葉狩』『吉野静』
(太鼓物) 『雲林院』『小塩』『伯母捨』『葛城』『杜若』『西行桜』
『誓願寺』『羽衣』『遊行柳』『六浦』
喜多流でも、一般には大小物(笛、小鼓、大鼓の三人演奏)では中之舞が現在能、序之舞が夢幻能となりますが、何曲か(※印)異例のものがあります。太鼓物は登場人物が神や精であったりとこの世に現存する物ではないため、現在能としては扱いません。従って曲によって、中之舞、序之舞が決められているだけで、他流とも違いはありません。
大小物の※印『松風』は、狂女物は中之舞を舞うという決まりがあるため、夢幻能形式でありながら狂女物扱いとして中之舞となります。『千寿』『班女』『二人静』『船弁慶』『紅葉狩』はいずれも現在物ですが「遊女の序」を入れるため、敢えて序之舞としています。
今回の『班女』を例に違いを説明しますと、観世流の中之舞は、班女の恋というものを、その肌の暖かさ、体の感覚、臭いまでも全て生身で舞い表し見せようとするもので、喜多流の序之舞の方は昔の恋を回想する感覚で、一度熱き思いを醒ましつつも又思い出すことにより、より燃焼させた思いを見せるようなものではないでしょうか。
一般に序之舞は死者(霊体)が回想する場面などで舞うものと考えられていて、具体的には笛の吹く早さが「序之舞はゆっくり」「中之舞はサラリ」と違い、序之舞は「序を踏む」という型、つまり緩やかな拍子に乗らない導入部があり、それが吉田の少将への思いの集中であったり、もの思う花子自身の幾重にも連なる思いの凝縮や昇華であったり、遊女独特の舞いの足さばきでもあったりするわけですが、ここにサラリと舞に入らないという喜多流の主張があるように思われます。
では今回ここをどう演じるかです。『班女』という現在能の序之舞は、『定家』や『野宮』などの夢幻能の序之舞とは違うものと考えたい。それならば目に見える形で序之舞の演出を替えてみたいと、替えの型「摘み扇(つまみおうぎ)」を取り入れて演じることにしました。この型は夢幻能には似合わぬ型、動きで、花子の吉田の少将への想いを扇に焦点を合わせる洒落た演出です。「摘み扇」とは通常の持ち方とは違う握り方で、扇を親指・人差し指・中指の三本でつまみ、顔の前面に差し出し舞う型です。普通、扇は演者の手や体と一体になるように持つのが正しいのですが、「摘み扇」は演者自体は後方に、扇だけが前面に出て、そこに焦点が合たるような景色です。これで私の意識の中では夢幻能とはっきりと区切りがつけられ、喜多流としての『班女』の遊女の序之舞をお見せ出来たように思えました。
さて『班女』というお能の、悩ましくこってりとした情緒に重きを感じ演じていると、花子と少将が再会しハッピーエンドとなる結末が余りにもあっけなく、能舞台としての充実感が損なわれる気がしてきます。『班女』は、前漢武帝の寵妃が、帝に捨てられ「怨歌行」という詩を作ったという中国の故事に想を得、「扇」の持つ宿命、秋になれば捨てられる、「秋(飽き)の扇」の悲しいイメージと、反面扇は「逢う儀」と音が似ていてめでたいものとされ、再会の願いが込められていると、このような巧みな道具立てを揃えて、遊女のひたむきな恋を描くには申し分ない設定で、捨てられた女の寂しさ、狂おしいほどの恋慕の情、それらを思いを込めて深く謡い上げています。ここまではよいのですが、終わり方が余りにも淡泊で、掘り下げが浅いと指摘する人もいます。『班女』が秋の扇の悲しい想いをテーマにしながら、一転してハッピーエンドに終わるのは、日本での扇のめでたいイメージにそっているとする考えを否定はしませんが、私も終盤の進行には何か物足りなさ、わだかまりを感じます。
一般にお能では、特に複式夢幻能では、世の中のはかなさ、つらさ、切なさを考えずにはいられない結末で、余韻を楽しませてくれるものが多いものです。
三島由紀夫も『近代能楽集』の中で「班女」を現代劇にしていますが、この結末は、訪ねてきた吉雄(能では吉田の少将)を、狂女・花子は吉雄でないと拒絶し、自らを永遠に待つ女として閉じ込めてしまう、完全な悲劇にしています。ハッピーエンドでは三島文学にならなかったのでしょう。
現在能の典型である『湯谷』でさえ、宗盛の許しを得ますが、田舎の母親の命は定かでない不安があり、完全なハッピーエンドとはなっていません。それらを考えると、『班女』は安易に落ち着き過ぎています。「捨てられたのではと思う寂しさ、狂おしさ、しかしそれでも男への愛を誓う優しい女心、それも遊女という立場でありながら」などを心に思い演じ終え、この空虚に思える終幕を体感することで、私の中で次なる目標、それは未だ手つかずの本三番目物「夢幻能」への取り組みという夢が動き始めてきたようです。
(平成12年10月 記)
(写真)班女前 東條 撮影
班女後 安彦 撮影
面 万媚 明生 撮影
『葵上』の謡の奥深さ投稿日:2000-10-01

粟谷明生
シテ方の能楽師が一人前になったとお墨付きをいただく曲が『道成寺』です。
昔は『道成寺』を披くには、『紅葉狩』で「急の舞」、『黒塚』で「祈り」を、『葵上』では『道成寺』と同じ扮装の坪折姿に慣れ、謡の勉強をし、そして『道成寺』へと進むという修行過程があったようです。しかし最近は必ずしもこの順序は守られず、かくいう私も『道成寺』のあとに『葵上』を勤めた経験者です。
私は『葵上』はやはり『道成寺』の経験を基に勤めた方がよいと思っています。『葵上』は謡が難しい曲です。単なる節扱いだけではなく、『葵上』という曲をいかに謡えるかが重要なのです。だからこそ、この曲が『道成寺』を勤めた者の次なる大きなテーマになると考えた方が良いのではと私は感じています。
これからの喜多流を支えていく若い人々が、謡の技術アップのためにどうしても通らねばならぬ曲、又一般のお謡のお稽古をなさっている素人の方々でも一度は謡ってみたいと思う曲、『葵上』。そうでありながら、簡単に稽古や演能のお許しが出ない理由は、それほどまでに大事な曲だからなのです。聞いていてる人が六条御息所の生霊と想像出来る謡、それは難しく短期間で修得出来るものではありませんが、玄人も素人も乗り越えなくてならない課題で、これが上手に謡えるようになると「ああ、大人の謡になってきたね」「曲を謡えるようになりましたね」とようやく先輩や先生に認められるのです。
というわけで、『葵上』の最も大事なところ、それは前場のシテの謡であるといえます。シテ連(照日の前)の梓弓の音と呪文によって呼び寄せられたシテ(六条御息所の生霊)の第一声「三つの車に法の道、火宅の門をや出でぬらん」。ここからクドキまで、一部シテ連やワキ連が謡うところを除いてほとんどシテ一人が謡い続け、葵上(出し小袖/小袖が葵上を象徴するように舞台中央に置かれている)を打擲するところまで、一気に物語を進めていきます。
ここの謡、詞には御息所の思いのたけが込められ、節づかいは感情の起伏を巧みに表現しています。この大事な箇所を、ただ大きな声で朗々と謡いあげるだけでは曲にならず、曲に拘り過ぎて蚊の泣くような萎びた声では謡にならず、節を追うだけの幼稚さでは気持ちを表すことは出来ません。そして舞台に於いては必要以上のやる気満々、情熱いっぱいという熱演は、逆に観客や廻りの出演者をもしらけさせ空回りで失敗になるという性格を持った曲なのです。
喜多流で私の年代以上の人たちは皆、喜多実先生にお習いしていました。実先生は、
お稽古というと「さあ、仕舞を舞ってごらん」「能の稽古をしてあげる」と型重視で舞うことの嬉しさ楽しさを教えて下さいましたが、謡の方には余り時間をかけられませんでした。詞や節づかいが間違いなければ、それほど注意も受けず、謡のご注意で何回もダメ出しが出るなどの経験はありませんでした。しかし、歌舞二曲でできている能の中で、その構成は謡の占める割合が七割から八割、動き(舞など)は二、三割ぐらいと言われています。七割を占める謡をいかに謡えるかで、お能の出来不出来、その演者のよし悪しが決まるといっても過言ではないのです。
『葵上』のシテ、御息所の謡は、張りのある柔和な落ち着きと、柔らかさの中にも強さがあり、強さの中に艶がある、‥‥こう謡いたいのです。そのためにも、御息所の人となり、心の動きを知らねばなりません。
六条御息所は、前の東宮妃、つまり皇太子妃であったわけで、東宮の早世によって後ろ盾を失ってしまいますが、高貴な身分の女性です。しかも教養豊かで理知的、源氏とかわす和歌やもてなし方にも典雅な気品が匂い立ち、源氏の心をとらえた女性でもあります。しかし一方で、源氏より七歳年上であることや、近頃の何の契りもない情況の心もとなさから、いつかは源氏が自分のもとから去っていくだろうと不安を抱え、若く美しい正妻・葵上に対する嫉妬は知らず知らずにつのるのです。それでも高貴な身の上、はしたない行動には出られず、じっと耐えています。
そんな六条御息所を打ちのめしたのは、賀茂の斎院の御禊(ごけい)の折、都大路を行列する斎院と光源氏らの姿を一目見ようと出立した六条御息所の車が、後から来た葵上の車に押しやられ、打ち払われた事件です。散々の恥ずかしめを受け、その上源氏の晴れ姿を見ることも出来ませんでした。これが深い恨みとなって、夜半ともなると理性の箍(たが)がはずれ、生霊となって葵上に取りつき苦しめることになります。その行為は自分では押しとどめることができませんが、恥ずかしく悲しくも感じているのです。
こんな六条御息所の心情は「夕顔の宿の破れ車、遣る方なきこそ悲しけれ」や「あら恥づかしや今とても、忍び車のわが姿」など、前場のシテや地の謡に切々と謡われています。「われ世にありし古は」からのクドキでは、自分が華やかにときめいていた時代を謡い、それにひきかえ、今の自分のみじめさも吐露します。そして「われ人のため辛ければ、必ず身にも報ふなり」と謡って、人に辛い思いをさせた者は、報いを受けるのだとばかり、六条御息所の気持ちは高ぶり、「今は打たではかなうまじ」と、ひと打ちするところまで追いつめられていきます。
この流れや心情をシテはしっかり受け止め謡っていくことが大事です。日ごろ理知的で高貴な人が、自分の感情を抑えきれずに、こうまで爆発してしまうのは何故か。それは賀茂の祭りという大衆の面前で散々に恥ずかしめを受けたことと、もう一つ、自分にはもう望めない葵上の懐妊が決定的な打撃となったのです。嫉妬する対象がただ若く美しい正妻というだけではない、全ては承知の上なのにどうしても気になる懐妊という事実であると私は解釈して演じています。
さて、『葵上』では、葵上(出し小袖)を打つときの打ち方もポイントの一つです。
林望さんは著書『林望が能を読む』(集英社文庫)において、「葵上を打擲した後も、それで六条御息所の心が晴れたのではない。それどころか、嫉妬に狂って、葵上を殴る自分の姿が、鏡に映ってはっと気が付く。ああ、なんて醜いおのれなのだろう。こうして、彼女は、ますます深く暗い絶望の淵に沈んで行きながら、破れ車に乗って消えて行くのである。」とし、「その面影もはづかしや。枕に立てる破れ車、うち乗せ隠れ行こうよ」というのは、恥ずかしい己の姿をさっと乗せて行こうというのであって、葵上を乗せてさらっていこうというのではないと指摘し、従来みなそのような解釈になっているのは怪しむべきだと述べています。
この指摘は、私もまったく同感ですが、このような誤解となるのは型付のためでもあろうと思われます。「その面影・・・・うち乗せ隠れ行こうよ」と大小前にて廻り返し(ぐるぐるまわる)をしながら着ている坪折を脱ぎ、葵上の出し小袖の所にフワッと取りついたかのようにして行き、拍子を踏んで消えていく型付。これではいかにも、葵上を自分の破れ車に乗せ、邪悪な霊界に連れ去ろうとしているように受け取られてもしかたない型です。この型が問題であって、林さんが言われるように、鏡に映った自分の醜い姿、嫉妬に狂った姿を恥ずかしく思い、さっと消え去るしかないという所作に型を変えるべきでしよう。実際、観世流にはこのような型があり、昨年(平成11年)10月に私が勤めました『葵上』ではそのような型にて試みました。
さらに、そのときの舞台は小書「長髢」(ながかもじ)で、緋の長袴をはき、長い髢をつけました。長袴は宮中の優美なイメージが出るので、六条御息所にふさわしく、観世流では小書「空の祈」で使っているようです。私はかねてからこれを着て演じたいと考えていました。緋色は激しい嫉妬や執心を表現するのに合っています。長袴や長髢は長いものを引きずりますから、執心を引きずっているイメージにも合います。緋の長袴は喜多流では『殺生石』の小書「女体」を金剛流から頂いた時に入って来まして、使用が可能となりました。
長袴の演出にしますと、袴を付けるためどうしても中入りしなければならず、従来の型ができにくく、工夫が必要とされます。鏡に映った自分の姿を見て恥ずかしく思い、さっと破れ車に乗って帰っていく型を生かすためには、坪折を脱ぎ葵上を見たら、すーっと橋掛かりに走りこんで中入りしてしまう、このほうが似つかわしいだろう思い、そのようにやりました。
また、喜多流には替えの型で、葵上の出し小袖に扇を投げ捨てる型もありますが、ここまでしますと、六条御息所像が全く違うものになってしまい感心しません。この型と常の型は誤解される型であり、演出のまずさが残っていると気になり改めたいと思っているものです。
私は父(粟谷菊生)から、この打つところが難しく、御息所になれるかなれないかの大事なところだと教えられてきました。「ここぞとばかり強く打つ者がいるが、そこは本当は打てないところ、打ってはいけないのだ」と父は言います。そして、六条御息所は皇太子の奥様になり子供もある高貴な方であることなど、御息所の立場とその場の状況を簡潔な言葉で説明し、だから打ち方はこうなるのだと言って、一振り見せてくれます。
この教え方はわかり安くとても説得力があって、私の心に深く刻まれています。
最初に説明があると、それでイメージをふくらませ、ではどんな打ち方になるのか集中して見ます。そうすると「えー、なるほど」となります。もうひとつのやり方は、逆に、打って見せてから、これはこういう意味だと教える方法ですが、どちらがわかりやすいかは様々です。一般には、こうやるんだと型を見せ、あとはそれを真似ろと、意味もなく教えられることが多いもので、このやり方が有効な場合もありますが、父の教え方は稽古論として参考になると思います。
もう一つ父から教わったのは、最後の「祈リ」の場面です。ワキの横川の小聖が数珠をジャラジャラと押しもんで、呪文を唱えると、シテは聞きたくないので橋掛りの幕際まで逃げていきます。父は「ここのワキの山伏はうるさい小犬だと思え。」と教えてくれます。小犬がキャンキャン、ワンワン言っている声は、最初は我慢していますが「あーっ、うるさい」とついに癇癪を起こして睨みつけてしまう、そんなイメージだと。『黒塚』の鬼の場合は、真に迫った戦いの場で、山伏、阿闍梨祐慶に襲いかかり、食べてしまわんばかりの迫力があるところですが、御息所のそれはもう少しソフトで、うるさい山伏の祈りを振り払おうとする程度のものと解釈すればよいということです。
確かに、最後は「悪気心を和らげ」「成仏得脱の身となり行くぞ有り難き」で終わっていて、悩まされ続けた嫉妬や執心から救われるのですから、悪鬼を強調し過ぎなくてよいわけです。こういう終わり方は、いかにもお能らしいところです。
(平成12年10月 記)
粟谷 明生
写真撮影 前 吉越研 後 東條睦
『黒塚』の鬼女をどう表現するか投稿日:2000-09-16


