粟谷明夫の能がたり

わが安住の地投稿日:2018-06-07

わが安住の地

粟谷菊生

自分の意に副わぬ職に就き、満たされぬ思いの内に日々を過して「安住の地」という望みを未来にかけるか、又は手の届かぬ、はるか彼方の夢として生きている人も、世の中には少なからず居られると思うが、その点、私は何という幸せ者だろう。私は舞台の上に在る時、最も安住を感じられる時間と空間を持つことが出来るからだ。安らぎの場と云えば誰しも、先ずは家庭と思うだろう。無論、私も家にいる時はタガがはずれたように人一倍だらしのない為体で、注意力は散漫、やりっぱなし族のグータラ亭主をきめこんでいる。気の移り易い私はテレビを見ていても矢鱈にカチャカチャとチャンネルを変えて妻にイヤな顔をされたり、頭の中は雑念だらけ。しかし、ひとたび舞台に上がると何故かたくまずして、全集中力で、神経はその舞台に統一できてしまうのだ。新曲や稀曲に取り組むとき以外は、快い緊張感こそあれ、能という大きな傘の下で安住の地に居る心地に浸っていられる。能そのものに歿入し、全身全霊が集中していられる雑念の無い此の世界は、私にとって、何ものにも代え難い最も「安住の地」を感じる時であり、場所である。そしてまだ此処に自分を必要としてくれる舞台があるのだと思える悦び。いつかは頭も体もダメになって、この「安住の地」を去らねばならなくなる時が来るであろう。が、それは今は考えないでおこう。来し方を顧みて幸せな人生だったとつくづく思い、ただただ神に感謝だが、日本はまことに八百萬の神の国、四方八方に頭を下げて御礼を申し上げたい。「菊生の”日本は八百萬の神の国”発言」などと物議をかもすかも知れないが、日本人は生れ出づれば両親や祖母に抱かれて産土神に詣で、七五三になれば氏神様に手を引かれてお詣りし無事に育ってきたことを感謝し、これからも健やかであれと柏手を打つ。私の住む能の世界に至っては、イザナギ、イザナミノミコトから始まって、神を主人公として神社の縁起や神威を説き、国の繁栄と御代を寿ぐという曲目が多数あって、神とは切っても切れない仲。私は無宗教、無信心に徹している人間ではあるが、神社に詣でれば心を込めて感謝と、これからもお守り下さるよう諸々のお願いをする。それは自分の能の事、家族の事、その他、気にかかる人々の事等々。但しゆっくっり出来ない時は、ときどき「神様のことですからお判りでしょう?いつものとおりです」と端折ってしまうこともある。そうそう、最後にウチのヤマノカミにも感謝しておきましょう。心の底の底では、これでけっこう安住させていただいているのですから。

我流『年来稽古条々』(12)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(12)

青年期・その六『道成寺』まで

粟谷能夫 粟谷明生

明生-先回から『道成寺』への道のりという事で話をすすめています。先回にも少し話しましたが、私の『道成寺』の披きは昭和61年で、前年の粟谷能の会で『黒塚』、さらにその前の昭和58年には青年能で『紅葉狩』と、一応『道成寺』の前に「急之舞」と祈りが経験出来て、恵まれていたと思います。

能夫-祈りは経験しておかないとね、これは一人では出来ないから、ワキ方という相手役がいてはじめて成立することだから。

明生-あの時の『黒塚』は、私が本当に能に出会い、能楽師の自覚を持ち始めた最初の曲でした。

能夫-それまでは冬はスキー、夏はサーフィンで一年中まっ黒だったもの、もうぼちぼち舞台中心の生活を送ってもらいたいと思ってましたよ。

明生-能夫さんが観世寿夫さんの『黒塚』では「月もさし入る」というところで下を見るんだ、という話をされて、びっくりしたのです。

能夫-月は普通は上を見るでしょう。それを寿夫さんは、あばら家の隙間から月光が差し込んでいる、その床を見た。これはゾクゾクするような凄い演技だった。そのことを話したんだよ。

明生-それで能夫さんから「能っていうのは面白いだろう。型付通りだけでなくいろいろと幅があるんだよ。だからもっと考えよう」と言われました。その頃はただ型付通りにまちがい無くやれば良しという次元でしたから、何も考えてはいないのです。例えば『紅葉狩』にしても、序の舞の三段の後、右手は着流しの時のように指を伸ばし右腰を押さえる姿となりますが、あれは本来着流しのうわまえを押さえる型で、大口袴をつけているときは必要なく、おかしいのですが皆平気でやり、平気で見ている。まあ実先生がいらしたこともありますが・-、人が演ずる通りやれば良い、それが少々、本筋よりずれていても、というような状況がありました。それがこの寿夫さんの話を聞いた時、あれ、能というのは面白いものかもしれない、これは自分の人生を掛けるに値すると思ったのです。そう思わせた大事な一言でした。それからあの『黒塚』のとき、能夫さんがどれでもいいから自分の好きな装束を選んでと言われて…、この辺りのことは粟谷能の会ホームページの演能レポートに詳しく書いてありますが、出立ちは赤頭に我が家の『望月』専用の萌黄の厚板を腰巻にして般若で勤めたのです。そのとき能夫さんは、「いいよ自分で選んだものを責任持って着ればいい」と言ってくれました。当時はそれなりに満足していたのですが、後日写真を見るとひどい組み合わせでした。もしあの時、この曲にはこの組み合わせが良い、明生君の選んだのは変でおかしいと注意されていたら、あのひどい組み合わせの装束を着るという経験が無い代わりに、他人任せの、出されたものを有り難く付けているだけで、いつまでも曲にあった装束を選ぶという作業にも目覚めなかったでしょう。自分自身を自分の責任で演出していかなければならない、いろいろなことを深く考え様々な手法を多方面からも検討していかなければ駄目だと気が付いたのです。だからあの時の能夫さんの対応には感謝しています。本当は「似合わないのに」と心の中では思っていたでしょー。

能夫-それはね、我が家には、祖父や父が苦労して集めてくれた面、装束があるし、私は出し入れをして、すべて頭の中に入っているが、明生君にもわかっておいてもらいたかったのと、浅井君から聞いていたのは、寿夫さんは装束、面をどういうものを選ぶかということを問いかけ、ただのお仕着せでなく、自分の自主性を尊重して、そのことを通して役者を育てていったということだからね。それと『黒塚』で一番言いたかったのは、喜多流では扉をあげても自分の世界は見せたくないという演出だけれど、観世流だと、扉をあけて山伏を招き入れるのが、一人の尾び住まいの女がやっと人が来てくれた、という感じが表現されている。人恋しさみたいなものを感じさせる広さがある。そのほうが世界が広がると思うよ。そういうことが見えてくると、能の世界が一回りも二回りも大きく、魅力的で素晴らしいものになってくる。その頃、明生君の能に広がりがないと言ったときに、明生君に広がりとは何ですかと問い返され、能の表現の「広がり」という事を理解してもらおうと言葉を並べたんだけれど、どうしてもうまく伝えられなかった。広がりというのは、例えば『笠之段』で「えいやえいやと寄せ来るぞや」と脇正面ヘシカケをした時にある距離感が見えてこなくてはいけないし、無限大まで届くようなエネルギーを感じさせなくてはいけない。ただ教えられた通りにやるだけでなく、自分の、こう表現したいという思い、意欲があってはじめて広がりのある表現になる。譜本の読み込み、曲の本質、主題を理解して演じたときにはじめて広がりのある表現が可能になる。そうでないと箱庭のように、せまい世界しか表現できない。今ならそう言えるんだけれど、その時はどうしても理解してもらえなかった。それを説明し、説得出来る力が自分になかった。自分では解っているつもりでも言葉として的確に言えなかった。それでは何の意味もなさないんだと痛感した。そのことは僕の原点といっていい。

明生-昔、二人で阪大の自演会の手伝いをしていた時、前日は「照長」という焼き鳥屋でふぐさしとずり(砂肝)で一杯やりながら、よく喋りました。今考えるとあれも父が仕掛けた罠で、私をこの世界から離れないように餌で釣っていたのかもしれないのですが…。その時の話で、能夫さんから『忠度』の和歌への執心が解るか、と問いかけられて、まったく興味を示さなかった私は「和歌への執心?全然解らないよ、修羅物らしくカケリがしっかり舞えればいいんじゃないの」なんて無意識に答えていた、そんな時代がありました。

能夫-これだけ自分は解っていて、これだけ話しているのにどうしてこの人は解らないんだろうと思ったと同時に、心の広がり、型の広がり、芸の広がり、曲の広がりといったことを解らせられない自分の不甲斐なさを痛烈に覚えている。そんなことが積み重なって少しずつ明生君も変わっていったんだと思う。それまでにはずいぶん時間がかかったよ、呼び水をし、餌を与え、注射を打ってね。(笑い)それはね、僕も菊生叔父からいろんなことを教えられたし、そのことを明生君に伝えたかったということもある。それから僕は父達のように兄弟が無く一人だったし、身内のなかで自分と拮抗出来る、合わせ鏡になるような力のある存在が必要だからね。そういう人として育ってほしいと本当に思っていたんだ。

明生-そういう下地があって、『黒塚』に向かう時に寿夫さんの話を聞き、また、装束を自分の責任で選ぶ、この二つだけでも『黒塚』を勤めるのに充分な意欲が出たのです。これは本当に大きかった。そういう思いで能のシテを勤めると、こんなに面白いものはないわけで、あとはどんどん面白くなっていきました。実先生から教えていただいた通りを忠実に真似ることから、少し距離をおいて舞台を演ずるという意識で考えるようにと、変わりはじめたのです。

能夫-これは菊生叔父から聞いたんだけれど、先代の六平太先生は能は芝居をしてはいけないが、芝居心がなきゃいかんと、何かそんな事と繋がっているような気がするな。

明生-実先生から教わるものと、もう一方で能夫さんといろいろ話し、こんな面白い型付があるといったことを教わって、少しずつ、そう広がっていったんです。読めない伝書も、ふと手にするようになり、そういう意味でこの『黒塚』は私にとって本当に大事な出発点でした。

つづく

型付と向かい合う投稿日:2018-06-07

型付と向かい合う

粟谷能夫

型付けには奥深いものがある。おもに江戸時代から明治迄の先人がいろいろな経験の中から見つけ出した演出が記され、大変貴重なものである。動きや演出上の心得の後、最後には「—も宜し、—も有り、—は損なり」といったものが入り、その書き方には幅といったものが感じとれる。だから問題は、読み手が型付をどれだけ深く的確に読みとれるかということになる。型をなぞるだけでは駄目なのである。たとえば『烏頭』のカケリの場面、囃子の手組で大小の鼓が「ツタツタツタタ」と打ち、シテは「トントントン」と三つ拍子を踏み、大鼓が大きな掛け声で「イヤー」と頭(かしら)を打って「親は空にて血の涙」となる喜多流独特の型がある。型付けにはこの「トントントン」は近づく、歩み寄るという意味合いだと書いてあるが、今はただ結んで拍子を踏むだけになっている。しかし大事なのは子鳥を捕らえようと近寄るという意識で、ぐっと前に出る思いを込め、演ずることだろう。ただ「ドントントン」と拍子を踏むだけでは駄目なのだと思う。やっている型としては同じでもそういう思いが含有されているといないとでは表現が違ってくる。また『梅枝』の「夫の形見を戴き、この狩衣を着しつつ、常には打ちしこの太鼓の…」で、頭をさす。続いて衣を見る、そしてまた太鼓を巻ざし見ると三つの具象的な型が続くところがあるが、伝書には三つの型が続くと死ぬというような事が書いてある。『梅枝』は同じ題材を扱った『富士太鼓』とは違って、夢幻能の極致のような曲だから、生々しくなっては駄目だという教えだと思う。そこに注意しないと、一つ一つの型が生かされず、型そのものの味わいが死ぬという意味だろう。この教えを理解した上でなら、三つの型を続けても、演じようによっては十分成り立たせることが可能だと思う。知らないで演ずるのとでは自ずと違いが出てくるはずである。これを極端な例だが「三つの型を続けて演じると演じ手が死んでしまう」と解釈するようでは困ってしまうのである。このように、型付には基本の型の他にいろいろな情報が書き込まれている。そこから先人の心に深く分け入り、読み取っていく喜びは大きいものがある。自分が一つの曲に対してどこまで考え抜き、稽古を重ね、先輩達や他流の人達の舞台から多くを吸収するか、そういうことが積み上がっていくと、同じ型付が違うように読みとれることがある。日々発見があり、新たな発想をもたらしてくれる。時には型付通りということを越えて、自分に引き寄せて創造することがあってもいいとさえ思う。そういう意味では、その役者としての広がりがどこまであるかということが問われることになる。結局は日々の能に対する真剣な向かい方、その積み重ねが大切だということだと思う。

写真 『鵺』シテ 粟谷能夫 撮影 あびこ喜久三

流儀と個投稿日:2018-06-07

流儀と個

粟谷能夫

粟谷能夫「砧」例えば『喜多会』と『粟谷能の会』とどちらが大事かと聞かれたらどう答えるだろうか。

まずはその問いかけそのものに問題があるとは思うのだが、それはおいておこう。それは車の両輪であり、どちらもともに大事なのだという答えになるだろう。個と『喜多流』とどちらが大事かという問いに対しても同じ答えだ。個が充実した存在になることによって、『喜多流』として魅力ある演能ができ、充実した演能集団である『喜多会』によって個が磨かれ優れた存在になるのだ。

ただ、能はほかの演劇に比べれば、個の力量にゆだねられている部分が非常に大きい。普通の演劇であれば一つの舞台を成り立たせるために、ひと月とかふた月、稽古を全員が共にするのに対し、能は一回の申し合わせで本番を迎える。これを可能にするのが個の日々の修行、稽古なのだ。その意味では個がしっかりと磨かれなければ演能は成り立たないし、流儀も繁栄しないことになる。芸術性の高い個が多様に存在していることが流儀の力であり、魅力だろう。それがなければ家も流儀も色あせたものになる。

そしてもうひとつ、流儀の是とするところというものが、長い年月の間には必ず変化していることを見逃してはならない。世代が代われば当然違ってくるものだ。そうした中で、何を基準とするのか。それは能の本質を見据える事だろう。その視点で流儀の優れた所をはっきりと認識すると同時に、流儀の抱えている問題点も見えてくるはずだ。実際この何年かの間に流儀内部でいろいろな変化が起きて来た。指導ということでも大きな変化が起きて来ている。このことに対応して行くにはどうすればいいのか。

自分のことを振り返れば、親からの教えがあり、喜多実先生からの徹底した基礎教育によって自己形成が始まった。そして能を自覚的に見る年になって、他流の優れた個や能の集団の有り様を目の当たりにした。自分はこのままでいいのかという問いかけをもちながら修行をした。その頃は当然批判も受けた。しかし本当に自己を確立するためには、親の価値観や流儀の規範を一度は疑い見直すということを通過することが必要なのだ。それがなければ、その個はスケールの小さなものになってしまう。

能は個では出来ない。だからこそ広い視野と魅力を持った個が集まり、切硅琢磨することが能を豊かにするのだ。

写真 粟谷能夫「砧」撮影 東條 睦

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まづ此度は投稿日:2018-06-07

まづ此度は

粟谷菊生

粟谷菊生「鉄輪」来年、二〇〇二年の十二月に喜多自主公演で、『猩々』の能を舞うことに決まりました。まわりから「未だ元気に舞っているじやないの」と云はれ、「十二月の出演者が欠員してしまいましたから『猩々』をお舞いになりませんか?」と云はれて、つい、その気になってしまったのです。僕にとって初めての能は、父益二郎の主宰していた喜扇会で舞った『猩々』でした。それで自主公演での最後を『猩々』で舞い納めるのもよかろうと、お受けしてしまいました。しかし最近、脚力の衰えをとみに自覚している菊生ゆゑ「御酒と聞く」…と竹の葉の酒を汲まぬ内から、ほろ酔い機嫌の猩々となっているやも知れず。今年四月の自主公演で『鉄輪』の能を勤めて、これが自主公演に於ける最後の演能と宣言してしまったにも拘わらず、何事ぞと訝られる方もおありでしょうが、そこは『鉄輪』の最後のことばを思い出して下さい。足弱車の廻り逢ふべき。時節を待つべしや。まづ此度は歸るべしと。というわけで「時節を待つ・・・」のは来年十二月。一年以上先の傘寿の『猩々』を目ざして今は頑張るしかありません。

写真 粟谷菊生「鉄輪」撮影 東條 睦

我流『年来稽古条々』(11)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(11)

青年期・その五『道成寺』まで

粟谷能夫 粟谷明生

明生?先回の第10回では『猩々乱』被き以降ということで、能夫さんの『大会』『半蔀』『小鍛冶白頭』それから私と二人でやった『二人静』まで話しました。その頃は年に二番という演能で、ハングリーだったな、というのが結論でした。当時、せめて年五番は舞いたいと話していた覚えがあります。

能夫?この頃が寿夫さんの能を一番たくさん見ている。だってこの頃暇だったもの、弟子を教えているわけではないし毎日午前、午後と喜多実先生のお稽古にいったら夜はフリーだから。

明生?思い出すのは、毎朝まず実先生が一番能を舞われたこと。それも何を舞われるか分からない。困るのは出てこられるのがやや遅いときで、そんなときは『定家』とか私の知らない重い曲で……。そうなるともう謡えないので私はただ見ているだけでした。

能夫?いいときだったよね。稽古してくださったもの。それがべ?スになってるものね。皆で稽古したからそれが皆の共通項になっているということは凄いことですよ。今の喜多流のベースですよ。

明生?金春流の桜間金記さんと仙台の演能でご一緒したとき「僕が知っている喜多流の人達は、皆共通の感覚があって、赤は赤といえる年代だね」と仰っしゃられたことを思い出します。金春流では誰かが「赤」と言っても「いや紫だ、桃色だ」と、違う感覚を持たれている方がおられるということでしょう。それに比べると確かに私達は基盤が一つという事はあります。例えば『土蜘蛛』のツレの謡が「重い」と誰かが注意すると、皆そろって「そうだ、重い重いよ」となる。でも金春流では「えーそうかな、そうは思わないがねー」という人がいるということらしいです。私達は喜多実学校というところで、皆が同じ意識を持たされ、共通項で育った影響でしょうね。これが良いのか悪いのかは別として、求めている美意識が一つだったような気がします。

能夫?これは幸せなことだよね。それで僕は昭和53年に『黒塚』を勤めました。寿夫さんが亡くなった年。

明生?能夫さんが『半蔀』を演じた頃からですかね、青年喜多会のあとの反省会に私も呼ばれるようになっていまして、会の反省や仲間同士の批判とかいろいろ話されていました。私は未だヒョッコでしたから、もっぱら聞くだけでしたが・?。

能夫?その頃はもう先輩たちは青年喜多会を卒業していて、僕や出雲康雄さんがリーダーシップをもってやりはじめた。

それでただ能をやりっ放しでは駄目だということで、反省会を始めたんだよね。

明生-鍋屋横町の寿司初という、山本東次郎家御用達みたいな寿司屋で、目黒から遠かったけれどよく行ってましたよね。残念ながら今はもうありません。ニューヨークでやっているようですが…。

能夫-その頃からだよね、僕が銕仙会の影響を受けて、舞台に対して、集団としてこんなふうにしたいという主張をするようになったのは。僕にとっては革命的なことだったからね。

明生-私の意識が変わって来たのもその頃からですね。青年喜多会というのは自分たちの会という意識が強かったから、四番立で三番も地謡がついても、へこたれなかったし、同人皆が舞台にも自発的積極的に取り組むようになり、例えば地謡で疲れていても「凛々しくきちっと座っていよう」という意識に目覚めて、「背中丸めてだらしなく座っている人なんて、他流の同じ年代の人にはいないものなー、頑張ろう」をスローガンのようにしていました。

能夫-その頃は地謡の座り方にしても、扇の持ち方にしてもそれぞれ違っていたり、だらしのないところがあったものね。皆がNHK・TVの能の収録のときは咳もできないというように緊張して座っていたり、『道成寺』のときならやはり皆がピシッと背中を伸ばして座っている。そういうことが特別のときだからというのではなく、日常のことでなくてはいけないということだよね。寿夫さんが亡くなったのが12月7日で『黒塚』は16日でしたから、すごく寿夫さんのことを意識して舞台に立ったことを憶えている。

明生-その後、能夫さんは寿司初で嘆かれてましたよ。「どうしてあんなに大事な人が早く亡くなるんだ」ってね。

能夫-僕の思いでは、『道成寺』の前哨戦として『黒塚』になったという感じはなかった。僕が『造成寺』をやるというので実先生がつけてくれたのかもしれないが…。「祈り」というものを経験しておきたかったという思いはあったね。

明生-私は青年喜多会で『紅葉狩』を勤め、それから「粟谷能の会」で『黒塚』をやって、それから『道成寺』でした。『紅葉狩』で急之舞を体験し、『黒塚』で祈りをやり、出来れば『葵上』もやっておくのがいいのかも知れませんが-。まあ『葵上』は『道成寺』の後の方がよいと今では思っていますが。

能夫-それは皆の経験から、そういうことをやらしておいたほうが良いという方向性が出て来たんじゃないかな。寿夫さんを追いかけていた頃は、能の本質を十分に理解していたわけではないし、全てが見えていたわけではないと、今にしては思うね。舞台から伝わってくる衝撃波の強烈さと、能を創っていくための仕掛けとか考え方、姿勢といったものを教えてもらった。あとは自分で考えなさいという事だったと思う。そういうとっかかり、経験があったからこそ今日があると痛切に思うね。

つづく

鞍馬の花見投稿日:2018-06-07

「鞍馬の花見」

粟谷菊生

子供が初めて能の舞台に出るのは大抵、鞍馬天狗の「花見」としてです。鞍馬山の東谷という想定の橋懸りを子方の牛若丸を先頭に花見に行く平清盛の子供達。この稚児たちを我々は「花見」と呼んでいます。長袴をはいて舞台にゾロゾロと出てきて、ちょっとの間、座っているだけのものですが、これが初めての能への参画ということで後々まで深く脳裏に灼きつくのです。三歳ぐらいの子供が長袴をはいて出てくると舞台では豆粒みたいで、歌舞伎の子役の初舞台と同じように、それだけで可愛いものです。ワキが「花は明日にても御覧候へ。まづ此の所をば御立ちあらうずるにて候」と花見たちを帰すのですが、先代山本東次郎師の能力(アイ)が「もーし、苦しからぬことにて候」と一人ずつに顔をのぞき込んで言うのを、その大きな声に馴れていない花見の一人が吃驚して立止まってしまい、帰ろうとしないので、あわてて小さな声で「行ってもいいのですよ。歩いていくのですよ」とその子に言って、再び「も-し苦しからぬことにて候」と大声で一人ずつにくり返しました。又、花見の一人が舞台で動けなくなってしまってワキが抱っこして退場したという珍景もありました。喜多流は或る時期、男の子の出生率が非常に低くなった時がありました。これで後に演能の曲目を選ぶに当たって子方の要らないものを探さねばならない事となりました。親が『鞍馬天狗』のシテを演る時に子供が花見として初舞台を踏むというケースが多いのですが。今回春の粟谷能の会では私がそのシテを演じることになりましたが、「菊生先生の『鞍馬天狗』なら」と大勢の花見が出てくれることになり、孫の尚生も子方(沙那王)として出るし、老体は今から心はずませております。私の予知できない未来を握っている此の幼い子供たちに、前の時代から次の時代へと承け渡してゆく伝統というものを如実に見る思いがしますし、喜多流の将来にも明るいものを感じてまことに幸せです。

我流『年来稽古条々』(10)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(10)

青年期・その四『猩々乱』披き以降

粟谷能夫 粟谷明生

明生─先号と先々号は粟谷新太郎追悼ということで新太郎から我々が受け取ったもの、また新太郎追善能を催して感じたことなどについての話をしました。今月からは本来の流れにもどして、「阿吽No.8」の[猩々乱披きをめぐって」以降の時代について話をしたいと思います。

能夫─僕の『乱』は昭和四十七年で二十三歳だった。『道成寺』が昭和五十四年で三十歳。それまでの間のことだよね。その七年間にやった曲が十三、十四番位。昭和四十八年『大会』から『半蔀』『野守』『小鍛冶 白頭』『二人静』『巴』『船弁慶』『熊坂』『源氏供養』と続いて、前年の五十三年に『花月』『黒塚』。この『黒塚』で『道成寺』にもある「祈り」をはじめて体験した。今思えばあの時期に『紅葉狩』とか『葵上』を演っておいてもよかったように思うな。そして、昭和四十四年頃から他流の能を観に行くようになった。最初に見たのは観世寿夫さんの『船橋』だったと思う。その時の感動から銕仙会へは度々観に行った。昭和四十七、八年頃には、銕仙会で書生をしていた浅井文義さんとの出会いがあり、互いの舞台を観に行くようになったんだ。僕の『大会』を観に来てくれた浅井君から基本の技術がしっかりした佳い舞台だったと言われ、すごくうれしかった思い出がある。面は釈迦をかけたわけじゃなく、大べし見のままで通す普通の演出だったし、自分としては教えられた通りにやっただけという意識だったけれど、喜多流の型の面白さということがあって、より鮮烈に感じてくれたんだろうと思う。最近彼が『大会』をやるというので、喜多流の後シテで一畳台をダン、ダンと飛んだりする型はどうやるのかと聞かれた。他流と交流するのはいいと思うな。その『大会』を見に来てくれたある人から「わかるけど、まだまだこれからね」って言われたのもよく覚えている。自分としては一所懸命にやったし、ベストを尽くしたのに、何でそんな評価になるのかと思ったことも確かだけど、同時に何かまだまだ先があるというか、能の奥深い世界があるということを感じさせられた。今にして思えば、その頃自分にはその先がよく解っていなかったと思うけれど。実際『大会』がやれたからといって『求塚』が出来るわけじゃないからね。それが二十四歳かな。

明生─私から見ると能夫さんは成熟してましたね。

能夫─当時は、うちの親父が地謡を謡ってくれたんだよ。そのために苦労して覚えていたのを想い出すな。

明生─あの頃の青年喜多会は私たちが演じる時は父親が地謡を謡うというのがお決まりでした。私は『大会』の袖珍本を能夫さんから貰いましたが、その本には新太郎伯父の沢山の赤い印の書き込みがあって、悪戦苦闘している様子がうかがえました。息子のために苦労していたのがはっきり残っていますよ。当時は前三人後三人の六人地謡。地頭のストレスも多かったでしょうね。

能夫─それから翌年の『半蔀』、これもよく覚えているな。

明生─その頃、青年喜多会で本三番目ものの曲がつくというのは大変なことでした。

能夫─僕は『半蔀』で袖を返して夜が明ける所を見るということにすごく抵抗があった。その頃は無機的な表現に憧れをもっていて、表面的な演技はいやだと思っていた。何もせずに見ればいいじゃないかとも思っていた。その時浅井君に、そうではなく、袖を返し、またその袖をもどすことで次の場面に進んでいけるのではないかと言われ、袖をもどすことでふーっと気分も、世界も変わるという能の仕掛けを理解出来たように思う。まあその頃は時間もあった。演能の回数も少なかったから、お互いの能は見られたし、浅井君とはしょっちゅう会って話をしていた。

明生─今の内弟子さんの方がずっと忙しいですね。

能夫─だからその頃たくさん覚えたことが今の財産というか、貯金になっていると思う。当時、能夫は舞台で地謡がどんなに謡ってもがんとして動かないやつだと思われていたんだよ。それと、『半蔀』でうちの親父や、菊生叔父から、もっと角(すみ)まで行かなきゃ駄目じゃないかって言われた時に、友枝昭世さんが、能夫には能夫の考えがあるんだろうと言って理解を示してくれた記憶がある。

明生─私も能夫さんから言われましたが、喜多流は藁屋の作り物を常座にやや正面に向けて出す、その作り物から発せられる力の広がりの限界、結界みたいなものが有って、シテはそれを超えて角の目付注ギリギリまで行かない方がいいということでしょう。

能夫─その根拠は能の型付にあるんだよ、仕舞の型付では曲の初めに角まで行って左に回ってということになっているけれど、能の型付には角まで行かないで少し右向いて隣の読経の声を聞いて、というような能的な処理の仕方が書いてある。それを仕舞と同じように動くということに対する憤りがあったし、うちの流儀の作り物の出す位置、作り物によって生じる結界というものを考え、角へ出すぎると、その結界から外れてしまうと考えたんだ。昭和五十年が『小鍛冶白頭』。喜多流独特の狐足という足使いがあり、機敏に動き廻る曲を演った。これには父達の作戦があったようなんだ。前にも述べた通り、あまり動きたがらない僕を喜多流的な次元に引き戻そうという仕掛けだった。それでも、僕にとっては、ある憧れを抱いていた曲であり、やりがいを感じて稽古をしたように思う。今その時の写真を見ると、半切をあまりにも短く着てしまっていて、スネが丸見えなんだよ。当時は装束着けに対する意識が低かったしな。でも、これを演って、動き廻る事もまた能の要素の一つであるということが体感できたんだ。それから『二人静』。これ、明生君と二人でやったんだよね。必ずしも進んでやりたい曲ではなかったけれど…。

明生─私もすごく嫌でした。あの時ははみ出し者を矯正するための曲だとしか思えませんでした。能夫さんは観世寿夫氏に傾倒して喜多流の規範から外れていると思われていたし、自分は目標が見つからず、能に自分の考えを折り込めない、能に集中できない時期でしたから。

能夫─僕はきらいな曲だったし、本当に嫌だったな。能役者にとってそれぞれ固有のこみ(主張のようなもの)というものがあって、それは本来合わせられるものではないのでね。それを殺して合わせても何の意味もない。

明生─かえって御素人のお弟子さんの方が素直で上手に合わせられたりするんですよ。当時の写真を見ると能夫さんは構えが立派ですが、私は身体も出来上がっていないというか、貧弱で、そのくせ生意気に喜多流の若い人の構えはこうだというようなものに反発があって、大人達のような一見何でもないような構えに憧れていました。写りが悪いのは当たり前です。ともかく嫌であったけれどよく稽古し合わせました。自分の中で能というものを真剣にやらねばと思ったことは確かです。

能夫─装束もあの頃は揃いのものはなかったね。紫の長絹も濃いのと薄いのとしかなくて…。

明生─能夫さんにお前は俺の影だから薄いややくたびれているほうにしろと言われ、それを着ましたね。

能夫─ともかくその頃は年二番だものね。本当にハングリーだった。だけど充実した時を過ごせたと思っています。

-つづくー

我流『年来稽古条々』(9)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(9)

新太郎一周忌追善能を終えて

粟谷能夫 粟谷明生

明生─先回は粟谷新太郎追悼号ということで、私たちが新太郎から受け取ったものについて話をしました。今回は、3月5日に粟谷能の会として催しました「新太郎一周忌追善能」をふまえて話をしていきたいと思います。

能夫─一周忌ということで、チケットが売り切れるくらい、実に多くのお客様にご覧頂くことが出来ました。お客様の新太郎への思いと同時に、残された私たちがどれだけのことをやるのかというきびしい視線も感じました。

明生─伯父が一線を退いてから、父菊生と我々の三人体制でやってきましたが、いざ亡くなるとやはり心が引き締まる思いで、より一層強い覚悟が持てたような気がします。

能夫─僕はこの頃強く思うんだけれど、時間の経過には三つあって、現在の時間は凄いスピードで容赦なく動いていってるんだけど、未来はこちらの様子を窺いながらやって来るという感じがする。自分がきっちりとやっていれば未来もきちんとやって来るけど、いいかげんなことをしていると未来も躊躇しながら来る。そして、過去は厳然として、不動のものとして静かに立っている。だから自分をどこまで厳しく律しているかが常に間われていると思う。

明生─同感です。一周忌追善能では父の『弱法師』を舞入で、能夫さんが『求塚』を、そして私は息子の子方で『望月』をやらせてもらいました。どの曲も伯父が大事にし、思いのあった曲目で、一周忌にはぴったりの番組でした。まず父の『弱法師』ですが、やはり身体が万全ではない状態でしたので、クセを抜いたり色々工夫をしていました。

能夫─僕はやはり菊生叔父の持っている力がただものではないということを見せてくれたいい舞台だと思いました。今の僕の考える『弱法師』とは違うんだけれど。

明生─父の『弱法師』の基盤は技術優先主義というか、盲目の杖の扱いを軸にして、どう演じるかなのです。特に舞入などは、その冴えた技が勝負だと唱えていますから、この間はいつもと違う、身体が自分の思うようにいかないという、焦れがあったと思う。しかしそれで『弱法師』の俊徳丸という役を通して人間菊生が表現されていて、また一段とレベルの高い舞台になったと思いました。

能夫─親父の若いころの『弱法師』の写真を見て驚いたんだけれど、身体をかなり前へ折り曲げているんだ。昔の教えはそうだったんだろうなと思った。晩年の舞台ではそんなではなかったけれど、盲目という意識が強いためかな。僕の思う透明度、純度の高い『弱法師』は観世寿夫さんによって目を開かされた。

明生─次の曲が能夫さんの『求塚』。新太郎伯父が数多く上演し、好きだった曲です。この曲を一周忌追善能で能夫さんが披いたということに大きな意義があったと思います。

能夫─流儀の決まりだと基本が腰巻又は大口に水衣、肩上げなんだけれど、僕はどうしても壷折でやりたかった。壷折はなかなか奇麗に付きづらくて大変なんだけれど…。それと後シテのいわゆる痩女の足「切る足」だけど、これについては自分自身で発見することがあって、自分なりに納得して出来たように思う。それが発見できたのは「三鈷の会」が国立能楽堂の委嘱で上演した、馬場あき子作、佐藤信演出の『晶子乱れ髪』で、僕が与謝野鉄幹の役で登場するのに扮装等演出上の判断で、能のまんまのスリ足では駄目だと思い、それで幽玄の足でないというか、ノリのない連続性のない、いわゆる切る足の感覚で演じた。そのとき痩女の足はこれだなという発見があって、それで今回実際に演じることが出来た。菊生叔父のは独特の工夫で、焦熱地獄の熱さにぎりぎり耐えられなくなって足を上げるという感じだけれど、これは親父なんかでもそうで、少しやり過ぎだと思っていた。運びを含めて、僕はもっと違う、曲へのアプローチがあると思うし、自分なりに曲をつかまえて、次の世代に大きい曲をちゃんと教えて、渡していく必要があると思うな。僕たちは自分たちで場を作ってきたし、まだまだ前座という感じがあって、そういう意味ではハングリーだったよね。今回僕も『求塚』のシテがやれるということで十分手応えがあったけれど、やはりツレや、地謡を含め全体を見通して舞台を創り上げて行くという課題はあると思う。

明生─最後に『望月』ですが、この曲は息子尚生(たかお)とどうしても勤めておきたく、丁度良い機会に恵まれて幸せでした。自分が子方時代、翔鼓を終えた後、獅子乱序になる所からが何とも言えず、身体がぞくぞくするような興奮を覚えて見ていました。シテの獅子舞がとても格好良く、憧れていました。早く大人になってやりたいと思っていた。ですから尚生にも舞台を踏みながら、雰囲気を感じとってもらいたかった、共に呼吸をしたかったわけです。今回尚生の稽古にあたっては、自分の経験を基にすると、いままでの教え方を改良する必要がありました。例えば今の子供たちはチャンバラごっこはしませんから、刀の持ち方にしても、実際に持たせてやらないと分からないのです。また、ただ大きい声をだせだけでは駄目で、具体的に分かり易く説明してあげる必要がある、もっと教える側が的確な教え方を勉強していかなくてはと思いました。

能夫─そうだね、僕らの頃は本当に乱暴だったからね。掲鼓にしても笛の流儀の違いもちゃんと教えてくれなかったしな・・。ともかく『望月』は子方がよく出来たね。

明生─終わって三役の方々と鏡の間で御礼のご挨拶をした後、息子が、格好良かったよ、僕も大きくなったらやりたいよと言ってくれたのは嬉しかった。まだだいぶ先だよとは言っておきましたが…。

能夫─いずれにせよ多くのお客様の思いのなかで、それなりの舞台が出来たのは、やはり父や叔父がこれまで頑張ってやってきてくれたお陰だと痛感した。これを次の世代としてしっかり受け止めなければと思う。

芸術院賞受賞に因んで投稿日:2018-06-07

「芸術院賞受賞に因んで」

粟谷菊生

平成十一年度の日本芸術院賞受賞の内定は三月はじめに発表されましたが、授賞式は六月十九日に上野の日本芸術院で行われました。前日の十八日、野村萬さんの古希と初世披露を祝う会が国立能楽堂で催され、私は乱狂言、(ワキ、囃子、狂言の三役が能を演じるのが乱能というが、その逆)の『唐人相撲』で唐の皇帝の役を演じることになっていました。唐に渡った滅法強い力士を演じるのは観世暁夫さん。三日前の申し合せで、次々に唐人の力士が負けてしまうので最後に皇帝が玉座からおりて自分が相撲をとろうと取組む所作で、ちょっとジャンプをしたところ、脳梗塞で不調となっている左脚のふくらはぎがピシッと微かな音がしたと思ったら肉ばなれを起し、早速医者に行きましたが、これは取り敢えずアイスノンで冷やすだけで、あとは日日薬によるしか術はないということで当日は出演不能となってしまいました。申し合せの次の日が授賞式のリハーサルの日。痛い足を引きずりながら妻に付き添って貰って出掛けましたが此の時、既に皇太后様のお傍らには御近親の方々がお集まりで、三日後の授賞式は約五十年振りの両陛下の御臨席の無い授賞式(前回は貞門皇后崩御の際)となりました。当日は、いかにも慎み深く静かに進み出で、賞状を恭しく頂くという、いとも神妙な演技(?)で、まともに歩けない足をなんとか誤魔化しましたが、両陛下が御臨席遊ばしていらしたら、もっとピーンと張りのある空気となり、式の重み、格というものが違ったであろうと感じたのは私一人ではなかったと思います。ところで、恩賜賞受賞の河竹登志夫さんが授賞式の控室で、終始じっと腰かけている私の所に来て「今日、粟谷さんと会うので新ちやん(新太郎)から頂いたモンブランの万年筆を原稿や作品と一緒に展示室に置きました」と。その昔、新宿の飲み屋で兄と大いに飲んでいたお仲間だったとか。兄が文部大臣賞を受けた時、お祝を頂いたお返しに差し上げたのが此の万年筆だったそうで、思いがけない御縁に暫し若かりし頃の新宿の夜の灯を互いに懐しく思い起しました。人間の治癒能力は三週間……。おかげで肉ばなれも段々治ってきたようです。近頃多い野球選手の肉ばなれの話を聞くと、あながち年のせいばかりではないんだと妙に自己満足している菊生です。

兄新太郎を偲んで投稿日:2018-06-07


兄新太郎を偲んで

粟谷幸雄

四兄弟の末である私は、兄新太郎と長く生活を共にし、独立して福岡へ派遣された時も、その後も、何かと心配りや恩恵を受けてきた。その兄を亡くして、淋しさも一入である。戦後、戦地からの帰還を危倶された新太郎が、無事帰還して来た時、幼心にも良かったと喜んだ。国内の復興に伴い、能楽も次第に盛んになり、新太郎、菊生の兄達は、父益二郎を助けて、喜多流の公演を地方へも拡げ、流儀と粟谷家の発展を盛り上げていった。併し、父益二郎が六十六歳の若さで突然亡くなったあと、粟谷家の将来を心配した長兄の新太郎は菊生と共に、辰三や私の親代わりとなってくれて非常に力強かった。兄弟仲良く団結して、父益二郎の謡や能を継承してきたが新太郎に紫綬褒章、菊生は人間国宝の認定を受けた事は、粟谷家の光栄である。それは、父益二郎が受章したも同然であると思っている。互いに切瑳琢磨して、粟谷家を盛り立ててきた新太郎は晩年、菊生に一切を頼んだと聞く。幼い頃は恐いなと思ったこともあったが、やはり頼りになる兄達である。新太郎との演能の思い出に、宮島で『小袖曽我』を一緒に舞ったことがある。兄の迫力ある舞台に引っ張られて、流石に兄貴だなと思い、自分の未熟さを反省したものである。新太郎の演ずる能は何ともいえぬ魅力があり、橋掛りに向かう所作や、笹などの扱いが独特で趣があったと私は思う。新太郎の芸風は謡も型も淡々としているが、余韻があって『芭蕉』は特に印象深く感じた。新太郎は、面や小道具などの蒐集に心掛け、捜して来るのが得意で、手に入れた面などから、能のイメージを膨らませていた。新太郎の蒐集したものを重宝していられる喜多流の重鎮もおられる。又、お弟子のグループ作りがうまく、あちこちのお弟子を上手にまとめていたのは、新太郎の人徳であろう。来年は幸扇会を主催して四十周年を迎えるが、父益二郎の偉大さや、夫々の芸風を持つ兄達の魅力が、年を重ねていく程に分かってくる。その兄達に報いる気持ちで、少しでも近づくよう心に期している。粟谷家一門も、次代の活躍へ移行の時代にさしかかり、今後の喜多流の発展と共に、粟谷家一門の益々の繁栄を祈念し、努力を続ける覚悟である。

芸道一筋だった兄投稿日:2018-06-07

芸道一筋だった兄

粟谷辰三

兄、新太郎の死は、私にとってやはりショックでした。長年にわたって闘病生活を続けていたので、いつかはこの日が来るのではと覚悟はしていましたが、ついに舞台への復帰を果たせずさぞ無念だったことであろうと、察して余りあります。芸道一筋に精進してきた兄の死を悼んで断片的ですが、いくらか想い出を連ね、兄を偲ぶよすがにしたいと思います。父・益二郎亡き後、粟谷家を支えた長兄。新太郎と次兄・菊生の二人は、私とは年齢が離れていたので、兄というよりは兄親というべき存在でした。ある喜多流ファンから「新太郎は芸一筋、辰三は呑気一筋」とひやかされたと聞いておりますが恥ずかしながら思い当たるところがあります。私は兄の後見を数多く勤めましたが、色々な失敗をしました。『巴』では数珠を反対の手に持たせてしまったり、『竹生島』では床几を出し忘れたりしてその都度叱られました。しかしそこは兄弟ですから叱責も一過性で、帰途には二人食事をしながらもう笑い合っていたものでした。兄は能面蒐集に執心しており、面をつけたまま寝ていて、義姉をギョッとさせたこともありました。その大事な能面を二面、私にくれました。その一つである「邯鄲男」の面を喜多舞台で稽古に使っていたら、六平太先生(先代)に見とがめられて、「こんな立派な面を稽古に使ってはもったいない…」と叱られました。兄の能面にかけた執念と、それを一目で見抜かれた六平太先生の眼力に、改めて敬服したものでした。古い話になりますが、独身時代の私と四男・幸雄は中野の兄の家に住んでいました。あるとき次兄に「お前たちも家に生活費を入れなけれぱいけない」と注意され、以来、兄嫁さんになにがしかのお金を入れていました。長兄夫婦はそのお金を使わずに、いずれ私たちがお披きをするときのためにと貯金しているということを亡母から聞かされた時には思わず頭が下がりました。陰に日向に私を支支えてくれた兄が、もうこの世に居ないことは寂しい限りですが、私も能楽師の端くれですから、残る舞台人生に全力を注がなければいけないと、遅まきながら反省している今日この頃です。合掌

兄を偲んで投稿日:2018-06-07


兄を偲んで

粟谷菊生

僕は実は五人兄弟の次男なのだ。兄、新太郎、僕につづいて輝代という妹が居たのだがこの妹は五歳の時、亡くなり、辰三、幸雄となる。従って僕と辰三の間は六年ぐらい空くので僕は小さい時から、いつも年の近い兄と二人で遊び、能に関わってきた。親父は『小袖曽我』、『放下僧』などを二人に演らせ、地方の演能にも連れて廻った。世間では僕が剰軽な男という定評になっているが、新太郎も郎も結構、面白いことを言う人だった。いつか酔っ払った時、こう言っていた。「世の中の美人は、みんな僕のものなんだ。ただ予算の都合で今のところ他人に預けてあるんだ」と。兄は倒れてから八年間も能が舞えなかったわけだが、どんなに辛かったろう。兄は文部大臣賞、紫綬褒章など後年矢継ぎ早やに受け、娚が空恐ろしい位だと喜んで洩らした事がある。僕が人間国宝になった時、病院の担当医が「おめでとうございます」と仰言って下さったのを「自分が貰ったのかと思った」と。これは冗談なのか本気なのか?兄は最後まで頭はしっかりしていたようだった。体が利かなくなって、頭だけはっきりしているというのも本人にとって幸せなことかどうか。最近老人問題がテレビでよくとり上げられるようになったが僕も人間の晩年、最期ということを、しきりに考えるときが多くなった。

我流『年来稽古条々』(8)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(8)

粟谷新太郎から受けたもの

粟谷能夫 粟谷明生

明生─ 先回は青年期・その三として、『猩々乱』披きをめぐってーということで話しをしましたが、今回は昨年五月二十一日、粟谷新太郎伯父が他界いたしましたので、新太郎追悼号ということで、二人で粟谷新太郎の思い出として話しをしたいと思います。
能夫─ 父新太郎他界に際しましては多くの方々より様々な追悼のお言葉、お心遣いをいただき深く感謝致しております。本当に有難く心からお礼を申し上げます。
明生─ さて新太郎伯父の事で思い出すことは、私は実に多く伯父のもとでツレをさせて貰ったということです。前に年来稽古条々でも言いましたように、子方は百二十番勤め、最後に昭和四十三年『満仲』の幸壽の役で切られて子方卒業となりましたが、同じ年に直ぐ直面で新太郎伯父の『土蜘蛛』の胡蝶の役がつき、それからはずーとツレ街道です。『葵上』、『八島』、『鬼界島』、『求塚』などが多く、伯父のものは全部で四十番お相手しています。あの頃私はあまり能を面白く感じていなかったので、ただ言われた通りにしているだけ、という状況でしたが、や はり番数が多かった為か、あの時の経験や伯父などに注意されたことは大きな肥やしになって、今につながっていますね。舞台や作品に対しての理解なんて大袈裟なものではないのですが、でもなにか自然に知らず知らずに舞台で培われていたと思います。頭からではなく、とにかく身体で解ったという感じかな。
能夫─ まさにそういう風にして育てられたということだと思うよ。
明生─ 『葵上』のツレはそれこそ三十番勤め、そのうち十三番が伯父とです。なかには一日二番なんていう時もありました。秋の粟谷能の会で『葵上』を勤めまして、ツレの内田成信君に「あーだ、こーだ」と注意している自分が、実は伯父から言われたことと同じことを注意しているんだと気がついておかしくなりました。例えば「東屋の母屋の妻戸にいたれども」という謡をダラダラ謡うな、シテは「姿なければ問う人もなし」とかかって謡いたいから「いたれども」は謡をつめてとか、ツレはツレらしく、歩みも謡もサラリと邪魔せず引き立てると、伯父からの教えは結構身体にしっかりお注射されたみたいです。
能夫─ それは言葉の意味を大切にして謡えという意味だと思うけどね、言葉を生かせと・・。親父たちの世代はこういう理由だからこうして、という理路整然とした言い方はしないからね。
明生─ そう言われても解らなかったと思いますけどね。何せあの頃、中学時代はやる気のない時代でしたから。(笑)あと忘れられないのが、二十歳の時、喜多会で『砧』のツレがついた時です。その頃の私は山登りに夢中でして、型付通りに動いていればどうにかなるだろうと、その程度の考えでしたから、伯父はさぞ嘆いたと思いますよ。
能夫─ その時のことはよく憶えているな。親父が「これじゃ砧にならないよ」って言っていたのが、申合わせがあって、本番が終わって、結果的には「よくやってくれた」というか、丸だということになった。花丸じゃなかったかも知れないけれど…(笑)
明生─ 「大声出していいから、高い張った声で謡ってくれ、そうすると伯父ちゃんは助かるんだよ」って言われましたよ。伯父は大曲の『砧』を明生とやるのか、やれやれと思っていたでしょうね。あとで父から「今日はともかく謝らなくて済んだ」と言われましたから。でも今考えると喜多会の配役のつけ方もいいかげんでしたね。それとその頃は能夫さんはもうツレはいやだと言うので私の方にその役が回って来たということもあったと思います。
能夫─ 確かにそんなことを直訴したかも知れない。地謡というポジションに居て、シテとか地頭を感じたかったんだよ。
明生─ 『清経』『山姥』『景清』『江口』と伯父のお陰で、いろいろやらされ、長いこと座らされました。(笑)でも近頃、私にはそういう時期があったことが、一つの大きな財産になっているのだと感じています。ツレを演ずる心みたいなものを掴めた様な気がするのです。例えば『松風』。膨大な連吟、立ち居の心配り、ツレとしての立場の確立、シテヘの理解、これらが出来て始めてシテが出来るのです。だから逆に本当のツレはこのシテを経験せねば出来ないのかもしれないとさえ思います。ですから伯父には遅蒔きながら感謝しているんです。
能夫─ 親父のことで鮮烈に憶えているのは、僕はまだ二十歳前だったけど、親父が春秋会で『朝長』を披いた時のこと。これは稽古から申合わせ、本番とすべて鮮明に記憶にある。
明生─ 春秋会というのは、当時、喜多長世、節世両先生、友枝喜久夫先生、新太郎伯父、そして父菊生の五人の会の事ですね。
能夫─ 親父がほとんど裸に近い姿で『朝長』の稽古をするのに謡わされた。その頃だから十分にわかっていたとは思わないけど、ともかくリアルタイムで親父が『朝長』を創っていく過程をつぶさに見た。親父がふんばっている姿に肉体の力を感じた。古武士のような骨格の図太さ、勢いがあった。「朝長が膝の口をま深に射させて馬の太腹に射つけらるれば…」の所なんかあこがれたもの、かっこいいと思った。自分もやりたいと。前シテにあんな難しい語りがあるとは理解してなかった。現実の舞台に向かう過程を親父と一緒に歩んでいた。それから昨年、自分が『朝長』を披くまで、これは一連のものとしてつながっていると思う。その間に観世寿夫との出合いがあった。そういう外からの刺激の中で、自分の父とか流儀のあり方を見直す観点を持っていったのだと思う。『朝長』でもうひとつ忘れられないのは、寿夫さんが亡くなった二年ぐらい後の鋏仙会の定期公演で、喜多能楽堂で演られた山本順之さんの『朝長』。これはすごいと思った。地謡は野村四郎さん、浅見真州さんたちが謡っておられたけど、巨星亡き後、全員が一丸となって寿夫さんの残したものを受けとめ表現していこうという気迫を感じた。皆が創りあげてきたものの集大成だと思った。シテの順之さんもすごくて、シカケ一つとっても過不足なく作品を表現していて、そこには型を超越した世界があった。これだと僕は思った。それで、たしか十二月の公演だったけど、その前に囃子の会で順之さんが銕之亟さんから、「馬の太腹に射つけらるれぱ」の所で床几からずり落ちる型を直接教わっている所をまのあたりにしたしね。だから僕にとって『朝長』は親父のを見てすごいと思い、かつ負けるものかと思ったという出発から、寿夫さんとの出合いの中で、順之さんの舞台があり、それが自分の舞台とつながっている。舞台というものは、自分の番が廻って来ました、はいどうぞ、という訳にはいかない、その作品に対して思いを深めていってないとだめだと思う。
明生─ それから伯父の凄い事の一つに『葵上』の坪折にした唐織を「打乗せ隠れ行こうよ」で、さーっと脱いで被くという難しい動きがありますが、一度も失敗したことがないということです。
能夫─ 手が的確に脱ぐために丁度良いところを掴んで、それで思い切りよくいけたんだろうな。普通だと、ここまでやるとエレガントじゃないとか躊躇があったりするんだけど・・・
明生─ 失敗なしは本当に凄いことです。職人芸というんでしょうか。父に比べて決して器用な人ではなかったと思うんですが。とにかくうまかった。
能夫─ 『土蜘蛛』の投巣も見事だったね。それと謡にはうるさかったね。喜多流の趨勢として型を重視する傾向に対して、謡がちゃんと謡えないと駄目なんだと。地方稽古に行っても番謡を一日に三番も謡って決して手を抜かないというのか、そのせいで自分の能のときに声が出なかったりしたのを見ていて、はがゆい思いをしたこともある。晩年になって、型は少し枯れて来たという感じがあったけど、謡は良くも悪くも枯れるということがなかったように思うな。かえって言葉についてことさら強く謡ったりしていた。いずれ親子というのはどうしたって似ているところはあるし、また反発し合うこともあるし、いわく言い難い所が沢山あるからね。合せ鏡みたいで、お互いにピカピカ照らし合いながらお互いに馴れ合ったり、意地を張ったり、喧嘩したりして消耗するみたいな所もあるしね。だから僕にとっての親というのは、『朝長』のときに言ったように親から受け取ったものがまずあって、そうして自己形成していく過程で、自分の流儀という枠を越えた所での観世寿夫の能との出合いがあり、能に対する取り組み方や、細部にまで目が配られて能という演劇を成り立たせているといったことを教えられ、これらのことが自分の立地条件だと思った。そうした過程を経て、父の良さも、悪さもちゃんと見られるようになったと思う。前にもこの場で言ったけど、僕と父とはDNAはつながっているんだし、どっかで似て来るにちがいないんだけど、ただ自分の能が親の雛形に終わっては駄目なんだと思うな。
明生─ 私なんか伯父より、能夫さんとつきあう時間が長くなりましたから、能夫さんには新太郎伯父と違う価値観、美意識がはっきりあるんだと感じます。それでも、不思議に伯父が亡くなってから、能夫さんの面をつける時の、うけが前と違ってきて、どことなく伯父独特の少し顎を上げる感じ、癖がまるで魂が乗り移ったと思えるほど似てきたのは不思議。だから最近はそれを少し計算に入れて能夫さんの面のうけをみていますよ。
能夫─ それは自分で意識している訳じゃないんだけど、親子というものはそういうものかも知れない。そうでなくても我々親子はどことなく良く似ていると言われるしね。まだまだ話は尽きないけど、次の機会に譲りたいと思います

ハ・ハ・ガ・メ・ト投稿日:2018-06-07


ハ・ハ・ガ・メ・ト

粟谷菊生

古人の歌に「しわがよる。ほ黒が出ける。頭がはげる。ひげ白くなる。手は振う。足はよろつく。歯は抜ける。耳は聞こえず。目はうとくなる。身に添は頭巾襟巻、杖、目鏡…云々」(仙崖の字句をそのまま引用)と続くのがあるが、自分が該当しないのは僅か三つでガックリ。鼻の下の大きな黒子は生まれたときからのもので、よく剃刀で切り(電動カミソリでも)血を流す。若かりし頃の多すぎて困った髪は周知のように情無い状態となり、頭巾ならぬハンティングを冬は防寒、夏は日除けに、風吹げば、ほうぼうの逆髪になるのを押さえるために四季愛用することになる始末。耳も確かに遠くなり、テレビの音量を矢鱈に上げ、妻の声もとみに大きくなり、物が見えない見えないと騒いで「眼鏡もかけずに見えないとは図々しい」と呆れられ、その眼鏡を探すのに、これ又多くの時間を費やす。生来、家庭に於いて、使ったものは決して元に戻さないという習性を持っているため常に何処に置いたか判らなくなるのだ。眼鏡がない、眼鏡が無いと探しまわっていると、「新聞の下になっているのでは?」とか、「洗面所では?」とか、時には探している物を「これでしょう?」と云ってヒョイと目の前に出してくれる魔法使いのお婆さんのような妻のいるおかげで男ヤモメでない僕は幸せ。一人で暮らしていたら一日二十四時間の内、三分の一の八時間は探し物に費やすことになるだろう。忘れ物のないようにと、「ハンカチ、歯(部分入れ歯)、がま口(札入れと小銭大れ)、眼鏡に時計」の頭をとって、紙に大きくハハガメトと書いてくれたのを口だけハハガメト、ハハガメトと呪文のように唱えるだけで、実際は身につけていない口先居士。一つずつしっかりチェックしているつもりなのだが、駅まで来て始めて持っていないことに気づいたり…。あゝ年はとりたくないものとかこつこと毎日。弟子の多くが(何故か女性)膝を痛め、困っておられるが、僕も脳梗塞から具合の悪くなった左足には苦労している。駅の階段を一段毎に足を揃えて下りている人の難儀さ、座りつづけると立てなくなってしまう始末の悪さも知り、他人の苦しみが今更ながら身をもってよく判った。昨年十月の『巴』と『花月』の能は、僕にとって一つの目標だった。この二曲を自分なりに工夫してクリヤー出来たことは、まことに有難いことだったが、十二月の囃子科協議会定式能に於ける『藤戸』は、痛み止めの薬を飲んで揮身の力を振り絞った必死の思いの舞台だった。そして正月三日にNHKで放映の『羽衣』は、『藤戸』の九日後の、足の具合のますます悪くなった時に収録された。僕の一番好きな此の能が、不本意にも思うような従来の運びが出来ず、これが全国に放映されるのかと思うと悔やまれてならない。足がこんなに不自由になってしまう前に何故、撮っておいて貰えなかったのか。愚痴は言いたくないが、まことに残念だ。この残念は、今年から未来永劫続くことになるのだろう。長生きをするというのは、こういうものなのだ、と残念無念を噛みしめ、目の前に餌をぶら下げながら、その餌に向かって一生懸命走る短距離ランナー、それしかない年齢となった。昨年の喜寿の誕生日は僕の意思で、近所の寿司屋でさゝやかに妻と自祝したが、三年後の傘寿は盛大に菊全会をやるぞ!と意気込んでいる。それまではボケてはいられない。八十近くなると、演じられる曲目は、だんだん限定されてくる。前方にかゝげる明るい光は、いっ消えるか判らぬが、その時まで毎回、完全燃焼して謡い、舞いましょう!!

写真『藤戸』 栗谷菊生(平成3年)撮影:森口ミツル

我流『年来稽古条々』(7)投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(7)

── 青年期・その三 ──
『猩々乱』披きをめぐって

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ 青年期も第三回になります。先回は、青年期でも他流の能との出会い、また三役の人達との交流などで青年時代、自分たちだけの世界から外に開かれていったことを中心に話しましたが、今回はそうした時期でも一つの大きな節目となった『乱』の披きを中心に話をしたいと思います。
能夫─ 喜多流の場合、古い人だと、『乱』か『翁』を披いてはじめて一人前という考え方があったから。まあいまは、『乱』という技術的集大成を経て内弟子時代を卒業で、いよいよ青年期の本当の能の修行の始まりになる、といったところだと思うけどね。近頃は、『翁』はなかなか機会がなくてやらない場合も多いので、喜多流自主公演能ではこれから毎年『翁』を出して、披く機会のなかった人にやってもらおうということを考えている。ともかくうちの『乱』 は異常なくらいに腰を落とした、きつい姿勢で曲の殆どを過ごすから、途中何度となく切れそうになるよ。妖精というよりは猩々という名の獣を見せるという感じでね。
明生─ 前に亀井兄弟会で他流の方がうちの『猩々乱』を見て「大変だねー」と言いながら、「これ何なんだよ」とも言っていましたからね。
能夫─ 僕にとっての『乱』はやっぱり憧れの曲だった。僕が披いたのは二十三才だったけど、その頃一生懸命修行をしていて、それがそれなりに認められて、そろそろ『乱』を披いたらとお声がかかったと記憶している。
明生─ 能夫さんが『乱』を披いたのは、まだ粟谷能の会が粟谷兄弟能といっていた時で、すごい番組でしたね。
 初番『巻絹』がシテ辰三、ツレ明生、次が『小原御幸』でシテ新太郎、その次が『通小町』でシテ菊生、ツレ幸雄、最後に『猩々乱』の能夫ですから。父は『小原御幸』の地頭を勤め、続いてシテをやったんだから大変なものでした。
能夫─ いま思うとよくこんな番組が出来たよな。おじいちゃんの益二郎がいなくなって苦労したけれども、一門揃ってこうした催しが出来る喜びがあったんだろうな。
 僕たちの世代のトップバッターだったということもあって、僕はしっかりやらなければという意識が強くあった。実際よく稽古したと思う。その頃は会も少なかったしね。曲のイメージがどうということでなく、ともかく技術の確立というか、型を忠実にやるということを考えていた。
 足の筋肉が張って張ってしょうがないのでエアーサロンパスをかけて稽古したんだけど、それが汗でしみてね、えらく痛かったことが忘れられないな。
 それからもう一つ忘れ難いのは、うちにある赤頭が大きくて重くて、そうでなくてもきついのに、より負荷がかかるのが嫌という思いもあって、よその家にある小さめの赤頭でやりたいと思っていた。そしたらある人に『猩々』というものは、ひきずるぐらいの大きな頭のほうが獣の感じが出るのではないかと言われた。そのとき自分の考えだけでなく、ほかにこういう考え方もあるなということを教えられた。それで結局うちの重い頭でやった。またその時、着付けについても注意を受けた。赤い着付けと青海波の着付けとがあるんだけど、僕は青海波のほうが上等だし、それでやりたいと思っていた。そうしたら普通の『猩々』と違って『乱』の時はすでに酔って出て来るのだから、着付けは赤でなけりゃならないと言われた。まあこの時は着付けは青海波のほうを使ったけど、そういうことを理解したうえで選ぶということの大切さを知った。
 思い返して見ると、披きの時は技術の確立ということばかり考えていたけど、今なら喜多流としての規範を大切にしながら作品のイメージを表現する方法があるなと思うね。親父や友枝喜久夫先生は五十代でやっていましたからね。足腰が強いというか、強靭な体だったんだな。
明生─ 我々の世代はそうした先輩や親の世代と比べると確実に身体、特に足腰が弱ってきて来ていると思います。昔に比べ生活環境も変わった。直ぐに車に乗り、重い荷物は宅急便、階段は避けてエスカレーターですからね。ですからこれからの人は先人たちが六十代でやられた能を、もう五十代くらいで勤めないと、間に合わない。これからの能楽師の寿命は短くなると思いますよ。情けない話ですが・・・。
能夫─ そうだね。五十代から六十才位までだよね、心身共に一番充実した良い状態は。
明生─ その代わり昔の人が六十代でなければ知ることが出来なかったであろう情報を、五十代、四十代で手に入れる事も可能になったし、色々な手付けや資料、見ようと思えば、他流の能も沢山見ることが出来る。研究公演の第一回で、『弱法師』をやりたいと父に言いましたら「もっと後でいいよ」と言われました。「生意気だよ」とか「もう少し大人になって」、と言われるのは充分覚悟していたんですが、でもどうしても今これを習っておかないと、という危機感みたいなものがあって、二回目には父を説得してやらせてもらいましたけれども、大変勉強になりましたね。最近思うのですが、あまり大曲、難曲を大事にとっておきすぎるのではないかと。さあそろそろ許される歳だからと挑んでも、うまくいかない場合がある。許される時期というのがあるとするなら、その前にトライする。それは今の時代、おかしいことではなく必要な事だと思うんです。いやなのは上から降りてくる順番をただ待っていたり、人がやったから自分もやるという考え方に慣れすぎてくること。
能夫─ 明生君はこの研究公演の頃から能に自覚的になったね。毎回文章も書いたり、いわば明生君の能のストーリーが始まったような感じだった。
明生─ 私の『乱』は二十七才でしたが、その頃はあまり考えていませんでしたからね。
能夫─ 流れに身をまかせて、自分で漕いでなかった(笑い)。
明生─ 空舟(笑い)。当時一種の技術主義への反発がありまして、それでも私なりに『乱』に対して取り組んではいましたが、舞の前の「蘆の葉の笛を吹き」のところで長く足を上げなければならないところで、バランスを崩して足をおろしてしまいました。それが尾を引いて消極的になってしまって、失敗でしたね。夜の宴会は当時珍しかった海鮮料理で、活海老が老酒づけになるとき、跳ね上がる断末魔を皆で大騒ぎして、気を紛らわしていたのですが、最後に能夫さんに「もう一回やったほうがいいな」と言われ、心の痛手を負った一番ではありました。ただその苦い経験は、『道成寺』を披くステップになりました。
 技術主義への反発ということを言いましたが、『乱』は技術の集大成といったところがあり、ハードな演技ですから、これを終えると一種の達成感がある。ただそれで終わってしまうことが問題です。そのままで『井筒』『野宮』が出来る訳ではない。能には身体を虐めるだけではない、いわば心を虐める曲目があるということを知る必要があるのです。
能夫─ そうだね。僕は『乱』をやったことによって、いただいたと思うことは、技術に邁進してやりきったということ。それを土台としてこの道に生かして行くには、その後に五年なり十年なり上乗せしていかなければ、心に叶う能はやれないということだ。ただやりましたとか、通過点という意識では駄目なんで、それからの自分の能を創っていくうえでの起爆剤になって欲しいんだよね。技術的に難しい曲があると同時に、それだけではすまない曲があるといったことを知ることでね。

(つづく)


粟谷能の会投稿日:2018-06-07


『安宅』を演じて? 能の表現と芝居との境界線 ?

粟谷明生

 平成十一年春の粟谷能の会で『安宅』を披かせていただきました。息子(尚生)と『隅田川』をはじめ『安宅』や『望月』を勤めることは私の夢でもあり、その夢の一つずつがかなっていくことは無上の喜びです。
 今回『安宅』を演じるに当たっていくつか気になったことがありました。一つは四十三歳という自分の肉体が弁慶になり得るかです。歴史的にはおそらく都落ちしてゆく弁慶の歳は四十代前半ぐらい(義経は二十九歳)ですから、ちょうど今の私に合っているのでしょうが、能の舞台として考えると、この年齢は少し不安です。それは『安宅』のような直面ものには演じる役者が醸し出す味わい、風格というものが非常に大きなウエイトをしめるからです。
 シテ方は面をつけることで、その役に入りますが、その面の力に助けられることが大きいのです。たとえば老人を演じるにしても、身体や声が少々若くても、尉の面をつければ、不思議にそれなりに見えてきます。面には偉大な力があります。しかし直面ではその力を借りることができません。身体から発する力をもとに風格を添え、自分の顔自体も面だという意識が必要になってきます。
 役者は舞台でその生き方が滲んで見えてくるようでなくてはと解っているのですが、粟谷明生という人間の武蔵坊弁慶を安心して見ていただけるようになるには、まだまだ時間がかかることで、これはなかなか難しいことです。
 能『安宅』は弁慶の思慮と沈着な行動がいかに主君の危機を免れさせたが主題です。構成は能本来の要素(謡と舞)と芝居(劇)的要素を取り混ぜた形になっています。その芝居的な部分をいかにこなすかが、大きな関門でした。
 『安宅』は形式的には中入りのない一段でできていますが、都から安宅の湊までの道行と関所手前の作戦会議までの一場、関所におけるワキとの問答から、最後の勤行、勧進帳の読上、主君打擲と実力行使にて通過を成し遂げる見せ場の二場、関所通過後の休憩、関守の来訪、酒宴饗応と遊舞、一行の逃走の三場と、それぞれ場所を別にした三場構成となっています。能の定型の一場と三場の間に台詞を中心とした劇的な色彩の強い二場が入っているとみてよいでしょう。
 私が苦心したのは第二場の言葉が多い部分、歌舞的要素の無いところでした。ワキとの問答、勧進帳を読み上げるくだり、ワキとの激しい型どころはややもすると、やりすぎのお芝居になってしまったり、また逆に演者の自己満足に留まり、何も観客に伝わらないことになりがちです。
 謡本をただ読み上げるだけでなく、いかに劇としての真実味ある台詞を謡えるかが重要です。勧進帳の謡は難しい節扱いや拍子当たりだけに気を取られていたのでは駄目ですし、あまり感情が入りすぎるのも、また劇のレベルに達していないのも考えものです。ワキとの問答も台詞の中に運び、音の高低、張り押さえ、詰め開きを入れ、問答の緊張感を聞いてもらわなくてはいけません。
 能の世界でできうる限りの表現をしながら、お芝居にならぬギリギリの境界線の内側で感情の起伏を観客に伝えることがカギとなります。境界線を越えてしまえば能ではなくなり、歌舞伎座や他の劇場で演ずるものと何ら変わらないものになってしまいます。勧進帳という名で歌舞伎のほうが一般に知られていますが、歌舞伎より前に生まれそのルーツとなった『安宅』。能本来のもっている味わいがあるはずですから、それを大事にして演じたいと思いました。 
 最後に、これは子方のころから不審に思っていたことですが、「一行はどうして通れたのだろうか」「なぜまた関守がやって来たのか」ということです。このことを自分なりに整理し、舞台作りに生かしたいと考えました。
 私の考えている富樫像は山伏を容赦なく殺す冷徹で、単に役目に忠実な地方役人というものです。ワキとの問答の末、最後の呪詛の行に入り、「明王の照覧計りがとう、熊野権現の御罰と当たらん事」(不動明王がご覧になってどうお思いになるか、熊野権現の御罰は当然)と凄みますが、富樫はここで山伏を殺したことの恐ろしさを感じ「問答無益、一人も通し申さじ」と頑なだった態度を換え、勧進のために通るなら勧進帳があるはず、それを読むようにと軟化します。中世の宗教観で、山伏という修験僧をむやみに殺すことは神仏の罰が当たることだと感じ、目の前の山伏の迫力にも気圧されたのでしょう。勧進の責任者・俊乗坊重源の後ろにある仏や朝廷の存在も恐れたはずです。
 一旦は通すことになりながら、強力が義経に似ていると呼び止められると、弁慶は「強力を止め笈に目をかけ給うは盗人ぞ」と逆にいいがかりをつけ、武力をもって富樫を圧倒し押し通ってしまいます。通れたのは決して富樫の情けなどではなかったと、私は思うのです。また、「最善は聊爾を申し」と非礼を詫び酒を持参するのも、当時の宗教心厚い中世社会では当然の風習であったでしょう。
 今回は、このような解釈で演じたいと思い、ワキ、ツレの人たちに、富樫像や、通り抜けたのは山伏の武力や迫力であること、当時の宗教観などを説明し、協力をお願いしました。全員殺されるかもしれないが何としても通るぞという意志と緊張感を、最後まで立衆各自に貫いていてもらいたかったのです。
 今自分を振り返ってみるに、諸先輩の『安宅』の子方を経験し、高校生で初めて立衆に参加して大人の仲間入りができ、最近では父菊生の主立衆を数回、そして今回シテをやらせていただいたことは大変幸せだったと思います。長い月日をかけ、いろいろな立場で演じながら、その時その時に思ったこと、感じたことが自分の中でたくさん沈殿していることに気づかされました。『安宅』はそれらの蓄積の大切さを感じさせられた一曲でした。一つの舞台の作成に今までの経験が生かされて良かったと思います。

(平成十一年三月)


役の真実と出会う心投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


役の真実と出会う心

粟谷能夫


 

 近ごろ自分が思い、舞台をやりながら考えることは「軽くて深い」表現を実現したいということだ。
 こういう言い方をすると、手を抜いた表現と受け取られるかもしれないので、なかなかうまく言いづらいのだが、ただただ大事に重々しく扱い、これでもかこれでもかと全力投球するだけでは駄目なのであって、役の真実性を持ちながら重っくれず、深い表現が出来ればと思うようになった。このことは謡にも型にも共通して言えることだと思う。

 最近、高知の能楽堂で二回目の『道成寺』を十数年ぶりに演じたが、初演の時は道行のところを大事にするあまり重っくれてしか出来なかったのが、今回はただ頑張るというのではなく、『道成寺』という曲のリアリティを持ちながら、自分というものが見えていて、かつその上で表現が出来たように思った。これが離見ということかなとも思ったが、それが当たっているかどうかはともかく、ある余白のようなものを表現出来た。

 能を演じるには、まず台本である謡本を読み込み、理解し詩章の行間や裏側にある「思い」を読み取り、それにふさわしい謡と演技が必要とされる。謡本にはシテとかワキとかという役があり、役は特定の人物像、あるいは個性を持ち、当然さまざまな感情や思いを有し、それが葛藤を生み「ドラマ」へと発展していく。そうしたものを表現するために謡と型がある。型は先人の試行錯誤の積み重ねであり、出来上がった型をつなげるだけでは能は成り立たない。その型が導き出されてきた課程、根拠といったものを台本から理解する必要がある。そしてその理解をもたらす大きな要因は謡ということだと思う。何よりもまず、役としての謡の真実があり、それ型へとつながっていくのだ。

 曲を理解し、曲を謡うこと。型より入る能ではなく謡からはいる能。これが大切だと思う。我々が若いころは流儀全体として型を優先させる風潮があった。型をきれいに正確にという教えに対し、謡を大切にする本質的な注意がされていなかった。それでは曲を謡うという魅力ある謡が出来なくなるのは当然だ。シテも地謡も安易に謡い過ぎるのではないか。いま必要なのは、上手に謡うとか、正しく謡うといったことの先にある曲の真実、役の真実を謡うことであり、そのことを通してしかリアリティのある型は導き出されてこないということなのだ。


君子南面す投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


君子南面す

粟谷菊生


 

 「君子南面す」と言う。昔、君子は南に向って坐すものとされ、従って能舞台は北に向っている。然し、シテが曲の上で南に向わねばならぬ時、君子にお尻を向けることになってしまう。それでは失礼に当ると、喜多流は舞台で演じる時、目付柱の方角を北とし、笛柱の方角を南としている。観世流は全くその逆をとり、シテ柱の方角を西としている。

 ところで、屋外で行われる薪能などの場合、薪火の焚かれるのは日が暮れてからで、薪能と言っても初番は日の沈まぬ夕方から始められる。或る時、入日を拝む型を演ったら、ホンモノの夕陽を背後に浴びることになってしまい何とも妙な気分になった事がある。又姫路城で薪能を舞った時は、その日の午後、正面の中心を何処にとろうかと見渡していたら、前方にジャスコのネオンサインがあったので、これは丁度よい目標になると決めていたら、折からの石油ショックでネオンがつかなくなり、前方真暗で内心あわててしまった事もある。

 因みに当流の「邯鄲」は、方角が全部逆になると先人から伝えられている。それは盧生が夢の中で舞うので方角は全く無視されているためだとか。

 ちょっと能舞台にまつわる方角の話をあれこれ。


我流『年来稽古条々』(6)投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(6)

── 青年期・その二 ──

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ 先回は「青年期」その一ということで「青年喜多会」のことを中心に話しましたが、その続きで、やはり時間は少し行ったり来たりするのですが、青年期の異流の人達との出合いについて話をすすめたいと思います。
能夫─ これまでも十番会の話の時に囃子方との出合いとか断片的には触れてきたけれど、やはり僕にとってもっとも大きな出合いは観世寿夫さんの能との出合いだった。
 同世代である大鼓の国川純さんとの出合いがあって、そこから観世寿夫さんがすごいという話を聞かされた。それから銕仙会の浅井文義さんとの出合いがあって、お互いの能を見るようになり、当然のこととして浅井文義さんの師匠でもある観世寿夫さんの能も見るようになった。
 最初に見たのは『花筺
大返』とか『船橋』とかだったけれど、それは本当にショックだった。自分たちの流儀の内にだけいたら決して知ることのない様々なことを教えられた。
 具体的には揚げ幕の揚げ方ひとつとっても、自分たちの流儀では無頓着で、働きの若者がともかく開けばいいといった感覚だったのが、曲目によって揚げ方が違うべきだし、その日の舞台全体を共に呼吸して、隅々まで目が配られている必要があるということを教えられた。
 最近の若い人で幕が風を孕んで揚がる普通の揚げ方でなく、幕棒の上に乗せるような仕方で揚げる人がいるけど、あれは良くないと思う。
明生─ ホールでの能や、能楽堂によっては後ろに充分な空間がなくて、どうしても引いて揚げられない場合もありますが。
能夫─ 演出家の佐藤信さんと新作能『晶子みだれ髪』の仕事をしたときに佐藤さんが、幕が揚がると能舞台空間が幕の中の方へ動く、そのひけた空気を押し出しながら役者が登場するからいいんだといっておられたけれど、それは風を孕んで揚がったり降りたりすることで空間が動くんだと思う。後ろに引き揚げることで幕の内側(鏡の間)の方へ空気が動き、それを押し戻す態で役者が登場するという力学を見たのだろう。
 幕のことだけではなく作り物を丁寧に作ること、きれいなボウジを使うことといった、当たり前のことが、舞台全体を成り立たせるために必要だということを学んだと思う。
 それと、謡のこと、これはとても大きなことだった。
明生─ これまでも度々触れて来ましたが、うちの流儀は謡いに関しては、細やかな教え等がなかったから・・・。
能夫─ ともかくそうした出合いのなかでいろんなことを吸収して自分たちの流儀の中に生かしていきたいと思い努力して来たけれど、謡については抵抗も強かったな。
 地取りの謡い方が曲目によって違うっていう、当たり前のことが充分に出来ていなかった。その曲が『井筒』だろうが『敦盛』だろうがお構いなしに謡っていた。それからサシ謡がひどかった。ともかくパターンで謡ってしまう。僕はこのことをさんざん言い続けてきたけれど、或る時、菊生伯父が実践してくれて、もっとサシ謡を大切に謡おうと皆に言ってくれたのは嬉しかった。ともかく銕仙会の能を見て、良いものを見せてもらったと思った。能でやっていける喜びをもって見た。
 まあその頃はうちの親父や菊生伯父から、あいつは寿夫にかぶれていると言われていたけれど、親とか師匠のレプリカじゃしょうがないもの。それを一度否定するなかで自分は出発し、自己を発見しなきゃ駄目だと思う。親や師匠のいい子のままだと、その雛形になるだけで、何らかの意味で乗り越えて行くことは出来ない。とは言っても血はつながっているし、喜多流のDNAは受け継いでるわけだから、いつかそこに戻ってはいくけれど、決して同じものではない。
 青年期に自分の能を模索している時、他流のそれも、能というものに志をもっている人と出合えたことは本当に大きなことだった。伝統という枠の中で安住していたら駄目だ、現代に生きている能役者が、現代に生きている人達に対して演じる現代劇としての能であるべきだと思った。
 喜多流が型では一番だと思っていたけど寿夫さんの『野守』はすごかった。動きだけでも、とてもかなわないと思った。技術はすごい、テンションは高い、謡いもすごい、水道橋の一番後ろの席までバリバリと届いて来た。もっとすごいのは、金太郎飴じゃなかったこと。毎回違った舞台だったからね。
明生─ 私たちの世代で当時の仲間は、全く同年の生まれは、森常好さんと大倉正之助さんだけで、少し年上で武田孝史さん、年下に金春國和さん、野村耕介(現万之丞)さん、観世暁夫さん、亡くなった観世清顕さんたちがいます。
 私たちはいわばジュニア仲間という感じがありました。親同士のおつき合いがあってということもあり。まあ飲んだり、麻雀したり、ゴルフとか、遊び仲間という側面が強かった。それと「やってられないよなー」って感じでシラケの世代でもありましたね。
能夫─ 僕たちは心配したよね、我々の後の世代はどうなるんだろうかって??。
明生─ でもその頃のつき合いが最後には実を結ぶのですが・・・。ただそれはだいぶ後になっての話です。いずれその時の頃の話になったら詳しく話そうとは思うんですが。自分の能が好きになって、仲間たちとも、もっと深く能についてつっ込んだ話をし、自分たちでどういうふうに能をやっていこうかということにもなり。ある時自分は『自然居士』をやることになっていて、話が進んでいく内に、じゃ、一緒に稽古をやろうよということになりました。
 耕介君が萬舞台を貸してくれて、流儀の違う仲間が集まって稽古をした。常好君がワキを、耕介君がアイをやってくれて、観世暁夫ちゃんが地を謡ってくれた。佃さんがアシラッてくれました。それがされに『野守』の”居留”という小書をやる時、この仲間たちが助けてくれて稽古をしながら作っていきました。これは十年前の話しですから、その時にもっと詳しく話したいと思います。
 でもあの頃は集まっては飲んでシラけて、くだまいていたんですけど・・・。
能夫─ 初めは皆そんなもんだよね・・・。
 それと、これはちょっと違う話しだけれど、菊生伯父にすすめられてゴルフをやったのも大きかったな。そこで色んな先輩たちと能の仕事ということではなく、まあ遊びという側面からのつき合いが出来たことで、もう一つ幅が広がったように思う。
明生─ 「ノーテンクラブ」ですね。あれはうちの親父と、金春惣右衛門先生が言い出して出来たんです。
能夫─ まだゴルフが一般の人々の間でブームになるずっと以前のことだよね。
明生─ 金春先生の命で三島元太郎さんが庭に穴を掘って桃屋の瓶詰めの瓶を入れたりしてね。ボールが入ったら取れなくて、わりばしでボールをとっていたという話しはきいています。
能夫─ ホールの大きさもちゃんと知らなかった位の頃だからね。
 僕が菊生伯父に誘われて入ったのが十八か十九才の頃でね、最近の能役者連中は車に乗っていてばかりで歩かないから駄目なんだと言われてね、実にありがたかった。
 でも高橋先生がいくらグリーンの上を歩いたって駄目だ、板の間も歩かなくちゃ駄目だっておっしゃった、とかいう話しもあったりして、うちの親父や、友枝喜久夫先生なんかは「絶対にゴルフはしないでしょう」っていってたりした。でも僕にとっては囃子方の人や、他流の人とのつき合いが増えたというのは実りがあった。ともかく日頃近づきがたいと思っていた人の全く別の側面が見えたりするしね。なるほどこの人はこういう性格で、こんな風に能のことを考えているんだとかね、これは大きな発見だった。
明生─ 例えば他流の方や三役の方とまわらせて頂くと、大抵面白い話しが聞けますからね。能楽界の人間関係のありようが見えます。
能夫─ ゴルフをやったことで一つの世界がひらけたな。日頃こんちくしょうと思っていた人が、やっぱりちゃんと能のことを考えているんだなとか、偉そうにしている人にも、こんな弱点があるんだなとかね。ゲームをしていると、そうしたことが赤裸々になって来るじゃない。
明生─ 大先輩と一緒になることもあるんですよね。ハンディでパーティが決まってきますから、そこで色んなお話を伺えて興味深かった。それと恐ろしいのは舞台の間違いやトラブルがすぐゴルフ場での話題になってしまうこと・・・。
能夫─ 肉体を使うといっても能楽道でやっているのと違って外の良い空間と、グリーンに囲まれてゴルフをやると余分なことをすっかり忘れてリフレッシュもできた。

(つづく)


『柏崎』における重層性投稿日:2018-06-07

『柏崎』における重層性

粟谷明生

 六月の研究公演で『柏崎』を取り上げました。息子の尚生に子方としてふさわしい内容を年齢に合わせてやらせてやるのが、この世界で生きる親の責務であるという想いもあって、今回は子方が登場するもので、自分としても挑戦しておきたいものを選ぶことにしました。

 『柏崎』では、訴訟のために鎌倉に滞在していた柏崎の某が風邪のために亡くなると、同行していた息子の花若御前が遁世してしまいます。妻はその知らせに嘆き悲しみますが、やがて我が子の安穏を祈る気持ちになります。しかし後半には、妻は悲しみのあまり物狂いになって登場します。妻であり母であるシテのこの早い心の動きを演者がどのように納得して演技できるかが問題です。能では、内面の心のエネルギーが抑えた動きの中から外に出ていくことを重要視します。従って内面の心の動きを理解して演じることは、動きの少ないものほど要求されるのです。

 シテの心を理解するには、シテの女性像をつかむことや『柏崎』の中のいくつかの疑問を解決する必要がありました。シテの女性像・母親像はどんなものでしょうか。息子の遁世を冷静に受け止める凛とした女性、宗教心が篤く教養の高かった女性、しかし我が子や夫を思う愛情豊かな女性でもあった・・・でしょう。

 自分の息子を前に舞台稽古をしていると、この子はなぜ母親に会おうともせず出家してしまうのかという疑問がわいてきました。今の一般の常識では父親が亡くなったら、息子は急ぎ郷里に帰り、母を助け、父の代わりに城主として、その地を守っていくのが筋だろうと思うのですが、『柏崎』の息子は母に一度も会おうとしないで出家してしまいます。これはどういうことだろうか。このことを理解するには当時の宗教的な背景を知らなければなりません。浄土思想に、出家は自分自身だけでなく、周りの人をも救うことになるという考え方があることを知りました。つまり自分が出家して厳しい修行をすれば、父親も極楽往生し、母の来世も約束される、家臣や柏崎の人たちも救われるという考え方です。これで子の出家の意味が理解できました。

 しかしこれを解決しても「テーマは何か」という疑問が残りました。『柏崎』は一見、子別れ・再会の曲のように見せながら、メインは物狂いとなった妻が、夫への愛や恋慕と、極楽浄土や善光寺信仰への礼賛といった深い宗教性を込めて謡い舞っていくところではないだろうか。極楽のすばらしさをいうために、人間の悲しさを表し、その上で来世での再会を願うというのがテーマだったのではないか。

 『柏崎』は古作(榎並左衛門五郎の作)を世阿弥が手を入れ完成させたものであるという説が有力です。左衛門五郎が作った段階では、善光寺を讃える当時の流行歌を題材にし、曲舞に仕立てた単純なものだったのでしょう。これでは戯曲として面白味や起承転結がないので、世阿弥が母子再会の話をつけ加え、形を整えたといわれています。子の説のとおり、子別れ・再会のテーマは付け足しで、曲舞のきらびやかとも言えるほど宗教的な言葉がちりばめられている部分がメインにふさわしいところだと感じさせられます。今では難しい言葉に聞こえるものも、当時の善光寺信仰に篤い人たちにとっては心地よい言葉の嵐だったのでしょう。

 世阿弥の時代には興行的に成功させるために、宗教的なPRの意味合いが強い能もつくられていました。『柏崎』もその傾向をもった能といえるでしょう。ただ、信仰を讃えるにとどまらず、社会風刺的な彩りも加えています。たとえば、妻が善光寺の内陣に入ろうとしたとき、住僧に女人は入ってはならないと制止される場面で「仏がそう仰るのか」とすごみ、女性差別に切り込むところがありますが、庶民はそうだそうだと喝采したのではないでしょうか。

 夫への恋慕の情も強く表現されています。夫の形見の長絹をまとい烏帽子をつけて、亡き夫は弓も歌も舞も上手で、立ち姿も美しかったと、一種ののろけともとれる謡い舞いぶりを見せ、曲舞の最後は夫との来世での再会の願いでくくられています。

 一般の芝居では、特に落語がそうですが、最後のオチが重視されます。しかし、能ではときに最後の結びの部分(『柏崎』では子供との再会)はさほど重要ではなく、もちろん一つの見せ場には違いありませんが途中の舞や謡など、見せどころ聞かせどころを幾重にも作って楽しんでもらおうとする曲目があります。これは能の持っている特徴でしょう。私は『柏崎』もそういう種類の曲であり、重層性をもった能であると思うのです。ただ、最後に小さい子方が出ることによって、それまでの難しい宗教性などを一時忘れ、母子再会というハッピーエンドにわいて、安堵して帰っていただくという効果があるようで、世阿弥はそれをねらってたかもしれません。

 これが、私なりに納得出来るものとして出した結論です。今回、自分の中にある疑問を解決することで、『柏崎』という作品を知り、その演技にも集中出来たように思います。
また現在『柏崎』の演出方法として「中の舞」を省略する形が一般的になっています。初期の能では、夫を思いだしてのろける件の後に舞がありました。扇を差し出し「鳴るは滝の水」と謡うのですから、その後は、当時の流行歌に合わせて謡え踊れとなるのが普通です。『翁』や『安宅』でもこの言葉が来た後には舞が続いています。それが現在の『柏崎』には舞がなく、いきなり「それ一念称名の声・・・」と宗教的なことばが連なっていくのですから、世阿弥のころの人が観たら物足りないに違いありません。それで今回、舞入りで演じてみたいとも考えましたが、『柏崎』自体が大曲であること、そして初めて取り組むことなので断念しました。しかし、次回演じる機会があったら、ぜひ舞入りを加え、世阿弥本に「ヲカシ(狂言)女物狂ガ来ルト云ウベシ」とあるように、間狂言等も入れて特別演出で演じてみたいと思っています。


「まことの花」投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


「まことの花」

粟谷菊生


 

 平成十年、今年の新年はめでたく元旦の祝酒で過ごしたと思ったら、軽い脳梗塞で入院。お屠蘇を祝ったのは元旦だけで、不本意にもお正月につゞく約一ヶ月を入院生活で過ごすことになった。

 僕は、能『羽衣』の「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」という名文句を謡うとき、いつも清らかな天使像を思い描いていた。そして、その清らかな姿を体現したいとの思いを込めて、長年『羽衣』の能を舞いつゞけて来た。しかし、羽衣をまとう僕の天女よりも崇高な天使たちが、なんと天上ならぬ此の僕のベッドのまわりにいたではないか。何事も嫌な顔一つせずに世話をしてくれる彼女たち。日夜骨身を削って患者たちの面倒を見ている姿を見るにつけ、本当に頭の下がる思いであった。報い少なく、労多き此の天使たちのことを少しでも多くの人に話してきかせ、彼女たちの幸せを心から願わずにはいられない。

 退院する時は、杖をつくことになるかも…と云われたが、二月一日に二本の自分の足で退院。その月の二十八日には周囲の心配を押し切って日立で能『景清』を、翌三月一日に東京の国立能楽堂で好きな『羽衣』の能を舞った。息子が「一度、面をつけて舞ってみては?」と心配してくれたが、「面をつけてみて愕然としたら、その愕然とした暗い気持ちを本番まで持ちつゞけて行かなければならない。それでは箪笥でも担いでしまうという火事場の糞力が出なくなってしまう。それより本番になって面をつけてみて愕然としたら、その時こそ、火事場の糞力で演るからいゝ。」と拒んだ。

 ワキ、地謡、四拍子、みんなが病み上がりの僕を心配して盛り上げてくれるのを、ひしひしと感じ、辛いながらも喜びを噛みしめながら舞った『羽衣』だった。血圧が上がらぬよう、あまり気張らないで…と演能中、自分に云いきかせたり、内心、不安と挑戦との葛藤で今までにない異質の緊張を味はったが、再び舞台に立つことの出来た喜びは何にも増して大きい。観客には、それと判らなくても僕自身、些か障害の残った左大腿部の固い重さを克服して、これからは世阿弥の云う「まことの花」を咲かせられるよう努めたいと思う。
 (因みに入院した一月三日の国立能楽堂定例公演の『月宮殿』と、二月十二日の練馬文化ホールの『砧』は明生が代演。)


「砧」を演じて─演出方法を考察する─投稿日:2018-06-07

「砧」を演じて─演出方法を考察する─

粟谷明生

 父が正月一日に倒れ、一月三日の『月宮殿』、二月十二日の『砧』を私が代演することになりました。『砧』は大曲で、五十歳近くなってからでないと演じられないと思っていましたが、代演ということでやらせていただくことになりました。
 『砧』を演じるにあたって、父からアドバイスも聞き、喜多流に伝わる伝書通りに臨んだのですが、演じなから、この演出方法では見ている人がわかりづらいのではと感じるところがありました。

 まず気になったのが最初の場面です。喜多流の台本では、夕霧という女(ツレ)が登場して、芦屋の某(ワキ)の使いで、奥様のいる芦屋に向かうところである。某殿は訴訟のことがあって、三年あまり在京しているが、古里のことを心もとなく思われて使いにいけというので急ぎでやって来たという説明をしますが、他の流儀では、最初に芦屋の某自身が登場して、上京している事情を説明し、古里が心もとない、この年の暮れには必ず帰るから、そのことをよく心得て伝えるようにと夕霧に伝える場面から始まります。私は喜多流の台本ではあまりにもそっけなくて、夫(芦屋の某)の心情が理解されないのではないか、その後の妻の恋慕の情へとつながっていかないのではないかと思うのです。

 世阿弥は『砧』について、「かやうの能の味はひは末の世に知る人あるまじ」と嘆いていると『申楽談儀』にあります。世阿弥がそれほどに深い味わいを込めてつくった曲ならば、単に帰らぬ夫への妻の恨みつらみの情念を際立たせて終わりといったものではないはずです。

 夫は妻に愛情を持ちながらもどうしても帰れないという苦渋に満ちた立場にあり、妻の方も夫を思い、恋慕しつつ帰りを待っているという、お互いの愛情が底流にあることが感じられないといけないと思います。それがあるからこそ、孤閨をかこつ妻が、恨みつらみにさいなまされながらも、時には夫との思い出に浸り、帰って来てくれるならいつまでも添い遂げようというやさしい気持ちにもなり、最後には絶望の淵に落ちていくのです。こういう感情が織物の綾のように幾重にも交錯して深い味わいをかもし出していくのだと思います。

 こう考えると、夫の愛情をどこかで表現しておきたいということになりますが、喜多流の台本では、最初に夕霧が帰れぬ事情を説明するだけで、そこには夫の妻への思いやりをほとんど感じることができません。夫の登場は、妻が絶望のあまり空しくなって(亡くなって)からです。夫は妻を弔うことはしますが、最初の伏線がないだけに、それは通り一ぺんの印象をぬぐえないのではないでしょうか。

 世阿弥が「かやうの能の味はひ…」と述べるほどに、夫婦の愛情をベースに、それ故に地獄まで落ちるところを名文で謡い上げている『砧』。世阿弥自身が書いた曲のなかでとりわけ気にいっていた『砧』。しかし、世阿弥の危惧通り、しばらく演能されることはなく、江戸時代になってようやく復曲しています。その折に各流派が演出を考え、喜多流にも現在のような台本と演出方法が伝えられているわけです。今回私は『砧』を演じながら、この江戸時代の演出方法は、『砧』のテーマからしてやや説明不足ではないかと感じています。他流のように、最初に夫を登場させて気持ちを述べさせる場面が必要ではないでしょうか。

 そして、『砧』では砧を打つことが重要なモチーフになっていますが、シテは妻がどんな気持ちで打っているかを感じながら演じなければならないと思います。蘇武の故事に自分の心境を重ね合わせて砧を打つことになったとはいえ、夫に柔らかい着物を着せてあげたいというやさしい心情があってのことでしょう。そこを伝えるには砧を強く打ってはならないのだと思います。世阿弥も「ほろほろ、はらはらと」と音楽的な響きで書き込んでいるところですから、柔らかく美しく響かせねばならないと思います。

 夕霧が芦屋の某の妻に、殿は今年も帰れないと伝える場面の演出方法も気になります。その言葉を聞いて、妻は夫の心はやはり変わり果てていたのだと絶望し、病の床に沈み、やがて空しくなってしまうのですから、夕霧と砧を打ちながら、疑いと信頼との間を行きつ戻りつつしていた妻の心を切り裂く重要なひとことであり、時間的にも空間的にも場面転換があるべきところです。そこが、ただ夕霧が、今までと変わらぬその場で向きを直して伝えるだけの味気ない演出になっています。芦屋の某から使いが来るなどの説明描写は必要ないとしても、この大事な場面を鮮明に印象づけるために、動きと同時に言葉にも注意を払い、他の演出方法を検討してみたいと思っています。

 私はこの頃、演出方法はこれでいいのかと考えることが多くなりました。以前は、謡の文句を覚え、上手に謡うこと、きれいに舞うことが関心の中心でしたが、この頃は、この能は何を言いたいかということを考えなければいけないし、そうでなければ深い味わいまで表現できないと感じるようになってきました。現在に生きる能を創造するものとして、伝統というワクの中の限界ギリギリのところまで、演出方法について考察し、ときには思い切って変えていく必要があるのだろうと思います。

 今回、『砧』を喜多流のしきたりからすれば、年齢的に早く演じさせていただきました。演じてみたからこそ、ここに書いたようなことを感じることができ、次に演じるときはこうしてみたいという思いが広がってきたのです。大曲や老女ものは、ある年齢になってから初めて演じることを許されるという習慣は悪くはありませんが、早い時期に演じ、その後何回も試行錯誤しながらいい味に仕上げていくということも必要ではないでしょうか。思わぬ代演ということで『砧』という大曲に挑ませていただき、感じることが多く、意義あることだったと思っています。

我流『年来稽古条々』(5)投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(5)

── 青年期・その一 ──

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ この『我流・年来稽古条々』も今回で五回目になります。一、二回目は「子方時代」。三、四回目は「子方時代から青年期」と進んできました。
 先回は十番会で学んだことを中心に話しをすすめました。今回からは「青年期」ということで、「青年喜多会」のことからはじめたいと思います。もちろん十番会と重なる時期でもあり、どうしても時間は前後することにはなるでしょうが。
能夫─ 「青年喜多会」の頃の記憶で忘れ難いことに、千番仕舞があった。夏休みの一月程の間に、千番の仕舞を六人か七人ぐらいでやるんだから、これは大変な負荷だった。一人で一日五番ぐらいは舞わなくちゃならない。それが一月続く。毎日なにをやるか前以て決めてるわけじゃなく、同じ曲はできないので、ひとに先にやられたら大変だった。謡う方は謡本を見てもいいんだけど、どんどん謡わなくちゃならない。僕のように通いで実先生の所にいっていた者にとっては、朝から晩まで毎日稽古すると言うのは凄いことだった。本当に充電期間だったと思う。今やあんな稽古はあり得ないと思うな。実先生としては、まずは曲を覚えて何でも出来るようにということだったんだろうな。自主稽古だから先生はいないので、その日やった仕舞をノートにつけて、先生の所に持っていってチェックをうける。例えば『国栖』とか『七騎落』だったりするとこんなものじゃ稽古にならないとお叱りをうけてね。ともかく鍛えられたね。
明生─ その千番仕舞とは少し違いますが、私も覚えているのは、先輩が能の稽古を受けられた後、実先生が他の者全員、地謡の私達まで仕舞の稽古をみてくださったことです。稽古順は年上の人からですので当然私は最後の方でやることになるのですが、誰が決めたのか、暗黙の了解というか、一度出た曲は後の人はできず、違う曲目をやらなくてはいけないわけです。若い頃はレパートリーも少ないので自分のできるものを、先輩がやらないように、やらないようにと祈ってましたよ。祈りが通じないで自分が覚えているものを先にやられてしまうと、もうしょうがない、うろ覚えの自信のないのをすることになってしまいます。そうするとやはり間違えますので忽ちお叱りを受けました。
 またその稽古で、地謡を謡う時、シテが謡い始めているのに何の曲だかわからず、それがわかって謡本を必死になってひろげた時はもう終わりの方なんていうこともありました。
能夫─ 稽古は厳しいけれど教えられる事が多かったね、それと「青年喜多会」というのは「喜多会」に入れない若者の順番待ちみたいなところもあったよね。僕が入ったのは中学生の頃で、その頃は四番だてで年四回やっていたからね、ともかく友枝昭世さんから明生君ぐらいの世代までいたからね。だから一番多いときは十数人いたと思う。先輩たちが「喜多会」に出演するようになって自動的に「青年喜多会」を退会するということだったと思う。
 その頃は舞う番数も少なくて、十番会(稽古能)で一番、青年喜多会で一番だけで、うちの粟谷能の会でそろそろ一番舞えるかどうかという頃だった。本当に舞いたくてしょうがない頃で、何で親は自分たちのことを考えてくれないのかと思っていたし、このままでどうなるんだろうと不安だった。
 いま考えれば未熟だったんだから仕方ないけど、ともかくハングリーだった。
明生─ 私が「青年喜多会」に入れて頂いたのは十七歳の高校生の時で、最初は『小鍛冶』でした。その頃は四番だてで一年に二回の催しでした。私の出番は大島政允さんの『雲雀山』の次の留めで、随分年上の先輩と一緒に出来るんだなーと思いました。私にとっては同人の会というものは初めてで、それぞれの人が会計、交渉と、各分野に分かれて動いていて、舞台の他に色々と大変で忙しいという事を知りました。
 また子方時代には無かった切符の負担もあって、シテはいくら、ツレはいくら等と請求され、同人組織の在り方を知る最初でした。切符を売ることの大変さもこのあたりからです。当時は自分では売れないので、ツレ役なら自腹を切ってもいいと勝手に思い、家に切符を持ち帰らないでいましたら、父に早く持って来なくてはだめじゃないか、売れないじゃないか、と叱られました。父としては少しでもお弟子さんにチケットを渡して、息子たちの能を見て貰いたいという考えだったんでしょうけどね……。
能夫─ 確かにその頃はチケットは売れないし、自分が憧れているような曲は、なかなかつかないしね、切能が続くことも多かった。
 だから初めて『羽衣』がついたときは本当にうれしかったね。小面がかけられると思って感動した。実先生にお稽古していただいて、自分自身も一生懸命稽古したことを覚えている。それと家の装束の中から自分の好みの腰巻と長絹を出してもらった。
明生─ これと思う曲がつくと感動しますよね。最初、随分年上の方と一緒だったのですが、その方々も徐々に卒業されて、最後(昭和五十六年)には私と中村邦生さん、長島茂君の三人だけとなり、催しも年に一回の形になりました。それが六年も続いたんです。
 でも最後は忘れもしないあの番組ですよ。実先生の奥様が「先生!果水会の番組じゃございませんのよ、青年喜多会ですよ。」とおっしゃっても、「うん、いいんだ、頼政、葛城、山姥だ」と言ってやらせて下さった番組。青年喜多会らしからぬ曲立てだったわけですが、これは実に思い出に残っています。これで実先生にお稽古を受けた青年喜多会というものは一応終わることになるわけです。
 その後、新しい青年喜多会ができて私も二年程おりましたが、後輩たちが自分たちだけで出来るようになったので、私は昭和六十三年に退会いたしました。
 「青年喜多会」、それは三役の交渉に始まり、番組の印刷、出演料の計算や、お弁当の用意といった雑用まで様々のことを先輩から教わり、能会の仕組みや経営のことまでしっかり伝承されたという意味でも、良い場であったと思います。だから「青年喜多会」は自分たちの会だという意識が同人全員にすごく強くありましたね。
 最後に三人だけになって、ほとんど休む暇がなくても苦にならなかったですし、先輩の方々も自分たちの育った青年喜多会ということでよく応援して下さいました。やりがいや、これからの目標というか方向性みたいなものを感じ始めた頃です。
能夫─ 僕らや明生君の代ぐらいまでが「青年喜多会」で実先生から稽古をつけてもらった最後の世代というわけだよね。「青年喜多会」といえば『玉鬘』の時に弱々しい謡をして、祖父のお弟子さんにそれは違うのではないかと指摘されて、涙ながらに抗議した記憶がある。
 その頃は実先生の厳格な規範の枠とはちがったところで表現したいという意志もあったんだけど、やりたいやりたいという意識が先行し過ぎて、作品が深く読めなくて、情緒的な表現になりすぎていたんだと思うな。そうはいってもその所を通過したから初めてもう一つ先の世界が見えてきたんだと思う。つくづくいろんな出会いや人との出会いがなければ能は出来ないと痛感するよね。逆にいえば自分の世界の中にいただけでは駄目であって、自ら求めて先に行く必要がある。
明生─ 青年喜多会の終わった後の宴会で、その日一日の反省や舞台でのお互いの意見交換などをしていると頭に血が上ることもありますが、能とは関係ない話で終わってしまうようなときは少々物足りなく感じてしまいます。
 能というものは舞ったあとに一杯やりながらいろいろと話し合いをすると、何か必ず新しい発見があるような気がしますし、またそれを見つけようとしないといけないと思います。
能夫─ 当初は私も含めて舞台にかけるところが終着駅で、あと反省するとかいう意識がとぼしく、とにかくやりっ放しということが多かった。そのことは確かに問題だったと思う。
 「青年喜多会」の後の宴会で、先輩達の話を聞く事からはじまり、徐々に自分の意見を持つようになり、其の後、話し合える仲間ができ、機会を見つけては、能の話をするようになっていった。そういうことの積み重ねで強い連帯感が生まれ、新しい会へと発展していくのだと思うな。其の日一日の能に対し皆がしっかりした意見を持っているべきだと思う。

(つづく)


『采女?佐々浪之伝』に取り組んで投稿日:2018-06-07

『采女?佐々浪之伝』に取り組んで

粟谷明生

 研究公演『采女』を終えて、あー終わってしまったのだという、やや放心したような気分を味わっています。それは、今回の『采女』は先代・十五世喜多実先生の創案された『采女?佐々浪之伝』に、新しい試みを加えてみたいと、一年間自分なりに思いをめぐらしてきたからです。
 能は長い歴史の波に洗われながら、なお変わらぬ様式美を保っていて、それを継承する私たちは、その本流をしっかりとらえて伝えていく役目があるのだと思っています。とは言っても、今に生きているものが、一つの能を自分なりに解釈し、新たなものを創造する努力をすることも必要ではないか、これまで伝えられてきた本流も江戸時代のそのままの姿ではなく、少しずつ形を変え、時代にあった能を創り出してきているのだから──こんなことを考えて、七年前から能夫と「研究公演」なるものを始めました。

 今回第八回・研究公演(平成九年十一月二十二日、於・十四世喜多六平太記念能楽堂)も、「研究」と名がつくだけに今までのものとはちょっと違うものを志向したい、伝統の中の自分らしさを求めてみたいと考えました。
 まず、何を演じるかから始まりました。その前の研究公演で第六回に私が『松風』、第七回に能夫が『小原御幸』と、それぞれ一回ずつ大曲に挑みました。今回は二人で、どうしても気になる曲をやろうということになりました。能夫の『景清』は、早く自分なりのものを手がけておきたいとして、すんなり決まりました。では私はどうするかというとき実先生の『采女?佐々浪之伝』が思い出されました。過去に演じられて、演出方法に対するいくらかの疑問や曲の構成上の散漫さを感じていたので、これに挑戦してみようと考えたのです。
 全体の流れはこれでよいのか、散漫さをぬぐうにはどうしたらいいか、『采女』は何が言いたかったのだろう。他流の人の演じる『采女』を研究してもみました。

 そんなあるとき、家の伝書にある『采女一日曠れ也』という一文を見つけ、これがキーワードになると感じました。采女は帝の寵愛を失って猿澤の池に入水自殺します。一旦は地獄道に墜ちますが、功徳により成仏でき、一日、水の世界からこの世に現れて、その喜びを舞い、再び猿澤の池に消えていきます。この世に現れた一日は、采女にとってまさに晴れやかなときだっただろうと思うのです。私は『采女』という能で、その晴れやかさと、極楽浄土に向かっていく美しい様を見ていただきたいと思いました。
 こう考えて詩章を見ると、前シテ・里女が旅の僧を猿澤の池まで導いて、入水の事実を知らせるまでに、延々と藤原家が建立した春日明神の由来や春日野の春の美しさが謡われていることが気になりました。当時は、権勢をふるっていた藤原家を讃える必要があったかもしれませんが、今、采女の悲劇を謡うときに、それがどれほど必要でしょうか。散漫な印象を受けるのはこのあたりにあると考え、できるだけ春日明神のくだりを省いてみました。
 詩章を削除するにあたっては、野村万之丞さんに替間をつくっていただきました。猿澤の池の情景描写を少し書き加えるなどして、詩章の一部が省いても話がスムーズに流れるように、苦心していただきました。私がイメージしていた流れに仕上げていただき感謝しています。

 序の舞についても手を加えてみました。『小波の伝』の序の舞では、後半に長絹を脱ぎ捨てて、裳着胴(下着姿)になって舞うという演出になっています。この姿は竜女になって解脱していく様を表しているのでしょうが、私は序の舞の中で、物着(装束の着脱)をしたくありませんでした。采女にとって「曠れの日」の舞なのです。舞っている間は、ただひたすら美しく、きれいで透明感があって、一段も二段も高みに浄化されていく女性の姿を描こうと考えました。笛の松田弘之さんにお願いして、序の舞の導入の部分には「干の掛」(笛が干の手より吹き出す)を入れていただき、内面的な充実感を表現していただきました。それでも、竜女というイメージもどこかにひきずっていたいという思いもあって、長絹の下に、細かい鱗模様の摺箔を着てみました。
 装束についても、伝書によると、「采女の後シテの装束は萌黄または茶色大口袴を使用するが、帝に愛されたご褒美なのか一日だけいい想い(一日曠れ)をと、高位の序で緋の袴をつける習いがある」といったことが書かれています。袴が萌黄や茶色では、もとより私のイメージに合わないのですが、先輩たちが緋の袴で演じている姿を見ても、それでよいとする拠り所となるものがありませんでした。今回、先の伝書にこの「習い」があることを知って、自信を持って袴を緋にすることができました。

 面は新潟の吉川花意氏にお願いして打っていただきました。かわいらしい小面では、采女の心情を表現できないのではないか、この世界に現れた一日は晴れやかな一日には違いないのですが、入水した罪業の意識をどこかに引きずっていて、心の底にはわだかまるものがあるという。わずかに苦渋を含んだ面をつけたかったのです。家に代々伝わる古面は誇りで、その中から選ぶこともできたでしょうが、研究公演でもあり、創作面に挑戦してみたのです。

 このように、今回の『采女』は新しい試みをいれましたので、先代の実先生の「小波の伝」の名称を、あえて創案当初の「佐々浪之伝」として演じさせていただきました。能楽師は考え過ぎるとろくなことはないと諸先輩から御批判いただくことになるかもしれません。しかし「佐々浪之伝」を再考するという試練の中に自分を置いてみて学ぶことが多く、充実した一年を過ごせたと思っています。振り返れば反省する面も多々あり、諸先輩や観てくださった方々に、この試みはどうだったかを問うてみたい、それらを次なる能への糧にしていきたいと考えています。


畳の目一つ投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


畳の目一つ

粟谷菊生


 ぼくが人間国宝の認定を受けたことは、まことにありがたく、光栄の至りではあるけれどもおかげでひどくいそがしかった。日本中を駆けまわって、一週間に四回も能を舞わなければならないというハードスケジュールに追い込まれる有様。
 そのいそがしさの中で、甥や息子たちから次の阿吽には何か書くように言われていたけれど、なかなか原稿を書くひまが見いだせないうちに、どんどん日は過ぎてゆき、早くも秋が来てしまったわけだが、そこで思いついたのは、昔、菊生会の会報をしばらく出していたことがあり、その巻頭には、ぼくが毎号、何か思いついたことを書いていた。その中から「畳の目一つ」(昭和52年10月第八号)という小文を転載させていただいて、今回の責めを果たしたいと思いついた。


 かつて自動車の運転をぼくも習ったが、ハンドル操作から教わって、バックまで進むと、ひどくうまくなったような気がするものだ。そしてつぎつぎに技術を習得していって、これで車の運転のすべてがわかったという自信を持つようになる。
 しかし、ほんとうのうまさというものは、決して運転技術のあざやかさではないと思う。目的地まで安全に運転できるということ……安全と言ってもノロノロ運転ではなく、そこに 目につかないうまさというものがあるはずだ。
 お弟子さんを教えていると、いろいろなことに気がつく。習えばすぐに上手になると思っている人もある。なかにはツツーとうまくなる人もあるが、不思議にそういう人は長つづきしないものだ。長年稽古をつづけて、あるところまで上手になっても、それから先は本人には上達がわからない。いわば畳の目ひと目ずつのびていくようなもので、あるとき、パッとうまくなってしまう。
 何ごとも、三日、三月、三年というが、この区切りが実は危険だ。車の運転も三日目に車庫入れでコツンとやる。三月目ぐらいが往来で電信柱にぶつかったり、塀をこすったりする。そして運転が三年目、すいすいととばすと、大きな事故を引き起こしたりするものだ。
 ところが、三年を過ぎると、いつうまくなったかわからないのに、徐々にうまくなっている。結局それは反復、何度もくりかえすことによって上達するものだとぼくは思う。

 何年か前から、あるお弟子さんに謡の稽古をしてきたが、その人は白無垢でぼくのところにきた人ではなかった。よその先生についていたが、ある時からぼくのところに後妻にきた人。従って先夫の匂いがプンプンしていた。これをぼくの匂いにするには、先夫と暮らした同じ年数をかけることが必要だが、そうも言っていられないから、何とかしてぼくのカラーにしようと、こちらも一生懸命努力した。そのおかげで本人はベソをかいたり、、癪に触ったことが幾度となくあったろうと思うが、ぼくは甘い顔を見せないでやってきた。するとある日突然、こちらがびっくりするような亭主の一ばん好きな料理を 作る女房になってくれた。
 お弟子さんの中には、いつうまくなるかということを気にする人もいるが、上達を焦らず、ひたすらワンマン亭主に仕えて、好きな料理を研究してくれるお弟子さんは、そのうち必ずこちらの口に合った料理を作る人に成長するというのがぼくの体験である。

 いつも言うことだが、ぼくはゴルフのキャディー上がりのプロ、門前の小僧習わぬ経を読む式で能を舞ってきた人間だが、お弟子さんはそれぞれの学識や教養のある人々だと思うので、謡の文意や曲趣は、ぼくが教えなくても自分で掌握するものと長年思ってきた。しかし案外そうではなく、謡のメロディや節扱いのみに苦労している人が多いことが、近ごろわかってきた。
 物を習うということは、節を選び、その師に似ることが第一歩だが、やがてそこから脱皮して、最終的には全部を掌握した上でハートで謡うことを覚えてほしいとぼくは思っている。菊生先生のあの節ならわかっている、思って安心している人がいるかも知れないが、三年謡えば小学生、次は中学生、次は大学生へとお弟子さんが進むのと同様、教えるぼくのほうも絶えず変わっていくのだから、謡の心がわからなければ進歩しないのは当然である。
 ぼくも月謝をとっている以上、是非ともうまくしたいと思って努力しているが、上手にしようと気が入る余り怒鳴るわけで、ぜひかんべんしていただきたい。
 仕舞いも型や筋を覚える体操がすんだら、、自分が演技しているのだということに気がついてほしい。仕かけ、開きを正しくやっているというだけではつまらない。自分は女なのか男なのか?長年やっていてそれに気のつかない人もあるようだ。

 ぼくが願うことは、どのお弟子さんも舞ながら何かほのぼのとしたものを感じさせて欲いということ。品位高く、ほのぼのとしたお色けをもって舞って欲しいということである。そのために絶えず持っていてほしいのは情感である。
 私もこの年になって、やっとほんとうの色けになってきたような気がしている。若い頃色けと思ったのは、サービス過剰のエロケだったのかも知れないと思うと、弟子にばかり注文をつけられないが、ここで心機一転、最近舞ってきた人情物の曲を離れて、自分を鍛え 直そうと思う。
 そこで来年正月に脇能の「玉井」を舞うことにしたが、ぼくが畳の目ほどか、畳の縁ほど進んだか、皆さんでぜひ見きわめていただきたいとおもう。


我流『年来稽古条々』(4)投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(4)

── 子方から青年期・その二 ──

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ 今回は少し元に戻るかもしれませんが、十番会の頃の話から始めたいと思います。私にとっては前回も述べたように十番会という稽古会で先輩に混じって必ず月に一番ずつ舞うことが出来たことは大変幸せな事でした。十二才頃から実先生がそのときの力量、稽古課程に合わせて曲を決めて下さいまして、会が終わると次は何かなとお聞きするのが楽しみでした。そしてその選曲も舞い物等はやはり舞働、カケリ、中の舞あたりから始まり徐々に男舞、神舞、そして神楽、楽へと順序よく進むわけです。
 ある時こんな事がありました。稽古で笛を森田流にしていましたら本番では一噌流だったのでびっくりしたことがありました。森田と一噌では唱歌や寸法が違うので型や拍子の踏み方も変わってきます。それはどなたがお相手なのかを予め知ることが大事であると気を付けるようになりました。
能夫─ 僕にとっての十番会の意味は普段の稽古で身につけてきたものを、舞台で実践することで段々と囃子との折合や曲の位取りなどが解って来たこと。それから囃子方との出会いがあったということ。同世代だと国川純さんとか小寺佐七さん、大先輩だと敷村鉄雄さん。彼らから囃子方の思いや考え方、他流のこと等、外の世界のことを学んだ。その頃よく敷村さんがご自分の流儀の観世流小鼓のことを、人知れず咲く深山の桜、また幸流の小鼓のことを、華やかな門前の桜だと言ってらした。
 初めは先輩について地謡を謡うことで色々な事を身に付けていったが、先輩たちが次々と卒業して行くと、自分で責任をもって創っていかなければいけないという自覚が出来てき、次の世代の事も考えるようになっていった。
明生─ 私は能夫さんと六つ違いですから私が十番会に入った頃は皆大先輩ばかりで、私が一番下、お囃子の方も同世代の人間はほとんどいなかったので少し寂しかったです。この時期の十番会、養成会で舞歌の舞の方は自分なりにしっかりたたき込まれた感じがするのですが、歌の方となると、謡本は理解できないし、声は出なく音も定まらないからどうも好きになれなく疎かになる。声の出し方については野放し状態で、指導された覚えはなく、このことが後で謡で苦労することになりました。
能夫─ 喜多流の人は仕舞は確りしているのに、能になるとどうして駄目なんだろうと、他流の能も見ている人に言われたことはすごいカルチャーショックだった。そうした外からの意見や、地謡も含めた舞台づくりの大事さ、といったことは他流の能を見たり、人に出会わないとなかなか解らない。
明生─ 他流の人たちとの交流については、これからも度々話が出ることになるでしょうけど。
能夫─ 中学生の頃、太鼓の稽古をしていて、なかなか理解できなかったことに”見計らい”ということがある。大まかな決まりがあって、演技や謡の状況によって色々と変化する。いわば能の醍醐味、本質と言って良い程のことだが、それが段々と見えてきた。自分にとっての大きな進歩だと思う。
明生─ 見計らいは本当に難しいです。私も太鼓は中学に入ると始めましたが、やはり拍子に合わずの所で見計らい乍打つのが難しいです。最初の頃は謡で覚えず、、刻いくつで上げてなんて覚えていましたから全然だめでした。太鼓とか小鼓とか音の鳴る物は習っていても楽しいです。どうするとよく鳴るのかと考えたりして。
能夫─ 見計らうということは謡も囃子も知ってその上での自由さというものだとすると、これが自在に出来るというのは生涯の課題なんだろうけど、ともかくそういうことがあるという事を思い知らされた。
 それにしても最近若い人で舞のアトのアゲの謡い出しが、とんでもないところから謡い出したのがいたけど、あれも考えられないことだ。囃子というのは手組は知らなくても、さあ謡いなさいと誘ってくれるんだから、アンテナをひろげていれば自然に謡えるはずだと思うんだけど…。
明生─ 例えば望月の羯鼓の後に子方が『獅子團乱旋は時を知る』と謡い出すところがありますが、子方にさあ謡えという気迫でお囃子が囃しますし、そのような仕組みになっているので、それを受けてあっここだなと思って謡い出すことが出来る。
能夫─ そこで躊躇したら駄目なんだ。謡い出す勇気と決断が必要なんだ。
明生─ 子供の頃より舞台にたてる、いわゆる家の子というものの功罪は相半ばするとは思いますが、同期の人が少なかった事もあって、十番会のほか能楽養成会、東西合同養成会にもよく出させて頂きました。これらの会は他流との立ち会いみたいなものですから自然と心構えもいつもとは違って異常な緊張もしますが首尾良くいくと自信というか度胸みたいなものが生まれるみたいです。失敗するとかなり落ち込む。一回花月の能の時絶句してしまい、今でも覚えていますが次の日もう父がその話を知っていて、ああいう会では絶対に間違えてはだめだと大層おこられました。
能夫─ 振り返ると、良くも悪くも自分のなかに粟谷の子だというプライドのようなものがあったな。それが隠れ蓑になっていたかも知れない。でも、いろんな人や舞台との出会いのなかで、外の世界が、先の先があるということを思い知った。
 大事なことはあくまで個から始まるのであって、個が十全になってはじめて家を支えることが出来るんだと自覚するようになって来た。

(つづく)


我流『年来稽古条々』(3)投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』(3)

── 子方から青年期 ──

粟谷能夫  
粟谷明生  

明生─ 少し話が前後しますが、初シテについても触れておきたいと思います。私は八歳で『猩々』でしたが、その時のことを思い出すとどうも、特別その為の稽古が長く続いたという記憶はなく、それまでの中之舞の稽古が出来たから、ではその続きでというふうに教えられたように思います。自然の流れで出来たという感じかな。特に覚えていることと言えば、実先生から鏡の間の前で「明坊ここに座るんだよ」と言われたことで、どんなに沢山子方を勤めていても鏡の間で床几に座るということはなかったですから、その時はちょっと偉くなった気分で、結構気持ち良かったことを覚えています。しかし当日どのように舞台を勤めたかはあまり思い出せないです。たぶん全く無意識というか、プレッシャーも何もなかったんじゃないですか。
能夫─ 僕は『経政』で九歳だったけど、中村町の実先生の舞台で一緒になって、まさに手を取り足を取りお稽古を受けたことを憶えている。この時の舞台は宮島の厳島神社で、役へのプレッシャーと旅の疲れとでやはり熱をだしてしまい、熱をおして勤めた記憶がある。いまでも宮島の野外の舞台の感じを憶えているな。一カ月後には東京の昔の目黒の舞台でやり、二回晴れの舞台を勤めさせてもらい、シテをやる豊かさ喜びを教えてもらいました。多分父親も初シテは『経政』で宮島だったんだろうけど、今にして親の想いと配慮を感じます。
明生─ 初シテを勤めて感じたことは、シテは幕が開き、歩み始めたら留拍子を踏むまでずーっと動き放しなんだということ。子方ならば普通要所要所の動きがあっても大半は相手役としてじっと座っていることが多く、このずーっと動くという経験は初めてで、結構喜んでいたみたいです。
能夫─ まあそういう意味では親の段取り通り育てられたと言うことかな。
明生─ 子方時代後半から青年期にかけては、いわば半端な時期に入るのですが、この頃は前にもお話ししたように、謡の理論が解らないとか、声の問題とか、このままこの職業をやっていくのかとか、様々な問題にぶつかり、悩んだりしていましたが、とにかく、やるやらない、好き嫌いに関係なく、十番会という稽古会が毎月あり、月に一番ずつ、とにかく覚えて、大人と一緒に舞囃子の稽古を受けさせて頂いたわけですが、この時期に舞の基本を徹底的に教え込まれたことは今の自分に大変役に立っていますし、自信にもつながりますね。表舞台には立てないけれども、このように継続していくということが大事なのかもしれません。地味な時期ですが、大切な時期でもあるようです。やはり誰かの段取りにはまっていたのかなー。
能夫─ 初めて面をかけたのもこの頃かな。『田村』のシテだったと思うけど、特別なプレッシャーがあるという感じではなかった。仕舞のままで面をかけたというか、普段稽古している姿にたまたま面と装束とが付いたという感じ。
明生─ 私は青年喜多会での『嵐山』のツレ、勝手明神で初めてかけました。やはり本番でいきなりという感じでしたが、プレッシャーなんか無かったです。ただ視界が制限されて見えにくいので、お相手の方と揃っているかどうかだけが不安でした。
 お囃子のホウホウヒのヒで足を揃えるとか、何々という言葉で動き出すとか、非常に細かく型を決めさせられたのはこの時が初めてです。それまでの子方では、ある程度自由に一人で演ずることができましたが、ツレ同士、念入りに打ち合わせをして舞台に臨むという経験は初めてでしたね。
 その面をかけるための準備で、面当てをつけたり、面紐つけたりで、例えば面紐を通すときもいいかげんにつけていると、「耳のあるものは内側から、耳のないものは外側から通すんだ」とか、「小面の面紐は紫色を使うのだー」などと楽屋の現場で廻りの先輩がいろいろと教えて下さるということもこの時期から始まったんじゃないかな。
能夫─ 僕は面を見ながら育ったから、かえって無意識だが、面を大事にするとか、彩色の部分には触れないとか、自然に身についてきたように思う。なにせうちの父は面を手に入れて来て、それをかけたまま眠ってしまって、母がそれを見て仰天したという逸話が我が家にはある位でね。子供の頃から面にはなじんでいたし、また女面には興味と憧れをもっていたように思う。ただその頃は般若が女だとは全く知らなかった。やはり、今頃になってああ恐ろしい、やっぱりそうなのかと理解できた(笑い)。
明生─ 面の話で、子方の最初の頃『船弁慶』をやっていて、後シテの気迫と凄さに、思わず本当に切られてしまうのではなんて思ったことがありました。その時の面が怪士だか三日月だかわからなかったですが、終わった後にその面を見て、こいつが僕のことをびっくりさせたのか、でもそのうち僕がこれをつけてやるからな、なんて思ってましたよ。
能夫─ 面をかけた最初の『田村』の舞台写真を見て悲しいのは、面装束をつけている姿がだらしないというのか、ともかく貧相でしょうがない。こんなはずはないと思うけどやっぱり身体としても大人になっていないことと、同時に芸としても構えが未熟なせいと両方あるんだろうな。
 それからこの時期、後見をやらされたことを記憶している。十五、六歳だったろうか地謡にも付けられない半端な年頃だったと思うけど、足が痛いななんて思いながら座っていた。その頃で忘れられないのは、『土蜘蛛』で舞台の蜘蛛の糸を巻き取ったり、切ったりの始末をして、後で叱られた。多分やるタイミングとかやり方が舞台にそぐわなかったのだろうけど。その時舞台での動きというものは簡単には出来ないのだと思い知らされた。また実先生と一緒に塩津さんの『吉野静』の後見をしていて、塩津さんが途中で胸が苦しいと実先生に訴えて、先生が「いつでも俺が代わってやるから」といっていらしたのを覚えている。今にして思えば、舞台の善し悪しもよく解っていない時期に、ともかく舞台に居させることで、後見の位置とか覚悟のありようを教わったのだろうと思う。
明生─ 私はその頃からよそ見の時期が続いて、この世界に何となく魅力を感じなくなって、後で聞くと廻りの人は相当心配していたみたいですね。
能夫─ その頃は僕らも苦労したよ。明生君が能の方を向かないものだから、食べ物処とか飲み屋に誘って何とかこっちを向くようにと努力した。
明生─ 無駄のないまっすぐなコースを通るのが良いのでしょうが、右や左とよそ見をしては、他のことに気持ちがいってしまう時期を経験した私は、かえってその分、これだというものにぶつかったとき、その反動で、がむしゃらに没頭できたし、またその頃自分の流儀に疑問を感じていたことが、他流の同世代の人達の舞台を見ることにつながり、他流の友達との交流が出来大いに刺激を受けることができました。それが今日の自分に繋がっていると思います。
能夫─ 確かに自分の流儀の枠のなかで自足していては駄目だよな。僕の場合は観世寿夫の能と出会って以来、もっと能のことをかんがえましょうと言い続けて来たからね。その頃かな十番会で『采女』の舞囃子をやったとき、親父から「能夫はもう出来上がった。私の手を離れた」と実先生が言われたと聞いた。この頃寿夫さんとの出会いがあって自分の能の方向を模索していた。

(つづく)


出会い投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


出会い

粟谷能夫

 この阿吽のなかで『我流年来稽古条々』を連載していて自分たちの修行時代を振り返って見るということをしているのですが、その中で自分自身の未熟さを痛感することも多いのですが、一方では、若いころに素晴らしい出会いがあったから、能という仕事に生涯をかけていられるのだと、今更ながらに思います。
 私たちの世代は明治に育った錚々たる名人の最後の舞台と、戦後、能の価値を意識的に問い直して出発した観世寿夫さんの舞台を見ることが出来ました。そうした舞台から大いに触発されて頑張ろうと思ったものでした。

 多分十代の後半の頃、友枝喜久夫先生の『葵上』のツレの役が付いて、大抜擢だったんだろうと思うのですが、その舞台のあと、恒例の我が家での忘年会で父と菊生叔父と喜久夫先生とが飲んでいて、私が呼ばれ喜久夫先生に「能夫、今度謡を教えてやるからな」と言われました。自分にはおっしゃられる意味合いが充分に理解出来ていなかったのですが、いまにして思えば、節が間違っていないというだけのことで『葵上』という作品のツレの謡になっていなかった、そのことをおっしゃられたのだと思います。基本の技術の上に立ったうえで、作品の内容に即した表現に出会っていなかったということです。
 そういう自己の芸を確立していこうという時期に、多くの名人や、とりわけ寿夫さんの舞台を見たことで、型をなぞるだけでない、作品に出会った表現をするという方向性をもてたように思えます。

 どの世代の若者もそれぞれの時代の制約のなかで、精一杯生きて学んで稽古しているのでしょうが、自分たちがそうした先輩たちから学び、身につけて来たものと比べ、いまの若い人たちはこと技術においても、志しにおいても衰弱しているように思えてなりません。
 明日の自分を見ていないのです。今しか見てない。時間を切り売りして、なんとか今の辻褄をあわせて、それでしのいでいる。自分のやる曲にはオタクになっているけれど、その根底に人の舞台を見てそれに憧れ触発される、といった志しが感じられないのです。規範を追うことで汲々としていては自前の表現に到達しようもない。
 私の思う佳い能は、自分が獲得した技術や曲への取り組みかたが、周りの皆に理解され支えられ一体となって表現されたものです。そうした方向に向かった習練がなされていないのではないか。

 私の祖父たちの世代の名人は血の出るような稽古を積んで、それもただ、ダメだ、ダメだと言われ、よくいわれて手が高いとか低いとかそんななかでの稽古をして来たから、舞台に立って、シカケ、ヒラキをすれば、自ずから『船弁慶』の能になり、『湯谷』の能になった。しかし我々の世代は勿論、今の若い世代もそんな稽古はしてないし、出来ないのにもかかわらず、シカケ、ヒラキ、といった型を組み合わせたら能になると思っている。それではいつまでたっても作品とは出会えない。もっと自分の視点、美意識といったものを日々積みあげていかなければ駄目だと思う。
 私はいつか自分がこの曲を手がけるんだという思いで能を見て来たし、その舞台から受けた刺激の積み重ねで今迄やって来ました。

 譬えで言えば、二人のコックがいて、一人はその道が好きで命懸けでコックをめざし、もう一人はほかにやることがなくて、たまたま家がその仕事をしているからという理由でコックになった。一人は勉強もするし、ほかのコックの仕事も熱心に見て良いところを取ろうとする。もう一人はそこそこに型どうりの仕事をして日々を送る。この二人はどちらもコックを職業としているからともにプロだということになる。その出す料理は違うに決まっているのに、世間では同じプロということになる。どちらのコックになるかは本人次第だが、その道で生きるかぎりどちらを選ぶかははっきりしているはずだ。


植林投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


植林

粟谷菊生

 ふり返ってみると、どこの社中にも、必ず一人や二人は能狂い、謡気ちがいといった能好きの人がいるものだ。
 その人たちは必ずといっていいほど、子供のころとか、学生時代に、仕舞や謡の稽古をした人たちで、それが年をとった今日に続いてきていることが多い。

 私の社中でも、今は故人になられたけれど、毎年、能を舞われた、日立の副社長のあと、動燃の理事長であられた清成廸さんにしても、学生時代に清成さんに将来を托して、骨身を惜しまず謡を教えてくれた人があってこそのおかげで、それが最後に実ったところで、私の会で能を二十四番も舞っていただき、私は大いに恩恵を蒙ったものであった。
 であるから、私も若い人たちに植林をと思って、将来の喜多流発展のために、早くから東大喜多会、阪大喜多会を作って教えてきたが、阪大は毎年、学生の自演能が催されて、それが二十五回を終え、この十二月で二十六回になる。

 ある人に「菊ちゃんはいつまで学生と遊んでいるのだ」といわれたけど、昔、観世寿夫さんが「炎天の砂浜に水を撒けば、あっという間に吸い込んでしまうような、覚えのいい人に教えたい」といわれたそうだが、水を撒いても、ほうぼうに水たまりができたり、中にはボウフラがわくしまつ。吸い込みの早い、覚えのいい学生たちと共に、ある時間を過ごし、夏は合宿に参加して、学生の見つけてきた宿に泊まり、彼らと同じ物を食べて、共に過ごす何日間は、今では私の回春剤となり、若やぎの秘訣となっているのがうれしい。

 学生たちも既に立派な医者になっているが、昔、その一人の福田君が「先生、白内障になったら手術してあげますよ」といい、泌尿器科の寺川君が「小便の出が悪くなったら通してあげます」とか、あるいは福本君が「先生、ぼけたら、ぼくの家の病院でめんどうみますよ」とかいってくれたけれど、ぼくは七十四歳の今日でも、まだ三人のお世話にならずに過ごせているのを幸せと思い、自慢にも思っている。

 若い頃から植林の仕事に励み、逆に、若い人たちの情熱をいただいて、今日の私があることを、たいへんうれしいと思う。


間遠になりて投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


間遠になりて

粟谷新太郎

 四月の中頃、院長先生より「粟谷さん人間国宝おめでとう」と声をかけられ、これはえらいことになったと当惑し、よくよく聞いてみると弟菊生の人間国宝認定の報と解り、あの世にいる父、益二郎に電話をしてよろこびを分かちあいたい気分になりました。この慶事は我が家の誉れであり、これまでの演能活動の積み重ねのたまものと心得、なお一層の前進を願っております。三月には認定記念の粟谷能の会が、東京、大阪、福岡にて催される由、大変心強く思います。

 「阿吽」No.2我流『年来稽古条々』でも取り上げておりましたが、父益二郎の最後の舞台『烏頭』についてお話ししたいと思います。囃子科協議会が駒込の染井能楽堂で催されていた時(この染井能楽堂の舞台は今年、横浜能楽堂として復原された由)、ぜひ父に『烏頭』をということで、演ることになってんです。子方には能夫が出ていました。私は地頭をしていましてね、前シテが橋掛へ出て来た時、実は、ゾーッとしたんですよ。いかにも淋しげに現れてきたんです。あとから思えば、死に直面していたのだと思いますね。ワキに片袖を渡し、立分かれて行くところは、父の生涯の舞台の中でも絶品の一つじゃないでしょうか。後シテで舞台に入り、常座で「陸奥の外の浜なる呼子鳥」と、謡うか謡わないうちに、前に膝をつくように倒れたんです。最後の力を引き絞って運んで来、精一杯に謡ったんでしょうね。それで、地に座っていた栄夫君(観世?当時後藤)が直ぐ立ってあとを舞いました。栄夫君は妙な因縁があるんですよ。前年に岡山で倒れたときも彼が後を舞いました。『黒塚』だったんですが、後のイノリで倒れましてね。

 一体に、父は何をやっても情感をもってすることがありませんでした。淡々と演るんですよ。まあ、昔の人は理屈で考えて舞うわけじゃなく、教わったとおり、からだで覚えているとおりに舞った結果として、たまたまいろんな事が表現されているんでしょう。現在では一曲を徹底して稽古をするようなことも難しくなっているようですが。謡にしましても、六平太の名地頭として活躍し、『粟谷の謡』と云われるようになりました。此の謡をみんなで継承して行かなくてはならないと思っています。『謡』がちゃんと謡えないと仕事になりませんから。

 私は「烏頭」を被いたのは三十歳ぐらいの頃でしたが、何しろこの曲は先生(十四世六平太)の十八番極め付けだったもんですから、とても私には演る気がしませんでしたね。そこへもって来て父のこともありましたからね、よけい演るチャンスがなかったんです。「烏頭」というのは、本当にいい能です。殊に後の一人称で、いろいろに演り分けるところに妙味があります。先生は、呟くように謡えといわれました。無論、後のカケリ前後が型所には違いありませんが、前段の、あの短時間、動きの少ない型を十分気をこめて演ずる舞台は難しいものです。色々な意味もありますが、私には襟を正すような、コワイ能だと思います。

 父は四人の息子を皆能楽師として育て、面、装束を集め、地盤を築くという大仕事をしてくれました、私も面蒐集を心掛けてまいりました。良い面で佳い能を舞いたいという思いからです。昨日も、古道具屋から能面が売りに出た夢を見ました。これが正夢ならばと能夫に話をしたところです。皆々様の前より失礼いたして久しくなりましたが、毎日、能のことを思い、見はてぬ夢の中で過ごしております。いま暫くの雲隠れを、お許し下さいませ。

(聞書・能夫)


我流『年来稽古条々』子方時代(2)投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』子方時代(2)

粟谷能夫  
粟谷明生  

能夫─ 子方をやっていてシテの演技を鮮烈に憶えているという経験でいうと、実先生の『安宅』で、義経が留められて「腹立ちや、日高くは能登の国までさそうずると思いしに……」という言葉と、後で写真で見た姿が忘れられない。メインの場ではないかも知れないけれど、一人言のようでもあり、また相手に聞かせるという複雑さが伝わって来て、いいセリフだなと思ったし、自分もあんな風にやりたいなという指針になった。
明生─ すぐその後に金剛杖で打たれる所、稽古の時は実際に笠をつけないのでよく解らなかったんですが、本番では本当にボコボコ叩かれるので、両手でしっかり笠の紐を持っていなければいけないのだ、とか、「通れとこそ」の時も実先生のはとても力強く本当に突き飛ばすようだったので、すーと速やかに歩まないといけないとか、体験しながら憶えたことを思い出します。『富士太鼓』や『望月』ではお相手の方により、謡の早さや、音の高さなども子方の調子に合わせて謡われる方もあれば、シテやシテ連の本来の位通りで謡われる方もいらして、子供心にも色々あるんだなーと思いました。例えば、『富士太鼓』の「打てや打てやと攻め鼓」の所、ある時は子供らしく、さらりと打つ場合もあれば、また謡一杯粘るようにしっかり打たされる時もあり、このような経験は今の私に大きく役に立っていると思います。私はとにかく子方の回数が多くて、調べてみたら百十九番。小学四年生位から声変わりが始まり、子方らしい高い、澄んだ声が出なくなり、自分自身に徐々にいら立ちを感じ始め、ついには謡に劣等感を持つようになってしまい、自分なりに悩みました。生まれつきの良いつつ(喉)に恵まれない分、自分なりに工夫し声を創っていかなければならないと思い始めた最初ですね。
能夫─ 僕がめぐまれていたと思うのは、子供の頃から、実際に面装束にふれながら父に色々なことを教わった。また大事さも知った。やはり子供の頃から面を見ているものと大人になって見るのでは自ずから違いが出て来る。良い面というのも、手にとって見ただけでなく、実際舞台で生かされるのを見て知った。辰三さんが装束を出していて、それを手伝っていて厚板と唐織の違いも分からなくて、それが口惜しくて大いに勉強した。
明生─ 私の子方の卒業は十二歳の時で、実先生の『満仲』で幸寿丸でした。だから私の子方時代の幕切れは斬られて終わり。その時に忘れられないのは、美女丸をやる同じ年の素人の子なんですが、美声でね、声で悩んでいた自分にはすごく羨ましかったです。この声の問題はまたあとで話にでると思うけれども。
能夫─ 
僕は『烏帽子折』だったけど、いまでこそ『烏帽子折』で子方卒業というけど、当時は勿論そういう自覚はなかった。今にして思えば、実先生がそういう場を作ってくれたと思うけど、週二回位のペースで実によく稽古してくれた。そういう意味ではうまく育ててくれたし、育てられた。
明生─ とにかく子方時代は終わった後は必ずご褒美が頂けたし、褒められたし、これが結構気分よくて、そうして知らないうちに、次から次へと舞台に立たされるわけです。
 子方を卒業したあとには、色々な難関が待っていました。なによりもまず謡本が読めないんです。それまでは先生が、見本として謡ってくださり、それを鸚鵡返しで憶えるという稽古でしたが、中学生になると突然、いついつまで憶えてくるように、と言われるのです。さあ謡本をあけても節付の意味がさっぱりわからない、今までに謡った箇所は解るのですが、初めての所はどのように謡うのか解らない、この謡本に全く歯が立たない状況には自分ながら愕然としました。
 謡の仕組みはこのようで、この節の時はこのように謡う、などという事はなく、自分でどうにかしろという風潮ですから、親切な教わり方も子方と共に卒業させられた訳です。とにかくこの状況が急に襲ってくるんです。
能夫─ そう、子方時代何の苦もなく憶えられていたから自分では出来ると思っている。それが謡本を見ての稽古になると全く理論が解ってなかった。ともかく節付が読めない。
明生─ 中学一年生で太鼓を習い始めた頃、大ノリなら、まあ何とか謡えますが、小ノリとなるともう全然お手上げ、小鼓の稽古が始まると自分のさえ憶えていくのが大変なのに、先輩の、それも『柏崎』や『朝長』をいきなり地拍子に合わせて謡うわけですから、そりゃもう聞けたものではなかったでしょう。
能夫─ その時に思ったのは、節付を理論としても解し、地拍子も身につけ、文章も理解し憶え、その曲にふさわしい謡を謡えるようにならなくてはいけないと思った。
明生─ 私は謡で苦労したから余計思うのですが、我が流は謡に関しては野放し状態でした。子方から青年期への大事な時期、もっと指導者がしっかりした方向性を指示していく必要があると思います。
能夫─ 自分なりに謡と対峙したけれど、謡ということにぶつかったのは二十歳過ぎて青年喜多会で『玉葛』をやった時に、悲しい役の女性ということで多分に情緒的な、女々しい謡を謡った。それは違う、もっと身体の奥底から出す強い声で謡わなくてはいけないと言われた。

(つづく)


松風を終えて投稿日:2018-06-07

松風を終えて

粟谷明生

 松風 この曲は道成寺より難曲であることを強く感じました。
 道成寺の場合、静の乱拍子、動の急ノ舞、それからクライマックスの鐘入りと続き、中入りはシテ一人で鐘の中で装束を着替え、蛇体となり現れ、祈り祈られ最後は幕の中に走り飛び込む。まことに技の極みの連続でありますが、この鐘入りの作り物の中というのはある短い時間ではありますが、それまでの緊張が解け自分に帰り、しばしの休息がとれる逃げ場があるのです。
 それに引き替え松風は、真の一声の二人の海人乙女の侘びしさを嘆く謡から始まり、月光の中での塩汲みの段、ワキとの問答からクドキ、舞台上での物着、そして恋慕の狂乱の舞、キリの仕舞どころ、と劇として一曲全体の心憎い程の巧みな構成の中で、演者の精神と体力の持続がいかに辛く、困難で、大事な事かを演じ終えてはじめてわかりました。
 先達の、その辛く、難しい、苦労を少しも感じさせない舞台の凄さに改めて低頭するばかりです。

 私は今まで数回、シテ連(村雨)をやらせて頂きましたが、その都度、シテ連としての重要性を痛感いたしました。
 父菊生のシテ連は三回いたしました。私は父の松風はいつも小面の中から見える一センチ四方の世界で感じてきました。謡い方、歩む速度、間のとりかた等、ただシテの力に乗せられて動かされていたように思います。
 演じている時は、ここはシテ連としても自己主張しよう、もっとはって謡おう、位をもった歩みをしよう等と、思って演じてはいるのですが、今考えてみると悟空がお釈迦様の手のひらで好き勝手に飛び回っていたようにしか思われてなりません。父をはじめ先輩の方々は、私の思いの外で大きな力を持って演じられていた事がシテを勤めてはじめてわかりました。

 松風という曲に憧れを持ちはじめてから、印象に残る一つは、伯父新太郎の松風でした。松模様の古い紫長絹で舞っている姿に、いつか自分も──私のは寸法が小さいのではと思っていた松模様の長絹がどうにか着れて、鏡に映った自分の姿を見たとき「これで装束は良し」と思わず笑みを浮かべてしまいました。装束は決まり、いざ面となると、なかなか決まりませんでした。粟谷家には松風に使える小面は数面ありますが、その中の一面、井関の小面─これは父以外、誰も使用しないという暗黙の了解の小面なので、気に入っているのですが父の元気なうちは使わないと思っています。
 実は昔一度この井関でもめた事があるのです。十五年前父の承諾なしに船弁慶に使用した時でした。私には何も文句を言わず伯父新太郎に「あれはおれの面だ、どうしてだした」と噛み着いたようです。私はその話は後日、伯父より聞かされましたが、父のこの小面に対する愛着心、執着心はわが子でも、触らせたくない、貸したくないという程の気持ちであることをその時はじめて知りました。

 今回は、伯父所有の、媚と銘のある小面を使う事といたしました。この面は艶のあるお顔で、目がものをいうようなすばらしい面です。今、大変気に入っている面です。
 そのうち、これは明生しか使わない、という演者に自分もなりたいと思ってますが、私の心の片隅にいる浮気虫が「井関の面をかけてやってみろ」といわれるのを待っているようでもあります。

 これからも自分を鍛え、力のある、大きな存在感のある能役者になりたいと思っています。


人間国宝認定にあたって投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信 阿吽


人間国宝認定にあたって

粟谷菊生

 此の度、人間国宝認定の栄誉を賜りました事まことに有り難く恐懼いたしております。
 さる六月二十六日、全日空ホテルにて認定式があり、他の十一名の方々と共に、文部大臣より認定証が一人一人に授与されました。記念撮影の後、文部大臣、文化庁長官並びに同省庁関係者数名と新重要無形文化財保持者が同ホテルで会食懇談し、二時にバスにて一同夫婦共々皇居へ参り、三時より両陛下より拝謁を賜りました。そのあと別室にて両陛下より茶菓のおもてなしを賜り懇談、両陛下も私どものテーブルに御同席で親しくお言葉をおかけ頂き、こちらからも御話し申し上げる栄に浴しました。
 私としては、好きな道を、ただ一筋に一生懸命やって参りました。それを認めて頂けたのですから、これからも今までどおりの生き方、自然体で行きたいと思っております。そして舞台に立てる限り、よい能を舞いつづけて行きたいと願っている次第です。


我流『年来稽古条々』子方時代(1)投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


我流『年来稽古条々』子方時代(1)

粟谷能夫  
粟谷明生  

創刊号で予告しましたように、我々の自己形成を振り返る、我々にとっての年来稽古がどういうものであり、何を学び、何が問題であったかを考えてみます。

能夫─ 僕は昭和三十二年に祖父益二郎が亡くなるまでは稽古は祖父にしてもらった。まだ中野の舞台が出来る前で、朝起きると布団を畳んでそれを片づけ、それに唐草の大風呂敷をかけて八畳二間ほどの所が稽古場になる。南側に縁側があってそれが橋懸代わり、ノレンが揚幕代わりになっていた。そこで祖父に向かい合って謡や仕舞の稽古をしてもらった。その部屋の昔の白い電気の笠を道成寺の鐘に見立てて遊んだ記憶がかすかにある。
明生─ 私はそのころは全く覚えてないです。祖父が亡くなったとき二歳ですから。
能夫─ 子方時代で僕が一番鮮烈に覚えているのは、やはり益二郎が舞台で亡くなった『烏頭』で子方を勤めていたことだ。前日申合わせがあって、行き帰りおじいちゃんと行動を共にしていて染井能楽道の帰りに中野の駅でうどんを食べた記憶がある。
 当日の舞台で後シテの出で「陸奥の…」と一言謡って常座で倒れて、人々が右往左往していたことを覚えている。それからこれは後で人から聞かされたことと自分の記憶とが一緒になっているかも知れないが、もうこれで駄目なら最後だと、主治医の先生が心臓に直接モルヒネを注射していたのを記憶している。
明生─ 幸雄伯父から聞いた話ですが、祖父が倒れて地謡後列の親父や新太郎伯父が楽屋に入って行き、戻って来て、後見だった後藤栄夫(観世栄夫)さんが代わって舞う地謡で「親は空にて 血の涙を…」というところを、とても尋常ではない絶叫のような調子で謡うのを聞いて、ああ、もうこれは駄目なのだなあと思った、と聞いています。
能夫─ 僕の子方時代で一番鮮烈な記憶だ。子方時代は舞台の前になるとプレッシャーのためか熱を出してしまい、舞台上で責任感と高熱の引っ張り合いのなか、不思議な緊張感を体験しました。
 教わる時は一対一で口移しで教わったが、高い声で一杯に謡わされた。これが何より大事だと思う。こういう教え方が今は出来なくなって来ている。
明生─ 私の子方時代の出演記録を調べると、他に子方がいなかったせいと、またその頃からいろいろな会が増えたせいもあると思うが、とにかく集中して忙しかったです。
 教わるといってもせいぜいきっかけになるシテの言葉の一句前位からしか教えてもらえないし、曲の筋も教えてもらえない。だから例えば『国栖』の子方をやったとき、舟の中に入り隠れ、それから出て来たら後は帰るだけだと教えられていても、そのあとに長々と天女の舞があったりすると自分はもう帰っていなければいけなかったのではないかなどと思ったり、全く違う曲に出てしまったのではないかなどと悩んだりしたことがありました。だからある程度曲の筋を教えておいて欲しかったです。
能夫─ 教えられたシテの句が何時出てくるか何時出てくるか、と待ち構えることで、緊張が持続する仕掛けなんだろうけど、これからはそれだけでは充分ではないだろうな。
明生─ 息子が去年『隅田川』の子方を勤めたとき、子供から「どうして死んだ自分があそこで出て行くの?」と問いかけられた。今の子供達は昔のようにうぶではないから、ストーリーと役についてある程度教えておく必要があると思う。
 私はいろいろな舞台で子方を勤めたが、その度に必ずどなたかが、遊んでいる自分をその日の舞台に立たせ、今日はこの所でこっちを見るんだよとか、止まる所はここだとか注意や確認がありました。これは今にして思えば、実に有り難いことで、今日になっても舞台に立つときは、前以て舞台のすべり具合や位置、方角などを見る習慣がつきました。
 それと私の場合は子方が多くて、例えば「船弁慶」なんて度々やらされていると、アシラウ所なんかもなんとなく解ってくるので、今日は誰々だからここでアシラッた方が良いとか、今日は伯父だから見ないほうが良いのだとか、子供心にも相手とのかけひきみたいなものを小さいときから覚えたみたいです。
能夫─ 僕は祖父が亡くなって、実先生のところで子方のお稽古を受けるようになって、前以て親父に教わって憶えて行って稽古をうけるのに、どうした訳か最期の言葉を教えてもらってなかった。子供心にまだ何かありそうな気がして親父にもっとあるんじゃないかと聞いたが、無いと言われた。それが実先生の所に行って取りこぼしがあると知って、悔しくて泣いてしまった。その頃からだと思う、自分でやらなければいけないという自覚というか、自我が出来て来たのは。

(つづく)


人生五十年投稿日:2018-06-07


粟谷能の会通信 阿吽


人生五十年

粟谷菊生

 昔、商店には錠のかかる銭箱があって、毎日の上りを入れておき、それが商売の資金として活用されてきたといわれる。
 考えてみると、芸の道も同様だ。ぼくたちが若い頃から一生懸命稽古を続けてきた、その日銭の貯金があるおかげで、年をとった今日でも能が舞えるのかと思う。
 その銭箱の中身には、自分の体験のほかに、先輩の芸に学んだ預金も、たくさんはいっている。なかには他流の芸に学んだものもあるが、その蓄積のおかげで、七十四歳の今日も能が舞えるのだろう。

 ところが近ごろ、郵便貯金の利率が低くなってきた。百万円に対しての○・三%は、利息も甚だ僅かなものだから、昔の銭箱だけでは、なかなか間に合わなくなってきた。年をとってもなお、毎日稽古に励み、日銭が減らないように勤めなければならないのではないか。
 昔は、十七歳で道成寺を披いたという人もあったけれど、それは「人生五十年」の時代のこと。金さん銀さんの居られる長寿時代の今日では、披きが高年齢になるのは、当然のことだろう。

 先年、八十人ほどの弟子を集めて、宮島で浴衣会を催したことがあった。その謡い、舞う人々の中に、九十歳以上の人が四人もいたのには驚かされた。
 考えてみると、古来稀なりの古稀が七十歳、不惑が四十歳とは、とんでもない話だ。今や百歳がざらにある世の中だから、百二十歳位が古稀にふさわしいのではないか。ぼくは七十四歳でも、未だに迷っているのだから、不惑は八十歳かな。

 ところで、ぼくの考える人生五十年とは、自分の年から数えて、上の二十五年、下の二十五年の人たちといっしょに能を楽しみ、その影響を受け、あるいは下の人たちにそれを及ぼしながら、緻密な能を作り上げていくことかと思うが、悲しいことには、自分が年をとるにつれて、上の二十五年が、だんだん薄れていくのはさびしいことだ。最近、下の二十五年の人たちに、やさしく扱われるのに気づいてきたが、同情されるようになったらおしまいだ。適当なお邪魔虫になって頑張りたいと思う。

 それにつけても、人間、口を動かすことが長寿の秘訣だという人があるが、年をとって会社を退職して、俳句や盆栽を楽しむのもいいが、昔から「おしゃべりにモーロクなし」の諺もある。口を動かす謡いに打ちこむのも、長寿の世の中にふさわしい健康法の秘訣かもしれない。せいぜい長生きして、謡の妙味を楽しんでいただきたいと思う。


阪大機関誌「邯鄲」への寄稿 平成19年度投稿日:2018-06-07

「能の力強さ」

                  粟谷 明生

今年の自演会は一年ぶりに能が出せる。喜ばしいことだ。
曲目は『経政』に決まり、シテを勤める高山啓君は阪大喜多会の存亡の危機を乗り越える原動力となった人物でもあるから、通常より一年早い能の体験となるが、これもご褒美と思って、部員は一丸となって自演会に向けて頑張って稽古してくれるだろう。

能『経政』は小品だが、よくまとまっている曲である。
クセはしっとりした風情で特徴あるよい型がつづき、キリは修羅道に苦しむ有様を舞い、自ら灯火を吹き消して消えていく。
キリの仕舞は学生諸君のように若く力があり余っていると、つい荒くなりがちだ。これを若さゆえ仕方のないこと、と諦めてもいいが、本来の能の力強さを是非知ってもらいたいと思い、このことを邯鄲への寄稿とさせていただくことにする。

私は子どものころから稽古を受けると必ず、「強く!力強く!」「気合を入れて!」と注意を受けてきた。そのときは「はい!」とうなずきながらも、実はその真意を全くといっていいほど理解していなかった。

「強く」は、ともすると若いときは「荒く」とか「激しく」というイメージで捉え、錯覚しがちだが、決してそうではない。
「乱暴」「粗雑」とは無縁な、もっと内面的なものを言う。
つまり力強さは表面的なうわべの力ではないのだ。
 
では「強さ」とか「気合」とは一体何だろうか? 
私は演者の身体の内側に溜める気の充満と発散の作業だと思う。それは内圧と外圧、動と静、みな相反する力関係から生じるものだ。

演じるという思いを凝縮して、それを秘めながら、その思いを表現するところにエネルギーが生み出される。
例えば、息には出る息と引く息があって、引く力を備えることで、より出る力が生まれる、と解釈している。

舞も同じで、動きの激しい曲目の場合はなおさらのこと、引き込む力がないと演者の生の部分が露骨に出て、動きに制動が利かない舞となってしまう。すると、「荒いよ」と注意が飛ぶのだ。それを克服するには自分の身体に、出て行く力と引き込む力の両方を持ち合わせること、それが肝心だ。

例えば、「身を焼く苦患恥ずかしや」と面を隠す型がある。左足を引き右手を顔の横に当てる型だが、それだけの動きではいけない。「あ?なんて己の姿は恥ずかしい、行慶僧都に顔を見せられない」と思いながらワキ座前まで勢いよく進み、すっと扇を顔に当て恥ずかしいと顔を隠す、その思いが内に強くあると美しい説得力のある型となる。

能の作品が持つ力に、頼り委ねるだけではなく、作品と役者の二つの力で力強く表現する。それが能の力強さ! 私自身も己にこう言い聞かせながら能を勤めるように心がけている。

観る側も、演者がそれらを備えているかどうかに注目して観ると、能の真髄が見え隠れして面白いかもしれない。

平成19年 6月 記

阪大機関誌「邯鄲」への寄稿 平成18年度投稿日:2018-06-07

阪大「邯鄲」への寄稿

「カードは多く」      粟谷明生

伝統ある阪大喜多会の自演会は今年も12月に予定されているが、残念なことに部員の減少で今年は能が出来ないこととなった。

昔の夏合宿の写真を見ると、父はこんなにたくさんの部員を教えていたのか! と驚いてしまう。
近年の少子化問題もあるだろうから、昔のようにとはいかないが、折角続いてきた自演会の能だから早く復活してほしいと願っている。
ではどうしたら能が出来るようになるか?

答えは簡単、人材の確保だ。
部員を増やすこともそうだが、大事な事は一度始めたら最後までやりとげるという精神力だと思う。
部長の高山啓君は必死に部員を増やし、結果を出している。この気持ちを今後も継続していけば、二年後にはまた能が再開出来るだろう。

企業や私の芸術・芸能集団も同様だが、人材、仲間の有無で繁栄もするし簡単に没落もする。目の当たりに見てきたから間違いない。
私は今、阪大と東北大と二校の大学生さんたちとお付き合いをさせていただいている。
皆さん国立大学に合格されるような優秀な頭脳の持ち主で、なおかつ心優しい好青年たちばかりだ。そんな才能の持ち主が、能をやってみよう! と思うのだから、鬼に金棒だ。悪いヤツはいない、が僕の持論。

大学生活にはいろいろあるだろう。勉強一筋で一流企業に入社か家業の医者を継ぐか、はたまたアルバイトに明け暮れて金を貯めて会社を設立、中にはその日その日の生活のためにという御仁もおられるかもしれない。

今、運動部や文化系のクラブや部活動に入り4年間熱中するというのは難しいことなのだろうか、それとも流行らないのか?
人それぞれの生き方があるから、私がとやかくいうことではないが、50歳を過ぎると世の中の裏側も少しずつ見えてくる。
いずれくる就職。いま企業や社会は学生に何を求めているか?

アルバイトで頑張ってきた学生や勉強一筋の超優秀な若者を採用するのは当然だが、実は会社というのはしたたかで、それは単に保険程度にしか思っていない。一時的な採用基準、その場しのぎにしか考えていないのだ。
では、欲している人材とは?

