粟谷明夫の能がたり

『黒塚』を勤めて 〜糸車のようにめぐる命投稿日:2025-11-15

『黒塚』を勤めて
糸車のようにめぐる命

久しぶりに山口市にある野田神社の能舞台で「山口薪能」『黒塚』(令和7年11月3日)を勤めました。野田神社は毛利敬親公をまつる神社で、能舞台は毛利家が建築奉納したもので、とても立派な舞台です。平成12年に初めてお邪魔し『小鍛冶』を勤めて以来、実に四半世紀が流れました。
当日は寒い日でしたが、用意した客席が満席となる、500名のお客様をお迎えし開催することができました。開催にあたり野田神社・真庭宗雄宮司様、主催の山口薪能実行委員会の皆様には大変お世話になりました。厚くお礼申し上げます。今回、野田神社能楽堂を初めて経験する能楽師の面々も「こんな立派な能舞台があるなんて!」と絶賛していました。是非また、ここで能が開催されることを願っています。

私の『黒塚』の初演は30歳のとき、それから40年が経ち、今回が11回目の演能になりました。『黒塚』はそれほど位の高い能というわけではありませんが、ドラマチックであり、女の深い悲しみが描かれていて、人気曲となっています。観世流ではこの曲を『安達原』と称しますが、舞台は奥州安達原です。

まずは物語を簡単に記しておきます。
回国行脚に出かけた那智の山伏・祐慶ら一行(ワキ・ワキツレ)は奥州安達原で行き暮れ、野中に1軒の家を見つけ宿を乞います。そこで一人寂しく暮らす里女(前シテ)は一旦断りますが宿を貸すことにします。山伏がふと見つけた枠桛輪(わくかせわ:糸車のこと)。里女は問われるままに糸車を回し身の苦しみを嘆き、また糸尽くしの歌を謡って見せます。夜寒になり、女は薪を採りに山に出かけますが、一旦戻り「閨の内を見るな」と言い残して行きます。(中入)
山伏らは見ないと約束しますが、能力(アイ)はこっそり閨の内を見てしまいます。そこにある死骸の山に肝をつぶし山伏に報告。山伏たちが逃げようとすると、鬼女となった女(後シテ)が現れ襲い掛かります。山伏たちは数珠をもんで祈り、ついに鬼女は祈り伏せられ消え去ります。

『黒塚』の女はどういう女なのでしょうか。鄙の地で一人寂しく暮らす孤独な女、その地で鬼にならざるを得なかった境涯、同時に鬼の本性もどこかで隠し持っている女・・・と、いろいろ想像出来ます。宿を求める旅人を喰らう「安達ケ原の鬼婆伝説」(2000年の演能レポート参照)もあるようですが、喜多流の能『黒塚』はそこまで凄惨な物語は語らず、前シテの里女も老婆ではなく中年の女で、面は「曲見(しゃくみ)」としています。里女は糸をつむぐ地味な下働き、賤が業で暮らしていますから、装束も地味で中年に似合うものが吉です。今回は写真のように地味な紅無唐織にしました。
昔、少し華やかな紅無唐織に「瘦女」の面で勤めたことがありますが、不似合いでした。
「痩女」の表情からは、後シテの力強い鬼女には繋がりがよくありませんでした。

地謡の次第は「真赭(まそう)の糸を繰り返し、昔を今になさばや」です。
この和歌は『黒塚』のテーマであり、里女の思いが集約されています。
永遠に繰り返さなければならない賤の業、そして明かせない過去の罪業を悔やみながらも、また繰り返してしまうかもしれない意志の弱さを嘆き、若かった昔を今に戻したいと願いながら糸車を回します。
やがて、そんな辛気臭くなった場(一セイからクセまで)を変えようとするかのように、ロンギから、糸尽くしの華やかな謡を地謡との掛合いで謡い始めます。源氏物語の夕顔の宿を訪れた源氏の日蔭の糸の冠、葵祭に駆け付けた糸毛の車、糸桜(しだれ桜)の咲く頃、秋の糸すすきと、クセまでの暗い独白とはがらりと趣を変えて、糸車に縁ある糸尽くしの謡です。
人は単純作業をするときに、音楽を聞いたり口ずさんだりしたくなる、昔も今も同じです。
あるいは、昔よい暮らしをしていたかもしれない里女は、「昔を今になさばや」と華やかな謡が口をついて出たのかもしれません。
喜多流ではこの場面、次第とロンギの最後だけ糸車を回すのが常の型ですが、私は糸を繰り返し回す動きをアピールしたく、ロンギからずっと回し続けました。これは観世流の小書「長糸の伝」にある型なので、特異な演出ではありません。ただ、謡うことと手を回すこととがチグハグになっては折角の型も台無しなので、十分気を付けなければいけません。
糸車を回すことが、繰り返す日々の暮らし、逃れられない罪障、輪廻、繰り返す習性といったものを象徴しています。それを舞台上で謡と少ない動きで表現することが演者の役目、使命である、その事を忘れてはいけない、と今回も思いました。

ロンギの最後、シテが「長き命のつれなさを」を謡った後、地謡が「長き命の・・・」と繰り返すところで、里女は糸車を回しながらふっと山伏を見ます。そしてすぐにまた我に返って糸車を回し、最後は泣き崩れます。
このふっと見る心持ちはどのようなものなのでしょうか。
喰ってしまおうか・・・、
喰いたいが山伏では罰があたりそうだからやめておこう・・・、
いやいや、もうこの機に人を喰うのはやめよう・・・
と、いろいろでしょう。ここはご覧になる方のご想像にお任せします。

やがて、寒くなったので薪を焚いてあげましょうと、優しい言葉をかけて山に薪を採りに出かける女ですが、急に戻り「閨を絶対に見るな」と念を押します。
この余計な念押しが、女が鬼にならなければならない引き金を引いてしまうのです。

山伏は閨など見ないと言いますが、同行の能力は閨が気になって仕方がありません。
『黒塚』のこの場面の間狂言(アイ狂言)がとても面白く、人間味溢れ、笑いを誘います。
見てはいけないものを見たくなる、この心理。
神様もやってしまいますから、我々人間は仕方のないことです。

イザナギとイザナミはまぐわいの後、次々と国を生みますが、最後に火の神カグツチを生む時、イザナミはホトを焼かれて死んでしまいます。イザナギは嘆き悲しみ、黄泉の国までイザナミを追いかけ再会しますが、イザナミの「待て」の言葉に待ちきれず、蛆虫がわいた無残な死骸を見てしまいます。驚いたイザナギは逃げ、恥をかかされたイザナミは追いかけます。
この話に似ていませんか?

能力は女と約束したのは山伏、自分は約束していない!と言って、閨を見てしまいます。すると、人の死骸が山積みされていました。寝ている山伏を起こして急いで逃げますが、裏切られたことを知った女は鬼女と化し「いかに旅人、止まれとこそ!」と凄まじい形相で現れます。

この後シテの出立について、伝書や謡本には、面「顰(しかみ)」、赤頭、半切袴の鬼神(男)姿が書かれています。しかしこの格好では到底鬼女とは想像しにくいので、近年は面「般若」、髪型は黒頭か本鬘の掴み出し、装束は「肩脱ぎ着流し」や「腰巻裳着胴」にし、鬼女らしい格好が普通になりました。
面「般若」は怒りと哀しみを表す女の面です。「般若」という言葉は仏教の最高の知恵を意味する梵語と言われています。最高の知恵? つまり悟りは怒りと哀しみを経てこそ得られるものなのかな? などと考えますが、私には本当のところよく分かりません。ただ、猛々しい男面の「顰」とは違うことは確かで、黒塚の女には「般若」が似合います。
髪型は謡本にある赤頭と小書「白頭」での白頭、小書「替装束」での「黒頭」、そして近年よく使われる本鬘の掴み出しの4通りがあります。掴み出しは、普通の綺麗に結わえられた鬘の髪を掴み出して乱れた髪に変える演出です。
装束は「肩脱ぎ」か「裳着胴」の2通りで、「裳着胴」ははだけた格好で、より生々しい女となります。
私はこれまで、小書「白頭」と「替装束」をそれぞれ一度ずつ勤め、白頭、黒頭を経験しましたが、今は、面は「般若」、髪型は本鬘の掴み出し、装束は腰巻裳着胴の格好が自分に一番似合う鬼女の姿だと思っています。

鬼女と化した女は怒り、山伏たちに襲い掛かります。しかし、山伏たちに祈り伏せられ夜嵐に紛れて消え失せます。
「般若」の面は上半分が眉根をひそめた哀しみの表情、下半分は口が上まで裂けた怒りの表情を持っています。演者は体全体を使い面の角度を変えて、二つの顔を表現します。
山伏に祈られる「祈り」では、山伏の祈祷する数珠の音を嫌がり、面を次第に下に向けて数珠の音に耐えますが、遂に耐え切れず面を鋭く上げ、山伏や僧に向けて怒りを露わにします。

この「祈り」は『黒塚』の他に『道成寺』や『葵上』にあります。
祈り伏せられるのは、『道成寺』では蛇体、『葵上』は六条御息所の生霊、『黒塚』は鬼女です。「祈り」は山伏や僧に祈られ、もがき苦しみ抵抗する動きで、その抵抗具合は生霊が柔らか、蛇体が一番強く、『黒塚』の鬼女はその中間と思って勤めています。


『葵上』は六条御息所という高貴な人の生霊ということもありますが、最後は成仏して救われ、めでたく終わっているので、柔らかくです。『道成寺』の蛇体は恋愛沙汰で、鐘に向かって吐く息が猛火となって自らを焼き、苦しんで日高川に身を沈める壮絶な終わり方で、これはもう救いようがなく、強さが前面に出てしかるべきでしょう。『黒塚』の鬼女は夜嵐の風の音に紛れて消え失せますが、大した痛手を負っているわけではなく、救われてもいません。また現れて、同じ罪障を繰り返すかもしれない、まさに糸車のような逃れられない命の哀しさです。ゆえに強さと柔らかさの双方を持つ中間的な表現になるのです。