叔父・粟谷幸雄の「幸扇会」四十周年を記念する会(9月16日)で、『黒塚』を、私が前シテ、父が後シテで勤めました。
能は約束された型である動きや謡の調子、ノリそして面、装束など一見がんじがらめの規制に身動きできないようで実は、曲のありようを様々に解釈できる余裕、あそび、自由さがあり、この懐の大きさが能を現在まで継続させてきたと言っても過言ではないのです。演者は人技体の伝承と同時に、演じるという意識を常に持ちながら、能のあそびの部分の演出を追求すべきです。私が古典というやや古臭く感じるかもしれない能の世界の中に居ながら、一生の仕事として面白く取り組んでいけるのもこの自由さとシテが演者であり演出家でもあるという魅力のおかげなのです。
『黒塚』を演じるとき前シテの里女をどのように演じればよいか。「孤独で寂しい無力な女」という人間性を強調するか、それとも「身体の中の本性をいつ現すとも知れぬ鬼の心を隠し続けている女」とみるか。さてどのように意識すべきか、迷うところです。
『黒塚』は、陸奥の安達ケ原(福島県二本松市、安達太良山の東山麓一帯)に伝わる岩手(いわで)の鬼婆の伝説が基本になっていると言われています。この伝説は、京都の公卿屋敷の乳母・岩手が、姫の病を治すためには妊婦の生肝を飲ませればよいという易者の言葉を信じて、陸奥にこもり、宿を借りようとした若夫婦の妊婦の腹を切り裂いて肝をとり出したところ、その妊婦が実は生き別れとなっていた実の娘だとわかり、狂乱し、鬼と化してしまう、それ以来、岩手は宿を求める旅人を食らう「安達ケ原の鬼婆」となったという伝説です。これが平安前期の歌人・平兼盛の「みちのくの 安達が原の黒塚に 鬼こもれりと いふはまことか」と歌われ伝説ではないかということです。
JR東北本線の二本松駅から2キロほど、阿武隈川のほとりには岩手を葬ったといわれる黒塚があります。黒塚近くの天台宗観世寺の境内には、鬼女が住んでいたといわれる岩屋があって、縁起には閨(ねや・寝室)を覗くなという禁忌を破ったために鬼の正体がわかり、阿闍梨祐慶東光坊の法力で鬼婆が殺される話が伝えられています。
能『黒塚』は、岩手が鬼になった生々しい伝説の中身とはほとんど重ならない作りで、観世寺の縁起の内容に近いものになっています。敢えて凄惨な伝説にふれなかったことから察して、能の『黒塚』の女は、おどろおどろしい鬼というよりも、人間の罪障によって鬼にならざるを得なかった女が、その運命から逃れられず、寂しく一人暮らしをしていると見た方が良いような気がします。
以前、観世銕之亟先生に黒塚の女についてお尋ねしたところ、先生は能の『黒塚』(観世流は『安達原』)は「最初から鬼を考えるのではなく、あくまでも孤独で寂しい女の性(さが)や不安が最後に鬼にならざるを得なかったというストーリーのほうが良いし、あのロンギの糸繰り歌にも合っているね」、とおっしゃいました。「ロンギ」で糸車をまわしながら、源氏物語夕顔の巻を絡めた労働歌謡を謡う当たりは、都で裕福に幸せに暮らしていた人が、何か特別な事情で鄙の地に来て一人寂しく暮らすというあの岩手の物語りにも繋がるようでもありますが、代々語り嗣がれているその土地の労働歌の情緒を感じさせる意図とも捉えられます。
糸繰りは昔から女性の仕事で、女性の体の月のリズムと蚕の変態のリズムを同一視する説があると聞きます。
『黒塚』の女も糸車を廻しながら、月ごとにめぐる命と、輪廻する永遠の命を紡ぎ、寂しさに耐えているように見えます。そして孤独や悲しさ、罪障によって人は鬼に変わっていくのです。それは決して超能力を持った物の怪だからではなく、人の心が鬼と化すととらえるのでしょう。 
シテは引き回し(作り物を包んでいる幕)が下りると、その姿を静かに現し「げに侘人の習い程、悲しきものはよも有らじ。かかる憂き世に秋の来て、朝げの風は身にしめども、胸を休むる事も無く、昨日も空しく暮れぬれば、まどろむ夜半ぞ涙なる。あら定めなの生涯やな」と、寂しく謡います。
この曲の位を創る大事な謡い所です。
これを謡う女は、人を食わざるをえなかった環境、もうこのようにしか生きられない罪深い境涯に苦しみ、罪障に心が休まるときがなく、絶望し、静かに死を待ってるようでもあり、また、この境涯から救われたい、改心したいと宗教者(僧侶や修験者)をひたむきに待っているとも思えます。それが、鬼の正体をあばかれ、救われるどころか自らが拠り所にしていた法力で逆に退治されるという悲しい結末になってしまうのです。
お能ができた室町時代は、飢餓や戦さがあり、平穏無事の時代ではなく、死者を身近にみることが多かったようです。山中には屍が放置され、どくろが風雨にさらされている光景もそう珍しくなかったかもしれません。最も犯してはいけない、人が人の肉を食らうことがなされていたかもしれない、そういう時代背景で死や人間の生き方をとらえて、『黒塚』という作品が生まれてきたのではないでしょうか。
能では里女が住む庵を四角い木の枠の塚の作り物で表現しますが、そういう実体のあるものでなく、夢、幻とみる人もいます。安達原の原からは荒涼とした原に累々と続くどくろの群れ、黒塚の塚からはこんもり盛土された墓を想像することもできます。その時代の死者を思い、罪障深い人間の生を思うとき、ただすさまじき鬼の話だけではない、捉え方が大事な事と思えるのです。
私は『黒塚』の鬼女をこのように捉えて演じていますが、解釈の仕方によって、前場の里女の演出に違いが生じます。
中入り前、寒いので薪を焚いてあげようと言って、女が薪を取りに行こうとする場面。自分がいないときに「閨の中を見ないように」と念を押しながら、最後、橋掛りでじっくりと山を見上げる型をしてカッカッと大股の足運びで幕の中に入るところがあります。そこではすでに鬼になっているのだ、だから強い「切る足」で鬼のすさまじさを内包した足づかいをするのだという考え方をする人もいます。私は、その時点ではまだ鬼になっていないのではないか、強い足づかいは、薪を取りに山に入るのだから、着物の裾を上げて、力を込めて登っていく風情なのだと思います。
しかしここに悲しいかな鬼の本性が見えてしまうのだと解釈すれば、鬼の切る足でも成立するわけですが、私は鬼になる時点は、おそらく、閨の内が暴かれた瞬間(あるいは、その様を目の当たりにした瞬間)ではないか、従って、橋掛りから幕に入るまでは里女の心持ちのままで演ずる方がよいのではと考えています。
後半の鬼女の扮装の演出もいろいろあります。一般には赤頭で顰(しかみ)という鬼の形相をした面をつけ、法被半切の荒々しい装束で、柴をしょって(負柴)で登場します。これは鬼畜、怪物を前面に出した演出といえるでしょう。替装束の時は黒頭となります。
今回父は白頭で演じました。白頭は当然髪が白くなり、面は般若になります。般若の方が鬼畜というより女の恨みが角に現れ、女の業をより強く表現します。柴の持ち方も負柴ではなく抱柴です。自分が着ていた着物を柴に巻いて抱いて約束の証として出てくるのです。これも鬼畜というより、より人間的な、ある種、女のやさしさが出ているように思います。ですから、白頭という演出は、すさまじい鬼というよりは、鬼にならざるを得なかった人間、人間らしいやさしさを内に持った鬼を演ずるのに合っていると思います。
ところで、「閨の内を見るな」という禁忌を破る話は、日本だけでなく世界にもさまざまあります。見るなと言われれば言われるほど見たくなる人間の性、それによって劇的に迎える結末、それらが物語をドラマチックにしたてています。禁忌を破る場面はいつの場合もハラハラ、ドキドキさせられます。
能『黒塚』では、ここをアイ狂言が滑稽に、コミカルに見せてくれます。私が若い10代で、人間国宝の野村萬先生が万之丞と名乗っておられた頃、このアイをやられて、とてもあったかで人間的なものを感じたことを今でも鮮明に覚えています。その名演技に、地謡の前列で笑いを堪えられず思わず下を向いてしまったことを思い出します。「見るなと言われれば見たくなるのが倅のころからの癖」の語り口、閨の内に行こうとして咎められ言い訳をする言葉のあややタイミング、体の動かし方が絶品で、何ともいえぬ味わいです。
『黒塚』という曲は実は、私が能の魅力に目覚めた出逢いの曲です。初めて『黒塚』を演じた27歳のとき。それまで私は心が定まらず、お能に興味が持てずにいました。あの手この手と、私を能の方に引き寄せようとしていた能夫が、『黒塚』のときに一つの話をしてくれました。『「月もさし入る」っていうところ、普通は枠かせ輪(糸車)に手をかけ、常はただ右手で糸車を持つだけだが、まあ替えの型で月を見るように上を見る型をやる人もいるけれど、そこを観世寿夫という人は「月もさし入る」と言って右下の閨の内に射し込む月の光をじっと見たんだ。こんな発想喜多流にはないだろう。』と。
この言葉は衝撃でした。月といえば上、海といえば下を見ると決まっている、お能はそういう決まりごとを伝承していくだけで、創造性のないものだと思っていた私の心を大きく揺るがし、今までの私のお能のイメージを一掃させ、新たに能という演劇世界のイメージを脹らませてくれたのです。流儀内の決められたものとは違う世界がある、これは何て面白いのだろうと・・・・。
そして、能夫はそのとき、装束や面を自分自身で選べ、着たいものはすべて出すからと言ってくれました。自分の責任で演出し、デザインしろと言ってくれたわけです。
今、当時の写真を見ると、装束の色彩のバランスは悪く、よくあれを着て出たなと思うのですが、能夫はおかしいから替えろとは言わずに、選んだもののよし悪しより、自分で選び見立てる作業の方を優先してくれました。そして、粟谷の家にはいくつもの装束や面があり、自分はそれらを自由に選べる恵まれた環境にあることや、それを集めた祖父や叔父たちの蓄積をその時身にしみてわかったのです。今もあの時が私の演能の始まりだと思っています。
この能にこめられたものは何か、どう演出したらよいかを考えるようになりました。それが能を伝承する者の勤めでもあり、また生き甲斐になるのです。
『黒塚』は自ら創造的に役づくり、舞台づくりをしようとした最初の曲でした。少しずつではありますが、演ずるたびに積み上げられていくものが実感できるようになりました。様々なものを見聞きし、考え、研究し、取り込み作業をするなかで「げに侘人の習い程、悲しきものはよも有らじ」が見る人の心に届くように謡え、全体を通して黒塚の女の心が表現出来たらと、望みは果てしなく高いのです。
(平成12年9月 記)
写真
1 前シテ 粟谷明生 撮影 堤 恒子
2 前シテ 粟谷明生 撮影 三上文規
3 曲見 撮影 粟谷明生
4 後シテ 粟谷明生 撮影 三上文規
5 般若 撮影 粟谷明生
神となった光源氏 ー『須磨源氏』を演じて投稿日:2000-08-06