人をまとめる力と広く世界を意識し、なおかつ文化を大事にする考えをもった人、そういう人は引っ張りだこ、すぐにスカウトされるという。
勉強が出来るという一枚のカードだけではなく二枚、三枚のカードを持つこと。

阪大や東北大の喜多流愛好者の学生さんには、是非、結束力、協調性、日本伝統を守る文化意識というたくさんのカードを持ってほしいのだ。
それは決して損ではない。学生生活に後悔しないことだ。
それが判るには人生の半分? 50年かかるが、優秀なあなたがたなら、いま気がついてもいいはずだと思うのだ・・・。

平成18年6月記

子方のギャラ投稿日:2018-06-07

収録が終わると出演料が出る。嬉しい瞬間だ。今は振り込みでなんとも味気ない。が、やはり私は現金でチャリンと音がしても直接手渡される方がいい。以前放送業界は出演料を支払う部屋があり、無事収録が終わると担当者がそこへ案内してくれ、中で名前を言うと手渡されたものだった。

子方時代の収録で思い出すことは、「子どもに現金支給はいけない」というNHKのお考えで、いざご褒美と喜んでいたら、「このガラスケースに入っている品物から好きなのを選んで」と言われた。
見ると欲しいものなどない。ご褒美は現金という相場に慣れていた私が「えっ! ここから選ぶの? 好きなものなんかないよ。ロクなものないじゃないか!」と言いそうになったとき、担当のおじさんが「ロクなものないよね、ゴメンね。選ぶの困っちゃうよねーー」とまるで私の心を見透かしたように言うのでギクリ。
渋々「これ!にします」と答えた。今、何を選んだのかまったく覚えていないが、あのときの忿懣やる方ない思いは忘れていない。自分ながら物欲が過ぎると反省します・・・。

噴水と滝投稿日:2018-06-07

公園には噴水が付き物だ。綺麗な緑の芝生に噴水はよく似合う。一方、桂離宮や修学院離宮などの日本庭園には噴水というのを見たことがないし似合いそうもない。噴水はどうも海外から来たものではないだろうか。

噴水は水の自然現象を覆して下から上へ吹き上げる、その水の動きの美しさを楽しむものだが、欧州や特に水の貴重な中近東の大富豪家たちのステータスを庭にいかに大きな噴水を沢山持てるかであるようで、それで競いあっているらしい。私は噴水も嫌いではないが、やはり上から下への流れの美ということで、滝の方に目が向く。

能で滝といえば『翁』や『安宅』『柏崎』などで謡われる「鳴るは滝の水」が思い浮かぶ。この謡のあとには舞が続く。『翁』は千歳ノ舞、『安宅』は男舞、『柏崎』では舞入の小書が付くと中ノ舞が入る。

梅雨あけして今年も暑い夏が続きそうだ。噴水も滝も見ていると涼しさを感じ楽しめる。私が見てきた滝はというと、有名なところで日光の華厳滝、滝そのものがご神体の那智の滝、立山の称名の滝、山登りに凝っていた時に見た、利根村の吹き割滝、桧枝岐にある水量日本一の三条の大滝、ぐっと規模は小さくなるがかわいい軽井沢の白糸の滝などだ。

さあ今年はどこの滝を見に行こうかなあ。そうだ『養老』も舞ったことだし養老の滝に行くことにしよう。そして、長旅が嫌いでも能に関係なくても、いつかは見たいと思うのが「ナイアガラの滝」。いつか是非行って、あの雄大で荘厳な滝をこの目に焼き付けたい。

第1話 切戸(きりど)を開ける投稿日:2018-06-07

切戸は今でこそ当り前のように使われていますが、大昔の舞台にはなかったものです。
それが寛永の頃になると、切戸を利用する演出方法が型付に記録されていると言いますから、舞台も見所も少しずつ変化して現在の能楽堂の形に落ち着いてきたことが窺えます。
出番を待つ演者達は切戸口に待機します。切戸を開けると前方は能舞台、後方が舞台裏。
切戸に手をかけるとき、舞台と舞台裏を分け隔てるこの切戸の存在が不思議に思えることがあります。


 
この度、私なりの視点で思った事、主に舞台の裏、内側からとりとめもなく綴る随筆を企画しました。それがこの「切戸口(きりどぐち)」です。
夢のような能が繰り広げられる舞台からの声だけではなく、
舞台裏の声もまた聞こえても良いのではと、口を開くことにしました。
(掲示板のように問答する目的のものではありませんので、その点は悪しからずご了承願います)

では、そろそろ切戸を開けてみましょうか。



まず、この切戸口でのお作法ですが、演者は左足より出、舞台を踏むことになっています。
さあ、能をご覧になるときに切戸口をよく見ていてください。
左足から舞台に出られる方が何人いるでしょうか?
通常、切戸は楽屋働きや手の空いている者が開閉して、演者は切戸に触れないことになっています。
稀に演者が切戸を開け、下に居て自ら閉めることがありますが、人手が足りない
ときや緊急時にこのような場面が見受けられます。

第2話 座順の今昔投稿日:2018-06-07

地謡は切戸口から舞台に出ます。脇正面から見て、最初に前列右端、最後に後列左端の順番で登場し地謡座に座ります。
地謡には地頭(じがしら)というリーダー役がいます。謡の良し悪しを決めるとも言われる重要な役割ですが、流儀によって座順が違っており、図のように喜多流でも百年前と近年では変わっています。昔、後藤得三先生が書かれる地謡の座順は、時折、今の座順とは地頭が逆になっており驚いた経験があります。おそらく喜多実先生が現在の座順を定着させたかと思われます。





 後見の座順では喜多流は橋掛り寄りが主後見で、上掛りは反対に橋掛り寄りに副後見が座ります。
観世流は後見の座順が地謡の地頭、副地頭の座順と同じで、喜多流も昔の座順ならば同じでわかりやすいのですが、現在の座順とは逆になっています。

第3話 扇の持ち方投稿日:2018-06-07

地謡座の位置につき、正座をして、扇を一旦右に置き、前に回し手を離します。謡わないときは袴の中に両手を隠し、同音の始まる少し前に扇をとります。扇の構え方には、真(しん)の構え、行(ぎょう)の構え、草(そう)の構えの三つの型があります。
写真をご覧ください。

真(しん)の構え

行(ぎょう)の構え

草(そう)の構え

※喜多健忘斎古能公の伝書に拠る

真の構えは御前之式(ごぜんのしき)の舞囃子のシテに限り、または一調一声などの格式の高い時に許されています。しかし実際は喜多流の扇の寸法が上掛りに比べ短く構えにくいため、真の構えは行われておりません。

素謡、仕舞、舞囃子の地謡は行の構えで、能の地謡のみ草の構えで謡います。

何故、能の時は草の構えなのか定説はありませんが、高林白牛口二師にお聞きしたところ「シテが扇を落とした場合に、即座に渡せるから」と伺ったことがあります。それならば前列だけでも金扇(きんせん)を持てば良いのにと思うのですが、現状は金扇ではなく普通の扇を持つことが習慣化されています。おそらく、演者と地謡の区別をつけるためかも知れません。

第4話 謡の調子投稿日:2018-06-07

謡には絶対音がありません。謡の調子(音の高低や言いまわし)は、シテの部分はシテに、地謡の部分は地頭に任されています。
一般的に、謡の調子は自由に決めて良いと言われています。
特に、喜多流は謡の調子が人によってそれぞれ異なるため、私達も謡うときに戸惑うことがあります。けれども、そこが謡の面白みであると言えるかも知れません。テープに残っている喜多流の昔の謡を聴くと、今とは違う高い調子に驚かされますが、魅力のある謡です。
しかし、いくら自由な調子で謡って良いと言っても、調子の自由が利かなくなる部分もあります。たとえば、クセの上羽(アゲハ・クセの途中でシテなどが一句謡うところ)の直後に出る地謡です。謡本には上音で謡うとあります。それでは、この部分の上音とは一体どの程度の調子をさすのでしょうか。 

『羽衣』の上羽後の謡はこうです。

撫づともつきぬ厳ぞと、聞くも妙なり東歌

ここでは謡い手の自由な調子ではなく、お笛の吹かれる森田流、高音三鎖(タカネミクサリ)、一噌流、上高音(あげのたかね)、藤田流、高音ノ三(たかねのさん)の調子に合わせることが心得です。笛の調子に近づけることで、謡は一層心地よく響きます。
上羽と言えば、私のご信頼する笛の一噌仙幸氏に教えていただいた言葉が思い出されます。

「あっくん、菊ちゃんのように謡いなよ、菊ちゃんが謡ってくれると、上羽の後が吹きやすい」

この言葉は、今でも私の大事な指針となっています。

第5話 橋掛り(はしがかり)投稿日:2018-06-07

橋掛りは鏡の間と本舞台をつなぐ長い渡り廊下状の部分です。
橋掛りの上には屋根があり、その中心に柱が通っています。橋掛りを歩むとき、私達はこの中心部に沿って歩むのではなく、右肩が中心部に位置するように、少しずれて歩んでいます。ですから、登場するときは本舞台に向かって若干左寄り(楽屋側)を歩き、揚げ幕方向に退場する場合は若干右側(見所寄り)を歩くことになります。(翁のみ例外で、真ん中を歩みます)

 
橋掛りの屋根

橋掛りは舞台に向かって上り坂になっています。太鼓座近くの橋掛りに太鼓の撥を置くと、揚げ幕方向に転がります。これが橋掛りの勾配を証明する「撥転がし」と言われる所以です。
山本東次郎氏の杉並能楽堂はこの勾配が他の能楽堂と比べて急なため、面を付けるシテ方にとっては、本舞台に出るまでが少々辛いのです。

次に、出(で=出方のこと)とその直前のお話しをしましょう。
揚げ幕が上がり前へ歩み出すとき、シテだけは右に請け(右に向いて)、影向の松(ようごうのまつ=正面先にあると想定された松。実際にはない)を見て、体勢を元の向きに戻して本舞台へ進みます。この所作は影向の松に敬意を示すための挨拶だと聞いています。
(例外にアシライ出や地謡の謡にて出る曲などは向きません)
橋掛りに立ち、出を待つ瞬間

橋掛りとの境(1)

橋掛りとの境(2) 黒い板の部分が橋掛り

『安宅』や『摂待(せったい)』などの曲では、大勢のシテツレが鏡の間で出番を待ちます。国立能楽堂のように鏡の間が広いと橋掛りの板に添って一列に並ぶことができますが、狭い場合は、見所から後方の者が見えないように列を曲げて並んでいます。
さあ、いよいよ幕の内から舞台へ出る瞬間がやって来ます。後方のシテツレは、前のツレに引かれるように橋掛りの手前まで進みます。そして、橋掛りの板に入ったところで一旦止り、一呼吸置き、気持ちを引き締め体勢を整えます。ここで意識を高めて、橋掛りの手前までの動きとは別の能の運び、歩みへ変えていきます。橋掛りの手前にいる状態のまま、ずるずるとそのまま舞台へ出て行く方を見かけると何となく違和感を覚えます。

残念ながら、いや幸いというべきか、幕の内は見所の皆様にはご覧になりにくい場所なので、その安心感が安易な出を創り出しているのかも知れません。素晴らしい舞台は、出の時に既にシテが曲の世界を創出しているように思えます。つまり、能の世界は橋掛りの手前から創られ始まっているのです。

第6話 揚幕(あげまく)投稿日:2018-06-07

揚幕は橋掛りと鏡の間を仕切る幕です。喜多流では、表地の配色が左から順番に緑、黄、赤、白、紫となっています。この五つの色は古代中国で体系化された五行思想(ごぎょうしそう)の五正色(青、赤、黄、白、黒)に由来すると聞いています。それぞれの色は、自然界の大切な五元素、青(揚幕では緑)は木、赤は火、黄は土、白は金属、黒(揚幕では紫)は水を象徴しています。木が燃えて火がのぼると、その灰が土に還ります。土には金属(鉱物)が存在し、その隙間をぬって水が湧き、草木に吸い上げられます。つまり、五行は循環するという思想で、根底には自然に対する畏敬の念があったのでしょう。鮮やかな表地とは対照的に、裏地には白一色の布が縫い付けられているので、鏡の間から見る幕は一枚の白い布に見えます。また、裏側の両端には二本の竹が取り付けられており、揚幕の上げ下げに使います。
喜多能楽堂の揚幕


竹を取り付けている部分


彦根城能舞台の揚幕



国立能楽堂の鏡の間より揚幕を見る



国立能楽堂の竹の棒



幕上げ 撮影協力 高林呻二氏 渡辺康喜氏


幕の上げ下げは、通常、若い内弟子の仕事で、私も中学生の頃からお手伝い致しました。最初に、先輩より簡単な作法の手ほどきを受けますが、特に時間をかけて指導されるということはありません。修行過程の一つとして、向かいにいる先輩の所作を見ながら、実地経験を積み重ねて心得を身につけていきます。
幕の上げ下げにも、上手な良い上げ方とそうでないものとがあります。上手な上げ方は、幕が左右同時に捲れるように上がり、演者が浮かび上がるように見えるものです。反対に、左右のバランスが悪く、いかにも二本の竹で掬い上げているようなときは良くありません。幕が上手に上がると、演者は張りつめた気を歩みにのせ安く、心地よい緊張感で舞台へと歩み出せるのです。また、幕を下ろすときは、布が滑らかにスルスルと下がることが肝心で、演者を橋掛りに押し出すような気持ちを込めてと教わりました。

幕の上げ下げに変化を付けることで、演出効果を出す場合があります。たとえば、半幕という特別な上げ方があります。元来は装束の着いたことを舞台に知らせるためのものでしたが、『船弁慶』(真之伝)や『清経』(音取)などでは幕を半分まで上げ、波間に浮かぶ知盛や夢の中の清経の存在をあらかじめ示すことで、通常とは違う演出効果が生まれます。また、『江口』では待謡(まちうたい=ワキが後シテなどの登場を待っている情況を謡う)の最中に、半幕で舟の作り物を見せることによって、後場の消息を暗示させます。


通常の半幕の上げ方

喜多流では、『石橋』と『望月』の獅子のみ、後見が二本の竹を一本の棒のように重ねて幕に巻き付け、乱序(らんじょ=獅子の序奏部分)が始まるのを待ちます。乱序になったら二人の後見は呼吸を合わせ、後シテの胸元まで幕を巻き上げ、獅子の前触れを示します。幕を床に対して水平に上げ、直線を引いたような状態で静止させると、冴えた鋭い美しさを演出することができます。太鼓がクズシの手になると、幕はいったん下げられます。そして、露の拍子(つゆのひょうし=小鼓と大鼓だけの演奏部分)に変わったら、いつもより力強い「おまくッ」の声(幕を上げる合図の声)と同時に、一気に勢いよく上げます。勢いよく幕を引き上げることで、獅子の威厳が表現でき、壮麗で豪華な躍動美を予感させるのです


写真 望月での半幕 粟谷明生 撮影 石田 裕


『石橋』や『望月』のように位の重い曲(=演じることが難しい曲)は後見が幕上げを致します。ご高齢の後見で幕上げが無理な場合は、若い未熟な者ではなく、経験を積んだ者が代行します。シテの出の微妙なタイミングを理解し、演者を舞台へ送り込むのも、私達能楽師の仕事です。
この他、片幕という開け方があります。片幕では竹の棒を使わず、楽屋働きの者が楽屋側の幕を直接手で寄せて開け、お囃子方の舞台への出入りや、アイ狂言方が途中で舞台に出られる場合に使われます。演者としてシテ方やワキ方の出入りでは、このような開け方はしません。


片幕       撮影協力 高林呻二氏 渡辺康喜氏



昔は、後見はシテが橋掛りを過ぎ舞台に入ると、自分自身で片手にて片幕を開け、橋掛りを歩いて後見座に向かったので、自身幕とも言われたそうです。現在は舞台進行上、演出上に支障があるため、これはほとんどやられていません。 
このように、いろいろな幕の上げ方、開け方があります。幕の上げ方に注意して能をご覧になるのも、今までとは違った面白さを発見できるかも知れません。

第7話 披く投稿日:2018-06-07

能楽師が初めて能、狂言を勤めるときに「披き(ひらき)」「披く(ひらく)」という言葉を使います。私も未だ演じていない曲が沢山あり、これらを勤めるときも一応「披く」ということにはなりますが、一般には習(ならい)の大曲、秘曲を勤めるときに使われます。

喜多流の私の場合でご紹介しますと、「披き」と銘打つものは、最初に『猩々乱』27歳、次ぎに『道成寺』31歳、『石橋』(連獅子)の子獅子34歳、そして『翁』39歳でした。通常、最初の披きは『猩々乱』ですが、それ以後の順番は人により異なります。

写真 披き『猩々乱』粟谷明生  撮影 宮地啓二

私は、『安宅』『隅田川』『望月』なども演じてまいりましたが、これらは今ではとりたてて「披き」と騒ぎたてることはありません。昔は20代から30代までに主要な曲は披いていたようですが、現在は諸般の事情もあり40代、50代になってようやく『翁』という場合もあります。

この披きの意味は、「芸、甚だ未熟でお見苦しいとは存じますが、一生懸命勤めますのでお許しください」ということと、先人より教えられてきました。ですから番組にわざわざ「披」という文字を記載している場合もあります。披きは能楽師としての修業の一つの節目にあたり、若き能楽師は常に次の披きの段階を目標に稽古に精進、研鑚しています。

披きの当日、お世話になる先生、三役の方々、流内の能楽師などに記念品を差し上げることがあります。よく配られる品物に扇があり、披き扇と呼ばれています。その日に披く曲目にあった絵柄で、その日のために作るのですから、貴重な記念品になります。
あとでその扇を見たとき、「これは誰々さんの披きのときのだ」と思い出されるわけです。

粟谷能夫 道成寺披き扇
粟谷明生 道成寺披き扇

ここである失敗談をひとつ、ご紹介しましょう。
この披き扇を三役(脇方、囃子方、狂言方)にお配りするときは、それぞれの流儀の寸法にあったものをお渡ししなくてはいけないのですが、ある方が全て喜多流寸法で三役の皆様にお渡ししたことがあり、後日配られた方が「申し訳ないが、うちでは使えないあの披き扇、誰か引き取ってもらえないだろうか」と嘆かれていたことがありました。これでは折角の記念品も台なしです。こんなことがないように、披き扇の作法を、後輩にはちゃんと伝えなければと思います。

第8話 女袴投稿日:2018-06-07

卒業式シーズンになると、袴姿の女子大生が人目を引きますが、袴には腰板のあるものとないものの、二種類があります。
喜多流では、かつて腰板のないものが流儀本来の袴として通用するものでした。



腰板のない袴は、板の代わりに太い帯があります。そのため、前の結び目が能装束の大口袴と同じように大きくなり、前から見ても板なしの袴だと判ります。現在は腰板のあるものが主流ですが、時代とともに美意識が変わるせいか、今は腰板のある方が格好良く写るのでしょう。ですから、年月日が経つと、また腰板のない袴が復活するかも知れません。
これをご覧になっている女性の方で、人と違うという点でファッション性を追求されている方、流行のずっと先を走りたいと思われる方は、是非、今のうちに、板なしの袴をお試しください。

写真  撮影協力 母の袴をはいていただいた横山チエ氏 (菊生会会員)

第9話 覚え方投稿日:2018-06-07

謡や舞を覚えるには、繰り返し繰り返しの稽古が基本となります。最初の段階では大きな声でしっかり謡い、舞は舞台で実際に動きながら身に付けていきます。そして次の段階に進むと、曲の主題に合わせた謡い方や舞い方へと表現を膨らませて行きます。しかし、習得中はどうしても自分にとって覚えにくい、舞いづらいというところが出てくるものです。このような苦手な箇所は、意味を考えることより先に語呂で覚るのが実情です。

父、菊生から聞いた幼少時代の話です。中ノ舞(ちゅうのまい)を舞うには笛の唱歌(しょうが)を覚えなくてはなりません。
なんと「ヲヒャイ、ヒョーイ、ヒャーリウヒ」は「おひゃい、とーふ、がんもどき」と覚えたと言います。少年の耳には唱歌が文字通りに聞こえず、こんなふうに聞こえたのでしょう。

私の場合は、森田流の五段神楽(ごだんかぐら)で似たような経験をしました。この五段神楽には七つユリという特殊な部分があります。その途中で拍子を一つ踏むのですが、そのタイミングをつかむのが非常に難しいのです。七つユリの唱歌の一部をご紹介しましょう。

「ヒヤリーーーーーーーイイヤアラ、リイヤラアーーヒヒ、ツロラ、ルリウヒャーーロラロフ、イタルラアラ、ヒュイヒャイツ、ラアラアラ…」
この「イタルラアラ」の「アラ」で拍子を踏みますが、なかなか聞き取りづらく踏みはずし易いとこぼしていましたら、充雄君が傍に来て「明生さん、ロシア人が出てきたら拍子を踏んだらいい」と言うのです。なかなかのアドバイスでした。確かに「ロラロフさん」の登場を意識すると、今までの苦労が嘘のように消えて巧く拍子が踏めます。

もうひとつ。『巻絹(まきぎぬ)』に「されば御獄は金剛界(こんごうかい)の曼陀羅…熊野は胎蔵界(たいぞうかい)…」という詞章があります。この両界曼荼羅(りょうかいまんだら)に関して、私の記憶は不明瞭になることが度々あり、「あれ、碁盤の目みたいな曼陀羅はどちらだったかな?」と、詞章を謡うたびに首をひねっていました。そんなとき、京都のあるお寺の方とお話しする機会があり、胎蔵界と金剛界の区別を忘れないコツをお尋ねしました。すると、「胎蔵界は胎蔵の字の通り、女性の身体の象徴を表したもの。そう見えませんか?となると、もう一方が必然的に金剛界になります」と、印象的で覚えやすい記憶のヒントをいただけたのです。胎蔵界と金剛界。単なる音として覚えてしまえば、意味は知らずとも謡うことができます。ただ、ほんの少しでも意味を知ったとき、その分だけ謡の世界が少し広がるような気がするのですが…。 

胎蔵界曼荼羅 – 密教の経典「大日経(だいにちきょう)」を図示したもの。子供が胎内で成長するように、真理探求の精神的な過程を示す。

金剛界曼荼羅 – 密教の経典「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」を図示したもの。真理自体を表現している。





写真左 上 金剛界曼陀羅 下 胎蔵界(NHK市民大学より)

第10話 鏡の間投稿日:2018-06-07

鏡の間は揚幕の内側にあり、演者が出を待つ場所です。名前の通り、大きな鏡が取り付けられており、装束をつけ終わったシテ方のシテのみが鏡の前で葛桶(かずらおけ=椅子のようなもの、床几ともいいます)に座れます。年配でキャリアの長い方でもツレ役では葛桶に座ることはできません。
ただし、例外が一つあります。狂言方の大蔵流では、翁に風流がつく場合に限り、狂言方でも鏡の前で葛桶に座れます。あまり演じられない曲ですが、私が唯一記憶しているのは、国立能楽堂の舞台披キのときに、翁付松竹風流があり、善竹幸四郎氏が鏡の前に座られていました。

出を待つシテはここで気持ちを集中し舞台に備えますが、待ち方は人それぞれです。気持ちを鎮めて静かに座っている方、普段と変わらない方、そわそわと落ち着かない方。また、いつもよりずっと快活にお話しされることで、ご自身のテンションを上げられる方がいらっしゃるかと思えば、苛々された様子で近づき難くなる方もいらっしゃいます。また、面(おもて)をいただくタイミングも人によって違います。早めにつけて精神統一される方、ぎりぎりまで面をつけず、周囲をハラハラさせる方。しかし、表向きはどうであれ、気持ちは本舞台に向かっているのです。

開演近くなりますと、お囃子方がシテの側に来られてご挨拶をされます。意外に思われるかも知れませんが、シテが子供で、お囃子方が年配の方の場合でも、お囃子方からシテにご挨拶があります。シテは装束の着崩れを防ぐために、座ったままで目礼するか、頭を少し下げる程度ですが、気持ちを込めて、宜しくお願いしますと挨拶します。

お囃子方はシテにご挨拶をされた後、舞台に出る前に鏡の間でお調べを始めます。お調べはそれぞれの道具の調子を確認する調律です。見所では、お調べが能の始まりの合図のように聞こえているかも知れませんが、その不思議な旋律は表現しがたい雰囲気を漂わせていることも事実です。最初は必ず笛からで、次に、小鼓、大鼓、(ある場合は)太鼓の順に調べます。興味深いお話を聞いたことがあるのですが、上手が揃うと、お調べの各道具の音が決して重ならないのだそうです。注意して耳を傾けるのも面白いかと思います。

一曲が終わると、演者が鏡の間に戻って来ます。先に幕内(まくうち)に入った演者は最後に戻られるお囃子方を正座して待ちます。シテはお相手してくださった方々、ツレ、脇、囃子方後見、地謡の皆様に、お礼のご挨拶を致します。ここで、ようやく舞台の緊張が解けていきます。

第11話 シテ方の後見投稿日:2018-06-07

能や狂言では紋付、袴姿(大曲のときは裃や長裃を着用)の後見(こうけん)が必ず後見座に座ります。お囃子方にも後見がありますが、ここでは私の属している喜多流を例にあげながら、シテ方の後見についてお話ししたいと思います。


喜多流の場合、大曲に限り三名で後見を勤めますが、通常は二名です。
後見はリーダーの役割を担う主後見(おもこうけん)と副後見に分かれており、二名の場合は正面席からご覧になって左側が主後見です(この配置は流儀により異なります)。また、三名の場合は前後二列に座りますので、前列の一名が主後見、後列の二名が副後見となります。

後見の基本的な役目は、後ろから舞台を見守り、演能が滞りなく進行するように支援することで、その役割は舞台裏から始まります。楽屋では装束や小道具の点検、装束の着付けを行います。シテが舞台へ出ると、後見は切戸口から出て後見座に座ります。舞台の進行に目を配り、作り物の出し入れ、演者への小道具の受け渡し、物着(ものぎ、舞台上で装束を替えること)の世話、時には演者が絶句した場合の助言など、具体的な役割の範囲は多岐に及びます。ともすると、後見は黒子的な役割のように誤解される場合もありますが、黒子と決定的に異なる重大な責任を背負わされています。それは、シテに大事が生じたときに、すぐに代役を勤めなくてはならないという点です。つまり、後見はシテと同格かそれ以上の技量を持ち合わせた者でなければ勤めることはできません。ですから、シテ方での位付けはシテ、シテツレ、主後見、地頭、副地頭となり、後見は非常に重く扱われています。

昔は、着付師、作り物の製作者など専門職の方がいらっしゃったと聞いています(京都だけは今も作り物を作られる方がおられるそうです)。しかし、現在はこのような専門職の方がいなくなったため、シテ方では、シテ、後見、地頭を勤められることが目標のひとつになります。つまり、舞と謡はもちろん、楽屋働きも含めて舞台全体を包括的に進行させる能力が求められており、これらを修得、把握した者が一人前の能楽師と言えるのだと思います。

写真 道成寺 粟谷明生 主後見 粟谷新太郎 副後見 高林白牛口二 撮影 あびこ喜久三

第12話 呼掛について投稿日:2018-06-07

短い台詞ではありますが、舞台の印象を決めてしまう重要な謡いですので、私達演者は気持ちを込めて大事に謡います。

呼掛とは、文字通り、物理的に離れている人へ呼び掛ける謡で、「なう」あるいは「なう、なう」という台詞で始まります。囃子のアシライは無く、シテとワキの謡だけで構成されます。父からは「なう」の前に必ず「ん」を付けて、「んーなう」と謡うようにと教えられました。「ん」を付けることで、遠くから呼んでいるような距離感を演出することができるからです。また、一字、一字の間を持たせるように、たっぷり謡うことも秘訣かと思います。

呼掛には「なう」と「なうなう」という二種類があります。喜多流の呼掛は反復の「なうなう」が殆どで、具体的には次の15曲で謡われています(他流とは異なる場合もありますので、その点はご了承ください)。

『鱗形』『烏頭』『江口』『杜若』『葛城』『熊坂』『殺生石』『定家』『東北』
『二人静』『巻絹』『六浦』『山姥』『遊行柳』『頼政』

意外なことに、一度しか謡わないのは『羽衣』と『女郎花』の2曲だけでした。

「なうなう」が「もーし、もーし」に相当すれば、「なう」は「ちょっと待って!」に近いものでしょうか。『羽衣』では「ちょっと、私の衣を触らないで下さい!」と強い調子ながら慌てたような狼狽ぶりが表れていますし、『女郎花』では「その花を折ってはいけない!」と注意を促しており、頑固で偏屈な尉の有様が伺えるように思えます。

『雲林院』の呼掛はちょっと異色です。これは幕内より、「誰そやう、花折るは…(誰だ!花を折っているのは)」とワキを見ずに歩みを進めて謡います。『女郎花』でもこの演出を行う場合がありますから、厳密に言うと、喜多流で一度だけ呼び掛けるのは『羽衣』だけだということになります。

特異な例をもうひとつ。
通常、呼掛には節がありませんが、『源氏供養』だけは節を付けて「なう、法印に申すべき事の侯」と謡います。この曲にだけ節が付くのは不思議ですが、節が付くために呼掛とは見なさないようです。

次回から呼掛にも注意してみてください。はるか遠くから呼び掛けているように聞こえてくれば、すぐにその舞台の世界に吸い込まれて行くはずです。

第13話 作り物投稿日:2018-06-07

能舞台で使う道具の一つに作り物があります。
作り物には、山、塚、宮、藁屋、井戸、舟、花見車など、実に様々な種類がありますが、予備知識なく能をご覧になった方の中には、その簡素な作りに驚かされたのではないでしょうか。作り物の材料は竹です。昔、竹はどこでも簡単に調達できたため、地方での興業にも便利だったのでしょう。また、しっかりしている反面、炙るだけで曲がるなど、扱いやすいことも素材として選ばれた理由のひとつだと思います。作り物の基本的な制作方法は、竹で骨組みを作り、帽子(ぼうじ)といわれる白いさらしを巻くだけです。帽子を「包帯ですか?」と尋ねられますが、包帯ではなく、さらし布を10センチメートル程度の幅に裂いたものです。裂いた布はまず広げて伸ばし、端からしっかり巻作って常備しておきます。竹の組み合わさった部分を帽子できっちり巻き補強しながら、竹自体を包み隠すように巻き付けます。

今でも京都では、作り物を制作する専門の方がいらっしゃると聞いていますが、京都以外は作り物の制作はほとんどシテ方の仕事になっており、修業中の内弟子や書生が担当しています。私も内弟子時代にはたくさん作らされました。最初の頃は巧く作れず、苦心の結果できあがった塚が傾いていたり、緩んだ帽子が外観を損ねていたりで、叱られたこともありました。帽子が上手に巻かれた作り物は当り前のように舞台に出てきますが、先輩から伝授された知恵や、何度も作るという能楽師の経験に支えられているのです。

作り物は竹自体を見せているものと、帽子で完全に巻いているものがあります。一般に品格のあるものは帽子で巻くというのが原則です。たとえば、藁屋には帽子を巻きませんが、宮は位が高いため全体に巻きつけています。こんなことに注意して舞台をご覧になると面白いかもしれません。

台輪

帽子で巻いた状態

塚の骨組

第14話 『国栖』の船投稿日:2018-06-07

『国栖』では前段早々に作り物の船が出されます。竹で枠を組み、底と周辺に布を張っただけなので重量はないものの、シテとツレが乗る程の長さがあるため、舞台には後見が二人がかりで運びます。
写真でご覧いただけるように、すり鉢状に縁が張り出しており、面装束を付けての乗り降りは難しく、通常の船よりは注意を払っています。また、船に布を張る場合、底の部分は格子状に枠を組むので、この枠組みが運び(摺り足)の邪魔になることがあります。喜多流では『国栖』の船に使用する布は『殺生石』の岩などに用いられるものと同じで、写真のような萌黄色です。
鮎の段が過ぎて追っ手のアイが登場する前に、子方扮する天皇をかくまう場面があります。船をひっくり返して、しばらくの間、床を這うように身をかがめた子方を覆うように隠すので、子方にとっては難儀な曲と言えるかも知れません。
喜多流で布を張った船を出す曲は『大蛇(おろち)』と『国栖』ですが、船の中に乗るのは『国栖』だけです。『兼平』『竹生島』『鳥追船』『船弁慶』などの舟は形状が異なり、布を張らないで、枠組みに帽子(ぼうじ)を巻いただけの形で登場します。


国栖の船

船の中

第15話 型付投稿日:2018-06-07

能の舞は基本の型が組み合わさって構成されています。
最初の仕舞のお稽古を思い出してみてください。
最初の曲『湯谷』では「下居」、「シカケ、ヒラキ」、「サシ廻シ」、「シトメ」、「上羽(あげは)」、
「左右」、「拍子」など、先生が説明する型の名前を聞きながら、動作を真似て覚えていったことと思います。入門当初は、型の名前よりも動き自体とその組み合わせの順番に注意が集中してしまいます。
つまり、曲の最初から最後までの動きを鵜飲み状態で覚えられる方が多いようです。
しかし、少し馴れてくると、「シカケ」という言葉を聞いただけで、左足から出ながら両手を前に突き出し、
右足をつけて止まるという動作が、反射的かつ自然に出来るようになるはずです。
こうなれば占めたものです。

6?7番の仕舞を稽古してレベルが上がってくると、型付の型の名前を見ただけで、
習っていない曲でもおおよその動きと流れが把握できるようになります。
ひとつひとつの型はさほど複雑ではありません。

たとえば、『湯谷』の場合、13の型を覚えるだけで舞うことができます。
また、喜多流の基本の型は47程度ですから、一旦覚えてしまえば様々な曲が舞えるようになるものです。
お素人の方が発表会で型(動作)を度忘れしてしまった場合など、
私たちは後ろから型の名前を告げてアドバイスします。
ですから、型の動きと名前をセットで覚えておくと、いざという時に助かるものです。

ひとつ面白いお話しをご紹介しましょう。

いつものように、父が弟子に仕舞の稽古をつけていました。
弟子の一人が『羽衣』の「笙笛琴箜篌(しょうちゃくきんくごお)…」という詞章の前で
型を忘れてしまい、立ち往生してしまいました。

父が空かさず、「身ヲ替(みをかえ)」と注意を飛ばします。
しかし、この弟子、型の名前を覚えていなかったので、引き続き立ち往生。
またまた、父が型の動きを見せながら、大きな声で型の説明を始めました。

「身ヲ替とはねーーー足を右にねじり、右に向きながら、右手は上羽の後半。
次、左にねじって正面に引きつけるーーー」と。
最後に弟子全員に「分かったね!覚えなさいよーーー!」と。

次の弟子の稽古が始まりました。
『東北』です。「澗庭の松の風ーーー」の詞章で身ヲ替のはずが、この弟子も立ち往生。
父が立ち往生の弟子の傍らで、またもや型の動きを見せながら、
振り向き様に残りの弟子たちに向かって言いました。

「このかたは?」

「ーーーーーー」

「おいっ!このかたはっ?」

「———————————-遠山さんですぅ」

仕舞を習われている方、とにかく型の名前はしっかり覚えましょう!





身ヲ替

第16話 道成寺の鐘投稿日:2018-06-07

人気の高い「道成寺」には最も大きな作り物のひとつである鐘が出てきます。

作り物は一般的に非常に簡素で抽象的とも言えるデザインが多いのですが(第13話「作り物」参照)

道成寺」の鐘は能を初めてご覧になる方でもひと目でお寺の鐘だと分かる写実的なデザインになっています。

(1) 鐘を作る
喜多流では、他の作り物と同じように能楽師自身が作ります。大曲に相応しい大きな作り物ですが、他の作り物と同じように作成の伝承を受けた者が、時には未経験者を交えて作り方を伝授しながら、若い能楽師が中心となり作成しています。
鐘が大きいのは現実的な理由からで、シテが鐘の中で後シテの装束に着替えるためです。具体的には、高さが竜頭(りゅうず)を除いて160cm程度、重量が70kg から 80kg 程度ありますが、元々、このような狭い空間で装束を着替えるのは一苦労なうえ、今の能楽師は昔よりも大柄になっているので更に着替えるのが大変です。
鐘を巻く緞子(どんす)の布を「鐘包み」と呼んでいますが、流儀によって色が異なります。喜多流では写真のような萌黄色を使いますが、観世流では紺色を使っているようです。また、鐘を吊るための竜頭も流儀によって形状が変わります。
昔は鐘の下の方に五銭銅貨を付けることがあったそうです。そうすれば、鐘を落としたときに銅貨の金属音が効果音になるからです。舞台が終わると、その銅貨はすべて作り物師への祝儀になっていました。ですから、作り物師がご祝儀ほしさにやたら銅貨を付けすぎて鐘が重くなり過ぎたため、実際の舞台で吊り上げるのが大変だったという話しを聞いたことがあります。今はシテ方自身で作っているため、このような事はもちろんありません。

下の写真は昭和60年 福岡での粟谷幸雄の道成寺の鐘作りです。
制作は粟谷能夫 粟谷明生 長島茂 高林呻二があたりました。


(2) 鐘を吊る
観世流や宝生流では囃子方が登場した直後、曲が始まる前に狂言方によって鐘が運ばれ吊られます。一方、喜多流では曲が始まってから、ワキがアイ狂言に鐘を吊るように命じる台詞があり、竜頭に渡した棒を両手で支えながら狂言方が鐘を舞台中央に運び出します。竜頭の引き綱を天井の滑車にかけると、綱は狂言方からシテ方の鐘後見に渡されます。現在、鐘は前段早々から笛柱に取り付けた鐶(かん=金属製の輪)に引き綱を結んで固定します。ただし、「六平太藝談」にもありますが、本来固定するのは後シテが出てからだそうで、以前は、前段でも鐘の位置を高くしたり、低くしたりして効果を出していたようです。また、鐶がなかった大昔は鐘後見が交替で引き綱を持ち続けていたそうですが、この事からも当時の鐘が今のものより軽量だったということが想像できます。

写真左より 滑車 金鐶 竜頭

(3) 鐘入り
「道成寺」の最大の眼目は「鐘入り」でしょう。
重い鐘が上から下へ落ちる瞬間と、シテが下から上へ飛び入るタイミングを見計らい鐘後見が綱を放します。大きな事故にもつながりかねない危険な型ですから、舞台にも見所にも緊張が走ります。「鐘入り」は流儀ごとに独自の型があり、喜多流では片手を上げ、鐘には直接触れないで、鐘の真下で拍子を踏み、飛び入ります。
鐘の中は意外と暗くなく、緞子を通して薄明るい程度の視界が確保されています。内側には左右にポケット状の袋をこしらえ、後場に必要な装束、般若面(破損した場合を考えて二面)、銅鑼(どら)、装束を補正するための糸針を入れておきます。また、装束や面の着付けの確認には、普段使いのガラス鏡では割れる危険があるので、15センチ程度の小さな銅版の鏡がよく使われています。通常、鬘(かずら)は前場と同じものを使い、逆毛を立てるようにして髪を乱し(掴み出しと言います)、憤怒、執念の象徴を表現する演出をとりますが、替えの演出として赤頭を着ける場合があります。

写真は粟谷明生、道成寺、鐘入りの瞬間  撮影 吉越 研氏


(4) 余談
鐘入りしてから、喉を潤すために炭酸飲料の詮を抜いた途端、シュポーッという音が鳴り響いたという笑い話しは有名ですが、もうひとつ興味深いお話しをご紹介します。
昔、殿様が道成寺を舞う際、鐘の中に入っても、お殿様自身で装束を替えることはなかったそうです。鐘の中には着付師があらかじめ入っていて着替えを手伝ったというのです。江戸時代の成人男子の平均身長が150cm程度だったこと、昔の鐘が今よりもずっと軽かったとしても、吊る方も吊られる方もさぞかし大変な事だったと思います。

第17話 修羅物投稿日:2018-06-07

番立の能組の二番目に舞われるものを修羅物と呼びます。
15曲程度がこの二番目物(修羅物)に分類され、大抵の曲が平家と源氏の戦がベースになっています。修羅物は大きく勝修羅(かちしゅら)と負修羅(まけしゅら)に分かれます。喜多流では、勝修羅は『八島』『箙(えびら)』『田村』の三曲、負修羅は源氏方では『兼平』『巴』『朝長』で、平家方では『忠度』『俊成忠度』『清経』『通盛』『敦盛』『経政』『知章(ともあきら)』『実盛』『頼政』です。
舞台ではこの勝ち負けをどのように区別しているかご存知でしょうか?
それは修羅扇の模様に表れています。勝修羅扇には松、旭日、霰文の文様が金箔地に描かれ、負修羅扇には波濤(はとう)に入り日の文様が基本です。


負修羅扇

勝修羅扇

修羅物では、シテ演ずる武将の戦時の出立ちには白い鉢巻と梨打烏帽子(なしうちえぼし)が欠かせません。烏帽子の先端は左右いずれかに倒します。倒し方は勝ち負けで区別するのではなく、演者の烏帽子の左折りが源氏、右折りは平家という決まりがあります。
したがって、源氏の左折りは『八島』『箙』『兼平』『巴』『朝長』、四番目物(雑物)では『七騎落(しちきおち)』。平家の右折りは『忠度』『俊成忠度』『清経』『通盛』『敦盛』『経政』『知章』『実盛』、四番目物では『盛久』になります。

> 能 清経 右折梨打烏帽子 演者  粟谷明生

さて、ここに困った曲があります。『田村』です。坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)の時代は平安時代初期、源氏も平家も関係のない戦ですが、現在は勝修羅三曲『八島』『箙』『田村』として左折りにしています。

修羅物の中で特に位が高く、重い曲として扱われるのは『朝長』『実盛』『頼政』の三曲で三修羅と呼ばれています。『実盛』『頼政』は老武者を演ずるため、『朝長』は前場が現在物として青墓の長者という中年女性を、後場を若き男性、朝長をと演じわけるところが大曲と言われる所以です。

修羅物で使用する面は、武人を強調する場合は「平太(へいた)」を使用します。たとえば、『八島』『箙』『田村』『兼平』がそうです。平家の公家、貴公子には「中将(ちゅうじょう)」、「十六(じゅうろく)」「今若(いまわか)」などを使用しています。特異なものでは、『頼政』の専用面「頼政」、『実盛』は老体を表した「三光尉(さんこうじょう)」、巴御前を主人公にした『巴』は小面を用います。

第18話 素謡の作法投稿日:2018-06-07

素人会の素謡、連吟に出られた経験をお持ちの方で、特に参加経験の少ない初心者の方は退出時のお作法がうろ覚えのままになっているかも知れません。
本来、素謡は無本が原則ですが、ここでは見台を使う場合の作法について説明致します。また、参考図では10名が3列に並ぶ場合を想定しています。
お仕舞と同じように、舞台上では謡以外で声を出すことは厳禁です。

(1) 見台を並べる
参加者が舞台の準備を行う場合、見台の並べ方に注意してください。
中心を目付柱と笛柱の対角線から少し左側にそれた位置に置きます。すなわち、中心はやや正面寄りにずれた感じになります。時々、見台を目付柱のすぐ手前から並べる方がいらっしゃるのですが、これは間違いです。大人数の場合を除いて、ワキ柱とシテ柱の対角線前後を前列にすると良いでしょう。

(2) 舞台に入る
下図「舞台に入る」をご覧ください。番号は切戸口から出る順番です。




まず、謡本と扇を持って出ることを忘れないでください。
謡本を懐に入れて出る方もおられますが、襟が乱れやすいことと、女性の着物では実際的な方法ではないことから、男女問わず左手に持って出るのがよいでしょう。
扇は腰の左側に挿します。男性は袴の下の角帯にはさみ(写真 1)、女性は着流しの場合は帯にはさみます。
最前列左端より見台の前に順次座ります。

(3) 座ってからのお作法
舞台に入ったら見台の前に座って、まず最初に謡本を見台に置いて謡う箇所を開けてください(写真 2)。
次ぎに右手で扇を抜き(写真 3)、右側に置きます。
ここからは出演者一同、揃えて所作を行うときれいに見えます。右手で扇の真ん中を持ちます(写真4)。
右手で持った扇を床に滑らしながら、左膝の当たり出した左手で受けます。このとき、扇は持ち上げないで床に滑らせてください。
このとき、扇は右側が要になっています。右手を扇の要まで戻し、扇から手を離して、両手を腿の上に乗せます。
謡わないとき、女性はこのまま腿に手を乗せたままですが、男性は袴の中に手を入れます。
謡う三句前で両手を出し、二句前で扇を取ります。扇をとる場合、両手同時に左手は扇の先に添え、右手はかなめを握り、腿に乗せます(写真 5)。
自分の謡う箇所が終わるとまた扇を床に置き、謡う箇所の始まる前に扇をとる、というこの所作を繰り返します。
謡がすべて終了したら、扇を両手で置き、右手で扇の真中を持ち、右に回し扇を腰に挿し、謡本を閉じます(写真 6)。

(4) 舞台から出る
下図「舞台から出る」をご覧ください。番号は切戸口から出て行く順番です。



左手に謡本を持ち、右側に両手をつきながら(写真7)、身体の位置を右に向けて、右膝を床につき順番を待ちます(写真8)。
前の人が立ち上がってから、立ってください。戻る順番は、今度は最後列からになります。出るときと同じように静かに退出しましょう(写真 9)。

写真1

写真2

写真3

写真4

写真5

写真6

写真7

写真8

写真9

喜多流の謡1投稿日:2018-06-07

大正14年に発行されました、「喜多流の謡」という小冊子が発見されました。
喜多家や喜多流の謡について詳細に書かれています、是非喜多流愛好家の方々にも読んでいただきたく粟谷能の会ホームページの切戸口に記載することにいたしました。徐々に更新していきたいと思います。まず第一話は声の事についてです。◇ 声 之 事
 謡は声楽の一種であるから、声が大切であることはいふまでもない。古能先生も亦謡は声を以て謡ふものであるから、先づ声の出し様を初に知らねばならぬと言って居られる。果して我が喜多流の謡の教へ方は、先づ声の出し方、使ひ様から教へられているであらうか。
 古能先生は、声の出し様、使ひ方を詳しく説かれた後に、其の生れ附きで声の善悪があるのではないから、声の出し様、使ひ様さへ修業すれば、当流では人々生得声の悪いといふことは決して無いのであると断言して居られる。
 声は流義に依り出ると出ぬとの区別がある筈は無いから、当流云々といふのは可笑しいやうであるが、其所が一流太夫の見識で、当流の修業法に遵へば声の出ぬ人は無いぞよと言はれた点が豪いと感心させられるのである。
 声の出し方に就いては、先づ体の構が肝心である。寝ていたり、屈まっていたりして良い声が出るものでない。先づ端座して、膝を割り、足の大指を重ね合せて、其の上に腰を据え、背筋を真直に伸ばし、胸を張り、脇の下を開き、手首を膝の先に置き、少しく前へ掛り気味に体を構へ、一間程先の下へ目を着け、口を塞ぎ、息を鼻から十分に臍の下の丹田へ引入れるやうにしなければならぬ。口から引込んだ息は、浅く咽喉の所で止るから、其の呼吸は短くて声に力が入らぬ。口を塞ぎ、鼻から背筋を通して深く丹田へ引入れた息だと、所謂腹から声が出るので、力の強い声となるのである。声の本は息の継ぎ方にあるといふことを忘れてはならぬ。
 扨十分に丹田へ引込んだ息で声をどういふ風に出すかといふに、無論口中で其の声の捌きを附けるのであるが、其の声を咽喉へも、舌へも、鼻へも、腮へも、どこへも当てぬやうに、旨く、円く、珠をころがす様に出す工夫をしなければならぬ。浮いた甲ばった声は舌の上と上腮の間で扱はれるのであるが、下掛りは土台呂を主とするので、舌と下腮の間で捌き、これを唇で塩梅よく送り出すやうにしなければならぬ。上腮に当る甲の声はフウッと吹き出す冷めたい息から発し、下腮で捌く呂の声はホウと内へ抱へるやうに出す温い息から発するのである。此の呂から発した温かな息の声を力を籠めて張る時は、薄ぺらに甲ずらず、厚く円く余韻ある麗しい声が品よく出るのである。これが下掛りの特長で、浮いた、ぱっと外へ出る声は、張れば張る程品が悪るく、所謂馬鹿声となるのである。
 声は太過ぎるのも悪いと古能先生も戒めて居られる。外へ出る浮いた声は、太いやうでも薄ぺらで、余韻に乏しく、遠音をささぬ。丹田から出て温い息から発する声は、円く厚く余韻があって遠音をさす。
 声に力を入れようと思ひ、咽喉に当るとイガリ声となって濁る。声は人の耳に入って良い感じを与へるものでないと、大きくなれば大きくなる程、喧がしくなって不愉快を感ずる。蝉の声は松虫より太いが、人がこれを聞くことを好まぬ。烏や鳶の声は鶯より太いが、誰も其の声を聴かうと望むものが無い。太くても喧しい声は噪音といふ。噪音は音楽には禁物である。麗しいうちに力があり、太いうちに艶があり、うるほひがあり、さびがあり、力があり、余韻があり、円く、厚く、強く、麗しく、所謂珠を連ねたる如きを良い声といふのである。
 丹田から出る温い息で乙の声を出すには練習を要する。パッと外へ出る浮いた声は普通の声であるから誰でも出来るが、丹田から繰出す声は始めは声がカス々々して出にくいから、勢が無いやうで失望する。先づ始めは、「クセ」の様な下音の所で、口を尖らさぬやうに、口を横に切る様に、声を甲ずらさぬやうに、幅広く、乙に、腹の底から出すやうにして、凡そ三十日計りも絶えず練習していると、其の声に実が入って、底力のある声が出て来る。一度此の味を覚えると、甲ばった声は馬鹿々々しくてだせぬやうになる。此の練習は初のうちは声がカス々々して勢がなく、次には息苦しく、咽喉から粘い啖が出たり、咽喉がイガ々々して声が嗄れたりするが、それに頓着せずに、練習を続けていると、カス々々の声に底が出来たやうな気になり、次第に其の声に力が入って来る。即ち下音に余韻が出て来て、低声が遠くへ響くやうになって来るのである。ここに於て始めて練習された謡声が出来た訳で、此の練習を重ねぬ声は、謂はば普通の声で、太い声を出す時は謡ふといふよりも叫ぶといふ方に近くなるのである。練習されぬ声で怒鳴っている間は、謡本を銅鑼声で読んでいるといふ方が適当なのかも知れぬ。声の使ひ方の稽古の行はれるのが、謡の進歩の第一要件ではあるまいかと思はれるのである。
 細い声を太めるも、出にくい声を出易くするも、共に練習を積まねばならぬことで、修業一つで其の目的は達せられるのであるが、太過ぎる声を細くし、出過ぎる声を調節するのも亦修業に依らなければならないのである。
 古昔から声の良過ぎる人は真の謡は謡へぬといふが、これはよく穿った詞で、声の太い人は、素人側からは良いお声だとか、御調子がお楽だとか褒められるので、いい気になってこれを調節する事を忘れる。出過ぎる声には必ず病の伴ふもので、嫌味がさすとか、声に癖が附くとか、謡が放漫になって締りがなくなるかするものである。或講談本に、荒木又右衛門は五十二人力の強力だったので、柳生十兵衛の所で修業中、其の打込む太刀を、誰も受け止めかねる程であった。或日十兵衛が、高弟某に向ひ、彼の荒木に力があり過るので術の修業の邪魔になる、あの力を出さぬ工夫をして修行せねば名人にはなれぬと話していたのを聞いた又右衛門は、師匠の後影を伏し拝んで退き、其の後一切力を出さずに修行に励んだので遂に並ぶものなき剱術の名人となったといふことが書いてあった。これは決して剣術に止まる事ではない。声の有り余る謡人なども、其の声を調節して弊を防ぐことに注意せぬと、真の謡にはならぬものである。
 他人と連吟して我が声のみが聞えるのを得たりと自慢する人があるが、これは大間違ひで、他人と共に謡ふ時は、三人なり五人なり、将又十人二十人でも、誰の声と分らぬやうに総ての声が調和せねば、真の連吟とは言へぬのである。多人数と謡ひ、我が声が耳立って聞えるのは、他人と調和の出来ない病が其の声に附いているからである。
 声にも数々病がある。高く甲ずるのを「ヒバリ」といひ、これに反して乙のみで地の底を這ふ如きを「ムグラモチ」といひ、吟があって噪がしいのを「セミ」といひ、太い計りで締りのないのを「ダダラ声」といひ、粗雑で放漫なのを「ワレガネ」といひ、艶に過ぎ嫌味のあるのを「ヨタカ」といひ、浮いて太いのを「馬鹿声」といふ類である。太からず細からず、他とよく調和し、円く、麗しく、底力があり、余韻があり、遠音をさすのを以て良い謡ひ声をいふのである。

喜多流の謡2投稿日:2018-06-07

◇ 息 継 之 事
 息継の事は前にも述べたが、これは最も大切なことであるに拘らず、教へる方でも習ふ方でも余り重きを置かず、口でスウ々々と音をさせて平気で謡っている向が多いやうである。口で吸った息は腹の底を通るものでなく、咽喉で止まってしまふのである。区切りの外一寸口切りして息の不足を補ふ場合は、鼻から取っていては間が伸びて拍子に外れる恐れがあるから、手取り早く口から吸ふ外はないのであるが、それとてもスウと音をさせるのは悪い。音を立ず、謡も切れぬやうに、又成るべく人に知られぬやうに、密に手取り早くしなければならぬ。所謂息を窃むので、公然と息継をするのではない。句切りの間に十分に鼻から呼吸することに慣れると、此の間に十分息を吸ひ取っているから、一句々々の間で息を窃むやうなことをしないでも済むのである。句切りの間に口を塞いでしまひ、鼻から丹田へ十分に息を取り入れることに慣れると、第一声が豊富になり、息が長く続き、声に力が入り、謡が寛たりと楽に謡へるやうになるのである。此の息継の仕方に慣れぬ間は、とかく口から息を吸ふので、スウ々々音を立てたり、息が短かくて度々吸はねばならぬ事になり、謡もせせこましく狭くなってしまふ。謡ふ前にも十分に息を丹田に入れて置き、句切りで直に口を塞いで鼻から十分に息を吸ひ込み、丹田に納まった息で十分に腹の底から声を出すことを、これ亦よくよく練習しておかないと、忙しくなって此の作用が十分に働いて来ぬ。謡の本は声に在り、声の本は息継に在るので、此の修業を怠っては、本当の謡はうたはれないといっても決して過言ではないのである。
 又息継は謡の位にも関係がある。謡の位の重いものは緩やかに重く謡ふとはいへ、謡っている間だけで位を重くしようと思ふと、謡がダレてしまふ恐れがあるから、句切りの間で此の位を取ることが、肝要である。初心の人はとかく此の句切りの間を焦って、息継を十分にせぬから、謡が忙しく狭くなってしまふのである。此の点から見ても息継といふことは謡に取りて最も大切なことである。
 又句切りの所でなく、一句の間で息を継ぐ事、即ち息を窃む場合に注意をしないと所謂「キナタ」訓みとなって、謡の文句の意が通ぜぬことがある。キナタ訓みとは或人が五條橋千人斬の事を書いた絵本を読み、弁慶がなぎなたを持ちてとあったのを、弁慶がな。きなたを持ちてと読んだので、長刀を持って居った意味が通じなかったといふ句切りに就いての譬へ話である。謡に見ても、鞍馬天狗の「其の如くに和上らうは」は文句通り「和上らう」と謡ふことの難かしい大切の場所であるが、かやうに難かしい所でないのに不注意の為に、聞いて居て何のことやら意味の通ぜぬ息継ぎをする人が少くない。「花橘」と続くべきを「花」と切り「橘」と謡ひ出すので「花橘」といふ成語がわからなくなったり、「夕まぐれ」と続くべきを、「夕」と切り「まぐれ」と謡ふ為に「夕まぐれ」といふ詞が割れてしまふ類である。道行や初同の打切前の「まだ夜ぶかきに旅立て」を「旅」で口切って「たちて」と謡ったり、「雨を帯びたるよそほひの」を「よそ」で口切り「ほひの」と謡ふなどは実際よく諸所で聞かされる不注意な謡方である。(未完)

喜多流の謡3投稿日:2018-06-07

■ 謡の道しるべ
◇ 謡 は 詞 と 節 と よ り 成 る
 謡は節のある所と無い所の二つから出来ていて、節の無い所を単に詞といふ。詞は節が無いだけ簡単であって、謡の習ひ始めの人などは、詞といふと謡ひ易いと安心してかかるが、詞にも数々種類がある。節といふ程のものはないとしても、抑揚があって一種の曲節がつき、心持などは反って節の所よりも多く、結局は節といふ助けのないだけに謡ひ難いものとなって来るものである。詞の難かしいことがわからぬ間は、まだ謡は初心の境を脱せぬといって良いのではあるまいか。◇ 役 に 就 て 夫 々 心 得 が あ る
 詞の種類も数々に別れるが、先ずシテ、ワキ、ツレと役前に就いて夫れ々々固有の区別がつく。シテといっても、其の能柄と人物とにより種々の別のあるのはいふ迄もないが、たとひ男であれ、女であれ、老人であれ、若い者であれ、貴人であれ、下賎であれ、シテ役といふことに就ての固有の謡ぶりは一つ定ったものがある。其謡ぶりは却々細いことで、これを筆の力で顕すのは容易に出来ることでないから、良い師匠に就いて習ふ外はないのであるが、先づ其の大要を言へば、シテは其の能の主人公だけに其の固有の位を以てシットリと謡ふべきである。ワキは之れに反し、元来がシテの脇立となってこえを佐けて行くべきであるから、シテに位を譲り破の心得を以て、ガラリと砕けて強く謡はねばならぬ。例へば鉢木の如きは、ワキは行脚僧とはいへ時の執権最明寺時頼であり、シテは落魄せる一郷士に過ぎぬのであるから、其の位に於てワキの方が遥かに上に居ること勿論であるが、其の人物の位と役柄の位とは自から別で、ワキは品よくシッカリと謡ふうちにも強く砕けた所があって脇役たる固有の位を失はず、シテはサラリと謡ふうちにもおのづと其の能の主人公たる位を持して役柄の重きを失はぬ。土車の主人と家来といひ、正尊の弁慶と土佐坊といひ、其の人柄と役柄との区別を謡ひ分けるのが詞に就いて最も大切なことである。ツレは又軽いといふのが持前の位で鉢木のツレは女であるから、決して荒々しくは謡はれず、女らしく静かに謡ふが、其の静かのうちにツレだけの位で軽く謡はねばならぬ。静かに軽くといへば矛盾するやうであるが、これは確かに出来ることで、其の呼吸を覚えれば何んでもないのである。位といふものは謡全体に渉ることで、筆の上で其の謡方を示すことは至難であるが、多くは謡ひ出しと当て所と謡切りとの所で其の別がつくので、ノベツに位をつけやうと思ふと、謡にハコビが無くなってダレてしまふ。シテ、ワキ、ツレの謡ひ分けは多くは詞の頭と臀と中の当て所とにあると思へば大差はない。

◇ 人 物 に 就 て 謡 方 が 違 ふ
 男女、老若、貴賎等其の扮する人物に就いて其の詞の謡方に差が生ずる。節の所も勿論であるが、節のある所は、又節に就いての謡方があるからここでは先ず詞に就いてのみいって置かう。男といって一様には行かぬが、要するに男物は詞がスカリとして少しも撓みがない。隨って当て所も堺目を正しくキッパリと当てるのであるが、女はこれに反し、全体にシンナリと丸く謡ふと共に当り所もどことなく丸く当ててフウワリと謡ふ。即ち男物はいか程静かに謡ふものでもノリがなく、女物は軽いものでも必ずノリを附けて謡ふ。老翁もノリの附かぬ所は男物に似ているが男物程に強く無い。同じ老翁といひ女といっても、其人や能柄に依って決して同一でないが、其の心持はよく面に顕れているから、面を見て工夫すればよく其の心持がわかる。

◇ 謡 の 位 は 意  で 定 る
 謡には種々の人物が顕れているものであるから、これを謡ふに就いては各其の気位を表彰せねばならぬのである。けれども能役者とて天子様になったことも無ければ百歳の姥となったこともないのであるから、どのやうな謡方をすれば果して天子様らしく聞えるか、どんな声を出したらばよく百歳の姥たることが出来るか、いはば唯想像に止まる計りで実際の経験はないのである。其のうちにもまだ天皇とか老女とか言へば人間界の事であるから幾らかの想像もつくが、神霊とか草木の精とかいふと殆んど想像にも及ばぬものがある。且つ謡といふものは唯自分で謡ふ計りでなくこれを他人に聞かすべきもので、老女だからといって小さい声を出したのでは、広い所に居る千人二千人は勿論、百人二百人にも聞えぬ恐れがあるから、声は十分隅から隅まで聞えるだけのものを出して、其の上で老女は老女、草木の精は精と聞えさせねばならぬ。写実的に声を小さくするとか優さしくするとかいふのでは、謡として其位を示し得たといふことは出来ぬ。然らばどうしたら良いかといふと、そこが所謂芸術としての鍛錬を要する所で、熟練の結果意気の其の所に至ることとなるので、口で言ったり筆で書いたりした教授法でそれが得らるる筈のものでない。能役者は学者では無いから、此の作はどうのかうのと理屈の上から其の能の心髄を極めたものはないが、多年代々の先輩が研究の上にも研究して、次第に後世に伝へたうちに自然と其の心髄に合して、よく其の能柄役柄を写し出すだけのものに出来上っているのである。人には天性に声の良い人もあれば悪い人もあり、能役者といっても人間であるから悉く声があるともきまらず、中には随分銅鑼声のものもあるが、其の銅鑼声で楊貴妃とか静御前とか美人の面影を写すことも出来れば、又皺嗄れ声で、天狗とか鬼神とかいふものの荒々しい趣きを示すことも出来るといふのは、全く其の意気込一つにあるのである。其の意気込といふことが、一場の理屈や一時の工面ではゆくものでないから、真によく其の位を写すだけの謡人となるには、多くの鍛錬を重ねなければならぬのである。
 謡には其の顕れる人物に就いて夫々位がある外に、又其の文句に応じて夫々心持を謡はねばならぬ秘伝がある。即ち一句の内にでも主眼として活かして謡はねばならぬ文句があるのである。其の為には拍子の附け方にまで注意を要する。其例を挙げて見れば、彼の松風の吹くや後の山おろしの如き後の山と後ろをふり返り見る趣きを顕す為め喜多流では特に四ッ地と称して鼓の手を一粒伸して余計に引いて謡ったものである今は四ッ地にはせぬやうなれど長く引く心持に変りはない又弱法師の「春の緑の草香山」といふ所は「春」といふ字も「緑」といふ字も「草香山」といふ字も活かして謡はねばならぬのであるから、「草香山」といふ字が隠れぬやう小鼓の三ッ地の頭を「ホ」と一つ打たせて置いて、あとから別段に「草香山」と謡ふと能く草香山の文字が顕れて判然と聞き取られるのである。
これに反して、彼の大原御幸のシテの出の謡の「山里は物の淋しき事こそあれ」といふ文句では、唯「し」の字一字の謡方で其の文句の意味がよく顕れると否とになるのであるから、「し」の一字こそ実に此の一句中の生命である。謡といへば唯一口であるが、真の謡といふものを謡ふといふことになると、一番の謡には其の一番に就いての大体の心得があり、一番中其の役々に就いて各心持が違ひ、一句々々其謡方に就いてチャンと極った口伝があるのであるから、それだけの習練を重ねた上でなくてはならぬのである。

◇ 謡 は 詞 が 大 切 で あ る
 脇には一切女といふものがなく、又面を被るといふこともないから、シテに比して変化に乏しく簡単なやうであるが、脇の働きは多くは此の詞にあるので、詞の謡方に就いては大いに心得て謡はねばならぬ。先づ高砂とか老松とかいふ脇能の名乗りとなると、始めの「抑も是は九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成とは我事なり」とか、「抑是は都の西梅津の何某とは我事なり」とかいふ所は、詞の内でも声と号して普通の詞と謡方が違って居る。「我未だ都を見ず候程に」とか、「我北野を信じ」とかからが普通の詞となって居る。これは脇能に重きを置く所から出たのであるが、同じ詞といへば、名乗には名乗らしい謡方があり、問と答とでは其の心持が違ひ、待謡には又待謡の風があり、語は本より一種の謡ぶりがあり、殊に詞に上下の別が正しくあって、其の心持がよく顕はされている。これらの事は決して流儀に依り差のある筈のものでなく、よく心持の顕るるが良いに相違ないのであるが、昔は素謡といふことは今日の如くに流行せず、シテ方の流儀では、脇の謡所などには余り注意を払ふ必要が無ったから、或流儀の如きは、脇の謡は唯サラリと謡ひさへすれば良いといふので無造作に謡ってしまったのさへあった位であったが、今日の如く素謡が流行し、謡の吟味が届いて来ては、これらの事もよく吟味して、詞の意味のよく顕はさるるやうに謡ふのがいいに違ひない。

◇ 詞 と 節 の 堺 目
 詞には節がないといふものの、唯素読のままでは面白味もなければ心持も顕れぬから、一句毎に抑揚を附け、中に一ヶ所は必ず当て所がある。下の詞になると頭から当てて押へて出るから、当る場所は一ヶ所に止らず三ヶ所又は四ヶ所ともなる。これ又一種の節ともいふべきで、既に謡といふ以上は繁簡の別こそあれ、何れも皆曲譜のあるものといふべきである。且つ中には詞の内に節附があって、央は詞、央は節となって居るのもある。例へば鉢木の「仙人に仕へし雪山の薪」とか景清の「両陣を海岸に張って」とかいふ類で、終りの一字又は数字に節附のあるのもある。而して詞から節に移る時には、其の詞の終りには必ず気を持ち、重く押へて、ここで詞が終って節に移るといふことを示す。これは何流でも同じ事で、詞は普通に謡ひ飛ばして木に竹を接いだ様に節となるのは、巧者な謡方とは言はれぬのである。

◇ 習 は ぬ 謡 は 直 ぐ 分 る
 近時謡の流行が盛んな為謡の師匠が欠乏し、習ひたくとも習へないので、器用な人は他の謡の聞覚えや、又は推して知るべし主義で良い加減に謡ったりする向きもある。又習ふ方では殊勝に師を頼んでも、其の師匠が十分に稽古せぬ似而非師匠である為に間違ったことを教はるので、正当の規矩を守ることを知らぬといふ憐れな向もあって、謡を聞く度に感涙ならぬ涙のこぼれるやうなことが_々ある。併し如何程器用な人でも、習った謡と習はぬ謡とは少しく聞いて居るうちには其の化の皮が忽ち顕れるにきまっている。其の証拠となるべき個條は数々あるが、先ず下の三ヶ條が最も早い証拠である。

◇ 文 字 を 読 違 へ る 事
 同じ「老少」を夜討曾我では「ローショー」藤戸では「ローセウ」と謡ふといふ喜多流の定めの類は特別として、謡には一番毎に何所かに一箇所や二箇所は普通に違った読み方があって、習はずに謡ったら必ず間違ふ。又流儀に依って読み方の違ふのもある。例へば、敦盛の「蓮生法師」を、観世流では「レンセイ」と読ますが、外は多くは「レンセウ」と読む。養老の「長生の家」を「ナガイキの家」と謡ったり、半蔀の「雨憲原」を「アメケンゲン」と謡ったのは字の読み違いではないが謡では
間違って居るので笑を招く種となる。「息女」を「ソクヂョ」と読むと「ムスメ」と読むとは同じ一番の謡の中でも所に依って違ふ。「仰せらるる」といふのも、「オオセ」と伸すもあれば「オセ」と詰めるもある。かやうのことはいかに学力があっても、器用でも、習はずには知ることは出来ぬ。其の他節扱ひなり、合方に至ってはどうしても稽古しなくてはわからぬ所が数々ある。元来稽古せずに謡を謡ふのは、法律を知らずに法廷に出たり、地理を知らずに旅行をするのと一般で、大胆と言はうか、無智と申さうか、芸道から見て甚だ不親切千万なことである。何事によらず知った振りをするといふは悪いことで、必ず赤恥をかくものであるが、万事心得た人で、謡となると往々此の赤恥をかいて覚らぬ人があるのは実に片腹痛いことである。

◇ 謡 の 位 が 違 ふ 事
 謡の位は其の能柄と文句柄によって定まるのであるから、文学上の知識のある人で、よく其の文字を味はへばわかる筈ではあるが、併し数百年の間に専門家の研究して定まった位には、なかなか深遠な意味があって、普通の学才で判断したのでは容易にわからぬ所があるから、どうしても専門家に就いて学ぶ必要がある。然るに前項に述べた如く、師匠が悪いか、稽古が足らぬか、其の人の横着か、とにかく学ばずして謡ふ時は、其の位が備はらず、急い所が遅かったり、静かなるべき所が速かったりして、謡の沈着がつかぬ、聞く人が聞くと、其の位といふことで正当に習ったものか否かといふことが忽ちに判定されるのである。

◇ 謡 に 沈 着 の な い 事
 謡には安心といふことが必要である。此の安心は何から来るかといふに、結局熟練といふことから来るので、熟練するには稽古がいるのである。いかに横着な人でも、習はぬ謡をこれで良いと安心はすまい。悪いと知りつつ間に合せてやるから、豪さうに謡って居るうちにもどうしても安心が出来ないので謡が沈着ぬ。沈着ぬ謡はガサガサして聞かれたものでない。謡の沈着といふことでも、習った謡であるか否かといふことはよくわかる。「未完」

懐かしい食堂車投稿日:2018-06-07

国立劇場おきなわ開場記念公演で初めて沖縄に参りました。沖縄は、東京から飛行機で2時間半、北京が成田から3時間と思うと、沖縄の地までの距離を改めて感じました。

交通機関の発達は目覚ましいものがあります。
祖父、益二郎や父、菊生の若い時は、九州を始め、みちのくや北海道へのお稽古には大変な時間を費やしました。
昔、父は札幌の稽古場へ夜行寝台車で行っていました。夕食、朝食、昼食、夕食、朝食と5回も食堂車のお世話になったとの話には、その道のりの長さを感じさせられます。その代わり、当時は移動時間が長かったため、その間に咽を休ませることが出来たのだと父は言います。今のように沖縄でも北海道でも日帰りが可能になると、ついつい仕事を入れ過ぎて無理をし、気づかずに身体を壊していく、自分で自分の首を締めているのかもしれません。

話題を食堂車に当ててみます。
子方時代、広島公演には特急「あさかぜ」「はやぶさ」など夜行寝台車に乗って参りましたが、その時食堂車での夕食が楽しみでした。私はエビフライが好物で必ずオーダーしていたので、「海老のあっくん」と呼ばれるようになり、今でも海老を食べると「変わっていないねー」と周囲からひやかされる始末です。

青年時代はまだ飛行機の便数は少なく、特にみちのく地方は電車、汽車という時代でした。
伯父の故新太郎の青森や秋田の会は、旧国鉄で奥羽線や陸羽西線、上越線と一日かけてののんびりとした旅であったことを思い出します。帰京は食堂車で朝食をとり、昼もまた食堂車に向かいビールで乾杯! 日本海を見ながら食事を楽しむうちに、いつの間にかテーブルの上はサントリーオールドウイスキー・ミニチュアサイズが山のようにころがっていました。
スポーツから、芸談へと移り変わる大人の話に耳を傾け、酔うほどに自分も生意気にしゃべっていたなと思い出すと、なんだか恥ずかしいです。

以前、東海道新幹線には食堂車が有りました。合理化の時代なのでしょう、今は廃止され寂しいかぎりです。
京都や大阪、広島の公演を終えて新幹線で帰宅するときは必ず、食堂車に集まり、ビール片手に食事をしながらその日の舞台の話に花を咲かせました。若者はまず真っ先に食堂車に向かい席を陣取り、先輩の席を確保する、それがお決まりでした。
お酒もすすむ程に話も次第に佳境に入り、周りのお客様がこちらを気にするぐらいになったら最高潮です。声が大きくなってきたらもう大変。どうしてかくも私の周りの能楽師は呑んだら声が大きくなるのかと思いますが、自分も同罪だと反省しております。
「今日の能はあーだ、こうだ」と話が始まると、あっという間に熱海が過ぎ、テーブルには何枚もの勘定書きが並びます。支払いはその時の年長者、これもお決まりで、諸先輩には散々ご馳走になりました。これからは私が支払う番になってきそうですが、食堂車がないのがまことに残念。

先輩に混じり芸談を聞き、また若輩ながら自分の意見も述べる、そんな時の流れの中で、能の楽しさ、難しさ、演ずるコツなどを教わり貴重なひとときであったと思い出します。
今、食堂車はなく、帰路は皆それぞれで、語ることも少なくなりました。なんだか、昔のほうが時間はかかリましたが、ストレスが発散できて充実していたように思えます。食堂車が懐かしい、古きよき時代、いや、ついこの間なんですがねえー、のお話でした。

左と右投稿日:2018-06-07

3月3日はひな祭りです。最上段のお内裏様の位置、よく見ると座る位置が二通りあります。人形側になって言いますと、お内裏様が左に、右にお雛様が座る、これが順当だと思いますが、最近は逆に置かれていることもありますので、注意して見て下さい。

能の世界から考えると左にお内裏様が座られるのが正当だと思います。何故なら古来日本の風習では、左が偉く、大事だとされてきました。
例えば、左大臣、右大臣、どちらが偉いかというと、左大臣の方が偉いわけです。

能に、「左右(さゆう)」という型がありますが、本来は左右左といわれ、これも左から始まります。喜多流中興の祖、九代健忘斎古能公は「左右左(さゆうさ)は神楽の初め也」と伝書に記しています。神楽とは申楽の事、申楽は左右から始まるということです。

翁の太夫はまず本舞台に入り正面先に於いて左右左を行います。まず左を払い、次に右を払う、最後にまた左を払い深々と礼拝します。これが基本で露払い、千早振るという意味です。左右の型の動きは、両手を左から右に丸く旋回させながら、左手を身体の中央にて止め、足をねじり左へ向き出る、次に右手を上げながら左足を右足にかけねじり右へ出る、この動作を左右と言います。御幣も、左から払い清めます。

喜多流は地謡の地頭の位置も後列中央の左側(正面席側)が地頭で右隣が副地頭となります。
足袋は左から履く、舞台に出る時も左足からと教えられてきました。どうしてなのか?
確かな理由など判りませんが、もう身体に染み込んでいます。

内裏様をよく見ると太刀を佩(は)いているものがあります。太刀を佩いているならば尚更、いざ太刀を抜く時には左側に人がいないほうが抜きやすい、これで理屈に合います。


ある偉い先生に突然「明生君、内裏様は、右、左どちらに座るかい?」と質問され、
「うーーー、左では?」と答えたことがあります。
「理由は?」とまた聞かれ、
今度は「ーーーーー」と黙ってしまったら、
「左にいればお雛様の御尻に触れるだろー」と、面白く解説してくださいました。
左が主(内裏様)であることを忘れさせない一言でした。

写真は「庄内ひな街道」から

能の世界のスピード感と時間の流れ投稿日:2018-06-07

能の世界のスピード感と時間のながれなど、このテーマで、何回かに渡りまとめてみたいと思います。

演能時間について
 現代はスピードを競う時代です。スポーツや交通機関、果ては食事まで、何分何秒を競っています。何事も時間短縮の風潮です。                                         
 これに比べ、能の世界は時の流れがゆったりしているようです。たまに少し時間がかかり過ぎるのではと思う時もありますが、現代の能は発祥当時の室町や桃山の時代に比べ、かなりスローにゆったりとした時間の流れに身を置くようにと変化してきました。以前横浜能楽堂の特別公演で室町時代に演じられていた『卒都婆小町』と現代の『卒都婆小町』を比較上演する面白い試みがありましたが、室町時代の『卒都婆小町』は45分で終演し、現代版では2時間近くかかったようです。
太閤秀吉は一日十一番、それも『関寺小町』や『姨捨』などの大曲を組み入れながら一日能三昧していた記録があります。先程の『卒都婆小町』の演能時間からも推察すると、当時は現代と違いサラサラとスピーディーに演じていたので充分可能だったのではないでしょうか。それが良いか悪いかは別として、今演能時間というものを演者が観客の立場にたって見直し、再考してもよい時期ではと思います。

能でのスピード表現投稿日:2018-06-07

 能には『石橋』や『望月』の獅子のように激しく活発に動き回るもの、また脇能の『高砂』『弓八幡』『養老』の神舞など素早い動きを要求される曲もありますが、一方ゆったりとした時の流れや動きの中にあっても、謡の詞章や演者の動きによってスピード感を感じさせる場面があり、工夫がなされています。
能『西王母』の最後は「王母も伴いよじ登る、王母も伴い登るや天路のゆくえも知らずぞなりにける」と、仙女(シテ)は天空さして消えて行くようにカザシ廻り返しをして終曲します。

昔、このカザシ廻り返しを素早くクルリと機敏に廻り得意になっていましたら、「それでは遠く彼方の空に消えていくようには見えないじゃないか」と注意されたことがありました。「遠い上空に超高速で飛ぶ飛行機が、地上から見上げていると、実際は高速なのになぜかゆっくりに見える。同じように、遠くに飛ぶという距離感を表すにはゆったりと廻るのだ」と教えられました。素早い動きより、じっくりとしかもふらつかずに廻り返しをする、この難易度の高い動きのほうが観客の想像力を膨らますようです。

但し、そこに演者の天界へ舞い上がるイメージや意識が内在されていないと、単なる回転運動にしか過ぎないことを補足しておきます。

桜について投稿日:2018-06-07

今、桜が満開です。
能の曲目で春を扱ったものは50曲近くありますが、桜をテーマにしている曲の代表的なものは『嵐山』『雲林院』『花月』『鞍馬天狗』『西行桜』『桜川』『小塩』『田村』『忠度』『湯谷』などです。

 喜多能楽堂のとなりの杉野ドレメ学園にある満開の桜を見て、ふとある能を思い出しました。それは故観世寿夫氏の能『西行桜』の話です。
 通常喜多流では、シテの狩衣は萌黄色系か茶色系などの一重狩衣ですが、寿夫氏の狩衣は黒色であったと。何故黒色なのか、喜多流では想像できないこの色の選択の根拠は何であろうか、私は答えがわからないままでいました。

 澄み切った青空に咲く満開の桜の美しさを演出しているのは薄桃色や白色の花びらの美しさであると思うのですが、私はこの美しさを際立たさせているもうひとつ別の存在があることに気づきました。それは桜の幹です。桜の幹は普通鼠色系統のものであると思っていましたが、今遠くから見る幹は、古木の黒幹として目に映り、なんともどっしりとした風合いがあるのです。心奪われ、思わず足を止めてしばらく眺めてしまいました。

 花は白く、幹は黒に見える、寿夫氏はこのコントラストの妙味に目をつけられたのではないだろうかと勝手に推測して楽しんでしまったのです。私自身はまだ『西行桜』を勤めていないので、確かなことはいえませんが、シテは桜の精、幹こそ桜の精そのものであるととれる、この色の選択のすばらしさに改めて感心させられてしまいました。
 
 しばらく見ていると、風がないのに枝は揺れ、花は散っていきます。
数羽の鳥が花をつまんでは、枝から枝へと遊んでいるように見えます。
「鴬の花踏み散らす細脛を、大薙刀もあらばこそ。」と花を散らす鳥を射ってしまおうという少年花月の心が判るような風情でした。

能に於ける場面転換投稿日:2018-06-07

 能『是界』では、大唐(中国)の是界坊(シテ)という天狗の首領が「これから日本へ仏法を妨げに行く」と名乗り、道行(ある場所から次の到着地点までを表す3、4分程度の謡)を謡い終えると、着き台詞の「急ぎ候程に、はや日本に着いて候」とあっという間に中国から日本の愛宕山に着いてしまいます。なんという速さ!
 この大胆な演出は観阿弥や世阿弥などの室町時代の優れた戯曲家の発想ですが、大道具、小道具を使わず素早い場面転換を可能にしています。
観客は謡の詞章から、「うあー! 中国からもう日本に着いてしまった」と、頭の中で場面転換を迫られるわけで、観客としての大事な作業です。この作業を怠ると物語の進展がチンプンカンプンになり、見ていてつまらなくなるかもしれません。
 能は、これくらいのスピードにはついてきてほしいという前提で演出されているようです。

早装束投稿日:2018-06-07

能装束の着換えに「早装束(はやしょうぞく)」があります。前場と後場の間にアイ語がなく、短い時間であっという間に着換え、再び登場する演出です。
喜多流では小書きとしては記しませんが、『昭君』『源氏供養』などが早装束です。
事前に揚げ幕近くに装束を整え、予めできることはすべて用意しておき、シテが中入りしたら急いで着換え、直ぐにまた舞台に出ます。
着せられるほうも、付ける方も呼吸を合わせ、無駄のない動きでテキパキと行いますが、なかなか難しいのは確かです。テキパキとは、最小限の人手で最大限の効果をだすことですが、手伝うつもりが、時には却って邪魔になるという方もいらっしゃいます。「手を出さないで!」なんて怒鳴って混乱している楽屋は皆さまには想像がつかないと思いますが、こんなことが当流にはあるのですと、暴露してしまいました。見る側からは、歌舞伎の早変わりのように、あっと驚かされ、面白みが増す演出も、演じる側からは大変神経を使う作業だとお察し下さい。

千手観音投稿日:2018-06-07

5月10日の広島護国神社の広島薪能で『田村』を勤めます。この曲は坂上田村麻呂の霊が京都清水寺の花の木かげに現れ、旅僧に寺の縁起を語り、更に御本尊、千手観世音の仏力によって鈴鹿山の賊徒を討滅した戦況を語る話です。
千手観音で思い出すのは、私の大好きな写真家、土門拳(どもんけん)の千手観音の写真です山形県酒田市には土門拳記念館があり、私は酒田の稽古のついでによく遊びに行きました。初めて記念館を訪れた時にまず目に入ってきたのが千手観音の写真でそのアングルのすばらしさに魅了されました。その写真からは仏師の志や力が溢れ、手の一本一本からは衆生への慈悲や悪魔降伏のエネルギーが感じられます。またあの無数の手のうごめきが、まるで生き物のようにこちらに迫ってくるようにも、また何かからやみくもに逃れようとしているようにも見えて衝撃的です。実物を見るより仏師の丹精込めた仕事ぶりがはっきりと判り感心させられてしまうのです。製作者仏師の千手観音というパワフルな作品を、撮影者土門拳の眼力を通して写真が撮られる、そしてそれを見て感動する人がいる。普段なら見落としてしまうような所を優れた写真は教えてくれるのです。


この二重三重の現象、図式はあたかも能『井筒』の世界に似ています。男性の能楽師が女性の紀有常の娘の役になる、その娘は男装して在原業平と変化して、遠い昔振り分け髪の頃を思い浮かべる。土門拳記念館には彼のメッセージが書かれています。私のお気に入りなので、ここに紹介します。

「実物がそこにあるから、実物を何度も見ているから写真はいらないと言われる写真では情けない。実物がそこにあっても実物を何度見ても実物以上に実物であり何度見た以上に見せてくれる写真が本当の写真というもの。レンズは肉眼を超える。」 土門 拳

写真 古寺を訪ねて 土門拳 小学館文庫より
唐招提寺金堂 千手観音立像右脇 左脇

湯谷の手紙投稿日:2018-06-07

朝日新聞の朝刊の第一面には「折々のうた」がある。
5月26日のこのコラムに在原業平の母の歌が書かれていました。
「老いぬればさらぬ別れのありといへば、いよいよ見まくほしき君かな」

この歌は能『湯谷』(他流は熊野)の文の段にあり、謡を嗜んでおられる能楽ファンならばお馴染みの句だと思います。

湯谷(シテ)は遠江の国(静岡県)池田の宿の長ですが、平宗盛の召しによって都に留まっています。郷里の母が病気となり、湯谷の帰国を促す手紙を侍女の朝顔(ツレ)が携え都へ上ります。湯谷は心弱くなっている母を気遣い、宗盛(ワキ)に手紙を見せて暇を乞います。その手紙の最後のくだりにこの歌は出てきます。

この湯谷の母はどこで病に伏しているのでしょうか。普通は池田の宿と思いますが、確証があるわけではありません。学生時代、『湯谷』の初同に「長岡に住み給う老母…」とあるので、新潟の長岡かな…、随分遠いな…、いや遠江の国の長岡だから…あー地図にあった…。この伊豆長岡のことかなーと的外れな勝手な想像をしていました。謡曲では確かな母の居場所は限定できませんが、この長岡が長岡京で、この歌が業平の母の歌であると判ったのはだいぶ大人になってからで、お恥ずかしいかぎりです。
この辺のことは大岡信氏の「折々のうた」をご覧頂ければ、よくお判りになると思い引用させていただきました。

「この歌は『古今集』巻十七雑歌。業平の母は桓武天皇の皇女伊登内親王。この歌、古今集では長い前書きがある。当時都は京都に遷都していたが業平の母は遷都前の長岡京に住み続けていた。息子の業平は宮仕えの身で母のところに訪れることも出来ずにいた。すると年の暮急用ですと母から便りがくる。開けてみれば何の文章もなくただ歌一首が書かれていた。それがこの歌です。さらぬ別れは避けられぬ別れ、つまり死別。」

写真 『湯谷』 シテ 粟谷明生     撮影 あびこ喜久三

芭蕉の葉投稿日:2018-06-07

子供の頃、先輩に楽屋の壁に貼られた番組の曲名を指さされ「これなんて読む?」と質問されました。間違えて読むと笑われ、正しい読み方を教えてもらいました。なかなか読めなかったのが、『女郎花(おみなめし)』『杜若(かきつばた)』『六浦(むつら)』など、そして『芭蕉(ばしょう)』でした。次第にちゃんと読めるようになりましたが、話のあらすじは全く知らないという不勉強の有り様でした。『芭蕉』? 松尾芭蕉と関係あるのかな…という程度でしたから、それはひどいの一言に尽きます。
 芭蕉という植物は中国原産のバショウ科の多年草で姿はバナナに似ています。中国南部から渡来し、平安朝から親しまれていたようです。夏には長く大きな葉を広げ、秋にはその葉がバサっと落ちるのが特徴です。喜多流ではクセの「芭蕉葉の脆くも落つる…」のところに習之拍子「もろくも拍子」があります。重量感をもちながら軽やかに踏む一つの足拍子は、芭蕉の葉がどっと落ちる様を表しているようですが、なかなかの至難の型です。芭蕉の茎は大木のように成長しますが辣韮(らっきょう)と同様、剥くと中身がなくなってしまいます。

能『葵上』のシテのサシコエには「人間の不定、芭蕉泡沫の世の習ひ…」とあり「人間の命の定めなく儚いことは芭蕉の木を剥くように、芭蕉の葉や水の泡のように空しい」と謡われています。また、『芭蕉』の終曲近くに「芭蕉の扇の風茫々と…」とあるように、芭蕉の葉は古来扇に見立てられていました。『井筒』の最後は「芭蕉葉の夢も破れて」と破れやすい譬えとして謡われていますが、司馬遼太郎氏の風塵抄に「芭蕉葉は破れやすい。その破れた風情が勇ましくもあり、いさぎよくもある、というので、日本の戦国時代、武者たちの旗指物のデザインとして愛された。」と書かれています。


このバナナの葉にも似ている植物は、私の近所でも見かけます。冬や春は姿が目立ちませんが、夏が近づくにつれ葉を大きく広げ南国の雰囲気を漂わせてきます。二、三年前、演出家の笠井賢一氏に「立派な大きな芭蕉が見たい」と我が侭を言いましたら、直ぐに青山の岡本太郎宅を案内してくれました。お庭には立派な芭蕉が沢山あり本当に南国のように見えてびっくりしましたが、それより、青山の住宅街にあんなに広いお庭のある家があることに驚ろかされてしまいました。

能『芭蕉』は芭蕉の精が「曲見」(しゃくみ)の女姿にて法味を得た報謝の舞(序之舞)を舞うという特異な二時間を越える大曲です。水墨画のような、艶とは懸け隔たれたスケールの大きい金春禅竹の傑作。「阿吽」No.15(平成15年春)の巻頭の「『芭蕉』によせて」は父の意思が温かく書かれた名文と評判でした。
今回、「二人の会」(平成16年6月5日)で、その『芭蕉』(シテ香川靖嗣)を、父菊生の地頭で、能夫と共に、私も父の隣で謡いました。取り組むについて『芭蕉』の謡とは…どのように謡うべきものなのか、喜多流らしさとは…その喜多流らしさで『芭蕉』が手に負えるのだろうか…、一体『芭蕉』の主張は何なのか…と考えさせられました。決して荒く、粗野にならずに、しかし上辺の柔らかさや綺麗さだけにとらわれず、芯の堅い、それでいながら堅さを感じさせないように謡えたら……、単に草木の精という枠に収めないで謡う意識が必要ではないだろうかなどと思いました。人間だけではない、万物の儚い定めをテーマにしていると思われる能『芭蕉』が少しずつ、はっきりとは判らないのですが、確実に私の身体の中に入ってきていると感じています。曲が演者に及ぼす力、それが受け止められるようにならなければ、この曲を手がける意味がないのではと思います。それほど、この曲には不思議なエネルギーがあるのです。難しい皮肉な能ですが、まずは地謡という立場からでも、『芭蕉』のエネルギーを吸収、体得したいと思いました。

芭蕉葉 撮影 粟谷明生 平成16年6月

貴重な大槻自主公演投稿日:2018-06-07

父、菊生の関西方面での最後のシテとなる大槻自主公演(主催観世流、大槻文蔵氏 平成16年6月26日)での客演公演、能『鬼界島』が無事盛会に終了しました。80歳を越えた高年齢や梗塞による障害、春の尻餅事件による腰痛の後遺症で、歯を食いしばっての父の力演でした。杖や床几の使用と特別な演出をし、ワキの宝生閑氏やアイの茂山千作氏と贅沢なお相手のお力添えを頂き、よい記念となる舞台となりました。
 大槻自主公演の特色は演者を観世流一流に限定せず、広く他流の公演も催す画期的なものです。番組も計画的であり、毎回の斬新で優れた企画を私は高く評価しています。
父は喜多流の代表として、大槻文蔵氏よりシテを依頼されてから20年が経ちました。大阪という地は、決して喜多流の勢力が強いとは言えません。喜多流愛好家もさほど多くない状況下で大槻自主公演での喜多流の公演は貴重で、喜多流の能が観られる数少ない機会です。このようなお取りなしをして下さった文蔵先生には感謝の気持ちで一杯です。父は長年、大阪で指導に当たっていたこともありますが、それ以上に父と文蔵先生の親交の深さがその第一の理由であることは流儀の皆が周知しています。

この会では以前、能の前に観世流と喜多流の立合いの仕舞がありました。観世流は大槻文蔵先生、上田拓司氏、赤松禎英氏、喜多流は粟谷能夫、高林白牛口二氏、出雲康雅氏、そして私も競演の役を頂きおおいに勉強になり、良い刺激となりました。私がもっとも敬服することは、文蔵先生が観世流の内弟子さんに他流の能や仕舞の舞台を見せる機会を持ってきたことです。今このようなことを個人や団体で行っているのは少ないと思います。

昔、一時期故喜多実先生も他流の方々をお招きして、喜多流養成会なるものを起こし催しましたが、長くは続きませんでした。大槻自主公演の歴史の長さには頭が下がります。視野を広く学習させることは、流儀の良さ悪さが判り大切なことです。狭い思考になりがちな私たちの頭脳に大胆かつ新鮮な風を吹き込んでくれることと思います。今回、父の任は終えましたが、次に代わるものが生まれて、他流と交流する、このような喜多流の公演がなくならないことを私は切望しています。

幕に入り込むときの父の後ろ姿に、俊寛というよりは、役者粟谷菊生の舞台への必死な挑戦と達成を垣間見たように思いました。父の大槻公演での最後のシテの姿が俊寛にオーバーラップして私には残酷でもあり、悲しい場面として心に残りました。そして、父に教えられた言葉「芝居しては駄目、でも芝居心がなくては駄目」という名言が脳裏をかすめ、大槻自主公演で得た「他の舞台を良く見ること」の意識に立返ろうという思いも起こさせてくれたのです。

珍しい『調伏曽我』投稿日:2018-06-07


 能の世界で曽我兄弟を扱ったものは、『調伏曽我』『禅師曽我』『小袖曽我』『夜討曽我』の4曲です。曽我物は主人公の兄弟の年齢から、青少年の演じる番組に選曲されやすいですが、『調伏曽我』だけは大人が演じなければいけない曲です。『調伏曽我』は観世流以外の四流にあり、シテは曽我兄弟ではなく、前シテが兄弟の敵の工藤祐経の役、後シテは箱根権現の不動明王と役柄も大きく変わり、曽我兄弟は弟の箱王(または筥王、はこおう)が子方として重要な大役で登場します。

私は残念ながら曽我物のシテは未だ演じていません。『調伏曽我』は子方と立衆、『小袖曽我』はツレの時致、『夜討曽我』では団三郎と鬼王といずれもツレとしての経験だけです。『禅師曽我』は特に稀曲なので、私の記憶にあるのは二度の上演だけで、なかなか観る機会が少ない曲です。『調伏曽我』は人数物で演者が大勢なので装束も多く、用意が大変です。
『調伏曽我』の地謡は特に後場の護摩の壇上での祈祷から不動明王の出現、五大明王の紹介と、最後に不動自身が形代(かたしろ)を刺し通し、箱王が本懐を遂げられることを暗示して消えるまで、まさに直球の、力そのものの謡で世界を創ります。流儀では特に強く、どっしりと重量感をもって謡うことが教えで、大きな力強い声量も必須とされます。父は「へとへとになるくらい強く謡わなくては『調伏曽我」にはならない」と言います。




 
 喜多流には珍しい巻き毛の赤頭があります。『石橋』の一人獅子と『調伏曽我』の二曲のみに使用が許されるもので、その豪快な異形には驚かされます。

 先日の「二人の会」(平成16年 シテ塩津哲生)で、喜多流として久しぶりに『調伏曽我』がとりあげられ、巻き毛赤頭の不動明王の勇姿が舞台に出現しました。こういう曲がもっと演じられてもいいのではと思います。後シテの装束を着けながら、赤頭に白蓮をつけることが気になりました。我が家の伝書にも、面は不動、赤頭に白蓮と書かれていますので、誤りではないのですが、白い花弁があまりに華麗で大きく、どうも不動の忿怒の形相としっくりとこない、私が思い浮かべる不動の姿には白蓮がないのです。不動明王は密教において大日如来が衆生の教化のために忿怒身に姿を変えられたもので、大日経では「慧刀(えとう)羂索(けんさく)を持ち、頂髪は左肩に垂れ、一目にして諦観し、威怒にして身に猛火あり。安住して盤石にあり。面門には水波の相があり、充満せる童子の姿なり。」と説かれています。(学習研究社「仏尊の事典」より)「大日経疏(だいにちしょ)」では頭頂に「莎髻(しゃけい)」(髪を束ねた鬟ミズラの形)を表すことが規定され、これに遅れて漢訳された、「摂無礙経(しょうむげきょう)」では「八葉蓮華」を頂くものも現れました。これによって不動明王の頭上には莎髻派と八葉蓮華派の二体の造像のスタイルが出来てしまいました。ですから白蓮を頂く演出には問題がない確証がとれました。10世紀天台系の安然上人は不動明王の形を容易にイメージできるようにと「不動十九観」という十九の特徴を決め、以後これに基づき不動の面貌はそれ以前の両眼を大きく見開くものから、左目をやや細め、右目を見開いて天と地を睨む「天地眼」の表情になりました。(詳細は下記の「不動十九観」を参照して下さい)

 蛇足ですが、『葵上』『道成寺』の謡の稽古で、「ナーマクサンマンダ、バサラダー、センダマカロシャナー、ソワタヤウンタラ、タカンマーン」と謡うときまって笑われます。「どうしておかしい?」と聞くと、「バ・サラダだ!と謡われるから、どんなサラダかと思って…」が皆様のお返事です。「これは食べ物ではなく、不動明王のお名前です」とお答えしますが、実際はナウマクサンマンダ、バサラダン、センダ、マカロシャナ、ソワタヤウン、タラタ、カンマン(曩謨三曼陀バ日羅赦、旋陀摩訶魯遮那、ソ婆多耶吽多羅タ干マン)で、謡とは句点や発音が少し異なるようです。(注、変換できない字はカタカナで表記しました)

最近、舞台や楽屋で今まで気にならなかった事が、あれっ!と思うときがあります。作り物や小道具は、実際、本物の代用として作成されていますが、そのものの本質を知っておくことは、演者にとって大事なことのように思います。今、気になることを調べる作業が楽しくてたまりません。気になれば調べ、調べるとまた興味が湧く、こんな繰り返しが、なにか演能の役に立てば…と思っています。今回、白蓮の件で不動明王の姿やその歴史が勉強でき、不動明王が私の中に少し入り込んできたように感じます。いつの日か、巻き毛の赤頭に不動に似合った白蓮を載せ、健気な子方を配して、密教の世界が根底にある、この悪魔降伏の『調伏曽我』が勤められればと心の中で念じています。

不動十九観とは
インドでは梵名アチャラナータで「動かないものの守護者」という意味で、次にあげる十九の項目がその特徴である。
(1)大日如来の化身であること
(2)真言中にア・ロ・カン・マンの4字があること
(3)常に火生三昧に住していること
(4)童子の姿を顕わし、その身容が卑しく肥満であること
(5)頭頂に莎髻があること
(6)左に一弁髪を垂らすこと
(7)額に水波のようなしわがあること
(8)左の目を閉じ右の目を開くこと
(9)下の歯で右上の唇を噛み左下の唇の外へ出すこと
(10)口を硬く閉じること
(11)右手に剣をとること
(12)左手に羂索を持つこと
(13)行者の残食を食べること
(14)大磐石の上に安座すること
(15)色が醜く青黒であること
(16)奮迅して憤怒であること
(17)光背に迦楼羅炎があること
(18)倶力迦羅竜が剣にまとわりついていること
(19)二童子、矜羯羅(コンカラ)童子・制咤迦(セイタカ)童子が侍していること

写真 『調伏曽我』粟谷菊生  撮影 あびこ
   『調伏曽我』喜多実   撮影 森田拾四郎
   『石橋』粟谷新太郎   撮影 あびこ
                     

阪大機関誌「邯鄲」への寄稿 平成16年度投稿日:2018-06-07

切戸口の更新も滞っていますので、父同様、阪大喜多会機関誌「邯鄲」への平成16年度の寄稿文を記載させていただきますので、ご高覧下さい。

三拍子揃える
 
辞書で「三拍子」と引くと、小鼓、大鼓、太鼓など三種の楽器で拍子をとることとある。能楽の言葉が出てきたので驚いた。

三拍子揃うとはこの楽器の拍子が揃うという意味と、三つの要件が全てそなわっていることとも書かれていた。

例えばバレリーナならば、美しい体型、技術、表現力の三つである。 世阿弥の著「花鏡」の中に申楽を志す者の三つの条件が挙げられている。
第一に、この芸道が好きであるかどうか…意欲があってこの道一筋に専念する熱情だ。
第二に、その者に才能があるかどうか…力量を身につける生まれながらの天性、素質だ。
なんとも厳しい条件だが、芸の才能がなければ難しいと釘を刺しているあたりが世阿弥らしい。

では最後は何か?
第三は優れた指導者を得ることだそうだ。
どんなに芸が好きで才能があっても、善き指導者がいなくては片手落ちなのだろう。
指導者の役割は習う者の生き方や芸の方向まで変えてしまうからその責任は大きい。

この三箇条は世間一般にも幅広く通用する三拍子と思い、忘れないように心に留めている。

自分の仕事としている能楽師を考えるとやはり当てはまる。
まず謡えること、それは、ただ音を出して古文の字面を読むのではなく、謡という発声法を基盤に、拍子に合わせ、曲の主張を身体の内部の力を駆使し伝えるという作業である。

舞うことは日常の生活感から遊離し、無駄な力を入れず足腰を軸に、スムーズに華麗に曲の主張を身体の動きで表現すること。
そして表舞台に立たない時は、舞台に立つ者を裏から支え裏方の作業に徹して作品の完成を手助けする。
これらが充分に出来る人を私は本物の能楽師だと思っている。
今喜多流に何人いるだろうか…。
本物目指して私もまだ修業中だ。

阪大喜多会の学生諸君と合宿をして、共に生活するといつも思う。それぞれが与えられた仕事を立派にこなし、練習も真摯に前向きで何事も素直な心で取り組んでいる。合宿ならではの役目や、まる一日という長時間の謡と仕舞の習得、先輩は後輩を指導し、後輩は先輩からの言葉を聞く。

毎晩、私の晩酌の相手もして下さり、有難く感謝感激している。自演会では舞って、謡って、録音や撮影、それに番組のめくり係。最近は人数が少ないのでOB、OGの方が受付の手伝いをしてくれる。
なんともファミリーでいい。とにかく自演会当日は大忙しだ。
なんでも出来るようになっていなければいけないのだな…と学生に教えられる。

今年の能は『小袖曽我』。
近年、父は自演会でこの曲を選曲したいとこだわっていた。
人数物のため部員が少ない状態では無理なので、しばらく演じられなかったが、今年はぎりぎり間に合うらしい。

舞台にこんなに部員が出たら、裏方は大丈夫だろうかと心配だが、そこは阪大喜多会ファミリーだから、OB、OGの方々にも期待している。

『小袖曽我』のシテは兄の曽我十郎祐成、ツレは弟の曽我五郎時致となる。

どうして兄が十郎で弟が五郎なのか不思議だが、理由がある。
兄弟の父は河津三郎祐泰(すけやす)だが、工藤祐経に殺されたため、母は二子を連れて曽我祐信に嫁ぐ。

後に、曽我祐成は伊東九郎祐清の弟となり十郎を名乗り、曽我時致は北条四郎泰時を兄としたため五郎となる。
十郎は十番目の子、五郎は五番目の子という意味ではない。

阪大自演会での『小袖曽我』は今回が7回目となる。
過去の先輩達の舞台が私の脳裏に蘇ってくる。
曲(クセ)の後、母が勘当を許すところや初同の「同じ子に、同じ柞(はわそ)の守傳(もりめのと)」の謡はいまの時代でもなんとなく泣けてくるから不思議だ。

長塚祐成と木原時致の兄弟と日高の局に、この劇的な能を立派に演じてもらいたいと願っている。
地謡を謡う男子や他の役の女子も皆協力してよい舞台を創ろう。
合宿はそのための一つの手段だ。

教える者の責任が大きいとなれば、私も努力を惜しまず自演会の盛会を目指し精一杯お手伝いしなければと覚悟を決めている。

16年度 阪大喜多会自演会のご案内
12月4日(土)2時始 山本能楽堂
能 『小袖曽我』  シテ  長塚美和、
          ツレ  木原彩佳  
          母   日高晴子  
          団三郎 野田美希 
          鬼王  上原久美子 

舞囃子『西王母』  シテ  日高晴子

他、連吟、仕舞、連調など 

これからの流儀の発展を考えて投稿日:2018-06-07

伝統芸能といわれている世界では、どこも伝承者や愛好家、支援者の減少に頭を抱えているようです。
能の世界も同じで各流、それぞれの繁栄のために、様々な努力をしています。喜多流も将来を見越した展望をもたなくてはいけないのではないかと、遅ればせながら痛感している次第です。  

ではどのようにしたらよいのでしょうか?

まず何はさておき喜多流が魅力ある集団でなければいけませんから、演じる側の芸の向上、充実が重大な責務であることは言うまでもありません。
ぬるま湯に漬かったような集団の芸など、私も見たくないので、自戒を込めて日々是精進を忘れてはいけないと思っています。

しかしそれもこれも流儀を支えて下さる愛好家支援者の方々のご協力ご支援があっての上のことだと思います。

次に具体的に何をすべきかですが、私は携わる人を増やすことから始めるべきだと考えます。
職分といわれる喜多流能楽師の増員はその手段の一つで、この道を志す人を老若を問わず、多く受け入れていく体制作りがこれからは必要ではないでしょうか。

さらにセミプロといわれる謡や舞の教士、教授の資格者も老若男女を問わず増やしていかなければ、流儀はどんどん小さくなってしまいます。

昔は、各地方には地道にその土地の喜多流愛好家の指導をする教授や教士の方々がいらして、職分の手が行き届かないところを補って下さいました。それで喜多流の能が広く伝承されてきたともいえます。

残念ながら最近その方々が少なくなってきました。資格者を養成する努力を怠ってきたからです。一つには免状発行に関する永年のトラブルが問題として指摘され、そのつけがまわってきたのは事実です。今、少しずつ免状の発行も回復しつつありますので、事態が深刻になるまえに、我々自身が危機感を覚え、至急の対応をしなくてはいけないと思っています。

将来の喜多流の発展を考え、皆さまのご意見など、お聞かせ頂ければと思っています。

我流「花鏡」1投稿日:2018-06-07

我流に現代風に世阿弥伝書の「花鏡」を読み解くことを試みてみます。
「花鏡」は世阿弥中期の能楽論集です。世阿弥自身が「花鏡」の最後に「風姿花伝(世阿弥38歳ごろの著作)は亡父(観阿弥)の芸能のいろいろを二十余年の間書き記したものだが、花鏡は私が四十有余歳より老後に至るまで、芸について悟り得たことを書き残すものである」と記しているように、中年以降の世阿弥自身の芸論になっていて、興味が尽きないものです。
今後数回に分けて、この「花鏡」を手元に置き、私自身が日頃感じていることを合わせて書いてみたいと思います。
その一 「一調二機三声」
謡は五音階で絶対音がありません。絶対音がないからこそ謡の面白みがあると言われています。しかし反面決められていない調子をとるというのは大変難しいことです。
「謡い初めの音の調子(高さ)の決め方と、周りの人と音の合わせ方が難しい…」という素人の方のお嘆きの声を耳にしますが、お気持ちはよく判ります。

調子の決め方には、人それぞれ工夫があるようですが、まず記されている音階よりも少し低目に声を出すようにするのがコツ・秘訣だと思います。上音なら中音位から、中音は下音から、下音は…?下音の下の音、呂音ぐらいから始める気持ちで、それぞれ徐々に指定された音まで上げていくようにします。上音なら上音、中音なら中音と、一つの音だけを変化をつけずに持続して謡うと平坦な幼稚な謡となり、周囲からは「合わせにくい謡」と言われてしまいますから気をつけて下さい。謡の場合、一定の連続音は嫌がられます。なぜなら聞いていて飽きがくるからだと思います。徐々に音を浮かしながら調子に変化をもたせ、そしてノリ(スピード)にも注意して謡うことをお勧めします。

上手な音の合わせ方としては、まず地頭(リーダー)の声をよく聞く意識を持つことが大事です。次に小声や裏声にならないように、しっかりと声を出しながら合わせます。二、三文字聞いてから「さあ合わせよう!」としても中々うまくいかないものです。連吟の難しさは素早く謡いながら揃えること、難しいですが相手とよくよく稽古することで、必ずうまく合うようになります。うまく揃うと気持ちが良く、楽しくなります。これが連吟ならではの味わいということではないでしょうか。

世阿弥の中期の能楽論「花鏡」の最初「一調二機三声・音曲開口初声(おんぎょくかいこうしょせい)」では、まず吹物(笛)の調子に心中で音程を調えるようにする、しかし音程だけ測っておいても、そこに機(気)が備わっていなければいけないと、なんだか難しいことを説いています。この説明に吹物(笛)との関係が出てくるのは、世阿弥の時代、謡は能を演じる手段で、それ用に書かれているためで、能や舞囃子のようにお囃子が入るとそこに密接な関係が生まれてきます。

例えば、曲(クセ)の上羽後の地謡は上音(=じょうおん・高い音)で謡いますが、どの程度の上音にしたらいいのでしょうか?

答えは、シテ謡を基準としますが、笛の高音(=たかね・高い音の名称)を頼りにすることで、私もそのように心がけています。シテが高く張って謡う上音の謡には、やはり地謡も高音(たかね)に沿った高い声で応えなければ舞台映えがしません。もしあなたの周囲に、シテ謡よりも低い調子で謡う人がいたら、あまり上等ではないなあー、と思って下さって結構です。そして、あなたご自身は高い調子で謡うように心がけて下さい。素謡の時は笛がないので困りますが、前記したように、周りに合わせ、まずは音を押さえながら次第に張って、ご自身でしっかり調子を掴み謡うとよいと思います。

謡の発声までの仕組みを世阿弥は「一調二機三声」と説明しています。まず「一調」とは、決められていない調子をどのように掴むかを思考し、「二機」は身体内部に思考したものに気を込める、つまり身体全体の機能を一点に集中して謡う機会を待ちます、そして「三声」最後に発声される、このような経過を経てはじめて謡の声となるわけです。この「花鏡」の「一調二機三声」以前に書かれた「音曲声出口伝(おんぎょくこわだしくでん)」にも同じようなことが記載されていますが、その最後に次のようなことが書かれています。

「声を忘れて曲を知れ、曲を忘れて調子を知れ、調子を忘れて拍子を知れ」これは有名で重要な言葉ですが、これを聞くとなんだか、みんな忘れてしまいそうな気分になります。私はそのあとに続いて書かれているところが大事で、謡の極意、この道を志す者としての心構えが記されていると思っています。

それは「音曲を習う条々、まず文字を覚ゆること、そののち節を究むること、そののち曲を彩ること、そののち声の位を知ること、そののち心根を持つこと。拍子は初、中、後へ渡るべし」です。

謡を習う順序は、まず発音の仕方を覚えること、と注意を促しています。謡の声は日常生活とはっきり区別されたものであり、生な地声はいけません。声自体は綺麗に越したことはありませんが、力が漲ってハイテンションでなければいけないのです。次に節を習得して、曲の趣を出すようにします。節扱いは技法を要します。

例えば、しほり節や入り節など難しい節遣いは優れた指導者からしっかり教わり、それを体得して曲目の主旨を理解しながら役柄に沿った謡へと進んでいきます。最後に発声自体が自分自身の身体の中でしっかり把握、制御できるように確認します。力の入り過ぎや、また入らずじまいで腑抜けに聞こえることのないようにと注意します。そしてそれらはいつも拍子というものに深く関連していると、心得ていなければいけないのです。これは大事な教えで、私自身もいつも忘れずに心がけていたいと思っています。

付録
玄人の謡の善し悪しは、それぞれ贔屓やお好みがあるでしょうから、一概には言えませんが、素人の方から玄人の上手下手の判断をする一つの目安を内緒でお教えします。
もし素人の方が玄人の隣で謡うチャンスがあったら、その時に楽しく、気持ちが良く、自分がいつもと違ってなんだかうまくなったような気がしたら、その玄人は上等だと思って下さい。逆に隣にいてもちっとも満足出来なかったら、その方は申し訳ないが、まあーたいしたことのない玄人だと……。私自身も隣で謡う素人の方にご満足いただけるようにと精進しているつもりですが……。

お勧めの書籍、その1投稿日:2018-06-07

先日の厳島神社御神能『花月』での23名の地謡は圧巻でした。
演能レポートを書いていますと、地謡の歴史や変遷も知りたくなります。いい加減なことは記載出来ないので、いろいろ調べなければいけないのですが、地謡に関しては、阪大喜多会OBの藤田隆則氏の『能の多人数合唱(コロス)」は大変役に立ちます。
興味のある方は是非、御一読下さい。これは単なる宣伝です。
これからもお勧め書籍を御紹介していきたいと思います。
今回はその第一弾です。

ひつじ書房 \1200+税

百済観音像の魅力投稿日:2018-06-07

 法隆寺の「百済観音像」はあまりに美しく、いくら見ていても飽きない。今まで数回は見ているはずだが、きっとしっかりとした意識がなく見ていたのだろう、今はすっかりその魅力の虜になってしまった。
 
  お顔は飛鳥時代特有の面長な美形で、なんといってもその容姿がすばらしい。特に心惹かれるのは手の美しさだ。身体の中心から直角に折れ曲がる右腕は肘から手首まで真っすぐに突き出し直線美を放っていて、手首から先の掌や指は、実に柔らかく曲線美の世界だ。
 幸流の小鼓の打ち方の一瞬にあれがあるのだ。よく似ていると思う。そして、しなやかな左腕もまた真っすぐにやや下に伸び、宝瓶を軽く摘まむ二本の指と残りの三本は今にも動き出しそうで、生き生きとして生命が感じられる、まさに絶品である。思わず触れたくなるといわれるのは当たり前、私も同感、許されるのならば、そっと撫でてみたい。


 この手の美しさは私の理想とする喜多流の構えや型に通じる。肩は当然力まず、肱から手首までは真っすぐで素直なのがよい。そして重要なのが手首から先で、余計な力を感じさせてはいけない。つまり観客の肩が凝らないように、妙な緊張感を感じさせないことだ。野暮で無神経な動きの手や指は観客を興ざめさせてしまうだろう。
 能役者はこの仏像の両手をよくよく見習うべきだと思う。柔らかでありながら、力は漲っていてエネルギーが伝わってくる。見る者に広がりゆく世界を感じさせるであろう。模範となる構えや型に通じるこの理想のスタイルを拝みながら、自分も稽古の中からもっと真髄を追及していかなければいけないと思い、ここに書き記すことにした。
百済観音はさしずめ、現代のスーパーモデルのようである。2メートルを越える身長、痩せた面長なお顔に八頭身のスリムなボディー、もう文句の付けようがない。このスタイルは飛鳥時代の特徴の一つだ。
 蛇足ながら平安時代の仏たちは時代の風潮からか、ふっくらとした肥満型に変化しているように思う。これもまたそれなりに魅力ではあるが、やはり痩せているほうが…。
なによ、自分のことを棚に上げて!とお叱りを受けそうなので、この辺で筆を置くことにする。

私と高知城投稿日:2018-06-07

高知粟谷会の宴席のあとの二次会は高知市帯屋町のアネックスビル7階の「クラブ・ロイヤルサルート」がお決まりのコース。この美女たちのいる栖に行くには、まず8階のカウンターバー「赤い靴」に上がり、そこから階段を降りる仕組みとなっている。この8階の「赤い靴」からは、驚くことに高知城をサーチライトで照らすことができるのだ。私もそのスイッチに何度か触れ、お城を照らしたり消したりと楽しんだ一人だ。こんな大胆なことしていいのだろうか?と思うが、市長さんもやられていて、今も照らし続けているので法的には問題ないのだろう。

18年前に開店したこの店「赤い靴」のママさん、田中滋子さんはデビィ夫人と親交があり、御歳は判らないが、いっこうにその美貌が衰えないのが摩訶不思議だ。
その大先輩のママさんから「私と高知城」というエッセイ集を作るので寄稿してと依頼されたのがちょうど一年前。今回お店に伺うと「出来たわよ!」と小冊子を手渡された。
「あっ、もう一年が経ったか!」とこんなことでも月日の早さを感じてしまう。過ぎ去った時間をどうのこうのと言うのは、歳をとった証拠!と言われれば反発したくなるものの、どこかで仕方がないなあ、当然と諦めてしまう今日この頃なのである。さて文章を読み返してみると、そこには歳をとらない、拙い文章があり、読むと恥ずかしくなったが、これも生きてた証と、妙な自己満足に浸っている。

余談だが、能楽師という仕事は、よく打ち上げ花火に例えられ、特に舞台は一瞬綺麗に耀きはするが、そこに造形されたものは跡形も残さずに消えていく、そこがよいのだ、と言われるが、空しさを感じることもある。粟谷能の会機関誌「阿吽」を発行する時に、能楽プロデューサー・笠井賢一氏に書くことを勧められた。最初は「面倒だ、能楽師は身体で表現しているだけで充分」と首を横にふったが、「一流の能楽師とはよい舞台を勤めることは当然、それに加えて文章でも表現できることだよ。寿夫さんはちゃんと書かれている。寿夫さんのようにとはいわないさあ、あなたなりにね……」この言葉が、それからの私のライフスタイルを変えてしまうほどのものだったことは確かで、大事な瞬間だったと今も思っている。

話しを戻そう。その寄稿させてもらった文章は能とは関係が薄いかもしれないが、切戸口ということで、ここで記載させていただきたいと思う。

私と高知城
                      喜多流能楽師  粟谷明生

私がはじめて高知を訪れたのは子方(能の子役のこと)出演のためで8歳の時でした。
かわいい子には旅をさせろが両親の考えだったのか、能関連の衣類と下着だけを入れたリュックサックを背負わされ「高知空港に着いたら…さんが迎えにくるから一人で行けるね」の一言で、私は飛行機に乗せられました。心細くも飛行機の窓から見える綺麗な雲海の景色に目を奪われ、世話をしてくれる綺麗なスチュワーデスのお姉さまも横目でチラリと見ながら高知へ向かったのです。これが私の飛行機の初搭乗、その行く先が高知でした。この時のことはかなり特別な状況だっただけに、今でも忘れられない思い出として脳裏に焼き付いています。
 
 二度目に高知に行ったのは13歳の時で、これは能とは関係なくプライベートな旅行でした。ちょうど夏休みで学校の社会科のレポートの宿題があり、私は「私の土佐日記」と題して竜河洞、足摺岬、高知城と廻った旅日記のようなレポートを書きました。母が汗をかきながら必死になって高知城の築城の経緯や特徴などを筆記してくれ、私はただカメラのシャッターを押すだけというていたらく、誰のための宿題やらと今は自己反省しています。学校に提出後、優秀と採点されましたが、優秀なのは母だということをもしかすると先生は判っていらしたのかもしれません。
この時、山門と天守閣を背景に記念撮影し、城の内部に初めて入りました。天守閣まで階段を息も切らずにさっさと上って見た市内の眺望の良さ。日本に数ある城の中でも山門と天守閣が同時に撮影出来るのは高知城だけと聞いています。江戸時代に入城された山内家が喜多流愛好家であったことが喜多流のこの地での繁栄をもたらし、私がこの地を訪ねられる要因でもあるのです。
 4年前、私は10歳の息子を連れて能公演のために高知に伺いました。日頃接することが少ない息子との時間が持てたことが嬉しく、息子と高知城を拝観し、昔、自分が撮られたところで同じように記念撮影をしました。城に上る時息切れを感じ、よくこんな階段が上がれたものだと、今の自分の状態に情けない気分になりました。確実に時は流れ、その早さを痛いほどに感じました。高知城は私と母、そして息子とをまるで見えない糸で繋ぐように思い出を引き出してくれる、そんな演出をしてくれる貴重な場所なのです。
 3年前、高知城薪能があり、お城の下で喜多流の能『羽衣』がありました。いつの日か私がこの思い出の場所「高知城」で能を勤める機会があればよいなと夢は膨らんでいます。         (平成16年5月記)

お勧めの書籍 その2投稿日:2018-06-07

寿司好き
私は寿司が大好物。子どもの頃「坊や、何が好き? カレーライスかな?」と聞かれても、決まって「お寿司!」と答え、「稲荷寿司や海苔巻じゃないよ、にぎりだよ!」とお生(なま)を言っていたから、「生意気の特上」だ。
 今はぐるぐる廻る回転寿司が流行っていて、皿を取り上げれば好きなものが食べられる。気軽でいいが、私のお好みは店のご主人や職人さんの前に座る通称カウンターと呼ばれるところ。「テーブル席でいいだろう?」と言われても「いやだよ!」と平気でいっていたから、たぶん周りも困っていたに違いない。小さい時分は、必死に背を伸ばしながら、並んだねたを見回しては好きなものばかり食べて同時に注文の仕方も覚えた。「鮪、下さい!」と自分で注文しなければいけないと判ると、自然と声は大きく、はっきりと言えるようになった。
 
寿司屋は注文して、直ぐに食べられるのもセッカチの私には向いている。そしてご主人や板さんとの会話も楽しみの一つだ。大人になってからは、いろいろなお店を食べ歩くようになったが、「よく知らない店に入れるね! 怖くない?」といわれるが、鼻が利くせいか危ない店には入らずにすんでいる。私にとっては横文字で書かれたメニューの中からアラカルトでフランス料理を注文するほうがよっぽどコワイ。
 
地方の寿司屋に入れば「地元のお酒はなに? そう! 辛口ねえ、どの程度? これどこの鮪?」と臆せずしゃべれる。寿司屋が一番落ち着く。

最近、馴染みの寿司屋のご主人に薦められて「神田鶴八ちょっと小粋な鮨ばなし」を読んだ。著者の師岡幸夫さんは以前NHKの連続テレビドラマ「イキのいい奴」のモデルになった方で有名な方だ。最近引退されてしまい、私は残念ながらそのお寿司をいただいていないが、此の本は面白く読めた。特に「息子が鮨屋を継がなかった理由」という段は後継者問題について興味あることが書かれていて、自分にも置き換え考えさせられた。寿司好きの私ということで、能とは無関係だが、敢えてこの本を紹介したいと思う。

『正尊』について投稿日:2018-06-07

能『正尊』には起請文といわれる、読み物の重い習がある。
『安宅』の勧進帳、『正尊』の起請文、そして『木曽』の願書、これらは三読物といわれている。喜多流には『木曽』がないため、残念ながら三読物にはならないのだが、実は宗家に願書の部分だけがあるというのは意外に知られていない。
起請文は流儀では特に重く大事に扱っている。そのため謡本を見ていただくとお判りになるが、起請文の部分には細かな節扱いや、上中下や拍子のとりかたの記載がなく、習わなくては謡えないようになっている。正式に伝授された者だけが謡本に朱書きをして習得し、後世に伝承する。今どき、なんて閉鎖的と驚かれると思うが、改善される気配は全くない。少し意固地な感じがしないでもないが、私は「喜多流らしくてよいのです」と答えるようにしている。
近年、私の知る限りでは『正尊』を勤めた演者は、現宗家喜多六平太氏、故友枝喜久夫氏、そして父、粟谷菊生の三名である。十六世喜多六平太氏は昭和42年に勤められ、私は静役の子方を勤めている。故友枝喜久夫氏は昭和57年に、その時私はシテツレの江田源三役を勤めた。お二人の先達と同じ舞台を踏んでいることに我ながらちょっと歴史を感じてしまう。そして平成8年の粟谷能の会で父の『正尊』。残念ながら此の時は、その前に自分が『隅田川』のシテを勤めていたので、同じ舞台に立てなかった。
起請文の節扱いについては、我が家には、祖父益二郎直筆の朱書き付きの伝書があり、表紙に他見不許と赤く大きな字で書かれている。祖父の苦労や功績が感じ取れる逸品でおおいに参考になっている。
6月4日の「二人の会」では香川靖嗣氏が、この大曲を披かれる。人数物で子方も必要なこの曲は、流儀ではそう何度も見られるものではないので、この機会に是非ご覧いただきたいと宣伝の意味も込め、ここに記してみた。


二人の会のチラシ
写真は平成8年の『正尊』シテ 粟谷菊生、江田 粟谷浩之、熊井 粟谷充雄

酒田の写真家・土門 拳投稿日:2018-06-07

土門拳(どもん・けん)は山形県の日本海に面した酒田出身の写真家である。現在酒田市には土門拳記念館があり、彼の生前の作品がここに集められ、展示内容は年に4回模様替えしながらも常時見ることができる。私は何度かここを訪れているが、まず作品数の豊富な事に驚き、そしてそれらの作品が何度見ても飽きないので虜になってしまった。写真が生きているとはやや大袈裟だが、写真が口を開いて何かを言っているように思える瞬間がある。まさにクラシックというにふさわしい。

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記念館は庄内空港から車で20分位のところにあり、お洒落で立派な建物が目をひく。前には大きな池が広がり、天気が良ければ目の前に鳥海山が見えて心安らぐ場所で、私のお気に入りの場所の一つになっている。
今回の主要展示「古寺巡礼」は6月12日までは「斑鳩から奈良」の特集である。先頃、私は法隆寺をはじめ斑鳩や飛鳥を訪れてきたため、先日は特別な興味をもって出かけた。

法隆寺や明日香、現地で実物をこの目で確認してきて、また土門の写真を見ると、それらが単なる記録・記念写真ではないことがはっきり判る。撮影者の意図が作品全体に充満していて、見落としたところを「おいおいどこを見てきたんだよ!ここを見てこなくては駄目じゃないか!」と指摘するかのように教えてくれるからすごい。

「実物がそこにあるから、実物を何度も見ているから写真はいらないと言われる写真では情けない。実物がそこにあっても実物を何度見ても実物以上に実物であり何度見た以上に見せてくれる写真が本当の写真というもの、写真は肉眼を越える。」私の好きな土門の言葉だ。

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彼の作品は視点の特異性と撮影者の強い主張があるから何度見ても飽きないのだろう。自分に置き換えると、「一回見たからもういいよ!」などと言われないような演能を心がけなければと、土門拳の写真を見ると反省する。
 
例えば、土門拳の奈良の円成寺の遠景写真、一見すると絵はがきや拝観時に配布される栞に写っているごく普通の寺の写真だ。アングルもカメラを持った者なら誰でも撮影しようと試みるところだ。しかし同じ構図、アングルなのに土門の作品があきらかに違うのはなぜか。
きっと何人ものプロのカメラマンも撮影し続けているだろうが、あの作品を越えることは出来ないと私は勝手贔屓に思っている。寺の門と池の美しさ、あの写真を見ていると池の底へ、寺院の内陣へと吸い込まれるように感じる。写真に吸引力があるのだ。とどのつまり撮影者の審美眼にほかならないのではないだろうか。

仏像の写真がまた面白い。このように見えるのか!と驚かされてしまう。
通常、お寺では堂内撮影禁止だが、飛鳥寺は特異で、日本最古の真っ黒な大仏は不思議と撮影可である。私はここぞとばかりシャッターを押しまくってきたが、結果はつまらない写真ばかりでしょげる。土門はどのように撮影していたのかと、帰宅し写真集を拡げると、「あっそうだ!目のクローズアップか!」。でも時既に遅しだ。土門の作品は見逃していた一面を鋭い視点で紹介してくれる。実物を見る前に写真を見て予習していけばよいのだ、そうすれば実物と写真の面白さが判るだろうと思うのだが、いざ出かける時にいつも失念してしまう。いや、先に見ていては、自らの新鮮な驚きが失せてしまうかもしれない。



(飛鳥寺、釈迦如来像面相詳細、土門拳撮影、小学文庫古寺を訪ねてより)

土門拳の名前をはじめて耳にしたのはもう20数年前、母方の祖母(村山静恵、98歳)の口からだ。この祖母は現在も元気でいる。なにしろ、女性の丙午(ひのえ、うま)なので強いらしい。
まだ土門が無名のころ、外へ出ては良い被写体を狙っていた時分に、たまたま撮影されたのが、祖母の息子、酒田に住む叔父の村山英太郎で、七五三の写真だった。土門は撮影すると「失礼ですが、今写真を撮らせて頂きました。焼いたら差し上げますので、ご連絡先をお教え願えないか」と挨拶したと言う。そしてその写真は確かに後日送られてきて今も大事に保管してあるという。当時私はその写真を見ることが出来なかったが、「何故土門と判るのか?」と聞くと「だって、裏にサインがあるんだよ!英語でDomonとね」と言われた。最近酒田の叔父の稽古場にこの写真が掛けてある。なんでも記念館から土門の作品ならば是非一度見せてもらいたいとの打診があり、一時預けたそうで、それが戻ってきたのを機会に飾ることにしたらしい。
写真は夕陽の光を浴びた靖国神社の門がもう閉まる寸前に老紳士に連れられサーベルを履いた少年がお辞儀をしているものだ。その写真を見ながら、またあのときの祖母の言葉を思い出した。「さっき言った挨拶の前にこんなことも言っていたわ。朝からずーっとここにいるが、まだ一枚も撮っていない、もう帰ろうと諦めていたが、思わずシャッターを切ってしまった」。

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(村山英太郎氏の七五三、土門 拳 撮影 粟谷明生)

最近、私もカメラ撮影に興味が湧いてきた。写真探訪などで撮影することが多くなったせいもあって、意気込んで撮影するのだが、つまらない写真ばかりが目立つ。習うことも必要かなと思い、またカメラのせいにしてもっと上等のデジカメ一眼レフが必要かなとも思ったりするが、また彼の言葉が私を刺激する。
色と形を出すだけが写真を「撮る」ことではない。目で確かめ、心に刻んではじめて「撮った」といえる、と。これも能の世界と共通しているよい言葉だと思う。

ラジオ放送の収録体験投稿日:2018-06-07

先日、『実盛』のラジオ放送の収録(放送日7月10日AM7:15)を行った時、収録体験について書こうと思い立って調べてみた。子方時代の記録は、母が初舞台から書き留めておいてくれた「演能記録」があるのでわかるが、子方卒業後は自分で記入するようになったため、記載漏れの時期があったり、ラジオに関しては記録しないできたときもあり、残念だが詳細なラジオの出演記録は判らないのである。
 「演能記録」には、初めての収録は8歳で『橋弁慶』の子方・牛若丸役で、シテは喜多節世先生とある。その後は10歳で『橋弁慶』の子方、シテは喜多実先生、11歳の時も同じく実先生で『高野物狂』と母が記録してくれている。数度の収録経験の中でも、一番の思い出は父がシテの『松虫』の時のこと。多分私は10代も最後の方だったと思うが、『松虫』の全容も知らず、父から録音があるからシテ連を謡えと突然言われて面食らったことを覚えている。シテ連という役があることも知らない時分だから、どこを謡うのか、どのような役なのかと初めて謡本のページを広げたというお粗末ぶりであった。見ると謡うところはシテとの連吟しかなく、すると途端に、どうせ父について謡っていればいいだろうと暢気にしてしまった。それでも録音当日近くなると「放送だ、どうしよう……!」と焦りも出てきて内心は興奮気味。渋谷にあるNHK放送センターには裏に通用門があり、そこを通ると守衛さんが立って監視している。「502スタジオに録音に来た能楽の粟谷です!」と、ここでちょっと芸能人気どり。あ?我ながら、ミーハー!だ。
 父は少しでも多くの経験をさせよう、また世間に息子の名前を覚えてもらおうという親心で、未熟な私をメンバーに入れてくれたのだが、親の心子知らずとはこのことだ、未経験者が全国放送を体験してしまったのだからお恐れ多いことである。まして出演料まで頂戴してしまうのだから、さすがにあの時はウシロメタサを感じた。
ということで、この時のことは強く印象に残っている。遠い昔のお恥ずかしい一話でした。

録音スタジオ投稿日:2018-06-07

能楽師が訪ねるスタジオ入り口には「謡曲鑑賞云々」と書かれている。
スタジオは広さも様々だが、最近、謡曲関係者は同じスタジオに通されているようだ。
入り口近くに録音室があり、録音技師やディレクターがこの部屋からガラス越しに指示を出す。「5秒前、4秒前、3、2、1…」、そしてどうぞと手が振られて我々は謡い出す。
出演者の前にはそれぞれマイクが並びその前に正座して謡う。

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不思議とどこのスタジオにもピアノが置いてあるのだが、クラッシック演奏の収録でもあるのだろうか。見台は長唄用の本を立て掛けるタイプのものが用意されている。以前は通常の本を横に平らに置くタイプのものではなかったかと思うのだが、確かではない。録音はテレビ撮影と違い音だけのため、出演者5、6人は皆、見本(けんぽん)といって謡本を見ながら謡っている。

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録音でも正式には着物を着用したほうがよいのだが、私は無精して洋服姿で謡っている。座るとズボンに皺が出来るので、ダブダブの緩いズボンに穿き替えて一応お洒落のつもりである。昔、上にガラス窓があるスタジオがあって、中が覗けるようになっていた。誰にも見られることはないと思っている私たち出演者は、猿股やパンツ姿のあられもない恰好で着替えていたのだが、どうも上の窓から見られていたようだった。さぞご覧になられた方は驚かれたことと思う。これじゃお洒落だなんて言っていられない、思い出すたびに恥ずかしい。それからというもの、私はスタジオの中に入ると必ず周りを見回す癖がついてしまった。

収録メンバーはシテが決めることになっていて、日頃謡い慣れた人が集められることが多い。伯父の新太郎や父は依頼がくると、決まってまず親族に声をかけ地謡を構成したものだ。お陰で私もあの独特の緊張の収録現場を経験することが出来たのだと感謝している。こんなところでも伯父や父の配慮を感じてしまうということは、私も齢を重ねつつあるということだろうか。これからは、どんどん若い人にも収録という経験をして欲しいと思う。

能楽座パンフ「菊生さんを偲んで」投稿日:2018-06-07

梅若六郎
 私にとって菊生師は、年齢は離れてはおりますが非常に身近にアドバイスをいただける良き先輩でした。特に謡についてはいつも適切な助言をいただき、私自身も菊生師の謡によって触発されることが多々ございました。今となってはそのお言葉の数々が懐かしく、そして心に強く残っております。
 また、永年、能楽会の重鎮としてのご活躍はかけがえのない役割をお果たしになられたと思います。
 この後も菊生師をはじめ、先輩方の教えを思い出しながら舞台を勤めていきたいと思っております。

大倉源次郎
 昨年の粟谷能の申し合わせに、菊生先生の地謡で江口を勤めさせて頂けると意気込んで国立能楽堂の楽屋へ入った時、そこに先生はいらっしゃいませんでした。状況を伺い愕然としたことを昨日のように思い出します。
 大阪で育った小生は、大阪菊生会と阪大喜多会の舞台が菊生先生との出会いの場で、力強く独特の浮き節を謡われる菊生先生の舞台と、酒席での先生のお話に純粋無垢な少年が影響を受けるのに時間は掛かりませんでした。
 父を早くに亡くした小生に対して、同じ次男坊で気持ちを良く判って下さったのだと思いますが折に触れアドバイスを頂きました。心細く迷ってばかりいた小生を気遣って下さったことが嬉しくどれだけ勇気付けられたか知れません。
 先生の若い頃は「人数が少ない喜多流は観世流の三人分働かなくてはダメだ。」と猛烈な忙しさで全国を飛び回っていらっしゃいました。阪大OBが纏められた喜寿のお祝いの冊子に、これからは二人分に減らして身体を大切にして下さいとお願いしました。こんなに早くお別れが来るのなら、一人分に減らして大切にして頂きたかったと叶わぬ思いを抱いています。
 現代社会と能楽会、喜多流、そしてこの能楽座を見渡し様々に配慮されていた菊生先生が亡くなった今、大正、昭和、そして平成と戦中戦後を通しての労苦を越えて成されたことを思い直し、この豊かな時代に生まれ、遺された私たちは、これからの舞台づくりを少しでも良いものにすることで遺志を継がなければならないと思い居ります。

大槻文蔵
 菊生先生には、大槻能楽堂自主公演に二十数年お舞い頂きました。数々の名場面に多くの方々が感動されました。私も色々の事を勉強させて頂き、今も深く残っています。しかし、一番思い出深いのは私が自分の会で“隅田川”を舞いましたのを地謡して頂いた事です。
「文ちゃんうまく謡ってやるからね。」
 そこは異流しているというような事を、全く感じない自然体の舞台でありました。

子を尋ねる母の強さ、孤独感
   念仏の輪がどんどん広がっていく有様
茫洋と明け行く関東平野

素晴らしい地を謡って頂きました。
「先生、もう一番“善知鳥”を謡って下さい」と、お約束していたのが出来なくなって残念です。
 色々教えて頂いて有り難うございました。

片山九郎右衛門
 まことに惜しい方を亡くしました。
 残念です。
 粟谷菊生さんは東京にお住居の、まして他流の方ですから、京都在住の私には、舞台上の御縁も、スケジュール的にもお出会いが殆どございませんでした。
 しかし、〈喜多流に粟谷菊生さんあり〉とは、先頃没くなった観世榮夫さんや静夫さんから、よく伺っていました。粟谷さんのことを、真剣に、そして愉快に話していられるのを聞き、いい先輩なんだな、と思ったものです。
 その後、追い追いに、東西合同養成会や仲間内のパーティなどで拝眉の機を得ましたが、折々のスピーチには何時も感心させられ、楽しみにしておりました。
 八世銕之亟氏の亡き後、能楽座の代表も務めて下さり、私も折にふれ、大先輩と楽しく一杯やらせて頂くようになり、いろいろお話をする内に、次第にお人柄に魅かれて行きました。率直に申せば、私自身が年齢を重ねる程に、何と得難い、大切な方だ、と思うようになって参ったのです。
 直接拝見できなかった貴方の「景清」の写真集を改めて手にし、感銘を受けております。この決然とした強さ、そしてツレの肩に置かれた手の、むっくりとした温かさ、やさしさ。〈自分が粟谷菊生さんに魅かれたのは、これやった〉。今、如実に感じております。
 賜りました御厚誼、誠に有難うございました。
 心より御礼申し上げます。

近藤乾之助
 粟谷さんにお会いすると楽屋でも、道でも「よお……。乾ちゃん」まず、その言葉でした。最近、私におっしゃった言葉で、「我々の年では自分から動かないで、よく見て考えて行く。」そのような意味の言葉ではなかったかと。
 菊生さんに初めてお会いしたのは昭和二十年代の初め、染井能楽堂での能楽協会の稽古会の折でした。
 先輩の能で印象を受けた中のひとつ、景清で作り物から顔を出し、脇、ツレを見る時、背中、腰は作り物の中、そこに景清の生きて来た、過去の姿が見えたのです。
 初めに述べました先輩の「よお……。」と云う声が忘れられません。

茂山千作
 確か昨秋のことだったかと存じます。粟谷さんの舞台写真集の出版に際して、私に序文を書くようにとのお話がございました。勿論、積年の畏友・粟谷さんのこと、喜んでお引き受けいたし、昔を偲びつつ拙文を認めましてお送り申し上げたのですが、その後いくばくもなく粟谷さんの訃報に接しようとは……遠く京都におります身にとりましては余りに突然のことで、しばらくは信じ難く茫然自失の体で、やがて深い悲しみと喪失感がおしよせて参りました。
 粟谷さんとはお兄様の新太郎さんともども、七十年に垂んとするお付き合いでございました。豪放闊達なお人柄で無類のお酒好き—–そんな処が互いに触れ合ったのでしょうか、舞台が終われば共に盃を重ね、酔えば談論風発……誠に芸の上ではよきライバル、舞台を離れれば無上の友—–最後まで「七五三チャン」と私の本名で呼んでいただいたのは粟谷さんお一人でした。
 粟谷さん亡き今、ありし日がひたすら懐かしく、寂しさがひしひしと身に迫ります。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

茂山忠三郎
 菊生さんとは六十年ほど前から毎年宮島の桃花祭の奉納の時にお会いしていました。
戦後、桃花祭は一日目と三日目は喜多流と決まっていますのでご一緒する時間は長いので楽屋ではよくお話をしました。
 四国の金子五郎さんの催しでもよくご一緒し、松山にいる忠三郎門下の古川七郎と一緒に飲み歩いたこともありました。
 また、毎年春の「菊生の会」、十二月には大阪大学の学生能には間狂言のいるときには私を必ず呼んでもらい、うかがっていました。能のあとには学生連中と一緒に飲んだこともあり、酒飲み友達でもありましたね。
 いつも豪快に賑やかに飲んで楽しむお酒でした。粟谷さんは小さいことにはくよくよせず、お人柄も豪快なお方でした。舞台でも真面目な能を舞われる方でした。能を舞われるときと同じで優雅に堂々と「豪快な侍」という感じの方です。今はそういう方は少ないのではないでしょうか。
 こういうように一年中ご一緒することが多く、また粟谷さんのお父さんの時から私の父と仲良くしていただきました。私が倖一なので、「倖ちゃん」と呼んでもらい、私は「菊生ちゃん」と呼ぶくらい親しい仲でした。
 粟谷さんにはお兄さんの新太郎さんがおられて、私たちは次男同士、息の通じるところがありました。「どうも長男は得で次男は損をすることが多い」と愚痴をこぼすこともありました。
 最近は段々と心やすかった人が先に逝かれるので寂しい限りです。粟谷さんとはお互いに体を大切にしようと約束していたばかりでした。
 ご冥福をお祈りいたします。

追悼 菊生さんを偲ぶ
曾和博朗
 在りし日の菊生氏の面影を思い浮かべ乍お相手の事等考へて居ります。
 菊生さんは一九二二年のお生まれで、私は一九二五年で御座いますので三ツ上の兄貴になります。もっともっと活躍して頂き度いのに誠に残念です。
 昭和二十三、四年頃、山陰でお能の会があり、喜多長世氏(元六平太氏)、粟谷新太郎氏、菊生さん達と夕食の席にてお酒をあびる程飲みました。亡くなる前の日までお酒を飲んで居られた由、わたしもこう在りたいとうらやましく思います。
 舞台ではいろいろとお相手をさせて頂きました中で、私が無形文化財各個指定を受けた記念でNHKのテレビにて菊生先生のお謡で一調一声玉葛を打たせて頂きました。もとより何もかも御存知のお方ですから安心して思ふ存分勤めさせて頂きました。
 二、三年前四国松山で景清があり、ひろちゃん(私)は元気だけれど、手をつかないと立てねんだよ、情けない、と菊生さんらしくない事を言はれました。其の後、能のシテは引退された由、昨年東京観世座にて鵜飼がありシテ友枝氏、地頭菊生氏にて勤めさせて頂き本当に良い地謡でした。これが最後のお相手となりました。
 天国にてよく舞いよく謡い、そしてよく飲んでください。           合掌

菊チャンと呼んだ先輩
野村万作
十歳年上ですが、菊チャンと呼ばせていただいていました。
 催し後の宴席などで、「菊生先生がいられたらば、さぞ楽しいだらうに。」と喜多流の後輩の人々の声を聞きます。あの世の方が、だんだん賑やかになり、実先生(菊チャンは壮年期、実先生の影の如き存在でした。)友さんと敬愛していた友枝喜久夫さん、勿論お兄さんの新チャン(粟谷新太郎さん)節世さんなどと、菊チャンは今の能界のあれこれを面白く話して、皆を笑わせているのではと想像させられます。
 粟谷ご兄弟に誘われて、目黒での催しの後よく一緒に飲みました。先輩たちの喧々ごうごうの芸談の渦の中にいられたことは、誠に幸いで、懐かしく思い出します。
 菊チャンは懐の深い人でした。年寄りから若手まで、流儀を超えて誰とでも親しく話し、人に影響を与える言葉の表現力を持っていられました。先輩たちが亡くなったとは言え、いつの間にか能界の頭目としての大きな存在となったのも、その芸は勿論ですが、人柄のしからしむるところでしょう。
 新チャン健在の頃、「次男は長男の三倍の努力!」と同じ立場の私によく言っておられました。あれは菊チャン五十代の頃だったでしょうか。「二朗チャン(私のこと)は兄貴と仲良くて、僕は太良チャン(兄のこと)と仲がいい。面白いもんだね。」そんな言葉もよく聞きました。
 揚幕から顔を出すようにして狂言もよく観ておられ、的確な感想をもらされる。相手の人に即して物を言える、会話の名手でございました。
「花月」のお相手をしたことがあります。シテが、間狂言の肩に手をおいて、共に歩む小唄の動きについて、「君についてゆくから、足数は細かくは決めないでやらう。」と言われ、大変気持よくできたことがあり、後々まで、そのことをよく言っておられました。
 柔らかな心で人との調和を生み出す、芸、人生の達人は、敬愛する多くの人々に送られて、西の空に旅立たれたのでした。
 菊チャン、長い間お導きいただき有難うございました。

粟谷先生の想いで
藤田六郎兵衛
名古屋に居りますので中々先生のお相手をさせて頂く機会はありません。しかし有り難い事に粟谷先生の代表曲とされる「景清」を四度、そして地頭をお勤めの時に数度お相手をさせて頂きました。
 舞台の終わった後、あのニコッとされた迫力有るお顔で今日の日吉(ヒシギ)は良かった、あのアシライはこうだった、あそこに藤田流はアシライが有るんだね、または藤田流は吹かないの?と必ず一言声を掛けて戴きました。笛方としては何よりもアシライの事に気を掛けて戴け、ご注意戴ける事が大変有り難く、そして大変嬉しい事でした。
 舞台が終わった後に、今日はお小言かな、笑顔かなとドキドキしつつも声を掛けて戴くのを楽しみにしていたのですが、もう先生はいらっしゃらない。寂しい事です。

菊生先生との半世紀
三島元太郎
一九五四年秋、東京駒込にあった染井能楽堂。毎日存分に太鼓を打てた環境は有り難い事この上なしでした。が、金春先生と仲良しの菊生先生が頻繁にご来宅。稽古場でもあったのですが常にお二人の存在は最初から師匠が二人。機会ある毎に的確なアドバイスを頂戴しました。
 偉大な功績の一つは大阪大学での能の指導でしょう。学長になられた岡田実先生のご尽力もありますが、四〇年近く自演能を続け、育った人たちは凡そ二〇〇名に及ぶとか。一流人として社会に雄飛しつつも、声が掛かればすぐに応じて舞える人が何人もいます。学生時代に如何に充実した稽古がなされていたか、ずっとお手伝いをさせていただいた者のよく知る所です。ぴしっとした緊張の持続の中で、時にほっと心を和ませる巧みな指導法は鮮やかなものでした。またこれらの方々が後に能楽を支える客ともなってくれているのです。経済性を度外視した先見のご努力には心底敬服いたします。
 昨年七月能楽座自主公演の後席で、話題は太鼓の撥捌きにも及び、最後にあの天下一品のにっこり笑顔で「元ちゃんあとをよろしくたのみますねえ」横で頷いておられた榮夫さん。爾来あの場面は脳裏を去らない。
 ありがとうございました。                         合掌

菊生先生さようなら
山本東次郎
太平洋戦争は能楽会にもさまざまな傷跡を残しました。貴重な面・装束・伝書類はもとより、多くの能楽堂が跡形もなく焼失してしまいました。終戦当時八歳だった私の記憶の中だけでも、その大半の舞台を踏んでおりますので、たいへんな数になります。戦後、都内に残った舞台はたった三つ、「多摩川」・「染井」・「杉並」。戦争のために失った時間を取り戻そうとするかのような各流、各派の先生方の気迫と情熱、それにはまず稽古場としてこのわずかな能舞台をいち早く確保すること、我が家の舞台を使われたのは喜多流と金春流で、喜多流は月・水・金の三日が稽古日でした。
菊生先生とはその頃からのお馴染みでした。私より十五歳年嵩の、いつも面白いことを言って笑わせてくださるお兄さんでしたが、少年・青年時代の十五歳差は一緒に遊んで頂ける仲間ではありません。しかしそれが三十歳と四十五歳ぐらいになると、なんとなく同世代的な意識が見えるらしく、様々なところで一緒のお仲間に入れて頂けるようになったと思います。
 当初は「女性」への心理的な接し方やマナーについて語ってくださいました。また共に年を重ねていくに従って、「老」というものへの心構えや考え方を教えて頂きました。それらはいつも菊生先生の実体験に基づいた反省やら考察やらで、身を乗り出すように真剣な面もちでおっしゃるその内容は、いつも実にユーモア溢れる楽しいものでした。大阪の大学で稽古している女子大生が「センセーッ」と言ってすぐ手を繋いでくれるので「俺もまだまだモテるんだな」って思っていたら、「お足元が危ないから、お気を付けください」との一言に凄いショックを受けて、落ち込んでしまった等々。
 物事は何でも良い面・悪い面の両面があるものですが、菊生先生は常に良い面を選び取り、明るく前向きに生きてこられたのでしょう。「女性」はともかく「老」楽しいものではありませんが、菊生先生に掛かると何でも楽しく思えてくる、いつもそんな風でした。
 菊生先生は喜多流のみならず、能楽界全体の後輩たちの舞台をたいへん気に掛けてくださる方で、時には見所までお出になって、よくご覧になっていました。近頃は私の狂言さえも幕際でよくご覧くださって、いろいろ感想を述べて下さいました。何しろ小学生の時からずっと見て頂いているわけで、特に私の科白の言い回しについて過去からの成長の過程を見知っていらして、それをとても一生懸命分析して、よく頑張って来たと誉めてくださったりもしました。そんなことを率直におっしゃって下さる方は他にはおいでになりません。ほんとうに有り難く思ったものです。
 持ち前の明るさと明晰な頭脳、誰にも愛されるお人柄で能楽界を縦横に席巻なさった菊生先生、心からの御冥福をお祈り申し上げます。

銕之亟さんを偲ぶ投稿日:2018-06-07

銕之亟さんを偲ぶ

粟谷菊生
 榮夫さんが喜多にいられた頃、初めて能がヨーロッパ公演を行った時を機に、静夫(八世銕之亟)さんと親しくなって以来、ずーっと頼れる友達であった。?能楽座を立ちあげるときも、静夫さんから話があって加わった。
 青年時代と変わる事なくいつも能のことを考え、話し合う人だった。
 彼には能の一曲一曲について教わることが多かったし、彼も私の意見を求めに来た。そんなときはいつしか二人とも興奮してくるのを禁じ得ず、情熱的に話し合ったことは大切な思い出である。
 亡くなる四年ほど前に、平泉の中尊寺で「大原御幸」を舞うことになったが、菊生さんに後白河法皇をやってもらいたい、という。私のようなごついのがやったら貴方の邪魔をする、といったら、「後白河法皇っていうのは大もので悪い奴なんだよ だから似合っている」という。「悪い奴なんだ」と何度も繰り返すその言い方がえらく気に入って承知してしまった。心に残る舞台だった。喜多流の初同のところを、喜多流と違ってシテとツレが三人で謡うところはとても綺麗だった。そのほか思い出す舞台はいろいろあるが、式能を目黒の喜多能楽堂でやったときに舞われた「采女」で、中入りのところで何ともなく後ずさったのが心に染みた。また能楽座の一九九九年の自主公演のときに、私のシテ、榮夫さんのツレ、銕之亟さんの地頭で「通小町」を演じた。本当によい地頭だった。これが能楽座自主公演の最後だったかもしれない。

父 益二郎のこと投稿日:2018-06-07

父 益二郎のこと
粟谷菊生

先頃、喜多宗家の装束問題が新聞紙上に載って、この芳しからぬニュースに我々流儀の者はなんで今頃また?と言う思いだが、これは宗家だけの個人的な問題で弟子家には全く関係のないこと。

我々弟子家は演能に不自由しない装束をそれぞれ持っているので何の痛痒(つうよう)も感じない。粟谷家では父益二郎が生前、収入の大半を装束や能面の購入に注ぎ込んでいたおかげで今、不自由なく舞台を勤められる装束を持ち合わせている。
しかしそのため父は実によく働いた。

父の時代は,今と違って一般の家庭では電話を設置してはいなかった。
今の人たちには考えられないことだろうが急を急ぐ場合は電報を打った。今では電報は祝電か弔電と、桜が咲いたとか散ったとか、入試や就職の合否の通知ぐらいになったのではなかろうか。

この電報で面白い話がある。その昔、地方の社中が予定の稽古に人員が集まらず、この度は稽古にお出で頂くのは遠慮したいと電報を下さった。
父の返信がフルッテいる。

「デン、ミヌ、ユク」。

これには先方の御社中
「イヤー、マイッタ、マイッタ。」と。

しかし人数は少なくても費用は皆が分担して益二郎先生には御出で頂こうということになった。強引な押し掛け教授というところだが六人の家族を養い装束や能面を買うためには孤軍奮闘的、働き続けねばならなかったのだろう。

昭和三十二年六月に第二回能楽渡欧団の一員としてパリに発った兄を、母スエ子と共に見送りに行っている羽田空港での父の写真がある。

舞台姿や職分、御社中の方々との集合写真はあっても、こういう家族的な写真は非常に珍しい。カンカン帽をかぶって。生後一年九ヶ月の明生を抱いているが、この約三ヶ月後に染井の能楽堂で『烏頭』の演能中に斃れ父は他界した。

僕は父に似ているとよく言われてきたので、僕も六十六歳であの世に行くことになるだろうと長年、勝手に思い込んできたが、その予測死亡年齢より十八年近くも生き延びてしまった。

ということは、もしも僕が冥土に行っていたら既に十七回忌を迎えていることになり、僕の遺影の前で皆がお線香をあげている図を想像したりすると、おデコに三角の白い紙でもはりつけてみようかなんて気になる。くだらない妄想はいよいよ頭の方がオメデタクなった証拠?

父の舞台については折にふれ話したり、書いたりしてきたが、『谷行』『弱法師』などの、あの切れと味のある舞は、他の追随を許さぬもので、僕はこれをそっくり頂戴して僕のものにしてしまいたいと思ってきた。

『湯谷』『羽衣』などそのふくよかな温かみのある美しい舞い姿は、豊麗な謡とともに今でも特に鮮明に心に残っている。

能は笛で始まり笛で終わる投稿日:2018-06-07

能で使われる楽器は四拍子といって笛、小鼓、大鼓、太鼓の四種あり、笛はこの中で唯一の旋律楽器です。三月三日の雛祭りに飾られる五人囃子に扇子を持っている人形が一人居ますが、あれは謡を謡っていて、他の四人を見ると、それぞれの楽器がお判りになるでしょう。演能開始前に、鏡の間で先ず「お調べ」といって楽器の調整(チューニング)をいたしますが、笛から始まり、続いて小鼓、大鼓、太鼓の順となります。
揚げ幕を片幕にして橋掛りから舞台に入るのも笛方からです。笛方が後座に入る頃に地謡(コーラス)が切戸より登場し、笛方が笛座についた後に地謡の先頭から順に地謡座に座わります。
能は笛の吹き出しで始まり(時に例外の曲もありますが)最後も笛の音色で終わりとなります。そして退場は、まず笛方が立ってから地謡も立ち上がります。
囃子方、地謡方の人々が全て舞台より立ち去って、その曲の舞台は完全に終了したということになるのです。
地謡の前列右端は笛柱を挟んで笛と最短距離にあります。
私が少年だった頃、忘れもしない靖国神社の奉能の時でした。地謡の中で最年少だった私が、そこに座っていて一曲が終わったので立ち上がろうとすると、「坊や、笛より先に立つんじゃない!」とお笛の偉い先生に一喝されたことがありました。
武田信玄のようなお顔をした、島田巳久馬先生でしたが、ある時「江口」の地謡を謡った私に、その同じ先生から「坊や、いい謡を謡ったね」と誉められました。これは今でもはっきり覚えているほどで、とても嬉しかった。
叱るときは叱る、誉めるときは誉めて励ます。今はこういう事が世の中全般にわたって無くなってきたと思います。
島田先生から受けた此の二つのことばは、この年になっても心の中に深く残る忘れ難いものとなっています。

島田巳久馬
1889(明治22年)?1954(昭和29年)笛方一噌流 熊本生まれ
正木利三郎 十二世一噌又六郎に師事、1938(昭和13年)より宗家代理を勤めた

小鼓について投稿日:2018-06-07

小鼓というものは黙って前に置いて持たせると、大抵左手で持って左の肩にもってゆくものです。テレビのコマーシャルで綺麗なお嬢さんが実際そうしているのがありましたが、正しくは左手で持った小鼓は右の肩の方に持ってゆき右肩に一寸かけて、右手を下から上に向かって打つのです。地球の引力に逆らって打つ打楽器は小鼓だけではないでしょうか。小鼓の皮は馬の皮で、特に馬の腹部の皮が最良とされています。そして調子皮といって、皮の振動を加減するために皮の裏に一糎角程の小さな鹿の皮を張ります。それで小鼓は馬鹿皮ということになります。親の代に皮を張って打ち込んで、本当に鳴るのは孫の代だといいます。二枚の皮の間には胴があります、この材質は何だろうか?
こう覚えてください。馬は、皮が小鼓に、肉は馬刺に、なります、ですから胴はさくら(桜)です。

太鼓について投稿日:2018-06-07

このホームページの「囃子方の楽器」の最後は、お能で最後に登場する太鼓です。
太鼓方は観世流と金春流の二流がありますが、金春流宗家の金春惣右衛門氏と僕とは、竹馬の友であり、観世流宗家の観世元信氏とは1954年日本初の海外演能となる、ベネチア、ビエンナーレ国際演劇祭に御一緒に参加した仲で、この名人達者のお二人に育てられた人達が今、立派な舞台を勤めている事は心強い限りです。
さて、太鼓は一目瞭然、嵩(かさ)、目方、共に一番大きく、昔は弟子に持って貰える少数の人以外は、持ち運びがなかなか大変でした。今は車のついた旅行用の鞄を用いたり、自分の車で移動出来る便利な時代になりました。
 戦争中(第二次世界大戦)、食物が欠乏し、お米を手に入れるのも容易ではなかった頃の面白い話を一つ。能楽師も御多分に洩れず、ひもじい思いをしておりましたが、お勤め料(出演料)が「お米で何斗(と)」(斗は一升の十倍)という時もありました。これは当時は有り難い話なのですが、食糧の配給制度下のことですから、正規のルート以外にお米が流れるのは御法度で、折角頂戴したお米も、無事持って帰ってこられるかどうかは、その時の運次第。厳しい検閲にひっかかって没収されてしまうのです。ところが不思議ことに、無事通過してお米をしっかり持ち帰る人が二人いました。一人は先々代家元の故喜多六平太先生と、もう一人は金春流太鼓の柿本豊次先生。六平太翁は長い靴下にお米を入れてご自分のふんどしにぶらさげてくるのです。想像しただけでも滑稽ですが、小さな身体の老人が少々おかしな歩き方をしていても疑われなかったのでしょう。一方、柿本先生の方は、太鼓の胴にお米をしこたま詰め込んでくるのですが、警官は太鼓が本来どの位の目方のものなのか、知る由もありません。平素、お荷物になって申し訳なく思っている太鼓が思はぬところで、ご主人様のお役に立って「太鼓の恩返し」というところでしょうか。
ちなみに金春流と観世流では胴の大きさが違います。金春流の方が胴の高さが少し高いのです。従って締め方も違って、金春流は舞台の上でも締め直すことがあります。しかし今は観世、金春共に道具の画然とした使い分けは無くなっているようです。

(写真 柿本豊次氏「吉越立雄写真集 直線の美」より)

大鼓について投稿日:2018-06-07

大鼓はオーツヅミともオーカワともいいます。大鼓は「皮を焙(ほう)じる」といって、大火鉢に備長の堅炭を真っ赤におこして皮を焙(あぶ)り、カンカンに乾燥させます。それを男の強い力で思いっ切り締め上げる・・・そういう手間が掛かるので他の囃子方よりも、ずっと早く楽屋入りせねばなりません。昔は素手で打った方もいて、その音色は捨てがたいものがありましたが、今は皆、指皮(ゆびかわ)をつけて打っています。
小鼓を打つ人の袴の縞は細く、大鼓の袴の縞の幅は太めで、両サイドの笛と太鼓は無地に近いようなごく細い縞を用いると言われておりましたが、今はそれは守られておりません。僕の若い頃には、川崎九淵先生、亀井俊雄先生、安福春雄先生、瀬尾乃武先生・・・と何れも名人と言える素晴らしい方々がいらっしゃっいましたが、今もこの分野の方々が先人たちの立派な芸を受け継いで活躍しているのは頼もしい限りです。
 安福先生には、その頃若かった僕は大変可愛がって頂きました。よく飲みに誘ってくださいましたが、したたかに飲んでは、大事な衣装鞄を盗まれることしばしばで、なんとあのアラン・ドロンが「サムライ」という映画の中で安福先生の紋付を着て出ていたのです。紋所が「丸に洲濱」だったので直ぐ判りました。世の中が今のように豊かではなかったので泥棒は中のものを期待して盗ってゆくのでしょうが、宝石箱のような小箱は開けてみてさぞガッカリしたことでしょう。中に入っていたのは指輪ではなくて指皮だったのですから。盗まれた紋付が、どういう経路でそこまで行ったのかは判りませんが、安福先生はお背が高かったので、廻り廻ってドロンが着ることになっても寸法は合ったようです。風貌も、ちょっと欧米人的で、昭和二十九年、能の初めての海外公演となるベネチア国際演劇祭にご一緒に参加した時のベニスで撮った僕と二人のスナップ写真などは、先生を知らない今の人に見せると「この人は外人?」と訊かれる位です。体格の良いことではその時代、小鼓の幸圓次郎先生(幸清次郎氏の父上)は大兵肥満型でしたが、このお二方の大鼓、小鼓と笛の寺井政数先生との組み合わせによる修羅物の後場などのお囃子は聞いていて、ワクワクしたものでした。今は昔・・・と思い起こす懐かしい舞台シーンです。

地謡について投稿日:2018-06-07

初めて能を見ようとする方や、能とはどんなものなのか、とお尋ねの方に説明するのは、「オペラのようなもの」というのが一番判りやすいようです。外国の方だけでなく日本人にも、そう言うと直ぐに納得していだけるのは、まことにおかしな話ではあります。つまり日本人も、日本のクラッシック芸能より西洋のクラッシック芸能の方が良く判っているということで、オペラは常識的な知識としてインプットされ、日本の能といったら皆目見当がつかないという人々が大半ということがオカシクもあり、日本人として、ちょっと悲しくもあり…というところでしょうか。
ところで今回お話しようとする地謡はオペラのコーラスに当たります。但し能の地謡には必ず地頭(じがしら)がおります。つまりコーラスリーダーですが、地頭の良し悪しで地謡が良くも悪くもなるのは当然です。そしてこの地謡が良いか悪いかでその時の能の良し悪しも決まります。地謡が良ければシテは演じ易く、囃子方も大いにノッテ、技を発揮しようという気にもなってくるのです。
地謡は通常、8人が舞台に向かって右の地謡座というところに座ります。喜多流では後列の客席に近い方から数えて2人目が地頭の座る位置、流儀によっては笛座に近い方から数えて2人目が地頭の座る位置となっている場合もあります。
素謡(能一曲を謡だけで奏す)の時は喜多流は膝の上に扇を両手で持って謡いますが、能の時は各流通じて右手に持った扇を立てて謡います。この扇を立てて持つまでの作法は各流異なります。
地謡は情景や物語の運び、故事来歴等を謡うのですが、脇やシテの科白となる部分を謡うこともあります。
ここで又ちょっと面白いお話。宮島の桃花祭(毎年4月16日?18日)の時、厳島神社で御神能という奉能があります。初日と3日目のが喜多流、2日目が観世流の受け持ちで行われていますが、素人でも御榊料をお納めして能を舞ったり、地謡にも出ることが出来ます。4?5年前、我も我もと地謡に出る希望者が多く、前列と後列共に10人ずつ、気がついたら脇座のところ迄座ってしまっていて、脇が出ていったものの座る場所が無かったなどということや、地謡同士が舞台や楽屋で日頃着慣れない長裃の裾を踏み踏まれ、つんのめっては危うく転びそうになったりという事がありました、子供の頃から長年親しみを以てそう呼んで来た「宮島さん」の御神能ならではの珍景です。

(写真 地頭 粟谷菊生 撮影 宮地啓二)

「上野東照宮新年謡初め」の思い出投稿日:2018-06-07

元旦は各流とも、その流儀の舞台に集まって「謡初め」という行事がありますが、近年までは正月二日に上野の東照宮にて三流合同の謡初めの行事がありました。毎年必ず勤める観世流と喜多流に、一年おきに交替で宝生流と金春流が加わり、三流でこれを勤める慣わしとなっておりました。

正月二日は稀に暖かい日もありますが、概して寒く、夜半からの寒気で冷え切った朝の参道の玉砂利の冷たさをそのまま、下から吹き上げてくる風は拝殿に素砲上下の紛出(いでたち)で列び坐す我々の襟元を刺し、手はかじかんでしまいます。私が子供の頃、先々代観世左近さんが神官の「謡いませ?!!」とのひと声に、間髪を入れず『高砂』の「四海波」を神殿に向かって平伏したまま朗々と謡い続けていらしたのが印象に残っております。続いて『老松』、それから宝生流か金春流の『東北』、最後に喜多流が『高砂』を、それぞれ舞囃子で舞います。そして神官が白い寿服(じゅふく)を観世さんから順に、膝まづいている太夫たちの素砲の肩に掛けてゆき、太夫たちは、それを着けて『弓矢立合』の曲を三流合同の地謡で、三流が同時に舞囃子で舞い納めるという珍しいものでした。三流で同時に謡うのですから一応は簡単に申合せはするものの、流儀によって文句や発音が違うので、ここは一番大声を発する者の勝ちと、喜多流は馬鹿声を張り上げたものでした。吹きさらしの拝殿は、まことに寒いので、体の中から温めておくようにとの思し召しか、始まる前に御神酒を頂戴します。故亀井俊雄さんが、この御神酒を土器(かわらけ)で何杯もお代りしていらしたのを子供心に妙に憶えています。
戦争が始まり途絶えていたこの行事を復興させたのは観世流の関根祥六さんですが、お弟子さんの地元の世話人の方が亡くなられてからは残念ながら行われなくなりました。
身も心も引き締まる冷たい新春の、清々しい空気の中で勤める上野東照宮での謡初め?
これは今となっては、懐かしい思い出の新年行事となりました。それはともかく、
新世紀も粟谷能の会をご支援、お引き立てのほど宜しくお願い申し上げます。

弓矢立合 写真右より 観世左近 宝生英雄 喜多実 
撮影 あびこ喜久三
亀井俊雄氏 写真  撮影 吉越立雄

景清を舞うにあたって投稿日:2018-06-07

能楽座パンプレットより

?今回は「景清」を舞われますが 
粟谷 「景清」は非常に好きな曲です。先代の六平太先生の当たり芸だったし、特に先生の晩年は、「景清」を舞われることが多かったんですね。ですから私は若いころに型を全部覚えちゃってました。この曲の一番大事なところは、「松門ひとりで閉じて・・・」の謡だと思うんだけれど、その「松門」の謡を、喜多流は強くぼそぼそっと謡うんですよ。装束も他流は着流しで、面も優しい表情のものだけれど、喜多流は大口をはいて強い面をつけて、景清の心境を謡います。ヨワ吟があったりツヨ吟があったりしますが、竹を切って割ったように、ぼつぼつ切って謡えと教えられました。私が四十歳ぐらいで初めて舞った頃は、声がありすぎて非常に苦労するわけ。ところが最近は、今年七十四歳なんだけど、五、六年前からは、そんなことを一切考えないで、そのままの自然体でやっていれば、「景清」が舞えるような気がして、今は苦しみというより楽しみながら勤めさせていただいてます。

?喜多流の謡は狂言の平家節に繋がるような、強くばっと切って謡うというか、他の流儀にはないやり方ですね。
粟谷 そう、六平太先生はぼそぼそっと謡われた。それからうちの親父(故粟谷益二郎)の「松門・・・」の謡もとてもいいと思っているのね。若い頃には、「尾張の国熱田にて遊女相馴れ一人の子を持つ・・・」というところなんかは、ちょっと色っぽく謡おうとして節をつけて謡ったりしたけれど、最近は淡々と謡えるようになってきました。

?「女子なれば何の用に立つべきと思ひ、鎌倉亀が江が谷の長に預け置きしが・・・」というところに、武士の身勝手さとか、断固たる強い生き方が、ばんと出てくるように思うんですけど、以前、壽夫(故)さんの「景清」には、どこか公達のロマンの雰囲気を感じました。喜多流のは非常に男っぽく、女子だから何の役にも立たない、しょうがないから置いて来た、その子が遠く日向まで逢いに来てくれた、その娘に本当は縋りたいのだけれど敢えて帰してしまう、というところが、見事に浮き彫りにされる作品だと思います。 

粟谷 最後にツレ(娘)が立ち去って行くところで、シテとツレはすれ違うんだけど、そこで「匂いを嗅げ」って言われて稽古しました。六平太先生が百歳ちかくまで長生きされたお陰で、お稽古に間に合ったわけで、本当によかったと思っています。そのほか友枝為城さん、敏樹さんがなさった「景清」は、六平太先生とはまるで違うんだが、これがまたじつにいい「景清」なんだ。「さてまた浦は荒磯に寄する波も聞こゆるは・・・」というときに立ち上がらないで、ちょっと面を傾けるだけですよ。そんな型をいっぺんやってみたいと思うけれど、よっぽど力のある者でないとできませんね。

?ワキと囃方との関係ではいかがですか 
粟谷 作り物の中にじっとしていて、「里人の渡り候か」というところからワキの問答を聞くのが好きなんですよ。道行のところもね。私は余りにも六平太先生のが強烈で、どうしてもそこからとびだせないけれど、近年になって、生意気だけれど、こうした方がいいんじゃないか、ああしたほうがいいんじゃないかなっていうのをつけ加えてやっています。

?子供のころからずっと舞台をみてきて、自然に覚えたものをしっかり見につけ、その上でご自分の思いや工夫を加えていくというのは、凄いことだと思います。

孫、尚生の初シテ『猩々』投稿日:2018-06-07

今年、平成十三年四月八日に明生の主催する明生会で孫の尚生が初シテとして『猩々』を勤めました。私の初シテの時に父、益二郎が作ってくれた装束を、その後みんなが着て今、また孫の尚生が着ている…まことに感慨深いものがあります。

菊生
明生
尚生
今年、平成十三年四月八日に明生の主催する明生会で孫の尚生が初シテとして『猩々』を勤めました。私の初シテの時に父、益二郎が作ってくれた装束を、その後みんなが着て今、また孫の尚生が着ている…まことに感慨深いものがあります。中学生の頃、益二郎の弟子となり、今は私の社中である長田美枝子さんは、私の初シテ、長男明生の初シテ、そして更に孫尚生の初シテと三人の初シテの『猩々』をご覧くださっている…、三代の初シテをご覧頂けるというのは、余り無いことでしょう。「御長命なればこそ」で有難いことです。当日、楽屋に私と明生と、今はこの道から離れてしまった次男知生の三人の初シテ『猩々』の写真を飾ったところ「まあ、こんなにお可愛らしい時があったのね」と私の写真に掌を合わせた方がいらっしゃって、何ともくすぐったい思いをしました。
橋掛かりを頭を揺らさずに下り端(さがりは)で出てくる尚生の腰の入った運びを見て、此の子の将来にひそかに安堵を感じた「孫可愛いや」のジージ(爺)ですが、爆発的に謡い舞っている尚生の姿に、私も地頭として全精力で応えてやれたのが何よりの喜びです。日頃、孫に「おじいちゃま」と呼ばせず、「キクオチャマ」と呼ばせている私が、この日ばかりは、孫の初シテで地頭を謡えた幸せに浸り、大いに爺馬鹿ぶりを発揮してしまいました。

キャディあがりのプロ投稿日:2018-06-07

ここしばらく更新ができず申し訳ございませんでした。昔まだビデオなどなかった時分、雑誌「喜多」に投稿したものを記載させてお許し頂きたいと思います。
京劇では二本の旗を立てると車に乗ったことになりますが、能にもたくさんの約束ごとがあるのはご承知のとおりです。例えばワキが一足出て手を合わせて開けば、ある地点からある地点まで旅したことになるとか、悲しみの表現にも、シテは左手で二度シオるが、ツレは右手で一度しかシオらないというような。昔は南を向いて坐っている貴人の前で演じられた能ですから、舞台は北向きに建っています。『弱法師』の「南はさこそという波の」というところで、シテが南を向けば、天子にお尻を向けることになるのがおそれ多いから、少しはずした型が生まれてきたわけですし、『邯鄲』の能では夢の中での型はすべて逆というのも、曲趣からの発想だとうなづけます。そんなふうに考えてみると、謡でも仕舞でも、もっとわかりやすくなって、興味が出てくるのではないでしょうか。
私はよく稽古中、お弟子さんの型をオーバーに真似てみせます。若い娘さんは「あらッ、ひどいわッ」とにらんだり、キャァキャァと笑いころげたりしますが、実をいうと、そんな真似でもしたら印象に残っておぼえやすいのではなかろうかという気持ちなのです。
うちの稽古場には、サラリーマン・OL・学生さんなど若い人が多勢来ていますが、私のねがいは、誰にでも一度は装束をつけて能を舞わせたいことです。そしてまた、お弟子さんに能を教えるのは私にとってもプラスになることなのです。
というのは、自分の舞い姿は自分では見られないのですから、お弟子さんに能を舞わせて、その姿から間接的にも自分の姿、自分の能を眺めたいのです。だから時々、見所の側面からお弟子さんの能をみつめ、自分を矯正する一つの手段にしています。六平太先生、実先生から受けついだものに、多少自分の工夫を加えた私の能が、果たしてお弟子さんの能にどんなふうに表現されているか。それは私にとって大きな期待でもあるし、こわさでもあります。
私たち能楽師は、ゴルフでいえばキャディあがりのプロといったところ。技の点ではたしかに素人のお弟子さんには真似のできないものがあるでしょうが、素人の能には、時によって私たちをはっとさせる美しさ、よさがあります。それは何だろうと考えてみると、私たちプロとちがって、ねらわないよさといったもの、小学生が立たされている時のような無心の気もちの現れではないでしょうか。
私など、とかく器用だといわれる半面、技に溺れやすい危険性もあると思っているので、そうした素人の能から、時には教えられるものを感じることがあります。
仕舞、囃子は、いわば能のデッサンです。もちろんデッサンがなくては能は舞えませんが、現代人としては、永久にデッサンばかりやっていたのでは、というていこの道に引きいれられないのではないかと思われます。デッサンができて、やがて一環した曲が舞える喜び、それをぜひ一人一人のお弟子さんに味わってもらいたいのです。そうでなかったら、せっかくの能が、やがて上流階級の人たち、少数の人々の楽しみになってしまうのではないか、それが私には心配なのです。

吉右衛門に刺激された『鬼界島』投稿日:2018-06-07

『鬼界島』(他流は『俊寛』)を勤めると思い出すのが、強烈に印象に残っている先代中村吉右衛門(初代)さんの歌舞伎『俊寛』のラストシーン。共に流された成経、康頼は都に帰り俊寛一人が取り残される。クライマックスの最後は岩場を伝って岸壁を這い登り松の枝に手をかけ舟を見る。すると枝は折れて、からだは平衡感覚を失ってしまう。ここを猿之助(二代猿之助=猿翁)ならパッとこけて、ドングリ眼をむいて見栄を切るところだが、吉右衛門は違った。自分のからだがどうなろうと構うことはなくじっと舟を見ている。視線を舟から離すことがなかった。これだ。自分の乗れなかった舟を追うことで、残されたものの悲壮感が出ると僕は思った。歌舞伎はどちらかというと大袈裟な芝居になり、能とは違う表現方法をとるとかねがね思っていたが、あのときの吉右衛門の演技は、能に応用がきく気骨のあるものだった。吉右衛門は背中と足の裏で俊寛を表現している、あーすごい役者だと、彼の演技が頭を離れなかった。
僕の俊寛も、舟が去っていくまで、左手は舟を指し、視線は舟から離さないやり方をしている。舟の動きを追いながらかすかに面を動かし、心のひだを表現するのだ。
僕が大坂城薪能で『鬼界島』を勤めたとき、堂本正樹氏が「菊生さんの差し出した手の先に大きな海が見えた」と言ってくれた。役者にとって嬉しい言葉だ。
舟に乗って行こうとする二人の袂に取りついて、「せめては向かひの地までなりとも、情けに乗せて賜び給へ」と俊寛が言うところは僕の大好きな謡い所の一つ。そのとき、「情も知らぬ舟人が櫓櫂を持って」打擲しようとするので、またうろたえて右往左往する。この哀れな場面をことさら哀れっぽく謡うのではなく、間(ま)と節のちょっとしたなびきの具合で表現する、ここが何ともいえぬ面白さなのだ。
僕が使う面は喜多流にある「俊寛」という専用面だが、鼻が高く、彫りが深くて、アラブの人のような不思議な雰囲気がある面だ。舞台では花帽子で包んでいるから不思議さが伝わらないかもしれないが、とにかく他の俊寛の面とは違う趣があって僕は気に入っている。
『鬼界島』はもともと喜多流にはなかった曲。喜多流の明治本には見当たらず、型付などの伝書もない。六平太先生、実先生、後藤得三先生、親父もやっているが、それぞれに型をつくって演じたのだと思う。もともと型付けがないから自由に創作することができる。僕は中村吉右衛門の舞台に刺激され、自分なりに自由に演じてきた。それが幸い評判よく、『鬼界島』は菊生さんの当たり芸だと言われる。僕自身も好きな曲で、よく舞台にも出すようになった。
僕が父益二郎の『羽衣』が美しいと思い、その型を継承しようとしたように、僕の『鬼界島』によさを感じて真似ようとする人があれば、その型は伝承されていくのだろう。能は古いものを継承するだけでなく、いつの時代も創造と継承が織り込まれているように思われる。

阪大、東大で教える 「植林が大事」投稿日:2018-06-07

僕が謡や仕舞を教えるようになったのは十代の終わりのころだった。秋田や東京女子大などに教えに行けたのは、父が地盤を築いておいてくれたから。それを踏襲するだけでは、丹精して育ったものを刈り取るだけになる。僕の子や孫へと長く続けてもらうためにも、親父がやってくれたと同じように、僕も植林しなければならない。とりわけ学生を教えることは、将来の能愛好家をつくることになるから重要だ。若い学生のときに謡や能の楽しみを知ってしまうと、それはからだにしみ込んで、忙しい社会人になって一時離れることになっても、必ず戻ってきてくれるものなのだ。

僕も学生を教えられないものかと思っていたところ、女房の母親が知り合いの東大生を一人紹介してくれ、たぶん昭和25年頃に東大喜多会ができたと記憶している。東大病院外科の木元博士に喜多会の部長になってほしい旨をお願いしたところ、「将来のためと思って菊生さんが学生を教えたいというなら私立の方がいいのではありませんか。東大は一匹狼が多くて、キミの期待には応じられないかもしれない。私立は社会に出るとスクラムを組みますからね」と忠告してくださったが、当時、慶應や早稲田といった私大にはすでに謡曲部があって、僕の入る余地はなかった。僕は東大と阪大といういずれも国立大学に縁あって教えに行くことになったが、卒業後も結束が固く、OB、OGの会をつくり、息長くつき合いが続いている。
東大喜多会は最後は入部部員がいなくなり廃部となり残念であるが、阪大はこの5月4日(平成15年)にOB会の翁会総会を京都西本願寺の聞法会館で開き50名が集まって、私の傘寿のお祝いをしてくれた。
阪大に初めて教えに行ったのは昭和四十二年。僕が大阪で謡や仕舞を教えていたその頃中学生だった子のうち、二人が阪大に合格したことをきっかけにして謡曲部をつくろうということになった。当時は学生運動が盛んで大学は勉強どころではなかった。授業がないから謡の稽古をするといった具合で、生徒はかなり熱心で、阪大謡曲部の基礎を築いてくれたように思う。僕は月一回ぐらい教えに行っていただろうか。僕がいないときでも稽古ができるように、謡は、阪大の近くに住む、謡の上手な僕のお弟子さんにお願いし、型の方は僕が中学生のころから教えていて、阪大に入った前記の二人が仲間に教えるというように、一通りのレールを引いた。その後は新一年生が入ってくると二年上の部員(三年生)が教え、一学期に仕舞三曲を覚えさせる、これが阪大謡曲部の伝統になり、今に続いている。
阪大や東大の学生の中には独特の覚え方があるらしい。謡本をみると、アンダンテ、モデラート、四拍子などと書いてある。なるほどこんな風にして覚えるのかと妙に感心したことがある。半下げといって半音下がるところがあって、下げたら少しずつ上げていってもとに戻すのだが、こういうことを六十代ぐらいの人にいくら説明してもなかなか理解してもらえないが、学生は一回言うとすぐにわかってくれる。学生というのは乾いた土に水がしみ込むように飲み込みが早いから、教えていても実に気持ちがよい。しかしあまり理屈ばかりではダメで、特に一年生にはあまり説明しないで、感覚的に入ってもらうようにしている。大ノリの八拍子も慣れないと謡いにくいところだが、まずはからだで覚えてもらい、理屈は二年生になってから徐々に・・・としている。
からだで覚えるといっても、もう少し謡本の内容を読んできなさいよと注意したくなることもあるのだが・・・。阪大の話ではないが、ある会社で相当お偉いお弟子様が『融』で「木幡山伏見の竹田、淀鳥羽も見えたりや」と謡うところを、「木幡、山伏」と平気で謡ってしまう。「ここは木幡山、伏見の竹田ですよ」と僕が注意すると、「あっ、そうでしたか。山伏と思いました」などと。山伏など全く物語に関係ないお話なのに、もう少し謡本の内容を理解して謡っていただきたいと思う。
阪大では、年一回一週間の夏合宿も恒例の行事になっている。僕も毎年楽しみに出かけ、学生と同じ生活をする。合宿所は三食五千円ぐらいの予算だからかなり粗食だが、僕の食事が特別ということはない。あるとき天ぷらが出たのだが、あまり衣が硬くて唇を切って往生してしまった。蚊の襲撃にあったり、部屋に蛙が跳んできたりと合宿のエピソードには事欠かない。
学生が熱心に稽古している姿を見ているうちに、僕はこの子たちに何とか能を舞う経験をさせてあげたいと思うようになった。年一回、十二月の第一土曜日に行う自演能。これが恒例になって、もう三十回は越えている。初めのころの番組は『羽衣』『小袖曽我』『小鍛冶』と決まっていたが、そのうち『通小町』や『忠度』『花月』など、新しい曲も入れるようになった。お能を舞った後、学生は必ず泣いている。なぜ泣くのか。それはやり遂げた達成感とあっという間に終わってしまう花火のような舞台への名残惜しさではないだろうか。お能を舞った連中が、後に集まると、「オーッ、お前は『花月』やったのか、うちは『羽衣』や」と話がはずむ。一度お能を舞った人間は、必ず謡や舞、お能に戻ってくる。何か特別な魔力があるようだ。
自演会で僕に入ってくる謝礼は七万円。三十年以上前からこの額は変わっていない。最初のころの七万円というのは、学生にとっては大変な額だったことだろう。親御さんから出してもらったり、あるいは仕送りの中からなけなしのお金を集めて僕へ最大限のお礼をしてくれたのだと思う。ところが三十年以上たった今も同じ。これでは新幹線代と宿泊代で消えてしまう額だが、僕は植林、植林と思って、黙って受け取っている。
阪大では、僕の舞台があるときには必ず観に来てくれて、終演後、僕が着替えて楽屋口から出てくるまでは、楽屋口の前で整列して待っているという規則があるらしい。ある寒い日のこと、「粟谷先生は学生をよく育てていますね。早く行っておあげなさい。学生が寒いところに立ってずっと待っていますよ」と言ってくれる人があった。学生たちはみんなで話しながら、寒さに耐え、僕が出て来て車に乗って帰るのを見送る、というしきたりになっているのだ。
 