山口薪能を終え、翌日は広島の厳島神社で友枝昭世師の「観月能」で『花月』の地謡を勤めました。「観月能」のパンフレット「観月能のあゆみ」を見て、1996年の第1回から今年2025年の第27回まで、あっという間の時の流れに驚いています。
私はこのうち25回参加しており、特に『松風』のツレを勤めさせていただいたことなど、感慨深く思い出しました。
さあ、これからは来年3月の粟谷能の会『伯母捨』にシフトします。気持ちを切り替え、健康に気を付けて精進していこうと思っております。

写真撮影 井町 健
脇  宝生常三
小鼓 曽和伊喜夫
大鼓 白坂保行
太鼓 吉谷 潔
(2025年11月 記)

『遊行柳』を勤めて 〜信光の最晩年の挑戦〜投稿日:2025-10-16

『遊行柳』を勤めて
信光の最晩年の挑戦

70歳になる2日前の喜多流自主公演(令和7年9月28日)にて『遊行柳』を勤めました。『遊行柳』は世阿弥の春の名曲『西行桜』(作者は金春禅竹とも)を意識して、対比するようにして作られた観世小次郎信光の秋の名曲です。どちらも、シテは樹木の精で老人(男)です。この二曲は生涯に一度は勤めておきたい課題曲と考えていましたので、演じ終えてその課題を肌で感じることが出来たことを喜んでいます。

まずは、簡単にあらすじを記しておきます。
一遍上人の教えを全国に広めようとする諸国遊行の聖(ワキ)が白河の関を越えて、新道を行こうとすると、老人(前シテ)が現れ、先代の遊行上人が通ったのは古道と呼ばれる昔の街道だと言い、そこに名木・朽木の柳があると案内します。
聖がこの朽木の柳の謂れを問うと、老人は昔、西行がこの地へ旅して
「道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」
と、歌を詠んだことを語り、聖より十念を授かると古塚に消え失せます。(中入)
その夜、聖たちが念仏を唱え仮寝をしていると、柳の精が白髪の老翁(後シテ)の姿で現れ、非情の草木までも成仏できる念仏の功力を讃えます。
さらに、柳に因む故事を述べて報謝の舞を舞い、やがて消えてゆきます。

作者・観世小次郎信光は世阿弥の甥・音阿弥の子で、世阿弥からは二世代後の人です。
信光が生きた時代は戦国時代、世阿弥の室町時代の雅びさが残る時代とは違い、死人が累々とする血なまぐさい時代です。世阿弥が完成した幽玄の能、複式夢幻能といった高尚な作品よりも信光は誰にでも分かりやすい作品、『船弁慶』や『紅葉狩』を作りました。

『遊行柳』は信光の最晩年、亡くなる2年ほど前(78歳くらいか)の作品で、それまでの作風とは一変して、世阿弥の幽玄能に近い作品です。
シテが老木の精(男)であることや西行の歌を挟むなど、信光が『西行桜』を意識して創っていることは、演じて確信しましたが、なぜ最晩年にこれほど作風の違うものを創作したのか『西行桜』と『遊行柳』を比較して答えを出したいと思います。

『西行桜』は一場ものですが、『遊行柳』は複式夢幻能の体裁を整えています。
『西行桜』の桜の精は「埋木の人知れぬ身の行くへにも 心の花は残りけるぞや」
と、和歌を口ずさんで純和風に登場しますが、柳の精は「沅水羅紋海燕回る(かえる) 柳條恨みを牽いて荊台に到る 徒に朽木の柳 時を得て」と、漢詩を謡うので何となく中華風に感じます。

その後、舞台進行はワキとの問答となり、仏の教えが焦点になって和風となりますが、サシ謡の貨狄が柳の葉に乗る蜘蛛を見て船を発明した故事や玄宗皇帝と楊貴妃で有名な華清宮に柳を植えた唐の話で中華風となり、クセ(曲)では蹴鞠や源氏物語の話で和風に戻り、と次々に入れ替わる作風です。報謝の舞(序之舞)を舞い最後のキリの場面では、和と中華が混ざり合って終わります。『西行桜』と『遊行柳』を食べ物に例えるのは老木の精に失礼かもしれませんが、素朴な「もり蕎麦」が『西行桜』であれば『遊行柳』は「もり蕎麦特別定食」ではないでしょうか。半ラーメンや半炒飯が付いてくるようなてんこ盛り、純粋和風な蕎麦を味わう感覚ではないように思います。
柳という植物自体、日本独自のものもあれば大陸から入ってきた品種もあるようですので、信光は、敢えて特別定食に拘ったのかもしれません。

『遊行柳』はストーリーを追う面白さより、柳の故事や挿話をまるでパッチワークのように貼り付け、部分部分の面白さで盛り上げる手法をとっています。それは死を前にした信光の世阿弥への挑戦でもあり、また自身への総まとめであったのかもしれません。
私も演能レポートを書き続けていますが、以前『野宮』の演能レポートを書いたときに、感じたことをすべて書き残しておきたい、という思いに駆られたことがありました。
信光の何でも詰め込んでおきたいという気持ち、分からないでもないのです。

ここで、私の演能での拘り二点をご紹介します。
まずは、都の花盛り、大宮人が遊ぶ姿が優雅に描かれるところです。
「大宮人の御遊にも、蹴鞠の庭の面、四本の木陰、枝垂れて、暮れに数ある、沓の音」
(大宮人が蹴鞠で遊ぶ時は、桜・楓・松、そして枝が長く垂れ下がった柳の4本の木陰の庭から、夕方になると賑やかに鞠を蹴る沓の音が聞こえてくる)
この地謡に合わせて柳の精が鞠を蹴る型が一つの見せ場です。両手を少し上げて鞠を蹴ると、鞠は右上に飛び出し、それを見上げると、途端にクルリと一回転して次に鞠の落ちる音を足拍子で表現します。もちろん、実際に鞠が飛んで落ちるわけではありませんので、ここはご覧になる方に想像していただくことになります。

もう一つは、その後の「手飼いの虎の・・・」で、源氏物語の柏木が女三宮の姿を垣間見てしまう場面の描写のところです。
「手飼いの虎の引綱も 長き思いに楢の葉の その柏木の及び無き」と、両手で綱を引くように下に目を落として右へ回り、正面に向き直すと、やがて「恋路も由無しや・・・」と弱々しい足拍子の型となります。

ここに、忘れられない亡父菊生よりの教えがあります。
「明生、手飼いの虎は猫だよ。六条院で蹴鞠があった時、女三宮が飼っていた猫が御簾の内から逃げ出すと、猫の綱で御簾が引き上がり、柏木が女三宮の姿を見てしまうんだ。それから柏木は恋に落ちるんだよ。だから引綱の手は猫が走り回っているように見せるために、高めに構える。また老体ながら“その柏木”の謡に合わせて正面にキリッと振り向きちょっと若さを出すんだよ。ロマンチックにね」と。

『西行桜』も『遊行柳』も樹木の「精」が主人公(シテ)です。「精」とは「人間以外のものに潜んでいる魂」、『遊行柳』の柳の精は、老いても不思議な力を持つ柳の魂です。能のシテには神、霊、精などがありますが、「神」は神、「霊」は死後の世界から現れ、死が介在します。「精」に死は介在しません。精は神や霊とは違うことを遅まきながら知り、精の演じ方が少し分かってきました。
これは、もうすぐ70歳になる明生爺に、柳の精からのバースデープレゼントだったのかもしれません。

装束については、『西行桜』も『遊行柳』も共に、白髪を垂らし、烏帽子を被り、狩衣を着て大口袴を穿く、神さびた風体です。老木の精の面は「石王尉(いしおうじょう)」が喜多流のお決まりですが、以前勤めた『西行桜』と装束が全く同じですので、今回はあえて、面を「皺尉」に替えてみました。少し笑みがあるように見える「皺尉」の方が、十念を得て喜び、報謝の舞を舞う姿に似合います。
同じ老木の精でも、『西行桜』は硬派爺さんですから石王尉、『遊行柳』は笑みのある皺尉で軟派爺さん、というのが明生風解釈です。
「皺尉」の使用については友枝昭世宗家預かりに相談しお許しを得ての演能でしたが、ご覧になった方からはまずまずの評価だったので安堵しています。

『遊行柳』は信光の人生のすべてを注ぎ込んだ作風になっています。
舞台の最後は「柳條を綰ぬ(わがぬ)」(別れに際し、柳條を輪にして贈る中国の風習)のために枝を落とし、風に吹かれ、足もよろよろと本当の朽木になって消えていく、自分も老いて消えていく、と信光の心境を語っているかのようです。

そんなことを感じるのは、私も70歳、老いを意識する年頃になったからでしょうか。
父菊生の『遊行柳』の演能記録を調べましたら、初演が昭和59年喜多例会で62歳、次に平成3年MOA美術館の能楽公演が69歳、最後は平成7年国立能楽堂定例公演で73歳、3回勤めていました。『西行桜』は観世寿夫師の最後の舞台であったことや田中幾之助師のことが気になっていたようで、一度も勤めておりません。
私自身は『遊行柳』に挑むのが遅かった、と反省もありましたが、やはり年相応の人生観なくしては勤められない曲であると柳の精が教えてくれました。