鎌倉芸術館が「能で見る源氏物語シリーズ」(全9回)と題して能楽公演を打っており、私はそのシリーズの5回目を依頼されて、8月6日『須磨源氏』を勤めました。『須磨源氏』という能は、光源氏が兜率天(とそつてん)という天上界から須磨の地に下向し、ひととき、在りし日の下界の地を楽しんで舞い、また天界に帰っていくという、比較的単純な物語で、能の基本の二曲(舞歌)に基づいて簡潔に作られた世阿弥作の小品です。演者としては、どこをどのように演じたらよいか苦心し、正直申しますと、やりがいのある曲とは言い難く、やりにくい厄介な曲の部類に入ると私は思います。
前場のクセなどは源氏物語の巻名を語呂合わせ的な詞章で綴っているあたり、能『源氏供養』にも類似しており、源氏の経歴を語るのみで、心のうちを謡いあげているものではありません。ですから奥深さがある能とは思えないのです。
しかし演じる以上何かを掴まなくてはなりません。それで私は気になる、光源氏、須磨、兜率天という言葉を軸に考えてみました。
『源氏物語』を本説にした能はたくさんありますが(現在残っているのは十数曲)、ほとんどが、源氏を取り巻く女性たちを主人公(シテ)にしたもので、光源氏自身が登場するものは『須磨源氏』と『住吉詣』のわずかに二曲。しかも『住吉詣』はシテが明石ノ上で源氏はツレですから、シテとして登場するのは『須磨源氏』のみということになります。数ある能の中でたった一曲しかシテとして現れない光源氏をどう表現するかが問題です。光源氏は『源氏物語』という物語の中の空想上の美男子です。同じ美男子でも、在中将業平の方は実在の人物としてそれなりのアプローチが可能と思われますが、源氏の方はつかみどころがありません。しかし、あまたの女性の心をとらえた美男子であることは間違いなく、平安時代から現在に至るまで『源氏物語』を愛読した人々のイメージの中の美男子像を裏切るわけにはいかないという難しい役どころです。
作者・世阿弥は、光源氏を登場させるのに、なぜ須磨の地を選んだのでしょうか。栄華を極めた地ではなく、都から自ら退いた辺境の地・須磨。
源氏二十六歳の春、右大臣家と左大臣家の政争の中、朧月夜との恋をきっかけに、自らの立場を自覚しての須磨への引退でした。須磨での侘びしい暮らしは、源氏に静かに物を想う清澄な時間を与え、その後の生き方を決める重要な転換期を作り出したといえるでしょう。すでに兜率天の神となり、天界に住む源氏が懐かしく舞い降りてくる地、そこは想い悩んだ青春の転換期の地・須磨以外にはないのです。住吉の神の導きによって過ごした明石では明石ノ上との恋があり、再び華やかな都に召還されるスタートの地となることから、須磨ほどの純粋性、透明性には欠けるのではないでしょうか。『明石源氏』では成り立ちません。
『須磨源氏』の詞章の中でわからなかったのが「兜率天」という言葉です。
サンスクリット語のトゥシタ(満足する)を漢字に当てた兜率陀が基になったといわれ、満足の心で満たされた境地を表すそうです。
辞書(広辞苑)を引くと「欲界六天の第四位。内外二院ある。内院は将来仏となるべき菩薩が最後の生を過し、現在は弥勒菩薩が住むとされる。外院は天人の住所」とあります。弥勒菩薩が住むというのですから、天上界でも位の高い仏が住むところと考えられます。
仏教の世界では地の下に地獄があり、地の上には天界があるとしています。その天界には1、2の地上に住む天、地居天(じごてん)と3?6の空中に住む天、空居天(くうごてん)があり、さらにその上には色界というもう一段位の高いところがあります。1?6に住む神々は、天(=天神)といわれながらもやることは人間と大差無く、道徳的にも不完全な神の存在であるそうです。より高所に住むものほど修行が進んでいますが、未だ愛欲なども持っているため、六欲天と呼ばれてるということです。(参考資料 定方晟 著 「須弥山と極楽」より)
私は、兜率天は神が住む空間であると同時に神の存在そのものでもあるように聞いています。能の光源氏は兜率天という空居天に住み、すでに神になっているように思います。早舞の後の舞台進行が『高砂』の住吉明神や『弓八幡』の高良の神のような脇能の作りに似ているのも一つの根拠になっています。ですから光源氏は気品のある美男子である以上に、神の存在としての神々しさが表現出来ればと思います。
このように考察してきて、今回は様々な新しいを試みをしてみました。
まず第一は面です。源氏は空想上の美男子、多くの人のイメージを崩さない面となると、意外に難しいものです。伝書では中将となっています。
中将には高貴な人々の亡霊系の面と、修羅道に落ちた平家の武人の二系統があります。『須磨源氏』ならば、この高貴な人がつける亡霊系を選べばよいということですが、なかなか『須磨源氏』に使えるような、きりっとした「中将」にはめぐり逢えません。
この「中将」という面は眉間にしわを寄せ、やや苦悩している表情なので、兜率天に住む神としての源氏には似あわないのではと、最初は思っていました。多少の憂いはあったとしても、神としての晴れやかさ、のびやかさ、大らかさがなくてはいけないのではと。そこで、「源氏」という専用面も思案しましたが、この面は「十六」の替えで、余りにも若過ぎて、人生の転換期を過した人の顔としては幼なすぎるため対象外としました。
今回私の意向を聞いてくださって、岩崎久人氏が「二十五六」のイメージにて創作面を打ってくださいました。此の面は邯鄲男をベースに今若、中将、若男を掛け合わせたようなお顔で、眉間に皺が入っています。当初は「中将」の眉間の皺が気になっていましたが、六欲天の事を調べているうちに、彼らは未だ色界にいて天という神でありながらも、やることは人間とそう変わらず、道徳的にも未だ不完全で愛欲さえあるらしい、ならばかえってその負を表現するためにも皺は必要かもしれないと思えたのです。
光源氏というテーマが大き過ぎるため、必ずしも全てが私のイメージ通りとはいかないまでも、創作面にかける意義を再考する良いチャンスとなりました。
能誕生当初は皆、面は創作であったわけです。般若は般若坊が女の恨み、怒り、嫉妬を持つ顔を想像して打ち、三光尉は三光坊が老人の顔とは、と想像して打ったのです。源氏の面としてピッタリ当てはまるものがない今、『頼政』には頼政という面があるように、『須磨源氏』にも適切な創作面が作られていくのもよいのではないかと思っています。
創作するエネルギーのすばらしさ。室町桃山は日本の文化の絶頂期といわれ、面制作においても傑作が続出しました。現代の面打ち師にも、素晴らしい模写の世界と共に是非創作にもエネルギーを注いでいただき、そういう面打ち師の登場を期待したいと思います。 次に装束です。我家の伝書に、「?後ハ、初冠(ういかんむり)追掛(おいかけ)有ルモ宜シ無シハ取リ合ワズ、源氏武官ヲ兼ネタル左大将也?」とあります。
追掛ということは、武官の姿でありますから、巻纓(まきえい・纓は冠についた短冊型の垂で巻纓はそれが丸く巻かれた状態)の武官式でもよいということです。源氏は武官・文官の両方の位についた人物だったので、どちらでも良いと言っているようです。
私は今回、直衣(のうし)《普通は狩衣で喜多流には所有者無し》を着てみようと考えました。直衣は裾横に大きな襞がついていて全体にたっぷりとした、いかにも文官の形で、身分の高い人が着るものです。今回は観世暁夫氏にお願いし、白地に金の刺繍が施されている直衣を拝借しました。ということで文官式ですから、追掛は付けず初冠(ういかむり)に垂纓(すいえい)の形となりました。
そして新しい試みとして、冠鬘(かんむりかづら)をつけてみました。これは最近、暁夫氏が銕仙会にて能『雲林院』で試演されたもので、考案者は銕仙会の清水寛二氏です。
喜多流従来の面をつけて初冠をかぶるだけの姿ですと、演者の耳や髪という生な部分が見えてしまいます。今まではそれに慣らされてきましたが、私はこの格好を好むものではありません。
源氏は神となったのですから、出来る限り演者の素肌が出ない方がよいのではないでしょうか。今回冠鬘を拝借して、自分の髪と耳を隠し、鬘の髪を頭の上で結って、その上に冠をかぶるという本来の形でやりました。楽屋内では慣れないせいか「違和感がある」との話でもちきりでしたが、そのうち慣れるかもしれません。また今後は、黒垂や冠鬘の他にも、喝食鬘(本当の髪の毛を使った鬘)をつけるなど、兎に角生身の人間を出さない工夫はすべきであると思うのです。
私のイメージに近づけ、高貴な出立で登場した光源氏は、ただただ美しく舞うことが大命題で、ここをいかに舞えるかがシテの技量の見せ所、勝負どころです。
早舞は主に貴人が舞うものですから、颯爽と凛として、が心得です。
早舞には「クツロギ」という特別演出があり、今回私はこれを採り入れてみました。
「クツロギ」は舞の途中でしばし休息する意で、舞台より橋掛りへ行き、三の松でしばし佇んだままになります。そして徐々に高まる囃子の演奏と演者の想いの充実感によって又舞台に戻り、舞い始めるという演出です。この橋掛への行き来の時、リズムに合った笛を吹くのが常ですが、今回は往復ともリズムに乗らずアシライ笛にていたしました。これはなかなかやらないのですが、一噌隆之氏をはじめ囃子方全員にご協力願い、その場での一回勝負という、独特の緊張感の中で作りあげました。一つの舞台効果となったと思います。
私のクツロギでの心持ちは、橋掛りで佇みながら須磨の景色を眺め、青海波を舞っていた時分や青春期のあやまちを回想しながら、下界と天界の間の浮遊感を楽しむといったところです。神でありながらも人間的感情は残っているという色界の神の意識がそこにはあるように思えます。
謡では、「ロンギ」の最初「さてや源氏の旧跡の、分きていづくのほどやらん。詳しく教え給えや」を、ワキの森常好氏に特別にお願いして地謡の代わりに謡ってもらいました。ここの段はまさにワキがシテに問いかけるところですが、現在では地謡が代弁するように謡っています。阪大喜多会OBの藤田隆則氏の著書『能の多人数合唱(コロス)』によると、昔は地謡とワキが明瞭に分かれておらず、ワキが地謡も謡うのはごく自然なことのようでした。喜多流では地謡が謡うところを、地(観世流などはこう呼ぶ)といわず、「同音」というのは、このなごりからです。
今回試しに地謡の一部をワキの謡いに替えることにより、シテとワキのロンギらしいかけ合いが出来たらと考えました。この成果の賛否は判りませんが、地謡を謡った能夫氏によれば、シテとワキのロンギを黙って聞いていて、最後にいきなり「天に住み給えば・・」と張って謡うとなると、なかなか地謡全員のボルテージが上がっていかない。本来ワキが語りかけるところを敢えて地謡が代弁しながら徐々に高揚していき、最後の「雲隠れしてぞ失せにける」で大合唱となる現在の形式には、やはりそれなりの意味があるということでした。今の形の良さを再認識出来たことは、一つの収穫だったと思います。
お能には長く伝えられている形式があります。長い年月に洗われ確立されてきたものですが、形だけの継承で、なぜそれがよいのか実感できないことが多いものです。
今回のように、既存形式を代え新しい試みをすることで、なぜ伝承された形式がよいのかを発見できると思うのです。その意味で今回のさまざまな新しい試みは、次の演能へのステップとして生かされていくものと思います。
最後に、この曲を演じていて一番難しかったのは前シテの尉の謡でした。
世阿弥も『風姿花伝』で「老人の物まね、此道の奥義なり。・・・能をよき程極めたる為手(シテ)も、老いたる姿は得ぬ人多し」と言っているほど、老人を演ずることは難しく、能楽師にとっての大きな課題の一つです。『須磨源氏』においても、演者自身の声で謡って、自然に、前シテは尉に聞こえ、後シテは光源氏になるというのが理想です。私はまだ、自然と尉を演ずるまでに遠い道のりがあるようですが、いろいろ試行錯誤しながら体得しなくてはと思っています。
今回の『須磨源氏』は、待ちに待った粟谷明生指名の公演依頼でありました。
鎌倉芸術館の公演は、私のシテ方としての新たなデビューともいえます。嬉しくもあり、身が引き締まる思いです。これを機会にますます精進していきたいと考えています。
(平成12年8月 記)
野田神社の能舞台で歴史を感じつつ 『小鍛冶』を演じて投稿日:2000-07-28


今年の夏(平成12年)は、7月28日に青森の外ケ浜薪能で『船弁慶』、8月4日に山口の野田神社で『小鍛冶』白頭、そして8月6日に鎌倉芸術館で『須磨源氏』を勤め、暑い夏に熱き演能が重なりました。
野田神社は山口市にある明治維新の宏業、毛利敬親公をまつる神社です。昭和11年旧長州藩主の毛利家が明治維新70周年を記念して建築奉納した能舞台で、大変立派な素晴らしい屋外の能舞台です。特に陽が落ちてからの薪能でのロケーションは舞台が浮かび上がるように見えて幻想的で、全国屈指の能舞台と言えるでしょう。もともとは神社旧参道横(現.野田学園運動場)に建立されていましたが、昭和43年、山口都市計画事業による市道の新設に伴い参道が分断され、運動場として野田学園に割譲されたため、一時能舞台は運動場の片隅にポツンと孤立した寂しい状態になっていたそうです。これではいけないということで、平成2年に神社内に移動し、それ以来毎年夏に山口薪能を催すようになりました。第一回は喜多流で始まり、粟谷新太郎、菊生が勤め、毎年順に他の流派にもお願いして継続してきました。今年は10年という記念すべき年に当たり能夫が『葵上』、私が『小鍛冶』白頭を上演することは、嬉しくもあり、また時代の流れを感じさせられるものでした。
この能舞台は地元の愛好家や能に好意的な宮司様のお力で保存状態が大変よく、本舞台も橋掛かりも板が平らで足の運びがスムーズにでき、演じていてとても気持ちのよい本物の能舞台でした。黒光りする柱や床、薄暗い舞台に浮かび上がる老松、すべてがとてもよい雰囲気で演者側から見ても感激します。
能楽堂の側に過去に奉納した能の記録があり、そこに祖父・粟谷益二郎の文字、先代喜多実先生や十四世六平太先生の名前が見えて、興味尽きないものでした。さらによく見ると、粟谷新三郎という名も見えます。新三郎というのは益二郎の祖父で、明治26年4月の御神能に『融』を演能したとあります。そしてその地謡に粟屋藤次郎という名が記されています。粟谷ではなく粟屋です。いったいこの人は誰だろう。「や」が違うから粟谷家とは無関係ではないか、いや、昔は粟屋と書いていた時期があるらしい、途中で粟谷となったとも聞かされている。地謡の粟屋氏は谷にしなかった何か訳があるのだろうか、もう少し調べてみたいところです。結論は出ませんが、能を我々の先祖が代々しっかり守ってきたのだという証しを見たようで誇りに思いました。
今回の野田神社での能は屋外での薪能。私の『小鍛治』白頭のときは、日が暮れる前だったため、火入れの儀式はその舞台の後となりました。能夫の『葵上』では、暗闇の中、薪がメラメラと燃えて、舞台を映し出し、ときには薪がバサッと崩れる音がして、ムードはいやおうなく盛り上がりました。ただ演じている方は、暑くて汗びっしょり、装束に煙はつく、湿気が多くあまり気持ちのよいものではありませんが、夏の風物詩として、観客のみなさんには喜んでいただけたのではないでしょうか。
さて、私が勤めた『小鍛治』白頭ですが、数ある名刀譚の一つで、名刀工・三条宗近(ワキ)が、帝の霊夢によって剣(つるぎ)を打たせる旨の命を受けたとき、稲荷明神(後シテ)が相槌(共に刀を打ってくれる名工)となって、見事にその任を果たした話です。
稲荷明神は狐の化身ですから、頭には狐の飾り物をつけ、白頭なので狐足という喜多流独特の足づかいをするのが特徴になっています。運びはすり足ではなく、踵をできるだけ床につけず、腰を一定の位置に決め爪先だけでピョンピョンと跳ぶような動きをします。まさに狐の動きを模したもので、非常に脚力が要求されます。後シテ・稲荷明神は普通は赤頭をつけ黄金色の狐を頂きますが、白頭は白い頭(かしら)に白い狐を頂きます。喜多流の小書きは白頭のみで、観世流にある黒頭の演出はありません。白頭(黒頭、赤頭)については研究コーナー『殺生石』のところで考察しましたが、「白頭」にすると、老体のイメージというよりは、劫を経て超越したものを表し、重々しい演出になるのが一般的です。しかし『小鍛治』の場合の白頭は狐の系統で狐足となり、重厚さというよりは狐のような俊敏な動きがテーマになります。伝書を見ますと「白頭の時、面は野干又は泥小飛出」とあります。一度「野干(やかん)」をつけてと思うのですが、やはり狐足の動きと合わないように思えてなかなかその気になれません。
ここで小鍛冶の面について『芸道読本』(高林吟二著)に十四世喜多六平太先生の面白い話がありますので紹介させていただきます。
「昔は小鍛冶の後は、何時でも野干だったそうだがね。どうも野干では白頭の狐足がうまくいかねえやネ、それでどうしたもんかと野干を床の間に掛けて工夫していたんだが、つい、うとうととした処へ『七太夫!七太夫!』と呼ぶ声がするのでハッと目が醒めた。そして床の間を見ると、確かに今まで野干を掛けていたのに、いつの間にか泥の小飛出になっているんだよ。ハハア!是で解った、さては今のは小狐の御告げかというわけさ。それから後、流儀の小鍛冶の白頭が泥の小飛出であんな風になったという事だぜ」
稲荷明神という神格化したものを表現するという意味では、面は金泥小飛出がふさわしく、装束は清楚、純粋、高位を表す白装束、そして白頭というのが似つかわしい、この演出はまちがいないところです。
この小鍛冶という曲は私の演能の節目にいつも関係しています。第1回目は昭和47年青年喜多会に入会した時、2回目は昭和56年粟谷能の会で舞えるようになった時、3回目は昭和57年我が母校(学習院)での学生能での演能、その後も二回程勤めていますが、思い返せば節目節目の記念すべき時にこの曲が当たっているように思われます。
さてここで、前半の仕舞いどころについて。日本武尊(やまとたけるのみこと)が使って武勲を立てた草薙の剣(くさなぎのつるぎ)【熱田神宮にて保存】の起こりや武勇伝を語る場面の仕舞には、速くかかって舞う場合としっかりとゆっくり舞う場合と二通りがあります。本来はゆっくり舞うのが常だったようで、先代喜多実先生はゆっくり力強くとよくいわれていました。技が冴える六平太先生が、キビキビした動作を入れ、速く舞ったことから、早い形もできたようです。六平太先生に習った方々は速い方で舞い、実先生の教えを受けた方々はゆっくり舞っているようです。このように流儀内でも指導者により多少やり方が異なるという事は昔からあったようです。父に聞いた苦労話ですが、両先生から教えていただいてた頃、六平太先生は右から、実先生は左から見るようにと、仰っしゃることが違うので、どちらの教えに従ったらよいか困ってしまい、本番両先生が見ておられる中、「えいしょうがない、真ん中を見よう」と中間をとったら、両方の先生に叱られたという話があります。
今私達は両方の型ができるように訓練されていますが、私自身は速くキビキビと演じる方が好きで、今回はそのようにやってみました。暑い炎天下の薪能であってみれば、観てくださる方々の為にも、さらりとしている方が合っていたのではないでしょうか。『小鍛冶』は短時間(約1時間)で終わる小品の一番ですが、分かり易い作品内容、激しい動きでの展開で、お能の魅力を身近に楽しんでいただけたのではないかと思っています。
(平成12年8月 記)
写真1、2 野田神社能楽堂
写真3 小鍛冶 白頭 粟谷明生 宮地啓二 撮影
写真4 泥小飛出
写真5 野干
船弁慶の義経はやはり子方投稿日:2000-07-28