阪大の稽古の後は学生主催の会食があって、そのあと何人かを連れて二次会に行くのが恒例で、そこでみんなといろいろな話をすることを楽しみにしてきた。昔は部員が多かったから、学生の方で今回は誰と誰にするかと割り振りをしているようだった。半数は女の子を入れるという心憎い気配り。それで、豪華なところではないが、彼らが行ったことのないちょっと気のきいた店に連れていく。「菊生先生、おでんのおつゆお代わりしてもよろしいでしょうか」などという子がいたりして、同じものを食べて「同じ竃(かまど)の飯を食う」という言葉があるが「和」を作って行くように思う。
その頃の連中も、今ではみんな偉くなって社会で重要な役割を果たしている。そしてOB、OG会に参加して、いまだにつき合いが続いている人が多いのは大変嬉しい事だ。
「菊ちゃん、いつまで学生と遊んでいるんだ」と太良ちゃん(野村萬)に言われたことがあるが、僕は学生に教えることが好きだからいまだに教えている。教えているというより、学生の若いエネルギーにふれ、生きる力をいただいているようなものなのだ。
合宿の方は、暑い夏、一週間かんづめになるのはきついだろうとの明生の進言に、自分もそうかなと思っていたところ、たまたま肉離れを起こし、さすがの僕も観念して、平成十二年の夏から、息子の明生に行ってもらっている。明生は僕が病気をしたときに代役で教えに行ってくれたことがあったが、学生を教えることの楽しさを知ったらしい。学生の方も僕よりはもうちょっと自分たちに近い明生に親しみを持ってくれたようである。
しかしまだまだ阪大は全面的には明生に渡さないぞという心意気で今のところ頑張っている。とは言え、将来は勿論引き継いで貰いたいと思っていることも確かだ。情熱を注いで育ててきた学生たち。さまざまな思い出が頭をめぐる。これらの思い出は僕にとって大切な宝物だ。そして僕の植林した樹木はしっかり大地に根付き、枝をはり、次の世代に渡してあげられるようになってきていることを僕はとても喜んでいる。

(平成15年5月)
写真 モノクロ49年8月 淡路島阪大合宿
カラー50年8月 丹後網野阪大合宿

百八十年ぶりの『伯母捨』投稿日:2018-06-07

私が百八十年ぶりの『伯母捨』を勤めて、もう九年が過ぎた。七月には素人会ではあるが、素謡と舞囃子でこの曲を謡うことになり、今準備に入っている。
今回の菊ちゃんの一言は、あの『伯母捨』を思い出し、思うことを記したいと思う。老女物といえば、当時、兄の新太郎が『鸚鵡小町』を舞い、僕が『卒都婆小町』を舞って、親父が果たせなかった老女物を兄弟で一番ずつ舞っていたのだから、あの世へのよい土産物もできたし、もうこれで老女物はよいと思っていたのだ。
ところが能夫と明生に「『伯母捨』を舞ってほしい」と言われてしまった。『伯母捨』は喜多流では、百八十年前に井伊掃部頭(かもんのかみ・宮中の施設・掃除などをつかさどる役所の長官)の邸において上演され、そのときは太鼓が加わる出端であったという記録があるばかりで、その後舞われたことがなかった。僕の知る先輩たちは誰一人として舞ったことがないのである。『卒都婆小町』のように謡で親しまれているわけでもなく、喜多流ではほとんど廃曲のような曲だったから、これはえらいことになったと思った。
私は次男に生まれ、重い曲は長男がやるものと思っていたから、次男の自分が『伯母捨』を勤めるなどと夢にも思っていなかった。それが平成六年十月粟谷能の会で実現することとなったのである。私をやる気にさせたのは能夫と明生の説得上手、その技以外の何ものでもなかったと思う。
決意した翌日からおよそ二年間、僕は『伯母捨』の掘り起こしに没頭した。喜多流では百八十年間誰も勤めていない曲なので、他流の方からも素人の方からも、いろいろな方からお力添えいただいた。本当にありがたく感謝してしきれるものではないと思っている。
とりわけ銕仙会の観世静夫さん(故観世銕之亟さん)が力になってくれた。「菊ちゃん、一緒に見ようよ」と言って、銕仙会の楽屋に誘ってくれ、静夫さんが舞ったときのビデオをみせてくださった。そこで二時間、二人だけの部屋で、静夫さんは『伯母捨』を熱っぽく語った。「菊ちゃん、僕はここをこうやりたかったんだ」「ここはもっと違う型もあるよ」「月はあるときは満ち、あるときは陰るでしょ。それをたった一つの扇の上げ下ろしで表現するんだ」などと、段々お互い興奮し、盛り上がったのである。まことにありがたい二時間だった。
装束も銕仙会から拝借することになった。静夫さんの暖かい心づかいが身にしみたが、装束を借りるということは、すでに負けなのである。負けたのだから徹底的に下手に出て、どうぞ私に力をお貸しくださいという態度で教えを乞うのでなければならない。安易に「ビデオでもあったら貸してよ」などは失礼千万な言い方で、とんでもないことである。僕はそう思って教えを乞うてきた。
「朧月の型」を考えていたとき、橋岡久太郎先生の一枚の写真が思い出された。全身力を抜いてすっと立ち尽くされた姿、僕はこれだと思って、その型をいただいた。そこからいろいろなイメージが湧いてきたのである。
『伯母捨』は捨てられた身でありながら、恨み言を言うでもなく、「わが心なぐさめかねつ更科や伯母捨山に照る月をみて」と月に情趣が注がれ、月光に興じ、遊ぶ、品格のある曲のように解釈されやすい。しかし、僕は『伯母捨』という曲は、お能の品というものだけに逃げてはいけないと思っている。僕の『伯母捨』は月夜に座ってじわっとおもらしをしながらそのまま死んでしまう老女だよ、それでいいならと言ったことを覚えている。
『伯母捨』に挑むときに、動かぬところは微動だにせず、舞いかつ謡う、徹底的に老女になって舞うからな、だから、お能としての品格は閑ちゃん(宝生閑氏)がつくってくれ、太良ちゃん(野村萬氏)がアイで語ってくれ、囃子方も含めて、あなたたちが品格というものを供えてくれとお願いした。囃子方も、菊生という人間の芸をよく知っている人ばかりだったから、僕の老女に添ってくれ、すばらしいものをつくり出してくれたと感謝している。当時の配役をここに記しておこう。ワキは宝生閑、ワキツレが宝生欣哉、殿田謙吉、アイが野村萬(当時、野村万蔵) 地頭が友枝昭世。囃子方は笛が一噌仙幸、小鼓が横山貴俊、大鼓が亀井忠雄、太鼓は金春惣衛門であった。
百八十年前の『伯母捨』は太鼓が入る出端であったという。竹馬の友であり、天才的な太鼓打ち、金春惣衛門という男がいるのだから、今回も出端でやってみよう。それに絶妙な大小鼓、百八十年ぶりの囃子はすばらしい音色で能楽堂に響きわたった。
そして曲の最後。「恋しきは昔」と、月に興じ、月に遊び、夜もしらじらと明けてくると、老女を残して旅人は帰って行く。その帰っていくときの宝生閑と欣哉、謙吉のできがすばらしかった。三人がぴたっと息が合い、すこしの崩れも感じさせない。ワキとワキツレの後ろ姿を見ながら、老女が「一人捨てられた女が」と謡うところが哀しく難しい。そこをワキとワキツレがちょっとでも不揃いでシテの前を通ったのでは、この曲はおしまいなのである。シテの僕がいくら夢の世界だ、死の世界だと情感込めていても、それだけでは能は成り立たないのだ、役者が役者らしいことの最善の努力をして、囃子方が最高の音色や掛け声を奏でることがすべてだと思う。あとは観る人が想像してくれるのだ、と思っている。
『卒都婆小町』も一生懸命だったが、『伯母捨』は我を忘れるほど没頭した。僕にとって忘れられない曲となった。喜多流に見本となるものがなかったから、いわばすべての型が処女だった。演技しようなどという余裕もなかったから、一つ一つをきちんと確実にやろうと、そのことばかりだったようにも思う。しかし、それだけに僕の心の中はきれいだったかもしれない。

うれし恥ずかし『弱法師』投稿日:2018-06-07

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息子の明生が、8月31日秋田県協和町の「まほろば唐松能舞台」で『弱法師.舞入』を舞うという。
『弱法師』は、十四世喜多六平太先生の当たり芸であり、父・益二郎の仕舞が絶品であった。僕はその両方をうまく取り入れ、座頭市(主演、勝新太郎)の味も少し加えて勤めている。特に最近はこの曲を舞うことが多くなった。
 『弱法師』の舞台となる天王寺には、悲田院があって、乞食や病人が集まるところがあった。今でも、天王寺の付近には悲田院町という地名がある。簡単な病院があって、捨てられた人たちの面倒をみていたのだろう。そこは施しを与える人や受ける人が多く集まり、ずいぶん賑っていたようである。「踵(くびす)を継いで群集する」とあるから、前の人の踵を踏むくらい大勢の人が集まっていたわけである。この能ではシテ、ワキ、アイのほかには登場人物が出ないため、踵を踏むほどの賑いは舞台をみるだけでは感じにくいかもしれないが、謡の言葉の中から情景を想像していただきたいのである。中世は、寺社仏閣にはそのような乞食、身体の不自由な人が集まっていた、実際によくある光景だったと思われる。
 盲目の俊徳丸も毎日天王寺にやってきて施しを受けていたと思われる。だから六平太先生は「とぼとぼと歩かないで、もっと運んでいいんだ」とおっしゃった。俊徳丸は盲目とはいえ、毎日この場所に来ているのだから通い慣れている。どこに何があり、道が悪く大きな石ころが転がっているなど全部わかっているのだ。どう歩けばよいかちゃんとわかっているから、あまりヨロヨロとする必要はないのだと。そういえばあの盲目の勝新の座頭市も動きは素早く、目が見える人間より感覚が鋭いではないかと納得する。
 さて話は変わって、舞台の進行を見ていくと、父の通俊と子の俊徳丸の邂逅はどうなるのか。天王寺の同じ場にいながら親子はなかなか会えず、観る人はジリジリするだろう。最期に「夜も更け人も静まりぬ」というころになって、ようやく二人は名乗り合い、親子であることを確認する。それでも二人は終始、うれし恥ずかしの気持ちなのだ。「親ながら恥ずかしくて、あらぬかたに逃げければ」と地が謡うのに合わせ、シテは逃げ惑い、それを止めるようにしてワキの父・通俊が走り寄る。そして「明けぬ先にと誘い」と、俊徳丸を高安の里に連れて帰ることを促し、父も続いて行くと暗示させながら留めとなる。この最後のクライマックス、父子の逃げる、止める動きがきれいな絵になるようにしなければ『弱法師』ならない。「明けぬ先に」とは夜が明けてしまっては恥ずかしいとうれし恥ずかしの気持ちが満ちているのだ。
 僕は謡が好きだから、よい謡があるとうれしくなる。『弱法師』にも名文句があるのがよい。「それ鴛鴦の衾の下には、立ち去る 思ひを悲しみ、比目の枕の上には、波を隔つる愁ひあり」。ところがこの名調子、うっかりすると『砧』になってしまうから気をつけなければ・・・。『弱法師』はこのあと「いはんや心あり顔なる」と 続くが、『砧』は「ましてや疎き妹背の中」となる。お能の名調子はときに複数の曲に使われることがあるから面白い。

今にも通じる父娘の情『景清』投稿日:2018-06-07

11月1日(土)に能楽座つくば公演で『景清』演じる。最近は数年前の脳梗塞による微かな障害や、八十歳を越えた僕の体力を気遣い、甥の能夫や息子の明生の配慮で出演の依頼がくるともっぱらこればかり演じることになってしまった。ある方が「あの人はあの曲しかやらないねー。なんていう役者がいてもいいの、それが本物なら」などとおっしゃって下さるから、「よしまたお見せしよう、勤めよう」と僕の舞台へのすけべ心が動き出す。

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 お能の世界というのは何か遠いところのものに一生懸命噛りついて守っているように思われるかもしれないが、そんなことはないと僕は思う。演っていると、能は僕の人生そのものだ。どんな曲でも僕は僕なりの解釈をしてしまう。もちろん見識者、学者が称えるような立派な解釈ではないが、例えば『山姥』。山姥とは何かと問われれば、「編み笠をかぶり街道筋に出る夜鷹」と答える。街頭で身を売るんだ。それが僕の山姥、「山また山、いづれの工(たくみ)か青巖の形を削りなせる・・・」と謡う山また山というのは男の数なんだ。男が巖となっているのだとか、僕なりの解釈が働いている。
 今回の『景清』は僕の大好きな曲だ。ここには親子の情というものがあって、とても身近、遠い話なんかではない。昔、悪七兵衛と恐れられた景清も、日向の国宮崎に流されて年月をかこち、今や落ちぶれて盲目の身となっている。そこへ娘の人丸が訪ねてくる。しかしなかなか自分を景清とは明かさない。「今訪ねて来た子は自分の子なんだ。そうだ、思い起こせば昔、熱田の遊女と相馴れて、一人の子供をもったのだ」とひとり愚痴る。
 昔、ここのところをちょっと色っぽく謡おうと苦労したが、最近は淡々と謡えるようになってきた。僕が景清で景清が僕なのだという気持ちで謡っている。
 あるお弟子さんが、大きな声で「遊女と相馴れ!」とお謡いになるので、僕は「二人は抱き合っているんだぜ。女の子ができるんだ。そんな謡い方ではダメだ」と言って、何度も何度もやり直しをさせたことがある。そうしたらやがてよい感じで「相馴れ」が謡えるようになった。その方が亡くなられたときに、弔問に伺うと、奥様が「あのころ主人は朝から晩まで“相馴れ、相馴れ”でした。そのうちとてもよいように謡えるようになったんです。本当にどこかで相馴れたのではないかと心配しましたよ」などとおっしゃった。能は理屈ではない。人生そのもの。何度も謡っていくうちにその人になるのだと思う。そして最後、景清と娘は名乗り合い、別れていく。従者と立ち去る娘・人丸の肩に手をそっとかける場面は「匂いを嗅げ」と教えられてきた。愛しい娘だけれども別れていかなければならない。その万感の思いを込めるところだ。僕はこのとき、結婚式のバージンロードを思い浮かべる。教会のバージンロードに父親が娘の腕をとり歩いていく場面があるではないか。あれは残酷なシーンであると思う。娘を連れて歩き、いよいよ最後、娘を奪っていく憎っくき男に渡さなければならないのだから。
 しかしあの場面で、世の父親というのは相手の男をにらみつける度胸はないようだ。必ず視線をはずしている。僕の弟子でバージンロードをすり足で運んで、娘に「いやだなあ……。先生、父に何とか言ってやってください」などと言われた男もいる。そこまでくると僕も致し方ないが、父親の心境というのも複雑なものなのだ。
 それで僕は『景清』の最後、「さらばよ」という言葉を形見に別れ行くところは、バージンロードの父親のように、右に視線を落とす型をやっている。身近なことを何でもお能の参考にしてしまう、これが僕のやりかただ。

写真 景清 シテ 粟谷菊生 撮影 あびこ写真
白竜社、絵はがきより

粟谷菊生氏が語る、次男・菊生投稿日:2018-06-07

今回のちょっと一言は以前、国立能楽堂のパンフレットに記載された「西哲生の【聞書き】近代能楽私史◎巻之二十二、粟谷菊生氏が語る、次男・菊生」に少し手を入れまして、ご紹介することにいたします。(平成15年10月31日)

粟谷家と広島
 私ども粟谷の家は、もともと和歌山の出身です。浅野家が紀伊から広島藩主として安芸へ移ったとき、ついて行ったようです。広島に粟谷家の墓地があり、その寺も原爆で焼かれてしまいましたが、墓には「茶屋新三郎」と曽祖父の名が書いてあったのを覚えています。なぜ粟谷姓に変わったのかはわかりませんが、もとは茶屋姓だったのです。粟谷家
 父の益二郎は、本籍名では益次郎となっており、一人っ子でした。父は、子供たち全員に能をやらせるのは危うい、菊生は愛敬者だから養子にだしたほうがいいと親類から言われたそうですが、番組に粟谷の名前を沢山書きたかったのでしょうか、4人ともにこの道に進ませたのです。

 私の名は、大正天皇の天長節の日に生まれたので、菊生と喜多実先生がつけて下さいました。ちょうど本日で満八十一歳となりました。兄は、祖父・新三郎、先代喜多六平太先生、父・益二郎の三人から一字ずつとって、六平太先生が新太郎とつけて下さいました。弟の辰三は辰年生まれの三番目で辰三、末弟の幸雄は時の総理大臣、浜口雄幸の雄幸を引っくり返して幸雄。子供の命名も、下に行くほど、雑になってきますね。

 いま東京では私と辰三、それに、それぞれの子供たちと、兄新太郎の息子の能夫とでやっていますが、幸雄は福岡にいます。九州には喜多流の地盤があるのだからと、喜多実先生の命令で、幸雄が派遣されたのです。

兄弟仲のよいこと
 子どものころの思い出と言われると、お膳が丸かったことを思い出します。食事の時、すき焼の鍋がお膳の真ん中に置かれる、家族の誰からも鍋までは等距離だったわけですね。兄は春菊の下にこっそり肉を隠すことがあり、私はそれを見つけては素早く奪い取る。こんな状況でしたから、すき焼の肉をよく煮えてから食べた経験は少なかったです(笑)。子どものころはよく兄弟喧嘩をしました。しかし長男の兄には、一家の中で権力をもっていた昔気質の祖母がついていましたから、兄に勝つには容易なことではありませんでした。次男は長男の三倍の努力を、弟子家は宗家の三倍の努力を、つまり私は九倍の努力をしなければならないのだ、と私なりの持論はこのころからはじまったとも言えるかもしれません。

 粟谷の家は仲がいいとよく言われます。「その秘訣は」と皆さんから聞かれます。「本当に仲がいいはずなかろう」と言う人もあります。父は六十六歳で亡くなりましたが、私たちはまず兄をたてて粟谷家の団結を図りました。マネージメントは、次男の私がやっておりました。よそから粟谷へと頼まれた能は、兄へ持っていきます。
2人ともがスターを目ざせば、なかなかうまくはいきません。そこで、ずうっと兄をたててきたのです。五十歳を過ぎてからは、私の余生もいつまで続くかわからないのですから、粟谷家に能をと頼まれれば、兄ですか、私ですか、どちらをお名ざしですか、と伺うことにしました。今は、すべて甥の能夫と息子の明生にまかせていますが。

小袖曽我、右父・粟谷益二郎、左・正木亀三郎
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 父は明治三十五年に広島から上京し、先代六平太先生に師事しました。広島の饒津神社の神能で舞った父を六平太先生がご覧になり、スカウトされたのです。先生と父とのつながりは、単に師弟というだけではなかったようです。父は先生を親と思っていたのでしょう。父が『烏頭』の演能中に舞台で倒れ、亡くなったとき、六平太先生は父の棺の前で、「オイラもお前のように舞台で死にたい」と言われ、そして父に向かい、「バカな息子たちはオイラが引きうけた」とおっしゃって下さいました。

 父は六平太先生のハードな稽古をうけて、理屈ではない、いわゆる職人芸の人でした。先生の能の地頭をよく勤めていました。美声で、豊麗な謡でした。喜多実先生が、父の地謡について、「『鷺』の初同、『枕慈童』の初同は、粟谷さんでなくては謡えない」と言っておられました。どちらも巧まない、すんなりと謡うものなのです。私も子供心に、それを参考にしようと思ったものです。そして、同じ『湯谷』のシテでも六平太先生のは妖艶であり、父のは可憐な『湯谷』であったと思います。私がいつも濃艶な「万媚」よりも可憐な「小面」を用いるのは父親ゆずりの好みでしょうか。父は容姿がととのっていて、淡々と舞う人でした。

 全国を回り、作ってくれた地盤は、のちに兄や私が手分けして引き受けることになったのですが、回り切れないほどでした。父は若いころ、『桜川』の能を茶色の水衣で舞わされたといいます。六平太先生のお考えは、長い旅で、着る物もよごれたから、ということでしょうが。しかし、そのとき以来、父は自分で装束を作らねばと考えたようです。今日の粟谷家の装束は父の思いから始まり、そのお蔭で一応装束はそこそこ間に合うようになってきました。

家の面・装束
 兄は装束を集めるのが好きで、また面の収集が道楽でした。新しい面を手に入れると、それをかけて、そのまま寝てしまったりするものですから、いつでしたか、知らずに外出から帰った姉がそれを見て仰天したことがありました。私は面・装束は作り集めません。弟の私が作り始めたら、やがて争いになると思ったからです。分家というものは、本家に頭を下げて面・装束を出して下さいと頼むのです。それをこちらで持ってしまうと必ず争いが生じます。現在は粟谷装束保存会があって、新調したり修繕したりしています。

私の師
 私は初め父に習い、通いの内弟子として喜多実先生に師事しました。後に六平太学校に入りますが、実先生は、「一所懸命弟子をこしらえあげると、オヤジが持っていってしまう」と嘆いておられたものです。六平太学校の一番の先輩は故友枝喜久夫先輩、若いほうでは孫の喜多長世(現六平太)さん、故節世さん、そして私は先生のお稽古に間に合った最後の弟子といえましょう。兄も私も、友枝喜久夫先輩には謡をずいぶん教わりました。友枝さんと兄との仲は、他人には計りしれないものがありました。

十四世喜多六平太先生
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 先代六平太先生が鮮やかな能を舞っておられるときは、私はまだ子どもでした。先生は百歳近くまで生きておられた方ですから、舞台で舞われなくなってからが長いのです。先生はとくに小柄な方でしたから、座高の高い私は、ツレのお相手はあま
していません。先生のツレは、もっぱら友枝先生と兄でした。釣りのお好きな六平太先生のために、弟子たちの釣りの当番がありました。先生は、釣りに興味のない私を眠らせまいと色々と芸の話をして下さいました。私は『小鍛冶』の白頭を舞ったあとすぐ軍隊に入りましたが、先生は「菊坊が戦争に行くようでは日本は負ける」と言われました。実際そのとおりになりましたね。

 六平太先生は、ご自身が舞えなくなってから、やってみたい型を私どもにやらせてご覧にりました。私の『山姥』について、お前のは山ウバでなくて山ジジイだと言われたことがあります。兄が『玉井』に、いい面を手に入れかけたときのことです。「面が違うよ」と言われ、「龍神だから黒髭でなければ」とおっしゃるのです。私が「先生、白頭でございますよ、黒髭ではおかしくはございませんか」と申し上げると、「昔、オツムは白くてもヒゲの黒い人はいたよ」と言われる。また『小督』では、小督局は二階から月を見ているのだからツレは床几にかけろなどと言われます。私が「当時、二階家はなかったと思いますが」と申し上げると、先生は「五重塔があるだろう」と、万事こんな調子でした。先生が難題ばかり言われるものですから、『雷電』ではありませんが、先生が「弘徽殿」におられると皆は「清涼殿」へと逃げてしまう有様でした。

 先生は番組の作り方にも厳しく、呼掛けが三番ついたり、僧脇が三つついたりすると叱られました。そういえば、私が先生をやりこめたこともあります。『蟻通』『蝉丸』『融』が出たとき、「まことに申し訳ございません、三番とも、ついてしまいました」と私がお詫びに行きますと、先生は何がついたのかお気づきになりません。そこで申し上げました。「全部、虫がついております」と。

老女物を演じる
 『卒都婆小町』を勤めたときは、まだ色気のある『湯谷』『松風』等をやりたかったのですが、甥の能夫から、ぜひと言われ決心しました。そこで、世の中のお婆さんを観察し始めたのです。新宿駅の階段で、ため息ついて休息している老女を見て、これを使おうと思い、幕を出て左へ歩み、柱に手をかけて休息する型をやりました。

 『伯母捨』のときは、喜多流では百八十年も演じられていないのですから、何も判りません。それでまずは掘り起こしに没頭しました。演能までの二年間、実に様々な方々からあたたかい御支援をうけました。特に故観世銕之亟さん、そして栄夫さんは、装束のことにいたるまで親身になって力を貸して下さいました。野村萬さんが、「老女物は誰でもよく見えるから大丈夫だよ・・・・」と言って励ましてくれましたが、とにかくあの時は命がけとは言いたくありませんが、一所懸命でした。朧月という型を考えていたとき、ふと心に浮かんだのは、昔見た、橋岡久太郎氏の寂しく立ちつくす『姨捨』の一枚の写真だったのです。四拍子、ワキ、アイの皆さんにも本当に感謝していますよ。

次代へ伝える
 六平太先生、実先生、後藤得三先生、友枝喜久夫先生、そして兄、という先人に私は恵まれました。先人に教えられたことを、私は友枝昭世さんたちの次の世代に伝えれば、芸は伝わってゆくと思います。口で言うだけでなく、舞台で一緒に謡い、一緒に舞う、それが伝えることだと信じています。だからこそ現場で、一日でも長く働いていたい、そう思う今日このごろです。

阪大喜多会誌「邯鄲」に寄稿 投稿日:2018-06-07

今回の菊ちゃんの一言は、阪大「邯鄲」への寄稿文を記載しました。

阪大喜多会誌『邯鄲』第35号に寄せて 
                                   粟谷菊生                              

 阪大喜多会は1971年度卒の寺川知良君、下城圓君、福田全克君が草分けということになるのだが、阪大謡曲部の長でいらっしゃった出口庄佑先生も大変お力添え下さって、年々恒例となった阪大喜多流能を催す立派な会となっている。寺川、下城両君は父上たちが以前から僕のお弟子さんだったのだが、寺川君は中学生時代から稽古に来ていたので、彼とはもう40年以上のおつき合いとなるのではないだろうか。
 今年5月に西本願寺会館で、大勢の翁会(阪大喜多会OB・OGの会)のメンバーたちと、現役の数名が加わって、僕の傘寿を祝ってくれた。卒業後、各方面に散らばっていたメンバーが、よくぞこの日、一堂に会して下さったと感激した。今では50代を超えている人もいて、多士済々、すっかり貫録がついているのに、話をしていると、学生時代のそれぞれの顔にダブって・・・・というより僕の中には昔の若い顔貌が、そのままによみがえって懐しい一ときを過ごした。が、はて、それでは相手には自分の顔はどう映っただろう。この過ぎ去って行った何十年という時の流れを共に、今この顔貌になっている己れの加齢に気づき、ちょっぴり溜息と哀惜をおぼえてしまったのも正直なところだ。
 丁度僕が結婚した頃に始まった東大喜多会は、30年程前に途絶えてしまったのに反面、阪大は先輩の新入生や後輩たちへの面倒見の良さと相まって、何か温かい横のつながりとフレンドリーな雰囲気が、今まで綿々と長つづきしてくれている要因ではないかと思う。僕はそれをとても喜ばしいこと、有難いことだと思っている。
 いつだったか、4月の入部勧誘のキャッチフレーズが「人間国宝に触れます!!」だったそうだが、こういう文句を考えつく学生さんってスバラシイですね。でもこんな老体に触るの面白いですかねェ。それより「人間国宝に触られちゃいます」なんてのにしたら?
 女の子は入ってこなくなるでしょうね。
 最近になって指導は息子の明生が引き継いでくれているが、このまま、ずっと続いて、皆さんのお子様たちが明生に、その又お子様たちが孫に習ってくれるようになって”阪大喜多会は永遠です!”と末長く伝承して行ってくれるといいなあ、と思うのは少し息が長過ぎる話?些か翁さびた話になってしまったかな。

さて行李(コーリ)よ!投稿日:2018-06-07

「今更さこそ、悔しかるらめ、さて懲りよ」まさに『鉄輪』の文句。人には散々「転ぶなよ転ぶなよ」とエラそうにご注意申し上げていた僕が、何と行李など持って転ぶとは。ええ何とも忌々しきことを。今更さこそ悔しいのなんのって。
 余りにも愚かしき所業による報いのもたらした苦痛の大きさ。語るもお恥ずかしき事ながら、持たなくてもよい重い行李をタクシーのトランクから自分で運ぼうとして(因みに運転手さんは軽い方の衣装鞄を持って)喜多能楽堂の楽屋口の階段脇で行李を一先ず下に置こうとした途端、脚のバランスを崩し尻餅。頭を打たないようにと背中を着いたつもりが、したたかに背中を打って転倒。暫くは起き上がれぬままコンクリートの上に横になっていた。女房にやっと助け起こされ、何とか楽屋に入ったものの、あまりの痛さに内弟子部屋で四つん這いになったまま。とにかく病院へと。今まで何度も入院し現在も月に一度は検診に行っている済生会中央病院に連れて行かれ、レントゲン検査の結果は異常ないとのことで、医師は「安静に」と仰ったが舞台に戻り、痛さをこらえて、明生会の社中の『蝉丸』『道成寺』を気力で謡い、番外仕舞の『籠太鼓』を事件を知らぬ人々には全くそれと気付かせぬ舞を舞い納めてヤレヤレ。
 然し四週間を待たず、高知の粟谷会で仕舞『海人』を舞い、広島薪能で明生の奉納の『田村』の地頭を勤め、山口に廻り稽古をつけ一旦帰京、一ヶ月振りの東京のお弟子さんの稽古を一日やって、次の日は大阪へ。なんで四十代と同じこんなハードスケジュールになってしまったのか…とぼやきながら、五月二十一日のユネスコによる第一回世界無形文化遺産の能の会の『景清』はこれ又死に物狂いの舞台となってしまった。
 はじめの内はやさしく和吟の心で対応してくれていた妻も、僕が少しづつ回復してゆくにつれ、声も強吟へと変わってゆく。妻に言わせれば「やさしくしていると、いつまでもいい気になって甘ったれているから…」とのこと。「幼稚園の年少組のままでいいわけないでしょう?」と。妻の色分けは謂わば僕の回復度のバロメーター。
 世の中には八十歳で、或いは九十何歳になっても鍬を振り畠を耕したり、米俵を担いだり、こんなに元気元気と毎日テレビに出てくる矍鑠(かくしゃく)たる老人たちを見ていると、つい自分もそんな気になってしまったのが運の尽き…。ナァンテ悪い事はみんな他人のせいにする僕だが、今回こそは、自分自身に「今更さこそ。悔しかるらめ。さて懲りよ、思い知れェ!」というところです。僕としましては充分過ぎるぐらい後悔してますよ。懲りました。懲りました。

阪大機関誌「邯鄲」への寄稿投稿日:2018-06-07

「ちょっと一言」の更新が停滞していて申し訳ございません。そこで阪大機関誌「邯鄲」への寄稿文を記載しますので、ご覧下さい。

「邯鄲36号」へ
 18,9歳でストレートで入学し、阪大喜多会に入部した人々も、そろそろもう58、9か?還暦に近い方もいる筈。この中には現在、大阪菊生会のメンバーになって「昔とった杵柄」を発揮している方々もいる。 3月の大阪菊生会で舞囃子『松虫』を舞った阪大喜多会第一期生の福田全克君の舞台を見た明生は「おやじさんそっくりだった!!」と言っていた。勿論彼は器用でもあるのだが、如何に阪大の稽古は密度の濃いものであったか。集中力の塊のような状態の作れる若い時代に、良い稽古を受けると如何に好ましい結果を得ることが出来るか(尤も、こういう集中力があったればこそ阪大に入れたのかも)。何もない新しい土地に植林したのが今、漸々、緑の枝を繁らせ始めている。阪大喜多会の来し方をゆくりなく思い起こし、長い年月、自分のやってきたやり方は間違っていなかった。欲望なしに、いつの頃からか交通費を頂戴するだけで教え続けてきた、その実りの果実が今、自分の掌の中にそして良き報いの温もりがそこはかとなく胸の内にひろがっているような思いをしみじみ感じている。
 4月に馬鹿げたことで脚のバランスをくずし転倒、尻餅をついたあと、頭を打つまいとしてコンクリートの地面に背中を強打し、寝返りも出来ない程の痛さに呻吟し続けたが、二ヶ月経っても、もとのようにはならず、阪大の稽古に行っても、これが理想の型だ、動きだとお手本を示して見せることが出来ないのが何とも残念、無念、腹立たしい限りだ。父益二郎は67歳で亡くなったので僕もその年齢で他界ということになるだろうと思っていたが、それから15年近く生きてしまった。妻に「生きて十三回忌をめだたく通過しましたね」などと言われるが、今や正真正銘の御老体と相成り、時々電車で席を譲られ、そのご親切に有り難きことと感激しながら、傍らから見てもそんなに老いとるのか……と淋しくもなる。かと思うと「八十過ぎて面をつけて舞台に立って、実際に舞っているシテ方はいない」と豪語してみたり……。完全な幕引きまでの狭間にあっての暫し揺れ動くアガキと言ったところか。
 前号で「阪大喜多会は永遠であれ」と言ったが、孫の尚生が大きくなって、明生の教えた阪大生やOBを見て「パパにそっくり!!」と言ってくれるような時がくるといいなァ!と。こうなるともう好々爺の面持ちですね。 平成16年6月15日 粟谷菊生

粟谷菊生は古今亭志ん生投稿日:2018-06-07

1年前ですが、ピープルNo.32 能・芸・人に粟谷菊生が石淵文栄氏にインタビューされていました。遅ればせながらご紹介します。

http://www.log-osaka.jp/people/vol.32/ppl_vol32_1.html

投稿日:2018-06-07

来年も 此の桜 また見れるかと 
   年々おもう 年齢(とし)となりけり

と僕の心を妻に詠まれてしまったが、この数年来、家の前の桜並木の花を見上げては、本当に、毎年、そう思うようになった。
  昭和四十四年、見渡す限り何もないようなキャベツ畠の中に家を建て、風が吹くと関東ローム層の赤土が舞い上がり、一日に何回も掃除しなければならないと妻がボヤいていたが、その内どんどん家も増え、区が道を舗装して桜まで植えてくれて、短い距離ながら「桜通り」と名づけられてから、もう何年になったろう。
はじめは、ひょろっとしていた細い幹が一抱えもあるように太くなり、毎年見事な花を咲かせ、花の散った後は青葉を繁らせてくれる。染井吉野の並木の中、うちの前の一本だけが八重桜だ。或る年、台風で家の前の桜が我が家の方に傾いてしまった。区の担当と思われる所に電話したところ、早速来てくれたのは良いが、幹に縄をかけてトラックで引っ張った。ナント乱暴なこと! その桜は可愛そうにメリメリと音を立てて折れてしまった。そして、その後に何故か八重桜が植えられた。天に向かって上に伸びる枝々から幾重にも花びらを重ねた八重桜の花はポッタリと下に向いて咲いている。
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妻は染井吉野の方が好きというが、僕はいつの間にか此の濃い桃色の八重桜に愛着を持つようになっている。何か艶なる色気を感じてしまうのだ。悪く言えば爛熟した年増の色気か? とは言っても女性に対する僕の好み、いまの言葉でいう、「タイプ」は必ずしもそうではない。念の為(ため)。
 八重桜は遅れて咲くので、夜タクシーで帰る時「一本だけ花の咲いていない木の前で止めて下さい」とか、染井吉野が散ったあとは「一本だけ花の咲いている木の前で止めて下さい」…と。ほとんど毎夜アルコールの入っている老人は、舌のもつれを悟られまいと正しく発音するよう、無駄な抵抗かもしれないが、それでも懸命な努力を口の筋肉に課して、運転手さんにそう告げる。では花の咲いていない時季は?
「路面に30kmとペイントしてある上で止めて下さい」と、この時ばかりは、ちょっと英語など使ってみるのであります。満開の桜、花吹雪、八重桜、僕は心ゆくまで上ばかり見て楽しんでいるが、下ばかり見て、散った花びらを掃き集め、毎日のように大きな袋に入れてゴミの日に出さねばならない人の労苦は、嬉しがってばかりもいられないらしい。雨の日は散り敷いた花びらに滑りそうで老人は殊に御用心! それでもやっぱり桜はいいですなあ。日本人だとしみじみ思う。 

野村四郎氏と『卒都婆小町』を語る(H17/4/3掲載)投稿日:2018-06-07

野村四郎

粟谷能夫

粟谷明生

 今年の春の粟谷能の会(平成17年3月6日)に、粟谷能夫が『卒都婆小町』を披くことになったことから、新春早々、野村四郎氏に『卒都婆小町』についてご教授願おうと、粟谷明生も加わってお話を伺いました。暖かくも激しい芸談が展開され、熱い時間となりました。(3月の粟谷能の会は終了していますが、『卒都婆小町』を披く前の語らいを、ここに掲載いたします)。

能夫 今年私、『卒都婆小町』を披くことになりましたので、そのお話をひとつ・・・。

野村 『卒都婆小町』ねえ・・・。

能夫 おいくつの時、なさったのですか。

野村 いくつか忘れちゃった。いくつだろう。『卒都婆小町』でタバコをやめたんだ。(笑い)

能夫 『卒都婆小町』で僕、ダイエットしているんです。(笑い)

野村 『安宅』でタバコをやめて・・・、酒はなぜかやめるという意識はなかったね。『安宅』が終わって、またすぐにタバコを吸ったの。その後タバコをやめたのが『卒都婆小町』でした。『卒都婆小町』というのは、人生の中で何かあるんだよ。

明生 観世流は、一般的には『卒都婆小町』の披きは40?50代ですか…。喜多流は遅くて還暦を過ぎてからなどといいますが、これでは遅すぎませんでしょうか?

野村 喜多流のことは分かりませんが・・・。観世流は今、『卒都婆小町』を軽んじているように感じます。昔は『卒都婆小町』が最高曲でした。『鸚鵡小町』は稀にしか演じられなく、よほどの方でないと『姨捨』までは・・・。ですから『卒都婆小町』は老女物の披きの最高曲です。

能夫 うちもそうでした。

野村 そうでしょ。僕の体験からすると、あんまり年を経てから老女物をやるのではなく、若いうちに披き、二度、三度と勤めるうちにより良いものにすればいいのではないかと思うのですが、どうでしょうか?

能夫 本当にそうですね。

野村 足腰が駄目になってから挑むような老女物はダメ、勉強にならないよね。やっぱりまだ足腰がきっちりしている間に老いの虚構を演じるんだよ。

明生 なるほど。

野村 そうでしょ。爺さんになってそのまんまでは、演じることにはならないもの。

能夫 演じることにはつながらないですよね。

野村 その人のそれまでの能に対する考え方、意識というのが、そこに現れるものでなければ・・・。藤山寛美ならうまくやると思う、僕は藤山寛美というのは一番の役者だと思っています。でも、僕たちは役者は役者でも能役者だからね。能がついていると、乞食の役でもシルクを着ているんだよ。だからそこに私憤を絶やさないことじゃないかな。結局お能って、小町を演じるとき、まず一番に色気がないと駄目なんだよ。僕は「これは出羽の郡司小野の良実が娘、小野の小町が成れる果てにてさむらふなり」、この謡に艶がないといけないと思っています。そして「影恥ずかしき、わが身かな」で、笠で顔を隠すんですが・・・。喜多さんもなさる?

明生 観世さんのように、笠ですっぽり隠れるようにはいたしませんが・・・。

能夫 手でそっと。そのとき笠を持っていませんので・・・。下に座ったときに笠は置いてしまいます。

野村 なるほど。「影恥ずかしき」というのは何かというと、過去に対する恥ずかしさとかではなくて、僕は『姨捨』のような気持ちなのです。月に照らされて、皺も見え、老醜があらわになる。隠すというのが艶なの・・・。隠すというのを、僕は月を見てやるんです。月がすべてをあらわにするという・・・、汚くも見せれば美しくも見せる。

能夫 まさにそうですね。

野村 そして、年月を重ねてきたことを月に見られているという気持ちがある。すべてが見透かされているような。深草の少将との恋のことから、歌詠みで誇らしげであった気持ちまで、すべてが見透かされている。あーあ、今は老残の身、それが恥ずかしい・・・。つまり「これは出羽の郡司・・・・・・成れる果てにてさむらふなり」と謡って、ワキに「痛はしやな小町は・・・」と言われているうちに、だんだん恥ずかしくなってくるんですよ。これまでの名人は、寿夫先生もそうでしたが、「これは出羽の郡司・・・」はお婆さんで謡っておられないですね。違和感がなく昔を回顧するような、昔に引き戻されるような感じで、「さむらふなり」と謡ってワキへ向きます。そのときうちは笠を持っていますから、その笠が何か隠れ蓑みたいなものになって、控え目さみたいなものが出てくる・・・。

能夫 笠が防波堤のような。

野村 笠を持っているというのは、重心が下に着くからやりやすいんですよ。それで上が多少突っ張っていてもね。能夫さんは『卒都婆小町』披くにあたって、突っ張ってやってもいいけれど、いつまでも突っ張らかってではなくて、菊生先生のように自然体に。

能夫 菊生叔父の境地には中々なれないですよ。

野村 そう、直ぐには無理ですが。とにかく「これは出羽の・・・」、あそこの謡が勝負だよ。あそこでもって、小町のある部分が出なかったら、何もない。

明生 うあー、だって!(笑い)

能夫 わかります。

野村 それから習ノ次第で出るときには休息があるでしょ。そのときの型が本家と分家では違うのです。本家は伏せて体を杖に預けるようにしますが、分家は背伸びをします。

能夫 リラックスするんですかね。

野村 リラックスというか、杖をつきつき出てきて、ちょっと休み、あーあ、疲れたという感じ。本家と分家ではこんなに違います。

明生 父が、観世さんのどなたかが、後ろにのけ反るように背伸びしたと言っていましたが・・・。

野村 それです。分家の方はそうするんです。僕は両方やります。まず面を伏せ、それから少し体を伸ばします。体を伸ばしてからは元に戻るまで動きません。あの休息とは、そういう時間だろうと解釈しています。

能夫 どちらかでなくて。

野村 そう。それも両方を取り入れてやるというのではなくて、老女の自然の成り行きとしてと考えたいですね。

明生 その方が自然ですね。

野村 ねえ、老女には両方あるじゃない。僕は型付というのはある意味で羅針盤みたいな、方向指示器みたいなものだと思います。最近の型付はたくさん書いてあります。何で昔の型付はあまり書いていないか・・・。昔の型付ほど自由な余白がありますね。

能夫 書いてないから、自分で発想しなさいということでしょうか?

野村 そうだと思います。それで、次に書く人は自由に発想して自分のために書きます。人のためじゃない、それが型付の起こりです。それを今度は人にも伝え教えるようになって、伝書というものになった。花伝書も世阿弥が息子のために書いたものでしょ。それもたくさんの息子に教えるのではなくて一子相伝。

先程『卒都婆小町』は若いうちに勤めたほうがいいと言いましたが、それはあのワキとワキツレとの問答を経験してもらいたいからなんです。僧に卒都婆に腰掛けたのをとがめられるところからのいわゆる「卒都婆問答」。禅問答ではないけれど、あの会話を習得しようと思わないと・・・。シテは最初は受けから始まりますよね。それが次第に変化しながら、最後には逆転していく。それもなべをひっくりかえしたような大逆転。いきなりひっくり返るのではなくて、徐々に、最後にはどうだとばかり、僧が頭を垂れるところまでもっていく、そこのドラマでしょ。能のドラマというものを観客に伝えるのは大変なことだと思う。『卒都婆小町』は観阿弥の作品でしょう?

明生 世阿弥が改作していますが、もともとは観阿弥だと思いますが。

野村 観阿弥だから、憑き物の芸能というところがある。あの問答にも憑き物的なものがありますよね。ですからどんどん憑いて来て・・・。あれはね、考えてしゃべっているんじゃないんですよ。

能夫 そうですね。そういうイメージです。

野村 ワキの僧は一生懸命考えて言っているのですが、シテの小町は自然にポーン、ポーンとね。最初は間というものが大事だと思うけれど、徐々に時間が経つうちに逆転して、ついには「げに本来一物なき時は、仏も衆生も隔てなし」となる。あそこの場面、何か型をやりますか?

能夫 友枝昭世さんがやっていらした気がします。

明生 「隔てなし・・・」と強く杖をつかれていました。

野村 僕いろいろなことをやりますが。その前の「台(うてな)になし」でついてしまうのもありますが、それでは、シテのエネルギーが切れてしまいます。エネルギーを持続させるためには・・・。

能夫 最後に止めをさすような感じにするには。

野村 そう。あとでやったほうが気持ちが固まるね。ワキの高野山の僧侶なんか・・・ってね。

能夫 相手じゃないわ、って。おもしろくできていますよね。

野村 すごくドラマチックなんだ。

明生 あの問答の謡いかた…、考えてちゃ駄目なんでしょうが、何かコツみたいなものがありますか。最初から力んで一生懸命謡っているようでは、そこにたどりつかないというか・・・。

野村 でも最初は一生懸命謡わないと成り立たないよ。

能夫 そうですね。だから2度、3度やりたい曲ですね。

野村 ところで、四ツ地の謡はあるの。

能夫 昔は『卒都婆小町』にも、四ツ地の謡があったらしいですが。

野村 節を大きく謡うでしょ。だから2拍休んだりしますよ。

能夫 九拍子ですか。

野村 そういうのもあるわけ。今はみんな八拍子で打つけれども、僕は地拍子では謡いたくないんだよ。(笑い)

能夫 自由に謡わせてほしいときありますよね。地拍子にこだわり過ぎると窮屈になりますから。それからロンギのあとですが、観世さんは早く立たれるんですか。

野村 早く立つのが普通ですが、橋岡久太郎先生が書き残している型付けを見ると、すぐに立たないようです。

能夫 最後のところ、「破れ蓑・・・」のあたりですか?

野村 もうちょっと早いね。普通は「頚にかけたる」で立っていくのですが、橋岡久太郎先生がやっているのは「粟豆のかれいを・・・・・・くにの垢づける」で立って、「袂も袖も・・・」で左を向いて右手を左側にもってきて杖をつくんですよ。僕も近頃そうしています。

明生 ああ、そういう写真がありますね。

野村 喜多さんはないの。

能夫 ありますけれど、あれほど強烈なポジションではないような気がします。

野村 そして右足を引いておいて、色っぽく面遣いして、あー恥ずかしい、となる。ここに色気が必要なんですよ。「袂も袖も」、あとからゆっくり見るから利くんだね。動き出したら同じですから、型と所作の違いということになるね。

明生 なるほど。勉強になります。

野村 現在物は所作でないとだめということです、型を超えないと…。

明生 現在物の難しさはそこですか。なるほど型だけでこなしていても手に負えないと思っていました。そうか実感します。

野村 所作でなくてはね。それでも逆に型になっていくんですよ。

明生 確かに。現在物と夢幻能との違いはどういうことかを、そういう言葉で教えていただくと、あー、すっきりします。型と所作か…。覚えておこう。

野村 ロンギの後の問答で、「のう、物賜べのう、お僧のう」というのがあるでしょ。昔の文献を見ると、「のう、物賜べのう」のあとの「のう」を高く謡うようです。これは本家にはありません。この「賜べ」というのは「何かめぐんでくれ」という意味でしょ。お僧も二人いるんだから。真ん中の「のう」を高く張って謡うことで、相手に強く訴えかけるのです。平坦に「のう、お僧」と言っても力がない。僕はそうしていますが、そちらはどう?

能夫 同じです。

野村 「今は路頭にさすらひ、行き来のひとに物を乞う」と言って目付の方に行って。「乞ひえぬ時は悪心、また狂乱の心つきて、声変はり、けしからず」とダラダラと下がるんですよ。そして「のう物賜べのう」。どちらが正しいかわからないけれど、芸能の言葉だからね。

先代の橋岡久太郎先生が書き留められていた型付でいいなと思ったのは、深草の少将が「榻(しじ)の端書き、百夜までと」のところ。これは通った回数だよね、車の榻に書き付けたんだから。橋岡久太郎先生はこの「榻の端書き、百夜までと」で、右向いて拍子を踏んでいるの。そうすると一つ、二つ、三つと百夜通いの端書を榻に書き付けている感じがする。普通は左右に回るだけですが…。

能夫 書き付けている感じで拍子を踏んだというわけですね。

野村 ただ舞を舞っているというのではなく、その表現こそが『卒都婆小町』そのものなんだと思うよ…。右だの左右だのという状況を越えてしまってよ、能夫ちゃん!

能夫 なるほど…。それからそのあと、「あら苦し目まひや」のあたり、いろいろやりかたがあると思うのですが…。「その怨念がつき添いて」のあたりですね。

野村 あれはいろいろな型があって。うちの方ではね、「その怨念・・・」と言って四つ拍子踏むの。それでタジタジとなって座ります。華雪先生の伝書だと「かやうに物には狂はするぞや」で、敢えて下からなめるように見上げるという教えね。

能夫 すごくリアリティがあって、わかります。

野村 こう、顔を縦に遣い、胸を張ってね。少将は悲しいんだ! 苦しいんだ! という表現があって、それがだんだん緩んでくる。

能夫 浄化されていくみたいな・・・ですか?

野村 いや、浄化されるというよりは緩むんだな…体が緩んで…ふっと抜けて…立って…仏に手向ける・・・。

能夫 そして合掌する。そうか体が緩むのか…。そこが極端に変われないでいたのです。あー、ありがたいお言葉でした。何かそこで変わらなければいけないのかと思っていましたから…。

野村 そういう内的なものの演技なんじゃないかな。

能夫 そうですね。

野村 表面的なことはいろいろあるけれど。面を上げながらワキを見る、しかし単にワキを見るんじゃないよね、自分の気持ちの中に入っていくんですよ。それをワキが見ている形になる。書きつけにある、「狂はするぞや」でワキを見る、と…そんな型だけの世界じゃいけないんじゃないの。

能夫 はい、そう思います。

野村 自分の体の中そのものですね。それから最後、「悟りの道に入らうよ」で合掌するとなっているけど、現在能で合掌するのはある? 一曲の最後に合掌するのは修羅物とか夢幻能しかないよね?

明生 あの最後の部分は……すみません、あー終わったと思ってまして…何も思考していませんでした・・・。

能夫 僕も最後まで思考していないな…。

野村 それではダメだよね。ちょっと感じてほしいなあ。僕はね、世阿弥、観阿弥の時代にさかのぼってみると、小町という人物がどれだけ一般の人に認識されていたかということ、かなり有名な人だったと思いますよ。深草の少将をあんなに悩ました、悪行三昧の女だから。そうなると具合がいいんですよ。なぜ具合がいいかというと、つまり道に入ろうよといいますね、ワキの僧がいるわけだよ、一人芝居じゃないのだから、高野山から出てきた僧と相対したことで、一般に見ている観客も一緒に救っていくという、何か民衆性みたいなものが合掌という型を生かしているんじゃない?

明生 『卒都婆小町』という作品を、喜多流ではあまり重く扱いすぎて、私の体の近くにありませんでした。『鸚鵡小町』を謡う経験をして、あれ『卒都婆小町』と何か違うなと思ったことがありましたが、それが何であろうか? 正直判りませんでしたし、追及しようとも思いませんでした。『卒都婆小町』の民衆性や土臭さというもので、今少し分かりました。観阿弥が創ったということが…。

野村 泥臭くしているんだよ。

明生 泥臭いですよね。

野村 要するに作能のパターンというのがあるかもしれないね。三番目物のパターンがあって、修羅物のパターンがあって、だいたいそれですべて語れるようなところがあるけれども、観阿弥の作品は、あとで手を加えられているとしても、『松風』だって世阿弥が手をつけているからね、そうであっても、もっとも芸能的なんですよ。芸能的ということは、見る人と共感するということが大事であるわけです。高尚でもなんでもないんだね。たとえば『鵜飼』を見て、殺生を生業にしている人は、地獄に行った者が、日蓮上人さんのおかげで極楽まで行けた、ならば私も救われるだろうと思う、それがいいんじゃない?

明生 殺生しないと食べていけない人もあるわけで、そこで人が救われる、それでいいなと思いますね。

野村 そうですよ。僕はその感覚がものすごく強いよ。

能夫 その視点が大事ですね。

野村 世阿弥のころは、将軍など上つ方に気に入られるようにと、どんどん趣向を変えていったでしょ。作品論をいろいろな人が言っていますが、僕は世阿弥のあとに続くものはいないのではと思っています…。

明生 金春禅竹もダメですか。

野村 まあ、禅竹だけ。娘婿だけ。あとは作品の趣向から言ってみんな観阿弥に戻っている。『松風』にしたって『卒都婆小町』にしたって、みんな現実性がある。その後の作品は幽玄無常なんていう世界ではなくなっていますから。だからもっと能は演劇的でいいと思うよ。その演劇性そのものが規範になって、人間的なものを演じられるということにならなければいけないよね。それには役者の技量がいる。だから世阿弥に戻るよりは観阿弥に戻れ! といいたいね。精神はもっと劇的なんですよ。

明生 『卒都婆小町』というのは、民衆の心をつかまないと成立しない、という作風なのですね。

野村 観阿弥の創り方の不思議さをもうちょっと認識しながら、なんでもかんでも世阿弥論にもっていくのではなく、観阿弥という人の思考を再生することで、もっと演劇的になっていいのではないですか? 演劇的という言葉が嫌いだったら劇的といってもいい。もっと表現が前向きであってほしいと思いますよ。こうでなければお能ではないという決まりみたいなものはありますか。少し乱暴な言い方かもしれませんが、僕はその枠を取っ払ってもよいのではと思いますね。皆さん方も、不肖私も含めてね。そんなもの取っ払ってもちゃんとお能になっていますから、いいんですよ、大丈夫。もちろん目茶苦茶やっていいというのではないけれど、思いのたけをしっかり持って、ぶつけて下さいよ。

能夫ちゃんは『卒都婆小町』をどんな気持ちでやるの?

能夫 なかなか。プレッシャーを肩に感じるばかりで・・・。

野村 『卒都婆小町』の中には一つの技術を習得する過程があるよね。『野宮』を勤め、『定家』に挑戦して、そういう一つの道があったとするでしょ。観世寿夫流だと、まず体を広げて、姿勢はそのまま、「それが定家!」と教わるわけですよ。気を吐け、そして気持ちを身体の中に閉じ込めろ、まず一番最初にもとありきなんだよね。寿夫流のポジション・メソッドというのかな、方法論、演劇といってもいい、必ず先にきちっとした体があって、それがどう変わるかということにしなければいけないと仰っていましたよ。僕、若かったから素直に聞けたよ。だけどそれをやっているとね…、華雪先生に怒られたよ。(笑い)

能夫 世の常ですね。世代的なギャップというか。写実があれば、無機的なものを求めたり、そういうバイオリズムみたいなものがある気がします。

野村 それで最初に言ったクリの謡に戻るけれど…、観世寿夫師のあのクリは、「これはーー、出?羽?の」というのが、まさしく老女物なんですよ!(笑い) わかるかなあー、わかる? 

明生 乞食の婆さんが急にすーと浮かび上がってくるみたいな・・・。

野村 そして「・・・小町が成れる果て」というところ、成れるの「な」の字を引くんですよ。今僕だけやっています。寿夫師がやられた時、つっと、身体が細っそりしているでしょ、それで「さむらふなり」とワキを向いたときに小町になっているんですね。これは憎らしいぐらいにね。(笑い)

能夫ちゃんは、面は何を使うの?

能夫 今、銕之丞さんに拝借させていただくよう、お願いしているのですが・・・。

野村 何を?

能夫 「檜垣女」ではと言われていますが、まだ、何になるかわかりません。

野村 地頭はどなた?

能夫 菊生叔父です。

野村 今、菊生先生という人を遊ばせておいてはいけませんよ。地謡というのは大事ですよ。観世寿夫先生も仰っていました。先生は若くして亡くなられたけれど、将来は地謡で生きるんだという意識を強く持たれていましたよ。

能夫 そうですか。すごいなあ。

野村 菊生先生も同じですね。喜多流で地頭をこなせる人は、菊生先生以外にそういないですよ。大きな曲を披いたりするときにはもう菊生先生ですよ。生きているときにしか聞けないからね。どんどん一緒に舞台を経験するの、そうするとそこが違うとかいろいろ言って下さるから、どんどんやって下さいよ。これはどうですか?とか、大いに聞くといいですよ。

能夫・明生 そうですね、そうします。

能夫 今日はありがとうございました。また、ご報告の会もしたいと思います。

(平成17年1月 記)

大阪城薪能への寄稿投稿日:2018-06-07

以下は粟谷菊生が大阪城薪能に出演したときに書いたものです。

「巴」によせて      粟 谷 菊 生

 ぼくたちにとって、能舞台というものは、三間四方に橋掛りのついた空間であり、長年、それに慣れて能を舞ってきたが、最近は能楽堂以外の場所で能が催されることもあって、たまには臨機応変に能を舞わなければならない場合もある。
 何年か前、大阪城多目的ホールの七間四方の大舞台で能が催され、照明つきの船弁慶の能を舞った経験があったが、橋掛かりを行けども行けども舞台に行きつけないのには、度肝をぬかれた思い出があった。
 綿入れの胴着の上に装束をつけるので、昔は夏には能の催しはなかったもので、装束をつけない袴能が催されたが、今日では冷房がはいるので、夏でもけっこう能の催しが多い。
 野外で催す薪能も各地で盛んだが、陽の落ちかかるころの初番の暑さは格別で、さぞ暑かろうと思うけれども、三時ごろから日傘をさして開場を待って居られる見物の人々の姿を見ると、こちらも暑いなどといってはいられない。
 今回舞う巴の能は、名人と言われた十四世喜多六平太先生も好まれ、私も大好きな曲で、これまで何回となく舞い、弟子たちにも数々舞わせてきたものだが、その体験を基にして考えると、この曲の見どころは、巴が床机に掛けての型どころ、立ち上がって長刀をふるう奮戦の場面、義仲との別れの場面など、いくつかを挙げることができるだろう。ぜひそれをとっくりと見ていただき、この曲によせるぼくの思いを知っていただきたいと思う。
 最後に、巴が落ちて行くとき、流儀によっては装束を変えないこともあるが、喜多流では後見座にくつろぎ、白水衣壺折りに替え、形見の小太刀を衣に引きかくし、笠を傾けて落ちてゆく演出となるが、その姿には、いっそう哀れ深い思いがあると思う。

絵馬によせて      粟 谷 菊 生

今日の絵馬半能(中入(なかいり)後半の部だけの演能)になっております。
後(のち)ジテは天照大神なのですから、当然、女性の筈です。他流では増(ぞう)女の面をかけるのですが、喜多流では常の絵馬というと(つまり小書なし)東江(とうこう)という面をかけて、何故か、男体として扱われております。今回は小書きで「女体」となっているので私は愛用の小面をかけ、天女(天鈿女(あめのうずめの)命(みこと))と力神(手力雄(たぢからおの)命(みこと))を従えて出ます。昔、小書なしの絵馬を演じた時、男体としてツレの天女を二人随えて出て行ったので「後ジテは手力雄命かと思った」と仰云った方がいましたが当然でしょう。演じている私自身が非常に奇異に感じたのですから。何故喜多流では男体として扱われているのか、これには諸説あるようですが定かでは無いので、ここでは申し上げない事にします。
この曲は囃子方泣かせで、一曲全部演った場合には、大小(大鼓・小鼓)共にワキの出から打ち始め、道具を下に置くことのない、そして後(のち)の出からも打ちっぱなしなのです。シテが「急」の五段の神舞(他流では中の舞)、ツレの天女が神楽(かぐら)の前半を、力神が位の極めて早く力強い後半を舞い、その上、中入後の間(あい)狂言(きょうげん)も蓬莱の島の鬼の舞があり…と息のつく暇も無い大変な曲なのです。
今回はシテの五段の神舞は三段にさせていただきます。「天の岩戸に閉じ篭もって……常闇の夜のさていつまでか」と謡う地謡に、前面に扉がついて幕を引き廻した天の岩戸を模した作り物の中に入るのですが、初番の陽の未だ落ち切らぬ夏のさ中、装束をつけて、あの狭い引き廻しの幕の囲いの中に入るのは、さぞや暑かろうと今から覚悟してます。
シテ、ツレ、三者三様の舞が見どころでしょうか。ともあれ、日本人のルーツとも云うべき天照大神の天の岩戸の故事に據るこの〈絵馬〉を今日の薪能の幕開けに楽しんでいただければ幸です。

研究公演つれづれ(その八)投稿日:2018-06-07

研究公演つれづれ(その八)

研究公演 第8回(平成9年11月22日)
能夫『景清』と明生『采女佐々浪之伝』について

粟谷能夫
粟谷明生
笠井賢一

『景清』について

明生 第8回研究公演は能夫さんの『景清』と僕の『采女佐々浪之伝』、そして父が舞囃子『船弁慶』を勤めてくれました。


能夫 そうだったね。僕の『景清』は明生君の要請があってやったような気がするんだけれどなー。それですごいプレッシャーを感じてやった覚えがある。その前にいろいろ事件があったから・・・。

明生 今、『景清』はうちの父が十八番みたいにして勤めている。それが、もし父が具合が悪くなって代演者を立てなければならなくなったときに、粟谷能夫、明生と言われたらどうなのか。そのときにまだ二人とも披いていないので、できません・・・では情けないではないかということで。そうしたら、ある人が40代の『景清』、50代の『景清』、60代、70代があっていい、何回やってもいいのだ、40代の『景清』があったっていいのだからと・・・、能夫さんは早く披かなくてはね、やらなきゃ駄目ですよと言ってくださったんです。あのとき、能夫さんはあまり乗り気ではなかったですよね。その前に、大阪は阪神大震災の事件があったりして・・・。


能夫 そう、あの『景清』の前はいざ代演となったとき、対応できなかったんだよね。

明生 一度父が病気でシテを譲る形になってしまいましたね。これでは駄目なのだと思いまして。我が家のマイナス は自分たちの責任で補わなければいけないのですが、実際できなかった。このことを一つの材料にして強く感じさせられました。それで自分たちにお灸をすえなくてはと思って、それで能夫さんには絶対に早めに披いてと言ったのです。能夫さんは、もうちょっと後の方が良いとか、研究公演でない方がとか、いろいろと考えもあったと思うけれども、とにかくやろうということになったのです。もう、とやかく言っている状況ではないというのは能夫さんもわかってくれて、「そうだな。まずいな。じゃあ、やろう」ということになったと思います。1回披いておいて代演となるのと、代演が自分にとってお披きになるのとでは全然違いますからね。私は『砧』で代演したのがお披きになるという経験をしたので、そのことは切実に感じます。1度披いているのと、それがお披きというのでは、本人はもちろんのこと仲間の見る目というか意識も違いますから。だから能夫さんに「ここは是非とも『景清』をやっておいてほしい」と言ったのです。


能夫 そうだったよね。そういう仕掛けをしてもらったおかげで、僕もスムーズに『景清』に入って行けたんじゃないかと思う。そういう面では感謝しているよ。僕も『景清』という曲には憧れがあったし、自分がやるときはこんな風にやりたいという思いもあった。『景清』の場合は二度、三度やらないといろいろなことができないかなと思ってもいた。感情が高ぶっている景清もあるし、その感情を抑えて表現する景清もあるだろうし、いろいろな『景清』があるでしょ。過去にもいろいろな『景清』を観せてもらいましたが、みんな違いますよ。友枝喜久夫先生のも違う、菊生叔父のも、新太郎のも違う、昭世さんのも違う、実先生(先代喜多実宗家)のも違う、そういういろいろな『景清』を観てきましたからね。それらの中で一番印章に残っているものの一つは、先代の銕之亟さんが、友枝喜久夫先生の『景清』を観て、「信じられない。あの調子で景清をやるとは。でもすばらしい」と言われたことですよ。

明生 あの調子というのは?


能夫 高いんだよ。つまり謡い方がトランペットなんだ。普通だったらテナーサックスでしょ。でも友枝先生はそういう謡い方をなさった。観世流では絶対考えられないと、でもそれが景清になっている、そのすばらしさを銕之亟さんがおっしゃったわけ。役に対する喜久夫先生の心のストレスが彷彿してくる感じ。あの時の銕之亟さんとの会話をすごくよく覚えているよ。


笠井 銕之亟さんの『景清』は観たことある?


能夫 残念ながらないんですよ。


笠井 それはいいものでしたよ。

明生 観世流は、喜多流みたいにはあまり『景清』をやらないのではないですか。


笠井 そんなことはないよ・・・。


能夫 うちの流儀はすごくやっているものね。

明生 どうしてなのでしょう。


能夫 でもこのごろは少し下火になっているかな。友枝昭世さん、塩津哲生さん、香川靖嗣さんぐらいのところまでで終わっている・・・。

明生 その世代も一応やっているけれど、そう何回もということはないですね。新太郎伯父はたくさんやっているし、うちの父は、もう十八番でずっと続けていますし・・・。


能夫 若いときからずっとやっているね。

明生 長いですよ。


能夫 年をとってから『景清』をやろうという人は多いけれど・・・。で、僕がやるときどうするか。お能というのは いろいろなやりようがあるんだという、銕之亟さんの言葉が重く響いていて、明生君がこの場を設定してくれたことだし、まずは基本的な『景清』をやっておかなければと思ったね。恩愛のドラマというか人情味あるところもやらなければならないし、景清の若きころの源平合戦の武勲を語る仕方話もしっかりとやらなければならないし・・・。うちの流儀はここのところがことにね。


笠井 運動量多いからね。


能夫 菊生叔父やうちの親父から、昔の人にこういうことを教わったとか、いろいろ思い出話を聞く機会があったからね。親父が作った型とか、でもそれはやらなかったけれど。この道の先輩から聞いておく、見ておいてもらうということは必要だと思う。

明生 『景清』というのは「松門の謡」といって、シテが作り物の中で最初に謡う大切な謡がありまして。「松門、ひとり閉ぢて、年月を送り・・・」というね。ここはみんなそれぞれ、各個人個人で全然違いまして。伝承とかいって伝承になっていない(笑い)。


笠井 節づかいが違うということ?


能夫 強吟のところを和吟で謡ったりと、もう・・・。


笠井 えーっ、流儀の中でそんなに違っていいの?


能夫 違う。でもそれでいいんじゃない。

明生 昔、NHKのラジオ放送があるとき、実先生が、習いものの『安宅』や『景清』などは絶対放送してくれるなといっていらしたのですが、うちの父、NHKの柳沢さんに「何か十八番はありませんか」と聞かれて、『景清』って答えたものだから、それが放送されたのです。でもそれを聞いたからといってみんなが真似できるというものではないのですが。


能夫 できないんだな(笑い)。

明生 父は、これで全国の人の謡が菊生の「松門の謡」になったなんて喜んでいましたけれど、そうはいかない・・・。理解できないですよ、ああいう謡い方は。


能夫 「松門の謡」は難しいよ。僕の『景清』では笛は一噌仙幸さんにお願いしたのだけれど、「松門のアシライ」をやってもらったのです。これについてはあった方がいい、なかった方がいいといろいろ意見はあるのだが、僕としてはあの場面で、景清の孤独とかいろいろな感情を表現するときに、何かひと風、吹いておいてもらった方がいいのではないかという思いがあった。そんなものはいらない、直に肉声で入っていくべきだという人もいたけど、僕はああいうものに憧れを持っていたから。仙幸さんの思い、世界みたいなもので、ある程度雰囲気を作ってもらうというか、舞台を築いてもらわないと、とても松門なんて謡えないという、これが僕の立地条件なんだね。道行が終わって、さあ松門というには勇気がなかった。親父なんか、我を出したいというか、自分がすぐ出ていきたい方だったから、そんな世界作ってくれなくとも、オレがやるんだというエネルギーみたいなものがあった。ある種職人というか、そういう良さもわかるのだけれど、僕としては・・・。


笠井 両方あった方がいいね。


能夫 選択肢があった方がいいじゃない。僕の考えでそうしたんだけど、でも昔はこういうことほとんどやらなかったね。

明生 昔はあまりやらなかったですね。


笠井 笛は森田流? それとも一噌流?


能夫 両方あるでしょ。でも本来は森田流かな。一噌流はこちらから言わないと・・・。でもみなさんやっていらっしゃいますよ。


笠井 大五郎さんもやっておられましたよ。力のある人のアシライならいいけれどね。僕は忘れもしない。銕之亟さんが青山の銕仙会でやったときに、アシライがひどかったの。こんな松門のアシライならいらないと思っていたら、銕之亟さんの謡がすばらしくて、それを凌駕するものだった。そのアンバランス、忘れられない舞台だった。松門のアシライをするときは、笛の人間がどれだけその曲の内実を吹いているかということだよね。と同時に音色が悪くても思いを入れて吹いていますでは無効だからね。音色が自由になり、且つ曲が本当に身にしみてくるように吹けなければ・・・。


能夫 ある力強さもないとね。柔らかいムードだけでなくて・・・。


笠井 この三人で話すとき、語りとか謡の重要性がしばしば話題になったと思うけど、『景清』でいえば、孤独感をどう表現できるかということになると思う。つまり、あれだけの武士が敗残の老兵になって、しかも今や乞食となって芸で身を売っているわけですよ。その人間がどういう謡を謡うか、その孤独感をどう表現するかという、それが課題でしょ。


能夫 そう。わかりますよ。

笠井 僕は『景清』はそれに尽きると思うんだ。人を感動させるとしたらそこだと思う。老年になるとみんな、若いとき、自分の最盛期のときを思い出して・・・、それがその人にとって花なわけですよ。ところが、それが確実に失われている。失われているのに、昔、オレはこうだったよと言って嫌われている老人はいっぱいいるわけじゃない。そこに娘が来て、そんな惨めな姿を見せたくないから追い払うわけだけど・・・。そこはすごくリアリティあるところなんじゃない、根源的な人間の持っているものじゃないかな。それを平家物語の中で最もドラマチックに描いているわけでしょ。しかも芸能者というものの位置、盲目の人たちが意志固くしてやっているという側面もある。『蝉丸』だって、盲目の琵琶法師を蝉丸という高貴な人に託したというところがあるでしょ。世阿弥の時代、芸能は乞食の所業と言われた、芸能者は卑しめられていたわけですよ。今は芸能人は偉くなっているけれど、所詮、芸能者というのは芸を売って人様から銭をもらって口を糊しているわけだから、その無残さね。それは無残さであると同時に豊かさでもあり得る。人間の極限の体験を語り、表現することは、鎮魂の行為であり癒しでもあるわけだから。そういうことを身にしみてやることもできるし、人情劇という側面からやってもいい、『景清』はいろいろな側面からできると思うんだよね。でもまず、過去を思い出すことの無残さみたいなものを永遠の課題として描くということがある。『隅田川』だってそう、母親の子供への永遠の思いの深さを、普遍性をもってあれだけ書かれたら、それを表現するのは、それはもう男子一生の仕事と言っていい。『景清』もまたしかり。『景清』の喪失感の深さ。能が世界に冠たる芸能であるのは、やっぱり喪失感をここまで深く表現しているから。他の演劇では喪失感の表現をここまで深くしないもの。死者のまなざしの深さみたいなものね。死んでもまだ残る妄執の深さ、永遠の地に幽霊となって現れ、その思いを言い続ける、これは単なる怨念というものでなく、そこに普遍的な思いがあるからでしょう。それが他の芸能と違うところだと思う。


能夫 なるほど。

明生 よいお話ですね。今の話が今回のメインですね、たいへん面白くためになりますよ。


笠井 銕仙会や銕之亟さん、栄夫さんの『景清』を観てきて、やっぱりいいと思うし。僕は演劇人として強い刺激を受けた。

明生 観世流と喜多流とでは景清像みたいなのは違いますか。


能夫 観世さんは着流しですることが多いでしょ。


笠井 大口も両方あるけれど。基本的には着流しかな。

能夫 着流しで座っているんだよね。敗残というか、それを受け入れているというか。宝生さんは浅葱の大口履いていますね

明生 そういうのを履くというのは、よくわからないですけど・・・。


能夫 僕も昔はわからなかったけれど、今はなんとなくわかるような気がするよ。だって白だと武士っぽくなるじゃない。それが水色だと斜陽というか日が斜めから当たっているというような、崩れているような感じが出るじゃない。白だと逆に言えば強烈すぎるでしょ。


笠井 白は戦闘的な、闘っている感じになるね。


能夫 二十代のころはわからなかった。当時はみんな白の大口で黒の水衣でしょ。でも六平太先生も萌葱でやっていたこともあるからね。


笠井 着流しはないのね。


能夫 着流しはない。喜多流は型が多くそれも強さを出したい、心のわき立ち具合とか、癇癪も起こしたりと、いろいろ型としてやるから、床几に掛けていないと・・・。

明生 観世さんはあまりそういうことはしないのですか。


能夫 多少、情景描写的にはするけれど・・・。


笠井 やるけれど、だけどそんなにはしないから。

明生 観世さんの『景清』を観ていないんだな。


笠井 体の中にドラマを起こさせる芸をする人はそういませんよ。それができるのは先代の観世銕之亟(静雪)さん、栄夫さん、今の観世銕之丞さんだね。孤独感の深さを表現できるのは。栄夫さんの『景清』はとても良かった。栄夫さんの能の中には、今の観世流の人たちがどんなに逆立ちしたってできないものがありますよ。それは育ちもあり、かつ演劇人として他の仕事をしてきたこと、言葉に対する感覚の鋭さ、それは誰もが到達できていないところのものですよ。そこのところをきちんと学んで欲しいと思います。


能夫 それはねえ。この間の『小原御幸』の法皇をやったとき、それはすごいということがよくわかりましたよ。


笠井 今『小原御幸』で法皇ができる役者、誰がいるかな? いないでしょ。そういうことを考えてほしいと思う。栄夫さんの『景清』は本当によかった。あの孤独感、喪失感を表現する力、しかもそれがすごく適確なの。つまり・・・。


能夫 最後のところでしょ。「景清これを見て、物々しやと夕日影に、打ち物閃かいて、斬って掛かれば堪へずして、刃向いたる兵は、四方へぱっとぞ逃げにける」というところ・・・。


笠井「四方へぱっと」というときに、栄夫さんの演技でまわりの敵の兵士たちが、どよめいて後じさりした姿が見えた。

能夫 黒澤明の映画だな


笠井 本当に空気が変わった。これは観世流の型だとか、喜多流の型とかいうことを越えて、景清という役の内実が表現されていたから、栄夫さんがぱっととやったときに 、その瞬間に生涯忘れ得ないその時の興奮と戦場の世界が今ここにまざまざと再現された。戦場の空気が変わる、はっとまわりが構えて後ずさりする空気が伝わってくるの。


能夫 それは僕、黒澤の映画を見ていて感じたことがありますよ。影武者だったかな、織田と武田の騎馬軍団が戦っていて、映像は武田方の大将たちが何人か立っているところを追っている。戦闘場面は映っていないんです。そして、その大将たちが高台から戦闘場を見ていて、二、三歩後ずさりをするんです。その映像を見て、ああ武田は負けたんだなというのを観るものは想像し理解する。ああ、黒澤という人は能を飲み込んでいた人だし、喜多六平太のファンだったし、だからそういう描き方をするのだと思いましたよ。大将たちがオーッと後ろに下がる映像だけで、騎馬軍団が鉄砲に打たれ、バタバタと馬から落ちているというような戦場の大パノラマが見えてきたもの。戦闘場面は一つもないのに。


笠井 能は常にそういう表現方法じゃない?


能夫 だから、そこです、勉強になったのは(笑い)。


笠井 そこを体現できる役者かどうかが勝負じゃない?


能夫 ここのところはまさにそうなの。


笠井 合戦の場を再現するところは、景清にとって生涯一回きりのことですよ。それも娘が訪ねてきて、別れる直前に、青年期の絶頂のときを再現するわけ。老年になってただ一回やるのだという、その覚悟みたいなもの、凝縮した力、そういうものが能にはあると思う。観ている人も、うちのじいさんがどう無惨に生きて死んでいったかをすごくリアルに見ている。普通の生活者が言うに言われぬ痛みを持って生きている、能が上等な演劇という人もいるかもしれないけれど、上等とかというより、そういう人間の根源的なところにさわっているかということだよね、芸が。そのために型がある、その型を生かしていかないとね。

明生 その型を生かす力というのがすごく必要だなというのが、特に喜多流にはありますね。型自体のよさに寄りかかっているような気がします。たとえば今私が『景清』をやろうとしたら、父は「ここはこうだぞ」と目で見える動作の秘訣を数多教えてくれると思います。それはそれで有り難く幸せなことなのですが、でも私たちぐらい、いやだな、もう46歳か!この年齢になると、そういう動きはずっと見てきているから、ある程度はわかると思うのです。だから「些細な動きはいいよ、他のことを」と言っても、「ここの足の下がり方が違うんだ、ここに心得がある」とか「こうすることで型がよく見えるようになる」と教えてくれるだろうと想像つくわけですよ。これはある面では助かり感謝することですが、ある面では反発するところでもあって、そうすると片方では能夫さんに向かっていって、いろいろ議論したり教えてもらったりということに、でも能夫さんのところではどうにもならない実質的なところになると、また父の方にと。私は両方あるからいいですけれど。喜多流はどうしても型一辺倒になっていて、こういう風に下がって、こうと、まずこれができなければ駄目! というのがあるから・・・。


能夫 それがある程度ベースですからね。

明生 喜多流には他流にないいい型もある、だからそれらが大切だというのはわかるのですが、その先に行かなくてはというのが、うまく言えないけれど先程の笠井さんのご指摘通りと思うのです。『道成寺』でも『景清』でも、そこに伝わる型の伝承に安住してしまうというのがね。流儀のあり方の問題なんですけれど。


能夫 そのことは大切なことですよ。僕の『景清』は四十代でさせてもらったわけだけど、ホップ、ステップ、ジャンプといおうか、五十代、六十代、七十代と段階を上げていき、僕の『景清』を作っていきたいと思いますね。

『采女』について

笠井 さて、ここらで明生さんの『采女』に入りましょうか。『采女?佐々浪の伝』というのは、新しい何かをやっていくという最初のものだったのではないですか。これまでの曲の見直しをするというような。

明生 曲の見直しという意味ではこれが最初ですね。これをしたから『柏崎』なんかも取り組むことができた・・・。


笠井 だから『采女』がある意味ではあなたの出発点になったし、演能レポートを書き始めるようになったのも、これからでしょ。

明生 そうですね。そのあとすぐ『砧』を代演しなければならなくなったりして、笠井さんにもいろいろなことをお聞きして、自分でも考え、そういうものを自分の中にどんどん取り込んでいこうと思い始めていました。書くこと以前に、そういう見直すことを始めたのが私にはすごくよかった。


能夫 そして、そういう自分の足跡を残すことをやってきた・・・。


笠井 プレッシャーを感じながらね。

明生 暁夫(現観世銕之丞)さんが青山で『采女』をやられたとき、拝見したのですが、先代銕之亟さんが「今日のような、てんこ盛りの『采女』、これもいいんだよ」とおっしゃったんです。私が「先生が式能でやられた美奈保之伝の方がいいのですが」と申し上げたら、「それもそうだけれど、このてんこ盛りね、いろいろなことがたくさん詰まっている、普通の采女もやっぱりいいんだよ」と(笑い)。


笠井 そういうものもないと絶対駄目ね。


能夫 いろいろなものを通っていないとね。

明生 いろいろなものをやらなければ駄目なのだけれども、私の『采女』は研究公演で取り組むのだからという意識がありました。私が勤める前に能夫さんがちょうど例会で『采女』やっていたのですよね。ごく普通に、まっとうに。それで私に伝書にはこう書いてあったよと、いろいろなキーワードみたいなものを教えてくれたのです。本来こうなっているけれど、こういうやり方もあるとか、それで私の冒険心がくすぐられたみたいです。


能夫 出発点だな。

明生 そう、出発点。実先生の「小波の伝」というのがあって、佐々木宗生氏がやられた時、私なぜか録音して持っていたんです。聞いてみるとちょっと気になって触りたくなってしまって。


能夫 実先生がご高齢になられてから、ご高齢でもできるような形に直したというようなものだったけどね。

明生 それで、「小波の伝」をよく練って、自分なりの新しい試みを入れてみようとして、一年間というもの、これにかなりかかりきりになりました。伝書にあったキーワード「采女一日曠れ也(はれなり)」がヒントになり、入水自殺した采女も功徳により成仏でき、水の世界からこの世の世界に現れて、その喜びを舞うのだ、能『采女』はその晴れやかな一日を表現するのだと感じたのです。成仏できた晴れやかさ、極楽浄土に向かっていく美しい様、それを表現したいと考えました。装束も緋の袴にし、面も創作面を使用するなど工夫をして。それで小書も実先生の「小波の伝」を、あえて実先生の創作当初の名称「佐々浪之伝」とさせてもらいました。(くわしくは『阿吽』No.5の項、あるいは演能レポートの項参照)。


能夫 あの小書からも明生君の意気込みが伝わってくるよ。

明生 演出家もそうかもしれないけれど、演者もそうなんで、何か巧みたくなる。巧む心がなくなると駄目になるということは確かなんですよ。何も巧まずに、形式にのっとっていればいいものが生まれるという言葉を真に受けていると、現状より一歩も前に進まない。いつも何かを考え巧むというのは難しいかもしれないけれど、それをやっていかないと、自分自身が足をすくわれる感じがするんです。下の世代がどんどん上がってきているのですから、うかうかしてられませんよね。


笠井 明治の名人たちは、そういう形式にのっとってやって、そこで淘汰されていった。下手な人は能楽師として残っていないからね。現在はそういう時代ではない。淘汰されるということがない。だからその中でいかによい能楽師になるかが問題だよ。寿夫さんは、そういう時代を見据えていたから、他の演劇にも出て行ったし、本を読むこともしたし、世阿弥を本気で読んだからね。型だけやっていたらそんなことする必要ないわけだけど。


能夫 精神が必要ということだね。


笠井 作品を読み直すこともやる。世界的な演劇のレベルで、何がよくて、能で何が表現できるかを探ったわけだよ。それはそういう知性を働かせてやったわけでしょ。それを寿夫さん以降やっていないとしたら災難だよ。寿夫さんは五十三歳で死ぬような芸をやったんだから、それは死ぬような内圧をかけて舞台をやったんだから。


能夫 俺はその年になったけどまだ生きているよ(笑い)。


笠井 寿夫さんは短い人生だったけれど、実に多くの感動と影響を与えたからね。だけど僕はいつも言うように先代の銕之亟さんのように、六十代になって透明度のある謡と演技を見せてくれたという、そういう生き方もすばらしいと思うんだよ。あの透明度は寿夫さんの53年の生涯ではできない、五十三歳ではできない、そういう演技でした。だから、役者の生理というか、役者の時間はもうしようがないね。

明生 だから長生きしなければいけないということもありますよね。ところで私、今度、来年の秋の粟谷能の会(十月)にもう一度『采女』をやるのですよ。研究公演の反省も踏まえて、もう一絞りしたのです。序之舞をもう少しコンパクトに再考してみてはと。


笠井 普通のフルコースはやっていない? 一度やってみれば・・・。

明生 フルコースをやっていいというならやりますが。通常の『采女』をしっかりやると二時間はたっぷりかかりますから、なかなか難しいですよ。粟谷能の会の三番立で通常の『采女』を出すのはきつい。だからなかなか機会に恵まれないのです。でも研究公演でやりっぱなしというのも気になって、あのときの反省材料もあるし・・・。今度は囃子方を一噌流、大倉流、葛野流と前回とは変えて試みてみようかと思っています。


笠井 僕にとって浅井文義さんの舞台で一番良かったのが実は『采女』なのね。寿夫さんの十三回忌追善能だったと思う。二時間十分とか二十分かかったかもしれない。青山でやったから、座って観ている方もつらい。辛抱比べみたいなものだったけど、でもやっぱりよかったよ。彼の中の思い、つまり万能を一心につなぐという思いみたいなものがグーッと出てきてね。地謡も良かったし。彼の序之舞のよさもすごく出たしね。そこに全部凝縮したという感じ。長かったけれど、これが本筋だなと思った。美奈保之伝も悪くないけれど、なにかテーストが薄くなってしまう。二時間十分?二十分やって、いろんなものをやって、序之舞で純度が高くなって・・・、ああ、こういう世界かと納得できるものがあった。あのときの追善能は、浅井さんが一番若輩なんだよ。だけど先輩たちにひけをとらない、いや浅井さんのが一番良かったと言っていいぐらいだった。それが中堅の恐ろしさだよね。今浅井さんがそのときの先輩たちの年齢になっているけど、あのときの『采女』を越えるのは大変なことだと思う。若輩者が大曲をやるときのテンションの高さ、それがとてもよく出ていた。


能夫 テンション、そういうことはあるね。


笠井 それは本当に輝いていたよ。

明生 だから、いつも目標を持っていないと駄目なのですね、能楽師はいや能役者は。


笠井 長いものをどこかでやっておかないと駄目だと思いますよ。能というのは万能一心につなぐというか、不合理なものを一心につなぐ力技があるじゃない。


能夫 うーん。でも『采女』をやる場はなかなかないですよ。

明生 贅沢ですよね、そういう場があるというのは。一度やる機会があったとして、一生のうちにもう一度舞えるかといったらそうはない。そういうのは悲しいなというのが、私のあがきみたいなもので・・・。


笠井 でも、その『采女』以来、明生さんは一曲一曲丁寧にやり出した、見直しもするし、そこで考えたことを書くようにもなった。

明生 そうですね。


笠井 そういう、大きなエポックメーキングになった曲ということですよね、『采女』という曲は。


能夫 研究公演の第八回でそういうことを始めて、明生君の今日があるわけですよ。

(平成14年6月 於 割烹千倉)

研究公演つれづれ(その7)投稿日:2018-06-07


研究公演つれづれ(その七)

研究公演第7回(平成8年6月22日)
能夫の『小原御幸』

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

明生 第6回に私が『松風』をやり、今回の第7回で能夫さんが『小原御幸』に取り組むことになりました。
 もしかしたら、このとき『小原御幸』でないもの、違う曲ということもあったはずなのに、あえて『小原御幸』をもってきたというのは、今でも覚えていますよ、父と三人で飲んだときのこと。曲目を承諾してもらうために三人で飲みに行ったんですね。相談したら「まあ、いいだろう。しかし『小原御幸』? 能夫、もっと動くものを先にもってきたらいいじゃないか」と父が言ったときに、能夫さん、すかさず「語るということを勉強したいと思います」と言って。そうしたら「大事だねえ、それは。そうだ『小原』がいい」とコロッと変わっちゃった(笑い)。

能夫 菊生叔父は『小原御幸』は研究公演にはあまり似合わないと思ったかもしれないね。動くものをもっと消化していかないといけないと思ったんだと思うよ。僕が『小原御幸』を選んだ理由は・・・。うちの流儀はあまりやらないんだよね。こんなに素敵な曲なのに。

明生 新太郎伯父さんは好きで何回もやってますよね。

能夫 うちの父は好きだった。だからその血を引いているのかもしれないね。菊生叔父さんはずっとイヤだって言っていたもの。うちの流儀の語りはずっと座りっぱなしだし、謡に関してはやりたい曲だったのではないかな。僕は、あの時分、喜多流であまりやられていなかったから、スポットを当ててみたいというか、こんないい曲があるんですよということを言いたかったんだ。

明生 その後、能夫さんの下の年代の人はやっていないですからね。

能夫 なかなかできないよ。

笠井 僕は平家物語に思い入れがあるせいもあるけれど、あの曲はやっぱりすごくいい作品だと思うよ。

能夫 と、思いますね。

笠井 いい作品ですよ。先代観世銕之亟さんが三島由紀夫の説として、あれは一つの黒ミサみたいなものだといつも言ってらした。官能性があんなに出ている曲はちょっとない。語りの究極にある作品。しかもあれだけスケールの大きい、一族すべて、我が子も含めて滅亡したことを物語るというのは、物語の極致かもしれないね。

能夫 ひどい話だよね。

笠井 しかも、あの美しい女盛りであったかもしれない女性(建礼門院)が語っていることのすごさ、しかも、後白河法皇という、舅ではあるけれど、平家滅亡に荷担した男、もしかしたら政略的にその人の妻にならなければならなかったかもしれない間柄の人に語るわけでしょ。こんな演劇はないよ。だから三島由紀夫もそのすごさを言っていると思うよね。

能夫 語るというより語りをさせられるわけでしょ。

笠井 そう、させられるという感じ。ある種サディスティックな感じね。もちろんそんな生々しいものではなくて、もっと練れた、ある種透明感のある謡にはなっているけれど、芯にはそういうものが織り込まれているんだよね。

能夫 それはわかりますよ。だから『小原御幸』はやはり謡といおうか、語りといおうか、それが課題で、ずっと続くんですよ。あんなに舞がない、型がないものはないですよ。全部、謡で勝負しているというのは。

笠井 そうだよね。ところで喜多流では、シテの建礼門院は床几にかけないよね。

能夫 うちの場合は下に着座しているね。ずっと床几にかけることはない。

笠井 これまで喜多流のを見たことなかったから、ちょうっと違和感があった。作り物の引き回しを降ろしたときに、さーっと世界が開けるでしょ。そのときシテは床几にかけていないと・・・。観世も最後には床几から下りるんだけ れども、それをもちろんへたに入水するのに合わせたとするのは安易だと思うけれど、そうではなくて、あの場面で床几にかかってあそこを語るというのは、平家一門の滅亡という大きなスケールの事柄を語るという格の問題でもあるし、国母であった建礼門院であり、同時にある種のさらしものになっているという感じもあるしね。

能夫 床几にかけることによって?

笠井 そう、床几にかけることによって。もっと小さくなってボソボソとつらい思いを語ってもいいのだけれど、後白河法皇と床几と床几で相対してやらざるを得ない、さらしものになる質みたいなものを、ある官能性というか、それよりむしろ痛みとギリギリのところの緊張感。つまり語りだけで、環境が変わらない中で表現しなければならない難しさだよね。三鈷の会で観世銕之亟さんが『大原御幸』の語りをやったでしょ。

能夫 あれはすごくよかったね。忘れられないですね。

笠井 あの語りは銕之亟さんの到達点の一つだと思うの。銕之亟さん自身が『大原御幸』の語りは背筋がピーンとなってさらし者になっているという感じがないとということを言ってらっしゃいました。また、そういう芸でしたよ。やっぱり、そういう負荷のかけ方みたいのものが、ああいう作品を成り立たせるわけで。それは語りの技術だけではない・・・。

能夫 心ですよね。思いというかね。やっぱり覚悟してやっているつもりだけれど、難しいね、語りというのは。自分ではメリハリをつけて謡っているつもりでも、聞いている人には全然そんなことが伝わらなかったり、反応がなかったり・・・。

明生 本当に難しいですよね。もっと露骨にやった方がいいのかなとか・・・。 かといって踏みはずしてもダメだし・・・。

能夫 やり過ぎと言われてしまうし。

笠井 ギリギリのところ。

明生 そこのラインというか。半分、自分の世界より半分足を踏み出したと思うぐらいかな。

能夫 そこを出かかると、反発するバネが働くね。自分の中の美意識というか、何かあるんだよ。出ようとするとバーンとはね返すものが。

明生 やろうと思うだけれど、昔言われた実先生のお声がクーッと聞こえたりしてね。

能夫 そういうことはあるんだよ。最近それは大分少なくなってきてはいるけれど・・・。

笠井 それが吹っ切れる瞬間に、彩りが出る、豊かになるということはあるだろうね。

能夫 先生の声が大事ということもあるし、それとどう折り合っていくかだろうな。

明生 最近梅若六郎さんの『大原御幸』を拝見しまして、地頭は、山本順之さんでしたが、観世流はあまり気張って力づくでは謡われないですね。うちのは絶叫しすぎなのかもしれませんが、クセ「これぞ真に修羅道の」のところ、張り上げて謡わないと納得出来ないのですが。多分笠井さんは、我々のは前面に声が出過ぎといわれるかもしれませんが、内に込め過ぎても伝わらない気がするんですが。「御裳濯川(みもすそがわ)の流れには」のところなんて、張り上げて、身体が疲労していくのがわかるような感じでまず謡って、自然と涙腺をゆるんでくるようでないと、もちろん舞台人が生で泣いてはだめですが、やはり私の中では張り裂けるものがないと『小原御幸』とは認めたくないなというところがあって。我々、喜多流としての謡の限界なのか、絶叫マシーンのように激しく謡うところにまずいないと安心出来ないんですが・・・。

笠井 でもね、ただ絶叫でもダメだと思うな。あそこは地謡が強く内面にこたえるように謡って、シテがどういう風に謡うか、位置の問題でしょ。

明生 位置の問題。でもあそこの地謡は張り上げ、謡い上げるエネルギーが支えにないといけないんじゃないかなと、

笠井 そこは謡い上げるだけではダメなんだよ。やっぱり内側に耐えているものがなければ。

明生 内向し過ぎていたのでは・・・。泣けないな。

笠井 泣いたことがいいともいえないし・・・。むしろ涙も出ない程の悲痛さ。

明生 成程ね、涙も出ないか・・・。クセの上羽の後と御裳濯川はやっぱりジーンとくるものがないと・・・。私の『小原御幸』とは認めたくないというか、そんな感覚が・・・まだ幼稚なのかな・・・。

能夫 語りというのは永遠の課題だね。そして、語りということもそうだけれど、『小原御幸』というのは心のドラマって気がするよ。心のやりとりができるということが重要だし、それがやりたかったんだよね、僕は。シカケ、ヒラキで表現するだけでなくて・・・。

笠井 それと、『小原御幸』という曲は、法皇役がよい役者でないと成り立たないということがあるね。

能夫 そうですね。この間の菊生叔父の『小原御幸』での栄夫さんの法皇は強い謡でね、ああ、なるほどこれだなと思いましたよ。

明生 私もホームページ(演能レポート 粟谷菊生と観世榮夫の『小原御幸』)にも書きましたけれど、これがまさしく法皇だなと思いました。

笠井 榮夫さんは役の位置が理解出来ていて、しかもそれを表現出来る役者ですから。

明生 父が「榮ちゃんの法皇、やっぱりいいなあ」と言ったら「悪役だからだろう」と言われてね。

笠井 それはそうなんだよ。あのいたぶり方、ちょっと危ないものがあるもの。

明生 あの時の榮夫先生の法皇は本当に強くて、人物像が出てきて。物語、能の舞台をきっちり創られているし。

笠井 彼の演技力は群を抜いているかも。ひとはけで世界が描けてしまう。彼は演劇的には回り道もしてきたから、それが彼独特のすごい表現力になっていると思うな。能役者たるものは学ばなければいけないと思う。

明生 独特のね。後白河法皇というのはあの曲では絶対なくてはならない役でしょ。映画でいうといい脇役。しかも悪役。後白河法皇のはまり役というのは特別にあるんじゃないかな。私は、はまりたくないけれど(笑い)。

笠井 他にはまり役は・・・なかなかいないね。観世流の中を見ても。

明生 喜多流にもいませんよ。

能夫 いないね。

笠井 『小原御幸』で描かれる世界は平家物語の最後、いわば圧巻でしょ。能は平家物語の中からいろいろなものを摂取して、修羅能というものを創った。これはすごい功績だと思うんだ。能役者が能の技術を使って、あの物語を消化したときに非常に豊かなものを描き出してきたわけだよね。『小原御幸』では語りが大事というけれど、平曲だけの語りではダメなのね。能という仕掛けの中での語りであるから世界が何倍も豊かに美しく残酷に描けるんだよ。能という様式の財産、これは大きいと思う。

能夫 その意見には賛成ですね。

笠井 『小原御幸』の世界を成り立たせるためには、その前の修羅能の世界がなければならないし。

能夫 修羅能を通ってきてからというのは確かにありますね。そして『小原御幸』は語りで世界を描く、演技はしないといっても、ただ立っているだけではないですから。心のメリハリといおうか、心の交流はすごくしているわけですからね。

笠井 それと同時に、本三番目物の舞を消化しておくことも必要でしょ。ほとんど動きのない、非常につらい時間を持続しなければいけないあの世界を通っている人でなければできないわけですよ。だからああいう物ができるというのは財産だと思うな。できる人は数限られている。
 能夫さんのあの舞台には、成熟してきていた語りの段階が、さらに次の段階に行ったなという感じがした。まだその先があるとは思ったけれどね。

能夫 舞がない、語りや謡だけの世界、そういうものを一つ経験できたといううれしさはありましたね。

笠井 そして、『小原御幸』をやったという流れの中で『朝長』があったのでしょ。

明生 能夫さんは、ずっと『朝長』、『朝長』って言っていて、いつやるかを計画していましたからね。

笠井 結局、『朝長』はその何年後でしたか。

能夫 『小原御幸』が平成八年で、『朝長』が平成十年だから、二年後ですね。僕が四十八、九歳でした。二年しか経っていないんだね。『小原』ができたから次が考えられたということなんだろうな。

笠井 本当にそうだよ。『小原御幸』を通ったのが『朝長』に結実したなと。『朝長』に対する思いはいつか『阿吽』の「年来稽古条々」(『阿吽』九号参照)でも書いていたね。親父さんの稽古に参加させてもらいつぶさに見て、すごい、格好いいと思い、憧れたというようなこと。そして実現するまでにはある時間の経過が必要なんだ。やはりあの曲は四十代後半ぐらいにならないとダメなのかという気もするね。

能夫 そうかもしれないなあ。あの頃というのは、自分でも変わろうと思っていた。思い切らなくてはならない時期だというそういう意識はすごくありましたね。

笠井 そういう時期って大切なんだよ。

研究公演つれづれ(その6)投稿日:2018-06-07

研究公演つれづれ(その六)



研究公演第6回(平成7年11月25日)
明生の能『松風』 能夫の仕舞『熊坂』



粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一


明生 この前(第5回)の研究公演は、能夫さんが『白是界』、私が『天鼓』でした。第3回には地謡の充実ということで、友枝昭世さんに『求塚』のシテをお願いして、我々が謡に取り組むということもやってみたんですが。この辺で自らに大曲の負荷をということになって、第6回に私が『松風』、第7回に能夫さんが『小原御幸』を企画しようということになったのです。

能夫 そうだったね。

明生 それで、第6回の『松風』のときは、父(菊生)が仕舞『芭蕉』を舞って、能夫さんが仕舞『熊坂』を長裃の小書きで舞ったんです。まず『松風』というとーーー、『阿吽』に文章を書き始めたのがこの曲からなのです。

笠井 そうでしたね。演能した後に書く。『松風』からだったんだね。

明生 『阿吽』を作ったときに、笠井さんに何か書かなきゃねって言われて、「じゃ、お弟子さんから原稿をいただいてみましょう」と言ったら、それじゃダメ、自分で書かなくてはと。

笠井 それで書き始めたんだ。

能夫 でも、書くクセがついてよかったね。

笠井 それは稀有なことですよ。なかなか能楽師の中でこういう人はいない。ちゃんと書ける人は癖がつかないとダメなんだよ。特に寿夫さんを信奉しているならね。あの方は書く癖がついていたから、書くことによってお能も変わり、書くことも変わっていったんだから。

能夫 そうか。

笠井 やっぱり怠惰ではいけないんだよ。もちろん能にすべてのエネルギーをかけるんだけれど、その余滴というか、その余波はやっぱり形にしなければいけないよ。

明生 みんな、思っていることはあって、腹の中には入れているんですよ。

能夫 腹から出さなきゃいけないな。

明生 でも、あいつは書くだけで・・・、芸がダメだね・・・といわれるのはいやですから。最初は書くことに抵抗がなかったわけじゃないんですよ。やはりしっかり芸あって、その後にという具合でないとね・・・。

笠井 それはやり方もあるし・・・。書くことで芸のためにもなると思うよ。奇しくも『松風』で明生君が書き始めて、それが習慣になっているということはいいことだよ。他の流儀にもあまりいないからね。能夫さんも書いてくださいよ。曲は日々、後に残しておかないといけないような曲をやっているわけですから。今後は心がけていただいて・・・。

能夫 わかりました。思いはあるんだけれど。

明生 それで・・・、『松風』を選びやりたいというのは、『道成寺』との関連があってです、能夫さんから『道成寺』が終わったら気が抜けるかもしれないけれど、次は『松風』だよ、そこに向かうんだと言われたことが大きかったですね。『道成寺』と『松風』の違いは、やっぱり、『道成寺』は親がかりで、新太郎叔父と父と、上の人たちが作ってくれた、そういうものだと思うけれども、『松風』はそうはいかないということですよ。『松風』は自分でモーションを起こさないとやれない、「お父ちゃんお願いします」とか「そのうち出来るよ」というわけにはいかないんです。そこで、能夫さんと私とで考えたのは、次にやりたい曲は自分たちで創ろうよ、それができる場を作ろうよということでした。言われるままのメニューをこなしているだけの恵まれた環境に甘んじていては駄目ということが、わかり始めたから・・・、それが研究公演の意義でもあったのです。いろいろの試みをやってきて、6回目が私の『松風』で、7回目に能夫さんがあえて『小原御幸』をもってきた、これが、私たちの生き様じゃないかなってね。

能夫 『松風』を選んだというのはね・・・。『道成寺』はものすごく稽古してやるでしょ。『松風』もやはりすごく稽古しないとできない、普通の曲のような稽古ではできないんですよ。そういう曲が生きていく中に、ポツンポツンとないと怠惰になるんです。真剣に、ものすごいエネルギー使って、大汗かきながらやるということが徐々になくなるからね。その意味では、一年に一度ぐらいは、『松風』のような、チャレンジする大曲がないといけないという気がするわけね。

明生 自分自身のからだに、ねじを巻くようなものをしっかりと勤めていかないとと思っていましたから・・・。演じて『松風』はツレをやっているという経験がとても貴重だと思いましたね。大きな力にもなるし・・・。『松風』とか『山姥』はツレをやらずにシテをやるべきではないですね、仲間内で密かに「ツレしてシテ同盟」ができるぐらいでね。本当にツレで座っているのが苦しいという経験をした人間が『山姥』の「あーら、物凄の」と謡える。私はどうしても「申し訳ないね」という気持ちが出てきてしまって・・・、飲んだ席でよく話がでるんですよ。、やはりツレをやり、次のステップにシテができる。いきなりシテではないでしょうとね・・・。『松風』のツレで何人かのお相手をしましたが、そういうことをやってはじめて、シテができるということじゃないですかね・・・。私は、一番最初は父のツレをしまして。あのときは、謡を間違えてしまって、そうしたら父がすごく怒ってたんでしょうが・・・。「明生さん、しっかりしてくれなくては困りますよ」と冷ややかに、他人行儀に楽屋で言われてね。しっかり覚えてますよ。 物着の後、シテが作り物の松のところに出るの止める大事なところで、台なしですよ。駄目でしたね。

笠井 それはいくつぐらいのとき?

明生 二十七歳のとき。昭和五十七年の粟谷能の会のときです。その次は昭和六十三年に能夫さんのツレをやりました。

笠井 それは能夫さんの『松風』の披きだったんでしょ。

能夫 そうですね。

明生 そのときからは間違わなくなりました。なぜか・・・というと。一番最初の『松風』は申合せが一回しかなくて、要するにあまり稽古をしていなかったんですよ。謡だけ覚えて、先輩から写させて頂いた型付を見て出来ると思っているわけですから、うまくいくわけがないですよね。あの時は途中まではうまくいっていたのですが、最後に興奮してきたときに謡を忘れてしまったのです。能夫さんとやったときは何回も稽古をしました。ここは型付にはこう書いてあるけれど、気持ちがのらないからこの様に替えてなんて注意も受けたりしてね。

笠井 能夫さんとやったときは、昭和六十三年ということは、『道成寺』から三年ぐらいたっているわけだね。明生君が三十二、三歳のころですね。

明生 そうです。それから、クセの少し前の謡に、「幾程なくて世も早う」という、難しい謡所があるのですが、これがなかなか上手く謡えなくて。ここを上手に謡える人は多くないですよ。あのときも何回もダメが出て・・・。

能夫 そういうところは何回もやるといいんですよ。

明生 能夫さんとは何回も稽古して、練っていくわけですよ。能夫さんのお披きでしたからね。それまでのように、ハイ型付写しました、ハイ見ました、やりました、二日後に本番です、ということではないわけですよ。そこでよく考える時間をもてたのが、自分で『松風』をやるときにとても役立っています。

笠井 そのときの『松風』は能夫さんが三十九歳、『道成寺』から八、九年後。明生君がやったのは平成七年だから四十歳。ほぼ同じぐらいにやっているんだね。

能夫 そんなもんでしょう。

明生 その後はあたりまえのことなのですが、『松風』のツレで失敗はしていません。父と大槻自主公演、囃子科協議会や、妙花の会で大村定氏ともやりましたが、それらの会で、ツレがある程度うまくできたのは、能夫さんとやるときに、徹底的に教え込まれた、おざなりにしなかった、その成果がでたと感謝してますよ。

能夫 あのとき明生君にはいろいろ言ったと思うんだ。たとえば、アシラウときでも、シテが向いてから、ツレが向くというのはいやだからねと。ぼやーとしているツレだと、シテが向いているのに、まだ向かない、動かないでそのままなんだよ。あれは絶対にいやですよ。

笠井 気がきかない。気がきかないなんてものじゃないね。能が成り立たない。気持ちツレが早いぐらいの方がまだいいでしょ。

明生 そうです。真の一声で舞台に入るタイミングは、「袂かな」という回し節になったら動くというルールもあるけれど、もっと引き寄せてからでもいいのではとかね。

能夫 今までは回し節のときに出るのが定型パターンだったのだけれど、謡がなくなってから出ようとか、下音になってからにしようよとかね。そういうことをいろいろ研究しました。

明生 ツレの謡に関しても、ただ調子高くでなく、張りと共にテンションの高さ、こういう調子でと本当に謡ってみせてくれてね。

笠井 だから、ツレというのは能楽師が育つ場なのね。子方というのは別にして。子方になれるかどうかは生まれる条件が関係するけれど、ツレというのは、後から出発した人でも、ある水準になったら必ずやらなければならない役でしょ。そこをすっ飛ばしてシテはありえない。ツレをちゃんとやることで、シテとの距離感もわかるし、能そのものが見えてくる。ツレの位置というのはすごく大事だと思うんですよ。こういうと、ツレはシテより一歩下がった存在のように感じやすいけれど、中には『清経』のツレや『松風』のツレもそうだけれど、決してシテの添え物ではない、添え物ではダメだというものがあるよね。

明生 それは私も言われました。

笠井 『松風』なんかは、シテとツレが愛を争い合った姉妹でないと、あのお能は成り立たないわけだよね。そういうことを教わりわかっているツレでないと成り立たない。『山姥』のツレの百万山姥もそう。百万山姥というツレの存在は決して添え物ではないでしょ。あれがいるから山姥が呼び出されてくるわけですよ。その対比が非常に大事なの。だからツレがとても大事。ツレをどういう風に教育するか、これは流儀なりのポリシーによるよ。

能夫 それは大事なことだと思うよ。

笠井 ツレだから添え物でいいではダメで、かといってツレが出過ぎて下品なのもいやだし、曲に応じたツレの位置があり、シテというものがちゃんと見えていないといけない。ツレがあってシテにつながる、地謡があってシテの謡につながる、ある意味では役者を育てるのに非常によいシステムができているわけですよ。それがどこかで一つ一つが単なるパートになっていて、それらの役が密着してからみあっているということに気づいていない人も多い。そういう人は、よいシテができないよね。ましてやツレをやらないでいきなりシテにいくのは論外ですよ。

明生 シテとツレが連吟をするときでも、シテにべったり寄りかかるツレがいるでしょ。あれシテからすると、重くくたびれますね。連吟のツレはどんどん積極的に謡ってくれなければ、シテに負担をかけさせない気持がないと。シテは連吟ということで謡いながら少し楽ができるぐらいのものでなくてはと思うのです。ツレに任せながら最後はシテがコントロールする、大事なポイントはシテが握っているというような、長丁場の一曲を作っていくときにはとても大事なのです。だから最初に父が私と一緒にやったときは大変だったと思いますよ。こっちはできないし、それを全部カバーしながらのシテの疲労度。能夫さんに教わったのは積極的に声を出すということ。好きな調子で出してくれ、あとでコントロールするからと言われた。真の一声の「塩汲み車、僅かなる」の連吟のところ、妙に萎縮せず、堂々と謡わなけてはと言われました。ですから自分がシテを勤めたときも、ツレの長島茂君が、稽古で私の謡を聞いて調子を探ってから謡出すので、それはやめよう、君が声を出して構わないんだと、自分が言われたことと同じこと言ったんですよ。シテにまかせるのではなく、ツレも前面にでて手伝ってくれとね。

笠井 それがツレという役の位置だと思うんだ。

能夫 『松風』もそうだけれど、連吟というのが大変難しいものなんですよ。やっぱり一緒に稽古しないとね。できる限り稽古していれば、お互いの呼吸がわかってくるでしょ。

明生 この間は、絶句の間か、心持ちの間かというのも、そこで自然とわかってきますよ。

能夫 何度もやっていればね。

明生 父との時はあまりに「任せるよ、任せるから」といわれて、シテが謡わないから、てっきり、止まったかなと思って、私が少しフライング気味に謡うと、「駄目だね。この間が大事なところなんだ」といわれてね。そうかと思うと、心持ちと待っているとそうでなかったりして(笑い)。

笠井 親子でもわからないかねえ(笑い)。

明生 一緒に稽古が少ないからね、わかりにくいですよ。新太郎伯父と能夫さんもそうだったかもしれませんよ。かえって従兄弟ぐらいの関係、近いけれど一緒じゃないという距離というか間柄の方がいいのではないでしょうか。
 あの時は装束については、私が着たいというものがつけられて・・・嬉しかった。印象的だった新太郎伯父の松模様の紫長絹、裏に大きく松が描いてあるもので、そういうものを着れた喜びみたいなものがありました。『松風』のころは、能をやろうという意識が充実し始めというか、やっと芽生えたんですね・・・真剣にやっていますから・・・(笑い)。舞い終えて鏡の間に戻ってきたときに、直ぐ自分の姿を見みたい!と思いましたから。ああ、こういう格好していたのかと思って、それからようやく面をとるという。それまでの経験ではそういうことはなかったですからね。いつもああ、終わったやれやれ、「早く面、装束とってよ」という感じでしたからね。(笑い)

笠井 明生さんも、やっとそれで成熟したね。

能夫 そうだね。それはいいことだ。

明生 それから、お能は一人では何もできないんだということを強く知らされたのが『道成寺』という大曲だとすれば、自分が能動的に動き、何かを仕掛けなければ何も出てこないんだということを学んだのが『松風』だと思うのです。二時間という長時間を一人で引っ張っていくために・・・。

能夫 そうだなあ。『松風』は中入りもないしね。

明生 途中で野村萬先生や万作先生がいい語りをやってくださるというわけにいかない、物語を説明してくれるということがないわけですからね。

能夫 『富士太鼓』なんかもそうだけれど、物着で世界を変えるというのは難しいな。『井筒』も昔はそうだったらしいけれど。

笠井 そうだね。今はそれに一曲の時間も長くなっているしね。昔は物着を入れて40分ぐらいでやっていますから。そのぐらいの時間なら、物着で世界がぐっと変わるのは、ある意味では観客にも説得力あったかもしれないし、役者にとっても体力とのバランスがちょうどよかったかもしれない。

能夫 今は二時間ですからね。

笠井 その二時間を気迫をもってやろうとしている感じ、あの時、その意識は伝わってきたよ。明生さんが『熊坂』をやるというので申合せを見せてもらって、喜多流の若い人たちはすごくからだが動くんだということで驚いた。からだのきれに、ある種瞠目したもの。その『熊坂』があって、『弱法師』、そして『松風』でしょ。本格的な三番目物をしたのは初めてでしょ。

明生 そうですね。『東北』や『半蔀』は勤めていますがね。

笠井 『松風』は大曲だもの。

能夫 『松風』やればいろいろなものが見えてくるし、『松風』を見れば、その人間がどれだけのことをやってきたか、何をもっているかがわかるから、思いきってやるのもいいのではないかと・・・。

明生 能夫さんに、『松風』が次の勝負曲だよと言われたので、その通りにしました。

笠井 お能に本気になれなかった明生さんへの早めの注射がきいたということかな。あの舞台にはその期待に応えようとするものが充分あったと思います。舞台の完成度を高めるべく向かっていく姿勢がはっきり見えたと思うよ。

能夫 課題を与えるというか、課題曲に挑戦するというよさはあったと思うね。

明生 あのときの地謡はすごいメンバーでしたよ。地頭は父・菊生で、後列は友枝昭世さん、粟谷幸雄叔父、能夫さんでしょ。でも銕仙会という小さな舞台では8人は多すぎたようです、6人編成でよかったぐらいでした、また、真の一声も寸法が余るものだから、佃良勝さん(大鼓)や宮増新一郎さん(小鼓)に相談して手を替えていただいたり、破の舞も森田流の寸法を替えて、松田弘之さんにお願いしたりして・・・。 ツレは長島茂君で、ワキは私と同じ年の森常好さんがお相手してくださり、みなさんに助けてもらったという事です。

笠井 ほんと、よい出発になったと思うよ。それからやっぱり、僕はあなたがこの曲から演能レポートを書くようになったことが、すごい財産だと思うね。それが始まったのがよかった。ちょうどよい機会になったと思うよ。

明生 それは、笠井さんが書かなくてはねと言われたから・・・。

笠井 仕掛けは僕だったかもしれないけれど、仕掛けても大丈夫かなという、そういう年でもあったんだよ。自分を成長させるきっかけになる年って、人それぞれにあるじゃない。あなたのように少し外れていた人間が戻ってきて、本当に自分のトータルな世界が見え始めたとき、そしてそれが自分のものになって、次に漕ぎ出せたとき、それが『松風』に挑戦したときだったんじゃないかな。

明生 外れていた人間を、みなさまが暖かく迎えてくれたのだという感じはしますね。 今日はありがとうございました。



写真撮影 松風 前 カラー  三上文規
     松風 後 モノクロ 宮地啓二

研究公演つれづれ(その5)投稿日:2018-06-07

研究公演つれづれ(その五)

第5回,研究公演(平成6年6月25日)
『天鼓』シテ・粟谷明生 ,『白是界』シテ・粟谷能夫

粟谷 能夫

粟谷 明生

笠井 賢一

明生 研究公演の第5回は、能夫さんが『白是界』、私が『天鼓』に取り組みました。舞台は目黒の喜多能楽堂で催すことにしました。


能夫 そうだね。研究公演は最初、二番立で銕仙会の舞台で催していたけれど、お客様から桟敷席での二番は身体がきついと言われて・・・。

明生 第4回は『蝉丸』一番なので銕仙会能楽研修所、その前の第3回『求塚』(シテは友枝昭世氏、我々は地謡)は友枝昭世氏の客演でしたので喜多能楽堂で催しました。3回4回と計画し実行に移しながら、やはりそれぞれのお能をしなくてはということで、第5回は又元に戻し、それぞれ一番ずつに、そして見る側の事も考え、喜多能楽堂で催すことにしたわけです。


笠井 それで研究公演は充実してきたのではないですか。お二人の思いもあって・・・。

明生 この回までは、私の曲目選定は能夫さんのアドバイスを多分に受けて決めていました。第8回から、私自身でこの曲を試みたいと言えるようになったと思えるのですが。それまでは『松風』等の大曲は何となくもう少し先にしようという気持ちはありましたが、計画はそろそろかな・・・などと。つまりそれまではどの曲を勤めるかと自分で選ばなかった、というより、選ぶ技倆がなかったのでしょう・・・。研究公演だけでなく、宮島の桃花祭の 御神能での『通小町』、秋田のまほろば公演での『鬼界島』など、他の舞台も知らず知らずのうちに能夫さんにこれとこれは勤めておいたほうが良いというレールを敷かれ、それにしっかり乗せられていた感じです。5回目の研究公演のときも、研究公演だからこそできる、また今ぐらいに一度やらなくてはと、能夫さんが『天鼓』を選んでくれたのです。『天鼓』は少し年を経てからでなくてはいけないのではと私は思っていたんですが・・・。それで研究公演で勤めるなら一つの試みとして盤渉(ばんしき)の太鼓入りという今までの喜多流にはなかった形を経験してみたかったんですよ。


笠井 普通はやらないでしょ。

明生 喜多流は通常『天鼓』の楽は大小楽の黄渉なのですが、まず楽は盤渉でやりたくて、それは勉強の為、経験しておきたいということもありまして。その盤渉も 大小鼓の盤渉にするか、太鼓入りの盤渉にするか。
以前に盤渉楽についてお囃子方から喜多流の大小楽での盤渉は打ちにくい、盤渉に太鼓が入らないのは喜多流だけということを聞いていましたので、自分の時はどうにか手をつけてみたいと思っていまして、お相手の国川純さんや観世元伯さん(当時元則)松田弘之さん、亀井俊一さんにご相談して、研究公演ですので試しに太鼓を入れてみたい旨お願いして、元伯君は元信先生に相談されて一応問題なしという許可を得て出来たわけです。


笠井 観世流の小書「弄鼓の舞」のような感じになるのですか?


能夫 「弄鼓」は盤渉になって太鼓が入るのですね。


笠井 「弄鼓」は華やかなと言うか、音楽の精霊の戯れといった感じ、全体の重さはあるけれどスピードアップする感じですね。それでうまくいきましたか?

明生 自分としてはうまくいったと思っています。元伯君は喜んでくれましたよ。彼に言わせるといつも打っているところを、じーと、ずーと聞いているのは結構辛く悲しいって、他流では打てて、囃して曲に参加出来るのに、ちっとも面白くないと言うのです。あのときは打ちあげのところの手をどう変えようかと考えてくれて、兎に角結果は「やっぱりこちらの方が良いですよ」と気持良く打ってくれた感じでした。


笠井 喜多流で『天鼓』の盤渉に太鼓を入れるなんてことは、かなり大胆なことでしょう。


能夫 そうでしょ。普通、喜多流では大小楽ですから。


笠井 それを研究公演だからといって通せたわけ?


能夫 試みたいという意思表示をして・・・。

明生 今回は特別でということで・・・。


笠井 それは、誰に了承してもらうの?

明生 まず友枝昭世師と父と、自分の師匠筋です。それから仲間うち、あとはお相手してくださる囃子方とその関連、ここをちゃんとしておかないといけないですから。あとで問題になるのはいやだから、一応皆様に納得して頂いてその成果を見ようということです。


能夫 やはりこういうことは、いろいろ相談してOKをとらないとできませんよ。


笠井 作り物の位置はどこに?

明生 喜多流はワキ正面の前に太鼓、そして一畳台もありますよ。


笠井 金春流と同じだね。観世流は正先に置く。

明生 『富士太鼓』のときと同じでしょう。


能夫 真ん中に置くといいでしょう。うちのでは後シテは舞いにくいのよ。後シテでは場所が違うのだから(前場は宮中で鼓を打つ場面、後場は天鼓の霊を弔う管絃講の場)代えてもいいかな。

明生 一畳台があるので舞いにくいことは確かです。風情としては良いのですが。鼓を打った撥をどこに置くか、懐中するか、打った後の処理の方法が未解決です。未だに良い形は見つかっていません、問題ありですよ。


笠井 「波を穿ち袖を返すや」のところはどういう風にするの?

明生 観世さんはあそこ、速くて派手な型で舞われますよね。両手で仰ぐような型、喜多流は右手でサシ左袖を前に返すだけ、あまり早くならずに舞い謡うが心得ですが。宝生流はもっとしっかりじゃないかな、前に金井章先生がうちは兎に角早くならないんだとおっしゃていましたから。

前シテと後シテの持続と切り離し

明生 ところで、あの『天鼓』のとき、笠井さんから「前シテが中入りするときに、どういう気持ちで帰っていくの?」という質問を受けたことを覚えています。つまり、子供を失った悲しみの老人(前シテの老父)と、後シテの天鼓という少年との関係をどう考え、どう演じ分けるかということだったと思うのですが、あのとき私、「考えていませんよ」とあっさり言って、笠井さんも「あっ、そう」で話が切れてしまったのだけれど、あの場面でどういう風にしなければならなかったか、今日は笠井さんからその答えを聞きたいと思いまして。


笠井 前シテと後シテと違う人間を演ずるときに、自分の中でどういう仕掛けを作るのかということを聞きたかったんですよ。

明生 そうですね、ウーン、特別な意識はないと思うのですが。装束を着替えながら、自然と気持ちが変わっていくということでしょうか。あとは出ていけば自ずと次の役になるという風に、意識せずともなりきれるまで稽古してしまうとか、子供の頃からの慣れが演じ手をしっかり支えているように思えるのですが。


笠井 だけど、親の老人の嘆きが体に残っているとすると、その同じ体で、少年の舞を舞うときに、思いをどんな風に表現出来るかって思うよ。そこにはやっぱり、役者の気持ちが問われるという感じがしますね。役者の持続と切り離し方というか・・・。


能夫 心情の起伏もあるし・・・。


笠井 老人の思いと、死んだ方の天鼓の思いだね。若者をどう演じるか。音楽性と舞い事をどう対比させるか、これらは課題だと思う。この曲で役者はすごく鍛えられるという感じがします。


能夫 そういうことですね。


笠井 普通の新劇とか現代劇なら、たとえばマクベスで、マクベス夫人が夫をそそのかして主人を殺すという陰謀を実行する。弱気になる夫に対して、私が一度決意したら、自分の乳房を吸っている赤ん坊から乳首を無理矢理引き離し、脳味噌をつぶすことだってできると迫るセリフがあるんです。それほど気性の激しい女性として描かれていながら、後半になると、狂気になって「老人にこんなに血があるとは思わなかった」といって、夢遊病者のように手を何度も洗うシーンが出てくる。弱い人間として描かれているんです。


能夫 罪の深さということですね。

笠井 このように芝居は、最初強い人間でも弱い人間になっていくということはある、それでも一人の人格としてつながっているわけでしょ。だから演じる側も、途中に性格的な転換があっても、同じ人間のつながりの中で、ある想像力を働かせれば演じられなくもないと思うのです。犯罪を犯すときは強気でも最後はしおれてしまう、というのはそれなりのリアリティがあるんじゃないですか。


能夫 ありますね。


笠井 その人物の人格を続けていくしかないわけ。ハムレットはハムレットを続け、マクベスはマクベスを続けていくしかない。いきなり別な人物を演じることはないわけですよ。

明生 ウーン。私たち能楽師は、平気で別な人物を演じていますね。


笠井 そういう台本があって、演出があって、与えられているからやっているけれど、それが平気だというのは、かなり普通じゃないわけですよ。

能夫・明生 そうだね(笑い)。

明生 西洋の演劇などでは、こういうことはそれほど難しいことなのですか。


笠井 普通はないでしょ。『船弁慶』で前シテでは静御前を舞い、後シテで知盛になるというのは、別の人物になる方法論、働きがあって、それはそれで作ってしまうわけだけれど、それも後でできた話だからね。世阿弥のころの能はそういうものはそれほどなかったし、古能ではもちろんなかったわけです。


能夫 前シテ後シテを違う役者が演じていた可能性もあるしね。

笠井 お能では全然違う人間になるからね。もともとは前シテ、後シテを別人が演じていたと考えられている『昭君』だって、前シテの昭君の父の白桃(はくどう)と、後シテの単于(ぜんう)の亡霊を一人のシテが演じるスタイルに変えてしまった。それがちゃんとできるような構造になっているし、技術的にもまわりで支えている。できるように稽古しているしね。それでも前後の飛躍と持続をどうするかは、技術的にも、大事な問いだと思う。ある種つながっているけれど、どこかで切れている、全く同じではない・・・というものがね。


能夫 『天鼓』というのは、シカケ、ヒラキだけでなくて、シテの心を表現しなければならない曲だと思いますね。謡とか姿で表現していたものから、もう少し深くお能に入っていかなければならないと思う。本当のことを言ったら、あの前シテの老人の悲しさを若い人間が演じられるようなものではないでしょう。でも修業過程の中で、どんどん若い人にもやらせている。みんなシカケ、ヒラキでやっているけれど、やっぱり違う。能の深層にふれていかないといけない・・・。

明生 『高砂』などの脇能の尉とは違うわけですから、そこをどう表現するかですね。それから中入り前、それまで鳴らなかった鼓を老人が打ったら音が出たというので、帝も哀れに思われて老人に褒美を与え、老人も「あら、ありがたや」と言い帰っていくというのが嫌でねえ。


能夫 あそこを省略する演出もあるよね。小書「弄鼓之舞」では、恩賞をあげると言われて「あらありがたや、さらばまかり候べし」という言葉をなくし、すぐにアイがシテを呼んで老人を私宅へ送るという演出にしている。


笠井 恩賞をなくして、ただ管絃講という供養だけにするという演出もありますね。

明生 でも、あの研究公演ではそこまではできなかったですね。言葉をなくすところまでは・・・。帝が哀れと思し召して、「竜眼(両眼)に御涙を浮かめ給ふぞ有難き」と、合掌して有り難がるのは、演者側からの意識ではなんだか情けない爺さんだな、今までの嘆きや、音が出た喜びはどこにいってしますの、おかしいじゃないの焦点がずれるよと思うのです。我が子を呂水の江に沈めて殺し、形見の鼓を内裏に没収して、いままたこの老いた父に鳴らぬ鼓を打てという非情な帝ですからね。


能夫 恩賞を与えられて有り難がるのでは、下々のものは、どんなことをされても権力者を崇拝していますという感じになるよね。

明生 観客が見ているのは、我が子を失って悲しみに沈んでいる父親ですよ。前シテのおじいさんが、今度は自分が呼び出されて、殺されるかもしれないという恐怖の中で鼓を打つ、そういう思いに対して、ちょっと落としどころが違うという気がするんですよね。天子様、君子様と崇めるのはちょっと無理があるように思えるのですが。ただ単純に鼓が鳴ってよかったという風になればいいと思うのですが・・・。


能夫 あの場面は情景描写というか、設定を示しただけで、本筋ではないでしょうね。

明生 「竜眼に御涙・・・」などと地謡を謡っているときは 平気だったのに、自分でシテを舞うことになって、少し深く読み込んでみると、「何、これ」になるんですよ。


能夫 その伝で言えば、『西行桜』の「待て暫し・・・」と いうシテの謡もそうですよ。シテが「夢を醒ますなよ、まだまだ寝ていろよ」という意味を込めて、春を惜しみながら「待て暫し」というわけでしょ。本来はワキのセリフだと思うけれど・・・。


笠井 本来はワキだろうと思うけれどね。

明生 その辺は曖昧でもよいのでしょうね。


笠井 過去にワキでやったこともありますよ。でも、何だか折り合いが悪かった。難しいものだね。そこをどうするかでしょう。ワキと共有しながら稽古していかないと難しい。すぐに答えが出ないところですね。

明生 「待て暫し」はシテが謡うところでのほうが説得力が出ていいと思いますけれどね。


能夫 自分に言い聞かせている風情が出るからね。


笠井 その場の情景が豊かになるんですよ。理屈だけで、ここは本来ワキのセリフだろうとやっちゃうとつまらなくなる。

明生 新しいものを作るとき、理屈だけで押して行くとつまらなくなるというのは、そういうことですね。


笠井 説明になってしまうからね。そうではなくて、そこにもっと陰影をつけないと・・・。


能夫 『天鼓』という曲はいろいろなことを考えさせられるね。能楽師としては大事な演じどころです。


笠井 鳴ってよかったと、見る人は感じていると思うけれど。「弄鼓」の考え方でいくと、銕之丞さんは「恩讐の彼方」と言う言い方をされていたけれど、恩とか仇とかは忘れて、ただ音楽の戯れの中にいるという感覚で舞うということ。もうそれぞれ十分苦しんだから、ただ舞おう・・・と。恨み論 でいえば、もう少し恨みを出したくなるところだろうけれど、芸能の本質からすると、舞いながら和解していくというか・・・。

明生 やはり『天鼓』の楽は、高揚して戯れとして舞わないといけませんよね。ノリも浮き浮きしたものがないと、楽しめないとね。


能夫 舞っていると恨みとかは忘れてしまうもの。そういうところがあるでしょう。


笠井 のびやかさみたいなものは、ある意味では楽の一つの特性でもあると思うよ。

明生 演者としてはまず楽をしっかり舞うという基盤があってその上に『天鼓』らしい楽を舞うという段階に入る事が肝要で、楽が舞えたから楽物すべてが出来るなどと錯覚してはいけないですよ。それぞれの曲での楽の立場みたいなものを認識しないと、これは若い修業時代には先生はおっしゃらなかったけれど、自分で発見するものかな。


笠井 悪尉系の楽もまた別ですからね。

能夫 明生 そうですね。

明生 私としてはこの時期あたりから、いろいろな試み冒険が出来始めた、一つの転換期ではありました。そう、曲の内容の読み込みの大切さを教えられはじめられたから。ね、笠井さん!

先人の偉大さを思う『白是界』


笠井 さて、能夫さんは『白是界』をどうして演じようと思ったの。

明生 これは伝書の問題があって、能夫さんが是非やってみたいということだったと思います。今までやっている『白是界』でないようなものを作りたいということで・・・。


能夫 『白是界』は十四世喜多六平太先生が熱海の温泉で何泊かこもって作ったと言われているんだけれど、原本があるんですよ。

明生 渋谷(しぶたに)流の原本がありますね。


能夫 渋谷流というのは、江戸時代京都に手申楽という素人申楽の渋谷道修という人がいて、その一族の流派です。その一族の高村家の何代目かが、喜多流に養子に入り八代喜多宗家になっています。渋谷道修は江戸の中期の人じゃないですか。『経政』の「烏手」とか『枕慈童』の「クセ」なども渋谷流なんです。『白是界』という小書は、喜多流と養子縁組するときに渋谷家からもってきたものと伝えられています。その確実な証拠というか、渋谷の「付け」というものがあります。

明生 高林さんのところにありますね。


能夫 高林さんのところにもあるし、金子匡一さんのところにもあるはずです。そこには『白是界』のことといって、渋谷流の型付が載っています。僕はそういうものを若いころから目にしていたから・・・。六平太先生のお作りになったものともそう違わないけれども、でもやはり、あの研究公演という場で、原本ゼロでスタートするわけにはいかないでしょう。原本からでないと何事も起こせないと思うのです。


笠井 それはそうですよ。原本ではこうだった、その上に自分の発想をこうつけましたということでないとね。


能夫 前シテもツレも、寿夫さんがやったように面をかけてやりたかったけれど、そこまでの位になかったな・・・、僕は。あのときは直面でやったよね。

明生 ツレは私が勤めたんですが、あのとき直面というのがすごく困った。『天鼓』を舞ったばかりでしょう。汗はひかないし、顔に当て物の跡がついているみたいで。このツレは6回ほど勤めてますが、太郎坊はシテの是界坊に対比するような力強さがないといけないと教えられていますよ。あとで是界坊の陰謀を密告するおかしな者なんですが。


能夫 それであの時は、クセは省略したね。

明生 そう、クセはやりませんでした。


能夫 あのクセはいいところではあるけれど、仏敵、法敵となるのが悲しいとか.それでもその迷いで仏に帰依するわけにもいかないとかウジウジ言っているわけでしょ。そんなことは百も承知で出て行くエネルギーがあっていいのではないかということで、クセは謡わないことにしたんですね。

明生 さあ仏法を妨げよう、さあやろうと直ぐにロンギに入るということでした。


能夫 さあ戦おう! とね。前シテではそんなことを考えていたのです。


笠井 後シテの身体的なものは?


能夫 身体的なものは、うまくいかなかった。「これを不動と名付けたり、」と言って、パワフルでエネルギッシュになるところ、先人の壁と言うか、そういうものを感じましたよ。


笠井 先人の上手は、見ているだけで世界ができるというところがある。


能夫 自分のは世界ができあがらないんですよ。そういう感じがしました。


笠井 運びの問題?


能夫 この曲は緩急がないのですよ。いつもノッシリ、ノッシリなんだ。働きもノッシリ。


笠井 それで存在感が出てこない・・・。


能夫 ゆっくりだけでは、メリハリがつかないんです。謡いの気運は上がっていくんだけれど。自分でもここはこうしなければと考えているけれども、耐え切れなくなるし、運びも弱くなるし・・・反省しました。やはり先人のすごさと いおうか、ただ見ていただけでその境地に行くというのはやはりすごい。

明生 『白是界』は鹿背杖を使わず羽団扇(はうちわ)で通すでしょ。あれでエネルギッシュに見せるというのはすごく難しいのです。当然赤頭とは違う凄まじさが現れないといけないし、羽団扇を持ちながら音をたてずに雲間の拍子を踏むだけでも大変なエネルギーが必要ですよね。


能夫 後シテはベシミ悪尉という面をかけるのだけれど・・・。

明生 面、装束という兜と鎧が何とかしてくれるという頼る気持に・・・。


能夫 それが空虚だったりするんですよ。


笠井 先人たちは何でああいう風に存在感があるのかね。


能夫 すごいと思うよ。


笠井 古い映像で身体的にはボロボロになっていても、悪くないものね。

明生 今の梅若六郎さんが鞍馬天狗の子方をやられている、梅若実氏のビデオ、肉体的に弱られていても凄いよ、しっかり大天狗像が浮かび上がってくるから、驚きですよ。


笠井 まぎれもなく。

明生 ある種の、技法を体得しないといけないのかなと思います。『鞍馬天狗』でもなんでも「赤頭」の方はそれなりにできるが、「白頭」は難しい。白の方が格好はいいし、位も高いというので二回目の演能になると我々は白頭を目指しますが、そこにしっかりした軸というか芯というか、固いものがないと、「変だね」、「下手だね」と言われてしまう。軸や芯みたいなものに、何を付け加えるかが問題と偉そうに思うのですが。特に『白是界』は「白頭」より重い扱いで、曲名まで『是界』でなく『白是界』に変わっているわけですから。


能夫 先人の偉大さだよね。でもそれもやってみないとわからないよ。『白是界』という大きな壁にぶつかってみないと、この曲のすごさというものがわからないと思うよ。

明生 技法と意識の両立というのかな。特別な技法、充実の持続の仕方


能夫 先人のものには何か格闘しているものがあるんですよ。

明生 確かに。


能夫 あのときは、喜多流が大事に背負っている『白是界』というものに挑戦してみたかったんだ。できると思ったのに・・・。挫折の一番だったということです。


笠井 そんな感想?


能夫 パワフルなのよ。覚悟してやったんだけれど・・・。 でもやらないと何もわからないから。やってどうなのということだから・・・。

明生 でもやってみてわかったんだからいいじゃないですか。この話を聞くまではそんなにダメージを受けているとは知らなかった・・・。


能夫 ダメージを受けていますよ。先人のすごさといおうか。できると思ったらとんでもない。


笠井 先人たちは、こういうきつい曲をいい年になってもやっているんですよね。でも我々もこういう話ができるというのがいいことじゃないですか。こういう「ロンギ」続けたいね。

写真 天鼓 粟谷明生 撮影 吉越立雄
白是界 粟谷能夫 撮影 あびこ

研究公演つれづれ(その四)投稿日:2018-06-07

研究公演つれづれ(その四)

研究公演第4回(平成5年11月27日)
『蝉丸』シテ・逆髪 粟谷能夫 ツレ・蝉丸 粟谷明生

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

逆髪明生 第4回の研究公演は、能一 番で『蝉丸』。能夫がシテの逆髪で、私がツレの蝉丸を勤めました。二人でひとつの舞台をつくることがテーマでした。


能夫 4回目は能一番で狂言もなかったし、入場券は売りにくかったよね。

明生 そうですね。


能夫 1年に2度というのも、当時の我々にとってはきつかったかもしれない。

明生 でも、そのときは、とにかく今出来る事は今しっかりやろうという意気込みでした。


能夫 勢いでね。

明生 お客様も多いとは言えなかったけれども、精一杯勤めたと思っています。『蝉丸』のツレは研究公演で演ずるという意識が強く、照準を合わせていましたから、喜多会の例会で『蝉丸』のツレをという交渉があった時、頑なに断って、これに備え燃えていましたから


能夫 それなりに二人は力が入っていたんだよ。『蝉丸』の演出について、僕はそれまで嫌だなと思うところがあった。逆髪の道行が終わった後、大小前で座り、蝉丸の謡の途中からいきなり立って常座にクツロギ、戻るように行くんです。これが嫌でね。おかしいでしょう。普通、観世流だったら、一の松で佇んでいて、蝉丸の声が聞こえてくるから、そちらに気が向いていくわけでしょ。だから座ってしまうというのはねえ。逆髪の特性というのは、佇んだりしない、放浪癖とでもいうのか、とにかく進むということでしょう。だから、あの研究公演では、「花の都を立出て・・・」から、蝉丸 の「世の中は・・・」が発せられるまで、大小前に下居ずに、橋掛りの一の松で佇むことにしたんです。あそこで、喜多流の演出を見直して舵を切ったつもりなんですけどね。


笠井 確かに大小前にクツログ、下居するのは変だね。

明生 変ですよ、ですから私も広島で舞ったときは、能夫氏の型を取り入れました。


笠井 喜多流の定型だからというのは考え直す必要もありますね。

能夫 だから、そこを切り替えたわけです。喜多流の場合、最後の別れの場面では、逆髪と蝉丸が謡った後は全部地謡になってしまう。地謡になると乗る、リズムがでてしまうでしょう。そこも舵を切りたかったけれど、それは次の機会と思って、あのときはそのままにした。後で友枝さんと一緒のときにそうしようと思っていたけれど、友枝さんが病気になって、実現しなかった。だから、あのときに舵を切っておけばよかったなと、今は思っている。でもまあ、勝手なことばかりやっていると思われるのもねえ。ちょっとぐらいなら、みんなもなるほどと認めてくれるから、あのときはあれでよかったと思いますけれど

明生 あのとき、クセの上羽 「たまたま言訪ふものとては」の部分をツレの蝉丸が謡うという能夫氏の考えもあって、私は賛成したのですが、本人があまり行き過ぎるのもどうかということで、普通にして、いたしませんでした。


能夫 そこまではやらなくともいいかなと。

明生 私は上羽の謡は蝉丸が謡う方がいいと思いますが。

笠井 喜多流はいろいろなところのものを摂取してきた流儀だから、おかしいと思うところは見直していくのはいいよね


能夫 そうそう、間違っているところはね。

笠井 喜多流はよいところは沢山あるし、独自性を出しているところもある。だから、流儀として絶対残すべきところは何か、変なところはどこかを考えるべきですよね。便宜的な変形はどこかで変わっていかなければならないけれど、それが長い時間をかけて上演するなかでそこはかとない味わいを出しているというのをどう考えるか、そこが微妙なところでしょう。たとえば『葵上』古式の青女房(若い女官)なんかね。現行では登場しなくなっているものを復活して上演した結果、車出しとか青女房を出さなければダメなんて考えるのも行き過ぎだと思う。
蝉丸・逆髪


能夫 変でしょ。場面の進行に障害が出てくるでしょ。

笠井 だから、どこまでで線を引くかが問題だね。今の『蝉丸』の話で言えば、大小前で下居するのはおかしい。


能夫 そういう問題点があることを認識しておきながら・・・。

笠井 ギリギリのところで決断していかなければね。安易に変えるのがいいとは僕は思わないけれど、唯々諾々と従っているのが問題なんですよ。

能夫 そうだよ。無神経でいるのが許せないわけ。その意味でも研究公演があるわけですよ。

笠井 研究公演が機能しているわけだね。そういう場があってよかったと思いますよ。

明生 『蝉丸』の辺から、いろいろ改善しようという機運が出てきたということです。5回の能夫さんの『白是界』にしても、私の『天鼓』にしても、そういう考え方をしていった。その最初が、この『蝉丸』だったと思いますよ。


能夫 そうだね。

明生 変えたことがよければ、先輩たちや周りも認めてくれて、2年後、3年後には、そういう方向で動き始めますから、古いおかしな伝承に拘りすぎるのは間違った伝承のとらえ方でしょう。
『蝉丸』のツレの難しいところは、蝉丸ツレが一番最初にワキを呼び出す「いかに 清貫」の謡、二人で稽古したときに、「品を保ち、調子を高く張って謡ってくれないか、蝉丸の人物像が浮かびあがるように」と、いろいろとシテから注文が出たんですよ。これをすごくよく覚えています。それに前半はシテが出ないからツレがシテみたいですが、後半にシテが登場したときに同じ調子の謡い方ではダメで、少しづつ変えていかなくてはいけない、このあたりが難しいということも体験してわかりました。最初の「いかに 清貫」あの、たった一言ですが、その一言の中に、フワーッと世界が広がらないと・・・。


能夫 わびしさ、つらさも全部背負いながら、それでいて蝉丸は何もわかっていないという風情もあるし、いろいろ揺れる心情を、あの一言に全部こめなくては、ね。それからシテは、うちの流儀では黒頭でやることが多かったんですよ。黒頭だと化け物みたいだけれど、バス頭(かしら)だと人間的なものが表現できるのですが、それが使えない。結局僕は黒頭が嫌だったから、かずらの鬢をたらし、裳着胴、大口袴でやりましたけれど、あのときバス頭という選択肢があればなあと思いました。


笠井 その選択肢はないわけね。

能夫 ないです。『鷺』のときに白いバス頭のようなものを使っていますけど。あれは普通の頭じゃない。そういう選択肢はないです。


笠井 その当たりは取り込んでもいいんじゃないかな。

蝉丸明生 そろそろ取り込んでも良いと思います。それから、中入前、盲目の人間は涙が出ないからシオリはおかしいと言われて、シオリをせずに、悲しみの表現をやろうとしました。


能夫 中入後、アイ狂言が出てきて、博雅の三位と名乗り、蝉丸が捨てられたことを聞いてやって来たといって、蝉丸を藁屋の内に助け入れるでしょ。その間、蝉丸はずっとシオリをしていなければならないんですよ。あれ、きつい姿勢なんです。

明生 きつさ、苦しさを回避するために、考えたのではなく、両シオリ(もろしおり)などせずに身体で落胆悲しみを表現する、そのための体勢、型の再確認、これを勉強しようとしたのです。大蔵流は地謡が謡っている間からすぐ出られますが、和泉流は地謡が終わってから、別にゆっくりと出られるから、たしかにシオリは手が痛くて大変でしょう。


能夫 まあー、あの時の舞台は二人でつくるというのがテーマだったんですよね。

明生 そういう意識はすごくありましたね。


笠井 シテ、ツレというより、対等という感じだよね。引っ張り合っているという感じがします。

能夫 たまたま僕が年齢が上だったから逆髪で、明生君が年下だったから蝉丸だったというだけでね。

明生 この舞台が結構よかったというので、大阪でもやろうという話がありましたが、どうせやるなら違うことをしようということで、それはやらないことになりました。

能夫 そのとき良かったから次もではないでしょ。あの舞台は初々しかったからよかったと思うよ。志もあったし

明生 一番一番を新鮮な気持ちでやるということですね。

写真撮影 あびこ

研究公演つれづれ(その三)投稿日:2018-06-07

研究公演つれづれ(その三)

研究公演第3回(平成5年5月29日)
テーマは地謡の充実

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

明生 第3回の研究公演は、メインが能『求塚』。友枝昭世さんにシテをお願いして、我々が地を勤める、地謡の再考と充実をテーマにしてみようということになりました。

しかしそれだけですと、我々は地謡だけになってしまいチケットも売り難いという事で、何か舞おうよということで、私が『松風』の舞囃子、能夫さんが『知章』の仕舞をすることになったのです。ほかに、菊生の仕舞『谷行』素抱という珍しい小書き演出と、石田幸雄さんらによる狂言『抜殻』という番組でした。

能夫 そうそう、僕は『知章』を舞ったんだ。

明生 これまでの研究公演は年1回でしたが、3年目には年に2回催したいということで、3回目が5月喜多能楽堂、4回目を11月、また銕仙会能楽研修所に戻り催したわけです。3回目の『求塚』は友枝さんがまだ舞っていらしてなかったということもあり、我々が謡いますからまず最初は私達の地謡でとお願いしたわけです。

能夫 これは画期的なことだったよね。主催者が地謡を謡うからと言って、シテを他の人に頼むというのは。普通は、自分たちの舞台の場を多くもちたいから会を起こすわけですから。でも、そのときのテーマは地謡の充実だからね。あの会では菊生叔父が元気ですばらしい『谷行』を舞ってくれたけれど、菊生叔父にしても、昭世さんの次に来る地謡の人材を考えておきたかっただろうからね。

明生 そうですね。それで我々が地謡をしっかり見直そうということになった。『求塚』では、申合せの前の下申合せをすること、というのが昭世さんの条件でしたから、早めにとりかかりました。

能夫 下申合わせは寒いときだったね。

明生 小鼓の北村治さん、大鼓の柿原崇志さんに、君たちのいいように打つから、こうしてほしいということを言ってくれと言われて・・・。

能夫 我々のことを意識してくれたんだな。

明生 そう。こちらが謡うように打つから、という感じでね。

能夫 結果的にはどうだったかな?

明生 いや、本番になったら、治さんも崇志さんも自分たちの世界を創り打ってこられたし、こちらはこちらで頑張るという感じで。その葛藤がよかったのだと思いますが。

能夫 そういう引っ張り合いというのが必要だな。囃子方は先輩であるけれども、能をシテ方だけでなく、地謡を含めた全部で創り上げていくという我々の考え方に対応してやろうということだったと思うよ。本当は一番でも多く舞うというのが、研究公演をスタートさせた前提だけれど、能をつくるには地謡が重要ということに気づくことが、大事ということだった。菊生叔父に謡ってもらう、昭世さんに謡ってもらう、では、その先はどうなのかといったとき、地謡を謡える人材がどうあるべきか、ということに思い至ったということだよね。

笠井 僕はあのときも、お二人の話を聞いて、研究公演のプログラムの主催者からの一言みたいなものを書く役をしたわけだけど・・・。確かに 、地謡を課題にするというのはいいことだと思うよ。僕はいつも言っているように、能は地謡が7割を担っている、だから、そこからやるのは当然だと。

能夫 そう思うね。当然のこと。

笠井 地謡の充実を喜多流でどうするかを考えることは必要ですよ。その意味で、二人がこういう機会をもったということは頼もしいことだと思う。

能夫 地謡は、地謡を謡うのだという志がないといけないね。ただ地謡の役がついたから謡うというのではなく、覚悟のことですよ。ただつつがなく、間違いなく、そこそこに謡えばいいというのではなく、やはり、シテの思いを受けるという想像力がないと成立しないということを、あの場で思い出していましたよ。

明生 その後、大阪の大槻清韻会自主公演で、父が『求塚』を舞ったとき、幸雄伯父と能夫さんと私と、そういうメンバーで地謡を謡いましたよね。そのときちゃんと手ごたえを感じられた。あの経験がなければ、対応できなかったと思います。やはり研究公演でしっかり挑んでおいたのがよかったと痛切に感じましたね。

能夫 それから、申合や下申合を経験して、お囃子方からいろいろ言ってもらえたのはよかった。治さん崇志さんたちの胸を借りるという感じだった。

明生 治さんからは「死ぬ気で謡え」って。あの言葉は心に残ってますよ。

能夫 「それさえ 我が咎に・・・」のところだっけ?

明生 あれは宝生閑さんに言われた。「どうして、あの前に力が入り過ぎるの」って。「シテがワキに詰め足で、すがる大事なところ、地謡はエネルギーを持って謡わなければいけないのに、そこでくたびれているよ」って言われ、なるほどと思いましたね。大阪の『求塚』の時、父が「いざとなったら、代わってくれ」と言うので、自分でもシテができる 体制で稽古をしていましたが、稽古でシテをやってみると、そのことがなるほどとわかるんですね。 地謡は「これを最後の言葉にて、から、刺し違えて空しくなれば」ばかり一生懸命謡って、力を使い果たしてしまう、その後に「それさえ我が咎になる身を助け給え」が本当は大事だってことをね。閑さんに言われたこと、これもをよく覚えています。

笠井 地謡は永遠の課題なんだろうね。能役者として生涯の課題。シテの課題と対等に意識すべきだね。

能夫・明生 そうですね。

笠井 地謡を謡いながら、シテをつくっていく、全体を自分の中に呼び込んでいくという意識がないとね。

能夫 それは絶対そうじゃなければと思うよ。だから恐ろしいというか、楽しいというか。とにかく地謡に興味を持たないとダメだよね。

笠井 曲全体を創造する喜びだよね。シテは演じていていい気持ちになるだろうけれど、曲全体を支え、ドラマを支え、感動をつくり出すのはやっぱり地謡だよ。

能夫 そこに自分の感覚をぶつけるというか、エネルギッシュに、命がけでやることだよね。

明生 あのときは、本当に一生懸命、それこそ死ぬ気で謡いましたよ。(笑い)

能夫 そうね。それがよかった。それにしても僕は、地頭の隣で自由に孫悟空みたいに、お釈迦様の手のひらで遊ばしてもらい、そこでワープしたりして、いろいろ楽しむっていうのが性にあっているなあ。

笠井 それはそうだけど、そうはいかない立場になっているんだよ、お二人は。

能夫 でも、あの『求塚』はすごく印象深いものになったよね。親父や先輩の能を見てきて、いろいろ経験があったからやれたということもある。能をつくるということが、地謡でもアプローチできるということ、地謡がバックボーンになっていなければ能は成立しないことがわかった。

笠井 地謡を好きでない能楽師は、結局、能を好きじゃないんだよ。

能夫 そうみたいですね。

笠井 リサイタルで、自分でお金出してシテをするような、お殿様になる瞬間だけが好きというのは、能全体を愛していることにならないと思うよ。

能夫 わかりますよ。

明生 それはものすごく理解できますよ。

能夫 それに地謡は一人ではできない。地頭はみんなを集結させ、全体をコントロールしなければいけないし、逆にみんなに助けてももらわなければならない。そういういろいろな要素が必要でしょう。

明生 自分が謡うだけではダメで、地謡全体で一緒に味わう、謡わせる、地謡の人間をその気にさせるような雰囲気を創る。

能夫 謡にはエネルギーがいる。中途半端では、「なんだ、彼奴は」になるしね。みんなの躍動感もいるし、そういうことが体験できてよかったんじゃないですか。

笠井 それで、能夫さんの仕舞はどうだったの。

能夫 僕が舞った『知章』という仕舞ね。床几にかけて舞うんですよ。床几にかける仕舞というのは『知章』と『頼政』ぐらいです。僕が子供のころ、実先生だったかな、仕舞で床几に座る姿が格好いいと思ってね、それで、あのとき実現したということかな。

明生 あんなときでもなければ、なかなかできませんからね。

能夫 ひと風情として、衰退していたものをみんなの目にさらすのもいいかもしれない、一つの捨て石のようなものでもいいと思った・・・。

笠井 明生さんの舞囃子『松風』は?

明生 『松風』を舞ったのは、そのうち能でやりたいというのがありましたから。能を勤める前に、囃子どころぐらいは先輩に心得を聞いておいた方がいいと思ったのです。囃子の稽古は、何か目標を設定しないとなかなかできませんからね。『砧』のときもそうでした。『砧』のキリの囃子を自分自身でやっておかないと納得しないというのがあってやらせてもらいました。『歌占』の舞囃子もそうです。『松風』の舞囃子はそれらのはじまりですね。

笠井 その後、お能の『松風』はいつでしたか。

明生 その2年後かな。決めていましたから。基盤みたいなものを一つずつ積み重ねて創っておく、若い時は親や先生がある道筋を導いてくれますが、大人ではそうはいかない、自分で開かなければ。これは玄人の能楽師としては当たり前のことだと思うし、それをやりたかっただけです。私は、いつまでも他人に言われたり、他人が演じると自分もと動いている人たち、彼らを素人の能楽師だと考えていますから。

能夫 ちょっと話が戻るけど、『求塚』では、昭世さんと菊生叔父のちょっとした『求塚』の取り組み方、考え方の違いがあったんだ。

明生 徹頭徹尾、強い内向と同時に外へも強くという趣向の昭世さんと、「面は痩女、そこから、何かが自然と生まれるものを計算にいれないと」の父との間に行き違いがありました。エネルギッシュに且つ凝縮した力をコントロールする意識は共通するのに、その通達方法の様々の模様が現場で体験できたのは、良い刺激でしたし、これからの自分の課題にもなるなと思いました。

能夫 強くやるのが昭世さんだけれど、菊生叔父の感覚では、それでは『求塚』ではないということだったんだな。内に秘めていながら、景清よりもっと激しいものがなければいけないということだと思うのだが、その話を聞いて、僕はどちらとも、軍配をあげられなかった・・・。

明生 内面的な力というのはすごく難しいと思いますよ。なければいけないし、ちょっとした方向性が違うだけで、変にとられる面もあるし、かと言って、それを制御し過ぎて何も訴えかけがなければ、それも困るし・・・。でも『求塚 』の後シテは難しい。舞が無いので、謡という訴えかけが充分でないといけないし、型でなくシテの心の読みとりという作業の大切さかな。

能夫 難しいね。あのことで考えさせられた。そういうことが、自分が『求塚』をやるときの指針というか、下地になっているね。

笠井 その人間が、どこまでそれを消化してどう成り立たせるかだろうね。

写真 粟谷能夫 「知章」
   粟谷明生 「松風」
   撮影 あびこ

研究公演つれづれ(その二)投稿日:2018-06-07

研究公演つれづれ(その二)

第2回 能夫『井筒』 明生『弱法師』(平成4年6月27日)

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

明生 2回目の研究公演は能夫さんが『井筒』、私が『弱法師』を勤めました。


能夫 明生君は1回目に『弱法師』をやりたいと言ったんだよね。最初から『弱法師』でもいいんだけれども、それはやっぱり・・・。

明生 うーん、怒られましたね。


能夫 最初から『弱法師』では周りの印象も悪かっただろうし。僕も『野宮』を先にやって、これも勤める順番が違うと言われたけれど・・・。でもそれなりの覚悟が出来ている年齢だし、ある年齢を越えたらいいのではないか、自分の求めているようにやればと、心の底では思っていたんだけれどね。

明生 確かに順番はあるでしょうが、能夫さんの言う通り、ある年齢、30歳ぐらいかなーーを越したら、自分自身の能楽師としての道は自らが拓いていかなくてはだめですね。何をやったら次は何といかにもベルトコンベヤーのような選曲が果たして良いかは疑問です。やる人の意志や挑む曲に対する想いを深くして、誰かが「やりなさい」というのを待っていたり、誰かがやらないと出来ないという情況は、青年喜多会の時代で終わっていなくてはいけないでしょう。

井筒
能夫 僕の『井筒』は自分にとって大事にしていた曲であるし、二人でやる研究公演にはふさわしい曲だと思っていたよ。

明生 そうでしょう。能夫さんは小書「段之序」で勤めたかったんですよね。この「段之序」がちょっとした問題になりましたね。父に相談したら、「まずは小書無しでやるほうが無難だよ。能夫はまた次の機会があるから、その時にやればいいじゃないか」と言われて。周りの反対がある中、押し通してもどうだろうかと父は心配してくれたんでしょう。私達も納得して消極的になり、小書は無しにしてしまった。でも後で、能という演劇の可能性みたいなものを研究する自分たちの会なのに、思い通りにやらない、その理由が「初演だから」というのは、私には嫌悪感というか、ひとつの心の傷として残りました。「様々な試みを」のスローガンと違うじゃないか、それを自分がしてしまったという後悔に悩まされました。自分たちの思いをもっと強く理解してもらうまで粘ることをしていたら、この第2回の研究公演に「段之序」があったのにと。でもこの件で、舞台は二度と同じように演じるチャンスがないのだ、その一回その場に最善の取り組みを、という意識を持っていなければいけないと解ったのですがーーー。


笠井 「段之序」はそんなに魅力的ですか?


能夫 僕はそう思う。


笠井 どこが? 僕は「段之序」は一度しか見ていないけれど、あれが決していいとは思わなかった。小書の問題なのか、演じ手の問題かはわからないけれど。

能夫 「段の序」は、とても官能的なんですよ。

笠井 どこが官能的? 「段之序」で決定的に変わるところはどこなの?


能夫 通常は後場で後シテ(井筒の女・霊)が登場したすぐ後、業平の形見の直衣を身に触れて「恥ずかしや、昔男に移り舞」と謡い、それを地謡が受けて「雪を廻らす花の袖」と謡って、序ノ舞に入るところを、「段の序」では、ここを全部シテが謡います。「雪を廻らす花の袖」という言葉を序ノ舞の中に謡い込んでしまうのです。乱拍子の和歌のような世界を作り上げようというものなんです。ただただ囃子と合っているという安易な「段之序」ではなく、シテの意識が反映されるものを出したかった。

囃子が、ただきれいに流れていればよいというのでなく、いろいろな注文によりもっと大事に、何か違う世界を作り出すというような「段の序」のイメージがあったものだから・・・。


笠井 シテがあの部分を全部謡うということは、序ノ舞の質みたいなものを、自分の中に凝縮し、その凝縮力の中に納めやすいという感じですか?


能夫 それはありますね。

笠井 それならわかる気がする。以前見たものは、そういう感じがしなかった。僕はむしろ、シテと地謡が一つの和歌を共有した世界で、より一層透明度が高くなると思うな。和歌の構成からすれば、和歌の前半部分を自分が謡って舞に入り、後半部分も謡うというのは、ある種、正統な理論だと思うよ。でもそれを越えて、個人の生涯を越えて、もちろん井筒という個人の生涯には違いないけれど、もっと普遍性を持った女性の生き方、人待つ女の源泉みたいなものを、地謡がからんで共有していけばいいんじゃないかという気がする。あれを個人で全部謡うことは全然ないと思うな。でも、それを敢えてシテ一人で謡うことにするのは、どういう根拠だろうと思ってしまいますね。


能夫 地謡に委ねるのではなくて、自分に枠をかぶせていくというか、何かそんな感じがするんです。自分の発散もできるし、官能的にもなれる。マイナスは負わないと思うんだけれど。自分で和歌を謡いながら、非常に官能的な高みに引き上げられる、上昇できるという感じです。『道成寺』で、あの和歌を謡い爆発するようなエネルギーで急ノ舞に入っていく、あの感じです。だから、自分のイメージとしては急ノ舞がある。一つの演出として、それに近い序ノ舞があってもいいのではないか。


笠井 それはあってもいいね。それでその後能夫さん、やったの。


能夫 やっていないよ。

明生 その後「段の序」をやるチャンスは10年経っても無いのが現状ですよ。だから出来るときやらなければいけないということ・・・。


能夫 『道成寺』の、あのすごい急ノ舞になるエネルギーのもとで、自由に序ノ舞をやる。そういうことをやりたかったわけ、僕は。


笠井 それは知らなかったですね。でもあの時の『井筒』は能夫さんが永年特別の思いであたためて来た曲であることがひしひしと伝わって来た。それは菊生さんの地謡の中にも感じられました。すごく『井筒』の世界になっていたと思うな。数ある地謡の中で一番印象に残っていますね。

明生 あの井筒の地謡は、能夫さんが「井筒は菊生叔父に是非謡ってもらいたい」と熱望していましたね。


笠井 次は是非、能夫さんの「段之序」を見ないとね。僕自身は、地謡が「雪を廻らす花の袖」と謡っても全然抵抗ないの。その方がむしろ別の意味で、シテ個人だけに凝縮するのではなくふくらみが出ると思うから。でも能夫さんがそこまで熱く語るなら、いつか見てみたいね。


能夫 いつか、本当にやりたいね。でも、それには大小の鼓が謡を充分知っていて。僕の呼吸と合わせて囃してくれないとできない。

明生 ただポンポンと打つのではなくて、「雪を廻らす」で、ある勢い、力がないとね。


能夫 華やかに出てくれないとね。「雪を・・・」で官能的になって、急ノ舞のエネルギー で序ノ舞を舞うわけだから、同じ意識を持ってやってもらいたいよね。それはもう、次の楽しみにとっておくということです。


笠井 楽しみにしておきましょう。能というものはシテだけ良ければいいというものじゃないし、笛も鼓も地謡も良くなければね。地謡だって地頭一人良ければいいというものではない。僕がいつも思うのは、直球一本だけでは表現できないだろうということですから。


能夫 わかる、わかる。


笠井 あのときの『井筒』の地謡はすごく感動したもの。

明生 研究公演は最初、銕仙会でやっていたころは、地謡は前列三人、後列三人でやっていたでしょ。喜多能楽堂になってからは四人、四人になったけれど。三人、三人というのは謡っている方も緊張しますよね。だから良い謡ができたとも言える。


能夫 いいことだよ。最小集団でもやらなければという気持ち。

笠井 四人、四人だと、不協和音を出す人もいるし、逃げ腰になる人も出てくるし・・・。

明生 一人一人が自覚しないとね。


笠井 ところで明生さんの『弱法師』、一回目に止められて、二回目に実現したということね。そういういきさつは知らなかったけれど、思いをためていたということは感じられたよ。観世流は透明度高くやるけれど、明生さんのはちょっと発想が違っていた。ある意味では写実的というか、リアルで生々しい、その鮮度みたいなものを僕は感じました。観世流は透明さとか純真さとかいうけれど、ただきれいごとで終わってしまうこともありがちですからね。


能夫 そらぞらしくなる場合がある‥‥。


笠井 それが彼のはね、「満目青山な心に有り」の場面で、左手を上げ山や月を描く、手の動きのいい型があるじゃない、そこに盲目の人間の「焦れ(じれ)」というかリアリティがあって、すごく鮮烈だった。それが忘れられないですね。観世流も同じ型をするけれど、ちょっと違う。焦れがないんだよ。


能夫 弱法師が自分自身に腹を立てるというか、心が波打っているというか。


笠井 何でこの年で、盲目にならなければならないんだという「焦れ」があって、そのエネルギーで突っ走っていくような感覚。そのところが、明生さんの場合すごく鮮度があった。『弱法師』の本質はあそこにあると思う。

明生 何故、この曲に執着していたか、どうして第1回目にやりたかったのかは、『弱法師』の精神性みたいなものの修得とはまた別に、他方では、技、型の早期修得の意味があったんです。『弱法師』には長年培ってきた、シカケ、ヒラキでは対応出来ない部分が多々あると思います。盲目の杖の扱いから始まり、謡い方、身体の動かし方と今までの意識とはちょっと違う感覚のてんこ盛りなんです。ですからいい大人になって、いざ弱法師を舞うとなったとき、「あれ、変だな、なんだかいつもと違うぞ」となってしまう。失礼だがその失敗例を沢山見ていますから。だから父にも、友枝昭世師にも、早く習っておきたい、悪い言い方ですが、早めに盗んで、自分のものにしておきたいという気持ちがありました。それに私の意識の中には背が丸く、腰が折れ曲がっている弱法師像は似合わないという思いがありましたから。とにかく、早めに仕掛けておきたかったのです。 あのとき石田幸雄さんがアイで出てくださったのですが、あのアイは最初にちょっとふれをしたら、最後の送り込みまで、何もなく、ただアイ座で座っているだけですから、「送り込みしなくていいですから、先に楽屋に入られて狂言のお支度を‥‥」と申し上げたのですが、最後までアイ座で座って見ていてくださった・・・。


能夫 研究公演を二人で始めたというので、見てくれたんだろうな。

明生 そして、後の反省会の席で、石田さんが「『弱法師』、面白かったよ。オレは後ろからずっと見ていたからな」って言ってくださった。そのことが嬉しくてよく覚えているんですよ。やっぱり身内とはちょっと違う、内輪の人にしっかり見てもらうというのは嬉しいですね。


笠井 そういう人に誉められるというのは一番大事だと思いますね。


能夫 嫌だったら、「俺もう帰る」となるわけだからね。面白かったよと言ってくれたというのは嬉しいことですよ。

(平成13年5月 記)

写真
井筒 弱法師 撮影 あびこ
     笠井賢一 撮影 粟谷明生

研究公演つれづれ(その1)投稿日:2018-06-07


能夫、明生のロンギの部屋

研究公演つれづれ(その1)
第1回 能夫『三輪』 明生『熊坂』(平成3年7月6日)

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一

明生 研究公演について、十年を経過しましたので、この節目で三人で話し合っておきたいと思います。この企画は最初からプログラムづくりなどで参加、ご協力してくださった笠井賢一さん(右写真)(現在銕仙会プロデューサー、演出家)にも、話に加わっていただきました。

 ということで、宜しくお願い申し上げます。もう十年経ってしまった・・・あっという間 という感じです。

能夫 研究公演をやろうといい出したのは、明生君だったと理解しているんだけれど。そうですよね、積極的にやろうといったのは。明生君にどういう思いがあったかはわからないけれど、当時、粟谷能の会があっても、僕らはメインはなかなか舞わせてもらえなかった、それなら、自分たちで独自の会を起こしてやってみたいという気持ちがあったと思う。父や菊生叔父が元気で真ん中を気張ってやっていたので、初番やトメを息子達の勉強のために埋めてくれるという形であったからね。明生君の中には、覚悟として、いずれ代替わりのときに、我々は核になっていかなければならない二人であるという思いと、そのためにも打って出て勉強し、そういう場面になったとき遜色ない人材になっておきたいという願いがあっただろうし、僕としても飢餓状態というか、もっと舞いたいときだったから、それで動き出したということだったと思います。

明生 そのときの年齢は、能夫さんが四十一歳、私が三十五歳。父や伯父が作った会に安易に乗ってやるだけではなく、自分たちの思いで、曲に取り組み、色々な演出を試みる、がモットーのような会をこしらえたかった。最初は喜多の舞台より銕仙会能楽研修所という名称の響きもよく、見所がそれほど広くないので、あまり観客が入らなくても目立たなく大丈夫(笑い)、舞台の拝借料なども魅力・・・という場所で始めました。まあいずれは粟谷能の会と同じように喜多能楽堂や国立能楽堂でやれるようにということだったんですが。

能夫 当時、銕仙会は荻原達子さんが事務局長をやられていて、いろいろと便宜を図ってもらいました。銕仙会は立地条件も悪くないから、良い出発点だったと思うよ。印象に残っているのは、荻原さんが第1回のときの明生君の『熊坂』(右下写真)を見て、「能楽師の直面(ひためん)の顔だわね」と言われたこと。あの方がそう言うんだよ。

明生 知らなかったな、初耳ですよ。

笠井 そういうことはおっしゃっていました。僕もよく覚えていますよ。

明生 そうか。荻原さんは鋭く厳しい能の見方をされる方ですから、その言葉は照れるけれど、嬉しいな。あのときの銕仙会の舞台は古い黒光りの板で歴史を感じさせる舞台だったでしょ。2回目からは変わってしまって残念でしたが。1回目のとき『熊坂』で床几に腰かけて拍子を強くたくさん踏むので、踏むたびにベリッ、ベリッて音がして。まずいな、これ以上踏んだら本当に割れてしまうぞと思いました。だけどあの黒い板の舞台は格調高く良かったですね。

能夫 銕仙会の舞台は見所の雰囲気も良く、舞台と見所の一体感みたいなものを感じることができるね。あの時あたりから、明生君も成長したなと思いましたよ。第1回目はそれが印象的だった。

笠井 僕は三鈷の会でみなさんに出会って、その後、何回か飲むこともあったけれど、数年してから研究公演をやろうということになって、もちろん銕仙会を提供することは、荻原さんがお決めになったことだけど、僕はあのとき初めて、喜多流の人たちとお能の関係でつき合わせていただいたんです。僕は裏方で、舞台係みたいなことをやっていて。そしてプログラムを作らせてもらった。

明生 なつかしいですね。第1回目のプログラム(右写真)は今のように三つ折りになっていなかった。だから発送するときに折るのが面倒だったんですよ。発送もこのときは私達がやったんですよ。この文章、笠井さんのコピーですね。「さまざまな試みを研究し、私たちのより良い演能を!」というの。僕は気に入ってるんですよ。

笠井 あ、それ書きましたね。僕がやったのは、毎回の研究公演に対するお二人の思いを聞いて、プログラムの冒頭に書くことだった。

明生 プログラム作りは私の担当で、第1回目では、能夫さんに、写真を使ってプログラムを作りたいので『三輪』の写真使わせてと聞いたら、「ない」と言われ、父や伯父の写真も良いものはなく困りました。良い写真を集めておかなければいけないとか、能専門のカメラマンを育てなければいけないとか、笠井さんにはいろいろ言われましたね。

能夫 そういうことに関しては、ずいぶん勉強になったね。

明生 十年経って、印刷編集技術も向上してきて、そこそこの写真でも使えるようになり、写真とコンピューターグラフィックの組み合わせで、きれいな画像処理もできるようになって。あの時分はそういうことが出来なかった。そのまま使える写真が少なかったのはこれからの能の写真のあり方を意識させてくれましたね。

笠井 デザイン性は重要だね。初期の頃は能のチラシやプログラムは写真を使うか筆で書くしかなくて、コンピュータ処理するなんてものはなかったから、2回目からのプログラムは画期的(右写真)で、並べておいてあると、研究公演のが他より目立ってました。

明生 それで曲目選択ですが、後から考えるとまさしく能夫さんがよい曲目を選んだなと思いましたね。「何をやるの」と私が聞いたら、「『三輪』を」と言ったんです。それも、普通だったら小書は憧れの「神遊」じゃないですか。それが「岩戸之舞」をやると。『三輪』は小書がつかない普通のものと小書「神遊」「岩戸之舞」があるけれども、新太郎伯父がやった「岩戸之舞」とも違うものを、自分なりに生み出してみたいといわれましたね。

能夫 自分独自のものというより、もともと「岩戸之舞」には二通りの伝書があって、今は一方しかやらないので、もう一方を掘り起こしたいということだったんだ。よくやられている「岩戸之舞」は江戸末期に作り上げられたもので、天の岩戸を探すイロエの型があるもの、もう一方は本来の暗闇での神楽を奏する「岩戸之舞」。そこに帰りたいという思いがあった。これを選択したのは『三輪』という曲に対する憧れというか、観世寿夫さんの素敵な小書「素囃子」を見た時の衝撃があったからで、あのときの「素囃子」は、大口袴と黒の風折烏帽子で出てくると思っていたら、本当に原始的な出立ちで出てこられたのでびっくりしたんだ。あんな「素囃子」はできないけれど、自分なりの取り組みというか演出をしてみたかった。喜多流の特徴をつかまえながら、『三輪』の原初に近づきたいという気持ちかな。

明生 能夫さんは『三輪』のお囃子方を決めるときには、ちょうどそのころ、浅井文義さんの『葛城』「大和舞」を拝見した後で、とても素敵な「大和舞」だったから、是非あの方々にお願いしたいと言われたように覚えているのですが。お笛は一噌仙幸氏、小鼓が宮増純三氏、大鼓が国川純氏、太鼓が三島元太郎氏ですよ。

能夫 そうそう、まさにそう。その方々なんだ。太鼓の元太郎さんに「岩戸之舞はどういうものなんだ」と聞かれて、僕は「これは暗闇(くらやみ)の神楽です」と言ったことを覚えている。元太郎さんに「能夫君がそう言ってくれたので打てたよ。ただ古いものを掘り起こされても、そのイメージを伝えてくれないとわからないね。やったことないんだから」と言われた。そのとき、ああ、答えを言えて良かったとつくづく思ったし、伝書にヒントが書いてあるんだが、そういうものを勉強しておいて本当に良かったと思ったね。あの一言が言えたおかげで、お囃子方全員が動いてくれた気がします。

明生 『翁』の型をするんですよね。

能夫 そう、『翁』(右下写真)と同じ型をやる。天の岩戸の神楽、暗闇の神楽を見せるわけだからね、原始だよ。

明生 普通、小書となると「神遊」ですが。「岩戸之舞」は、それまで新太郎伯父など何人かの方が勤めていますが、あまり頻繁にはやられていないんじゃないですか。

笠井 その後、その「岩戸之舞」はやっているの。

能夫 研究公演の1回目にやった「岩戸之舞」は、その後だれもやっていない。

笠井 あのときのことは、いろいろな意味で印象に残っているよ。申合せは銕仙会でやっていますよね。僕はその申合せを見ているんだ。ところで、明生さんは何で『熊坂』を選んだの。

明生 最初『弱法師』をやらせてと言ったら、能夫さんに「まあそれは置いといて、まずやらなくてはならない曲というのがあるでしょう」と言われ。「『熊坂』がいい、『熊坂』にしておけ・・・」 と。『熊坂』はそれまでやったことはなかったし、これはやはり、きちんとやっておかなければならないという気持ちになりまして。喜多会や粟谷能の会でいずれはやらされると思いましたが、やらされるのではなく、「自発的にやるという意識」が必要だなと、そんな気持ちになったんです。やはり自分達が企画している会だと違うなという発見が出来たのがよかったですね。『熊坂』の面は二面あって、能夫さんに「どっちを使う」と聞かれました。一つは大きくて重い長霊べしみ、もう一つは、平素使ういかにも長範らしい少しおどけて見える面。まだ若いし、ここは一つこの重い、ごつい方を掛けてみようと思い、前者を使いました。私が勤める前に、お弟子さんが『熊坂』をやられて長範頭巾がずれたことがありまして、もうそれは滑稽で笑い出しそうというか、実際、皆謡いながら笑ってしまったんですが、もちろん申合の時ですよ。これはいけない、面と頭巾のしっかりしたつけ方の工夫をしなくてはと思い、皆で取り組んだのを思い出します。装束づけも後見任せにするのではなく、自分の方から、こうつけたい、こうつけるとまずいと前もって言っておくべきだという意識が必要ですね。当日その場で特別注文されても、つける方は困惑しますから。それから装束の組み合わせなども、曲趣によって、色、形のバランスを深く考えていくということもやりだしました。『黒塚』の演能レポートにも書きましたが、装束を出すときに、能夫さんに「蔵に来いよ」と連れていかれ、「人任せにしないで、自分で選ばなくてはね」と言われたんです。そして、どのように演ずるかを考慮して、能に携わる全ての配役を選ぶ重要性を能夫さんにいわれましたね。

笠井 明生さん、やられてどうでした。

明生 『熊坂』(右下写真)ね。この間もある方が舞われたけれど、中入りを定型の型をせずに、スーッと幕に入っていくという替えの型、これがなかなか難しいみたい。本来、常座で、廻り返し、シカケ、開キという型付になっているんですが、難し過ぎて、やはりスーッと消えていくように幕に入る替えの型を選んでしまいます。本来の型は余程うまく動かないと難しいですね。

笠井 僕はもっと消えていくような型、シカケ、開キがあり得るという気はするね。

明生 そうですか。

笠井 溶けて消えていくとはこういうことかというものがあると思うよ。

明生 という謡い方のこと?