演能レポートは、あまり多くは書かず、凝縮して書き残したい、と思っていますが、今回は、てんこ盛りとなってしまいました。

(2025年10月 記)
写真撮影 新宮夕海

『西行桜』の演能レポートはこちら↓

『西行桜』を勤めて ー西行に会いたかった桜の精ー

2026年3月1日粟谷能の会投稿日:2025-10-07

粟谷能の会 国立能楽堂 能「伯母捨」

202509自主公演投稿日:2025-09-05


『弱法師』を勤めて 小書「舞入」で感じたこと投稿日:2025-08-11

『弱法師』を勤めて
小書「舞入」で感じたこと

『弱法師』は昨年9月に日立で勤めたばかりですが、今年は7月28日の高知での能を皮切りに、9月6日に宇都宮の「宇都宮能」で、9月20日に秋田大仙市「まほろば能」と、三か所で勤めることになりました。いずれも小書「舞入」です。
先日、高知能(第18回高知能楽鑑賞会能)を無事終え、いくつか書き留めておきたいことがありましたので、ここに短くレポートします。あらすじなどは前回のレポートをご覧ください。

まずは頭(かしら)について。
『弱法師』は通常、黒頭(くろがしら)を着用しますが、高知能では、二番目の『黒塚』が白頭の小書で頭が重なることから、今回特別に、喜多流には無い馬尾頭(ばすがしら)を観世銕之丞先生(銕仙会)より拝借して勤めました。
馬尾頭は毛が全体的に下方向に垂れる力が強く、黒頭とは全く違う独特の雰囲気を醸し出してくれました。
生憎、今回は舞台撮影が無かったので、多分喜多流ではお初かもしれない珍しい姿を是非とも記録しておきたく、ここに楽屋での写真を掲載いたしました。

次は舞について、かねての疑問が解消しましたので、ここに記します。
喜多流の舞は、本来は五段(掛、初段、二段、三段、四段、五段)です。と言っても、掛を0段と数えるので、6ブロックとなり、実は六段構成です。
近年は舞囃子、時には能でも中之舞や男舞、早舞、神舞、序之舞、真之序之舞などは五段ではなく、短い三段(掛・初・二・三)で勤めるのが普通になって来ました。
喜多流の『弱法師』の小書「舞入」は盲目の俊徳丸(シテ)が左手で杖をつきながら右手に中啓(扇)を持ち舞います。
ここは「私は目が見えなくても舞ぐらい舞えるよ!」と、気分良くして、少し有頂天の気持ちで勤めるように、が父の教えです。伝書には舞三段、掛留拍子、回り下がり、回り込み無し、などと記載されています。父から杖と中啓の扱い方を細々と教えてもらったことが、良い思い出であり宝となっていますが、「舞は三段、 但し二段オロシを抜く」の「二段オロシ抜く」の言葉が、気になりました。
舞は三段の中之舞で、少しゆったりとしたスピードですが、実は伝書には二段オロシを省くことの記載はありません。これは想像ですが、十四世喜多六平太宗家の工夫ではなかったかと思っています。さて、二段目のオロシと呼ばれるリズムが幾分締まる箇所がなぜ省かれるのか、その根拠、理由が気になります。

位の無い者だから?
身体が不自由だから?
父に聞きそびれましたので、先日、高林白牛口二先輩にお聞きすると
「舞う資格が無い者だから、とも考えられます。自然居士などと一緒ですよ」
と、教えてくださいました。
なるほど!と腑に落ちました。かねてからの疑問解消です。分かったから舞が変わる訳では勿論ありませんが、なんとなく気分が落ち着いて勤めることが出来ました。

そしてもう一つ、京都・高林家に伝わる面白い記述を高林呻二氏が教えてくださり、より気分を高めてくれました。

それは「天王寺には童舞(少年舞楽)があり、俊徳丸も少年の頃に舞っていた童舞を懐かしむ心にて舞う・・・」というものです。この記述はとても興味深く、童舞については初めて知りましたので勉強になりました。
また子供の頃に舞い馴れた石舞台のため、杖を突かずに、杖を抱い込んで舞う替えの型もあるようです。この型は実際、白牛口二先生が以前一度お勤めになられたそうですが、残念ながら私は拝見しておりません。 ただ、私の『弱法師』は左手に持ち替えた杖捌きをご覧いただきたいと思うので、替えの型を勤める事は無いと思います。

最後に、流儀による詞章の違いについて。
ご存知のように、能楽には五つの流儀があり、観世流と宝生流が上掛(かみがかり)、金春流と金剛流、喜多流が下掛(しもがかり)と言われています。
上掛と下掛、どのような理由で上下に分けられたのかは諸説ありますが、未だ正解は判明されていません。現場の能楽師には上だろうが下だろうが、正直どうでも良い事ですが、五流の各流儀の特徴となる詞章がちょっとずつ異なるのは放置出来ません。とても重要なことです。

『弱法師』の詞章も舞入の前、観世流は
「入日の影も舞ふとかや」(入日も極楽の姿を映して舞を舞っているよう)
と謡いますが、喜多流は
「入日の影も紛ふとかや」(入日も極楽の弥陀の光と見間違えるようだ)
と違い、各流儀のこだわりが見えるところです。

五流の違いは詞章だけではなく、舞の段の数え方や長さも変わります。シテ方もお囃子方も注意しておかないと、舞台で大恥をかくことになります。
三役(脇方、囃子方、狂言方)にとって、このような、ちょっとの違いが厄介で、流儀ごとにそれぞれ注意深く覚え対応しなければいけないのです。本当に、ご苦労様です。

ご覧になる方は、各流儀の違いがお分かりにならない時もあるかもしれませんが、ちょっと深入りしてご覧になると、そこには各流儀、各家、遂には個人の主張やこだわりがあり、面白いかもしれません。演者は多分、皆、そこまで観てほしいと望んでいる、と思っています。                        (2025年7月 記)

『高砂』を勤めて 珍しい小書「作物出」投稿日:2025-05-26

『高砂』を勤めて
珍しい小書「作物出」

夫婦仲の悪いお話の『鉄輪』を4月28日(令和7年 広島蝋燭薪能)に勤めたあと、2週間後の5月11日には、真逆の夫婦円満の秘訣を話す『高砂』を「喜多能楽堂令和改修竣工記念能」にて勤めました。

喜多能楽堂は老朽化に伴い、2年前(令和5年)から大規模改修工事を実施し、この度、無事竣工、4月1日に正式オープンとなりました。その間、喜多能楽堂が使えなくなり、皆様にはご不便をおかけしました。新しく生まれ変わった能楽堂は響きがよく、耐震対策も整いました。皆様のご利用をお待ちしております。

『高砂』は本脇能と言われ、喜多流は脇能の中でも重く扱っています。脇能とは『翁』の脇にあるという意味合いがあり、本来は翁付高砂として、一人の大夫が両方を続けて勤めますが、最近では時間や費用の問題等があり、『翁』だけ、『高砂』だけと別に演じられることが多くなりました。今回、『翁』は素謡で、シテは『高砂』とは別の人間が勤めましたが、『翁付高砂』という正式な形に近い番組立てとなったと思います。

まずは『高砂』のあらすじを記しておきます。

阿蘇の宮の神主友成(ワキ)は播磨国高砂にて老人夫婦(前シテとシテツレ)に高砂の松の謂れ、松の長久のめでたさ、相生(相老)の夫婦の情愛、和歌の徳の話を聞きます。やがて夫婦は高砂住の江の神だと告げ、住吉で待つと言って沖に出てしまいます。(中入)

友成と従者(ワキツレ)が舟にて住吉に渡り待っていると、住吉の神(住吉明神・後シテ)が現れ、颯爽と舞を見せ、この世を寿ぎます。

『高砂』の老人夫婦、尉と姥は、今で言う遠距離恋愛で、住吉に住む尉は高砂に住む姥のところに通っています。ワキが老夫婦に高砂と住吉に分かれて住む理由を尋ねると、二人は高砂、住の江の松だって相生の覚えがあると言われる、まして人間だって、遠く離れて暮らしていても、お互いに心が通いあっているから相生(相老)の夫婦なのだと答えます。

「離れていても」でなく、「離れているからこそ」夫婦円満である、それが秘訣、理想と謡う詞章に、なるほどと納得してしまいます。今の世でも通じるのではないでしょうか。

「同棲は神が作り、悪魔が結婚を作った」と、面白いジョークがあり、これには、思わず吹き出してしまいましたが、「いやこれは真実!」と思うと、笑えず頷いてしまいました。

話しを戻します。

今回は珍しい「作物出」の小書付きです。

「作物出」は雄株(黒松)と雌株(赤松)が一つの根から寄り添うように生えている「相生の松」を舞台正面先に置きます。今も高砂神社にはそのような雌雄一体の相生の松があるようです。本来ならば、その相生の松と同じように、黒松と赤松を用意しなければいけないのですが、昨今なかなか赤松が手に入らないようで、今回は黒松だけで作りました。作り物の松を見ていると、なんだか男が2人寄り添うように見えて、正直、あまりしっくりしませんでしたが、今のご時世では仕方のないこと、と諦めた次第です。

この大きな松の作り物を舞台正面先に置きますので、正面からご覧になる方にはシテの姿が見えづらくなります。そのため通常のクセの上羽後の「掻けども、落葉の尽きせぬは」の杉箒にて落葉を掻く型に変えて中啓で舞う型になるのが教えです。我が家の伝書では、その替わり、下げ歌の「落ち葉衣の袖添へて、木蔭の塵を掻かうよ」で掻く型をするように伝えられています。落ち葉を掻く型は長久の「久」の字を逆さまに書くように杉帚を動かす型で、とても意味深い型なので、ここを割愛させたくない先人達の工夫と思われます。

今回午後の公演のため下げ歌を省略し演能時間を短縮したため、私は杉箒で掻く型を、上げ歌の「木の下蔭の落ち葉かく」の謡で、通常の正面先ではなく常座で行いました。また、クセの後半は中啓で舞う型となるので、序にて杉箒を捨て、肩上げしている両袖を下ろし、中啓で勤めました。作り物の松を讃美するように招き扇をします。