粟谷 明生
7月の終わり(平成12年7月28日)に青森市の外ケ浜で薪能『船弁慶』を勤めました。薪能といっても最近は主催者や会場の都合で屋内で行うことが多くなりまして、今回も屋内の会場に薪が置かれる程度の演出でした。
『船弁慶』の子方(義経役)は20回勤めていますが、シテを演じるのは3回目です。今回は義経を子方でなく、ツレ(大人)で演じることになりました。
結果は、やはり義経は子方でなければということです。『船弁慶』は観世小次郎信光の作で、大衆的で見せ物的な華やかさ、おもしろさがふんだんに盛り込まれています。信光の作品は『安宅』『紅葉狩』『道成寺』などにみるように、どれもエンターテイメントに徹しているところがあります。観阿弥、世阿弥、金春禅竹などの幽玄美とは趣を異にし、おもしろ味のある作風であると思います。
舞台が始まり、まず最初にかわいい子方が側次(そばつぎ)や長絹に大口袴という扮装に梨打烏帽子や金風折烏帽子を付けて登場する、これだけで観客の視線は子方を先頭とする弁慶達に釘付けになるでしょう。子方にはこのような魅力があるのを計算に入れて信光は創作していると思います。
『安宅』も山伏姿の子方が先頭に立ち、シテの弁慶はじめ9人もの家来をつれての登場です。『紅葉狩』の場合は煌びやかな遊女達が次々と登場し、『道成寺』はあっと驚くような大きな釣鐘が大人数で舞台に運ばれてくるなど、信光らしい舞台の幕開きが印象的です。しかし何といってもかわいい子方の登場に勝るものはないでしょう。
義経を子方にするのは、舞台上でシテ(静御前や知盛)と脇(弁慶)の関係にもう一つ義経という大きな存在(大人の義経)を入れて、舞台の焦点が散漫になるのを避けるためと、シテをよりクローズアップさせるためだと思います。とりわけ曲名にもなっている脇の弁慶は、シテと繋がりを持ちながら型の動きが多く大活躍します。このような中で義経を子方にして全体のバランスを考えたのは信光の工夫のたまものと思うのです。
今回演じて感覚的にそのことが理解できました。例えば前シテ(静御前)が序の舞を舞いながら別れを惜しむ場面で、義経役に髭が生えた大人が座っていたのでは何か生々しい。かわいい子役の義経を見て泣くからこそ哀れが出て、説得力が生まれ判官贔屓の気持ちになるような気がします。能を初めて観る人や外国の方などは、義経が子方だというので驚かれるようですが、能舞台上では義経は大人ではだめで、子方でしかも小さい子供であればある程良く、これが能の世界での巧みなトリックなのです。

前シテが静御前で後シテが平知盛、この何の関係もない両者を、一人のシテが演じ分けるという大胆なことを、能ではやらせてしまい、能楽師はそれを平気でやってしまうおもしろさがあります。「前と後と役柄が違うのによくできますね」という質問を受けることがありますが、私はこう答えています。「船弁慶のお能のお稽古の前の段階で、先ずクセの仕舞、次に前場の舞囃子のお稽古、それが出来ると薙刀の持ち方から始まり後場の仕舞、後の舞囃子と進んで行き、面白いのはここで一段落して能の稽古となるまで時間があることです。しばらく時間が経ってさあ能の稽古となり最後に全部繋ぎ合わせ補充して出来上がる、つまり部分部分の修練から成立っているため、抵抗がないのです」と????。
一般の方は能『船弁慶』から始まると思われるから、難しく考えてしまうのかもしれません。ですから『天鼓』の様な前シテの老人と、後シテのその子供という役設定も全く気になりません。実際、部分から入り最後にお能を仕上げる教え方が良いのか悪いのか、わかりませんが、近年の喜多流はこのやり方を通してきました。
薙刀を使う能は、よく演じられるものとして『船弁慶』『熊坂』『橋弁慶』『巴』の四曲があります。『橋弁慶』の薙刀は悪僧武蔵坊弁慶が振り回す荒々しいものです。『熊坂』も盗賊の大将として同じように荒々しさが出れば良いでしょう。『巴』は女性が持つ珍しいケースで、薙刀さばきは美しく、華麗にしかも切れ味鋭く女性的な味わいが要求されます。
『船弁慶』知盛の場合は「桓武天皇九代の後胤」と仰々しく名のり出ますから、それなりの威厳があるものでなければならないと思います。薙刀はもともと僧兵や雑兵が、騎馬武者の馬の足を切って打ち倒すための武器で、平安時代武士同士が名乗り合って戦うときの武器ではありません。南北朝時代以後上級武士も愛用したらしいですが、敢えて知盛に薙刀を持たせたのは、華やかなショーを演出する一つの小道具になるように信光は考えたのではと思います。
知盛の薙刀のイメージを、父菊生は、義経主従に襲いかかる荒波を作り出すのだと言います。『船弁慶』の薙刀は『巴』のような華麗な切れ味のものでもなく、『橋弁慶』や『熊坂』のように荒々しさだけでもいけない、もっともダイナミックで、威圧的な薙刀扱いが出来なくてはと教えられてきました。この区別を上手に演じないと、「あれは知盛になっていないね」「巴御前でもあるまいし」などと言われるのです。
この薙刀を使う「後の仕舞」で思うことがあります。この仕舞、内弟子時代はなかなか実先生(先代宗家)のお許しがでないのです。ですからお許しが出たときは、何か自分の芸のランクが上がったようで、同時に自分自身が大人になった、大人の仲間入りができたように思えて嬉しくなり、大いに喜んだことを思い出します。
この仕舞を子供が舞ったのを見たことありますが、実先生がなかなか許可なさらなかったのが判りました。大人の身体になっていない坊やが舞うと、『船弁慶』の仕舞にならず、似合わず滑稽になってしまいます。そして不思議にその子自体の美しささえなくなって見えてくるのです。知盛という大きい像が、大人の標しとしての体毛の生え揃っていない幼い肉体を受け付けないように思えます。

子方の頃、後シテの演技の迫力に、本当に怖いと感じていました。今度は自分がシテとして知盛を演じるのですから、子方が怖いと思うほどの威厳のある薙刀さばきをし、迫力ある演技をしなければ子方に笑われてしまいます。後半のクライマックスにシテが薙刀を振り上げ、義経に襲いかかった後、子方に薙刀を払われよける型があり、上手くやらないと、本当に子方の首をはねてしまう危険な箇所があります。ここばかりは子方に怖い思いをさせてはいけません。
昔、この場面で心得た薙刀扱いをしないと、父が「うちの子を殺す気か」と演者に怒鳴り、「こうやるんだ」と真剣に教えていたことをよく覚えています。私も自分の子供がそんなことになったら、父のように注意出来るようにと思っています。この3月、父のお弟子さんが『船弁慶』をやられ、息子の尚生が子方を勤めたとき、「ここのよける型は菊生先生に口すっぱく言われていますからご心配なく、大丈夫です」と相手に先を越され、拍子抜けしてしまいました。
子方を勤めてきておもしろい話をひとつ。
子方は自分の台詞や前後の謡を耳から覚えます。謡本を見せられることはありません。それがどういう意味かわからないまま、しばしば違うイメージで勝手に覚えていくことがあります。
たとえば『船弁慶』では観世流の関根祥人さんも同じように間違えていたと笑い話になったことのある「このお船の陸地に着くべきようぞなき」というくだり。陸地と書いて「ロクジ」と読むのですが、子供は「六時」と覚えていて「大丈夫、今五時だから六時には着くよ」と思っていたという話や「いかに弁慶、静に酒を勧め候へ」を、自分は「静に」と言ったのに、弁慶はドタバタと荒々しく酒を進めているなと思った、などいろいろあります。
また「舟子ども・・」(舟子は舟を漕ぐ人々、どもは複数を表す)という言葉。それを聞いたらそろそろ立たなければという合図だったので、私はずっと「舟子供.舟子供」と覚えていて、どんな子供なのかな?、海の近くに住む子供かな?などと想像していました。まったく違う意味であったことがわかるのは大人になってからです。子方を経験してきた者同士で話すと、同じところを同じように勘違いしていることがわかり、おもしろいものです。

子供は謡を耳から覚える時期が必要です。理屈ではなく、感覚的にからだにしみ込ませる。しかし、ある時期からは謡本を全く見せないというのではなく、必要な場面では見せ読ませ、意味をわからせることがあってもいいように思います。また、自分が子方のとき、こんな風に勘違いをしていたということを話して聞かせるのもいいのではないでしょうか。
能の世界の子方は義経という名を背負って成長していくと言っても過言ではないと思います。初舞台の『鞍馬天狗』の花見から始まり子方の牛若丸へ、『船弁慶』『安宅』等の義経を勤め、斬り組みの型の勉強になる『橋弁慶』の牛若丸、そして最後は『烏帽子折』の牛若丸で子方を卒業する、このような修練過程になっています。
長く子方を勤めたから一層感じるのかもしれませんが、義経は「子方でなくては!」とつくづくと感じた舞台でした。長い伝統の中で必然になっていることが、今回も意味あることだと知らされました。
(平成12年8月 記)
(写真1 船弁慶 粟谷明生 平成4年三上文規 撮影)
(写真2 船弁慶 大矢克英 粟谷尚生)
『歌占』の難解さにひたる投稿日:2000-05-01


能が長い年月の風雪に耐え、今に伝えられているのは、能に関わる多くの人達の努力によって、ある様式美が確立されてきたからに他なりません。
しかし今、様式がしっかり決まっているがために、逆に演者はその中でただ、形さえ演じれば足りると考えがちです。今回(平成十二年五月自主公演)の『歌占』という曲は、その様式美に頼るだけでは、観る人が理解するのに限界があるのではと感じるものでした。難解な言葉の群、そこに込められた宗教観や死生観。当時の人はわかって楽しめたものも、現代人の日常生活や常識、教養からはかけ離れ、私自身も理解に苦しむ作品内容です。演ずる者が作品を深く知る、このあたりまえの事、これが『歌占』に取り組む始めとなりました。
『歌占』は歌による占い、地獄の曲舞、神懸かりの狂乱場面の三段構成で、そこに親子の邂逅をうまく入れて作られています。今回は個人的に全体のあらすじと、一番難解な「金土の初爻を尋ぬるに」以下の占いの段の現代語訳を作り当日配布しました。現代語訳を出すについては賛否両論あるでしょうが、あえて観る人の理解を助けることを優先しました。占いの段現代語訳 少年の引いた歌
占いの段で「金土の初爻を尋ぬるに」の「金土の初爻」は観世流では「今度の所労」という漢字が当てられ「今度の病気を占うと」ほどの意味ですが、喜多流の「金土」は“金剛に覆われた聖なる国”とか“須弥山の世界”の意で「初爻」は占いの初めを意味し、「西方金剛界におられる諸仏にお目通りを願って、占いの第一からいいますと」というような、巫の常套句ではないかと考えられます。
雄大な宇宙観のもとに占いを始めるという、武士好みの凝った言葉の選択には、喜多流の真髄が現れているようです。
そしてワキが引いた歌の下の句「西紅にそめいろの山」のそめいろは須弥山の別名「蘇迷廬」のことで、転じて「蘇命路」、命が蘇るとよみ解き、病は回復に向かうと占います。
須弥山は古代インドの世界観から登場し、仏教の宇宙観にでてくる世界の中心に立つ山。その雄大な宇宙観、世界観を述べながら、男(ワキ)の父親の病について占うという趣向です。須弥山について現代人は殆ど無知ですが、秀吉の時代、太閤の前にて家臣が須弥山という言葉を使って、歌の雄大さを競ったという逸話が残っており、*(須弥山の歌争い)このことからも、中世から江戸ぐらいまでの武士や知識人には須弥山などの教養は備わっていたもののようです。このように歌占いに込められている意味や深さがわかってくると、興味は尽きないものになります。
次の地獄の曲舞の段や神懸かりの段はこの曲の山場で、シテとしても大事な型の連続で、見せ所です。*(『歌占』にみる地獄の様)『歌占』の作者、観世十郎元雅は地獄の様を見せることで、人生や生き様、死を考えさせようとしたのではないでしょうか。男巫(シテ)は一度頓死し、三日後に蘇るという臨死体験をしているという設定ですから、地獄の有様の舞は正に真に迫ったものになったでしょう。
元雅は『隅田川』『盛久』『弱法師』など、死や生き様を題材にした作品が多く、父世阿弥とはいくらか趣きの違う世界を作り出しています。元雅にとって「一生とは」「死とは」が一つの大きなテーマだったに違いありません。
ここでシテ渡會の某について、渡會家といえば、伊勢の神職にある由緒正しき血筋のはずです。その一族の一人が、家族も捨て、神職もなげうって、遊芸(歌占い)を生業にして放浪の旅に出るというのは、言語道断のことで、神からのお叱りを受けるのは当然のことだったはずです。
にもかかわらず、渡會の某は、伊勢の神が唯一の神なのか、自分の人生はこれで良いのかと苦悶し、広く世界を見て考えたいと、放浪の旅に出たのではないでしょうか。そして旅の途中、神罰に当たり頓死して地獄を体験させられ、三日のうちに生き返って、再びこの世の生を与えられます。しかし私は、この段階での彼は未だ死の淵にいる、つまり自分のこれからの生き方を掴んでいないように思えるのです。
蘇生という大変な体験をしながらも、未だ伊勢への帰還をためらっているように見えます。それが我が子との邂逅によって、この子ともう一度伊勢で生きてみようと、心に決めたのではないでしょうか。
地獄の曲舞が主題の『歌占』に子供との邂逅を入れたのは、地獄の恐ろしさを見せつけられた観客に、心がふっとなごむ場面を作って精神のバランスをとるとともに、渡會の某の再会後の生き方を決定づける重要な仕掛けにするためだったのではないか–。父子邂逅の場は筋立ての為の単なる付け足しで、それ故『歌占』は主題がやや散漫になり失敗作ではという人がいます。
しかし、この場は、親子掛け合いでの舞台の盛り上がり、役者自身の真実性ある演技が必要とされ、舞台に立つ人も観客も興奮するような場面をつくらなければならないと、教えられてきました。私は自分で演じてこの場の重要性を肌で感じ、これが付け足しであろうはずがないと思いました。
元雅は無駄なものを一切削ぎ落とし、見事に一曲を構成していたのです。一見、無駄に見える親子邂逅も、実は渡會の某の心の動きに焦点を当てた時に不可欠で、作者が予め巧みに仕組んだものであったのです。
人生への惑いと悟り、現代人にとっても永遠のテーマがここに盛り込まれ、今観る人の心を突き刺していくようです。
今回『歌占』を深く理解しようとする中で、渡會の某という役を演じることから、彼の中に自分自身を投影し、己を表現するという事が意識できたのは、一つの嬉しい体験です。サシ謡以降の「一生は唯夢の如し、・・・」はまぎれもなく、今自分の心のうちにあるものです。この作品は壮大な宇宙論に思いを馳せながら、生き様や死をじっくり考える時が、自分にも間近に迫っていることを教えてくれているようでした。
2000/6/20 記
子方を通しての『望月』投稿日:2000-03-05