笠井 謡い方も、動きもね。役者も囃子方も両方で何とかする可能性はあると思う。高速度撮影で武士が何人も並んで見えたかと思うと、すっと消えて、気がついたら、そこは草の原に変わっていたみたいなイメージができる謡い方、消え方があり得るだろうと、僕は思います。

明生 ジトーッと消えるんじゃなくて、スーッと消えていくようなというのは笠井さんに言われましたね。

笠井 第1回目のときは、その意味で菊生さんの地謡がそれに合っている、なるほどなと思って、印象に残っているね。それにしても、申合せのとき感じたことは、喜多流というのは本当にからだがよく動くんだなということ。観世流とは型も違うしね。

明生 でも観世さんの方が派手で、動いてますよ。

笠井 派手だけど。そちらの方がすごく動くという感じがした。

明生 そうかな。以前お囃子の会で拝見した『熊坂』では、観世暁夫さんのもの、関根祥人さん、もう少し前の事でいえば浅井文義さん、皆キレがあり、派手だしすごく力強く動かれているよ・・・。

笠井 確かに観世流は動きは多いよ。でもキレの良さみたいなものが違うよ。決めるところの難易度の高さがすごいというか。

明生 なるほど。そうかな。

笠井 装束つけたら、それほど見えなくなったけれどね。

明生 え?っ(笑い)。

笠井 まあ、それはものの道理というものだよ。でも喜多流のこういう動きは、やっぱり観世流の中にはないよ。瞬発力があって、あれだけ動いて、独特な表現をしている。良くも悪くも、動いてナンボだろう、そういうところがある。

能夫 もう動けないねえ。

明生 ああは動けない。十年前にやっておいてよかった。

笠井 動けなくなったら、またやりようがある。熊坂長範という役の位置で表現できるものはあるよ。観世銕之亟さんなんかもちろん、あんなダイナミックな動きはやらないけれど、それでもあの世界を表現するのは本当にすごいから。生涯の修業であれだけの表現をするということだろうけど・・・。

能夫 それはそうだよ。すごい人だもの。

笠井 銕之亟さんも若い頃は動けたし、鋭かったんだよ。

能夫・明生 そうそう。すごい動きですよ。

明生 うちの父が言うのは、静夫さん(銕之亟氏のこと)が『鷹姫』でずっと微動だにしないで座っていた後、急に立ち上がって急ノ舞を見事に舞った、ああいう動きのできる人は喜多流にはいないって。

能夫 そういう精神の強さ、集中度、難易度の高いものをこなす能力。昔は片膝で座っていたというでしょ。

笠井 意地もあったでしょ。それで舞の鋭さが出ていたと思うんだ。

明生 あれだけ長い時間座っていたら、足がしびれて、最初の掛かりがちょっと散漫になるのが普通だけれど、銕之亟先生は最初からテンションを上げてキューッと舞っていた、すごいというのが父の鮮明な記憶になっているんですよ。で、「お前らの『鷹姫』はなんだ!」ということになる。そういう影響を受けて、我々も発展していかなければダメなんですね。

笠井 そうい発展の仕方って大事だよね。僕も寿夫さんの能を見ていますが、寿夫さんの対(つい)にいたのが静夫さんでしょ。寿夫さんはスターで、まわりが大騒ぎしている。もちろん魅力的だった。だけど、一歩か二歩遅れている静夫さんの能もすごい鮮度があった。寿夫さんは病気になってから晩年にかけて変わったけれど、その少し前の『卒都婆小町』なんか生々しいところもあった。それに対して静夫さんは逆に透明度が高い、そういう感じでやっていたときがあったんですよ。もちろん人情がにじみ出るようなものもやってはいたけれど、寿夫さんのものと比べると、非常にクールな感じがするときがあって、僕はいいなあと思っていました。

能夫 わかりますよ。

笠井 そういうように兄弟って、少しズレながら、お互いが影響し合ってよいものを作り上げていくということがあるよね。

能夫 何ともすばらしいよ、あのご兄弟は。

笠井 あの方たちとの出合いがあったから、現代演劇を志していた僕のような人間が、銕仙会で能の仕事をするようになりました。それから粟谷さんたちと出合い、「研究公演」の協力をさせていただき、「阿吽」に繋がっていきました。お二人とは演劇人として対等に議論を交わし、互いに刺激し合う関係で、「研究公演」がこのように継続してこられたことはとても大きなことだと思いますね。

能夫 積み重ねるということは大事だね。

笠井 十年という歳月は何ものかを生み出しているね。十年見ていると、お二人の舞台がそれぞれ変わってきていることがわかる。

能夫 それはやっぱりみんな変わろうとしてやっているからだと思う。志がある人は、同じことをやるのではなく、できなかったことは次にはこうしようと、日々発展がある。それは役者にとって重要なことですよね。自分の欠点やダメなところを変えていこうという意識は持っているつもりなんだけどなあ。効果が出ているかどうかは別として。

笠井 その効果は節々で出ていると思うな。それから『三輪』について一言言わせてもらうと、実は、まだ不完全燃焼だなという感じ、そういう印象があったんだ。「岩戸之舞」の思いを今みたいにつぶさに聞いていないから、僕の方が理解していなかったということかもしれないけれど。僕が初めて能夫さんの能を見たのは『楊貴妃』だから、その感じからすると、少し線が細かったかなという気がしたんだ。もっと鮮度があってバリバリやるだろうという思いがあったからね。それで次の『井筒』を見たときは、なるほどと思いましたね。ためていた思いみたいなものが出ているというのが印象的だった。

明生 あ、もう2回目に入りましたね。

笠井 ちょっと飛ばしちゃったかな。

明生 1回目のことはだいたい話したから、では、2回目は次回のお楽しみということにしましょう。

(平成13年5月 記)

厳島神社/桃花祭の御神能投稿日:2018-06-07

厳島神社/桃花祭の御神能

粟谷 能夫
粟谷 明生

(21世紀最初の御神能ということで、今年平成13年は能夫が翁付『弓八幡』でシテ、明生がツレを勤めました。この度この御神能について、二人で語りあってみました。)

明生 4月16日に厳島神社の桃花祭・御神能で翁付『弓八幡』を勤めた感想を、まずは聞かせてください。

能夫 このところ靖国神社・夜桜能での友枝昭世さんの舞囃子『枕慈童』、松山道後温泉・大和屋の夜桜能と、屋外で演じるよさを感じているけれど、それらはみな夕方から夜にかけてなんだ。そこへいくと、厳島神社の御神能は朝の9時から‥‥、早起きするのは大変だが、すがすがしさはあるな。太陽が燦々と降り注ぐ中で演じる『翁』は絶品だと思う。

明生 本当にすがすがしさ、気持ち良さというのがありますね。厳島神社の桃花祭は文字通り桃の花のお祭りで、その中の行事の一つとして御神能があるわけですが、我々にとっては、4月16日が1年の節目で、お正月のような気分になります。

能夫 そうね。神事としてのお能を勤めることで、神にありがとうございますという1年の感謝をこめ、お正月を迎えるような気分になるね。

明生 毎年4月16日から3日間、形式は翁付五番立(今は3日目のみ翁付ではない)で、3日間の出し物は全部違う。五番の間に全て狂言が入りますから、朝から始まって夜まで、大変な時間がかかります。東京では年に1回、東京式能といって2月の第3日曜日に五番立を催していますが、ここの御神能ほど古い形式を守っているのはないでしょう。厳島神社は安芸国(広島県)の一の宮。平清盛が安芸守となってから厚く崇拝し、今日の社殿は清盛が造営したものの形を受け継いでいるということです。御神能はいつごろから始まったものですか。

能夫 厳島神社の能は戦国時代までさかのぼる。厳島の戦いという、主君・大内義隆を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた)と、生前の義隆と親交があり、安芸で勢力を伸ばしていた毛利元就との、首位を決する戦いがあって‥‥。結果は毛利元就の勝利となり、毛利が中国地方最大の大名として勢力をふるうことになるのだけれど、そのときの戦いで、厳島神社の神域を血で染めたというので、神をなぐさめるための神事として、1565(永禄11)年に元就が観世太夫を招いて奉納した能が始まりみたいだね。その後1605(慶長10)年、福島正則が能舞台を寄進し、この時に常設の舞台ができ、1680(延宝8)年、浅野綱長によって現在の舞台と橋掛及び楽屋が造られたそうだよ。定期的に御神能が行われるようになったのは、さていつのことなのかな‥‥。

明生 そういう歴史があったのですね。現在は、1日目と3日目が喜多流、2日目が観世流の担当になっています。昔は宝生流や金剛流も参加していた時期があったようですね。

能夫 今は五番立のうち、翁付脇能を玄人が勤め、あとは三番?四番、素人の方もやられる。3日目は素人の方が多いね。昔は翁も地元の人がやられていたようだよ。今はそういう太夫がいなくなったから、我々玄人がやり、翁以外は素人の方もやられたり・・ということになっているわけだ。それにしても、翁付という形が残っているところで、『翁』をやれるという喜びがあるね。翁付脇能までやらないと『翁』をやったことにはならないのではないかな。翁を勤めるには儀式、儀礼を土台とした心の集中力と続く脇能のシテへの気持ちの転換、この作業の経験が必要でね。脇能まで勤めてはじめて『翁』の披きだろうと思うし、僕はここでそれができたことを自負しているんだ。

明生 私も『翁』の披きはここで勤めました。『翁』だけですと30分ぐらいで終わってしまい、言われる通り、翁付『高砂』、翁付『弓八幡』を演じて初めて『翁』を勤めたといえるのでしょうね。脇能までの2時間半程の時間を体験し、ここでは朝のご祈祷もありますから、もっと長い時間を束縛されて、その日の太夫を勤めたという感じが生まれてくるみたいです。その意味でよい経験をさせてもらっていると思います。他には『野守』、『羽衣』、『小督』、『花月』なども舞えて、いろいろ勉強になりました。 
 今回私は、能夫さんの翁付『弓八幡』でツレを勤めましたが、ツレは普通、若い20代ぐらいの人が良く、似合っていると思うのですが、今年は21世紀の一番最初、新たな気持ちをこめてということで勤めました。調べてみると、この御神能での能夫さんのツレは、『高砂』、『弓八幡』、『養老』も、全部私がやらせてもらっているのです。なおかつ、今回の『弓八幡』は3回目。15年前とか20年前のツレは多分至らないものだったでしょうね。

能夫 明生君のかつてのツレがどうということは言わないけれど、この御神能は全ての役者がいい役者とは限らないんだよ。素人の方も入っているし、いろいろなマイナス面を背負いながら、それを我慢して舞台をつくり上げていかなければならない。五番立3日間を継続していくところに意義があるのではないだろうか。未熟な三番三(さんばそう/和泉流では三番叟)や千歳(せんざい)が出られると「あれあれ大丈夫かな」と心配しながら、翁太夫を勤めなくてはならないという寂しさはあるね。それでも宮島の太夫としてやらなければならない責任感もあるし。何も考えずに自然と舞台に集中できる『翁』と、いろいろなことを考えながら勤める『翁』とでは違う。やはり疲れるよ。亡くなった父も元気な頃は幹事役をし、能も舞い、そうそうNHKで放送された『湯谷』の舞台などもありましたが、晩年は体調を崩し、来年は来れるかなという思いがあったみたいでね。それだけ愛着もあったのだろうね。

明生 よく長いこと続いてきましたね。桃花祭の御神能というのは自分の事だけやっていればいいというわけでなくて、地謡をし、装束付けもし、素人演者の面倒や気の配りとやることがたくさんあって‥‥‥。

能夫 プロが大勢来ているわけじゃないからね。菊生さん、幸雄さん、執事の出雲さん、明生君、友枝雄人君、狩野了一君、充雄君、浩之君と9人で全部やるんだから。地謡は3人、後見2人、それに働きがあって、1日五番。装束をつけ、地謡を謡い、シテもツレもやる、だから鍛えられるよね。そこで謡もしっかり覚えたし、責任持ってやるようになった。地謡だって、いつもの8人なら8分の1の精神でいいけれど、3人のうちの1人ということになると、それぞれが地頭に匹敵するような責任感を持たなければやっていけないからね。後見だって、段取りがわかっていなければならない、謡(言葉)の間違いも直し、物着もしなければならない。だから、あの場で成長したってことはあるよね。

明生 そうい場があるということは良いことで、恵まれているといえば、恵まれているのでしょうが。確かにきつい場ですよ。脇方もお囃子方も東京では滅多にお相手できない流儀、例えば高安流、石井流といろいろと、経験しながらその流儀を知るということもありますね。装束付けもゆっくりきれいになんていっていられません。とにかく時間がない。

能夫 それで早く、しかもきちんとつける技術が身につくんだよ。間狂言の間に全部、装束づけをしなければいけないのに、間狂言がすごく短い時もあるからね。

明生 何年か前のことですけれど、翁付の五番全部装束付けをしたら小指のところにタコができたんですよ。夕食の反省会で飲んでいるときに指がかゆくなってきて、これ何だろうと思っていたら、どうやら装束付けで紐や帯を結ぶ時にできたタコらしい。1日にあんなにつけることないですからね。

能夫 そこでみんな技術を獲得するんだね。

明生 マイナス思考をすると、御神能は、あんなつらく、ハードなところはないになってしまいますが‥‥。

能夫 9時から始まって五番立でしょ。9時に始まるということは、楽屋入りは7時半。我々は何時に起きるのかってことになる。夜は夜で反省会といっては飲んで遅くなるし、もう我々おじさんたちはくたびれるよ。

明生 とにかく飲み過ぎると次の日の朝がつらい。

夫 我々は島でなく、本土の方で泊まっているから、7時5分の船には乗らないといけないからね。

明生 あの時期、風邪ひいたり、怪我をしたりと、一人でも故障者が出ると大変です。他の舞台だって故障者がいると困るけど、宮島の舞台ばかりは、人がいない、一人一人が全うしようという使命感を持ってやらないとどうしようもないですから。

能夫 本当によい修業の場だよね。でも神事で『翁』をするよさは確かにある。

明生 そうですね。それにしてもよくやってきたなあ。私は24歳からですがもう20年越してしまいました。これで来年がすぐ来たりしてなんて言っていると、本当にすぐ来るんですよ(笑い)。

能夫 そういいながら、また行って、年の節目を感じるということになるんだろうな。

(平成13年4月21日 割烹 千倉にて)

対談 禅宗などから 松下宗柏氏との対談 その5投稿日:2018-06-07

対談 禅宗などから
能には命の高揚があるのですね

粟谷 明生
松下 宗柏

 臨済宗の機関紙『法光』で「能の楽しみについて」記事にしたいということで、私(粟谷明生)のお弟子さんでもあり、臨済宗の僧侶でいらっしゃる松下宗柏氏と対談を致しました。能は宗教がベースになっていることもあり、宗教的、哲学的な話は興味深く、松下氏の軽妙な語り口に乗せられ、話は縦横無尽、とどまるところを知らぬこととなりました。

第5回目

喜多流の謡

松下 私は特に喜多流には行者的なものがあると感じるのです。お腹から大きい声を出すというのは、流儀の発声法、特徴なのですか。

粟谷 どこの流儀でもお腹から、というより身体全体ですかね、声を出していると思いますよ。


松下 喜多の謡はゾクゾクときますね。

粟谷 以前は観世 ウキウキ、喜多きばり過ぎと言われていたようですが。


松下 喜多に出会った人は、他の流儀を聞くと物足りなくなると聞きますが。

粟谷 それは喜多でも観世でも、人によるところがあるのではないですか。自分に馴れたものが良いというのは、人誰でもでね。


松下 それはあるかもしれないね。でも私は喜多、粟谷の謡は宗教的というか、やはり行者的な感じがするのですよ。


粟谷 行者的ね、祖父・益二郎は謡がうまかった人ですから、そういう系統のものはうちの父が受け継ぎ、能夫が受け継いで…ということかな。


松下 ある意味では体を使う謡い方というのは。行という、体、身を挺していろいろな経験を積んでいくのですが、その家風だなと思う。最近少しずつ感じるのですよ。

お能には気を感じる

松下 お能には直感的にものを見るというか、感応の仕方に気をみるというのか、気を感じるところがありますね。私の知人は剣道家なのですが、気迫というか気を感じるというところがあった。それに似ています。

粟谷 仕舞でも謡でも、ある程度順序や謡い方を覚えたら、次に気をかけるということがある。といっても妙にハッハッと表面に出すのではなくて、非常に内向するもので、そのとき顔はむしろ柔和になるのです。顔を硬直させいかにも頑張っています、なんていう顔をしている演者はまだあまり高いところにいないと思っています。逆にこれに騙される程度では見る目がないということでしょうか。ちょっと言い過ぎたかな…。


松下 柔らかくですね。坐禅でも、私たちは悟りを見性(けんしょう)というのです。自分の本性(ほんしょう)を発見するという意味です。それが近づいた人間というのは、全体の輪郭が柔らかく見えるのです。そして動きは軽く、綿みたいにフワーッと見えるときがよい状態なのです。自分ではわからないのですが。自覚されるのは、やたらと体が軽い、やたらと嬉しいというのかな。指導者が一番嫌うのは、裃を着たように、いかにも自分はやっていますというようなものね。

粟谷 ときにありがちですね。気をつけます…。私、太極拳を 習っているのですが、気功もやらされてね。結構ためになり、楽しんでいますが…。先程屋内と屋外の話がでましたけれど、屋内の場合は楽なのですよ。自分の内にこめた機、気迫を発散するときに、屋内なら壁のような最終ラインがあって、そこまで届けば良いのだなと…。ある限界みたいなものが生まれます。能楽堂ならば最後列に届かせる意識ですか…。ところが厳島神社の海に浮かんでいる舞台や大阪城広場などで演ずる場合、とことん広いので。向こうに山が見えたりして…。そこで充実、発散するのは骨が折れますよ。


松下 お能というのはもともと屋外ですよね。能舞台というのは。

粟谷 そうです。昔は松も鏡板もなかった。観阿弥、世阿弥のころはね。そういうものができてくるのは式楽になるもう少し前ぐらいでしょ。世阿弥が舞っていたころは、後ろの鏡板がなくて、ただ四本の柱があって舞台があって、橋掛りがある、いや橋掛りが無い場合もあったと聞いていますが。


松下 それから私には二人のお師家(しけ)さん、指導者がいたのですよ。一人は現役のバリバリ、六十歳ぐらいの人で、もう一人はご隠居さん、八十歳ぐらいですか。そのご隠居さん曰く「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず、と言いますが…」、一回味噌臭くならないと臭いは抜けませんよ、と。だから、ある時期は臭くて臭くて、あるとき、それが抜ける人間と、いつまでもその臭さを引きずっていく人間が出てくるのです。まあでも一度徹底的に臭くならないと…。

粟谷 一度は臭くなる素材でないといけないわけですね。


松下 そうそう。発酵する人間でなければならないの。臭くなれっていうのですよ。集中してなり切れっ、らしくしろって。

『富士太鼓』にみる役者魂

松下 この間の『富士太鼓』。あれ、集中してなり切ったのですね。

粟谷 『富士太鼓』は現在物といいましてね。シテは死者ではないですよね。『安宅』の弁慶も『富士太鼓』妻にしても、シテは幽霊として出てくるわけではない、生きている人間を描いていますよね。そういうものを現在物というのですが、それはある程度、役者が役に乗り移るという作業をしなければならないのですよ。やり過ぎるといけないのですけれど。とくに直面物といって、面をかけない、顔自体が面であるというものは、顔にいろいろな表情を作ってはてはいけないのです。表情を作ってはいけない…、だけど全部抜けきると、あっ、「あれはまさに弁慶の顔だ」となるわけです。弁慶の顔をつくるわけではないけれども弁慶の顔に見えてくるという…。『富士太鼓』、現在物をするというのは、母親にならないといけないわけです。女というより母親になる。それでこの間は自分の子供が子方だったというのが助けになりました。彼に頑張ってもらわないとこの曲は成り立たないということを、彼もわかっているし、私自身も子方のときは子役がダメだったら台なしになると散々言われてきていますから、私がこうやってきたのだな、私が菊生で、尚生が明生だなと、四十年ぐらい前の世界が思い出せるのですね。最初の場面がやっぱり難しいですね。ある意味では生っぽくやらなければならないし、ある面ではお能の範囲に留まっていなければならない、そういうギリギリの結界みたいなところがある。よく14世六平太先生が言われたのは、芝居しちゃいけないけれど、芝居心がなければいけない、ということ。それと同じで、富士の妻でありながら、この子の母親であると同時に、自分は尚生の母親役を演じているという意識がありながら、また一方では意識しない心体の操作も同時に行っているということなのですが。


松下 『富士太鼓』では、先生、一皮も二皮もむけた感じがします。

粟谷 うまくむけた? 『富士太鼓』はよいタイミングだったし、責任持って自分の子供と勤めたという満足感はありました。それから挑み方というのかな。申合せのときに、尚生が戻ってきて「長いよ、足が痛いよ」というわけです。お稽古のときは、シテが楽(がく)という笛だけで舞う場面があるということは言っていない。ここでお父さんがドンドンと留拍子(とめびょうし)一曲の終わりを知らせる拍子のことですが、それがあったらお終まいだからと言ってあって、途中に二十分もの長い楽があるなどと教えないわけですよ。申合せのときはリハーサルですから当然やりますね。でそのときはたまたまビデオをまわしていたので見たら、彼は、そのところ微動だにしていないのです。普通、子供は全然動かないなんて無理ですし…。でも尚生は動いていない。


松下 辛抱強い子だね。

粟谷 あの子が動かないということが、私がへたなことはできないでしょということになり、精神的なバックとなりましたね。謡や型がある中で、あそこに居て、座った状態で微動だにしないというのは、一つの大事な通過点をクリアしたかなと。それはもう、修業みたいなもので、そちらと似ているところがあるのではないでしょうか。

松下 みんな、先生も、小さいときから修業していらっしゃるのですね。今日はよいお話をありがとうございました。

(平成14年3月 対談 記)

対談 禅宗などから 松下宗柏氏との対談 その4投稿日:2018-06-07

対談 禅宗などから
能には命の高揚があるのですね

粟谷 明生
松下 宗柏

 臨済宗の機関紙『法光』で「能の楽しみについて」記事にしたいということで、私(粟谷明生)のお弟子さんでもあり、臨済宗の僧侶でいらっしゃる松下宗柏氏と対談を致しました。能は宗教がベースになっていることもあり、宗教的、哲学的な話は興味深く、松下氏の軽妙な語り口に乗せられ、話は縦横無尽、とどまるところを知らぬこととなりました。

第4回目

自分が演じる曲はみんな好きになる

松下 自分が好きな曲とか、出会いの曲というのはあるのですか。

粟谷、好きとか嫌いとかはあまり考えていませんね。自分がやるものが段々好きになってくるのですよ。役者というのはそうじゃないかな。というか、私はそうですね。


松下 演じてみて、入っていくわけだ。

粟谷 そうそう。気持ちが入っていくのですが、終わってしまうとケロッとして、もうお終いと言って次のものにかかっていくという…。私、四、五年前の研究公演に 『采女』(うねめ)という曲で「佐々浪之伝」という小書を創作というか掘り起こしたことがあるのですね。そのときは、もうこれ一番あれば今年一年はいいな、あとは何もしなくてもいいと思っていた…。


松下 充実していた?

粟谷 すごく充実していた。ところが終わって三日ぐらいしたら、もういいや、次はあれがある、あれをやらなきゃなんて思って、『采女』のことなどすっかり忘れてしまう。


松下 ウワー、それはすごいですね。

粟谷 あの『采女』勤めたときに、自分の取り組んだ作業を整理しておかなければいけないな、ただやりっぱなしではと思って、「演能レポート」というものを自分のために書くようになったのです。「佐々浪の伝」は自分なりの掘り起こし作業だったものだから、何らかの形で残しておきたい。文字にすれば残りますから。能、演劇は花火みたいなもので、一瞬でしょ。演じ終わったらもう何も残らないのですよ。それがよいところなのですが…。


松下 まさに一期一会ですね。

粟谷 ええ。でも、そうでない資料的なものはどうしても残したいし、自分がどういう気持ちでやったかを書きとめておきたいと思って書いているのですけれど。書くということは、すべての整理をしなければいけないし、そのとき自分がどんな状態にいたかがよくわかります。でもたいへんで、途中でやめようとも思ったのですけれど。


松下 自分をえぐるようなものですからね。

粟谷 そうなのです。でも最近は、何でも自分のためにやっているのです。

「活句」で謡う

松下 私たち臨済宗の場合は修業で公案というものを使うのですが…。

粟谷 公案というのは禅問答のことですか。


松下 そう禅問答。伝統の問題があって、それをお師匠さんが出してやるわけです。

粟谷 悟りとは何かとか。


松下 「如何なるかこれ仏」・・・という問いが多いのですが。 「如何なるか父母未生前の本来の面目」とか、決まったパターンがあるのです。いろいろなシチュエーションで。

粟谷 同じようなことを言っていてはダメなのでしょ。この間、梅原猛さんの『仏教の授業』という仏教について中学生に授業したものを再現している本を読んだのですが、面白かったですよ。出題者が「仏とは何ぞや」と聞くと、いろいろ答えていくのですが、ある僧が、「かんしけつ=くそかきべら」と言ったら、「お前、悟った」と言われて、その次のやつが、同じに答えたら「このやろう、落第だ」となったという。


松下 シチュエーションの中で、その物語の中で問題をどうとらえるか。あるときは鳥の声、自然の音だったり、あるときは働く姿だったり、答え方は問題によって違います。やるときは一生懸命集中しないと解けないようになっているのですよね。頭で考えていてもできなくて、あるときポカッと心が開けるというか解るときがあるのです。でも、その答えにいつまでも捉えられているとダメなのです。

粟谷 なるほど。


松下 同じ問題を一年後に出される。あれだなと思って、同じ答えをだしてもダメなのですね。それはもう死んでいる、鋳型にはまっている、生きた答えを持って来いと。私たちはそれを「活句」と言っているのです。それに対して反対は「死句」です。いつも「活句」、生命感があるものを答えとして持って来い。だから、伝統の模範解答みたいなものは一応あるのですが、それは一つの目安であって、それ自体を持って行ってもダメなのです。

粟谷 それは能にも使えますね。死句で謡っちゃつまんないわけ。活句で謡わなければダメだという感じですね。


松下 それは年々の花というか、その年、そのときの味で答えなければならないし、自分の生活体験とか、私たちは見解(けんげ)というのですが、それを活句で持って来いと、示せよということなのです。仕舞と同じで、思っているだけでなくて、それを示せとくるのです。


粟谷 表現しないといけないのですね。


松下 そうそう。たとえば「宇宙を動かしてみろ」と言ったときに、それを示せというの

ですね。そのときどうするかというと、歩いてみせたりしてね。

粟谷 ウーン。


松下 極端にいえばあくびをしてもいいのですよ。私は宇宙の命ですと言って、示せよと言ったときに、頭だけ、言葉だけではダメで、体で表現するのです。そういう風に活句を持ってくること、それにとらわれないことが大事なのです。だから、前のことを引きずって、その類推でやると、お師匠さんはそれは死んだものだみるわけですね。そうなるとなかなか通さない、「よし」と言わない。もっと練って持って来いとなるのです。

粟谷 我々の中でも死句で謡っている人がいるかもしれない。これからは、謡の中に活句みたいなものを…。


松下 そして変わっていくという。型とか基本はできていながらも。

粟谷 そう、強く訴えかけることが必要なのです。私はたれそれと言うとき、「そーもそも」と大きく謡うのと、ただボソボソと謡うのとでは違いますからね。


松下 そうですね。ただきれいに謡えばいい、きれいに舞えばいいというものではないようですね。

粟谷 そうなのです。謡も舞も中の方、内面、内側は非常に燃えていないとね。動き自体が非常に静かであってもですね…。逆に外の動きは大きいのに、中は何をやっているかわからない、中の方は死んでいるのではないか、と言われるのは未熟な芸ですね。


松下 お能の命という感じですかね。

粟谷 演者が何を思って、幕の内から何を運んでくるかですよ、その役を演じる心がないと…いけませんよね。我々、歩くことを運ぶと言うのですけれど、死者の思いを運んで来る、そういうものがあるのではと観世銕之亟先生はおっしゃっていましたね。公案といったことは、永平寺の方ではやらないのですか。


松下 永平寺さんは「只管打坐」で妄念を払い、ひたすら坐禅をするのです。しかしこれは非常に難しいことですよね。

粟谷 難しいですね。


松下 厳しい。本当に。曹洞宗から臨済宗の批判というのは、座禅そのものではなくて、何かのためにやっている、何かを解くためにやっているというものなのです。でも一回身心脱落し自我が抜けないと公案は解けないことになっているのですけれどね。分別心が抜けるという体験が大切で。

粟谷 禅的な考え方は面白いと思いますね。


松下 集中して表現するというところまでいくわけだから。禅と同じで、お能は感応道交というか見えないものとの交流というものがある世界だと思ってね。行者的なものを感じますよ。

対談 禅宗などから 松下宗柏氏との対談 その3投稿日:2018-06-07

対談 禅宗などから
能には命の高揚があるのですね

粟谷 明生
松下 宗柏

 臨済宗の機関紙『法光』で「能の楽しみについて」記事にしたいということで、私(粟谷明生)のお弟子さんでもあり、臨済宗の僧侶でいらっしゃる松下宗柏氏と対談を致しました。能は宗教がベースになっていることもあり、宗教的、哲学的な話は興味深く、松下氏の軽妙な語り口に乗せられ、話は縦横無尽、とどまるところを知らぬこととなりました。

第3回目

内面からの訴えかけ

松下 おシテをなさるとき、一曲一曲をどういう風に舞うかというイメージを自分なりに作っていくのですか。それともそういうものはない方がいいものなのですか。

粟谷 いや、イメージはあり、それが大切だと思いますよ。


松下 自分にとって、たとえば『敦盛』なら、どういう風に演じるかというのはあるのですか。

粟谷 ありますね。若いころはとにかく基本型をたたき込まれます。その次の段階での演能では前回よりステップアップしていかなければならないと思うのです。私は十九歳のときに『敦盛』を初めて勤めて、その後三十二歳、三十五歳と、計三回勤めていますが、それがみな同じようではまずいわけです。変わったのは髪の量と顔形だけではね。粟谷明生の演ずる敦盛が変わって行く…良い方向に成長していかなければならない。動き(型)はそんなに変わるわけではありませんから、謡にしても舞にしても、要するに密度を濃くする、内面からの力、訴えかけをすごく強くという…非常に難しく、お判りにくいかもかもしれませんが。そのために何をするか。たくさん稽古し研究して説得力ある謡い方をする。ただウワーッと謡うのではなくて、ボリュームは絞るけれども、中の芯は非常に硬くなる、硬質になるとか、女性をやる場合でも、艶のある謡い方もあるし、艶をちょっとそいだような謡い方もあるし、その辺はそれぞれ役者の生き様、やり方が出てくるのだと思います。私は演じ手の気の充実度が大きく影響してくると思うのです。演者の内向するエネルギー、それを身体にためる、そしてそれ自体を意識しないで舞台に立つということです。これはなかなか難しい課題でして、最初に溜めていないものはやはり空虚な芸になる。感動のない、それなりのつまらない舞台にね。

お能の女性はちょっと恐い

松下 男性役はいいとして、女性の役の場合は、女性の心を演ずるとかいろいろ難しいでしょ。

粟谷 女性だからといって、能は歌舞伎の女形みたいに演ずるわけではないですからね。お腹の底から強く男の声でウォーと謡うわけですが、技法として女性として聞こえる、または男っぽく、武士っぽくという区分けの工夫はされていますね。


松下 お能に出てくる女性というのは、嫉妬とか怒りとか恐い女性というイメージで、中にはかわいい、きれいという女性もいるのでしょうが、私がお稽古した数少ない曲で見ると『黒塚』とか『鉄輪』とか恐いでしょ。

粟谷 まあ、能の世界では幸せな女性というのは少ないでしょうね。


松下 この間の『通小町』で先生が演じた小町は、最初は幸せなのですかね。

粟谷 いやあ、小町ははじめから負を背負っています。


松下 でもきれいでしたね。かわいいイメージありますよ。何かほっとするというところがある。

粟谷 あれはどうか助けてといって、お僧のところに出てくるのです。


松下 けなげな感じがしましたけれどもね。

粟谷 迷われているというか、成仏できないでいるというか。


松下 お能というのは女人成仏を扱う。女性はもともと業が深いということで、迷ったり苦しんでいる人が多い。

粟谷 多いですね。だから法華経は受けますよね。女人成仏ですから。


松下 法華経ですね。苦しむのは女性という感じがね。

粟谷 昔の仏教の教えでは、女性であること自体が苦しみであるわけでしょう。だからそういうものが基盤にはなっていますよね。例えば『葛城』など、シテは女神であるのに「さなきだに女は五障の罪深き」と謡い、女性であるが故の、負を背負っていることの嘆きを言うわけですよ。


松下 もともと仏教には「女性は業が深い。男に生まれ変わらなければ成仏できない」とういうような説もありましたが、平安時代、最澄が「衆生本来仏なり」とする「法華経」を日本仏教の中心に据えたことによって、鎌倉、室町時代になると、だいぶ様子が変わりました。

粟谷 女人成仏の話は「法華経」のどこにあるのですか。


松下 「堤婆達多品」に「竜女成仏」という話があります。それに禅宗でよく読む「普門品」(観音経)には「観音菩薩は、婦女の身を現じて法を説きたまう」「童男童女の身を現じてときたまう」というふうに出ています。だから観音さまは人気がいい。


粟谷:そういえば『田村』『湯谷』など清水寺を舞台にした曲には、観音さまを讃える箇所がありますね。ところで、最澄以前には、「法華経」は伝わっていなかったのですか。


松下:奈良時代にも伝わっていて、「法華経」は女性のためのお経と言われていたみたいですよ。聖武天皇が全国に建てた国分尼寺は「法華滅罪寺」とも称されましたそうです。それを、最澄は仏教の中心に据えたというわけですね。

粟谷:これで、男も女も晴れて平等に成仏できるようになったというわけですね。


松下:それにしても、お能には悪女みたいな人が多いですよね。『道成寺』なんか、女性恐怖症になるような(笑い)。

粟谷 あれはまさに清姫の親、真砂庄司と、能では奥州白河の僧ですが安珍ですね。あの二人の責任。「あの男がおまえの亭主になる」と戯れ言を言い、安珍もその気になるような振る舞いをする、すると幼心に真と思ってしまう、娘を責められない、まわりがいけないのですよ。


松下 あの女性、追っかけてくるからね。やあ、これは昔も今も同じなのだと思いました(笑い)。

粟谷 恐ろしいけれど、作り話的なものではないでしょうね。現実にあったことをベースにしているのではないでしょうか。そういうものが多いですよね。ただ『羽衣』などは、羽衣伝説から作られているものですね。


松下 だいたいお能には現実の素材があるのですね。

粟谷 そう思いますね。

『羽衣』の二つの小書

松下 『羽衣』は、いいですね。

粟谷 『羽衣』はね、やっぱり。天女であって、神ではないわけでして。そこが私は面白いのですが…月の世界で神にお仕えしている位、というか身分。月の世界では、まだ位の低い方で、ちょっと下界に来て、水浴びして遊んでいるからたいへんな目に会うわけですよ。裸で、男に捕まっちゃう。


松下 そうそう(笑い)。

粟谷 そこで「あー私はなんていうことをしていたのかしら…、羽衣を取られてしまったという苦悩が始まる。そして下界で駿河舞を見せることによって、地上の世界に染まっていく。地上に未練というか、もうちょっといたいというような風情が生まれてくる。そういう演出はうちの流儀では「舞込」といった演出で、下界に未練を残しながらも時間が来たからと、回転しながら月世界に上っていくというパターンです。「霞留」という演出では、「白龍に約束の舞を見せたわ、やるべきことはやった、もう時間だから帰らなきゃ」と、最後は下界を見ないで、天、月の都だけを見てすーと消えていくというやり方なのです。


松下 同じ曲でも、演出によって違うのですね。

粟谷 そう解釈し、私は二つの小書を舞い分けています。小書がつかない普通の演出ですと、「霞にまぎれて失せにけり」と地謡が謡っているときに、まだシテはくるくる回りながら舞台にいるわけですよ。川柳で「失せにけり 幽霊いまだ 橋掛り」というのがあるくらいで、失せにけりと言いながらまだ舞台にいる、観ている人間はそこで消えたと思ってくれなきゃ困るという約束があるわけです。だけど、それならもうちょっとわかりやすくしよう、と別の手法でと、小書(特別演出)が生まれてくる。「霞にまぎれて失せにけり」と謡って、本当に天上界に消えていくようなやり方もいいのではないかというので、喜多流では「舞込」、舞ながら幕へ入り込んでいくというやり方ですね。「霞留」というのは「霞にまぎれて」と謡ったら「失せにけり」は謡わずにシーンとして、囃子だけが奏で、その間に幕の中にすーと入っていく。そこに残った、残像のようなものを楽しもうという手法です。「霞留」は、あなたへの約束は果たしました、ちょっと未練はあるけれど帰りますといってすーと消えていく、その辺のきれいさですね。「舞込」はなごり惜しいけれども、まだ何となく下界にいたいけれど・・・。


松下 情が移っているわけですね。

粟谷 そうそう。未練が残るような感じ。だからずっと白龍を、三保ノ松原を見、駿河湾を見、日本の国土をずっと見ながら消えていくという演出ですね。こういうところがお能の面白さ。演じ手にとっても面白いところなのですね。


松下 観客の方も、そういうものを感じるのが醍醐味になるわけですね。

粟谷 そうそう。感じる力がないとダメなのです。

能を「観る」ということ

粟谷 感じさせる力が演者にも必要だし、感じる観客の目も必要です。あまり能はサービスの行き届いた芸能じゃないといわれますから、一生懸命観る、想像するという世界ですからね。


松下 ある程度お能を楽しむのも、お能に対する嗜みがないとできないですね。

粟谷 そうですね。


松下 神通力で観るわけにいかない(笑い)。

粟谷 だから数多く観ろといいますよね。能はわかりません、と言われる方に、何番ご覧になったのか聞くと三番なんて。じゃ三十番観てください。それでもわからないなら三百番観てください、とね。


松下 同じ曲目のお能でも全然違いますものね。

粟谷 演者によって違うし、演者のコンデションによっても違いますからね。同じものはないわけで…、話が少し飛びますが、演じ手からすると、屋内か屋外でやるかでも違いますよ。自然を全く感じない屋内と、ときには電車の音が平気でしてきたり、風が起こったりする屋外とでは違いますから、演じ手もそこで変えなければいけないし、観ている側も変わらないといけないと思いますよ。


松下 舞台の状況によりますね。

粟谷 どちらにしろ、観るという想像力、自分の中に世界をつくるというのが必要なのですね。


松下 やっぱり、観ということですね。観能ともいいますが、その観という字、観世音菩薩の観で、見えないものを観るという。

粟谷 あーあ、なるほどね。だから、能を観るというとき、観るという字を使うのですね。


松下 それは非常に奥が深いですよ。自由にとらわれのない心で観るという。心で観る。心の目というか、心の耳というか。音なきもの、姿なきものをみるというときに、あの観るですから。ちょっと臭いけど、霊的なものを観ていく、お互いが感応道交していくという。そのときお互いも大事だと思うのですよね。観せてやろうと思うとダメでしょうね。お互い無我になったときが、観る側も無我、演じる側も無我というときに初めてすばらしい交流というか、出会いがあるというねえ。

粟谷 そうですね。それで無というのが全く無いということではなくて・・・。


松下 なくて、そう。

粟谷 非常にたくさんのものがあって、それでいてこうやって観せてやろうとかということがなくて…。これが相当難しいのですよ…。

型はからだについている

松下 仕舞なんかは、こうして、こう演じてというのはないのですか。私たち素人は四苦八苦しますが。

粟谷 我のまわりの玄人は型は間違えませんね、プロはね。謡は違うところ謡っちゃったとか、前に戻ってしまったなんてことは少しはありますけれど。


松下 お経といっしょだわあ(笑い)。一人がちょっと外したりすると…。似たようなのがあるのですよ。

粟谷 読経は本を読んでいるのですか。それとも暗記なのですか。


松下 長いものは見ることもありますが、普通は見ないのです。お謡もそうなのでしょうけれど、糸巻きをほどいていくように流れのなかで謡うわけでしょ。それが一つ間違う、一回違う方向に行くと、止まらなくなっちゃうのですね。

粟谷 謡では、たとえば上の句が同じで下の句が違うというのがありますからね。「さるにても慣れしままにていつしかに」『雲雀山』というのと「さるにてもなにのみききてはるばると」『桜川』というのがあるのですよ。これボーッとしていると違う言葉を謡ってしまうのです。


松下 ちょっと入るのね。

粟谷 その下の句について、次の人が謡うわけですから、よほど注意していないと、「今は昔に」と謡う所を「思い渡りし桜川の…」と謡って、あ…「これ違うよ!」、なんてことになってしまう。


松下 そうすると違う曲になってしまいますものね。

粟谷 そう、なってしまう。やはりたるんでいるとそうなってしまう。だから、間違ったときに「あっ、これ違う」と自分の頭のなかで正しい句を思って、次の言葉につなげていかないとね。言葉はつながって覚えていますから、前の言葉が違うと大変なのですよ。


松下 さっきのお仕舞ですけれど、曲目によっていろいろな組み合わせがあるのでしょうけれど、それをいちいち考えてやるわけじゃないのでしょ。

粟谷 それはやっぱり、体についていますけど。


松下 すごいですね。

粟谷 ただ、そこに意味合いみたいなものがあれば、心持ちを入れたりということはしますけど。次何だっけ、次はこうしてこうしてなんてことは、余りないですね。


松下 それは、一つの曲を何度も何度もなさるから入っているものなのですか。

粟谷 10代のときにたたき込まれているのと、あるパターンがありますからね。このパターンをこうしていけばいいんだなと。後は、どこに気持ちを持っていくか、どういう言葉のときにどうするかということで…。


松下 すごいですね。たくさんの舞台をこなされるわけですが、一曲一曲にすごく時間をかけて練習できないのではないかと思うのですけれど、よくこなされるなあと思って…。一回の演能では、いろいろの場合があるのでしょうが、余程詰めて練習をなさるものなのですか。

粟谷 大曲などは時間もかけ、詰めても稽古しますが、例えば『羽衣』を舞ってくださいと言われれば、それは今すぐにでも。稽古しなくてもできるものもあります。まああまり多くはないですがね(笑い)


松下 大曲というのはどんなものですか。

粟谷 修業過程の順でいえば喜多流では『猩々乱』『道成寺』『石橋』『翁』とか『望月』とか。私はまだできませんけれども、老女物、『卒都婆小町』『鸚鵡小町』や三老女の『檜垣』と、『伯母捨』など。老女物は別格ですね。安宅の関で勧進帳を読む『安宅』や『隅田川』という、子供を失って、京から関東まで女が訪ねてくる、実は一年前にその子は死んでいたという悲劇の能も、やはり大曲に入りますね。


松下 それで、人間の舞と神様の舞では違いますか。

粟谷 我々は役になるといっても神様になれるわけではないのでして、これはもう、脇能という形式、決まったパターンがあって、それを凛としてキッチリ舞うということでしかありません、あとは面や装束などいろいろなものが作用して補足してくれるのではないでしょうか。最初、子供のころは神様はやらせないのです。子供は純真だからよいように思えますが、やらせない。それは、翁をやった後に、脇能で尉姿としてシテをしなければならないという過程があるわけで、本来はね。この『翁』のシテはやはりある年齢を経た役者が出てこないと似合わないのです。尉というおじいさん役はやはり難しいですね。私は一番難しいのではないかと思っています。女流能楽師を私自身が認めにくいのは、この尉が女性では演じきれないというところに落ちるのが判るからなのです。


松下 神様という意識はそういうものなのですね。

粟谷 一応、あまり考え過ぎないことが第一かもしれませんね。それでできるのです。


松下 できるのですか。

粟谷 演者が勝手に演出できるようになっていないからです。言い方が乱暴かもしれませんが、形さえしっかり身に付ければ、結構できるのです。でもそれには徹底的な基本の修練が必要で、その上で単に意味もなく舞台上にいるだけなのに輝いて見えるとかその存在感の美というようなものが加わるのです。動きとしての型は非常に簡素な型の連続ですね。


松下 そういうすばらしいものがあるのですか。そういうのは口伝なのですか。


粟谷 口伝というか、盗む、いただいちゃうのですよ。先輩の演技を見ながらですね。指導者もある程度のところまでは教えられますが…、その後はもう全然教えない。懇切丁寧なんてことは若い人にだけですよ。


松下 どういうところで盗むのですか。

粟谷 見てです。


松下 舞台で?

粟谷 舞台で謡いながら見ていたり、楽屋裏から見ていたり… 。だからたくさん見ないと収穫が少ないのですよ。


松下 ボサッと見ていたらダメだなあ。

粟谷 ボサッとしていたらそのようなお能になる。世阿弥が、いいものを観ろと。そして悪いものも観ろと。悪いのもなぜ悪いかがわかっていいから観ろと言っているのですね。当然よいものは観なければいけませんが。


松下 私たちにお稽古をつけてくださって、それからご自分の舞台を勤められるというのは、時間の問題で、ご自身の稽古は丑三つ時にでも秘かになさっているのですか(笑い)。

粟谷 やるときはやりますけどね。その辺はプロですから。みなさんそうだと思いますよ。三日に一番ぐらいずつ舞台がある方に、うちの父が「いつお稽古をなさるのですか」と聞いたら「菊ちゃん、本番が稽古だよ」なんて言われたという話がありますけれど、そういう方は例外中の例外、特別ですね。私はまだそんなに多くないし、今ぐらいのペースはちょうどいいと思っています。

対談 禅宗などから 松下宗柏氏との対談 その2投稿日:2018-06-07

対談 禅宗などから

能には命の高揚があるのですね

粟谷 明生
松下 宗柏

 臨済宗の機関紙『法光』で「能の楽しみについて」記事にしたいということで、私(粟谷明生)のお弟子さんでもあり、臨済宗の僧侶でいらっしゃる松下宗柏氏と対談を致しました。能は宗教がベースになっていることもあり、宗教的、哲学的な話は興味深く、松下氏の軽妙な語り口に乗せられ、話は縦横無尽、とどまるところを知らぬこととなりました。

第2回目

死者たちの思いを代弁する

粟谷 能は、朝に演ずる、翁付脇能という神様を主体にしたものは別ですが、ほとんどの曲は死者というか、死んだ人間を題材にしていて、シテは死んだ人間の霊であったり、怨霊であったりするわけです。武蔵坊弁慶というその物語の中では生きている人であっても、もうこの世にいないわけで、我々からすると遠い昔の人です。それが仮の姿というか、役者の体を通して舞台に出てくるわけです。我々能役者は、その人たちの訴えかけ、何かの思いの代弁者というわけです。能という戯曲を創った人間は多分そういう思いで創っていると思うのです。というのは、当時の世相にも関係してきまして。観阿弥、世阿弥が生きた室町という時代は太平の世に思えるかもしれませんが、すぐ応仁の乱はあるし、飢饉はあり、六条河原には飢えで死んでいった人々がたくさん倒れていた。盗賊はいるし、ちょっとしたすきに子供はさらわれるし、人買いにとられてしまうという時代です。そういう時代の苦悩が背景にありますので、戯曲家にはそれらは意識しなくても影響は大であったと思われるし、そこを書いているのですね。観ている人間もそれが身近であったから、娯楽として観ると同時にその下部にある怨霊や霊の強い訴えかけを今の人間よりもっと身近に感じていたのではないかと思いますね。


松下 その時代は神がかりする人とか、死者と交流するというか、感応道交する人が、今よりはたくさんいたのじゃないですかね。

粟谷 そうでしょうね。


松下 今はそういう力が落ちてきている。文明とか何だとかで。当時は日常的に死んだ人とか霊とか神様が降りてくる人というのがいたのだと思いますね。

粟谷 室町時代の能が創造されていた時代にはキリスト教の影響を受けるまで行かず、能は仏教、神道の影響がほとんどだと思うのです。能は死者からの訴えかけがあるというのは、仏教の影響、仏教色が濃いからではないでしょうか。


松下 ええ。仏教の言葉を使っていると同時に、日本の古代から持っているある魂の力というか。呪術性というか。たとえば『黒塚』で天台宗の山伏が祈るのですけれど、呪術的な力が実際にあったと思うのですね。その怨霊退治とか生霊退治ということにおいてね。我々はいかにもフィクションの世界のように見てしまうのですが、当時は、実際そういうものが現実としてあったのだと思う。

粟谷 そうだと思いますよ。


松下 時代の問題でしょ。そういうような力が封鎖されてきたのは。江戸時代、世の中が安定してきて中央集権的な社会が、そういうものを全部封じ込める時代です。室町時代というのは、そういうものが自由に動いていた時代だったのでしょう。

能面も創作から模写へと変遷

粟谷 室町が日本的な文化が一番自由に咲いていた時代ですよね。


松下 まだ鋳型にはまっていない時代でもあるし。

粟谷 お花にしてもお茶にしても絵画でも、その後に段々と型にはまって、がんじがらめになっていくというか。能面でも、観阿弥、世阿弥の時代の面打師のものは創作なわけですよ。だから面の創作では第一期の般若坊とか三光坊という人たちが、たとえば般若坊なら、女の怨念を持った顔、憎しみを持った顔をどうしようかとずっと考えて、あの面を創るわけですよ。創作ですよね。もともとベースになるものがあるわけではありませんから。その創作意欲、創作の力というのが、第一期の面打師にはあった。すごいものだと思いますよ。


松下 感性は鋭かったのでしょうね。

粟谷 小面だって、龍右衛門という人の小面がすばらしいですよね。私は実は少しクラシックな感じがしますが……、いやー、とにかくすごいのは確か。その後、第二期になると、コピーの時代が始まるのです。模写の時代ですね。


松下 それはいつごろですか。

粟谷 江戸に入ると。


松下 江戸時代に入るとそうなる?

粟谷 そうですね。


松下 赤鶴(しゃくつる)という名をよく聞きますが。

粟谷 赤鶴は古いですよ。ベシミとか、要するに強い表情の面を得意とする。


松下 面というのは鑑定書みたいなのはあるのですか。どういう風にして面打師の名前がわかるのですか。

粟谷 名前は裏に書いてありますよ。鑑定とかそういうことになると能面コレクターの世界になりますが、私たちにとっては物が良ければいいのですよ。ただ、第一期の人たちのは創ろうとする意識がすごく強いじゃないですか。眉間に皺を寄せて男の苦悩の顔というので中将ができたわけで。中将は在中将業平の顔を想像し打って、中将と名づけたと。業平の歌舞の菩薩の姿を打ったと言われますね…。男の悩み、業平の苦悩を打ったわけですよ。だけどその後になると、できたものをその通りに忠実にコピーするものに変化してくるのです。この時期も大変なものですけどね。


松下 違う才能ですね。

粟谷 全く同じものを作らないといけないという。これ以降は模写の時代になっていく。そうすると段々と創作意欲が希薄になって、力がなくなっていくわけですね。で、今は…。この間『殺生石』女体をやりましたが、あれは前シテ も後シテも両方とも創作面です。


松下 創作面。昭和の平成の?

粟谷 最近、岩崎久人さんが打たれたものです。岩崎さんが玉藻の前をイメージして打っておられた創作面を銀座の展示会で拝見して、いつか『殺生石』の「女体」をするときには是非お借りしたいと思っていたのです。本来は我が家にある面、家には古い面がありますから、それを使えばよいのですが、ある時はそういう新しいものを使うのも良いと。新しくてもダメなものはダメですけれども、使えるものはどんどん舞台に生かしていきたいなと思って。結果が悪ければその面はダメの烙印が押されますし、役者もその面を選んだことで少し負を背負わなければなりませんが、この曲はこの面と決まっているからつけているということだけに拘っていると、模写の時代の面打師と同じようになる気がしましてね。


松下 同じことですね。

粟谷 意欲みたいなものがなくなってきて、この装束とこの面をつければそれなりになる、そういう風に教わっているから仕様がない、なんていうことになってくる。まー、怠け者と言われても、しょうがないですよ。それでは観ている人に失礼でしょ、観客は悲劇ですよ。

面、装束選び

松下 装束や面の選び方はおシテがある程度できるのですか。

粟谷 若いときはそれほどに自由にできません。修業中の身では、まず基本形というか、長年こういう風にやってきたという一つのパターンがあるわけですから。その基盤は崩さない方がいいと思いますけれど。


松下 装束も決まっているのですか?

粟谷 だいたい決まっています。ただそのときに、たとえば袴を、浅黄色にするか、萌黄色にする、茶色にするかは自由であったりするわけですよ。唐織を着ると書いてある場合でも柄はどうするか、例えばいくつか唐織があるけれどもどれにするかといったことは、本来シテが選ぶべきですね。


松下 スタイリストみたいな人がいるわけじゃないのですね。

粟谷 本来スタイリストは自分でなければいけないのですよ。子供のころは、親や師が見立てます。これとこれがいいとか、ましてや小さい子はこれしかないからという風に着せられますけれども。青年になると、修業の身だったら、先生に「お前はこれを着ればいい」といわれますが、そういうものを卒業していって自立したときは、たとえば着たいと思う装束の持ち主のところに行って、頭を下げ、実は扇面模様(せんめんもよう)の唐織でやりたいのでお貸し頂きたいというぐらいの意識がないといけないと思いますね。いつまでも他人任せでは一人前の能役者とは言えない気がしますが。


松下 それも一つの創作活動ですね。

粟谷 その辺から始まるということはありますね。あまり新しい物でなくて、もうちょっとくすんだ物にしようとか、どういう色のどういうものを着るかから始まって、こういう風に謡ってこのように舞うまで、自分で考える。どちらが先ということはないですけれども。

松下 おシテさんはおシテさんの、自分のことで、他のワキの方はワキの方で決めるのですか?

粟谷 そうです。


松下 自分のことは自分で決めるということですね。

粟谷 そうです。ただツレ役で、シテがこれを着るから、ツレはこれを着てくれよと言うことはありますが、ワキや狂言の方には口ははさみません。別世界です。それぞれが決めていますね。


松下 舞台は相まみえてですね。

粟谷 そうです。あまり色が同じにならないようにという配慮はしますが。たとえば、おじいさん役をやるときに水衣を着ますが、だいたい茶色っぽい物になる。ワキの僧も茶色の僧衣になって似てしまいます。全く同じ色の物が舞台に並ぶのはおかしいですから、濃い色ですかと伺って、それじゃ私は薄い色にしましょうと、お脇は色を変えたりして下さいます。

対談 禅宗などから 松下宗柏氏との対談 その1投稿日:2018-06-07

対談 禅宗などから
能には命の高揚があるのですね

粟谷 明生
松下 宗柏

 臨済宗の機関紙『法光』で「能の楽しみについて」記事にしたいということで、私(粟谷明生)のお弟子さんでもあり、臨済宗の僧侶でいらっしゃる松下宗柏氏と対談を致しました。能は宗教がベースになっていることもあり、宗教的、哲学的な話は興味深く、松下氏の軽妙な語り口に乗せられ、話は縦横無尽、とどまるところを知らぬこととなりました。

第1回目
謡の中の余白と間

松下 今日は、能の楽しみとか見どころとか、能にまつわるいろいろなお話を聞かせていただきたいと思います。

粟谷 どのようなことから入りましょうか。私が松下さんから教えて頂きたいことは、禅宗を始め、能が影響を受けている宗教的なものです。能はベースに、天台密教から始まって、浄土教とか、時宗や、いろいろありますね。特に禅宗は禅の心や考え方が深く入っています。観世銕之亟静雪先生も禅の力とか、余白や間、余白と抑制など本に書かれています。


松下 禅宗の教えでは、間との関係でいえば、呼吸とか息づかいに注目していますよね。私たちには動きの中の工夫「動中の工夫は静中に優ること百千億倍す」という言葉があるのですが、機(はたらき)として禅の心を表すということがあります。

粟谷 私どもも、呼吸とか間が大切で、例えば謡では「間が無く、矢継ぎ早に謡ってはいけない」、間とか空白があって、はじめて広がりのある謡が生きてくるのだと言います。単にだらだらと、また妙に詰まったように謡うのではなく発声とか言葉、謡の中にある種(たね)みたいなエキスをしっかり、とらえていなければならないのです。発声のことでは、世阿弥が書いています、「一調二機三声」。まず自分で調子をつかんで、次に機、機というのは気をためて、チャンスとか機会をねらってとかいう意味で、このような過程を経て初めて声が出るのだと。だから、何となく「あ」という声(音)が出るのではなくて、発する前にいろいろな意識が働き、作業が起こり、最後に「あ」という声が出るのだと。きちんとした呼吸法も意識していないといけないのです。このことがうまくできて謡われている方の謡を聴くとその舞台や演者に引き込まれていきますね。よい謡をする方はよい呼吸をなさっている、聞いていて安心ですよ。間があっても妙に焦れなくていいし…。それが、呼吸に問題があると、「あれー、絶句したのかな」と思ってしまうし、間を掌握できていないな、と感じてしまいますね。これらは余白とか抑制という言葉に関係していて、観世銕之亟先生の言葉は本当に説得力あると思いますね。


松下 世阿弥は何処でそういうことを言っておられるのですか。

粟谷 『花鏡』ですね。世阿弥は花伝書といわれる『風姿花伝』という最初に書いたものと、その後、晩年にかけて書いたものと少し変化してくるのです、どちらかというとおもしろいのは晩年に書かれたもので…。それはそうですよね。多くの経験を積んだ後に書いたものの方が面白いのは。お稽古を始めたばかりの初心者の方には「一調二機三声」などと言われてもピンとこなく、わからないでしょうが、稽古していくと徐々に、こういう言葉の説得力が判るようになりますよ。私、お聞きしたいのは、謡と読経の違いみたいなものなのですが…。


松下 そうですね、謡と読経の違い…。お稽古で、謡い方ではお腹から出すものと鼻から出すものとがあると教えていただきました。引く息もあるとも。


粟谷 人それぞれのやり方がありますが、自分の声質を上手に使って声を出す工夫ですね。松下さんの場合は鼻音というか、多分読経の系統のお声ですと、どちらかというと腹が三分で、残り七分は鼻を通しての声ではないかなと、そんな感じがしましてね。


松下 初めのころ、私の謡曲はお経みたいだと言われ、「これは褒め言葉じゃないですよ、良くないです」とおっしゃいましたが、それはどういうことなのでしょうね。

粟谷 失礼な事申し上げましてすいません、お詫びいたします。読経のことをよく知らないで申し上げるのは失礼にあたりますが、お許し下さい。私は読経が抑揚がなく、上り下がりが少なく平坦に聞こえるのですが…。


松下 そうですか。

粟谷 そちらは「いいえ、ちゃんと抑揚がありますよ」とおっしゃるかもしれませんが。現代の謡曲、私のまわりで聞いている範囲ですが…。平坦な音のつながりを嫌う…。


松下 お経は、同じ調子を続けていくというのが、ある意味では心に影響を与える力といおうか、打楽器みたいな効果があるのです。

粟谷 そうですね。謡の中ではそういうことはあまりやらないのです。たとえば役として巫女がお祈りをするときや祝詞を読むときは、鼓はポンポンと同じ調子でノットという手組みを打つ、こういうやり方でテンションを上げることはありますが、謡ではこの方法をとらない。うちの父はこういう謡を「雨だれ謡」といって、ぽたぽたと同じノリで謡うのを固く戒めていますよ。


松下 雨だれ謡ですか。それはお経ですわ(笑い)。天台宗の比叡山でやるのは、朝法華に夕阿弥陀といって、夕方の四時から五時ぐらいに勤める晩課で読む阿弥陀経は、御霊を鎮める、まさに雨だれですよ。心を鎮めるようにね。

粟谷 それは宗教的には一つの効果があると思うのですが、謡としては、してはいけないと。抑揚が大事でね。基本的にはすべてのものが序破急理論ですよ。序があり破があって急となる。導入、展開、解決ですね。


松下 変化ですね。

粟谷 ええ。大きいものから段々小さくなっていくとか、その逆でもいいのですが、とにかく変化と流れがないと…。謡も同じで、口を開け謡い始めてから謡い終わるまで同じ速度ではなく、段々速くなっていくとか。それが、そ・も・そ・も・こ・れ・は・な・に・な・に・と、同じスピードで謡われるとね。


松下 それは私ですな(笑い)。

粟谷 「そもそもこれは、花月と申す者なり」と謡うとき、「そもそも」というのが序で謡い出しですから、謡い出すまでに高さ、調子、といろいろ考えて、先ほどの一調二機三声理論でいうと、「そ」をどういう音で出すかというのを考えるのです。そしていつ謡うかですね。能の場合では、お囃子があるわけですから、例えば小鼓の鳴らした音を合図に、さあ謡うとなるわけです。


松下 第一声が非常に大事ということですね。

粟谷 どのように声を出すかが大事で、そのときなおかつ、大きいふくらみがあって、段々ゆっくりした序から破でちょっとスピードが加わっていく、そしてどんどん速くなり急になる。つまり「そもそもこれは花月と申す」と水が上から下まで流れる感じで。そして流れる最後は落下の法則でスピードが速くなっていくと…。同じように流れるのではなくて、時間が経った後の方、水の落ちる早さは速くなるでしょ。それはすべての場合に当てはまります。謡でも舞でもそうですね。ごくまれに例外もありますが。私はそう心がけています。


松下 謡にも舞にも序・破・急というのが出てくる?

粟谷 そうです。三番目物になって『定家』とか『野宮』『井筒』になると、非常に密度が濃くなって、動きもゆったりしてきますが、でも同じことで、舞いという動きの中にもゆっくりとしたところと、中ぐらいのところ、そして少し速いところと微妙な変化があるはずですね。


松下 濃縮した感じ。

粟谷 そう。だから基本的に、底流に流れているものは同じ。序破急。


松下 序破急。確かに序破急があってはお経にはなりませんね。

粟谷 能には訴えかけがある。お経は同じリズムで心を鎮めるもの…。


松下 そういうものでないといけないのですよ。

粟谷 そこがちょっと違うかな、というのはありますね。


松下 命の高揚、変化を映し出すのがお能なのですね。

ダンサー&振付師(作家)の余越保子さんと語る投稿日:2018-06-07

お能の新しさ

ダンサー&振付師(作家)の余越保子さんと語る

 余越保子さんは1981年にアメリカに渡り、パンプシャー大学、NY大学で振付と演劇を学び、ニューヨーク、アムステルダムをベースにダンサーとして活躍。95年からは作品を発表し始め、ダンスマガジン誌上で注目する25人の作家に選ばれています。最近は、日本でワークショップを教えるなど、作る、踊る、振付と、幅広い活動を展開されています。ダンスの分野はコンテンポラリーダンスということで、モダンダンスに属するようですが、日本の伝統芸能にも興味があるということです。こ
の度、歌舞伎舞踊を研究するため、アメリカからの留学ということで、東京に1年間滞在されています。滞在中、お能にも興味があるということで日舞と謡と仕舞を私(粟谷明生)のもとで稽古されました。今回は、ダンスの専門家から見た能について興味深いお話をうかがうことができました。

粟谷明生(以下粟谷) 稽古してみてどうでしたか。

余越 体に入ると踊れるんですけれどね。まだまだ・・・。

粟谷 能は踊るでなくて舞うといいます。

余越 舞えるんだけど・・・。うろ覚えのときには、お稽古を録画したビデオを見ても、何でこんなにおどおどしているのと思ってしまう。仕舞の歩幅とか形とかペースがつかめないから。いろいろな舞の構造がわかってくるといいんですけれど。

粟谷 1つ1つ段階を踏んでお教えしていければ、構造がお判りいただけるのですが。例えば「上羽」(あげは)「左右」「打込」と連続している動きとして覚えられるといいのですが。

余越 何かクラシックバレエと似ているところがある。型があるっていうか。

粟谷 型は決まっていますよ。基本動作は50型ぐらい。湯谷なら13の型を覚えれば出来ます。

余越 バレエの方が多いですね。バレエは、オン ザ ビートというか、動きのリズムがはっきりしているし、一度バーレッスンをマスターすれば、手が増えて踊れるようになるんだけど、お能や日本舞踊は、間で踊るでしょ。でもなかなか面白いのは、ヘタでも見ていて面白いところがある・・・。

粟谷 下手でも、見て面白い?

余越 うまく言えないけれど、バレエだとヘタだと見ていられない。

粟谷 ハハハ(笑い)。

余越 もう絶対見ていられない! お能の場合は、私なんかお稽古したの4回目、ど素人じゃないですか。それでも一応形の善し悪しは別として何となく舞える。でも、バレエのど素人は踊れないと思う。お能の場合は、動きがオーガニックというか自然だからだと思う。人間の体に一番即した動き。歩行なんかの位置関係もオーガニックに作られている。だから変にずれて見えない。ヘタなんだけれどもちゃんと見れる。バレエは装飾が多いから、その装飾をうまく形づけられないと見られないんだと思う。お能はそういうところ構成がしっかりしていると思う。すごい!

粟谷 あなたがある程度、短期間でスムーズに仕舞を習得出来たのは、やはりダンスをやっていらっしゃるからだと思いますよ。基本的な身体を動かす運動のセンスをお持ちだから。仕舞の構えは普通はあの姿勢を形作るまでになかなか時間がかかるものです、なかなかできない人もいるのですよ。

余越 もちろん、それはそうだと思いますけど。でも、へたはへたなりに、何か味が出るんじゃないですか。初めてお能を観たのは研究会というものだった・・・。

粟谷 どなたの研究会?

余越 忘れてしまった。

粟谷 三島由紀夫は、最初に何を観たかが問題と言っていますね。

余越 本当の初めは、ニューヨークで。ジャパンソサイエティに来ていた人だから、結構有名な人だったと思う。

粟谷 梅若六郎さん?

余越 六郎さんではない。ずいぶん前ですよ。梅若さんはアムステルダムで観ました。それで、日本に来てから能楽堂でお能を観るのがいいと言われたから。お金がないので一番安いのをというので、それが研修能だったみたい。でもすごく面白かった。やっぱり物がしっかり作ってあるから、こう・・・。

粟谷 そう。能は構造の骨格がしっかりしているから、あとは能楽師自身の体や精神性みたいなものが問題なのですよ。能がユネスコの世界遺産になったと自慢できる一方、その中で何をしているかということが大事なのでしょうね。私も含めて、なかなかどうしてそこまでいくには難しいですよ。

余越 でも面白いですね、構成がやっぱり。600年前に出来た伝統芸能というけれど、私の目からすると、すごい、ポップなんです。話の作り方とかバンバン飛ぶし、展開や振付なんか、すごく面白い。踊りというのは一番何でもできちゃう世界だと思うんですよ。何でもありというか、順序をバンバン飛ばしてもいいし、さかさまにしてもいい。それが演劇になると起承転結とか、時間の流れもコーズアンド エフェクト(cause and effect<原因と結果>)と言って、こうなったからこうという、理由と結果、ロジックがあって、そのために時間が流れて究極の方向にもっていくわけですが、踊りって、もっとこう時間の観念が広いんですよ。最近のコンテンポラリィダンスなんか、歌もあるし話もあるし、踊らなくてもいいし、枠がバンバン広がっているから、そういうところから見ると、お能の自由さというか作り方が見ていて面白い。そこが一番面白いところかもしれない。

粟谷 今、能の中におけるスピードというような文章を書いているんだけれど(このホームページの切戸口のコーナー参照)。能で場面転換する場合、たとえば『是界』という能で、初めにシテが「これは大唐の天狗の首領是界坊にて候」と名乗って、これから日本に行き仏法を妨げると謡います。「名にし負う豊葦原の国津神・・」の道行を謡い終わると「急ぎ候ほどに、日本に着きて候」と忽ち日本に着いてしまう。観る人は、この言葉を聞いて、日本に着いたと日本を想像しないと始まらない訳です。場面転換の動きとしては、右に向いて2、3足出て、右足をかけ2,3足で元の座に戻るだけで「急ぎ候ほどに・・・」ですから、「さっき居たところと何ら変わらないじゃない」と言われると、返す言葉がなく、困るのですが。言葉の展開で、さっきは中国で今は日本の愛宕山としてしまうあたり、かなり大胆ですよね。そういうことは他ではないのでは…。芝居ではガラガラと舞台を回わして場面を換える手段が生まれる。そういう意味では能というのはすごく斬新。私は、能というものを考え出した戯曲家たちのセンスに感心してしまいます。能のように観客が頭を働かして場面転換をイメージするのと、映画や普通のお芝居のように、場面をすべて与えてくれるものとの違いですよね。どちらがいいという話ではなくて、そういう違いの面白さが、私もだんだん分かってきたんです。伝統芸能には文楽もあるね。文楽はどう?

余越 文楽は観ていて勉強になりますね。人形には感情がないじゃないですか。それなのに文楽で観ていると何であんなに感情が出るかというと、人形使いの思いを込めているというのはあるだろうけれど、どこか動きの正確さだと思うんですよ。泣くときの手や顔の角度がとても正確で、間の取り方もよくて、観ている私たちもウォーオー(泣く感じ)となる。運動学的な正確さで、ドラマを創り出しているという意味で、文楽は面白いと思う。だから役者だって、感情を込めれば悲しみが表現されると思うかもしれないけれど、動きの正確さの方がすごく大切、気持ちを込めると同じくらい、あるいは、それよりもっと大切。体の動かし方とか傾き方なんかがね。文楽を観ていて思うんです。

粟谷 文楽、人形浄瑠璃の方には、この角度でなければ絶対駄目というものがあると思うね。それは生身じゃないから。能にはシオリという泣く型がありますが、基本ラインはありますが、演者で手の角度や位置など少しづつ違うのですよ。私は形の整い方も大事ですが、それよりあの型をしたら泣いているのだなと自然に感じさせるエネルギーみたいなものが、役者の中にふつふつと沸いてこないと本当はいけないのではないかな。これは泣く型だから、と精神性がなくて型をなぞっただけではいけないと思いはじめたのです。

余越 型は記号になっている。

粟谷 戯曲の基本、土台がしっかりしているということはすごくいいことなのですが、そこに胡座をかいていてはねー。シカケ、ヒラキが立派にできれば充分でしょう、と演ずる気持ちが空虚ではね。型を越えた演劇性が重要じゃないかな。それは師から習うものとはまた別なところで習得しなくてはいけないと思いますよ。いろいろな他の物、他流の舞台を見る、聞くことも大事だと思いますがね。

余越 他のものをですか?

粟谷 そう。シテ方は五流あるけれど、父から聞いた話ですが、昔はよそ様のものを見たり聞いたりすることはあまりない、なんていう時代だったようですよ。

余越 えーっ、信じられない。

粟谷 そういうものだからこそ、それぞれの流儀は影響を受けずに今日まで伝承されてきたのかもしれませんね。金春流を拝見するとそう思いますよ。

余越 聞いてはいけないというのは、影響を受けると汚れるからということなんですか。自分が持っているものを侵されるということなんですか。

粟谷 そうでしょうね、多分。今は変わってきたと思いますよ。

余越 じゃ、最近の能全体を見て、革新的な能楽師とか戯曲家が出てきた時期とか、そういう人はいるのですか。

粟谷 何人かはいらっしゃると思いますが、少ないでしょうね。やはり一番は観世寿夫という人じゃないですか。世阿弥と同じぐらいの価値観だといわれますね、私もそう思います。

余越 何を変えたのですか。

粟谷 世阿弥が書いた『花伝書』を見直され、能を演劇的に演技者の立場で研鑽された方です。

余越 『花伝書』、読んでいるかもしれないな・・・。

粟谷 昔の能楽師は読んでいなかったようです。

余越 彼がそれをイントロデュース(紹介)したというか。

粟谷 『花伝書』が世に出たのは近年なのですよ。

余越 ああ、そうか。バレエの世界で、今世紀に一番影響を与えた人というのは、ジョージ バランチンという人なんですけれど・・・。

粟谷 その人はどこの国の人?

余越 ロシア人です。もう死んじゃったけれど。男の人です。アメリカに渡ってニューヨークシティバレエ団を作った人です。新しい美意識とか美感覚をバレエの世界に紹介した人です。すごく革新的だったのです。何でかって言うと、彼はそれまであった、ロシアバレエというか、フランスバレエの物語性を取ってしまった。バレエの世界では、王子様と王女様が出てきて愛し合ってとか、白鳥の湖とか眠れる森の美女とかジゼルとかあるじゃないですか、そういうお話を語るための踊りだったものを、そのお話を取って、動きというものと音楽にフォーカスしたのですね。物語性をはぎ取って、バレエを全く違う表現にした・・・。

粟谷 それはトウシューズをはいてやるわけ?

余越 もちろんそうなんだけれど、ゴテゴテしたコスチュームを取っちゃって、ただのお稽古着みたいな、タイツとレオタード(肌着みたいなもの)を着て、体のラインを全部見せる。だからジョージ・バランチンというのはガリガリに痩せた、お乳もぺちゃんこの、ストーンとした人の方がラインが出せるからと、そういう人を採用したんです。それで音楽に乗せて振付をするんだけれど、これは聞いた話だけれど、楽曲のドラマ的なピークを捜して、そこから遡って作っていくから、音楽の構造をそのままビジュアルに見えるようなバレエを作るというもので、アメリカの新しい人たちに熱狂的に受け入れられたんです。おそらく他のいろいろな芸術方面にもすごい影響を与えた・・・。

粟谷 いつ亡くなったの?

余越 もう、15?20年くらい前・・・。

粟谷 その方、いくつぐらいまでやっておられてのだろう。バレエと老いが結びつかないのだけれど。

余越 老いても目が利きますから。この人は役者じゃない、振付一本みたいな。

粟谷 でも昔はやっていたのでしょ。

余越 昔はね。でも早めにやめて。作る人というのは、本当に作りたい人というのは、自分がやらない方がつくりやすいのではないでしょうか。お能は全然違うでしょうけど。

粟谷 能は能役者が演出家でもなければならないからね。そこが面白いのさ。でも、あなたのコンテンポラリーダンスというのは、自分で作って自分で動かなければならないのでしょ。それは能に近いのではないかな。

余越 私のやっているのはそうですよ。もちろんダンサーを見て、こうやってああやってと作っていく作品もあるんですけれど、私は作り始めて、まだベイビーというか、4作か5作目だから、新人だから、まだですけど。それから私は動きのコンビネーションとかは余り興味がないんですよ。だからす
ごく派手に動いて、いろいろな構想のステップで見せてというのは余り好きじゃなくて、そういうタイプの振付師ではないんです。

粟谷 能は役に立ちましたかね。

余越 お能ですか、・・・歌舞伎と全く違うから面白い。

粟谷 日舞もやっているよね。

余越 日舞とも全く違う。日舞もなかなか面白い、お能も面白い。

粟谷 能の方が、原始的じゃないかと思うのですが。

余越 ウーン、そんなことない。

粟谷 作られた時代が古いからね。

余越 お能の方が、抽象的だから新しい!

粟谷 日本人の感覚として、抽象的なものの方が先ですからね。

余越 そうか!

粟谷 神楽とか民族芸能とか、クルクル回るだけみたいなものが舞の原点と言われている。

余越 ウーン、それは西洋的な考え方とは違っている! 西洋で教育を受けているとアブストラクトなものが前衛という感じがある。ロバート・ウイルソンという人知っていますか。オペラの演出を書いている世界的にも有名な人。超有名な人ですね。その人がおそらく禅とかお能に興味を持っていて、西洋人として、そういうものを概念的に舞台芸術に表現できた人なんです。その作品がいいか悪いかは別にしてね。その人がやったことというのは、その人の出世作は、アインシュタイン オン ザ ビーチというもので、大きな10メートルぐらいの蛍光灯のようなものをゆっくり倒していき、15分ぐらい、延々とお客はそれをじっと見ているんですよ。そのバックにフィリップ・グラスという現代音楽をかけて、ラリラリラリ・・・というすごくシンプルな音楽。無を見るのね。無のあり方というか。西洋がお能とか禅を見たときに、アブストラクトに、新しいという風に感じるんです。そこに抽象的な、斬新さを見たというか。私のやっているコンテンポラリィダンスはモダンダンスから派生したもんだけれど、最初は感情を出すのに内面の形象化を掲げたんです。ここにこうたまっている感情をこういう動きで出すのだという・・・50年代からやっている。ところが、マース カニングハムという人がそんなものはいらない、動きに意味づけをするのは全然つまらんと。動きは単なる動きではないかということで。その次にもっと若手の振付家たちが、ポストモダンを提唱した。モダンダンスのポストだから、その先っちょね。60年代から70年代ぐらいです。その人たちはスニーカーを履いたりして歩くとか走るとかして、ジェスチャーで意味もなく動く、それで動きを作り出すんです。だから抽象的になればなるほど新しくなっていった・・・という感覚が私にはあるんですよ。だから、私はお能を観たとき、ここまで斬新で新しいものは!と思ったもの。影響を受けていますよ。

粟谷 能は最初からその舞台装置を必要としなかった。抽象化の極致だよね。

余越 それはなぜ?

粟谷 日本人の感覚には抽象的なものが入っているのではないかな。色即是空、空即是色という言葉があるように、あることが無いことで無いことがあることというような東洋的な考え方がある。狂言の野村万之丞さんが、狂言は生きていこうとする、生きることに焦点があるのに対して、能は死というものを見つめて、死をテーマにしているとお話していたが、言い当てていますね。翁と脇能を除けば、死というテーマ、我々が絶対避けられない、重くのしかかってくるものをテーマにしています。だから、20歳そこそこで完成した演技を求めるのは難しいでしょう。

余越 死というよりもどちらかというと老いなんじゃないですか。

粟谷 老いだね。老いるということだね。

余越 私、年をとった人の舞台を見るの好きです。マースカニングハムという振付家の踊り手としての舞台は素晴らしいです。年とっていて、ほとんど動けないのだけど。舞踏の大野一雄さん、彼なんかもすごい、切符取れないもの。彼を見るために世界中の人が切符を取ろうとするんです。こういった舞台は特殊ですけどね。私、思うんですけれど、スペインで闘牛を見たときに、牛を殺すわけですが、これが美しいんですよね、すごい。死の儀式をパーフォーマンスにしてしまう、それでマタドー(闘牛士)とかも超格好いい、すごいセクシー。動きが決まっていますよね、とどめを刺すときとか。コスチュームも動きも全部踊りみたいになっているから、それはショーなんですよね。死をパフォーマンスにしてエンターテーメントにして見せるのね。私は見ていてすごいなと思ったんだけれど、死というのはすごくエキサイティングなのね。

粟谷 能の場合は死じゃないね。あなたが言ったように老いだね。滅びの美学というか・・・。

余越 滅びの美しさだと思う。

粟谷 死を見つめるとか、老いとか、そういうものを能はテーマにしているんだね。

余越 私、白洲正子さんの本、どんな本だったか忘れたけれど、お能というのは5つか6つの動詞があって、それをやると序破急になるんだという文章があって、そのところだけ利用して踊りの動きを作ったことがあるんですよ。その言葉、動詞というのは、落ちるとか寄るとか、滅びる、整えるだったかな。とにかく彼女が言うところの能に必須のいくつかの動詞があるんですよ。それらを組み合わせて序破急ができると。その考え方を創作に利用してみた。ダンサーは言葉を与えられて、動きを作る、フレーズを作ったりしますからね。これは面白いプロセスだなと思って作ってみたのです。とてもおもしろい動きがでてくる。あんまりおもしろいので、じゃあ、自分で勝手に好きな動詞を持ってきて、たとえば、開けるとか閉じるとかというのを足していったら面白いかなと思ってやってみたら、全く面白くないんです。彼女が言った動詞だけ、その言葉だけの動きで一番面白いものができる、すごい力だなと思った。おそらくお能の中に、ある世界、クオリティなのか質的なもなのか知らないですけど、何か確固とした弦のようなものがあるんですね。いろいろな言葉で時間をかけて実験的にやってみたけれど、白洲さんの言う言葉のすごさが手に取るように分かった。あ、すごいなっと思って、忘れられない言葉になった。コンテンポラリィの人は、たとえばインドネシアだと、伝統芸能を小さい子に教えるんですよね。そして、その後に伝統芸能をやる人とコンテンポラリィをやる人とに分かれていくんです。日本はそういうのはないじゃないですか。コンテンポラリィはコンテンポラリィ、伝統は伝統で動かないというか、西洋から来るものと伝統はバシッバシッと分かれている。

粟谷 最近それが見直されて、小中学生に邦楽を教える、義務教育に入れていく動きになっているけれど。それで私も、能を小中学生に触れてもらおうといろいろ活動をやっているのです。西洋から来るものと日本のもの、伝統芸能など、両方知ったうえで、分かれていくのがいいのだろうね、あなたの言うインドネシアみたいに。今日はいろいろ面白い話をありがとうございました。

面打師・岩崎久人さん、石原良子さんと投稿日:2018-06-07

面打師・岩崎久人さん、石原良子さんと

岩崎 久人

石原 良子

粟谷 明生

(今回は、『殺生石』女体や『経政』烏手の折、面を使用させていただきました面打

師の岩崎久人さん、そして石原良子さんとの、面について雑談話を記載してみました。)

泥眼粟谷 今日はわざわざお忙しいところ、お集まり頂き恐縮です。どうぞお気楽にお話頂ければ結構ですので・・・。面を打たれるとき、一応大きさ、サイズは決まりがあるでしょうが、人それぞれ顔の大きさが違いますよね。最近はどうしているのですか? 女流能楽師もおられますが、そういう方のは小さく作られているのですか?

岩崎 女性のはわざと小さく作らないと、どうしてもおさまりが悪いよね。今、男の人も顔、小さいでしょ。体は大きくなったけれど、顔は小さくなっている。佐々木多門君、狩野了一君、皆さん小さいですよ。

粟谷 若い人はそうですね。小さくなりましたね、うらやましい。でも私やうちの父などはでっかいですよ(笑い)。

岩崎 うちの金太郎先生なんか、あんなに顔が長かったのに、面を上の方につけていましたからね。

粟谷 昔は観世さん、梅若さんは割と下に当ててつけられたそうですが、今は平均して上につけている方が多いんじゃないかな。寿夫さんの写真を見ると高いですよ。面の受け(うけ)は難しいですよね。今はどの流儀も当て物をつけますが、つけたときは丁度良いと思ったのに、「おま?く」と言って、幕が上がった途端に、「あれー」って、変わってしまう人もいます。へっへー・・・私ですよ。(笑い)

岩崎 素人会の申合せのとき、ツレをやっている若い人に、「オイ、どこを向いているんだ。もっと下を向け」と言ったらだんだん下に向いてきたから、「そこだ! そこを覚えておけ」って言ったんですよ。僕のこと誰だろうと思っただろうね。

石原 当て物は前もってつけたりはしないんですか? その当日その場でつけるの?家で前もってつけておけばいいのに・・・。

粟谷 それは家に面があれば、可能だけれど・・・、だって皆が皆、自分の家に面があるわけではないですから。能夫だったら、本家の蔵にあるので、ある程度の仕込みは出来るでしょうが、でも所詮自分では受けが見えないので、どうしても信頼出来る人に見てもらわないと・・・、となると当日っていうことになるんですよ。

石原 じゃあ、面は当日はじめてつけるのですか?

粟谷 そうですよ。普通はみんな当日ですね。持ってきてもらったときに。

石原 そうなんですか。

粟谷 そうですよ。だから面を持ってくる人は、開演二時間前には必ず持って楽屋入りしてくれないと演者は困ってしまうわけ。

石原 そうなんですか。この間『国栖』を拝見しました。おもしろかったですよ。面は何かしら、後は何?

粟谷 前シテは「三光尉」で、作者は・・・判らない。後シテは「不動」です。

石原 前の面、いい面ですね。後は黒く見えたんですが・・・。

粟谷 あの「三光尉」よかったですか。「不動」は新太郎伯父がどこからか買ってきたんですよ。当時能夫が「どうして不動なんか買うの、何に使うつもりなの!」と言っていたのを覚えていますが、まあ折角あるので、一度試してみたいなと。能夫も『嵐山』で一度つけています。そう、黒いですよね。我が家の面は、祖父益二郎と伯父新太郎が集めたものです。新太郎伯父は面の収集家でしたから、良い面が手に入るとその面を使う曲を演能の選曲としていたぐらいです。面白い話があってね、私も当時子供でしたが、その場にいたので薄々覚えていて、そう、父がよく皆さんに話すから、よけい印象が強くてね。伯父が「大悪尉」が手に入ったというので翌年に『玉井』をやることにしたんですよ。いざ本番というとき、先々代14世喜多六平太先生が、いきなり、「龍神は黒髭!」といいだしちゃったわけ。新太郎伯父が悔し涙でしょげているものだから、父が六平太先生に「先生、『玉井』ですよ、頭は白! 白頭ですよ! 黒髭ではおかしいんじゃないですか?」と申し上げたんだって。でも六平太先生は葉巻をくわえながら、「昔・・・津軽におつむが白くても髭の黒い方がおられた・・・」とお返事されたとか(笑い)。

石原 面白い! 私たちが喋るより先生たちのお話聞く方がいいわ。

粟谷 岩崎さんはお能も舞われているようですが、お稽古は何年ぐらいやられているのですか? 打つ方が先なんですか?

岩崎 打つ方が先です。守屋与四巳先生が面を打つなら謡えた方がいいでしょ、一番でも舞った方がいいでしょ、やりましょうというのでやらされて。イヤイヤやったんですよ。

粟谷 金春流はどちらで?

岩崎 それね。毎年横浜能があるというので、能面を打ち始めたとき、やっぱり能楽師に見てもらわないとわからないと思って、それで役員の人に聞いたんです。そうしたら桜間金太郎先生がいらっしゃるというので、お会いしたら、金太郎さんに、「あなたのような人は何人も来たけれども、ものになった人はいないね。三年やってみて同じ気持ちだったら、そのときに見てあげるから」と言われてね。その言葉を素直に受け取って、三年したらもう一度見てもらおうと思った。でも金太郎さん、三年経たないうちに僕の面使ってくれたんですよ。

小面粟谷 石原さんはどうして打つようになったのですか。

石原 能面を一つほしいかなって。お能なんか何も知らずに。

岩崎 僕はね、テレビを見ていて、能面っていいな、ほしいな、でも買うと高いだろうな。だったら自分で作ってみようというのが一番最初のきっかけ。誰かに習おうと思って電話帳で調べてみたけれど、能面を教えるなんてのは無いんですね。木彫というところを調べていて、実にわかりやすい名前の人がいたから、そこに電話をかけたんですよ。「能面つくりますか?」って。「つくりません。でもそういう彫刻をしている人は知っていますよ」というので、そこを教えてもらって電話をしたんです。訪ねて行って「教えてください」と言ったら「オレ知らねえ、自分で勝手にやれ」と言うんですよ。

粟谷 へー、みなさんはどうなんだろうなあ。

岩崎 いやあ、教える人がいたはずですよね。

粟谷 今は教える人も習う人も多いですよね。

石原 能楽師の先生たちは「打った面を見てください」って言われることもたくさんあるんじゃないですか。

粟谷 あまり多くはないですが。たまに見てくださいと言われて・・・、見ると、エーッというぐらいなもので、いやになっちゃうんですよ。だから能夫さんは「難しいですね、彩色は・・・」なんて言ってごまかしたりして(笑い)。

岩崎 金春会の桜間金記氏の『朝長』ね。粟谷さんに頼まれた『須磨源氏』のときの面あったじゃないですか、あれでやったの、そしたらピッタシ! 金記氏が「この面何ですか? って尋ねられて、何って答えて良いのか困ったよ」って言ってましたよ。

粟谷 名前をつけられたら・・・。

岩崎 いや、須磨とは書いてあるんですよ。この間の『殺生石』女体を拝見してそのときの写真を写真家の石田裕さんから見せてもらったんですが、石が割れるときの写真ね、ちょこんと顔が出ている写真、ああいうのは玄人の人は撮らないね。実におもしろい写真だよ。

粟谷 あれシャッターチャンスがいいですよね、ちょっと写真が暗いけれど。私ちょっと顔がでか過ぎるから、面から顔が横にはみ出していて、気に入らないんですが・・・。頭(かしら)をつけたとき、力髪という前に垂らす髪があるのですが、付け方のコツとして、頭の紐に通したらちょっと手前に力髪を出す、そうすると立体感が出るんですよ。あのときは付けた人が、これをするのを忘れたものだから、もろに肌が見えて残念でした。

岩崎 面の写真で気になるんだけど、よく見かける写真が僕らのイメージと違うんですよ。だいたい曇り加減なんだな。

石原 森田拾四郎さんは、照りぎみで、独特の捕らえ方をされますが。

岩崎 粟谷さんは、面の受けはどのようにして見ます?

粟谷 左右横から、目を中心に見ますが・・・、喜多流の人は横から見てますね。能楽座でご一緒したとき、観世栄夫先生は正面から見ておられました。私そこまで眼力がないので。

岩崎 僕は、真正面から口を見るんですよ。小面なら開いている口の形はいろいろありますが、歯のラインと左右口元が横一直線になるようなところ、曇っているとU字型に見えるし、照る場合はその逆に見える。良い受けというのは真っ直ぐなんですね。

粟谷 そうですか、良いことを聞きました。今度そうしてみよう。

石原 小面の話ですが、以前粟谷能の会で能夫さんが『求塚』をやられたとき、今の小面のような感じじゃない面を使われたでしょ。あれ面白かったわ。

粟谷 洞白の写しね。泰経春と書いてあったな。少し白い感じね。あれはすごく重いんですよ。一度使ってみたいけれどね。父がよく晩年の六平太先生が「面が重い」とおっしゃっていたと言っていましたが、年をとってくるとやはり面の重いのは疲労するんでしょうね。

岩崎 面って、「何じゃこれ」というようなものでも、舞台に上がるとすばらしいのってありますよ。

粟谷 近くで見るのと舞台で見るのとでは違いますね。

岩崎 近くで見ると、ボテーッとした感じで大した面じゃなくとも、舞台で見るとすごいんだなあ。

粟谷 本家に秘密の曲見があってね。友枝さんが『芭蕉』に使われたの。近くで見ると大したことなく見えるのですが、舞台で見たら見違えちゃった。いいねって言ってたら、父に、演じ手がいいからだよといわれましたけれど・・・。

石原 舞台での照明も面には大事ですよね。

粟谷 光はねえ。大事、それは演じる者には一段とね。喜多能楽堂は照明がまだ完璧ではないから、目付柱近くに寄ると目に光が入るんですよ。あれが嫌なんだなあ。素人のお弟子さんが面を付けられて稽古しようものなら、あそこで一瞬見えなくなってしまう、怖いものだから皆躊躇して止まってしまうんですよ。先生は後ろから、もっと先に出て!っていうけれど、当人は怖いですよ。

石原 それは変えられないのですか。

粟谷 もう一度、照明も手を入れないといけないですね、でも財団には資金の余裕がないし、他にもやらねばならぬことが多くてね。

岩崎 僕は目黒の能楽堂が好きでね。『羽衣』も『弱法師』も喜多能楽堂で舞いました。来年3月には最近打った面白い「曲見」で『隅田川』を舞います。最初は『藤戸』って決めていたのですが、あの「曲見」見てから、『隅田川』に変えましたよ。目黒の舞台は脇正面の後方のガラスに自分の姿が見えるじゃないですか。あれが良くてね、気に入っているんですよ。

獅噛(しがみ)石原 ところで、ホームページ大変でしょ。

粟谷 ええ。なぜやっているかというと、読んでくれる人が結構いるわけなんですよ。反応もあって、中には新聞感覚で見ている人がいるわけですね。三日に一回とか四日に一回とか見ている。それで、この間見たのと何ら変わらないとがっかりなさるようで、せっかく開いたのに何も変わっていない、新しく更新して下さいとメールが来るんですよ。

岩崎 うちも作っているけれど・・・・。

粟谷 岩崎さんのホームページのギャラリーとリンクするのはどうでしょうか? 公開するのがいやならやめますが。そういうものがあれば、私の演能レポートとリンクさせて、たとえば『大江山』で拝借した慈童の面を、ポンとクリックすると岩崎さんのホームページに行って、こういう面ですよと拡大の面の写真が出るなんていうのは、いいんじゃないかな。

岩崎 写真はデジカメね。息子に買いに行こうと言われ、買わされましたよ。六万円。

粟谷 わー高い機種ですね、六万円というのは。私のは人からゆずってもらったもの。いいものはすごく高いですね。だけどホームページに載せるものは、あまり上級機種でなくてもいいんです。画素数が少ない方がよいようです。

岩崎 そういうことになるとチンプンカンプン。

粟谷 息子さんの聡さんが、「父が粟谷能の会のホームページに殺生石の写真が出るはずだが、未だか、未だかとうるさいのですが、いつごろ記載されますか?」とメールが来ましたよ。「申し訳ない。『阿吽』という小冊子に出しますので、いましばらく待って下さい。出し惜しみしているんです」とお返事をしたら、その後に「父のホームページを開きますから、粟谷能の会とリンクしてほしい」という依頼がきました。すぐリンクしましたよ。

岩崎 そりゃどうもありがとうございます。

粟谷 今年も能雅院展、七月にやられますか? 銀座ですね、今度は面の方がメイン?あれはみなさんお仲間なの?

石原 違います、皆、一匹狼。

岩崎 一年に一回会う程度で・・・。

粟谷 橋岡一路さんも個展やられていますね。(5月28日から7月7日)

石原 100面展、すごいですよ。

粟谷 今度見に行くつもりです。能面展、松濤美術館ですね。先ほどの話に戻りますが、舞台に出してはいけないような面を能楽師が使っているときがありますが、あれは感心しませんよ。打つ方の責任と、付ける能楽師の責任もあると思いますが。そういうときは、地謡なんか一生懸命謡うのがばかばかしくなってしまう時もありますからね。

岩崎 あるだろうなあ。

石原 ご本人は満足しているのですか。

粟谷 本人? 能楽師のこと? それはまわりではなかなか言えないものですよ。 昔、ある方が、不適当な装束を付けて舞われたことがあったの、そうしたら父が、もう怒ってね。「人に物を借りるというのは、もう負けになるんだ。でも大事な曲を勤めるときはそれを覚悟して、頭を下げて拝借してでも、ふさわしい物を身に付けなくては駄目」ってね。面も同じことでしょ。幕が上がってシテが立っているあの瞬間、あれが仲間内での一つの勝負所でね。あの瞬間のあの場面は地謡から一番よく見えるんです。いい演者だときれいな場面ですよ。皆様には申し訳ないけれど、最初に我々が見てしまうの・・・。

岩崎 そこが一番いい場所なんだ・・。見る方も場所の好みというのがありますね。

粟谷 そうです。もう皆様、好き嫌いがあるでしょ。

岩崎 僕なんか真正面から見るのあんまり好きじゃない、中正面側がいいですね・・・。

粟谷 中正面じゃ、目付柱が邪魔でしょ。

岩崎 能面がちょっと横から見えるところがいいんですね。

粟谷 料金では正面席が一番高くて、その次が脇正面で、次が中正面なんですけどねえ。

岩崎 僕は中正面の脇正面側が好きだな。それから、念ずれば通じるというのかな。友枝家の万眉ね。こんなにきれいなものがあったらいいねと思っていたら・・・、何年かして友枝さんと知り合いになって、その面が家に泊まりに来たわけだよね。一か月ぐらい家に泊まって。

増女粟谷 泊まる?

石原 修理ですよ。

粟谷 それで修理をなさったのですか。

岩崎 そう。もうね、彩色がはがれかかっていたんだよ。でもいい目をしていたね。薄い目をしていた。それから、今度は目が見えないから大きくしてくれって言われてね。これ以上できないというところまでやりましたよ。万眉を見ると、友枝先生と思っちゃうもんね。友枝先生、何でも万眉使っていたじゃない。『羽衣』であろうが『蝉丸』であろうがね。

粟谷 そうね。あの年代の方というのは、ほら、それに取りつかれちゃうというか。うちの父もそうなんだけれど、河内の堰ね。何やるにも堰の小面なんです。遊女であろうが建礼門院であろうが『羽衣』であろうが、同じ顔ではまずいだろうと思うけどね。あれね、ご覧になったことある? あー、ありますよね。祖父が見つけてきて父にかけさせたら、実先生が「お前にはもったいない良い面だ」とおっしゃったとかで、それ以来ずっと父はそればかり、浮気しないの。新太郎伯父は、そういう一面主義じゃない。これで『班女』やって、あれで『楊貴妃』をやってと、まー、これが普通ですが、友枝先生や父はタイプが違うんですよ。

岩崎 なるほどね、いい面というのは舞台で見たとき必ずいいかというとそうでもないし・・・。同じ面でも、やはりかける人によってもえらく違うしね。

粟谷 この間、能楽座で父が久しぶりに堰の小面つけたんですよ。『小原御幸』ですが、栄夫さんが後白河法皇をやられて、異流共演でしたが。あの時、父が「やあ、再会したな」なんて言って・・・。あれを使わなくなったとき、父はこの女を捨てた、堰ちゃんを捨てた、そしたらどんどん朽ちていった、本当に真っ黒にね。私も「あれ、こんなに黒かったかな」と言ったら、「バカ、使わないから死んだんだよ」と父。能夫が「修理しますよ。もう使わないんでしょ。誰も使わないでしょうけれど修理しますよ」と言って。つばから汗から菊生のすべてのものが、もうぎっしり詰まっている面ですからね。新太郎伯父が「あの面は気味が悪い」と言ったぐらいで。能夫が一回かけて『玉葛』をやりましたが、どうもしっくりこないようでした。私が一回『船弁慶』で使ったら、父が伯父に向かって「どうして出したんだ」と怒ったそうで。面白いことに、父は私や能夫には直には言わないんですよ。確かに写真で見ると、父以外の人間がつけるとあの面、変なんですよ。

岩崎 面は言うことをきくのと、きかないのがあるんだよね。

粟谷 演者の言うことをきくようにこちらが大きくならなければいけないのかな。使い手が面を生かしてやらないといけませんね。この間の粟谷能の会の『殺生石』女体で後に付ける面、玉藻を前につけたでしょ。あれ結構正解だったと思うんですよ。あのきつい感じがね。

岩崎 はい、あれ前シテによかった。僕のねらい通りの感じが出ていて。仲間と一緒に見に行ったんだけれど、その人が『殺生石』ってあんなにおもしろいものだったかなと言っていたよ。おもしろかった。僕がこだわっていたのは岡本綺堂の小説を読んでずっとあたためていたものなんだよ。その小説を読んで、そんなものを作ってみたいというのがあったんでね。本来、女面で金泥なんてないんですよ。それを僕は薄く、よく見ると泥が入っているのかなという面にしたかった。だけどどうもああなっちゃうんですよね。でも、ああいうのもおもしろいんじゃないかな。

粟谷 使い道を考慮すれば、いいと思いますね。模写ばっかりというのもね。創造性あるものもあっていいはずですよ。だって三光坊や赤鶴の時代の人たちは新しく創造したんだから。どんどん沢山、写しと創作とを作って、いや打って下さい。期待しています。今日はどうもご協力ありがとうございました。

(平成14年6月 対談)

写真撮影 粟谷明生

(上より順番に)泥眼 小面 は岩崎打ち

獅噛(しがみ)増女は石原打ち

『卒都婆小町』について投稿日:2018-06-07

『卒都婆小町』について

粟谷能夫

粟谷明生

平成14年12月は能の稀曲『卒都婆小町』シテ・友枝昭世の公演が二度催され、地頭・粟谷菊生で私たちは地謡を勤めました。そこで、橋の会勉強会で教わったことや携わって得たことなど経験談を添えて少しまとめておきたいと思い、能夫と対談しました。ここにその内容を記載いたします。

番組資料は下記の通りです。

【橋の会】

12月6日(金) 宝生能楽堂

シテ友枝昭世、地頭・粟谷菊生、ワキ・宝生閑、ワキツレ・宝生欣哉

笛・一噌仙幸、小鼓・鵜沢速雄、大鼓・亀井忠雄

地謡・香川靖嗣、粟谷能夫、塩津哲生、粟谷明生、大村定、長島茂、金子敬一郎

後見・粟谷辰三、友枝雄人

【朱夏の会】

12月21日(土) 大濠公園能楽堂

シテ・友枝昭世、地頭・粟谷菊生、ワキ・宝生閑、ワキツレ・宝生欣哉

笛・一噌仙幸、小鼓・横山貴俊、大鼓・白坂信行

地謡・香川靖嗣、粟谷能夫、狩野秀鵬、粟谷明生、笠井陸、中村邦生、狩野了一

後見・粟谷幸雄、塩津哲生

明生 一ケ月に『卒都婆小町』二回、それもシテが同一人物というのは稀なことで、喜多流の歴史では多分ないと思いますが、シテの取り組む気持ちの持続は大変だと思いますね。私たち地謡としては謡を忘れてしまう前に、またあるほうが気は楽でいいですね。また一度目での反省点などを改善できるということでは、有意義だったと思います。

能夫 友枝さんご自身がおっしゃっていましたよ。昔だったら怒られるって(笑い)

明生 東京のお弟子で『卒都婆小町』を観た感想を聞いていてどうも話がずれるので、おかしいなと良く聞いてみたら、はるばる朱夏の会に行ったというから、えっー、福岡まで行ったのかと驚きましたよ。橋の会の方は切符がすぐ売り切れて、観たくても観られなかったらしい。

能夫 橋の会の切符は早くから売り切れていたからね。

明生 そう、だから二回あってよかったですよ。

能夫 地謡に関しては、僕は二回目の方が良かったと思っているよ。適度な慣れみたいなのがあって、余裕を持って謡えたような気がする。橋の会の方は、すごく緊張していたな、菊生叔父もそうだったと思うよ。二回参加してみて、こうしようと思ったことがすべてできたとは言えないけれど、楽しかったという感じがあるね。

明生 二回目は謡い馴れたということと、お相手のお囃子が幸流(小鼓)横山貴俊氏と高安流(大鼓)白坂信行氏で、何となく安心しましたね。

能夫 それはあるね。でも喜多流は本来、幸流、葛野流の組み合わせが具合がよいことが謡っていて再発見できたね。例えば「浄衣の袴かい取って」と喜多流は拍子に合わずで謡い、イロエとなるでしょう。葛野流はここで打掛けを打ち、幸流はムスブ手を打つ。今は拍子にとらわれないでくずして謡っているけれども、もしかすると昔はある程度拍子に合うようにも謡われていたかもしれないね。一噌仙幸さんがイロエの吹き出しが普通じゃないと言われたことも関連してくるかもしれないし、囃子方の手組みから考えると単純な拍子に合わずではないような気がする。

明生 なるほど、そうですね。あそこ今まで何となくしっくりこなかったんだけれど、それを聞くと解りますね。そのうち能夫さんがやるときは、やはり幸流と葛野流との組み合わせがいいですね。

能夫 それがいいかもしれないね。あそこはすごく気になっていたんだよ。うちの流儀は拍子に合わずで、合わないのを前提にして謡い、お囃子はアシラウ感じがしたな。

それから、昔は、シテの道行後、桂川に着いた後に、さらに言葉があって、阿倍野の松原に着いたと謡っているんだ。今はそこが抜けているんだよ。

明生 下掛宝生流のワキも安倍野についたと謡いますね。だから遭遇するわけですよね。

能夫 ほかに、玉津島明神に幣帛を捧げると明神の使いの烏があらわれるという一段があったと申楽談義に書かれているね。

明生 観世流ではやっているのですか。

能夫 やっていない。そこを復活させても面白いね。それにしても、今回の『卒都婆小町』で、友枝さんはやっぱり素晴らしい役者だなと思ったよ。

明生 どういうところが?

能夫 あの狂いの物乞いから霊が憑く場面ね。あんなにできる人はいないなと確かに感じたよ。そりゃ、自分のやり様とはまた別の世界ということはあるだろうけれど。

明生 小町の身体に取り憑いたって思いましたね。

能夫 本当に、戯曲というか台本を読み込んでやっていられるなとすごく共感を持てたね。あの卒都婆問答でも確固としたものがあるし。友枝さんが、精一杯顎あげて面遣いをしている姿、つまり能を超越したような方法論もあったけれど、それがうまく表現されて、いいなと思った。そういうものだろうと思わされた。あの卒都婆問答ね、途中から宗教が変わってくるんだよ。ワキは高野山の僧だから、前半は真言密教だけれど、「菩提もと植ゑ樹にあらず、明鏡また臺になし。げに本来一物なき時は仏も衆生も隔てなし」は禅宗の言葉だからね。

明生 「げに本来一物なき時は仏も衆生も隔てなし」は、梅若六郎さんの舞台を拝見したときに、地謡が6人だったからか、かなり強くエネルギッシュに謡われていると思いましたが、あれはやはり、そこで世界が少し変わるからなんですね。

能夫 あそこはやはり強くなければいけないようだね。何かに書いてあったのを読んだ記憶がある。『朝長』でも、「悲しきかなや・・・」から宗教観がガラッと違うって、よく銕之亟さんがおっしゃっていたけれど、まさにそういうことで、世界観みたいなものがガラッと変るから謡い方も当然違ってくるということはあるわけだよ。

明生 そうか、面白いね。ところでシテの歩み、運びに気になることがあるんですよ。最初に出てくるときは杖をつき、姥の老いの足運びですが、物着で立烏帽子をかぶり長絹を着たあとや「花を仏に手向けつつ悟りの道に入ろうよ」という一番最後のところも一貫した老足の歩みであった方がいいのか、それとも時間の流れの中で何か違った工夫がされるのがいいのか。その辺が観ていてわからなかった、工夫があった方がいいのか、また何も変わらずがいいのか・・・。

能夫 それはわからないな。実際僕はやっていないしね。十四世六平太先生は、片方は幽玄の足で、片方は切る足、つまり詰める足で老女は出ると書いているけれどね。両方、抜き足でなくて、まあ、いけない言葉ですが、びっこを引くようなイメージかな。

明生 『卒都婆小町』のときですか。

能夫 老女物はおしなべて。ずーっと出たらもう一方の足をひょこっと浮かすというね。それが正しい伝承なのか、六平太先生の巧みの工夫なのかはわからないけれどね。

明生 『卒都婆小町』のような現在物ならいいかもしれませんが、『伯母捨』『檜垣』のように舞うことになると問題がありますね。舞を舞わないときは何とかなるだろうけれど。

能夫 普通の幽玄の足とか、摺り足で舞いたいよね。だけど流儀のプレッシャーというか、なかなか動けなくなるらしいよ、友枝さんも言われていたからね。

明生 だいぶ抵抗なさっているようでしたが。

能夫 わかるよ、それは。

明生 『定家』の場合は老いの足ではないですよね。執心を引きずるような足の動きだと思うけれど。痩女をかけるから運びも変わってくるという喜多流の考えに首を縦にはふれませんが、執心を引きずる感触で老女物も手がけられないでしょうか。

能夫 それはそれなりの表現方法としてもいいのではないかな・・・。

明生 それには、面や装束、お囃子と、いろいろなものを配慮していかないといけないでしょうね。取り合わせが悪ければ意味がなくなるわけで。

能夫 問題点だね。それはそうと、宝生閑さんがどんなに重く扱うのかと思ったら、そうでもなかった。以前とは違う。変わられたね。すごくいいですよ。曲としての位、ワキとしての位はありながら、重そうで重くない、おもくれない、いいよね。

明生 やはりいいですね。福岡の朱夏の会の申合後、信ちゃん(白坂信行)に「申合せではやらなかったけれど、ワキの次第と、シテの習之次第とどう打ちわけるの」と聞いたら、あまり意識していないような答えでした。橋の会の勉強会で、幸正能の伝書に、次第について、「ワキの次第は陰ノ中ノ陽ノかげ、シテの次第を陰のかげトイフ」というようなことが書かれていると聞いて、これは面白いと思って、実際打たれる方の意識、心持ちが知りたくて聞いたのですが・・・。父が横山貴俊さんはワキとシテの次第で音色を変えて打ち分けているところがさすがだと絶賛していましたね。確かに老女物らしいいい音色でしたね。そして宝生閑さん、欣也さんの謡の雰囲気は、『卒都婆小町』の世界を作って下さいますね。

能夫 そうだね。

明生 橋の会でならば、観世流にある「一度之次第=いちどのしだい」(シテが初めに登場して床几に座り、後からワキが登場して名乗り、卒都婆に腰掛けている小町をみつける)を経験したいと思いましたけれど。なるほどワキの次第とシテの習之次第の違いが体験でき、また大小鼓の役者の個性をそれぞれ観ることができて貴重な経験になりました。

能夫 「一度之次第」も合理的でいい演出だけれど、流儀には本来ないからね。今回の経験でよかったんじゃないかな。

明生 喜多流で習之次第があるのは、『道成寺』と『三輪』の小書「神遊」、老女物では『檜垣』と『卒都婆小町』の四曲ですね。シテの出で揚げ幕を上げ、右に請け一足出ると記されている型付の真意は、『道成寺』では、鐘に対する蛇体の執心、追いかける心など強い気持ちの表れであり、『三輪』も同様、蛇と神という二面性を持ちながら、玄賓僧都のもとへ向かう気持ちの強さの表れだと思うのです。で、『檜垣』と『卒都婆』などはどうなのかなと思って観ていたら、橋の会のときは見えなかったけれど、朱夏の会のときは、友枝さん、確かに一足出られていた。やはり出なければならない状況、老女の肉体的運動能力として前につっかかる感じがあるのですね。これは老いの運び、老足(ろうそく)に共通しますが、一足出るというのは前に向かう気持ちの強さがあるときの当然の成り行きであり、体の運動であると思うのです。それが確かに型付にも記されていると感じました。常のように「右二請ケ右足引キ揃エル」では一端心が冷静になり平常心となって、舞台遠く正面先にある影向の松、そこに降りられる神に敬意を表すということに落ち着いてしまうのだと思いました。

能夫 大事なことだよね。『道成寺』でも「出ろ」という教えがあるんだから。引くのではなくて出るという感じだよ。そこの辺をしっかり伝承してほしいね。型付を見て動いているだけじゃ役者としては情けないからね。でも本当は型付を読み込めばいろいろいいことが書いてあるんだから、そこを読まなくてはいけないんだよ。人の書いた型付を写して安易に演じているからそういう大事なところを、落としてくるんだね。友枝さんが『卒都婆小町』を二回やってくれたけれど、やっぱり、それを観て何かを得ようとする人がいたときには、二回やってよかったと思いますよ。

明生 友枝さんは初演があって、今回の二回と合計三回ですよね。流儀に三回の記録ってあるかな。私たちも初演、今回と謡い、観てきているわけですが、初演と今回の二回目、三回目とでは違いがありますね。初演ではすごい重厚感、老女物らしくという感じがしましたが、今回は『卒都婆小町』という戯曲を演じているとひしひしと感じました。

能夫 友枝さん自身が同じ思いを持ったかどうかはわからないけれど、二回目、三回目があって成長したという感じがしますよ。何度もやるというとマイナス的な考え方をする人もいるけれど、でも良かったんじゃないですか、後進にとっては。

明生 観たい人にとっては、より多く観ることができて良かったですよ。これ六ケ月も一年も経ったらまた感覚も違ってくるだろうし、演じ方も考え方も変わってきますね。

能夫 だから短期間に二回は面白かった。うちの弟子、橋の会を観て「いい『卒都婆小町』でしたね」と言っていたからね。やっぱり橋の会では忠雄さんだね、決してだてに年を取っていないね。白坂君も37歳で『卒都婆小町』を披き、それも自分の会を立ち上げてきての成果だから褒めてあげるけれど、やはり61歳の『卒都婆小町』とは違うね。比較してはかわいそうだけれどね。

明生 掛け声の質と高さとか。大鼓の音の響き音色とか。透明感と独特の個性がうまく融合され発揮されていましたね。

能夫 とにかく何回もやってという反発はあるかもしれないけれど、適材適所、いい役者が思いを込めてやってくれれば、それを観た人間が次を考えればいいわけですよ。そういう意味ではすごく良かったんじゃないかと思うよ。それで自分が演じるときの、何かよすがにすればいいわけでしょう。

明生 今回の二回、友枝さんとしてはどっちが良かったのだろう。私はどっちというのは判断つかないですが、地謡としては、横山さんを得て、強さ、広さみたいなものが出たような気がしましたけれど。

能夫 『卒都婆小町』は雲の上の手の届かない曲と思っていたけれど、今回の二回の舞台ですごく身近になってきた。それって大事だよね。だから諸先輩がやってくれないと。

明生 神棚に上げておいてはダメということですよね。白坂君が、一番最初に『卒都婆小町』を観たのはうちの父の『卒都婆小町』なんですって。それであの「関守はありとも止まるまじや出で立たん」、あそこがいいなと思って、自分がやるときはコレだと思ったと話してくれましたよ。

能夫 そういうことなんだよな。先輩がよい舞台を観せてくれるということは。

明生 あそこ、「関守はありとも止まるまじや出で立たん」はいいところですよね。私は大好きです。特に喜多流は、物着したあともう一度シテが常座にさしかかるところで「関守はありとも止まるまじや出で立たん」と張って謡いかけるでしょ。血の気が引くというか、感極まるすばらしい場面ですよ。父は「益二郎の関守」っていわれるぐらい益二郎の関守は評判で、張って謡うんだよ、それを僕が次に伝えたい、が口癖ですね。

能夫 あそこがいいんだよ。観世流の『卒都婆小町』を観たけれど、物着のあと、「関守はありとも」はなしで、いきなり「浄衣の袴かい取って・・・」とシテが謡うから拍子抜けしちゃう、面白くないよ。あそこは、たとえ関守がいて行く手を妨げようとも、思いのままに行くぞという意識を強く出しているわけですよ。

明生 あそこに蓄えたエネルギーの爆発がないと喜多流の『卒都婆小町』にはならないですよね。あそこがつまずいたらおしまいです。謡い方に気を使わないといけない。怒鳴ってうるさくてはいけないし、調子があって、テンションが上がっていなければいけないし。

能夫 最初の「月こそ友よ通い路の関守はありとも・・・」とは違うよね。物着後の返しの謡は「せーきもりは、あーりともーお」と張って謡う、当然音は高くつってくるんだけれど、そこを謡いきる。ああいうところの謡が大事なんだよ。流儀の人たちでも息を引いて謡うことが出来る人がすくないような気がするね。僕は銕仙会にふれたりして、謡という意識を学んだけれど、喜多流にしっかりした謡い方のマニュアルが無く、また指導もしないのが原因だろうね。

明生 最近、そういうことがわかってきました。『望月』をやるとき、能夫さんにもう少し引いて謡えよと言われて・・・。

能夫 ガーッと出す息だけではない表現があるわけですよ。

明生 物着後の「関守・・・」のところは、まさにそうしないと、引いて謡わないと成立しませんね。出す息だけだと声として次第に消えてしまう。それが引いて謡うと声が音として広がりをもって残る、何かそのあたりの意識をもっていないと。

能夫 そう。その意識がないとね。

明生 出したいものを80%ぐらいに引いて、それでいて100%をこえる効果を出す、そういう声の広がりみたいなものですね・・・。

能夫 本当はそういうことを理解していないと能にはならないんだよ。右向いて、左向いて前に出てシカケ、ヒラキというだけのマニュアルじゃ。もっと切瑳琢磨しないとね。

明生 『卒都婆小町』も神棚に上げておく曲目じゃないということがわかった。今回はいい機会でしたね。

能夫 やっぱりやらなくちゃダメだよ。能楽師として生を受けたからには。

明生 近づくように努力しますよ。可能性があるように思えてきたんですよ。父の勤めた『伯母捨』は可能性ないけれど、『卒都婆小町』は可能性が見えてきた。嬉しいな。

能夫 その意味では『卒都婆小町』というのは、老女物という妙な重々しいムードにもっていかないで、みんなが手がけるというものにしなければいけないと思うね。一つの戯曲でしょ。鋳型に入れ過ぎてる感じがする。

明生 『卒都婆小町』というのは、幽玄物ではなく、現在物だから、それなりの演者の工夫が必要とされる感じがしますし、第一、作風が面白いですよね。卒都婆問答といわれる宗教問答なども面白い。

能夫 面白い、すごく面白い。

明生 橋の会の時、皆1時間30分ぐらいで終わるんじゃないのと言っていましたが、宝生能楽堂ということもあってか実際は1時間55分かかりましたね。でも単に老女物という、終始しっとり静かに時間が流れていく2時間近くではなく、ごつごつしたものを私は感じました。そういうものが『卒都婆小町』ではないかと。

能夫 それはもう生きとし生けるものの携わる人間の躍動感みたいなもので・・・。

明生 『伯母捨』のように、もう時間を超越して、ある種の時間が過ぎていってしまうものもあるかと思うと、『卒都婆小町』のように芝居的要素を感じるものもある・・・。

能夫 老女物だからといって、ただ坦々とやればいいというものではないようだね。

明生 老女物、演じる年齢制限、老い、なんか消極的で、シルバーシートに堂々と座れるまではやってはいけないみたいな、いやなイメージが頭にはまだ残ってますが、神棚に上げて腐らせては観阿弥、世阿弥に申し訳ないでしょう。能夫さん早くやって下さいよ。

能夫 ああ楽しいなと思うよ。だから二回目も三回目もやらなければならないと思うね。

明生 腰曲げて、顎出して、よたよた歩いて老女物を勤めたと思うことが間違いだと確信できたからいい勉強になりました。かなりハートのエネルギッシュなところがないと、この小町さんは歯がたたない。強いですから。

能夫 強いね、小町は。強いというか、狂気になるし、乗り移るし、すごい世界ですよ。

明生 卒都婆問答後「むつかしの僧の教化や」のやり方もいろいろあるなって気がします。うちの父のように、ワキの高野山の僧を完全に馬鹿にして、あーあとつぶやくようにくたびれて立ち去るやり方もあるし、友枝さんのようにトンと杖をついて鼻っつら強そうにつんつんとした小町もありと。観る側の想像力も広くなくては。

能夫 ブツブツいろいろ言うけれど、何を言うか! あーうるさいねー! 大した僧でもないのに説教なんかたれて、っていう言い方もあるでしょう。どちらでも選択できる、そこがまたお能の面白いところでもあり役者のやり甲斐だと思うよ。

明生 そう、ちょっと苛立つか、それとも捨てるというか、もう相手にしない、関係ないととぼけてしまうか、いろいろ世界がありますね。

能夫 菊生叔父の演じ方も然り、昭世さんのも然りだよね。

明生 演ずるとき、例えばシテ小町が怒って腹をたてているという動きを、型として見せないで、謡の言葉での訴えだけで成立させるという考え方と、型の中に怒りを、鋭角に出す方法と考えられるのですが、どちらがいいですか。

能夫 それはその人の生き様もあるし、主義主張もあるしね。昔、後藤得三先生は問答でワキとワキツレがそれぞれ何か言うたびに、いちいちワキ、ワキツレと見ていたけれど、あれを観ていて何か小町が翻弄されているように見えたんだ。可笑しいでしょう、小町がやり込めなくてはいけないのに、反対にやり込められているようにみえるもの。相手に向かうときは必ずアシラウという決めごとに忠実な、そういうふうにやる時代があったんだね。でも昭世さんという人はいろいろ考えて、もうワキツレには体を向けないでしょ。そういうことでも、僕は近年、老女物は進化したなと感じているんだ。

明生 うちの父も、ワキにはアシライ、ワキツレには面遣いだけがいいと言ってますね。

能夫 昔は律義というかいちいちワキ、ツレと向いていたんだ。全部そうなんだよ。昭世さんもそういうのを見て、きっと嫌だなと思っていただろうし、僕も若造ながら、嫌だなと思っていたから。だから、今回の昭世さんのを見てそうだそうでしょうと思ったよ。昭世さんのあたりから、喜多流の近代能というか、進化していると感じるんだ。そういうことを僕はいいたい。

明生 進化している・・・。

能夫 以前の老女物は本当、マニュアル通りというか、ちっとも考えていないという感じだったよ。だからここらあたりで、ギアを変えないとね、それをしないといけないんじゃないかな。『卒都婆小町』とか大曲、稀な曲、秘曲をやるということは、それで足跡が残るし、みんなには衝撃波というか印象を与えるし、それは流儀にとって悪いことではないんだよ。自分でもやってみたいと思っている人はよく観るし、何かを感じるだろうしね。やらないとカビがはえてしまうものね。あまり手慣れ過ぎてもいけないけれど、獲得できる範囲で秘曲もやっていかないと、流儀の損失だと、僕は思うね。

明生 今回の『卒都婆小町』、そういう意味でもよいタイミングでしたね。

(平成15年1月 記)

能夫の『芭蕉』について語る投稿日:2018-06-07

能夫の『芭蕉』について語る

粟谷能夫
粟谷明生
笠井 賢一

明生 今年の春の粟谷能の会(平成15年3月2日)では、能夫さんが『芭蕉』、私が『鉄輪』を勤めました。今回は能夫さんの『芭蕉』について話し合ってみたいと思います。笠井さんが「能夫さんの『芭蕉』がよかった」といろいろなところで言いふらして下さっているという情報が入っているんですけれど・・・。(笑い)

笠井 ハハハ。言い散らしていますよ!
実際いいと思ったもの。よさは何だったのだろうか、能夫さんご自身がどう考えているか聞いてみたいと思ってきました。

能夫 いやーあ、もう・・・。

明生 この間、「橋の会」の後に、土屋恵一郎さんもおっしゃってました。

笠井 彼もいいと言い、僕もいいと言った。彼のいいと言うのと僕がいいと言うのとでは多少ズレがあるかもしれないけれど、僕はとてもいいと思った。お囃子や地謡は抜群だったとは言い難いけれど、そういうことを越えて能夫さんのシテ一人主義で成り立つんだなということを感じました。能夫さんが五十何年間かの生涯の中で、『芭蕉』という能に思いをかけて、こういう風に向かっているなということが伝わってきて、僕は本当に感動した。能を観るというのは、こういう体験なんだとつくづく思ったよ。能夫さんがどういう生き方をしてきたか、もちろん細かいことは知らないけれど、僕は少なくともここ二十年ぐらい割合見てきたからね。『定家』も観たし、『西行桜』も、いろいろなものを観たけれども、中でも『芭蕉』という曲が、あなたの資質に合い、かつうまい具合に作品として成り立ったなと思った。これは僕にとってすごく幸せな経験だった。能を観る喜びというのはこういうものだという気がするんだよ。ずっと観てきた役者が、一皮むけたとか、技術力がどうなったとかいうことではなく、作品に対する思いが、すごく豊かな形で表現されているということが実感できて、能を観る喜びを感じられた。

能夫 そうですか。

笠井 僕がこんなことを感じたのは久しぶりです。感動の度合いからいうと、あなたのあの『井筒』に匹敵するものだった。いやもっと・・・だった。『井筒』もいろいろアクシデントがありながら、あなたが思いをためてきて、その思いがすごく伝わってくるものだった。あれから十数年たって、今回の『芭蕉』はそれよりはもう一回りも、二回りも豊かになった気がする。いままでいろいろな人の『芭蕉』、銕之亟さんのとかを観てきたけれど、誰にも遜色のない『芭蕉』だったと思った。能夫という人が、こういう風な思いでやる『芭蕉』なんだということがよく伝わってきた。あの曲そのものが無理なく伝わってくる。中入り前の月を見るところなんかすごく豊かに感じられたし、中入りそのものもいいと思った。

能夫 それは仙幸さん(笛方・一噌仙幸氏)に助けて頂いて・・・。仙幸さんが寿夫さんと一緒に勤められたときの譜を吹くからと言ってくださった。少し早めに低い呂から吹き出すなんともいえない味わいのあるアシライ笛を吹いてくださったのです。

笠井 いろいろなことが総合的にうまくいったんでしょうね。それはあなたの思いみたいなものが、若い過剰な思いとはちょっと違って・・・。巧んでこうしようと思ってもできるものじゃない。そういう曲ではないからね、『芭蕉』は。

能夫 そう、巧んでできない。人生そのものをかけないとできない曲ですから。大変だったですよ・・・。

笠井 本当にそういう気がしたね。同輩として、能夫さんがそういうところで仕事をしていることに対して、嬉しいと同時に、刺激され、触発させられた。

能夫 僕の人生の中で、父の『芭蕉』もあったし、静夫さん(故観世銕乃亟さん)の披きで寿夫さんが地を謡っているのも観ているし、そういう、自分の中に『芭蕉』の系譜というか足跡というか、何かあるんだね。わからないなりにも『芭蕉』を観て、何かいいなみたいな、憧れといおうか、自分の中で何か性に合っているといおうか・・・。

笠井 性に合うというのはあるよね。その間『定家』とか『西行桜』とか、それぞれの思いでやってきたと思う。『朝長』なんかも別の意味で思いのある曲だったよね。それぞれに感動があったけれど、『芭蕉』はそれらともちょっと違うんだな。つまりあなたの資質みたいなものが、寿夫さんとの出会いもあり、喜多流のDNAを発見しつつ、そういう流れの中で曲にうまく出会ったという・・・ね。

能夫 まさにそうです。普通に歩んできたら何もなかった。その人の歴史がないと、『芭蕉』にも行き着かないのかな。『芭蕉』をやるには、シテの思いはもちろんだけれど、囃子方も、観る方のこともあるし、全てのものが揃わないといけないし。たまたま年を経たから『芭蕉』をやりますというやり方では『芭蕉』は成立しないようですね。

笠井 成立しないね。

明生 そういう人はだいたい『芭蕉』を選ばないでしょう。

能夫 選ばないよね。あんな面白くもないような、客受けもよくないような曲ね。でもそういう曲を選択できた自分というものを誉めてあげたいと思うんだ。

笠井 そうだね。

能夫 僕のように『芭蕉』に憧れるというのはそうないかもしれないけど。自分がやりたい!と思うこと、でもそれだけではなくて、いろいろな状況といおうか、自分の成長もあるし、いろいろな出会いというか、いろいろなことがないと、『芭蕉』という曲はできない。

笠井 菊生先生がこの間「阿吽」の巻頭に能夫さんの『芭蕉』を地謡として支えるということを書いておられたけれど、いい文章だった。とてもいいと思った。そういう能夫さんを支える人たちがいる、そういうものがなければできないね。

能夫 本当にありがたいよ。自分だけではできない!笛の仙幸さんはいろいろなことを考えながら『芭蕉』を吹いてくださっているよね。余り艶が出てはいけないので、自分なりにこうやってみるとおっしゃって、ある決まったパターンではやっていないね。曲を吹くということで、真摯に、身を削るような思いでやっている。それで、申し合わせのときに、この吹き方がいやだったら言ってね、なんて言うんだよ、嬉しいよね。僕なんかからすれば仙幸さんは大先輩ですよ。もう『芭蕉』だって段違いに多くやっているわけだから、僕はただ「お願いします」と身を委ねる立場なのに。それも仙幸さんとのおつき合いの歴史があるからなんだなとつくづく感じさせられました。やっぱり歴史がないとできない。

笠井 それにお客さんの集中もよかったしね。

能夫 そうね。あんなに長かったのに、「長く感じませんでした」と言ってくれる人が多かったのでホッとしているんです。

笠井 お客さん、観る方にも歴史が必要ということなんだよ。歴史を要求する芸能だね、能というのは。それほどでもないわかりやすい曲もあるけれど、ことに『芭蕉』はそう。

能夫 能というものを知らないと、『芭蕉』のよさも感じられない。そういうことはすごく感じましたね。やる人も観る人も、その人の歴史というか、そういうもので勝負するしかないということを感じましたよ。

明生 能夫さんは、『芭蕉』は自叙伝を書くようなつもりでやると言っていましたね。

笠井 そういうことだろうと思う。能というのは単純に開かれた芸能ではないということを思い知るね。あの『芭蕉』に立ち会える人というのは、能を、そして能夫さんの芸をある程度観てきてくれた人でないと・・・ということがある。僕の観劇体験からいって、他の演劇も含めていろいろ観てきたけれど、今回の『芭蕉』はやっぱり記憶に残る舞台だった。ああいう舞台を観て、能フリークになり追っかけるんだね。追いかけたくなる何かを、ある瞬間に役者は出してくれるときというのがある。能夫さんの『芭蕉』はまさにそういう舞台。

明生 土屋さんは、寿夫さんを感じたと言ってられた。

笠井 ある意味そういうものでしたよ。でも寿夫さんとも違った。寿夫さんほど硬質なものではなかった。もう少し柔らかい月の感じでしたよ。

能夫 土屋さんが、すごく女性を感じたと言って下さったんですが。

笠井 女性的なんだよ。かといって、先代の銕之亟さんのような色気ではない。寿夫さんのような硬質な美学でもない。能夫さんのは澄んでいて、且つ丸みのようなものも感じた。

能夫 僕、静夫さんのお披きのとき、寿夫さんが地頭だったけれど、それを観ているんです。静夫さんの『芭蕉』は非常に情緒的なんだよね。僕は当時、『芭蕉』といえば、もっと寒々とした、冷え冷えとした無機的なものだと思っていたから、あの情緒的な『芭蕉』は理解できなかった・・・。

笠井 寿夫イズムでいけば理解できないよ。

能夫 僕、当時は寿夫イズムにどっぷり漬かっていたから。情緒的な『芭蕉』はいやだなと思った。でも、あれは静夫さんという人の体質で、能というのは演じる人によって、すごく幅があるということを感じた。それも地頭は寿夫さんで、寿夫さんが謡っているんだよ。だけどそれで行けちゃうんだ。人間性というか、体質というか、思いとか、それらが対峙できる曲なんだね。

笠井 人間性が出るんだよ。寿夫さんはおそらく、抽象度の高い謡を謡っていたと思う。あの時代だから。

能夫 そう、そういう謡だった。地は冷ややか、シテは情緒的、こんな彩りが豊かでいいのかという舞台だったよ。お互いがそれぞれの人間性や体臭というものを出して、それがぶつかり合いながらいい味を出していた、そういう感じなんだ。

笠井 なるほどね、その人の体質というか人間性が出るわけだね。

明生 ところで、今回、能夫さんの一つの工夫として、小書「蕉鹿之語」(しょうろくのかたり)を入れましたね。「列子」周穆王篇(しゅうぼくおうへん)にある「芭蕉葉の夢(蕉鹿の夢)」の故事、つまり、狩人が鹿を射て、ひとに見つけられないようにと芭蕉の葉で隠したけれど、その場所を忘れてしまい、夢と諦めたという話ですが、それをアイ語りで入れるという・・・。

能夫 ある人の説では、もともと、ああいうアイの語りがあって『芭蕉』という曲ができたのではないかというんだ。あれがあることで後シテと響き合ってくるのであって、あれがないと「芭蕉葉の夢のうちに、男鹿の鳴く音は聞きながら・・・」と来たってわからないわけでしょ。「蕉鹿之 語」があるからこそ、よりわかりやすいはずなんだ。そういうことを発見し、自分がやるときに、替えアイを入れる小書に挑戦する、そういうことが喜びというかね。こういう喜びを次の世代の人たちにわかってもらいたいよね。

明生 ただ型通りやるのではなく、曲のありようを考えて、自分のものを創り出す喜びですね。
ところで笠井さんは、能夫さんの能は素晴らしかったけれど、あの時の地謡は必ずしもよいとはいえないと最初におっしゃっいましたが、そこのあたりをもう少しくわしく聞かせてくださいませんか。『芭蕉』のときの地謡は父が地頭で、友枝さんがいらして・・・と、今の喜多流では、ある程度最強メンバーを揃えたと思いますが。三月に「橋の会」で友枝さんが『隅田川』を連続して(中一日あけて二日)勤められたときも父が地頭でしたが。それらに駄目が出てしまうと、私としては今後どうしたらいいのか。一体どこをどうしたらいいのか、それがわからなく私としては次に進めない気がして・・・。『芭蕉』という曲が難しいからということなのか、それとも・・・。

笠井 僕は『隅田川』の二日間も観たし、『芭蕉』も観せてもらった。菊生先生の地謡、特に『隅田川』は頂点だろうと思う。いいと思いました。非常に力強いものを感じたし、菊生先生が考えている『隅田川』の感情の起伏はこうなんだというのをすごく感じた。だから課題は菊生先生のじゃない。菊生先生のは文句なしにいい地謡だった。ただそれがシテの友枝さんの方法論に添っているかといったら、ちょっと違うかもしれない。能夫さんのシテともちょっと違うというところはある。そこがすごく難しい問題で、一番の課題だろうね。その後の世代が引き受けていかないといけない課題だと思う。
でも明生さん、貴方の親父さんの『隅田川』の地謡は文句なしに感動させるものだったし、ああいう地謡があっていいと思う。

能夫 ああいう謡い方は、他の流儀にはちょっとないよね。

明生 「橋の会」が終わった後の宴席で、「あんなに大きい声でガンガン謡ったら、また評論家に何か言われるでしょうね」と言ったら、宝生閑さんが「今日の菊ちゃんの謡は、昔の宝生みたいだった」って・・・。

笠井 昔の宝生みたいというのは知らないけれど、ある表現をしようと思ったら、ああなるんだろうね。

能夫 誠心誠意、謡うとそうなりますよ。

明生 ある程度、音はエネルギッシュに出ていないと駄目でしょ。

笠井 それはそう。だけど曲によっては、引き方というか、体の中を通してのエネルギーと、外に出るエネルギーとがあると思う。

能夫 そこが難しいんだよ。

笠井 『隅田川』は号泣したっていいんだよ。ところが『定家』はそうはいかない。「哀知れ」と謡ったときに、身を砕く哀れさを表現するには、いくら大声を出しても伝わらないわけで、内向する力が必要なんだ。寿夫さんにはそういう身を砕くような表現があったと思う。

能夫 ありました。

笠井 それが銕仙会がよく言う引く謡ということなんだ。

明生 『芭蕉』ではどうなんでしょう。

笠井 『芭蕉』は難しいね。『隅田川』の謡のようにはいかない。『定家』とも『西行桜』とも違う。引いた謡が必要だけれど、『芭蕉』は少し暖かくてもいい・・・。

能夫 それはそう思うよ。

笠井 だから、地謡が必ずしもいいとは思わなかったということなんですが・・・、シテを邪魔するほどではなくて、全体としてそれほど気にはならなかったということ。菊生先生が『芭蕉』を謡っているというのはよくわかるけど、ただ、周りが気を合わせていないというか、共有していないという気がした。あの『隅田川』は、みんなで共有している・・・。

明生 共有している・・・それは親類、親子でもあるし、手慣れた曲ということもあるのではないかなー。

能夫 わかる範囲だから。

笠井 『隅田川』は共有できている。だけど『芭蕉』はちょっとバラついたという感じ。それでも、菊生先生の重鎮らしい何かが伝わってきたし、シテを支えていたとは思う。

能夫 菊生叔父はやっぱりスケールの大きさというか、そういうもので支えてくれたと思う。みんなが共有するには、ある価値観というか、共有する思いみたいなものがないといけないんじゃないかな。僕だったら、たとえば寿夫イズムといってもいい、そういう思いがあるけれど、何かみんなが一つになる魂みたいなものを集結しないとむずかしいかもしれないな。『芭蕉』はそういう面でも難しい曲ですよ。

明生 思い、というか自分で何かを持っていないと何もできないと、能夫さんが私に話してくれましたよね。

能夫 『芭蕉』という曲は、伝承とかいうものではなくて、やはり、役者の心とか生きざまとかというものでなければできないのではないかな。型を伝えたからといってできるものではないから。もう伝えようがないよ。

笠井 伝えられない、その余白が能の豊かさですよ。

能夫 豊かさですね。

笠井 型とか技というよりは、心、生涯なんだ。もっと言えば、失った時間の豊かさなんだ。豊かさを表現できるのはどう逆立ちしたって若いうちにはできないよ。僕と能夫さんは五十四歳だけれども、それでも二十代、三十代の人たちとは違う。体がきかなくなった分、どれだけの歯がゆさを自分の心の内に持つか。六十、七十、八十になったらもっとそう、失ったものに対して、ある、いい受け容れ方をしたときに輝くんだと思う。年齢を重ねるというのは、私はまだまだできる、あいつらには負けないと言っているうちは駄目で、自分はこう生きてきて、これがやりたくて、ここに来たよということが大事なんだ。そう思えるようになったとき、すごく豊かなものが見えてくる。能夫さんの『芭蕉』にはそういうものを感じました。能夫さんの心の内にある、思いのたけの伝え方がとてもいい感じだった。生涯に記念すべき一曲を創ったと思うよ。

能夫 ある程度、何というのかな、ここはちゃんとクリアしないと先はないという意識がありましたね。思いのたけがあって、たどり着いたという感じ。上から棚ぼた式に落ちてくるのではなくて、自分からこうしたい、こう上って行くというか、そういうことを感じましたね。父の『芭蕉』があって、静夫さんのシテや寿夫さんの地頭を観たり、そういう出会い、めぐり合いでたどり着いたというか、そういうことがすごく嬉しく思いますよ。でもようやくたどり着いたという感じ。早くはないだろうな。観世流でいえば、志を持った人間なら、『芭蕉』が五十三、四歳じゃ・・・。

笠井 遅くないよ。早い方ですよ。

能夫 早いも遅いもないか。最近はほとんどやらないからね。

明生 友枝昭世さんが演られてますが、他はうちの父も演じていないから・・・。

能夫 『芭蕉』という曲を素敵と思わないのかな・・・。でも、そんな風に言い出したのは寿夫さんなんだよ。昔もほとんど『芭蕉』はやられていなかったから。でもまあ幸せですよ。ある年齢で『芭蕉』にたどり着いたというか、憧れていたものが実現できたわけですからね。自分の力もあるだろうが、みんなの力があって・・・ね。

明生 今日は能夫さんの憧れの曲『芭蕉』について、思いきり語れて良かったです。
これは粟谷能の会ホームページのロンギの部屋に記載したいのですが、本当はすぐにでも記載したいのですが、能夫さんから阿吽が出来てからにしてとのことで、しばらくは公開されませんが、よい対談になったと思うので公開が待ち遠しいと思います。ありがとうございました。

(平成15年4月割烹千倉にて)

写真「芭蕉」 撮影 石田 裕  粟谷能の会

春の粟谷能の会を終えて(平成16年)投稿日:2018-06-07

春の粟谷能の会を終えて(平成16年)

粟谷 能夫

粟谷 明生

笠井 賢一

明生 平成16年春の粟谷能の会は、初番が父の『月宮殿』、真ん中が能夫さんの『当麻』、そして最後が私の『鵺』でした。能夫さんの『当麻』は2時間25分、喜多流では最長記録になりました。

笠井 『当麻』はね、能夫さんの思いはちゃんと伝わってくるんですが、あの早舞はやっぱり、あの位の取り方は、僕はちょっと疑問に感じるな。

能夫 ちょっと重過ぎたでしょ。

笠井 重いね。

能夫 段ごとにもう少しノッテくればいいんでしょうが。

笠井 あの感じでは昇天していけないよ。前があれだけたっぷり演じたのだから、後の化身になったときには、もう少しスピードを運んで、白蓮を抱いて昇天してほしいと思うんですがね。

能夫 昇天もあるし、西方浄土の豊かさもある。甘さというか、すばらしさの表現もあるし。静夫(故観世銕之亟)さんも仰っていらしたけれど、あそこは機を織る心だと。こちらとしても、しっかり舞いたいという気持ちがあるからどうしてもしっかりと重くなってしまう。申合のときはもっとすごくて、がんじがらめになったようでしたね。

笠井 銕仙会では寿夫さんも含めて、『当麻』は割とよく演じていて、地謡も含めて大事にしている曲ですが、それでもあれほど重くれていないというか。

能夫 そうですよね。

笠井 緩急がなかったように思えるのですよ。クセは、銕仙会では脇能の域で謡うというようなこともあるけれど。

能夫 判りますよ。喜多流ではロンギが強吟なんで、途中から和吟(弱吟)になりますが、観世流のように最初から和吟だと世界が変わりやすいと思うのですが、

笠井 観世流のクセからロンギにかけてはうまく変わるけれど。でも喜多流ならば喜多流らしく、そこはシテがねじ伏せてでも世界を作っていかないとね。

能夫 それは、そうかもしれないですが現実はね。みんな百戦錬磨なのに僕だけが披きという状況ですから。結構きびしいですよ。

笠井 それはしょうがないけれど、次からは違うようにしなくてはね。

能夫 見ている方はどうかわからないけれど、勤めている方は楽しくてしょうがない曲ですよ。(笑い)こんなに楽しいと思わなかったもの。ただ座っているだけのように見えるでしょうけれど。

笠井 それはあなたの成熟だよ。あれが楽しいとはなかなか思わないよ。

能夫 辛気くさいし、賛美歌だし、宗教法人みたいな曲だと言われるけれど、そんなことないですよ。個が、役者冥利というか、能夫という個があるから表現できると思うし、粟谷能夫という役者の『当麻』を勤める、見るというところに意味があるのではないでしょうか。

笠井 それは、そう。でも次は・・・。

能夫 もうやらないよ(笑い)。あの装束つけての前場は相当疲れます。

すごく体力がいるんですよ。本当にバテちゃうんだなー。翌日ふくらはぎがけいれんを起こしてね、あんなの初めて。

明生 我々、年々筋力が衰えてきますからね。

笠井 前場が大変でした?

能夫 前場の床几ですね。あの姿勢が楽じゃない辛いですよ。クセの謡が自分の体の中を循環する意識で座っているわけですから。

明生 着流しの格好での床几は、他にはあまりないですからね。

笠井 ごまかしがきかないものね。

能夫 そう、ごまかしがきかない。ある人が、寿夫さんの前シテ、後シテの写真を見たら、あれ以上のものはない、あれで極まっているんだから、誰がどうやっても、もうダメと言うんですよ(笑い)。コンチクショウと思うけど、でもそれはそうかもしれませんね。後シテのたたずまいといい、完全、完璧にでき上がっている。写真だから音は聞こえてこないけれど。朝、家を出るときに、「こういう風になるんだゾ!」と言い聞かせて出てきたんですが(笑い)。

明生 イメージをすり込んだわけ。

能夫 前シテは「西吹く秋の風ならん」、よしこれだ! と。装束もこういう風にしてとイメージしたのですが、ダメですよね、どう頑張ってもダメなんですよ・・・。寿夫さんにはなれない。

笠井 まあ、そうおっしゃらずに、自分たちの流儀の中での作り方があるし、それを次の世代に繋げないとね。

能夫 そうしないといけないと思いますが。でも僕はあの写真で、もうイメージが全て、能を見なくても伝わってくるな。あれはすごい写真ですね。

笠井 すごいね。あれが寿夫さんのピークだったんだろうな。

明生 それは、寿夫さんがいくつぐらいだったの。

笠井 40代でしょ。

明生 40代でそういうことができるんだからすごいね。

笠井 だけどね、それは作品として負荷のかけ方だと思うよ。たとえば『定家』なら喜多流という流儀としての蓄積がある。だけど『当麻』には残念ながらそれがない。だからあなたの思いが空回りしてしまうんだ。『定家』の方があなたの思いと喜多流としての作品の作り方と重なり合う部分がある。喜多流の作品であって、しかも粟谷能夫が演っているという充実度が感じられる。ところが『当麻』は能夫さんの思いは伝わってくるが、それがちょっと空転しているというか、支える側との交流感がないように感じたんだ。

能夫 それはそうですね。

笠井 共有するものがあって、ここをこうしたいという主張じゃなかったよね。だから厚みが出ないんだ。

能夫 そう、流儀としての積み上げだね。

笠井 『鵺』にも言えるよ。明生さんはどういう計画をもっていらしたのかな?あの後の面はどうしたの?

明生 ちょっと遊び心なのですが。

笠井 遊びですか。鵺というものが単なる化け物では駄目だと思う。『鵺』というのは、頼政と鵺が重なっていないとね。先代の銕之亟さんも言っていたように頼政自身が鵺的な生き方をするわけですよ。平家全盛のときには従三位まで昇進して・・・。

能夫 源氏に行ったり平家に行ったり、コウモリだよね。

笠井 そして、70歳を越えて反乱を起こして、変な人なんですよ。頼政の中に鵺的なものがあると考えたときに、ただの化け物になっては表現にならない。

明生 面の善し悪しは、個人の見方により様々だと思うのですが…。ただ、笠井さんが今おっしゃったことは十分承知して演じたつもりでして…。それが私の面の選択と笠井さんのイメージとうまくマッチしないのかもしれませんが…、でも…何にせよ伝わらなければいけないのでしょうから…再考の余地はあると思います、仰る通りですから…。私は鵺自体が単に化生の物体とは思いません、土着の神というか、虐げられた反体制側の叫びだと思うのです。現銕之丞さんから聞いた話ですが、先代銕之亟先生は中入前の、振り返りながらグアーッと棹を身体に引きつけ、そして最後に捨てる…、あの喜多流の型がやりたくて、やりたくて、「自分にはできないけれど、喜多さんのあの型はやりたいなあ」とおっしゃっていたらしいのです。それもこのことに通じると思いますが、あの叫びは普通の動物とか単に化け物の叫びではない、中央政権から口をふさがれ、どんどん外に出されていった人間の叫びだと思うのです。最後には空舟に入れられ流されて、自分ではもう止めることができないという、そういういやおうなしに流されていく者を演じたいと思って演じたつもりですが・・・。そのとき面の選択肢として、大飛出、小飛出というのもあったのですが、私はもっと鈍重で野暮な形相というか、古代面のイメージのようなものはないかな…と探したわけです、すこし遊んだわけでして、すいませんお気に召さなくて……。

笠井 あれの彩色を変えればもうちょっとは・・・。

能夫 緑の色がねえ…。

明生 選択ミスと言われますが、私の気持ちはそうなんです、キリリとしたものじゃないという・・・。大飛出ではスケールが大き過ぎて綺麗にまとまりすぎ、小飛出では従来の化け物感覚から離れられない…。

笠井 なるほどね。あなたの課題は、内面的な負荷のかけ方が謡にしても運びにしても弱いように思えたな。特に前シテは、あの格好をしているわけだから、負荷のかけ方が勝負みたいなものでしょ。もっと陰影のある謡があって、負荷のかけ方があっていいと思うよ。つまり思いきりアクセル踏んでブレーキを踏んで、そこまでしかいけないという抵抗感。虐げられているというのもいいんだけれど、鬱屈というか屈折の強さみたいなものが劇場の舞台全部を包み込むような世界にならないと。それが、そこそこなんですよ。出てはいるけど、もっとすごいものがあっていいと思うな。

明生 はい、そうですね。最初の「悲しきかなや身は籠鳥」というところ、自分でちょっとそんなものを意識して謡ったら、反作用だったのか、父にすごく怒られましてね……。

笠井 どういう風に?

明生 「もっと大きい声で謡え! 作るな! 意識するな!」とね。自分では声を絞り込んで、内圧を強くと意識したつもりなんですが…、まあ、そこがしっかり、きちっとと出来ていなかったからだと思うのですが…、「そんな風に謡うんじゃない!」と、お灸を据えられました。「あんなんじゃ、お前の声は聞こえないじゃないか!」ってね。

笠井 そういう、親の世代のダメの出し方は当然あるわけですよ。

明生 その声が出ている声なのか、圧力がかかっている声なのか、それとも開放されっぱなしの声なのか。自分では判らないんですよ。どのようにしたら正解なのか……。例えば、すごく広い劇場での公演だと、この広さなら、どのくらいの声量でやらなければいけないか…と考えてしまう。その程度、度合いというか、その辺が難しいなあ、と正直まだ悩んでいるんですよ。ただバカ声を張り上げてもダメですしね・・・。

笠井 内的な圧力のかけ方が体の中にちゃんとイメージされていて、結果的に声が届いているというのが、自分でわかるようにならないとね。

能夫 それにしても、『鵺』というのは面白い曲だよね。キリ能でありながらスケールもあるし、大変な曲だと思いますね。

笠井 それはそう、大変な曲。役者がわかるもの。

明生 世阿弥が『井筒』を作ったあと、つまり晩年の作ということですが。構成も『井筒』と似ていますね。

能夫 いやあ、面白い曲だよ。組立がしっかりしているからね。

明生 先代銕之亟先生が「さて火をともし、よく見ればと言って覗いてみると、何だ俺じゃないか!」ということだ、と仰っていたらしいですが…。今回『鵺』を勤めて、頼政になったり、鵺になったりしているうちに、そこにもう一人、演者というものがいるという、トライアングルのようなものを感じたんですよ。以前はここからは頼政やります、ここからは鵺の気持ち、みたいにして区切りをつけ演じていたわけですよ。また、そのように教わってもきたわけですから。確かにそのようにやっているのはそうなんですが、いやちょっと違うなあ…、そこに演者粟谷明生という自分がいるじゃないか!そんな気がしたんですよ。変なこと言ってすいませんが……。

笠井 そのトライアングルが、単に整合性のある三角形ではなくて、ゆがんでいるというか、それをぎゅっと自分のところに引き寄せる力がないとね。

能夫 それが必要なんだろうね。

笠井 この間の菊生先生の『月宮殿』、舞になってからは一味違うなと思いましたよ。

明生 前々日あたりから、左足が、うまく出なくて辛い、痛いんだ・・・、身体が言うこと聞かないと悔やんでいたんですが、一応無事に勤められて皆、ほっとしています。父はもう来年から能を舞わないと言っています。

笠井 でも、楽(がく)は楽しそうに舞われているように見えましたよ。

能夫 現場はみんな心配しているんですよ、特に明生君はね…

笠井 あなた方はそう思うかもしれないけれど、僕は、あの楽を見ていると、やっぱりこの人のスケールというものはこういうものだなと、 そういうものが伝わってきましたからね 。

能夫 ある風があって、ちゃんとできるということは大事で、すばらしい事ですよね。

笠井 誰が見ても、そういう風を感じるよ。そういうものを獲得した人というのは、やっぱり違うなと思いますよ。今年で最後ということ?

能夫 16年10月の粟谷能の会『景清』を勤めて…。

明生 『景清』が最後になりますね。

能夫 まあ、その後どうなるかはわかりませんけれど。

明生 粟谷能の会の曲目を決める時に能夫さんが「菊おじちゃん、再来年は何を舞いますか?」って聞いたら、「それはもう無理だろう。いいよ、それより、お前達の地謡を謡ってあげないといけないからなあ…」という返事でした。

能夫 年が重なれば仕方がないことだけれど・・・。

笠井 そうね。

明生 次の世代の我々が頑張らねばいけないということですね。

笠井 そういうことだよ。お二人には頑張ってもらわないとね。

能夫 父と菊生叔父が、粟谷能の会を育ててくれてね。次はお前たちがちゃんとやる番だよと、そういう風にもってきてくれたわけですから。うまくつながっているという気はしますね。

笠井 いやあ、全くそうですよ。来年の粟谷能の会は?

能夫 父の七回忌の追善となりますので、春は僕が『卒都婆小町』で明生君が『小鍛冶「白頭」』、秋は僕が『実盛』で明生君が『松風』の予定です。また12月には久しぶりに粟谷能の会研究公演を復活させ、改めて地謡の勉強をしようかなと思い『木賊』を、シテは友枝昭世さんにお願いしまして、私と明生君で謡ってみたいと思って計画しています。

笠井 大曲が控えていますね。頑張ってください。期待しています。

(平成16年3月)

『半蔀』「立花供養」を語る3投稿日:2018-06-07

横浜能楽堂特別公演 『半蔀』「立花供養」を語る

(10)習うことと個性を出すこと

川瀬 自分を見つめるということですよね。見つめ果てるというのは、どんなときでもそういう作業はあると思うんですよ。だけど多分、舞台というのはある種、馬鹿にならないとできない部分がある。馬鹿になるというのは変な言い方ですが。

粟谷 抜けるというか。抜けないとね。

川瀬 煮詰め果てたものが果たしていいものかどうかというと、難しいものですよね。白洲正子さんが言われているように、ただこのじいさん型通り舞っているわと。型通りに見事に舞う方がピタッとする場合もあるだろうし。本当に人それぞれの年代と、あるものによって、煮詰めたことが力を得る場合もあるし、全くそれらを忘れ果てることによって力を得ていくこともあるし。

笠井 それはね。

川瀬 本当にいろいろだと思うんです。

笠井 見ている方のこともある。まさに一座建立、見所同心になれるのは、それはすごく難しいことだからね。

川瀬 花とお能で見ると、花は習い続けることも恐いことなんですね。お能というのはある意味では習いきらなければいけないでしょうが、花というのは習いきってしまうと、習いきったためにあることができなくなってしまうということが多いのです。何か型通りに生けているんだけど、伸びていかないというところが圧倒的に多いのです。

笠井 能だって同じですよ。

川瀬 お能は強固な建造物がある分だけ、その中に密度を持ちながら、習った分だけ熟成していくというところがある。花なんかはそういう意味で言うと難しいところがあるんですね。今、立花をさせていただいていますが、これは本来池坊しかないものです。今は小原さんも草月さんもやっていらっしゃいますが、本来、立花は池坊以外にはお願いすることはなかったのです。

笠井 僕らもそう聞いていますよ。お能ではそうだって。

川瀬 他の流儀ではもともと立花というものがありませんから、正式にはできるわけがないんです。たまたま私などが立花をやっていますと、個人でやっているように見えるのですが、池坊という流儀で小さいときから習ってきたからできるんですよ。他の流儀でそういう土台がないところで、今、立花のようなものが立てられている。フラワーアレンジメントみたいで、立花とは程遠いものが多いです。

(11)時代の空気

川瀬 立花も時代によってずいぶん違ってきています。さっき見せていただいた伝書にあるように、昔はたくさんの花をたてた立花でないと満足しなかったのでしょう。粟谷さんは「立花供養」は全くおやりになったことはなかったのですか。

粟谷 はい、ないです。今回が初めてで、たぶん父も勤めていないと…思います。

中村 喜多流でもそんなにやっていないでしょう。

粟谷 追善能のように、それなりに予算が組めるとき、余裕があるときならですね。ですから非常に少なくなってきたんじゃないですか。もっとも天こ盛り立花ですが…。だからこの間の橋の会の友枝さんの立花供養は画期的に感じました。あの時の観世さんの若い人は六郎さんと友枝さんのと両方のお花と舞台を見ているわけですから羨ましいなあ。若い能楽師たちには衝撃が走ったことは確かですよ、皆お花の話をしていました。

川瀬 それは時代の空気というものですよね。

粟谷 川瀬さんのお花を見た人は、もしかすると立花はこういうものだ。昔のゴテゴテしたものは考えられないとなるでしょうね。

川瀬 時代の風潮ですね。

粟谷 実際お坊さんたちがやっていた立花というのは、90日間(一夏)の修行のときにお花をお供えする、立花供養はそのお花を切ってごめんねということで、供養するものですね。私はお寺の人たちがどんな風にやっていたのか。現場はどうだったのか知りたいですね。

川瀬 現実的にはそんなに仰々しいものではないでしょうね。

だけど時代というのは変わっていくのだと思うんです。たとえば玉三郎の女形は昔の女形とは違うわけです。昔の女形はもっと男っぽかったじゃないですか。今は映像にたえられるように、見た目も美しく。要するに舞台を見る人の群像が変わってしまっているので、いくら昔はこうだと言われても、今の人にはちょっとね・・・。

粟谷 カメラのズームアップがいけないのですよ。(笑い) 玉三郎さんの場合はまだズームアップしても大丈夫!

中村 それから以降はそれが基準になっていますからね。

川瀬 そのように時代が変わっているということが大きいですね。

(12)流儀より個人の時代

脇正面より

粟谷 時代の流れで立花もいろいろと変化しているわけで、川瀬さんの立花を見て、「これは池坊」という語り口調が段々と似合わなくなってきていると思うのです、そういうアバウトな世界で考えるのではなく。例えば、観世流の能を見たではなくて、観世流の誰々さんの能を見た、何流の花ではなくて、誰々さんの花を見たと、そう解釈しないといけないなあーと…、立花を見てそう思いましたね。

川瀬 それはあるでしょうね。

粟谷 一方はトルコ桔梗でやっている、一方は川瀬さんの秋草のあのお花、立花を見て…とお話をするとき、何を見たかで全然話が合わない状況がありえるなあと・・・。

川瀬 全然違いますよね。

中村 お能の流儀でいえば、今、菊生先生だったり、友枝先生だったり、それが今の喜多流ということになるわけです。その前の世代はその前の世代で・・・。

粟谷 だから友枝さんの能を見たとか、個人名で言わないといけないんじゃないかな。こんな小さな流儀でも人により全然違いますから。

川瀬 それはそうですね。基本的にはいろいろな人たちが出てくる素地があるということですよね。流儀という骨格があって、それにどのように肉付けしていくかは、多分、それがその人の独自なものになっていくわけです。花なんかも骨は学ばなければならないのですが、さっきも言いましたが、肉まで学んでしまうというのが恐い。習っていると肉を骨と思ってしまう。

粟谷 あります、あります、そう誤解してしまうの…って。

川瀬 そうなるとにっちもさっちもいかない。習いすぎるというのはね。

粟谷 そうですね。いいお話ですね。

川瀬 ある程度の骨組みというか、骨格があるというのはすごく大切なんですよ。立花という骨組みがあるから、どんなに自由にやっても立花なんですけれど、骨組みだけは立花じゃないと困るんですね。

中村 古典芸能のいいところは、その骨組みをきちっと守るというか。狂言で山本さんのところなんかその典型ですよ。だから若い人もそれで育つ。骨ができる。それからどうやって肉付けするか。先ほど笠井さんがおっしゃったのは、多分、則重さんはその肉を付ける可能性があるということだろうと思う。骨は骨で突き詰めるのはいいことだけれど、肉の部分を付けられるというのが、その人の個性ではないか。だけど骨も何もなければ軟体動物になってしまいますからね。古典芸能ではなくなってしまいます。

粟谷 骨も作って、それから肉もですね。

(13)立花とシテの対話

粟谷 先程も少し話しましたが、今回、川瀬さんがお花を持って出られまして、見所にいる人はみんな待っていますから、ああ、あんなに高い草花を持って出るのは大変ではないかなどと思って見ている、すると川瀬さんがスーときれいに持って出られて正先に行き、座って置き少し直したりする。あの辺から、お客様の目のピントはピーッと、そこに集まっているのです。すべての目のピントが。そこを今度はシテに合わせてほしいなあと私の立場として思うのです。でも、それがなかなかむずかしくて・・・。能としての夕顔の精みたいなものの表現に集中するべきなのか、逆に私自身の個としての能楽師を見てもらえればいいのか、どうすればいいのか悩みます。川瀬さんがおっしゃっていた縦糸と横糸を織り成していくようなものだなってことを感じますね。徹底的に感じさせられるのですよ。

川瀬 普通だったら立花がないところで序之舞をされるわけでしょ。でも舞と交差する何かがあってもいいのかもしれませんね。

粟谷 そうですね、今日は舞い易かったです。あまり大ぶりではなかったから、絶対にお花にはかからないなと…。大きいと袖がお花に触れたりして、それは嫌だなと。それがすごく注意して舞いました。

川瀬 基本的には後場では花を出しませんからね。

粟谷 あとは拍子の踏み方ですね。踏むことで花器が動くといけないとこれも注意しました。

川瀬 桔梗が揺れていましたけど、問題なかったです、よかったですよ。

粟谷 最初踏みましたら、ふわ?と揺れたのが見えたから、アーーッ、とね。外見、夕顔の精はきれいそうで、実は、内部ではアーーッ、次はこれくらいかーあ、なんですよ。(笑い)

川瀬 でも、夕顔の花はよかったですね。振動でずっと揺れていたの悪くなかったですよ。

粟谷 そうですか。

川瀬 こちら側から見ているときは、思わず臨場感があって悪くなかった。ハラハラしながら見る舞台というのも緊張感があって悪いことではない気がしますね。西本願寺で親鸞聖人の降誕祭でやったときですが、光が風とともにふわっと来たり、張り巡らされている幔幕が風で揺れたり、装束も風をはらんでしまうし、光は乱舞するしで、全く異次元の、自然と一体化したような思いがけない光景になってしまう。それはそれで悪くないですね。

中村 それではさっきの立花の観念が違ってしまう。

川瀬 だけど外だったら、今日のようなお花は恐いですね。(笑い) 草ものは恐いです。やるなら松とかああいうものでないと駄目かもしれない。

中村 外で立花供養をしたら大変ですね。

粟谷 屋外での能というのは、これまた特別でね、特別の配慮をしなくてはいけないんです、例えば後見の作業が全く無意味になることがありますね。シテの袴の裾を直したり、クツロギで袖を直したりしても、すぐ風がビューっと吹けば意味がない。そういうのは厳島神社の御神能で毎年経験しているから言えるのですが…。でも太陽の光が装束に当たったときの荘厳さというか、光輝いたときの美しさといったら、太陽の光がいろいろに屈折して、口では言い表せないほどきれいなのですよ。茂山千五郎さんが「不思議やなあ、古い汚れた装束なのに・・・」っておっしゃていましたよ。そういう自然の綺麗さとか力みたいなものと、今日の立花の素晴らしさを比べてはいけませんが。大自然の凄さとは別に、あのお花のすごさ、エネルギーにすごく感激しました。それからね、これは自分の勝手な意見なのですが、舞っていて本来はワキの僧と対話しているわけで、ワキとシテの結ぶ隠れたラインみたいなものを大事にして演じるのですが、あの立花があることによって、もう少し別の感覚、つまりお花とワキと自分がいる感覚を感じました。花は単なるオブジェではなくて、エネルギーを発し、それが演者の世界とミックスしているような…そういう感覚に嵌まったというかなー。

川瀬 ススキの雰囲気がとてもよく出ていたと思いますよ。ススキが原の中で舞っている、非常にきれいだなと思いながら拝見していました。今の季節が一番曲趣にふさわしい時期ですからね。『半蔀』だったら秋の方がいいなと思っていました。

粟谷 いい時期にやらせていただいて。川瀬さん本当にありがとうございました。

川瀬 こちらこそ、本当にありがとうございました。

粟谷 若輩ものにお付き合いいただいて。

川瀬 いえ、とんでもありません。

粟谷 私は時分の花で、川瀬さんは真の花ですよ。

川瀬 とんでもないですよ。

粟谷 今回、こういうチャンスをいただいて本当に喜んでいるんです。

中村 それでは、このコンビで15年後にもう一度やりましょう。

粟谷 15年後? 生きているか分からないよ。もうちょっと早くしようよ。(笑い)

中村 早くては熟成しないではないですか。だからしっかり熟成させて。その年は私の定年退職の年なんですよ。それを記念して。すぐ来ますよ。

川瀬 そのときなら、私はどちらかというと小さい花でやりたいのですけどね。お客様が「立花供養」というご馳走を期待するとき、あまり小さいのではご馳走という感じがしないかもしれませんが、何回も食べていただいた後なら、小さいのでもそのよさを分かっていただけるのではないでしょうか。

粟谷 じゃもっと私、勉強して、熟成させて。

川瀬 私ももう少し・・・、真の花のときにご一緒させていただきますよ。

中村 私も生きていたら、15年後、お二人にお願いに参ります。

川瀬・粟谷 生きていたらね。

中村 遠大な計画ですね。(笑い)

(於・華勝楼、平成16年9月記)

『半蔀』「立花供養」を語る2投稿日:2018-06-07

横浜能楽堂特別公演 『半蔀』「立花供養」を語る

(6)「立花」の技

橋の会の立花

粟谷 橋の会では蓮の花がピーンと立っていましたが、今度はススキですね。どうしてああいう風にすーっと立っていられるのか不思議ですね。

川瀬 今回のものの方が大変ですよ。ススキがどうしてあのようになっているのか、よく質問を受けるんです。ああいうものは舞台に出すと、あの暑さとライトで一気にほうけてしまいます。あれにはいろいろな策が立てられていて、だから大丈夫なんです。

笠井 薬物的なこともあるの。

川瀬 薬物を入れないと駄目です。

粟谷 うわあー、ドーピングですね。(笑い)

川瀬 昔から卵の白身を溶いたものなんかを使うんですよ。あれはあれで至難の業なんですね。それをススキの穂に塗りつけるのです。でも卵の白身が重たいのでタランとたれてきたりして大変なんです。今は薬物的なものがあるのですが、やることは一緒です。一つ一つこよりを巻くようにまわしながら付けていき、咲かないように咲かないように、穂を封じ込めていく感じです。

中村・粟谷 大変なことですね。

川瀬 こんなに熱いとどうしても葉っぱが巻いてしまうんですよ。要するに直線になってしまうのです。

笠井 まず直線になって、そしてしなって落ちるんですよね。

川瀬 舞台に置く時間だけでは落ちるところまではいかないのですが、直線になってしまいます。だからススキを使うのは至難の業なんです。

笠井 花というのは、そのときの時節感当(じせつかんとう)と世阿弥も言っているけれど、その時に出会ったもので勝負しなければいけないから大変だね。思ったようにはいかない。その時節にあるもので何ができるかという、すごい試練を与えるね。

川瀬 そうです。それと望んで集める力がないとできないんですね。どこで手を打つか。どこに頼みきるか。

笠井 それはすごく切実な問題だな。あなたは利休のことを言っていたけれど、利休は道具は集めたかもしれないけれど、花は集める力というよりは選ぶ力だったと思うけれど。今花材屋さんが全国のものを集めてくれるの?輸入ものも含めて…。

川瀬 普通の花材屋では揃わないです。今日のお花は全部、切り出し屋に特別に取りに行ってもらっている花材ですから。普通のルートから入ってくるものではないんです。

粟谷 特別のルート?