小書『作物出』は私の知る限りでは粟谷能夫が厳島神社神能で勤め、その後、長島茂氏が勤めていますが、久しぶりの演能となりました。勤め終えて、演者は演じにくい、観客は見にくいという、この演出はやはりあまり演らない、人気のない小書であった、と実感しました。

もちろん、最初に相生の松が置かれることで、この場所が播磨国高砂の地であると想像しやすくなりますが、見せ場の杉箒で掃く型が舞台正面先で行えないのは、どうも物足りなく、やはり杉箒で掃く型の方に軍配が上がるように思いました。ご覧になられた方々のご意見をお聞きしたいです。

後場は、昔結婚式でよく謡われていたワキとワキツレの待謡

「高砂や此の浦船に帆を掲げて・・・・・・はや住の江に着きにけり」

で、舞台は高砂から摂津国住吉に移ります。

すると住吉の神が颯爽として現れます。演者としては祝言の意識を重視し、力強く、スピード感溢れるスムーズな動きで舞うことが最優先されます。

『高砂』という能の老夫婦、尉と姥は喜多流(下掛り)では高砂住吉の神の化身という設定ですが、上掛りでは老夫婦を松の精としていて、多少ニュアンスの違いがあります。

この能は、相生の松の長久、老夫婦の和合、和歌の讃美と、多くを語り尽くして、国の恒久平和や民の幸せを願うという流れで、盛り沢山です。作者・世阿弥も申楽談儀に「相生(能『高砂』のこと)もなお尾鰭(おひれ)が有るなり」といっているほどで、盛り込み過ぎの感がないでもありませんが、世阿弥の時代、和歌は重要で、万物を表現し、平和や繁栄につながるものとして大切にされていたので、後シテが和歌の神でもある住吉明神として現れて舞うというのは自然で説得力があるように思います。

また、前シテの老夫婦も神の化身ですから、よぼよぼの老人として演じません。前も後も全体にさわやかに、春風が吹くように、サラッとして颯爽と力強く、スピード感をもって演じます。謡も、すべて強吟ですが、妙に堅すぎて重々しくなり過ぎては落第です。

私の『高砂』の初演は平成15年、翁付で、厳島神社神能にて奉納しました。今回、それから実に22年ぶりの再演です。ツレの姥役は数回経験していますが、式能にて、父・菊生の『高砂』でツレを勤めた時のことが強く印象に残っています。謡が硬質でありながら、何ともサラリとした心地良い軽さで、父との連吟は、今でも良い思い出となっています。

小書「作物出」になると、面は「三日月」に代わり、白色大口袴は白色半切袴となると伝書にありますので、より強さが強調されます。残念ながら今回は粟谷家の都合により面は常の「邯鄲男」で勤めましたが、半切袴は使い勝手の良い白色青海波模様が修理で使用出来なかったため波模様にしました。写真をご覧下さい(左長島 茂 右粟谷明生)。

『高砂』には祝言謡が多くあります。先に述べた結婚式で謡われる「高砂や此の浦船に帆を掲げて・・・」の待謡や、「四海波静かにて、国も治まる時つ風・・・」の初同、最後の「千秋楽は民を撫で、万歳楽は命を延ぶ。相生の松風、颯々の声ぞ楽しむ」は謡曲愛好家の皆様には親しまれている謡です。喜多流の「祝言小謡集」には『高砂』から5か所も抜粋されているほどです。能『高砂』をご覧になる方は、これらの祝言謡を気持ちよく聞いて心が晴れやかになってお帰りになれるのではないでしょうか。その意味で『高砂』はやはり最高位の祝言能で今回の竣工記念能で選曲された所以でもあります。私たち演じる側も春のさわやかな風が吹くような陽な気持ちで謡い、勤めるのを忘れてはいけない、と改めて思いました。

出演者

シテ  粟谷明生

シテ連 狩野祐一

後見  内田安信 佐藤 陽

ワキ  宝生常三

笛   藤田貴寛

小鼓  森澤勇司

大鼓  佃 良勝

太鼓  小寺真佐人

(2025年5月 記)

写真提供 粟谷明生

写真撮影 新宮夕海

写真『高砂』作物出 シテ長島 茂 撮影 前島写真店

『鉄輪』を勤めて 丑の刻詣にかける女の復讐心投稿日:2025-05-13

『鉄輪』を勤めて
丑の刻詣にかける女の復讐心

鉄輪(五徳)を頭に載せ、しかもその上に蝋燭まで立て、怖い形相の面をかけて現れる後シテ、この異様な姿は鮮烈で、『鉄輪』をご覧になった方はいつまでも心に残るのではないでしょうか。その『鉄輪』を広島蝋燭薪能(令和7年4月28日 於:広島護国神社特設能舞台)で勤めました。

この日は生憎午前中が雨で、夕方からの演能が危ぶまれましたが、午後から晴れてきて、何とか「蝋燭薪能」を催すことができました。たくさんの蝋燭が灯されたなか、幻想的な能をお楽しみいただけたのではないでしょうか。しかし、舞台はそれまでの雨によって良いコンデションとはいえず、演者側には難儀な面がありました。屋外の演能ではいつも天候が気にかかります。

まずは『鉄輪』の物語を簡単にご紹介します。

貴船神社の神職(または社人)(アイ)が丑の刻詣をする都の女に神託を告げようと触れる、狂言口開けで始まります。

女(シテ)が遠路はるばる丑の刻詣に貴船神社にやってくると、アイが「火を灯した鉄輪を載せ、顔に丹(赤)を塗り、赤い衣を着て、怒る心を持てば願いが叶う」と神託を告げます。女は最初は人違いだと言いますが、みるみるうちに気色が変わり、姿を消します。(中入)

男(夫・ワキツレ)が登場し毎夜、悪夢を見ると言って安倍晴明(ワキ)に占ってもらうと、女の恨みで今夜にも命を落とすと言われます。男はすぐに晴明に祈祷を頼むと晴明は後妻と男の人形を棚に飾り祈祷を始めます。そこへアイが言った通りの形相で鬼になった女が現れ、捨てられた女の哀しみ、恨みを訴えます。そして後妻の形代の髪をからめ打ち据えます。さらに男の形代に迫ると、三十番神が鬼女を攻め、ついに鬼女は衰え、「時節を待つべし」と言って消え去ります。

丑の刻詣は丑の刻、すなわち午前2時という深夜に、人目を忍んで参拝し、恨む相手を呪い殺す祈願をすることです。詞章には「通い馴れたる道の末・・・」から道行の謡が始まり、糺の森や市原野辺を通り「程も無く、貴船の宮に着きにけり」と、いとも簡単に着いたように書かれていますが、都の女が貴船神社までの道のりを、いくら通い馴れた道と言っても、深夜、暗闇の中、一人で行くのはとうてい無理です。それをするというのは相当の思い込みがあるのだろうか、恐ろしいと、前回の演能レポートに書きました。

都から車で4、50分ほどの距離を、女は何時間かけて都へ行ったのでしょうか。3時間から4時間かけて? それも7日間も? と考えると、女の復讐心の恐ろしさに身が引き締まる思いがしたものです。

今回、4月18日に厳島神社の神能を終えてから、京都に入り、貴船神社所縁の地を巡ってきました。京都市内から鴨川沿いに糺の森を抜けて、深泥池(詞章では御菩薩池・みぞろいけ)を横に見ながら、深草少将に掛けて草深い市原野辺、小野小町終焉の地・小野寺に行き、鞍馬川にかかる橋を渡って貴船神社へと、ほぼ詞章の通りに巡ってみました。

今回、舞台で道行を謡う時も、実際にたどった道の景色が体の中に浮かんできました。

それで分かったことがありますので、ここに補足しておきます。

実は前回の演能レポートまでは、都の女は毎夜、市内から貴船まで歩いて通っていた、と思っていましたが、これはやはりどう考えても現実的ではありません。

貴船神社には本宮、結社(中宮)、奥宮と三社あります。多分、『鉄輪』の女は本宮下にベースキャンプを構えて、そこから深夜2時頃に奥宮まで、何日か通い、丑の刻詣をしたと考えるのが良いかと思います。高い山を登る登山家がベースキャンプを張るように、です。

本宮は華やかなところで、赤い鳥居がたくさん並び、参拝する人で賑わっていますが、奥宮まで行く人は多くはないようです。私も以前に訪れたときは本宮どまりでしたが、今回は奥宮まで行き謡曲史跡保存会の駒札を写真におさめました。やはり演能後より前にゆかりの地に行く良さを感じています。

それにしても、女をそこまで追い込む強い復讐心の要因は何なのでしょうか。

浮気した夫への恨み、夫を奪った女への恨み、夫に戻ってきてほしいと思う気持ちもあったが、あんな女に騙された夫はやはり許せないと思うのでしょうか。「或る時は恋しく」「または怨めしく」と揺れ動く女心をシテと地謡で謡います。

女は鬼女となって、捨てられた女の恨みを晴らすべく、「いでいで命を取らん」と新妻の形代に襲い掛かり、散々に打ち殺してしまいます。夫の方には清明の祈祷が強く効いてなかなか近づけません。もしかすると女の心の中に「夫は悪くない、悪いのは新妻」と夫を庇う気持ちが少しはあったのかもしれません。このような女の揺れ動く心、裏切った夫を恨む以上にもう一人の女を強く憎んでしまうというのは面白いところです。現代の夫婦関係、男女関係にも通じるように思われます。

  

さて、この女の気持ちを表現する面について、伝書には、前シテが泥眼、後シテが生成(なまなり)と書かれています。

前シテの泥眼は『葵上』の六条御息所(シテ)にも使われ、目の淵に金が入っている面で、普通の女とはどこか違う、強い気持ちが表情に出ています。『鉄輪』の女は登場するときは笠をかぶっているので分かりにくいですが、神託を聞いて、自分であると、慎み深い女から気色変じ、「怨みの鬼となって人に思ひ知らせん」と笠を捨てる瞬間に泥眼の面が良く効いて見え、顔色の変わったのが分かります。後の鬼女を予感させるのに、ふさわしい面です。