粟谷能の会粟谷新太郎一周忌追善(2000年3月5日)で『望月』を勤めました。
『望月』は、獅子舞をベースにした仇討ち物語で、能としては珍しく一句の拍子謡の歌唱部分がなく、会話の台詞しかありません。安宅同様、直面物(ひためんもの)の芝居的な要素が多い曲と言えます。『井筒』(いづつ)、『野宮』(ののみや)、『定家』(ていか)に代表されるような幽玄としての要素が乏しいことから、作品としてこれから生き残る価値が無い等という人もいますが、私は『望月』のように、物語が分かり易く、獅子舞という見せ場があり、特に子方が活躍するこの曲は観客が存分に楽しめるものと信じ、決して廃れるとは思いません。一日の観能の最後に何と無く気持ちがほっとする、このようなものもあっていいのです。
しかし、それには子方が立派に勤めることが必要とされますので、その役割は重要です。子供を子方から一人前の能楽師に育てること、これは親としての勤めでありますが、周りの環境の力もまた大きな支えとなります。子供の成長過程に於いて、今この小さな役者に何が必要かを考え、その年齢にふさわしい曲目を選曲してあげること、これは大事な事なのです。大人の勝手な演能スケジュールに振り回される事を良しとしたくありません。子方の修行過程をむやみに変えるような無謀な計画、それがもし成功したとしても、私は慎むべきではと考えます。周りが優しく暖かく見守ってあげなければ子供は上手く育たないでしょう。そして親は子供のふさわしい時期に、たとえその機会が無くても、共に勤めるだけの力をつけておくこと、それができない様では父親として能楽師として、悲しく恥ずかしいことであると教えられてきました。
私は三歳にて『鞍馬天狗』の花見(はなみ)で初舞台を踏んで以来、子方を百二十回勤め、多くの経験をさせてもらいました。それは確かに芸の肥やしになっていますが、一方曲全体の流れがわからず、自分の演ずる部分だけをこなすような事が多かったので、息子尚生には一つ一つの舞台を丁寧に勤めさせ、その中で何らかの感動を得ながら、能を演ずることは辛く苦しいが、反面こんなにも楽しく面白いものがあるのだと、感じてもらいたいと常々思っています。子供が演じることを楽しむようになったら、まずは大成功なのです。
私の『望月』の子方は八歳から十歳の間に六回勤めており、今回は自分の経験を基に息子に教える事としました。例えば最初の橋掛りにおけるツレとの連吟(連吟=二人以上で同時に謡う)。ここでの謡の音の高さが合わないと舞台の緊張は一瞬に解け、子方は登場したそうそう不安にかられ、声の張りは萎縮してしまいます。子方は子供の声の高さで体中を使っておもいきり大きな声で伸びやかに謡うのが身上ですから、ツレが位を保ちながらも上手に子方に合わせ誘導しなければならないのです。今回、ツレの長島茂さんには何度も念入りに、音あわせ に協力していただきました。その結果、子方が安心して大きな声が出せて良い成果をだしたと思っています。
今回舞台での見直しにつながったことですが、子供の頃より気になっていた事がありました。ワキ(望月秋長)が登場して、シテ(小沢友房)が子方(安田友春の子、花若)に望月が来たことを知らせます。それを聞き、子方が「何、望月と申すか」と勇む場面があります。従来の喜多流の演出では本舞台上に二つの部屋があるという設定で、ワキとアイ、ツレ(友春の妻)と子方という仇同士が直ぐ隣に座っているというなんともおかしな舞台風景になっています。私は子供の頃、こんなに直ぐ隣に望月がいて見えているのに、どうして急に驚いたように、「何、望月と申すか」と謡わなければならないのか、子供心にも腑に落ちなく違和感を覚えていました。そこで今回はワキとアイが宿を借り舞台に入った後はワキ座の奥に本舞台から外れて座って貰い、子方とワキのいるところとがはっきり分かれている形の演出にしました。そのほうが自然なはずです。
『望月』の子方にとって最も大変なのは羯鼓(かっこ)を打ちながら舞う場面です。笛に合わせて舞うのは難しく、重要な稽古のポイントですが、笛方と合わせるのは申合(もうしあわせ=リハーサル)一回だけです。最初は笛の部分を口で唱歌して稽古します。最近はテープがありますから、型ができあがりかけたら本番さながらにテープで練習することができますが、私の時は唱歌に合わせるだけでしたので、いざ申合という時にお稽古のように笛が聞こえてこないので、びっくりし困惑した思い出があります。それに本物の羯鼓は当日でなければ付けることができません。当日初めてこれが刀、これが羯鼓と見せられ、こう持つ、こう打つんだと教えられるのです。とにかく初演の時に面食らった色々なことは、今でも忘れられません。
今回息子には、稽古の時から羯鼓と同じくらいの大きさのものを腹に付けさせ、刀もおもちゃの刀を買ってきて、扱いの練習をさせました。最近の子供はチャンバラごっこをしないので、刀の抜き方、持ち方、例えば左手は鞘(さや)を腰につけ持ち、右手は鍔(つば)ぎりぎりを持つ、などということを知りません。大人の感覚で教えなくてもわかるだろうと思う事でも、子方は戸惑うことがあります。ですから、できる限りこのような障害は最初に取り除いておくことが、大事なことだと思うのです。これは私の体験からのものです。
『望月』の最大の見せ場は獅子舞。これがあるため重い習(ならい)とされていて、シテとしても力の入るところです。子方の時子供心に、この場面のシテは格好いいな、自分も将来やってみたいなと感じて見ていました。そして気持ちが熱くなってきたところで、いざ仇討ちの場面になります。観世銕之亟先生は『望月』は目が大事といっておられると聞きました。仇討ちに向かうワキを見据える目、特別な動きとしてではなく自然と身体の内側から出てくる動きとして利いてこないといけないのです。子供にはしっかりと場面設定を言い聞かせ舞台を理解させておき、本人が楽しんで舞うようになった時、それは自然と生まれてくるものなのです。
子方ができる時間は限られています。息子も、三,四年すれば子方卒業です。そういう子供との一番は大変貴重で、まさに一期一会。子供にも能の舞台に立って熱く感じるものがあるのですから、一曲一曲ステップアップしていけるように配慮していきたいと考えています。
最後に『望月』のもう一つの醍醐味、それはクセ(子方とツレが曾我兄弟の仇討ちの物語を謡うところ)の部分です。この地謡は前半のクライマックスで粟谷の独特な謡い方があります。謡本の下音(げおん)としるされている箇所を低く謡わず、一段高い調子で謡いあげるところに口伝があります。今これを上手に謡いこなすのは父粟谷菊生が一番です。自分が『望月』を勤めるときは絶対父に謡ってもらう、これが私の願いでした。今回菊生、能夫が地謡で朗々と謡い上げてくれて、息子と力を併せて『望月』の舞台を勤めたことは、私の良い思い出となりました。伯父新太郎への追善として、良い舞台を手向ける事ができたと思っています。
写真 東條 睦氏
『頼政』の鬱屈と爆発 小劇場にて投稿日:2000-02-26


SPAC能楽特別鑑賞講座(平成12年2月26日)の『頼政』では、父の体調が突如悪くなり私が急遽代演する事となりました。急な代演というのは、技術面(謡=言葉、型=動き)の心配もさることながら、曲に取り組む心の準備に時間がないため不安が付きまといます。あわただしく舞台に向かう中、繰り返し謡や型の確認をし、その短い時間で集中して、どう演ずるかを見つけださなくてはなりません。
しかし当日の観客は予定されていた演者を期待し、代演者では少なからず失望しています。その負の要素を背負って舞台に立つことは、どんなに心を込め精一杯勤めていてもやりづらいものがあります。
今回の『頼政』は静岡県舞台芸術公園内、楕円堂という小さな円形劇場で現代劇、小劇場用の空間で行われました。壁、柱も黒いうえに照明が暗く、ほとんど真っ暗な中、シテやワキにスポットライトが当たり、演者が浮かび上がるような演出でした。(通常能の世界ではスポット照明は使用しません。これは面の中に光が入ると演者の目が見えなくなる為です)。
もちろん橋掛りも四本柱(舞台を支えている笛柱、ワキ柱、シテ柱、目付柱の四本)もありません。最初この舞台を見て驚きましたが、それよりも増して、プロデユースをなさっている観世栄夫先生に「いったい、どこから舞台に出て、どのようにワキに呼びかけたらよいのですか」とお聞きすると、「ここは扉が沢山あるから、どこからでも好きなところを開けて出てよ」とのお返事で、尚仰天してしまいました。
常の寸法(普通の能舞台は三間四方)ではない変形の狭く暗い舞台は、面をつけて演ずる側にとって、全くいい条件とは言えず演じにくい難しい空間です。
しかし、観る人の意識や息づかいなどが、直に伝わってきて、舞台と客席が一体となる小劇場ならではの魅力はこういうことか、とわかる気がしました。全体の舞台効果について、地謡の人達から、いつもと違う空間の面白さがあった、能舞台でないところでそれなりに充分成立していたと聞き、表現方法にはいろいろな可能性があることを、再発見できました。
『頼政』を勤めるに当たって、初演に出来なかったことを思い出しました。後シテの頼政が宇治川の橋合戦の模様を再現する場面は、地謡が宇治川の急流を謡いあげる中、決められた型をしっかり演ずれば、よい見せ場となりますが、難しいのは、前シテの老人がワキの旅僧に名所教えをする前半部分です。
ワキの「名所旧跡を教え侯へ」に対して、シテは「卑しき宇治の里人なれば?」名所旧跡など知らないと、ひねくれた答え方をします。そのうち喜撰法師の庵はどこか、槇の島、小島が崎はどこかと次々と聞かれていくうち、平等院のことをなかなか聞いてくれないことに苛立ちはじめます。そしてついに自分の方から、宇治の名所といえば平等院ではないかといって案内し、頼政が自害した扇の芝の説明を始めます。この何でもないようなやりとりの中に、頼政の思い通りにいかなかった一生や、この世への執心が象徴的に表現されなくてはつまらないと思います。
頼政の辞世の句は「埋もれ木の、花咲くこともなかりしに、身のなる果ては、あわれなりけり」です。平治の乱では源氏でありながら、平清盛につき、源氏方の滅亡を見ながら、生き延びるという複雑な立場でした。それ故か武勲を積んでも思ったように認められずなかなか昇殿を許されない不遇、以仁王(もちひとおう)に謀反を勧め、諸国に散らばる源氏に平家追討の令旨(りょうじ=王、皇族の出す命令)を発しさせ、共に挙兵するが、直ぐに亡ぼされ、自らも平等院で自害する不運、これだけのことを見ても辞世の句の通りの生涯です。自分の人生へのやりきれなさ、もどかしさ、鬱屈した情念、それがこの世への激しい執心となって成仏出来ずにいます。そういう頼政を思うと前半の名所教えの苛立ちも解っていただけると思います。
「何故自分が一番聞いてほしい平等院を聞かないのか」という焦れ(じれ)を大袈裟にならず、しかし観る人にほんのりとわかるように表現できたらと思うのです。
そして七十五歳とも七十七歳ともいわれる老人が何故以仁王を唆し(そそのかし)挙兵したか。不遇の身をかこちながらこれまでじっと耐えてきたのですから、本来なら動かぬはずです。しかし事を起こしてしまったのは、息子仲綱が平宗盛に、はずかしめを受けたからです。宗盛は仲綱の愛馬「木の下(このした)」を所望しますが、仲綱は断ってしまいます。父頼政はこれを聞き仲綱をなだめ愛馬をさし出させますが、時既に遅く、わがまま宗盛は「木の下」の尾とたてがみを切り、尻に「仲綱」の焼き印を押して放ってきます。戻ってきた愛馬の哀れな姿が、頼政にはきっと自分自身にもまた源氏一統にも見えたのではないでしょうか、遂に自らの怒りの心に火をつけてしまいます。能ではこの馬の話しからを間(アイ)狂言が語ります。
私はここを聞くのが好きで、地謡の時先人の上手い語りに心ときめかせたものです。今これを後シテで演じる心の高ぶりや怒りの基盤にしています。それにしても子供の喧嘩に親がでるのは愚かということになりますが、親になってみるとこの気持ちがわからないでもなく、ちょっと考えてしまうところです。我慢を積んでいる人にとって、自分より身内や家名をけがされたことが発火点になることはよくあることで、頼政も武門の恥をそそがんと奮い立つわけです。しかしこの事件は引き金であって、謀反の原因のすべてでないことは明らかです。今までたまりにたまった頼政の感情の爆発なのです。
もとよりこの反乱、清盛に漏れ知られ、情勢はたちまち不利となり無念の最後となります。この数々の鬱積した不運を頼政という人間像につつみこんで演ずるのが、能『頼政』です。

『頼政』の面は[頼政]という専用面(その曲にのみ使用する)を使います。専用面があるものは他に『景清』『鬼界島』『山姥』『弱法師』『蝉丸』『一角仙人』『猩々』でこれらの曲を一面物といいます。その面でなければならない強い特徴があり、[頼政]は目に金属が工作されていて、この世の人ではない、修羅の巷での強い怨念を表した面といえます。ですから後シテ(頼政の霊)は老人といえども、老人らしくとは演じず、只ひたすら強く強くと演じるのが心得となっています。
修羅能でシテが老人であるのは『実盛』と『頼政』の二曲だけですが、実盛が六十数歳で写実的老体の演技を求められるのと対照に、頼政は七十七歳でありながら年齢を超越した強い執心を描いたところに作者世阿弥の思いがあるようです。成功者『頼朝』では、世阿弥も描かなかったでしょう。能の世界ではこの世に強い思いが残っている者を選んでいます。その選ばれた人々を演じ思いを伝えることが能楽師の喜びではないでしょうか。
2000/4/24 記
『殺生石』「白頭」のあり方について投稿日:2000-02-05