川瀬 山に入ってもらったりして揃えているものですから。それもここに持ってくるまでに90%処分しているのです。使っているのは10分の1。10分の1も使っていないかもしれませんね。

笠井 芸もそうですよ。10あるうち1が急所。

粟谷 そう。10曲やって1曲いいのがあるかなあ、くらいですよ。

中村 うちで公演やったときに毎回アンケートをとっているんですけど、毎回感想を書いてくださる方が、今回は素晴らしかったと。その方は、年間10何回、20回と、次は素晴らしいのがあるかと期待して見ているが、なかなかない。でも今年はこれ1本見ただけで、今まで10何本見てきた甲斐があったと書かれていました。

川瀬 それはありがたいですね。

中村 難行苦行で能を見続けてきて、今日のは本当に素晴らしかったと。そう思っていただいて、こちらとしてもうれしかったです。

笠井 実際、その通りです。難行苦行しないと、お能の本当の素晴らしさはわからないから。そういう水準で観てくださる人というのも、やっぱり数パーセントなんだな。よくぞ、難行苦行をしてくださった・・・。

川瀬 いつの時代もそんなものじゃないですか。

(7)作り物の「半蔀」について

川瀬 でも、今日見ていて、『半蔀』は喜多流の方が雰囲気がありますね。実がついているのもいいし、片折り戸の方がいいですね。

笠井 観世流も片折り戸みたいにするんですがね。片折り戸というのは片方に開くようにして、門構えみたいになっている。ああいう風に変えるのが通例です。

川瀬 あれぐらいじゃないと、うまくバランスがとれないと思ったのですけど、今日。

粟谷 あの藁屋、少し背が高すぎませんでしたか。

中村 見ている限りではそんなに。

川瀬 あの高さは変えようがないでしょ。

粟谷 いや、もう少し短いのもあるのでは?

中村 能楽堂の備品で違うかもしれませんね。喜多能楽堂だと違うかも。

粟谷 若い人たちがすでに作っていたので、あれが常寸かなと思ってしまったのですが。

川瀬 あれは横浜能楽堂のものなのですか。

中村 そうです。

笠井 ああいうものは能楽堂で持つものなんですよ。僕はあの葉っぱが気になったんだけれど、ちょっと光り過ぎる。テカテカしてちょっと邪魔になったな。

粟谷 葉は持ってきていたのですが、もうできていたから取り替えなかった。葉の色までは注意が行かなかったですね。作り物をどこに置こうかとか、どういう手順で進めるかばかり考えていて。

川瀬 六郎さんのときは、瓢箪はラメ入りのように見えましたが。

笠井 いろいろあるんですよ。金銀・・・。

粟谷 うちのは金色なんですが、金というのもねえ・・・。

笠井 作り物の飾りは一種の象徴みたいなものだから。リアリズムを超えてしまう。夕顔の実だって実際あんなに小さいわけではないでしょ。

川瀬 小さいのもありますよ。夕顔は花自体そんなに大きいものではありませんからね。六郎さんのときはラメ入りのようなので、すごく印象に残ったんです。

粟谷 金色の瓢箪なんですが、友枝さんに聞いたら、金の瓢箪とは聞いているけれど、僕は金色はやめたよと言われた。能夫さんは無くていいよと言います。詞章に「瓢箪しばしば空し」という言葉はあるけれど、実際引き回しをかけていると見えないし、想像すればいいんだからって、それで無しでしようと思っていたのです。でも当日横浜能楽堂の瓢箪を見たら、緑色のがたくさん付いているじゃないですか。だから大きいのを外して、小さいのだけ3つ4つ付けたやったのです。

川瀬 瓢箪がないというのはおかしいですね、やっぱりちょっと。

笠井 半蔀戸を開けたとき、ふっとぶら下がる感じの風情がいいんだけどね。金というのは不思議な気がする、好みとしては。

川瀬 先ほどの伝書には、花なんかも銀の花を入れると書いてありましたね。銀のかごもありましたっけ。

粟谷 けばけばしいんですよね。

川瀬 案外けばいものなんですね。

笠井 まあ、象徴となればそうなるんだ。リアリズムではないのだから。

粟谷 ゴージャスな感じが出ればよいというセンスかな…。

川瀬 昔は、今考えるほど金銀が、けばけばしいものではなかったかもしれませんね。荘厳されたような世界に見える、金銀というのはそういう意味だったかもしれない。今、池坊は普通の白竹の篭でやりますね。白竹の篭の花入れに松の真の立花が出ているのがとても不思議な感じがします。白竹の篭に松風の草を入れるならともかく、松がドーンと出るのはねえ。7、8年前ですか、京都天龍寺でおやりになったときがそうでした。金閣寺の落慶法要のときでした。

中村 あの『半蔀』の藁屋を橋掛りに置くというのは・・・。

粟谷 あれ、本来ではないんですよ。普通は常座です。

中村 いやでも、今日見ていて、あれの方が僕はすごくよかった。

粟谷 川瀬さんのお花があった場合に、そのすぐ近くに藁屋があって、造花があってというのでは、それはもうおかしいでしょ。

中村 友枝先生のときもそうでしたね。

粟谷 立花があるときには、橋掛りの方に行きますね。本来は中入り後に立花を引いてしまうから。

中村 正面から見ていて、今回、立花と藁屋の関係がすごくいいように見えました。

(8)装束と立花瓶

笠井 ところで、後シテの装束、長絹は新しいの。

粟谷 古くはない…、新しいかな・・・。

笠井 だからかな。被くときに・・・。

粟谷 よいしょ!と見えてしまったかな…。

笠井 やっぱりそれは悲しいよ。『半蔀』はもっと儚くなければ駄目だろうと。

粟谷 しなやかで軽い長絹は、白でなければあるのですが、白にこだわって、能夫さんにも相談し、まあちょっと硬いけれど、白に金糸の一色だし、模様が花篭なので、一番似合っているかなということで、選択したのですが…。

笠井 きれいではあったけれどね。

粟谷 ちょっと硬い感じ?最近作ったといっても、できたばかりではないんですよ。もう少し使い込まれていればよかったですね。

川瀬 生地自体が違うんじゃないですか。

粟谷 友枝さんが『卒都婆小町』で使った浅黄のを使おうかなとも思ったのですが、夕顔の花からは離れてしまうかなと思って。装束としては悪くはないのですが。やはり銕仙会から拝借すればよかったのかな。

笠井 そうだよ。

川瀬 借りるなんてことがあるのですか。個々人での貸し借りがあるのですか。

笠井 信頼関係ですね。銕仙会は粟谷さんのところとは親しくしているから。

粟谷 今私が観世銕之丞さんにお願いして装束を貸していただく事が出来るのは、父が観世寿夫先生、栄夫先生、静夫先生たちと親しい関係があったからです。

川瀬 お花の世界では、いっさい貸し借りはしませんよ。全部自分のところで整えます。

粟谷 今回の赤い花台は橋の会のときと同じですよね。

川瀬 ええ、同じです。あれはあれで名品なんですよ。当初は桃山時代の立花瓶を用意していたのですが、でも置いてみると硬いんですね。丸みがなくて、今回の舞台には合わないのです。直角というか、直線が効きすぎているんです。以前雑誌の撮影で使った瓢箪がついているものにしようかと思って探してもらったのですが出てこなくて。それで、あれにしたんですよ。お公家さんの家から出たもので、ああいうものだったら草ものに合うだろう、姿がきれいだろうと思って。2回京都に行って、いろいろなものを見て最終的にあれに決めたのですけど。花材がともかく揃わなくて、どうしようかなと。ともかく昨日まで必死ですよ。

中村 だからものすごく贅沢なものですよね。

(9)立花とシテの関係

粟谷 今回の私の感想ですが。普通、立花がないと、あの夕顔の精というか夕顔の上を一生懸命掘り下げて舞おうということになるのですが、ああいう立派なお花があると・・・、悪いことではないのですが、違う意識が作用してしまうという発見です。あのお花に全部委ねてしまおう、その後ろで、きれいにそつが無く動いていればいいのでは、という風に陥りやすい、多分陥ってしまった・・・と、今感じています、反省点ですね。笠井さんがおっしゃるような、夕顔のあの切なさみたいなものを出すのは難しかった。正直言って、出しにくいなあーというところがあるんですね。そこを演じるなら、いっそのこと全部花を取っ払っちゃって何もない方が演じやすいのでは、ということになりそうなんです。立花供養という小書があったときに、そこをどのように演者が処理しなければいけないかが課題で…、今回の私のテーマでもあったはずなのですが…。あーー笠井さんが何か言いたそうな・・・(笑い)。「明生君!夕顔の儚さはどこに行ったんだい」とね。普段なら、主題にグーッと入っていこうとするんですけれど、あの立派な立花があることで、何か反作用が起きるというか。でも演者にとっては、もう一つ別の未知のステージに立てるという救いでもあるのです。

以前に友枝さんにお話を伺ったときに、「僕らが伝書で見ているような従来の立花供養のイメージで考えていると駄目だよ、すべてそのときに合ったものを考えるように」というようなことを言われたんですね。お花が動かないなら動かないなりに、今回の秋の草なら、それなりに・・・ということですかね。橋の会の2日公演で六郎さんがシテの日は、金子敬一郎君の『道成寺』があり見に行けなかったのですが、友枝さんのときはどうしても見ておこうと拝見にうかがったのです。六郎さんが地頭でしたね。

中村 すごく贅沢な会ですよね。

粟谷 友枝さんがあのときの経験で、私の稽古のときに、喜多流の謡い方自体を工夫するような細かなところも教えてくださいました。それがうまく出来たかは勿論別ですよ……。とにかく友枝さんのときの異流共演で、あのお花と地謡というのが、今までの私『半蔀』像とは全然違う、新鮮なエキスみたいなものを感じたのです。

笠井 友枝さんもいろいろなことを考えていらして、あの橋の会はすごく鮮度があったよ。

粟谷 そうですね。で、それをそのままよいしょっと、こっちに持ってくるわけにはいかない、ちゃんと自分なりの何かの処理しなければいけないわけですが…。

『半蔀』「立花供養」を語る1(H16/10/13掲載)投稿日:2018-06-07

横浜能楽堂特別公演 『半蔀』「立花供養」を語る

 

平成16年9月11日、横浜能楽堂特別公演で、『半蔀』「立花供養」が催されました。番組は川瀬氏の講演「花の心 能の心」から始まり、狂言『萩大名』、立花を出して、能『半蔀』「立花供養」と続きました。

舞台が終了した後、出演者の川瀬敏郎氏、山本則重氏、そして私、粟谷明生、演出家の笠井賢一氏、横浜能楽堂の中村雅之氏と大いに語り合いました。よいお花を立ててくださった川瀬氏には恐れ多い思いがありましたが、気さくなお人柄で、ざっくばらんにお話がはずみました。この会を企画してくれた横浜能楽堂の企画仕掛人の中村氏、私と川瀬氏を結び付けてくれた笠井氏、新進気鋭、将来が楽しみな山本氏、話はとどまることを知らず・・・。

(1)はじめに

中村 今日は満席、雰囲気もよくて、よい会になりましたね。

粟谷 満席でも、あまりぎゅうぎゅう詰めとは感じませんね。ゆったりしている感じにこちらからは見えましたが…。私は横浜能楽堂で舞うのは初めてで、音の跳ね返りがいいですね。

中村 でも先生、うちの舞台には地謡などで散々出演しておられるではないですか。

粟谷 面をかけて舞台に立つのは初めてですよ。面を通しての感覚は違いますからね。声の通りはいいよね、びっくりするくらい。もっともお囃子方とは意見が違うようだけれど…。

中村 先生にお願いする曲がなかなかなくて、それで8年間待って、今回は満を持してお願いしたわけです。

粟谷 ありがとう。待っていた甲斐がありましたよ。(笑い)

中村 気持ちよく舞っていただいて、私も8年間待った甲斐がありました。

粟谷 笠井さんがまだいらしていないから…、きっと後からご批判をいただき、駄目だしが出ると覚悟していますけど・・・。(笑い)

中村 笠井さんには本当に感謝しています。川瀬さんを説得していただいて…。

粟谷 笠井さんにも、中村さんにも本当に感謝していますよ。私は本当にやりたかったから。

中村 よかったですよ。そういっていただけると。

(川瀬氏が少し遅れて登場)

川瀬 すみません、遅くなって。後片付けに追われているうちに。花って、最初にやらなければいけないのですけれど、後片付けがあって最後になってしまう。でもまあ無事終わってやれやれです。

粟谷 本当にありがとうございました。

川瀬 いや、本当に。どうなるかなんて、昨日まで心配していたんですよ。

中村 お客様の雰囲気もよくて、よい会になりました。

川瀬 それはよかった。

粟谷 周りの方に恵まれて、本当に!!(笑い) ありがとうございました。(笑い)今日もお客様がなかなか帰らなかったですね。橋の会のときもそうでしたね。

中村 終わった後、立花を見てもらうということで30分ほど時間をとっていますからね。それが楽しみという方も多かった。私自身、国立能楽堂で拝見したときも、終わってからお花を近くでじっくり見せていただきましてよかったですから。

川瀬 脇正面や中正面にいた方に最後は正面で見てもらわなければならないので。だから、中入りでお花を下げてしまう場合は、脇正面や中正面におられた方はほとんど見られないことになりますね。

粟谷 ペンギンみたいに前のめりになって熱心に見入っておられた方がいらしたけれど、わかる気がしますね。

川瀬 終わってからいろいろな質問を受けましたが、人それぞれでおもしろいものですね。

粟谷 どんな質問ですか。

川瀬 最後、立花の花の真を抜いて見せるのではないですか、そういうのを本で読んだことがあるんですけれど…とか。一番多いのはやはり花材の質問ですね。あと、こんなに長い素材はあるのですかとか。

中村 やっぱりいろいろ興味があるのですね。

粟谷 川瀬さん、「立花供養」のお願いのお話をしたのは覚えていらっしゃいますか?

川瀬 1年ぐらい前ですね、このお話をいただいたのは。その前に橋の会があって。

粟谷 橋の会のその日ですね。ちょっとお願いがありますと申し上げて…。

川瀬 そうでしたね。

粟谷 お花を片付けた後の、お疲れの時にこの話でしたから。(笑い)

川瀬 去年の7月でしたね。

中村 「立花供養」を川瀬さんとやろうと話を持っていこうとし、橋の会のチラシを見て絶句してしまいましたよ。

粟谷 実は橋の会の打ち上げ会に私も同席することが出来て、その後に、笠井さんに川瀬さんと合う機会を作っていただき、青山のコジャックで川瀬さんにご馳走になっちゃいましたね…。

中村 それで実現できてよかったですよ。

粟谷 川瀬さんは、やっと終わったという日だったから、ちょっと食傷気味だったでしょうが、笠井さんが口説かれて。

中村 僕も企画としては二番煎じになるのではないかと。真似をしたと思われるのは嫌だなというのがありました。

笠井 客層も違うわけでしょ。

中村 客層も違うし、演者の組み合わせも違うし、これはもう内容を転換しなければならないと思いました。

笠井 川瀬さんは今回で「立花供養」は6回目ということになりますね。

川瀬 そういうことになりますか。最初はカザルスホールで浅見真州さんとでした。あれも笠井さんに頼まれたのでしたね。

笠井 そうね。それから名古屋で2回、片山九郎右衛門さんと大槻文蔵さんと一緒で。そして去年の橋の会の二日連続公演で、梅若六郎さんと友枝昭世さんと。そして今回で6回。

中村 真州先生、九郎右衛門先生、大槻先生・・・。

笠井 大物だねえ。

中村 六郎先生、友枝先生、そして粟谷明生先生。

粟谷 ガーン。(笑い) だから私は時分の花といったでしょ。川瀬さんは真の花だけれど。

笠井 だから、僕はチラシに「粟谷明生が川瀬敏郎の花との立ち会いで、いかなる真の花を咲かせるか、刮目して待ちたい」と書いたんだよ。

中村 あのコピーは二番煎じにならないための仕掛けでもあったんです。

笠井 川瀬さんが「立花供養」を6回やってきたわけだけど、僕が鮮烈に覚えているのは友枝さんと六郎さんのでやった、蓮の立花供養ですよ。川瀬さんとは長くおつきあいしているつもりだけれど、ああ、変わったなと思った。ある種、その年々で更新している、つまり同世代だからわかるのだけれど、この世代で更新しなければいけない位置にいて、それを見事に成し遂げているなという感じがした。

川瀬 徐々に変化はしていますよね。

笠井 その緊張感はすごく感じましたよ。

粟谷 私も橋の会の2日目を見せてもらいましたが素晴らしかった。あの橋の会の2日間にしても今回の会にしても、ああいうものだったら自分もやってみたいなあーと、喜多流の、いや他流の若い人たちにも大いに刺激になったと思う。憧れみたいなものをみんな持ったと思いますよ。

川瀬 そうですか。それはありがたいな。

(2)横浜能楽堂に合う「秋の草」

粟谷 今日の立花は、真ん中にススキがすっくと立って、下に桔梗や女郎花などの秋の草花をあしらう感じのお花でしたね。

川瀬 今日のは、秋の草をどうやってやろうか、いろいろ考えたんですよ。横浜能楽堂は舞台自体が瀟洒なんですね。秋の草が一番似合う舞台だなと思いました。たとえば国立能楽堂ですと、ああいう秋の草では、とてももたないと思うんですね。きっと世界が違う。そういう意味では場というものがすごく大きい。

笠井 本当、場ととても合っていた。場とこうなじめるというのは、ある年輪だね。

川瀬 そうですね。先日、8月に能楽堂を見せていただきましたが、思いがけないほど瀟洒なんだなと。これは上に硬いものが来たのではしんどいなと思ったのです。

粟谷 鏡の間から舞台を見ると床の新しい感じ、私は白さが気になるんですよ。歩み(運び)易さは問題無いのですが、どうもあの白さが本格志向で思うと引っ掛かると。でも演じているときにはわからなかったのですが、終演後、見所にまわって拝見して、改めて感じたのは、あの鏡板の松の色とか、屋根の色、あのちょっとこげ茶っぽいあの色がとてもいいんですね。あの色、とても落ち着くんですね・・・。あの鏡板の年季がかかった風合、本当にいいですね。そこにまた瀟洒な秋の草花でしょ。すきがないという感じですね。

中村 その点は得しているところですね。川瀬先生がおっしゃったように能楽堂全体が瀟洒な感じというのは。あれ、誰が設計したかと思うんですが、前田斉泰の趣味というか、個人的な耽美主義が全部でているのかなって・・・。

川瀬 西本願寺の舞台などですとしっかりしていて、本願寺の建造物の柱に匹敵する真を立てますが、こちらの能楽堂はどちらかというと江戸末期の独特の雰囲気といいますか・・・。

中村 そうですね。しゃれたというか。言い伝えによると、前田斉泰が知らないうちに家臣が作ったなんていいますが、あれは前田斉泰自体の幕末の大名の好みかなと。

川瀬 幕末の絵というのもだいたい、ああいう小ぶりのものですよね。

中村 お洒脱な感じですよね。

川瀬 そういう意味で言えば、時代の嗜好というのが大きいかもしれないですね。見に来てくださった方で、懐かしい舞台だとおっしゃった方がおられました。

粟谷 あの昔の染井能楽堂をご存知なのかな。(横浜能楽堂は染井能楽堂を移転したもの)。私は金春惣右衛門先生が住んでいらした時の事をまだ覚えていますよ、あの舞台の桟敷席で金春国和さんと追っかけっこしたんだからね。

(3)狂言『萩大名』について

笠井 則重さんは『萩大名』のシテは何度目ですか。

山本 2度目です。

粟谷 今お年はおいくつですか。

山本 27歳です。

中村 少し早目ですかね。

粟谷 そんなことはないでしょ。

山本 大体今までは東次郎がシテをやって、僕たちが冠者や亭主をやるんですが。

笠井 僕、いいと思ったよ。本当にいいと思った。

山本 舞台から戻ってきたときに、東次郎が僕がシテをやったときは父親が亭主でおじいさんに太郎冠者をやってもらったんだと言っていました。今日は東次郎が太郎冠者で僕の父が亭主ですからね、だんだん、そういう風に逆の立場になっていくって。

笠井 そうなっていくね。泰太郎さんは何回もやっているの。

山本 やっております。

笠井 あなたは酒を飲まないと聞いたけど、そういうこともあるのかな、その分酒を飲むという演技により自覚的でそういう意味で東次郎さんの資質に似ているなあという感じを持った、僕は。

山本 ああ、そうですか。

粟谷 だって、東次郎さんに習っているのでしょ。

笠井 そうだけれど、資質はみんな人それぞれだから。泰太郎さんとか、みんなそれぞれ違うから。何となく、ちょっとそういう思いがあったなあ。

山本 私も、山本の若い者の中では、東次郎先生の精神性に一番似ているとは思います。

笠井 泰太郎君が直球を身に受に付けていて、直球勝負の気持ちよさ、スピードで勝負しているみたいな感じがするけれど、東次郎さんはそうじゃないわけよね。今や、あなたはその東次郎さんのそういうところを受け継ぐ資質を持っているのかなと、ちょっとそう思ったけどね。

山本 そうですか。

笠井 流是としてはあまりよくないのかもしれないけれど。東次郎さんやあなたは台本をちゃんと読もうとしているというか、役の位置を考えようとしているなというのがあるわけ。それが流儀の決まりの中でバランスをとっていくといいなと思いました。今日の舞台はあなたの親父さんと東次郎さんと、両方がうまく支えてくれていたし、あなたがとてもよく見えた、本当に。

川瀬 よかったじゃないですか。

中村 東次郎さんの論理的な部分は則重さんが一番受け継いでいますね。

山本 稽古のときにそういう感じですから。

笠井 東次郎さんはすごく台本を読んで考えている人ですよね。

山本 理詰めですからね。

笠井 そうしたこともやっぱりやらないと。山本家のよさは一杯幅があるけれども、その中の一つ、東次郎さんがずば抜けているのはそういうところもあるから、それは受け継いでいく人がいないとね。それは僕は思いますよ。

中村 東次郎先生がやっていることを、若い人はバラバラのキャラクターでやっているから。それを合体すると東次郎先生になるのかなと。

笠井 そうね、全くそう。

中村 今、笠井さんがおっしゃったけれど、則孝さんとか泰太郎さんはまさに直球でやってくれる、論理的なものより、とにかくやると。それが東次郎先生は考えてやると。その部分というのは・・・。

笠井 ただ、その部分は40過ぎてからやれと、親父さんに言われたんでしょ。

山本 60ですよ。道は長い。

中村 まだ30年ある。

笠井 だけど僕はやっぱり、そういう感覚を20代で持っていない人は40代、50代になってもなかなか行かない、行かないままで終わってしまう人が多いと思うのですよ。そういった意味で、こういうものは大事にしてほしいと思うし、しかしやっぱり直球の大事さね、お宅の流儀でいえば語りの大事さみたいな、まっすぐやる強さみたいなものも大事にしてほしいし、それがそういう風に変わっていく時間と、その幅を共有してほしいなという気がしたなあ。

山本 ちゃんと見ていただいて・・・。

川瀬 笠井さんのそれ素晴らしいね。やっぱり資質というのは、若いときにないと本当に花開かないと思うんです。

中村 今回狂言を、今のタイミングで則重さんにお願いしたというのはそれなんですよ。それはもうチラシに書いていただきましたけど。

笠井 馬場(あき子)さんのね。

中村 今まで則孝さんがすごく伸びたとき、泰太郎さんがすごくよかった時期、あるとおもいますよ。それはそれでいいけれど、山本若手の4人の中で、今盛りなのは則重さんかな。ここ1、2年すごくよくなってきたから。

笠井 役ついているしね。

中村 だから役がついているんですよ。

川瀬 伸びる時期というのはあるんですよね。

笠井 停滞する時期もあるからね。(笑い)

山本 厳しいお話ですね。

川瀬 粟谷さん、停滞したと感じられることもありますか。

粟谷 今日、停滞しちゃったんじゃないかな・・・。(笑い)

中村 今日停滞されると、こっちが困るんですよ。(笑い)

川瀬 本人の自己申告というのはあてにならない。本人が停滞していると思っているときによいものができているときもあるし、すごく自分でよくできたと思ったときの方が・・・。

粟谷 悪評ということもありますからね。「どこが悪いんですか」「それが分からんのか、お前は。もうちょっと考えろ」なんてね。

川瀬 それはありますね。

笠井 役者はなかなか自分のことは見れないよ。

粟谷 段々、年を取ってくると、自分で自分を見るしかない。60を越したら誰も注意してくれなくなりますからね。恐いですね。本当に言ってくれる人がいなくなると。

中村 先生には、ちゃんと笠井さんが言ってくれる。

粟谷 笠井さん・・・・・・。

笠井 今日はしっかり見たからね。(笑い)

粟谷 あとが怖いな…。(笑い)

(4)昔の「立花」は天こ盛り

粟谷 今日、川瀬さんが立てられているところを拝見しながら、喜多流の健忘斎の頃の伝書をお見せしましたよね。ここに書いてあるのはお花がてんこ盛りで野暮ったくないですかと申し上げたら、そうですねって・・・お答えになられて・・・。

川瀬 伝書によると、すごくたくさん入れるものなんですね。びわの葉35枚とか。

粟谷 熊笹何枚とか。

川瀬 もうこうなると、本願寺の仏花ですよ。

笠井 そう、仏花。それが原点ですからね。でっかいね。

川瀬 でっかいですよ。仏様に供える物みたいに、もう詰めて詰めて、山のよう。僕はびっくりして見ているんですけれど、こういうのをおやりになったことはあるのですか。

笠井 僕が昔写真でみたものは、全部こういうのでひどいものだった。今度忠実に再現してみたら。

粟谷 いかに馬鹿げたメニューかということですよ。でも、この我が家のこの伝書はちゃんとしたものだからなあ…。

笠井 健忘斎という人はどの時代の人なの。

粟谷 江戸中期ですよ。喜多流としては一番充実していたころ。それ以前はまだ固まっていないし、それ以降は書き留めるエネルギーがないから、伝書といえば、もうこれに極まりますよ。

川瀬 花を塊のように入れていますよね。よくこんなに重ねて入れられるなと思って。菊が入り、熊笹が・・・。

粟谷 20本とかですね。

川瀬 こんなに入れたら、至難の業だと思ってしまう。粟谷さん、こんなに花が入ったのをご覧になったことはあるのですか、『半蔀』で。

粟谷 1、2回あります。伝書には立花を挟んで運ぶ木製の道具が書いてあり、後見二人が立花をはさんで持っていくんですが。私が見た時は直に持っていました、水を垂らさないように。ピチャピチャと音がしたりして。

笠井 すごく大きいから不安定だね。

川瀬 見ていて危ない。だって、上が化け物みたいに大きいんですよ。水も入っている?

粟谷 入っていた時あります。放せばバチャーとなるから危ない。(笑い)

(5)今回の「立花」の工夫

粟谷 今回はそんな風に天こ盛りではなく、瀟洒な秋の草ということでしたが、やはり後見が持って出るのは難しいですね。川瀬さん本人が持って出てられるのがいいですよ。でも、あれ大変でしたでしょ。橋掛りが低いから、かがんで持って出なくてはいけないから。

川瀬 後見の方が運んでもいいのですが、真が崩れるとね。

粟谷 せっかく拵えたのに!となりますよね。あれはやっぱり拵えた人でないと運べないなあ。

川瀬 そうなんですよ。途中に曲がっても自分だったらだいたいの筋がわかりますから直すこともできるのですが。昔のものもかなりズレることはあるんですね。だからズレないようにガチガチに打ち付けてあるのが多いです。幹造りという手法の立花なんかは全部打ち付けてありますから。それならただグーッと持っていけばいいんですよ。今日のような草ものはズレ始めたらもう直しようがないので、ちょっと恐いんです。

粟谷 お花は本来、前場だけに置いて中入り後に後見が引くのが決まりなのです。立花供養をするのは前場の紫野・雲林院で、後場は五条辺りと場所が変わりますから。でも、今回はせっかくの素晴らしい立花、すぐに引っ込めてはもったいないし、後見が持って入るのは至難の業(笑い)で、最後まで舞台に置く形となりました。それにシテの型としては造花の夕顔の花を一輪シテが持って出て、立花に挿すのですが、完成された立花にはできませんので、それもやめました。

中村 昔のことを知らないから、そういうことの方が意外な感じがしますね。今の感覚からすると考えられない。

笠井 以前は舞台の上で実際のお花を立てられるということもあった。40分から50分、それは時間がかかって、かかって。

中村 40分なら早い方ですよ。館長に最初に聞かれたんですよ。立花だけどどうするんだ?って。立ててから持って出てもらいますと言ったら、それがいい、最初から見たら見ている方も大変だよというような話をしたのです。

川瀬 名古屋の能楽堂では最初から(お客様が入る前から)舞台に出しておきましたね。階(きざはし)から持っていって正先に置きました。お能の前に、今日のような狂言がなかったのかな。

粟谷 それはお能一番だったのでしょう。

川瀬 名古屋のときは、そうそう狂言はなくて、馬場あき子さんのお話がありました。

研究公演つれづれ(その13)投稿日:2018-06-07

研究公演つれづれ(その13)
第13回研究公演(平成17年12月22日)
『木賊』シテ・友枝昭世 地頭・粟谷能夫 副地頭・粟谷明生

粟谷 能夫
粟谷 明生

■地謡を充実して、喜多流の『木賊』像を創造する

明生 昨年暮れに、研究公演を4年ぶりに復活させ、『木賊』に取り組みました。研究公演の第3回『求塚』で試みたように、友枝昭世氏にシテをお願いして、私たちは地謡を充実させ、この難曲『木賊』を創り上げてみようということでした。この会で、能夫さんがずっと主張していた、喜多流の『木賊』像が出来上がったのではないかなという気がしています。粟谷新太郎7回忌の年に、こういう機会を仕掛けることができ、その成果を上げたということは喜ぶべきことですね。

能夫 それは嬉しかったよ。

明生 能夫さんがよい仕込みをして、友枝昭世氏をくどいて、そしてシテのエネルギーを我々も受けて・・・という感じでした。

能夫 僕らの新しい喜多流の『木賊』像を創るんだという気持ちを踏まえて、昭世さんが新しいチャンネルに切り替えて臨んでくれたという気がするね。まさに三位一体。

明生 装束についても、地謡についても、今回、昭世さんは我々に常に指示や相談をなされていたでしょ。こういうことはあまりないことですね。『求塚』のときもこれほどではなかった。もっともあの時は我々が未熟だったのですかね・・・

能夫 能というのはシテだけの思いでやっても成立しにくい、その思いを舞台を創るみんなに伝播しないとね。本来、能は座のような組織で手作りでやるものだから。我々だけでなく、もっと地謡の一人ひとりに、「こう思って」「こう謡ってくれ」という細かい指導があってもよかったかもしれないね。まあ、それは僕たちが伝えればよかったことかもしれないけど・・・。その辺は今結論を出せないが・・・、でも僕たちだって謡い方ではかなり細かい指示はしたつもりだよね。

明生 その辺はみんな真摯によく聞いて合わせてくれたと思います。今回の地謡の人は、半分は未経験者ですから、しかも大曲ですし、普段の従来のパターンでは了しきれないと思っていたのではないですか、だから素直にならざるをえないところがあったのでは・・・。

能夫 そう思うよ。

明生 みんな積極的で、あんなに前向きに取り組んだ姿を見たことないというくらい。(笑)


能夫 大曲を創り上げるときに抜擢されたという意識が、みんなの中にあったんじゃないかな。必要な人材だよと言われたときの喜びってあるじゃない・・・。僕らの志が通じたということではないかな。だって、自分たちの会で自分が舞わないで、シテをしないでだよ、地謡で勝負する、地謡を創り上げるなんていう物好きがいるかね・・・? 

明生 普通しないですよ。

能夫 そうでしょ。そういうことに挑むことが、僕は革新、画期的なことだと思うんだよ。だからその志が通じたということ・・・。誰だってシテを勤めるのがいいに決まっているもの。僕もそう思うけれど、粟谷の家は益二郎からの伝統で新太郎、菊生叔父と皆、地謡を謡ってきたじゃない、そのことについての継承もしておきたいというか・・・、そのような思いがある集団だという喜びと誇りみたいなものを・・・。

明生 ありますよね・・・。


能夫 そう。だって地謡が駄目では良いお能は成立しないから。どんなに立派な大夫がいたって・・・。

明生 故観世銕之亟先生が「舞えて謡えてだよ、そして装束付けができて・・・」


能夫 後見もできて、オールマイティでなければ駄目だと。


明生 「そうでなければ、僕は能楽師として認めないよ」と・・・。説得力ある言葉ですよね。今回地謡に参加出来てすごく勉強になりました。次回謡うときの、そしてシテを勤めるときの肥やしになりました。こういう形で学習ができ、興行的にもうまくいき・・・、本当によかったですよ。


能夫 うまく仕掛けが利いた、ということだね。

明生 能夫さんの仕掛けが成功しましたね。時期的にも。


能夫 我々が粟谷能の会を創っていく時期にもなってきているしね。

明生 友枝さんが『卒都婆小町』を3回やられて、次に『木賊』という流れの中で鮮度もあったし。地謡が大事だというメッセージや志がまわり、とりわけ若い仲間に伝わった気もしますし。求心力だね、これはやっぱり・・・。


能夫 ウフフ、そうじゃなくて、やっぱり好きか嫌いかってことなのよ・・・。

明生 好きか嫌いかってことですが・・・、今回はやはり能夫さんの策に全員がうまくはまったという感じですね。能夫さんはこの企画は失敗はしないよと言っていたでしょ、途中から、そうだ失敗しない、成就するな、とどんどん感じてきましたから・・・。


能夫 これを仕込んだのは2年前だよね。最初、友枝さんに話をもちかけたら、あまり手ごたえがよくなくてね・・・。僕が『木賊』をやりたいから、その前にやらないんですか?というようなニュアンスに思われたらしい。昭世さんは自分の頭の中には『木賊』は組み込まれていない、だからやる気はないって言われたんだ。

明生 そんなやり取りがあったなんて知らなかったですよ。


能夫 僕がやりたいのではなく、友枝さんに舞ってもらって我々が、つまり菊生叔父抜きで地謡をやりたいのです、と申し上げたらわかってくださって。それで引き受けて下さって・・・、取り組みだしたら、まあ「楽しい!面白い!むずかしい!」とね。

明生 そうですね。昨年後半はもう友枝さん、『木賊』の話ばかりなさっていたし、すごい気の入れようでした。


能夫 そうでしょ。昭世さん、昨年は『木賊』で楽しい1年を過ごされたわけ。だからあれは昭世さんの歴史の中でもすごくいいものになったと思うよ。喜多流の『木賊』の巻頭を飾ってくれたし、いい時期に『伯母捨』があって、そして画期的な『木賊』が燦然と輝いて・・・。そういう時間を我々も一緒に過ごしたということじゃないかな、と僕は思いますよ。いい人材にシテを頼めて、シテも、我々も、喜多流の若い者もみんな一生懸命にやれたという・・・。

明生 観てくださった方はどう思われたか知らないけれど、少なくとも演じる側は充実していた、真摯に取り組んだということは確かですね。

■充実した地謡が謡えただろうか

明生 それで地謡の成果ですが、昭世さんが「よく揃ったなあ。でも揃ったというのは音じゃない、高さでもない、ということを肌で感じたよ」と仰っていましたが・・・。能夫さんも言っていましたよね。以前は周りの音が違うんだ、発声とか発音とかが気になると。でも地謡が揃うというのはみんなが同じ音を出すということではないんだということが体験出来たと・・・。


能夫 そう、単なる統一規格では駄目みたい。

明生 中村邦生さんも長島 茂君も前列も、みんな音はそれぞれ違う、だけど気を張り詰めることで一体になれるということ、故観世銕之亟先生が地謡は重層でなくてはと話されていたのを思い出しました、これが今回の収穫でしたね。


能夫 ホント、そう。

明生 能夫さんと私だって違うでしょうし。違うけど近いかな?一応合わせるように思いながら謡っていましたけど、そこに目立たなくゴツゴツしたものが発揮されたような・・・。


能夫 そう。みんなの気持ちが喜多流には珍しくデリケートに結集したんだね。

明生 みんなで出す息、引く息と両方があることを体験出来た・・・。私自身のことを言うと、申し合わせのテープを聴いて、ちょっと自分の声が大き過ぎて邪魔しているという反省もあって。益二郎は大きな声で周りを束ねたということが頭の端っこにあって・・・、でも私は副地頭という立場だから、もっと自分には絞り込んだもので地頭を引き立て、邪魔にならず、それでいて頼りになる存在、そうでなければと思って・・・。そういう謡はボリュウムじゃなくて何だろうと思っていたら、打ち上げの宴会のときに昭世さんが「気だよ」って。


能夫 そう、気持ちだよね、思いだと思うな。結局さ「げに真、何よりも・・・・・磨けや磨け」で、僕なんか気持ちが入っちゃうんだよね。クセなんかよりもあそこの方に・・・。


明生 「磨くべきは真如の玉ぞかし、思えば木賊のみか、我もまた木賊の、身をただ思え我が心、磨けや磨け」と木賊を刈るあそこの場面、能夫さんもうかなりのハイテンションでね。


能夫 シテが「胸なる月は曇らじ」と思いを込めているでしょ。あそこ「ゴメン、高い調子になっちゃって、でもちゃんと受けてくれたね」と昭世さん言われたけれど・・・。音の高さでなく昭世さんの思いみたいなもので受けるのよ、そのぐらいのことは出来るよな!

明生 能夫さんはあそこの謡を気にしていましたからね。


能夫 そう、心を磨かないと人間駄目だというテーマみたいなものでしょ。僕はここが好きだよ。自分の心を磨けということで。

明生 前半のクライマックスだね。


能夫 僕はあそこが上手く謡えないと失格だと思っていたから、あそこはハッチャキで謡いましたよ。これはもう僕の動物的な感覚だけど、なんか感情をむき出しに謡いたいとね。クセなんかより、磨けや磨けとやっていることに・・・。


明生 父親の精神性の強さみたいなものがあそこに滲んでいるんでしょうね。


能夫 父親というのはこういう生き方をしているんだというような。あそこが僕はこの曲のポイントだと思うから・・・。

明生 すごいハイテンションになっていたもの。


能夫 だから言ったでしょう。僕はここにかけるから、あとの初同とかその辺はおまかせしますからって(笑)。

明生 「げに真・・・」はどうしても高くなるけれど あそこは下がってはつまらないですよね。


能夫 高くていいの。これまでの昭世さんとのおつき合いや菊生叔父の隣で謡わせてもらって獲得したものもあるし、そういう複合的な要素で張って謡えたんじゃないかなと思うよ。

明生 凄かったよ、独壇場でしたよ(笑)。


能夫 だから、それがすごく楽しかったんだよ。


明生 ハイ、ハイ(笑)。


能夫 やっぱりここを創っておかないと、筋立てとしてうまくいかないから・・・。

明生 前半のクライマックスはここで、あの段で1回終息してもいいんですね、折り目ですかね。次の地謡「よそにては」から始まる段で終わるのではなくて・・・。


能夫 「よそにては」のところはローテンションでもいいと思う。そこそこ説明的なところだから。

明生 私はあの「よそにては正しく見えし帚木の、・・・・陰に来て見れば無かりけり」で、遠くにいると見えるけど、近くにいると見えなくなるというのは、親子関係として見ると面白いなと思うので重要な関連だと思いますが・・・・。本当は恋人同士の話なのでしょうが。親父菊生と自分の関係で考えても、あまり近くにいると、その良さや愛情の深さが分からないというようにね。「ありとは見えて逢わぬ君かな」なんて美しい世界だと思ってやっているわけですが、菊生親父のあの頑なな打ち上げ宴会でのお説教を聞くと、まさしく木賊老人が目の前にいるわけでしてね・・・・。


能夫 昭世さん、爆笑していたからね。でもまあいいじゃない、頑なな菊チャマがいるというのは(笑)。

明生 それから次の段「廬山の古を思し召さば・・・」のところですが・・・。


能夫 そこだよ。「老情を慰む志・・・」と言って、老人の心情を慰めるために共に飲もうよと言って、中国の故事を引きながら酒を勧めるわけでしょ。浅井君(観世流・浅井文義氏)にも言われたけど、あそこは観世寿夫先生がすごかったんだよと。シテが老情と言って感極まっているのに、その気持ちを受けない「廬山の・・・」はないだろうって。

明生 そうですよね。仏の戒めで飲めないという僧に、故事まで引いて飲め!と飲ませてしまうのだから。


能夫 「廬山の・・・」は寿夫先生は呂音(低い音)でガンガン強く謡っていたよというのがヒントになったんです。そういういろいろな話が聞けるのがいいねえ。

明生 いろいろな人の話を聞かないとね。喜多流の人だけでは狭すぎますよ、もっと広く。


能夫 自分の発想だけでは、ここは甘く謡うところかなと思っていたけど、この話を聞いて昭世さんに話したら、「そうだよ、老情を慰むと気持ちを入れて謡っているから、それを受ける廬山の、が平坦ってことはありえないよ」と言ってくれたので、あそこの段が決まったということがあるね。

明生 いいアドバイスをもらいましたね。


能夫 そうね。いろいろなおつき合いの中でもらっているものもあるし、分からなければ問うこともあるし。あそこの「廬山の」の段は浅井君からというか、寿夫先生からのメッセージだよ。・・・あそこはうまく謡えたと思うよ。

明生 あそこは能夫さんが頑張っていたから、もう僕は委ねてというか邪魔にならないようにというか、さっきも言ったように、基盤の支えはしますから、あとはご自由にしてください、みたいなとことがありまして。能夫さんは、ここはこうやるぞ!と言っていたからね。


能夫 そうね。まあやりようがあるよね。戯曲というか能を考えるとき、先人の思いや教えも大事だし、謡っている本人の自覚も大事だよね。能は総合芸術なんだよ。過去・現在・未来みたいなものを一緒に持っていないと謡えないよ。

明生 こういう精神力の中で友枝さんが舞えたということはある面ではよかったのではないですか。演者がこれだけの結束力で、しかも謡っている人間がこれだけ考え思い謡ったということは・・・、そういつもあることではないですから。


能夫 そうでなければ『木賊』という曲は成立しないだろう、逆に言えば。こればかりは究極の謡い物の曲だなと思う。


明生 このような現在物の曲ねえ。『卒都婆小町』もそうですけど。能夫さんはわりと幽玄趣向というか・・・。


能夫 幽玄志向があるか・・・。

明生 幽玄物は甘さみたいな部分を残しておいてくれるから、演技者にとっては救いがあると思うのですよ。


能夫 入りやすいよね。

明生 しかし、現在物はシビアでしょ。


能夫 シビアだね。

明生 で、能の演技として生(なま)になるな、という規律、教えがあるじゃないですか。『卒都婆小町』『木賊』、『柏崎』もそうですが、今の世の中での現在物の置かれている難しさというものですね・・・。今、現在物をカッチとできる者はやっぱり僕はいい役者だなと思うしそこを見たいと思うのですよ。それはきれいな幽玄の世界も勿論ありですが、くさくならず、あたかも幽玄のように現在物を見せる能役者になりたいなあ・・・と。何かマジックをかけてしまうようなね。そういう感じ・・・、この間の『木賊』や『卒都婆小町』を謡うことで感じたことなんですよ。


能夫 『木賊』なんか謡っていると楽しいよね、極致だと思ったね。これが夢幻能ではなくて現在能なのかなという感じもしたし(笑い)。

明生 幽玄も現在もどちらにも激しくぶつからないと駄目というかでしょうか、幽玄にも力強く当たらなければ駄目だし、現在物にも跳ね返されるぐらい。だから僕はもう少し幽玄の方に強く向いていかないといけないなとも反省するのですが・・・。どうしても現在物をやり始めると一生懸命になって・・・、今そっちの方に目が向いていて・・・。振り向けばもっと違うものもあるとはわかるのですが・・・。


能夫 それはそれぞれの立地条件も違うわけだし、それぞれのポジションで訪ねていけばいい問題じゃないかな。


■重い曲に挑戦する意義

明生 友枝さんが『木賊』のような大曲は20年?30年も間をあけてはいけないなあ、自分がやってみて分かったとおっしゃっていたのが印象的でしたね。


能夫 秘曲、大曲といって大事にしすぎて、結局は誰も勤めないのでは、誰もできなくなってしまう。だからそう間をあけずにやっていかなければいけないんだよ。『伯母捨』だって、菊生叔父が数年前に百何十年ぶりに掘り起こしたわけでしょ。


明生 百何十年ぶりなんて言うことさえ、本来なら恥ずかしいわけですよ。

能夫 本当に。でもそういう曲目が言葉の上に載るようになった今の喜多流を喜ばないといけないよ。それは友枝さんのおかげだし、菊生叔父が頑張って道を開いてくれたということでもあるし

明生 我々はプロなんですから、そういう曲がありながら知りません、見たことありませんではちょっと恥ずかしいですよね。


能夫 だから誰かがやらないとね。温存、温存では氷河期のマンモスみたいになっちゃうよ。飾ってある標本を見たってしようがないでしょ。生きているものを見なくちゃ。動いているものを見なくちゃね。

明生 で、『木賊』を能夫さんもやりたいでしょ。


能夫 それはそのうちやりますよ。

明生 そのときには、謡う要員になれると思いますよ。


能夫 それはできるさ。あれだけ頑張って謡ったんだからね。

明生 去年『卒都婆小町』やったのだから、今度は『木賊』を目指して下さいよ。一生懸命謡いますよ。


能夫 ウン、近い将来!

明生 今の喜多流の風潮からいえば、『卒都婆小町』、『木賊』という順序になっています、私はそれでいいと思いますよ。男役者が女に化けることより、男が男に、それも生にならずに頑なな爺に化けることの難しさはかなりのハイグレードと思いますからね。


能夫 その辺はシテというか、そこに生きる役者の思いみたいなものもあるんじゃないの?

明生 最長老クラスの曲ですよね。どっちを先にやってもいいと思うけど、足腰丈夫なうちにしないとね。


能夫 それはもう運命だよ。出会いだよ。昭世さんが一生懸命やった『木賊』を見せられると、それはよかったと思いますよ。

明生 食指が動く?


能夫 それはね。心の底では、いつか自分もという前提がないとね、自分の志というか思いがないと、謡っていてもしようがないわけでしょ。自分で引き取る覚悟があって謡わないと。

明生 今回、『木賊』というクラシックな単なる重習というベールに包まれていたものが、そのベールが引き下げられ我々の目の前に燦然と輝いたそんな感じですかね。


能夫 そうだよ。自分がやるときのための、今回が一つの助走だよね。僕ぐらいの年になるとそういう思いでやらないとやっていられないよ。

明生 私は謡っていても、『木賊』はまだ遥かかなたという感じですが・・・。


能夫 ないだろう?


明生 能夫さんにはあるだろうな・・・というのはわかる。やっぱり曲目が降りてくるという・・・。


能夫 降臨したというか、まさしくね。自分のところに降りてきた、近づいてきたというのは確か。そのためにやったようなところがある。


明生 そう。よかった、よかった。


能夫 もう、よくやったよ。自画自賛!あんな大曲をよくやったと思うよ。友枝さんの実力を認めざるを得ないというのがすごくあるね。あの人の稽古のすごさね。

明生 それはすごいよね。


能夫 それだけやっているすごさというのが、舞台にちゃんと現れているからね。

明生 それはもう、私が憧れるところで、師として仰ぐところですよ。ちょっと真似できないけれど。


能夫 真似できないけれど、僕たちは僕たちのやり方でやっていかないとね。

明生 真似できないけれど、私は能夫さんからもらった資料、伝書という鎧をまっとって、自分なりに目指すところに向かいたいんですよ。


能夫 それはいいじゃないですか。


明生 優秀なものに出会うとお能は面白いですよね。


能夫 ねっ。いいシテに恵まれて、いい形でできたね。こんな場に身を委ねてしまうと・・・、常にチャレンジャーというか、いいものに出会って吸収して、生き死にがあって、何かそうしたことを繰り返していかないとしなびていく気がする。天人五衰じゃないけれど、腐っていく気がするね。自分を駆り立てて、いいところにもっていかないと・・・。

明生 今、しなびるという状態ですが・・・ああ終わったなと思ってね。そしてさあ次と、気持ちを奮い立たせなければ・・・。


能夫 その気持ちを奮い立たせる意味でも研究公演があるね。

明生 私もいろいろな会を起こしてきました。妙花の会、花の会、そして研究公演もそう、でも長続きするのは研究公演。熟成させて、ブドウをワインにする力は能夫さん持ち前みたいで研究公演で、『柏崎』とか『弱法師』、『松風』とかいろいろな曲を勤めけれども、中でも特に誇れるものといえば、『求塚』や『木賊』で、我々が地謡を固めて一曲を創り上げたことですかね。


能夫 そういうことだろうね。それにしても囃し方の人たちも燃えてやってくれたね。みなさんのおかげですよ。『木賊』は総合力として、すごくいい舞台になったと思うよ。

明生 12月に能夫さんが帽子をかぶっていて、みんなに風邪をひくんじゃないぞなんて、激飛ばしてプレッシャーを与えてさ、地謡の健康まで気遣ってなんてことは異例中の異例なことよ。


能夫 それはそうよ。明生君が風邪でティッシュの箱なんか抱えて来たんじゃアウトだからね(笑)。昭世さんにも言ってたよ、お風邪は大丈夫でしょうね?って。

明生 健康でいろよ、一生懸命やろうよというメッセージが最後、舞台に還元されたのではないですか。


能夫 昭世さんともいろいろな意味で切磋琢磨できたし、みんなも100%の力を出して曲に取り組んでくれたし、これ以上ないよ。楽しかった・・・!

明生 そうですね。みんなが力を出し切ったことが実感できました。またやりましょう。
 (平成18年1月4日 記 於 ガーデン)

『桜川』を演じて 桜尽くしで描く母の狂乱投稿日:2018-05-27

『桜川』を演じて 桜尽くしで描く母の狂乱


『桜川』を演じて

桜尽くしで描く母の狂乱

典型的な狂女物の構成に美しい詞章を散りばめた能『桜川』を、喜多流自主公演(平成30年5月27日)で勤めました。演じ終え『桜川』は「とても難しい曲である」が、62歳の私の正直な感想です。

生き別れた我が子を求めて彷徨う狂女物には、『桜川』のほかにも『三井寺』『百萬』『柏崎』『隅田川』など多くあります。特に春の桜のもとで狂乱する『桜川』と、秋の冴えた月下に狂う『三井寺』は対比されますが、演者の立場から比較すると、どちらかというと『三井寺』の方が高位で、『桜川』はそれほど高い扱いはされていないという印象です。『桜川』は謡や能の稽古順も早いほうです。それなのにどうして「難しい曲」なのか・・・、そのあたりを探ってみたいと思います。


『桜川』の稽古に入り、どうも気になったのが曖昧で大雑把な物語展開です。

能『桜川』は、母(シテ)が狂女になる経緯を説明する前場と、我が子を探す狂女となり謡い舞う後場の二部構成です。


まず前場の幼い桜子(子方)が母親の貧困を助けるために人商人(ワキツレ)に身を売る設定が腑に落ちません。昔は人商人が横行していて、身売りなどは珍しいことではなかったとはいえ、幼い子が自ら身を売る、という大胆な設定には無理があるように思えます。


  

そして善人とは思えない人商人を信じ、手紙と身代金を託し母に届けさせる設定、そして頼まれた人商人が律儀に届けてしまうのも、どうでしょう、不思議におかしく思われませんか。

更に、その手紙には、「これを機縁に母上様も御様を変えて下さい」と出家を促す、そんな大人びた幼い子が昔はいたのでしょうか。



 

後場では、磯部寺の住侶(ワキ)が桜子を伴い登場して、桜子と子弟の契約を交わした、と名乗りますが、どのような契約内容だったのか――。子方が僧姿ならば出家し師弟関係になったと考えられますが、稚児袴姿のため、その辺もはっきりしません。また「これにわたり候、御方は」と、住侶が幼い子を紹介する丁寧過ぎる言葉使いも、しっくり来ません。


ここで喜多流謡本に書かれている解説をご紹介します。

親子が再会する常陸の国、磯部には磯部稲荷神社があり、桜の名所で、近くには桜川が流れ、木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祀っている。神社の文書に、五十戸(いそべ)神主祐行が鎌倉に上がったとき、関東管領の足利持氏に桜児物語の一部を献じたところ、持氏はこの物語を世阿弥に命じて謡曲に作らせた、とあります。

これによると世阿弥は、磯部寺を絡ませて春に絢爛と咲く桜と桜川、木花開耶姫信仰などのキーワードを結び付け、桜子と母の再会を入れた狂女物を作らなければならない状況にあった、と考えられます。もっともその伝説は、能『桜川』があるから、後から神社側でそのような伝説を作ったとの説もあり、どちらが本当かはわかりません。


ただ、この経緯を知ると、いろいろ腑に落ちない設定は、世阿弥の苦心作だということに行き着くのです。詞章に桜という言葉が46、花が53、これだけの桜花を散りばめた『桜川』。咲き散る桜だけをテーマに戯曲したかった世阿弥であったのかもしれません。もしそうならば、あまり些細なことにはこだわらず、能役者は桜に事寄せた春の狂女の芸の面白さを演じることに専念すれば、それでよいのでは、と未熟ながらも達観した境地になりました。

能は抽象的な芸であり、些細なことよりも、舞台人の歌舞を楽しんで見ていただくことが主と思われます。

ご覧になる方には、多少の矛盾を度外視し、不自然を気にせず問題にしない、おおらかな柔らかな発想と感情の上で観ていただくのがよいようです。能はそのようにして成立している芸能なのでしょう。

「理屈に合わないよ、そうおかしいんだよ。でもそれが能、能の面白さなんだ」と話された先人の言葉が、今ようやくわかる気がします。

では演者は、どう勤めたらいいのか。

母が我が子を探しに旅立ちしなければならなくなった場面、その事情を説明する前場は非常に短いですが、凝縮されています。理屈に合わない設定とはいえ、母親の驚き、嘆きを存分に劇的に演じなければ能役者としては落第です。後場の母の狂いに自然とつなげる謡がポイントのようです。


「あら心許なや(こころもとなや)」と文(ふみ)を開き慨嘆するところは、ただ平坦に謡っては到底伝わりません。「どういう事なの!」という驚愕と緊迫感が感じられる謡でなければいけないのです。

友枝師のお稽古では「前場はより、ドラマチックに!」とのご指導でした。

自分が思う以上に劇的に演じなければいけないことを、今回教えていただきました。


桜子(子方)は後場で住侶に連れられて登場しますが、全体的に宗教色はあまり強くなく念仏を唱える場面もありません。ただ無事親子再会を果たした後に最後のシメのように、母子共に出家し「仏果の縁と成りにけり」「二世安楽の縁深き」と、軽く仏縁で終曲しています。

磯部寺の依頼だからこそ、世阿弥は神仏への帰依を最後に入れたのでしょう。

世阿弥が本当に描きたかったものは、自分の子供を桜にみたて、名前も桜子、ご神木は桜、この地に流れる桜川、という「桜尽くしの縁」です。


母は3年かけて、宮崎の日向から常陸の国までやってきます。

常陸の国の神社からの依頼でなければ、こんなに長い道中の末の親子再会ではなく、もっと近場の、例えば京都や奈良でもよかったはず。それをわざわざ、常陸まで足を延ばさせたところに、神社からの依頼説に、私は賛同してしまうのです。


演者としては、この「桜尽しの縁」があるならば桜子に会えるかもしれないと、期待する母の心情をどう演じるか、が第一です。時は桜の節、しかし桜の花は無常にも散り始め、不安がよぎります。その憂いをどこまで伝えられるか。

一曲の見せ場「網ノ段」では、一時は子のことを忘れるほどに散る花と一体化して狂いますが、「花も桜も雪も波もみんな掬い集めたのに、これはみんな木々の花、真に私が尋ねるのは桜子。桜子が恋しい」と、急に子を思う母に立ち返り泣き伏すところを、型に頼るだけではなく、底力ある、説得力のある演技が上塗りされていないといけない、と思うのです。

『桜川』の後シテはここまで一度も座ることなく延々と立って演じます。狂女としての躁と鬱、桜と我が子への思いが交錯し変化しながらも謡い舞い続けるシテ役にとって気の抜けない時間が続きます。


稽古を始める前は、何だか取り留めがないと感じていた物語展開も、幾重にも連なる桜尽くしの母の狂いを、詞章の和歌なども深く知って演じてみると、オブラートに包まれたような、もやもやしたものが溶けていき、この能の面白さが少し分かってきたように思います。いや逆に、難しさ、に気づかされたのです。


今回の『桜川』は初演でした。先に述べたように、取り立てて位の高い能というわけでもないのに演能のチャンスはありませんでした。

十四世家元・喜多六平太先生は『桜川』や『三井寺』などの狂女物を得意としてよく演じられ、伯父の新太郎も父・菊生も、父の世代は六平太先生に憧れ、先生のお得意曲を好んで、真似て演られていたように思いますが、私にとって、これらの曲は、父たちほどに憧れの曲には入って来ませんでした。

年代によって、能役者によって、好みや流行といったものはあるようです。


それでも『桜川』を演じてみて、能の位は高くなくても侮れない曲、ということは確信しました。若い未熟な者が稽古して型だけをなぞり挑み済ますものではなく、むしろ、ある年齢になって、能役者自身が己に課す試練曲ではないだろうか、不思議とそれほどの奥行きある難曲なのだと、思っています。


この「難しさ」は観る側にも言えることで、ご来場の皆様が面白くご覧になられたならば、それは鑑賞力の高さに他ならないのです。能は演じる側にもご覧になる方にも、難しく厄介な舞台芸能です。しかし、求めていくと面白さが何倍にもなって返って来る、それが能だと。これが正直な感想です。


最後に『桜川』の面白いエピソードをご紹介します。

父が話してくれた祖父・益二郎の思い出話です。祖父が『桜川』で装束を拝借するとき、十四世宗家・六平太先生が出された水衣の色が尉(男の年寄り)向けの茶色でした。当然、浅黄色や花色が拝借出来ると思っていた祖父はガッカリだったようです。後日父が、茶色を出された訳を宗家にお聞きすると「道中、歩いているうちに汚れたんだよ」とのお返事だった、と。

笑えない、です。祖父は当時悔しく思い、こんな思いを我が子にはさせたくないと決意し、借金をしながらでも面、装束を集めるようになりました。

その心を受け継ぎ、長男の新太郎は主に面の収集に力を入れ、現在の粟谷家の装束や面があるのです。


今回の装束は、前シテは貧困な生活を送る母なので格子柄の厚板を着る選択もありましたが、やはりやや華やかな装束の方がよいと思い「紅無梶葉段模様唐織」を、後シテの腰巻は父たちが愛用した、今は少々生地が傷んでいる花色の縫箔に、水衣は浅黄色にしました。

面は「曲見」で、銘はなく、桜子の母、という感じの表情ではないのですが、とても評判の良い面なので、是非一度使いたく、敢えて『桜川』で使ってみました。案の定評判よく、面と装束の歴史に助けられた、とも思っています。

                  (平成30年6月 記)

写真 

シテ 粟谷明生

ワキ 森 常好

子方 大島伊織

笛  藤田貴寛

小鼓 大倉源次郎

大鼓 亀井広忠

撮影 石田 裕

『卒都婆小町』を勤めて ひねくれ小町だから面白い投稿日:2018-03-07

『卒都婆小町』を勤めて
ひねくれ小町だから面白い

粟谷 明生

古は絶世の美女、歌に優れ、多くの男性に求愛され、華やかに生きた小野小町が、貧しく醜く、物乞いをするまでに落ちぶれ、百歳の姥になって老残を晒している。そんな小町を描く『卒都婆小町』を、「粟谷菊生十三回忌追善能・粟谷能の会」(平成30年3月4日、於:国立能楽堂)で勤めました。父が亡くなって12年、月日の流れがあまりにも早いと痛感します。

父が『卒都婆小町』を披いたのは68歳のときでした。老女物は60歳を過ぎないと手に負えないと言われる程の難曲ですが、いつかは挑んでみたいと思い続け、今回、未熟ながらも62歳にして、父の追善能で披くことができ、とても喜んでいます。

父が披く頃に、「この歳になると、老いた者が味わう諸々のことがわかってくるなあ」と話していたことを思い出します。私の披キは年齢的には父より早いですが、諸々の老いは恥ずかしながらもう既に感じ始めていて、そんな父の感慨が分かるようになってしまいました。今回、「父にお叱りを受けない『卒都婆小町』を勤めたい!」と臨みました。


今回、シテとして初めて老女物に取り組み、一番苦心したのは「老女の謡」です。
老女だから、と声量を下げて弱く小さな声では客席に届きません。かといって、大声で朗々と謡うわけにもいきません。静御前のような若い女の謡では駄目であり、弁慶のような強い男の謡とも違うのは当然です。特に前半の次第、サシコエ、道行の場面では笠をかぶっているので自分の声が耳に共鳴し過ぎて、どの程度声が響きどう届いているのかがなかなか分かりにくい状況を強いられます。しかもお囃子の掛け声と道具の音色が入ると、か細い弱い声ではかき消されてしまいます。
本番前に亀井広忠氏に観世銕之亟先生の老女の謡の教えを尋ねると「弱吟なれど強吟の息遣いで謡う、声を出すのではなく声は肉体の内面に負荷をかけた結果、洩れたもの、と心掛ける、と仰っていました」と教えてくれました。後日「次第、サシコエ、道行は呟くように文字を吐き捨てるように謡うんだとも仰っていました」と更に教えてくれました。
なるほど、と得心しながらもなかなか難しく、まだ体得出来ていない、のが正直なところです。私としては、役者自身の心技体の内芯を強く意識することで、柔らかな外面を持つ老婆が浮かび上がるのでは、と思って勤めました。


稽古しながら、小町の栄華と零落、あんなに美しかった人がこんなに落ちぶれて・・・、かわいそう、哀れ、と単にそれだけを描くために、観阿弥は『卒都婆小町』を戯曲したわけではないだろう、もっと何かがあるのでは、それは何なのかを掘り下げてみたくなりました。

道行が終わり阿倍野松原に着くと、小町は疲れて苦しいと、近くに横たわっている卒都婆に腰かけて休みます。すると、卒都婆は仏体色相のもの(仏の御姿とこの世を形作る五大、地水火風空を表したもの)、そんな大事なものを尻に敷くとは、けしからん、とワキの高野山の僧が咎めはじめます。ここからがシテとワキの論争、「卒都婆問答」となります。
(ここのやり取りは難しい宗教用語が多く分かりにくいので、石井倫子先生の現代語訳を参考にして、明生風に「お芝居風・卒都婆問答」を作ってみましたので、レポートの最後をご覧ください。)


ワキの咎めに対して、「卒都婆が仏体という謂れは?」「功徳というけれど、卒都婆の功徳って何?」と畳み込むように質問をし、私は「仏体と知っていたから近づいたのだ」「卒都婆も伏しているから私も休んで、何か悪い?」と屁理屈を並べ、ついには「悪も善」「煩悩も菩提」「仏も衆生も隔て無し」「愚痴の凡夫をこそ救ってくれるのが仏では?」と理屈をこね、論破する小町です。ついに、高野山の僧に「真に悟れる非人(乞食)なり」と頭を下げさせ三度礼をさせてしまいます。

この卒都婆問答は、観阿弥が高野山の真言密教と禅宗の理論的な戦いを小町にかぶせて面白く戯曲し、禅宗に軍配をあげています。
あれ、小野小町が生きた平安時代前期に禅宗がありましたでしょうか? もちろんまだ存在していません。小町にこのような問答をさせることには無理がありますが、敢えて、善悪不二、仏も衆生も隔て無し、すべては空である、という禅宗の宗教観を入れた観阿弥の戯曲・演出の才能のすごさが冴えます。

卒都婆問答で高野山の僧をやり込める小町は、老いても才気煥発、とても百歳の老婆には見えません。こんな元気な老婆に喝采する人もいるかもしれませんが、私は演じながらふと「イヤな老婆だな、こんな性格の老婆が近くにいたらイヤだろうなあ」と思ってしまいました。

博学ですが人を小馬鹿にしてしまう性格。ここでも僧を軽くあしらっています。自分の思うまま、自信に満ちて生きてきた傲慢で強い女、という人間像が詞章や動きから想像出来ます。
父が「こういうタイプが長生きするんだよ」と笑って話していたのを思い出します。


そして、老婆は遂に僧に頭を下げさせたうえ、駄目押しをするように、戯れ歌を謡います。
「極楽の内ならばこそ悪しからめ、外は何かは苦しかるべき」
(極楽の内ならば無礼をしてはならないが、外なのだから、卒都婆に腰かけて何の差しさわりがあろうか。)
と、極楽の外の意の「外は」と「卒都婆」をかけてダジャレにし、意気揚々と謡い上げます。

現代社会でも、お年寄りの中にはマイペースで、他人のことはどうでもいい、と振る舞われる方がいます。老々介護をしている人などは、こういう人が身近にいると、身に染みるのではないでしょうか。ですから能『卒都婆小町』は百歳まで生き抜いた小野小町の人生ドラマの一コマを描きながら、現代の高齢社会にも十分通じる作品になっています。決して陳腐なものではない、630年ぐらい前に、このような普遍的なものを作った観阿弥の戯曲力には感心させられます。


ところで、この「卒都婆(卒塔婆)」、どのようなものと想像されるでしょうか。
現在ならさしずめ、お墓の周りに立て掛けられている細長い板を思い浮かべるでしょう。しかし、能『卒都婆小町』の「卒塔婆」は人の身長を超えるほどの大きな木材の仏塔です。月岡芳年が描いた「卒塔婆の月」(東京都立図書館提供)に、老婆が尻に敷いているかなり大きな卒塔婆を見ることができ、参考になります。これが朽ちて横たわっているなら、そこに腰かけることもあり得ることで、容易に想像できます。

能ではその卒塔婆を、「鬘桶(かずらおけ)」と呼ばれる黒い円柱形の椅子を置くことで、演出します。歩き疲れた老女の小町がその卒塔婆に休もうというので、鬘桶に腰かける場面、これがシテにとって一つの難所です。被っていた笠を取り左手に持ち、右手で杖を突きながら鬘桶の前に行き腰かける。面の視野は狭く、後ろを振り向き確認できない状態で座ります。ここは父が以前コツを教えてくれていたので、それを思い出し、無事座れました。なにしろここでうまく座れないと大減点なので、気を抜けない箇所です。


卒都婆問答で論破された僧は、老婆がただ者ではないと思い、後世を弔うから名を明かせと尋ねます。すると「跡を弔ってくれるなら、恥ずかしいが名乗りましょう」と返答する老婆小町です。稽古していると先ほどまで小馬鹿にした相手に、弔ってくれるならばと、態度を急変させる節操のなさが気になりました。一体この老婆の信念はどこにあるのだろうか、やや不信感がつのります。それまでの成仏など眼中に無いと言わんばかりの物言いはなんであったのか・・・と。しかしこれも戯曲としての観阿弥の演出力、人間の弱さを見せたかったのだろう、と思って稽古を重ねました。

卒都婆問答はシテとワキの問答(掛け合い)でしたが、序のシテの名乗りからは、ワキの気持ちを地謡が代弁して、シテと地謡との掛け合いで舞台は進行します。古の栄華と今の境遇の悲惨さをシテは中央に下居して語り合います。


栄華と零落については、すでにシテの次第やサシコエで謡われていますが、ここではさらにリアルに今の落ちぶれた姿を語り尽くします。背負った袋には垢まみれの衣、破れ蓑、破れ笠、「路頭にさすらひ、往来(ゆきき)の人に物を乞う」乞食になった・・・と。栄華と零落を二度に渡り繰り返すのも、老いることの悲しさ、盛者必衰の理(ことわり)、人生の無常など、この曲に通底するテーマを作者は言いたかったのかもしれません。


そして地謡が「乞ひ得ぬ時は(誰も施しをしてくれない時は)悪心、また狂乱の心憑きて声変わりけしからず」と謡うと、突然「のう物賜べのう」(ねえ、何か頂戴よ、ねえ)と、僧の前に笠を裏返しに突き出し、なりふり構わず物乞いをする小町に変わります。そして遂に深草少将が小町に憑依し狂乱の体となり、後半へと続きます。


シテは物着で水衣を長絹にかえ、烏帽子を付け、深草少将が憑依した姿となります。ここが演者にとって、もう一つの難所です。男である演者が、取り憑かれた小町という老婆になりますが、同時に、取り憑いた深草少将という男の怨念をも、身体一つで表現しなければなりません。身は小町ながら少将に操られている心持ちで演じますが、その身体の使い方が難しいのです。

「私のところに百夜通ったら付き合ってあげるわ」という小町の揶揄い半分の言葉に、雨の日も風の日も雪深い日も、通い続け九十九日、あと一日というところで力尽きて死んでしまった深草少将。この無念ははかり知れません。その怨霊が、小町が悪心を持つたびに憑依し苦しめます。この作品の狙いは、少将を揶揄い死なせた悪事への報いなのか、はたまた、小町が悪心を持つたびに深草少将が鬼となり懲らしめにやって来る復讐劇とも、また逆に小町を守る守り神のように現れる、とも解釈出来、様々に想像出来ます。


一曲の最後、地謡が「怨念が憑き添ひて、かやうに物には狂はするぞや」と強く謡うと、一瞬静寂が訪れます。憑依が解けて少将が消え、格好は少将のままながらも元の老婆の小町に戻ったように演じなければ失格で、その気持ちと動きの切り替えの表現が難しく、しかし最大の見せ場となります。


これまで謡い囃していた舞台が静まり返り、空となる瞬間。深草少将が消え、これまでの物語がすべて消え、栄華も滅びも、恨みも喜びも、空となるほんのつかの間。やがて小鼓の掛け声の「ホー ホー」、そして静かに「ポン ポン」と打つ音が響くと、「これにつけても後の世を願うぞ誠なりける」(このような報いを受けるにつけても、後世を願うのが私のすることなのだ)と再び地謡が謡い出します。最後は「花を仏に手向けつつ、悟りの道に入ろうよ」と小町は手を合わせ祈り終曲します。この間の詞章はわずか4行、あまりに急転直下の終わり方です。

さて、ご覧になられた方はどう思われたでしょうか。
「小町さん、悟りの境地に入ろうとしたのね。よかったわ」
と思うのか、
「う?ん、小町さんは悟るのは難しいかもね」
と悲観してしまうか。


卒都婆問答で高野山の僧を論破する小町は宗教の教義をよく心得ているはずです。悟りの境地にならねばという気持ちの一方で、「でも本当に悟れるかしら」という不安な気持ちもあったかも。いやいやひねくれ小町のことだからそんなに急にお利巧さんになろうとはしないでしょう・・・などと二転三転します。その多面的な小町の裏の顔を覗かせるのが、作者・観阿弥のねらいだったかもしれません。私は、今でも答えが出せないでいます。

能はいろいろな見方があっていい。ご覧になる方が自由に想像してくださればいいのです。私もこのレポートを書きながら、小町の人柄、性格、人生に思いを馳せ、いろいろな見方ができることに気づかされました。現在物の能は、清純で美しく素直でソフトな能よりは、どこか角ばっていてひっかかりがあるものが魅力的です。

私は現在物の能に不思議と惹かれます。『卒都婆小町』の小町も嫌な性格の女だと思う一方で、そのひねくれ小町の複雑な心境が面白く、観阿弥の土臭く劇的、自由奔放な作品構成に惹かれ、遣り甲斐を感じます。能『卒都婆小町』はすべてが面白く、機会があればもう一度演りたいと思っています。


今回、面は「老女」を使いましたが、ただ優しいお顔の「老女」ではなく、私の演じたい小町は鼻っ柱の強いお婆さんでした。我が家の伝書にも「老女だが痩女が吉」と書かれています。もちろん「痩女」は死んだ女、霊になって登場する女にかける面で、現在物の『卒都婆小町』には不適なのかもしれませんが、どうしても「痩女」に近い「老女」が使いたくて、今回は、「老女」ながら痩女に近い表情のものを新たに能面師・石塚シゲミ氏に打っていただきました。今は落ちぶれ老いてはいるがそれなりに昔はきれいだったイメージ、口も達者な表情、と難しい注文をしましたが、自分では納得出来る面と認識し、感謝しています。

初めての老女物、いい時期にお披キが出来た、と思っています。老女物の型は一応決まっていますが、自由に創っていく余白の幅、遊び部分があります。これまで演能された諸先輩もこの余白、遊び部分を自由に創り、進化させてこられました。ただこの余白には基本的な技術が身についていない者が挑むとおかしなものが生まれる危険性もあります。

老女物は能楽師がこれまで積み重ねてきたものを糧に、自身で創り上げなければならないものと思っています。
小町はどういう人物なのか、指導者は教えてくれません。百歳の小町を自分自身で演出し演技しなければならないのです。シテ方能楽師は役者であり演出家です。そこが面白いところで、遣り甲斐もあります。自分で勉強し自分で創るもので、単に習うものではない。習ってもできるものではないのです。これまで培ってきたことを信じ、自分が感じるままに気負いなく自由に、そんな境地で老女物ができれば、と思っています。

今回は、ワキに朋友・森常好氏、囃子方は笛が松田弘之氏、小鼓が大倉源次郎氏、大鼓が亀井広忠氏、地頭にわが師・友枝昭世氏、粟谷能夫には副地頭を勤めてもらいました。
素晴らしい師と仲間たちが揃い、私を支えてくださったことに感謝します。
父の十三回忌追善能にこのような大曲、老女物を披くことができ、父へのよい手向けになりました。ご覧いただいた方々、支えてくれたスタッフ、すべての方々に感謝したいと思います。             (平成30年3月 記)

(補足資料/明生流訳「お芝居風・卒都婆問答」)
僧:「お婆さん、あなたが腰かけているのは仏体を形どった卒都婆ですよ。そこ、どきなさい!」
小町:「あら、仏体を形どっている、と仰っしゃいますが、もう文字も見えないから朽木と変わりないでしょ。」
僧「たとえ深山の朽木でも、花が咲く木はすぐにわかるものだ。まして仏を刻んだ卒都婆という木にしるしの無い訳がないだろう!」
小町:「私も賤しい埋れ木ですが、心の花は残っているよ。こんな私にも花があるんだから、私が座っている、という事は?、卒都婆に花を手向けている、という事なんだよ。
ところで、あなたが言う、卒都婆が仏体とは、どういうことかい?」
僧:「金剛薩?が人間に仏様の教えを示すために大日如来の誓いを形に表したものなんだよ!」
小町:「へえ?、どんな形なの?」
僧:「地水火風空、の五つ。万物の根本となる大事な要素なのだ!」
小町:「でもさ、人間も五大、五つの要素から出来ているから同じじゃないの?(笑い)」
僧:「形は同じでも心と功徳、功徳とは果報を得られるような善行のことですよ! それとは違うからね!」
小町:「じゃ?、卒都婆の功徳とは、なになのさ?」
僧:「一回卒都婆を見ただけで、永遠に畜生道、餓鬼道、地獄道の三つから逃れられるから有難いんだ!」
小町:「へぇ?、じゃあ、私だって言うよ。一念発起菩提心!!!
どうだい? 私だって一遍悟りを求める心を起こしたら、すごいよ。
たくさんの塔を作る事より、ずっと功徳があるはずだよ。卒都婆になんか負けやしないよ。」
僧:「じゃあ婆さん、菩提心があるなら、なぜ出家しないんだよ!」
小町:「してるわ、形の上ではなく、心でしているのよ。」
僧:「なに言ってんだよ、婆さん!
心が無いから、わからなくて卒都婆に腰掛けたんだろう?!」
小町:「違うわよ、仏体だと知っているから卒都婆に近づいたのよ。」
僧:「それならどうして拝まないで尻に敷くんだよ!」
小町:「どうせ倒れている卒都婆じゃないか。私も一緒に休んで、なにが悪いんだよ?」
僧:「それは順番が違う。まともなご縁の結び方になっていない!」
小町:「いいや、悪事がきっかけで出来たご縁だって同じことだよ。
だってあの極楽の提婆達多だって観音の慈悲で救われたし、愚か者の槃特も文殊の知恵と同じよ。
悪も善も同じで、煩悩だって菩提(悟った心)と同じ、菩提は菩提樹にたとえられるけれど、本当は植木のような物体ではないのよ。
澄んだ心は鏡と同じで台のようだと言うが、台に乗っかっているものではないんだよ。
すべてはね、空であり、実体はないんだよ!
そんな風に考えてみたら仏様も私達衆生も区別はないの。
あんたら順縁とか逆縁とか言うけどさ、元々は愚かな凡夫を救う方便だからね。逆縁だって救われるのよ、判ったかい?(笑い)」

写真
1 撮影 川辺絢哉
2 第101回 粟谷能の会当日番組より
7 添付資料 月岡芳年
14、15 撮影 石田 裕
その他 撮影 新宮夕海

能『蟻通』を勤めて ー 古い形を残した蟻通 ー投稿日:2017-11-07


能『蟻通』は古い形を今に伝えていて、能を観なれた方でも少し分かりにくい能であるかもしれません。実際、ご覧になられた方から「よく分からないうちに終わってしまいました」という感想をいくつか聞きました。そんな古風な能『蟻通』を喜多流自主公演(平成29年11月26日)で勤めました。

「古風な能」、「古風な感じ」「この能は分かりにくい」と言われる方に、私はこんな風に演能前にお話しさせていただきました。


蟻通神社の明神様(シテ)が、近頃和歌で人気の紀貫之(ワキ)が神社の前を通るようだ、ちょっと会って言葉をかけてみたい、一つ仕掛けてみようと待ち構えます。すると、貫之の馬が急に倒れ伏し、シテの仕掛けに見事にはまってしまいます。そして、神の心を鎮めるための歌のやりとりをして、その後、貫之は歌の徳や自身の業績を自慢げに語ります。和歌の力で馬が起き上がったと喜び、これもややご自慢で、今度はシテに祝詞をあげてほしいと要求します。シテは快く祝詞を上げますが、和歌自慢をする貫之に、そもそも神楽というのは日本のダンス(舞)や音楽の始まりですから、ほらよく見ておきなさいと、イロエを舞い、教えます。貫之は感心し、ともに舞歌を讃え、喜びを分かち合います。蟻通明神と貫之の、歌や舞をめぐる楽しいひと時、明神のいたずら心が描かれている、と思って観ていただけると、素直に面白く楽しめるのではないでしょうか、と。

能『蟻通』はワキ(紀貫之)からの視線で物語が展開していく演出になっています。
通常、ワキは登場して名乗り道行が終わると、ワキ座に座って、シテの舞を見たり語りを聞く役目ですが、『蟻通』は特異で、道行の後、馬が倒れる場面を動きある型で演じます。また、クセでは通常、シテが物語を語るのですが、『蟻通』では和歌の徳やワキ自身の和歌の業績までも語り、シテに聞かせる設定です。また通常は中入前に、ワキがシテにあなたは何者かと聞き、シテは○○の化身とほのめかして消えることが多いのですが、『蟻通』ではシテがワキに「如何なる人にて、わたり候ぞ」と聞いていて、これも特異です。クセの後半、馬が元気に起き上がる様子もワキが立ち上がり動いて見せるというように、いろいろな場面で、シテとワキの役割が逆転しています。


このようにワキが活躍する演出は現存する能では無い訳ではありませんが、稀少です。
私は稽古を重ねるにつれ、シテとして、なにか物足りなさを感じました。居グセなどは通常、地謡を聞きながらも、シテの思いを語り伝えるための心が入り、そこに微妙な心技の動きが生まれますが、『蟻通』では物語をただ聞くだけの受け身で、シテの気分は全く違います。


『蟻通』の作者は世阿弥と言われていますが、世阿弥の風が確立する前の古い作品ではないか、または演能記録があっても、それは好んで演じたのではないのでは、きっと世阿弥自身、演じて満足してはいなかっただろう、と稽古しながら勝手な想像をしてしまいました。そしてもしかすると、その物足りなさが、能の完成形ともいわれる複式夢幻能を創り出す要因になったのでは、と思い巡らしています。


では、その古風な能がなぜ今に伝えられているのでしょうか。
それはご覧になるお客様がご存じなのかもしれませんが、演者として感じたことは、演じる側の都合もあるのではないだろうか、能役者の成長の上で、ある年齢に到った者への練習課題曲(ドリル)というような意味合いがあるのでは、ということです。
若者では歯がたたない曲で、ある年齢になった人間が、この老人をどう解釈するか、どのような役割を持つ人間なのか、それをどう表現したらよいのかと探究しなければならない曲だと思えるのです。


左手に傘を持ち右手に松明を振りながら登場するシテ宮人の佇まい。
「申楽談儀」に「能に、色どりにて風情に成ること、心得べし。蟻通など、松明振り、傘さして出づる肝要ここばかり也」とあります。この出で、宮人の風情を創り出し、雨が降る暗い神域を感じさせる謡い出しの「瀟湘の夜の雨、頻りに降って、煙寺の鐘の声も聞えず・・・」からのシテ謡が肝要で、口伝の謡です。雨が降っているとの状況描写から、蟻通神社が真っ暗で見えないのを嘆き、灯しの光も見えない、祝詞をあげる声も聞こえない、神職たちは何をしているのだ! 怠慢だ! と徐々に怒りがこみ上げてくる老いた宮人の声が客席に届くように謡わなくてはならず、私はここで既に蟻通の神が憑依していると解釈して演じました。


『蟻通』のシテが舞う「イロエ」は「舞」の基本となる非常に重要な動きです。
その動きは足拍子が入るものの、まず舞台を左回りに一巡し一区切りとし、さらに右回りして元に戻る、という二段構成のシンプルな舞です。初めてご覧になる方は、夢遊病者のような可笑しな動きと思われるかもしれません。
しかし、この一連の動きこそ、「我が日本国の最初の舞とはこうである!」と蟻通明神が宮人に乗り移って、申楽の能としての「舞」の原型を披露すると理解して演じました。


「イロエ」の動きに移る前に、シテは「神の岩戸の古の袖。思ひ出でられて」と謡いますが、これは天照大神の岩戸隠れの伝説の、天鈿女命(あまのうずめのみこと)が舞ったことが思い出される、と謡っていて、この時の舞が日本最初の舞といわれています。
申楽の能の舞は時代を経るに連れて複雑化していますが、はじめはシンプルな「イロエ」の2段構成からはじまり、それ以後の舞物の構成は、0段+5段の6段構成(喜多流)へと膨らんでいきます。ですから「イロエ」は舞の根本、ルーツです。そこを理解した上で、単純な動きであっても能役者は意識し力を注がないといけないのだと勉強しました。




 
『蟻通』を勤める前は、ワキの貫之ばかり活躍して、シテとしては遣り甲斐のない曲かななどと思っていましたが、取り組み始めると、いろいろ面白い発見があり楽しくなります。
大切な謡いどころである最初のシテ謡「瀟湘の夜の雨・・・」は、静かに抑揚をつけてなどの教えはあっても、具体的に誰かに習って教えていただくというものではありません。もちろん過去に演じられたものなどを参考にできるのですが、『蟻通』のように喜多流であまり出ない曲の場合は特に、自分自身で「創る作業」が必要となります。ある年齢を過ぎたら、師に習うだけでなく、自分自身がどう能を創るかを考え、どう謡うかを創っていかなければならない??と知ることだと、今回特に実感しました。

実は次に勤める『卒都婆小町』にも通じることで、これは『蟻通』を勤めたお陰での、神のご褒美かな、と感じています。何でも真摯に取り組めば自らの演能の肥やしになります。
先代の観世銕之亟先生が「どんな能でもやればやるだけ面白くなる。でも終わるとすぐ次の曲が気になる、その繰り返しでいいんだよ」と言っておられたことが思い出されます。
そうなんだ、といま私も同感、この言葉が励みになります。

『蟻通』を面白く勤め、演能レポートも書き上げ、さあ今度は『卒都婆小町』(来年3月の粟谷能の会)と、今、気持ちはそこに向かっています。

写真提供 撮影 石田 裕
蟻通 シテ 粟谷明生 ワキ 殿田謙吉                     
(平成29年11月 記)

品川薪能にて(屋内で) 『船弁慶』を勤める投稿日:2017-10-07

品川薪能にて(屋内で)『船弁慶』を勤める
粟谷明生



(1)
品川区と十四世六平太記念財団(公益財団法人)の共催で、今回はじめて「品川薪能」が企画され、私が『船弁慶』を勤めることとなりました。(平成29年9月28日)

喜多流の本拠地、喜多能楽堂の最寄り駅は目黒ですが、住所は品川区上大崎です。ここ数年前より十四世六平太記念財団と品川区とのお付き合いも深まってまいりましたので、今後も、多くの区民の皆様に能に親しんでいただき、日本の古典文化を浸透させたいと思っております。

「薪能」は夜のしじまに幻想的に浮かび上がる能舞台のイメージで、初めてご覧になる方にも、長年能に親しんでおられる方にも興味をもって観ていただけるものです。「品川薪能」は区内にある「文庫の森」に特設能舞台を作り催す予定でした。野外にある能舞台を使うのと違って、特設能舞台は、その日のために敷舞台を組み合わせるところから始まるので、舞台作りがなかなか大変です。



(2)
今回は、前日からの大雨と当日も雨が予想されたので、屋外ではなく屋内の「きゅりあん大ホール」での催しになりました。ご覧になった方からは「夜空の下での薪能を期待していたのに・・・」とのお声を聞きましたが、お天気ばかりはどうしようもなく、関係者一同、とても残念に思っております。来年は是非屋外での薪能となりますことを祈念しております。

「きゅりあん大ホール」での公演も「薪能」の様式にのっとり、火入れ式を行い、品川区長の濱野健様や六平太記念財団理事長の近衛忠大様、町会会長様に火入れにご参加いただき、屋内でも薪能の雰囲気作りをして、多くの皆様方にご鑑賞いただけた事を嬉しく思い感謝しております。



(3)
私の『船弁慶』は平家を滅ぼすに勲功があったはずの源義経が、兄・頼朝と不和になって西国に落ち延びようとする道中の話です。前場では愛妾・静御前(前シテ)との別れを描き、後場では義経や弁慶らを乗せて漕ぎ出す船に、平家の猛将・平知盛の怨霊(後シテ)が現れ襲い掛かりますが、最後、知盛の霊は義経との戦い、弁慶の祈祷に負け、波間に消えていきます。変化に富み、物語もわかりやすく、楽しく観ていただけたのではないでしょうか。



(4) (5)
今回は解説、『三番叟』、『船弁慶』、それに「火入れ式」と休憩を入れて、およそ2時間半が夜の能公演の適当な時間だと考え、『船弁慶』の上演時間を1時間5分ぐらいとしました。
特に夜の公演はダラダラと長くなるよりは、やや短くても十分楽しんでいただけるものにしようと、コンパクトな演出を心がけました。



(6) (7)
前場では、囃子事を短く、動きのない場面は省き、序之舞の段数も減らすことで、物語の展開がテンポよく進むように工夫しました。



(8) (9)
後場は、本来「早笛」という出囃子の後に後シテ(平知盛の霊)が本舞台にて「抑々これは桓武天皇九代の後胤・・・」と名乗りますが、今回は、囃子方に特別演出をお願いして、地謡の「一門の月卿雲霞の如く。波に浮みて見えたるぞや」の謡で後シテが橋掛りの三の松前に登場し「思ひも寄らぬ浦波の」と恨みを述べると、途端に早笛になり舞台に入る演出として、地謡の「声をしるべに出で舟の」で足音を立てない足拍子「波間之拍子」を踏み、最後は地謡に緩急を付けて勤めました。
コンパクトな演出とはいえ、全体としては、序、サシ、クセも省かず、詞章で省略したのは初同のみ、細部を工夫することで一曲を飽きずにご鑑賞いただけるようにいたしました。



(10) (11)
シテを演じる時、静御前と平知盛という前後で別人格を演じるところが難しいように思われますが、実はさほど気にせずに勤めているのが能役者の実態です。それよりも若いころは前シテの静御前をしっとりと、それでいて艶もあり、別れの辛さに耐える姿を表現することに苦心します。年を重ねると後シテの勇壮で活発な動きが難しくなりがちです。私も初演の時は前場の静御前が難しいと感じましたが、今は前シテよりも後シテの活発な動きが出来るか、と心配します。その一つに「流れ足」ができるかがあります。



(12) (13)
「流れ足」とは、曲の最後、弁慶らの祈りに負け、引く汐に揺られ流されと退散していくときの所作で、勇壮に戦っていた薙刀を捨て、太刀を背に両手を上げて、つま先で立って横に動く型です。ちょうどバレリーナのトウシューズでのつま先立ちと同じです。これは足の指の力が必要で、若いときにはいとも簡単にできたのですが、悲しいかな年齢とともにきつくなります。今回は、まだ何とかできるだろうと演じてみて、無事勤めることができましたが、終わって、あと何回出来るだろうか?と思いました。その意味でも、今回の『船弁慶』を無事に勤めることが出来たことを喜んでおります。



(14) (15)
私は最近、最後の幕に入るときに拘りを持って演じています。それは最後まで義経を見ながら後ろ向きに入幕すること。義経役のかわいい子方が活躍し、観客の目はそちらに釘付けになっているでしょうが、知盛としては、後ろ向きで義経を睨みつけることで、「このままでは済ませないぞ」という深い恨みを滲ませます。終曲の詞章は「跡白浪とぞなりにける」ですが、ただ何事もなかったように終わるのではなく、悪霊の執心と粘りを観客の心にも焼き付けたいのです。

実際、その後の義経は、平家一門の怨念のためか、舟は嵐によって元に戻され、西国行きを断念、陸奥の平泉への逃避行となります。それはまさに義経滅亡の旅、死出の旅です。知盛の霊を退散させ、勝った勝ったと能は終わりますが、その後の義経の運命は決して明るいものではない、と予感させるような、最後の知盛の粘りを舞台で演じたいのです。

能『船弁慶』は観世小次郎信光の作品です。信光は世阿弥の甥の音阿弥の七男ですから、世阿弥よりだいぶ後の世の人です。世阿弥が幽玄な能を完成したのに対し、劇的なエンターテイメント性の高い能を創り出しました。『船弁慶』のほかには『道成寺』、『安宅』、『紅葉狩』など人気曲があります。いずれも劇的でわかりやすく、登場人物も多くにぎやかに展開し、心躍るものです。
初めて能をご覧になった方は、ここを入口とし、世阿弥の幽玄な能や観阿弥の土臭く芝居的な能、あるいは美しい女人の能から武将、怪異な鬼の能に至るまで、能にはさまざまに変化に富んだものがありますから、それらに分け入って楽しんでいただきたいと思います。
また、今回はホールでの観能になりましたが、能楽堂にも足を運んで、その雰囲気を味わっていただきたく、もちろん「薪能」も機会があったら、と欲張りなお願いです。
今回の品川区との共催のように、能鑑賞の機会をできるだけ増やすべく、努力して参りたいと思っています。多くの皆様の能公演へのご来場をお待ちしています。
(平成29年10月 記)

写真 シテ 粟谷明生
撮影 (1)(3)(6)(7)(9)(10)(13)(14) 新宮夕海
   (2)(4)(5)(8)(11)(12)(15) 石田 裕

『小督』という曲で シテ・仲国を描く投稿日:2017-09-07

『小督』という曲で
シテ・仲国を描く
粟谷 明生


『小督』は曲名にもなっている絶世の美女、小督の局がシテではなくシテツレとして配役され、シテは帝からの使者役、源仲国を演じます。
仲国は史実に従うと皇宮警察の部長といった役職の人で60歳近い老人! と「能楽手帖」(権藤芳一著)に書かれています。国立能楽堂からの出演依頼が来たときには、「直面物であまりお爺さんでは似合わないから、今ならばまだ間に合う大丈夫だろう」と快諾しましたが、もしかすると国立能楽堂の担当者は「粟谷明生は60歳ぐらい。『小督』を依頼するには丁度いいだろう」と考えたかもしれません。適齢期? 老人? とやや複雑な心境での稽古となりました。ここから9月15日国立能楽堂で勤めた『小督』についてレポートします。

能『小督』は平安時代後期の話。高倉帝の深い寵愛を受けていた小督の局は、平清盛の娘、徳子が中宮に立つと、平氏の権勢を恐れて宮中を去ります。
これを知った帝は日夜お嘆きになり、「小督が嵯峨野のあたりに身を隠している」「片折戸の家に住んでいるらしい」という噂を聞くと、仲国に小督を探させます。
折から八月十五夜。小督は琴の名手。名月に惹かれて琴を弾くだろう、仲国は帝から拝領した馬に乗り、琴の音を頼りに探しに出かけます。


仲国という人物像はどういうものであったか。高倉帝としてはある程度の年齢で信頼できる人間を使者としたかったでしょう。あまり若く美しい男性が小督のもとに行ったのでは、何か間違いでも、と心配です。仲国は若くなくしかも楽人で笛の名手、昔小督と合奏したこともあり、小督の琴の音色も知っている。「片折戸」に住むという庶民の暮らしも分かっている者ならば、きっと小督を探し当て誠実に使者の任を果たしてくれるという信頼が帝にはあったのでしょう。琴の音、秋の夜空、駿馬に乗って出かける美しい風景を、能は描いています。


能『小督』は美しい小督の人生を描くというよりは、あくまでもシテである仲国の心境や行動がメインになって展開していきます。
その場面展開を、序破急の構成で説明しますと、序は前場のごく短い場面です。ワキ(勅使)が仲国の私宅を訪ね、小督の局の行方を尋ねて参れとの帝の宣旨を伝えると、仲国は「今夜は八月十五夜、名月の夜だから、きっと琴を弾かれるだろう。小督の局の調べはよく聞き知っているから、安心してください」と引き受け、探しに出かけます。ここまでが序にあたります。

破は三段構成になっていて、一段目はがらりと場面を変え、小督の住む嵯峨野の隠れ家。小督は秋の夜、琴を弾きわびしい心境を謡い、侍女たちと語り合っています。

二段目は一声によるシテの登場から、名月の夜、仲国が嵯峨野に馬を馳せ巡らせ、法輪寺のあたりでかすかな琴の音を聞きつけ、その音を頼りに小督の局を探し当てる「駒の段」と、そして面会を果たし、帝の文を届け、小督も感涙し仲国に返事を伝え、酒宴となるところまでを描きます。

三段目は名残りを惜しむ男舞。
そして最後の急は、キリの仕舞を舞い、小督が見送るなか、仲国は帰っていき終曲するまでです。

中入り後、破の一段目で片折戸と柴垣の作り物が舞台上に運ばれます。片折戸の両脇に5つの柴垣が連なる、作り物としては大掛かりなものです。他の作り物のように、公演のたびに能楽師が作り運び込むのは難しいので、各能楽堂には、この一曲のための作り物が作り置きされています。今回も国立能楽堂の作り物を使わせていただきました。


この作り物は小督の家と嵯峨野の当たりの景色を想像させるに効果的なもので、鑑賞する手助けになっています。

作り物を、喜多流は舞台中央より脇座寄りに置きますが、宝生流は舞台中央、観世流や金春流は舞台中央より脇正面側に配置し、各流儀で違います。破の二段目、仲国が登場し駒の段を舞うときに、喜多流は舞台に入り舞うため、作り物をシテツレ側に置き、舞うスペースを広くしているのです。他流は駒の段を橋掛りで舞うため、作り物が舞台中央よりやや脇正面側でもよいわけです。作り物一つ置くだけでも、それぞれの流儀の主張があります。

今回、申合せで喜多流の基本を守りながら、作り物をどのあたりに置くのがよいか、出演者で意見を出し合ってみました。伝書に書かれたやり方では片折戸が正面から垂直になりよく見えないので、やや斜めにして、観客席から戸がよく見えるようにしてみました。能楽は「昔通り」を頑なに守っているように思われがちですが、決してそうではなく、今に合うやり方をいつも考えているのです。


駒の段のあと、宣旨の使いが来たと知っても、最初はなかなか取り合わない小督ですが、供女のとりなしでようやく対面することになります。仲国が小督の宅に入ることを許されると、片折戸と柴垣の作り物は舞台から運び出され、舞台は小督の宅となります。


さて、話をシテ登場の場面に戻しましょう。
破の二段目は、一声でシテが登場すると、「駒の段」(牡鹿鳴く此の山里と?想夫恋なるぞ嬉しき)となります。仲国が馬を走らせ、嵯峨野あたりから法輪寺を過ぎ、そして最後は想夫恋の琴の音が聞こえ小督の家を探し当てるところまでを「駒の段」と呼び、謡い舞う、聞かせどころ舞いどころとなります。シテは馬の手綱を両手で持ち、馬を一時止めては耳を傾け、琴の音を聴く型が続きます。それ自体は難しい舞というわけではありませんが、馬に乗って琴の音を聴いていると観客に思わせるのがなかなか難しいところです。しかも直面ですから顔に表情をつけることもできず、自然と役者の顔が面に見えるようになるには、稽古だけでは作れない時間が生む、という父の教えが思い出されます。


駒の段の最後、琴の音が聞こえてきて、まさしくそれは小督が弾く想夫恋と気づくところの謡、「峰の嵐か松風かそれかあらぬか。尋ぬる人の琴の音か、楽は何ぞと聞きたれば。夫を想ひて恋ふる名の想夫恋なるぞ嬉しき」は、なかなかの名調子、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、黒田節の二番と被っています。

「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲み取る程に飲むならば これぞまことの黒田武士」は、おなじみの黒田節の一節ですが、二番は「峰の嵐か松風か 訪ぬる人の琴の音か 駒引き止め立ち寄れば 爪音高き想夫恋」です。もちろん黒田武士と源仲国の関連は毛頭ないのですが、ちょっと気になりましたのでご紹介しておきます。


小督の宅に入れてもらい、仲国は帝からの文を渡します。そこには小督への想いの言葉が書き連ねてあったでしょう。小督は喜び泣きながら返事をします。観世流は実際に返事を「お文(ふみ)」として手渡しますが、喜多流は「直(じき)の御返事賜り」と「文」ではなく、言葉でのお返事と解釈しています。もし清盛に知られることになっては困る言葉が形として残ってはいけない、仲国を信頼してのお返事、と解釈して演じました。


そして破の三段目、男舞となります。通常、男舞というと颯爽とした武士の舞ですが、ここは颯爽と、とはやや風情が違う舞になります。小督を探し当てることはできたが、今後どうなるかわからない。が、酒宴となれば舞は付き物、小督への慰めの気持も込めて仲国は舞います。明るく晴れやかな祝言の舞ではない、若者の颯爽としたものでもない、そこを意識し、落ち着いて、やや速度を緩めて舞うのが心得です。囃子方にもゆっくり囃していただき気持よく舞うことが出来ました。

後シテの装束は、着付は鬱金色の厚板に淡い浅黄色の大口袴、そして花色の長絹にしました。替装束で、やや位の高い風情となる狩衣・指貫の選択もありますが、仲国が皇宮警察の部長さんとなれば、太刀を差しているので、従来通り、大口袴と長絹にしました。


小督については、平家物語で後日談があります。
高倉帝はその後小督の局を秘かに内裏に迎え、親王(範子親王)も生まれます。しかし、すぐに清盛の知るところとなり、小督は帝から引き離され尼にさせられてしまいます。それを悲しみ高倉帝は間もなく亡くなられます。小督という美しい人には悲しい人生の結末が待っていたのです。

平家物語は清盛の非道さを際立たせ、ゆえに滅びに向かうという、その物語の流れの中に、高倉帝と小督の悲劇をドラマチックに描いていて、その描写が史実かというと定かではありません。しかし小督という女性は実在し、尼となって生きたということは事実のようです。
能『小督』は小督という女性の人生を直接描いたものではなく、その後の小督がどうなったかも記していませんが、そのような数奇な運命をたどった人なのだということを心に止めて鑑賞すると、また違う深味も出てくるのではないでしょうか。

シテ方にとってよい能を作るにはシテとツレとの配役のバランスが大事です。
例えばシテがいくら立派でもツレが未熟だとよい能になりませんし、逆でももちろん然りです。

両者には充実した謡と型の力量が求められます。私が『小督』を披いたのは平成2年4月、厳島神社桃花祭の神能のときで、34歳でした。私が30代でしたので、ツレは当然私より若い20代の粟谷浩之君と友枝雄人君でした。この時はまだ能としての作品を深く考えず勤めていたなあ、と反省しています。もちろん、能楽師は将来のために、若いうちにいろいろな曲に挑んでいなければいけないのですが、本当に曲の深さがわかるのはやはり似合った年齢での再演なのかもしれません。老女物は一生に一度きりということもあるでしょうが、それ以外は早めに挑み、それを深めるのが肝要です。


私が『小督』を披いて30年近くが過ぎ、今回の演能は、私(シテ)が61歳、ツレ(小督)が佐々木多門氏45歳、供女の大島輝久氏が41歳でした。もちろん年齢だけでなく、芸力が大きく左右しますが、丁度良い配役、それぞれが役柄に似合った謡を謡い込め、ツレだけでなく、三役も、そして関わってくださった方々すべてが、「大人の舞台作り」にご協力いただいたことに感謝しています。ただ、ご覧になった方から「粟谷さん、お若い、とても60歳の老人には見えませんでした」というお声を聞き、「いや60歳ぐらいの老人に見えなくてはいけないのだが・・・」と素直に喜べない複雑な心境となったことも事実で、「もう少しお爺さんになってまた、もう一度勤めないといけないのかな・・・」などと感じた『小督』となりました。
(平成29年9月 記)

写真提供 石田 裕
写真 小督 シテ粟谷明生  

『忠度』の執心 ー 桜に事寄せて描く ー投稿日:2017-07-07

『忠度』の執心
–桜に事寄せて描く– 


(新宮夕海)

私の能『忠度』の初演は平成7年3月5日(粟谷能の会)でした。それから22年、今回、平成29年6月25日、喜多流自主公演において再演しました。

狂言にも忠度を扱った『薩摩守』という曲目があります。出家僧が茶屋の代金を払わないで出ようとするので、亭主が咎めますが、もちろん僧は無一文。あわれに思った亭主は、この先、渡しで困るだろう、そのときは船頭が秀句(しゃれ、軽口)が好きだから、船賃を請求されたら「薩摩守!」と言い、「その心は?」と問われたら「平家の公達、忠度」と言えばいいと教えます。良いことを聞いたと勇んで船に乗る僧ですが、「その心は?」のあとの「薩摩守」を忘れて「青海苔の引き干し」と答えてしまい、船頭に叱られて退散するというお話しです。このしゃれは言うまでもなく、忠度にただ乗り(無賃乗車)を掛けたものであり、青海苔は忠度のうろ覚えで咄嗟に出た言葉です。こういうしゃれや掛詞を、昔の人は好み、和歌や能にも多用されています。
私も高校生のころ、『忠度』の舞囃子を舞うことがあり、父に『忠度』について尋ねるとすぐ「薩摩守、ただのり!無賃乗車」と笑顔で返してくれた父の顔を思い出します。



(石田 裕)

能『忠度』は平忠度が自分の和歌が千載集に入ったが、名が載らず、「詠み人知らず」になったことへの不満、執心をテーマにしています。

千載集に入った歌は、「漣や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」です。
文武二道に生きた忠度は、一ノ谷の戦いに出向くとき、この戦が自分の命の最後と覚悟を決め、和歌の重鎮・俊成卿に自らの和歌を託して出かけます。自分の命は尽きるとも、和歌と共に名を残したいという一縷の望み。しかしその後、忠度が朝敵ゆえ名前を載せるわけにはいかないと「詠み人知らず」になってしまいます。その無念で、忠度は妄執の世界を彷徨うこととなるのです。ここに焦点を当てたのが世阿弥です。

もし「漣や・・・」の歌に「平忠度」と名があったら、世阿弥は能『忠度』を創作しなかったかもしれません。名前が載らなかったことで逆に、こうして名前が残る、大いなる皮肉です。



(新宮夕海)

ところが、能『忠度』には千載集に入った「漣や・・・」の歌は一度も出てきません。
一曲に流れるのは、忠度の辞世の歌、「行き暮れて木の下かげを宿とせば 花や今宵のあるじならまし」ばかりです。

千載集に入ったが「詠み人知らず」になったというエピソードを物語の中心に据え、和歌への執心をテーマにしながら、辞世の歌にある桜の木に事寄せて美しく創り上げた世阿弥のセンス、その良さが光ります。



(石田 裕)

舞台は、俊成卿にゆかりのある旅僧(ワキ)が津の国須磨の浦にやって来るところから始まります。ワキは一本の桜の木を見つけ、そこに樵翁(前シテ・忠度の化身)が現れて、この桜はある人の跡のしるし、手向けにやって来ていると語ります。舞台上には桜の木があるわけではありませんが、ワキとシテの謡を聴きながら、正面席中央あたりに桜の若木があると想像してご覧になっていただきたいのです。簡素な舞台装置で観る人に想像していただく、これが能の演出方法です。



(石田 裕)

やがて日が暮れ、旅僧は一夜の宿を所望します。
シテ:「お宿ですね。参らせましょう。や、この花の蔭ほどの宿があるでしょうか」
ワキ:「花の宿というなら、誰を主と定めたらよいのでしょう」
このワキの質問に、シテは力強く「行き暮れて」と謡い「花や今宵の主ならまし」と詠じた人がこの木の下に眠っている、ここで仮寝をしたらいい、そしてこの主を弔ってほしいと言い、自分はその主であるとほのめかして姿を消します。老人の思いが次第に強く変わっていく様をどれだけ見せられるか、が演者の力量を測るところと思っています。



(新宮夕海)

後場は、桜の下に仮寝をする旅僧の夢に忠度の霊(後シテ)が現れ、和歌への妄執と一ノ谷の合戦での最期を語り、最後は「木陰を旅の宿とせば、花こそ主なりけれ」の地謡に合わせ、桜を見ながら袖をかついで一曲は終わります。

平家の武将をシテとしながら修羅能的な要素は少なく、花に添えた優美な作りは、なかなかない戯曲ですが、やり甲斐のある曲で、能楽師であれば憧れる一曲です。



(新宮夕海)

能『忠度』は各流儀、多少の演出の違いはありますが、小書というものがありません。つまり、世阿弥の渾身の作で、非の打ち所がないということです。時間の都合でどこかを短縮するなどということが出来ない、手の入れようがない作品です。演者はこの優れた戯曲をいかに観客に届けるかに苦心しなければいけないようです。

『忠度』のシテ謡は前後共に一声です。前シテは「げに世を渡る習とて、かく憂き業にも懲りずまの・・・」と強吟の強い息ではじまり、途中からわずかにやわらかい和吟が入り、また「そもそもこの須磨の浦と申すは・・・」で再び強吟に、と強吟と和吟が入り混じっています。ここの謡い分けが難しく、忠度の文武両道に秀でたものの性格をにじみ出させているのかもしれません。あるときは強い武将らしさ、あるときは風雅な和歌を愛する優美さ、やさしさを謡で表現するのが能らしい演出と言えます。

後シテの一声には忠度の言いたいことすべてが込められていて、この曲の最も大事な謡いどころです。中でも「詠み人知らずと書かれしこそ、妄執の中の第一なれ」ここを最も強い気持ちを込め、強い意識で謡う、これが先人からの教えです。
強吟と和吟の入れ替わりは技法的にも難しく、強さが乱暴にならず、また和吟が浮わついてもダメで、その微妙な加減を音を外さずに謡い分けるコントロールが大事で、演者の力量が測られるところでもあります。
能『忠度』はとりわけ、修羅物の中でも謡が難しい部類に入る曲だということを、今叉再認識いたしました。


   
(新宮夕海)

後場の見どころの一つに、一ノ谷の合戦でのワンシーン、仕方話で繰り広げるところがあります。忠度と岡部六弥太、郎党たちとの壮絶な戦い。忠度は右手を切り落とされ、それでも六弥太を投げ飛ばし果敢に戦いますが、遂に観念し西方極楽浄土に向かい念仏を唱え首を討たれ最期を迎えます。六弥太は忠度の箙にある短冊をつけた矢を見つけ、相手が薩摩守忠度であることを知ります。この合戦シーンをあるときは忠度、あるときは六弥太等と、シテ一人二役を演じます。最初は忠度自身を演じ、「六弥太太刀を抜き持ち」から六弥太となり、「行き暮れて・・・」の歌を朗詠するところからまた忠度に戻ります。役柄とその心を入れ替えて演じます。
「よく、一人で両方ができますね」などと言われますが、演者達は若いころから舞囃子などで何回も稽古しているうちに、自然と体にしみ込み慣れてしまい、さほど手ごわい感じを持ちません。もちろんその慣れが危険性も含んでいるので、充分気をつけなくてはいけないのです。

今回の面はすべて粟谷家所蔵の面を使用しました。
前シテが「三光尉」(友閑作)で、後シテは「中郎将」と記載されている作者不明の「中将」です。忠度にはぴったりと思い、迷いなく最初から決めていました。

後シテの装束は「紅白段山道模様毘沙門亀甲輪宝熊笹」の厚板を着付に選びました。
これには拘りがありました。実は、昔伯父の粟谷新太郎が着ていたのを見て、いつか自分も着たいと憧れていました。先人たちの演じる曲や装束を見て、いつか自分も、と、憧れを持つことは能楽師にとってとても大事なことだと思いますし、また後輩たちからもそう思われるような能楽師を目指したい、と思っています。今回、一つの望みが叶いました。



(石田 裕)
そして常は長絹を着ますが、今回は替えとして「単衣法被(ひとえはっぴ)」にしました。仕立ては長絹とほとんど同じですが、長絹が胸元と袖下に「露」を付けるのに対し、単衣法被は付けません。長絹の雅モードより、やや甲冑モードで勇ましさを出したいと思い試みてみました。
さて22年ぶりの『忠度』、当時を思い出しながら稽古をしました。私の師は友枝昭世師ですが、何曲か父が絡んで教えてくれたものがあります。『忠度』もその一つで、父の言葉が蘇ります。
たとえば、忠度が狐川より引き返し俊成卿の家に行き、百余首の歌を書いた巻物を託し、一首なりともとってほしいと嘆願するエピソードを語ったあとです。
「又、弓箭にたづさはりて。西海の波の上、と正面への一足シカケ、これは丁寧に大事にね。歌を詠んで楽しんでいたのに、こんな戦になってしまって、と強い憤りの気持ちを込めてシカケるんだよ」の父の言葉は印象深いです。歌への思いを振り払い、武士として戦場に赴く忠度の姿を描き出します。
そして「暫しと頼む須磨の浦。源氏の住所(すみどころ)。平家の為はよしなしと、知らざりけるぞ儚き、これ明生、分かるか?」に、きょとんとしていると、「須磨の浦は源氏の居場所で平家の居る所じゃないんだよ。この源氏は光源氏のことだからね。」
てっきり「源氏の住所」は源頼朝や義経の源家のことだと思っていた私には、衝撃が走りました。「須磨といえば光源氏!」とすぐに思い浮かばなければいけないのです。
須磨は源氏に縁のある土地、平家の土地ではない、と作る世阿弥の戯曲の上手さ。
前シテの一声でも、「わくらばに問う人有らば須磨の浦に藻汐垂れつつ侘ぶと答えよ」という、能『松風』にも使われている在原行平の歌を引いて須磨の浦の寂しさを謡い上げています。世阿弥は一ノ谷の合戦があった須磨の浦という土地柄に思いを馳せ、源氏物語や行平の歌をも重ね合わせ、和歌の名手・忠度の物語にふさわしい戯曲を創り出したのです。



(新宮夕海)
二十数年前は何も考えていなかった、何も分かっていなかったと、わが身を振り返ります。今ようやく世阿弥が創り出した世界、宿の主として人を包み込むような大きな花、辞世の歌を詠んだ短冊、人生のさまざまな出来事、うまい道具立てをぎっしり詰め込んだ『忠度』、戯曲の意図するところが少し分かるようになってきたと感じています。



(石田 裕)
だからといってそれが表現できるかというと難しく、手こずっています。
説得力ある伝わる謡を謡いたい、と心がけていますが、無念の思いには繊細なものと粗野でゴツゴツした部分もあるだろう、などと考えて稽古したり・・・。しかし考えずとも自然に忠度になれるのが本物、それは判っているのですが、まだまだ道は遠いと思いました。                     (平成29年7月 記)

写真『忠度』シテ・粟谷明生
撮影 新宮夕海 石田 裕

『三輪』を勤めて ー 神々のちょっとエッチで面白い話 ー投稿日:2017-05-07



撮影 潮 康史

『三輪』を勤めて
–神々のちょっとエッチで面白い話–
広島蝋燭薪能(2017.5.15)にて『三輪』を勤めました。広島蝋燭薪能はこれまで、二年連続雨天のため屋内のアステールプラザ能舞台での演能でしたが、今回は三年ぶり快晴のもと、広島護国神社の特設能舞台にて催すことが出来ました。ご覧いただきました方々より、「少し寒くはありましたが、やはり屋外の方が雰囲気、空気感がよいですね」とのご感想をいただきました。



撮影 潮 康史
『三輪』は初番目物(脇能)にも四番目物としても扱える曲です。さほど難しい内容ではありませんが、三輪山の祭神、ご神体が男神でありながら、女姿で物語を進行させるところに、能独特の演出マジックがかけられているのではないでしょうか。
能『三輪』は一寸エッチな部分もある面白いお話で、能楽師にとってやり甲斐のある曲のひとつであると思います。



撮影 石田 裕
そのエッチな部分とは『三輪』のクセの部分にあります。いわゆる三輪の神婚説話のくだりです。
「されども此の人、夜は来れども昼見えず、或夜の睦言に御身、如何なる故に因り、かく年月を送る身の、昼をば何と烏羽玉の夜ならで通い給はぬはいと不審多きことなり」
この「此の人」とは男、三輪の男神です。男は里女のところに毎夜通いお楽しみになり、女もまんざらではなさそうで、夜だけじゃなくて昼にも来てよ、とおねだりします。男は昼は恥ずかしいから、だめ、と拒否しますが・・・。女は通ってくれる男の正体を知りたく、男に糸を付けてその住処を探そうとすると、その糸は杉の下へと垂れて・・・。
「糸、繰り返し行くほどに。この山本の神垣や、杉の下枝に止まりたり。こはそも浅ましや、契りし人の姿か」。そこで見てしまったものは、蛇でした。
「私のお相手は蛇?」とビックリするのは女だけではなく、お話の内容がよく理解出来ているならば、私たち観客もきっと驚いてしまうのではないでしょうか。



撮影 石田 裕 
ただ、能の詞章には「蛇」という言葉はなく「羽束師の(はずかしの)」姿ほどの表現ですが、もとになる説話から蛇とわかる仕組みで、しかも、男の正体は三輪明神とも知らされるのです。
話は少し逸れますが、私は伊勢神宮の神、天照大神は女神だと思っています。が、江戸時代の喜多流は神が女であることを嫌い、天照大神を取り上げた『絵馬』を男神の演出としました。但し、今は「女体」の小書が付くと女神として演じることが許されています。喜多流の普通の『絵馬』は天照大神が女神だと思っている私には理解に苦しむ設定で、多分普通の演出の『絵馬』は今後勤めることはないでしょう。



撮影 潮 康史
さて神々が男であるか女であるか、また三輪は伊勢の元であるとの説も一旦置いておいて、ここからは能『三輪』をご鑑賞になる手引きとしてお読みいただきたいと思います。
男の神が里の女のところに通うことや、実は自分が蛇でもあることなど、また天照大神になりかわり、岩戸隠れの有様を紹介することも、すべてシテが女姿で演じます。この手法が、お話を理解しづらくしている一方で、逆に不思議な演出効果をあげ、いかにも能らしい演出の特徴となり、魅力となっていると思われます。



撮影 石田 裕
後シテの装束は確かに女姿ですが、金風折烏帽子を付け男の風情をにじませ、里女でもあり、通ってくる男神(三輪明神)であり、女神(天照大神)でもあって、観る人を靄(もや)がかかった神域へと誘っていきます。また、後シテの面は通常「小面」ですが、今回は試しに「増女」で演じてみました。一寸、エッチなお話に純粋で可愛い「小面」の表情よりは、大人びて神々らしい「増女」の方が似合うのではないだろうか、と考えて勤めてみました。



 撮影 石田 裕
能『三輪』のもう一つの見せ場は神楽とその後に展開される天照大神岩戸隠れの場面です。天照大神が岩戸にお隠れになってしまったため、世の中は真っ暗闇となり、困った神々は相談して岩戸の前で歌い踊り、楽しげに騒げば、「なにやら外で面白そうな事がありそう」と天照大神が岩戸から顔を出すだろう、その時、力持ちの手力雄命(たぢからおのみこと)が岩戸を開けてしまえばいい、との作戦を立てます。作戦は見事に当たり、戸は無事開き、また日が差して世の中は明るくなり、神々の面が白く見えたので、「面白い!」となった、というわけです。この楽しげに踊るところを神楽で見せ、岩戸を開けるところは神楽の後の舞で見せますが、ここが一番の見どころです。



撮影 石田 裕
そして最後は「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と磐座(いわくら)や、その関の戸の世も明け・・・」と締めくくります。
私は「伊勢の女神も三輪の男神も仲良く御一体、夫婦仲良いんですよ」と観て下さる方々に思っていただければ、それでいいのでは、と思い勤めました。
ですから、三輪は男神でお伊勢さんは女神であってほしい、と思うのです。



撮影 潮 康史
今回の演能は18時開演で21時の終了を目指したため、『三輪』は一部を割愛させていただきました。通常100分ほどかかるところを70分にして演じました。
能は与えられた環境、状況に適応して演じ方を工夫すればよいと思います。
もちろん物語の展開に支障をきたしてはいけませんが、作品内容がわからなくならない程度なら、事情に合わせ、多少割愛してもお楽しみいただければよいと思っています。


 
さて、今回小書無しの普通の『三輪』は二度目でしたが、前回も広島「花の会」(1994.9.10)で、どうも広島に縁のある曲のようです。しかし広島に限らず、いろいろな地域でご覧いただきたく活動の範囲を広げて、叉再演したいと思っています。(平成29年5月 記)

『伯母捨』で地謡を謡う投稿日:2017-03-07



『伯母捨』で地謡を謡う
粟谷 明生

粟谷能の会の百回公演(平成29年3月5日)が無事終了しました。これもひとえに、観客の皆さま、舞台づくり関係者のみなさまのおかげと感謝申し上げます。粟谷能夫が大曲『伯母捨』を披き(私は地謡)、私が『石橋』一人獅子を披きました。百回への思いを込め、充実した時を過ごすことができ、今、ほっと一息ついたところです。


粟谷能の会は伯父・粟谷新太郎と父・粟谷菊生が昭和37年に立ち上げた会で、名称は粟谷会、粟谷兄弟能、粟谷能の会と変遷しましたが、以来、五十余年、年2回か1回の会を重ね、途中、伯父や父が亡くなった後は粟谷能夫と私が引き継ぎ、継続してきました。個人の会が珍しい時代に、主催者側の思いで、ある程度自由に執り行うことができる会を、伯父や父が起こしてくれたことは先進的で志があったことと思います。我々もその志を継ぎ、この会にどう曲目を選択し意義ある会にするかを、常々考えて臨んできました。

能夫は以前から老女物に取り組みたいという強い志がありました。「老女物をやらずに死ねるか」はお酒が入ると決まり文句でもありました。老女物の秘曲は『檜垣』、『伯母捨』、『関寺小町』で特に三老女物と呼ばれています。喜多流と金剛流は『伯母捨』ですが他の流儀は『姨捨』と表します。もちろん内容は変わりません。喜多流では『関寺小町』は江戸時代に事情があり止め曲になってしまい、『檜垣』と『伯母捨』が事実上、老女物の双璧となっています。

老女物は秘曲として神棚に挙げられ、あまり上演されることがない時代が続きましたが、この秘曲・名曲を埋もれさせてはならない、何とか世に戻したいとの思いで、父・粟谷菊生に演能依頼の話を持って行ったのは、実は能夫と私でした。そして喜多流として180年ぶりに『伯母捨』(シテ・粟谷菊生)が復曲したのです。平成6年10月の粟谷能の会のこと、もう23年も前になります。その後は大島久見氏、友枝昭世師が2回、高林白牛口二氏、香川靖嗣氏、内田安信氏が勤め、能夫は7人目となりました。私もそのうちの5回に地謡を勤めさせていただきました。一方の『檜垣』も、能夫と私で友枝昭世師に披いていただくなど仕掛けをしてきました。老女物の秘曲を神棚に飾るものではなく、多くの人に観て感じていただけるものにしたい、いつかは自分も勤めてみたいという思いでやってきました。


では、いつどのようにして披くか、個人の会にするか、などいろいろ悩みもありましたが、やはり長年育んできた粟谷能の会がふさわしいのではないか、しかも百回公演という節目を迎えるこの会がよい、と照準を合わせ、満を持しての能夫の『伯母捨』となったのです。『檜垣』にするか『伯母捨』にするかもだいぶ迷った時期もありましたが、結局は『伯母捨』になりました。

さて、能『伯母捨』は何を言いたいのでしょうか。
昔から各地に姨捨伝説がありますが、なかでも「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」(古今集・詠み人しらず)の歌に触発されて戯曲されたのは確かでしょう。近年は深沢七郎著「楢山節考」が広く知られ、その世界を想像する人も多いでしょうが、能が描くものは全く違います。山に捨てられる悲惨な物語は狂言方が語るアイ狂言に委ねられ、能自体にはそのようなリアルな悲しい物語は現れてきません。能『伯母捨』をご覧になる時は、一度「楢山節考」のイメージを払拭してからご覧になるとよいのではないでしょうか。


『伯母捨』は、中秋の名月のもとで、一人の老女が舞を舞うことが主題なのだろうか。人の世を脱し、月の光に同化し、浄化された明るく清らかな世界を見せたい、ただそれだけかもしれない・・・などと考えます。シテは年老いて山に捨てられた老女の霊です。にもかかわらず、そのことを悲しんだり、恨んだり、救いを求めたりしないのです。ワキも都の者(下掛りでは、陸奥の者で都を旅してきた者)で、僧ではないので、最初から救いをテーマにしていないことが分かります。「執心の闇を晴らさんと」や「思ひ出でたる妄執の心」と地謡が謡うところはありますが、そう深刻ではありません。美しい月の光を浴びて、この世の悲しみや恨みを突き抜けて浄化しているように見えます。

そのような作りでありながら、アイ語りに悲しい姨捨伝説の内容を語らせ、そっとその悲惨さを提示するのは能らしいところなのかもしれません。ただ普通、アイ語りは中入りしたシテが装束を替える時間に、物語と同じ内容を要約し補足説明することが多いのですが、『伯母捨』では、全く前場・後場に登場しない物語を語るところが特異です。


前場では、中秋の名月が近くなったある日、ワキが長い旅の末に姨捨山にやって来ると、里女(前シテ)が現れます。ワキが有名な姨捨の地を尋ねると、「わが心慰めかねつ・・・」の歌を詠んだ人の亡き跡ならと案内します。そして、月見の宴の慰めにまた参りましょうと約束し、自分はその姥の化身であることをほのめかして姿を消します。
初同(最初の地謡)の「今とても。慰めかねつ更級や。・・・」はゆったりとした調子で謡い出します。秘曲中の秘曲、これを掘り起こしたときはゆっくり荘重に謡うことを旨としました。車に例えると、制限速度40kmなら、そのようにただただ慎重にゆっくり謡うという感じです。しかし、この秘曲も8回目、私も地謡を5回経験すると、ただ重苦しくゆっくり謡うだけでよいのか、という思いにとらわれます。戯曲の内容を考え味わうなかで、少し謡の運びを速めたほうがよいのではないか、加重された謡から減量を意識した謡へと変化しなくては、と気づきました。

老女物といっても、前シテは杖にすがって出てくるわけではありません。老いの寂しさ、一人捨てられたつらさを突き抜けて、月と同一体となる老女は弱々しいのではなく、相当強くエネルギッシュなのです。リアルな老いを描くより、むしろ老いを超越した姿を描くのですから、それに似合う謡が必要です。秘曲を大事にするのは判りますが、あまりにもゆっくり重く慎重に謡うのが保守本流と決めつけこだわるのはどうだろうか、と感じました。これからは地謡も囃子も手慣れることで運び、適度なノリを付けることが大事だと思っています。


後場の地謡は特に曲(クセ)が硬質です。「さる程に。三光西に行く事は。衆生応じて西方に勧め入れんが為とかや」(日、月、星の三光が西に廻ることは、生きとし生けるものを西方浄土に導こうとするためだとか)からの謡は三光の功徳や大勢至菩薩が住む月の極楽世界を描き出します。クセで、「心引かるる方も有り」までの和吟が「蓮色々に咲き交る」から強吟になり、思いが強くなっていきますが、ここの父・菊生の謡が絶妙で、私も父の謡を思い出し、精一杯真似て謡い上げました。

そして、地謡はさらに続きます。「勢至菩薩の光はすべてあまねく照らすので無辺光ともいわれるが、しかし月はある時は満ちある時は欠け」と世の中の無常を語り、シテの「昔恋しき夜遊の袖」につなげ、序ノ舞となります。
序ノ舞は珍しく太鼓入りです。クセの後半から謡が強吟になり思いが強くなるのと呼応しているのでしょうか。シテもそれまで持っていた杖を捨て、中啓で舞い始めます。老女というより大勢至菩薩になったような風情です。面は「姥」で老婆ですが、杖を突いて足を引きずるような老婆ではなく、天空に遊ぶ、無重力状態で滑るような運び、エネルギーある運びが必要です。


『伯母捨』は夢幻能です。老女をシテにした『卒都婆小町』や『鸚鵡小町』などは現在物でリアルな100歳の老女小町を描き出しますが、『伯母捨』は夢の中のできごと、夢かうつつかわからない、夢の中で遊び戯れる、まさに胡蝶の遊びのような趣なのです。
「思ひ出でたる妄執の心。・・・恋しきは昔。偲ばしきは閻浮の。秋よ友よと思い居れば・・・」と少しの執心をにじませますが、はや夜が明けて、シテの姿は消えていきます。

これで、普通ならシテが留め拍子を踏んで終曲し、シテ、ワキの順で橋掛りを通り消えていくのが常ですが、この秘曲『伯母捨』は特異です。「我も見えず」「旅人も帰る跡に」と地謡が謡い、ワキがシテの前を通り抜け、先に引き上げてしまいます。シテは舞台中央に座り込んで一人取り残されます。ワキは、消えてしまった亡霊のシテが見えずにそのまま引き上げるという演出です。

最後にシテが「独り捨てられて老女が」と謡い、地謡の「昔こそあらめ今も亦。姨捨山とぞなりにける。姨捨山となりにけり」と終曲します。老婆が本当に一人取り残され、姨捨山と一体化し、姨捨山の土になり自然に溶け込んでいくかのような風情です。他の曲にはない印象的な終曲で、人間の深いところを抉り出しているように感じます。

シテの「独り捨てられて・・・」以下の場面は、一般の能なら描かない部分です。現代の映像や舞台演出ならば、姨捨山の風景をスクリーンやステージ背景に映し「独り捨てられて・・・」以下をナレーションに語らせ、余韻を残した印象的な終わり方にするかもしれない・・・そんな想像をしてしまいます。

ワキが引き上げて、消えたはずのシテに敢えてセリフを言わせるのは、あまりにも前衛的です。シェイクスピアより100年も前の演劇で、これほどに前衛的なことが行われていたことが驚きであり、誇りでもあります。ただ、この感覚、観る側も相当前衛的でないと真意がわからないかもしれない、難しい・・・とも思うのです。

今回の後シテの白衣の装束は、白は白でも和の白で、やや茶の入った生成りに近い白です。これは観世銕之丞家から拝借したお装束で、能夫は長絹や白大口袴を白地にするか生成りにするか、と迷っていましたが、今回選んだ生成り色が、本当に姨捨山に同化する感じとなり、良い選択だったと思っています。
ここで改めて観世銕之丞氏へ厚くお礼を申し上げたいと思います。

粟谷能の会百回公演で、私はこの秘曲の地謡を謡い感じることが多くありました。次の『石橋』のことを考えると、体力的にきついだろうと思いましたが、日頃からご指導をいただいている友枝昭世師や私をこの道へと引きずり込んでくれた粟谷能夫への、その感謝の思い、そして最初にこの秘曲を手がけてくれた亡父・菊生への思いも込めて謡ったことに間違いはありません。

この大曲、地謡を謡わずに高みの見物気分でいたら、屹度作品の良さと難しさは判らなかったでしょう。もちろん今も判らないことだらけなのですが、ただ実際に舞台の中に入って謡うことで、作品により近く触れることができたことは、実感です。これからも多くの人が経験し、今後にその時代に合わせて伝えていってほしいとの思いを強くしました。
                    (平成29年3月 記)
写真
能『伯母捨』シテ・粟谷能夫 撮影 吉越 研
半能『石橋』シテ・粟谷明生 撮影 石田 裕
事前講座にて粟谷能夫と粟谷明生 撮影 石田 裕
第100回粟谷能の会当日番組表紙 
当日番組
能『伯母捨』シテ・粟谷能夫 撮影 吉越 研
能『伯母捨』シテ・粟谷能夫 撮影 青木信二

『石橋』一人獅子を披く投稿日:2017-03-07



(撮影 石田 裕)
『石橋』一人獅子を披く
粟谷 明生

中国が唐と呼ばれていた時代、所は霊場(仏教における霊地)、清涼山に千丈の深谷をまたぐ石橋がありました。橋の向こうは、文殊菩薩が住むという浄土。
しかしこの橋、幅は一丈にも満たない狭さ、苔むしてツルツル滑り、足を踏み外したら谷底にまっさかさま、危険極まりない橋です。そこへ文殊菩薩の眷属ともいわれる獅子が現れて、橋の上を軽々と飛び跳ね舞って見せる、それが能『石橋』です。

第百回目の粟谷能の会(平成29年3月5日)では、粟谷能夫の大曲『伯母捨』が企画され、2時間半ぐらいの長丁場が予想されたので、私の演能は短く、それでいて豪華絢爛で楽しんでいただけるものをと考え、まだ披いていなかった喜多流独自の巻き毛の一人獅子を半能で披くことになりました。


(撮影 石田 裕)

『石橋』は一時途絶えていましたが、江戸時代初期に喜多流がいち早く復曲して以来、広く親しまれ、現在は五流にさまざまな演出で引き継がれています。
喜多流は親獅子(シテ・白頭)と子獅子(ツレ・赤頭)が出る「連獅子」と赤い巻き毛の頭を付ける一人獅子の演出があります。

私の『石橋』の演能は子獅子を7回勤め、平成21年の秋の粟谷能の会で親獅子(シテ)を披き、今回、一人獅子を披きました。私のように子獅子から親獅子、最後に一人獅子を披く流れと、子獅子のあとに一人獅子を勤め、その後に親獅子を披く順序を吉とする考え方もあるようですが、今は、その時代に合わせて指導者と当事者で自由に選べる時代に変わりつつあるようです。


(撮影 三上文規)

私自身は今回一人獅子を披いて、子獅子のきびきびとした俊敏な動きをまず学び、次に荘重で威風堂々、どっとしりした親獅子の舞い方を経験した上で、巻き毛の赤頭の一人獅子の敏捷性とどっしりとした威厳ある動きの双方を意識し勤められるのではないかと感じました。

現在喜多流は、獅子全体を大事にし過ぎて、『道成寺』を披かない、経験させないと子獅子に挑めない現況ですが、それはどうだろうか、と疑問を感じています。次世代の子獅子の披きが遅くなっている要因となっているのは確かです。

私自身も子獅子の披きは『道成寺』の後で34歳でした。子獅子は軽やかできびきびした動き、親獅子を上回る激しい動き、一回転半を軽々とこなせる体のキレが必要です。獅子の披きが遅くなっている現況を再考し、若いうちに子獅子が披ける環境を作るべきで、その方が、喜多流の隆盛に繋がると思うのですが・・・。


(撮影 石田 裕)

話を舞台に戻します。
囃子方や地謡陣が着座すると、紅白の牡丹を華やかに飾った二台の一畳台を運び入れます。伝書には、二台をピッタリ合わせて前後に置くように書かれていますが、最近は二台をやや左右にずらして、舞台上に広がりを出すようにしています。私もそのような置き方にしました。さらに立体感を出すために二台を前後に少し離すこともありますが、これは難しく危険を伴います。
演能後、牡丹が邪魔してシテの動きが見えなかったとのお話を伺いました。
確かに現在の作物は牡丹の花房が密集しているため見づらいようです。ご覧になる方々に配慮し、もう少し間引いて、牡丹の花の間からもご覧いただけるように改善の余地があることを知りました。


(撮影 新宮夕海)

『石橋』の獅子の構成は、乱序の囃子が始まり、シテ・獅子の登場となり舞います。この乱序からはじまる演奏部分がより一層舞台に緊張感を漲らせます。
笛が高い調子で吹き上げ、大鼓、小鼓の叫び吠えるような荒々しい掛け声、太鼓も加わって激しい演奏となり、幽山深谷のすさまじさを表現します。途中、「露の拍子」といわれる、太鼓と小鼓だけで囃されるところは、露がポツンポツンと滴り落ちる静寂な段となり、そしてまた、笛が吹き出し大鼓が加わっての大合奏となり、シテは幕をあけ、すっと出て一度止まり、左右の足を上げ前へ乗り込みます。橋掛りを真っ直ぐ進み、一の松前にて牡丹を見込んで、三度飛んでクルッと回転して足拍子を踏むと、本舞台へスピードを増しながら進み、一畳台前まで進み、直ぐにシサリ下に居て面を伏せます。ここまでが細かくいうと乱序です。リズムがない文字通り乱れた囃子、それにのって、獅子が登場する場面で、囃子方の演奏の聞かせどころでもあります。楽しんで聞いていただき、幽山深谷を想像していただきたいところです。


(撮影 青木信二)  


(撮影 石田 裕)

その後がいよいよ獅子舞、リズムにあった囃子になり舞となります。今回は九段構成で勤めました。近年は八段ですることが多くなりましたが、正式は九段です。細かく獅子舞の構成を説明すると、左へ右へと顔を振り、牡丹に戯れ、香りをかぎ、橋を想像させる一畳台に上がっては喜び戯れるイメージとなります。時折、吠えるように面を後ろに反る所作をしますが、これは獅子が口をあんぐり開けている感じの表現ではないでしょうか。


(撮影 吉越 研)

獅子は一畳台の上に上がったり降りたり、激しい動きをしますが、以前野村万作先生が「獅子はライオン、ネコ科だろ。ダンダーンとけたたましい音をたてて台に乗るのはどうだろうか?」と、耳元で言われたことは忘れられません。なるほどもっともと納得した次第ですが、いざ自分が、となるとなかなか難しいものでした。音を吸収させ飛び跳ねる、至難の技です。


(撮影 新宮夕海)

今回、大曲『伯母捨』の地謡で2時間半ほど正座した後で、肉体的にはかなりきつかったのですが、限界ぎりぎり精一杯勤め、おめでたい百回公演を締めくくることが出来たことに正直安堵しています。

『石橋』の半能というのは、前場がなくとも、豪華絢爛の獅子舞で十分楽しめ、能として、独立して成立する内容だと思います。それでも、石橋というものがどういうものであるか、分かったうえで、この半能を観ていただくと、より深みが増すのではないかと思い、今回は番組に前場の詞章をすべて掲載しました。
半能で謡われるのは、ワキの「もと大江定基といわれた寂昭法師である、ほうぼうの仏跡を参拝して廻り、今清涼山にやってきた、ここに見えるのは石橋のようだ、向いは文殊の浄土、詳しく尋ねて、この橋を渡ろうと思う」という短い名乗りのみで、すぐに獅子登場です。


(撮影 新宮夕海)

しかし、前場の詞章には、ここがいかに秘境であるか、石橋がいかにすさまじい橋であり、また徳ある橋であるか、ここを渡れば文殊菩薩が住む浄土に到るけれども、相当の修行をした僧でもそう簡単に渡れるものではないといったことが余すところなく書かれています。


(撮影 石田 裕)

前場もある演出で行った、平成13年の秋の粟谷能の会(親獅子:粟谷能夫、子獅子:粟谷明生)で、父・粟谷菊生が地頭を勤め、クセなど、『石橋』の世界を謡い尽くしてくれたこと、忘れることができません。中入り前の地謡の最後「向ひは文殊の浄土にて、常に笙歌の花降りて・・・」と花降り妙なる音楽が聞こえてくるのは、奇特が現れるきざし、もう少し待ってごらんなさい、菩薩の来現も間もなくでしょうと謡い、中入り後、期待が高まるなかで、文殊菩薩が乗るという獅子が現れるのですから、それは奇跡であり、めでたさの窮まりで、絢爛な獅子舞が一層躍動して見えることでしょう。


(撮影 成田幸雄)

今回、一人獅子の赤い巻き毛を、佐々木多門氏に巻き直し作業をしていただきました。細かい手作業を丁寧にやっていただき感謝しています。
装束付けも、前場が無いため中入り後の慌ただしさはなく、ゆったり準備ができました。次世代の方々が巻き毛を実際に触れながら、そのうち自分が勤めるときは、いつか自分も、と憧れをもってくれたらと、出を待ちながら思った「一人獅子」のお披きでした。
(平成29年3月 記)

『望月』という仇討ち物語投稿日:2017-02-07

『望月』という仇討ち物語
粟谷 明生



平成29年の私の演能は、喜多流特別公演『望月』(1月29日、於:喜多能楽堂)からスタートしました。
能『望月』はシテの小沢友房が主君・安田友春の妻(ツレ)と子(子方)と共に、仇討ちを果たす比較的単純でわかりやすい物語です。シテはほとんどセリフばかりのセリフ劇ですが、獅子舞があることから、重い習いとなっています。
また、仇討ちで重要な役割を演じる主君の子・花若役の子方にちょうどよい歳ごろの少年がいなければ成立しない曲でもあります。今回の特別公演では子方を大島伊織君が勤めてくれましたが、ちょうど子方適齢期です。ツレ役の父・大島輝久氏とともに、息もぴったりで立派に勤めてくれたことが、とても嬉しかったです。

『望月』の見せ場は仇討ちの場面に向けて、緊迫感溢れるクセ謡、そして子方の鞨鼓を付けた舞、シテの獅子舞と続きますが、実はシテ役としては、そこに至るまでの小沢刑部友房の心をいかに表現するかが大事で、課題です。能としての様式美を崩さず品位を保ちながらも、戯曲の面白さを伝えなくてはいけなく、あまり感情が入り過ぎては能の世界の結界を超えてしまい、かといってただセリフを謡うだけではお客様に面白く観ていただけないでしょう。シテは劇的、芝居的な要素と能らしさとのはざまで悩むところで、初演(平成12年3月、粟谷能の会)のときは声を張り上げるばかりで、友房の思いの深さを表現するにはやや単調になってしまったと、反省しました。



シテの友房は多くの負を背負っています。身分ある武士が、主人が討たれ、領地はなくなり、しかも、討たれた場に居合わさなかった無念。急いで戻りたくも、阻まれてそれも果たせなかった悔しさ。今は守山の宿・兜屋の亭主になり下がっているという境遇、それらを最初の名のりの謡で伝えなくてはいけません。

物語は、偶然にも亡き主君の奥様とご世継ぎが兜屋を訪れるところから展開していきます。再会の驚きと喜び、家来としての面目なさ、恥ずかしさが伝わる謡が必要となります。
さらには、そこにあろうことか、宿敵・望月秋長(ワキ)もやって来てしまい、あまりの偶然に驚愕する心、それらも抑えたセリフのなかにどう表現するか、これがシテ役者としてのこの曲の課題である、と思っています。



父・菊生は「腹芸(はらげい)でやれ」と言っていましたが、直球ではない、変化球を織り交ぜた謡い。その匙加減は難しいものですが、自分なりに織り交ぜることに気づいたことは今回の収穫です。

やがて、シテが主君の妻子に望月が来たことを伝えると、妻は、どのようにしてもいいから討つように、と強く頼みます。頼まれた友房にはよい策が浮かびませんが、思案の末、盲御前になって望月に近づこう、と計略を立てます。
盲御前は遊芸者であり、最終的には夜の伽もしなければならない者です。それを主君の奥様に提案するのですから、まさに苦渋の策です。しかし、盲御前ならばこそ望月の前に自然に対峙できるのです。この作戦に対して妻は毅然として受け入れ「嬉しやな、望みし事の叶ふぞと」と心強く謡います。仇討ちのためなら何でもやるという、相当な覚悟がここで見て取れます。

盲御前になりすました母と子は、敵の望月の前で出し物である、曽我物語(兄・一萬と弟・箱王)を聞かせることとなります。
「兄弟が五歳、三歳のとき、彼らの父は従兄弟の工藤祐経に討たれ、月日が経ち、七歳、五歳になったとき、幼けなき心にも父の敵を討つ、と思い始める」と地謡が謡い出します。



盲御前の定番の出し物とはいえ、安田の母子の境遇に重なる話です。地謡はさらに続きます。あるとき兄弟が持仏堂に入り、兄の一萬が不動明王に香を焚き花を供えると、弟の箱王が本尊をよくよく見て、「仏の名が宿敵の工藤、しかも剣と縄を持って自分たちを睨んでいるのが憎い」と走り寄り首を切り落とそうとするので、兄が「仏の名は不動、敵は工藤だ」と諭し、弟は刀を鞘に差し不動に向かい手を合わせ「どうぞ敵を討たせてください」と続き・・・。とその瞬間、子方の花若はしびれをきらし、「いざ討とう(今だ、あいつを殺せ!)」と叫んでしまいます。

この一連の場面は、演者達に全く動きはありませんが、力強い地謡の謡と強い掛け声と音色による囃子方の演奏に興奮させられるところで、聞かせどころです。
特に、クセの地謡には粟谷家伝承の特別な謡い方があります。それは通常より一段高い調子で謡うのが教えです。能が終わった後に、友枝昭世師が「菊生先生を思い出したよ。能夫ちゃんだから謡えるんだね」と仰っしゃったのが心に残ります。声量、キーの高さ、パッション、危機感をはらんだ謡い方。父・菊生の傍らで謡っていた能夫が顔を紅潮させ地頭を勤めてくれたお陰で、周りの地謡も張って謡ってくださった、と感謝しています。

「いざ討とう!」と子方が叫ぶとき、「討とうとは!」と脇差に手をかけて立とうとする望月の従者・アイ(山本則重)と緊張する望月・ワキ(殿田謙吉)に対して、「お騒ぎなさるな、うとうというのは八撥を打とうということだ」とシテのとっさの判断、この四人の一瞬の動き、ここから更に緊迫感あふれる場面へと展開されていきます。



そして、子方の鞨鼓を付けた八撥の舞に続き、シテの獅子舞となります。
獅子舞は喜多流では『望月』と『石橋』にあり、どちらも重い習いとなっています。
私は平成29年に、1月の特別公演で『望月』、3月に粟谷能の会で『石橋』と連続して勤めることとなりました。

両曲の獅子は実は全く違うものです。『望月』は武士が獅子頭を付けて獅子舞を舞うというお座敷芸であるのに対して、『石橋』の獅子は、獅子そのもの、霊獣的な雰囲気を醸し出さなくてはいけません。精神的にも違います。『望月』は獅子舞を舞いながら、相手を酒に酔わせ、敵のすきを窺い、仇討ちをいかに成功させるか、緊迫したなかでの芸であるのに対し、『石橋』は牡丹の咲き乱れるなかで、牡丹の香りをかぎ、狭い橋の上で軽快に飛び回るものです。今回は『望月』らしい獅子、を意識して勤めました。


『望月』の獅子の扮装は、赤頭に金扇を二枚重ね、間に舌にみたてた赤い袋のようなものを入れて獅子の口とし、覆面をして萌黄色厚板唐織の装束を被きます。この格好は現代もよくお正月に見られる獅子舞に似ています。獅子舞は息苦しい覆面をしますが、面を付けないので視界がよく、一畳台に乗ったり降りたりの危険もありません。舞の段数も少なく、『石橋』に比べるとプレッシャーはかなり少ないかもしれませんが、先に述べたような、緊迫した心理劇を意識し体現しなければならない難しさがあります。

獅子の胴体となる装束は厚板を坪折り(襟全体を内側に3つに折る)にし、被いて身を隠して出て、舞う時に装束から顔を出し両袖に手を通す早業を体得しなくてはいけませんが、実は装束の裏側にひもを通す仕掛けがあります。そのため、粟谷家では萌黄色立涌牡丹模様の唐織厚板を『望月』専用としています。演者は、望月が酔って眠ったことを舞いながら確認し、舞い納め、装束を被いたまま身を隠しながら、装束の内紐、赤頭、覆面と決められた順番に紐を解き、白鉢巻きの仇討ち姿となります。この段取り通りに作業することは『道成寺』の鐘の中の物着と同様です。



余談ですが、私が能にめざめ本気で取り組んだ曲『黒塚』で、後シテの腰巻にと選んだのが、この萌黄色の『望月』専用の装束でした。萌黄色と赤頭の赤が鬼女の装束として合うのではないかと思っての選択でした。見るとなんとも不似合いでお恥ずかしい組み合わせでしたが、あのとき能夫は「それはちょっとおかしいのでは」とか「望月専用だからだめ」などと言わず、黙って出してくれました。「自分で装束を選ぶ」ということの大切さを優先してくれたのです。今この萌黄色立涌牡丹模様の厚板唐織は、そんな装束選びの大切さを思い出させてくれる装束なのです。


初演の演能レポート「子方を通しての『望月』」では、子方が息子(粟谷尚生)だったこともあり、子方をどう育て、役作りをさせるかということに心を砕いてレポートしました。
今回は大島輝久氏が母役、ご子息の伊織君が子方で、親子共演、大島家の教育方針もあるだろうと、私からは特に何かを言うこともなく、信頼してお任せしていました。大島氏から、二人とも初演なので、型の多少の相談があったぐらいです。それでも申合せの前に一度本番さながらに稽古したいとの申し出がありました。本番さながら鞨鼓撥や刀を用意したほうがいい、最後に突き刺す笠も用意しようとしていると、すでに大島氏が準備してくださり、ここでもう内心安堵していました。ツレと子方のよく出来た連吟、親子で十分の稽古をされ本番に本領発揮されました。このことが私の『望月』の出来を盛り上げて下さったことは確かで、感謝しています。


     
今回も以前同様、不自然と思われる役者達の位置関係を、お相手の皆様のご協力を得て改善して演じました。
望月が来たことを、母子にこっそり伝える場面に、シテと親子、ワキとアイ、この敵同士が隣に座るのが従来のやり方です。これは何とも不自然です。こんなに近くにいるのに「何、望月と申すか」と驚きを大きな声で謡うのは子方時代からの疑問でした。そこで今回も、ワキとアイが宿を借りることになった後に、お二人に、ワキ座の奥に横を向いて座っていただき、子方らから少しでも遠く離れている状態にしていただきました。
こうすることで、シテの「言語道断・・・」からの驚きと独白、母子に伝えて仇討ちの作戦を練ることにつながります。いくら能は舞台装置が少なく、観客の想像力に委ねるとはいえ、想像しやすいように、できるだけのことをするのが演者の使命です。些細なことのようですが、演者は己のことばかりではなく、観る側に立っての意識、そこを忘れてはいけない、そこを無視するとそのうち罰が当たると思っているのです。


獅子舞の終盤、気持ちよく酔いつぶれる望月を見届けたシテは、獅子舞の装束を脱ぎ捨て白鉢巻き姿になって、子方・花若に仇討ちは今だと促します。その瞬間、子方は太刀を抜きシテと共に望月に迫ります。他流では獅子舞の途中にワキは切戸口から姿を消すようですが、喜多流は、子方がワキの隣に置いてある笠を飛び越え背後に回り太刀を振り上げ、シテも望月に飛びかかり胸ぐらをつかむリアルな演出です。「おまえ達はだれだ?」の望月の慌てた言葉に、花若も友房もそれぞれ名のり、その後は、笠を望月と見立てて、太刀を振り下ろし、小刀で刺し通し、見事本懐をとげます。



『望月』という能はシテが小沢友房であるのに、タイトルは敵の名前です。他にもシテではない者の名前がタイトルになる能は『葵上』『満仲』『昭君』『蝉丸』『白楽天』などがありますが、ここが気になりました。



最後の地謡に「思う本望遂げぬれば・・・・彼の本領を望月の子孫に伝え、今の世にその名隠れの無き事も」と謡い、「弓矢の謂はれなるらん」と終わります。
この仇討ちは土地(本領)ほしさでやったわけではない、土地はすでに望月のものとのお沙汰が出ているのだから、望月亡きあとは子孫に伝えよう、ただ自分たちは「弓矢の謂れ:武勇の徳」のためにやったのだ、それが伝わればいいのだ、と結んでいます。
この能の曲名が『望月』とする意味は殺された者に華を待たせる、そんな想いからではないでしょうか。これは私が演じて思った単なる感想からの考えです。



平成12年の初演から今年は29年、17年の歳月が流れました。私の能は進化したのでしょうか。つくづく時の流れを感じながら、これからも能人生を歩んでいくのだと心に期した、年の初めとなりました。      

(平成29年2月 記)

舞台撮影 新宮夕海
楽屋撮影 粟谷明生 

『梅枝』の「楽」を見直す投稿日:2016-12-07

『梅枝』の「楽」を見直す

粟谷 明生


平成28年度・喜多流自主公演(12月18日)で『梅枝』を勤めました。
『梅枝』は『富士太鼓』の後日談です。
昔、天王寺に「浅間」、住吉に「富士」と呼ばれる二人の太鼓奏者がいて、二人は内裏の管弦の役で争います。結果、浅間が選ばれ、その後富士が殺害される事件が起こり物語は展開していきます。


『富士太鼓』は富士の妻が我が子を連れて登場する現在物ですが、『梅枝』の富士の妻は亡霊ですので夢幻能となっています。ワキも『富士太鼓』では、単に富士が討たれた事実を知らせる役人で、救いなど無縁なのに対して、『梅枝』のワキは衆生を済度せんと諸国をめぐる僧の設定で、救済や成仏といった内容が盛り込まれた夢幻能らしい作品です。
『富士太鼓』では宮中から指名された浅間の方が評判も高く、帝も感心されたほどで、当然、浅間が役をもらったと説明します。ただ浅間は田舎者の富士が自分と対等に勝負を挑んできたこと、また役争いに負けたにもかかわらず、まだ「自分の方が上手い」と吹聴していたことに怒りを押えきれず、富士を殺害してしまいます。富士の身の程知らず、身分不相応の振る舞いが悲しい結末を招いてしまうのです。富士の妻は帰らぬ夫を心配し、娘と共に都にのぼり、富士が討たれたことを知らされると、狂乱し太鼓を敵として打ちます。最初は母の乱心をとがめる娘も、この太鼓があるおかげで父が死ぬことになったと同調し、母娘、「打てや打てやと攻鼓」とばかり激しく太鼓を打ち続けます。恨みや復讐心といったものが劇的に戯曲されています。


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一方『梅枝』は、浅間は富士が役を賜ったことを憎々しく思い殺害したと短く語り、浅間が役を賜った事実も、富士の非も語られません。時が経ち、置かれた立場によって事実が曲げられてしまうのは、昔も今も変わらないようです。
物語は、諸国行脚の僧(ワキ)が雨宿りに里女(前シテ)の家を訪ねるところから始まります。里女は一度は断りますが一夜ならば、と僧を迎えいれます。すると庵の中には舞楽の太鼓と舞の衣装があり、不思議に思う僧に、女は事情を話し弔いを願います。そう語るうちに里女に富士の妻の霊が降りてくるような、里女なのか妻の霊なのか、境目がわからない不思議な感覚にさせるのが、お能らしい仕掛けではないでしょうか。
『梅枝』は『富士太鼓』のような復讐心をあらわにしたものではなく、いまだに富士への恋慕の妄執に悩まされている、救ってほしいと願う妻の懺悔物語になっています。時間の経過が恨みや復讐心を昇華しているのでしょうか。『富士太鼓』にある太鼓を打ち続ける激しい動きは姿を消し、『梅枝』という優美なタイトルのように、復讐心よりは恋慕の情を梅や鶯に事寄せて美しく描く感じがよく現れています。


我が儘で野心家の楽人「富士」。その妻の、夫への恋慕を演者としてはどうするか、を考えてみました。
二曲の演出上で大きな違いは娘(子方)が登場するか否か、です。女の夫への深い愛情、その表現は、娘を伴う母親としてか、子を伴わず妻としての立場だけで表現するのかでは微妙に違うのではないでしょうか。そこで今回は妻としての女らしさをより強調させるため、従来の「曲見」や「深井」ではなく、少々老いを減らした「曲女」で勤めました。


また、「楽」の舞い方も、恨みや復讐心とは違う舞い方が必要で、子を伴わない妻の女心を表現するものでなければならず、ここが『梅枝』の最大の難所だと思います。
後シテは、ワキの僧が読経すると、舞楽の衣装(舞絹)をまとい頭には鳥兜をつけ男装した富士の妻の霊として現れます。
「憂かりし身の昔を懺悔に語り申さん」と始まるクセ、「残る執心を晴らして仏所に到るべし」と淡々と懺悔物語が続き、ロンギに入って懺悔の舞を奏でようと、夜半楽や青海波、花の越天楽、「歌へや歌へ、梅が枝」と気分が高揚し、遂に「楽」の舞となります。
「楽」の難しさは位どり、すなわちスピード感です。『梅枝』の「楽」は特殊でノリよく楽しい雰囲気になり過ぎてもいけませんし、かといって、ゆっくりベタッと重過ぎてもだめです。しっとりとしたなかにも「楽」の終わりの「面白や鶯の」のシテ謡に似合うスピード感、気持ちの高揚に沿うようなものに高めなくてはいけません。


喜多流の楽は5段構成ですが、最初に「掛り」という0段のようなものがあり、実際は6段構成です。撥を持って舞う演出もあり、『富士太鼓』の楽なら撥も似合いますが、『梅枝』は太鼓への恨みというよりは、妻の恋慕の執心に焦点を当てているので、伝書にもある通り、撥での舞姿は似合わないと思います。今回は先人たち同様に掛りの最後で撥を捨て、初(1)段目からは中啓で舞いました。

楽の前半は序ノ舞のようにゆったり、そして4段、5段になると「面白や鶯の」を引き出すような、ノリよく華やかな舞となります。『梅枝』は狂乱や復讐心よりは、お経のおかげで成仏できる、喜びの舞ですから、とにかく美しい舞姿が演者には必須だと思っています。


楽が終わって「面白や鶯の」のシテ謡。鶯の声に誘われて花の蔭にやって来たと謡い、「我も御法に引き誘はれて・・・」からは大ノリになり、狂乱の心を垣間見せ、「想夫恋の楽の鼓、現なの我が有様やな」と太鼓(作り物)をじっと見込みます。美しく舞いながらも、妻の心のうちには、そのような狂乱や激しさも隠し持っているのではないでしょうか。夫殺害事件から時が経っているとはいえ、執心を抱えていることには変わりないのです。

中入り前の「執心を助け給へ」やクセの「残る執心を晴らし」、ロンギの前の「執心を助け給へや」、ロンギの「妄執の雲霧」など、随所に執心という言葉が謡われ妻の複雑な心が感じさせられます。後シテの登場から楽へ、楽から終曲へと抑揚と一連の流れ。そして「思へば古を・・・」からは興奮がさめ、月を見、松風に音楽を感じ、静かにすっと姿を消す。『井筒』の終盤と同じ雰囲気で終わりたいです。


『梅枝』は祖父・粟谷益二郎の好演からしばらく演じられることがありませんでした。先代宗家・喜多実先生は参考曲とされていた数曲の一冊本をお作りになり、『梅枝』もそのうちの一曲として入りました。復曲にあたり、父・菊生に白羽の矢が当たり、一番手で昭和54年喜多例会で勤めています。その後は友枝昭世師をはじめ多くの人が取り組まれ、私も平成6年「妙花の会」が初演でした。最近では若い人も勤めるようになっています。昔この名曲がなぜ演じられなくなったのかは不明です。
私の初演では、夢幻能での楽をどう舞うか、が課題で、観世銕之丞家の教え「序ノ舞を舞うように丁寧にゆったり」を意識しました。友枝昭世師も従兄弟の能夫も楽にノリのよさだけではない序ノ舞風を入れることを試みていたので、私も同様に囃子方にもお願いし取り組みました。ところが、よい具合にいかず父に「楽が重すぎる!」と怒られてしまいました。私も少しやり過ぎだった、と反省し、今回はそのリベンジの気持ちを込めて勤めました。
今回は笛・松田弘之氏、小鼓・大倉源次郎氏、大鼓・亀井広忠氏と精鋭ぞろいで、私からは「楽の後の、面白や鶯の、に華やいだところがあるので、そこに上手くもって行けるような楽にしていただけたら嬉しいのですが・・・」と、その程度の話しかしませんでしたが、皆様、私の気持をよく理解してくださり、とても具合のよい楽となりました。ここに三人の皆様に感謝申し上げます。これで私自身も、初演のやり直しができたかなと、少し喜んでいます。


最後に、楽屋内の話を一つ。クセの場面で「夫ノ形見ヲ戴キの右手で頭をさす型」、「此ノ狩衣ヲで引分ヒラキの型」、「常ニハ打チシで巻きサシの型」とこの3つの型をすると死ぬ、と昔、父が話してくれました。この本意は、3つの型をすべてするとごちそうすぎて型が死ぬ、ということです。
「役者が死ぬということじゃないんだよ」と説明してくれた父。
実は、申合せのとき、この事を知りながらも3つの型をやってしまい、能夫に「3つはごちそうすぎ!」としっかり指摘されてしまいました。60歳を越えるとなかなか本当のことを言われなくなるこの世界。先人の教えと仲間の指摘を素敵だな、と思い知らされた『梅枝』の再演でした。
                 (平成28年12月 記)
(写真撮影) 
新宮夕海 巻頭 6.8
石田 裕 2.3.5.6.8
成田幸雄 7
粟谷明生 4

厳島神社・神能で『猩々』を奉納投稿日:2016-04-07

厳島神社・神能で『猩々』を奉納



平成28年4月18日、厳島神社桃花祭御神事・神能で『猩々』を勤めました。『猩々』は能楽に携わる私にとって節目節目の曲となっています。
昭和38年(8歳)の初シテが『猩々』で、次に青年能楽師の目標とする『猩々乱』は昭和57年(27歳)に披かせていただきました。その後は平成4年(37歳)の「鳥取薪能」で『猩々』を勤め、今回は実に24年ぶりとなりました



『猩々乱』は体力を要する難易度の高い『猩々』の小書ですが、普通の『猩々』は演能時間も短く、特に難しい曲ではありません。催しの最後の祝言として、目出度く舞い納めるところに能役者の使命があるように思えます。
今回、敢えて『猩々』を選曲した理由は、自身の還暦を記念する気持ちの他に、来年お勤め下さる社中のお弟子様への模範能としたいというのが正直本音です。全身赤色の猩々緋を纏い恙なく勤める、28年度・神能の番組の最終曲を演じながら、自身の記念、そして次への継承、と思って無事勤め終えました。



では、『猩々』のあらずじをご紹介します。
中国が唐と呼ばれていた時代、金山(かねきんざん)の麓に高風(こうふう)という親孝行で評判の高い男がいました。彼はある夜、楊子の市で酒を売ると富貴の家となる不思議な夢を見ます。その夢のお告の通りにすると、次第に金持ちとなりました。すると高風のお店に酒を飲みに来る者が現れます。その男はいくら飲んでも顔色が一向に変わらないので、不思議に思い、ある日その名を尋ねると海中に住む猩々と明かして帰ってしまいました。
そこで高風はある月の美しい晩、潯陽の江(しんにょうのえ)のほとりに出て、酒壺を置いて、猩々が出てくるのを待つことにします。
と、ここまでの経緯はワキ(高風)の語りで紹介されます。
やがて猩々は下り端(さがりは)の特有のリズムで波間から浮かび出て登場します。そして高風と酒を酌み交わし舞を舞い、高風の素直な心を賞し、無尽蔵の酒壺を与えて消えてゆきました。



『猩々』の演出は、五流、さまざまなものがあります。喜多流では、通常の『猩々』で中之舞となるところを、「乱(みだれ)」という酒を呑んで舞うところを見せる特有の舞とする小書があり、そのものを題名にしている『猩々乱』や、「壷出(つぼだし)」という大きな酒壺を舞台正面先に置く演出もあります。
「乱」の舞は観世流の永遠の少年の妖精のごとき軽やかな動きに比べ、喜多流は腰を低くして壺から酒を汲んでは呑みを繰り返す、中腰状態が続く過酷な舞となります。強靱な足腰が必要となり、若き青年能楽師の身体作りに適した演出で、目標となっています。



使用する能面『猩々』はこの曲にしか使わず、真っ赤な顔色で笑みを浮かべているのは、気持ちよく酒を呑んだ表情をよく表しています。


今回、勤めて、『猩々』は還暦を超えた自分としては、決してやり甲斐のある曲ではありませんでしたが、人生の節目、興業の区切りに大人の能楽師が、祝言性を感じ身につけ勤めることで、「神への献上」という意味合いがあるのではないかと、能役者のルーツともなる精神の再確認が出来たことはとても有意義なことであったと感じます。厳島の女神、八百万の神に、そして私の周りにいる方々、すべてに感謝しています。       (平成28年4月 記)

写真 『猩々』シテ・粟谷明生
撮影        石田 裕

『融』を演じて 月の詩情に寄せた名曲投稿日:2016-03-06

『融』を演じて
月の詩情に寄せた名曲


昔、月には兎が住んでいる、と教えられました。今、子どもにそのように言う大人は少ないでしょうが、天上に浮かぶ月に何かが宿っているような、神秘な面影を見るのは、今も変わらないのではないでしょうか。
第99回粟谷能の会(平成28年3月6日)で『融』を再演しましたが、能『融』は冥界にいる源融左大臣の霊を月の都に住む者として描いています。「月」を融の霊に見立てながらも、人としての融の執心が月のように形を変えては見え隠れするのが面白いところです。前シテの一声の謡(最初の謡)は「月もはや」で、後シテの最後も「月もはや」で締め括られ、能『融』はまさに「月」がキーワード。形を変えることがあっても滅っすことのない「月」と、生者必滅の「人」を対比させ、世の無常を訴えています。仏教色を表に出さずに詩情豊かに戯曲した世阿弥の傑作だと思います。

舞台となる六条河原の院跡は、昔、左大臣源融が風雅贅沢をした屋敷跡です。融は皇位継承権を持ちながら、藤原基経に阻まれ天皇になれず、そのうっぷんを晴らすかのように、広大な邸宅に陸奥の景勝地、千賀の塩釜の風景を模作し、難波から海水を運ばせて塩を焼き、その光景を見て楽しむという、何とも贅沢三昧の生涯を送ります。しかし融の死後、その子、源昇(みなもとのぼる)が、この広大な敷地を宇多天皇に献上しますが、その後相続し管理する人もいなくなり廃墟となってしまいます。
前シテの汐汲み老人、実は融の霊の仮の姿ですが、彼の目に廃墟はどのように映ったのでしょうか。荒廃したことへの無念、時の流れを止められないことへの怒りと諦観があったのではないでしょうか。



では今回の舞台進行に合わせてご紹介します。
まず、東国から上京した僧(ワキ)が廃墟になった六条河原の院跡に着きます。ここで、番組には記載をしませんでしたが、ワキの森常好氏に「思い立の出」の小書を特別にお願いしました。「思い立の出」とは、囃子方と地謡が所定の位置に着き、揚げ幕が上がるとすぐに「思い立つ、心ぞしるべ雲を分け」と道行の謡を謡いながらの登場となるもので、『融』のみにある粋な演出です。

ワキが着きゼリフを謡いワキ座に着座すると、汐汲みの老人(前シテ)が田子桶を担ぎ登場し、常座(太鼓前)に出て立ち、一度揚げ幕の方(東の方角)を振り返ります。そして正面に向き直り「月もはや、出潮になりて塩釜の、浦寂まさる夕べかな」と謡います。
この一度振り返る型の意味するものはなにか。伝書には「東見る」としか記載されておらず、その真意は演者の思考にゆだねられます。私は「お、月は出たが、まだ低く暗いなあ」と解釈して勤めましたが、他流にはない喜多流独特の演出、どう考えるかが演者の試金石となるようにも思えます。


やがて老人は僧に素性を問われ汐汲みと答えますが、海辺でもないのに汐汲みと返す言葉に僧は不審を抱きます。老人は陸奥の千賀の塩釜を模した河原の院の者であるから潮汲みであるときっぱりと答え、融の大臣(おとど)が舟を寄せ遊舞をしたという籬が島を教えます。そして突如東の空を見上げ、「や、月こそ出でて候へ」と月が高く上がったことを言います。一声の「月もはや」に呼応するような謡で、時間が経過したことが知らされます。
現代の都会では月明かりなど意識することはないでしょうが、今でも明かりのない田舎などでは夜の月の明るさを感じます。シテが最初に登場した時はまだ月は低く薄暗く、気がつくと高く昇っていて辺り一面が明るくなった、その情景を演者は観客に伝わるように、また観客は想像してお互いに創り上げていく、能に想像力は不可欠です。

話が少し脱線しますが、続く詞章に、老人と僧が面前の景色を見ながら興に乗って次のように謡うところがあります。
シテ・只今の面前の景色を、遠き故人の心まで、お僧の御身に知らるるとは、もしも賈島(かとう:唐の詩人)が詞やらん、鳥は宿す池中の樹、
ワキ・僧は敲く(たたく)月下の門
シテ・推すも
ワキ・敲くも
詩人の賈島は「僧は敲く月下の門」の「敲く」を「推す」にするかを迷い、韓愈(かんゆ)の助言で「敲く」に決めました。ここから詩文を作る時に最適の字句や表現を求めて考え練り上げることを、「推す」と「敲く」で推敲となったといいます。こんな言葉がさりげなく入っているところも面白いところです。


話を戻します。その後、シテは僧に問われるまま、千賀の塩釜を都の内に写した謂れを語り始めます。栄華を極めた六条河原の院、今は荒れ果てて見る影もない、自分も老いの波が押し寄せると嘆く老人は昔が恋しく、あの時に戻りたいと大泣きします。華やかかりし頃にもう一度戻りたい。適わぬ願いを請う人間のはかなさ。30代では気がつかず、もし気がついたとしても演じきれない老いの波を、今60歳を過ぎ、自然と涙する自分に気づきます。