後シテは、今は「生成」と「橋姫」のどちらかを選択しています。今回は二つの「橋姫」を用意しましたが、諸事情を考え、粟谷家蔵の面を使用しました。

「橋姫」は面の上半分が白色、下半分が赤みを帯び、鼻筋などに赤が塗られ、どっしり存在感もあって、怒り爆発の怖いお顔です。「生成」も全体に赤みがありますが、少し笑っているようで、頭に小さな角が2本生えていて、とても不気味です。

Screenshot

 

父・菊生が、女房の怒りも「橋姫」のうちは怖いが、なだめればどうにか許してくれるだろう、しかし「生成」になったらもうオシマイだ、手遅れになるから気を付けなければ、と話していたことを思い出します。とにかく、怒りの表情に笑みが見えたら怖い、もうアウトらしいです。恐ろしい心に残る忘れられない言葉です。

それでか、父の『鉄輪』では「生成」は一度ほど、ほとんど「橋姫」にしていたようです。私も一度「生成」を使ってみようかなと思わないでもありませんが、やはり使いこなせないだろうと、遠慮してしまいます。

「生成」に「り」をつけて「生成り」と書くと「きなり」と読み、脱色や染色をしていない糸や布のことを言うようですが、これは「なまなり」と読ませる面の「生成」とは別物です。面のほうは未完成で、まだ十分に成りきっていない様を表します。すなわち角が生えた本当の鬼「般若」になる以前のお顔ということです。『道成寺』や『葵上』で使われる、立派な角が生えた「般若」と比べると、「生成」の角は小さいですが、何か煮え切らない、それでいて不気味な表情がとても怖ろしいです。

『鉄輪』という能は、面や出で立ちも特異で、作り物もあって、分かりやすい設定です。

ご覧になって、女性なら胸のすく思いがするでしょうが、演じている私は、この女は自分の恨みばかり述べて、男を悪者にしているが、本当のところはどうなのだろうと、男の言い分が全く書かれていないので、気になります。

なぜ女は夫に捨てられたのか。

口うるさかったから? 金遣いが荒かった? 暮らしぶりがだらしなかった? 老いた見苦しい体型に嫌気がさした? もしかして、子が産めないことで離縁ということもあったかもしれません。今はそのような理由は許されないでしょうが、昔はそれで里に帰されるなどということがよくあったようです。

こんなふうに考えるのは男の側の発想と分かっていますが、捨てられた女を演じる男の役者として、女と男の矛盾する心を感じながら演じるのが、また面白いのです。

鬼女となった女は、祈祷によって退散しますが、「今回はあきらめるが、また来るから!」と言い残して消えていきます。執念深く、怖ろしさを残したままの終曲です。

この能の題材となった平家物語「剣の巻」では、その後、女は男を殺し、しかも男の家族、新妻の家族も殺してしまう凄惨な結末です。『雨月物語』の「吉備津の窯」も同じようなお話ですが、最後、男は殺されています。伝説や小説は徹底的に悲劇を描くことが多いですが、能はそこまでの結末は描きません。また来るかもしれないと余韻を残し、あとはご覧になる方の想像に委ねます。

私も、女が男を殺してその後どうなるのだろう、恨みを晴らすことができて魂は鎮まるのだろうか、元のやさしい女性に戻れるのだろうか。いやいや、残酷な殺人者になってはお終いだろう、などと想像はしますが、能がそこまで描かないところを好ましく思います。

 

貴船神社の鉄輪伝説の最後に「丑ノ刻詣りは祭神が国土豊潤のため丑年丑月丑刻に降臨されたと伝える古事によるもので、人々のあらゆる心願成就に霊験あらたかなことを示すもので、単にのろいにのみとどめるべきものではない」と書いてありました。貴船神社も丑の刻詣は悪い印象ばかりではない、のろいだけでは物事は解決しないと言いたいのでしょうか。

若い時には考えもしなかったいろいろなことを思う『鉄輪』になりました。

しかし、ご覧になる方は深く考えず、男女の仲のお話、こんなお話もあるのね、女性への対応はよくよく考えなさいよ、という昔の人の忠告なのかな、などと所詮、「これは他人様のお話」とクールに受け止めて楽しんでいただくのが一番、かと思います。

私の『鉄輪』の初演は昭和63年(33歳)妙花の会、再演は平成15年(48歳)粟谷能の会で、今回が3回目です。再演の時の演能レポートで詳しく書いていますので、ご興味のある方はサイトの「演能レポート」でご覧ください。           (2025年5月 記)

 

写真提供 広島護国神社 シテ粟谷明生

アイ 野村裕基 小鼓 横山幸彦 大鼓 亀井広忠 太鼓 吉谷 潔

能面「橋姫」 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生

能面「生成」 撮影 粟谷明生

『石橋』を勤めて 弟子の子獅子の披キに立ち会う投稿日:2025-03-18

『石橋』を勤めて
弟子の子獅子の披キに立ち会う

第107回・粟谷能の会(2025年3月2日 於:国立能楽堂)では、『景清』に続き、『石橋』連獅子を、私の弟子の佐藤陽に子獅子を披かせることとして企画しました。
『石橋』は前場を省略して、ワキの寂昭法師(俗名・大江定基)の名乗りの後、すぐに獅子が登場して舞い遊ぶ、後場のみの半能形式が主流です。今回は前場もある本能で催し、特別にご許可をいただき、前シテを私が勤め、後シテの親獅子を長島茂氏にお願いして、前後のシテを別人で勤めました。

『石橋』連獅子について簡単にご紹介します。
寂昭法師(ワキ)が清涼山の石橋を渡ろうとすると、童子(前シテ)が現れ、石橋をたやすく渡ろうと思うな、神仏の加護がなければ渡れないと制止します。そして、橋の向こうは文殊菩薩が住む浄土、妙なる音楽と美しい花が舞い降りてきて、やがて奇瑞が現れるから待つようにと告げると姿を消します。(中入)
続いて、仙人(アイ)が現れ、獅子の舞楽が始まる予告をすると、文殊菩薩の使者である獅子が親子(後シテ・ツレ)で現れ、石橋の上を飛び跳ね、咲き乱れる牡丹の花に戯れ、勇壮な舞を見せ、泰平の御代を愛でて獅子の座に帰ります。

粟谷能の会での本能は、平成13年に従兄の能夫が前シテを尉にて後場の親獅子を、子獅子の私とで勤めていますので、今回が2回目となります。
前場は動きのない居グセの謡が重い習いで、石橋のすさまじい景色を謡い上げます。
石橋の幅は一尺(30センチ)もなく、長さは三丈(9メートル)、谷をのぞめば千丈(3キロメートル)もあり、苔むしてつるつる滑る危険極まりない橋であることを勢いある強い謡い声で紹介します。そして徐々に奇瑞への期待感が高まり、獅子登場のお膳立てができるのです。

前シテは、喜多流では通常、老人の樵ですが、替えとして童子にする演出もあります。今回は初番が『景清』で老人のため、重なるのを避けて、童子で勤めることとしました。また童子の扮装を水衣に側次(そばつぎ・ベストのようなもの)を羽織り、より唐(中国)らしい演出にしました。

そして『石橋』の見どころは、やはり後場の勇壮で豪華、躍動美あふれる獅子舞です。
単に暴れる荒さを消し、端正な姿勢と俊敏な動きで、獅子を演じるのが演者の心得です。
獅子舞は両手を広げ、面(おもて)を左右に振り、上体を反らしすぐに屈んでお辞儀のような恰好をします。この獅子舞独特の動きは、獅子が顔を左右に激しく振るので、「嫌、いや!」と、何かを拒絶しているように見えますが、これは牡丹の香りを嗅いで楽しんでいる様子を表現しています。親獅子はゆったりどっしりと、子獅子は機敏に軽やかに舞い遊ぶイメージで勤めます。

今回、子獅子を披いた佐藤陽は能楽師の家の子ではなく、東北大学学友会能楽部喜多会にて能を学び、能楽師の道を志し、長年私の元で修業し職分となりました。『道成寺』を披いてから時間も経ったことから、『石橋』子獅子を披くことを勧め今回の番組となりました。
『石橋』は特別重い習いとして大事に扱われ、『道成寺』を披いた後でしか勤められない風潮がありますが、これには違和感があります。
喜多流が大事に扱うのは、赤頭を巻き毛にてして一人で勤める「一人獅子」が大事であって、ツレとしての子獅子は別物と考えるべきです。若く体のキレがあるうちに、早めに獅子を経験させることがご覧になる方への正しい在り方だと思います。昔に比べて披キが遅くなっている昨今、江戸期や明治大正の伝承をそのまま鵜呑み状態にしておくのは、次世代にはハードルが高すぎるように思います。

年齢45歳の佐藤陽に子獅子の初演は正直肉体的にもかなり厳しいものがありました。
獅子舞は狭い視界、重い頭と動きにくい装束、そして何よりも正面先に置かれた一畳台に飛び上がり、旋回するのは見た目より運動量が多く体力が必要です。最初は歯が立たない状況でしたが、当日はどうにか粗相無く勤め、安堵しています。

今後はもう少し早く披けるような喜多流の思考と体制の改善が必要だと、以前から考えておりましたが、いよいよ本腰を入れて取り組むべきと思いました。

楽屋裏話を一つ。舞台に最初、牡丹を飾った華やかな2台の一畳台が置かれますが、伝書には2台の間、一尺ほど離して置く、と記載されています。私自身、披キ(父が親獅子)の時も、また友枝昭世師や粟谷能夫との共演でも、一畳台を離したことはありませんでした。高林白牛口二氏に伺うと、間を開け危険が増すことで、より演者への高いハードルを課し緊張感を高めるため、と教えてくださいました。今回は、未熟な弟子の披キでもあり、離すことはしませんでした。そもそも石橋自体左右に離れていることはないわけで、離す設定をご覧になる方はどう思われるのでしょうか。この伝書の記載も観る側よりも演者中心の思考ではないかと、気持ち悪さを覚えます。