2000年2月5日の花の会で『殺生石』「白頭」を勤めました。能は人間の心の葛藤を極めて様式化した手法で表現する演劇形態だと思います。従って表現する心の対象は、明らかな面よりも闇の部分の方にその比重をおくことになってくるのは容易に想像できるし、実際そのような曲が多いのですが、中には物語としての面白さと同時に演出としての面白さを主としたものもあり、今回の『殺生石』は後者の部類に入ります。この様な曲は、あまり深刻にならず、軽妙な面白さを楽しんでいただけたらよいと思います。この度は『殺生石』の小書「白頭」について考えてみたいと思います。現在喜多流では白頭(しろがしら=通称 はくとう)を使用するものは次の三系統に分けられます。
(1)曲の本来の形として白頭を着用するもの
『龍虎』(後して)『石橋』(「連獅子」のシテ)『綾鼓』(後して)
(2)本来は使用しないが、替えとして着用し、型や位はさほど変わらないもの
『黒塚』『鵺』『山姥』
(3)本来は赤頭(あかがしら)であるものを、正式な小書として白頭に替えるもの
『鞍馬天狗』『是界』『氷室』『小鍛冶』『殺生石』など。
ここで問題になるのは、(3)小書演出による白頭についてです。 通常「白頭」になると曲の位(大事に扱う度合い)は上がり、謡も型もしっかりと重く(より大事に)なります。謡の運びに緩急がつき、型も小書独特の型が入り、装束や面も変わります。
さらに、この小書による「白頭」も二つの流れがあり、一つはベシミ系の『鞍馬天狗』『是界』『氷室』、もう一つは狐の系統『小鍛冶』『殺生石』です。
喜多流では、『小鍛冶』の「白頭」のみ用いる狐足と呼ぶ特別な抜き足の型があり、敏捷で小刻みな狐の動きを模したものですが、これは特別なもので、普通は「白頭」になると、よりどっしりと重量感をもたせ、より硬質な大きな力を表現しながら舞うのが心得とされています。
ではこの小書によって赤頭を白頭に替える理由はどのあたりにあるのか、そもそも「白頭」の白とはどのような意味を持つものなのか。
一般には、白い髪すなわち老い、というイメージがありますが、能の世界では少し違うようです。
喜多流の場合はその役の位が最高位に上がり、劫を経て超越した力の表現として象徴的に使われて いるように思います。
以下に、殺生石の演出上の相違点を表に纏めてみました
| 形式 | 頭(冠) | 面 | 着付け | 袴 |
|---|---|---|---|---|
| 常 | 赤頭(無) | 小飛出 | 法被 | 赤半切 |
| 白頭 | 白頭(無) | 野干 | 法被 | 紺半切 |
| 女体 | 黒垂(狐) | 泥眼 | 舞衣 | 緋長袴 |
| 今回 | 白頭(狐) | 創作面 玉藻 | 舞衣 | 白半切 |
本来喜多流は常の型と「白頭」の二形式だけでありましたが、先代15世喜多実先生の宗家就任記念として、先代金剛巌氏との間で、喜多流の『富士太鼓』「狂乱の楽」と、金剛流の『殺生石』「女体」とを互いに共有し合うことで合意し、喜多流に「女体」の形式が加わりました。
話が少し脇にそれますが、金剛流の「女体」は、前場の曲(クセ)の部分が喜多流の居曲(いぐせ=座ったまま動かない)と違い舞うこととなり、後は女姿となり活発に動き回る玉藻の前(実は妖狐)の有様が良く表現できていて、大変興味深いものです。
喜多流の先代宗家の初演の折りは、型は白頭の型のまま、つまり、後は一畳台の上だけで演じ、扮装のみ「女体」という演出にとどめられていました。しかし、近年にいたって「女体」をより分かり易く、動きのあるものへと変化させようとして、様々な試みがなされています。
将来私も「女体」を勤めたいと考えいますが、事前に本来の型としての小書による「白頭」を経験し、整理しながら次の段階への縁がとなればと、今回勤めた次第です。
伝書では、前、後場共、ほとんど動きらしい動きの記載はありません。その為面白味に欠けると評価は低く、身体が動かなくなったときの老人用小書であるなどと、演者仲間の内向きの話として囁かれています。確かに私も、その要素が無いとは言い難いと思います。
舞台を見ていた人々が少数の選ばれた人達であった時代、物語の筋も謡も十分理解できているし、ことさら動かなくてもわかっていただけるだろうという演者側の甘えがもたらした悪しき慣習によるものではないでしょうか。
限度を超えた演出演技のダイエット(謡や舞の省略・改変など)は、その能本来の形を破壊して、一曲の存在意義さえ無くしてしまう事になりはしないかと思います。
その様なわけで現在の我々能楽師の型付け鵜呑みの、踏襲のありかたも考え直す必要があるだろうと、演じながら常々感じています。

さて、殺生石の演出ですが、巨大な石の中に未だ閉じこめられている、絶世の美女に変化してきた妖狐。その執心は石のように硬く冷たく、今も周囲に悪をもたらしている。那須野原にて射殺されながら、その魂は当時のままに凝固されてあり続けているのだという内的要因を、なんとか観客にメッセージとして訴え続けなくてはと思いました。そこで今回は、鬼畜はなんでも男姿とする江戸式楽的な発想から離れ、幾分女体に近い型としての「白頭」ということで演じたわけです。
面も本来の野干(やかん、狐の意)では(左写真)、動物的な印象のみ強すぎる為、岩崎久人氏の創作面、玉藻(下写真)を拝借しました。女体に近づきながらも、中性で大きな石の中の妖狐の魂として演じるべく、装束すべて白に纏めてみました。それは次に勤める「女体」へと通じるものでもあります。
平成9年の友枝昭世氏による『殺生石』「女体」は、鬼畜の狐を超えた、時代を経て昇華した女性の魂の表現の領域に踏み込んだ、卓越した演出であり演技であったと感動した事を覚えてます。一番の能にも再認識することにより、新たな表現の可能性があることを実感しました。

能楽という限られた世界で生きている自分にとって、演じる曲についての発見や改良は喜びでもあり責務でもあります。難解な曲、わかりにくくなってしまった作品を見直し、その主旨をもう一度考えながら自分の能に活かしてゆく、この一連の作業は困難でもあり楽しいものでもあります。
この過程を経て一番の能があることをおわかり戴ければと思います。
『清経』の音取を演じて投稿日:1999-11-01


この度の研究公演(一九九九年十一月)に於ける『清経』では小書「音取」に取り組みました。そもそも「音取」とは何なのか。平家物語の中に、清経が「舟の屋形に立ち出て、横笛音取朗詠しあそばせけるが」と出てきます。この横笛音取とは、今様の朗詠を始める前に横笛で音を定めたことを言うらしいのですが「音取」の名称の由来はこのあたりかも知れません。「音取」ではシテ(清経)の登場から、小野小町の歌といわれる「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき」と謡う所までの演出に違いがあります。
常のシテの登場は橋掛りより舞台まで地謡に合わせて出ますが、「音取」では橋掛かりの歩みを笛の音と呼吸を合わせ、思いを込めて運びます。まず笛が地謡の「夢になりとも見え給え」で舞台地前まで進み出、幕をうけ、音取の世界となります。シテは笛の断続的な特別の譜に合わせ、笛が止めばシテも静止する、聞こえれぱ又動く、というように、死後の世界より妻の思い寝の夢の中へ、自分が好んだ笛の音と共に歩むというものです。笛は流儀により多少吹く長さが異なり、その音色は不思議に同流の方でも微妙に違って、個性が充分発揮されるところです。
さて、シテはこの音取をどのようにつとめたらよいものか。難しい笛との呼吸の合わせ方を、先人は手向けの笛に引かれる心を十分に感じて歩むのだ、などと言われますが、稽古していて、どうも釈然としないものを感じます。それは私自身、笛が何の心を吹き、シテは笛の何に反応すれば良いのかということが、十分理解納得していなかったからだと思います。演技とは思いを伝えること。言葉や音が演者自身の肉体を通して何かを伝えようとする、その働きを常に意識、作動させなくてはいけないと思います。
そこでいろいろとある資料を見ていく中で、一つ気になるキーワードを見つけました。それは森田流の心得にある「音取ノ出様ハ妻乞ノ鹿ノ心……」です。鹿という動物は夫婦仲が良く、遠く離れていても、雄が雌に向かって鳴くと雌もそれに答えて鳴くそうで、これを鹿の遠鳴きといっているそうです。尺八の曲に、深山幽谷に呼び交わす雌雄の鹿の鳴く音をテーマとする、琴古流本曲『鹿の遠音』があります。尺八二管が雌雄の鹿のように奏で合うもので、官能的で大変面白いものです。
『清経』の音取はこの響き合いに似ています。つまり、笛の音は清経という男の心の叫びであり、それを受ける妻の心情であって、音取はそれを一管に託した演出であろうと思われます。この様に思うと、演ずる心のよりどころを一つ掴めたようで、とても歩み易くなりました。音取という演出では、笛の音を利かせながら、行き違ってしまった二人の気持ちを、夢の中に於いて引き出すようなものに焦点があるように思われます。二人は互いの恨みごとを言い合うことになりますが、夢幻での再会はやはり美しく演出されなければならないと思います。
次に、シテの面をどうするかです。常の通り中将ですが、それぞれ面の表情が違うので、どのように演ずるか迷うところです。中将の名称は在原業平の面影を打ったというので業平の在中将からつけられたといわれています。中将の面は在原業平、光源氏、源融や天皇などの高貴な人々の亡霊系のものと、修羅道に落ちた平家武人の系統のものと、大きく二系統に分けられます。
清経は左中将で修羅道で悩む平家武人の代表的な人物です。私は今回、家にある平家武人系統の面の中から、強く苦悩を感じるものを探しました。能に登場する平家の武人で修羅道に落ちた者はたくさんいます。忠度、通盛、経政、敦盛、彼らはみな合戦で勇敢に戦って殺され、亡び行く者の中に死の美学さえ感じさせる武者たちです。ところが清経は平家の将来を憂えて、戦わずして身を投げ修羅道に落ちたのです。戦わず心弱く死んでいった者の顔は、立派に戦った武者の顔とはどこか違うのではないか。かといって、自ら死を選ぶ者の顔は決して弱いのではなく、逆に一番強い苦悩がにじみ出ているものでなければならないだろうと考えての選択でした。
清経は平重盛の三男。重盛の一族は小松殿と呼ばれ、内省的な家風があったようです。源氏方から追われ、身内からも孤立し、そして神からも見放され、そのような中での清経の深い孤独感、苦しみ等、選んだ面を見ながら、清経二十一歳の若き苦悩を思いました。
装束は、喜多流では本来長絹姿で、肩を脱いで舞うのが一般的ですが、今回私は単衣法被肩上という甲冑姿を試みることにしました。この姿は音取の場面ではとてもりりしく、効果的な風情が出るのですが、曲(クセ)を舞う時には少々難があるように思われます。つまり舞人の装いではないからです。しかし今回は研究公演ということもあり、思い切って挑戦してみたく、この事により何かを感じとれるかもしれないと、敢えて甲冑姿にこだわってみました。どちらが良いか、私の気持ちは五分五分というところですが、観る方にはどのように映ったのでしょうか。
ところで、能、『清経』は、戦わずして身を投げるのでは武士の士気にかかわると、江戸時代、藩によっては演能が禁じられたところもあったようです。今でも宮島・厳島神社での御神能では、『清経』は舞台に乗せてはならない慣習になっています。江戸時代の流れをくむものでしょう。
しかし現代、『清経』は人気曲の一つで、よく演じられています。平和な時代がこういう武将の物語を受け入れられることとなったのでしょうが、人気なのは何よりも、詞章の美しさにあると思います。
平家物語では清経に関する叙述はわずか数行、それを世阿弥があれだけの名文でつづり、ひとつの物語として完成させているのです。謡い上げ、舞い上げる中で、亡び行くものに花を咲かせること、これが役者の仕事ではないかと思っています。
『絃上』について投稿日:1999-10-01

能『絃上』は喜多流ではこのように書き、「けんじょう」と読みます。この絃上とはそもそも琵琶の名器の名前ですが、いろいろと説があるようです。「玄象(げんじょう)」と書かれる観世流のものは、仁明天皇の御物で藤原貞敏が唐より持ち帰られた楽器らしく、「玄上」は村上天皇のお使いになった琵琶だったそうです(資料提供は宮内庁式部職楽部)。二つとも残念ながら戦争で消失してしまったそうで、現存していません。ですから喜多流の「絃上」はこのどちらにもあてはまらず、当て字のように思われます。
琵琶の種類は現在大きく楽琵琶と俗琵琶に分類されます。楽琵琶は雅楽の演奏に用いられ、俗琵琶としては、盲僧琵琶(荒神琵琶)、筑前琵琶、薩摩琵琶などがあります。平曲の伴奏に使われる平家琵琶は楽琵琶と盲僧琵琶を折衷したようなものになるようです能『絃上』の琵琶は楽琵琶です。楽琵琶は大きいため横に倒して弾きますが、俗琵琶は形が小さく縦にして構えるものもあるようで、両者は弾き方も異なります。
喜多流の『絃上』では琵琶は作り物として登場しますが、本来は前場の「絃上」に本物の琵琶を使用し、後場での「獅子丸」(これも琵琶の名器)は作り物を使うようにと伝書にあるようです。今回の『絃上』(平成11年9月16日 シテ高林白牛口二氏)は国立能楽堂の協力を得て、琵琶演奏家の田中之雄氏から楽琵琶を拝借することで、本来通りの舞台が実現しました。私もツレ藤原師長を勤めることで、あの重く大きい楽琵琶をこの手に直に触れることが出来幸運でした。

師長という役柄上、床几にかけ琵琶を持ちますが、やはり弾くときは床几から降りて下に居て弾いた方が落ち着くように思いました。あのずっしりとした重みのある琵琶を床几にかけて弾くのは少々景色が悪かったように思えますが、ずり落ちないように必死に抱きかかえたことは、良い思い出になりました。
琵琶を弾くために本物や作り物を用意するなど、前場は謡と型がよく合っていて、当てぶりな具体的な所作なども多い演出となってます。師長が塩屋を出ていこうとする場面でも「忍びて塩屋を出で給えば」と謡って、脇座にて後ろに向いて座り、出ていくことを見せるやりかたも分かり易くなっています。
一般にお能では、例えば『経政』や『蝉丸』で琵琶を扇にて表現するように、本物を使う、あるいは当て振りな表現をすることは少ないのですが、今回のように、伝書通り思いきって本物を使うのも面白いと感じました。
琵琶の道を極めんと入唐渡天を志す藤原師長を、思い止まらせるために老人夫婦として須磨の浦に現れ、琵琶と雨の音を調和させるすばらしい演奏を聴かせる村上天皇(シテ)は前場では素性を明かさず、宿を提供する老夫婦として師長に琵琶の演奏を所望します。

師長が琵琶を弾くくだり、「恋い侘びて泣く音に紛ふ浦波の 思う方より風や吹くらん」と謡い、琵琶を奏し始めると、にわかに雨が降り始め琵琶の音をかき消してしまいます。老人(村上天皇)は板屋根に苫を葺いて、甲高い雨の音を和らげる心づかいをみせます。この場面で森田流の笛は真の会釈(アシライ)笛を吹きます。最初の師長の謡いに合わせ双調の呂、地謡の上歌の琴の言葉に合わせ黄鐘の高音、雨という言葉に合わせ盤渉中の高音とそれぞれ三調をアシライで吹かれるのですが、琵琶,琴、雨を表現しとても良い演出で、今回、京都の杉市和さんは情感豊かに吹かれ、演者の私も思わず聴き入ってしまい、味わい深いものがありました。
雨に対する心づかいに、師長はこのふたりはただの老夫婦ではないことに気づかされますが、さて、しての村上天皇はどのような人物なのでしょうか。
平成八年の、演能に当たって調べた事を掘り起こしてみました。村上天皇は醍醐天皇を父として14番目の皇子として生まれたため、ほとんど皇位継承権は期待出来ず、政に関心を持つより、ただただ琵琶を弾き毎日優雅に遊ばれていたようでした。ところが、次々に兄弟が病により亡くなると、急遽皇位につくことになります。それまでは天皇と皇子は琴を弾く習慣となっていたようですが、この村上天皇の御代より琵琶を弾くことになるようです。この特異な生い立ちは能として登場するに十分の題材であったと思われます。
後半では龍神に持ってこさせたもう一つの名器「獅子丸」を師長に弾かせ、天皇自らも「絃上」を弾かれ、早舞を舞います。この演出の真意は、「師長、おごる事なかれ、唐に渡らずとも、ここに琵琶の名手がいるではないか」と語りかけるように天皇が師長に琵琶の秘技を伝授する様子を表現しているように思われます。