回想し涙する老人に僧も感涙し、そして名所を尋ねます。北の音羽山からはじまり、右廻りに「清閑寺」「今熊野」「稲荷山」と進み、「藤の森」から案内して「木幡山」「伏見」「竹田」「淀」「鳥羽」、最後は「小塩山」から「松尾」「嵐山」と360度パノラマ世界で紹介します。
この場所と方角は実際に京都にお住まいの方ならば、少し位置が違うと思われるかもしれません。私も謡いながら少し位置がおかしいのでは、と思ったりしましたが、伝書に「方角などにこだわらないのが能である云々」と記されていたのを読み、驚きと同時にすっと納得してしまった自分に実は驚いています。
感涙の涙にむせいだ後に、カラリと気分を変えての名所教え。『融』は深い執心がありながら、あまりじめじめしない作りとなっています。

前場の最後は、興に乗って長物語してしまった、自分は汐汲みだったと我に返り汐汲みする場面になり、見どころにもなっています。池水を海水に見立て汀に寄って舞台の外に田子桶を落とし汲み上げる型は、一瞬、観客をはっとさせます。左右の手に田子桶を持ちながら、正面先に勢いよく出て、舞台のへりぎりぎりのところでぴたりと止まる、至難の技です。

汐を汲んだ老人はすぐに消えてしまい中入となりますが、当然田子桶を担いだまま消えるべきところを、舞台中央に田子桶を落とし残します。このような演出もまた能らしく、ひとつの余韻を残すものと言えるでしょう。


『融』の後シテは、ありし日の融左大臣の霊として出現します。昔を偲び、すべての消滅を惜しみ月下で遊舞します。舞は「早舞(はやまい)」と呼ばれる盤渉調(ばんしきちょう)の高音の音色で、やや早めのスピードある舞です。颯爽としながらも寂寥感もある、二種混合の舞をどのように優雅に舞うか、今回の私の思考するところでした。強く凜々しく、時には激しく、融の遂げられなかった執心を舞い尽くすやり方もありますが、今回、融の複雑な寂寞たる心境も早舞で表現したく、「クツロギ」の小書を付け、その前後の印象を変えられたらと、お囃子方にご協力いただきました。



 

「クツロギ」とは文字通りお休みする意味です。舞の途中で橋掛りへ行き、三の松あたりにて、左廻りから右廻りと水の流れを想像させるように動き、最後は袖を返して止まりしばし休止します。
「クツロギ」の袖を巻く型までは昔を楽しく偲ぶ「陽」の雰囲気で舞い、夜空の月と池水に映る月影を眺めるうちに徐々に栄華時代を回想し、次第に時のうつろいと喪失感を「陰」な気持ちに変えて舞えたら、と緩急をつけてみました。
そして最後は型の多い地謡との掛け合いのキリの仕舞どころとなります。シテ謡の「例えば月の有る夜は、星の淡き(うすき)が如くなり」のように「月が出ている夜は、星は見えづらい」。なにかが出れば、なにかは引かなくてはいけない、謡う融の諦観がしみじみと感じられます。
融は冥界ではなく月の都から河原院に降りて、昔の雅を満喫していた頃を懐かしく偲び、遊舞しますが、夜が明ける前に、また月の都へと姿を消します。
決して時の流れは止めることは出来ません。

私の『融』の初演は平成4年、今から24年も前のことです。当時は『融』のテーマなど気にもせず、師の指導を仰ぎ舞台を勤めるだけでした。それでも演出の工夫に目覚めはじめた頃で、今では抵抗なく着用する後シテの黒垂(くろたれ)も、実は喜多流としてはじめて使用したのはこの時でした。
当時いろいろな陰口があったことはその後知る事となりますが、よりよい演出を、と意気込んでいた昔、融のように懐旧してしまいます。

「60歳なんてまだまだ、若造よ」と言われる能楽の世界ですが、私も還暦になり、それまで見えなかった能の世界が少し見えはじめ、聞こえなかったものも少し聞こえるようになりました。ようやく源融の生前への執心と懐旧が少しわかるようになりました。

最初、『融』が名曲である理由が正直はっきりしなかった私でしたが、稽古しながら、この曲が消滅する人(今は亡き人々)により伝承され、その時々の人々の手により工夫が加えられてきたことも知りました。稽古すればするほど、人生の深いところを描いていると共感するところが多く、やはり相当な名曲だと気づき熱が入ってきました。能に携わる者は、名曲は名曲であるがゆえにより一層の磨きをかけ、その光を観客に届けなくてはいけない、そう確信しました。
竹内まりやの「人生の扉」という歌に「信じられない速さで、時は過ぎ去る、と知ってしまった」があります。この歌詞が『融』と結びつくなどと思ってもいませんでしたが、今はしみじみとわかります。能はやはり、現代にちゃんと生きている!と感心しています。
(平成28年3月 記)

文責 粟谷明生
写真 
粟谷能の会 『融』シテ 粟谷明生 
撮影 石田 裕  森 英嗣(橋掛にて入幕の一枚)

『玉井』を勤めて 「神様の能」の面白さ投稿日:2016-01-10

『玉井』を勤めて
「神様の能」の面白さ


平成28年1月10日(日)喜多流自主公演で、能『玉井』を勤めました。
『玉井』は神話の海彦山彦兄弟伝説を題材にした作品です。
まずは簡単にあらすじをご紹介します。
兄から借りた釣り針を魚に取られた弟の山彦・火火出見尊(ホホデミノミコト)は、釣り針を探しに海底の都に行きます。そこで海の支配者・老竜王の娘、豊玉姫と結婚しますが、月日が経つと地上に戻りたくなり、豊玉姫に相談すると、父の竜王は取られた釣り針と海水を自在に操る二つの魔法の珠を尊に授け、大鰐(鮫)に乗せて地上に送り届けるのでした。

 

配役は、火火出見尊(古事記では火遠理命)はワキが勤め、前場の豊玉姫と玉依姫の姉妹を前シテと前シテツレが勤めます。後場の豊玉姫、玉依姫は後ツレとして、前場とは別人が天女の姿で登場し、後シテの海神・竜王は前シテの豊玉姫を勤めた者が演じます。つまり、ワキ以外は前場と後場をそれぞれ異なる演者が勤めることになります。この登場人物を多彩にした豪華な作風は、いかにも作者・観世小次郎信光らしいところです。
能には「神様の能」と「仏様の能」があり、とりわけ神様の能は奇抜でスケールが大きく、あるときは人が神であったり、逆に神が平気で下界に舞い降りてしまう大胆発想が面白く、作品を引き立てています。
例えば、火火出見尊は、天神七代地神四代の者であると堂々と名のるものの、神力を使える神の子なのか、そうではないのかが、はっきりしません。
尊が、目を細かく編んだ竹かご(目無筐=まなじかたま)に乗ると易々と海底に着いてしまうこと自体も、神の子であるから、?土翁(シオヅツオ:海水の神)のお爺さんが教えたのであって、その特別な力を発揮することが出来る時もあれば、そうでもない時もある、そういう発想がおかしくてたまりません。ご覧になる方も「普通ではない」「あり得ない」という思考をどこかに置き去りにして、ただただ素直なお気持ちでご覧になればよいのではないでしょうか。「神様の能」とは、そんな摩訶不思議な世界観を持っているように思えます。


さて、海底に着いた尊が桂の木陰で佇んでいると、水を汲もうと井戸に近づく女(豊玉姫)が尊を見つけてしまいます。
「あら恥ずかしや我が姿の、見えける事も我ながら、忘るる程の御気色、容(かたち)も殊に雅びやかなり。ただ人ならず見奉る。御名を名のりおはしませ」と、尊のイケメン容姿に完全に一目惚れしてしまい、大胆にも名前を尋ねます。
尊が名を名のり、釣り針を探しに来たことを明かして、「ここはどこ?」と尋ねると、豊玉姫は「釣り針は探してあげますから、さあさあ、龍宮に入りましょう?」と早速招き入れます。


この場面、どうも夜の繁華街での、一見綺麗そうなおねえさんの、あのあやしい勧誘シーンを想像してしまう私ですが、こここそが海洋民族が地上民族を招き入れてもよい、との意思表示であると思い意識して謡いました。

さて、三人が龍宮に入ると、以前は最初に舞台に据えられた作り物の「もちの木」と「井戸」は中入まで置いたままでしたが、場面が変わるのであれば、作り物は無い方が龍宮内に移動したと想像しやすいのではと思い、序にて引き下げる演出に替えてみました。能は古い形式も大事にしたいですが、ただ今は今なりの時代にあった演出と工夫を心がけたいと思っています。


竜宮で、尊は父母にも歓迎され晴れて豊玉姫と結ばれます。クセの謡に
「天より降る御神の外祖となりて豊姫も、ただならぬ姿、有明の・・・」とあり、「ただならぬ姿」はもちろんご懐妊を意味します。
詞章は登場人物の役柄や立場により丁寧に尊敬語を使うかどうか区別されていますが、豊玉姫も見惚れた当初は「いかに申し上げ候」と丁寧な言葉遣いだったものが、母となると「御心安く思し召せ!」と豹変します。この途端に強い口調に様変わりするところなど、現在にも通じていて、能は少し深読みするとちっとも古くさいものではないことを証してくれます。「女は弱し、されど母は強し」は昔のこと、今は「女は強し、されど母はもっと強し」です。


やがて、尊は豊玉姫の父、海の支配者・老竜王から釣り針と海水を自在に操る潮満汐干(しおみつしおひる)の二つの魔法の珠を授かり地上に戻ります。
能『玉井』でお伝えする「海彦山彦伝説」はここまでで、後場は天女(豊玉姫と玉依姫)の舞と竜王の舞事があり、尊を送り出し、竜王らも竜宮に帰って終わります。しかし私は、この伝説のその後の展開が気になりました。


能では、兄が怒ったときは二つの魔法の珠が役立つと、クセの中で謡われますが、その後の展開、竜王が「この釣り針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針」と唱えながら後ろ手に渡し返すこと、兄が高いところに田を作ったらあなたは低いところに作り、兄が場所の交換を求めたら従い、もし兄があなたを恨んで攻めてきたら潮満玉(しおみつたま)で溺れさせ、助けを求めたら汐干玉(しおひるたま)で救いなさい、といった細かな内容は謡われません。
実際、古事記では、兄は田の交換を求め、遂に弟を襲いますが、魔法の珠の威力で兄は負け弟に従うこととなります。その際、兄方は顔に丹(に)を塗り俳優(わざおぎ)となって、その溺れたときの様子を演じ伝える役目を担い、敗者が勝者に芸能をもって仕えること、それが芸能者のはじまりと、日本書紀には書かれています。


能が負を背負った者を取り上げ、猿楽師が敗者の俳優(わざおぎ)を演じる。そんな仕組みが、このような太古伝説に息づいていて、そこに遡ることが出来たことは『玉井』を勤めるお陰と感謝し、大きな収穫、と正直喜んでいます。


『玉井』の後日談の最後、兄弟喧嘩のあとの話はまだまだ興味深く続きます。
尊の子を身ごもった豊玉姫は地上の尊を訪ね出産することを告げます。
海岸に産屋を建て始めますが、急に産気づき「今から出産しますが、私を見ないで」と言い産屋に入っていきます。神の子も所詮、人。「見ないで!」と言われたら見たくなるもの、中を覗いてしまいます。すると大きな鰐がのたうち回っているので尊はびっくり仰天、その場を逃げ出してしまいます。


尊が約束を破り出産を見たことに恥じらいと怒りで豊玉姫は生んだ子を置いたまま海の国へ帰ってしまいます。心配した海神の老竜王は、妹の玉依姫に子の養育を頼み、地上に送り込み育てさせます。生まれた子の名前は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)、とても長い名前に驚いてしまいますが、更に驚きは、この子が玉依姫、つまり叔母と結婚して4人の子をもうけ、そして4人目の子が神倭伊波礼比古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、初代天皇・神武天皇となることです。常識を超える世界で、いろいろな男女の間柄を想像してしまいます。
能は演じ手も観手も想像が必須です。いろいろなことを想像することは大事ですが、妙なことまで想像すると、私は舞台で粗相をしそうな気がして、今回はお正月の初番であることを心がけて勤めました。

我が家の伝書に「この能はすべて、ひしけぬ様にかさを取る事専一也」とあります。「ひしけぬ」は「拉げる=押しつぶされて砕ける」の意で「かさ」は「嵩」です。『玉井』は全体的にどっしり、ゆったりと演じるのですが、逆に押さえ過ぎるのはいけない!と警告し、大きさや重みを大事に勤めることを第一に考えなさい、という伝言です。深い教えを知る事が出来たことも、大きな二つ目の収穫でした。


伝言を咀嚼し、守り大事にし、これからも私らしい能、私の個性を生かした演能を心がけたい。お正月の公演の場をいただき、今年も能と共に生きていこうと思いました。
               (平成28年1月 記)

写真提供 
能『玉井』シテ・粟谷明生 撮影・成田幸雄
能面 「増女」石塚シゲミ打 「悪尉」粟谷家蔵 撮影・粟谷明生

三流立合い『松風』の 一番手を勤める投稿日:2015-10-07

三流立合い『松風』の
一番手を勤める
粟谷 明生


国立能楽堂主催・定例公演『松風』は「演出の様々な形」をテーマに、10月から三ヶ月に渡り、三流の「立合い」の催しとなりました。10月喜多流(粟谷明生)、11月観世流(観世銕之丞)、12月に宝生流(武田孝史)で、三流それぞれ小書の特別演出となります。喜多流は「身留(みどめ)」、観世流は「戯之舞」、宝生流は「灘返・見留」です。
立合いの一番手として、私は10月16日(金)に「身留」にて勤めさせていただきました。

喜多流の小書は他に「戯之舞」と「見留(みとめ)」があります。「戯之舞」は先代喜多実先生が先代観世元正宗家より頂戴したものですが、残念なことに、あまり演じられることなく今日に至っています。今回の「身留」もあまりやり甲斐のある演出とはいえず、ほとんど演じられることはありませんでした。再演となると、どうしても派手な「見留」を選んでしまい、私も、10年前の粟谷能の会では「見留」で勤め、父の『松風』もほとんどが「見留」でした。

「身留」は破之舞の最後に、舞台大小前にて、松に向かい一足つめる(松に近づく)型で、能役者の松への思いを身体で表現する小書です。「見留」の場合は橋掛りの一の松にて、遠くに見える松を、左手に中啓を持ち替え眺める型となり、粋な格好に皆、憧れを持っています。それに比べ、「身留」はなにもせず身体の扱いだけで表現するので難しく、正直あまりやりたくない損な小書だと思っています。しかし喜多流にしかない、というのが企画者には面白いのでしょう、「身留で」で依頼されてしまいました。

今回は、大小前で松に向かっても正面席からは作物の松が重なって見えて効果が薄いと考え、松への思いがよく見えるようにと常座にて行いました。通常、小書「見留」になると「関路の鳥も声々に」で、ツレと共に謡の中で幕に入ってしまい、ワキが一人残り「松風ばかりや残るらん」と留拍子を踏んで終曲となりますが、「身留」でもこの形で入ることにしました。
それは、上掛りが「今朝見れば、松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん」と返しの謡があるのに対して、喜多流は「松風ばかりや残るらん」と一回で謡い切り、しかも高音で謡い留めるからです。二度謡う演出と一度しか謡わない喜多流の演出では自ら違い、その特徴を最大限に活かすのも立合いならばこそと、敢えて「身留」でも走り込むように姿を消すやり方を選びました。二人の海女乙女が潔く、スーッと消え去ることで、僧の夢のできごととの印象を強くさせ、効果的でなないでしょうか。

伝書は大事ですが、それは過去演じたものの記録です。伝書にはこの時はこのようにした、あの時は別のやり方のあり、と書いてあります。ヒントにはなりますが、書いてある通りでなければ間違いである、とは言えないと思っています。その場に一番似合うやり方、観客にもっともよい状態を提供するのが、本当に能役者のあり方だと信じています。

面に関しては、今回は立合いなので、最初は自分好みの「宝増」を使うつもりでしたが、喜多流らしく「小面」がよいのでは、とのご意見なども聞こえて来て、いろいろ悩み、最終的には山中家より小面系の「小姫」を拝借いたしました。伝書にはシテもツレも「小面」と記載されていますが、私はシテの松風と妹の村雨が同じような顔、表情では、その性格の違いがはっきりしないと思いました。敢えて違う面によって、恋慕の心が強い姉と、少し冷静でいられる村雨、そのように見えるようにと、意識して選びました。

立合いは三流の特別演出(小書)の違いから、演出の仕方がいろいろあることを見ていただくことも重要ですが、それぞれの演者が『松風』という作品をどのように描き出すのかを観ていただくことにあると思います。これは流儀や小書きの違いだけでなく、粟谷明生の『松風』、観世銕之丞の『松風』、武田孝史の『松風』、三人三様の『松風』を観てほしいと企画されたのです。小書きや表の選択についてはすでに書きましたので、ほかにどのようなことを念頭において勤めたかを述べてみたいと思います。


第一場面はワキ(旅僧)の登場から「汐路かなや」で留拍子を踏むところまでです。旅僧が須磨の浦の由緒ありげな一本の松を見つけ、所のものに尋ねると、在原行平の愛した海女乙女の松風(シテ)、村雨(ツレ)の旧跡であると教えられます。旅僧が松を弔うと、幽霊の松風と村雨が静かに現れ、身の境遇を嘆きながら汐汲みを見せます。シテとツレの登場は「真之一声」という荘厳な出囃子によります。「真之一声」は脇能での登場に使われるもので、神の登場を思わせる荘重な趣向、脇能以外では、喜多流ではこの『松風』にしかありません。その荘厳な響きにあわせて、二人の幽霊が旅僧の夢の中に現れ、連吟となります。ここは「真之一声」の重々しさにあわせ、つらい汐汲み労働をさせられているという暗く苦しむ姉妹を演出します。この第一場面の最後、「汐路かなや」で一旦終わるような構成で、大鼓と小鼓の囃子方も一旦床几から降ります。ここまでが田楽の名手・喜阿弥作の『汐汲』で、次からが第二場面となり、観阿弥の『松風村雨』へ、さらに世阿弥が改修して現在の『松風』へと練り上げられています。

第二場面は、海女に一夜の宿を借りた旅僧が磯辺の松を弔った話をすると、海女は行平との恋物語を始めます。ここは、囃子方が床机からおり、シーンと静まり返った音のない世界で、静かにワキとの問答、シテ・ツレのクドキと続き、身の上の心境や変化を謡だけで表現します。少ない動きの中に細やかな心の揺れを表現するところで、ただ座っていればいいのとは違います。クセの「あわれ古を・・・」からは行平の形見の烏帽子と長絹を手にして追憶の涙に沈みます。形見を眺めては泣き、悲しさのあまり放り投げてはまた抱きしめ、また眺め泣き崩れる、ここも少ない動きで最大限の表現をしなければならず、難儀なところです。謡も強弱、明暗、緩急、詰め開き、張りと、あらゆる表現方法を駆使してその情景、心情を描き出していきます。

第三場面は物着(舞台上で装束を替える)から終曲まで。行平の形見を身に着けた松風は物狂いとなり、松を雪平を思い寄り添うほどですが、村雨に制止され諭され、次第に冷静になります。「立別れ」と行平の歌から中之舞、その後に破之舞が入ります。破之舞は短いながら松風の心を表現する強い舞です。この第三場面は変化があり、楽しくご覧いただけるところではないでしょうか。やがて海女乙女は妄執の苦しみを述べ、旅僧に回向を乞い消えていきます。すると夜が明け、旅僧は目を覚まし、すべて一夜の夢であったと終わります。


父・菊生は「演者は艶(イロ)が命」と口癖のように言います。『松風』の艶とは、宮中の高貴な方の艶とは違うものでしょう。海女乙女の素朴で純粋な、それでいて情熱的に思う女性の艶をいかに出せるかも課題でした。果たして「艶」のある女性になれたでしょうか。

今回、三流立合いの場に立たされると、いろいろなことが見えてきました。もちろん観世銕之丞氏や武田孝史氏がライバルとして見えてきます。負けてたまるか、という気持ちは腹の底にはあります。ただ、それにはどうしたらよいか、に目をむけることができたことが、今回の大きな収穫だったと思います。

面の選択、小書の見直し、観客へ届く謡い方はできたか。そして「長かったけれど良かったわ」ではなく、「あっという間に終わったわ」と思っていただければ勝算があると踏んでいました。今回、演能時間は1時間50分ぐらいでした。時間のかかる大曲をだれない進行で、観客の心を惹きつける、60歳になったからできることだと思いますが、それが私の『松風』への美意識なのです。あっという間に終わったわ、もう少しやってほしかったわ、と能楽堂を出られる方々から声が漏れた時、私は私自身に勝てたことになるのですが、さてどうだったのでしょう。

思えば、観世銕之丞氏と武田孝史氏とはほぼ同じ年齢。若い頃から親しくさせていただき、一緒に舞台に立ち切磋琢磨したこともある間柄です。お互いに60歳前後して、このような立合いができることは光栄であり、感無量のなにものでもないこと、ここに書き留めておきたいと思います。(2015年10月 記)

『松風』については次の演能レポートもご覧ください。 「シテツレの役割」(2002年10月) 「恋慕と狂乱」(2005年10月)

写真提供
国立能楽堂 (撮影:青木信二)
前島写真店 (撮影:成田幸雄)

落人の悲哀 『安宅』(延年之舞)を勤めて投稿日:2015-10-07

落人の悲哀
『安宅』(延年之舞)を勤めて


昨日の粟谷能の会(平成27年10月11日)へお越しいただきました皆様、ご来場御礼申し上げます。
還暦記念と銘打ちました第98回粟谷能の会も無事盛会に終わることができて、今ほっと一安心。正直な気持です。
『安宅』の初演は43歳、お囃子方は笛・一噌隆之氏、小鼓・鵜澤洋太郎氏、大鼓・安福建雄氏。53歳の小書「延年之舞」披キでは、笛・松田弘之氏、小鼓・鵜澤洋太郎氏、大鼓・柿原弘和氏のお相手で勤めました。今回60歳の還暦記念の再演「延年之舞」は、笛・一噌隆之氏、小鼓・大倉源次郎氏、大鼓・亀井広忠氏でした。
富樫役のワキは親友・森常好(現 宝生常三)氏が三回ともお相手してくださいました。

『安宅』のような現在物は直面(ひためん)と呼ばれる能面をつけずに素顔で舞台を勤めます。能面は視界が狭く、肉体的にも楽ではありませんが、では直面ならば楽なのか、と問われると、顔自体を能面のように意識しなくてはいけないところが難しく厄介だと思っています。
『安宅』のシテ・武蔵坊弁慶は青年の若い顔では物足りず、かといって年を経た顔ならば事が足りるのか、というとそうでもないようです。
シテ方の能役者にとって直面で勝負出来る賞味期限はそうは長くはない、そう思っています。ですから期限内にできるだけ挑戦しておこう!と考えたのが今年の私の演能テーマとなり、春59歳で『正尊』、秋は60歳成り立てで『安宅』「延年之舞」でと企画、選曲しました。
『安宅』のような現在物は能役者にとって、能の様式美に心技体すべてをゆだねるやり方と、役を演じる芝居心に重点を置くやり方もあると思います。
私も初演では様式美にすっかりお任せするやり方となってしまいましたが、53歳の再演ではどうにかして弁慶という役を演じる、自分なりに芝居になるギリギリの境界線内側まで手を伸ばしたいと思い挑みました。しかしなかなか行けるようで行けない壁を意識させられました。いつの日か、もうこれ以上やったら能ではなくなる、という壁手前までで演じてみたい、それが60歳までに経験出来たら・・・、と考えていました。
能の様式美を蔑ろにせず、調和を取りながらも能の世界の外回りギリギリでの演能、それが私の現在能への美意識といっても過言ではありません。昨日の『安宅』がその域に達したのかどうかは、まだ自分自身答えが出ていない状況ですが、そう意識してのこと、と書き残しておきます。

例えば声。義経へ剛力に変装を依頼する謡や、主君を打擲する非常識なふるまいを詫びる謡。もちろん勧進帳も同様ですが、詞章によって変わる、声の強弱、高低、温冷、明暗、詰め開きなどを頭で考え、それが身体を通して出せるかが大事であり、そこへの意識を忘れてはいけないことを、60歳になってようやく、理屈だけではなく身体でわかりはじめたのです。まあ、なんとも遅過ぎ、と自己反省をしています。

そして曲の理解度を深めること。
演者の年齢により理解度は変わります。また変えなくてはいけないと思っています。
初演43歳と同じように演じていては進歩がありません。
いつも新しい発見がなくては気が済まない性格でもあるので、何かないかな?と探しています。

今回は野村四郎先生のご著書『狂言の家に生まれた能役者』の「安宅について」を参考にさせていただき、喜多流では無かった型を取り入れました。
関所での非礼を詫び、ところの名酒を持参してきた富樫の酌を受ける弁慶ですが、安宅の関はこれから落ちて行く道のりのまだまだはじめ、序の口です。このような困難な道がたくさん待っているかと思うと、弁慶は酒など酌み交わせないのです。富樫を信じていないのです。ですから、呑んだふりして相手が見ていない隙に酒を捨てる型を試みました。中啓(扇)を広げ、酌をうけた型をした後、「面白や山水に」と謡いながら広げた中啓を裏返しにし、「こんな酒呑めるか!」の意思表示です。
古典の伝統芸能は先人の教えを正しく継承することだと思いますが、ただ真似ていれば、それが正しいという考えには同調出来ません。古典を今に生かす、そのためには能にあることならば、流儀の壁など取り払い、よりよい舞台を観客にお見せする、それが芸能者のいろはのいだと信じて止まないのです。
粟谷能の会では「演能の最後の拍手は囃子方が退場するまでご遠慮ください」とお願いしています。『安宅』をご覧になり、最後、あ〜明生さんよかったわ、はい、頑張りましたね、の拍手は正直要りません。
落人のなった義経一行、これからの彼らの人生と悲哀が、終曲し最後幕に入るときの後ろ姿に出せるかどうかが本当の勝負どころだと思うのです。ですから、そこでもし拍手がおきたらもう完全に私の能は不合格ということになるのです。
図々しく「拍手はご遠慮ください」など記載しなくても、「どうしても拍手なんてできないよ」と言わせる能役者になりたい、今思っています。(2015年10月 記)

『安宅』については次の演能レポートもご覧ください。「能の表現と芝居の境界線」(1999年3月) 「延年の舞について」(2009年3月)

写真
1,跳ぶ型 3,金剛杖にて 撮影 石田 裕
2,勧進帳を読む、 4、盃の酒を捨てる型 前島写真店 成田幸雄

『杜若』を勤めて 杜若の精と伊勢物語投稿日:2015-09-07

『杜若』を勤めて
杜若の精と伊勢物語


秋田県の大仙市にある唐松能舞台で、先日(平成27年8月30日)、三度目の『杜若』を20年ぶりに勤めました。唐松能舞台は大曲と秋田の中間よりやや大曲寄りの、JR奥羽本線羽後境駅から徒歩で10分ぐらいのところ、まほろば唐松中世の館にあります。秋田の大曲と聞くと、増田、十文字、横手、角館とともに、父・菊生が指導に通った地、十文字から増田への雪道を橇(そり)で行った話などが思い出されます。今では新幹線ができ便利になりましたが、昔はその地にたどり着くまで大変だったようです。
唐松能舞台は京都西本願寺の北能舞台を模して造られたもので、秋田県では唯一の舞台です。昔ながらの観能の形が楽しめるようにと、屋外の舞台になっています。今世紀初め、この舞台が建造された当初から、この時期に、粟谷能夫が大仙市から興業を依頼され、今回は私の『杜若』と、半能『鍾馗』を能夫が勤める番組となりました。開演前に一時小雨が落ちることもあり、お天気が心配されましたが、開演時には雨もやみ、夏の終わりを感じさせる爽やかな風を感じての演能となりました。


能『杜若』は旅僧(ワキ)が三河の国八橋の沢辺で、咲き乱れる杜若を眺めているところに、里女(シテ)が現れ、業平の詠んだ「唐衣着つつなれにし、妻しあれば、遙々来ぬる、旅をしぞ思ふ」の古歌を教え、旅僧を我が庵に招き入れます。
この歌はご存知「伊勢物語」第九段に出てくる歌です。「むかし、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとて、行きけり」と始まる「東下り」の段で、「かきつばたという5文字を句の上にすえてよめ」と言われて詠んだ歌です。伊勢物語には「男」を誰と特定していませんが、「唐衣・・・」の歌は古今和歌集では在原業平作となっているので、業平の歌であることは明らかです。
伊勢物語にはその前の三段から六段にかけて、男(業平)と二条の后・高子(藤原長良の娘)の禁断の恋の話が語られ、后となった高子にはなかなか近づくこともできない男の姿が描かれています。
能の舞台に戻りましょう。


旅僧を庵に招き入れると、やがて女は、高子の后の衣を身につけ、業平の透額(すきびたい)の冠を戴き、雅な姿で現れ、実は自分は杜若の精であると名乗ります。そして業平は歌舞の菩薩の化現であるから、業平の歌の恵みによって、非情草木に至るまで、皆が成仏出来ると語り、舞い、姿を消して終曲します。

シテは物着で、杜若の精でありながら、高子の后のようであり、業平のようでもあって、まるで両性具有のような姿となり、しかも業平は歌舞の菩薩でもあるというのですから、観ている側も演じる者も、焦点を絞れず正直戸惑ってしまうのではないでしょうか。
私自身も初演では、舞っていてどこか明確性を欠くように思いながら、答えが出ずに、ずるずると終わってしまった記憶がありますが、今、それが能の本質的な部分でもあるように思えて来ました。敢えて二重三重の姿にし、伊勢物語の情趣を厚く描きだしたところに、能『杜若』の魅力、面白さがあるように思えます。
父・菊生は、「『杜若』は、あまり深刻にならず、ただただ綺麗に気品と品格、そしてところどころに女性の優しさを盛り込めるといい」と話していましたので、そのように意識して勤めてみたつもりですが、その域まで達せたのか、まだ自分ではわからないでいます。


今回は、時間の都合上、少し短縮版にしてほしいと、主催者側からの要請がありました。短縮するにはどうするか。他流でもいろいろな小書で工夫されています。それらも参考にし、今回は観世流の小書「恋之舞」のような演出にしてみようと考えました。

この小書は序、サシ、クセを省き、地次第の「遥々来ぬる唐衣・・・着つつや舞を奏づらん」から直ぐに「花前に蝶舞ふ、紛々たる雪、柳上に鶯飛ぶ片々たる金」につなげ、序之舞を主軸とする演出です。
「恋之舞」は十五世・観世元章の創作小書です。先代・観世銕之亟先生は「在原業平に恋をしてしまう花の精は、儚さ純情さがストレートに出ていて、通常の『杜若』よりやり易い」と言われたようです。友枝昭世師からは「花の精よりも、業平と二条の后との関係に焦点を置いているように思える」と教えていただきました。
確かに、小書「恋之舞」は文字通り、業平と二条の后の「恋」に焦点を絞っているように見えます。クセを見ると、伊勢物語はどのような物語かを語る詞章が続きます。十五段から始まって初段、七段、八段の歌も引き、「ひとたびは栄え、ひとたびは衰ふる理(ことわり)」という当時の世相に敏感な無常観も入れられています。この能で伊勢物語の全体を味わってもらいたいという作者の意図があったのかもしれません。当時の観客には伊勢物語は人気で、各段の歌などが頭に入っていて、このクセを面白く聞いたことでしょう。


焦点が絞りにくかったのもこのあたりにあったかもしれません。今回、業平と二条の后の恋に焦点をしぼり、やり易くなったことは確かです。能を短縮版にするとき、演劇的に省く根拠がなければいけない、そう思います。今回敢えて短縮版を勤めることで、根拠らしきものが見出せて、勉強になった、と思っています。短縮版を演じたからこそ、通常の『杜若』の魅力も再認識出来ました。


能『杜若』の主題、焦点はどこにあるのか? と自問自答したことがありましたが、今は、一点ではない、と答えるしかありません。伊勢物語絵巻の魅力を伝えたいようであり、能らしく草木の精としての杜若の花の美しさも見せたい。業平と高子の恋も大事であり、業平が歌舞の菩薩でその功徳で草木国土悉皆成仏、すべてが救われるという宗教性も絡めてしまうほど、ここが一番のポイントなのかもしれません。これらすべてを万華鏡のようにぐるぐる回して様々な模様でご覧いただけるのが『杜若』という能の魅力、味わいなのかもしれません。観る角度によりいろいろに変化する、つかみどころがない面白さ、それこそが能本来の面白さの一面でもある、と思えるようになりました。


料理で例えれば、通常の『杜若』がフルコース、短縮版「恋之舞」はそのメーン料理の魚か肉料理を省いて、少し軽目のコース料理といったところでしょうか。趣味の写真で
考えると、通常の『杜若』は花弁のひとひらから茎、根までを撮り、短縮版は花弁の中心部、業平と高子の恋を、あまり説明的にならず、杜若に近づいてアップして撮る、そんな感じではないでしょうか。

『杜若』は世阿弥作とも、また金春禅竹作ともいわれていますが、もともとはそれ以前のものではないかという気がします。ワキの名乗りから始まって、能の形式は整えられていますが、世阿弥や禅竹作なら舞台上で物着をさせずに中入りという形態をとったのではないでしょうか。それをしないところに演者としては古風な趣を感じてしまいます。


今回の演出で、初冠に「日陰の糸」を垂らし、あやめの花を挿して飾りとしました。
「日陰の糸」は喜多流にはありませんが、他流ではよく見られる形態です。とても雅な感じに見えるので、最近は敢えて付けるようにしています。


我が家の喜多寿山の伝書に「初冠の心第一也」と最後に書かれています。これは、女性の面をつけ、女性の装束を着ながらも、初冠、つまり男に、それは業平であることを忘れてはいけない、という教えであると演じる寸前に気がつき、今勤め終えてようやく理解出来た、というのが正直なところです。


喜多流の小書としては「働」と「合掌留(がっしょうどめ)」があります。
当初、「働」で演ってみようと計画していました。「働」は序之舞が終わり、シテ謡「昔男の名を留めし」を謡った後に囃子方のアシラヒが入る演出です。シテは舞台を一周するだけのもので、余韻を楽しむ風情ですが、序之舞のあとの謡は、やや声を張り上げ謡うのが鉄則です。その高揚を少し冷ます、シテ役者に冷静になる時間を与えるような意味合いがあると理解しています。そして「花橘の」と再び張り上げて謡うことで、演技の熱を上げたり下げたりさせる、それが「働」という高度な演出だと思っています。

実は、今回の「働」は、太鼓の金春国和氏と相談して、序之舞もやや長めにし、小書「恋之舞」を真似て、橋掛りでも舞うように試みたい、美しく群生する杜若を見て、そして自分の姿を映し見るような所作も入れるから、よろしく、とお願いしていましたが、昨年突然亡くなられてしまい、残念で堪りません。今回はご子息、国直氏が代演されることとなり、凝った演出は出来ませんでしたが、それでも「働」を試み、序之舞の寸法は変えずに、橋掛りに行く型は取り入れて替えの演出としました。


そして、最後は大小前にて合掌して留める小書「合掌留」を、番組には記載していませんでしたが加えました。故金春国和氏への追悼の気持ちを込めて、の替え演出です。
「合掌留」は残り留めという、謡が終わっても囃子方が延びて囃す演出があるようですが、伝書に「打延し候(残り留)事、これ無きこと也」と書かれていたので、今回は延ばさず勤めました。合掌は、本来舞台正面先におられる神様に向かって拝むものですが、今回は国和氏のご冥福を祈って手を合わせ、舞い終えました。
(平成27年9月 記)

写真 能『杜若』働 シテ 粟谷明生
撮影 石田 裕

無断転写禁止

『正尊』について 演能機会が少ない『正尊』に取り組む投稿日:2015-03-07

演能機会が少ない『正尊』に取り組む

粟谷 明生


正尊 後シテ粟谷明生 撮影 青木信二

【序にかえて 平成27年は『正尊』59歳『安宅』60歳】
 平成27年の私の粟谷能の会は、春は弁慶相手に『正尊』(3月1日)を、秋はその弁慶役の『安宅』を「延年之舞」の小書で勤めようと、かねてより計画していました。この2曲はともに、直面物、現在能、義経物(弁慶物)という共通項があります。さらにいえば、どちらも登場人物が多い曲であり、「読み物」という難しい謡があり、聞かせどころがあります。『正尊』の「起請文」、『安宅』の「勧進帳」がそれで、能の三大読み物に数えられています。もう一つの読み物は『木曽』の「願書」ですが、喜多流にはないので、事実上当流ではこの2つが「読み物」となります。共通項の多いこの2曲を、還暦を迎えるこの年に集中し深めておきたいと考えました。



(写真)正尊前シテ 撮影 青木信二
 【直面(ひためん)】
直面物(面を付けない曲)は余り若すぎてもその人物の風格が出ず、かといって、歳をとりすぎてしまうと観客は想像しづらくなり、体力が衰えた老体では真の力強さは表現できないと思っています。父・菊生は「自分の顔が巧まずしてその役に見えるときがいつか来る」と言っていましたが、味わいある直面物を勤めるには、旬となる時期がありそうです。今自分がその時期に来ているかは分かりませんが、『安宅』を45歳で初挑戦し、50歳で積み重ね、今年の60歳で3回目、このあたりが私にとっての賞味期限ではないか、と正直思っています。『正尊』は今回が初めてですが、もともと演能の機会が非常に少ない曲、今勤めておかなければ、との思いが強くありました。

【正尊の演能記録】
近年の喜多流で『正尊』を勤めた方は、昭和42年に宗家・十六世喜多六平太氏、昭和57年に故友枝喜久夫氏、平成8年に父・故粟谷菊生、そして平成17年に香川靖嗣氏(「二人会」)、平成25年に金子匡一氏がおられます。宗家が勤められたとき、私は子方(静御前)を、友枝先生のときはシテツレ(江田源三)を勤めています。父・菊生のときは、残念ながらその会で『隅田川』のシテを勤めていたので、同じ舞台には立てませんでしたが、そのときの父の舞台は目に焼きついています。香川氏のときは地謡で舞台を拝見しています。金子氏は松山での公演でしたので拝見していません。



(写真)静御前(子方・友枝大風)に酌をうける正尊(シテ・粟谷明生)撮影 吉越 研
【大人数の能役者を必要とする正尊】
『正尊』は人数物で、静御前を勤められる子方がいなければなりませんし、端正できりりとした義経役、豪快で芝居心もありシテと括抗する弁慶役(ワキ)、そして義経方と正尊方の郎党にそれぞれ数人ずつの若者が必要です。もちろん全体を盛り上げる地謡陣も必要で、それだけの陣容を整えられるかが問題です。数年前に『正尊』をと考え始めたとき、今ならそれができる、と思い決めました。今回、子方を友枝大風君、義経を佐々木多門氏、弁慶を朋友・森常好氏が勤めてくださいました。郎党も若手が勢ぞろいしてくれ、地謡陣も地頭を大村定氏に同世代でまとめてお勤めいただき、熱気あふれる舞台になりました。実は舞台に若手が出払っているため、楽屋は人数が少なく、初番の『三輪』の地頭の友枝昭世師、副地頭の香川靖嗣氏をはじめとした重鎮のみなさま方が、正尊の郎党や中入の私の装束の着付けを手伝ってくださり、まさに若手から重鎮、ワキ方、囃子方が一丸となって出来上がった『正尊』でした。このような結束力こそ演者側にとって大事なエネルギーであり意識であって、それが実現できたことを心底喜んでいます。
喜多流として、『正尊』のような曲は少なくとも10年に一度は舞台に載せ、継承していかなければならないと思います。私の子方や郎党、地謡の経験が宝となっているように、若者が、今回の舞台で経験を積んで、次へのステップにしてくれればよいと願ってもいます。
 
【あらずじ】
能『正尊』は、頼朝に、不和になっている義経を討つように命令される土佐坊正尊の話です。都に入った正尊は、義経の前に連れ出され、上洛の真意をただされると、熊野参詣のためと言い張り、起請文(神仏に誓って書く文書)まで書いて読み上げ、その場を逃れます。しかし、すぐに戦闘の準備をしていることが知られ、義経らに攻められ、最後、正尊は生け捕りにされて終曲します。

【正尊の役まわり】
 正尊は頼朝の命令に背けず義経を討ちに来て、最後は生け捕りにされる、非常に損な役回りです。稽古をしていて、土佐坊正尊(「吾妻鏡」「義経記」では土佐坊昌俊)がどのような人物であったのかが気になってきました。
「能の平家物語」(秦恒平著)に「土佐坊という人物は魅力も乏しく、肌触りのざらついた面白くもない男で、・・・<中略>・・・「あはれ」という美的要素のしずくもない男に造形されていて、際立って弁慶や義経が良くみえる仕掛けを担っている」とあります。
 単なる、弁慶や義経の引き立て役なのでしょうか。金剛流のように、シテを武蔵坊弁慶として、起請文も弁慶が読み上げる設定ならば、秦氏のご意見も理解できますが、喜多流や観世流など、正尊をシテとし、弁慶をワキとする設定ではどうでしょうか。敢えて敗者である正尊に焦点をあてることにより、その悲劇の深さがより強く伝わると、作者・観世弥次郎長俊は戯曲したのではないでしょうか。私はシテを勤めるとなると、その役柄に興味がわき、次第に好意を持ってしまいます。たとえそれが草木の精であろうと、義経や弁慶であろうと同じ。勝者であろうと敗者であろうと・・・です。そして、能は負を背負った者をテーマとすることが多く、『正尊』も然りなのではないでしょうか。

 


(写真)金王八幡宮の栞
【土佐坊正尊の人物像】
そこで、土佐坊正尊という男がどのような人生を過ごし、どのような最期を迎えたのか、そのあたりを深く知って稽古に励みたいと思いました。
正尊の生年は不明で、何歳ぐらいに没したかもよくわかっていないようです。『平治物語』に登場する金王丸を正尊とする説も確証あるものではないのですが、金王丸ゆかりの渋谷金王八幡宮公式ホームページでは、金王丸は永治元年(1141年)8月15日生まれとあり、これを正尊と結びつければ、そのくらいの生年と考えられます。彼は17歳のとき、源義朝に従い保元の乱で大功をあげその名を轟かせますが、続く、平治の乱で義朝が敗れると、渋谷で剃髪し土佐坊昌俊と称し、義朝の霊を弔います。1160年に義朝が斬られているので、金王丸は20歳ごろ剃髪し土佐坊と名乗ったことになります。
 数年後、頼朝は金王丸のいる八幡宮に参籠し平家追討の祈願をして挙兵します。石橋山の合戦(1180年)のころ、正尊は40歳ぐらいでしょうか。壇の浦の戦い(1185年)で平家を滅亡させた後、頼朝は義経に謀反の疑いをかけます。頼朝にとって、平家をあっという間に倒した猛将・義経はまさに鬼神のような存在、要注意人物となったのでしょう。反旗を翻すかもしれないと危険を感じた頼朝は義経征伐を決断し、その密命を正尊に下します。正尊はこれを断れず、同年10月、百騎ばかりを率いて義経の館に討ち入りますが、このとき正尊は45歳ぐらいでしょうか。私は今回、そのぐらいの年齢だろうと考えて勤めました。



(写真)弁慶に無理矢理連行される土佐坊正尊 撮影 吉越 研
 
【頼朝の義経追討の命令、最初はだれに…】 
 一説には、義経追討を畠山氏や和田氏が辞退し、誰も名乗りを上げなかったため、土佐坊が自ら進み出たとも言われていますが、定かではありません。今回『正尊』を勤めるにあたって、私は志願ではなく、頼朝から、もしかしたら梶原景時の策略かもしれませんが、「指名されてしまった」と想定して演じました。義経を討ちたいわけではない、頼朝の命令に逆らうことはできない。選ばれたのだから、もう死を覚悟しなければならないという貧乏くじを引いてしまった立場です。頼朝も最初から正尊が義経を討ってくれると期待したわけではないように思えます。反旗を翻したという口実作りの、いわば捨て駒にされたにすぎない、しかもそのことを正尊は充分に承知していたはずです。それでも敢えて捨て駒にならなければならない、そういう男の悲劇がこの曲の狙いだと思いました。
 このときの正尊の心境を言い得ているのが、初同(最初の地謡)の「否にはあらず稲舟の。・・・・なるともよしや露の身の。消えて名のみを残さばや。」です。「否」とは言えずに都に上ってきたが、もはや露となる身、生きて鎌倉に戻ることは出来ないだろう。それならばこの身は消えても名を残したいものだ・・・という、悲しい覚悟です。
このようなことは決して昔話ではありません、現在にもあることです。社長のために捨て駒になって罪を負い罰を受けて牢獄の中で過ごす部下や身代わりとなる秘書、通じるものを感じます。能は単に昔の悲劇を古い陳腐なものとして描くのではなく、現在にも充分通じる内容として継続している、すごい芸能であると思うのです。能が本当の古典であることをまさに実証している一面だと確信しています。



(写真)橋掛に勢揃いする正尊と郎党
 【潔い正尊】
能『正尊』の最後は生け捕りにされるところで終わりますが、実際の正尊は鞍馬山に逃げ、僧兵に捕まって義経の前に引き出されます。義経は正尊の主命を重んじる忠誠心を賞し、命が惜しいならば鎌倉へ返してやろうと恩情をかけますが、これに従わず、後の世まで「褒めぬ人こそなかりけれ」と言われ、斬首されます。この潔さ。判官びいきの世の中にあって、義経側から見たら悪役であるはずの正尊を敢えてシテにするのは、それなりの意味があるのです。実は喜多流でも昔はシテを弁慶にし、正尊をワキにする演出があったようですが、喜多健忘斉の伝書には「これはよろしからず」と書かれています。『正尊』は敗者である正尊をシテにしてこそ、描けるものがあるはずです。それは私も同感で、土佐坊の哀れと忠誠心、潔さ、男の悲劇がうまく演じられればと稽古に励みました。

 


(写真)後場 斬り組全景 撮影 成田幸雄
【猿楽の能・最後の戯曲者、観世弥次郎長俊】 
能『正尊』は前述したように、観世弥次郎長俊の作品です。長俊は観世小次郎信光の嫡子。観阿弥、世阿弥、禅竹と能は幽玄の世界に入っていきましたが、その流れが変わり、信光の時代は『船弁慶』や『紅葉狩』、『道成寺』に見られるように、一般の人も理解できる、わかりやすく娯楽性の高いショー的な構成の能になっていきました。長俊も信光を受け継ぎ、登場人物も多くエンターテインメント性の高い作品を作り出しました。しかし、ここまで来ると、傾く世界、歌舞伎に近いものになるので、このあたりで、能として幽玄へと揺り戻しがあってもよさそうでしたが、歴史はそうはなりませんでした。その後、新作能も作られたでしょうが、古典として今の世に残るまでにはなっていません。つまり、長俊は最後の戯曲家であり、彼の作品は幽玄物と対極にあって劇的、芝居的な曲であり、猿楽の能はここで息を止めてしまった、と感じます。この能を演じる者は芝居心をいかに発揮するか、しかも能という様式の中で、芝居との境界線ぎりぎりのところまで迫り、いかに表現するかが大きな課題です。今回はこのことを意識し、ワキ方の森氏や、郎党役の若者に協力を仰ぎました。



(写真)橋掛にて弁慶と正尊 撮影 成田幸雄
【試み・ワキへの依頼・1】
たとえば最初の場面、土佐坊正尊が都にのぼってきたが、これは義経を討たんがために違いない、正尊を召し連れて参れと義経に命令され、武蔵坊弁慶が正尊の宿を訪ねるところです。ワキ方下掛宝生流の詞章では「いかにこの家の内へ案内申し候。判官殿よりの御使い武蔵が参じて候、正尊はこの屋の内にわたり候か」となりシテは「武蔵殿とはあら珍しや」と受けるようになっていますが、喜多流は「誰にてわたり候ぞ」で詞章が違います。喜多流は最初誰が訪ねてきたか知らずに、正尊が出て行き武蔵坊と気づくと、「これはまずい、やっかいな武蔵坊だ」と早くも緊張が走る流れになっています。そこで、ワキの森氏に武蔵坊と名乗らないでほしいとお願いしました。思いもよらず、弁慶が訪ねて来た、ということは、自分が頼朝の密命で討ちに来たことがすでに知られている、そう直感した正尊の緊張感を大事にしたいのです。その後は、武蔵坊に問いただされ、正尊は熊野参詣のために来た、道中、病気となってご機嫌伺いが遅くなった、もう少し待ってくれと言いわけをしますが、有無をいわさず、連行されてしまいます。このやり取りの間、私は終始、頭を下げたままにしました。父も先人たちも、何回か頭を上げられています。確かに下げっぱなしは苦しいのですが、ここは顔を見せたくない、という正尊の腹の内を演じたいところです。



(写真)起請文を読み上げる正尊 撮影 吉越 研
【起請文について】
そして、前場での最大の山場は何といっても起請文の読み上げです。特に重く大事に扱っているためか、謡本に細かな節使いや音の上中下や拍子のとり方の記載はありません。習わなくては謡えないようになっていて、正式に伝授された者だけが謡本に朱書きをして習得し、後世に伝承することになっています。今回は、祖父・粟谷益二郎が書き残した伝書を参考にし、囃子方の横山晴明先生、佃良勝氏から地拍子の割付を頂戴し、また父が勤めたときの音源なども聞き習得しました。父が読み物は「最初はたっぷり謡うが段々乗ってきて早く、乗りよく謡う。懇切丁寧に同じスピードで謡ってはいけない」と言っていたことも念頭に浮かべながら謡いました。序破急をつけ、後半に躍動感を持たせ正尊の心意気をも見せる謡い方です。前後の地謡陣にも謡い方のスピードなど私の希望を述べさせていただき納得し協力していただきました。

義経らは正尊が偽りの起請文を書いたと承知しながら、あまりの文筆の見事さにひとまず酒宴を設け、静も舞を舞いもてなします。子方の友枝大風君もさっそうと舞ってくれ、この能の唯一の舞事を盛り上げてくれました。そして中入の型となります。橋掛り一の松あたりまで進んで「・・・各々退出申しけり」の地謡を聞き終え、囃子が終わったところで、一旦止まり、静止します。今までの時間とこれからの意気込みを見せる無言の型です。そしてズカズカと幕まで走り去る型。みなさんやられていることですが、伝書にはとくに記載はありません。ここは、起請文まで書いてようやく逃れてきた、もう猶予がない、今夜には決起しなければならないと、腹の中で覚悟を決めたという心持ちでしょう。止まった後、うしろを振り向く型もありますが、私は敢えて観客に顔を見せないほうが、能らしいと思い、振り向かず走り去る型にしました。



(写真)正尊郎党と江田・熊井との斬り合い[右より大島輝久・塩津圭介・友枝真也] 撮影 吉越 研
【能にもチャンバラあり】 
中入後の、義経の郎党と正尊の郎党が乱闘となる、いわゆる「斬り組」の場面、能にチャンバラまで入ってしまい、まさに歌舞伎との境界線ぎりぎりの作劇場面です。しかしここはやはり能の様式的表現手法を駆使して戦闘場面を創出する、それで一つの見どころとなっています。竹光を使いながらも迫力満点。最後は、前に宙返りする者、仏倒れ(後ろ向きにまっすぐ倒れる)する者、前倒れする者、若者が能らしく演じてくれました。実はこの「斬り組」についても伝書に特に記載がありません。橋掛りの長さや立衆の人数によっても違い、毎回の舞台で違っています。若者が過去のものを見て、よいものを参考にして、自分たちらしく演じてくれたことを喜んでいます。もちろん稽古や申合せで私の意見も言いましたが、おおむね彼らが考えてくれました。

  


(写真)大太刀抜く正尊三体 撮影 上より 成田幸雄 吉越 研 青木信二
【試み・シテの太刀抜く型】
さて味方が次から次へと斬り伏せられていくところを、橋掛りの三の松からじっと眺める正尊。観世流はシテが薙刀を持っているのに対して、喜多流は大太刀です。薙刀を握りしめる形は劣勢に驚く気持ちを表現しやすいのですが、大太刀を腰に当てている姿で微妙な心理をどのように表現したらよいか最後まで悩み苦心しました。今回は、もう最期、自分の出番が来たか仕方が無い、という追い詰められた無念の思いを、大太刀を頭上に持ち上げ、ゆっくりと少々大袈裟な所作で表現出来ればと試演しました。本来ならば馬から降りる型をしてから太刀を抜くのが理にかなっているのでしょうが、ここも伝書には特に記載はなかったので、演者の演出に委ねられると解釈して、最初に大太刀を抜く型をしました。
能は型を大事にしますが、型でがんじがらめになっているように見えて、実はある部分ではまだまだ自由に動けるところ、遊び、幅があり、それが演者には救いになっています。それを知るまでに少々時間がかかってしまいましたが・・・。



(写真)弁慶が取り押さえる場面
【試み・ワキへの依頼・2】
そして正尊と弁慶の一騎打ちとなる場面。ワキの森氏に、もう一つ協力していただいたところがあります。弁慶は正尊を軽々と投げ飛ばしますが、その後、弁慶は大小前に戻るのが常です。これでは正尊はすぐに逃げることも出来そうで、違和感を覚えました。そこで森氏に正尊が逃げぬように押さえつけている型をしてほしいとお願いしました。義経の郎党、江田源三と熊井太郎が両脇から生け捕りにする場面まで弁慶が力を振り絞り取り押さえている、そのように見えたほうが自然ではないでしょうか。この場面、観世流では縄を使って縛る形にしますが、喜多流は縄を使わずに二人が胸倉を掴み、両脇から羽交い絞めにして捕らえる形です。どちらがリアリティあるでしょうか。いろいろな演出があって面白いところです。



(写真)江田と熊井に取り押さえられる正尊 撮影 青木信二

 能『正尊』は両腕をとられた正尊と江田と熊井の三人が、橋掛りを幕を目掛けて走り込み、それを見送る義経の留め拍子で終曲します。何ともあっけない、空虚な感じが残ります。その後味の悪さ、妙な余韻に「何なの?」と、ご覧になられた方々が何か空しさを感じてくださればよい、と思って勤めました。確かに、土佐坊正尊は捕らえられ斬首される悲劇的な結末です。しかし勝った義経の運命はどうだったのでしょうか。平家物語では「土佐坊被斬(きられ)」のすぐ後に「判官都落」の項を配し、義経追討の院宣が下り、義経を討つために北条四郎時政が都入りしたこと、義経一行は吉野から奈良、そして北陸、陸奥へと逃避行となる運命を記します。締めくくりは「朝(あした)にかわり夕(ゆうべ)に変ずる、世の中の不定こそ哀れなれ」です。そんな余韻をどこかに残す義経の留拍子。これから義経はどうなるのか、めでたしめでたしではない陰の思いを、観客の心に残そうとも考えたのではないでしょうか。長俊の作品はドタバタ劇のように見えて、それでは終わらない、実は人間の行く末を見つめ、心情の深さも秘めているのです。



(写真)白水衣の前シテ 粟谷明生 撮影 青木信二
 【装束について】
 今回の装束は、前シテは紅無厚板、白大口袴に白縷大水衣、金茶系の角帽子(すみぼうし)を沙門の形につけ、観世流に近い格好を選択しました。喜多流の伝書には特に水衣の色の指定はないのですが、父も黒の水衣で、黒を着る人が多く、やや強いイメージとなります。観世流は白い水衣ですが、これは病人で、自分の運命をひがんでいるような弱々しい風情、頼朝に指名され仕方なく義経を討とうとする悲劇の男を描くのに似合うのではないかと、白を選択しました。秋の粟谷能の会で『安宅』を勤め、そのときのシテ・弁慶では強いイメージで黒を着るつもりですので、その対比も意識しました。



(写真)袈裟頭巾の後シテ粟谷明生と姉和平次光景役・友枝雄人
後シテは金茶地半切に白法被、父・菊生と同じ袈裟頭巾で勤めました。伝書には「長範頭巾」と記載されていますが、これは盗賊熊坂長範のイメージが強いので、正尊の風格を考えると不似合いです。近年は、僧兵のイメージで「袈裟頭巾」を使うことが普通になり、私もその選択としました。



(写真)御影堂にある金王丸木像
【最後に御礼の挨拶】
今回の演能に先立ち、東京都渋谷にある「金王八幡宮」の「金王丸社・御影堂」に参拝してきました。金王丸が正尊と同一人物かは確たるものではありませんが、能『朝長』で、前シテ・青墓の長者が「武具したる、四五人入り給う、義朝御親子、鎌田、金王丸とやらん」と謡い、能楽師の我々には親しみが持てる人物です。金王丸が15歳のころ、義朝に従って朝長の最期に立ち会ったのか、その子が40代半ばとなり、義朝の子、頼朝の命に従ってこのような悲劇となったのか・・・そのようなことを思い、願掛けの意味もあって参拝しました。その甲斐あってかどうか、能『正尊』はワキの弁慶役を引き受けてくれた朋友・森氏をはじめ、子方、立衆の若手、地謡、囃子方、みなさんと一致団結して創り上げることが出来たと感じています。こういう曲作りをしたいという私の思いをみなさんに共有していただき、とても風通しがよい快さを味わっています。人が多く出るということは装束や小道具だけでも相当数用意しなければなりません。森氏に装束や刀など多く拝借させていただきましたこと、ここにお礼申し上げます。恵まれた条件がそろったときにようやくできる『正尊』、これが今このとき、粟谷能の会で実現できたこと、この上ない喜びで、関係各位に深く感謝申し上げます。また会場に足を運びご覧いただいた皆様にも感謝の気持で一杯です。
追加
秋の粟谷能の会は10月11日(日)です。亡父の命日に還暦を記念して『安宅』を勤めますので、どうぞご来場いただきたく、お待ち申し上げております。
                          (平成27年3月 記) 

写真無断転写禁止

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粟谷明生事務所
akio@awaya-noh.com

『六浦』を勤めて投稿日:2014-11-23

演能レポート 『六浦』を勤めて
平淡ななかの閑雅な風情


京浜急行逗子線に六浦駅がありますが、これは「むつうら」で、能『六浦』は「むつら」と読みます。舞台となる称名寺は六浦駅の近くではなく、金沢文庫駅から歩いて行ける距離で、大きな池に橋がかかる浄土庭園を持つ、景色のよい大きなお寺です。能『六浦』を喜多流自主公演(平成26年11月23日)で勤めました。
能『六浦』の季節は秋。都の僧が相模国(今は武蔵国とも)に下り、六浦の称名寺に立ち寄ると、あたり一面錦秋の景色であるのに、一樹だけ紅葉しない楓を見つけます。不審に思っていると、女性が現れ、昔鎌倉の中納言為相卿(ためすけきょう)が、紅葉した楓に感激して歌を詠んだため、楓は感激恐縮して以後紅葉しなくなった所以を語り、実は楓の精であることをあかし消え失せます。夜、旅僧が読経しているとふたたび女は楓の精の姿で現れ、僧に仏徳を感謝し、四季彩る草木の美しさを語り、夜遊の舞を見せ、夜の明ける前に消え失せます。


僧に救済を求めるでもなく、ただ報恩のための舞台展開は、純正の鬘物の定型ではありますが、やや削り過ぎと思えるほどシンプルな内容となっています。為相卿は、藤原定家の孫で歌道冷泉家の祖となる方で、詠まれた歌は「いかにしてこの一本に時雨けん、山にさきだつ庭のもみじ葉」です。山々がまだ紅葉していないときに、この一樹だけが紅葉色深く類無き美しさだったため、それを愛でて詠まれたものです。


能には草木の精を主人公にした曲が数多くあります。昔から日本人は草木に精霊が宿ると信じ、草木を愛で信仰してきたのでしょう。今は理解しにくい設定も自然に受け容れられていたものと思われます。春は桜の『西行桜』、秋は柳の『遊行柳』、両曲とも面は「石王尉」をかけ老人の姿となります。一方、伊勢物語に絡めた杜若の精を描く『杜若』は、若く美しい女性の設定で、『芭蕉』の精はやや地味な扱いとして中年の女性で演出されていて、双方両極端の位置にあると思います。では喜多流の『六浦』の置かれた立場はどこでしょうか? 


近年は、面は前後とも「小面」、装束は前場が紅入唐織、後場は萌黄色長絹に緋色大口袴が多いため、『六浦』はやや華麗な『杜若』に近いと思われます。
六平太芸談に、十二世能静が幕府表方の舞台で『六浦』を勤めた時、わざわざ波に扇面を流した模様の緋色絵大口袴を作らせ、黄色地に紅葉を散らした長絹を用いて、綺麗な装束に見物一同驚いた、との記録があります。『六浦』という曲が、余分なものを削りに削ったシンプルな物語で、華やかさに欠け寂寞たる淡泊な能のため、華麗な装束で気を引こうと、演者の考案であったと思われます。私も真似て、粟谷家にある緋色に絵柄のある紋大口袴を使用してと、当初は思っていましたが、我が家の伝書の「後、長絹色大口、但し、緋は用いるべからず」の一文が目に飛び込んで来ました。そこで今回は敢えて緋色を使わない演能を心がけました。


今回の自主公演は、初番が『小督』でシテ連が「小面」を二面使用し、三番目の『黒塚』の前シテの面は「曲見」という周りの環境を考慮して、『六浦』の前シテの面は「浅井」をかけて紅無唐織を着て、後シテは「増女」に替え萌黄色長絹に鬱金色大口袴という、やや華やかさを押さえた格好にしました。紅入りの演出の狙いは紅葉していた時の楓の精を再現する気持ちですが、紅色を控えることで、以後紅葉しなくなった楓の精の気持ちで演じることが出来るのではないか、というのが、私の狙いでした。もっともお囃子方の皆様に「喜多流の平素の姿とは異なりますが、いつも通りの位でお願いします」と申し上げると、「他流は紅無ですから別に問題ありません。喜多流だけです、小面は・・・」とのお応えが戻ってきて、ほっとしました。


さて、昭和版の謡本の曲趣には次のように書かれています。
「一首の歌を題材として草木の精を舞わせる趣向であるから、内容もすこぶる単純であるが、優雅清麗の風情は三番目能の小品として、綿々たる恋情を述べるのではなく、四季折々の草木のおのずからに時を得る叙景的詞句も、平淡の内に滋味がある。功成り名遂げて身退く、という理念も人間的な処世の情とは異なる」とあります。「優雅清麗の風情は三番目能の小品として」のくだり、そのよさはわかります。しかし、最後の「人間的な処世の情とは異なる」の一文が気になりました。人間が世間で暮らしてゆく有様、気持ち、とは別物で演じなければいけない、という意味でしょうか?


シテ謡に、なぜ一樹だけが紅葉しないのか、楓の気持ちを述べる詞章があります。
「功成り、名遂げて身退くは、これ天の道なりと言う、古き詞(ことば)を深く信じ、今に紅葉を止めつつ、ただ常磐木の如くなり」。手柄をあげ、名声も得たならば、位から身は退く、これが天の定めで、この言葉を信じて楓も紅葉を止め、その後は一年中緑葉を保っているというのです。楓の精でありながら極めて人間的な詞です。草木の精を擬人化して人間と同様に心を持たせ、世の無常を語らせようとする能の演出で、人間的な設定をしておきながら、一方で人間的な処世の情とは異なる、という考えが、稽古していてどうもうまくかみ合わない、というのが演者としての本音です。
どのように考えたらよいのだろうか、と演じ終えた今も答えが出せないでいます。


『六浦』という曲は、とくに見せ場があるわけでもなく、強い心の訴えがあるわけでもありません。淡々と平淡です。しかし、この淡々と平淡を観ていただき、そこからなにかを感じていただく、そういう曲なのかもしれません。演る者も観る者も、見識を高く持ちながらも、それに満足せず、頼らない、もっともっと上の位に上がれる者が、草木の心がわかり、この曲の深い味わいを感じられるのかもしれません。
『六浦』を面白く見ていただくためには、まずは演者自身の心技体が高位に達しなくてはいけないのは勿論ですが、功も成らず、名も遂げていない我が身が、遂には身退く、という観念、理念で舞うことは、少々早かったようにも思えます。舞も謡も特にむずかしいところはなく、ある意味とても簡単に勤められる『六浦』ですが、実は形を受け継げば済むという能ではなく、能の本質を見極めることがとても大事で、そこがむずかしい曲であると知らされた、というのが演者としても感想です。
(平成26年11月  記)

文責 粟谷明生
写真 能『六浦』シテ・粟谷明生 撮影 前島写真店 成田幸雄
面 「浅井」「増女」粟谷家蔵 撮影 粟谷明生 

『清経』を演じて ー形見というキーワードー投稿日:2014-10-12

『清経』を演じて
形見というキーワード

 能『清経』は平家物語や源平盛衰記をもとにして世阿弥が戯曲したものです。とはいえ、平家物語で清経について綴られているのは入水したことを述べる数行のみです。このわずかな叙述に心を留め、清経の震える心に分け入り、若くして入水しなければならなかった貴公子とその妻の情愛を香り高く創り上げたところに、世阿弥の能への思いが伝わります。都落ちの時、清経は19歳、妻は20歳ぐらい、若い夫婦です。まだ成熟していない清経の人間の繊細さ、弱さを能『清経』は表現しているといえるでしょう。
 『清経』は中入りのない一場物ですが、前半は現在能形式、後半は夢幻能的な修羅物となっています。前半は粟津三郎(ワキ)が清経の妻(ツレ)を訪ね、清経の形見の鬢の髪を届け、清経が柳ヶ浦で船から身を投げたことを報告します。妻は、清経が遁世でもない、討たれたのでもない、病気でもない、自ら命を絶ったことに戸惑い、必ずこの世で逢おうと約束したのにと怨みます。後半は「夢になりとも見え給え」とまどろむ妻の夢枕に清経の霊(シテ)が現れ、夢幻能のような趣向になります。



 撮影・青木信二

この『清経』を第96回粟谷能の会(平成26年10月12日)で「音取」の小書付きで勤めました。「音取」は笛方の秘事で、シテの出に特殊な笛のアシラヒが入ります。演者は笛の音に引かれ、「どこから聞こえてくるのだろうか?」と探し求める心持ちで運びます。
私の小書への挑戦は研究公演以来二回目で、共に一噌仙幸先生のお相手で光栄に思っています。この小書は観世流、金春流では「恋之音取」、喜多流、宝生流では「音取」と呼ばれていますが、我が家の伝書に「恋の音取」と記載されていて驚きました。それでも、「音取」で通している今の喜多流なので、私も「音取」としておきます。
昔は音取の譜を聴き取ることが難しいからか、先人たちは敬遠されることが多かったようです。現に父は一度森田流の吉岡望氏をお相手に勤めていますが、とても苦労して、二度とやりたくないとこぼしていたのを覚えています。近年は録音再生が簡単に出来るようになり、笛の譜を聞き取るのはさほど難しいことではなくなってきました。とは思いながらも、やはり何度も音を聞いての稽古が必要なことは言うまでもありません。
伝書には、「音取」の演出が能『清経』本来のものであったような記載がありますが、昨今は笛方の秘事を過大視し、経済的に窮屈なものとなり、頻繁に行われることはなくなりました。良いことなのか、そうでないのか、私には判断がつきにくいところです。

笛方は地謡の「夢になりとも見え給へと」の謡の内に、本来の笛座から本舞台に進み入り、「枕や恋を知らすらん」と妻が眠りにつくと、幕の方に向き、静かにひとり譜を吹き始めます。清経の霊はその音色に引かれ、妻の夢の中にその姿をほのかに現していきます。清経が愛した笛、その音が聞こえると動き、止むと静止、この繰り返しが音取の型です。型附は、吹き出しで半幕、床几にて姿を見せ、一度幕を下ろし、次の吹き出しで三の松まで出て正面に向き、停止。また吹き出しで二の松あたりまで譜に合わせ運び停止。また一の松まで動き、正面を向くと、「恋の手」という特殊な譜となり、右向き聞き入る型、左向き聞き入る型、となります。最後は橋掛りより本舞台に入り、笛の音がやむと「うたた寝に恋しき人を見てしより、夢ちょうものは頼み初めてき」と小町の歌を歌い上げ、「いかに古人(いにしえびと)」と妻に呼びかけます。「音取」は静寂な舞台空間の中で、笛一管とシテの運び(歩行)のコラボが見どころ、ということになります。
 
このようにして夢の中に会えた二人ですが、妻は清経が自ら命を絶ったことへの怨み、夫はせっかく贈った形見を妻が送り返してきた怨みを言い合うことになります。この二人のやり取りは聞かせどころなのですが、妻のなぜ自分を置いて自殺してしまったのかという怨みはよくわかるにしても、清経の「なぜ形見を返してきたのか」という怨み節は少ししつこいように感じます。



撮影・青木信二

そこで『清経』のテーマ、キーワードはなんだろうかと考えたとき、この執拗にこだわる「形見」に思い至りました。形見を返してきたことについては「源平盛衰記」に記述があります。それによると、形見は清経の生前に贈られていますが、能では彼の死後に返したと脚色されていいます。シテ謡に「再び贈る黒髪の厭かずは留むべき形見ぞかし」とあり、ここが気になります。「再び」とは生前と死後の二回形見を送っていること、それなのに両方とも返すのかと怨み節になる・・・と解釈出来ないでしょうか。もっとも他流の詞章では、「再び贈る」のところは「さしも送りし」となっていて、「再び」の言葉はないので、それほどこだわったものではないかもしれません。

さらに「源平盛衰記」を見ていくと、清経がひとり都落ちしたのは、妻の父母の猛反対があったからとあります。妻は同行したくとも出来ず、二人は泣く泣く引き裂かれた格好のようです。清経は悲しみ、西国への道中、鬢の髪を形見として妻へ送り、また連絡すると約束します。ところが、その後三年の間便りをしなかったため、遂に妻は心変わりしたと恨み、清経のもとへ鬢の髪と「見る度に心づくしの髪なれば、宇佐にぞ返す元の社へ」(見る度に心を痛める髪なので、つらさに宇佐の神の社へお返しします)と一首の歌を添えて送り返します。清経はこれを柳ヶ浦にて受け取り悲観したようです。入水の決意を固める一つの要因になったかもしれません。



撮影・青木信二

妻の父母の猛反対とはどういうことでしょう。清経は平重盛の三男、清盛の孫にあたります。妻は清盛殺害を企てた藤原成親卿の娘でした。妻の家では平家を大事に思うはずもなく、平家一門からは心底気を許されていない、そんな両家の環境も影響したのではないでしょうか。私はそのように推察しています。
家と家の事情はあったでしょうが、清経の霊は愛する妻への想いをより深く演出したい気持ちで夢枕に現れたはずです。ところがさっそくの怨み節。シテとツレの問答は若い夫婦の口喧嘩で、これはいつの世にも通じます。現代風にアレンジしてみましょう。

男「いつでも自分のことを思い出してほしいから形見のプレゼントをしたんだよ」
女「プレゼントは見れば見るほどあなたのことを思い出して心が乱れるから、そんなものは返すわ」
男「私のことをまだ好きならば手元に留めておくのが普通じゃないか!」
女「なに言ってんのよ、女の気持ちがわかってないわね。見ると思いが乱れちゃうのが嫌なのよ!」
男「わざわざ贈ってあげたのに・・・」
女「なによ。ずっと一緒に、という約束を破っちゃって。しかも自殺なんて!!」
男「お互いに恨み恨まれるのもプレゼントのせいだね」
女「そうよ。形見のプレゼントとは、とてもつらいものよ」。
こんな会話を想像しながら、このくだりを演じました。

しかし口喧嘩というものも、途中でつらくなるのが常です。やがて清経は「このうえは怨みを晴れ給へ。西海四海の物語申し候はん」と都落ちから入水までの有様を語り始めます。
途中、宇佐八幡に参詣しようと、神馬、金銀、種々の捧げ物をしつらえていると、ご神詠が聞こえてくる・・・。
「世の中のうさには神も無きものを、何祈るらん、こころ尽くしに」
(世の中の憂さ、平家がこのような状況になっては、宇佐の神も何もできないものなのですよ。それなのに何を祈るのですか。・・・・)



撮影・吉越 研

神も仏も我らをお見捨てになったのかと一門の者は皆肩を落とし、それは哀れな有様であった。清経も一門の行く末に絶望し、いたずらに憂き世に永らえるよりは、いっそ身を投げて果てようと秘かに決意したと語ります。平家物語にある宇佐八幡のご神詠の話をここに持ってきて、清経が自死に追い込まれて行く様をみごとに描き出しています。
ついに清経は「船の舳板に立ち上がり、腰より横笛抜き出し、音も澄みやかに吹き鳴らし・・・・西に傾く月を見れば、いざや我も連れんと、南無阿弥陀仏弥陀仏迎へさせ給へと、唯一声を最期にて、船よりかっぱと落ち汐の底の水屑と沈み行く憂き身の果てぞ悲しき」と、実に美しい詞章で最期を見せ、修羅道の苦患へと続けます。美しい詞章と美しい型の連続、囃子方もそれに呼応して舞台を盛り上げてくれます。『清経』は修羅物ではありますが、勇ましい武勲談があるわけではなく、心の葛藤の表現としての「カケリ」もないのが珍しいところです。武将でありながらどこか心が柔弱で、入水という戦わずして命を絶ってしまう、その公家的な若き武将・清経の最期を、舞を中心にして見せるのが能『清経』です。最後「仏果を得しこそ有難けれ」で留めるとあたりは静寂に包まれます。夢の世界はその静寂のなかに余韻を残しながら消えていきます。もっとも能らしく、平家の貴公子の品のよさ、亡びる者への美学と救済が存分に描かれていると思います。私もそこを意識して勤めています。



撮影・粟谷明生

装束は、前回の研究公演同様、粟谷家所蔵の「紅白段模様唐織厚板」を使用しました。これは佐々木装束店が「桃山時代のものかもしれません」と高く評価してくださるほどの名品です。滅多に身に着けることのできない装束で勤めることができ幸せでした。
 今回、笛は一噌仙幸先生、ワキは宝生閑先生と、お二人の人間国宝の先生方にご出演していただき、身に余る光栄で、貴重な時間を過ごすことができました。これらのことが観ていただく方に少しでもうまく伝えることが出来れば、と勤め終えた今も感じています。
(平成26年10月 記)

『求塚』の地謡を謡う その2 ー地謡全員の気迫がつくり出すものー投稿日:2014-06-07



先日の第8回日経能楽鑑賞会『求塚』(シテ・友枝昭世師)(平成26年6月5日)で地謡を謡ってきました。『求塚』というと、「地謡の充実」をテーマとして、友枝昭世師にシテをお願いし、我々が地謡(地頭・粟谷能夫)を謡った粟谷能の会研究公演を思い出します。平成5年5月のことでした。あの研究公演では自分たちが立ち上げた会であるのに、なぜシテをやらないのか?という声も上がりましたが、我々はあえて地謡にまわり、地謡の勉強をしようと考えました。「能は謡が7割」と、父菊生は謡の大切さを強調していました。いくらよいシテがいても、地謡陣が情けないと、その舞台は台無しになってしまう、と。私たちも地謡の大切さをひしひしと感じ、父たちの次の世代である私たち、そしてさらに私たちの次の世代の地謡の担い手をつくっていくという志がありました。あの試みにご協力いただいたワキ・宝生閑師、囃子方は一噌仙幸師、柿原崇志師、亡くなられた北村治師、皆様のご指導とご協力は今でも忘れられず、感謝しています。

あの研究公演がよい経験となり、その後、父が平成10年・大槻自主公演でシテを勤めた『求塚』でも、平成15年の友枝昭世の会『求塚』にても、その成果が発揮されたように思います。


そして「地謡の充実」を折に触れ確認しようと、このテーマで、研究公演特別版を企画してきました。平成17年の『木賊』、平成22年の『檜垣』、いずれも友枝師にシテをお願いして、我々が地謡を勤めてきました。


今回の日経能楽鑑賞会『求塚』も、シテが友枝師、地頭が粟谷能夫、私も地謡に加わり、研究公演と同じような配役となりました。地謡の充実とひとことで言いますが、それは地頭を先頭にして、地謡全員が真剣に、気迫をもって謡わなければ実現しないものです。
地謡は通常8人で謡うもので、地頭と呼ばれるリーダーが主となり、他の者が地頭の意向を感じて合わせて謡います。

地頭は一曲のテーマを考え、演じる者の動きや思いなどを考慮して、リズムやメロディーの流れを創り出す大事な責任を負っています。その責務は重くプレッシャーとなるものです。そして、他の地謡全員の力量が必要です。力量がなく上辺だけの謡い方で、地頭に寄りかかるような、責任を負わないような態度での謡は、地頭にはとても重荷になり、十分に力が発揮できません。地謡は地頭が優れていなければ成り立たないのは当然ですが、他の者が地頭を援助する気持ちに溢れていると、地頭は安心でき、心強くなって力を発揮できます。ひいては、地謡全体が充実し、よい舞台に繋がるのです。


今回の『求塚』も、地謡をしっかり謡おうと意気込んで臨んだのは言うまでもありません。順調に舞台が進行していました。そして、最後の場面、「暗闇となりぬれば・・・」のときのことです。囃子方の間の取り方がいつもより大きくなったため、地謡もうっと息を飲みました。それはほんの一瞬のことです。地頭もやや戸惑いがあったのでしょう、違う言葉を発しそうになりました。そのときです。残り7人の地謡が力強く、気迫を持って謡い出し、最後の一番よい場面を傷つけることなく、スムーズに運ぶことがきました。


地謡を謡っていると、思わず言葉を間違えそうになったり、言葉が出てこなかったりすることは正直あります。しかし、それがあからさまにお客様に感づかれてしまってはプロとして失格です。正確に間違わずに謡うということは当然ですが、間違いやアクシデントは演劇では付き物で、それをどのように粗相なく判らないようにうまく処理するか、これも大事なプロの技だといえるでしょう。

その策はいくつかあるでしょうが、私は今回の舞台で、もっとも有効な手法は「地謡全員が一致団結して気迫をもって謡う!」ということに確信を持ちました。このもっともオーソドックスな取り組み方をまっとうしていれば、大凡のことは防げるのではないでしょうか。地謡の各自が精一杯、声をふりしぼり、力を出し切るほど声を出す。それがアクシデントに動ぜずうまく対応出来る唯一の策、そう確信しました。

地頭と地謡のメンバーとの関係は、一般には地頭が責任者で他の者を引っ張り、皆は地頭に従って謡う、というように思われるでしょう。間違いではないですが、私の理想型は地謡の一人ひとりがみなぎる気迫を出し切って地頭を支える、というスタイルであると思います。両者は主従の関係だけでなく、横一列にならんだ仲間であって、リーダーを引き立て協力関係にある、と謡う者が意識する、そう信じることが大事だと思います。

地謡のどこのポジションで謡おうが、全員がプロ意識で気迫をもって、邪魔にならない程度を踏まえて大きな声で謡うことです。
昔よく能夫に「明生君お得意のサイコロステーキ論がまたお出ましだね」と苦笑されましたが、まさにそうです。大きなビーフステーキはナイフとフォークを扱い自分の食べやすい形に切り口に入れます。ダイナミックでよいでしょう。

しかし一方で、サイコロステーキのように最初から口に運びやすいサイズに切られているのは、食べやすく、それぞれのお肉のおいしい個所の味覚を楽しめるようになっていると思います。

つまり地謡のそれぞれのポジションの者とサイコロステーキは同じようなもの。自分の置かれたテイストを自らが引き出すこと、もちろん一番おいしいところは地頭肉にお譲りするのですが・・・、自分を美味しく食べて貰おうとする前向きな意識が大事なのです。

全員が一致団結というと、一枚岩のように最初から纏まった堅い物をイメージしてしまいますが、細分された個々の力の結集の方がより効果を上げ易い、というのが粟谷明生特有の持論なのです。先日の『求塚』は、全員がそれぞれの味わいを出し、協力し合い、その結果よい地謡が謡えた、私はそう感じて、持論のよい手本となる舞台だったと思っています。もっとも後日、どこかの批評家がダメ出しの感想を書かれるかもしれませんが、これは私の私なりの持論と感想であることを付け加えておきます。

今、頑張って地頭を勤めている粟谷能夫、いや能夫だけではありません、地頭という責任ある立場の者を、もっともっと強くフォローしよう! 前列も一体となって! と声を上げてくれ、そう叫びたいのです。

ふり返れば、地謡の充実をテーマにした研究公演から20余年の時が流れました。あの時の私たちの志、その成果がようやく現れて来たと感じ、なんだか嬉しい気持ちになっています。これからも心を引き締め、情熱をもって精一杯謡っていきたい、そんな気持ちを新たにした、思い出に残る日経能楽鑑賞会『求塚』となりました。 

デジブック『求塚』シテ・粟谷明生
http://www.digibook.net/d/27d4a533819fa45d3b9de0c65cb86306/?viewerMode=fullWindow&isAlreadyLimitAlert=true

番組資料 粟谷明生蔵
写真   『求塚』シテ・粟谷明生 撮影 石田 裕
文責   粟谷明生

『道成寺』 談議   2014年3月 於 和食 いふう投稿日:2014-03-07

『道成寺』 談議   2014年3月 於 和食 いふう

ご協力 脇方 森 常好氏 小鼓方 大倉源次郎氏 大鼓方 亀井広忠氏
司会進行 粟谷 明生

 

粟谷 先日の粟谷能の会では皆様にお世話になりました。今日はその慰労会と反省会と言うことで、粟谷能の会ホームページにもお話したことを記載したいと思いますので、録音をお許し下さい。私は『道成寺』は二回目ですが、皆様は何回お勤めですか?

亀井 私はちょうど50回目の記念です、本当に忘れられない『道成寺』でした。

大倉 僕は133回目。常ちゃんは100回ぐらい?

森  そんなにたくさんやっていないよ。

大倉 でも年4回としても、30年経っているよ。

森  30年で120回!

大倉 ほら。

森  いやあ、100回もやっていないよ。でもやっているかな。去年も4回やったし・・・。

大倉 僕はペースダウンしても年3回はあるから、常ちゃんの100回以上は確かですよ。

粟谷 皆様、多いですね。

亀井 大小はいつも隣同士でしょう。私は源次郎先生のお相手が多く、今回も安心して勤めさせていただきました。なにか受け止めてくださる感があります。源次郎先生の場合は「ついてこい」というところがありながらも、「広(ひろ=広忠)がそう打つなら、お前についていくよ」というような、両方の気を出してくださるからとてもやりやすいのです。すいません生意気言いまして。

粟谷 いいコンビなのね。ではまず特別な習次第(替之習次第)についてお話していただきます。今回は笛のヒィヤーヒーのヒシギと同時に幕上げをしてシテの姿を見せる替えの演出としました、広忠君にお聞きしますが、「打つ心持ちが二通りあって、どっちでやりますか?」と言われましたね。

亀井 申合せの後に、明生さんが「習のヨセの手」の前はもうちょっと間がほしいと仰いましたので、本番はワンクッションの間を大きく作りました。「女体から蛇体」への変化の心持ちで・・・。

粟谷 その変化の葛藤みたいな意識はわかりますね。

亀井 シテが姿を出さられた時は蛇体で、また幕が下り一度止まられる時には女体に戻っている、そんな感じですかね。笛がヒシギを吹いた時は蛇体ですから、ヒシギと同時に幕を上げられた方がいいですよ、とお話しました。

粟谷 ヒシギと同時に姿を見せるのが効果的、ということだね。

亀井 そうですね、女の葛藤する気持ちと平常でいようと思う心、その二つがあると・・・。

粟谷 私も同感だね。

亀井 ですから幕の上げ下げの呼吸が大事だと思います。

粟谷 本番は上げる時は、ふわっとやや早めにして、下ろす時はゆっくり、にしました。

亀井 替之習次第は、こちらはいきなりハイテンションとなってシテの出の場面となりますが、あのように短い時間で雰囲気を創り出すのは結構難しいです。今回、お相手が源次郎先生でしたから安心してスムーズに出来たと思っています。

粟谷 私の替の演出の解釈は、能力(野村萬斎氏)が周りに「鐘の供養があるよ」とふれた瞬間に、その知らせ、つまり音や声でもいいのですが、それが鐘に恨みを持つ女に聞こえてしまうのね、するとその魂の怒りスイッチがオンしてしまう。「鐘! 何でまた吊るの!」と怒りがこみ上げて来る、と同時に執念の姿が表れるところを観客にお見せしたい、そう思って演じました。

亀井 なるほど。替之習次第は、たとえば『三輪』の「白式」「神遊」の後に『道成寺』とか、または『檜垣』『卒都婆小町』プラス『道成寺』という番組があった場合、習之次第が続きますね。その時は「老女物」の方は正規な習之次第として、『道成寺』は替之習次第があってもいいのではないか、と父に相談して「ではお前やれ、俺はやらないけれど」と言われて、最近流儀の公認となりました。

粟谷 あれ? 忠雄先生がお勤めになられたのではないの?

亀井 いえ、父ではありません。

粟谷 大槻能楽堂特別自主公演の時、忠雄先生がやられたと思っていましたが・・・

亀井 替之習次第を試みたのは私(笑) ですから阿吽の対談を読んで「あれ、父がやったことになっている」と思いましたが、「まあいいや」と思っていました。(笑)

粟谷 ああ、それはたいへん失礼しました。忠雄先生にお詫びしなければ・・・。兎に角、替之習次第は、囃子方、つまり大鼓、小鼓そして笛の方々の技術的なものがあってのこと、それは当然ですが、それだけではない奏し演じる想像力がないと面白くいかない、と思いますよ。

亀井 演じる心を囃して成り立たせたい、という欲求はありますが、それはお客様なり、まわりの方々の判断となりますね、正直、なかなか自分では決められないものです。

粟谷 源ちゃんとは替之習次第と乱拍子と、今回いろいろな挑戦にお付き合いいただきまして、本当に有難うございました。国立能楽堂30周年記念の金剛永謹氏の『道成寺』を拝見した時に、金剛流の古式の習之次第が面白くてね。

大倉 そうでしょう。(笑)

粟谷 あれを真似しようかな・・・、と浮気虫が騒ぎましたが(笑) 今回の替之習次第、源ちゃんは、どのような感想を持たれましたか? 替えの習之次第はやりにくい?

大倉 いやいや、そんなことはないですよ。あれはあれで、今お二人が言われた通り、同じ気持ちで勤めましたよ。

森  僕としてはすぐにシテが登場するのはいいね、あまり丁寧に、というか慎重過ぎて時間をかけすぎるのは、どうかと思うよ。

粟谷 今回の私の演出は喜多流としては新たな試みもありまして、「替之習次第」は能夫が一度(平成18年粟谷能の会)で試みていますが、名のり、道行、アイとの問答を橋掛りで行うというのは、今回が初めてでした。アイ(萬斎氏)との問答を橋掛と本舞台とで距離感を出して、アイの境内女人禁制との忠告を無視し厚かましく境内に入ってくる、なんとなくふてぶてしい女を演じてみたかったのです。

亀井 物着に入る前のアイのお言葉が申合せと本番が違いましたね。

粟谷 あ!それは私の責任ですね。シテの「ひらに拝ませ給わり候へ」のあと、本番当日に萬斎君から「和泉流の科白でいいですか? それとも最近の喜多流相手のお言葉にしますか?」と聞かれた時、喜多流にはその後の受ける言葉がないので、「どうぞご自由に、和泉流本来のやりかたでいいですよ」と返答しましたが、それをお囃子方にお伝えしなければいけなかったですね。

亀井 そうですね。道具をとる大事なタイミングのところですから。源次郎先生と私、息を殺しながら気配を感じられないように、手を出しお互いそっと道具をとるのが心得なので・・・、やはりあれは教えていただきたかったです。萬斎さんとしては明生さんが伝えてくれるだろうと思っていたのかもしれませんね。

粟谷 わかりました。そこは喜多流には関係ないから、ではいけないね。シテがそこまで責任を負い配慮しお伝えしないといけなかったですね、教えてくれて有難う、勉強になるなあ。

亀井 言葉を抜く時は、あらかじめ言っていただければ、いかようにも対応はしますので。鐘入りに迄に繋がる大事なスタートですから。

粟谷 広忠君、物着で立つのが少し遅れてしまい、ごめん。

亀井 あれ?と思いましたよ。(笑)

大倉 物着でアクシデント、例えば、烏帽子の紐が切れたりしたら、僕らに口伝があるんですよ。笛がアシラヒを吹き続けている限り、大小(大鼓と小鼓)はアシラヒをし続ける、というセオリーが大倉流にはあります。つまり笛が吹くのをやめるということはシテが立った、という合図です。私たちはシテの居る場所が見えません、立つかどうかは、見えない。ですから笛を頼りにしています。先日は幸ちゃんがシテの立つのを確認しないで吹くのを止めたでしょう。ですから私は道具を下ろすしかなかったんですよ。ですから、あの場面、笛が大と小の関係をもう少し配慮してくれていたら・・・とも思いますね。約束事、ルールというのは塊の繋がりとも言えるんですよ。

亀井 大小の「置キ」の手で笛がまだ吹いていれば、続行した、ということです。

粟谷 なるほど、でも私が約束の二つ目の「置キ」で立たなかったのが一番いけないね。さて乱拍子ですが、どう短かったでしょ?

森  あれくらいでいいよ。

亀井 そうですね、あのぐらいの長さが丁度いい感じですね。少し短い感じもしますが、内容的には充分に気が張ったよい乱拍子だったと思いますよ。私、一番間近でお二人のを拝見していましたから。(笑)

粟谷 今回は大倉流との乱拍子、喜多流はとかく幸流のお相手が多く、特にお披きは幸流が・・・という時代の流れがありましてね。幸流以外は皆、掛け声を長く引きますね。源ちゃんお互い乱拍子がうまくいってよかったね。(笑)

大倉 下申合せと申合の時、右と左が判らなくなって間違えてごめん、当日心配でね。

森  僕が見ていても右足と左足の動きが同じだから、あれは間違え易い、と思ったよ。

粟谷 初演が幸流でしたから大倉流に慣れるのに少々時間がかかりましたよ、でも一度経験すると、掛け声を引く方がどうも私は好きですね。幸流の短い掛け声もいいのですが、どうしても時間がかかり過ぎて・・・正式に八段ですと30分以上もかかるから。

亀井 源次郎先生、声の返し方、ちょうどいい感じでしたよ。

大倉 返し方も、あまり裏に返さない、できるだけ表声で、と取り組んだの。


粟谷 最初、表声と裏声の違いが分からなくてね。下申合で経験して判ったよ。今回は表声が主となったので、それに合わせて足の運びを考えました。喜多流の先人たちは掛け声の最後に合わせ足を動かしていましたが、能夫から声が聞こえても足が動いていないのは不自然でしょう、洋太郎君とやった時はすぐに動かしたよ、というアドバイスがあってね。最初はその通りにしていたのですが、仲間から同時に動かせば動かすほど逆に動きが目立たなくなって効果が薄い、それよりインパクトがあった方が効果的とアドバイスされて、敢えて少しづつずれるように変えてやりましたよ。(笑)

亀井 観世流も、ヤォッーっの掛け声でパッと足を出しますね。

粟谷 やはり小鼓の掛け声にシテが直ぐに反応する、これが基本じゃないかな。下申合せのときに、掛け声の裏声をあまり出さない、元々の大倉流のやり方を徹底的にやりましょう!と注文して源ちゃんとも確認、応えてくれてよかった、助かりました。やっていると幸流の8段がものすごく長いように感じましたね。この間のは20分ぐらいでしょ?

森  ちょうどいいよ。

粟谷 お披きのときは8段が正式ですがから時間がかかるのは仕方が無い、としても、見ている方にはお披きであるから、とかそうではない、というのは本来関係ないので・・・、でも喜多流と幸流よりももっと長いのも他流ではありそうですね。

亀井 観世流は「赤頭」の小書が付くと、まともに7段半をしてその後に「鱗返し」というプラス3段から5段増えるすごいのがありますよ。(笑)

粟谷 それ飽きない? 飽きないというか、だれない?

大倉 やるのしんどいのよ。

亀井 お客様が育ったらいいかもしれないですけれどね、今はちょっとね(笑)入れ替わりの時期だから。

粟谷 入れ替わりの時期か?

亀井 粟谷能の会でも菊生先生や新太郎先生がバリバリのときの観客はもうだいぶいらっしゃらないわけですから。昔のままをただ守ってやる、といのもなんだか不思議な気もしますよ。

粟谷 入れ替えなきゃいけない時期なのね。「昔の形式通り」を鵜呑みにするとシーラカンス化するよ。もっともいつまでたっても昔と同じ、という標本みたいなものも必要なのかもしれませんが・・・、私には似合わないなあ。(笑)

大倉 もちろん乱拍子というのは、当事者二人の緊張感は大事ですが、観る方がなんでこんなことをしているのだろう?というのがあれば、それ以上の説明は必要ないと思いますよ。

粟谷 そうですね

大倉 道成寺の石段上る、と言うのもあり、その他いろいろな考えを言う人がいてもいい、観る側が、何をしているのだろう?と自分なりの答えを見つければいい。だから国立能楽堂満席なら600通りの答えがあってもいいじゃないですか。

粟谷 そうね、私はね、どうぞご自由にお考えください、でいいのですが、それだけではなく、こんな見方もありますよ、という手引き、お助けアドバイスをするの事は今の時代には必要だと思います。少しサービス過剰かもしれませんがね

大倉 この人はこう言っていた、あの人はこんなことを言っていた、僕ならこんな風に思うというようにして・・・。あの乱拍子の時間というものは、それなりの対応があれば充実した時間に変わる、と言うことでしょうね。

粟谷 今回、大倉流にお願いしてやってよかった。大倉流で20分ほどで、「もうちょっと見たかったな、もうちょっとやってほしかったよ」と思われるぐらいが丁度いいのですよ、。

大倉 それはそう。

粟谷 乱拍子は究極な様式美の表現だと思います。鐘への執着心の抑制と爆発の繰り返しで、静の気持ちから動の女の激しい思い。当然、若い女と年増では違いがあるよね? 常ちゃんはたくさんの経験がおありで、お判りだと思いますが。(笑)

森  え! でも判るよ(笑)だがら面もなに使うか、と変わってくるんじゃないの。

粟谷 今回は若い女の気持ちで勤めましたが、伝書には「曲見」となっていますから年増女の気持ちで演らないといけないのでしょうが・・・年増はむずかしい。(笑)

森  おばちゃんはむずかしい?(笑)

粟谷 最近の喜多流は「増女」で演る方が多くなりましたよ。NHKのインタビューで、「本来は曲見です」と言ったら、その演能写真を見せてくださいと言われ、探しに探したら大村定氏の初演が曲見でされていたので、拝借しました、放送の時、ご覧下さい。

大倉 金剛流の古式というのは若い女ですよ。

粟谷 喜多流は「曲見」に「紅無唐織」が本来。

大倉 観世流は「近江女」ですから、もしかしたら若いというのは新しい演出なのかもね。

粟谷 今回拝借した唐織は観世銕之丞氏から、面は梅若玄祥先生からの拝借物です。どうでしたか?

森  上等なものを着ているなあ、と思ったし、前シテの面は喜多流では見たことないのが出てきたなと思ったよ。

粟谷 面は梅若玄祥先生に、「逆髪」はお恐れ多いので、その写し「白露」を拝借させていただきたいとお願いした訳、私には似合わなかった、という声もあったみたいですが・・・。

森  僕は似合っていた、と思ったよ。

亀井 私、青山銕仙会の虫干には小学校の頃からお手伝いに伺っていて、先代の銕之亟先生(静夫)にいろいろなことを教えて頂きました。虫干しも、たたんでしまうまでやらせていただきましたから、装束に直に触れています。あの赤地鱗模様の唐織のすごさは判りますよ。

粟谷 江戸時代のもので、近くで見るとあまり派手には見えないが。

森  鱗が飛び出て来るように見えたよ。

粟谷 あれは故銕之亟先生の出版された「ようこそ能の世界へ」で知って、NHKの放送ということもあって拝借出来たらいいなあ、と思ってね。


亀井 私、あれをたたんだことがありますので、あのよさがわかります、重くないんですよね。

粟谷 本当に暁べえ、(観世暁夫=現・観世銕之丞)のお陰ですよ。父たちの西町とのご縁、父が寿夫先生や静夫先生、榮夫先生と親しくさせて頂いたそのお陰だと感謝しています。

亀井 ただし、あれは小さいですよね。

粟谷 そう小さいの。だから、観世銕之丞さんから「お貸しするのはいいのですが、小さいと思います、少し袖を出しましたがそれでも小さいと思いますので事前に着てご自分でご判断ください」と言われたよ。

森  暁べえは着れないだろうね。(笑)

粟谷 だから身体を装束に合わせたよ、腕少し曲げながら着たからね(笑)今回の鐘入りうまく綺麗に消えたでしょ? 相当に頭を打ちましたからね、まだ頭痛いよ(笑)

森  綺麗に消えたよ、相当頭強打したと思ったもの。

粟谷 鐘の中での物着は二人のアイのやりとりの間にやることは完了しちゃいます。だから今回は脇の語りは中でしっかり聞かせもらいましたよ。

森  あっ君のフェイスブックのお友達さんが、脇の語りを褒めてくれて嬉しかったよ。


粟谷 NHKが入ったから、常ちゃん倍返しで頑張ったんじゃないの?(笑)

森  そう、10倍返しで頑張った。(笑)

粟谷 お互い58歳、私も相当な頑張り方をしましたよ(笑)

森  そうね、俺も若くないから、品よくやろう、みたいなものもあったよ。

粟谷 後シテの垂れ髪は喜多流でははじめての試みでした。あれは梅若万三郎氏がやられていたのが気になって挑んでみました。賛否両様は当然ありますが、あれは今回の私の主義主張で、なに言われても構わない、やりたかったからね。蛇よりも女に重きを置いて演じたかった、その表現のひとつなの。

亀井 喜多流は「つかみ出し」をやります? 観世銕之丞(暁夫)先生が辰巳満次郎さんの会で満次郎さんが『葵上』をなさるとき、「つかみ出し」というのは『道成寺』にあるのですかと聞かれたんですが、「あれは女なのですから。そのままの方がよいのではないでしょうか。つかみ出ししちゃうと」とお話されていました。

粟谷 なるほど、狩野了一君が「般若の面のベクトルは上を向いていて、目は上に、口も上に、鼻も、角も上に向かい、鬘のつかみ出しでも上へのエネルギーですよね、全部上に行くところに垂れ髪の下へのベクトルがあるのは不思議に思いましたよ、まあ私自分自身は面白いなあ、と思ったんですが、と話してくれてね。

亀井 なるほど


粟谷 そう了一君の言われる通りなんですよ、でも私の狙いはそのアンバランスなところで女をアピールさせたかったのね。能夫は「つかみ出し」が好きではなくて、あまりつかみ出しをしませんね。これは銕仙会の影響かもしれないね。究極、本鬘ではな馬須(ばす)鬘で『道成寺』やりましたからね。

亀井 それは大槻文蔵氏が最初にやられたと思います。

粟谷 初耳。

亀井 青山に半書生みたいにして育ててもらったから、それこそ虫干しのことも面のこともそうだけれど、だから六郎先生でも、どうぞ広忠さん、持ってご覧なさいと、持たせていただいたり。それはもう静夫先生や暁夫先生のおかげです。面や装束を小学校のときから触らせていただいていたから。これから受ける影響は計り知れない。「逆髪」の写し「白露」あれも神秘的でよかったですよ。

粟谷 そう広忠君に言われると嬉しいよ。似合わないという御意見があっても、とにかく一度付けてみたかった訳よ。「して見てよきにつくべし、せずば善悪定めがたし」世阿弥の言葉通りだよ。



森  僕もいいと思ったけど。「祈り」のシテ柱での「柱巻き」のところさ、今までの喜多流ではあまり印象に残っていないんだが、今回は結構インパクトあったよ。なにかべっとり感、巻きついているっていう感じが出てたよ。あれがよかったよ。58歳の粘着感。ねばねばねばねば(笑)。

粟谷 喜んでいいの?(笑)。常ちゃん、シテ柱のところで鐘を見たあと下向いたら、脇の3人もう並んでいなかったじゃない。

森 あれ、そう?並んでいなかった? 申し訳ない。

粟谷  乱拍子というと幸流という風潮ですが、喜多流と大倉流との関係はどうなの?

大倉  実はね喜多七太夫は大倉六蔵がお相手をしたんですよ。江戸時代の本当の初期はずっと大倉流だったんですよ。

亀井 そうですよ。喜多七太夫のときは葛野九郎兵衛ですよ。

大倉 明治維新以後、14世喜多六平太先生、喜多実先生の時代になり幸祥光先生、幸円次郎先生のお力もあって、流れがそちらにいったんですね。大倉流はその間に観世流とのお相手が増えました。

粟谷 その時代時代に力を持っている方、偉い人の影響力は後の人間にいろいろな影響を与えますね。それが本筋であればいいが、そうでなくてもそうだと思ってしまうことがありますね。

大倉 歴史をよくよく調べると、これが正しいと思ったものが全然違ったりしてますから、歴史を学ぶことは大事にしなければいけないんですよ。

粟谷 喜多流はこのようにします、我が家はこうです、と言ってみても、調べてみると、あれ?ということありますからね。今回の最後幕に飛び込まなかったでしょ?

森  そうだね。

粟谷 あれ私のアイデアではなく本来の型付け通りにしたまでですから、古い型付け読んだら書いてあったのを取り上げただけのことですから

亀井 そういうこと沢山ありますよね。

大倉 置鼓から開発された乱拍子はもともと長く声を引くものでしたが、幸流さんがおそらく『道成寺』を作られた時に短い掛け声を新たに考案されて。僕もやるチャンスがあったらやりたいな、と思うけれど。まあ、さすがにそれはできないし。今回はどこまで大倉流の先祖帰りができるか!が、鍵でしたね。

粟谷 しっかり先祖帰りしたんじゃないですか。

大倉 だいぶしたでしょう(笑)。

粟谷 それは、よかったよ。

大倉 自分なりにこういう風にやっていたんだろうなという感覚は。たまたま金剛永謹氏とで今回下掛りが2回連続で、こんなの珍しいんですよ。

粟谷 今回は金剛さんよりは少しグレードアップされたのではないですか、グレードアップという言い方は悪いね、更に磨きがかかったと言うか・・・・。

大倉 そうそう。永謹氏とのときは、まだこっちも試行錯誤でしたからね。

粟谷 大倉流の本来の裏声をあまり使わないという新たな源ちゃんの取り組みに、ちょっと協力も出来たよね?

大倉 もちろん

粟谷 どうも長々と有難うございました。最後にこれは皆様にお礼ね。今ここに同席されていない、一噌幸弘さんにも、あとの二次会で会える野村萬斎さんにも、そして喜多流の皆様にもご協力いただいたことに本当に感謝しています。私が選びお願いした良いお仲間と『道成寺』が無事に出来て、それがNHK「古典芸能への招待」の公開録画となり放送も正式が決まり、最後に反省会までご協力いただいて有難うございました。このメンバーで来年の東北・仙台の仮称「萩能」でまたいろいろな新しい試みをして、能を広めていきたいので、ご協力よろしくお願い申し上げます。

『道成寺』再び投稿日:2014-03-07

『道成寺』再び
粟谷 明生



平成26年3月2日(日)第95回粟谷能の会(於:国立能楽堂)にて『道成寺』を28年ぶりに(初演・昭和61年3月2日)再演しました。
能『道成寺』は「安珍清姫伝説」で焼失した道成寺の鐘の後日談「鐘供養伝説」を元に観世小次郎信光が能劇化したものといわれています。信光は安珍を登場させず、清姫もまた名前を明らかにせず、白拍子として設定し、鐘への執念をテーマにしています。

まず今回使用した面と装束についてご紹介します。
喜多流は本来、前シテの面は「曲見」、装束は「黒地丸尽縫箔」を腰巻にして「紅無鶴菱模様」の唐織を坪折(壺折)にするのが決まりです。しかし近年、若者が初演で年増女の「曲見」を使いこなすのはむずかしい、との配慮から「増女」に替えて勤める方が増え、私の披きも「増女」でした。装束は父の希望で「紅入蝶柄模様」の唐織でした。今回もやはり面は「増女」系で唐織も紅入りを考え、前シテの面は世にも不思議な女、妖しげな艶を出すために、梅若玄祥先生より、梅若家の名物面「逆髪」の写し、「白露」臥牛氏郷打を拝借し、唐織は『道成寺』に相応しい貴重な色入唐織「赤地鱗地紋花笠に獨楽糸(こまいと)」を観世銕之丞先生から拝借しました。両先生には感謝の気持ちで一杯です。




では舞台進行に合わせて演能を振り返ります。
『道成寺』といえば鐘ですが、この鐘の吊り方が上掛り(観世流、宝生流)と下掛り(金春流、金剛流、喜多流)では大いに違います。上掛りはあらかじめ狂言方の後見が鐘を吊り、その後に能が始まりますが、喜多流など下掛りは能の進行の中で、演技として鐘を吊ります。ワキ(道成寺住僧)が従僧を連れて登場して名のり、その後にアイ(能力)に鐘を吊るように告げ、ここではじめて狂言方が鐘を運び吊ります。吊り終わると、能力は道成寺で鐘供養が行われ、その間は女人禁制であることを、周りに「ふれ」伝えます。



そして前シテの出(登場)となります。通常の習之次第(ならいのしだい=出囃子)はシテが姿を現すまでに時間がかかります。今回は習之次第のはじまりに吹く、笛のヒシギ(甲高い音色)が鳴り響くと同時に幕上げとして、直ぐにシテが姿を現す替えの演出にしました。これは鐘への恨み、怒りを必死になって抑え我慢していた女が、鐘供養があるという知らせを聞いた途端に、鐘への恨みのスイッチが入り、自分ではどうすることも出来ない、制御が効かない行動になってしまう、その表れとして見ていただきたいとの思いでした。鐘への怨念に燃える魂は、女を白拍子姿に化し、鐘の吊られた地へと足を運ばせるのです。つまりアイのふれは、おとなしく恨みを抑えていた魂に火を付けしまったのです。


国立能楽堂の長い橋掛りは、鐘を目掛けての道中を演じるには格好です。今回は「作りし罪も消えぬべき・・・」の次第を一の松あたりにて謡い、名のり、道成寺への道行すべてを橋掛りにて行い、道成寺に着いた場所も一の松あたりとしました。その後、女人禁制だから供養の場には入れぬと断るアイに、白拍子はお構いなしに入り込みます。そのしたたかさを、謡いながら本舞台に入ることで見せ、アイに近づき「面白い舞だから、ね。いいでしょ?」と女の魅力を発揮し口説きます。


初演では「拝ませてたまわり候へ」の謡がうまく謡えず、父に「あんな謡じゃ、耕介(故・野村万之丞)がなんとも思わないよ」と叱られました。当時、白拍子は芸能を司る者として巫女的な待遇を受けることもあったといわれていますから、神事も行う芸能者ならば、鐘供養の場に入れてもよいかと応対する能力には、それなりの弁解理由になったかもしれません。が、しかしここは能力も男、不思議な女性の色仕掛けに負けてしまったと解釈した方が、人間らしく面白いと思われます。


能力のはからいで、シテは女人禁制の鐘供養の場に入れてもらい舞を舞うことになります。舞人の象徴である烏帽子をつけ身支度をして、いよいよ舞となります。はじめは遠くからぼんやり鐘を眺めている白拍子ですが、見るうちに興奮し走り込んで「あれにまします宮人の烏帽子をしばし借りにきて」と謡い掛け「乱拍子(らんびょうし)」の舞となります。


この白拍子の舞を模した乱拍子は、シテと小鼓の二人だけによる特殊な舞で、シテ方は小鼓方の流儀に合わせて舞(型=動き)を合わせます。初演では幸流の亀井俊一氏のお相手で勤めましたが、今回は大倉流宗家・大倉源次郎氏にお相手をお願いしました。足の動き(型)は単純な運動の繰り返しですが、小鼓の呼吸に合わせ、立つ姿勢を乱さず足の動きだけで演じるもので、そう簡単ではありません。身体の堅さをとり、ほんのりと女らしい柔らかみを感じさせるスムーズな身のこなし、初演は満足出来るものではなかったので、今回はどうにか自分の理想に近づきたいと挑みました。


幸流は掛け声と打つ音、その間(ま)を大事にし、自然と時間が長めになります。一方、大倉流、幸_流、観世流などは掛け声を長く引く間に合わせて足を動かすので、掛け声が終われば次の動きとなり、乱拍子の時間は幸流より短くなります。今回、ご覧いただいた方から「乱拍子が短く感じられた」とのご感想をいただきました。これは本来8段であるものを6段にしたこともありますが、小鼓の流儀の違いも大きな要因だと言えます。


「乱拍子」の舞は単純な動きですが、これを演者はなにと考え演じるのか? なにを真似て、なにを思うのか、そこの再認識が再演の課題でもありました。
道成寺の階段を蛇のように這い上がる心持ちを足遣いで表現するとも、足拍子を踏む乱拍子という踊りのステップのようなもの、とも考えられます。私はその両方を思いながらも、もうひとつ、女の道成寺という地、そして鐘への思いを内に抑えようとしながらも、どうしても外へ発散せずにはいられなくなるストレス、それがついには爆発してしまう、心の中の冷静と興奮の交錯でもあるように思えて演じました。


もちろん、どのように解釈されるかはご覧になる方のご自由です。単純な乱拍子の動きだからこそ、いろいろなことが想像出来るのかもしれません。
「乱拍子」の最後は「寺とは名付けたり」のシテ謡から大鼓も打ち出し、白拍子の思いは遂に炸裂し、速い舞「急之舞」に急変します。
この速い舞もまた、揺るぎの無い下半身としなやかな上半身の動きが必須で、剛柔のバランスをうまくとりながら、身体を乱すことなく俊敏な足さばきの中にも「女」を感じさせなくてはいけない、と父の言葉がまた思い浮かびます。静と動、速さこそ異なりますが、身体の扱いは乱拍子に共通するものがあります。


舞が終わり「春の夕べを、来て見れば」「入相の鐘に花や散るらん」と、シテと地謡は熱唱し舞台はクライマックスを迎えます。鐘入りは、この曲最大の見せ場であり難所です。何度もリハーサルが出来ることではないので、一発勝負となります。喜多流は烏帽子を後ろに払い落とし、片手を上げて鐘を目掛け、後ろ姿を見せたまま、鐘の真ん中で二つ足拍子を踏み飛び上がります。これが鐘後見の綱を放し鐘を落とすタイミングと合い、シテは頭を打ちながら姿を消すことになります。うまく綺麗に消えるほど相当強く打ちますが、まさに今回は数日傷みがあるほどでしたので、鐘入りは上手くいったということです。鐘入りはシテよりは、いかによいタイミングで鐘を落とすか、鐘後見の責任が大きく、今回、鐘後見の大役を受けて下さった中村邦生氏に感謝しています。


初演の難関として鐘の中での着替えがあります。面を外し、唐織紐を解いて脱ぎ、般若を付ける。狭く暗い中での作業は不自由です。今回は垂れ髪を付ける新工夫に挑みました。下稽古ではなかなか綺麗にならず苦心しましたが、試行錯誤と仲間からのアドバイスもあり、なんとか形にはなったと思っています。ご感想はいろいろありました。例えば、般若の面は下から上へのベクトル、口も上に、角も上に、鬘の毛も上に向けて掴み上げます。それに対して垂れ髪は下への力が加わるので、上への力が半減されるような不思議な感じを受けました、と。このご感想はもっともで大いに学ばせていただきましたが、私の狙いはそのバランスを故意に崩すことです。怒るだけではない女の悲しみをどことなく感じてしまうようなものをお見せ出来たらという思いもありました。

世阿弥の言う「してみて、よきにつくべし、ぜずば善悪定めがたし」の精神が私は好きです。まずは試みてみよう、ということでした。今後あの垂れ髪使用がどのように扱われるか、流行るか廃るか、それはこれから人々が証明してくれることでしょう。



「あれ見よ蛇体は、現れたり」と謡われると後シテは姿を見せますが、後シテの面は喜多流では「般若」をつけます。蛇のようになってしまった女の恐ろしさを「蛇(じゃ)」という面で表現するのが順当と言えますが、敢えて「般若」を使用するところに、そうならざるを得なかった女の悲しさがより強調されるのではないでしょうか。


蛇体の女は大勢の僧に祈られ己のつく息でその身を焼くほどとなり退散し、遂に日高川に飛んで消えます。近年、最後は幕の中に飛び入り幕を下ろして姿を見せない演出が普通となりましたが、我が家の伝書にはそれは替え演出であり、本来は橋掛りにて飛び臥し、その後立って入幕すると記載されています。このやり方は、死んだとは謡わない、もしかするとまた心のスイッチが入り現れるかもしれない、そのような悲しさ、終わりのない女の怒りと恨みをより一層引き立たせる演出と思い試みてみました。


能・狂言の世界では、大きな曲に挑み演ずることによって、能役者の成長の証を示す慣習があります。その中でも『道成寺』は筆頭です。若き日の初演の「披き」は、能楽師として一人前になれるかどうかの卒業試験と言われる方もいらっしゃいますが、私は入学試験の意識であると考えています。では再演が卒業試験かというと・・・。人、生滅の間は成長途上の身でありますから、卒業ではなく、昇進のためのレベルアップ試験と思います。
昔も今も能楽師は『道成寺』を披いて、はじめて一人前とみなされますが、残念ながら披きはやはり無事に勤める、その域を超えることは出来ないのです。『道成寺』という戯曲の大きなテーマを若さあふれる者が一回目で演じきることには少々無理があります。今回58歳の再演にあたり、初演では出来なかったことへの再チャレンジ精神で臨みました。それは緩みがちな私の精神と肉体に負荷をかける絶好の機会となり緊張の日々でした。またNHKの公開録画が決まったことは更に追い打ちをかけ、技術向上はもとより、健康管理など、能役者としての、初心に戻る好機となりました。
「稽古をしっかり積めさえすればそれでいい、余計なことは考えるな」そう教えられた時代がありました。確かに間違いではありませんが、それがすべてではないように思えます。能を演じるには、まず自分の思う役作りを考え、それに似合う面と装束を選び、その面と装束を生かすための稽古を積む、そうあるべきではないでしょうか。
『道成寺』についていろいろと考えていくうちに、ふと見えて来たキーワードは「妖気」です。「美」と「妖」の交錯、相克です。「美」の静、と「妖」の動が、常にこの不思議な白拍子の女の魂を動かしているのではないか、と。
蛇体となるまでの女の執心、執念、拘り、その怒りの対象は昔恋した熊野参詣の僧でも、目の前で祈る僧でもありません。男を隠した鐘そのものと、鐘があるその土地、このふたつへの恨みです。「鐘がいけないのよ」「鐘さえなければ」という逆恨みともいえる鐘への恨み。怒り爆発ギリギリの精神状態の危険な女をどう再演出来るかが、私のテーマとなりました。


作者の観世小次郎信光はお囃子事が達者な能役者だったようで、『道成寺』は信光らしい囃子方のパフォーマンスが遺憾なく発揮されています。大鼓の一調、小鼓の乱拍子、初めから終わりまで随所におもしろ尽くしが散りばめられて、観る者を飽きさせることがない、おもしろ演出満載の『道成寺』です。
披きは、このおもしろ尽くしのお任せコースに乗ればいいのでしょうが、再演はこのコースをどのように扱うかが問われ、それこそが再演の意義であろうと思いました。
フィギュアスケートは技術点と芸術点で審査されます。能役者とアスリートを同様にしてはお叱りを受けるかもしれませんが、技術点の満点を目指すのが初演の披きだとすると、再演では技術点の満点は当然、芸術点に重きをおいて、両者の高得点でよい舞台を作るもの、そう信じています。
今、自分自身、点数はわかりませんが、ある満足感、達成感に浸っています。
それは、初心にもどり、『道成寺』が大勢の仲間の協力で出来上がるものであることを再確認し、仲間への感謝の気持ちがこみ上げてきたこと、公開録画という高いハードルの設定にどうにか応えられたこと、すべて自分のためになったという充実感などです。舞台を創ってくれた囃子方、ワキ方、狂言方、喜多流の地謡、後見、楽屋働きの仲間たち、観てくださった方々、『道成寺』にかかわったすべての人たちに感謝しています。

●能『道成寺』のあらすじ
紀州(和歌山県)の道成寺で釣鐘再興のための鐘供養が執り行われることになりました。女人禁制を申し付けられた能力(アイ)ですが、白拍子(前シテ)の所望を受け入れ境内に入れてしまいます。最初、白拍子は供養の舞を静かに舞い始めますが、次第に興奮し激しく舞いながら、人々が眠ている隙を見て釣鐘を落とし、その中に飛び込み姿を消します。
能力から鐘が落ちた報告を受けた住僧(ワキ)は、かつてこの寺で起きた事件について従僧に語ります。
 昔、真砂(まなご)の庄司の娘は、自分の家を定宿としていた山伏  
 に恋をした。ある年、娘は山伏に同行を求め迫るが、山伏は驚き道 
 成寺に逃げ込み、住職と相談し鐘の中に隠れた。山伏に恋する娘は  
 日高川まで追いかけて来たが、水かさが上がって渡れない。しかし
 恋に破れた女の激しい恨みは遂に蛇となり、やすやすと日高川を渡
 り、道成寺に来ると鐘の落ちているのを不審に思い、鐘の中に山伏
 がいると分かると焼き殺してしまった、と。
その時の娘の執心が今回の禍の元と判断した住僧は鐘に祈り、吊り上げると、中から蛇体(後シテ)となった白拍子が姿を現し、住僧達に立ち向かいます。が、しかし終に祈り伏せられ、日高川の深淵へと姿を消すのでした。

●能『道成寺』の元となった「道成寺縁起」
 延長六年(929)、真砂庄司娘・清姫は奥州から熊野詣に来た修行僧・ 
 安珍に一目惚れします。清姫の片思いに困った安珍は、熊野からの 
 帰りに再び立ち寄ることを約束しますが、立ち寄らず、約束は守り 
 ませんでした。待ちわびる清姫の思いはついに安珍を探し追い求め  
 ることとなります。清姫の怨念を恐れた安珍は、舟で日高川を渡り
 道成寺に助けを求めると、寺の僧は安珍を鐘の中に隠しました。安 
 珍を追う清姫はついに大蛇となって日高川を渡り、道成寺にたどり
 着きます。そして安珍が隠れている鐘に巻きつくと、その怒りの炎 
 で鐘を焼き、中にいた安珍を焼き殺してしまいました。

写真 能『道成寺』シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
文責 粟谷明生

『錦木』を演じて 悲恋物語の真相とは投稿日:2013-11-07



喜多流自主公演(11月24日、於・喜多能楽堂)で能『錦木』を勤めました。
最初に、この能のあらすじを記しておきましょう。
旅僧(ワキ)が錦木を持った男(前シテ)と細布を持つ女(前ツレ)と出会うと、男は僧に思う女の家の門に錦木を立てる風習を語ります。思う女が取り入れないため三年もの間、立て続け遂に命絶えたことを語り、その男の祀られている錦塚に僧を案内し、男と女は塚の中へと消えます。
(中入り)
男女のために読経する僧の前に、男(後シテ)と女(後ツレ)の亡霊が現われ、弔いを喜び懺悔物語を見せます。適わぬ恋でしたが読経のお陰で今宵一夜、女と盃を交わすことが出来て喜び、舞を舞う男の霊。
が、しかし夜明けと共に僧の夢は醒め、幻の男女はまた幽冥へと消え失せるのです。
前場は能因法師の詠んだ「錦木は立てながらこそ朽ちにけれ、けふの細布胸合わじとや」の和歌を中心に悲恋物語を語り、後場は機織りの模様や三年通いの有様を展開し、生前の恨みと死後に適えられた法悦の境地を男の舞で表現します。


世阿弥作『錦木』は男の女への恋慕執心を描く曲ですが、似た曲に『通小町』があります。百夜通いの九十九夜で果てる深草少将(『通小町』)に対して三年、九百九十九夜まで通う『錦木』の男の執心、『錦木』のほうが想う気持ちは上回るのですが、残念ながらその上演回数はあまり多くありません。その理由ははっきりしませんが、演じ手としての私の感触では、まず1時間半を越える上演時間と、演能者の適齢期が広くないことが上げられます。だれもが演者になれるかというと、なかなか難しいものがあるのです。力量と似合いの年令や容姿など、様々なものが揃わないと説得力に欠けるからではないかと思われます。力量面では、楽屋内の技芸評価の登龍門的な扱いの意識があることも否みません。能で男女の恋物語を展開する時に、どのように男の苦悩を表現出来るかがカギになり、それらが図られる曲と言えるでしょう。従って、あまり若年では表現できず、かといって、あまり老年でも似合いません。


それは前場のシテ・里男が直面で登場するからです。直面は、自らの生身の顔を役柄の「面」として舞台に出ますが、その風貌、容貌が観る側の曲に対する想像とイメージが重なればよいのですが、重ならない場合は難しいです。背中が丸まり頭髪も薄くなり、足どりも不安な高齢者では不似合いです。また逆に、どんなに容姿が端正な若者であっても、男の遂げられぬ恋を謡と舞で表現するには、果たしてどうだろうか、それには時間が足りません。
それほどまでに演者の適齢が表面化してくる厄介な曲だということです。私も58歳という年齢で勤め終え、この歳だから曲の理解度を高められたとは思いながらも、容姿的には少し遅かったようにも思えてなりませんし、まだまだ本当の男心が判っていないのかもしれないと、反省もしています。ただ58歳なりの『錦木』が演じられたのではないだろうかという満足も正直感じているところです。


さて稽古に入り疑問点が出てきました。なぜ女は男を受けいれなかったのだろうか。三年までも通ってくる誠意ある男性を。そして、そもそもこの女の素性、正体とはなんだろうか、まずここから解明することを始めました。

能には男女の恋物語を作品としたものが数多くありますが、親の介入で破談になる話には『求塚』『船橋』があります。いずれも、謡本の詞章だけでは真相が判らなかったのですが、『錦木』もまた同様でした。能は謡本の詞章だけでは作品の深いところを探れないかもしれません。時には間語りや出典、原典となる物語なども知る必要があります。
シテ方の能楽師はまず謡を覚え、次に型をはめていきます。それらを覚えると舞台に立ち稽古に入ります。稽古の最初に思ったこと、それは「一緒に謡っている前ツレがだれなのか?」でした。当初は気になりつつも、自分の動きだけで手一杯でしたが、連日の稽古をするうちに明らかにしたくなってきました。


前シテは後シテと同様、錦木を立て続けた男です。前場に同行する前ツレは中入り前に「夫婦は塚に入りにけり」と謡うので夫婦であることは説明されています。が、しかし三年通い続けた男は結局思いを遂げずに死んでいるはず、妻が一緒にいるはずがないではないかと、矛盾を感じてしまいます。この疑問は錦木悲恋伝説を読むことで解決出来ましたので、ここで簡単ではありますが、ご紹介いたします。

昔、錦木(にしきぎ:今の鹿角市十和田錦木)の地域は、都から来た役人、狭名大夫(さなのきみ)が統治していました。狭名8代目になる狭名大海(さなのおおみ)には政子姫(まさこひめ)というとても美しい娘がいて細布を織るのが上手でした。一方そのころ、近くの草木(くさぎ)というところに錦木(にしきぎ)を売ることを仕事にしている若者が住んでいました。錦木は、「仲人木(なこうどき)」とも呼ばれ縁組に使うもので、当時は男性が好きな女性の家の前に錦木を置き、その錦木を女性が拾って家の中に入れた場合は、結婚を許すという意味、との決まりがありました。

ある日、若者は市日のときに政子姫を見て、その美しさに惹かれ恋心を抱きます。翌日から毎日毎日、一日も休まず、政子姫の家の門の前に錦木を立てました。しかしながら、錦木は一度も家の中に入れられることはなく、家の前に立てられたままでした。そのたびに若者は草木へ戻る帰り道のそばの小川で、涙を流して泣きました。その川は、のちに涙川と言われるようになったということです。


一方、政子姫は、家の門の前に毎日立てられる錦木を見て、機織りする手を止め、こっそり若者の姿を見るようになっていました。そして、いつの間にか、政子姫も若者を好きになっていたのです。しかし、身分の違いなどで親は取り入れることに同意しませんでした。つまり、女、政子自身は錦木を売る農家の青年を拒否していた訳ではないのです。前場の夫婦は亡霊たちの化身ですから、ふたりが一緒に登場するにはそれなりの意味づけがあるということです。


前ツレは、能では政子と紹介されていませんが、細布を片手にかけて登場します。何故、女は白い布を、それも鳥の羽の付いた織物、細布を持っているのでしょうか。
錦木物語にはもう一つ重大な、結婚の約束ができなかった訳が書かれています。
当時、五の宮岳(ごのみやだけ)の頂上に巣を作っている大鷲が里に飛んできては子供をさらっていました。あるとき、若い夫婦の小さい子供が大鷲にさらわれて村人がとても悲しんでいると、ある一人の旅の僧が「鳥の羽根を混ぜた織物を織って子供に着せてやれば、大鷲は子供をさらっていかなくなる。」と教えてくれました。布に鳥の羽根を混ぜて織ることは非常に難しく、よほど機織りがうまくなければできないものでした。そのため、機織りの上手な政子は周りから機織りを依頼されていたのです。政子は、子供をさらわれた親の悲しみを自分のことのように思い、3年3月を観音様に願かけしながら布を織っていたのでした。その願かけのために、政子は若者と結婚する約束ができなかったのです。若者は、そういう理由も知らず、毎日せっせと3年もの間、錦木を政子の家の前に立てていました。そしてあと一束で千束になるという日、若者はすっかり衰弱し、門の前の降り積もった雪の中に倒れて死んだのです。政子は非常に悲しみ、それから2、3日後に、若者の後を追うように死んでしまいました。政子の父親は、2人をとても不憫に思い、千束の錦木と一緒に、一つの墓に夫婦として埋葬しました。その墓が後に錦木塚と呼ばれるようになったのです。

このように書かれ、なぜ女は男を拒んだのか? なぜ前ツレの女が鳥の羽の付いた細布を持っているのか? という私のなぞは解かれました。


能『錦木』の物語の大半は、男の女への恋慕の苦悩を描いています。
しかし、この曲は心底何を言いたいのだろうか・・・。我々は何を感じればいいのでしょうか。
 
『錦木』はふんだんに語られる生前の懺悔とその怨みが強く押し出される演出になっていますが、実は死後に結ばれた瞬時の喜びを伝えたいのではないでしょうか。
男にとって、死後であっても愛する人への抱擁、情交、その一夜の喜びは無上なのです。そしてその歓喜はそれまでの苦悩を盛りだくさんに見せることで、逆にひかり輝きます。能はその喜びを「舞」という手法で表現します。


喜多流の『錦木』の「舞」はあまり荒く激しくならないように舞う、という教えがあります。我が家の伝書にこのことについて興味引く面白い記述がありますのでご紹介します。
「この曲、舞の謡い吟和らかなる故、兎角(とかく)静かになる也、宜しからず。
随分早立ちたるを用ふ。舞の前より俄に早く成ることを嫌ふ也。 中略 
早立ちにても、にがみ無きは悪し、いかにも、にがみたるが宜し」
とあります。
「謡う音色が柔らかいから静かになりがちになるが、そうではない。気が立つ、心弾ませるような心持ちを持つこと。しかし、いきなり気が立ち弾むようでは荒くなるので良くない、疾き舞であっても落ち着きがなくてはいけない、落ち着きながらも強く疾き心で舞え」
と、細かく演者の心持ちが記載されています。

若者の歓喜をただ荒く激しいだけで終わらせてはいけない、円熟の舞を加味することでより観る者に想像力を膨らませることが出来る、ということなのでしょう。確かにそう納得して勤めるようにしましたが、正直白状すると、実は私の心は裏腹に、農家の若者であろうとなかろうと若者の情熱、恋慕は兎角激しく、時には少々乱暴であっていい、それこそが若さの象徴だから、強さに拘れ、疾きに拘れと、囁くのです。それはあたかも、だれかが私の心に囁くように響いてきました。


私が演じたかった男の霊の舞は、900回を越えて通いくたびれた頃の男の舞ではなく、心躍らせながら通いはじめた頃の男の舞なのです。今これを書きながらふり返ると、男を昔の自分に照らして舞っていたようにも思えます。あの呟く声は・・・、ふとあの錦木を運んだ若者の霊が58歳に取り憑いてくれたのかもしれない、などと・・・、こんな不思議な気持ちで演能を終えたのは、はじめてのことでした。


能の舞は5段(6ブロック)で舞うのが常ですが、今回、あえて3段(4ブロック)に縮めることによって、楽しく気持ちよいひとときが、瞬時にあっという間に消えてしまうというように演じました。そのつかの間の喜びと余韻を味わっていただけたら、この作品は、屹度作者も喜んでくれると思っています。           
 (平成25年11月 記)
写真協力 巻頭 前島写真店 その他 撮影 石田 裕
シテ・粟谷明生 シテ連・内田成信 ワキ・森 常好
文責 粟谷明生

 

『葛城』について 小書「古式の神楽」を再考する投稿日:2013-10-07

『葛城』について
小書「古式の神楽」を再考する
  
                            粟谷 明生

『葛城』というとすぐに思い浮かぶのは、私が平成6年、粟谷能の会で勤めた小書「古式の神楽」のことです。『葛城』の小書「神楽」には、後シテ(葛城明神)が舞う「序之舞」を単に「神楽」に変える「普通の神楽」と、特別な序が入る「古式の神楽」があります。この「古式の神楽」は、昭和31年に先代宗家・喜多実先生が演じられてから途絶えていました。従兄弟、粟谷能夫から『葛城』に「古式の神楽」があることを聞かされ、その掘り起こし作業をしたいと思いました。平成6年、38歳の時でした。この3年前に能夫と「研究公演」を立ち上げ、様々な試みを研究し、よりよい演能をしようと、既成伝承を見直し、埋もれている演出を再考し演じる、それが私のライフワークとなりました。特に小書には積極的に取り組み、能を様々な角度から見つめ深めるには小書は打って付けの目標ターゲットとなりました。


「古式の神楽」はしばらく演能が絶えていたことや、囃子方が限定されていること、伝書が限られた者にしか残っていないこともあって、掘り起こしにはいろいろ難儀しましたが、そのとき背中を押してくださったのが金春惣右衛門先生でした。先生のご助言もあり、囃子方のご協力もいただき「古式の神楽」に取り組むことができました。そのときは伝書通り、「特殊な序」に「神楽」を三段舞い、幣(榊)を捨て、三段目の後半からはゆっくりとした「序之舞」をまたじっくりと三段舞うという形でした。これはとても時間がかかり、やや冗漫な印象を与える演出になってしまいました。
そこで今回、第94回粟谷能の会(平成25年10月13日)では、この「古式の神楽」に少し手を加え短縮し、観ていて飽きない神楽にしたい、と心掛けて再演しました。まだまだ再考の余地は残っていますが、前回に比べて、少し目標値を上げることが出来たのではないかと、自分なりには満足しています。
今回ご一緒いただいた、笛・杉信太朗氏、小鼓・横山幸彦氏、大鼓・亀井広忠氏、太鼓・金春国和氏の皆様には、ここに深く感謝お礼を申し上げます。

神楽の縮小方法については後ほど述べるとして、『葛城』という曲を勤めるにあたって私の感想などをご紹介します。


『葛城』は、古今和歌集から引いた「しもと結う葛城山に降る雪は間なく時なく思ほゆるかな」を象徴的に、間なく時なく降る真っ白な雪景色と、そこで出会う山伏達(ワキとワキツレ)と里女(前シテ)の温かい交流の場(前場)から描かれます。「しもと」とは細い枝のことで、これを薪として暖をとるものです。舞台となる葛城山は古くは修験霊場であって、金剛山をはじめとする連山を指し、雄大な自然が息づき、神々が宿る神仙でもあります。そこを訪れた山伏一行は突然の大雪に見舞われます。あたり一面の白色の世界は、前シテの白色の装束、笠としもとに付いた雪で表しています。突如として現れた女は苦渋している山伏達を自分の庵へと誘います。寒さを凌ぐために、火をくべて暖をとり休ませると、女は自らの苦悩を明かし、実は葛城明神の化身であることも明かします。化身は役の行者(えんのぎょうじゃ)に葛城山と吉野山を結ぶ岩橋を架ける工事を命じられたが、顔が醜いことを苦にして夜しか作業をしなかったので、ついに役の行者に怒られ蔦葛で呪縛され苦しんでいると語り、救済を求めて姿を消します。後場は葛城の女神が蔦葛の這いまとった小忌衣をひるがえして、ここを高天原とみなして、神楽、大和舞を舞い、夜明けと共に岩戸に姿を消す、という神の苦悩を描いた物語です。


顔容の醜さを恥じて昼は姿を現さない女神。しかも身は蔦葛で縛られ苦しみを受けている。そのような神様であることを後シテの姿を観て想像することは正直むずかしいです。実際に縛られた形相ではなく、また醜い顔の面を付けているわけではありません。むしろとても綺麗で魅力的な表情の「増女(ぞうおんな)」を付けて登場します。私は稽古を重ねる毎に、女神の苦悩理由が、どうもはっきりせず気になって仕方がありませんでした。女神が役の行者から罰を受けること、山伏の法力を頼みとすることなど、私のこれまで生きて来た生活や宗教観には当てはまらない環境設定です。さてどのようにこの能と向き合い勤めたらよいのか・・・と、少々悩み考えました。

ある尊敬する師には「能は不真面目ではいけないが、ある程度いい加減なもの。偏見を持たず、取り敢えずボッとやっておけばよい。桜の花も全体を霞として見るので花弁の一ひら一ひらを見るものではないでしょう」とご指導いただき、なるほどと得心もいたしました。その通り、と思うのですが、どうも一ひらが気になって仕方が無いのが私の性分なのです。少し細かなお話をします。

人は、いや女性は特に、自分の顔容、容色、容姿に対して引き目を持っているように思えます。太っていないのに、痩せたい、痩せなきゃ、と言います。
可愛い眉毛を、こんなに生えて嫌と切ってしまいます。私から見て少しも悪くないのに欠点ではないのに嫌がるのです。それは単に、己が自分勝手に抱くコンプレックスではないでしょうか。能が葛城の神を女神に仕立てあげたのは、神も同じように劣等感があるのだから人間が持つのは当たり前、それでいいの、よくそこら辺を考えてみては? というのが作者の意図であり狙いではあるように思えてなりません。私は危険な目に遭い、なにかに縋りたくなった時、思わず「神様!」とお願いしてしまいますが、『葛城』の神は、そのような神ではなく、もっと人間に近い存在のようにも思われます。いや、実は両者とも同じなのかもしれません。しかし故意に違う一面を見せる手法を展開したのが『葛城』ではないでしょうか。神を人間味あふれる話として身近に感じられる、不思議な曲というのが私の感想です。

能は見て美しいと感じるだけでよい一面もあるでしょう。それは間違いではありません。ただそれだけではないものをどこか深層部に持ち合わせていて、それが能の魅力の真髄であるとも言えます。シテ方の演者は、老若男女、神や鬼にも、そして時には死者にも化けます。そして、その心を借りて曲のテーマと取り組みメッセージを伝えるのが役目ですが、常に「人に観ていただく」という感覚、意識を忘れてはいけないと思います。太古の芸能は神への奉納が主であったでしょうが、申楽の能の創設者、観阿弥、世阿弥以降の戯曲家たちは観客を強く意識し始めます。観客への技芸、能は永年このことを忘れずに継続してきました。

葛城山の神(一言主神)は本来男神ですが、能『葛城』では葛城明神を女神としています。女神とするのは金峰山縁起にも見えますが、醜いとコンプレックスを感じるところや、簡単に呪縛されるという弱々しさの演出は、女神に設定した方が想像し易いからでしょう。想像しやすいためなら、なんとでもする。それぐらい大胆なやり方をする能、それが魅力で、そのいい加減さの面白さが、ようやく少し判るようになって来ました。それもこれも『葛城』を再演したお陰で、それこそ神の力なのかもしれません。

さて、また小書について、感想などを織り交ぜて記載します。ここからは専門的になることをご了承下さい。


今回、装束の選択については、一面の雪化粧をイメージして、白を基調にしました。里女(前シテ)は腰巻に白練を坪折(つぼおり)にして着るか白水衣にするか両用ありますが、前回が坪折でしたので、今回は白水衣にしました。
後シテの葛城明神は醜いといいながら、あくまでも女神です。美しさが欠けてはいけません。喜多流では本来、緋色の大口袴が決まりですが、今回は前回同様あえて萌黄大口袴に、通常は長絹(ちょうけん)を白地楽器模様の舞衣にしました。頭の天冠には赤色の蔦葛を付け、面は前後を通して「増女」を使用し、美しさを前面に出すことを心掛けてみました。

では、「神楽」を掘り下げます。原初の神々の物語には「神楽」が似合います。 
我が家の伝書には「それ神楽の始は、昔、日神天の磐戸に引籠もり給う時、諸神集会して神事有り」と天照大神が籠もった天之岩戸の前に神々が集まり神事をして慰めたときの、天鈿女命(あまのうずめのみこと)の踊りから音楽が始まったとあります。まずは神々が手拍子をはじめ、ばらばらだった手拍手がひとつのリズムにまとまり、そこに掛け声や口笛が吹き込まれ、そのうち足拍子も入り、身近なものを叩き始める、そしてメロディーが出来上がり音楽となります。このようなリズムにあう原始音楽は単純でありながらも、なんとなく身体に躍動感を持たせてくれるリズムの音です。これが神遊と言われ「神楽」の起こりとなり、能の「神楽」へ導入されるようになったのではないでしょうか。私はそのように推測します。

『葛城』に小書「神楽」が付くと、後シテの舞が「序之舞」から「神楽」に変わります。通常の「序之舞」は女体の葛城明神がしっとりと静かに山伏に舞を見せる演出ですが、「神楽」は神事的、儀式的な宗教性が重視されて、尚かつリズムは小鼓が八拍子の一拍ずつを等間隔に連打することにより、非常に乗りのよい音楽となり、より呪術的な雰囲気を感じさせてくれます。この単純なリズムは、また、単純であるからこそ誰にでも音に慣れ、馴染み、次第に乗ってきて楽しくなる、「神楽」はそんな音楽なのです。


さて、さらに細かく「神楽」の構成を説明します。
(0)序+掛、(1)初段、(2)二段、(3)三段、(4)四段、(5)五段の六段構成です。(0)から(2)までが神楽のリズム、(3)から(5)までは普通の舞となります。つまり「神楽」と言われながらも実際は半分が神楽で残りは舞となり、『葛城』ではこの部分が序之舞の位となります。それは『葛城』が元来序之舞の曲であるからです。ただ、すべてを神楽で舞う「総神楽」(喜多流では五段神楽という。『巻絹』のみ)というものもあります。
神楽から普通の舞に変わる変わり目は幣を捨て中啓(扇)に持ち替える時です。それが変化の合図です。乗りの良いリズムの「神楽」で憑依を意識し、普通の舞に変わったときに、私はその憑依を和らげる意識で舞っています。今回の『葛城』では幣の代わりに榊を使いました。

では、「古式の神楽」はどこが「普通の神楽」と違うのか?
囃子方が限定されることはすでに述べました。笛・森田流、小鼓・幸流、大鼓・葛野流、太鼓・金春流と明記され限定されています。「古式の神楽」が滅多に演じられることがない理由はここにあります。文化11年に演じられたものなど、数少ない演能記録をこのレポートの最後に資料として付けましたのでご覧ください。


「神楽」の構成については、(0)の掛の序が変わるのが大きな特徴です。
「普通の神楽」では軽快なリズムに乗りながら八拍子の二拍目に足拍子を3度踏んで楽しげな様に演じますが、「古式の神楽」では序之舞の序のようにリズムに乗らず慎重に儀式的な足拍子に変わります。しかも3回とも踏む個所が変わり難易度も上がります。そして榊や幣を持っての神への祈りも下居して丁寧に拝み、御神事、儀礼的な雰囲気が漂います。雪が降る景色であったり、厳粛な儀式を想像させる太鼓の特殊な手配りはより手が混んでいて一層荘厳さを演出します。


先に述べたように、平成6年に勤めに「古式の神楽」は時間がかかり過ぎたとの反省から、今回は時間を短縮しながらも神楽のエキスを失わない「古式神楽」を創作したいと試みました。
その新案は(0)序+掛、(1)初段、(2)二段、の(2)を省略、後半の序之舞部分も(3)三段、(4)四段、(5)五段の三ブロックの、(4)をまるまる省略することで、引き締まり感を出しました。
儀式の序はゆったりとはじまり、掛からリズムがやや乗ってきて、初段から憑依的な部分も持たせ、榊を捨てる時にはクライマックス、最頂点となます。
その後、少し落ち着き中啓に持ち直すとやや軽めの中之舞の位となり、オロシと呼ばれる特別な譜になるところでリズムが絞まりゆったりとした舞の位にしました。そしてまた次第にリズムを上げて来てほどよい乗りをと試行してみました。


『葛城』はしっとりとした情趣がありながら、ただ美しいだけではなく、やや陰の部分があり、それでいて、原初の神物語の神秘性と軽やかさが挨まった曲です。この曲をより面白く魅せるには小書「神楽」は最適です。今回、その「神楽」を「古式の神楽」で、しかも再考・創作できたことは喜びでもありました。
今回の試み、まだまだ改善の余地があります。これからもっと頻繁に演じられるようになり、名称も例えば「古式」などではなく「大和神楽」とでも変えて、変化しながら後世に残ればよい、と願っています。
              (平成25年10月 記)

「古式の神楽」の演能記録
文化11年に二回勤められた記録があります。
●『葛城』「神楽」、文化11年3月27日、松平越前守殿へ一橋大納言様御立寄りの節、三番目に勤む。
シテ 喜多十太夫
ワキ 進藤権右衛門
笛  森田庄兵衛光淳 
小鼓 幸小左衛門
大鼓 葛野市郎兵衛
太鼓 金春惣右衛門国義  
以上、金春國義伝書より

●文化11年甲戌9月21日御本丸表、日光遷宮相済為御祝儀御表能。
ここでは、ワキが宝生新之丞に代わっていますが、その他の申楽師は同じ者が勤めています。注意書きに「神姿恥ずかしや、までスラスラと、よしや吉野の山葛、より地頭・野村理兵衛シッカリ謡う」と書かれていて、「此の序、昔は家元ばかり、弟子に伝えず相勤め候」と権威主義が垣間見られて面白いです。

●昭和31年10月28日喜多別会にて。
シテ 喜多実
ワキ 松本謙三
笛  藤田大五郎
小鼓 幸 祥光
大鼓 亀井俊雄
太鼓 柿本豊次
笛は森田流と限定されたはずですが、一噌流・藤田大五郎氏がお勤めなのが興味を引き面白いです。古いしきたりにひとつの新風がおこったように感じられます。

●平成6年、粟谷能の会にて
シテ・粟谷明生、ワキ・殿田謙吉、笛・中谷 明、小鼓・亀井俊一、
大鼓・亀井広忠、太鼓・金春惣右衛門、地頭・香川靖嗣。

●平成25年、粟谷能の会にて。
シテ・粟谷明生、ワキ・殿田謙吉、笛・杉信太朗、小鼓・横山幸彦、
大鼓・亀井広忠、太鼓・金春国和、地頭・長島 茂。

以上

写真1、5、        撮影 前島写真店 成田幸雄 
写真2、3、4、7、8   撮影 石田 裕
写真6、9、        撮影 青木信二

写真記載の無断転用禁止

『夕顔』を勤めて 儚く逝った夕顔の執心投稿日:2013-08-07

『夕顔』を勤めて
儚く逝った夕顔の執心



秋田県大仙市の唐松能舞台(平成25年8月25日)で『夕顔』「山の端之出」を勤めました。屋外の舞台、猛暑の夏もあとわずかと感じさせるさわやかな風が吹く中での演能でした。

能で源氏物語の「夕顔の女」を題材にした曲は『夕顔』と『半蔀』の二曲があります。『夕顔』は『半蔀』に比べるとあまり頻繁には演じられず、観世、喜多、金剛の三流にしかありません。『半蔀』の作者は内藤左衛門。出生不明の夕顔という女性を白い夕顔の花に重ね合わせ、花のイメージを強調した演出となっています。蔀戸に夕顔の花や実が飾られた藁屋(作り物)の中から、後シテ夕顔の精が蔀戸を押し開いて出てくる場面はとても華やかです。さらに「立花」の小書がつくと、生け花が舞台中央先に置かれ、より豪華な演出となり、観ていて美しさがストーレートに伝わってきます。


一方、『夕顔』は作り物もなく前場の曲(クセ)は居曲(いぐせ)という動きがないもので、後シテも序の舞と短いキリの仕舞所があるだけの地味な演出です。薄幸な「夕顔の女」の霊が成仏を頼みにこの世の僧の前に現れ、法華経の功徳で救われ成仏するという単純な構成で、短く儚い人生を嘆く夕顔という人物に焦点を当てた宗教色濃い作品です。世阿弥作と言われています。
見せ場も乏しく、舞うところも少なく、いろいろ舞いたい、動きたい私としては、やや物足りなさを感じないでもないというのが正直なところです。しかしだからこそ、一層演じる側の力量もまた観客の観る力も必要となる曲と言え、能の究極はこのような簡素な形で、完成度を高めているのかもしれません。
であれば、まことに能は難解な芸能と言えるでしょう。
『夕顔』はその意味でも味わい深い、能らしい能で、シテを演じる者の意識としてレベルアップする先に『芭蕉』という曲が見えてくるように思えます。
これらの「能の味わい」を感じるには作品への理解と想像力が不可欠で、舞台上の動きを観るだけでは力及ばないつくりになっています。謡われる詞章から
観客側が作品の背景を思い浮かべ想像する、このような鑑賞法が「能を味わう」ということなのかもしれません。


演者の力量も観る側の力も問われる『夕顔』、さてどのように勤めたらよいかと考え、まずは「夕顔の女」とはどんな女性なのかを頭に入れるところから始めました。『半蔀』の時はさほど気にせずに勤められたものが、今回は夕顔の女そのものが気になりました。「夕顔の女」の生き様、源氏との関係などを知ることが自分の演能に何らかの力を与えてくれるだろう、と考えました。

「夕顔の女」は源氏物語の帚木の巻の「雨夜の品定め」で頭の中将が控えめな女と語った女です。正妻の手前、中将は夕顔の女を身近に置くことをさけ五条辺りの荒ら屋に住まわせます。そして夕顔の女との間には玉蔓という女子をもうけています。そのような状況でありながらも光源氏(当時17歳)は大胆に行動します。乳母の見舞いに行く途中に、ふとしたことで夕顔の女(19歳)と出会います。供の惟光に垣根に咲く夕顔の花を折って持って来るようにと頼むと、童が香を焚きしめた扇を差し出し「これに置きて参らせよ」と言います。扇には「心あてにそれかとぞ見る白露の、光そへたる夕顔の花」という歌が書かれていました。どうもあのお方は源氏の君のようにお見受けしますが・・・というような、ちょっとしゃれた詠いぶりです。やがて源氏も「寄りてこそ、それかとも見めたそがれに、ほのぼの見つる花の夕顔」と、寄ってみてこそ分かるでしょうと返し、つき合いが始まります。上流階級で名誉も資産もあるイケメン青年の源氏が、中流階級の可愛い女性との逢瀬は女の身の回りの環境、珍しい風景などすべてが目新しく、殊の外楽しかったことでしょう。

能『半蔀』はこの初めての出会いの喜び、一番美しい思い出に焦点を当て、「寄りてこそそれかとも・・・」(詞章では「寄りてこそ」が「折りてこそ」に)の歌を引きながら、最後は夕顔の花の精でもあるかのように夢の中に消えていく演出です。


さて、度重なる荒ら屋での逢瀬、ふと気分を変えたくなる。そんな男女の心境間柄は古今変わらぬもの。源氏は思い立ってある場所を選びます。それが不幸を招きます。
8月15日の夜、源氏は廃墟となった源融の大臣の邸宅跡・河原の院に、虫の知らせなのか、気の乗らない夕顔を連れ出し一夜を過ごします。夜半二人の枕元に女の物の怪が現れ、驚いた源氏は供の者を呼びますが、だれも来ません。ふと夕顔を見るともう息途絶えています。物の怪の正体は、作者は明かしていませんが、おそらく六条御息所の生霊でしょう。葵上にも取り憑くほどの御息所の執心、嫉妬心は、彼女自身もう自分で自分を押さえられないまでになっていたのです。夕顔を失った後の源氏のうろたえぶり、悲しみ、打ち沈む姿は「源氏物語」にあますところなく描かれています。秘された逢瀬、夕顔の死も、源氏との関係も秘されなければなりません。供の惟光が夕顔の亡骸(なきがら)を上蓆に包んで車に乗せ、東山まで運び、源氏や右近(夕顔の乳母)ら、わずかな人たちで荼毘に伏します。薄命の夕顔は御息所を恨んで死んだのでしょうか。それともこのような運命を恨んだのでしょうか。最後までお互いの素性を明かさないままでした。夕顔は娘「玉蔓」を残しての突然の早世です。源氏への執心だけでなく、現世への執心も残ったことでしょう。ここに焦点を当てたのが能『夕顔』で、夕顔の霊はただひたすら僧に救済を願うのです。


通常の舞台進行は、ワキが名乗り、道行を終え着き台詞を謡うと、アシラヒ出となり前シテは一の松前にて「山の端の心も知らで行く月は、上の空にて影や絶えなん」と謡います。
「山の端の・・・」の歌は、河原の院に着いたとき、源氏に「昔の人はこんな風に恋のために惑い歩いたのだろうか。私は初めての経験なのでわからないが、あなたは経験がありますか」と聞かれて、夕顔が答えて詠んだ歌です。山の端=源氏の心も知らないで、ついて行く月=自分、夕顔は、(そのうち捨てられ)、上の空で消えていくのではないだろうか、といった意味で、夕顔の不安で心細い気持ちが詠われています。これがシテの最初の出で謡われるのは、能『夕顔』の全体を暗示しているように思われます。この歌は『半蔀』にも出てきますが、これほど強調したものではありません。
曲(クセ)も河原の院の暗く荒れ果てて恐ろしげな様子を切々と謡い、シテは居曲で片膝を立てて座り、内面の心のゆらぎを地謡が表現する手法で、けだし能の演出の特徴です。さらに「あたりを見れば烏羽玉の闇」「泡沫(うたかた)人は息消えて」「帰らぬ水の泡とのみ散り果てし夕顔」と、地謡は夕顔の儚く逝った運命を淋しく謡い上げます。

その夜、僧が法華経を読経し弔うと、夕顔の女の霊が生前の姿で現れます。
「優婆塞が行ふ道をしるべにて、来ん世も深き契り絶えすな」(優婆塞=俗体の仏道修行者。源氏が夕顔の隣家に住む行者の勤行の声を聞いて、夕顔を思って詠んだ歌)を僧と共に謡い、源氏と契りを結んだ時を追憶して舞い、法華経の功徳で解脱できたと喜んで、僧の回向に感謝し雲に紛れて消え失せます。
途中、「女は五障の罪深きに・・・」と女性であることが罪深いということや、「変成男子の願いのままに解脱の衣の・・・」と、法華経によって男子に変成して女性も成仏できるという、当時の宗教観も描かれています。現代なら、男女差別だ、承服できないといわれそうですが、能が創られた室町時代はこのような考え方があり、こう謡うことも自然だったのでしょう。このように、後半は宗教色の濃いものになっています。


今回は小書「山の端之出」で勤めました。この小書は、前シテの出の演出が変わります。ワキの道行の後すぐに、幕の中で姿を見せずに「山の端の・・・」を謡い、ワキはそれを聞いて「不思議やな・・・」と応じ、その後にシテの出となります。通常は普通の一声となりますが、今回は「巫山の雲は忽ちに、陽臺の下に消え易く・・・」と謡いながら一の松前まで出たかったため、今回に限った特殊な一声を打っていただき幕内より謡い出しました。この曲を象徴する「山の端の・・・」の歌をより印象づけ、シテの心細い境遇を際立たせる効果があればと思い試演してみました。


大仙市まほろば唐松能舞台は青空が見え、緑が美しく、そして心地よい風も流れる、屋外の舞台です。そんなロケーションであるため、演出を少し変えてみるのも一興かと考えました。『夕顔』の小書には、「山の端之出」のほかに、序の舞の最後の寸法が短くなる「合掌留」がありますが、囃子方の伝承には「合掌留」は「山の端之出」とセットになるように記されているようです。


今回、屋外の演能で天候や時間的な制約もあり、序の舞を短縮する必要もあったので、舞の寸法が短くなる「合掌留」は好都合でした。前場ではシテの下げ歌と上げ歌を省略し、間語りも短くし、後場では序の舞の短縮などして、60分で演能することが出来ました。また本来座りっ放しの居曲も、上羽の後より立ち、「闇の現の人も無く」と面遣いしながら正面先に出、「いかにせんとか思い川、泡沫人は息消えて」と下に心を付け、「帰らぬ水の泡とのみ」と少し引き下がり、「散り果てし夕顔の、花は再び咲かめやと」と左へまわり、「夢に来たりて申すとて」と脇に出る型をしてみました。


実はこれは私の新発想と思っていましたが、演能後に伝書を読み返すと、替の型として記載されていて、驚きと安堵という不思議な気持ちになりました。
新発想と喜んでいながら、実はそうではない。このようなことが昔から繰り返されている、伝統や伝承の意義など深く考えさせられました。



終盤、解脱を喜んだ後、「明け渡る横雲の迷いも無しや」では、通常、幕の方角の東をカザシ見る型となりますが、屋外で実際の大自然の青空に浮かぶ横雲を見ることができたため、方向を青空の雲を見る型に変えて、地謡の「明けぐれの空かけて雲の紛れに失せにけり」と謡の中で入幕してみました。


演能にあたり、以上のようにいろいろ考えましたが、『夕顔』を勤めるには、結局、あまり考え過ぎずに無心になるのが一番、これが正論だと思います。余計なことは考えずに・・・なのですが、どうしてもいろいろなことをしたがる自分が耳元で囁くのです。昔の型通り真似することばかりが正しい伝承ではないだろう? 昔から伝わる型も伝承も申楽発祥の当時はすべて新しいもののてんこ盛りだったはずだろう? と。


これからの私の演能は、もちろん演じる側の仲間の同意があってのことですが、常に新たな演出を工夫し再考し、より良いものを創り出していく、そうしたいと思っています。そして後世に書き残す作業も必要であると感じています。この思いが善か悪かは時が経って判断されればよいと思います。書き残し、演じる、このことは目新しいことでも新発想でもありません。申楽創始者の世阿弥や元雅、禅竹、信光たち申楽師は戯曲家を兼ねていて、創り、演じ、興行し、書き残してきたのです。このことこそが、今日の能が出来る所以です。自分もこれを真似たい、今、そう信じて止まないのです。
ただ古いものをそのまま真似るだけで満足していたら、創始者たちはうす笑いを浮かべ、きっと模写族に対してなにか、ひとことふたこと言うでしょう。

屋外の開放的な舞台で、今回もまた共演者のご協力と観て下さった方々のお力とに感謝しています。10月の粟谷能の会では『葛城』神楽を勤めますが、もう新たな演出が浮かび上がって来ています。

(平成25年 8月記)
写真提供 
能『夕顔』シテ 粟谷明生 撮影 石田裕
宝増と唐織        撮影 粟谷明生

『紅葉狩』について投稿日:2013-04-07

「紅葉狩」について


宮島、厳島神社桃花祭神能(平成25年4月18日)にて『紅葉狩』を勤めました。
快晴とはいえ、塚の作り物も飛ばされそうなぐらいの強風が吹いたため、鬘帯は乱れ、舞っていて中啓(扇)を落とすのではと心配するほどでしたが、どうにか難なく勤めることが出来ました。


能『紅葉狩』は一畳台の上に山を想像させる塚に紅葉枝が挿された作り物が本舞台の大小前に置かれます。ここは山々の木々が紅葉し、ひとときの時雨にて錦秋も一入美しさを増す信濃国(長野県)、戸隠山です。作り物を見ながら、こう想像していただくところから能ははじまります。


やがて、妖艶な上臈・遊女(前シテ)が供の女たち(シテツレ)を引き連れて登場します。
時雨がにわかに降って来たことと、秋の美しい景色を謡いながら女達は木陰に雨宿りして休みます。そこへ鹿狩りに来た平維茂一行が通りかかり、女の身元を下女に尋ねますが、
「ただ身分の高いお方がお忍びで酒宴をされている」と名は明かしません。維茂は馬から下りて道を変えて通り過ぎようとしますが、遊女の一人(前シテ)が維茂の心遣いに感心して袂に縋り引き留めます。酒宴に誘い饗応する遊女に、維茂はその濃艶で豊麗な女の魅力に惹かれ、薦めに応じ酒を交わし美女の舞に酔いしれ、遂に不覚にも眠ってしまいます。
女達はそれを見ると鬼の本性を現し、「夢を見て寝ていろ」と言い捨て山中に消えます。
(中入)


寝ている維茂の前に八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)の末社の神が神剣を持って現れ、鬼神退治するように維茂に神勅を伝えると、維茂は目を覚まし神剣を持ち身支度します。すると、稲妻が光り、雷鳴が轟き、先ほどの美女が化生の姿となって襲いかかりますが、維茂は応戦して烈しい格闘の末、見事鬼の首を斬り退治します。


能の構成は神・男・女・狂・鬼の五番立。最後の鬼の能は切能と呼ばれ鬼畜物の作品が多く、武将の鬼退治の曲目はこの『紅葉狩』の他に『大江山』『土蜘蛛』『羅生門』などがあります。山伏が霊を祈り伏せるものには『黒塚』『野守』、ちょっとニュアンスが異なりますが、弁慶の祈りで知盛の霊を追い払う『船弁慶』なども切能です。切能は一日の最後に演じられ『大江山』『土蜘蛛』『羅生門』『黒塚』などは悪者が退治され追い払われる曲ですが、実はもともとそこに住み着いていた原住民が、あとから来た侵攻者に追い出され殺されるという不条理な内容です。シテ方は敗者を演じるので、つい理不尽に敗者となる側の味方をしたくなります。これは私だけかもしれませんが。



しかし、この『紅葉狩』の鬼女には同情が湧きません。律儀にも敢えて邪魔をしないようにと、通り過ぎようとする維茂に誘いをかけるのは、最初からのもくろみがあってのことです。尚かつ酒を呑ませて眠らせておいて・・・、というのはずるい卑怯な悪な行為です。現代でも、しこたま飲まされ寝ている間にお財布の中身を取られるというのがありますが、なにか通じるものがあります。
『紅葉狩』は鬼の懲悪をテーマにしたもので、鬼に情状酌量の余地はなく、勧善懲悪の珍しい作品です。


芝居や映画で、怒った女が口をきかずに男に襲いかかるシーンがありますが、あれは怖いです。『紅葉狩』の後シテ化生の者の鬼女もシテ謡はなく、なにも言わずに襲いかかるところにこの鬼の凄まじさ、醜さを演出している様に思います。


『紅葉狩』は上臈(前シテ)が舞う舞に特徴があります。最初は静かでゆっくりな舞、喜多流は序之舞ではじまりますが、ゆったりとしたリズムの序之舞から、途中急にスピードが速くなり、美しい上臈が恐ろしい鬼の形相に替わるのを表現しています。急之舞と呼ばれるこの舞が囃すスピードがもっとも速いとされていて、喜多流では『道成寺』と『絵馬』の小書「女体」が付いた時の力神の舞、そしてこの『紅葉狩』にしかありません。


『紅葉狩』の急之舞の特徴は、ゆっくりな速度の序之舞から途中急転換して早くなる、その変化が急なため余計に後半の舞が早く感じられるように工夫されています。通常、舞の足拍子は音を立てますが、ここでは、維茂の眠りを覚まさないために、音を立てずに踏んだように腰を屈めます。顔は面をキビキビと動かして異常な精神状態を見せるように舞います。ここが演者の舞の力量が発揮されるところです。


世阿弥が幽玄の世界と称し、シテが一人静かに過去を回想して舞を舞う世界を確立しましたが、その反動なのか、『紅葉狩』の作者、信光は大衆に気軽に楽しんでもらえる風流能の創作に挑み、人気曲を生み出しています。大きな作り物を活用し、大勢の登場人物に各役に似合う配役をし、舞台進行を判りやすくするのが特徴です。

 
『紅葉狩』でも、例えば、塚(山)の作り物を一畳台の端において空いた場所でも演技する、袂に縋る型、ワキと組む型、役者同士が触れるなど、当時としても奇抜なアイデアが満載された新しい演目だったと思います。後シテの面装束は本来、面「シカミ」で装束は法被、半切袴という鬼神スタイルですが、近年は裳着胴姿(もぎどうすがた=重ね着しない)に面「般若」という鬼女をイメージしたもので対応しています。今回も般若でしましたが、維茂と強風と対戦相手が多く、気を遣いました。


さて、最後に父にどのように演じたらよいかを聞いた時のことをご紹介します。
「『紅葉狩』のシテをやることになったが、どんな気持ちで勤めたらいいのか?」と父に聞くと、即答で「BAR・もみじのママ・カエデチャンになった気分でやれ!」でした。
また、今回、小鼓を打って下さった横山晴明先生からは「『紅葉狩』のシテの色気は、銀座の高級クラブのNO.1のようなお気持ちでなさったら・・・」ともご指導を受けました。


このような言葉が私の想像力をかき立て、演能自体を面白くさせてくれます。こんな風に思うのは私だけかもしれませんが、こういうアドバイスが好きな私なので、今度は自分がそのように興味が湧くような面白い言葉を見つけられれば・・・、と思っています。
三日間の奉納の最後に自然の力、強風、雑音などいろいろなことを受けながらも、それに対応して舞うことが出来たこと、健康でいられること、母を含めて家族も安泰でいられること、厳島の女神様には感謝しています。来年はたぶん『弱法師』を勤めることになるでしょうが、元気に舞台を踏み、これからも奉納が出来る自分でいたいと、帰り際に神にまた祈り、島を離れました。            
(平成25年4月 記)

写真 紅葉狩 シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕 
文責 粟谷明生

『船弁慶』について 新時代を切り拓いた信光の工夫投稿日:2013-03-07

『船弁慶』について
新時代を切り拓いた信光の工夫



(1)
平成25年3月3日の粟谷能の会では『俊成忠度』に続き『船弁慶』と一日に二番を勤めました。
能『船弁慶』は、源義経が平家を滅ぼした後、兄・頼朝の怒りを被り、西国へ落ちのびる途中の話です。愛妾の静御前との別離、そして平知盛の亡霊との戦いをうまく絡み合わせた判りやすく、しかも随所に巧みな演出が施された、作者、観世小次郎信光の才能が充分に発揮された作品です。はじめて能をご覧になる方には気軽に楽しめる作品ですので、特にお薦めの曲です。




(2)
シテ方にとってこの曲のむずかしさは、前場・静御前(前シテ)と後場・知盛(後シテ)という異性の別人格を一人で演じわけるところです。若い時は、後場の知盛は力強く出来ても前場の静御前が具合が悪く、歳が嵩むと、前場の女物は良くなるが後場のパワーが落ちるということになりがちです。双方の力量のバランスがうまく取れて、よい『船弁慶』になるのです。




(3)
私が『船弁慶』を勤めるのは今回で5度目です。披きは昭和58年(28歳)の粟谷能の会で、当時、後シテはどうにか出来るにしても、前シテの静御前は正直手に負えない、と自信なく勤めたことを覚えています。
案の定、演能後に「今はまだ大人の女を演じるのは無理、仕方が無い。ただ将来のために今演っておく、それでいい」と先輩に言われた言葉がずっしり重く、記憶しています。
実はこの時、無断で父愛用の小面「堰(せき)」を使用し、後で父と伯父に怒られたことがありました。「堰」を使えばどうにか静御前になれるかもしれない、少しは大人っぽく見えるだろうともくろんだのですが、結果は私の予想、期待は見事に外れ、技量がないものがいくら良い面を付けてもだめであることを証明してしまいました。今でもあの不似合いの写真を見ると、恥ずかしくなります。その後は使用が許されなくなり、父が亡くなってから2年後に『三輪』神遊で使いましたが、その時は面がやや照って(上向き)しまい、どうも相性がよくないような気がして、その後は正直遠ざけていました。



(4)
今回再度使用してみようと思ったのは、最初に嫌われた曲が『船弁慶』だったので、もう大丈夫なのか試したいという私の挑戦が本音でもありました。ご覧になられた方の、ご感想をお聞きしたいものです。



(5)
内緒話ですが、実は父が愛用していた時の「堰」は彩色が浮いたり、削られ剥げていたりして相当傷んでいました。菊生が亡くなってから修理に出し今は綺麗なお顔になりました。能夫は修理して、「菊生叔父の魂は消えたはず。もう使っても安心して、大丈夫だから」と慰めてくれましたが、いざ鏡の間で付けようとした時、どこかで「イヤよ」と呟きが聞こえたような気がして、あれは錯覚だったのでしょうか、気になっています。



(6)
前シテの静御前は義経の愛妾で白拍子です。可憐で清純な静御前もいいでしょうが、義経を子方にする演出の意図には、シテの「艶」を引き立たせる工夫がなされていると思われます。能の「艶」とは、しなりをつけたり、わざと弱々しく声を出すような直接的な演技ではなく、能役者の身体から発散する内的な力です。舞う姿は身体的には強い芯がありながらも、どこかしなやかな、やわらかな手足の動き、そして面遣い、謡う声の芯は強く、見所の隅々まで聞こえながらも、うるさくなくしっとりとした女の声に聞こえなければいけません。硬質の中の柔和、相反する双方を兼備してこそ生まれるものでしょう。それを獲得するには能役者としての経験が必要で、当然時間がかかります。小手先だけの真似ではなく、男役者が女に見えた、それが良い能だと思います。




(7)
父が、『船弁慶』の前シテで大事なところのひとつは、旅立つ義経を遠くから見送り、泣きながら静烏帽子を左手で取り捨てる、この片手ですっと烏帽子の紐を解き、可愛く捨てる、ここだよと言っていました。一見簡単に見える動作ですが、烏帽子の紐が汗で固くなり解けにくくなったり、予め緩めに結ぶと烏帽子が落ちたり傾いたりするアクシデントが起きるので、実はなかなかむずかしい型なのです。そういう厄介なところで女のやさしさが出せれば本物、そんな能役者を目指したいと思ってきました。そして落ちる烏帽子が、捨てられた静自身を象徴するかのように見えれば、これはもう能役者としては一人前のすばらしい演者ということになるのでしょう。



(8)
前半最後のクライマックス、中入り前の型は、右に小さく小回りして正面を向いて半ヒラキと手付けにありますが、右への小回りは仰々しく、寂しさを表すには不似合いです。今回は泣きながら立ち、直ぐに去るように後ろ向きに変えました。能の基本をいじるのはいけませんが、ある年齢になり、力量がついたら、型付だけで納得しないで、感情を重視した型も取り入れるのが、健康な能だと思います。もちろんある年齢と力量を備えたればこそ、と重ねておきますが。




(9)
後場は弁慶の船出への指示から乗船となり、はじめは穏やかな海上も、急に天候が暴風雨となる有様を船頭(アイ)が囃子方の「波頭(なみがしら)」という奏法に合わせて演じます。この場面は、いかにも船が嵐にあっているところを想像させてくれます。そしていよいよ西海の海に沈んだ平家の公達を代表して、平知盛の怨霊が薙刀を持って浮かび上がり登場し、義経目掛けて激しい型の連続となります。




(10)
この後シテの波間から浮かび出る登場の場面で、番組には小書を付けませんでしたが、実際は小書「波間之拍子(なみまのひょうし)」と「真之伝(しんのでん)」の見どころを取り入れた演出にしました。「波間之拍子」とは地謡の「声をしるべに出舟の」のところで音を立てない足拍子を踏むものです。「真之伝」はシテが半幕の中で「思いも寄らぬ浦波の」の謡で幕が下り姿を消して、その後地謡が最初ゆっくり「声を」、段々と早く「しるべに」、もっとも早く「出舟の」と謡い、早笛になってシテが舞台に登場するものです。「波間之拍子」と「真之伝」は一緒に演じることは出来ませんが、今回は地謡「一門の月卿雲霞の如く」にてシテは三の松まで出て姿を見せ、シテ謡の「思いも寄らぬ浦波の」と謡うといきなり早笛になり、一旦後ろ向きに入幕して姿を消し、また幕を上げて舞台に入り「声をしるべに出舟の」にて波間之拍子を踏むという、二つの小書のいいとこどりを試みてみました。



(11)
『船弁慶』は薙刀を使用する曲です。薙刀を扱う曲は他に『熊坂』『巴』がありますが、『熊坂』は熊坂長範という盗賊の頭を大きな薙刀を荒々しく扱うことで表現します。『船弁慶』も荒々しくではありますが、どこかに霊魂の位の高さ、上品さが必要です。そして平家一門の怨念が薙刀に込められているように見えれば、能役者としては嬉しいです。以前は巧みな薙刀扱いの技術さえお見せすれば、それでよしと考えていました。がしかし、今回、薙刀の動きとシテの動きが一体でありながらも、時には薙刀が生き物のようにうごめいて見えて、それが怨念の象徴のように感じられれば、と演じてみました。