 
今回の粟谷能の会は満席となり大変喜んでおります。
佐藤陽の披キのため、東北大のOB・OGの皆様が多く来て下さり、佐藤陽への応援に感謝しています。また、『景清』『石橋』連獅子の番組編成が良かったことも集客につながったように思います。

来年は秘曲『伯母捨』を私、粟谷明生が披きます。
老女が月の美しさを讃え、月の光の下で昔を偲んで、静かに舞います。
今回の番組とは異なり、とてもゆっくりと時間が流れますが、これが正に能の神髄と言われる最高位です。
心躍る能を、これからも企画し、来年の「第108回粟谷能の会」へのご来場をお待ち申し上げております。                   

写真撮影 新宮夕海
能面獅子二点 撮影 粟谷明生 
笛 一噌隆之 小鼓 観世新九郎 大鼓 亀井洋佑 太鼓 金春惣右衛門

(2025年3月 記)

『景清』を勤めて 豪の者・景清の揺れ動く心投稿日:2025-03-18

『景清』を勤めて
豪の者・景清の揺れ動く心

今年の第107回粟谷能の会(令和7年3月2日 於:国立能楽堂)は、初番に『景清』、狂言「秀句傘」を挟み、『石橋』で締めくくる番組編成としました。私は『景清』でシテを勤め、『石橋』では前場もある本能を企画し、弟子の佐藤陽に子獅子(シテツレ)を披かせ、親獅子(後シテ)を長島茂氏にお願いして、私は前シテを勤めました。粟谷能の会や『石橋』については改めて記すこととして、まずは『景清』についてレポートします。

私の『景清』の初演は平成24年の粟谷能の会で56歳の時、それから13年の時が流れて、今回、69歳での再演となりました。亡父・菊生の十八番だった『景清』を思い出し、父の芸を真似ながら、私自身の景清を演じられたら・・・と思い勤めました。
  

まずは『景清』の物語を簡単にご紹介します。
平家の武将・悪七兵衛景清(シテ)は宮崎に流され盲目の乞食となり、日向の勾当(こうとう)と名乗り暮らしていました。
そこへ娘・人丸(シテツレ)が従者(ワキツレ)を従え訪ねてきます。景清は自分の娘であると知り驚きますが、乞食の身を恥じて他人のふりをします。
しかし、里人(ワキ)のとりなしで、景清は娘と対面し、屋島の合戦での三保谷四郎との錣引き(しころびき)の武勇伝を語り聞かせますが、やがて時も過ぎ、涙ながらに別れを告げるのでした。

景清は平家の武将ですが、さほどの武勲があるわけではありません。平家物語ではわずかに「錣引き」の話が数行あるくらいで、これも錣を引きちぎった力の強さはあっても、所詮相手に逃げられ、屋島の負け戦の一コマなのです。義経や頼朝の暗殺を企て源氏滅亡を志すも失敗に終わる、人生の負け組大将のような人物を能は描いているように思えます。
景清の姓は伊藤とも藤原とも、また平景清とも言われていますが、やはり通り名の「悪七兵衛景清」が一番だと思います。この「悪」は「悪い」ではなく「強い」の意味ですが、景清の様々な伝説の中の、「源氏の栄える世を見ぬために両眼を自らえぐった」という話が、一番景清らしい、と私は思い景清を演じています。

勾当というのは、平家語りをする盲目の琵琶法師の、検校、別当につぐ位の者のことですが、
能のシテ景清が僧ではないのに角帽子(出家者の象徴)を付けているのは、もしかすると、盲僧が景清を語る伝承からの逆輸入かもしれないと思うようになりました。ここは定かではありませんし、相模国の娘人丸の事もいろいろな伝承があります。それら様々の伝承から能『景清』の景清像が造形されているように思われます。

景清を演じるにあたり、どの辺に焦点を定めるか?
「麒麟も老いぬれば駑馬にも劣るが如くなり」と謡われるほどの惨めな姿の景清です。
敗将、盲目、老体、乞食、と多くの負を背負っています。自ら両眼を潰すほどの強い意志と、肉体は衰えても枯れ果てぬ気骨が横溢していますが、そこには将来への明るい光はなく、絶望的な状況があるだけです。豪の者でありながら、景清の揺れる心、その底に見える暗黒の悲劇を皆様に想像していただくために、どのように勤めたら良いか・・・、と考えました。

景清の心中を最初に表現するのが、「松門の謡」といわれる謡です。
引き回しをかけられたまま、藁屋の作り物の中で次のように謡います。
「松門独り閉じて年月を送り、自ら清光を見ざれば時の移るをもわきまえず、暗々たる庵室に徒に眠り。衣寒暖に与えざれば。膚(はだえ)は髐骨(ぎょうこつ)と衰へたり」
この「松門の謡」について、14世喜多六平太芸談に「丁度、鎧の節糸が古くなって、ぶつぶつ切れたように謡え、と伝えられています。妙な言い方ですが、良く心持ちを言い表しています。(中略)松門をひとつ上手く謡って聞かせてやろうなんて気持ちで朗々とやられたんでは、もうお終いです。どこまでも低音で、呂の音を主に腹の中で謡う・・・」
と、書かれています。私ここまでは素直に納得出来るのですが、次の最後の言葉が、どうも気になっています。
「聞こえても、聞こえなくとも、そんな事は何方でもいいのです。」
この言葉、昔はそれで良かったのかもしれませんが、しかし今は、それでは通用しないと思います。「謡が聞こえなかった・・・」と、お客様に言われたら、それこそ本当のお終いです。
国立能楽堂の隅々のお客様まで、老体景清の声が、心情が、伝わるために能役者は言葉に潜む言霊を、謡の調子、高低、強弱、緩急、陰陽、様々な技を絡めて演じなくてはいけないと思います。謡本に記された節だけ見ても到底謡えるものではありません。口伝によってさまざまな謡い方が伝えられていますが、私の「松門」は『景清』を得意とした父の謡い方を真似ています。初演の時も父はすでに亡く、直接教えを乞うことはできませんでしたが、父の松門は身体の奥深いところまで、染みこんでいます。今回の再演では初演の時よりは余裕が出てきて、基本は真似ですが、自分の思いも少し載せられたかな、と思っています。


     
『景清』は台詞劇、舞が全くない、能として珍しい曲です。それでも、床几にかけて語る三保谷四郎との「錣引き」の闘いの場面では、熱が入り、不自由な体ながら、思わず立ち上がり、様々な所作が入ります。しかしその動きは、老体と盲目のため、健常者の動きとは異なります。例えば、左方を刀で斬る時は、右手を左方向に動かしますが顔は逆に右へ向けます。反対に、右方向を斬る時は、手は右、顔は左に向けます。
この動きについて、「盲目は目でなく耳で見る」が、父・菊生よりの教えです。
また、前に進みたいが、足が思うように動かない忸怩たる思いを、特別な「抜く足」にて表現します。演者はこれらの不自由な動きを体に染み込ませ、スムーズに動けるように稽古し、舞台で不自由な動きが違和感なく自然に見えるように演じなければ失格です。

最近私は、お能をだれず、飽きずに見ていただきたいと願い、とりわけ、粟谷能の会では、演能時間があまり長くだれないように心がけています。作品の良さを壊さず、短く出来るところは短縮して演出しています。
今回、謡の短縮はしませんでしたが、ツレの登場の出囃子を少し短くし、正面前で謡う次第(出囃子)を橋掛りで謡うように変えました。これは、単に時間短縮になるだけでなく、道行らしい効果もあったのではないでしょうか。
それに『景清』という能は、分かりやすい場面展開、また景清の揺れ動く心を細やかな型で表現するなど、舞がない割にはだれない演出になっていて、それにも助けられ、飽きずにご覧いただけたのではないかと思っています。
「え! 終わったの?」
と、お客様に感じていただけたら、私の思う壺です。
能は日常生活に比べると、かなりゆっくりとした動きで舞台は進行します。もちろん、日常生活とかけ離れた時空をお楽しみいただけるのは、能ならではの雰囲気で良いことです。ただし、演者側はそのスローペースに胡座をかかず、舞台にだれる空気感が出ないように努めるべきと思っています。

さて、錣引きの語りが終わると、いよいよ最後の場面です。ワキにこの物語が終わったら娘を故郷に帰してくれるようにと約束しての語りでした。もう自分の命はそう長くないと悟っている景清は「亡き跡を弔ひ給へ」と頼み、「さらばよ」と娘の背中を押して帰します。これも切ない親心なのです。「さらばよ 留まる」「行くぞ」との一声が親子の形見となるとして終曲します。
現代のTVドラマなら、娘との再会で「めでたし、良かったね」と終わるのでしょうが、室町時代に作られた能は娘と再会しても、すぐに別離となる哀れな悲劇を描いていきます。
能は勝ち組より負け組に焦点を当てて戯曲することが多く、『景清』は一番の負け男の鎮魂能と言えるかもしれません。

この最後の場面で、見所からすすり泣く声が聞こえてきました。あるご婦人は「主人が泣いて泣いて恥ずかしかった」と仰っしゃいます。以前、父・菊生が「結婚式では、男親は娘とバージンロードを歩き、最後に娘を奪っていく憎っくき男に手渡さなければならい、ここは残酷なシーンだよ。だけどそのとき、父親は相手の男をにらみつける度胸はないのね、必ず視線を外してる。そこで『景清』の別れの場面では、パージンロードの父親のように、視線を落とす型をしている、何でもお能に応用するんだよ」と言っていたことを思い出します。
娘との別れ、どうも『景清』は男親の涙腺を緩めるようです。また、ある女性からは「人丸になった気分で見ました。切なくなりました・・・」と言われました。能『景清』は、男性は景清に、女性は人丸に心を寄せてご覧になるようです。このように、優れた能は老若男女全てに適応しているのです。