しかし、現状のままの早舞をご覧いただくだけで、観る人にこのことを理解していただくのは、やや辛く無理があるように感じます。
前場とのバランス(当て振り的なものが多い)を考えれば、例えば早舞の間、師長が伝授されている風情で琵琶を弾く型をするとか、また梅若六郎氏が一度なさった様に、実際に本物で弾いてしまうというのも効果的で、そのくらいのアクションがあっても良いのではと思います。ここのところ、書き物にある 「少ししっかりした位にて舞う也」、とあります。「しっかりした」の解釈にもよりますが、単に伝書の言葉止まりにならず、やはりそこには村上天皇という人物を表現するために、スケールの大きい、力強いダイナミックな舞を基盤に、色々と工夫を凝らすことが出来るのではと思います。次回には何か工夫してみたいと思っています。
また最後の舞台上の役者の動きの処理も、喜多流では師長が龍神に引かれてゆく動きですが、龍神がしてを先導してゆく風情を大事にするならば、他流のように師長が『須磨の帰洛ぞ有り難き』と最後に止め拍子を踏んで一曲を終えるのもよいのではと思います、またいつか機会があれば勤めてみたいものです。
1999/10月記
能『大江山』の酒呑童子について投稿日:1999-06-01

子供のころ、鬼退治の能は楽しみでワキが鬼を退治すると拍手喝采で楽しんでいましたが、近ごろはどうも楽しくない、いや晴れ晴れとしない、何か心に引っかかるものを感じるようになりました。それは退治される側を演ずるたびに徐々に大きくなっていったのです。こう感じるのは大人になって見飽きたからではなく、演じながら作品の主旨が少しずつ読み取れるようになったからかもしれません。今回(六月自主公演能)、『大江山』を演能するに当たり、まず酒呑童子とは何者か、能としての『大江山』は何をメッセージしているかを知らなくてはと思いました。 酒伝童子絵巻では、大きい顔をした酒呑童子が酒宴の珍しき肴として美女の白い太股を出し、それを頼光らがたじろがずに塩をつけて食べている場面や、頼光一行に首を切られる恐ろしい場面が描かれています。
また酒呑童子は大陸からの漂流者で、その大きい身体、赤い毛、緑に光った目、そして赤い顔で血を呑んでいたと恐れられていたが、実はその血は葡萄酒で漂流者はロシア人であったという説や、疫病を流行らせる疱瘡神(ほうそうしん)であるとか、兇賊、山賊のようなものである、村里から遠く離れた辺鄙な山中に住む賤民で、荒っぽい力仕事をして鬼のような怪力をもっていた人のことだという説などもあります。 どの説もそれぞれに面白いのですが、能『大江山』の酒呑童子としてはやや合わないように思われます。酒呑童子は本当に京に下って人を殺し、財宝を盗み女をさらったのだろうか。能の『大江山』では唯一、間狂言が洗濯女として血のついた衣を洗うところがありますが、それ以外はこわい場面は描かれていませんし、次の謡の言葉を拾ってみても恐ろしい悪人像は浮かんでこないのです。
1.我 桓武天皇にお請けをもうし 出家の人には手をささじと固く契約もうしたり
2.一夜に三十余丈の楠となって奇瑞(きずい)を見せし所に
3.霞に紛れ雲に乗り、・・・飛行の道に行脚して、或は彦山、伯耆の大山、白山立山富士の御嶽、上の空なる道に行き
4.此の大江山に篭り居て、隠れすまして在りしところに、今客僧達に見表され通力を失うばかりなり
5.さも童形の御身なれば 憐れみ給え
6.構えてよそに物語せさせ給ふな
7.情けなしとよ客僧達 偽りあらじといいつるに
酒呑童子は山伏達(頼光達が変装している)に敵意を見せず無抵抗に歓迎して(1)無邪気に身の上話をし、特殊な力(通力)をもつ存在であるが(23)、今は効き目がない(4)と悲しく語っています。恐ろしさや鬼畜性よりも通力をもちながら、争いを拒み、どこか弱いところがあるように感じさせられます。 父は『大江山』というと必ず「一稚児二山王だよ」といいます。第一に稚児、比叡山の神(山王)より大事にされるべきものだという意味で、自分は童子の格好をしているのだから「山伏達よ、どうか可愛がってくれ」(5)と依頼するところに焦点があるようです。本性は鬼のような異界のものであっても前場ではそれを見せず、綿綿たる訴えかけの言葉が重要で、能としてはここを大事に謡えという教えです。 酒呑童子の童子とは少年という意味ではなく、童形である永遠の青年、不老不死の特異な力が宿る者であります。最澄に比叡山を追われ各修験霊地を転々とするのが八〇六年ごろ、殺されたのが頼光二十五歳の時として九七三年と推定すると、童子の年齢は少なくとも百六十七歳の計算になってしまい、おかしく感じられるかもしれませんが、人間界以外では時間はゆっくり流れているようでさほど問題にならないようです。
能としては童話性をもたせ、後の鬼神との対照の効果をねらうためにも、永遠の若さを象徴する神仙の化現として優雅で妖精的な神秘に満ちたものとして登場させたのでしょう。面は童子や慈童を使用しますが、今回は我が家にある余りに美しく透明感があるものより、霊性を濃くしたものの方が向いていると思い、岩崎久人氏の打たれた童子の面を使わせて頂きました。 『いざいざ酒を飲もうよ』の場面で、喜多流はシテがワキの酌を受けますが、たぶんこれはお伽草子による頼光達が自分達が飲むと勇気百倍、鬼神が飲むと忽ち通力が消えるという酒を持参したところからきたものだと思います。観世流では酒呑童子に子方の稚児二人がついて出る演出があり、ワキ・ワキ連等に酌をしますが、こうなると意味あいが異なります。私は酒呑童子がワキに酌をするくらいの方が童子の無抵抗さがでてよいのではと思うのですが、今回はワキに酌をする気持ちをもちながらも、従来の喜多流の型付け通りに行いました。 次にこの能のメッセージを知るために、神仙の化現とはいかなるものかを、もう少し掘り下げる必要があると思います。私は酒呑童子は最澄が比叡山延暦寺建立の前より住み着いていた地主神であったという説(金井清光氏・作品研究大江山)に興味が惹かれます。この場合の神は異界に住むものという意味で、異界とは人間界のコントロール不十分なところと考えられます。 異界の存在は、国家(京都朝廷)のような中央の権力者・統治者達にとっては邪魔であり、退治されるべきものだったのでしょう。権力者が領土拡大を謀るとき、それと敵対するものはすべて悪であり、統治できなくなった都の乱れは鬼神の仕業と見立てるのが妥当であったのです。そしてその対象となった最も目障りな存在とは、もともとそこに住んでいた多くの異界の地主神(地霊)であったわけで、彼らは差別・排除・征伐の打撃的措置を受けざるを得なかったのです。 酒呑童子も地主神であるならば、ときの権力者にとっては悪者でなければならず、退治されるべき存在です。しかし能『大江山』では、酒呑童子を単なる悪者ではなく、気の良い誠実な鬼として描き、むしろ偽りがあるのは寝込みを襲うなど退治する側にあることを見せ、征服する側にささやかな抵抗を示しているように思えます。 とはいえ、後場で実体は鬼神として退治征服されるものであると皆に知らしめる必要があったのは、見物者は体制側の人々であり、そうしなければおさまらなかったからで、中世の劇作成の手法だったのでしょう。童子を演ずる猿楽役者も酒呑童子と同じ階級に属する賤民で、征服者に調伏される運命にあり、それを自ら演じなければならない悲しさがあったと聞いていますが、それは中世の時代での事、今の能楽師は中世とは違う心持ちで、この能の訴えかけを考えてみる必要がありそうです。 最近の都心部における烏(からす)によるゴミ問題、計画性のない開発による自然破壊、ここにも征服者と被征服者の関係が見えるようです。私たち人間は、人間の都合で烏をもともとの住処から追いやっておきながら、都会に出没すると邪魔にし、その黒い姿を不気味がって、つい石でも投げて追い払おうとしてしまいます。でもこの烏、どこか能『大江山』の酒呑童子と似ているように思えてなりません。
(一九九九年六月)
『安宅』を演じてー 能の表現と芝居との境界線 ー投稿日:1999-03-01


平成十一年春の粟谷能の会で『安宅』を披かせていただきました。息子(尚生)と『隅田川』をはじめ『安宅』や『望月』を勤めることは私の夢でもあり、その夢の一つずつがかなっていくことは無上の喜びです。
今回『安宅』を演じるに当たっていくつか気になったことがありました。一つは四十三歳という自分の肉体が弁慶になり得るかです。歴史的にはおそらく都落ちしてゆく弁慶の歳は四十代前半ぐらい(義経は二十九歳)ですから、ちょうど今の私に合っているのでしょうが、能の舞台として考えると、この年齢は少し不安です。それは『安宅』のような直面ものには演じる役者が醸し出す味わい、風格というものが非常に大きなウエイトをしめるからです。
シテ方は面をつけることで、その役に入りますが、その面の力に助けられることが大きいのです。たとえば老人を演じるにしても、身体や声が少々若くても、尉の面をつければ、不思議にそれなりに見えてきます。面には偉大な力があります。しかし直面ではその力を借りることができません。身体から発する力をもとに風格を添え、自分の顔自体も面だという意識が必要になってきます。
役者は舞台でその生き方が滲んで見えてくるようでなくてはと解っているのですが、粟谷明生という人間の武蔵坊弁慶を安心して見ていただけるようになるには、まだまだ時間がかかることで、これはなかなか難しいことです。
能『安宅』は弁慶の思慮と沈着な行動がいかに主君の危機を免れさせたが主題です。構成は能本来の要素(謡と舞)と芝居(劇)的要素を取り混ぜた形になっています。その芝居的な部分をいかにこなすかが、大きな関門でした。
『安宅』は形式的には中入りのない一段でできていますが、都から安宅の湊までの道行と関所手前の作戦会議までの一場、関所におけるワキとの問答から、最後の勤行、勧進帳の読上、主君打擲と実力行使にて通過を成し遂げる見せ場の二場、関所通過後の休憩、関守の来訪、酒宴饗応と遊舞、一行の逃走の三場と、それぞれ場所を別にした三場構成となっています。能の定型の一場と三場の間に台詞を中心とした劇的な色彩の強い二場が入っているとみてよいでしょう。
私が苦心したのは第二場の言葉が多い部分、歌舞的要素の無いところでした。ワキとの問答、勧進帳を読み上げるくだり、ワキとの激しい型どころはややもすると、やりすぎのお芝居になってしまったり、また逆に演者の自己満足に留まり、何も観客に伝わらないことになりがちです。
謡本をただ読み上げるだけでなく、いかに劇としての真実味ある台詞を謡えるかが重要です。勧進帳の謡は難しい節扱いや拍子当たりだけに気を取られていたのでは駄目ですし、あまり感情が入りすぎるのも、また劇のレベルに達していないのも考えものです。ワキとの問答も台詞の中に運び、音の高低、張り押さえ、詰め開きを入れ、問答の緊張感を聞いてもらわなくてはいけません。
能の世界でできうる限りの表現をしながら、お芝居にならぬギリギリの境界線の内側で感情の起伏を観客に伝えることがカギとなります。境界線を越えてしまえば能ではなくなり、歌舞伎座や他の劇場で演ずるものと何ら変わらないものになってしまいます。勧進帳という名で歌舞伎のほうが一般に知られていますが、歌舞伎より前に生まれそのルーツとなった『安宅』。能本来のもっている味わいがあるはずですから、それを大事にして演じたいと思いました。
最後に、これは子方のころから不審に思っていたことですが、「一行はどうして通れたのだろうか」「なぜまた関守がやって来たのか」ということです。このことを自分なりに整理し、舞台作りに生かしたいと考えました。
私の考えている富樫像は山伏を容赦なく殺す冷徹で、単に役目に忠実な地方役人というものです。ワキとの問答の末、最後の呪詛の行に入り、「明王の照覧計りがとう、熊野権現の御罰と当たらん事」(不動明王がご覧になってどうお思いになるか、熊野権現の御罰は当然)と凄みますが、富樫はここで山伏を殺したことの恐ろしさを感じ「問答無益、一人も通し申さじ」と頑なだった態度を換え、勧進のために通るなら勧進帳があるはず、それを読むようにと軟化します。中世の宗教観で、山伏という修験僧をむやみに殺すことは神仏の罰が当たることだと感じ、目の前の山伏の迫力にも気圧されたのでしょう。勧進の責任者・俊乗坊重源の後ろにある仏や朝廷の存在も恐れたはずです。
一旦は通すことになりながら、強力が義経に似ていると呼び止められると、弁慶は「強力を止め笈に目をかけ給うは盗人ぞ」と逆にいいがかりをつけ、武力をもって富樫を圧倒し押し通ってしまいます。通れたのは決して富樫の情けなどではなかったと、私は思うのです。また、「最善は聊爾を申し」と非礼を詫び酒を持参するのも、当時の宗教心厚い中世社会では当然の風習であったでしょう。
今回は、このような解釈で演じたいと思い、ワキ、ツレの人たちに、富樫像や、通り抜けたのは山伏の武力や迫力であること、当時の宗教観などを説明し、協力をお願いしました。全員殺されるかもしれないが何としても通るぞという意志と緊張感を、最後まで立衆各自に貫いていてもらいたかったのです。
今自分を振り返ってみるに、諸先輩の『安宅』の子方を経験し、高校生で初めて立衆に参加して大人の仲間入りができ、最近では父菊生の主立衆を数回、そして今回シテをやらせていただいたことは大変幸せだったと思います。長い月日をかけ、いろいろな立場で演じながら、その時その時に思ったこと、感じたことが自分の中でたくさん沈殿していることに気づかされました。『安宅』はそれらの蓄積の大切さを感じさせられた一曲でした。一つの舞台の作成に今までの経験が生かされて良かったと思います。
(平成十一年三月)
『羽衣』の「霞留」演出で発見したこと投稿日:1998-10-01