(12)
能役者は敗者を演じることが多々あります、私は演じていてつい、世の中を裏側から見るような感覚を持ってしまいます。『船弁慶』の終曲は「跡白波とぞなりにける」と、知盛は弁慶の祈祷に負けて渦潮の海中に沈んでいきますが、私は「判官よ。お前の思うようにはさせない・・・」と、怨念、恨みを残しながら消えたいと思い、最後は後ろ向きにあとずさりして入幕しました。弁慶の祈祷、義経の武術により平家の怨霊を払うことが出来た義経一行ですが、嵐がおさまり、さて義経の到着したところはどこだったでしょうか。平家が亡んだ西国の西海を目指したはずが適わず元に戻されてしまいます。『船弁慶』での義経と知盛の勝負、舞台では義経の勝利に見えるかもしれませんが、嵐で吹き戻された義経一行が怨霊に勝ったとはとうてい思えないのです。これは知盛を演じた私だからこそ感じることなのかもしれません。
『船弁慶』の前シテ静御前と後シテ平知盛を演じ終えて、全く違う二人でありながら、両者に共有するものが見えて来ました。それは両者が義経から未練という負の影響を受けた者同士ということです。同行を許されず捨てられ女と、「見るべきものは見た」と負け惜しみを吐きながらも死に追いやられ生を断ち切られた男、どちらも未練があったことでしょう。信光は負けた者を描きたかったのではないか、これも演じ終えての私の感想です。


(13)
今回、子方の友枝大風君が義経を凛々しく勤めてくれました。そのお陰で私の演能が一段と引き締まり、よくなったと自負しています。義経役を子方にした観世小次郎信光の狙いは、いくつか考えられます。大人のラブロマンスを双方の大人が演じる曲に『千寿』がありますが、正直、生な露骨な印象を受けます。信光はそれを避けるために義経を子方にしたと考えられますが、私はそれだけではないような気がします。それは当時若年であった観世大夫をどうにかして引き立て盛り上げるための策として、信光は敢えて観世大夫を子方に抜擢する作風に仕上げたのではないでしょうか。古今問わず、観客の視線はいたいけな子どもに向きます。そして賞賛します。そこを外さず狙ったのではないかというのが私の仮説です。観世小次郎信光の生年の記録は残っていませんが、文明4年(1472年)頃ではないかと言われてきました。ただ近年、表章先生の調査で、信光の生年が宝徳2年(1450年)であるとの研究成果が発表されました。それに伴い、信光がサポートしていたのは6世観世大夫の元広だろうと考えられます。残念ながら『船弁慶』がいつ作られたかは不明ですので、このとき大夫が何歳だったかはわかりませんが、若年の元広を、どうにか盛り立てようとの意図があったかもしれない・・・と、あくまでも私の確証のない推測ですが。
小さな子どもが舞台で頑張っている姿は、心打たれます。今回も「大風君、立派でしたね。ファンになっちゃいました」との声を聞くと、信光は若いかわいい観世大夫の人気取りを目論んでいた、とそう思えてならないのです。




(14)
『船弁慶』は、曲名にもなっている弁慶役をワキが担当し、舞台進行役として重要な役目を担います。弁慶も義経の子方も、船頭のアイも、囃子方も、皆、大きな役割を持ち、各役者の力量や囃子方の力で面白さを出すことは、それまでにはなかった信光の工夫です。
今回、当日、宝生閑氏が体調不良のため、宝生欣哉氏がワキを代演して下さいました。欣哉氏は午前中にお父様の代演で観世流『盛久』を勤め、粟谷能の会に来られて本役の『隅田川』と『船弁慶』を代演するという三番もお勤めになりお疲れだったと思いますが、熱演して下さったのは能役者として見事で、個人的にも感謝しています。深田博治氏の船頭も囃子方も皆様熱演して下さいました。皆様のお力をお借りして無事舞台が勤められたことに満足と感謝の気持ちで一杯です。




(15)
観阿弥から始まった申楽は、世阿弥が完成させたシテ一人を中心とした夢幻能で完成度を高めました。それ以後は元雅や金春禅竹などが世阿弥の意図を継承しますが、時代の流れが音阿弥贔屓の将軍・足利教義になると変わります。音阿弥の七男の信光は世阿弥とは異なる演劇的な技巧を駆使し、それぞれの登場人物に役割を持たせ、劇的な葛藤を盛り込んだ作品を作りました。このような派手なショー的な風流な作品の誕生は、世阿弥や禅竹などの幽玄重視のやや難解な芸風から脱却せざるを得ない周りの状況があったと思います。それはパトロン頼りの仕組みから新しい観客層への芸の提供であったでしょう。信光の息子・長俊で戯曲を作る猿楽師は途絶えます。以後はそれまで作られた曲目を繰り返し演じる形となり現在に到りますが、そうさせたのは、激しさを増す戦乱の世の大きなうねりの中にあったからかもしれません。伝統芸能、古典と言われるものは、その時代時代に似合うものをいつも捜し求め生き残って来たことは確かで、歴史が証明しています。私たちも新しい時代にあった能を模索していかなければなりません。




(16,17,18)
私見ですが近年、演能時間が少し長過ぎると思うことがあります。能には長くても良い場合と、そうでない時があると思います。一番だけのゆとりある公演と三番立てを同じように扱い企画しては観客無視だと批難されても仕方が無いでしょう。演能のスタイルも、いろいろなパターンがあり、観客はそこを自由に選ぶことができる、それが「現代の能」であって、そのようにしていかないと能は生き残れないのではないでしょうか。
今回の粟谷能の会では、三番立の番組を企画するにあたり、いろいろな方からご意見を頂戴して、出来る限り観客の立場でよいものをと改善しました。『俊成忠度』が40分、『隅田川』が1時間20分、狂言『舟ふな』で15分、『船弁慶』を1時間15分の短縮型で構成しました。短縮型にしても充分楽しめる、遜色ないものにすることを課題にして、演出の工夫に取り組んだのです。そして二度の休憩で1時間を確保しました。一部の観客や楽屋内からも、なんでこんなに休憩時間を取るのか、との声も聞こえてきましたが、終演後、多くの観客の皆様から時間配分が良かったと好評をいただいたことは、私たちの判断が間違いでなかったと自信に繋がりました。

これからの能は、様々な状況に応じて、時には演能時間の短縮化を考え公演すべきという場合もあるでしょう。今後もより観客の立場に立って演能時間、休憩時間などを配慮して構成したいと考えています。「従来の通り」という甘い言葉に胡座をかいていては新規の能楽ファンは増えないでしょう。今はまず減少している観客を取り戻し、その中から長時間の演能を好むファンが生まれればよいのです。
今回ややマイナーな作者、観世小次郎信光に焦点を当てて、そのたぐいまれな才能と新時代を切り拓く努力を垣間見ることができ、大いに励まされました。そして、そんな新たな発見があったことで、楽しい演能となりました。     
(平成25年3月 記)

写真撮影
1,10,11,13,16,17,18 森英嗣
2,4,5,6,7,9,14,15,石田 裕
3,8,12, 前島写真店 成田幸雄
文責  粟谷明生

『俊成忠度』について 歌をめぐる物語投稿日:2013-03-07

『俊成忠度』について
歌をめぐる物語 

                           



(1)
平成25年3月3日粟谷能の会で『俊成忠度』を勤めました。
高校生の時に父に「『忠度』はどんな曲?」と聞いたことがありました。舞囃子で『忠度』を舞うことになり「どのような心持ちで?」と偉そうに聞いたのでしょう。返って来た言葉は「薩摩の守。ただ乗り!・・・無賃乗車」でした。一瞬白け、年齢不相応な質問しやがってと思ったのだろう、と思い、それで会話をやめたことがありました。もちろん「薩摩の守!」は、笑いながらでしたが。

能には平忠度を取り上げた曲が二曲あります。世阿弥作の『忠度』と内藤河内守(細川家の武士)作の『俊成忠度』です。前者がシテ方能楽師にとって二、三度は演じたい憧れの名曲なのに対して、後者は少年期の稽古能としての扱いで、上演時間も『忠度』が1時間30?40分かかるのに対して、『俊成忠度』は40分程度で終わる小品です。『俊成忠度』は一日の興行として、他の曲との時間的なこと、位のバランスなどを配慮した時に選曲されることが多く、今回も私が一日に二番勤めることになった経緯で選曲されました。
このようなことがあり、『俊成忠度』はとかく軽く扱われ、私自身も深く考察することなく来てしまいました。今回、『俊成忠度』を勤めるにあたって、この小品をどのように演じたらよいのかを考えました。能楽学会でのゲスト講師として、この曲を取り上げることもあって、いろいろ勉強しなくてはいけなくなり、それが演能に役立ちました。同時に、小品でも作品の内容をよく把握すると、いろいろなことがわかって面白いものだと思いました。型だけをなぞり、真似だけでは越えられないものが見えてきます。

平忠度(1144年?1184年)は平忠盛の六男、清盛の腹違いの末弟で、母親は歌人として有名だった藤原為忠の娘。母を早くに亡くした忠度は熊野の豪族に預けられ、武勇を身につけながらも母の血筋を受け継ぎ歌人としても活躍し、文武両道を極めた優れた武将として名を残しています。
忠度の歌と言えば、「行き暮れて木(こ)の下かげを宿とせば、花や今宵の主ならまし」(旅をするうちに日が暮れてしまいそうだ。桜の木陰を宿とすれば、花が今宵の主ということになるなあ)が有名ですが、これは辞世の句です。千載集に撰ばれたのは「漣(さざなみ)や志賀の都は荒れにしを、昔ながらの山桜かな」(志賀の古い都、今はもうすっかり荒れてしまったが、長等山の山桜だけは、昔ながらに美しく咲いている)です。
この歌にまつわる物語と都落ちの悲劇を、それぞれの趣向で戯曲したのが能『忠度』と『俊成忠度』といえるでしょう。




(2)
平家物語には「忠度都落」(七巻)、「忠度最期」(九巻)に忠度のことが記されています。「忠度都落」には、寿永2年(1183)に木曽義仲軍に攻められた平家一門が都落ちし、忠度も同行しますが、途中で都に引き返し、和歌の師である藤原俊成卿(藤原定家の父)の邸宅を訪ねたことが語られ、能『忠度』では「狐川より引き返し俊成の家に行き歌の望みを嘆きしに」と謡われています。
忠度が自分の詠んだ百首あまりを巻物にしたため、勅撰和歌集に入るにふさわしい歌があれば、たとえ一首でもよいから入れてほしいと嘆願すると、俊成卿はこころよくこれを承知したので、忠度は喜び「前途程遠し思いを雁山(がんさん)の夕べの雲に馳す」 と詠いながら西へ落ちて行ったと言われ、『俊成忠度』シテ謡の最初がこれです。

俊成卿は後に「千載集」編纂に当たり、約束通り忠度の歌から「故郷の花」という題で詠まれた「漣や志賀の都は荒れにしを、昔ながらの山桜かな」を選びますが、忠度が朝敵(天皇に反逆する者)となったため、名前を明かさず「読み人知らず」としました。この後日談も「忠度都落」に記されています。
平家物語「忠度最期」には最期の場面が語られます。忠度は一の谷の戦いで源氏方との合戦で奮戦しますが、右腕を切り落とされ41歳にて源氏方の武将・岡部六弥太忠澄に討たれます。この場面は『忠度』では紹介されていますが、『俊成忠度』ではまったく触れられていません。忠澄は箙(えびら=矢を入れる道具)に「行き暮れて木の下かげを宿とせば、花や今宵の主ならまし」と書かれた短冊を見つけ、忠度と書かれていたので、猛将を討ち取ったと大いに喜んだことが平家物語に書かれています。




(3)
能『俊成忠度』や『忠度』はこの「読み人知らず」と書かれたことへの執心で忠度が霊となって現れ、これは共通していますが、『忠度』が「行き暮れて・・・」の歌をテーマとし、都落ちの軍語りを加えるのに対して、『俊成忠度』は、俊成卿に「すばらしい歌でも、朝敵の名前を載せる訳にはいかない、読み人知らずとなってもこの歌は後世に残る、それが歌人の誉ではないか」と諭されると、すぐに納得してしまい、歌の功徳の賛美でまとめてしまいます。忠度の執心や忠度自身よりも和歌の功徳を賛美するのが作者の狙いのように思われます。

ここで、藤原俊成について少々触れておきましょう。
藤原俊成はたくさんの子供に恵まれましたが、その内のひとりにあの有名な藤原定家がいます。この親子、共に長生きで、俊成は91歳、定家も83歳までと、当時としてはかなり驚異的な寿命です。歌人は長生きと聞いたことがありますが、それを証明してくれています。
その俊成卿に後白河法皇より勅撰和歌集の編纂の勅命が下り「千載集」に取り組んだのが、寿永二年(1183年)70歳の時です。勅命が発せられてから文治四年(1188年)に奏覧と記録がありますので、5年の月日を費やしたことになります。
藤原俊成は仁安二年(1167年)に俊成と名乗り、安元二年(1176年)に63歳で出家し釈阿となります。忠度が俊成卿を訪ねたのは寿永二年ですので、勅命が下りたことは知っていたと思われます。

能『俊成忠度』では、岡部六弥太忠澄が忠度を討った後に、俊成卿のところに辞世の句の書かれた短冊を持参したように戯曲されていますが、どうもこれは作者のフィクションで史実ではないようです。
能『忠度』の霊は俊成卿が亡くなったあとに、息子の定家卿に読み人知らずを撤回してもらうようにと所縁の者に頼みますが、『俊成忠度』の方は、俊成卿本人に直接会いに出て来ます。これはいつの出来ごとなのか調べてもわかりませんでした。能は戯曲ですから、あまり史実に拘り過ぎない方が作品は面白くなるのかもしれません。




(4)
さて、前置きが長くなりましたが、舞台進行に沿って演能レポートします。
舞台は最初にシテツレの俊成が角帽子を沙門にして被り、掛絡を付けて高僧姿で登場します。我が家の伝書には「扇ばかりにて、数珠持たず」と記載されていますが、この「数珠持たず」が気になり、俊成についていろいろ調べました。「千載集」編纂の勅命を受けた時期なども調べ、出家していないのであれば、今回、狩衣の公家姿に変えてもと思いましたが、歴史的にはその時は既に出家していることがわかりました。すると「数珠持たず」は余計に解せません。私の推測ですが、昔の演者が演能中に矢についた短冊を落とす過ちをしたため、以後数珠を持たない方がよいと判断され、伝書の「数珠持たず」の記載になったと思われます。



(5)
その後で、ワキの岡部六弥太忠澄が登場し、忠度の尻籠に残された短冊を持参します。俊成卿が短冊を手に取り、忠度の辞世の句「行き暮れて・・・」を静かに詠み、初同の「いたわしや忠度は・・・」と続きます。そして、シテ忠度の霊が登場して、前述の「前途程遠し思いを雁山の夕べ・・・」と謡います。忠度は「読み人知らず」になったことへの執心を述べ、俊成卿になだめ諭されると、あっさりと歌物語に移っていきます。二の同(二番目の地謡)から、サシ、クセ、そしてキリの後半とすべてが和歌の賛美です。「千載集」云々よりも、和歌というものの宣伝マンとして、忠度はあの世から俊成の前に現れ、聴衆相手に和歌賛美を訴えたのだと思い、和歌ガイドとして舞い、謡えばよいと思い勤めました。ただ、前半の忠度自身の執心と和歌賛美の後半、カケリとキリの仕舞どころとの繋がりの部分の演じ方をうまく工夫しないといけないと思いました。



(6)
では、このカケリは何を表しているのか。「あら名残惜しの夜すがらやな」と謡い、カケリの型に入るので、ずっと夜でいてほしい、との思いなのでしょうか。それとも、カケリの後、忠度の気色が変わり「あれご覧ぜよ修羅王の梵天に攻め上るを帝釈出で合い修羅王をもとの下界へ追っ下す」と帝釈と修羅王の鬩ぎ合いとなるので、その導入と見るべきなのでしょうか。答えが出ないまま演じてしまいましたが、そこはご覧になる方のご自由で・・・と、逃れることにします。



(7)
最後に修羅王と帝釈の戦いをもってくるあたりは、この作者・内藤河内守(『半蔀』の作者でもある)のすごいところです。
普通、修羅王というと興福寺の阿修羅を思い出しますが、日本に伝わる阿修羅像は興福寺も三十三間堂のも、神を守る側で、天界を守る帝釈天と変わりません。がしかし、『俊成忠度』では修羅王が帝釈天と敵対しているのが気になりました。



(8)
両者の戦いはインドの古い神話にある、阿修羅(アスラ)が須弥山の下の大海の神の時に、天上の神帝釈天(インドラ)と凄まじい戦いをしたことから始まります。阿修羅と帝釈は古代インドでは最初は仲間でしたが、霊薬をめぐって争い、阿修羅は敗れ、魔族となります。そして日本では密教として阿修羅は復活し、天界の守り神となりますが、面白いことに、北野天満宮にある北野天神縁起絵巻では阿修羅は赤い肌をした鬼神姿で、六道絵中の修羅道で帝釈天の軍勢と戦うところが描かれています。日本の阿修羅は二面性を持って入国しているということです。
最初この事態がわからず、興福寺の阿修羅みたいな美少年の守り神がなぜ帝釈に立ち向かわなければいけないのかがわかりませんでしたが、これで納得しました。



(9)
やがて「ややあって漣や・・・」とシテ謡から、テーマの歌が謡われます。この歌の功徳によって修羅道の責め苦から免れ、春の夜は白々と明け、修羅も帝釈も忠度の霊も消えて終曲します。

歌に対する執心や歌への賛美、こういうものが大きなテーマになるのは、時代背景があってのことかもしれません。歌は日本の文化の源であり、重要視されてきた歴史があります。今では、なぜそれほどまでに歌に執着するのかと不思議に思うかもしれませんが、文学や芸能に携わる人間なら、その心、通じるところがあるのではないでしょうか。
歌人はその生涯を閉じても、すぐれた歌は後世まで読み継がれ、消えることはありません。そして歌人の名前も残ります。忠度は「漣や・・・」の歌を読み人知らずと書かれたお陰で、その名も後世に残せたのかもしれません。平成の今の世にも語り継がれていることを、忠度はきっと想像だにしなかったことでしょう。




(10)
能も同じかと思いましたが、名人と言われた能楽師の役者名は残せても、その舞台は決して戻って来ません。ビデオで撮っておけば残せるだろうと言われそうですが、生の舞台の息吹までは残すことができないのです。そこが、能の道と和歌の道は同じようで大いに違うところです。

「能は花火のようなもの。華やかに見えたかと思うと、あっという間に消えてしまい、同じものはもう二度と見られない」は父の言葉です。



(11)
演劇は舞台そのものを生で見て、そこでなにかを感じることに重きをおきます。生の舞台を映像で伝えるのは至難の技でしょう。能は有名な和歌を多用して作られていますが、演じることと歌とはやはり大きな違いがあります。演じる舞台は花火のように消えて儚いですが、その儚さを素直に感じるところが面白いのです。

今回の演能で忠度や俊成卿、そして帝釈と阿修羅の関係などを調べることが出来て勉強させられました。小品の『俊成忠度』が大きなプレゼントをくれたとお礼を言いたいというのが、演能後の正直な感想です  

写真協力 
青木信二 2,4,5,6 
石田 裕 1,3,7,9,10,11 
北野天神縁起絵巻阿修羅の絵 アシュラブック 北進一著より記載

文責 粟谷明生 (平成25年3月 記)

『求塚』を演じて  ー三人の苦悩を思うー投稿日:2012-10-07

『求塚』を演じて ー三人の苦悩を思うー
                      粟谷 明生


一人の女が複数の男達に求愛され、返答に困って難題を課し果たした男を選ぼうとする物語はあまたあります。男達が難題を解決できずに退散してしまうのが竹取物語「かぐや姫」。

万葉集や大和物語をもとに作られた能『求塚』も一人の美しい女に二人の男が求愛するところは同じですが、男達が難題を解決したために起こった悲劇を描いています。愛された女はどちらとも選び得ず、川に身を投げ、愛した男たちも刺し違えて絶命し、そして皆、地獄に落ち苦しむ話です。一見純愛物のように思われる内容ですが、稽古していて、個人の好いた、好かれただけではない暗い背景、作品の奥深いところに三者三様の人間模様が見えてきました。作者は観阿弥か世阿弥かはっきりしませんが、近年世阿弥作との意見が有力とは研究者たちの判断です。

父の七回忌追善の粟谷能の会(平成24年10月14日)で、この奥深い作品『求塚』を披くことが出来たことは、感慨深いものがあります。
では、この能の奥深さ、背景とは何でしょうか…。一人の女と二人の男の素性や事情はどのようなものなのか、そこから探していきたいと思います。
美しい女の名前は菟名日処女(うないおとめ)。二人の男、小竹田男(ささだおのこ)は摂津の国の者、血沼益荒男(ちぬのますらお)は和泉の国の者。両者の菟名日処女への思いは愛とか恋とかだけでない、二人は単なる恋敵だけではない、もっと根深いものがあるのです。
それは土地の権力争いまでも絡む政治的な駆け引きがあった、と私は仮説を立て想像を膨らませ舞台に挑みました。


菟名日処女は、かぐや姫と違い裕福な豪族の家庭に生まれ育った可愛いひとり娘で、彼女を手中にすることは、即ち領土や経済まですべての利となる、そのため地元からは小竹田男、他国からは血沼益荒男が選ばれて、彼らは一族だけではない、国を背負っての使者の役であり、その使命を果たすために必死な覚悟と意気込みがあったのでしょう。それがもくろみと反して大事な女を自殺させてしまい取り返しのつかない事態になってしまいました。男たちは共に故郷に帰れなくなり、互いにその責任を相手に押しつけ啀み合い殺し合ったのだと思います。それは単に愛する人をなくした悲しみなどではない。火に燃える鶴ケ城を見て泣きながら刺し違えた純心な白虎隊の精神とは明らかに違うのです。憎み合い戦い抜いた挙げ句の相打ちです。



喜多流の伝書には「刺し違えて空しくなれば」の場面で、刺し違える型についての記載はありません。しかし先人たちは、「刺し」で少し前のめりになり「空しく」でのけぞるように後ずさる型をなさいました。これは十四世喜多六平太先生の考案ではないか、というのが楽屋内の話です。

この型は男同士の殺し合いの壮絶さを強調する、演者には難度の高い型です。今まで、引き分けひらき(前後一歩の移動)で処理していたものを、友枝昭世師のご指導もあって四歩前に出て、四歩あとずさりの大きな動きに変えて試みました。ご覧になられた方がどのように感じられたのか、お聞きしたいところです。


それにしても菟名日処女はどんな女だったのか、演じる前にいろいろ想像してみました。美しく可愛いことに間違いないと思うのですが、内面的にはどうなのか。いざ決断となると自分では判断能力が足りなく、優柔不断な一面を持つ女ではないか、と。もっとも女がひとりで判断出来る時代ではなかったと言われればそれまでですが。自己主張など考えられない、ただただ可愛い御姫様のような姿が連想されます。シテの詞章にはありませんが、鴛鴦を射止めた男の方を選べ、と指示したのは両親で、この指示も私の想像の根拠の一つになりました。


さて、舞台進行に合わせて話を進めましょう。
前場のシテとツレの出(登場)は一声ですが、本来は全員本舞台にて立ち並びで謡うように伝書に書かれています。近年、先人たちはこれは景色が悪いと避けられ、橋掛りにて謡うように変わりました。今回も同様に、ツレ二人を先頭に、シテが後から出てお互い向き合い橋掛りにての連吟としました。
国立能楽堂のように長い橋掛りはシテとツレの距離が遠く離れてしまうため、声が聴き取りづらく音が揃いにくくなるので役者泣かせです。特にツレが若年の場合、鬘をつけて耳を塞がれ、謡い声も面で籠もってしまうので聞きづらくなります。そこで今回は一声謡の後、サシコエの前に本舞台に移動する演出にしました。後日、ビデオやレコーダーで再確認すると謡も揃い、景色も悪くなかったので、それ相当の効果はあったと安堵しています。


春とはいえ未だ残雪のある生田川辺りの景色を謡う前場の前半場面はとにかく明るく、華やかに謡わなくてはいけません。『求塚』という曲の位の高さで、とかくゆっくり、丁寧に謡い、そして囃されていた時代がありましたが、これは作者の意図に反します。若菜を摘む場面は、後の暗い恋の告白と、明暗で対比させるために仕組まれたものです。その意図を外しては意味を失い演じ手失格と思います。

 

喜多流はシテの装束も面もよいものを選び、ツレはレベルが落ちるもので済ます、という風習、楽屋思考があります。私もそのようにすることもありますが、今回の『求塚』では、若菜摘みの女の一集団が皆同じように見える景色でありたい、と思い装束選びと着附の仕方を考えました。ツレの装束の付け方はいろいろあります。唐織を熨斗目付け(のしめつけ)にするか、肩脱付け(かたぬぎつけ)にするか、または腰巻水衣という選択肢もあります。今回はシテが孤立して妙に目立つのは嫌い、三人同じように見えるように、全員唐織の熨斗目付けの着流し姿にしました。


それでも能役者のスケベ心でしょうか、シテ一人だけが不思議となぜか際立つ、なにか感じさせるものが出せないかと、シテの面を「増女」に変えてみました。伝書にはシテ、ツレ共に「小面」と書かれていますが、三代喜多宗家宗能の「増女にても…」との資料が私の背中を押してくれました。
「増女」には「泣増」やその他いろいろな面が我が家にはありますが、「宝増(たからぞう)」の艶が似合っていると選びました。


演能後、「ワキの言葉の後にすぐにツレが謡い出したのが気になったが、あれは意図的なのか」とのご質問を受けました。
能では、問われた人が問うた者に答える、これが普通で当たり前ですが、『求塚』ではワキがシテに向かい「この辺が生田ですか?」と質問すると、ツレが「ここが生田と知らないなんて…」と謡い、シテの受け答えを遮るような構成となっています。これは珍しい特異な演出です。この特異を演者は効果的に見せる必要があります。そこでツレ役の息子・尚生と佐藤陽には敢えてワキの謡が終わると同時にかぶせるように突っ込んで謡うようにと指示しました。二人ともよく私の気持ちを理解して謡ってくれたことに感謝しています。



間語り 野村万蔵氏

さて後場になる前に、間語り(あいがたり)についてご紹介しておきましょう。
以前の演能レポート『求塚』(「友枝昭世の会『求塚』の地謡を勤めて?間語りから見えた男達?」参照)にも書きましたが、ここでも、シテ方は間語りをよく理解して作品を演じなければいけないと自戒をこめて言いたいと思います。
間語りはときに、シテ方の詞章にはないことも補って、物語をくわしく語ることがあります。
『求塚』の間語りは山本東次郎家の、血沼益荒男が死後も小竹田男に苦しめられているので旅人に刀を貸してくれと頼むと消えて、その後、血の付いた刀が残っていた、という長い語りがあり、私には鮮烈に印象に残っていて、作品の面白さを増し理解しやすくさせてくれると感じていました。本来、和泉流にはこの部分の語りはありませんでしたが、野村萬先生が観世寿夫先生の『求塚』のアイを勤められたときに、従来の語りではシテ方の語りと内容が重なるので横道萬里雄氏に新しく語りを創作して下さいるように依頼なさったとお聞きしました。少々長い語りになるので、今回アイをして下さった野村万蔵氏には大変ご負担をお掛けしましたが、この語りを聞くと作品の内容が一段と判り易くなると思い、今回やっていただけて感謝しています。


『求塚』はもともと宝生流と喜多流にあり、金剛流、観世流、そして近年金春流も復曲して現在五流にあります。
喜多流の演出の特徴は後場のシテの出にあります。「おお曠野人稀なり、我が古墳ならでまた何者ぞ」と太鼓の入る出端で謡い出す他流に比べ、喜多流のみ静かな習一声で「古の小竹田男の音に泣きし、菟名日処女のおき塚は、これ」と謡ったあとに「おお曠野人稀なり…」と続きます。この「古の…」と細々と痩女の位で引廻し(ひきまわし)で覆われた塚の作り物の中からの謡が難所です。どのくらいの声量でなら謡を届かすことが出来るか、ここが勝負になります。何を言っているのか聞こえないのも、また逆にうるさくなっても成立しません。ここは『景清』の「松門の謡」に共通するところです。「謡い声を固く凝縮しろ」と父の言葉が思い出されます。さて今回はどうであったでしょうか。


後シテの面は「痩女(やせおんな)」です。窶れ果てた顔立ちで、『砧』『定家』『求塚』に使います。『砧』の芦屋夫人は最後回向により成仏出来ますが、『定家』の式子内親王も『求塚』の菟名日処女も成仏できず、式子内親王はまた定家葛の匍う墓へ、菟名日処女も暗闇の火宅の栖へと帰ってゆきます。そこにしか戻れないのでしょうか。救われない終幕にいったい何を感じさせたいのか、作者の意図を見出したいのですが、答えはいくつもあるようにも、いや答えなどないかもしれない、それが能である、と思ったりもしています。能はやはりむずかしい、決して簡単なものではないようです。


「痩女」を使用する時は、その窶れた表情に合わせて、必死で前に歩もうとするも力のない重い足どりとなる特殊な運びをしますが、これを「切る足」と呼び、これも喜多流ならではの演出です。


さて、演じ終えて、私に何が残ったのか。
それは三人が皆、それぞれに思い、それぞれの行動をとったが、結果はよい方向には向かず残念なこととなった、三人が三人とも苦悩のなかにいるという苦い思いです。この苦悩、無念さは今の私にも思い当たり共感するところがあります。いろいろ手段を凝らし手に入れようとしても適わない、遮り邪魔だてするものがあって事をうまく運ばせてくれない、そんな風に悲観する時もあります。
小竹田男や血沼益荒男の気持ちがなんとなく判り哀れに思えてくるのは、自分に照らしているからかもしれません。


私は小竹田男や血沼益荒男を演じた訳ではありません。愛された菟名日処女を演じたのに、愛し、そして手中に納めたいと思う男たちの気持ちが充分過ぎるほど判りました。もっともこの程度の感想では、まだまだ『求塚』を演ったとは言えないよ、と父がどこかで笑っているような気もしています。       
(平成24年10月 記)

写真提供  
森英嗣  

最後の2枚 青木信二

写真無断転載禁止

『百萬』について 舞い尽くしの芸投稿日:2012-05-07

『百萬』について
舞い尽くしの芸

粟谷明生


『百萬』を喜多流自主公演(平成24年4月22日)で勤めました。過去に稽古能で一度勤めたことがありますが、公式の場としては、はじめてでした。

まず『百萬』のあらすじをご紹介します。

奈良の西大寺のあたりで幼い子ども(子方)を拾った僧(ワキ)は、その子を連れて京都嵯峨の清涼寺を訪れます。門前の男(アイ)に子どもに何か面白いものを見せたいと尋ねると、「百萬」という女物狂いが面白く音頭を取り躍ると勧めるので、それを呼び出します。
門前の男が下手な念仏を唱え踊り出すと百万(シテ)が現れ、「あら悪の(わるの:下手な)大念仏の節や」と自ら念仏の音頭をとり歌い舞いはじめ、仏前に向かい我が子との再会を祈ります。それを見た幼い子どもは自分の母親であると僧に明かし、僧はそれとなく百萬に事情を聞き問いただします。百萬は子に生き別れたことを嘆いているので、僧は信心によって子どもと再会出来ると諭します。僧の言葉に慰められた百萬はふたたび奈良から京の都までの道中のことを舞って見せ奉納しますが、多くの群衆の中に我が子を捜し出せないことを悲しみ、遂に仏に手を合わせ狂乱してしまいます。僧は百萬が幼い子どもの母親である事を確信し引き合わせると、百萬はもっと早く名乗ってほしかったと恨みはしますが、仏の徳により再会出来たことを喜び、我が子を連れて奈良の都に帰って行きました。


母子再会のお目出度い曲目と言えば『桜川』『三井寺』『柏崎』と『百萬』、喜多流にだけある『飛鳥川(あすかがわ)』などがあります。
これら狂女物の全般に言えることは、子を捜し求める形式をとりながらも実は親子再会が主要ではないということです。
『桜川』は桜を取り上げ春の景色を、『三井寺』は秋の月景色を琵琶湖や園城寺の夜景なども組み入れながら紹介します。『柏崎』は善光寺信仰と亡夫への恋慕などを主題としています。これら代表的な三曲では、愛子との再会は戯曲を組み立てる上での味付け程度で、主要部分は別にあります。

能は、このように主題のためならば、なんでも取り付けてしまう大胆な手法を取り入れ、それが却って能ならではの味わいになっているかと思います。
『桜川』『三井寺』『柏崎』の三曲は、中入りのある複式形式です。前場では愛子を失う経緯や状況説明の場面を設け、中入り後に子を捜す旅模様の道行から話が展開する方法がとられていますが、それは我が子の探索に焦点を当てているかのように思わせる見せかけであると言っていいでしょう。


一方、『百萬』と『飛鳥川』は中入りもなく道行もありません。特に『飛鳥川』は我が子を訊ねる母親の気持ちが稀薄で、逆に愛子の友若の方が母を捜し求めている異色な作品です。主題は母子再会よりも初夏の田植えの模様を描く方に重点が置かれ、友若との再会はまさに取って付けたような付録的な扱いです。
『百萬』も『飛鳥川』同様の構成で、親子再会のドラマは付録的に処理されていますが、二曲の違いは、『百萬』のほうが随所に行方がわからなくなった我が子のことを語り、母親の子に対する愛情が溢れているということです。

私は『百萬』という曲が、なにを見せたく、なにを訴えたいのか、を考えました。そして出した答えは「年増の女芸人の舞ぶりを見せつける」、これに極まると思います。
歌舞伎役者が芝居の物語の云々よりも踊りを披露することを第一とするに似た、能役者の舞っぷりを見せつける作品だと思い勤めました。
百萬という女は実在した曲舞の名手であったという伝承があります。また、奈良の西照寺には百萬供養塔があり、百萬について記載されたものがありましたので、ここでご紹介します。

「百萬とは女性の名で春日大社の巫女で一男児があった。ある日、西大寺の念仏会に親子で詣でたが、あまりの混雑に我が子十萬を見失った。その後、百萬は狂女となって必死に十萬を探し求め歩き、京都嵯峨の清涼寺の念仏会で遂に我が子に巡り会い、奈良に戻り親子仲睦まじく暮らし、やがて十萬は唐招提寺の道浄上人になったとも、清涼寺の十遍上人になったともいわれる」と。


神道の巫女が仏教の念仏会でという設定は神仏混合とはいえ、現代の感覚では、しっくり来ないところもありますが、そのようなことはさておき、『百萬』は女芸能者たる百萬という母親のいろいろな舞を見せるのが作者の狙いなのです。その工夫として狂女物に太鼓まで入れるのですから、これは大胆なやりかたで、百万の舞ぶりをいかに賑やかに囃すかという意図がありありと伺われます。

『百萬』には舞いどころが羅列されています。念仏の段、車の段、笹の段、二段曲(にだんぐせ)の舞、二度のイロエと、舞う場面がふんだんに盛り込まれています。この羅列された各種部分をシテの能役者がいかに綺麗にしっとりと、時には激しく舞うかが、この能の善し悪しの決め手となります。綺麗にきっちりと舞ってこそ、鑑賞者は各種の舞の起伏を自分なりの世界で感じ想像してご覧になれるのです。


清涼寺・釈迦堂門前の者(アイ狂言)の下手な念仏がはじまると、百万は笹を持ちいきなり登場します。シテは一途な思いの狂気の様を表す笹を片手に持ち、最初から立烏帽子を被り長絹姿という舞人の扮装です。通常、曲の後半や途中で物着(ものぎ=着替え)をしてこの姿になり、舞人に変身することが多いですが、百万は最初から舞姿で登場します。このことからもいかに舞を見せることに重点がおかれているかが判ります。


自ら念仏を唱え出す百万。「力車に七車・・・」「重くとも引けやえいさらえいさ」と車の段と呼ばれる部分、実はなぜ車が出てくるのか知りませんでした。百萬はもともと車の上で舞っていた芸人のようで、そのため車の段と呼ばれています。ここのシテの心持ちは上機嫌で、調子も張り上げ、ほどよい乗りで謡い舞う躁の意識で、との教えがあります。

しかし狂女というのは、躁と鬱が交互にやってくる特徴があります。次の笹之段と呼ばれる「げにや世々ごとの親子の道に・・・」がまさにそうで、一転して鬱な部分の舞となります。謡い方も陰気に暗く謡います。しかし私はこの笹之段があまりに陰気になりすぎるのは吉としません。
ただひたすらの鬱ではない、不安定な感情とでもいいましょうか、陰気だけではない、少し躁が見え隠れするような笹之段を舞いたいと思い、地頭(粟谷能夫)にお願いしてシテと地謡の感情の起伏が感じとれるようなものにしたいと演じてみました。観ていただいた方々のご感想はいかがでしたでしょうか?


笹之段を舞い終えると、母親百萬は愛子に会いたいと「南無や大聖釈迦牟尼仏、我が子に逢わせてたび給え」と仏前で祈ります。
それを見た子(子方)は僧(ワキ)にこれこそ自分の母であると告げます。しかし、そのあとの対応が現代劇になれている我々にはしっくりきません。

私は子方時代に「自分が、母親だと僧に教えているのに、何故ワキの僧は目の前にいる母親に子どものことを教えないのか」、また「何故母親も近くに居るのに知らん顔をするのだろうか」と、子ども心に疑問に感じていました。
しかし、親子再会が副次的なことで、終始女芸人の舞い姿を見せるのが主題ですから、ここで二人が名乗り合ってしまっては、事はここでおしまいになってしまいます。僧が確信出来るまで、子と再会させない手法をとり、女芸人の舞をふんだんに披露させる。ここが理詰めで物語の進行重視という現代劇とは異なる能らしい演出です。

ワキとの問答で百萬の心境は次第に興奮して語られていきます。
そしていよいよ曲舞が始まりますが、その前にプロローグのようなイロエがあります。
『百萬』には二つのイロエがありますが、最初のイロエはさしたる意味を持たない舞台を一周するだけの舞です。これはいわば舞を舞う前の能役者の準備運動のようなものと思ってくだされば良いと思います。このようなことを堂々とやってしまう、これも能の面白さのひとつです。


イロエの後、序、サシ謡と続き、本命の二段曲の舞となります。「奈良坂や、この手柏の二面」と奈良から京都への旅道中を舞い聞かせます。見せ場の型どころが続き、演者の力量が判るところです。我が子を捜し歩く百萬の気持ちを謡い舞いますが、次第に興奮状態となり気分は高揚していきます。

この『百萬』の二段曲は少年期や青年期に舞囃子でよく稽古させられました。
若い時に覚えた動きは年を経ても忘れません。父が若い時に謡い込んでおけ、舞込んでおけ、と教えてくれたことがひしひしと胸にせまります。私も未熟ながらも積み上げて来たもので舞えたことを喜んでいます。そして今回はじめて、百萬という母親になりきって舞っている自分を、遠くからまた別な目で見ながら舞っている自分を発見出来て不思議な気がしました、「離見の見」とはお恐れ多いことですが、なんとなくそのような体験が出来たことがとても面白く貴重に感じた能でした。

そして、「あら我が子」「恋しや」で二度目のイロエとなり、子を捜す型を囃子に乗り表現します。「これほど多き人の中に、などや我が子の無きやらん、あら我が子恋しや」と捜しても捜しても我が子に会えない百萬は遂に狂気も最高頂に達します。
この感情を表現するには舞という動きだけではむずかしくなります。興奮し高揚した気持ちは謡で表現するしかないのです。その謡い方は、音の高低や早い遅いの違いだけではなく、陰と陽、そして減り張り、出る息と引く息、これらすべてを駆使してようやく表現出来るものです。そこが能役者の力量を計れるところで、演者にとっての腕の見せ所ともなります。

私を含めて喜多流の若者が挑んだ『百萬』は、この大事な謡を疎かにしがちなため、最後の盛り上がりが足らず何か薄っぺらな心打たない舞台印象を与えて来ました。私も56歳となり、正直あれで合格か?と言われれば、まだまだ上があるのですが、なにかそれなりの手応えが感じられた、それが嬉しい、これが本音です。


終盤は、ようやく我が子を目の前にする母の百萬ですが、すぐには素直になれない性格のようです。「もっと早く名乗ってくれたら・・・」と愚痴って立ち去ろうとしますが、やはり母親です。気を取り直して我が子をやわらかく抱き、すべて清涼寺のご本尊のお陰と讃え、親子二人で奈良に帰ります。
これらの舞や動きをスムーズに女らしく、母親らしく見せてこそ大人の『百萬』を演じたと言えるのだと思います。


今回使用した面については、百萬は年増の女芸人ですが、あまり生活感のある表情の面では演じたくない、ちょっと艶がある、綺麗な表情の面が使いたいと思い、伯父・新太郎が愛用していた「曲女(しゃくめ)」を選んでみました。「深井」よりも若くみえる面はどこかエロチックな表情で、いつかつけてみたいと思っていた曲見の特殊版で、我が家の名品です。お客さまにも、また楽屋内にも反響がよく、私としては大満足しています。


今回子方を勤めてくれた金子天晟君は小4になりました。月日の経つのは早いもので、ついこの間、『鞍馬天狗』の花見をしていたのに、あっという間に成長されて驚いています。
今回、後見にお祖父様の金子匡一氏、地謡には父親の金子敬一郎氏と三代で、私の『百万』に協力していただき、伝統芸能を守る家、守る人々に、妙に感心してしまいました。
将来の能楽界を展望すると、親子三代という環境にとてもあたたかな気持ちになれて、なんだか本当に百万の母親になったような嬉しい気分になりました。 

(平成24年5月 記)

能『百万』舞台
シテ 粟谷明生 小鼓 曽和正博 大鼓 大倉慶之助       撮影 石田 裕

清涼寺、釈迦堂、百萬供養塔、面「曲女」    
 撮影 粟谷明生

百萬と清涼寺合成写真 
 作成 川畑博哉

『景清』を演じて-芸能者としての景清を親子で勤める-投稿日:2012-03-04

『景清』を演じて
――芸能者としての景清を親子で勤める――
粟谷明生



『景清』と言えば粟谷菊生、菊生の『景清』と言われるほど父は数多く勤め、十八番と賞賛されてきました。そのためか、私は父の存命中はなかなか『景清』を演じる気になれずにいました。亡くなってから、いつかは勤めなければ、と思っていましたが、いざ番組を組む段階になると、どうも父の顔が浮かんで来て、比較されるのも嫌で避けて来たのが、正直な本音です。

今年は父の七回忌の年です。それまでにはと思い、息子・尚生もこの道を目指し成長しはじめてきたので、ツレ役を配役して、親子で粟谷能の会(平成24年3月4日)で披らくことを決めました。それが出来たことは嬉しい限りです。屹度、一番喜んでいるのは、あちらにいる父かもしれません。

景清は藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏であったので伊藤景清とも、また平景清とも言われていたようですが、はっきりしません。上総介忠清の七男で、勇猛であったため悪の字を付けて通称・悪七兵衛景清と呼ばれていたようです。

平家方の侍大将として常に戦の陣頭に立つ勇者のように思っていましたが、勝ち戦の数が少ないこともあって、戦の雲行きが怪しくなるとすぐに退散するので、逃げ景清と陰口をたたかれていたようにも伝えられています。しかし、能『景清』はそのような弱いところは一切見せずに、落ちぶれても豪の者として描き、昔華やかに戦った時代を戦語りで見せます。



平(または伊藤)景清が能に登場するのは、『景清』と稀にしか演じられない『大仏供養』の二曲です。東大寺の転害門で頼朝暗殺を企て失敗する『大仏供養』は、若者でも演じられますが、『景清』は若年や未熟者では許されない高位な曲として、喜多流では扱っています。喜多流では「盲目」と「老人」というハンディを背負う曲を大事にして、若者や未熟な者には許さない風習が今もあります。
私も56歳になり、いつまでも避けていてはいけない、そろそろ手がけなくては、という思いもあり勤めました。

喜多流の景清像は老いても武骨魂の消えない、意地っ張りな盲目ぶりを強調します。
専用面「景清」には、顎髭が有る無しの二種類がありますが、喜多流は老武者の往時の面影を偲ばせるため、髭のある面を好んで使います。装束も着流し姿で乞食となった落魄ぶりを主張する流儀もありますが、喜多流は仰々しく、敢えて白色の大口袴を穿くのが決まりです。

さて、今回『景清』を勤めるにあたって、景清とはどのような人物なのか、どのように演じたらよいのかを考えました。
まず人の憐れみで暮らす語り芸能者像、次に零落しても武士気質を捨てることが出来ない性格、最後に一人娘の父親である事実、この三つ巴に「老い」と「盲目」のハンディを加えた非常に複雑な構成になっていて、そこが『景清』の面白さでもあると思います。


では舞台進行に合わせてその複雑構成のベールをはがすべく、演者がどのように取り組んだかを少しずつ明かしていきます。まずその前に、簡単に物語をご紹介します。

悪七兵衛景清は日向の国に流され零落しても武士気質を残し、人の憐れみを受けて乞食同然の暮らしを芸能者として生きています。そこへ鎌倉から遙々、娘の人丸が訪れ再会となります。束の間の幸せを楽しむ二人ですが、景清は娘に故郷に帰り、自分の亡き跡を弔ってくれ、と決断し見送ります。一緒に居たい気持ちを抑え、将来の娘のことを考えた父・景清を思うと自然と涙腺が緩みます。

さて舞台進行です。

舞台には引廻しに覆われた藁屋が置かれ、ツレ(人丸)とワキツレ(男)が次第で登場し鎌倉から宮崎までの道中を謡います。
二人が脇座に着座すると、藁屋の中から「松門の謡」と呼ばれる謡が聞こえてきます。「松門、独り閉じて、年月を送り、自ら清光を見ざれば、時の移るをも、わきまえず。・・・」、ここの細かな節扱いは謡本には明確に記載されておらず、先人からの伝承、口伝です。口伝というのは不思議なもので、例えば一人の伝承者から二人が習うと、そこに二つの伝承が生まれてしまいます。どちらかが正しい、良いということではなく、演者がそれぞれの感性で聴き取るので、「松門の謡」であれば二つの謡い方が生まれてしまう、これはどうしても起こる伝承の定めなのかもしれません。
私は父のを規範として真似ていますが、稽古に入って一つの疑問が起こりました。

先ほどの複雑な景清のどの部分を強調し、どのような境遇で謡ったらよいのか、と。

残念ながらそこは父から伝授されていませんでしたが、「松門の謡」の底流に流れる人間景清に内在するもの、それが気になりました。

 

私は、「松門の謡」は、平家語りをする乞食芸能者の心持ちを全面に出して謡えればと思うようになりました。そのヒントとなったのは、角帽子の着用です。
景清は角帽子を付けますが、角帽子とは本来出家を意味する被り物です。

「なぜ出家していない景清が角帽子を被るのか?」
この疑問が発想の発端です。

「とても世を背くとならば墨にこそ、染むべき袖のあさましや窶(やつ)れ果てたる有様を・・・」(世を捨てた自分であるから、出家入道の姿をしているはずであるのに、墨染の衣も着ていない。俗体のままで零落している有様を・・・)と謡われるように、景清は出家していません。

であるのに何故、角帽子を付けるのか?

そこで調べてみると、盲目の方も検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)のような位のある方には特別に被り物が許されていた時代がありました。実際、検校や勾当が角帽子を着用していた訳ではありませんが、それに似たものをかぶっていたため、昔の猿楽師の工夫で角帽子を選んだのではないかと推察します。

つまり角帽子は、盲目で日向の勾当と呼ばれた、平家を語る芸能者の象徴なのです。
そこをクローズアップするのが「松門の謡」と「語り」ではないかと思い勤めました。老いた語り芸能者であっても、ひとたびスイッチが入れば、声は高々と朗々と語りはじめ、悦に入って大声を張り上げてしまう、そのような一面もあるのが景清ではないでしょうか。


「松門の謡」は昔から「鎧の節糸が古くなってぶつぶつと切れたように謡え」と言われています。これには納得出来ますが、「決して聞かせどころではない・・・聞こえても聞こえなくてもそんなことはどうでもいい。シテの腹の中に応えがあればいい」となると、少々乱暴な教えだと反論したくなります。
胸の内の思いだから声は小さく聞こえなくてもいい、というのは舞台に上がる者の言い分けではないでしょうか。

能は歌劇です。謡の詞章は言霊として観客に的確に伝えられてこそ、観客はそこから想像を膨らますことが出来るのです。聞こえなくてもいい、は想像しなくてもよい、ということになります。「松門の謡」は呂の音を主にして、観客に的確に伝えられなければ失格です。胸の内の思いを、声をひそめたり、半分の声で、という発想は間違いだと思います。

西洋の音楽のピアニッシモ(とても弱く)や更に弱いピアニッシッシモ(とてもとても弱く)も、弱くとも芯は堅く、屹度演奏会の会場の遠く奥までしっかりと聞こえるのではないでしょうか。
「松門の謡」も見所の奥まで伝わるものでなければいけないはずです。

 

もう一つの景清の芸能者の本領を発揮する場が、屋島の合戦模様を語る「語り」です。
はじめ冷静に語りはじめる景清ですが、次第に興奮してきて、声も荒げていきます。
不自由な足下でありながら、遂には立ち上がり、娘のために、というよりは、もう自然と動いてしまう、そのような興奮状態で三保谷四郎との錣引きの有様を見せます。
景清のもっとも華やかで脚光を浴びたあの時、もっとも自慢したいあの場面です。
強く謡う地謡陣の謡い声に後押しされながら、太刀を振り、錣を取る型が続きます。
景清が謡の能でありながら、唯一身体全身で動きを見せるところはこの段だけです。ここにも演者には細かな伝承がいくつかあります。
杖をつかなければ動けない者が、思わず杖無しで動いてしまう、その演技には細かな裏打ちされた教えがあります。

 

例えば、右手に持っている太刀を見る場合は、右を見ずに、わざと左に顔をそらします。掴んだ錣が切れた途端に、足の動きは順でなく、すべて逆の動きをします。
左へ動く型は常は左足から動かすのがルールですが、わざと逆足の右足から出て不自由さを見せます。逆の動作は自然ではないので動きにくく、稽古を重ね慣れるしかありません。そして先人の舞台をよく見て身体で覚えるしかないのです。いろいろな先人の方々や父のを参考にして勤めましたが、今ふり返ると上手く出来たところもあれば、やり直したいと思うところもあります。

 

昔語りを終えると、父景清は娘にもう帰れと促します。
最後の別れの場面です。『景清』については、父からたくさんの事を教えてもらいましたが、中でも最後の人丸を抱いて見送るところ「さらばよ止まる」とツレの背中を押して別れる型は、地謡の「さらばよ止まる、行くぞとの・・・」と父・菊生の左手がツレを勤める私の背中を強く押したあの感触を今でも忘れません。
強い、のですが、しかしそのタッチは柔らかでした。

「背中を押したら、すっと一の松まで行って、ふり返って、最後はシオリをしながら謡に合わせて幕に入れ」が、父の最初の教えでしたので、今回もそのように息子にやってもらうことにしました。
能の伝書には細かなことは記載されていません。このような場面の動きは演者の感覚、意識に委ねられ自由です。

さて、この「すっと一の松まで」がむずかしいのです。運ぶ(歩む)速度が速過ぎては荒く雑に見え、遅くては景清が「もう行け!」と押した効果が上がらず、涙に繋がりません。さて、どのように息子に教えたらよいのだろうか。


自分を振り返ると、「遅いよ」「速過ぎだよ」とご注意を受けたことはありませんでした。きっと上手くこなしていたのだろうと、自惚れていたのですが・・・。よく考えると、私は父の押す力を受け、それに委せて運んで(歩んで)いただけ、と気付きました。
私がほどよい力で息子の背中を押してあげればよいことなのです。

 

最終場面の最後、明生景清がどのように尚生人丸の背中を押すかが見どころですと、ご案内させて頂きましたが、今回は少々力が入り過ぎて叩き過ぎたようです。
後日「押し過ぎだよ」と尚生人丸に言われてしまい、面目ない明生景清でした。
まだまだほどよく押せない力不足を反省しています。

今回の『景清』は息子・尚生との初共演で、しかも親子の役でしたので、二人で稽古を重ねられたことも嬉しいことでした。「尚生は、まだまだ」と辛口の批評も仕方無いと思いますが、年齢と経験を計算すると十二分に勤めてくれたと、私は評価しています。

父の『景清』の披キ(昭和45年 第10回粟谷兄弟能)は40代後半のことでした。その後、昭和49年、55年と続き、生涯で28回の『景清』を勤め、『景清』は菊生の十八番でした。私はそのうちの9回にツレを勤めました。晩年の菊生の『景清』をご覧になられた方は多いと思いますが、昭和の舞台を観ておられる方は、もうそう多くはいらっしゃらないかもしれません。

私が規範としているのは昭和の、父が5,60代のころの『景清』です。溌剌として老いと盲目を真似る父の芸に憧れていました。
晩年「なんだか最近演る『景清』は自分の素のまんまでやれちゃうが…。それがいいんだかどうだか…」と、こぼしていたのを知るのは、たぶん私だけでしょう。
そのような裏側まで知った上で、意識して真似しない部分もありましたが、基本は父の『景清』の真似、これは紛れもない事です。
先日、「10年後に、また親子共演を観たいものです」とご覧になられた方が仰しゃられたので、「いや親子で9回はやりたいから、3,4年後にまた再演しますよ」と答えてしまいました。本当にそうなれば、そうしたいと思っています。
(平成24年3月 記)
写真提供 粟谷明生 撮影 青木信二

『天鼓』について 日本人によって創られた唐土の空想物語?投稿日:2011-10-09

『天鼓』について
― 日本人によって創られた唐土の空想物語 ―

粟谷明生


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『天鼓』の初演は平成6年・粟谷能の会研究公演でした。
今回の粟谷能の会の『天鼓』(平成23年10月9日 於:国立能楽堂)は17年ぶりの再演ということになりました。

現行の喜多流の『天鼓』では「楽(がく=唐物の舞)」は太鼓なしが決まりです。

「楽は黄鐘調(おうしきちょう)盤渉調(ばんしきちょう)いずれも大小楽(だいしょうがく=笛と大鼓と小鼓で囃す楽)にて勤める」と喜多流では伝承されています。
これを、研究公演のときには「研究」という意味合いもあり、盤渉の太鼓入りで試演してみました。当時39歳でした。いま思うとよくもまあ冒険が出来たものだ、と自分ながら驚きますが、それは友枝昭世師や父菊生をはじめ流内や三役を含めた皆様のご理解とご協力の賜物であったと、今も感謝の気持ちで一杯です。本当に恵まれた環境にいたのだと思います。

今回、『天鼓』を再演するにあたり、まず考えたことは、この「楽」のことです。
前回同様、太鼓入りの盤渉で勤めました。



(撮影・森英嗣) 

『天鼓』は太鼓が主題の曲ですので、黄鐘調でも盤渉調でも太鼓入りの楽であるのが相応しいと思います。
わざわざ太鼓を入れないで囃す根拠が理解出来ません。

喜多流の後シテは出端(では=出囃子)で登場するため『天鼓』には太鼓奏者が必須です。
現在太鼓方の能役者は、1時間40分ほどかかる『天鼓』の、ほんの10分程度の出端のためだけに舞台を勤めます。その他の時間はただただ座っているだけの環境です。

これがなんとも勿体ない気がします。せめて盤渉の時ぐらいは太鼓が入るルールに代わると良いと思っていましたが、研究公演での反響はすこぶるよく、近頃は太鼓入り盤渉が珍しくなく頻繁に演じられるようになりました。一石を投じてよかったと、嬉しく思っています。



(撮影・前島写真)

そのような経緯で、楽は太鼓の入る盤渉で勤めましたが、今回は更に「楽」の型(動き)に太鼓への思い入れが入った舞にしたいと工夫しました。

通常「楽」は本舞台でしか舞いませんが、途中で橋掛りに行く替えの型を試演しました。舞の寸法は変えずに、橋掛りを漏水と見立て、キリの仕舞どころで謡われる「水に戯れ、波を穿ち、袖を返すや」を楽の中で表現出来たらよいのでは・・・、との思いです。

本舞台から三の松辺りまで、クツロギ(替の舞)に似た動きで、水に戯れる心持ちを左や右に小廻りで表現して、左袖を巻く型で愛用した鼓を遠くから眺めます。そして徐々に太鼓に近づく心持ちで一の松まで移動し、また小回りして太鼓に向かって歓喜の足拍子を踏む新工夫の型です。



(撮影・前島写真)

天鼓少年と鼓との繋がりを、楽という形式化された舞の中で表現したい、少年自身が楽しくてたまらない、そしてより舞台が華やかに見えるように演出したいと仕組んだつもりですが、いかがでしたでしょうか。

今回は「楽」のほかに、あと二つのことを心掛けて勤めました。
異国(唐土)の物語であることが判りやすい舞台にすることと、前場のシテの登場を呼び出し形式にすることです。
能『天鼓』は中国のお話ですので、当然能役者の扮装は中国風が相応しいはずです。

本来、異国(唐土)の物語であることを判りやすくするのは能役者の仕事であって、その作業はごく当たり前のことと思われるでしょうが、現場はそうはなっていないのが事実です。

現行の喜多流の装束附は、日本を題材にした曲目と同じ格好で演じられています。
前シテの老人の格好は、日本の神を題材にした脇能の『養老』と同じです。これでは観る側にいくら中国の話であると説明しても想像し難いでしょう。舞台全体が中国であると思える工夫があって然るべきだと思います。

そこで今回はシテだけでなくワキもアイにも中国人らしい装束を着けていただきました。



(撮影・石田裕)

前シテは「尉髪(じょうがみ)」に面「小牛尉(こうしじょう」を付けるのが普通です。

「尉髪」は髷の格好ですので、非常に日本人的なものを感じます。そこで髷を隠すために、「唐帽子(とうぼうし)」と呼ばれる頭巾を被りました。唐帽子はいかにも中国風な風情になります。しかも白い毛を両鬢に垂らすといっそう老人らしさが増します。

現在、喜多流では「唐帽子」をあまり使いませんが、先代宗家・喜多実先生は『張良』に使用されたことがありました。残念ながら我が家では「唐帽子」がないので、今回は観世銕之丞氏にお願いして拝借しました。

「唐帽子」は面の眉毛あたりまで頭巾で覆われるため、眉間に彫られた皺が隠れてしまい面の表情が変わって見えるのが難点です。このことは観世流の方々に事前にご注意を受けていたのですが、いざ「唐帽子」を付けてみると、本当に顔の表情に締まりが無くなり、やや笑い顔に見えてしまい後悔しました。

次回はもっと強い表情の、例えば石王尉など、または口髭がある面を使用してみては、と考えています。演能後、ご覧になった面打師のお客様数人にお聞きすると「別に問題はなく、充分成立していた」と、お声をかけていただきましたので、安心はしているのですが、私としては、次回は更なる工夫をと目論んでいます。



(撮影・吉越研)

話は少し脱線しますが、実は『天鼓』の物語は中国の歴史上にはありません。鼓が置かれた阿房殿、雲龍閣も史実として後漢の時代には存在していないようです。

中国では「雷」のことを天鼓とも呼び、晴天に雷鳴がして大石が落花し、その石を天鼓と名付けた、ともあります。
もっとも日本の仏教にも天鼓はあり、手で打たなくても自然と鳴り出す鼓のことを言うようで、須弥山の頂上、三十三天と呼ばれる帝釈天のいる善法堂にその鼓はあり、打たなくても自然に妙音を出す珍しい鼓とされています。また法華経には「天鼓は帝釈宮にあって阿修羅(悪神・悪の心)が攻め入る時、賊来ると警鐘を鳴らす」と書かれ、法華経巻六には「諸天が、天上界で音楽を奏でる時に使う」とも書かれています。

おそらく、能『天鼓』は日本の猿楽師が中国隕石物語と日本仏教の天鼓とを組み合わせて想像して作曲したものではないでしょうか。舞台を唐土にして日本人が創作した空想物語だと私は睨んでいますが、いつか専門家のお話を伺いたいと思っています。

話を戻します。もう一つの工夫は前シテの一声を省き「呼び出し」形式にしたことです。

普通、前シテの老人・王伯は「露の世に、猶老いの身のいつまでか、また此の秋に残るらん」の一声で登場し、「伝え聞く孔子は鯉魚に別れて・・・、白居易は子を先立てて・・・」のサシコエ、下げ歌・上げ歌が続き、愛児を失った身の悲しさを嘆く謡が綿々と謡われます。

この部分を割愛して、ワキの勅使の名乗りの後、すぐに「いかに此の家の内に王伯のわたり候か」と尋ねる形にしました。これは観世流の小書「弄鼓之舞(ろうこのまい)」の演出方法でもあります。この最初のシテの謡は、なかなか詞章も節もよく、愛児を失った老人の諦めや失墜の感情が彷彿とする聞かせどころですが、物語をより的確に現在物らしく演出するには逆効果です。

現代の能はよりコンパクトにより凝縮された形が求められています。時間を短縮してテーマを絞り込み、絞り込むほど能らしさが表現されるのです。冗長は現代には似合いません。



(撮影・石田裕)

削除、割愛、省略という言葉は楽をする、サボるという悪いイメージが湧くかもしれません。

しかし実はそうではなく、老父の悲しみを長々と語らなくても「そも何と申したる勅使にてござ候ぞ」のシテの応答の一句にすべてが見えてくれようであれば良いのです。

愛児を失った老父の悲しみと諦めを、一瞬にして観客に伝える。短い言葉を謡の力で観客に自由に想像させる、時間をかけるより能役者にとってはこちらの方が難易度は高いのです。

今回、敢えてその高いレベルに挑みました。見所の奥まで老父の感情が籠められた謡い声が聞こえる、しかしその声に精気は感じられない、まるで残りの人生を諦観しているかのように・・・弱者の声、そのように聞こえる謡が出来たら・・・と思いました。

楽屋話めいて恐縮ですが、このような事を行うのは能役者として当然、当たり前のことなのでしょうが、それを蔑ろにしてきた自分を恥ながらも、変えたい、と思ったことに間違いはありません。ただ謡本通りに謡っているだけでは到底出来ない演出に挑戦することで、自分の弱点、課題も見えて来ました。



(撮影・石田裕)

今回『天鼓』を勤めるにあたって、この曲がなにを言いたいのか? 何を観衆に伝えたいのだろうか? 稽古すればするほどわからなくなり考えされられました。

愛児を殺される能に『藤戸』と『天鼓』があります。
『藤戸』の母は、我が子を海に沈めた佐々木盛綱に対して殺意を持ち刺し違える覚悟がありますが、『天鼓』の父は違います。
我が子を殺されながら不思議と怨念が見えません。

老父にとって愛児の死はなんなのでしょうか? 

諦めに近い喪失感で満ちています。
一度は拒む参内も、愛児の愛用した鼓をせめて見たい一心で、我が子のためにと勅使に従います。宮殿に入るとその広大な内裏に圧倒され驚き、また参内を拒みますが、我が子のためと思いなおします。

老父は鳴らないかもしれない、
もし鳴らなかったら殺されるだろう、
それでも我が子の愛した形見の鼓を手に取ることが出来れば・・・
と思う親心なのでしょう。

そして鼓を打つと、鼓は鳴り響き、それはあたかも我が子の声に聞こえ老父は安心します。皇帝だけではない、老父自身が驚き、ここで老父は愛児と再開出来たのです。

親子の情、文章では判っていても17年前は何も判っていなかった、と今白状します。

本当に身体で能が判るようになったのは、やはり父を亡くして時間が経ってからのことです。亡父が、よく「そのうちわかるよ」と言っていたことが思い出されます。



(撮影・石田裕)

一方、後シテの天鼓少年は、勅に従わぬ自分が悪く、当然の報いとして地獄に落ち苦しんでいますが、皇帝の弔いに今は浮かばれたと喜び感謝します。そして舞の所望に勅命と喜んで舞う少年の亡霊。

命を奪われながら、なぜここまで従順なのだろうか? 

ここも稽古していて不思議でした。

なぜ老人も天鼓少年にも怨みがないのだろうか・・・・。

さてはこれは作曲した猿楽師の芸能者という立場からではないか、と推察します。

体制派を褒め称えるのは芸能者の宿命です。
彼らの応援なくして生活が成り立たないことを芸能者は充分承知の上で、そこで生きていくしかないのです。

恨み辛みの感情などは控えめに演出し、皇帝の情の深さを讃えるのです。
この能を観る権力者はご満悦でしょう。



(撮影・前島写真)

しかし、ただ一点だけ芸能者の意地が書き込まれているのが稽古して判りました。

それは、皇帝が少年から鼓を無理矢理奪い取り、権力をかさに横暴を奮うが、鼓はだれが打っても鳴らない、この鳴らない現象です。

唯一、鼓は帝に従わないのです。ここに芸能者の隠された心意気を感じます。
権力なんて無理強いしても所詮限度があるのだ、と言わんばかりです。低頭して服従して、でも心根は崩さない、そんなところの見え隠れを捜して能を勤めることが面白くてたまりません。

『天鼓』は前場も後場もテーマが盛りだくさんです。愛児を失った親の悲しみは、この曲の大事なところだと思いますし、さまざまな工夫も述べてきました。

しかし最後は、老人の忘れられない愛児の天鼓少年が天真爛漫に夜遊の舞を見せる、ここに重きをおくことこそが、老人の一番の喜びではないだろうか、そう思って勤めました。

(平成23年10月 記)

写真提供 粟谷能の会  『天鼓』 シテ 粟谷明生  

 
(資料:天鼓あらすじ 粟谷明生作)

中国が後漢と言われた時代のこと。
王伯(おうはく)の妻・王母(おうぼ)は、天から降ってきた鼓が胎内に宿る夢を見て男の子を授かった。夢に因んで名前を天鼓と名付けると、天から本物の鼓が落ちてきて天鼓少年が打つと妙なる音が出て人々を感嘆させた。

噂を聞いた帝は、その音色を聞きたく少年・天鼓から鼓を召し上げようとしたが、少年は従わず鼓を持ち山中に隠れてしまった。しかし少年は捕らえられ鼓は奪われ、少年は漏水の江(黄河支流洛川・洛水)に沈められた。

鼓は内裏に置かれ打たれたが鳴らない。帝は少年の父親ならば鳴らすことが出来るだろうと、勅使を王伯の私宅に向かわせる。
このことをワキ(勅使)が名乗りで語り、ここから舞台展開がはじまる。

勅使に呼び出された天鼓少年の父王伯は老いた姿で我が子を亡くした失墜の体で現れ、鼓を鳴らすという勅命は口実で、実は罪人の父親も殺すのが目的であろうと答え、参内を固辞するが、どうせ死ぬならば、せめて我が子の形見の鼓を見て打ってからと決心し、勅使に連れられ宮殿に向かう。

壮大な宮殿の建物に驚く老父は、勅命により雲龍閣に上がり鼓を打つ。すると不思議に鼓は鳴り響き、その美しい音色を聞いて、帝は親子の恩愛に感銘し涙する。
老父は宝を与えられ帰宅を許される。

<中入り>

帝は天鼓を弔う為に漏水の江にて管弦講を催し法事を行う。
すると、弔いの音楽にひかれて少年天鼓が亡霊の姿で現れ、弔いに感謝し、鼓を打ち、舞楽を舞い夜明けと共に消えて行く。

『昭君』を勤めて 不条理な演出の見直しを投稿日:2011-06-26

『昭君』を勤めて
ー不条理な演出の見直しをー

粟谷明生



曲名になっている王昭君は、中国四大美人のひとりです。
漢の皇帝は胡国(匈奴 現・モンゴル)との和睦の条件として、胡国の韓耶将(かんやしょう)のもとへ宮女をひとり差し出すことを了承します。

その宮女の選出がふるっています。絵描きの画によって、三千人いる宮女の中から一番劣れる容色の者を、皇帝が選び出し決めることにしたのです。美貌に自信のない宮女達は絵描き師に賄賂を渡し、美しく描いてもらいましたが、美貌に自信があった王昭君は賄賂を渡さなかったので絵描き師はわざと醜女に描きました。そのため帝は醜女と思われる昭君を選んでしまいます。

さて胡国へ旅立つ日、昭君が帝に拝謁すると、その美しさに帝は驚き悔やみます。しかし君子に私の言葉なし(私心なし)と諦め、韓耶将の元へ送るのでした。後日、帝は似せ絵を描いた絵描き師をすべて処刑したと言われています。

能の『昭君』はしかし、その美人の昭君が主役ではありません。愛娘を遠い異国の僻地に嫁がせる境遇になった老父母の悲しみの心境を描いています。美人の昭君役を幼い子方に演じさせるやり方はいかにも能らしい演出です。
今回は金子天晟君(小学校3年生)が勤めてくれました。


物語は里人(ワキ=大日方寛)が昭君を弔うために、昭君の父母の私宅に出向く由を述べる名乗りからはじまります。続いて昭君の父・白桃(はくどう)(前シテ=粟谷明生)と母・王母(おうぼ)(ツレ=内田成信)の老人夫婦が一声で登場します。愛娘の昭君が胡国に嫁つぐ所以や、胡国への旅行の様子を涙ながらに語ります。



一声から初同前までのシテとツレの連吟は詞章が多く長い時間がかかります。ここはどうしてもだれ気味になり退屈してしまうところです。ここを情景が想像出来るような、説得力のある謡がいかに謡えるか、能役者の力量が試されるところです。今回は内容に沿って謡に緩急を付け、動きも少し加えましたが、ご覧頂いた皆様は如何に思われたでしょうか。

実は今回、謡と装束で、中国の老父らしさを彷彿とさせたい、と考えました。装束については後で述べますが、謡については中国人の会話を聞いていて一つの発見がありました。それは口調の強さです。気持ちが昂ぶり、相手を必死に説得させようとするときの発音の強さ。語気は日本人のものとは大いに違います。



今回、試しに強い口調の発音で、ゴツゴツとした固い感じで謡うように試みました。ヒントとなったのは『昭君』の三個所の秘伝、口伝の謡です。

前シテ「この柳も枯れ候…」の「枯れ」、そして「鏡に映して影を見ん」の「見ん」、後シテでは「韓耶将が幽霊なり」の「なり」です。いずれも強い気持ちを、調子の張りで表現します。「なり」は「鬼節(おにぶし)」と呼ばれ、最も甲高い鋭い声を張り上げて夷の大将の威勢をみせる特別な節です。

これらは謡本に特別な謡い方である記載はなく、私たちは先人からの口伝で伝承しています。私は前シテの二個所の強い気持ちを込めた謡が老父の性格を裏づけています。この老父に老いの柔和な感じは不似合いです。気の強い性格の老人を演じ切るように心掛けました。それが出来たかどうかは別として、この取り組み方に間違いはないと自信はあります。面も性格の強さに合った、特に強めの野卑な表情の三光尉を選びました。



老人夫婦はしきりと柳の木陰を清め、自らの心を慰めています。この柳は娘の昭君が胡国に送られるとき、自分が死んだらこの柳も枯れるでしょうと言って植えた形見の木。最近枯れはじめたので老父は悲しんでいます。

この柳は物語の重要な役割を担っています。しかし、現行の喜多流の『昭君』では柳の木はありません。シテもワキもあたかも柳が有るかのように会話しますが、実際に柳は舞台に存在しないので、能をご覧になる方は、本舞台正面先に柳の木があると想像しなければなりません。

能は想像の世界と言われていますが、度が過ぎます。他流では、このような不親切な現行の演出を見直して、柳の作物を置いたり、柳に鏡を付けるなどの新演出を工夫し、判り易くしています。

例えば、『羽衣』や『松風』は正面先に「松」の作物を出し、三保の松原や須磨の浦の一木の松(ひときのまつ)の情景をシンプルな一本の松で想像させます。効果は抜群です。『昭君』も当然「柳」があるべきですが、ありません。

何故このようになったのでしょうか。私は能役者側の行き過ぎた合理主義が原因だと推察します。猿楽の能が江戸幕府の式楽となり、観る側が大名など謡の詞章がすでに頭に入って内容を予め理解している場合、自ら松を思い描き楽しみたいのかもしれません。

その様な高尚な相手に、わざわざ柳を出す説明的な演出を能役者は故意に避けたのかもしれません。想像にお任せする、という極めて高度な演出を選んだのではないでしょうか。

それが近代まで続いて来たのが悲劇です。今は通用しません。
現代はより判り易い演出が求められていて「柳の木」は当然出るべき小道具だと思います。



老人夫婦が柳の木陰を清め終えると、里人が昭君の弔いのためと訪ねて来ます。老父は弔いの来訪を感謝しますが、心の底では娘の死を認めてはいません。なかなか納得出来ないでいるのです。

東日本大震災で「妻は、父母は、我が子は、まだ見つかりません。しかし…死んだとは思いたくない。納得出来ない…」と嘆かれる被災された方々を思い出します。同じなのです。

ですから、恋しく想う人の姿が鏡に映るという故事を聞くと居ても立ってもいられなくなり、ついに老父は鏡を荒く持ち出し、柳の下に置き鏡に娘の姿を望み号泣するのです。ここの怒りにも似た激しい動きを、老人らしさを忘れずに演じるのが能役者にとって難しいところです。荒くなり過ぎると若さとなり、荒さを怖れると勢いがなくなる、このバランスを保っての演技こそ能らしいところなのです。

最近、能舞台で気になることがあります。
それは中国の話でも、その姿・格好が日本人役とまったく同じであることです。これも、江戸期の能役者の合理主義の影響で、一概に悪いと断定はしませんが、やはり中国は唐っぽく、日本人は日本らしい扮装で想像しやすい環境を創るべきです。



今回、前シテとツレは水衣の上に側次(そばつぎ)を着て、少しでも舞台が中国っぽくなればと試みました。後シテの出立ちは、従来、法被(はっぴ)半切袴(はんぎりはかま)ですが、我が家の伝書に「法被を二つ重ね着し、上の法被を襷に取るも有り」と面白い記載があり、粟谷能夫は以前この扮装で勤めています。

私は、古代武官の礼服で、鎧のイメージも湧く裲襠(りょうとう:打掛け)を着ることで、より胡国の蛮族の大将らしさを出したいと思いました。(裲襠は山中家から拝借しました。)また、「もとゆい更にたまらねば、眞葛(さねかずら)にて結び下げ」の詞章から、伝書の「赤頭を鬘帯にて飾り出るも有り」も試み、赤頭に鬘帯を元結のように結び装飾しました。これは赤頭の後ろ側のため、目立つほどではありませんでしたが、常とは違う異なる雰囲気に気付かれた方は、異国人らしさがお判りになったのではないでしょうか。



これらの工夫は、似合うと賛同のご意見もあれば、首をかしげる方もいらっしゃるかもしれません。ご感想は様々であって良いと思います。

しかし、私は周りや楽屋内の苦笑を怖れて何も挑まないで勤めるよりも、作品を生かすためにいろいろな試みをする能役者を目指します。


今回、頭の毛の色についても、赤頭にするか、黒頭にするかで悩みました。

『昭君』にはどちらが良いのか、どれが似合うのか。

後シテの韓耶将は死霊です。鬼のように見えますが鬼ではありません。
赤頭は畜類系の鬼のイメージが強くなりがちなので、より人間っぽい黒頭がよい、とはじめは思いました。実際、観世流では黒頭が主流のように変わって来ました。しかし、故観世銕之亟(静夫)先生の「赤頭は紅毛人(こうもうじん)のイメージ」、このお言葉が私の赤頭の選択を後押ししました。赤頭について、鬼という一辺倒の発想ではなく、紅毛人、異民族の象徴のようなイメージまでもっていく大きな発想に感服です。もう即座に赤頭と決めました。

また頭の上に載せる冠も同じです。「唐冠(とうかんむり)」は漢民族の象徴のような冠です。胡国の遊牧民族の大将・韓耶将に唐冠は似合わないと否定していました。

しかし「敢えて唐冠を付けることで漢と胡国の和睦を意味するのでは?」と説明を受けると、これもまた納得してしまう私です。従来通り唐冠を着用する根拠が発見出来ました。


面は喜多流の本面といわれる「小ベシミ(こべしみ)」を付けました。面の裏に能静の目利きが記されている歴史ある古面で、前から一度付けたいと思っていた名品です。ただ残念なことに、過去に真っ二つに割れた形跡があり、大胆な修復の跡がある危険な状態の面です。

しかし慎重に気を配り使用して、何事も無く、この面を経験出来たことは、私にとってたいへん貴重な経験で喜びでした。

『昭君』の中入りは早装束(はやしょうぞく)です。前場と後場の間に間狂言がないので(注・大蔵流山本家にはシテの所望によりアイが出る場合もある)、前シテは中入りしたら、ワキの退場、子方の登場という短い時間に着替えなければなりません。予め装束に仕掛けを施し、付ける者も着せられ者にも手際のよさ、要領のよさが求められます。

今回は、着附をして下さった狩野了一氏、佐々木多門氏、そして後見の内田安信氏の手際よいご協力のお陰と感謝しています。あっという間に短時間で着替えられたのは、念入りな事前の仕掛けのお陰ですが、そのために演者は出番の前に一度装束を着なければならず、体力的に消耗し疲労するのは目に見えています。

しかしそこは我慢で、より綺麗な着附で出たいという気持ちが優先されます。仕込み作業のたいへんさを痛感しながらも、効果を優先したいのです。


この能は、本来は前シテがそのまま舞台に居残り、韓耶将役は別人が勤めるのが自然です。現行の演出では、柳の木を鏡に映せば昭君が鏡に現れると聞くと老父は鏡を持ち出し映らぬ鏡に向かって泣き伏し、そのまま中入りして早替りし、後シテの韓耶将役を演じます。これはシテ一人に演出を集約する江戸期の手法の名残でしょうが理屈に合いません。また、一曲の最後は、昭君の美しさを讃える部分ですから、当然子方の昭君に脚光があたり昭君が舞うのが筋で当たり前ですが、現行は韓耶将が昭君の代わりに舞うというちぐはぐな演出になっています。


観世流の方々の中には、この従来のまずい演出を見直し、理にかなった本来あるべき姿に戻す作業をなさっている方があります。古典を現代に合った演出にして、また本来あるべき形が良ければそこに戻すことは、現代能役者の仕事であり使命だと思います。

喜多流も積極的な対応をすべき時期が来ていると思うのですが、しかし反面、喜多流自主公演だからこそ、不備でも現行のスタイルが見られることを期待する観客もおられる、それも現実です。

今回は不条理でも従来通りの型付けで勤めましたが、柳の作物を出し、韓耶将は別人が勤め、終曲の昭君の舞は子方が舞うという、ごくあたりまえの新演出の発掘作業が早く起こればよいと願っています。

(平成23年6月26日 喜多流自主公演にて)

写真提供  撮影 石田裕
1,後シテ 粟谷明生
2,子方 金子天晟 小鼓 曽和正博
3,橋掛にて 左 シテ 粟谷明生 右 ツレ 内田成信
4,前シテ 粟谷明生
5,前シテ 掃く型 粟谷明生
6,鏡を持ち出す型 粟谷明生
7,ツレと
8,赤頭に鬘帯 楽屋にて 撮影 粟谷明生
9,後シテ 橋掛にて
10.後シテ 鏡台の前にて
11,後シテ 飛び安座
12,後シテ

守山から鏡の宿投稿日:2011-05-16

平成23年5月2日、守山で『望月』の甲屋、鏡の宿にて宗盛胴塚や義経ゆかりの謡蹟を訪ねて来ました。写真でご紹介します。

「謡蹟めぐり」(青木実著)には「甲屋之址」の石碑があると書かれていますが、石碑は現存せず、建物は中山道街道文化交流館となっています。守山一丁目8番付近。

中山道街道文化交流館の側に『望月』の話は架空のため甲屋がないことを説明する駒札が立っています。

国道8号線の野洲市・大篠原北に平宗盛胴塚があります。宗盛は能『湯谷』のワキとして登場します。野洲市は「幾瀬渡りの野洲の川」と『船橋』の脇の道行に謡われるところです。目印はキョウエイの看板で小道を少し歩くとすぐにあります。

義経は平宗盛、清宗父子を護送して鎌倉に出向きますが、頼朝との面会が許されず、京に引き返すことになります。鏡の宿は自分の元服の地のため、少し京に近づいた大篠原にて、義経は二人を斬首し、首を京に、二人の胴は一緒にして埋めたと言われています。
近くにあった首洗い池の「蛙なかずの池」は現在は埋められたようで見当たりませんでした。

鏡の宿は現在の道の駅「竜王かがみの里」あたりです。義経がここで元服して赤坂の宿にて盗賊熊坂長範を討つ能が『烏帽子折』です。

道の駅から8号線向かい側に「義経元服池」の石碑が見えます。

義経は元服の時にこの池の水を使ったと言われ、またその姿を水面に写したとも言われています。

元服池から8号線を彦根方面に歩くと、直ぐに鏡神社があります。義経が元服の折、参拝して源氏再興と武運長久を祈願したところで、八幡神社には祭神・源九郎義経公となっています。

烏帽子掛けの松は、義経が鏡神社に参拝する際、この松の枝に烏帽子をかけたと言われています。明治6年、台風で倒れたため、株上2.7メートルを残し仮屋根をつけて保存されています。

掛けの松の隣に謡蹟保存会の駒札があります。

神社には義経が元服の時に使用した盥の底板が残っていますが、残念ながら見ることは出来ませんでした。

義経は奥州下向の途中、当時の宿駅の長であった澤弥伝の「白木屋」の旅籠に泊まりました。茅葺き屋根の白木屋は台風のため壊れてしまい、現在は取り除かれて館跡の石碑があるだけです。

道の駅から鏡山が見えます。『盛久』では「瀬田の長橋うち渡り、立ち寄る影は鏡山」、『三井寺』では「月は真澄の鏡山」と謡われています。

『翁』付『養老』を勤めて ー前シテの面「小牛尉」へのこだわりー投稿日:2011-04-16

『翁』付『養老』を勤めて
ー前シテの面「小牛尉」へのこだわりー
粟谷 明生

平成23年(4月16日)厳島神社桃花祭・神能で『翁』を勤めました。
神能は正式な『翁』からはじまる5番立番組で、『翁』のシテは脇能も勤めます。
脇能は『高砂』『弓八幡』『養老』の三曲を毎年順番に奉納する決まりになっています。

(写真2)
前年(平成22年)の脇能は『弓八幡』でしたので、今年は『養老』でした。
私の『翁』付『養老』は平成11年以来、実に12年ぶり。12年前の事を思い出しながらも、また東北の被災された方々へ神のお恵みがありますようにと、「天下泰平、国土安穏」と気持ちを込めてご祈祷の謡を謡い、勤めました。


(写真3)
喜多流の脇能の神舞物は五曲あり『高砂』『弓八幡』は本格、『養老』『志賀』は少し格下、『絵馬』は別格と区別するように謡本に書かれています。参考曲に『御裳濯』がありますが、現在絶えています。


(写真4) 
笛方は神舞の位を、真(しん)と草(そう)に分け、本格は真の舞、格下は草の舞と扱っていますが、シテ方の動き(型)は変わりません。違いは、初段オロシの譜が男舞の譜に変わるだけです。もっとも最近では、シテ方の注文がなければ、草の場合でも真の扱いで吹いていると、森田流の杉市和氏は仰しゃいます。

『養老』は世阿弥作の脇能ですが、前場にクセがない簡略形式となっていることや、大口袴をはかずに着流し、面は三光尉というような装束附けや面の選択の影響でしょうか、『高砂』や『弓八幡』の本格2曲より格下扱いされています。
しかし私見ですが、『養老』の後シテは壮大な荒々しい山神の役ですので、本格と差別せずに、同等に扱って然るべきだと思います。

(写真5) 
前シテは、身分の卑しい田夫野人であるため、老翁は位低い着流し姿となることに異論はありませんが、問題は、面がやや野卑な人相の「三光尉」と定められている伝承です。
神の化現でないため「小牛尉」を使用しない、と喜多流謡本に明記されていますが、これはどうでしょうか。私は同意出来ません。今の演出では、老翁は神の化現であると考えた方が自然だからです。前シテとシテツレ親子は来序で中入しますが、これは老翁たちが実は山の神であるが如くに観客に想像させますし、演者もそのような気持ちで演じています。


(写真6) 
古くは、前シテとシテツレの親子はそのまま舞台に居残り、別の能役者が後シテの山の神だけを演じていたのではないか、という説もあります。例えば、現在喜多流の『昭君』ですが、古式では前シテと後シテを分ける演出があり、最近観世流の中にはその古い形式を再興しているところもあります。

それはともかく、現行の演出では、シテとシテツレが来序で中入りするので、老翁を神の化現として演じたくなるのは普通で、それならば面は「小牛尉」の方が適当となります。装束も従来の無地熨斗目よりは、格上げした小格子模様の熨斗目の方が似合います。
そこで今回は、『養老』も『高砂』や『弓八幡』と同じように品のある前シテにしたく、前回同様「小牛尉」を使用し、着附は小格子模様の熨斗目を着流しで勤めました。


(写真7) 
伝書には、過去の経緯や心得が書かれていて貴重です。しかしそれを鵜呑みにするのはどうでしょうか、いささか危険であるようにも思えます。
今に生きる能、というものを常に意識して演じる能役者を目指したいと思います。
権威主義的、保守的な考えの方には、目障りだと思われるかもしれませんが、今に似合う、自分に似合う能を、それを受け入れてもらえるような環境作りをして創り上げていきたい。現在に似合う、今を生きる能役者でありたい。また後進たちにも、そうなってほしいと願いも込めて舞った、今年の『翁』付『養老』でした。

写真提供 粟谷明生 撮影 石田 裕

写真巻頭 『養老』前シテ 小牛尉をつけて
写真2  『翁』 翁の舞 地の拍子
写真3  『養老』後シテ 神舞の上羽の型
写真4  『養老』後シテ 神舞二段オロシの型
写真5  『養老』前場 左から ツレ佐藤 陽 太鼓 梶谷英樹 シテ 粟谷明生 
小鼓 横山幸彦 笛 中村俊士 脇 高安勝久
写真6  『養老』前シテ 「影さえ見ゆる山の井の」の型
写真7  『養老』後シテ 仕舞所の型
(平成23年4月16日 厳島神社・御神能にて。  同年4月 記)
無断転写禁止

『一角仙人』について  将来を担う能楽師たちとの共演投稿日:2011-03-06

一角仙人について
― 将来を担う能楽師たちとの共演 ―

粟谷 明生



能『一角仙人』はインドの「マハーバーラタ・リシャシュリンガ(鹿角物語)」が原典で、中国や朝鮮を経由し日本に渡来したものですが、歌舞伎では『鳴神』となりました。

天竺婆羅奈(テンジクバラナ)国(インド中部・ガンジス川流域)の帝王の臣下(ワキ)が「この国に、鹿の胎内から生まれ、額に角が一本生えている一角仙人(シテ)がいる」と名乗るところから始まります。サラリと語られる異常な状況、若い時分はあまり何も考えずにいましたが、演能にあたり、また馬齢を重ねてくると「鹿の胎内に宿り出生したる故に…」は、なんとも猥雑な世界を連想してしまいます。

原典では「天竺波羅那国の仙人が、鹿の夫婦が交尾するのを見て、つい興奮して、うっかり草の上に精液を洩らしてしまい、その草を食べたメス鹿が、鹿と人の混血児を孕んでしまった」とあり、なんとなくご愛敬でほほえましくもありますが、私はどうしてもいやらしい人獣性交を想像してしまいます。つまりこの一角仙人は特別な修行を積んだ神聖な仙人ではないので、そこをどのように演じるかが鍵になると思いました。

額に角がある仙人(シテ)をどのように見せるか?
昔、喜多流ではシテの黒頭に角を取り付けていました。そのため父や伯父の写真を見ても面には角がありません。近年、粟谷家では数面ある真角(しんかく)のうち一面を、額に穴を空けて角を付け加え、『一角仙人』専用にしました。父も能夫氏も使用してきましたが、この角は長さが10センチ程度のため、黒頭の場合、角が隠れてよく見えないのが弱点でした。仙人の象徴が目立たないのでは効果がないので、角を強調したスタイルができないかと考えていました。
それで、今回初めてバス鬘を試みました。はじめは、やや不安でしたが、楽屋で装束と鬘、そして面を付けてみると、角の長さがほどよく見えて、奇怪な仙人の雰囲気が発揮されたのではと思っています。ご来場の皆様はどのように思われたか、お聞きしたいと思います。


『一角仙人』は作物も登場人物も多く人手がいる曲目です。一畳台と岩に子方二人を隠して脇座に置きます。シテは萩屋の中に入り引廻を掛けて大小前に置かれます。この作業だけでも6名の働と2名の幕上げが必要です。ツレの旋陀夫人は臣下(ワキ)を引き連れ、輿舁(ワキツレ)2名を従えて登場しますが、この段階で舞台上には役者だけでも7名がいることになります。ほかに地謡、囃子方、後見と、なんとも大勢の人々が舞台の進行に携わっています。

今回、シテははじめての経験でしたが、今述べた、頭毛の他に、もうひとつ持ち物を工夫しました。通常はシテが唐団扇でツレは中啓を使用します。しかしシテが綺麗で優雅な唐団扇を持つのは似合わないと思いました。奇怪な仙人らしい厳ついデザインの物‥‥なにかそのようなものを持ちたいと思い、いつものように他流の方々に教えを乞いました。銕仙会の方から魔王団扇(まおううちわ)の存在を教えていただき、是非とも使用したいと、いつも御世話になっている観世銕之丞氏にお願いして拝借しました。
「それならばツレも唐団扇にした方がよい」と能夫氏のアドバイスもあり、ツレも中啓に替えて唐団扇を使うことにしました。

今回のツレに、私の教えている佐藤陽を、まだまだ未熟ですが、玄人は早く舞台に慣れ、本物に少しでも早く近づかなくてはいけないと思い、大抜擢いたしました。幸い粗相もなく真摯に勤めてくれたのがよかったと思っています。

この物語では、一角仙人が神通力で龍神を封じ込めたため、数年雨が降らないことから、これを何とかしようとして、帝が絶世の美女・旋陀夫人をつかわせ、その魅力で仙人の通力を失わせようという作戦を立てます。
『一角仙人』のメインは、夫人の魅力的な舞姿に仙人もいつしか誘い出され共に舞う、シテとツレの相舞です。仙人は誘い出され踊り出し、そのうち夫人に触りたくなる、触ろうとすると拒否される、そのような型どころもありますが、そこを坦々と演じるか、コミカルに演じるか、また艶っぽさを出して演じるか、演者の性格が出るところです。

私は一角仙人を勤めるにあたって、仙人が必死に誘惑に抵抗しているところが隠れないようにと、勤めました。
来るな! というのに来てしまう訪問者たちに、ではちょっと姿だけ、と現れ、酒は呑まない! と断るのに、お酌を受けないのも情けがないかな、と飲んでしまう。
見たこともない美しい女の舞に目を奪われ、しかしその自分に気が付き必死に平静を装い、己を取り戻そうとする、仙人の抵抗や揺れを見ていただきたいと思いました。
父は旋陀夫人が舞い出すとじっと追い続けて見ていましたが、私は、いやいやこんなことをしていてはと誘惑に負けまいとする一面も見せたいと思い、見続ける型をせずにいました。しかしそんな柔な決意を崩すのは、足拍子です。この相舞で、いつの間にか旋陀夫人のペースに乗せられてしまう仕掛けは足拍子にあると思います。
トントンと踏まれる音と、女の身体の動きに、完全に魅了され、仙人はもう自分自身を止められなくなり、夫人のお尻を追いかけて真似を始めます。
まずは、足拍子から、次第に見よう見まねで手も動かします。もう止まりません。ついつい夫人に触れようとします。なんとなく日常の人間界にもありそうなことを、この相舞から感じられるのは、私だけでしょうか?


父のツレをしたときに、シテが足拍子を踏んだら、「あらあら引っかかったわね。さあ付いていらっしゃい」という誘う気持ちで舞え、と教えられました。
今回、佐藤陽君にその事を伝えました。それが出来たかどうかは別として、ひとつの伝承が出来たことは事実です。

さて、この相舞の間中、子方は岩の中でじっと待っていなくてはいけません。
幼い龍神達(金子天晟君・友枝大風君)には辛抱の曲です。普通は、出番前ギリギリまで赤頭を付けずに岩の中にいますが、今回は、それぞれの父親の教育なのでしょうか、最初から赤頭をつけていましたので、辛抱と我慢の繰り返しが小さな龍神達を苦しめていたと思います。
そのようなストレスがあるからでしょうか。岩が割れ、鬱憤を発散するかの如く、二人のかわいい龍神達は、必死に教わった通りに動き回ってくれました。その健気な可愛い奮闘ぶりに、相手役の明生仙人も完全に負けてしまい、逃げだしました。


今回、ツレ佐藤陽、地謡の前列の一員として息子・粟谷尚生と、教え子たちと同じ舞台に立てたこと、そして彼らに舞台を勤めるうえでの指導が出来たことを喜んでいます。それでも、最後は子方達にお手柄を全部持っていかれた、明生仙人ですが・・・。
私ははじめ、この曲はシテの執心があるわけでもなく、遣り甲斐の少ない曲だな~と思っていましたが、勤め終えると、将来の能楽師たちと舞台を共に出来た喜びに満足し、それでいいと思う一方、そういうことを感じる年齢になってしまったか~と、やや複雑な心境になっています。
(平成23年3月6日 粟谷能の会にて 同年3月 記)
写真 1
一角仙人 シテ 粟谷明生 撮影 森英嗣
写真 2,3,4
一角仙人 シテ 粟谷明生 ツレ 佐藤 陽 子方 金子天晟 友枝大風 撮影  前島写真店

『鞍馬天狗』白頭を勤めて  ー豪快天狗に秘める同性愛ー投稿日:2011-02-20

『鞍馬天狗』白頭を勤めて
―豪快天狗に秘める同性愛―
粟谷 明生

能の『鞍馬天狗』といえば、花見のお稚児さんを真っ先に想像します。
ときは春爛漫。鞍馬山には東谷と西谷に坊舎があり、東谷の僧が預かっている稚児たちを花見の宴へ連れだします。舞台では、橋掛りに沙那王(子方)を先頭に平家の稚児たち(「花見」と呼ばれている)が登場します。この「花見」は、幼い能楽師の初舞台となることが多く、幼い子どもたちの登場は舞台を一瞬に華やかにしてくれます。今回は子方に内田貴成君(11歳)、花見には金子天晟君(8歳)、友枝大風君(7歳)、野村真之介君(6歳、野村万蔵次男)、宝生尚哉君(6歳・初舞台、宝生欣哉次男)、そして粟谷僚太君(5歳)と喜多流と三役のお子様が舞台に満開の桜を咲かせてくれました。

義経は悲劇の英雄として国民的な人気があります。能でも義経(幼名:牛若丸=沙那王)が登場する曲は数々あり、牛若丸時代のものに、鞍馬山の天狗に兵法を教わる『鞍馬天狗』、京の五条橋で弁慶を家来にする『橋弁慶』、盗賊の熊坂長範を討つ『烏帽子折』があり、いずれも子方が勤めます。義経時代の曲は『八島』『船弁慶』『安宅』『正尊』『摂待』など、いずれも人気曲です。能の義経はなぜか子方が勤めることが多く、大人が義経を演じるのは『八島』と『摂待』の二曲だけです。
今回、式能で勤めた『鞍馬天狗』は義経のもっとも幼少のときの話で、平治の乱で敗れた父・義朝の死後、鞍馬山に預けられ、平家の子どもたちと生きる境遇になった源氏の御曹司・沙那王の憂鬱、そこに現れた大天狗との交流をみずみずしく描いています。

さあ、話を舞台に戻しましょう。
花見の宴席で、西谷の能力が稚児たちに舞を見せているところに、山伏(前シテ)が割り込んでどっかりと座り、華やいだ雰囲気はたちまち一変し、不穏な趣きとなります。しかし、東谷の僧侶は、諍いを避け、平家の稚児を連れて東谷に戻ってしまいます。こういう設定ですから、「花見」が舞台にいるのは10分程度で、あっという間に退場してしまいます。まさに桜の花がぱっと散るようで、観客の心に残るのでしょう。

さて残った山伏と源氏の御曹司・沙那王。この場面転換がみごとです。大勢の花見の場面から、焦点を二人に絞り、ここからが『鞍馬天狗』の本題となります。お互いに寂しい独り身を哀れみ合い、山伏は沙那王に鞍馬山の奥の山道を案内し、愛宕山、比良や横川、吉野初瀬の桜まで見せます。遂に自分はこの鞍馬山に住む大天狗であると明かし、沙那王に源氏の頭領となって奢る平家を倒すときが来たら加勢すると約束して消えてしまいます。後場では大天狗(後シテ)となって登場し、兵法の奥義や武術を伝えます。

今回『鞍馬天狗』を勤めるに当たり、牛若丸に兵法を伝授した鞍馬山の天狗の正体は何かが気になりました。
天狗は一般的には、山伏や僧侶などの姿をして、鼻高く羽団扇を持ち、山中を自由に飛行して、通力を有する架空の超人・怪人と思われています。私は一時、過酷な修行をした山岳信仰の修験者達が天狗と錯覚されてきたのではないかと思っていましたが、天狗は、“人はみな死後、六道と呼ばれる六つの世界のどこかに生まれ変わる”という仏教の輪廻思想を否定し、自らの意志で天狗道という魔界に創り住むということですから、天狗は死後の存在となるので、私の説は成立しないようです。ゆえに天狗は架空の存在として、とりわけ能ではそのように鑑賞されたらよいかと思います。

しかしこの天狗にも、コレステロール同様、悪玉と善玉があります。
悪玉天狗は仏教に敵対する『是界』の是界坊や『大会』『車僧』などの愛宕山太郎坊で、いずれも威勢を張って高慢さを見せますが、最後は仏力に負け退散するユーモラスな天狗です。
それに対し『鞍馬天狗』の僧正坊は仏教と融和しながらも、牛若丸に武術・兵法を教え、源氏再興に力を貸すと約束する善玉天狗です。もっとも平家方からすれば、善玉ではないのかもしれませ
んが…。ではなぜ、能『鞍馬天狗』は善玉天狗なのでしょうか。ヒントは鞍馬山魔王大僧正影向図にありました。大僧正坊は鞍馬寺の本尊、多聞天の夜の姿であり、しかも天狗たちの総帥として描かれています。つまり鞍馬寺の天台信仰は天狗道とうまく融和合体された珍しいケースのようです。

以前は『鞍馬天狗』という曲は、時の権力への反抗、反政府精神、鞍馬寺天台信仰が基盤であると解釈していました。確かに大天狗の豪快さ、威風堂々とした強さが必要で、奢る平家など、権力に対する反骨精神はあります。
しかし、父からも、友枝昭世師からも、『鞍馬天狗』のシテは強さの中に柔らかみが必要で、子方とのやりとりに強さだけではないものが必要と注意されて来ました。はじめは理解出来ませんでしたが、今回、地謡の詞章を読み返しようやくその意味が判るようになりました。

『鞍馬天狗』は大人と子どもの同性愛が底流にあるのです。
その根拠は地謡の「御物笑ひの種蒔くや言の葉しげき恋草の、老いをな隔てそ垣穂の梅、さてこそ花の情けなれ、花に三春の約あり。人に一夜を馴れ初めて、後いかならんうちつけに心空に楢柴の、馴れはまさらで恋の増さらん悔しさよ」です。

「あなたへの恋心は世の物笑いですが、老いた私を嫌わないでね、美しい梅のようなあなた。それこそが花の情けなのですよ。花は毎年春がめぐってくれば同じように咲くけれど、人は一夜を共に過ごしたとしてもその後どうなってしまうかはわからない。ふとしたことがきっかけで心惹かれて、すっかりあなたにぽーっとなってしまって、あなたとの仲は一向に進展しないのに、恋しい気持ちは増すばかり、あ??それがつらい。こんなことならあなたと親しくならなければよかったのに」。

牛若を可憐な梅の花に見立て、「花は春がくるたびに咲くものだけれど、あなたの気持ちはそうとは限らない。こんなに苦しい思いをするなら」と、まあなんとも女々しい恋する乙女モード全開の山伏の気持ちが謡われていて、すっかり沙那王に惚れ込んでいます。
私が思っていた、天狗は源氏再興を目論む源氏方の残党、鞍馬寺の天台信仰を普及させるための宗教PRソング、そのような主旨のものではないようです。

少年に惚れ込んでしまったオジサンの弱みで、代償に兵法の奥義を教え、支援することになるのです。
当時、僧侶の童子への男色の話はさまざまに伝えられ、ありえない話ではありません。
現代のノーマルな男女間の愛の考えでは、到底理解出来ないことかもしれませんが、時を昔に持っていけば想像は可能です。演者は、そこを意識して、強さの中にも柔らかみが必要になります。しかし露骨に見せないのが能のよいところで、そこはかとなく演じる力量が問われます。
それが出来たかは別として、そのように思いました。

今回は白頭の小書付きでした。後シテは頭が白い毛となり、鹿背杖をついてどっしりと現れ、位も上がります。喜多流で白い毛の頭を使用する曲は、『鞍馬天狗』のほかに、『是界』『小鍛冶』『殺生石』『氷室』『鵺』などがありますが、普通は白頭になると面が替わります。

『小鍛冶』は「小飛出」から「泥飛出」になり、『殺生石』は「野干」に、『氷室』は「悪尉ベシミ」になります。
ところが、天狗物の『鞍馬天狗』と『是界』は面が替わらず、頭が白い毛になっても、赤頭の時の「大ベシミ」を使用するように伝書に書かれています。「大ベシミ」は大きな彫りの深い目も鼻も口も大きく、口をぎゅっと結んで睨みを利かせた形相の面です。

私はどうも、今回の『鞍馬天狗』「白頭」にはこの「大ベシミ」がアンバランスのようで気になりました。理屈っぽいことは言わず、力感を持って舞えばよい、という先輩の声も判りますが、白い毛に似合う面をと思い「悪尉ベシミ」をかけることにしました。

我が家には、二通りの「悪尉ベシミ」があります。
一つは通称「猫ベシミ」といわれるやや戯けた形相のもの、もう一つは、いかにも頑固で強靱な老人の迫力を感じさせるものです。
今回は、後者の年を経たお爺さん山伏天狗で勤めました。

能の天狗の扮装は、二通りあります。
まず直面(ひためん)の場合は『安宅』の弁慶同様の山伏姿となり、頭に兜巾を載せ、水衣に鈴掛をかけ、腰に小太刀を差して、右手に中啓、左手には数珠を持ち登場します。

面をつける場合は、頭に大兜巾を載せ、狩衣を着て、右手に羽団扇を持ち飛行していることを表します。狩衣の上に鈴掛を附けたり、鈴掛の代わりとして縷水衣を重ね着する「大鈴掛」という特殊な替えもあります。また掛絡を被る僧侶姿もありますが、今回は山伏姿を強調する「大鈴掛」で勤めました。

最後に薙刀の扱いにもふれておきます。
能でシテが薙刀を扱う曲は、喜多流では『巴』『船弁慶』『熊坂』の三曲です。子方が扱うものは『正尊』の静御前と『鞍馬天狗』の沙那王ですが、『鞍馬天狗』は子方の小さな薙刀をシテが受け取って使用する珍しい曲です。

薙刀扱いは、『巴』の巴御前は柔らかく女性らしく、『熊坂』の熊坂長範は荒々しく豪快に、『船弁慶』の平知盛はその両方を取り入れるとよい、と父から教えられて来ました。

「『鞍馬天狗』の大天狗はね。牛若に剣術を指南する気持ちで、このように扱うんだよ! とやさしく教えるようにするんだ。子方用の小さな薙刀をうまく扱うところがミソ」と教えてくれました。実際演じると狩衣の大きな袖が邪魔で思うようにスムーズに扱えず苦労しましたが、どうにか菊生天狗に教えてもらったような明生天狗になったでしょうか…。今も私の頭に残る父の言葉です。

『鞍馬天狗』は初舞台を踏む「花見」から、子方の牛若丸(沙那王)、年を経てシテの大天狗まで、長い能楽師人生の節目にふれる曲です。今回この曲を勤めた喜び、流儀内だけではなく、将来の能楽を担う子どもたちと一緒に舞台に立てたことが、頼もしく嬉しくもありました。

花見や子方を自分が勤め、その子が勤め、やがて孫が勤めと、まさに能は継承されていると実感させられ、演能後、もう気分は晴れやかで、二・三日大満足の明生天狗でありました。

(平成23年2月20日式能を勤めて 平成23年2月 記)

今回の『鞍馬天狗』シテ・粟谷明生の舞台写真の権利は、能楽協会が所有しているため、ホームページへの写真の投稿は控えさせて頂きました。ご理解ご了承下さい。

写真
鞍馬寺山門        撮影 粟谷明生
面「悪尉ベシミ」粟谷家蔵 撮影 粟谷明生

『鉢木』を勤めて 能の謡に芝居心を投稿日:2010-12-19

『鉢木』を勤めて
能の謡に芝居心を
粟谷明生


『鉢木』のシテ佐野源左衛門の年齢はどのくらいなのでしょう。「歳のほど四十ばかりなる男の…」と、後場のワキ北条時頼(前は旅僧)が家来に常世を捜し連れて来るよう命じることから、常世は当時40代ぐらいの武士だったと考えられます。但し人生五十年の時代の話ですので、今の年齢感覚では、40代は概ね70代位に相当するのではないでしょうか。

今回、喜多流自主公演(平成22年12月19日)で『鉢木』を勤めました。
私が今55歳ですから、深い情味を感じさせる常世を演じるには、少し早すぎた感もあります。たぶんご覧なられた方々の想像された常世は、もっと老いた、枯れた能役者常世であってほしいと思われたことでしょう。

私の常世像は、零落しても誇りを捨てない男気ある田舎武者です。真面目で忠誠心が強く、ただ少し頑固で気の利かない野暮なところもあるように思えます。
演じ手としては、そのあたりの雰囲気が演じられればいいのでしょう。
昔、拝見した先人たちの数々の『鉢木』の名舞台。肉体的には衰えがあっても、何とも言えない気骨溢れる田舎武士を目の当たりにしたように覚えています。

『鉢木』は通常の歌舞の能と違い、芝居的な要素が色濃い能です。前シテは『望月』と同様に台詞が多く、会話や独白を謡い分ける技法を持たないと、この芝居がかった能を楽しんでいただくことは出来ないと思います。演者が芝居心を持って勤めないといけないのです。しかし、紛らわしい多量の台詞を感情を込めて、背景が想像出来るように謡うのは難しいことです。芝居っぽくなり過ぎて能のテリトリーを越えてしまっても、また能という形式に甘んじて、ただ声を発している程度では能『鉢木』になりません。「下手未熟は慎め」との伝書の言葉が重く響いています。

では舞台進行に合わせて進めます。
常世の妻(シテツレ)が地謡前に下居すると、信濃から鎌倉に上る旅僧(前ワキ、実は最明寺北条時頼)が次第で登場します。信濃から軽井沢を経て佐野に到着する道行の謡が聞かせどころです。大雪のため一夜の宿を頼みますが、妻は主の帰宅まで返答出来ないと主を待ちます。



シテはなにもなく一の松前にて立ち、空を見上げて「あ?降ったる雪かな」と謡い出します。父は「フッ??タル」の「ッ」から「タ」の延ばし方で、雪の積もり具合を想像させるのだ、と言っていました。
続く「さぞ世にある人の酒飲うで面白からん」は観世流にはありませんが、武張った喜多流らしい詞章で、呑兵衛の私はこの句が好きです。
「今日の寒さをいかにせん」と両袖を合わせて、寒さに震える型をして舞台に入りますが、「寒さ」や「雪」の言葉から常世のひもじさを伝えたいところです。


家に戻ると妻が家の外で待っています。旅僧の依頼を伝えると、ワキが登場して問答となりますが、常世は終始ぶっきらぼうに対応し、家の中は見苦しく、夫婦二人で暮らすのも苦労しているからと、依頼を断ります。
ここの謡い方は、ワキのじっくりに対して、坦々とややサラリと謡うのがいいようです。断られた旅僧はまた雪の道を歩いて行きますが、それを見た常世の妻は、無碍に断る薄情を嘆き、宿を貸すことを薦めます。
このツレの謡が大事で、力量が試されるところです。雪の日に外で立って待っている貞淑さを、凜として綺麗な立ち姿で見せるのも、このツレの役目です。
今回、狩野了一氏が期待通りに好演して下さって感謝しています。

妻の説得に、常世は雪の中、旅僧を呼び止めに出かけます。
「のう、のう旅人お宿参らしょう、のう」との呼掛は『山姥』にも似ています。距離感を感じさせる謡い方は、最初に「ん」の字をつけて「ん?のう、ん?のう」と発音します。「あまりの大雪にて呼ばわる声も聞こえぬげに候」と間を置いて、気持ちを内へとり、独白のように謡います。決して単調な謡では表現出来ないところです。

旅僧に追いついて宿を貸し、粟飯を振る舞うと、いよいよ寒さのため秘蔵の鉢木で焚き火をする、「薪の段」となります。
梅、桜と枝を切り取る型は伝書には「刀にて」とあります。この刀は太刀ではなく、小柄(こづか)といわれる太刀の鞘の鯉口の部分に差し添えた小刀の柄のことです。当初は伝書通りにと思いましたが、生憎小柄付きの小太刀が無く、実際舞台では、小柄が小さく、何を手にしているのかがよく判らないという欠点もあり、扇での替えの型でやりました。



さて、暖をとった旅僧は常世に「主のご苗字は?」と聞きますが、はじめは名を明かそうとしません。しかしついに佐野源左衛門常世と明かします。
苗字の佐野姓は栃木県の佐野と考えられますが、常世の家は高崎市の佐野です。後日、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松枝と点在した領地を拝領しますが、こんなに離れた三ヶ庄を貰っても困るのではないかと思います。ある説では、日本海側新潟県に佐野という地名があり、その近くに梅田、桜井、松枝があるので、そちらの話だとも言われています。しかし所詮後人の作成したフィクションですので、あまり追求することもないと思い、ここでやめておきます。

名を明かした常世は、一族に領地を横領され零落しているが、鎌倉に一大事あれば、千切れた具足を取って錆びた薙刀を持ち、痩せた馬に乗り、馳せ参じる、と熱く語り始めます。ここが山場で、シテの聞かせどころでもあります。はじめはゆっくりと、次第に速く、声を張り上げ、袖を脱いで型どころとなります。敵の中に一番に割って入り、命を捨てる覚悟があるが、このままでは餓えで死ぬかもしれないのがなんとも無念だと悔しがります。

一夜明けるとその興奮も醒め、旅僧は「鎌倉に来ることがあれば、訪ねて下さい、幕府に取り計らいましょう」と慰めて立ち去ります。
この別れの場面のロンギの謡は、泊まった旅僧と泊めた夫婦の心情を交互に謡い合う情緒的なところです。今回気になって心残りの場面があります。
ワキの「さらばよ常世」に対して、シテとシテツレが「またお入り」と答え、その後「自然鎌倉にお上りあらばお尋ねあれ、興がる法師なり…」とワキは歩き始めますが、ここは意味あいを考えると、「自然鎌倉にお上りあらばお尋ねあれ」と動かずにじっくりと常世を見つめていてほしく、「興がる法師なり」から動いていただきたいところです。しかし、なかなか大先輩(宝生閑氏)には申し上げにくいので、今回は遠慮しましたが、今後も気になるところとなっています。


前場の最後の見せ場、ワキが「ご沙汰捨てさせたもうなよ」と一足つめて右手を差し出すと、常世はなんとも言えぬ威風を感じ、思わず頭を垂れて、敬意を払います。実際に私は能役者・宝生閑先生の威風を感じ自然と頭が下がってしまいました。そして「共に名残や惜しむらん」と常世夫婦は旅僧を見送り中入りとなります。

中入りするとワキは前場の旅僧から後場の北条時頼に装束を替えて、家来を連れて登場します。場面はもう鎌倉です。
春になり全国の武家に鎌倉への招集がかかり、常世も約束通り痩せ馬に乗って駆けつけます。北条時頼は家来二階堂何某に軍勢の中から常世を捜し出すように命じます。


後シテは白大口袴に側次、白鉢巻きに薙刀を肩に背負い、颯爽と早笛で登場します。侍烏帽子に掛素袍の替えもあるようですが、自主公演でもあり、無難に常の通りにしました。

痩せ馬に乗り、「打てどもあふれども、先へは進まぬ足弱車、乗り力なければ、追いかけたり」と薙刀を馬に見立て、鞭で右腰を叩きながら舞台に入りますが、「乗り力なければ、追いかけたり」の詞章の意味合いからすると、馬に乗った型はおかしいのではないかという意見がありました。
確かにそうだと思いましたが、能には詞章と型がちぐはぐなところがあってもいいのではないか、馬から降りて馬を引きずりながらはせ参じる型では、見る方もつまらないだろうと思っていました。しかし、その後、観世流の野村四郎先生のご意見で、「あそこは鞭を捨てたところからが下馬を意味するので、鞭を当てながらの型はおかしくない」とのことでした。なるほどそれなら問題はないと納得し安心しました。ただ型を鵜呑みにするのではなく、詞章と合わない型なら疑問を持ち考える、それは大事な作業です。今回。それが解明できたのは演能後でしたが、疑問が晴れてよかったと思っています。


さて鎌倉につくと、従者(アイ)に御前に出るようにと呼び出されます。はじめは自分のことではないと断りますが、敵人と思われ首を切られるのも仕方がないと諦め、御前に出ると、いつぞや泊めた旅僧が最明寺北条時頼だったことを知り驚かされます。時頼は常世が言葉通り一番に鎌倉入りしたことを褒め、宿を貸し、鉢木を切り焚き火をしてくれた礼にと、梅、桜、松に因んで梅田、桜井、松枝(松井田)の三ヶ庄を褒美にとらせます。常世は気持ち晴れやかに華々しく上野国に帰ります。

『鉢木』は「水戸黄門」に似ています。
偉い方が身を隠して諸国を巡り、悪を退治し、正義が勝つ、毎回同じような物語なのに、日本人が飽きずに見るのは、どうもこういうものを好む民族のようです。
戦前はこのような忠誠、忠義物は時の政府に喜ばれたようですが、最近は『鉢木』の話をしてもわからない学生さんが多くなってきました。
忠義忠誠は悪くはありませんが、能役者として本音を言わせて頂ければ、単なる目出度し、目出度しのハッピーエンドの話は、能としての深みが正直あまり感じられず、少々物足りない面があります。
叶わぬ恋慕を扱う『野宮』の六条御息所、『松風』姉妹の松風と村雨、権力者から迫害を受けた先住民たちの叫びを描く『野守』の鬼神や『大江山』の酒呑童子、修羅道に苦しむ源平の武士たちなど、女物でも男物でも、鬼でも武者でも、そういうものには能の深さがあります。それは負けた者たちの心意気を演じるからでしょうか。
『鉢木』はそういう能とは本質的に違う能なのでしょう。常世という田舎武士の泥臭さと気骨、これを晴れやかにスカッと演じきることが肝要で、これが言うは易く、しかしなかなか難儀なものだと感じているところです。
(平成22年12月 記)

写真 『鉢木』 シテ 粟谷明生

撮影者 石田裕 

撮影者 前島写真店 川辺絢哉 

『檜垣』を謡い終えて ー研究公演で地謡の充実を目指し、老女物を再考するー投稿日:2010-12-02

『檜垣』を謡い終えて
?研究公演で地謡の充実を目指し、老女物を再考する?
粟谷明生

能のシテを勤めることはシテ方能楽師の名誉であり喜びで、いつもシテでありたいと思っています。しかしシテだけでは能は成立しませんし、シテが良ければよい能になるかというと、そうではありません。
本当によい能は、シテの演技もさることながら、周りの役者によって、より豊かになります。三役や後見、特に地謡陣の強力な援助態勢は必須で、シテ方は、よいシテ役者を目指す一方、よい地謡が謡える人材にならなければいけません。

粟谷能の会の研究公演は地謡の充実をはかるために、『求塚』や『木賊』など、友枝昭世師をシテにお招きして研鑽して来ましたが、今回(平成22年12月2日 於:国立能楽堂)も友枝師にシテをお願いして『檜垣』に挑戦しました。

敢えてシテをしないで地謡を謡う会を企画することは希有なことです。
「出来る限りシテを勤める機会を作れ…」と教えてくれた父ですが、「能の善し悪しは地謡で決まる。地謡が大事だから地謡を考えろ」も父の口癖でした。

優れたシテ方とは、作品を理解して地謡を謡えなければいけませんが、そのためにはどうしたらよいのでしょうか。
今まで考えて来ましたが、結論は、よい能を観て刺激を受け、その能の地謡を謡えるように志し、そしていつの日かシテが勤められるチャンスを待ち、チャンスが到来したら地謡の経験を生かし勤める。そしてまたシテの心持ちを活かし地謡を謡う。この円環のような繰り返しではないかと思います。
地謡を謡えるようになる事と、シテを勤めることは一対一体で、シテ方能役者の底力とはこの作業をしたか、しないかにかかっていると思います。

さて、『檜垣』は老女物と言われ、能楽師にとっては最高位の曲です。
喜多流の老女物は『卒都婆小町』と『鸚鵡小町』、それに三老女と呼ばれる『伯母捨』『檜垣』『関寺小町』があります。『関寺小町』は理由が有り止曲となっているので、実際には『伯母捨』『檜垣』が最高位と崇められています。

『伯母捨』は父粟谷菊生が平成6年10月粟谷能の会で180年ぶりに再演し、続いて大島久見氏、そして友枝昭世師が二度演られています。『檜垣』も昭和62年に友枝喜久夫氏が120年ぶりに演じ、以来、今回の友枝昭世氏が24年ぶりの再演となりました。

昭和初期まで喜多流の老女物は、大事にし過ぎて高い神棚の奥にしまい込まれていましたが、近年、老女物を手がける方々が多くなり、現場の我々も身近に感じるようになり手の届く曲までに下りてきました。
「喜多流の『伯母捨』や『檜垣』はどうなの?」と尋ねられて、昔は「観たことないので知りません」としか返事が出来なかったのは、なんとも恥ずかしかったことでしょう。

『檜垣』は比較的動く型が少ないので、謡に重きが置かれます。
前回の友枝喜久夫氏がシテの『檜垣』は、父が地頭で、NHKで録音し後日放送されたので、まずそのテープを聞いてみました。ところが父の声があまり聞こえて来ません。ややがっかりして、これは自分たちなりの謡を創り上げるしかないと思いました。
実は演能後、友枝昭世氏より「稽古は菊生先生の謡でやってきたから…」と言われ、「え、父の謡が聞こえますか? NHKテープでは父の謡がよく聞こえず、あの時は不調だったのかな、と思いましたが」と答えると、「ビデオを聞いてご覧。菊生先生らしい謡が聞こえてくるから」と。後日ビデオテープを拝借すると、なるほど父の張りのある声がよく聞こえて来ました。NHKの録音は、どうも地謡の音を平均化してしまうようです。しかし、その事実がわかったのは演能後のこと、時すでに遅かったのですが…。

では今回の『檜垣』で新たに取り入れたことを順を追って具体的に記していきます。

二の同(二つ目の同音)の「理を論ぜざる、いつを限る習ぞや」「老少といっぱ分別なし替わるを以て期とせり」の間に打切(うちきり)を入れて、この部分の主張をより強調するようにしました。

次第は通常、同じ和歌を二度繰り返し、その後に地取(ぢとり)となりますが、『檜垣』は「釣瓶の水に影落ちて袂を月や上るらん」と一句しか謡わないので、序に移行する間(ま)が空かないために、地取りを無しにしました。

老女物には約束事が沢山あり、特に囃子方には、それぞれの流儀の主張、特有の手組があります。クセの冒頭「釣瓶の掛け縄、繰り返し憂き古を・・・」も各流大小鼓の手組は違います。
今回は大鼓・高安流(国川純氏)、小鼓・大倉流(鵜澤洋太郎氏)の組み合わせでしたので、当初、後見をされた大倉流宗家の大倉源次郎氏から、高安流とは手組がうまく咬み合うから、出来れば大倉流本来の手組を打たせてほしいと要望されました。しかし私はどうしても前回(大鼓・柿原崇志氏)の時のように、大鼓の独調で謡に鋭く刻み込む大鼓特有の音色、あの緊張感を再現したく、小鼓方には申し訳なかったのですが、鵜澤洋太郎氏にお願いして、今回はクセの冒頭の手組を遠慮して戴きました。
具体的には「つ△ る△ 瓶の掛△ け縄、繰△ーり△ 返し憂△き」(△は大鼓の打つ所)と大鼓の国川純氏の打ち込む気迫と大鼓の音色、それに応えて地謡陣も負けじと気迫を込めて謡います。正に一調二機三声であり、その緊張感が、シテの写実的な動きを盛り上げると、信じています。

クセは動きが少なく、本来、上羽後は下居のまま動かない型附けですが、地謡としては動かない居クセより、シテの動きがあった方が張って謡えるのでテンションも上がります。今回は友枝氏に特別にお願いして、少し舞って頂くことにしました。

少し脱線しますが、私の謡の暗記法は、型と照らし合わせ覚える方法です。
型が無い場合は仕方がありませんので諦めますが、型があるのに詞章だけ丸覚えするのはどうも苦手です。そのため下申合前から、シテの友枝昭世氏にどのような動きをされるのかを細かくお聞きし、私なりの意見も述べさせて頂きました。

一曲の最後、いよいよ最終場面は残りトメ(謡が終わったあとに囃子方だけが、演奏するやり方)が普通ですが、今回は友枝昭世氏から敢えて、残りトメはせずに「罪を助けてたび給え」と地謡で謡い切ってほしい、との御要望で試みてみました。

以上がおおまかな改善点です。その他、細かなところがたくさんありますが、ここでは割愛させていただきます。
いろいろと自由に試み、身勝手が言えた研究公演でしたが、次回の大きなステップになったと自負しています。

演能後、「おシテのお姿は美しく魅了されました。ただ…、あのように微動だにしない強靱な足腰とご立派な姿勢から100歳に近いお婆さんを想像するのは…どうでしょうか?」と感想を述べられた方がいらっしゃいました。
それに対する私のお返事をこの演能レポートのまとめとして記載します。

父・菊生より以前の時代の老女物を勤められた方々は、老女物を大切にし過ぎる風潮があったからか、手が届かない曲、到底許されない曲と思い込んでおられたのではないでしょうか。
運良く勤める機会を得られた方々も、それ相当のお歳を経てのチャンス到来であって、その舞台は本当にお身体が老いていて・・・、とういうのが悲しい事実です。
それが効を奏したのか判りませんが、生な老いの動きは、観客にまさに老女物とはこのような無惨なものと写った、と推察します。
しかし、それが老女を演じる能、老女物とはそのようなものかというと、私は違うと思います。

老いた身体で老いを演じるのはリアル過ぎます。それでは能という虚構を演じる演劇ではなくなります。老女物だから背中が丸まってもいい、よたよたとあぶない足どりも許せる、聞こえないか細い声であっても、それが老女物だからいいというような考え方は間違っていると思います。
大声を出して、老いをまるっきり感じさせない無神経な所作は論外で、もちろん能は老いを演じる心がなくてはいけません。しかし、老女物であっても声は見所のすみまで聞こえ、能役者の姿勢はほどよく背筋が伸びて凜としたものでなければいけないと思います。
以上述べた全ての理想を兼ね備えていたのが、今回の友枝昭世師の『檜垣』であったのです。そのようにお答えしました。

最後に自戒を込めて能楽師の陥る落とし穴を書き留めます。
何故そのような老いのとらえ方になるのでしょうか?
私はこう思います。
若い時分の稽古能などは、みな初めての経験ですから、必ず位が重くなります。つまりゆっくりになります。丁寧に慎重に謡い、動くことで時間が掛かります。彼ら、いや私もそうでしたが、「軽い!」と怒鳴られるより「重い!」と叱られた方がまだマシだと考えるからです。
しかし馬鹿丁寧な謡や舞は曲本来の位では無いことがほとんどです。
適度な適正な位を習得することが大事なのですが、指導者も、早く進めたときは軽いときつく怒り、馬鹿丁寧の場合は、まあ大人になれば直るでしょうと妙な寛大さを示します。だからどうしても丁寧、慎重になって、必要以上に重くなってしまいます。この若い能楽師たちが陥る現象と、老女物に取り組む大人の能楽師の心境とたいして違わない、重なっていると思います。

今回の『檜垣』に向けて、6月から地謡の稽古を重ねて来ましたが、その時の録音を聞くと、最初はただゆっくり慎重だったものが、段々と位取りもやや軽やかに変わって来ました。繰り返すことによって、真の軽さが生まれることを体感出来ました。

喜多流のこれからの老女物への意識、課題は、もっともっと慣れることです。経験と慣れによって、ほどよいノリと位どりを習得しなくては玄人とは言えないでしょう。
老女物を大事にし過ぎるあまり、老いたから出来るという、年齢で演能の資格を計る考えを改めて、能に生きてきた経験と技術をもとに判断する、そのような意識が増えることを望みます。

研究公演で『檜垣』を24年ぶりに再演でき、この秘曲を次の世代に継承することができました。能という長い歴史の中で、今生きる能楽師として、一つの責任を果たしたと満足感と幸せを感じています。同時に地謡の充実をテーマにすることで、地謡に光を当て、老女物の地謡に真摯に取り組むことができたことを喜んでいます。

研究公演『檜垣』出演者
シテ 友枝昭世
ワキ 森 常好
アイ 山本東次郎
笛  一噌仙幸
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 国川 純
後見 内田安信
後見 中村邦生
後見 友枝雄人
地頭 粟谷能夫
副地 出雲康雅
地謡 粟谷明生
地謡 長島 茂
地謡 狩野了一
地謡 金子敬一郎
地謡 内田成信
地謡 大島輝久

                    (平成22年12月 記)

那須野ヶ原の謡蹟めぐり投稿日:2010-10-16

平成22年4月28日、那須野ヶ原、遊行柳、那須湯本の殺生石と、
能『殺生石』『遊行柳』『八島』にゆかりのある謡蹟を写真探訪して来ました。
那須塩原駅からタクシーを利用して、黒羽街道の道の駅、那須与一の郷・与一伝承館で、訪れる謡蹟の場所を確認してもらい、4時間で周りました。殺生石に到着したのは1時半でした。
生憎の雨天で撮影が思うようにいきませんでしたが、写真をご覧下さい。

那須神社 別名 金丸八幡(場所 大田原市南金丸 那須与一伝承館裏)
近衛天皇の御代、三浦上総介義澄が那須野の妖狐を退治したとき、この社に祈願し、容易く射止めることが出来たので、その弓を奉納したところ。また那須与一宗隆が八島の合戦において扇の的を射る時に、八幡大神湯泉大神を中心に念じ名声を天下に広めたので有名。

犬追物の馬場跡(場所 那須郡黒羽町蜂巣)くらしの館と玉藻前神社の間、道路際 三浦介、上総介達はここで犬を狐に見立て狩りの稽古をしたといいます。

看板の記載
犬追の詳細が書かれています。

玉藻前稲荷神社(場所 那須郡黒羽町蜂巣) 玉藻の前は鳥羽院に仕えた才色兼備な女性で帝のお気に入りでしたが、実は化生の者だったのです。正体を見破られ那須野に逃げますが、ここで殺されてしまいます。玉藻前稲荷神社はその霊魂を祀っています。なんとなく不気味な雰囲気が漂う神社でした。

玉藻の前の祠
池の上に小さな祠が祀られています。

鏡が池の説明
水に映る獲物を見つける話は能『野守』にもあります。野守の翁は水に映る鷹を見つけ、御狩りで鷹を見失った帝に、木の上にいると教えます。

鏡が池
雨が降っていたこともあって水量が多く、これなら蝉の姿に変えた妖狐が見つかりそうです。


狛犬ではなく狛狐? 口に巻物をくわえていました。

狐塚(場所 那須郡黒羽町蜂巣篠原)
玉藻前神社近く、県道との交差点際 意外と歴史は浅く、昭和21年に作られたものでした。

狐塚の大きさを見る
高さ40センチほどの小さな石碑のため探すのに一苦労しました。

遊行柳遠景(場所 芦野)
294号線近く 桜がまだ少し残っていて、春も暮れの景色です。

遊行柳遠景
柳は広い田んぼの中にあります。 遊行柳の初同「道のべに清水流るる柳陰」を思わず口ずさんでしまいました。

遊行柳近景
柳は鳥居の左右にありますが、幹が石垣で囲まれているのは右の柳です。 入り口から入り、鳥居をくぐって振り返り撮影しています。

謡蹟保存会立て札
石垣のない柳のほうの隣に立て札はあります。

殺生石(場所 那須湯本温泉)
硫黄の匂いがきつく、昔は湯煙をたてていたらしいですが、今回は出ていませんでした。

二つに割れている殺生石
注連縄が張られた殺生石。玉藻の前は京の都から那須野へ飛んで逃げますが殺されてしまいます。しかし最後はこの石魂となったと言われています。 玄翁僧都がこの石を二つに割ったので、トンカチを玄翁(げんのう)と大工さん達はいいます。

『白是界』について  負ける天狗として再演出投稿日:2010-10-10

『白是界』について
?負ける天狗として再演出? 

粟谷 明生



(1)
喜多流には曲名の頭に白や青などを付けて曲の位を上げることがあります。
白は『白是界』の他に、『白田村』『白翁』(白式とも)があり、珍しいものでは青を付ける『青野守』があります。いずれも曲の内容は変わらず、装束や面が常と変わり、謡も省略や緩急がついて面白さが増す特別演出となります。

能の天狗物は仏法の味方とそうでないものと、二つに分けられます。
仏法の味方となるのは『鞍馬天狗』一曲、源義経が沙那王と呼ばれた幼少時代に将来平家追討に助力を約束する天狗で、仏法の敵ではありません。
しかしその他の天狗物(『大会』『車僧』『是界』など)は仏敵として現れ、最後は仏力に祈伏され逃げ去るのが、お決まりの筋書きとなっています。
『是界』も然り、日本の神仏力の礼讃が主題で、天狗は悪役で書かれています。もっともそのような仏法の宣伝歌になっているのは、天台から作者への依頼であったのかもしれません。




(2)
今回、『白是界』(粟谷能の会・平成22年10月10日)を勤めるに当たって、先人たちが手がけられた演出を更に奥深く探求したいと思いました。
実は喜多流には『白是界』の正規な伝書は残っていません。現行の型付は、十四世喜多六平太宗家の考案で、それを継承した先人たちの書き留めたものがあるだけです。
現行の演出は、後シテが頭はもとより装束や羽団扇の持ち物の類いまで全てが白一色になり、大水晶数珠を片手に、よりどっしりとズカッー、ズカッーと大股で運び(歩行)、重量感を出し、天狗の存在感をより強調する特別演出です。それはそれで効果がありますが、反面謡われている内容とのギャップを感じる型がいくつかあり、稽古をしていくうちに、現行の『白是界』が作品の主旨(本意)から少し離れているように思えてきました。先人からお叱りを受けるかもしれませんが、私はどうしても、これまでの『白是界』は作品の主旨に従うというより、ただ面や装束類の色を替え、謡と囃子のノリを押さえることだけで済ませて来たように思えるのです。
謡われている内容とのギャップをどう埋めるか、『是界』という曲が何を言いたいのか? 特別に変化をつける『白是界』のねらいがどこにあるのか? それを見つけることが肝心だと思いました。
そこで、まず、そもそも天狗とはなにか? 是界坊はどうしたのか? 再度確認する作業からはじめ、自分なりの『白是界』を考案したいと思いました。

では舞台進行に合わせて今回替えたところをご紹介します。




(3)
通常、前場の是界坊(シテ)と太郎坊(シテツレ)の扮装は、『安宅』の弁慶(シテ)や『黒塚』の阿闍利(ワキ)と同じ直面(ひためん)の山伏姿です。
しかしこの扮装では、天狗という異界からの侵入者・悪(ワル)の印象が弱く、物足りません。
天狗というと、頭に兜巾を載せ、鈴掛姿に袈裟を付け背中に翼を付けて、団扇を持ち、一本刃の高下駄を履き、鼻は高く赤ら顔で、髪も大童姿、空を易々と飛ぶ山伏姿を想像します。これは中世以降の鼻高天狗と言われるものです。




(4)
『是界』の原典となる鎌倉時代の『是害坊絵巻』には、鼻が嘴のように尖っている「木ノ葉天狗」「烏天狗」といった、もっと以前の鳥類天狗が描かれています。今回はその嘴の形象を面「鷲鼻悪尉」にて表現しようと考えました。ツレは逆に鼻を意識させないながらも、異界の者を感じさせる「真角」を選びました。頭はシテが黒頭、ツレがバス頭を使用して、唐と日本の違いを出してみました。終わって写真を見ると、シテがバス頭の方がよかったかとも思えました。




(5)
『是界』と『白是界』の詞章の違いは、前場のシテの言葉の「案内申し候」を「案内申そう」、「是界坊にて候が」が「是界坊なるが」の二句が替わるだけです。
『白是界』では省略されることが多い前場のクセは、是界坊たち天狗が、不動明王の威力を怖れ、悪と知りつつ抜け出せない身を悲嘆する心情、戦わずして敗北が語られ、明らかに仏法礼讃の詞章です。
今回は、クセの省略だけでなく、不動明王賛美の序もサシもすべて割愛することにしました。天狗の弱音をはく個所を出来る限り除き、前場の是界坊たちの奮起がより前面に出るように、そして唐から日本に、愛宕山から比叡山にと、スピーディーな場面展開の面白さを観ていただきたく演出しました。




(6)
ここでちょっと、前場にしか登場しない太郎坊の話をさせていただきます。
「神国日本の仏界を攻めるには、まず比叡山だ! いざ一緒に比叡山に!」
と是界坊にけしかけた太郎坊ですが、その後の太郎坊の動向が気になります。
私も若い時分に、このツレを勤め、「何故、太郎坊は後半に登場して加勢しないのか? 太郎坊はどうしたのか?」と装束を脱ぎながら、疑問でした。
答えは、太郎坊が是界坊を裏切ったからとされています。
では何故、裏切ったのか? ここに面白い説がありますのでご紹介します。

『車僧』のシテは太郎坊です。太郎坊は車僧と禅問答で負け、天狗の姿となって行力競べをしますが、やはり遂に敗北し、合掌して逃げ去ります。
つまり太郎坊は一度天台の僧に懲らしめられ痛い目にあった経緯があります。
『是界』では、「蟷螂が斧とかや(カマキリが大きな車を止めようとする)、猿猴が月(猿が水に写った月を掬おうとする)に相同じ」と、所詮天台に勝つのはむずかいしいと、苦言を呈しています。
しかしそんな太郎坊ですが、是界坊は遙々唐から飛んで来た中国の天狗だから、まあお手並み拝見、一度挑んでみては? と考えた…。これが太郎坊の内心、立場と思われます。一緒に戦う気など毛頭なかったのです。だから後半に登場せず、加勢もしないわけです。

この度、息子の尚生に太郎坊を勤めさせました。
尚生はひととき舞台から離れていましたが、近年また舞台への意欲が伺えるようになったので、楽屋働きと同時に演能機会を与えることも、親であり指導者の勤めだと思い配役しました。

普通ならばツレは直面姿ですが、面をつけての初ツレ役はプレッシャーも強くあったと思います。実は息子の使用した「真角」ですが、喜多七太夫古能の花押が入った是閑打の名品です。本来ならば未熟な若者が使用するべき面ではありません。未熟者にはそれ相応の面を、これが然るべき姿です。ただ私のこだわりとして、粟谷能の会という場、そしてこれから粟谷家を背負っていくべき者には、可能であれば出来る限り本物に触れる大切さを知ってほしい、本物が似合う役者になってほしい、との願いがあります。

舞台前に緊張する息子と面に当て物をつけながら、是閑打、云々の話は敢えてしませんでした。終演後、話して聞かすと、「そんなすごいもの付けてよかったの?」と言うので、「能夫さんによく礼を言っておきなさい」と答えておきました。こんな楽屋裏の話ですが、これからの能役者の成長を見守っていただきたく、ここに記しました。私自身も同じように、周りの皆様からあたたかく見守られここまで来ました。それと同じことをしているだけなのです。




(7)

話を戻します。

『白是界』の後シテの面は、『是界』の「大ベシミ」から「悪尉ベシミ」に替わります。粟谷家には諸先輩方が愛用してきた「悪尉ベシミ」があります。
他人の言うことなど聞かない自己顕示欲の強い頑固な形相の、力強さが漲っている年老いた顔つきです。




(8)
当初、先人にならいこれを使う予定でしたが、稽古するうちにふと、「私が想像する『白是界』の天狗には似合わないのでは…」と思うようになりました。
もしかするとこの面の魔力が原因で演者や、そして観客までもが、『白是界』を見間違えているのではないか、と…。
『鞍馬天狗』ならば、いかにも強そうで福たけた表情が牛若丸を厳しく指導する姿に似合いますが、負ける『是界』の天狗にはどうも相応しくない、というのが私の判断です。
負ける天狗にはどこか愛嬌があって、間が抜けたようなユーモラスさが必要です。そこで別の「悪尉ベシミ」、通称「猫ベシミ」と呼ばれるものに替えることにしました。




(9)
終演後、「いささか、漫画チック」と評されましたが、それこそ私の狙いであって、実は内心ほくそ笑んでいるのです。

後シテの装束は白一色となり、小書「白頭」は鹿背杖をついて登場しますが、『白是界』は杖の代わりに左手に数珠を持ち、常に胸に当てています。

はじめ、この構えは不動明王を模しているもの、と解釈していましたが、友枝昭世師より、友枝喜久夫先生の書付けにある「左手常に胸に、これ如意の如し、肝要なり」との心得を教えていただき、私の『白是界』の発想の基となりました。如意とは「意のままに、なんでも自分が正しい、自分の思い通りに」と自己中心の信念で、その信仰心を、左手で数珠を強く握りしめ、胸(心)に当てる格好で表現します。『白是界』は、ほとんどこの構えで通すため、意外とバランスを崩しやすくなるのが、演じる時の注意点だと知りました。




(10)
今回の新工夫は後半に並びます。まず通常の舞働を『紅葉狩』や『船弁慶』などのワキへの威嚇と見える型に替え、静の僧正と、動の是界坊が対比してご覧いただければと考えました。結果はやはり従来通りの、是界坊と不動明王や諸々の神々との対決をシテの立ち回りだけで見せる型附の方が良かったように思えてきました。




(11)
また、普通は「翼も地に落ち…」と組落の型で飛行から落ちた、と見せますが羽団扇は最後まで持ち続けます。今回は、羽団扇を捨てた方が、飛行能力が衰えた、と想像し易いと思い落とし捨ててみました。
また地謡も終始ただゆったりと重く強く謡っているだけでは天狗の慌てる滑稽さが見られず、逆に単調で飽きてしまいます。
そこで今回は「力も槻弓の八島の波の」から位を早め、慌てて逃げ去る光景に合う謡にしてもらいました。
そして『白是界』のクライマックス、是界坊はまた立ち戻り、遂に数珠を投げ捨ててしまいます。先人は皆、本舞台に入り、ワキの前に、「今回は帰ることにするが…」と偉そうにポイッと捨てるようにしています。これが心得と聞かされてきました。天台の僧に完全に負けていながらも、まだ相手を小馬鹿にして見下す風格が『白是界』には必要だと…。

しかし、それでは「飛行の翼も地に落ち、力も槻弓の八島の波の立ち去ると見えしが、また飛び来たり、さるにても、かほどに妙なる仏力、神力、今より後は来るまじと、云う声ばかり虚空に残り…」の敗北退散の詞章にそぐいません。
『是界』の作者は竹田法印宗盛という室町御所の医師ですが、書かれた戯曲は国粋主義の神国、仏国、天台宗の賛美で終始しています。
それが良いとか、悪いとかは別として、演者は書かれた台本を忠実に、充分に読み取って演じる、そう信じます。ですから、現実の負けを認めないような、是界坊のとらえ方には同意出来ず、そうはしたくないと思いました。




(12)

是界坊は負け天狗で悪役です。天台の賛美が根底になくてはいけないのです。
ですから、私は、本舞台まで戻らずに橋掛りから舞台へ数珠を投げ捨てました。虚空に上がった是界坊が、遥か下の地上にいる天台の僧侶に、悔しさを噛みしめながら敗北を認め、「クソ、この数珠、効かなかったか!」と未練なく投げ捨てるのです。
皆様は、どのように思われましたか?
ご感想を戴けたら嬉しいです。

この負ける中国の天狗の『是界』を中国の方々がご覧になったらどう思われるでしょうか。「中国の天狗はそんなに弱くない! これは違う! この作品良くない!」と聞こえて来そうです。尖閣諸島の問題を抱えている今、『是界』や『白楽天』は少々危険な作品のように思われます。しかし、これは演劇です、古典の能です。

中国や日本として見るのではなく、是界坊が説く、すべて己が正しく、間違いはすべて相手が悪い、このように考える人間の心そのものをテーマにしているのだと思います。
皆様の身のまわりにも、いらっしゃいませんか?
我が儘で、自分のことばかり、そのような人間の愚かな姿を、天狗という悪役に置き換え警告しているのが『是界』なのだ、そう思えるようになりました。

能役者は、戯曲に描かれているものを、現代に合った形で伝えることが第一です。羽団扇を捨て、謡に緩急を加え、敗北を認め、数珠を橋掛りから舞台に投げるなど、新工夫の『白是界』でしたが、それらは今までの喜多流にはありませんでした。
橋掛りから舞台に投げるとは、と遺憾に思う同胞の方もおられるかもしれません。しかし、演能後、金剛流に橋掛りから投げる型があることを知り、まったくのお門違いではないことに少し安堵しています。

以前、新しい試みに挑戦された友枝昭世師が「そんなの、喜多流にあるの?」と嫌味に問われ、「いや、能にはある」と答えられました。あの鮮烈な言葉は今でも私の心をとらえています。「能にはある」を信念として、新工夫の大切さをかみしめ、今回また『白是界』で能の面白さを再発見できました。
とはいうものの、まだまだ未熟な我が儘天狗の私です。
あまり独走しすぎてもいけないですが、消極的過ぎるのも効果はない、その兼ね合い、バランス感覚が極意、そう負ける天狗が教えてくれたようです。
(平成22年10月 記)

付録 「育王山、青龍寺、般若臺に至まで皆我が道に誘引せずということなし」と是界坊が自慢する「青龍寺」は、以前訪問したことがあるので、こちらからご覧いただけます。

写真資料
(1)イロエにて 下界を見下ろす型      撮影 前島写真店・駒井壮介
(2)数珠を握り邪法を唱える         撮影 前島写真店・駒井壮介
(3)前シテ・是界坊 粟谷明生        撮影 前島写真店・駒井壮介
(4)「是害絵巻」              写真引用
(5)「鷲鼻悪尉」粟谷家蔵          撮影 粟谷明生
(6) シテ連・太郎坊 粟谷尚生       撮影 前島写真店・駒井壮介
(7)「真角」粟谷家蔵            撮影 粟谷明生
(8)「悪尉ベシミ」粟谷家蔵         撮影 粟谷明生
(9)「猫ベシミ」粟谷家蔵          撮影 粟谷明生
(10)数珠を胸に当てる是界坊        撮影 前島写真店・駒井壮介
(11)飯室僧正を威嚇する是界坊       撮影 前島写真店・駒井壮介
(12)数珠を投げ捨てる           撮影 吉越 研

『綾鼓』を勤めて ー老いの恋心と女御の胸の内ー 投稿日:2010-09-05

『綾鼓』を勤めて
ー老いの恋心と女御の胸の内ー 
                          粟谷 明生




「恋の重荷、昔綾の太鼓なり」と世阿弥の三道に記載があるように、現在、『恋重荷』は観世流と金春流に、そして『綾鼓』は宝生流・金剛流と喜多流にあります。
但し、喜多流の『綾鼓』は昭和27年、先代15世喜多実宗家と土岐善麿氏が創作した新作能です。そのため謡本も従来の見慣れた字体ではないので、玄人も素人弟子も一寸馴染めず抵抗感を覚えるのが正直なところです。

この曲の舞台の木之丸殿(きのまるどの)は『八島』でも謡われる、朝倉宮の皇居跡で現在は福岡県朝倉市にあります。斉明天皇(女帝)が百済の軍を援護するため大和からはるばる還幸された際の仮宮で、崩御後、御子の天智天皇が喪に服されるために殿舎を造られました。通常皇居は、厳選された木を切り、皮を剥ぎ時間をかけて干して念入りに建造しますが、木之丸殿は急いで造られた仮の宮のため、丸木の木材の皮を剥がずにそのままを使い木之丸殿と呼ばれるようになりました。


さて、事件はこの木之丸殿でおこります。
美しい女御(ツレ)の姿を見て恋に落ちた庭掃きの老人(前シテ)に、女御は池のほとりの桂の枝に鼓をかけて打って音が出たら姿を見せましょう、と約束します。喜んだ老人は必死に打ちますが、鼓は綾で張られていたので音がしません。思い諦めるように臣下に諭されますが、老人は初めから鳴らない鼓を打たされたことを知り憤怒悲嘆して池に身を投げます(中入り)。
老人の死を聞いて哀れを感じた女御は老人が飛び込んだ池の汀を眺めているうちに、波の音が鼓の音に聞こえ狂気の態となります。そこへ庭掃き老人の怨霊(後シテ)が現れて、「綾の鼓が鳴るものか、自分で打ってみろ」と女御を杖で責めます。女御は責苦に堪えられず、池の岸辺に倒れますが、怨霊は冷然とその姿を顧みながら、また池に沈み消えていきます。

能で失恋、邪恋をテーマにしたものは多々ありますが、老人の恋を扱う曲は『綾鼓』(『恋重荷』)が唯一です。しかも女御という宮中の適わぬ相手に恋心を抱いてしまう設定は、一般の想像を超える世界です。

私は今回の演能(平成22年9月5日「ひたち能と狂言」)にあたり、女御像について思いを巡らせてみました。
この女御が、鼓に綾が張られていたことを事前に知っていた場合と知らなかった場合では観る側の舞台への印象も変わるのではないか、謡本の解題にも、鼓に綾が張られたことを女御がいつ知ったかについて記載が不明瞭で、故意にぼかしているように思えます。


父は「女御がからかい半分で老人と接し、老人が本気にしてストーカーになる。女御はうるさくなって、ここはなんとか騙してしまおうと、企むわけだ…。老人をチャタレー夫人の森番に見立てるのが演能の隠し味だ」と『綾鼓』を勤める役者の演能心得を語っていました。

私は「近代能楽集」(三島由紀夫著)の影響でしょうか、どうもツレ(女御)を勤めた時に、卑賤の老爺が貴人に恋するなど身分不相応の異常行為、と不快感を露わにする気が強い女御を想像していました。

今回の演能に先立ち、周りの方とこの女御はどのような立場であったかを意見交換する場を持ちました。いろいろと意見は出ましたが、女御は老人の噂話を知りながらも直接諭せないので困り、鳴らない鼓を鳴らさせる、という一つの手段を思いつき、老人に諦めてもらおうとした、実は優しさに溢れる女御だったのではないか、とのご意見もありました。

いろいろな想像を巡らし、稽古を重ねるうちに、もしかすると女御は綾が張られていたことを知らなかったのではないか、と仮定して演じた方が面白い、と思うようになりました。老人が入水後、女御は臣下からはじめて事件の真相、綾が張られていたことを知らされる、宮中という特殊な環境であれば、本人の知らない間に、周りの者たちの取り計らいで事は進められてしまう…有り得ないこととは言えないと思うのです。

いずれにしても結果は老人を死に追いやり、逆恨みであろうとも女御は老人の死霊に責められます。女御が知っていた場合は、少しやりすぎたから当然の仕打ちだよ、となり、知らなかった場合は、女御への哀れみ、同情が湧いてくるように思えます。

『綾鼓』は新作能のため、基本の型附は喜多実先生の書付が残っています。
現在、この実先生の型附通りに勤める方もいらっしゃいますが、一方では新たに独自の工夫をし演出される方もおられます。私も、私なりの解釈で新工夫したいと思いましたので、舞台進行と共にご紹介します。

今回の『綾鼓』は、形式的な無駄を省き、より解りやすく鑑賞出来ることを、心掛けました。
通常、臣下(ワキ)の名乗りの後には、皇居の者(アイ)が呼び出され、アイが庭掃きの老人(シテ)を呼び出すという所作に重複があるので、直接ワキがシテを呼び出すようにしました。
老人が池のほとりの桂の枝に掛けられた鼓を見せられると、箒を捨てて鼓を打ちますが、従来は撥を使用せずに中啓(扇)にて代用していました。
中啓を撥の代わりとする演技は能らしい扱いですが、「ひたち能と狂言」の会では、はじめて能をご覧になる方も多いと聞いていましたので、より具体的に判りやすくご覧頂ければと思い、敢えて本物の撥を使ってみました。
また、鼓が鳴らずに落胆している老人に、ワキが直接告げるのが、現代の流行ですが、ここも敢えて判りやすさを誇張したく、アイが真相を告げ、撥を荒く奪い取ることで、邪険にされる老人の悲しい有様が強調されると、試みてみました。

後場のシテの登場は幕の内から「声ありて?」と謡い、常の出端(では)の寸法では老人が出現するまでに時間がかかり、間が抜けてしまうので寸法を短くして、シテの謡も橋掛りを歩みながら謡い出す、という今までにない新演出にしました。
今回特に気をつけたのが、綾の鼓への恨みです。老人は女御だけでなく鼓にも恨みがあるはずです。そこを最も強調した演技にしたい、と…。
実先生の書付には、女御へのアクションばかりが多く、鼓への恨みの型はあまりありません。
イロエ(立廻り)も従来のパターン通りの、「拍子を踏み、角に行き、左回りして常座で廻返し、ツレにシカケ開キながら膝付き、グワッシ返し、立ち右回り」と鼓への思い入れの型がなく、やや舞踊的に感じられます。
私はもっと鼓や女御への恨みを直接的に見せる、恐ろしさが溢れる動きにしたく、舞台に入ると、すぐに鼓を見つけ、次にジワジワと女御を探し当てると楚(しもと)を振り上げ、怒りは爆発寸前となる、威嚇の型にしました。

演者は勤める役柄の心境を深く理解して、それに沿った演出をすべきです。
新作能であれば余計、充分に考慮が許されてよいはずです。

今年54歳で、この庭掃き老人に扮するにあたって、老いの恋、老いのプライド、老いの嘆き、諸々の事を考え、以前勤めた老武者の『実盛』のことを思い出しました。
能役者はどうしても、まず外見的な肉体的な衰えを演じ切ろうとしますが、
やはり大事なものはその役の心の内です。老いとは、私にとってまだまだ未知なる世界ですが、少し解るような気分でもあります。
齋藤別当実盛も、庭掃き老人も、共通しているのは、その心根が若き日となにも変わっていない、ことです。
老いて異性への恋心がなくなる、というのは稀なことで、いつまで経ってもわくわくする気持ち、人間の普遍的な本能なのでしょうか。年齢には関係ない永久の感情のようです。

『綾鼓』の老人も庭掃きの労働が出来るくらいですから健康な体です。健康だからこそ、恋する気持ちが衰えないのかもしれません。
しかし事件はこの健康であるがゆえに起きます。老人であり、そのうえ身分の違いが大きく立ちはだかるのです。

女御が、私の解釈のように、事の真相を知らされていなかったとしたら、女御はやさしいお姫様像となり、観客の同情の余地も出てくるでしょう。
反対に死霊となった老人は、永遠に怒り恨み続けなければならない非道に落ち、観客はなんとも惨めな老人のその後のむごさを感じるでしょう。
それが面白いのかもしれませんが…。

死霊を演じながら、女御だけではなく、鳴らない鼓を、仕組んだ取り巻きや、身分の違いを生みだす社会を恨めばよかったのに…とも思いました。

女御の立場を明瞭にしないで、最後まで救われない老人と女御を描く喜多流の『綾鼓』ですが、時代を越え、広く深く、多くのことを語りかけいるのかもしれません。それに応える楽しみもあります。
庭掃きの老人の執心が、私の老いを演じる意識と作品の本音を探ることに刺激を与えてくれたことは確かでした。

                      (平成22年9月 記)

写真 『綾鼓』 シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕

写真 無断転写禁止

小松近辺の謡蹟めぐり投稿日:2010-08-16

平成22年の阪大喜多会夏合宿も無事終わり、帰京日に飛行機搭乗まで時間があったので、タクシーを利用して『実盛』の謡蹟「首洗池」と「実盛塚」、小松空港近くの「安宅の関」を見てきました。

首洗池
平家方の老武者、齋藤別当実盛は髪を黒く染めて篠原の合戦に出陣し、源氏方の木曽義仲の家来手塚太郎光盛に討たれます。首はこの池で洗われ、髪の墨が落ちて実盛であることが判明しました。

木曽義仲公
首洗池の前には木曽義仲公の銅像があり、実盛の首を持って泣いています。義仲は幼少の頃、実盛に命を助けられていました。

実盛の兜が祀られていた祠
現在兜は小松市の多太神社に所蔵されています。
写真探訪「多太神社」をご覧下さい。

実盛塚への案内塔
実盛塚に入る道はきれいに完備されています。

実盛塚
大きな松が墓を覆っていて立派なお墓です。
十四世遊行上人の前に実盛の亡霊が現れ、上人が回向して「真阿」の法名をあたえたと伝えられています。以来歴代の遊行上人が加賀路を訪れる時は必ずここに立ち寄ったと言われています。

安宅海岸
安宅の関の目の前は安宅海岸です。サーフスポットとしても有名ですが、生憎波が無くサーファーの姿は見られませんでした。

関之宮
(左)富樫左衛門泰家公(右)源義経公 奉斎とあります。奉斎とはお祀りしてあるという意味です。

安宅の関跡
ここは弁慶が勧進帳を読んだところです。『安宅』の舞台が思い出されます。

安宅住吉神社前にて
偶然遭遇した阪大喜多会の学生と記念撮影。ここに写るのは皆、『安宅』仕舞の経験者です。
無料で巫女さんが神社の由来を説明してくれるので、お立ち寄りの方は是非お入り下さい。

住吉神社
安宅住吉神社は正式にはこちらから入りますが、今回は裏の関所跡から入ったため、順番が逆になりました。駐車場はこの前にも裏にもあります。

『巴』を勤めて投稿日:2010-07-25

演能レポート『巴』を勤めて
艶ある女武者を目指し


高知能楽鑑賞会(22年7月25日)粟谷菊生追悼の公演で、父が好きで得意でもあった『巴』を父への手向けとして勤めました。

能の世界で木曽義仲(源義仲)本人が主人公(シテ)として登場する曲はありませんが、その家来、巴御前(『巴』)や今井兼平(『兼平』)によって義仲は描かれています。特に『巴』は木曽義仲の家来でありながも愛妾としての姿、剛勇ながらも恋慕の心を持つ女性の忠誠心を描いた作品です。『巴』は二番目物・修羅物ですが、主人公(シテ)が女というのは異例で、この一番だけです。
修羅物は、主人公が戦死したゆかりの地に現れて討死の有様を見せ、修羅道の苦患からの救いを僧に頼む、というのがお決まりですが、『巴』は異色です。
また構成も普通と変わっていて、討死していない巴御前ですから、自分が非業の死をとげた土地に現れるのではなく、死後も愛してやまない主君義仲が祀られている社に現れます。修羅物でありながら、その想いは、共に死ねなかったことの執心、深い恋慕の情念が今も成仏の妨げになると苦しむところが特異です。
演者は物語の真意をよく理解して、派手な剛勇の女武者ぶりだけでなく、義仲を想って止まない恋慕の心根を演じ切らないと、あちらに居られる巴様から斬りつけられてしまうでしょう。

『巴』の物語は、木曽の山里に住む旅僧が都へ上る途中、近江国(滋賀県)琵琶湖湖畔の粟津が原に着くところから始まります。そこに一人の里女が現れ、社に参拝し涙を流して
いるので不審に思いわけを尋ねると、女は行教和尚も宇佐八幡へ詣でたとき、「何ごとのおわしますとは知らねども、忝なさに涙こぼるる」と詠まれたように、神社の前で涙を流すことは不思議ではないと答えます。女は社殿に神として祀られている木曽義仲公は、僧と同郷であるから霊を慰めてほしいと頼み、自らも義仲の家来、巴御前の亡霊であるとほのめかし消えてしまいます。〈中入〉
旅僧は、里人に、義仲の最期と巴御前のことを聞き、同国の縁と思い、一夜を明かし読経します。すると先の女が、長刀をもち甲冑姿で現れ、女武者の巴御前であると名のり、義仲の遺言により一緒に死ぬことが許されなかった無念さを、戦語りを交えて僧に見せます。
そして義仲からは生き延びて形見を木曽に届けるように命じられ、巴は泣きながら形見の品をもって一人木曽へと落ちのびたが、いまだに義仲への想いが成仏のさまたげになっているので、その執心を晴らしてほしいと回向を願って消え失せます。

私は今までに三度『巴』を勤めていますが、若い時分の『巴』を顧みると、確かに鮮やかな長刀さばきばかりに気をとられ、巴の女らしさを演じるには至っていなかったように思います。

以前、私がまだ20代の頃、ある女性に言われた言葉が、今も頭から離れないでいます。
「ご立派な『巴』は何度も拝見してきましたが、愛らしい、かわいい、イロっぽいと思わせてくれたことは一度もなかったわ。でも、あなたのお父様の『巴』は違った。あ~、女以上に女だわ! と感じさせてくれて・・・。でもそこまでしてくれないと能『巴』にはならない、そう思わない?」
いつもこの言葉を気に掛けているので、今回は私なりに巴御前の女らしさを意識して演じたいと思い、謡や型はもちろん、面や装束なども常と替えてみました。
能『巴』の使用面は、喜多流では「小面」が決まりですが、他流では「若女」「増女」「孫次郎」「十寸髪」など、いろいろ使われます。今回は父の追悼なので、父愛用の井関の「小面」を附けて、と思いましたが、敢えて父とは違う『巴』の世界をと、小面よりも少し大人っぽい私のお気に入りの「宝増」にしました。

私は幼少の頃は父から芸を教えられ、小学生から喜多実先生に入門、そして30歳にて師を友枝昭世師としましたが、青年時代に数曲、父から直接習った曲があります。その中でもっとも丁寧に細部まで教えてもらったのが『巴』でした。
ここからは父の教えなどもご紹介しながら、舞台進行に沿って私の舞台裏もレポートしていきたいと思います。

前場の里女(前シテ)は「アシラヒ出し」で登場します。囃子方の囃す「アシラヒ出し」はノリのないリズムです。シテは静かにどこからともなくふっと現れるような風情で運び(はこび=歩行)、舞台に登場します。一見何の変哲もない簡単な動きのように見えますが、ベタベタと単調に足を運んでは優美さに欠けますので、乗らないリズムながらも、演者自身の中に運びの流れを意識して、若干の序・破・急のスピード感を出すところに技の極意が秘められています。
義仲を祀る社前での僧(ワキ)との問答も、あまり重くなり過ぎると曲の位に合わなくなります。軽くサラリと謡いながらも、要所要所でしっかりと思い入れを言葉に載せる、言うのは簡単ですが、なかなか体得出来ないでいます。
中入り前「さる程に暮れてゆく日も山の端に、入相の鐘の音の、浦曲の波に響きつつ」と西の空を見上げ次第にうつむき、鐘の音を聞く型が唯一の型どころです。「観る者に鐘の音が聞こえるように」とは、シテと地謡への父のアドバイスでした。


後場は、唐織を壺織(坪折とも)にして武装した雰囲気を創りますが、今回は長絹を肩上げにする替の扮装にしました。これは、より武装の甲冑姿が想像しやすく、演者は壺織よりも軽く動きやすい利点があります。
しかし反面、中入りでの着附や物着での脱衣の手間などが面倒で、予めの仕込みが必要ですから、着せる者も演者も億劫なのが欠点です。
そして何よりも長絹姿は、演者の身体の構えが露わに見えてしまうので、体型が気になる人には難点となります。「体型がご立派過ぎて…熟女っぽく見えました」とのご感想をいただいて反省し、これからの食生活を考え直しています。


ここで脱線しますが、装束の着附について触れておきます。
能役者は胴着(真綿が入った下着)を着て身体をふっくらと見せる工夫をしています。
若い時分は、痩せてスマートですが、どうも装束を附けた姿は良くありません、貧弱に写ります。これはスポーツマンとも共通していることで、あまりに若過ぎては未だ身体が出来上がっていません。能楽師も同様で、30代を過ぎる頃から、自然と身体が出来てきます。特に腰回りがしっかりしてきますと、装束が身体にフィットしてきます。ですからガリガリの痩せが良い訳でもないのです。このように書くと肥満を正当化した言い訳のように聞こえるかもしれませんが、私の青年時代の写真をご覧頂ければお判り頂けると思います。


とは言いましても、過ぎたるは・・・なんとやらで、今の私の場合、ここはやはり体型、体形改善の努力が必要、と認識しています。

能でシテが長刀を使う曲は『橋弁慶』『船弁慶』『熊坂』の三曲がいずれも男物で、女物では『巴』一曲のみです。実は『平家物語』に巴御前が長刀を使用していた記載はないので、これはたぶん作者の着想でしょう。しかし巴といえば長刀、これが喜多流内での印象です。
「巴の長刀さばきは軽快に鮮やかに、しなりを入れることで女を表現する。逆に弁慶、知盛や熊坂はしなりを入れてはいけない」が父の教えです。

後場の型どころは多く、床几での型、長刀を駆使する仕舞所、義仲の形見となる小袖の扱い、物着にて水衣を着て笠と太刀を持つ最終場面。
すべてに父の言葉が浮かび上がって来ました。


特に終盤、長刀を捨て、白水衣を義仲の死骸とも形見とも思い取り上げて別れを告げ、形見を肌身離さず胸に抱き、「行けども悲しや行きやらぬ」と、なかなか立ち去れない心情で、死骸を振り返るあたりは、足、肩、面、それぞれの角度と向きにねじれをつけるんだよ、と直接演ってみせてくれた父の姿が浮かんできました。白水衣を羽織って浄衣の姿となり、最終の最高潮、笠を高々と上げて木曽の里を思いと、良い型が続きますが、「後ろ姿に哀愁が出ないとだめだ、後ろ姿だよ」「最後の留めは、笠と小太刀を捨てるも吉、また笠だけ捨て小太刀は義仲だと思って持ちかえる、どちらでもいいよ。意味さえ判ってやれば…」最も印象深い父の言葉です。


喜多流では、強く、強く、と教えられます。このシンプルな言葉、若い時分は強くを荒くと誤解しがちです。強いは、彊い、剛い、勁い、といろいろありますが、能ではつよい気持ちを基盤にして剛柔を表現します。やさしさ、女らしさ、哀れさも、強さでというと不審に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、強くとは思いを込める程度と理解していただければいいかもしれません。声は息を引いて発声し強さを出します。父の言う「芯は強く、まわりは柔らかく、マシュマロのように」が判りやすいかもしれません。しかし、言うは易く・・・、習得には時間がかかります。
今回の『巴』、自分なりには精一杯女らしさ、哀れさを意識したつもりですが、演りきれたか、というと反省点もいろいろあり、また演り直さなければ、というのが正直なところです。

もうすぐ55歳を迎え、自分を顧みると、若いときに哀れさや女らしさなど、演りきることなどは無理難題、出来るはずがないのです。このように書くとお叱りを受けるかもしれませんが、これは本音です。
若い時分は未熟です。出来ないのが当たり前、仕方がありません。ですから若気の至りで、自分なりにガムシャラに挑むしかないのです。哀れや悲しみ、女らしさを、間違ってもよい、勘違いしてでもよいから、演ってみる、その試みる気持ちが大事なのです。間違って演ることの無意味さを唱える大人がいるかもしれませんが、自ら身を以て体験し本物を探す、それしか本物には近づけない、今そう信じています。
「赤ん坊は一度熱いやかんに手を触れて熱さを知っておくといい。それを危険だからとさせないと、そのうちその子は溶鉱炉に手を入れるんだよ」とこれも父の面白い例え話。
一度立ち入らないと判らない、この年齢になってようやく判ったのです。
今50代半ばにして4回目の『巴』を勤め、どうしたら女らしさ、哀れさが、演じられるか、まだ悩んでいます。
父の追悼で父の『巴』を思い出しながら勤めた私の『巴』。
演じ終えて、いろいろご批判もあり、まだまだ先は遥か彼方ですが、自分なりの一歩が踏み込めた感触はあって、「いろいろなことをやって、それを能に還元すればいいの!」という父の声が今大きく聞こえて来ています。
今回いろいろなことを思い出させてくれたのは、巴御前のお陰か、それとも父がひょっとして近くにいたのか…。
父菊生追悼公演で父との会話を楽しませてもらったような気がしています。

写真3 『巴』シテ 粟谷明生 粟谷能の会   撮影 三上文規
写真4 『巴』シテ 粟谷明生 青年喜多会   撮影 あびこ喜久三
その他 『巴』シテ 粟谷明生 高知能楽鑑賞会 撮影 片岡鷹介
  (平成22年8月 記)

源義朝公最期の地・野間大坊と知立の三河八橋投稿日:2010-07-16

平成22年7月2日、知多半島先端にある寺「野間大坊」と三河国・現在の知立市八橋を謡蹟めぐりしてきました。
今回は名鉄線を使わず、車にて豊橋駅から走行時間二時間で『朝長』で謡われる源義朝公の墓がある野間大坊を訪れました。予め予約していたご住職から絵解きをお聞きし、またお寺の縁起などいろいろなお話も伺うことが出来ました。いつか勤めたいと思う『朝長』の成功祈願をして、木太刀の奉納もしました。乱橋跡、湯殿跡、長田家屋敷跡、はりつけ場などを巡り、蒲郡への帰路の途中、『杜若』の謡蹟、知立の八橋に寄り、季節はずれでしたが、一輪の杜若を見てまた『杜若』も勤めたくなりました。

野間大坊の由来が書かれた看板

絵解きをなさる「野間大坊」の水野真円住職
義朝に謀反を起こし平家方に寝返った長田忠致(おさだだだむね)は、平家滅亡後は頼朝に従いますが、主君を裏切る不届き者としてはりつけにされます。
「永らえて命ばかりは壱岐の守、美濃(身の)尾張(おわり)をば、今ぞ賜る」は忠致の辞世の句です。

義朝が湯殿で討たれる絵解きの一場面
「我に小太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせんものを」と本当に聞こえてきそうな狩野探幽の絵です。

ご住職とご一緒に記念撮影をさせていただきました。

義朝公の墓
慰霊のための木太刀が山積みされています。私も一本奉納しました。奉納金は¥500です。

山積みの木太刀
能『朝長』には父義朝公最期の場面が「父、義朝はこれよりも野間の内海に落ち行き、長田を頼み給えども、頼む木のもとに雨洩りて、やみやみと討たれ給ひぬ」と謡われています。

鎌田政家(正清)と妻の墓
『朝長』の謡「これを最期の御言葉にて、こと切れさせ給えば、義朝・正清取り付きて」 とある政清は鎌田政家のこと。政家は妻の父(長田忠致)に気を許し、多量の酒を呑まされだまし討ちされてしまいます。それを知った妻は嘆き自害します。

の禅尼の墓
池の禅尼は生け捕られた少年頼朝が我が子に似ていたので清盛に助命嘆願したとも言われています。
滅亡した平家方で唯一、池の禅尼一党の頼盛一族は、壇ノ浦合戦後も生き延びています。

平判官康頼の墓
能『鬼界島(俊寛)』のツレ役として登場する平判官康頼の墓は、ここ以外、京都の双林寺にもあります。

血洗いの池
長田忠致はこの池で義朝の首を洗ったと言われています。
国家の一大事があると池の水が赤くなると言われ、江戸末期の大政奉還のとき、本当に池が真っ赤になったと伝えられています。

乱橋跡
義朝公謀殺の一大事を聞いた家臣の渋谷金王丸と鷲栖玄光らが湯殿に駆けつける時、長田忠致の家臣とこの地にあった橋のあたりで乱戦したことから、乱橋と言われるようになりました。

湯殿跡の義朝公
物静かな畑の奥に立派な銅像と湯殿跡があります。

湯殿跡
当時のお風呂は蒸し風呂(サウナ)です。

長田忠致一族の屋敷跡
謀反を起こした長田家の屋敷跡は野間大坊と名鉄線「内海」駅の間にあります。

はりつけの場
長田屋敷跡近くに忠致らがはりつけになった松が今も残っています。

八橋 無量寿寺の杜若園
季節はずれながら、一輪咲いていてくれました。

謡蹟駒札
駒札は正門の右に立てられています。

業平の供養塔
名鉄線の線路沿いにある供養塔。

落田一つ松
業平がここで「唐衣着つつなれにしつましあれば遙々来ぬる旅をしぞ思う」と詠んだところです。

韓国の旅投稿日:2010-07-16

平成22年6月28日から二泊三日の韓国ソウルの観光をしてきました。
東京から便利な羽田発、金浦空港行を利用すると二時間、短くフライトは楽でした。
添乗員は付いていないツアーなので、現地案内人の李(リー)さんに宿泊地・プレジデントホテルまで案内してもらい、昼食と買い物、そして若者の街、明洞(ミョンドン)を散策してきました。韓国といえばエステ、サウナが有名です。我々も汗をかきだして気分爽快になって夕食をとり初日は終わりました。

翌日(29日)は一日観光。
朝鮮王朝の宮殿、昌徳宮を拝観、仁寺洞でウインドウショッピングを楽しみ、昼食は韓国料理の代表、サムゲタンを満喫しました。
満腹となり車に揺られること約50分で華城に到着、城跡を散策し華城行宮を見てホテルに戻るともう夕食時間。お目当ての「蟹の醤油づけ」をガイドブックから探して食べてきました。
夜は丁度、サッカーワールドカップ日本対デンマーク戦でしたので、早々にホテルに戻ると丁度、ホテルの隣の広場で韓国のサッカー選手団の慰労会があり、たくさんの歌手が歌や踊を繰り広げ、その模様がテレビ放送されて、同時に二つの場面を楽しむ、という珍しい現象を体験出来ました。
結局応援は、一日の観光の疲れか、睡魔に勝てず残念ながら寝てしまい、翌朝のニュースで負けを知りました。短い期間でしたが、楽しい旅でした。

昼食は明洞(ミョンドン)の「アリアン」で、うどん鍋。
牛肉と蛸がたくさん入っていて、蛸は店員さんが大きな鋏で手際よく小さく切り刻んでくれます。お味は辛めを控えて美味しくいただきました。

この日のレートは、100ウオン=8.9円。明洞(ミョンドン)を散歩すると町中のいたるところで換金が出来ます。

今、韓国といえば女性はエステ・サウナが流行ですが、我々もサウナで日頃の疲れを取りリフレッシュ、マッサージと垢すりの基本コースを頼みましたが、結局他にいろいろなオプションを付けられてしまい、総額は、80000ウオン、約8000円でした。

さあ本家本元の焼き肉、まずはビールで乾杯!こちらのビールは日本に比べて味が薄く 軽い感じ。ずらりと並んだ様々なキムチや野菜と一緒に焼いてくれる肉を待つお二人。

観光は、北村の韓国特有のお住まいの前で記念撮影。
左から、私、出雲康雅氏、粟谷能夫氏、長島 茂氏。

昌徳宮はユネスコ世界遺産に登録された朝鮮王朝の宮殿。
中国と同様、石畳の真ん中の道は王様しか歩けない、ここでもやはり偉い方が真ん中歩いています。

自然と調和を考えて作られたお庭と建物、景色にご満足のお三方。

カメラマンの宿命、自分の写真がないので今回はガイドさんにお願いして。

仁寺洞は古美術などが並ぶ落ち着いた街、我々は若者向きの明洞(ミョンドン)よりこちらの雰囲気が似合うみたいです。ちょっと欲しくなる篆刻や陶器がありましたが・・

昼食はサムゲタン、ひな鳥の内臓を取り出して餅米を入れて丸ごと煮込みます。
特にスープが美味しいですが、私はこの一人前は多く全部食べられませんでした。

こちらは「うまかった~」と完食した長島茂氏。

猫舌で小食の出雲康雅氏は「もう無理!」と途中でお手上げ状態。

午後は市内から車で50分ほどの華城に移動

城壁を一周は3時間もかかるので、ほんの一部を徒歩で移動、中国の万里の長城のミニチュア版みたいです。

ガイドさんお薦めの場所で撮影、
韓国では「はいチーズ」じゃなくて「はい、キムチ~ですよ!」と言われても 無反応な方々もいらしたみたい

華城の中心を南北に流れる川の華虹門、雨が多いと水量が増え七つの水門から虹色の水しぶきが飛んできれいだといいますが・・・水不足ですた。

撮影している私と華虹門(北水門)を一緒に撮ろうとしている長島 茂氏(左)と出雲康雅氏

NHKの放送した「チャングムの誓い」のロケ地でもある華城行宮の正門にて。 行宮は王様の仮住まいで、一時旧日本軍に占領破壊されてしまいましたが、 2010年に復興しました。

「チャングムの誓い」の人形が多く置いてあるので、こちらも、と思ったら本物でした。
お茶を入れて下さいますが、韓国の女性は左膝を立て座るのがお作法です。
男子は胡座が正規な座り方です。

二日目は海鮮の蟹料理を予定していたので「蟹の醤油づけ定食」をオーダー。
これが4人前です。キムチ類が沢山出て、御飯とスープ40000ウオン。焼酎を水割りで飲みたく、注文しましたが言葉が通じません。
ジンロ!で焼酎は来て、次にアイス!、で氷は来ましたが、 水が通じません。仕方がなく英語で「ウ・オ~ター、プリーズ」と、しかし余計変な顔をされてしまいました。手振りでどうにか水が出てきましたが、見習いの中国人だったらしく、あとでガイドさんに聞いたら英語も通じるが発音が違う、「ウォラ~」だと言われました。発音の大事さを痛感しました。

帰国の日の朝は地元の方に聞いた庶民的なお店で朝食。

朝食も昼食もこの定食のみのお店。6000ウオンでお店は満員。朝からキムチですから、当然口も身体もキムチ漬けになりました。

金浦発のANAの機内食はビビンバ、
これが結構美味しかったです。

『邯鄲』「置鼓・働」を「傘之出」と演じ分けて投稿日:2010-06-07

『邯鄲』「置鼓・働」を「傘之出」と演じ分けて


年が明けて、まだお正月気分の残る1月6日、はじめての国立能楽堂からの出演依頼で、平成22年度の公演の一番手として、しかも大好きな『邯鄲』を勤めることが出来たことはたいへん名誉なことで光栄でした。新年早々、この重大な役目が控えていると、日頃の健康管理にも気をつけ、舞台人としては健全で恵まれた新年の幕開けとなりました。
『邯鄲』の初演は平成元年に妙花の会、次は平成二十年と間があきまして「傘之出」の小書にて再演し、今回は三度目となり「置鼓(おきつづみ)」と「働(ハタラキ)」の小書付となりました。

「置鼓」は狂言方の小書とシテ方の小書の2通りがありますが、今回は狂言方の小書でした。アイ(女主人・野村萬斎氏)が枕を担いで登場する際に小鼓の独調と笛の音取が囃されます。これは本来、『翁』付(つき=翁の後に行う曲目)の時の演出ですが、今回、特別に『翁』が無くても行われたのは国立能楽堂の意向のようです。

さて、その舞台効果はどうであったでしょうか?
年の初め、一番手の能役者の登場ということで、『翁』付のような形式ばった雰囲気にしたのはお正月ムードにお似合いだったかもしれません。しかしそれが果たして能『邯鄲』の作品を活かす演出であったかというと、そうではないように思えました。このように思ったのは私だけではなく、実は楽屋内の反応も同様で、当事者の野村萬斎氏も演出効果に関しては「仰々しいですね。アイが官人ならばともかく、『邯鄲』の場合は女主人であるので、少々やりにくいですよ」と楽屋で話されていました。
「置鼓」に関して伝書を調べると、シテ方にも音取置鼓で演じることがあることを知りました。我が家の伝書には「替装束」と記載され、翁付や脇能としての演出に限り置鼓で登場し…と、通常とは諸々変わることが記されていました。

内容の一部をご紹介します。
まず脇能にて致す事、とあり、白大口に舞衣、唐団扇右腰に差し左手大水晶、右手払子を持ち、狂言口開後、笛音取吹き、小鼓独調となり出る、「抑もー(そもそも)これは」と名乗り、打切、「浮き世の旅」と次第を謡い、地取、また「浮き世の旅」と三ベン返となり、打切、「住み慣れし」と道行。
以下通常のものと異なるところが多々あります。ここでは省略させて頂きますが、これがシテ方の置鼓(替装束)です。あまり演能意欲が湧くものではないようですが、一度観てみたい気はします。

今回のシテ方の小書は「働=ハタラキ」です。
「月人男の舞なれば、*、雲の羽袖を重ねつつ、喜びの歌を」の*のところにイロエ(立ち回り)が入ります。
イロエ(立ち回り)とは囃子だけの演奏でシテが動くことを言います。舞台中央で拍子を踏み角に出て、左廻りにて大小前にて拍子乗り込み、段を取り、右回り大小前にて謡う…と伝書には記載され、イロエの心持ちや型の意味などの説明はされていません。
これをどのように解釈し想像を膨らませるかは、演者の仕事で想像と工夫が必要になります。私はこのように能が能役者の自由な解釈で出来る、その許容範囲が広い仕事であるから、こんなに面白く遣り甲斐をもってできるのだと挑めています。


思いがけず王位に着いた廬生は50年の栄華を究め、さらに一千年の齢を望みます。
そこに人間の傲慢さが現れます。長寿を望み、絶大な権勢の保持と欲深さ、更に最高位を望み地上界だけではなく天空の月世界にまで昇り詰めようとする。そして月世界をも制しご満悦気分・・・、これをハタラキの抽象的な動きで表現出来れば…と思い勤めました。

今回、舞人(子方・内田貴成君)は舞い終えた後にすぐに消える演出にし、また同時に大臣達も地謡前に移動することを試演しました。通常は子方と大臣達は廬生の夢が醒める前に、あっという間に消えるように一挙に走り込みます。その良さは充分承知していますが・・・。その一方で、子方も大臣達(ワキツレ)もずっと脇正面側に座っているのでよく脇正面にお座りの方々から、大臣達が邪魔で見づらいとのご意見がありました。この対応として今回の試演が解決を見出したのでないかと思います。脇正面でご覧になられた方々のご意見をお聞かせ頂きたいと思います。

演能前に、ある観客の方から二年前の小書「傘之出」と普通の『邯鄲』とを見比べるのが楽しみです、と言われました。私は常々「傘之出」と通常の場合とをはっきり演じ分けるべきだと思っていました。「傘之出」は「望み叶えて帰りけり」と地謡が終わった後に女主人との問答があります。世の無常を悟った廬生の帰り際に、女主人が呼びかける「また、重ねて参り候へや~」という言葉の余韻にいろいろと想像を巡らせる趣のある演出です。通常は「望み叶えて帰りけり」と祝言の心で謡い、何事も一睡の夢と世の無常を悟った喜びに満ちて終わらせなくてはいけません。
能楽師としてどちらがお好みか、と問われれば、私は即座に「傘之出」の演出を挙げます。「本当に悟れたのかな?」という余韻を残し、盧生の人間描写が深くなるように思えるからです。しかし、通常演出にもそのよさはあり、それを引き出す事も演者の努めだと思います。今回は特に祝言の心で終曲する、その意識を大事にしたいと思い演じました。

能は演者が初演の時と何度も勤めている場合では、観客の目に映るものも違ってくるのだろうと思います。初演では、ういういしさなどが舞台のよさの糧になり、またベテランの手慣れた余裕のある舞台は観ていて安心感があって、こちらもまた良いもので、どちらが良いとは決められないものです。
今回の私も3回目ということで、今までの経験を活かし、余裕を持って勤めることが出来たことは事実です。
国立能楽堂の一番手、お正月気分もあり、盧生が悟れてよかった、めでたし、めでたし! と祝言の心で終わる演出がお正月には似合っていたと思います。何回か勤めることで、その時、その場所にふさわしい能を演出し工夫して勤める、そのことが出来る環境に感謝しています。新春にふさわしい能として、お客様に喜んでいただけたならうれしい限りです。
                   (平成22年1月 記)
(『邯鄲』を勤めて 小書「傘之出」の演出と展開―二年前の演能レポートも合わせてご覧いただければ幸甚です。『邯鄲』について、「傘之出」について、くわしく記述しています。読み物⇒演能レポートから検索してください。)

写真 
『邯鄲』シテ 粟谷明生 国立定例公演 国立能楽堂 撮影 青木信二
能面 「邯鄲男」 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生

吉野山近郊から二上山麓まで投稿日:2010-05-16

平成22年5月4日、近鉄吉野神宮駅から予め予約していたタクシーに乗車して、能『国栖』『吉野静』『忠信』『嵐山』『二人静』などのゆかりの地を、吉野山一帯と、宮滝、菜摘、あまり訪れることがない浄見原神社、川上村の蜻蛉の滝まで足をのばし、大阪に戻る途中に西国霊場第六番壺阪寺と『田村』で謡われる子嶋寺、一日の最後は二上山麓の『当麻』や『雲雀山』でお馴染みの当麻寺と石光寺(染寺)を謡蹟めぐりして来ました。
この行程は朝9時半からスタートして最終地には17時半と8時間かかりましたが、タクシー利用のお陰でたくさんの謡蹟を廻れました。参考:料金 一時間¥4600

金峯山寺 蔵王堂(場所 ロープウエイー山上駅から徒歩5分)
仁王門を通ると本堂を後ろから眺めることになるが、これは本堂が南面しているから。 『国栖』の後シテ・蔵王権現はこの内陣から「即ち姿を現して」と勢いよく姿を現します

蔵王堂全景
蔵王堂は国宝で安土桃山時代の建立。本尊は金剛蔵王権現の秘仏で普段は見られませんが、平成22年の9月から12月までは特別御開帳がありますので拝見出来ます。

吉水神社 義経駒繋ぎの松(場所 勝手神社手前左折れ坂下る)
義経が馬を繋いだと言われる駒繋ぎの松は残念ながら切られています。

弁慶力釘(場所 入口右手)
弁慶が素手で五寸釘を打ち込んだという石。 入口左手には義経の馬の馬蹄跡があります。

義経・静御前惜別の舞台跡(場所 書院前)
吉野山に逃れた義経と郎党十六名・静御前はここで逃避の生活をしましたが、静御前が同行することに快く思わない者もいたので、静御前に数々の財宝を与え山を下らせることになりました。能『吉野静』の謡蹟地。

義経・静御前潜居の間と弁慶思案の間(場所 書院内)
左の部屋に義経と静御前が仲良くいるのを見て、弁慶は時の情勢を案じ静御前を帰すことを思案したのでしょう。そんな想像が出来る空間です。

義経の鎧と静御前の衣装
「色々威腹巻鎧」は義経の身長が小さいことが容易に想像出来ます。

勝手神社の舞塚(場所 蔵王堂より徒歩5分)
以前は入れたようですが、現在は立入禁止になっていたため望遠レンズにて撮影。 社前に「舞塚」があり、静御前の舞塚とも、また大海人皇子(後の天武天皇)が社前で琴を弾いたとき、天女が舞を舞ったところとも言われ、伝説も様々です。

金峯神社拝殿(場所 奥千本)
吉野山の奥の院にあるのでバスか車の利用が便利。右手奥に進むと西行庵がある。 「さながらここも金(こがね)の峯の、光も輝く千本の桜」と『嵐山』で謡われるのはこの辺りのこと。更に奥に行くと「青根が峯ここに」とも謡われる青根が峯山頂があります。

義経隠れ塔(場所 金峯神社左手を降りる)
文治元年、義経一行は吉野山の衆徒に追われここに身を潜めて隠れていましたが、味方と思っていた衆徒の寝返りによりここも追われることになります。義経は屋根を蹴破って逃げたと言われ、この塔は別名「蹴抜けの塔」とも言われています。ここは本来、山伏修験道の休場であったところで、昔はもっと奥の青根ヶ峯に近いところにあったようです。

子守明神 水分(みくまり)神社
赤い楼門をくぐると右手に三殿を一棟に集めた水分天神がありますが、能『嵐山』の後ツレで登場する子守明神は奥に鎮座されています。後シテが登場する前に勝手明神と子守明神の相舞がありますが、能では勝手は女神、子守は男神として扱われています。

佐藤忠信・花矢倉の跡
(場所 子守神社より下る途中)
佐藤忠信はここに立って雨のように矢を射って横川覚範を討ちました。能『忠信』(喜多流にはない)の舞台はここです。

佐藤忠信・花矢倉の謡曲史跡保存会の立て札(場所 花矢倉の石碑下)
吉野山を下りた佐藤忠信は京の都にて義経を捜しますが、頼朝勢の不意打ちに合い無念の死をとげます。

展望台より(場所 花矢倉より少し上る)
蔵王堂を眼下に小さく見ると吉野山の広大さを実感します。 桜のシーズンはマイカー入山禁止となります。

横川覚範の供養塔(場所 花矢倉の跡から少し下る)
石碑が三つ並んでいますがこれは供養塔。向かって左手に新しい石碑の横川覚範の首塚もあります。

桜木宮・桜木神社(場所 奈良県吉野郡吉野町喜佐谷字)
吉野山を下りて宮滝に行く途中に、能『二人静』の「桜木の宮、神の宮滝、西河の滝」と謡われる「桜木神社」に立ち寄りました。

桜木宮に渡る屋根付き橋(場所 桜木神社手前)
喜佐谷川に屋根付きの特殊な橋がかかっています。

宮滝(場所 吉野町宮滝)
滝というので、大きな滝を想像しましたが、左手下に見える小さな滝です。

宮滝アップ
中央上部にある小さな段差で水が落ちているところが宮滝。 「宮滝」は飛鳥や奈良時代にこの景勝地に離宮(吉野宮)が置かれたことによります。

菜摘川の謡曲史跡保存会立て札(場所 菜摘)
吉野川の一部を菜摘川といいます。能『二人静』は吉野勝手明神の神官が正月七日の神事に供える若菜を女どもに採らせます。そこへ静御前の霊が現れ、菜摘女に取り憑き二人の静は舞ながら「昔を今になすよしもがな」と義経との悲恋を物語り、回向を願う話です。

浄見原神社への路(場所 国栖トンネルそば)
国栖トンネルそばに小さな案内板があり指示に従って狭い道を進むと、国栖奏伝習所があります。川沿いに進むと神社です。能『国栖』では浄見原天皇はここ国栖村の漁翁に命を助けてもらい後に天武天皇となります。能では鮎や根芹を食べたと謡われていますので、想像しながらシャッターを押しました。

謡曲史跡保存会の立て札(場所 神社手前)
能では大海人皇子に鮎を献上していますが、土地の案内板には腹赤魚(うぐい)をお供えしたと書かれています。

神社前
この狭い屋根の下で、国栖奏は舞翁2人、笛翁4人、鼓翁1人、謡翁5人で行われます。 舞翁は右手に鈴を左手にサカキを持って「エンエー」の声に合わせて舞う素朴な舞とのことです。

祠は小さく、浄見原天皇がお祀りされています。

蜻蛉(せいれい)の滝(場所 吉野郡川上村 公園奥の階段を上ること3,4分)
能『嵐山』で「青根が峯ここに」と謡われる青根が峯から流れる音無川に蜻蛉の滝があります。 能『二人静』で「神の宮滝、西河の滝・・・」と謡われる西河の滝はここの事で、段差があるダイナミックな滝です。

滝壺を覗く
滝に沿って小道があり、上から下まで滝を見ることができます。

休憩室から螺旋状の階段を降りると滝壺近くまで行かれます。

壺阪寺の三重の塔(場所 高取町壺阪3番地)
謡蹟とは関係ありませんが、子嶋寺に寄るついでに立ち寄りました。室町時代の再建以来初公開となる三重塔初層が開扉されていて、内陣の大日如来と秘仏弘法大師像が特別拝観出来ました。眼病に効験があるとされています。

子嶋寺(場所 近鉄吉野線壺阪山駅より東北一丁)
子嶋寺のパンフレットには謡曲『田村』発祥の地と書かれていて、第二代延鎮は坂上田村麻呂と師檀の契りあり、此寺を興し後、延鎮と清水寺を開く・・・とあります。能『田村』のシテの語りは「昔、大和の国、子嶋寺(こしまでら)に延鎮といっし沙門・・・」と謡われています。内陣には延鎮僧都の像があります。

当麻寺 中将姫像(場所 葛城市当麻 講堂となり)
当麻曼荼羅で有名な中将姫は、能では『当麻』と『雲雀山』に登場します。『当麻』は大曲なので能楽師のだれでもが簡単に中将姫役にはなれません。『雲雀山』の中将姫は子方なので大人には無理です。中将姫役は能楽師には近いようで実は遠い存在なのです。

謡曲史跡保存会立て札(場所 講堂際)
この立て札よく陽が当たるせいか、文字が薄く剥げてきています。 写真撮影は出来ませんが、講堂と金堂の仏像はすぐれものが揃っています。 中でも金堂の四天王像は白鳳時代の百済からの献納仏、異国的雰囲気がいいです。

満開の藤(場所 東大門から右手、中之坊前)
桜は終わりましたが、導き観音のある中之坊では藤や牡丹が咲き乱れ、花の見頃でした。

石光寺 染寺(場所 葛城市染野387)
聖武天皇の時、蓮糸曼荼羅を織った中将姫はこの寺の井戸で蓮糸を洗い五色に染め、桜の木にかけて乾かしたというので、この桜の木を「糸かけ桜」、井戸を「染め井」というそうです。能『当麻』では染寺は染殿と謡っています。

石碑
「糸かけ桜」、「染め井」の石碑です。

糸かけ桜の古株
古株はガラスケースに入っています。

染の井戸
残念ながらこれ以上はカメラが届かず、井戸の底は見られませんでした。

石光寺の閉門
タクシーで到着したのが5時を3,4分過ぎていたので、もうだめかと諦めましたが、 ちょうどご住職がいらっしゃって、「もうだめですか?」とお願いしたら、「タクシーをご利用なさってわざわざいらして下さったものをお返しするのも・・・」とお情けで入れて下さいました。入ると「門は閉門しますが、どうぞごゆっくり」と言われて恐縮しました。 まことに有り難きお心にほっとあたたかい気持ちになりました。最高の旅の締めくくりということでしょう。

謡蹟めぐり高崎近郊投稿日:2010-05-16

GWの初日(平成22年4月28日)、高崎近郊の謡蹟めぐりに行きました。
新幹線は混雑が予想されるので、湘南新宿ラインの普通電車を利用して、恵比寿から高崎まで2時間かかりますが行って来ました。
東京は晴れていたのですが、高崎近くになったら車窓に雨が落ちてきて、傘が必要になりました。
今回は駅前でレンタカーを借りての謡蹟めぐりです。カーナビーがマイナーな訪問先を案内してくれるので助かりました。

訪問先は、頼政神社(『頼政』)、常世神社(『鉢木』)、佐野の船橋(『船橋』)とその歌碑、定家神社(『定家』)が南高崎駅周辺、午後は磯部まで移動して、松岸寺(『藤戸』)の佐々木盛綱の墓にお参りして、最後は「はやし屋」でひとっ風呂浴びて帰りました。

頼政神社(場所 高崎公園隣 宮元町)
元禄八年、松平右京大夫輝貞公が高崎藩に封ぜられた時、祖先・源頼政公を祀って頼政神社を建てました。源頼政は能では『頼政』『鵺』で登場する、平安末期の源家の正統に生まれた武将にして歌人です。昇殿を願い詠んだ「人知れぬ大内山の山守は木隠れてこそ月を見るかな」は『小袖曽我』にも謡われている。

佐野の船橋跡(場所 上佐野町)
昔は橋がなかったので幾艘かの舟を繋げ、間に板を敷いて橋の代わりにしていたので 船橋と言われていました。今は橋桁は鉄筋ですが、それでも木橋はなかなか風情があります

船橋から上信電鉄電車 橋を渡っていると電車が通過しました。あまり通過しないのは単線のためです。

船橋遠景
対岸に渡り撮影。意外と川の流れが速いのに驚きました。橋桁のブルーカラーはどうも不似合いに感じますが・・・。


橋の上から川を覗くと鯉が上流へと泳いでは流され泳いでは、と繰り返していました。 鮭なら判りますが、鯉も上るのでしょうか?