ここで装束のお話をします。
能『景清』の装束(着物)は着流し姿と大口袴姿の2通りがあります。前者は乞食として、後者は武将としての側面を強調しています。喜多流は武将として白色大口袴を着用し、私もそのようにしました。面は景清の専用面をかけますが、これにも顎髭が有る無しで2通りあり、髭がある方を使います。専用面があるのは『景清』のほか、『頼政』、『弱法師』、『鬼界島』、『蝉丸』などがあり、いずれも個性的な人物像を描き出しています。『景清』の専用面は負け組でありながら、まだどこかに負けん気、強さを表し、それでいて盲目の哀しさも秘めているような面です。頑固な老いぼれ武将に似合う装束と専用面(粟谷家の能面「景清」)は、もし次回勤めるときでも、多分変わらないでしょう。私には不動のお決まりです。

今回、共演者に恵まれたと喜んでいます。ツレ・人丸の狩野祐一さん、ワキの宝生欣哉氏、地頭の長島茂氏、囃子方(笛・松田弘之 小鼓・鵜澤洋太郎 大鼓・亀井広忠)、地謡陣、舞台を盛り上げてくださった皆様、そしてご覧になってくださった方々、皆様に感謝申し上げます。

今回の『景清』は再演であったため、少し余裕が出てきて、謡い方や動き、表現法に再発見がありました。加齢すると、瞬発力や持久力などが落ち、身体のキレも悪くなります。確かに衰える面もありますが、69歳だからこそできることもある、と感じています。身体は衰えても、その代わり謡(口)は若い時より、重みを増して良い謡に成長する、と言われていますが、そのことがじんわり分かるようになりました。50代の初演、60代の再演を終え、次は2、3年後に70代の『景清』もご覧いただきたいと、新たな目標が出来ました。

写真撮影 新宮夕海                        

(2025年3月 記)            

第107回 粟谷能の会投稿日:2024-11-04

広島蝋燭薪能投稿日:2024-11-01

高知県能楽鑑賞会能投稿日:2024-11-01

『弱法師』を勤めて投稿日:2024-10-15

『弱法師』を勤めて
効果満点の小書「舞入」

能『弱法師』は盲目の青年・俊徳丸(シテ)が「目は見えなくとも心の目で何でも見えるぞ!」と悟りながらも、世の辛さを知り挫折する物語です。父・菊生が得意とした曲でいろいろ教えて貰った曲、私も大好きなこの曲を、「初秋ひたち能と狂言」(令和6年9月29日、日立シビックセンターにて)で勤めました。
『弱法師』を勤めるのは今回が4回目です。初演は平成4年の粟谷能の会研究公演、続いて平成15年の秋田まほろば能、平成26年の厳島神社・桃花祭の神能で勤めています。初演以外、今回も含め3回の公演ではいずれも小書「舞入(まいいり)」の特別演出で行いました。

まずは簡単に『弱法師』のあらすじを記しておきます。
高安左衛門尉通俊(ワキ・宝生常三)はさる人の讒言(悪口・誹謗中傷)を信じ、我が子の俊徳丸を追い出しますが、不憫に思い天王寺にて7日間の施行(善行を積むために人に物を施すこと)を行います。そこに、盲目となり弱法師(足弱の乞食・喜捨を受ける芸能者)と呼ばれるようになった俊徳丸が現れます。通俊が施行を勧めると俊徳丸は素直に受け入れ、梅の花を袖に受けるなどして優雅なふるまい見せます。それを見た通俊は弱法師が我が子と気づきますが、人の目を気にし、その場では名乗らず、日想観(じっそうがん)を拝むよう勧めます。盲目ながら心の目で見えると舞い狂う俊徳丸。やがて夜になると、通俊は父と名乗り、俊徳丸を高安の里に連れて帰ります。

小書「舞入」は通常右手で扱う盲目の杖を左手に持ち替え、右手に中啓(ちゅうけい=扇)を持ち、杖を突きながら、常の「イロエ」(軽く舞台を一巡する)を中之舞に替えて舞う演出です。「盲目の杖」の扱い自体難しいうえに、「舞入」では利き腕ではない左手で杖を扱うので、さらに難度が上がります。これを嫌い、小書を避ける人があるくらいで、この小書での演能はそう多くありません。私はこの小書で3回目、何度も稽古して慣れて来たためか、杖の扱いはさほど苦にならなくなりました。
「視界が狭い中でたいへんですね」などと言われることがありますが、専用面「弱法師」は目が横に切れているので、不思議と視界は広く、よく見えます。演者はよく見える面の内側で、目を半眼に閉じて盲目の気持ちで舞っているのです。

喜多流の『弱法師』、というより、これを得意とした父や第十四世・喜多六平太先生の主張は、弱法師は天王寺まで毎日通い慣れているから、その道中のことは、たとえば、どこに石があって危ないとか、樹木が飛び出しているとか、全て分かっている、盲目といっても、不自由そうに恐る恐るよろよろと歩くのではなく、むしろタッタとリズム良く、全体にサラッとした気分で勤めるのが吉、というもので、私もそのように思います。謡を落ち着き過ぎて重苦しく謡ったり、囃すのは、妙にハンディキャップを誇張するようで、どうでしょうか?私はあまり感心しません。

『弱法師』は若いうちにはできない曲ですが、かといって、背中が丸くなった年配者でも似合いません。昔、喜多流の愛好家の女性が「俊徳丸は青年です。背中が丸まった姿で出て来てはいけません」と、話されたことが強烈に頭に残っています。ですから、盲目といっても若者らしい溌溂とした動きも必要で、盲目の不自由さとの兼ね合いが難しいところなのです。

この曲のクライマックスは何といっても日想観を拝するところです。日想観とは、時正の日(昼と夜の長さが同じ日)に西に向かって手を合わせ、落日の有様を見て、西方浄土を願うことです。弱法師・俊徳丸も西に向かって手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えます。やがて「イロエ」に変えて中之舞を舞い、舞のあとはすぐに「住吉の松の木の間より眺むれば・・・」と上羽の謡となり、続いて「狂い」の舞どころとなります。淡路、絵島、須磨、明石、紀の海まで、盲目なりとも、心の目でよく見える、「満目青山は心に在り」「おお、見るぞとよ、見るぞとよ」と気持ち昂り狂うのです。さらには難波の海の名勝、南は住吉の松原、東は緑の美しい草香山、北は長柄の橋と、有頂天になって謡い舞います。今でいえば路上のラップ・ライブの趣でしょうか。この曲のもっとも心躍るところです。
しかし、盲目の悲しさ、「目では見えないが、心の目で見えるのだ!」と達観し狂う弱法師・俊徳丸ですが、やがて境内の貴賤の人に突き飛ばされ、よたよたと倒れ転んでしまいます。「やはり弱い法師だ!」と揶揄われ笑われ恥ずかしめを受けると「もう浮かれたりはしない!」と心を痛め挫折します。
「舞入」という小書は、日想観を拝し心が昂っていくなかで舞い、狂いの頂点に繋げる、ご満悦の演出であり、後の挫折感と対比させる効果満点の演出であると、3回目にして、より強く感じることができました。今回の一番の収穫です。

以前の演能レポートにも書きましたが、作者・観世十郎元雅の能には「影」があり、それが魅力になっていると思います。『弱法師』しかり、『隅田川』、『歌占』しかりです。
『弱法師』は最後、親子再会で良かった良かったということになっていますが、そこに「影」が見えます。今回の演能にあたり、通俊の台詞から想像される状況が気になりました。
まず、「さる人の讒言」により、我が子を追い出しますが、さる人とは誰なのか・・・、何となく女性の匂いがします。謡曲大観の著者・佐成謙太郎氏は義母と解説されていますが、私も同感です。通俊の後妻が実の子可愛さのあまり、前妻の子・俊徳丸を邪魔にしたといったことが想像されます。人形浄瑠璃や三島由紀夫の近代能楽集など、『弱法師』の筋を採り入れたものがありますが、ドロドロした家族模様が展開されているようです。能『弱法師』には細かい事情は書かれていませんが、そういう物語を想像させる何かがあるのでしょう。
次に、我が子と分かっても直ぐに名乗らない通俊に違和感を覚えます。自分が追い出したことで盲目にしてしまったという慙愧の念にかられないのでしょうか。人の目が気になるので、夜になってから名乗ろうとする通俊は、プライドが高く、見栄を気にする男、ごく普通の真っ当な父親とは思えません。
そして最後、とどめの一撃は、夜が明けぬ前にと、供人(アイ)に合図して、俊徳丸を連れて帰させることです。自ら手に手を取って連れ帰るのではなく、自分は後から行くからと、幕から離れた常座でユウケンし、脇正面を向いて留拍子を踏んで終曲します。
この終わり方、これから俊徳丸はどうなるのだろうか、家に連れ帰ってもらっても、複雑な家族関係の中で幸せになるのだろうか、通俊は味方になってくれるのだろうかと、不安になります。
お能はどんなに悲しいお話でも祝言の心で終わるのがいいとはよく言われます。元雅はもっと具体的に物語を展開したかったかもしれませんが、ここは能の様式で露骨には書けなかったのでしょう。日想観の高揚感を描き、親子再会をめでたしとしながら、でも、深く読めば、子供を捨てる行為は許されない、悪しき行為だというメッセージ、強烈な香辛料をまぶしていると感じさせられます。こういう『弱法師』という能が私はたまらなく好きで、元雅のメッセージをちゃんと伝える演者でありたいと思うのです。