“>平成十年の「粟谷能の会」では、三月に父が.十月に私が『羽衣』を舞うことになりました。三月の『羽衣』は父の病の関係で『西行桜』を急遽変更したものです。一年に能の会で同じ演目が出るのは好ましいことではありませんが、私の方も、すでに三役の方にお願いしておりましたので、予定通り行なおうという事になりました.私は当初から「霞留」という小書(特別演出)でやってみようと思っていましたが、父が舞った数カ月後ですから、父の「舞込」と私の「霞留」の演出ではどういうところが違うのかを整理して、私なりの特徴を出してみたいと考えました。
霞留の特徴でまずわかりやすいのが、松の作り物が出ないということです。能では一般に天人が降り立つ目印となる松を象徴するように一本の松の作り物が置かれます。ところが霞留では橋掛りの一の松が作り物の代わりをして、羽衣は橋掛りの欄干に置かれ、羽衣を返してほしいという白龍とのやりとりは、天人が橋掛りに留まったまま(この部分は舞込も同じ)行われる演出です。これは天人と白龍との距離を保ち、空間的な広がりをつくる効果があると思われます。その後羽衣を返してもらうと、舞込では天人がすぐに衣を着てしまいますが、わが家の伝書の霞留では「乙女は衣を取り返し」という言葉が入るようになっていて、情景描写がていねいになされます。
白龍に所望されて舞う序の舞の笛の調子は、舞込では黄鐘なのに対して、霞留では盤渉という高い音色に変わります。また、舞込では序の舞の後に、興に乗じてあるいは名残惜しみの意味合いの破の舞という短い舞がありますが、霞留ではそれを省略し、序の舞の後、すぐにキリの仕舞所になり、地上の人間界に七つの宝を降らすという意味の扇をおとす型が入ります。
そして、舞込と霞留の一番の大きな違いといえるものは、退場の仕方だと思います。舞込では「霞にまぎれて 失せにけり」と地謡が高い調子で大合唱する中、シテ(天人)は白龍や三保の松原、愛鷹山、富士山をゆっくり見渡し、下界に未練があるような、もう少しとどまっていたいような風情を感じさせながらも、くるくると回転しながら月の世界に戻っていくように幕の内に入っていきます。一方、霞留では「残り留め」といって「霞にまぎれて」で地謡は言葉をやめ、「失せにけり」を謡わず、後は囃子方だけが演奏して余韻を楽しむような演出となっています。シテは愛鷹山を見たり、富士山を見たりと、ある程度は舞込に似た所作で舞っていますが、最後には月世界からのお達しがあった様子で、袖を翻し後を振り返りもせず、雲に乗っているかのような感じで、幕に向かってすーっと消えていきます。この辺の帰り方によって、天人の気持ちの違いが表現されるのではないでしょうか。
羽衣伝説は日本全国はもとより、世界的にも多くの地域で形を変え伝えられている伝説です。能の『羽衣』は「疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」というセリフがあることからも、駿河の国の風土記を素材にしたものだと言われています。多くの羽衣伝説が天人と男が夫婦になり、地上に暮らして子供までもうける話になっているのに対して、能の『羽衣』の天人はその場で羽衣を返してもらい、下界の男と交わることはありません。白龍が羽衣を隠そうとしても、天人の前ではそれができず、天の崇高さを美しく表現しています。男と女の話ではなく形而上的で上品な物語にしたところが能らしいところで、『羽衣』が名曲として今も親しまれているゆえんではないでしょうか。

霞留は崇高さを際立たせる演出であるように思います。私は天人をかわいい乙女というよりは、もう少し高位で、神に近い存在として描きたいと思いました。天人というと思い浮かぶのが、宇治にある平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の飛天光背に描かれている五十二体の雲中供養菩薩。楽器を奏でる天人、ちょっと太ったかわいい天人、そこに描かれている様々な天人像を思い起こしながら、霞留の演出による『羽衣』の天人像は阿弥陀如来のそばに居る、最も神に近い天人像ではないかと想像をめぐらせてみました。
このように、天人を崇高なものとしてとらえると、白龍との距離をとって対するところ、笛の高い調子、扇を施すところ、きっぱりとした退場の仕方など、霞留演出のいくつかの特徴に一貫性があることに気づかされます。
装束や面についても考えてみました。『羽衣』では長絹を着て小面をつけるのが喜多流の特徴で、父も緋の長絹、かわいい小面で舞いました。私は白い「舞衣」という装束に、面もあえて神聖さが出る「増」にしてみました。長絹はふわっと軽やかできれいな姿になりますが、「舞衣」はやや硬い感じでありながら、なまめかしい女性のラインが出ることが今回使ってみてわかりおもしろく感じました。白にこだわったのは、曲の中に「白衣黒衣の天人の・・・」という言葉がありますが、シテの天人はあくまでも「白衣の天人」で天上界に近いイメージにしたかったからです。
最後に一つ、今回解明できずに研究課題になったことがあります。普通、シテは頭の上に月日輪(丸い銀紙に半月をつけたようなもの)をつけますが、現在喜多流では小書がつくと「牡丹の花をいただく」ようにします。小書になるとなぜ牡丹なのか、天人と牡丹は関係があるのだろうか。私は今回牡丹をやめて、宗教的な意味合いも含んでいる白蓮華にしてみました。他流でも鳳凰や白蓮華にしているところがありますが、鳳凰の方は、「挿頭の花もしをしをと」という天人五衰(天人の五種の衰相)の一つ、花がしおれる描写がありますので、適当ではないと考えました。しかしこれはまだ研究の余地があると思っています。
今回「霞留」演出で、父と少し違った『羽衣』を求める中で、多くの発見があり、能の奥深さを改めて感じさせられました。
参考資料 雲中供養菩薩(平等院発行)
『柏崎』における重層性投稿日:1998-06-27

六月の研究公演で『柏崎』を取り上げました。息子の尚生に子方としてふさわしい内容を年齢に合わせてやらせてやるのが、この世界で生きる親の責務であるという想いもあって、今回は子方が登場するもので、自分としても挑戦しておきたいものを選ぶことにしました。
『柏崎』では、訴訟のために鎌倉に滞在していた柏崎の某が風邪のために亡くなると、同行していた息子の花若御前が遁世してしまいます。妻はその知らせに嘆き悲しみますが、やがて我が子の安穏を祈る気持ちになります。しかし後半には、妻は悲しみのあまり物狂いになって登場します。妻であり母であるシテのこの早い心の動きを演者がどのように納得して演技できるかが問題です。
能では、内面の心のエネルギーが抑えた動きの中から外に出ていくことを重要視します。従って内面の心の動きを理解して演じることは、動きの少ないものほど要求されるのです。シテの心を理解するには、シテの女性像をつかむことや『柏崎』の中のいくつかの疑問を解決する必要がありました。シテの女性像・母親像はどんなものでしょうか。息子の遁世を冷静に受け止める凛とした女性、宗教心が篤く教養の高かった女性、しかし我が子や夫を思う愛情豊かな女性でもあった・・・でしょう。
自分の息子を前に舞台稽古をしていると、この子はなぜ母親に会おうともせず出家してしまうのかという疑問がわいてきました。今の一般の常識では父親が亡くなったら、息子は急ぎ郷里に帰り、母を助け、父の代わりに城主として、その地を守っていくのが筋だろうと思うのですが、『柏崎』の息子は母に一度も会おうとしないで出家してしまいます。これはどういうことだろうか。このことを理解するには当時の宗教的な背景を知らなければなりません。
浄土思想に、出家は自分自身だけでなく、周りの人をも救うことになるという考え方があることを知りました。つまり自分が出家して厳しい修行をすれば、父親も極楽往生し、母の来世も約束される、家臣や柏崎の人たちも救われるという考え方です。これで子の出家の意味が理解できました。
しかしこれを解決しても「テーマは何か」という疑問が残りました。『柏崎』は一見、子別れ・再会の曲のように見せながら、メインは物狂いとなった妻が、夫への愛や恋慕と、極楽浄土や善光寺信仰への礼賛といった深い宗教性を込めて謡い舞っていくところではないだろうか。極楽のすばらしさをいうために、人間の悲しさを表し、その上で来世での再会を願うというのがテーマだったのではないか。
『柏崎』は古作(榎並左衛門五郎の作)を世阿弥が手を入れ完成させたものであるという説が有力です。左衛門五郎が作った段階では、善光寺を讃える当時の流行歌を題材にし、曲舞に仕立てた単純なものだったのでしょう。これでは戯曲として面白味や起承転結がないので、世阿弥が母子再会の話をつけ加え、形を整えたといわれています。子の説のとおり、子別れ・再会のテーマは付け足しで、曲舞のきらびやかとも言えるほど宗教的な言葉がちりばめられている部分がメインにふさわしいところだと感じさせられます。今では難しい言葉に聞こえるものも、当時の善光寺信仰に篤い人たちにとっては心地よい言葉の嵐だったのでしょう。
世阿弥の時代には興行的に成功させるために、宗教的なPRの意味合いが強い能もつくられていました。『柏崎』もその傾向をもった能といえるでしょう。ただ、信仰を讃えるにとどまらず、社会風刺的な彩りも加えています。たとえば、妻が善光寺の内陣に入ろうとしたとき、住僧に女人は入ってはならないと制止される場面で「仏がそう仰るのか」とすごみ、女性差別に切り込むところがありますが、庶民はそうだそうだと喝采したのではないでしょうか。
夫への恋慕の情も強く表現されています。夫の形見の長絹をまとい烏帽子をつけて、亡き夫は弓も歌も舞も上手で、立ち姿も美しかったと、一種ののろけともとれる謡い舞いぶりを見せ、曲舞の最後は夫との来世での再会の願いでくくられています。
一般の芝居では、特に落語がそうですが、最後のオチが重視されます。しかし、能ではときに最後の結びの部分(『柏崎』では子供との再会)はさほど重要ではなく、もちろん一つの見せ場には違いありませんが途中の舞や謡など、見せどころ聞かせどころを幾重にも作って楽しんでもらおうとする曲目があります。これは能の持っている特徴でしょう。私は『柏崎』もそういう種類の曲であり、重層性をもった能であると思うのです。ただ、最後に小さい子方が出ることによって、それまでの難しい宗教性などを一時忘れ、母子再会というハッピーエンドにわいて、安堵して帰っていただくという効果があるようで、世阿弥はそれをねらってたかもしれません。
これが、私なりに納得出来るものとして出した結論です。今回、自分の中にある疑問を解決することで、『柏崎』という作品を知り、その演技にも集中出来たように思います。
また現在『柏崎』の演出方法として「中の舞」を省略する形が一般的になっています。初期の能では、夫を思いだしてのろける件の後に舞がありました。扇を差し出し「鳴るは滝の水」と謡うのですから、その後は、当時の流行歌に合わせて謡え踊れとなるのが普通です。
『翁』や『安宅』でもこの言葉が来た後には舞が続いています。それが現在の『柏崎』には舞がなく、いきなり「それ一念称名の声・・・」と宗教的なことばが連なっていくのですから、世阿弥のころの人が観たら物足りないに違いありません。
それで今回、舞入りで演じてみたいとも考えましたが、『柏崎』自体が大曲であること、そして初めて取り組むことなので断念しました。しかし、次回演じる機会があったら、ぜひ舞入りを加え、世阿弥本に「ヲカシ(狂言)女物狂ガ来ルト云ウベシ」とあるように、間狂言等も入れて特別演出で演じてみたいと思っています。
「砧」を演じて─演出方法を考察する─投稿日:1998-02-01

父が正月一日に倒れ、一月三日の『月宮殿』、二月十二日の『砧』を私が代演することになりました。『砧』は大曲で、五十歳近くなってからでないと演じられないと思っていましたが、代演ということでやらせていただくことになりました。
『砧』を演じるにあたって、父からアドバイスも聞き、喜多流に伝わる伝書通りに臨んだのですが、演じなから、この演出方法では見ている人がわかりづらいのではと感じるところがありました。
まず気になったのが最初の場面です。喜多流の台本では、夕霧という女(ツレ)が登場して、芦屋の某(ワキ)の使いで、奥様のいる芦屋に向かうところである。某殿は訴訟のことがあって、三年あまり在京しているが、古里のことを心もとなく思われて使いにいけというので急ぎでやって来たという説明をしますが、他の流儀では、最初に芦屋の某自身が登場して、上京している事情を説明し、古里が心もとない、この年の暮れには必ず帰るから、そのことをよく心得て伝えるようにと夕霧に伝える場面から始まります。私は喜多流の台本ではあまりにもそっけなくて、夫(芦屋の某)の心情が理解されないのではないか、その後の妻の恋慕の情へとつながっていかないのではないかと思うのです。
世阿弥は『砧』について、「かやうの能の味はひは末の世に知る人あるまじ」と嘆いていると『申楽談儀』にあります。世阿弥がそれほどに深い味わいを込めてつくった曲ならば、単に帰らぬ夫への妻の恨みつらみの情念を際立たせて終わりといったものではないはずです。
夫は妻に愛情を持ちながらもどうしても帰れないという苦渋に満ちた立場にあり、妻の方も夫を思い、恋慕しつつ帰りを待っているという、お互いの愛情が底流にあることが感じられないといけないと思います。それがあるからこそ、孤閨をかこつ妻が、恨みつらみにさいなまされながらも、時には夫との思い出に浸り、帰って来てくれるならいつまでも添い遂げようというやさしい気持ちにもなり、最後には絶望の淵に落ちていくのです。こういう感情が織物の綾のように幾重にも交錯して深い味わいをかもし出していくのだと思います。
こう考えると、夫の愛情をどこかで表現しておきたいということになりますが、喜多流の台本では、最初に夕霧が帰れぬ事情を説明するだけで、そこには夫の妻への思いやりをほとんど感じることができません。夫の登場は、妻が絶望のあまり空しくなって(亡くなって)からです。夫は妻を弔うことはしますが、最初の伏線がないだけに、それは通り一ぺんの印象をぬぐえないのではないでしょうか。
世阿弥が「かやうの能の味はひ…」と述べるほどに、夫婦の愛情をベースに、それ故に地獄まで落ちるところを名文で謡い上げている『砧』。世阿弥自身が書いた曲のなかでとりわけ気にいっていた『砧』。しかし、世阿弥の危惧通り、しばらく演能されることはなく、江戸時代になってようやく復曲しています。その折に各流派が演出を考え、喜多流にも現在のような台本と演出方法が伝えられているわけです。今回私は『砧』を演じながら、この江戸時代の演出方法は、『砧』のテーマからしてやや説明不足ではないかと感じています。他流のように、最初に夫を登場させて気持ちを述べさせる場面が必要ではないでしょうか。
そして、『砧』では砧を打つことが重要なモチーフになっていますが、シテは妻がどんな気持ちで打っているかを感じながら演じなければならないと思います。蘇武の故事に自分の心境を重ね合わせて砧を打つことになったとはいえ、夫に柔らかい着物を着せてあげたいというやさしい心情があってのことでしょう。そこを伝えるには砧を強く打ってはならないのだと思います。世阿弥も「ほろほろ、はらはらと」と音楽的な響きで書き込んでいるところですから、柔らかく美しく響かせねばならないと思います。
夕霧が芦屋の某の妻に、殿は今年も帰れないと伝える場面の演出方法も気になります。その言葉を聞いて、妻は夫の心はやはり変わり果てていたのだと絶望し、病の床に沈み、やがて空しくなってしまうのですから、夕霧と砧を打ちながら、疑いと信頼との間を行きつ戻りつつしていた妻の心を切り裂く重要なひとことであり、時間的にも空間的にも場面転換があるべきところです。そこが、ただ夕霧が、今までと変わらぬその場で向きを直して伝えるだけの味気ない演出になっています。芦屋の某から使いが来るなどの説明描写は必要ないとしても、この大事な場面を鮮明に印象づけるために、動きと同時に言葉にも注意を払い、他の演出方法を検討してみたいと思っています。
私はこの頃、演出方法はこれでいいのかと考えることが多くなりました。以前は、謡の文句を覚え、上手に謡うこと、きれいに舞うことが関心の中心でしたが、この頃は、この能は何を言いたいかということを考えなければいけないし、そうでなければ深い味わいまで表現できないと感じるようになってきました。現在に生きる能を創造するものとして、伝統というワクの中の限界ギリギリのところまで、演出方法について考察し、ときには思い切って変えていく必要があるのだろうと思います。
今回、『砧』を喜多流のしきたりからすれば、年齢的に早く演じさせていただきました。演じてみたからこそ、ここに書いたようなことを感じることができ、次に演じるときはこうしてみたいという思いが広がってきたのです。大曲や老女ものは、ある年齢になってから初めて演じることを許されるという習慣は悪くはありませんが、早い時期に演じ、その後何回も試行錯誤しながらいい味に仕上げていくということも必要ではないでしょうか。思わぬ代演ということで『砧』という大曲に挑ませていただき、感じることが多く、意義あることだったと思っています。