佐野の船橋歌碑(場所 上佐野町 西光寺近く)
「かみつけの佐野の舟はしとりはなし 親はさくれどわはさかるがへ」の歌碑があります。 能『船橋』では「東路の佐野の船橋取り放し、親しさくれば妹に逢わぬかも」と謡います。 文政10年に作られた歌碑ですが、当時はここから烏川が見られたと思います。今は新幹線の架線しか見えないのが寂しいです。

謡蹟保存会の立て札
今回はじめての保存会立て札。思わず「あった!」と叫んでしまいました。

常世神社鳥居( 場所 上佐野町)
車で通ると見過ごすほど小さな鳥居です。

常世神社
能『鉢木』の主人公、佐野源左衛門常世を祀っています。

石碑
神社左手に石碑があります。

謡蹟保存会の立て札
常世神社は新幹線の下にありますが、神社を外して走ってくれてよかったです。

新しい保存会の立て札
最近立てられた立て札です。いつも見慣れているものと少し違いますが、やはりこれがあると謡蹟めぐりをした気分になります。

定家神社にある周辺案内図(場所 定家神社内)
最初にこれを見れば、周辺が判りやすかったことでしょう。

定家神社(場所 上佐野)
元は高田神社と呼ばれていましたが、定家の詠んだ「駒とめて袖うち払ふかげもなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ」にかけて定家を合祀して定家神社と言われるようになりました。 「駒とめて」の歌は三輪山の麓の佐野とも、新宮市の佐野とも言われているので、あまり能『定家』とは関係が薄いようです。

松岸寺(場所 磯部4丁目11番地)
安中から磯部に向かうと右側に見えますが、見逃してしまうほど小さな参道です。 佐々木盛綱の菩提寺です。

佐々木盛綱夫婦の墓
お寺の左手奥にあり、立派な建物の中には五輪塔があります。

『定家』を勤めて ー虚構の世界にみる真実ー投稿日:2010-03-07


『定家』を勤めて
虚構の世界にみる真実

粟谷明生

粟谷能の会(平成22年3月7日)で『定家』を披らかせていただきました。54歳の披きは流儀としては幾分早く、このような恵まれた流儀の環境に感謝しています。

『定家』で思い出すのは、子どもの頃に「藤原定家と式子内親王は生きた時代が違うから二人の恋などは架空の話。でも能ではその嘘を承知でやればいいの」と話してくれた父の言葉です。もう40年以上前のこと。余談ながら父はこの曲を勤めずに他界しています。

能『定家』の物語が史実に基づいているかどうか曖昧だった時期もありましたが、冷泉家の「明月記」(定家の日記)が世に公開され、治承5年に藤原定家20歳、式子33歳の記載があったことから、13歳の年齢差が判りました。式子は53歳で亡くなり、定家は長生きで83歳の長寿を全うしたことも確定しました。しかし、能で語られるような二人の関係はなかった、というのが今の時代の定説です。父の「生きた時代が違う」という言葉は正しいとはいえませんが、たとえ二人の間に恋する関係がなくても、能には定家が式子内親王に恋慕して止まない心境が描かれているのであって、「能役者は嘘を承知で謡本通りに演ればいい」という父の言葉に間違いはなく、今でもあの時の事が頭から離れないのです。

『定家』の曲名は当初『定家葛』でした。しかし時が経ち「葛」の一文字が削られると、植物・定家葛よりも藤原定家という人物像が演者にも、また観る側にも強くクローズアップされるようになりました。
今回『定家』をご覧になられたご感想に、目に見えないながらも定家の存在感を感じた、というよりも、葛の印象が強く残った…と述べられた人の方が多かったのは意外でした。
私としては「定家の執心、葛となって、この御墓に匍い纏いて…」と稽古で何度も謡っていくうちに、定家の執心を葛という植物に置き換え、植物にとって切り離せない雨を、式子内親王の精魂に重ねるように仕組んだ作者の着想は奇抜で、面白さに改めて感心させられました。


似たような曲に『西行桜』や『遊行柳』がありますが、「桜」や「柳」の文字を取って『西行』や『遊行』としては想像するものが変わってしまいます。植物の桜や柳に魂があり、神のように扱って、桜の精、柳の精を設定する能の演出は能独特の表現で、その曖昧さが面白さを増していると思われます。
『西行桜』や『遊行柳』はワキ役が西行法師や遊行上人という人物で実際に登場しますが、『定家』では、藤原定家を故意に登場させずに存在感を暗示させています。
あくまでも私見ですが、舞台上に定家を登場させないのであれば、今の『定家』の曲名を元の『定家葛』に戻した方が内容に似合っていると思うのですが…皆様はどう思われますか?


そのようなこともあり、今回は作り物の塚に付ける定家葛に拘ってみました。
まず葉の色と大きさです。定家葛は常緑樹であるため緑色の葉を付ける演者が多いのですが、私の知る冬の定家葛は、鮮やかな真紅ではないまでも紅葉しています。先人達の中にも作り物に赤い葉を使用した例もありましたが、葉の形や大きさがとても定家葛とは思えないもので、非常に違和感を覚えていました。そこで今回は、新たに葛の造花を作ることにしました。


< br />写真 『定家』シテ十六世喜多六平太長世 撮影 あびこ喜久三

葉の大きさは本物の定家葛の葉と同じにし、緑色の葉と紅葉した葉を取り混ぜて構成してもらうよう、フラワーデザイナーの小島真佐江氏に依頼しました。引廻を付けた前場では常緑の葉を匍わせ、引廻を下ろすと上部は緑色、下部に下がるにつれ徐々に紅葉していくようなグラデーションをきかせてみました。また従来のように定家葛を作り物の柱にグルグルと巻き付けるのをやめ、匍う感じを出すために、付け方も糸で止めるやり方にしました。ただし当日、細かく多めに糸付けしなかったため、匍う感じが今ひとつ際だたなかったのは心残りで残念でした。
抽象化されている能の作り物ですが、あまりに実物とかけ離れていているものは観る側の想像に支障をきたします。と言っても演能後に映像で見て、舞台装置として考えた時には、もう少し葉が大きい方が舞台効果が上がったかもしれないと悔やんでいます。ご覧になられた方は如何に思われたでしょうか?

喜多流の『定家』は高位の重い習物として扱うため、他流が前シテに若い女性の面「増女」などを使いますが、喜多流は「曲見」を付け中年女性で演じます。また後シテは他流が「増女」や「泥眼」を選ばれていますが、喜多流では悲壮感の強い「痩女」を決まりとしています。
「曲見」は式子内親王の亡霊を中年の女性とすることで曲の位を高める効果がある反面、演者にとっては落ち着いた中年女性の雰囲気を身の構えと謡い方で演じる必要があり、難易度が上がり苦心するところです。


伝書には「若輩の者この能を致すならば小面にて色ある唐織着て苦しからず」と但し書きがありますが、私はこれまで「小面」の『定家』を見たことがありません。この但し書きは宗家などが若くしてどうしても演らなくてはいけない状況での補足であって、一般的には若き者が勤める曲ではない、という、むしろ戒めの言葉だと理解しています。



後シテの「痩女」は、頬の肉が落ち、目元もこけて目は虚ろ、苦悩し疲れ果てている表情で、式子内親王の苦悩を最大限に発揮します。喜多流では「痩女」を付けるとき、特殊な「切る足(一歩一歩細切れのように動く歩行)」を組み合わせる習慣があります。そのため楽屋内では、余計に老女物に準じる意識が高まっているようです。この「切る足」は足の扱いのさじ加減が難しく秘伝とされています。先人たちはかなり過剰に一足一足を躓くかのように演られていましたが、若い時分に拝見して「なにもあそこまで、よたよたのお婆さんにならなくてもいいのに…」と、生意気ながら思ったものです。


近年、友枝昭世師はそれまでの過剰気味の運びにメスを入れられ、単なる老いの動きだけではないものにと、改善されました。必死に自由に動きたいが、肉体はやせ細り体力も衰えてしまってどうにもならないもどかしさ、その不自由さ、アンバランスな心と身体、その葛藤を内に秘めた歩行こそが「痩女」の足遣いではないかと私は解釈しています。

実は、稽古当初は出来る限り普通の運びにと挑みましたが、不思議に「痩女」の表情が思い浮かぶと、それは出来ませんでした。これも面の力のなす技なのかもしれません。
これは私の身勝手な好みとしてお聞き頂きたいのですが、「痩女」の面は、どんなに痩せこけた表情でも貧相であってはいけない、と思っています。「昔はさぞお綺麗だったでしょうね…」という面影が残っていてほしいのです。『定家』はもちろん、『砧』にしても『求塚』にしても、シテの女性は生前美しく、それなりの身分ある方々です。いくら妄執にかられ苦悩しているとはいえ、あまりに汚ならしいお顔はご遠慮したいです。痩せ衰えながらも美しさや憂いがどこかに感じられる「痩女」、そのような面を探し求めて、今回は山中家の「痩女」を拝借しました。

「痩女」でのエピソードが一つあります。以前太鼓の観世元信先生が喜多流の『砧』を打たれた時、わざわざシテ方の楽屋にいらして「後シテの面を拝見させて下さい」とご覧になり「なるほど…。むずかしいね」とつぶやかれました。
この「むずかしいね」が当時は太鼓の出端の位作りのことだと思っていましたが、今思うに、曲そのもののむずかしさを言われていたのではないか、と思い直しています。

『砧』も『定家』も同様、「痩女」だけに限ったことではありませんが、面を付ける演者は面が何を語りかけようとしているのか、を見極めることが大事です。面の持つ力を役者の身体に浸透させ覚えさせ、どのように表現するか、そこが極みだと思います。能を観る方々には能役者のその力量に着眼して観てほしいものです。演者はよい面を付けることが第一ですが、そこで安心することなく、面の力を引き出す技を磨かなくていけない、これが『定家』を勤めての大きな収穫だったように思われます。


能の善し悪しは地謡で決まる、と言っても過言ではありません。
特に『定家』や『小原御幸』などはシテもさることながら地謡の出来不出来が演能の善し悪しを大きく左右します。
楽屋内の話で恐縮ですが、大曲・稀曲を大事にするあまりに、ただゆっくりと、慎重に謡えば成立するというのは誤りです。謡本にゆっくり、しっとりと、じっくり、と書いてあるからと鵜呑みにしてただ鈍重にノリ無く謡っては本物とは言えません。「なんでもノリがある、ノリが大事なんだよ」とは父の口癖でした。「丁寧に謡うのはいいが、頭に馬鹿の二文字がついては価値がないんだよ」と付け加えたのも父です。
ではどうすれば馬鹿が付かない丁寧な良い加減を体得出来るのか、いつも自問自答していますが、結局は良い意味での慣れだと思います。
大曲・稀曲は頻繁に謡うことが少ないので、どうしても慎重に、控えめにと位取りしてしまう傾向があります。しかし大曲・稀曲であろうとも手慣れていけば、ほどよい本当のノリというものが判り体得出来きてきます。そこを知ることが第一だと考えています。

今回の地謡は私より年下の仲間に集まっていただいたため、『定家』を謡うことは重荷だったと思います。しかし父の考えや、私のとり組み方を是非この機会に理解してもらい、臆することなく慣れることで、本当のノリと、引く息の強い訴えかけある謡を目指してもらいたいと希望しました。勿論、慣れ過ぎはいけませんが、経験不足の若者たちにより多く経験してもらうことで、『定家』を遠くて高い神棚にある曲から、もっと間近に引き寄せてもらいたいのです。当日、皆真摯に必死に謡ってくれ、居クセの足の痛さも感じない程で、私の望んだことはほぼ成し遂げてくれたと喜んでいます。もし私の定家がある評価を受けたならば、それは三役も含め、地謡力に助けられたから、と私は声を大にして言いたいのです。これからの彼らに大いに期待が持てると確信しています。

稽古しはじめて不思議に思ったことがあります。
それは何故、式子内親王が僧の弔いにより折角定家の呪縛の定家葛から逃れられるようになったのに、また身動きがとれない苦しい元の塚に戻るのか? ということです。「一味の御法の雨の滴、皆潤いて」とあるように薬草喩品(やくそおゆほん)の読経は時雨の滴のように葛の束縛力を解く効き目を発揮し、式子内親王は自由になって開放されたのです。それなのに何故?

稽古を重ねていくと、自分なりの答えが見えてきました。
それは、読経や雨の効力には時間の制限があるのだろうということ。
そして、式子内親王は成仏するより定家葛にまとわれていたかったのかもしれない、仕方なく塚に埋もれるのではなく、納得して自ら塚に戻ったのではないか・・・と。

実際の年齢は、定家が式子内親王より歳下ですが、式子内親王は53歳で亡くなり、定家は83歳まで生き延びています。
式子内親王の死後、定家は式子内親王の父親みたいな存在に変わっていったのでないか…というのが私の推測・仮説です。
定家自身死ぬまでは、式子の墓は私がお守りすると誓っていたでしょう。しかし自分の死後はどうなるのだろうか、と不安にかられます。そしてその想いは遂に、死後は式子内親王の守り神になろう、たとえ草木になったとしても墓をお守りするのだ…と、こんな想像を巡らせてしまいます。


しかし式子内親王にとってはそういう親心みたいなものが煩わしいのです。愛情とは判っていながらも、時として鬱陶しい…、親を煩わしく思う子ども心のようなものがあったのではないでしょうか。
ですから、二人の関係は肉体的なものではなく、親子愛のような純粋な、それも歌の世界という特殊な環境だけで繋がったものを感じるのです。
式子内親王の激しい恋の歌は実体験から詠まれたものではなく、情熱的な恋への憧れであっただろう、という論説もあります。現実とは別に虚構の世界で遊び戯れていたのかもしれないのです。
勿論、このように考えながら当日舞台を勤めたわけではないのですが、心の片隅にそんな空想を思い巡らせていたことは事実です。

作者の金春禅竹もおそらく、優れた歌の詠み手だった二人に思いを馳せたのではないでしょうか。美しくも激しい歌を詠む式子内親王の父は、あの源平争乱の時代をくぐり抜けた後白河法皇であり、兄は平家打倒の宣旨を出し、後に敗死した以仁王であるという事実。式子は否応なしに歴史の渦に飲み込まれ、翻弄されて薄幸な人生を終えたのです。高貴で美しく才能ある悲劇の皇女・式子内親王と、身分の差はありながら、当時の歌壇で第一人者となった定家の間に、和歌を通しての純粋な恋の話を創造することは、能作家・禅竹の野心であり、夢だったのではないでしょうか。二人の恋は真実ではなく、あくまでも虚構の世界のものだったとしても、互いの歌を認め合い、尊敬しあうという真実はあったかもしれません。禅竹は歌に生き、歌という芸術に殉じたともいえる二人の真実、二人の共通項を見つめていたのかもしれないのです。


いろいろと想像は膨らみます。しかし、「互いの苦しみ離れやらず、共に邪淫の妄執を弔って下さい」という謡の詞章から何を想像するかは、やはり観る方のご自由なのです。すべてご覧になる方にお任せする、それが能の魅力だと、今、再認識しています。
結局、父の言葉通り、演者は舞歌の基礎力と応用力を駆使して、虚構の世界を胸をはって演じればいい、ここに落ち着くようです。
この結論に至ったことと式子が塚に戻ってしまう行動、この二つ、どこか似ている感触を得たのは、演能が終わって数日経ってのこと、ふっと気持ちがほどけたときに感じたのです。              
(平成22年3月 記)

『定家』出演者
ワキ 宝生欣哉
アイ 石田幸雄
笛  一噌幸弘(一噌仙幸代役)
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 国川 純

地頭 長島 茂
副地 狩野了一
地謡 金子敬一郎 内田成信 
   佐々木多門 粟谷浩之 大島輝久 佐藤 陽

粟谷能の会『定家』シテ 粟谷明生舞台写真 撮影 石田 裕

面「曲見」粟谷家蔵 面「痩女」山中家蔵  撮影 粟谷明生

『土蜘蛛』を再演して投稿日:2010-02-17

『土蜘蛛』を再演して

栃木県宇都宮市で文化庁「地域芸術振興プラン推進事業」として、喜多流の能『土蜘蛛』が市文化会館小ホールで催され(平成22年2月17日)、前シテを粟谷能夫が後シテを私が勤めました。

『土蜘蛛』は演能出来るまでの舞台裏の仕込み作業に時間がかかる曲です。
塚の作り物を作り、柱に巣を巻きつけ、大きな一畳台の運搬もありで、地方公演ではどうしても敬遠されがちです。出演者も多く、シテの他にツレが頼光、胡蝶、太刀持と3名、ワキもツレを数名出しますので大人数となります。そして投げる巣糸そのものの購入にもコストがかかるので、いろいろ物入りで、経済的に余裕がないと上演出来ない曲、というのが舞台裏の事情です。

私が最初に『土蜘蛛』に携わったのはツレの胡蝶役を勤めた時、まだ13歳(昭和43年、シテ・粟谷新太郎)でした。当時は若年のため面の使用が許されず直面で勤めました。それから3年後、16歳の時にシテの初演となりました。

その時は、頼光に粟谷能夫、胡蝶には弟の知生、太刀持に父の愛弟子・丸山邦夫氏という粟谷関係者で配役し、ワキも私と同じ年の森常好氏がやられ、お父様の森茂好先生がツレをなさいました。




間狂言は野村耕介氏(故野村万之丞氏)でした。当時、出来るだけ若い人でやろう、と粟谷兄弟能の伯父や父たちの考えで出来た企画だったことを覚えています。
その後、頼光や胡蝶は何度も勤めてきましたが、今回のシテは38年ぶりとなり、当時の巣糸を投げた感覚を思い出すのに時間がかかりました。




『土蜘蛛』の物語は、病床の源頼光のところに胡蝶が薬を持って見舞いに来ます。気が弱っている頼光に胡蝶は慰めの言葉をかけ退出しますが、病室にはいつのまにか僧(前シテ)が近づいてきています。不審に思った頼光は名を尋ねますが、僧は蜘蛛の巣糸を投げかけ蜘蛛の本性を現して頼光に襲いかかります。しかし頼光が太刀で蜘蛛を斬りつけるとそのまま姿を消してしまいました。物騒ぎを聞き駆けつけた独武者(ワキ)はことの子細を聞くと、蜘蛛の血のあとを追い退治に出かけます。血は葛城山の古塚にと続いていて、塚を崩すと中から土蜘蛛の精魂(後シテ)が姿を現します。巣糸を繰り出して武者に抵抗しますが、遂に斬られ退治されてしまいます。
という単純な鬼退治の物語です。

鬼退治の能は『大江山』や『羅生門』などがありますが、『土蜘蛛』は実際に蜘蛛の巣糸を投げて見せるショー的なところが観ていても楽しく面白い能です。特に子どもさんを対象にした催しや、中学高校生などの学生能などでは人気が高く、たくさん観せてあげたいのですが、諸々の経費の事情で、なかなか上演しにくくなっているのは残念なことです。


『土蜘蛛』を勤める時、どうしても蜘蛛の巣糸がきれいに投げられるかが気になります。私も演じる寸前まで心配でしたが、綺麗な投巣のショー的な要素だけで終わってしまうと、単なるドタバタ劇能となり、本当の能とは言えません。能としての面白さは、演者の技巧もさることながら、土蜘蛛族という先住民の被害者の恨みをどのように演じられるかにかかっています。
大和朝廷から侵攻、侵略された土着民の悲哀がどこかに表現されなくては、この能は面白くないと思います。今回、私は後シテだけを勤めましたが、常の「シカミ」の面ではなく、敢えて伝書に書いてある替の面「長霊ベシミ」を試してみました。先日の『青野守』(能楽座日立公演:2月11日)で使った「黒ベシミ」でもよいかと思いましたが、能『熊坂』の専用面「長霊ベシミ」のほうがどこか間が抜けて滑稽な人相をしていて、なんとも憎めない敗北者のイメージにピッタリだと思ったからです。
ご覧になられた方々のご感想をお聞きしたいものです。




若い時は、どうしても投巣の時に焦ってしまい、うまく投げられないでハプニングも起きます。しかし本来は落ち着いた威勢の中に土蜘蛛族の精魂の復讐心を演じることが大事で、千筋の糸を吐きかけ独武者たちを苦しめながらも、勢いが次第に弱って最後は退治されてしまう、その無念さをも演じなければ土蜘蛛を勤めたとは言えないと思っています。

退治される鬼たちの悲劇は、我々芸能者にも通じるものがあると感じます。
侵攻する朝廷側について演じる猿楽師。その能役者は朝廷側が退治する鬼という敗北者を演じなければならない境遇にあるのです。何故か土蜘蛛の精魂を演じていてこの先住民に同情したくなるのは、不思議なことではないのかもしれない、勤めていて、そのように思いました。
(平成22年2月 記)

(写真資料)
『土蜘蛛』後シテを楽屋裏にて シテ粟谷明生 撮影 森 常好

16歳の前シテ 粟谷明生 撮影 あびこ喜久三

16歳の後シテ 粟谷明生 ワキ 森 常好 撮影 あびこ喜久三

楽屋鏡の間にて 
シテ 粟谷明生 頼光 粟谷能夫 胡蝶 粟谷知生 
撮影 あびこ喜久三

後シテ粟谷明生 後見 粟谷菊生 撮影 あびこ喜久三

面 「長霊ベシミ」 粟谷家蔵  撮影 粟谷明生

写真無断転載禁止  

室生寺・長谷寺・大神神社の旅投稿日:2009-11-16

平成21年11月9日、快晴のお天気に恵まれて、いつか再度訪れたいと思っていた室生寺とご本尊観音様の御足に触れることが出来る長谷寺、そして能『三輪』所縁の神社、大神神社と玄賓庵に写真探訪してきました。
大阪の稽古の後、天王寺駅近くに宿泊し、翌朝7時に行動開始。
まずは室生寺を目指し、鶴橋駅から近鉄大阪線の快速に乗車し、室生口大野駅で下車しました。
時計を見るとまだ8時で、バスの始発は9時20分と判り、タクシーにて、室生寺に向かいました。
途中、大野石仏でいったん停車してもらい撮影して、女人高野・室生寺に着くあたりから一面が紅葉しはじめの美しい景色に変わって来ました。
素人カメラマンとしては、ロケーションは申し分なし、あとは撮影の技術なのですが・・・。あとで拙い写真をご覧下さい。
タクシーの運転者さんに、長谷寺経由、桜井駅までの行程で料金を相談すると、待ち時間を無料といううれしい回答で交渉成立。荷物を車に置いて、御朱印帳とカメラだけ持つ楽な行動となりました。
近鉄大阪線の室生口大野駅や長谷寺駅は、停車する電車の本数が少ないので、時間を無駄にしないためには、やはり車での移動がお薦めです。
では、写真でご紹介します。

大野石仏
室生口大野駅から大野寺を通過すると、直ぐに宇陀川の渓流をへだてて断崖に高さ13メートルの磨崖仏が見えてきます。

弥勒仏
三脚が無かったので、手持ちで250mmの望遠レンズで撮影しましたが、やはりピントがあまく、残念・・・。

室生寺山門
室生川に沿って山を上ると、だんだんと紅葉がはじまります。室生寺の朝は人も少なく境内はご高齢の方々がお掃除をされていました。お話を伺うと「人数が足りなくて困っています」とのこと。綺麗に掃かれたお庭は厳粛な雰囲気が漂っていました。
やはりお寺は早朝に限ります。

五重塔
屋外に立つ五重塔では最小のもの。一時台風で破損しましたが直ぐに再興されました。

金堂の屋根
喜多能楽堂の舞台の屋根は室生寺の形を真似た、と聞いています。

金堂側面
金堂内陣には、十一面観音、文殊菩薩、本尊釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩がならび、その前には薬師如来の眷属、十二神将がまるで動いているように見えました。土門拳がどのように撮影したのか、と思いながらも、残念ながらここは撮影禁止です。

室生川の紅葉
奥の院までの往復は徒歩1時間程かかるというので、今回は諦め長谷寺を目指すべく、 タクシーの待つ駐車場戻ろうとすると、なんとなく気になる紅葉があり撮影。

長谷寺仁王門
普通はここから長い階段を上って本堂に行きますが、足の不自由な方やタクシー利用者は裏道を使い、納経所付近まで車で行かれます。これあまり知られていませんが、歩きたくない方はどうぞ。

長谷寺特別拝観
拝観料は¥1000。写真のように御足に触れて「ご縁」を結ぶことが出来るというのです、折角のチャンスでしたので触れてきました。
拝観前、手に五色の糸をより合わせた腕輪をはめてもらいますが、観音様とご縁が結ばれたというしるしだそうです。下から見上げる観音様はとても大きく、なんと言ってもこんなに近くにいられるのが貴重です、拝観料決して高くないと私は思いましたが・・・。

大白鷲
特別拝観を終えて外に出ると、お若いお坊様が「あそこに大鷲がいますよ、そのカメラなら撮れますよ」と声をかけて下さり最大アップで撮影しました。しかし250mmではここが限界でした。

二本の杉
車道の途中に能『玉葛』で謡われる「二本の杉」があります。ここに来るのはこれで3度目です。

藤原俊成と定家の塚
「二本の杉」から少し下がったところに歌人・藤原俊成と定家の親子の塚があります。
真ん中が定家の塚です。来年、能『定家』を勤めるので、ご挨拶のお祈りをして来ました。

大神神社の二の鳥居
三輪山の拝殿まで鳥居は三つありますが、一の鳥居はとても大きく拝殿からかなり遠いところにあります、二の鳥居がこれで三の鳥居は山の奥にあります。

巳の杉
この杉が能『三輪』の杉かと思いましたが・・・。

能『三輪』の神木
拝殿に向かい右に、能『三輪』のご神木と書かれた枯れ木がありました。
謡曲保存会の駒札も立てられています。

玄賓庵
大神神社から山辺の道を歩くと玄賓庵に着きますが、狭く決してよい道ではありません、悪天候での徒歩は避けるべきでしょう。

小さな山門
白壁がとても綺麗です、二人同時には入れないくらいの小さな門です。

玄賓庵
どうも無人のようですが、お庭は綺麗に掃除されています。

小さな山門
白壁がとても綺麗です、二人同時には入れないくらいの小さな門です。

石塔寺投稿日:2009-10-16

平成21年10月3日、喜多流の仲間3名と滋賀県の阿育王山・石塔寺(あしょかおうざん・いしどうじ)に行きました。一度は訪れたいと思っていた珍しいお寺ですが、なにしろ交通の便が悪い辺鄙なところなので、車が便利です。今回はレンタカーを借りての大阪からの出発となり、参拝して参りました。

では写真でご紹介します。

まずは記念撮影、石塔寺に行きたいと提案した粟谷能夫氏(右)と出雲康雅氏(中央)と私。撮影 内田成信氏

石仏を目指し
粟谷能夫氏の「では行きますよ!」の掛け声に全員気分はワクワクでスタート。

本堂と阿育王塔への道
この参道を上がると左手に受付、右手に本堂が見えます。

拝観料と御朱印
受付で御朱印を頂く内田成信氏。

山門
石塔寺の開基は聖徳太子、天台宗のお寺です
阿育王山の文字が横に並んでいる門をくぐると左に本堂があります。

本堂前 
どうも行動が別々になりがちな私たち、でもひとたび号令をかければ・・・。

本堂
織田信長の元亀の兵火などにより、伽藍は焼失し全山荒廃しましたが、江戸時代に天海大僧正の弟子、行賢により復興されました。

石段の脇に石仏
本堂を出て右に長い急な石段が見えます。
石段の左手には石仏が見えはじめ独特の雰囲気が感じられますが、これは未だほんの序の口でした。

石段
長くきつい上りの石段、ここでも我々の行動は・・・バラバラ

三重石塔
石段を上がりきると・・・眼前にこの風景が飛び込んできます。
司馬遼太郎は「最後の石段をのぼりきった時、眼前に拡がった風景のあやしさについては私は生涯忘れる事が出来ないだろう」と評していますが、まさにその通り圧巻です。

阿育王塔と石仏
インドの阿育王が仏法興隆のために世界中にばらまいた八万四千の仏舎利塔は日本にも二つ届きました。一つは琵琶湖の湖底に沈みましたが、もう一つがここ石塔寺にあります。
比叡山の寂照法師が宋(唐とも)に留学し清涼山にて修行中、琵琶湖東辺に阿育王塔が埋もれることを聞き、日本に手紙を書きました。それを知った一条天皇は勅使の平恒昌と武士の野谷光盛に調べさせると、この地の土中より大塔が出現しました。
能『石橋』の脇役は「これは大江の定基といはれし寂照法師にて候」と名乗りますから、ここは謡蹟でもあります。

記念撮影その1
前日は雨でしたが、まぶしいくらいの晴天に恵まれました。

記念撮影その2
「私も~~撮ってよ」と内田君に撮影依頼、石塔の大きさがお判りになると思います。

石仏群
鎌倉時代になると、参拝者が極楽往生を願い五輪塔や石仏を奉納するようになり、 多くの石仏が集まりました。

石仏
江戸時代にも石塔石仏の奉献は引き継がれ、その数は次第に増えたそうです

石仏
三重石塔の周りだけではなく、正面右手にも多くの石仏が広がっています。


石仏いろいろ
広角レンズで撮影してみました。

山頂一周コース
一周廻れる山道があり、その脇にも石仏がたくさん点在しています。

いろいろな石仏
こんな珍しいものもありました。

下り坂
この手すりは助かります。先を行くのは出雲康雅氏、後方に内田成信氏
粟谷能夫氏はもう降りているらしく見あたらない。
ちょっとよそ見をしていると踏み外す危険な下り坂ですのでご注意下さい。


感無量の内田成信氏
「ご感想は?」に「あ~いいところですね…、ここが僕の御朱印のはじまりだ~~」と私も今回訪れることが出来て感激でした。

『通小町』を勤めてー演出の工夫の重要性ー投稿日:2009-10-11

『通小町』を勤めて―演出の工夫の重要性―

粟谷明生



粟谷能の会(平成21年10月11日)で『通小町』を勤めました。
『通小町』は八瀬の里の僧が毎日木の実や薪を持って来る女の素性を尋ねると、市原野に住む姥で弔ってほしいと言い残して消えます。僧は姥が小野小町の幽霊と察し弔うと、薄の中から小町の亡霊が現れ僧に授戒を願います。すると深草少将の怨霊も現れ、小町の成仏を妨げようとします。僧は深草少将に懺悔のために百夜通い(ももよがよい)を見せるように説くと、少将は雨の闇路を小町のもとに通い無念にも九十九夜目に本望をとげられずに果てたことを語り狂おしく見せます。そして飲酒戒の戒め、佛の教えを悟った途端に多くの罪業が消滅して、少将も小町も一緒に成仏出来たと喜び消えていく、という物語です。

この曲は観阿弥作と言われ、通常の様式とは違った特異な構成です。シテ(深草少将の霊)は後場にしか登場せず、その代わりにシテツレ(小野小町の霊)が前場と後場に登場し、舞台進行役を勤めます。このツレ役はシテと同格・同等といわれる大役ですが、私はあまり意識過剰になり、シテのようになってはいけないと考えます。あくまでもツレはツレの立場、その許容範囲を超えずに勤めるのがツレの心得だと思います。



ツレは絶世の美人、小野小町ですから演者は立ち姿を良くし、謡も張りのある高音の声で、ちょっとツンとした冷たい感じの美人小町になれば、これが私の理想です。このツレ役、我々は指名されると嬉しい反面、その責任の重さを感じます。なんと言ってもツレとしての位をつくるのが難しく、これは何度も経験することでしか習得出来ません。

喜多流は観世流、宝生流と違い、前場の木の実尽くしの段の前にサシ謡(かたじけなき御譬なれども・・・)があります。ここの節扱いは難しく聞かせどころです。昔、父に「上がる音が違う、もっとやさしく張って謡え」と注意されたことを思い出します。今回、長島茂氏に私のツレの考え方を伝え、この大役をお願いしました。それに応えて勤めて下さったことに感謝しています。

前ツレは「市原野辺に住む姥…」と謡本にあるように小町の化身で老女です。しかし現行の演出は、前場も後場も若い女の扮装(紅有唐織・小面)のため詞章と姿が咬み合わなく、この似合わぬ扮装は演者からも観客からも、おかしいのでは…と言われています。

そのため近頃は前場のツレの装束や面を替えるのが流行っています。姥なら本来、鬘は白髪、面は「姥」ですが、中入で鬘を替えるだけの時間が無いので、今回、姥姿は諦め、鬘を替えずに装束を紅無唐織(いろなしからおり)にして面は「深井」にしました。後場は若き日の小町として再登場するので、中入で紅入唐織(いろいりからおり)に着替えます。短時間での着替えは忙しいので、あらかじめ装束に仕掛けをして、着付ける者も付けられ者も無駄を省き手際良く物事を運ぶことに集中します。



後場は普通、一声(いっせい=出囃子)にて、ツレは本舞台常座に入り、シテは橋掛り一の松辺りに立ち、無地熨斗目を頭から被り、被衣(かずき=姿が見えないことを表す能の約束事)の格好で問答となります。これは長時間屈んだままの姿勢なので息がしにくく謡いづらいもので、しかも無地熨斗目を持つ手が次第に痺れてきて肉体的にも非常に辛い演出です。「初演は被衣で…」という流儀の決まりがありますが、私は二度目ということで許して戴いて、被衣ではなく揚げ幕の内側に床几に腰掛けての問答としました。

幕の内側で謡う場合は、演者の声がしっかりと会場の隅々まで聞こえなくてはいけません。しかし、どうしても面を付け、揚げ幕の内側に居ると聞こえづらいようです。特に国立能楽堂のように長い橋掛りでは声の届きが悪く、演者は大きな声を意識しますが、ただ単に聞こえればと馬鹿でかい声では成立しません。地獄の暗闇からの亡者の叫びに聞こえれば良いのですが…。地下から呪いの声が聞こえるようで怖ろしい、と観客に思っていただけたら演者としては成功です。私も声の大きさには自信がありますが、どうも思ったほど充分に聞こえなかったようなご意見もあり、もっと大きな声を出す必要があるのかと、反省し勉強になりました。




演出の工夫に装束選びもあります。
普通は水衣に大口袴の出立ですが、替装束として狩衣・指貫(さしぬき)もあり、指貫の姿は少将の霊という優美な姿となります。初演は指貫で勤め、実は今回もそのようにと思っていましたが、同じ日に『葛城』で緋色指貫を使うことになり、指貫が続くのは好ましくないので、私は大口袴にしました。

指貫と大口袴の違いは単に格好が違うだけではなく演じ方も変わります。指貫は雅な風でやや柔らかな動きでも似合いますが、大口袴は鋭さや強さが必要となります。今回は大口袴で力強い少将をと心掛けましたが、如何でしたでしょうか。皆様のご意見をお聞きしたいです。

さて、少将が雨夜、小町のもとに通う道中をカケリ(立廻り)で演じます。笠を両手に持ち頭を隠して静かに目付柱まで行き、一旦遠くを見上げると、また屈んで左廻りをして大小前にて廻りながら、笠を落とします。



何故落とすのでしょうか?
風が強く吹いたとも、雨に濡れた手が滑ったとも、いろいろ観る側の想像にお任せするところです。少将は暗闇の中、手探りに笠を捜し見つけ取ると「あ?ら暗(くら)の夜や」と低い調子でありながらも、まだ諦めない強い気持ちを込めて謡います。このような調子も、経験を積まなければ出てこないものです。

今回、特別に小鼓の大倉源次郎氏にお願いして、カケリの手組に干流しと乙流しを打ってもらいました。チ・チ・チ・・・・と干(かん)の小さな高い音色からはじまり、笠を落とす寸前にポ・ポ・ポ・・・と乙(おつ)の低い透き通る音に替わり、笠を落とした途端に通常の手組に戻ります。小鼓の音色の変化で雨夜の百夜通いを聞かせますが、その音色が、雨の音とも、また忍び歩く足音ともと想像して演じましたが、演能後、大倉氏は少将の心音を打つ気持ちで打ったと言われました。ひとつの音色もいろいろな聴き方、捉え方がある、能はそれぞれ個人の自由に想像して観賞するものなのです。

このような演出は他流の雨夜之伝にはありますが、喜多流としては今までに取り入れたことはありません。「喜多流にないものを…」と苦言を呈する方もいらっしゃるやもしれませんが、しかし私はこれからの時代、能楽演者はより良い舞台を提供するために、いろいろなものを受け入れ試みるのがよいと思っています。それが良いものならば必ず残り、似合わぬ物は自然と消えていくでしょう。それでいいと思うのです。消えるだろう、似合わぬだろうと頭から決めつけるのではなく、最善の工夫を凝らすところに価値があるのではないでしょうか。勿論、いろいろな試みを取り入れるには能楽師として技術的なものを会得した上でという条件付は当然の事ですが…。

能には理屈や詞章に合わないことがたくさんありますが、総てを理詰めにする必要はないでしょう。しかし、現代に似合う演出を可能な限り捜し出す作業も能役者の忘れてはいけない大事な仕事です。演者側の都合ばかりを優先するのではなく、ご覧になられる方が舞台で起きていることが、スムーズに判りやすく想像出来る、そのような舞台環境作りを志したいのです。

今回も能役者の工夫ということで、いろいろ試してみた『通小町』でしたが、
鬘を取り替えることが難しいからと諦めた姥姿も、鬘の上に白い毛を乗せる仮髪を用いる方法がすでに試みられていることを後日知り、驚かされ感心してしまいました。
あ?何でそこに気が付かなかったのかと、自分に悔しい思いもしましたが、そのように考え、挑まれている方がいらっしゃるかと思うと、心強く嬉しくもまた励みにもなります。次回『通小町』を演るときは、是非それを導入したいと思います。

能をようやく考えて舞えるようになり、今能が面白くてたまりません。
「考えて舞っているようじゃ本物ではない…」という父の嘆きの声が聞こえて来そうですが、考えないで舞える、そのような高位になるには、充分に考え、考え抜いて、というもがき苦しむような時期があってもいいのでは、そんな状態を通過しなければ訪れてこないのでは…そう自分に言い聞かせています。屹度父も判ってくれるのではないでしょうか。(平成21年10月 記)

写真 粟谷能の会 平成20年10月 
シテ 粟谷明生 ツレ 長島 茂 小鼓 大倉源次郎 大鼓 亀井広忠
撮影 石田 裕 

『石橋』親獅子を披いて投稿日:2009-10-11

『石橋』親獅子を披いて

粟谷明生




粟谷能の会(平成21年10月11日)にて『通小町』を勤めた後に半能『石橋』連獅子のシテを披きました。今までにツレ(子獅子)を7回勤め、最後は平成13年10月の粟谷能の会でした。あれから8年が経ち、この度、念願の親獅子を披くことが出来ました。ツレは従兄弟の粟谷浩之君で、こちらもツレの披きでした。
第86回粟谷能の会はちょうど亡父菊生の正命日に当たり、丸三年の月日が経ちました。洵に月日の流れの早さに驚いています。

私は、残念ながら父の子獅子は観ていませんが、親獅子は何度も観ています。
いつかあのように力強く舞いたい、と憧れていました。
父の親獅子は子獅子と変わらないほど軽快で俊敏に動き飛び廻る躍動感溢れるものでした。高齢なのによくあの様に激しく動けるものだと身体的な強靱さに驚き、感心させられたものです。

以前、囃子科協議会で『石橋』連獅子があり、親獅子を粟谷菊生、子獅子に友枝昭世氏という豪華配役がありました。その時もどちらが親で、どちらが子なのか判らないほど二人の勢いは凄まじく、兎に角、身体のキレの利かせ方が上手で、走り回り飛び回って他流の方々もいる楽屋を驚かせていました。「菊ちゃん、お若いね、よく動けるね」と他流の方から声を掛けられると、にやっと笑っていた父の顔が忘れられません。私は、親獅子というものはあのように素早く軽快に動くものだと思っていました。

ところが平成4年、私が友枝昭世氏(シテ)との連獅子を終えた後に、父が友枝氏にすっと近づき「昭世ちゃん、やはり白(親)はあのぐらいゆったりと、頭の振り方も、ゆったりとした方が親らしいね。我々のは、ちょっと動き過ぎていたね」と笑って話していたのを聞いてしまいました。確かにそうです…。私もそれから、ゆったりとしなければ親の貫禄は出ない、と思うようになりました。シテ(親)はツレ(子)よりどっしりとゆったりと、やや遅れめに動き、子の軽快さ俊敏さを引き立てる、それこそ親の役目なのでしょう。

私は数回の子獅子の経験から、いざ幕を上げて出て行くシテの後ろ姿が目に焼き付いています。シテの「おまーく」の力強い掛け声で揚げ幕が勢いよくサッと上がり、橋掛りへ出て行く後ろ姿、それを子は見て真似るのです。

父の出は、スーッと本舞台に吸い込まれるように滑らかに出ていく風でした。友枝昭世師のは、目の前にある重厚な固まりがズカー、ズカーと一歩一歩地響きを起こすが如くに、進むように見ました。どちらもすばらしく憧れます。それでも父には悪いのですが、今の私は地響きが好みです。

連獅子のシテは子を引き立たせることが役目で最優先といいますが、唯一シテの本領発揮の見せ場もあります。それは幕が上がってすぐの場面です。シテが進み出て三の松で一度ピタッと止まり、乗り込む拍子を踏むと次第に囃子のノリも進み、シテは徐々に加速して二の松から急進し一の松で身を乗り出し踏ん張って止まります。牡丹に向かいまるでライオンが「グア??」と叫ぶ様に面を大きく切る、ここの型が決めどころです。そして左右に三度、牡丹に戯れるように乗り込み拍子を踏みます。獅子の気分は最高潮に達し、喜びを表し、右回りに一回転飛びして右足を宙高く上げて一旦止まり、拍子を踏みツレに合図します。ここが最大の見せ場となります。




ここが決められるかどうかが、シテの善し悪しの判断基準になります。ドンと強く足拍子を踏み、子獅子に「さあついておいで、という気持ちでやるんだ!」とは父の言葉です。そして親の役目はここで決まり、あとは子獅子の世界だ! とも言っていました。さて、私がそのように出来たかどうかは別として、そのような意識をして勤めたことに間違いありません。

今回、ツレとの数回の稽古で浩之君には、私が父や友枝師から教えていただいたことを、私の言葉で伝えたいと思いました。常に牡丹に戯れる気持ちを忘れないこと、牡丹の匂いを嗅いでじゃれる獅子という動物である意識、それらを忘れないこと、胸を張り、首筋をきちっと決め、腰で舞うなどと言いながらも、実は自分に言い聞かせていたのです。


今回親獅子というものを経験して、昔のようにシテが自由な気分で動き回るのは荒々しさがあって良いかもしれませんが、現代はどっしりと力量感に溢れた親獅子というイメージで、このように変わっていくのだろうと感じました。
なんでも昔がよかったと丸呑みにする前に、本来どうあるべきかを再度調べる、それを忘れていけないと改めて思っています。




楽屋裏話になりますが、昔はこうだったと、まかり通っていることがよく調べてみると、意外と伝承の読み落としや読み違い、勘違いだったということもあるのです。間違いや勘違いが悪いというのではなく、何でも疑ってかかるのも行き過ぎかもしれませんが、能の本質、本物に気付く努力をしてこそ正統な伝承と言えるのではないでしょうか。
古典や伝統・伝承という言葉に頼り、甘えるのだけはしたくない、と思っている昨今です。
                    

(平成21年10月 記)

写真 『石橋』 連獅子 シテ 粟谷明生 ツレ 粟谷浩之 粟谷能の会
撮影 石田 裕

壇ノ浦近郊投稿日:2009-09-16

平成21年8月1日、山口薪能の演能翌日、新山口駅を経由し新下関駅からタクシーを利用して源平合戦最後の地、壇ノ浦近辺を写真探訪して来ました。
源氏方が兵舟を隠していた満珠島と千珠島、平家一杯水、壇ノ浦古戦場跡、七盛塚と安徳天皇をお祀りしている赤間神社を参拝し、対岸に見える和布刈神社へ、関門トンネルをくぐり九州門司へ渡り参拝して来ました。
では写真でご覧下さい。

満珠 千珠の島
曇天のため視界が悪く、画像が良くありませんが、画面右が満珠島、左が千珠島。源平の戦で、源氏方は一時戦況不利となり、この二つの島まで追い込まれてしまいますが、義経が平家の梶取をねらい射るように命じたので平家方は大混乱となりました。

平家一杯の水 敗れた平家の武将は泳いで陸に辿り着き、この井を見た者は真水と信じてこれを貪り飲んだといいます。しかし井水は鹹水(かんすい=海水)だったため飲んだ者は命を落とし、気が付いて吐きだした者は命が助かりました。

平家一杯の水(後方より)

ちょうど潮が引いていたので海側からの撮影です。
平家一杯の水(上から)
現在、井戸はご覧の通り鍵が掛けられ、底は見ることができません。

御裳濯川(みもすそがわ)
能『小原御幸』では「今ぞ知る、御裳濯川の流れには、浪の底にも都ありとはと」と謡います。御裳濯川は小さな川で以前は海に流れ込んでいたのが見られたようですが、現在は道路の下を流れるようになり残念ながら見られません。その代わり観光用に橋が作られています。

御入水処の碑
二位殿が安徳天皇に「この国は逆臣が多く、浪の底にも都がありますから、そちらに参りましょう」と入水したところは、この石碑から向かいの地へ100メートル先と言われていますが・・・。

御入水処
「自らも続いて沈みしを」と建礼門院も続いて入水しますが、源氏方の武士に熊手で引き上げられて助かります。

赤間神宮の水天門
昔は阿弥陀寺と言っていましたが、明治になり、赤間神宮となりました。
明治9年、昭憲皇太后宮が「いまも猶、袖こそぬるれ わたつみの 龍の都の御幸思えば」との御歌を詠まれ、昭和33年世界唯一の竜宮造りの御造営となった。御祭神は安徳天皇、御祭祀は安徳天皇神鏡です。

水天門全景
平家一門の先祖は龍神であると考えていたため、海底への入水は死というよりも、都に帰る思想があったとも言われています。

安徳天皇御陵
幼くして亡くなった安徳天皇のお墓で、西日本ではただ一つの御陵です。

平家一門の墓
神社本殿を左に入ると、耳なし芳一の像の横に平家一門の墓は並んでいます。

七盛塚
壇ノ浦合戦に亡びし平家一門の武将を祀る、と赤間神宮略記に記載されていますが、右から二番目の平清経は壇ノ浦合戦には参加していないので、ここに祀られているのはおかしいと疑問に感じるのですが・・・。

墓の方々
前段には平氏一門、後ろにその配下の者の名前があります。 後列右端の伊賀平内左衛門・平家長は知盛の傳子(めのとご)で、『小原御幸』では弓を取り交わし死出のお伴に入水した人です。 この中で謡に登場する者は、清経、教経、経盛、知盛、家長、時子です。

教経・資盛の碑
能『小原御幸』では教経は、安芸の太郎兄弟を道連れに入水したと語ります。

和布刈神社(めかりじんじゃ)
関門海峡の門司側にある和布刈神社。能『和布刈』のワキはこの神社の神主で、松明と鎌を持ちワカメを狩ります。シテは竜神を勤めます。

和布刈とは
和布は万物に先んじて芽を出し自然に繁茂するので幸福発生の姿があり、また神の依代(よりしろ)との考えから神前に備え、お祭りをすると、神社の説明にあります。そのときに神職の者が鎌と桶を持ち、松明で社前の石段を照らして下り、厳寒の海に入って和布を刈る神事があるそうです。 それにしても、能『和布刈』はあまり演じられない脇能です。喜多流での演能は未だ見たことがありません。

保存会の駒札
写真探訪には欠かせない謡蹟保存会の駒札は神社本殿の前にあります。

九州から見る「平家一杯水」
和布刈神社から300mmの望遠レンズで本州側の平家一杯の水を撮影、曇天のため鮮明に撮影出来ませんでした。

細川忠興公寄贈の灯籠
和布刈神社前の関門海峡の海流が激しいところに立派な灯籠がありました。

『鵜飼』についてー闇と光の間からー投稿日:2009-08-31




秋田大仙市の「まほろば能」(平成21年8月31日)にて『鵜飼』を勤めました。
『鵜飼』の物語は、安房国(千葉県)清澄の僧(ワキ)が従僧(ワキツレ)を連れて甲斐国(山梨県)へ行脚の途中、石和川(現・笛吹川)に着くところから始まります。
僧達は土地の者に宿を頼みますが、旅人に宿を貸すことが出来ない土地の決まりがある、と断られ、川沿いの御堂に泊まることにします。

夜も更けると、鵜使いの老人が現れ、鵜を休ませています。僧は高齢での鵜使いの仕事は身体にきつく、殺生の生業は佛の教えに反すると他の職を薦めますが、老人は若いときからやっているので、今更変えることは無理だと言い返します。
従僧は老人が、以前自分に宿を貸した鵜使いであったことを思い出すと、老人はその者は殺生禁断のこの川で鵜飼をしていたのが見つかり、簀巻きにされ、殺されたと語り、実は自分はその亡霊であると明かし、僧に回向を願います。
僧が回向を約束すると、老人は鵜使いの有様を見せて、名残惜しげに闇に消えて行きます。

(中入)

僧たちが土地の者に鵜使い簀巻きの話を聞き、供養のため法華経を川辺の石に一字ずつ書いて川に沈めていると、閻魔王が現れ、生前殺生をした鵜使いは無間地獄に行くべきだが、僧に宿を貸したことと、法華経の回向があった利益により、鵜舟に乗せて極楽へ送ると告げ法華経を賛美して消えて行きます。




私は「鵜之段」(「湿る松明振り立てて・・・」から中入までの仕舞どころ)を舞うときにいつも不審に思っていることがありました。私の想像する鵜飼漁と仕舞の動きに、似合わぬちぐはぐさを感じていたからです。
そこで今回演能にあたり石和川の鵜飼について調べてみました。
すると、石和地域の鵜飼漁は徒歩鵜(かちう)と呼ばれる鵜匠が川の浅瀬に入るやりかたであることを知りました。

鵜飼というと、鵜舟に篝火を灯し、鵜匠と舵取りの二人が乗り、鵜匠が数羽の鵜を操る長良川の鵜飼いを想像していましたが、石和地域ではそうではないようです。
「鵜之段」は、右手に松明を持ち左手は中啓にて鵜の動きや鵜使いの様を見せるむずかしい型所です。その動きは、まさにひとりで鵜を操る様子を見せます。
この型を考えれば能『鵜飼』も徒歩鵜と考え何も支障はないのですが、ここに一つ問題があります。『鵜飼』で謡われる「鵜舟」という詞章が引っかかりました。
「鵜舟に灯す篝火の・・・」「櫂も波間に鵜舟漕ぐ」「鵜舟の篝 影消えて・・」と鵜使いが舟に乗っていることを示す謡が随所にあるのです。
私は能『鵜飼』の鵜使いは、やはり一人で行う徒歩鵜をしていたと思いたいのですが、どうしてもこの謡が気になります。

『鵜飼』は榎並左衛門五郎の作に世阿弥が改作したと言われています。作者たちが徒歩鵜を知っていたかは謎ですが、あの鵜之段の動きはまさに徒歩鵜だろうと思います。
ではなぜ鵜使いは鵜舟に乗って登場するのでしょうか?
徒歩鵜をするにしても、現場までは舟を使っていた、とも考えられますが、まったく回答が出来ないでいます。しかし判らなくても出来てしまうのが、能の世界。それらしく謡い、型をきちっと真似れば作品は出来上がります。

今、このことを自分の中で解明出来ないまま能を勤めたストレスがあるのですが、能にはまたそのような矛盾点もあっていいのかもしれない、などと納得してもいるのです・・・。
何かご意見などがあれば、お教えいただきたいと思います。

次に前シテの語りの解釈について気になることがありました。
喜多流の謡本には、次の通り記されています。
「今、仰せられ候、岩落と申すところは、上下三里が間は堅き殺生禁断のところなり、鵜使い多し。夜な夜な忍び上って鵜を使ふ。何者なれば堅き殺生禁断の処にて鵜を使ふらん。憎し彼を見あらわし。後代の例に罧(ふしづけ:簀巻きにして水の中に沈める刑)にせんと狙ふをば夢にも知らず。またある夜忍び上って鵜を使ふ。狙う人々ばっと寄り。一殺多生の理に任せ。彼を殺せと言い合へり、その時左右の手を合わせ。かかる殺生禁断のところとも知らず候。・・・」
これを訳すと、「石和川の岩落ちという所は禁漁区域であるのに、鵜使いが多く密漁が絶えない。そこで石和の土地の者達は相談して、一人の鵜使いを掴まえ見せしめに殺し密漁を防ごうとした。ある夜、土地の者達が見張っているとも知らず鵜使いが現れ密漁をはじめたので全員で掴まえた。鵜使いは禁漁の場所とは知らなかった、もうしません、と助命歎願したが、土地の者達はだれも鵜使いの言うことを聞かず、遂に罧にして鵜使いを殺した」となります。

以前、観世座で配布された「鵜飼をめぐって・義江彰夫」に石和川の鵜飼について興味深いことが書かれていました。
義江氏は、石和という土地が、もともと伊勢神宮の御厨(みくり:荘園)であったことに注目しています。
石和地域は北条殿並びに、甲斐源氏が代々伊勢神宮の御厨として統治してきました。
諸国各地にある伊勢神宮の御厨では、魚介類が年貢の中心とされていたので、石和の御厨も同様に魚を献上していました。そのために特権を持った石和御厨の鵜使いが存在し、献上以外での漁を殺生禁断の名のもとに厳重に禁止していた、とあります。
このように考えると、岩落あたりは殺生禁断の場所ではあるが、一部特権階級の鵜使い集団がいるので、「鵜使い多し」ということなのでしょう。

では、夜になると忍んで鵜を使うのはどこの誰なのか?
また憎いと思い彼を狙った人々の素性は?と気になります。

義江氏の説明から考えると、殺された鵜飼いは石和村の特権を持たない一般の鵜使いか、または他の土地から来る外来の鵜使い、ということになるのでしょうが、二三年前に往来の僧を泊めたという詞章から外来の鵜使いというのは可能性が薄いように思えます。

私は罧というあまりに残酷な罰を、見せしめだからといって、同じ村の一般の鵜使いに行うのだろうか?とも思いましたが、逆にそこに悪行をした末の恐ろしさが書かれているのかもしれないと思います。




今回私は、石和川の一般の鵜使いの老人として演じました。
ですから、知らなかった、もうしません、との弁明の謡にも、裏があるように思えて、
真実知らなかった、というクドキ謡では信憑性がない、口からでまかせのような鵜使いのしたたかさも演じられたらと思い、そのような気持ちで謡いました。
判っているがやめられない、現代にも通じる人間の弱さ、今世間を騒がしている麻薬中毒患者たちの事件が、それを証明しています。そこには中世と現代の共通性があり、それを描いてきたことが、能を長年面白く感じさせ、継承させてきた所以だと確信しています。

では、憎いと思って彼を狙った者はだれか、普通は上記の訳のように「土地の者達が相談して」となりますが、実際は、利権を持っている者がその利権を脅かす行動に怒り、それを伊勢大神宮の名前を借りて戒める行動だと私は解釈しています。
それにしても、一殺多生の理、一人を見せしめとして殺し、今後、規則を破る者を防ぐ策としての考えは、現代の警察庁が芸能人をターゲットにして、日本の薬物汚染を一掃しようとするのに似ています。昔も今もなんら変わらないことを、能は取り上げているのです。




『阿漕』『烏頭』『鵜飼』の三曲を三卑賤といい、いずれも殺生の業を営む漁夫、猟師の苦悩がテーマとなっていますが、『阿漕』や『烏頭』は後シテが生前の姿の亡霊となり回向成仏を願い地獄の悲痛さを訴えるのに対して、『鵜飼』の後シテは閻魔王と別の人格となり、短い後場は終始、法華経の賛美でまとめるという珍しい構成です。

『阿漕』『烏頭』が密漁をすると苦しい地獄の責めに会うという殺生撲滅キャンペーン曲なのに対して、『鵜飼』は禁を犯しても法華経を信じれば救われるという救済キャンペーンの宗教歌になっています。
『鵜飼』の前場は、いけないと禁止されていても、それを破る性分、そしてその業の面白さにはまってしまう人間的なところを演じますが、後場は一変して閻魔という異次元の鬼になって、法華経を賛美、演じるので、演者としては少々やりにくさを感じる、というのが正直な感想です。ではその対応は?と聞かれれば、それは、教えの通り、淡々と力強く、どっしりとしたイメージで動き謡う、それに留まる、それが本音なのです。




『鵜飼』は「暗闇」と「月」という二つの言葉がキーポイントでもあります。
暗闇という迷い多き衆生の世界と真如の月と言われる明るく正しい世界。
暗闇を松明で照らし、鵜を使い魚を捜す鵜使いが、漁の面白さに取り付かれた様を舞う「鵜之段」の終わりに、月の光が漁の妨げになると嫌う鵜使いの心が地謡によって謡われます。
「不思議やな篝火の燃えても影の暗くなるは、思い出でたり、月になり行く悲しさよ」と。
月が出ることで篝火が利かなくなり漁がやりにくい、と鵜使い(前シテ)は嘆きながら、やがて篝火の消えるように闇路へ、闇の世界へと帰っていくのです。
昔は、型の動きや、決まりどころばかりに気を取られていた自分、この曲の面白さを教えてくれたのが闇の暗さというよりは、「月なのだ」ということを今回知りました。
「暗闇」と「月」、この対比された言葉を追うことで、『鵜飼』が描く世界の謎解きが一つできたような気がしています。

                   (平成21年9月 記)

写真 鵜飼 シテ 粟谷明生 撮影 石田裕
無断転用禁止

伊東近郊の謡蹟投稿日:2009-07-16

平成21年7月恒例の「ゆかた会」は伊東温泉・ホテル聚楽で行われました。
下準備のために前日入りした私たちは伊東近辺の謡蹟や名所旧跡を訪ねて来ました。
伊東市は日本三大仇討ちの一つ、曽我物語のゆかりの地です。
曽我物語は、従兄弟の伊東祐親に所領を奪われたことを恨んだ工藤祐経が腹心の大見小藤太(おうみことうた)と八幡三郎(はつまさぶろう)に伊東祐親の命を狙わせたのが事件の発端です。
大見と八幡は赤沢の椎の木三本の地に隠れ、祐親を狙い矢を放ちますが、遠矢は長男の河津三郎祐泰に当たり祐泰は討死にします。その後、大見と八幡の二人は祐泰の弟、祐清に討たれますが、祐泰の二人の遺児は工藤祐経に対して恨みが残りました。二人の母、満江御前は親戚の曽我家に嫁ぎ、兄弟は曽我を名乗ります。成人後、兄弟は冨士の巻き狩の夜、夜討をかけて念願の父の敵・祐経を斬り本望を遂げます。しかし兄の十郎祐成は仁田忠常に討たれ、弟の五郎時致は生け捕られます。頼朝は命を助けようとしましたが、祐経の子、祐時の歎願により斬首されます。
(参考・ふるさとコミック伊東むかし物語)
さて、いつものようにタクシーを借り切り見物しました。
音無神社―葛見神社の楠―東林寺―伊東祐親の墓―物見塚公園―赤沢の血塚―わさび筏場―萬城の滝―大見小藤太館址実成寺―大見小藤太の墓―曽我物語発祥の碑相撲場跡
では写真をご覧下さい。

音無神社
頼朝と八重姫(伊東祐親の娘)が恋の逢瀬を楽しんだ神社です。二人には千鶴丸が生まれています。 伊東市音無町1-13

葛見神社 葛見の庄の初代地頭・伊東家次(別名・工藤祐隆 伊東祐親の祖父)が守護神として社殿を造営した神社です。本殿の左には樹齢1100年の立派な樟(クスノキ)があります。
伊東市馬場町1-16-40

東林寺
開祖は伊東祐親公。我が子河津三郎祐泰の菩提を弔うために仏門に入り、東林院殿寂心入道と称しました。この寺はその法名に因んで東林寺となりました。伊東市馬場町2-2

河津三郎祐泰の墓
祐泰は相撲四十八手の一つ「河津がけ」の名を残す剛力の武将で相撲の名人としても有名になりました。
隣に子どもの曽我兄弟の首塚があります。東林寺の左手に参道があり急な登り坂を3、4分歩くと三人の墓があります。

曽我十郎祐成の首塚
兄が十郎で弟が五郎になったのは、十郎が伊東九郎祐清を頼り、五郎が北条四郎時政を頼ったため。

曽我五郎の首塚
捕らえられた五郎は祐経の遺児・犬房丸(後の工藤祐時)に斬首されます

伊東祐親の墓
河津三郎祐泰の父、頼朝挙兵後、伊東家は平家方へ、工藤家は源氏方へ従い、伊東祐親は平家方につき最後は自害しています。伊東市大原町

伊東祐親の銅像
銅像は伊東祐親の館址と言われている物見塚公園にあります。公園の隣は伊東市役所ですが、近代的な建物に驚かされます。

河津三郎血塚(上から)
旧国道には「血塚」の標識がありますが、その後別荘地を通り、車を止め、さらに徒歩2分ほどで血塚にたどりつきます。ここが祐泰が落命したところです。

河津三郎血塚(前より)
伊東家が供養のために積石塚と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を作ったと言われています。宝篋印塔は南北朝の時代のものと推測されます。ここは伊東市指定の文化財になっていて昼でも暗いところです。墓の前の道はよく整備され、江戸幕末のころ役人が江戸と下田をしきりに行き来した旧道下田街道の名残です。 

筏場のわさび田
総面積14.7ヘクタール、棚田の枚数1500枚で、戦国時代の落人がここを開拓したと言われています。

萬城の滝
以前は滝の裏側も通れたといいますが、今は通れません。

わさびの大見屋
タクシー運転手の丸山さんも大見小藤太の墓が判らず、大見屋さんでお勤めの女性の方に聞くと、「子どもの頃、あの辺で遊んでいて、確かあったと思う~」と教えて下さいました。ここのわさびはやはり新鮮でおいしい。

実成寺(じつじょうじ)
大見小藤太の館址と言われ、以前は実相寺と言っていました。中伊豆柳瀬

来宮神社
八幡三郎館跡と言われる八幡来宮神社ですが、今はなんとも静かなところです。田方郡中伊豆町八幡(はつま) 

大見小藤太成家の墓
大見小藤太は八幡三郎とともに河津三郎祐泰を射止めたあと、祐泰の弟、祐清の軍勢に攻められ討ち死にしました。
この場所は大見屋さんの店員さんの言葉を頼りに探すこと2、30分、やっとのことでタクシー運転手の丸山さんが見つけて下さいました。戦没者慰霊碑の隣に小さな墓石があり、「あ!あった!」と見つけた途端、全員で叫んでしまいました。

大見小藤太成家の墓
大見川の川岸で討たれ、ここ馬場沢に葬られました。

奥野相撲場跡
伊東祐親が奥野の地で数日間巻き狩をしたときに、余興として相撲が始まり、俣野五郎景久が数十番勝ち、土肥實平を挑発すると烏帽子親を侮辱されたと祐泰が挑みました。祐泰が俣野を倒すと、木に躓いたからだ、もう一番と言われ、もう一度取り組むこととなりますが、今度は軽々と持ち上げて勝ったということです。このときの相撲の手技が、河津がけと呼ばれる相撲の四十八手の一つです。以前、相撲場があったところは、ダム建設により集落がなくなってしまい、跡が残るばかりです。

松川湖のモニュメント
松川公園の梅林近くにあります。伊東祐親がここで巻き狩が行われなければ、息子の祐泰は殺されなかったかもしれず、また曽我物語もなかったかもしれません。

モニュメントの前で
ちょっと真似てみましたが…。

タクシー運転手の丸山進さんと。
丸山さんはモニュメントの場所もお友達に聞いて、教えて下さいました。
とても親切で、楽しい一日が過ごせました。

『雲雀山』についてー現在物のドラマ性を追求ー投稿日:2009-06-28

演能レポート『雲雀山』について―現在物のドラマ性を追求―



喜多流自主公演(平成21年6月28日)にて『雲雀山』を勤めました。
当麻曼荼羅で有名な中将姫が登場する能は『当麻』と『雲雀山』の二曲です。
『当麻』は中将姫が弥陀の来迎を祈念し、弥陀称名の教えの尊さを唱う宗教色濃い曲ですが、『雲雀山』は幼い中将姫を危機から救い、秘かに養育する乳母のけなげな奉仕や忠義心を描いた曲です。

最初に簡単に『雲雀山』のあらすじと舞台進行をご紹介します。
横佩右大臣豊成公(ワキ)は身内の讒言を信じ、我が子中将姫(子方)を、雲雀山で殺すようにと、家臣(ワキツレ)に告げます。家臣は命に従い姫を雲雀山まで連れて来ますが、あまりに可哀想なので殺すことが出来ず、庵を作り姫をかくまいます。同行した中将姫の乳母(シテ)は、四季折々の花を摘んでは、人里に出て花を売って姫を養っていました。
前場は、ある日、家臣が乳母を呼び出すところから始まり、物狂能特有の短い導入部分により、山奥に住む主従の環境を描きます。
後場は横佩右大臣が狩りに雲雀山へやってきて、遊猟の情景、短いアイの鷹を放す場面が入り、その後、後シテが束ねた花を肩にして登場します。花売りの場面と身上話のクセ、続いて姫を思う心持ちでの舞(中の舞)、短いキリが終わって、シテが雲雀山に帰ろうとすると、ワキが呼び止め、局面は一変して劇的な親子再会となります。最後はでめでたしめでたしと祝言の心で終わります。

中将姫が捨てられ生活した所は、奈良県宇陀市の日張山・青蓮寺(せいれんじ)と和歌山県有田市の雲雀山得生寺(うんじゃくさんとくしょうじ)の両説ありますが、ワキの道行、狩猟の名所、交野の地から考えると前者のように思えます。




徳友寺の中将姫の墓

青蓮寺には、姫を助けた家臣、松井嘉藤太晴時とその妻の静野の墓がありますが、能『雲雀山』では個人名は明らかにされません。それはより観る者に想像を膨らます効果を狙った能作者、世阿弥の手法ではないでしょうか。

乳母は花売りまでして姫を養育し再帰を願いますが、その一途な献身的な思いは実の母親に勝るとも劣らぬやさしい慈悲心です。
喜多流謡本の曲趣には「シテは狂女ではなく、普通の狂女物に比べると類を異にするようであるが、幼君を守りつつ山から里に出て花を売る中年の女性という点から一種遊狂の風格を備えたものとして、カケリ、中の舞があり、狂女能に扱われる」と解説しています。この「シテは狂女ではなく」の文言は誤解を招きます。
現代、狂女というと一般的に気がおかしくなった状態、言葉は悪いですが、気が狂った精神異常者のように思われがちですが、能はそうではありません。
一途な思いや気持ちの集中を「狂い」と言います。ですから姫への一途な思いの狂女として勤めました。




雲雀山 前

今回シテを勤めるにあたって気をつけたことは、いかに乳母の風格を出せるか、です。姫を思う中年女性をどのようにしたらうまく演れるかです。乳母は君主豊成の命に逆らって姫をかくまい養う、気丈な女性ですが、姫を慈しむやさしい女性でもあります。やさしく、やわらかに、やんわりと、三つの「や」の柔和な身のこなしを意識しました。




雲雀山 後
最後の豊成との対面では、はじめは姫がすでに亡くなったと偽りますが、豊成の前非を悔いた真心に打たれ、豊成を信じ、庵の場所を教えます。このワキとの問答がひとつの山場、作品の面白さに点数をつけるとしたら大事なポイントとなります。どんなにそれまでをうまく見せても、このやり取りの謡が白熱したものにならないと観る者の心は動きません。謡の間のとりかた、声の張り具合、音の高低差など、対峙する能役者同士の謡の緊迫感が、父子再会というお涙頂戴ドラマには不可欠です。思わず涙腺を緩ませる、そう仕掛ける巧み技が演者に求められています。

今回ワキを、人間国宝の宝生閑氏がお相手してくださいました。雲雀山に帰ろうとする乳母に「おーい乳母待て」とかけるワキの声で、一瞬空気が止まり、緊張した場面転換となります。シテもそれにじっくりと応えて、温厚ながらも気丈な乳母として勤めたつもりですが、ご覧頂いた方々には如何思われたでしょうか。




曲見の面 作者不明 粟谷家蔵

今回の面は、粟谷能夫が新太郎愛用の「曲女(しゃくめ)」もあると薦めてくれましたが、以前から一度使いたいと希望していた、銘はないものの粟谷家秘蔵の「曲見(しゃくみ)」にしました。これは近くで見るとたいしたことのない面に見えますが、舞台に上がると、中年の憂いと強さを秘めながらも、何とも位高いお顔に見える不思議な面です。『雲雀山』は夏の季節の曲目ですが、装束は梶葉模様の無紅唐織にしました。秋のイメージですが、やや脱色した感のある色あいが山仕事や花売りをする乳母に似合うと思い選びました。




写真 唐織

最近、能の稽古をして気がつくことがあり、私の経験談としてお読み下さい。
喜多流の稽古は、謡は一度先生が謡い手本を示し、習う者は復唱します。そして次回まで覚えてくることとなり、必死の暗記が待ち受けています。そこに何が謡われているか、物語を理解し諳んじればいいのでしょうが、若い時分はもう鵜呑み状態で、ただただ音を身体に叩き込み覚えます。もっともそれが舞台に立ったとき一番役立つ稽古法であるのですが…。

また舞も、まずは仕舞、そして舞囃子とレベルを上げて稽古し、ツレ役の稽古なども加わり、ようやく能のシテの稽古となります。能の稽古に入るまでに、幾度となく仕舞や舞囃子の稽古が繰り返され、積み重ねを大事とします。
型を正確に覚え、基本姿勢や上手な型のこなし、技の体得は必須で、これを習得しなければ話になりません。

しかし所詮仕舞や舞囃子は能の一部分であって、充分稽古したからといっても能の物語を理解出来るわけではありません。
能を目指す者の陥りやすい危険な盲点は、覚えた、舞えるようになったと、そこどまりになることです。それで出来上がったと錯覚する、それでは作品とは出会えません。
自戒を込めて言えば、私も以前は例えば『雲雀山』なら舞囃子が済むと、その部分はもうそれで仕上がった、それでよし、とより深い読み込みはしませんでした。これではいけないのです。

例えば、今回もクセの仕舞所で「面影残すかほよ鳥の…」とサシ廻しヒラキシオリの型があり、鳥の鳴く声が中将姫の嘆き悲しむ声にも聞こえ、それが哀れに思える心持ちで動きます。以前なら、ここどまりです。

ではこの「かほよ鳥」、さてどんな鳥なのでしょう。
問われても以前ならば、「型をきちんと表現すれば、あとは観る側が理解して下さるから、そちらにお任せすればよい」という先人の弁をそのまま、代弁してすませていました。

しかし、それでいいのだろうか、演者が、実は判らずに…とはあまりに情けないではありませんか。総て、とは言わないまでも、自分の知らないでいることをできるだけ判明させ、舞い謡いたい、そう思うようになりました。

以下、少し調べたことを書きますが、もちろん観客の皆様はご存知であると思います。ここは未熟な能楽師の調べたこととお笑い下さりながら、お読みいただければと思います。

喜多流の謡本では、ひらがなで「かほよ鳥(かおよどり)」と記載されています。「かほよ」は能『杜若』に「顔佳花とも申すとかや」ともあるように、顔佳花は美しい花の意で能『杜若』では燕子花(カキツバタ)をさします。
「かほよ鳥」は顔佳鳥とも書き、辞書には「顔鳥(かおどり)」と同じ意、カホと鳴くのでカッコウのこと、また美しい春の鳥、かおよどり、とあります。
演者としては、ただ漠然と美しい鳥、と思うよりも具体的に郭公と知ることで、その鳴き声を想像することが出来ます。演者が知ったからといって、観る側にそれとはっきり違いが判るかどうかの確証は持てませんが、演者の身体から発散されるものが、演者が知っているのと知らぬのとでは何か違いが出るのではないでしょうか。郭公の声が姫の泣き声と重なると具体的に知ることで、乳母の心の悲しみの演技に幅、真実みが生まれる、私はそう信じたいのです。




雲雀山 後

つぎに霞網です。「霞の網にかかり、目路もなき谷影の」と地謡が謡いますが、恥ずかしながら、私はこの霞網自体を知らずにいました。霞網とは細い糸で縫った細かな網を垂直に高く張り小鳥を無差別に捕らえる狩猟法です。その網にかかった小鳥がまさに中将姫に見え、悲しみ哀れむ乳母の心がより深く理解出来ました。
このようにして、より理解が進み、演じる心に余裕が出来ることで、能のドラマを演じる心持ちが生まれる、そう信じています。

まことに気づくのが遅く恥ずかしい限りですが、これからは若い時に稽古して自分で勝手に出来上がっていると錯覚している部分にも改めて目を向け、能がなにを言いたいのかを知りたいと思います。

また、舞台進行のことで、一つ気になったことがありました。
それはシテが太刀持に対して「あら花好かずの人々や花好かぬ人ぞをかしき」(「花が嫌いな人なんておかしいわ」)と小馬鹿にして花を売ることを諦め、次の序の謡となり、場面が変わるところですが、ここがしっくり来ませんでした。
そこで他流を調べると「それなら花を買いましょう。で、あなたの事を話して下さいよ」と太刀持の言葉があり、それに応えてシテがそれでは…とはじまります。こちらのほうが自然で判り安いのですが、喜多流は敢えて、そこを削除しています。となると、そのような心持ちで演じなくてはなりません。花を好かない、やさしさや余裕のない人なんて相手にしないわと、太刀持に言いながらも自分自身に言い聞かせるように相手を無視して語り始める、ある種の狂いとしての演出が喜多流には隠されているのかもしれません。

『雲雀山』は現在物です。現在物はただ型附通りに動いているだけでは観ていて面白くないはずです。演者の芝居心が必須です。
能という枠のぎりぎり境界線内側で、『雲雀山』ならば、乳母の心境をよく理解し、観客が判りやすく想像し易い状態にもっていく、それが演者が忘れてはいけない責務です。
能役者はともすると型を埋める、型をこなすことで安心してしまいがちですが、そこに留まらず、演劇的に中身を埋めなくてはいけない。舞台人としての埋め方、そこを考える必要があるのでしょう。

10代20代を振り返ると、ただ間違えないよう、正確に、格好良く、それしか念頭にありませんでした。あのときは自分なりに一途に、それこそ狂いのように集中して取り組んできた、と自信はありますが、今50代に入ると随分曖昧にやってきたものだと恥ずかしさも覚えます。
能、能楽師はある時を経て熟成されてこそ、その味わいが彷彿される、これが結論です。

今、演じ終えて、『雲雀山』は若年ではなかなか手強い現在物で、悲しいかな中年になり経験を積まないと判らないことが多々あることを知りました。

私がこの子方を勤めたのは昭和37年に故喜多実先生と喜多長世氏のシテで二回(7歳)、そして39年お素人の井手玲子氏のと、合わせて3回です。




雲雀山 子方 粟谷明生

少年にとって、初めから最後まであの藁屋の中に座らされ、ほとんど扉が開かない閉鎖された空間はまさに中将姫や小鳥の心境で、辛抱と我慢のなにものでもありません。

今回はその辛い役を内田貴成君がよく我慢して演ってくださって感謝しています。きっと将来、彼が『雲雀山』のシテを勤める時に、自分の経験を生かしてくれることでしょう。




雲雀山 後

勤め終えて楽屋に戻り、先輩能楽師の方から「あきくんも『雲雀山』をやるようになりましたね」と言葉をかけていただきました。
その言葉の響きが、大空高く楽しそうに飛ぶヒバリの声のように聞こえました。この鳴き声は演じる者だけに聞こえる歓喜の調べなのかもしれません。
(平成21年7月 記)

写真 
雲雀山 シテ 粟谷明生      撮影 石田 裕
面 曲見 装束 唐織  徳友寺  撮影 粟谷明生
雲雀山 子方 粟谷明生      撮影 あびこ喜久三

福島から山寺投稿日:2009-06-16

平成21年6月5日、6日、福島の謡蹟めぐりと山形県の山寺に参拝して来ました。
5日は東北新幹線の郡山駅で下車し、タクシー(個人タクシー和幸さん)を借りきり、静御前堂、采女神社、王宮伊豆神社、昼食は長兵衛庵にてそばをいただき、黒塚ゆかりの地、観世寺をまわり、岳温泉で湯に浸かって、福島にて一泊してきました。
福島といえば餃子、というほど、おいしいお店があるので有名です。今回は「山女」という店に行きましたが、ここはオススメです。福島駅から直ぐ近くですので、一度行ってみて下さい。

二日目は生憎の雨模様でしたが、文知摺観音、医王寺を参拝して、山寺に登って来ました。
では、写真にてご紹介いたします。

静御前堂
静御前は義経を慕ってここ郡山まで来ますが、すでに義経が平泉向かった事を知って嘆き、美女沼に身を投げたと伝えられています。その後、里人が哀れみ、静御前の霊を祭ったのがこのお堂です。郡山市静町にあります。

采女神社
近年、8月5、6、7日には采女祭が催され、その時はここも賑やかになるとタクシーの和幸さんが教えてくれましたが、そんなことが想像出来ないほど、静かな神社です。

采女の由来
能『采女』では、采女は猿沢の池に入水しますが、もうひとつの説よると、この地まで戻り入水しているようです。どちらにしても悲しいお話です。

采女塚
鳥居をくぐると小さな祠の采女塚があります。まわりに水芭蕉があり、花咲くシーズンは美しいことでしょう。

山の井清水
4メートル四方の小さな池で、身を投げても今なら助かりそうな池です。

はなかつみ
能『花筐』に「みちのくの浅香の沼の、はながつみ」と謡われているのは、この「はなかつみ」。近年、郡山市の花と認定されましたが、小さくかわいい花です。采女公園を管理している地元の方が、もうほとんど散っているのに、咲いているところを捜して見つけて下さいました。

采女神社の前で地元の方と
左から、親切にいろいろ教えて下さいましたタクシーの和幸さんと、お名前をお聞きしなかったので判らない管理人の方と私。東北の方々はみな、おっとりしていて親切で、優しいです。

王宮伊豆神社
葛城王(橘諸兄)を祀った神社。葛城王は国司の粗末な接待に怒りますが、采女であった女性が「浅香山影さえ見ゆる山の井の…」と詠んだことで機嫌を直したという話があります。ここに采女のご神体も収められているというので、丁寧に参拝しておきました。

葛城王の碑
石碑は本殿左手に、珍しい霊亀の上にあります。

手打ちそば、長兵衛庵 観世寺に行く前に腹ごしらえをして…と運転手さんが薦めてくれたのが、この民家のそば屋。大邸宅を昼はお店にしているようで、中は個人のお宅そのままの雰囲気。そば専門なので、そばはもちろんですが、とれたての野菜、山菜が特に美味しかったです。 電話で確認してから行って下さい。 定休日毎週水、木、営業時間は11時~14時半 電話024-952-5474

安積山公園
二本松の観世寺に向かう途中に浅香山がある。山というよりも丘のような高さだが、昔はこれも山であったのでしょう。

山頂
安積山は赤松が多く、山頂には大きな立派な赤松があります。

山の井清水
ここにも山の井清水がありますが、岩も清水もきれいに整備されています。安積香山公園の裏、駐車場の横にあるので注意して見ないと見落としてしまいます。

観世寺
能『黒塚』(観世流『安達原』)所縁の寺。電話0243-22-0797 観世寺と黒塚は阿武隈川の土手横にあります。観世寺は能『黒塚』のワキが勤める阿闍利祐慶東光坊の開基となっています。

謡蹟保存会の駒札
駒札を見つけるとほっとしますが、境内の隅に設置されているのが残念。門を入りすぐに左に回り、巨岩群の下にあります。

鬼婆が住んでいた岩
「謡蹟めぐりみちのく編・青木実著」では、岩は太古阿武隈川の氾濫で積み上げられたものと書かれていますが、まさに自然はとんでもない大きな力を見せつけるものだと感心させられます。

黒塚の一本杉
観世寺から阿武隈川に向かう途中に孤立して大きな杉が立っていますが、これが黒塚跡。

黒塚
鬼婆岩手が葬られたとされる黒塚。昔は森だったと思われますが、今は土手下にあり、周りになにもないのが不思議な感じでした。

祈り
ワキ東光坊の阿闍利を真似て祈ってみました。

信夫山遠景
岳温泉で湯に浸かり、福島市内に入るところで、能『藤戸』で「いつまでとてか信夫山」と謡われている信夫山が見えたので車をとめて撮影。この山の下を新幹線のトンネルがあるかと思うと、「いつまでとてか…」となります。 ここまでが初日です。

文知摺石
朝8時15分に到着。開門時間が9時となっていましたが、お願いしたら親切に開けて下さいました。生憎の雨模様でしたが、新緑の鮮やかさが増し、一面緑一色のきれいな景色でした。 源融の帰りを待ちわびた虎女は文知摺観音に百日の願をたてますが、融からは何の便りもありませんでした。嘆き悲しんでいると石に融公の面影が浮かびますが、その後虎女は病に伏し短い生涯を閉じたといいます。この摺石は別名鏡石といわれています。

多宝塔
中に多宝塔五智如来像がありますが、通常は拝見出来ません。

融と虎女の墓
放生池の上手にふたりの墓が作られています。能『小塩』に「みちのくの忍ぶもぢずり誰故に乱れそめにし、我ならなくに」と謡われていますが、これは源融公の歌です。

医王寺
佐藤継信、忠信の墓があります。

境内
右が本堂、真っ直ぐに兄弟の墓があります。宝物館は左にあり無料で拝見出来ます。 能登殿が継信を射殺したとされる鏃(やじり)がありました。

医王寺の謡蹟保存会の駒札
今回の旅では観世寺とここだけにしか駒札はありませんでした。 もっと増えるといいと思いますが…。

佐藤兄弟の墓
兄弟仲良く立派な石碑が並んでいます。

山寺(立石寺)・根本中堂
参道入り口の案内碑があるところから、急な階段が始まります。上がりきると根本中堂が見えてきますが、ここはまだ序の口です。山寺奥の院は左手にまわると入り口があります

弥陀洞
階段を登ること10分ほど、山門の手前に巨岩に経が書かれた岩壁が見られます

仁王門
山門あたりが奥の院までの三分の二程度、まだまだ登りが続きますが、ここから視界が開がります

奥の院
立石寺の奥の院で朱印を頂戴して、少し戻り、右手に登ると展望台への道となります。

五大堂内
あまり広くはありませんが、堂内からの景色は絶景です。

景色
眼下に山寺の駅や仙山線が見えます。ちょうど曇り空でかすんでいましたが、それもまた風情があります。

山寺駅から展望台の五大堂
山寺駅のホームより300mmの望遠で撮影しました。40分前にあそこにいたのか、とシャッターを押しました。

『田村』ゆかりの謡蹟めぐり投稿日:2009-05-16

平成21年5月、天候に恵まれた日に、新緑の京都東山、能『田村』に所縁のある謡蹟清水寺と正法寺に行ってきました。今年は清水寺ご本尊の御開帳の年、また開山堂の田村堂も公開されていますので、能楽師としてはこの絶好の機会を見逃してはいけないと思い、写真探訪して参りました。正法寺は『田村』の名所教えに謡われる「あれは上見ぬ鷲の尾の寺」の鷲の尾の寺です、こちらも散策してきましたのでご紹介いたします。

仁王門前の混雑
車で五条通りから正門近くまで上がろうとしましたが、観光バスが多く参道は大渋滞、車でのアプローチをあきらめ徒歩で裏道を上がりました。どこも大勢の修学旅行生でいっぱい、大混雑の清水参りとなりました。

仁王門
「ご本尊御開帳」と掲げられている赤門の仁王門。 撮影場所の左には「車宿り馬留め」と『湯谷』で謡われる馬駐(うまとどめ)がありますが、生憎修復工事中でした。

田村堂
堂内は撮影禁止なのでご紹介出来ませんが、坂上田村麻呂公と高子夫人、行叡居士、延鎮上人の座像があります。(21年3月1日から5月31日特別開扉)

謡蹟保存会の駒札
謡蹟めぐりには欠かせない駒札、これを見つけると安心します。

名桜 地主桜
「おのずから、春の手向けとなりにけり、地主の桜の花盛り」と『田村』で謡われている地主桜です。八重と一重の花が同時に咲く珍種で日本でも地主神社にこの一本が現存するだけです。

清水寺遠景
音羽山・清水寺のご本尊秘仏十一面千手観音像はお前立ちのお姿とは私には違って見えました。色はお前立ちの皆金色に比べて茶黒系で、お顔もお前立ちのふっくらとした感じではなく、丸顔の優しいお顔でした。どうぞ皆様もこの機会に是非ご覧下さい。撮影場所は現在改修工事中の子安の塔前からです。

音羽の滝
「音羽の瀧の白糸の」と謡われる音羽の滝、柄の長い柄杓で汲み霊水を飲むと御利益があるらしく、参拝者は行列して待たれています。お土産用に「音羽霊水」¥500でペットボトルでも販売されています。滝祠には不動明王と行叡居士も祀られています。

顕彰碑阿弓流為(アテルイ)母禮(モレ)の碑
坂上田村麻呂は蝦夷の首領アテルイとモレを京に連行しますが、敵将ながら武勇・人物を惜しみ朝廷に助命嘆願をします。しかし受け入れられず両雄は河内の国で処刑されます。この史実に鑑み、田村麻呂開基清水寺内にアテルイ・モレの顕彰碑を1994年に建立されました。

経書堂
産寧坂に曲がる角に『湯谷』のロンギで謡われる「御法の花も開くなる、経書堂はこれかとよ」の経書堂(きょうかくどう)があります。この前を平宗盛は湯谷を連れて牛車で通過した、と能『湯谷』ではなっています。

正法寺
あまり有名ではないお寺ですが、これが『田村』の名所教えに出てくる「あれは上見ぬ鷲の尾の寺」の正法寺です。霊鷲山無量寿院あるいは霊山と号し今は時宗国阿派に属していますが、開創は最澄大師で霊山寺と号したと伝えられています。インドの霊鷲山に似ていることからその名前がついたといわれています。

正門
龍馬坂から正門まで上り坂が続き、正門をくぐるとまた急な階段が見えます。本堂までの苦しい上り階段を登りつめると・・・。

正法寺本堂からの展望
眺望はすばらしく京都市内が眼下に見えます。 清水寺の北の位置に、このような隠れた謡蹟があるのを今回はじめて知りました。健脚の方は是非一度この穴場にいらして下さい。

『白田村』について 能の曖昧さと時流に似合う演出投稿日:2009-04-16

『白田村』について
能の曖昧さと時流に似合う演出




毎年恒例の厳島神社・御神能(平成21年4月16日)で『白田村』を勤めました。
演能前に観客の方から「『田村』と『白田村』はどこが違いますか?」「『白田村』の謡本がありませんでしたが…」とのご質問を受けました。『白田村』は『田村』の小書のひとつで『白田村』と『田村』は同じ曲です、とお答えしましたが、この質問はよく聞かれます。
『白田村』の歴史を調べると、演じられるようになったのは意外と新しく、現在行われているような形にまとまったのは、ごく近来のことだとわかってきました。

九世喜多古能健忘斎の伝書には『田村』の小書は「祝言之翔」のみとなっており、『白田村』の文字は見あたりません。十世喜多寿山が書き残したものに「田村に白水衣を着るもあり、宮子の心なり、古能公披成る候也…」とありますが、これは前シテの心持ちを記したもので、『白田村』そのものではないようです。
大正十三年の中型謡本に『白田村』とは別に「白式」の記載があります。前シテ白水衣、着附金地或いは白地紅入縫箔、後シテ法被白、「思えば嘉例なりけり」の後カケリ、「さるほどに・・・」の文句抜けて「如何に鬼神」。カケリは常と異なる…、とあることから、この白式が『白田村』のモデルになったと考えられます。




ではいつから『白田村』の記載があるのでしょうか?
六平太芸談に「『白田村』に似合う天神の面がない…」とあることから、『白田村』は十四世喜多六平太の時期にはすでに存在していたようです。ただ現在行われている型であるかは不明です。現在演じられている後シテの演出に新たな工夫を施し公式化したのは十五世喜多実先生のご考案であろう、というのが大方の楽屋内での認識で、その実先生も幾通りもの型をやられており、それぞれに伝承されているのが実態です。

この曲名を変えて小書とする手法は他流にはなく、喜多流独自の工夫のようです。
喜多流の成立は江戸時代初期、他の四座(観世・宝生・金春・金剛)に組み入れられ、五流に認可されたのは徳川秀忠公のお陰と言われています。流祖が舞った『羽衣』が豊臣秀吉公の目に留まったのをきっかけに、徳川秀忠公の庇護を受けるようになったのは注目を浴びる斬新な型や目新しい舞台演出の賜物かもしれません。弱小流儀の、それも後から出てきた喜多流には、それだけのバイタリティーが必要であったと思います。先人たちの他流と互角に張り合うための工夫、そして観客の目を引く演出、それらを生み出すものの一つとして、江戸時代末期か明治初期に、曲名に色をつける特殊なやり方をしたと思われます。他に、同じように白をつけた『白是界』、そして青をつけての『青野守』がありますが、どちらも流儀成立当時、または古くからあるものではありません。喜多流が時代の流れの中で育んできた精神によって生み出された特殊演出なのです。喜多流にはこのように、時流に合う演出を求める気風が備わっているのだと思います。それは成立以来の宿命であり、伝統であるとも言えます。現在、職分会で公認されている色つきのものは、『白田村』『白是界』『青野守』の三曲で、これは「喜多流正史」(高林吟二著)にその記載があります。

では今回の『白田村』を演じた感想を交え、舞台進行とその演出をご紹介します。




前シテは地主権現に仕える宮守として登場し、春の清水寺の景色と縁起を語ります。
シテ謡にある「もとより和光同塵の…」の言葉通り、仏が神として現れる本地垂迹の考えを踏まえて、面を喝食(かっしき)にして、喝食鬘の姿で清水寺や田村堂の仏的なものに重きをおいても、また面を慈童(じどう)や童子(どうじ)にし黒頭を被り地主権現の宮守、神の使い、または神の子と神道的なイメージを出しても演じられます。
どちらにするか? それは演者の自由で、その選択の余地があるのが能楽師にとって楽しみの一つでもあります。今回は面を童子にして「白式」に記載されている白水衣にしました。行叡居士が延鎮法師と出会った時に白い衣を着ていたという故事もその裏付けになり、仏と神の一体感が出せればと思いました。そして試しに今回は全部白地で…と希望しましたが、生憎厳島神社から出された装束に白地着附がなかったので、仕方なく他の物で代用しました。型や謡は通常の『田村』と変わりはありません。但し、通常クセの仕舞は扇を閉じて舞いますが、『白田村』では開いたままで舞うのが異なるところです。

後場は千手観音の威徳で鈴鹿山の鬼神を退治した戦物語となります。小書「祝言之翔」があるように、『田村』は修羅物の地獄の責め苦を見せるのではなく、田村麻呂の威風を見せる祝言性に溢れた曲ですので、演者としては他の修羅物とは別格の品位と豪快さを見せなくてはいけません。『白田村』では後場に工夫がなされていますので、装束や型などについてお話します。




後シテ(坂上田村麻呂の霊)の装束は常と異なり、厚板・半切・狩衣(衣紋)などすべてを白色として太刀を付けます。面は平太から天神に代わります。頭部には梨打烏帽子・白鉢巻に鍬形を付ける珍しい組み合わせとなり、鍬形は兜の象徴となります。『船弁慶』の後シテ・平知盛の霊や、『羅生門』のワキ・渡辺綱などが黒頭と組み合わせて使いますが、黒垂との組み合わせは『白田村』だけです。常は太刀を腰に付けますが、宝剣にする場合もあり、肩に背負う方もいらっしゃいました。今回は厳島神社に似合う剣が無かったので太刀でしましたが、坂上田村麻呂が中国からの渡来系の人物であること、時代が平安初期というイメージを膨らませると、次回は古風な感じの宝剣を背負いたいと思います。




『白田村』の後場は謡に緩急がつきます。全体的には位高く、重くどっしりと謡い、カケリもややしっかりと囃されます。そしてカケリの後がもっともシマリ、「ふりさけ見れば」からの地謡は特に重厚感を持って謡います。そしてシテ謡の「あれを見よ、不思議やな」から気持ちがかかり、速度も早くなって、型は橋掛りでの動きとなります。三の松までクツロギ「大悲の弓には知恵の矢をはめて一度放せば…」から一の松まで勢いよく素早く動き、千手観音が千本の矢を放つ様を靡き扇で見せて、一の松前にて飛び跳ね、鬼神を退治する型をして、最後は下に居て千手観音に礼をして位は急にシマリます。このあたりの型が何通りもあり、今回は父の型と友枝昭世師からの型とを混合して勤めてみました。




ここで梨打烏帽子の着用で気になることがありました。
梨打烏帽子には右折、つまり役者自身から見て右側に折り曲げて倒すのと、左折、左側に倒すものの二通りがあります。上皇が着用する際に右折を用いるので、諸臣は左折を用いるという説、また『源平盛衰記』に、源八幡太郎義家が左折の烏帽子を用いた為、源氏の大将は左折を用い、他の物は右折を用いた記述もあります。
現在、喜多流では普通の『田村』は勝修羅の枠組みで梨打烏帽子を左折にしています。
他流も同じようですが、但し宝生流では梨打烏帽子は常に右折とのことです。

さて、『田村』は本来どうしたらよいのでしょうか?
先代実先生は一時、梨打烏帽子を折らずに真っ直ぐに立てて着けられたことがありました。確かに烏帽子の正装は立烏帽子ですのでそれも一考か、ならばいっそのこと立烏帽子を付けてみては…とも思いましたが、どうも力強さに欠けるようで不似合いです。




最近は実先生の立てるやりかたを真似る傾向がありますが、梨打烏帽子自体の本来の用途から考えると、私はやはり折らなければ理屈に合わないと思います。
これは推測ですが、能が発祥した室町時代から江戸時代の申楽の役者たちは、固定化していく能装束以外に、小物などは身の回りのもの、持ち運びしやすいものを新たにどんどん取り入れていたのではないか、と思います。ですから現在の梨打烏帽子も室町時代の申楽の役者にとって身近な持ち運びしやすいもの、という発想から生まれたかもしれません。
私も以前は、梨打烏帽子が武人の象徴、兜であると思っていました。確かにそう教えられ、そのようにも解釈出来ますが、鍬形こそが兜の象徴と言われれば納得せざるを得ません。梨打烏帽子は俗称・兜下といわれるように、兜の下に折り曲げて着用する柔らかな烏帽子のことですから、梨打烏帽子を兜と解釈するにはやはり無理がありますが、それでも見る側の想像でいかようにもなり得るのではないでしょうか。烏帽子一つとっても、いろいろな見方があり、面白いです。それが能なのでしょう。このように能の世界には、曖昧さを重宝に受け容れる面もあります。能には少々馬鹿げている演出もありますが、しかし逆に言えば、それだからこそ能であり、それが能の持つよさなのかもしれません。




能は現代にも生きています。現代になっても、能楽師の工夫と新たな発想で変化するのを待っているようにも思えます。従来通りでも吉、色々と発想するのもまた吉、そのように許容範囲の広い太っ腹なのが能のようです。今回は新たな発想が出ずに無難に左折れで勤めましたが、いつかよい工夫がないものかと思っています。

さて、もう一つ稽古していて気になることがありました。
坂上田村麻呂というと、征夷大将軍、征夷と言えば、蝦夷退治、現在の東北地方への侵攻と平定ですが、能『田村』に蝦夷の文字は、「東夷を平らげ悪魔を鎮め」の一言だけ、伊勢の鈴鹿山の鬼神退治の話にすり変わっています。鈴鹿山に朝廷に対して抵抗勢力があったことは史実でしょうが、坂上田村麻呂が鈴鹿山の鬼神を退治した史実はありません。

ではなぜこうなってしまったのでしょうか?
それも答えは、能だから、と言えるでしょう。
能は過分に曖昧さを武器として戯曲化されています。それは戯曲化した者達の時代のニーズに合わせること、申楽の役者の立場も関係していたかもしれません。
『田村』を成立させるときに、敢えて蝦夷退治の話題に触れなかったのは、作者やまたその後の申楽の役者たちの、自分や周りへの配慮だったと考えられます。
なんでも答えをはっきりさせたくなる、出ないと気持ちが悪い性格の私ですが、能『田村』の鈴鹿山鬼神退治については、このような能の曖昧さを大事にし、あまり言及すべきでないと判断しました。

物語を重視することは能を演じるときには大事なことです。
しかし、能の持つ曖昧さを考えると、能は舞台に上がっている能役者から発散される存在感が大事、その一言に尽きると思います。特に祝言性の高い曲は理屈ではない、最もシンプルな技を駆使して観客にアピールする、そこから焦点を外しては能らしくない能になってしまうのかも…と今回演じて感じました。

能は虚構と真実が拮抗しあうところから成り立つと故観世銕之亟先生はいわれました。
それぞれの役がそれぞれの役になりおおせて、且つその裏に役者の真実や美学が乱反射して豊かな表現となる・・・・いい言葉です。
乱反射の中にも、いろいろな光のさしかたがあることを武人田村麻呂が教えてくれました。
(平成21年4月 記)

追加 
平成21年3月1日より5月31日まで清水寺の田村堂が特別開扉されます。
是非、この貴重な機会に田村堂の内部をご覧下さい。



清水寺田村堂 
音羽山清水寺田村堂特別開扉パンフレットより

写真
『白田村』シテ 粟谷明生    撮影 吉村真樹子
面 「天神」  厳島神社蔵   撮影 粟谷明生
囃子方 大鼓 亀井広忠 小鼓 横山晴明

『安宅』延年之舞ー延年之舞の疑問点を解明 投稿日:2009-04-01

『安宅』延年之舞(平成21年3月)を勤め、演能レポート『安宅』を更新して月日が経ちました。演能後「延年之舞」についてもう少し調べたいと思い、お弟子様の宮地啓二氏に資料集めを依頼したところ、寛永寺・土谷慈得氏のご協力により、日光山・輪王寺や平泉の毛越寺からの資料を入手することが出来ました。そこでその資料をもとに未だ解明出来ずに気がかりだったいくつかの疑問点を調べ、解明したことを、ここに演能レポートの補足として書き記すことにしました。なにぶん「延年」自体が今は途絶えてしまったこともあり、資料も少ないので正確さに欠ける部分もまた私の推測もあることをご承知の上、お読み下さい。
また、ご意見や参考資料などがございましたら、お知らせいただきたくお待ちしています。

さて、その疑問点とは?
能『安宅・延年之舞』の弁慶が舞う男舞の中で踏む音をたてない「抜く足拍子」がありますが、この動作の根拠、意味合いがはっきりしません。
また我が家の伝書に書かれていた「イトクリ、ブモヨシ、サンソウ」のカタカナ記載もどのようなものなのか、気になっていました。

まず、「抜く足拍子」を解明する前に、「延年之舞」の「延年」とはなにかを知る必要があります。
「延年」は正確な起源は不明ですが、平安時代中頃より寺院にて法会の後に僧徒が余興として観者に見せた歌舞です。延年の字の如く、観者を楽しませてはその長寿を祈る芸能でした。その内容は、問答や乱舞など様々のジャンルから集まり成立したもののようで、その歌舞の舞の部分を特に「延年之舞」と呼んだようです。



(日光山輪王寺のパンフレット表紙より)

平成の今、寺院で「延年之舞」と称されるものがあるのは、平泉の毛越寺と日光山の輪王寺の二寺だけです。毛越寺は正月二十日、二十日夜祭として常行堂で、輪王寺は毎年五月十七日午前八時から大本堂、三仏堂にて見られます。
能『安宅』の「延年之舞」が、室町時代にどのような経緯で創られたのかは、知る術はありませんが、現在、毛越寺や輪王寺で行われている「延年之舞」が時代の流れや系統により幾分変化していることを差し引いても、現存していることは、能『安宅』の「延年之舞」を調べる上で、ひとつの貴重なヒントになることは確かです。

平安時代から室町時代まで、寺院では延年を願う舞が流行したようで、はじめは下級僧侶や稚児らによる余興程度のものが、次第に演じ手は、芸に熟達した僧達が中心になり、遂には、延年を専門的に演じる僧が現れ、それらを「遊僧」「狂僧」と呼びました。
「歌舞伎十八番」戸板康二著には、「延年」は若い稚児のソプラノと成人した僧のバスとの掛け合いで進行したと書かれています。
『安宅』の謡に「もとより弁慶は山塔の遊僧…」と謡われているように、叡山と弁慶、遊僧そして延年之舞と関連していくと、『安宅』に小書「延年之舞」が付随したのはごく自然の成り行きなのかもしれません。
能の作者は室町時代の人です。その創作背景には、その時代の政治、生活環境、宗教観があり、それらを基盤として様々な過去を思い浮かべ戯曲したことでしょう。「延年之舞」は室町時代までは盛んに行われていたので、それを取り入れることは容易だったはずです。しかし室町時代以降は「延年之舞」は徐々に衰退していき、江戸時代にはほとんど行われなくなりました。
そのため現在の我々は、特に延年之舞を舞う能楽師にとっては、「延年之舞」が想像しがたい遠い存在になりました。能楽師の私が能『安宅・延年之舞』を勤めるにあたって想像するものは、平安時代に誕生した「延年」とはたぶん異なり、また現存の延年之舞とも違います。
もっとも、そんなことはおかまいなし、能楽師は師の言われた通り、型通りを忠実に真似て舞えばいい、との指導もあるでしょうが、どうもこのあたりをはっきりさせたいのが、私の性分でして、どうにも抑えられないのです。

実はこの延年之舞を衰退させた原因の一つに、江戸時代の支配者層である武家階級が、能を手厚く保護したことが挙げられていることを知り、能楽師の私としては、何とも複雑な気持ちでいます。
「延年之舞」は古記によれば江戸時代初期以前までは「開口」「延年」「大衆舞」の三部から成り立ち、能でいう「延年之舞」は「延年」ではなく「大衆舞」ではないかと言われています。「延年之舞」は能の原型である猿楽との関連が深かったらしく、互いに影響を与えあったらしいのですが、その後、能が延年之舞にとって変わったことは間違いないようです。



(毛越寺の延年之舞 平泉・毛越寺判より「老女」)

さて、喜多流独自の延年之舞での抜く足拍子ですが、左手に持つ中啓を腰に当て、右手の数珠の持ち様は、毛越寺の老女の舞の腰を屈めた姿が似ています。老女は左手に中啓、右に鈴を持ち、舞は翁の三番叟の鈴の段を彷彿させます。腰を屈め、鈴を鳴らす動作は、田畑への種まきを表しています。能の型も種まきや田植えの真似であるようにも思えます。抜く足拍子は滑稽さを味わいとしていた一面もありますが、しかし一方でもっと格式ある芸能であったと唱える方もおられます。能楽師が弁慶役を演ずるにあたって、抜く足拍子は何かの真似もさることながら、演じる心の内側には窮地に立たされた弁慶がどのように義経一行を逃がすか思案する時間稼ぎとも、またはふと昔手慣れた動きが自然に顕れてしまったとも、との思いになりました。
いずれにしても、あの不可解な、音を鳴らさない足拍子の意味は、滑稽なしぐさ、余興的な要素であることと、正式な儀式的な動きという双方を演者は想像して舞うのが肝要なのでは…、というのが私の結論です。



(『安宅』延年之舞 足拍子 シテ 粟谷明生 撮影 石田裕)

次に「イトクリ、ブモヨシ、サンソウ」について、粟谷家蔵書の堀池家の伝書に『安宅』「瀧流之掛(たきながしのかかり)」について、次の通りの記載があります。

「落ちて巌に響くこそ」と下を巻差し開き、「鳴るは瀧の水」と小鼓頭にて流し打ち、この時右の方へ下を見廻し乍ら廻り大鼓前にて直ぐ右へさし、破掛男舞、この時は脇へ酌なし、「鳴るは瀧の水も」一遍。延年之舞は比叡山にて僧の舞うものなり。イトクリ、ブモヨシ、サンソウ 斯様の名ある舞の由。これは小鼓ばかりにて翁の様にタタホ ホホと打ち返す囃子入りも有り。衣の袖を雪かと思ふて、払えば月の陰 ササトツトト、と声をかくる。

これは私が「瀧流之掛」で勤めるにあたって参考にした書き付けです。
演能当初はこのカタカナで書かれた「イトクリ、ブモヨシ、サンソウ」が何を意味するのか解らずにいましたが、今回の資料の日光山・輪王寺(平成9年第64号)の「日光山の延年之舞」菅原信海氏著にその謎を解く記載がありましたのでご紹介します。
延年之舞は、僧家で大法会の後に行う遊宴歌舞の総称、例えば興福寺の延年については「興福寺延年舞式」によると、その順序は寄楽(よせがく)振鉾(えんぶ)弁大衆、舞催(ぶもよおし)、僉議(せんぎ)、披露、開口、射払、間駈 掛駈、連事(つらね)絲綸(いとより)遊僧(ゆそう)風流 相乱(あいらん)拍子・・・・云々、とあり、あのカタカナは延年舞式のひとつでありました。
昔の「延年之舞」は寺によりその進行、歌や舞、曲目などが異なり、各寺院の特徴を出していたかもしれません。伝書に比叡山とありますが、上記の興福寺の舞式の記載と同じようなカタカナが羅列されていたのは驚きであり、面白い発見でした。
今回伝書のイトクリはイトヨリ、ブモヨシはブモヨオシ、サンソウはユソウ、と記述の違いであることが判明しました。しかしそれらがどのような動きで、どのような歌、歌詞であったかは残念ながら資料もなく、たぶん解らずじまいになりそうです。いろいろ調べ、事が明らかになることもあれば、闇の中のままということもあります。
今回の「瀧流之掛」の記載に、このような間違いがあることや、また瀧流之掛のあとの「平調返し」の記載にも問題があると指摘し、この伝書を貶す方もいらっしゃいますが、しかしだから信用出来ない、役に立たない伝書と決めつけるのはいかがなものでしょうか。懐が狭いように思われませんか?

私は伝書とは清廉潔白、正しいことだらけ、ではないものもあると踏まえて読むようにしています。先人たちのいろいろなやり方や工夫がふんだんに書かれている伝書ですが、その内容は今やられているものと異なることもあります。
それらを読み比べる作業、これもまた面白く、いろいろと新たな発見があります。いろいろな型を知り、その記載された型で勤めたい気持ちになりますが、同時に鵜呑みは危険であるということも心得ていなければいけません。伝書とは、よく心して深く今に照らして読むべし、なのです。

伝書は書き付けともいい、その当時の人が自分や一門、後世の人のために、次回に演じる時に役立てば、と書き留めたいわばメモです。そのメモに少しの書き間違いがあったから、それがインチキで役立たずと決めつけてしまうのは、いささか勿体ない気がします。
伝書を読むことの出来る今の者の心得としては、その書き付けの中にあるものから創造する力を養うことです。そしてそれをふんだんに体現すること。
能役者はとりくむ曲に纏わるいろいろな情報の収集と常にそれを体現する技を磨いていることが必要です。

能楽師としてのすべてのスキルを持ち合わせ、尚更に書き付けのメモを読む、これらのことをして、観ていただく、この作業を演者は忘れてはいけないと今回も再確認出来ました。演能が終わるとどうしても、次の曲への作業にとりかかり、それまでの曲を振り向かない私ですが、今回演能後に色々な方のお力添えをいただき、改めてまた追加として演能レポートに執り掛かれたことは、やりっ放し性分の私に、初心忘るべからず! を教えてくれたようです。これももしかすると寛永寺さん、輪王寺や毛越寺のお力かな、とも思いましたが、やはり能楽師ならば、ここは武蔵坊のお陰としておくことにいたします。
                 (平成21年4月 記)

『安宅』 延年之舞について投稿日:2009-03-07

『安宅』―― 延年之舞について ―――  
粟谷明生


粟谷能の会(平成21年3月1日)で『安宅』を十年ぶりに「延年之舞」の小書を付けて再演しました。
延年之舞とは、延暦寺や興福寺などの大きい寺で大法会の後の余興として、僧侶や稚児が舞ったもので、鎌倉時代には盛んに舞われていました。能の「延年之舞」は常の男舞に特殊な囃子方の手組「延年の手」が入り、それに合わせ喜多流ではシテが特殊な足踏みをする小書です。
この小書はシテ方の五流にあり、各流とも独自の扱い方をしています。
森田光春著「能楽覚え書帖」には「延年の型は、扇を左に取り右袖捲いて飛び上がる延暦寺の型(観世)、ハネ扇して左斜めに少し飛び上がる興福寺の型(金剛)がある」と記載されています。
喜多流の中興の祖、喜多健忘斎は「延年之舞」について、「三段目、数珠扇取リ替エ右廻リ袖ヲ巻処ニテ身入、数珠持チナガラ右手ウツムケ前ヘ突出シ、左手ヲ後ヘ廻シ、アオムケ腰ヘ付ケ左足ヨリ一クサリ拍子踏、マタ左手ウツムケ前へ突出シ・・・・拍子踏ミ夫ヨリ常ノ舞ニナル」と記していますが、現行のように掛け声と共に跳び上がる記載はありません。
いつ、どのような理由で今のような「延年之舞」になったのか、私は疑問を抱くようになりました。
先代・十五世喜多実宗家は掛け声をかけて跳んでいらしたと先輩方のお話ですので、十四世喜多六平太宗家または十二世宗家あたりの発案ではないか、と私は推察します。
現在の喜多流の「延年之舞」は、伝書にある特殊な足拍子を踏むものに、跳ぶ型を加えた形となっているので、「能楽覚え書帖」による系統で分ければ、延暦寺型を取り入れたことになりそうです。
ではこの跳ぶ意味、また特殊な拍子はなにを表しているのか、私は疑問を抱くようになりました。
山中玲子氏はご自身の著「『安宅』の小書・延年之舞の成立経緯」で、観世流も以前は足踏み拍子だけの演出を観世元章あたりの新工夫で跳ぶ型を導入したのでは・・・と記されています。徳田隣忠著「隣忠集」には、跳ぶ動作は「延年之舞ハ法会ニ児等ノ舞コト也。
其舞ニ両手ヲ肩ヘ打掛、両ヘ飛事アリ」と記されていますが、跳ぶ理由は記載されていません。


観世流が三回跳ぶところを、喜多流は一回だけで、「エイ!」と掛け声と共に高く跳びますが、実はそのことよりもその後の独特な抜き足のような足踏みの拍子を大事にしているのが喜多流の特徴なのです。
笛の譜と囃子方の掛け声に合わせて、五つ拍子、四つ拍子、三つ拍子と順番に踏みます。型は片手を腰に当て、もう一方の手で大地を抑えるような動きとなりますが、これも伝書には何を表しているのかは記載されていません。
いろいろ説はありますが、跳ぶことと関連して、やはり『翁』の三番叟の影響は大きいと思います。揉みの段や鈴の段の型を踏襲して、足踏みは大地を整地する心、手の動きは鈴の段の種まきの風情を真似ている、この説が今、最有力ではないかと思います。『安宅』の延年之舞は寺院の行事でありながら、翁の神事にも通じる、この両者の重なり具合が延年之舞を余計に興味深く面白くさせているのかもしれません。もっとも、延年をする衆徒が法会の間の場を取り持つ動きの一つとして、滑稽な動きを見せ観衆や聴衆の人目を引いたということも捨てがたい説ではあります。
 演能後、弟子の宮地啓二氏に資料集めを依頼したところ、寛永寺・土谷慈得氏のご協力により、日光山・輪王寺や平泉・毛越寺からの資料を入手することができました。現在、寺院で「延年之舞」が舞われるのは、この二寺だけです。その資料によると、喜多流の「抜く足拍子」は毛越寺の老女の舞の腰を屈めた姿に似ています。腰を屈め、鈴を鳴らす動作は、田畑への種まきを表しているようです。(くわしくは、演能レポートの追加編「延年之舞の疑問点を解明」をご覧ください。)


 このようなことは演能後に分かってきたことですが、実は舞台で弁慶を演じているときの私の心の内側は、型の意味合いよりは、窮地に立たされた弁慶がどのように義経一行を逃すか思案する時間稼ぎ、または、三塔(比叡山)の遊僧として昔手慣れた動きがふと自然に顕れてしまった、といった解釈になっていたのが正直なところです。
『安宅』「延年之舞」を勤めるにあたってもう一つ気になったことがありました。それは「延年之舞」自体が、囃子方との約束事を重視した囃子の面白さだけに焦点を当て、物語の展開という本筋から少々はずれた演出になっているのではないかということで、私にはそう思えて仕方ありませんでした。
招かざる関守の前で舞を舞うことになった弁慶。しかし一刻も早くこの場から退出したい心持ちのはずです。ところが、延年之舞は「延年掛(えんねんかかり)」となり、通常より一クサリ長く伸びて、仰々しいシテの達拝が導入されます。囃子方の強くゆったりとした掛け声は神聖感が漂い悪くはありませんが、どうもこの達拝が不似合いです。早くどうにかして退出したい弁慶の心持ちを最大限に活かし、観客の心にも強くアピールする、『安宅』という物語に似合った演出はないものか、と考えました。そのとき、山中氏の『安宅』が創られた当初は破掛り(はがかり)で行われていたという記載が目にとまり、私の背中を押してくれました。そして、我が家の堀池家の伝書に「瀧流之掛(たきながしのかかり)」は破掛りと記されているのを見つけました。~「鳴るは瀧の水」と謡い直ぐにサシ・男舞・破掛~とあります。これが私の演じたい気持ちに似合うと思い、今回の試演となりました。


お囃子方(笛・松田弘之 小鼓・鵜澤洋太郎 大鼓・柿原弘和)のご協力を得て、堀池家の書き付けを配り、それを頼りに全員で新たな演出を考え試演しました。
安宅の関を通り、一安心していた処に、酒を持参して乗り込んでくる関守、しかし無碍に断ることも出来ない弁慶の心。兎に角、ひとまず飲んで座を持ち、一行をうまく早く奥州へ逃がす気持ちを観客に伝える、そのためにはどうしたらよいか?と囃子方に説明しました。そこで「落ちて巌に響くこそ」の「響く」で笛のヒシギに合わせてシテは足拍子を踏み、瀧を見上げ、落ちる水を見回しながら、「鳴るは瀧の水」と謡い、しぶしぶと舞に入る段取りにしました。瀧の水音は小鼓の乙流し(ポンポンと同じ拍子で打つ)の連打で表現し、弁慶の気持ちが乗らない心は大鼓の中々打ち出さない技法で表現してみることにしました。
ご感想などがあれば、忌憚なくお聞かせいただきたいと思っています。

今回のこの新しい演出、「目先の目新しいことばかりして・・・・従来通りに伝承を守るのが第一・・・」とのご批判もあるかもしれません。が、しかし、これは物語重視の思考の上でのことです。能役者・粟谷明生が能の台本を読み込み何を表現するか、何を伝え得るか、そこが大事でそれを蔑ろにする能役者人生は送りたくないのです。能役者の個性が舞台に表れてこそ、その演者の能になる。それがよい能となるかどうかの決め手、そう信じたいのです。書き付けを元にその先を読み込み演出に工夫をする、舞台を勤める演者たちの大事な作業であると思います。今回、この作業を囃子方の面々と共に真摯に楽しくできたこと、その充実感を、今堪能しています。

小書「延年之舞」には、狂言方の小書「貝立(かいだて)」が付き物です。
「貝立」は、アイ(強力)が関の様子を報告した後に、再度橋掛りに立って「ズーワイ、ズーワイ」とほら貝を吹いて出立を知らせる小書です。今回は野村萬斎氏がアイを勤めてくれましたが、申合後に「どんな感じで吹いたらいいでしょうか。シテの謡い方によって貝の吹き方が違ってきます」と言われました。どういうことかというと、「さあらば御立ちあろうずるにて候(さあ、出発しましょう)」と、弁慶が義経に告げる、その謡う心持ちによって、「ズーワイ」の吹き方も違う、というのです。勢いよく「さあ、行こう!」という明るい陽の謡い方なら、陽の吹き方になり、「大変だけれど、身を引き締めて参りましょう」という暗い陰の謡い方なら、陰の吹き方にと、吹き方はシテの謡い方に合わせるということです。私が後者の陰のやり方で謡う、と伝えると、萬斎氏は「ではそのように吹きましょう」と快く対応してくれました。
このようにちょっとしたこまかな言葉のニュアンスまでも配慮して舞台をつくる、当然のことなのですが、こうしたことがよい舞台作りには不可欠な作業だと改めて思い、当日はより新鮮な気持ちで舞台へ出られました。『安宅』の最後の場面では、シテが強力に笈をもって先に行けと合図し、それをうけてアイは笈を素早く肩にかけ、さーっと走り込みます。私の思い通りの、素早いながらも綺麗な型として萬斎氏が勤めて下さったことに、私は感謝しています。

今回のレポートは「延年之舞」の小書を中心にまとめました。このように書いてくると、延年之舞ばかりを考えていたように思われそうですが、決してそうではありません。
重ねて言いますが、小書の「延年之舞」は重い位の習です。もちろん大事にしなくてはいけませんが、『安宅』という能を演じるとき最も忘れてはいけないことは、物語の展開の面白さをきちっと伝えることです。現在物と呼ばれる曲は、お芝居にならずに能の手法の内側ギリギリで、いかに表現できるかにかかっています。私は幽玄物と現在物とを意識して演じ分けています。

『安宅』では、シテや子方と立衆全員から関を突破する意気込みが感じられなくては、観ていて面白くありません。そのためには各役者がそれぞれ謡い方に緻密な緩急をつけ、ひとつひとつの所作も冷静と興奮というような動と静が繰り広げられ、心の陰陽が彷彿されるように心掛け、観客の心を引きつけなくてはいけないと思います。それをしないと観客の心は醒めてしまうでしょう。能は伝統的な様式美によって表現されるものです。しかし、その言葉に甘え過ぎる危険が能役者には付きまとうようです。私は現在物に取り組む時、常にその危険な落とし穴を意識していたいと思っています。

たとえば、強力に身をやつした義経が疑われた後、郎党が一気に立ち上がり、刀に手をかけ一触即発、弁慶が郎党を押しとどめ、シテ方とワキ方の「押し合い」となる場面があります。ここでいつも気になることがありました。それは富樫に迫るとき、七人~九人の演者がまるで満員電車に乗っているかのように身体をすりつけ窮屈なさまを舞台中央で展開します。あの三間四方のなかで、肩と肩、体が触れ合うことで緊迫感が出せる一面もありますが、一方でもう少しそれぞれの役者が離れていても富樫への闘志が表現出来るのでないか、その方がお能らしいのでは・・・。全員が型として押されれば下がる、下がれば押し返すという動きができないものか、と提唱しました。前の人にぶつかりながら下がる、後ろの人に押されながら出るという身体同士の触れ合う感覚ではない、離れていても様式を整えた型としての動きです。それでいて、全員がまっすぐに富樫を見据え、一歩も引き下がらないという気持ちで・・・・。芝居心を持つ能役者の動きを能の様式美として観ていただく、能の表現ギリギリのところで演じ力強さも出せれば、それが私の理想です。
シテだけではなく、郎党たち(シテツレ)、富樫と太刀持ち(ワキ方・狂言方)、すべてがこの『安宅』という物語、能を創り出すための意識を上げる、今回、それの手応えが私には感じられて嬉しく思っています。


謡については、最初の道行の謡と、弁慶の勧進帳を読む謡が、聞かせどころです。
道行の謡は特に力強くノリよく謡いたいところです。ダラダラ謡っていては緊迫感が生まれません。ある能楽評論家が「落ちていく義経一行の姿と喜多流の力強い謡とは似合わない」と評したそうですが、私はそうは思いません。なぜなら、落人だからといって弱々しく謡っては、またいつか再興を、と志す武士団の強い気運がでないからです。もちろん強い声と乱暴な大声を取り違えてはいけませんが、私が子方時代に聞いた諸先輩の道行は物凄い迫力で子供ながらにぞくぞく興奮するものでした。私はその時の記憶をもとに今回の立衆にも同じように強さをもって、と強調し協力してもらいました。

弁慶の勧進帳の読み上げは、節扱いも拍子のあたりも難しく囃子方との呼吸で謡う特殊な謡で最大の聞かせどころです。囃子方との呼吸は、ただ拍子に合わせて謡うだけではなく、ここでもやはり、『安宅』という物語を意識しての演じ方が必要です。富樫に勧進帳を読めと言われて、そのようなものはもともとないわけです。空白の巻物を取り出して、本当に困って、しぶしぶ、しかしそれらしくどのように読むか、苦心の心持ちが聞かせどころです。最初はしぶしぶ読んでいるものが、そのうちだんだん流暢になって言葉が溢れてくるようなスピード感、ノリのよさが大事です。最後は「天も響けと、読み上げたり」と高らかに宣言するのですから、本当に見所の奥まで響き渡るほどの大音声で謡わなければ説得力に欠けます。囃子の拍子あたりだけに満足しない、謡本の詞章を読み上げることに意識を高めてこそ、本当の勧進帳が成立すると思うようになりました。それを観客は楽しみにしているということを、遅まきながら最近判るようになったのです。


能『安宅』では、安宅の関を通ったのは、弁慶一党の信仰の力、仏の力で通ったのだという描き方です。歌舞伎の『勧進帳』は、富樫が義経一行だと分かりながら、武士の情で通したという描き方になっていますが、これとは全く違います。能の富樫の心の中ではそれまで何人もの山伏を殺していて、仏罰が落ちるのではないかといった恐怖心があったと思います。それは富樫本人だけではなく家族や親族、何代にもわたるのでは、との怖れです。だからもし、この一行が本当の山伏なら、殺してしまってはたいへんなことになる。弁慶たちは富樫にそういう恐れを持たせ、安宅の関を突破しなければならないのです。子方のとき、なぜまた富樫が戻って来るのか、なぜ弁慶は招き入れるのかと不思議に思っていましたが、富樫が本当の山伏だと思ったからこそ、これまでの非礼をわびる意味で酒を持参してやってくるのであり、弁慶らはそれを平然と招き入れなければならない。史実とは違うのかもしれませんが、能はそのように描き、その緊迫感を能役者に求めていると私は解釈しています。

『安宅』は現在能、夢幻能とは違います。三番目物のようなしっとりした能の世界とは全く違うこのような現在能が、芝居としての面白さを持ちながら、能の枠組みを超えず、能として多くの人に支持され、今も人気曲として伝わっています。

今回も能の幅広さ、懐の深さを感じ、これからも多様な能に挑戦し続け、様々な試みも手がけていきたいと思いました。

能楽師人生も様々です。私は私なりの道を歩んでいく覚悟はありますが、正直なところ不安もあります。このような演出でよいのか、もっと違う考え方があるかもしれない・・・などと。先輩はじめ多くの人に忌憚のないご意見をいただき、それを自分のなかで咀嚼して次の演能にも活かしていきたい。今回のように、囃子方や狂言方、ワキ方、郎党を勤めてくれた喜多流の若い人たち、みんなと創り上げていくことの面白さ、素晴らしさを満喫しながら更なる能の世界の追及をしていきたい、そう思っています。

生意気かもしれません、考え過ぎるなとも言われそうですが、「い~や、それでいいんだ!」という弁慶の声が、私には聞えてならないのです。
                      (平成21年3月 記)
写真
1・2・3・4 撮影・吉越 研
5・6・7   撮影・あびこ喜久三

シテ 粟谷明生
ワキ 森 常好
強力 野村萬斎
立衆 狩野了一・内田成信・佐々木多門・大島輝久・塩津圭介・佐藤寛泰・友枝雄人

香港・マカオの旅投稿日:2009-01-16

平成20年12月26日から三泊四日で香港・マカオに行きました。
ANAハローツアーにお世話になり、往路は香港国際空港に到着後香港島のエクセルシオールホテルまで、また復路は空港まで現地の日本語を話せるガイドが案内してくれました。
しかしそれ以外はすべて自由行動という気楽なツアーなため、いろいろ苦労もありましたが、なんとか無事に楽しんで参りました。
初日は、香港最大の繁華街、九龍のチムサアチョイに渡り、三つ星の中国レストラン「福臨門」で夕食を堪能。翌日は予定では片言の英語と身振り手振りで通用すると過信していましたが、マカオでのパスポート手続きや見物するところの選択など、我々には似合わず無理と判断、急遽オプショナルツアーに参加することにして、日本語を話すガイドさんの案内で、お寺や教会、カジノなどを見物、体験してきました。最終日はヴィクトリア・ピークに登り景観を楽しみ、今回の旅は終わりました。よい思い出となりましたので、その一部を写真でご紹介します。

ペニンシュラホテル
初日、香港島から九龍島へは慣れない地下鉄を乗り継ぎ、ペニンシュラホテルに行きました。地下鉄の切符は自動販売機で簡単に買えると思っていましたが、大人4枚を買うのに四苦八苦、突然出雲氏は隣の若い女性に声を掛け4枚を買ってもらいました。全員でお礼を言い、出雲氏に「なんて中国語で言ったのですか?」と聞くと・・・、「ヘルプミー!」ですって。

スターフェリーから見える香港島の夜景
香港島と九龍島の行き来は、道路か地下鉄かまたはスターフェリーの船に乗るかです。
地下鉄を経験した我々は次にフェリーに挑戦、今度はスムーズに切符も買えて無事乗船出来ました。生憎、靄がかかっていましたが、対岸の香港島の夜景は綺麗でした。

マカオ最古のお寺・アマーカオ
二日目は2005年に世界遺産に登録されたマカオへ、香港から船で一時間で着きます。日本語が堪能なガイドさんに案内され、まずは中国寺院、媽閣廟から。マカオという地名の由来は、寺の別名「アマーカオ」から来ているそうです。

渦巻き線香
長く太いとても大きい渦巻き型の線香は日本では見たことがありません。

拝み方
マカオや台北は長いお線香を頭上に上げるのが正式のようです。

聖ポール天主堂跡
五層からなるファサード(正面)は「石に刻まれた説教」といわれ、漢字やお花、聖母に踏まれる龍などが掘られています。聖ポール天主堂は東洋と西洋の文化が合体した珍しい教会といえるでしょう。1600年代に建てられましたが1835年火事で焼け落ち、今は外壁とその下に続く階段のみが残っています。

4人での記念撮影
ガイドさんに「撮ってあげましょう」と言われ、貴重な四人の集合写真、左から二番目が私。

エッグタルト
天主堂跡から下るとガイドが勧めるエッグタルトのお店がありました。そのエッグタルト、作りたては暖かく美味しい。しかし一つ食べれば充分な濃厚な味でした。4人分を買うために順番を待つ出雲康雅氏と長島茂氏です。

ビーフジャーキー
エッグタルトを食べながら、周りのお店を見るとビーフジャーキーを売る店も多く、その種類も豊富です。

聖ドミニコ教会の中
外の喧噪が嘘のように中は静粛な雰囲気でした。

聖ドミニコ広場にて
「撮りますよ!」に笑顔で応える面々。左から出雲康雅氏 長島 茂氏 粟谷能夫氏。

カジノ
高所恐怖症の多い我々メンバーは、ツアーコースのマカオタワーをキャンセルして、直ぐにザ・サンズカジノにて楽しむことにしました。スロットマシン、ルーレット、ブラックジャック、バカラなどいろいろありましたが、私は言葉が通じないため出来ずに、ただ見るだけ、終始、歌やダンスのショーを見るだけとなりました。

トラム
三日目は香港島見物。島内の交通機関はバス、タクシーにトラム(路面電車)。すべてを経験しようと、まずはトラムから乗車、のんびり下町を走る路面電車は情緒があって楽しいものでした。

トラムの二階席からの車窓
乗車すると直ぐに狭い階段があり二階へ。電車内はあまり広くはないですが、空いていたので快適でした。但しラッシュ時は渋滞して、歩くよりノロノロ運転になるらしい。

中環(セントラル)にあるピークトラムへの標識
中環でトラムを降りてピークトラム(山頂電車)の山麓駅に行きたいという時は、このような標識が頼り。これを見つけ無事山麓駅へ到着出来ました。

ビクトリア・ピーク山頂にて
ピークトラムはかなりの急勾配を登ります。混んで座れず立っていましたが、手すりにつかまっていないと立てないほどの傾斜です。遂に標高373メートルの山頂!に到着。生憎小雨模様でしたが、眼下には、写真で見る高層ビル群が見られました。

高所恐怖症の二人
「もっと下がって、後ろ、もっと」と撮影しましたが、笑顔の下に恐怖心があるようです。

美人の外人さんと
山頂から山頂駅まではエスカレーターを何度も乗り換えます。下りエスカレーターでの撮影ですが、偶然、我々全員が見とれていたモデルさんのような長身の綺麗な女性が写っていました。

山頂駅にてピークトラム
年末のためか山頂電車はたいへんな混雑で長蛇の列、登りは乗車までに40分ほど待ちました。下りは一本待つだけでしたが、ホームはやはり人で溢れています。

『張良』を勤めて ー中国の題材に相応しい演出ー投稿日:2008-12-21


平成20年12月の喜多流自主公演で『張良』を勤めました。
『張良』は漢の高祖(劉邦)に仕えた若き日の張良が黄石公(こうせきこう)の試練に耐え、兵法の秘伝を伝授される話です。この張良の忠義心は鞍馬山の大天狗が牛若丸に兵法を伝える『鞍馬天狗』の一場面にも謡われています。老人の黄石公は若者の張良に何度も沓を拾わせ、その忠義心を試しますが、その模様を作品化したのが観世小次郎信光(音阿弥の第七子)作の『張良』です。

信光は『船弁慶』『紅葉狩』『龍虎』『羅生門』など、それまでにはなかったワキが活躍する劇的で動きのある能を数多く創りました。信光は大鼓の上手でもあったようで、『船弁慶』の間狂言の波頭(なみがしら=荒れる海を表現する手組)を創案し、音楽的に新たな工夫を残した能役者です。喜多流には生憎ありませんが、『胡蝶』や『吉野天人』なども創り、また晩年には老木の柳をテーマにした『遊行柳』も創りと、その幅広い作風は観阿弥や世阿弥そして金春禅竹とはまた別な新たな能の世界を作り出し、その作品が今日でも上演され続けているということは、その優秀さを立証していると思います。

ではまず、『張良』のあらすじをご紹介します。
張良はある夜、老人が沓を落としたので履かせると、五日目にまたここに来れば兵法の奥義を伝授すると言われる夢をみます。夢のこととは思いながらも、五日後に出向くと老人はすでに待っていて遅参に怒り、さらに五日後に来いと言い捨てて消え失せます。
そして五日後、今度は早暁に出向くと、老人はまだ到着しておらず、そこへ黄石公と名乗る老人が馬に乗って現れて、履いていた沓を川へ落とし、再度、張良の心を試します。
張良は沓を拾おうと川に飛び込みますが、激流に阻まれなかなか取れないでいると、龍神が現れ沓を取り上げてしまいます。しかし張良は剣を抜いて龍神を威嚇し沓を取り返し、川よりはい上がって黄石公に沓を履かせます。黄石公は喜び、張良に兵巻物を与え兵法を伝授します。龍神は実は黄石公の分身で、これからは張良の守護神となると約束して川へ消え、また黄石公も高い山へと消えて行きます。
以上があらすじです。

能は史実と異なることがたびたびあります。
この『張良』の場合も同様で、ワキの名乗りで「漢の高祖に仕える・・」と語りますが、実は兵法を伝授された時点では、まだ張良は劉邦には出会っていません。
ここで張良なる人物を大まかにご紹介します。

張良は戦国時代(紀元前475年?221年)の韓の宰相たる名門の出身で、この韓は秦により滅ぼされますが、その時のことが張良の秦に対する復讐心と祖国再興への思いを強くさせます。旅行好きの秦の始皇帝が陽武(ようぶ)に来たとき、張良は暗殺を試みますが、幸か不幸かこれは失敗に終わります。これ以後、逃亡生活を送り、下&#37043;(かひ)での沓の話はこの時のことです。やがて劉邦と出会い自分が仕えるに足る人物と見込み、配下となります。項羽と劉邦で有名な「鴻門の会」では、劉邦の危機を張良の冷静な計らいで乗り越え、最後は項羽を烏合にて自害へと追い込むのも張良の策略だといわれています。漢帝国建国に尽力した張良ですが、実は生来虚弱多病で身体も小柄であったというのは意外でした。

さて話を能に戻します。
歴史がどうあれ、舞台鑑賞の観点からすると、逃亡生活中で風来坊の青年張良より、劉邦に仕える、身分ある、位ある者の忠義心の方が映りはよく、そのように設定したのは信光の工夫だと思われます。
能『張良』は、この張良役をワキが勤め、特にワキの重い習とされ大事に扱われています。今回私が『張良』を勤めることになり、ワキをどなたにと考えた時に、出来ればまだ披らかれていない若い方のチャンスになればと思い、宝生欣哉氏にご相談して、大日方寛氏にお願いすることとなりました。
ワキが重い位になるのは、ワキの型どころが多いことによります。特に重要な型所は川に落ちた沓を取ろうとする場面で、見せ場になっています。一畳台に飛び上がると、直ぐに川に飛び込む心持ちで飛び降り、急流に流されながらも沓を取ろうとする有様を、特有の流れ足と身体の反り返りと回転で演じます。これはなかなか特異な動きで、ワキの唐冠に捲かれた赤い色鉢巻きが床につくくらいに反り返れ、というのが心得と聞いています。

この見どころ、実は私はその場に居ても面を掛けているので残念ながらよく見えません。後日、大日方さんのその俊敏な流れ足とスピード感溢れる動き、若き勇士の威風ぶりを、映像を通してですが、見ることが出来ました。
この若さ、俊敏さを際だたせるために、シテを動きの少ない老人という対照的な設定にする、このことを作者は意図的に考えたのではと思います。

今回『張良』を演じるにあたり、シテ方にはあまり手柄もなく、特にどうのということはないので、稽古をしていても少々消化不良、物足りなさを感じてしまうのが正直なところです。しかしシテを勤めるからには、シテの心得を外さないで勤めるべきで、それは、ただただ黄石公のどっしりとした貫禄とスケールの大きさを演じきる、この一言に尽きると思います。ご覧になられて、さしたる動きが無く、簡単で楽であると思われるかもしれませんが、自然にどっしりとした貫禄を表現することこそ、能役者の表現力の一つだと思われます。そのために、それなりの技術的な作業が行われているのですが、私としてはそこを見ていただきたい、というのが本音なのです。
貫禄、というもの、これが若年では出来そうで出来ない不思議なものなのです。それが少しわかる年齢になった、ということは自分も既に若者ではないというお墨付きを頂いたような、嬉しいような悲しいような、複雑な私の気持ちです。



今回、私としては、この曲でなければという演出にこだわって、喜多流独自の沓を履く演出はもとより、装束も中国風にと気を遣ってみました。
我が家の伝書に「後シテ鼻瘤悪尉、長範頭巾ノ内ニ垂、狩衣半切・・・沓ハク静成ル早笛橋掛立つ」とあります。
能で沓を履く、しかも歩いて登場することは大変珍しく、これは喜多流のみの演出です。
沓を使用しての演能の歴史は、私の知る限りでは、20年近く前に、京都在住の職分・高林白牛口二氏が沓を購入され、福王茂十郎氏の会の『張良』にて沓を履いて演能されたのが最初です。それ以前は宗家や職分家に履ける沓がなかったためか、従来通り足袋での演能でした。もっとも江戸時代、明治、大正時代の記録を捜した訳ではありませんが、伝書には「沓ハク」とあるので、昔はたぶん履いていたと思われます。当時それを観た観客はもとより、その場に居合わせた能楽師達もみな、屹度その奇抜な演出に目を見張ったことだと推察します。ごく最近では従兄弟の能夫が高林家の沓を拝借して粟谷能の会にて『張良』を勤め、また『大会』でも同じ沓を履いて勤めています。
この沓の形は、現在禅宗のお寺などでは出頭沓と呼ばれているものに近い形です。
沓を履いて運び(歩行)をすると、沓底が固いフェルトで出来ているため、いつものように足裏で舞台を感じる事が出来ず、特に一畳台への乗り降りは危険が伴い、注意が必要です。やりにくい面も多々ありましたが、流儀にしかない稀な演出であり、今回は観客の目を引く演出として、敢えて挑戦してみました。
これは53歳の私の感想ですが、沓を履くという慣れないことは、あまり高齢になってからは危険が伴うので、履かない方がいいのではないか、履くとしたら何度も履いて慣れるようになしなければ、とここに記しておきます。



そして、中国風の装束選びは観世銕之丞氏のご協力を得て、前シテには尉髪の上に淵明頭巾をつけ、後シテは長範頭巾に替えて唐帽子に白垂とし、狩衣の上から裲襠(りょうとう=中国風のチョッキのようなもの)を着ることにしました。これによって中国らしい、異国風な情緒を出してみました。
前シテの装束は通常、神能の『養老』や『烏頭』の前シテの尉と変わりません。日本人と中国人が全く同じ格好である、そこに違和感を持ちました。お狂言方も中国物にはそれに似合った装束を着用しているのですから、シテ方がその工夫をしないでいるというのは、少しサービス精神に欠けている、というか無頓着過ぎるように思いはじめました。
中国が舞台の話を、日本人と同じ装束でこなしてきた歴史には訳があります。
昔、猿楽師が旅役者として少ない装束で、何の曲にでも対応出来るようにと装束を選び、持ち運びを工夫してきました。しかしそれは過去の話であって、現代それに甘えているのはどうも、私としては性分に合わないのです。
過去の歴史や資料は大事にしたいと思いますが、今の時代は、もっと観客の立場に立って考え、異国物にはそれなりの、想像しやすい環境作りが必須だと思います。私はその一つとして装束選びは重要なポイントであり、演じる立場がいつも心掛けなければいけない事だと思っています。



淵明頭巾の着用は喜多流では初めての試みでした。淵明頭巾という名前も知らない、付け方も判らない状態でしたので、観世流・銕仙会の方々に教えていただきました。
装束付けは狩野了一氏と佐々木多門氏、その他の方々にもいろいろとご意見やお知恵を拝借しながらの出来映えとなりましたが、私の我が儘を皆様が助けて下さって、いろいろとご苦労をお掛けしたこと、ここで皆様にお礼を申し上げます。

面についても触れておきます。
伝書に面は「鼻瘤悪尉」と記載れていますが、「上手ニテハ悪尉ベシミ掛ケルモ」とありましたので、今回は思い切って我が家の「大悪尉」を使いました。面の収集に力を注いだ故粟谷新太郎伯父が、この面が手に入ったことを喜び、面をかけたまま寝ていてそれを見た伯母がびっくり仰天した、という曰く付きの「大悪尉」です。迫力ある黄石公に似合っていたと思っています。



次に、沓の演出について記載しておきます。
伝書には、シテが沓を脱いで蹴り落とす、とありますが、今回は敢えて後見に投げていただくことにしました。高林家の沓は頑丈で重いため、シテ自らが蹴った場合近くに落ちる可能性が高いのです。ワキは沓が落ちると、すぐに沓を拾いに激流の中に飛び込み、流れ足や反り返りなど激しい動きのある型どころになりますが、もし沓が舞台の中央辺りに落ちると、動く範囲が狭くなり思う存分に型を演じることができません。
中央やまた別な所に落ちた時のために替えの型はありますが、大日方氏は初演でもあり、そういうわずらわしい思いをさせたくなく、存分に動いてほしいと考えました。後見の方には、沓が舞台から落ちてもかまわないので、出来る限り遠くに投げてくださいとお願いしました。
今回は本当に舞台から落ちてしまいましたが、その場合、龍神が沓を持って登場する方法(替えの型)と、今回のように、早笛と同時に後見が所定の位置に沓を置き、当初の通り、それを龍神が拾うというやり方があります。いずれにしても、落ちたときの用心に沓は3つ用意してあります。
私が聞き慣れた教えは、龍神が抱え持ち出る方法ですが、実は伝書には、その記載はありませんでした。むしろ早笛で堂々と後見が持って出ること、と書かれていました。
私はいざという時、二つのやり方のどちらを選択するかを考えました。そして、龍神が沓を持って出る替えの型よりも、伝書に書かれた方を採用しました。
それはワキ(張良)もシテツレ(龍神)も、沓の落ちどころで、わずらわされることなく、稽古してきた型で存分に演じてほしい、そういう場を設定するのが大夫としてのシテの役割ではないかと思ったからです。沓の処理については賛否両論ありますが、今回は、私はそのような意図で演出しました。

『張良』はワキの重い習いです。重い習いだから特別というわけではありませんが、ワキの型や龍神の型をシテがよく解釈し、深く理解し共に創り上げていかなければならないと思います。ワキの難しい動きをよく理解して、それに合わせるように謡う、ワキの溌剌とした若々しい動きに対してシテはどっしりと構えるなど、今回はとくにワキやツレを意識して勤めました。ワキの大日方さんが、流れ足、反り返り、謡と、難しい型どころ、謡どころを、青年張良らしくさわやかに力強く勤め、よいお披キになりました。私もシテとして微力ながらも力を貸すことができてよかったと思っています。
沓の演出、装束のことなど、一曲を創り上げるためにすみずみまで細かい配慮をする、今回のことは、シテが大夫としてするべきことの勉強であったような気がしています。
 

                    (平成20年12月 記)
写真
(1)『張良』後
シテ 粟谷明生
ワキ 大日方寛
龍神 内田成信
小鼓 成田達志
太鼓 助川 治
後見 金子敬一郎
(2)前シテ 粟谷明生
(3)沓 近影
(4)後シテ 粟谷明生
(5)淵明頭巾を付ける 左内田安信氏と狩野了一氏
(6)大悪尉 粟谷蔵 

(1)(2)(4)あびこ喜久三 撮影 
(3)(6)   粟谷明生   撮影
(5)      佐藤 陽   撮影

京都錦秋投稿日:2008-12-16

平成20年11月、京都にて紅葉見物と謡蹟を訪ねる旅をしてきました。
朝8時、京都市内からタクシーに乗車し高尾三山を目指します。運転手さんに紅葉の具合を聞くと「今年はぬくいから、紅葉は遅いですわ、まだまだですな~」と言われましたが、予定通り、神護寺、西明寺、高山寺、そして特別拝観している寺を廻り、『経政』ゆかりの寺、仁和寺は金堂と観音堂を訪ねました。さらに時間に余裕があったので、金戒光明寺の阿弥陀堂にて恵心僧都作の阿弥陀如来を拝み、熊谷直実と平敦盛の供養塔などを拝んで、最後は六角堂で230年ぶりの秘仏の御開帳を見てきました。
では、今回は写真のメモを重視して展開します。

神護寺に掛かる橋の下を流れるのは『蝉丸』の道行でお馴染みの清滝川。
「里人も咎むなよ、狂女なれど心は清滝川と知るべし」と謡われています。
11月中旬、山の方はすでに錦秋の世界でした。

高尾三山は、京都市内、出来れば妙心寺辺りにお泊まりいただいて、朝早く出かけるとよろしいですよ!」と元お弟子の臨済宗妙心寺派の松下宗伯氏に言われたのを思いだし、朝一番を目指しました。まさにその通り、静かでひんやりとした朝の神護寺は最高でした。神護寺は長い長い階段を幾段も上るので、ご高齢の方には苦しいですが・・・。
私も次回は平気で上れるかな?と思いつつ。しかし、写真の門が見え始めると疲れもいっぺんに吹っ飛んでしまいます。この門をくぐると内は落ち着いた雰囲気が待ち受けています。

本堂の裏に厄除けの土器投げがあります。一組二枚で100円、どれくい飛ぶか試してみましたが、意外と飛ばすのがむずかしく、厄除けになったのか少し心配です。

朝の本堂の庭を掃くお坊様のお姿がとても紅葉と似合っていて思わずシャッターを切りました。

神護寺から近い西明寺はそれほど広くはありませんが、ひっそりとした佇まいが良い感じでした。

西明寺の灯籠。苔の帽子を被っているようです。

高山寺といえば、鳥獣戯画ですが、謡曲の『春日龍神』に登場する明恵上人ゆかりのお寺です。

明恵上人の御廟。上人は春日の神に入唐を止められます。

開山堂は本堂の手前、石水院から少し上がったところにあります。

高山寺から降りたところ、「とがの屋」にて紅葉の清滝川を見ながら昼食。
松茸うどん(¥1500)は松茸が厚く4枚も入っていて、美味しい!

平成20年の仁和寺の特別拝観は金堂と観音堂でした。観音堂の背景の紅葉が美しい。

仁和寺にある謡蹟保存会の立て札は金堂に向かう途中右側にあります。 

金戒光明寺は黒谷と言われる浄土宗の大本山。『西行桜』に「上なる黒谷、下河原昔遍昭僧正の」と謡われます。御影堂の横には、敦盛を討った熊谷次郎直実が出家を決め、ここで鎧を掛けたと言われる「鎧掛けの松」があります。

法然上人の御廟堂に向かい、右側に熊谷次郎直実の供養塔、左側に敦盛卿の供養塔が向かい合ってありました。これが直実の供養塔。

こちらが敦盛の供養塔。

熊谷堂。熊谷次郎直実が法然上人の弟子となり、出家し蓮生と改名して隠棲したところです。

六角堂の秘仏公開は230年ぶりです。夕方4時半に到着したので時間が遅く、間近では拝見出来なかったので、遠くからの撮影です。