天王寺は大阪市天王寺区にある聖徳太子建立の寺。境内は相当広く、「踵をついで群集する」とあるように、昔も今も、多くの人で賑わうところです。貴賤を問わず、病や障害も問わず、懐深く人を受け容れるところです。昔は「悲田院」といって、貧しい人や孤児を救う病院のような施設もあったようです。日想観を拝む行事は今でも行われています。昔は、天王寺の境内から西を拝むと、能の詞章にあるように、難波の海に沈む太陽を拝むことができたといいます。最近では宅地開発され、日が沈む様子は拝むことができても、海は見られなくなっていますが、時正の日には多くの人が西に向かって手を合わせているようです。
このような懐深く慈悲深い場を能の舞台とし、現実に起こりそうなことを、真っすぐに描き切る現在能『弱法師』、元雅の能は世阿弥(元雅の父)の夢幻能とは違う味わいがあります。

父・菊生は晩年、身体が弱くなってきた時に、『景清』しかできないと言って、『景清』ばかり演っていました。銕仙会の荻原達子様に「父は『景清』しかできません」と、申し上げたところ、「いいの、いいのよ。『景清』が十八番という役者がいても。どこへ行ってもそれを演って、名優として成り立つ。『景清』しかできないではなく、『景清』が得意というのはとても良いことですよ。アッ君、覚えておいてね」と、言われたことが印象深く、よく覚えています。私も今回『弱法師』を勤め、来年は7月に高知で、9月に宇都宮でと、『弱法師』の演能が続きます。父の『景清』ではないですが、明生の『弱法師』、それも「舞入」の『弱法師』を広く皆様にご覧いただけるようになりたい、今そんな思いでいます。

なお、今回の『弱法師』は時間の制約があったため、一声の後のサシコエと天王寺縁起を語る序、サシ、クセを省き、短縮版にしたことを記しておきます。見所に外国からの留学生もちらほら、初心者が多い公演では、作品を壊さずに少しコンパクトにしてご覧いただくこと
も必要かと思っています。

『弱法師』舞台写真提供 日立シビックセンター
「弱法師」能面石塚シゲミ打 撮影 粟谷明生 
                     (2024年10月 記)

初秋ひたち能と狂言投稿日:2024-06-15

『頼政』を続けて勤めて投稿日:2024-05-28

『頼政』を続けて勤めて

今年(令和6年)の春は、能『頼政』を「広島蝋燭薪能」(4月26日)と「喜多流自主公演」(5月4日)と続けて2回勤めることとなりました。
私の『頼政』の初演は「第61回粟谷能の会」(平成9年)で、続いて「能楽座静岡県舞台芸術公園楕円堂公演」(平成12年)と「粟谷能の会・福岡公演」(平成15年)の2回はいずれも父の代演で、福岡公演は後シテだけを勤めています。今回21年ぶりに、しかも2回連続で勤め、いくつか感じることがありました。

今回の連続2回公演は、屋外と屋内の演能の違いを実感しました。「広島蝋燭薪能」は屋外で生憎の空模様、私の『頼政』のときは雨に降られませんでしたが、途中小雨により10分ほどの中断がありました。屋外の能はご覧になる方には開放感がありますが、演者には舞台の寸法や滑り、また音響や視界など通常とは異なる不便さが正直あります。特に天候の心配をしながら自分自身のモチベーションが下がらないように気をつけなければいけません。
一方、自主公演は屋内の観世能楽堂で催され、屋外のような開放感はありませんが、お舞台の滑りも音響もよく、演じやすさを実感しました。そもそも能は屋外で行われていたものです。屋根のある能舞台を、能楽堂という建物の中に入れるのは不自然ではありますが、最善の対策がなされている能楽堂の能舞台が、能楽師にとっては一番勤め易い、と思うのは私だけではないでしょう。

いつものように、簡単にあらすじをご紹介します。
京都から奈良へと旅する旅僧(ワキ)が宇治の里にやってきます。地元の老人(前シテ)に会い、宇治の名所を尋ねると、老人は答えながら、やがて平等院へ案内します。平等院には源頼政が自害した扇の芝があり、自分がその頼政の霊だと明かして消え失せます。(中入)

夜半、法師の姿に甲冑を帯びた頼政の霊(後シテ)が現れ、平等院に布陣して橋板を外して平家方を待ち受けていたが、馬を巧みに扱い川を渡ってくる田原又太郎忠綱の軍に攻められたと、その様子を語ります。そして、頼みにしていた頼政の子、仲綱と兼綱兄弟が討たれると敗戦を覚悟し、扇の芝の上で辞世の歌を詠んで自害したと語り、僧に回向を頼み消え失せます。

能『頼政』を勤めるときにいつも念頭に浮かぶのは、なぜ、頼政は76歳という老体にも関わらず、以仁王に平家追討の令旨を出させ、決起したかということです。過去の2回の演能レポートにくわしく書きましたので、それをご覧いただきたく、ここでは詳しく書きませんが、源頼政は源氏でありながら平家方につき生き延びてきた複雑な人生の持ち主なのです。なかなか官位が上がらなかった頼政を従三位に引き上げてくれたのは平清盛でしたが、清盛の後白河法皇を幽閉するなどの暴挙、平家の横暴なやり方に批判的になっていたところへ、息子の仲綱が愛馬のことで平宗盛に辱めを受けたことが、これまでの鬱屈した思いに火をつけてしまいました。しかし残念なことに、決起した頼政でしたが、すぐに清盛に知られるところとなり平等院にて自害します。その時に詠んだ辞世の歌、
「埋もれ木の花咲く事も無かりしに 身のなる果ては哀れなりけり」
には、頼政の万感の思いが込められています。
この辞世の歌が、この能のテーマではないでしょうか。


 
能では最後の最後、橋合戦の仕方話をした後に、芝の上に扇を敷き、刀を抜いて、この歌を謡いあげます。この場面、以前は老武者の人生の哀感を、少し静かに謡っていましたが、68歳の再演にあたり、命をかけ闘い破れた老いた男の心境は、力強い絶叫の方が似合うのではないかと、高音で張り上げ謡ってみました。老人に大声は似合わない、老人は大声が出ない、のかもしれませんが、能は芝居であり演劇です。老武者頼政の強い思いを大絶叫することで、ご覧になる方々に強く伝わればよいのではないでしょうか。今年には69歳になり、周りから古稀と言われるようになったからこその発見でした。

実際、歴史は頼政の決起により、頼朝が立ち上がり、怒涛の勢いで平家を倒し、世の中は平家の時代から源氏の時代へと変わっていきました。頼政がそのきっかけを作ったことは確かです。頼政は決して、埋もれ木の花咲く事も無かった、人生ではなかったのですが、本人は知る由もありません。

実際、頼政は従三位まで上がった武将であり、歌人としても優れた人であったのですから、最後の決起は複雑で執心の残るものだったのでしょう。後シテの出立にもそれがよく現れています。老体でありながら、頭巾をかぶった法体であり、肩脱ぎした軍体という異様な出立。しかも面は「頼政」専用面で目に金環が施され、この世の者とも思われない強い異様な表情です。すべてがシュール。こうして造形された能『頼政』を演ずるには「若さ」は「敵」である、と初演を思い出し、今だからこそ判るのです。

後場では、サシの「そもそも治承の夏の頃・・・」から始まる、床几に腰掛けての戦の仕方話が聞かせどころ、見せどころです。ここは落語の噺家のように一人で何役も演じます。シテは最初、三井寺を目指し宇治に落ち行く頼政自身ですが、敵軍の田原又太郎忠綱にも変身し、橋桁を外されたにもかかわらず、宇治川の急流を果敢に馬で渡って攻め上がる様子を見せ、また頼政に戻って味方の戦いぶりを描きます。床几に腰掛ける演出は老体でもあり、指揮官でもある姿を想像させますが、この床几に腰掛け闘いを一人で演じる場面は、演者にとって技芸の見せどころでもあります。

この仕方話の前に、地謡「蝸牛(かぎゅう)の角の争いも」(ちっぽけな争いも)、シテ「儚かりける心かな」といった謡が入ります。執心に迷う頼政に、所詮、それはかたつむりの角の争い、ちっぽけなものなのだ、人生は儚いと述懐させるところに、作者・世阿弥のウイットを感じさせられます。少し冷静に悟ったかのような頼政ですが、仕方話をしながら徐々に気持ちが高ぶり、「埋もれ木の・・・」の辞世の歌で心の叫びになる・・・、修羅道に苦しむ、他の修羅物とは異なる構成がこの能の特徴の一つでもあります。

最後に楽屋裏話を一つ。今回演じるにあたり一つ疑問に思ったことがありました。前場の名所教えで、恵心寺を紹介した後に、シテが「月こそ出づれ朝日山」と謡います。その後の地謡は「雪さし下す(くだす)島小舟」と続き、美しい景色、優れた名所と賞賛しますが、さて月が出る時刻は、なんどきなのだろうか?
「雪さし下す」つまり月の光で雪が下りたように見える、その時刻は何時なのでしょうか。
あれは夕刻の月ではないか・・・。
いや頼政が自害した5月26日は満月ではないので月光が雪に見える程のことはない・・・。
いろいろな意見が出ましたが、結局よく分からず最後は、高林白牛口二師が常に仰る
「理屈に合わなくとも良いのです。それが能なんです」が、オチとなり一同笑って終わりました。能には謎めいたところがいろいろあります。納得いかないことを調べ、時には腑に落ちることもあれば、今回のように答えが出ないこともありますが、あれこれと仲間内で話すことの大事さ、面白さ、を体験しました。


 
今回、広島での演能の前に平等院を訪ね、釣殿、頼政の墓、扇の芝などを見て回りました。観光客で混雑していましたが、扇の芝に目を止める人は無く寂しい限りです。それでも、ここで自害したのかと写真を撮り、宇治川の急流を目の前で見て、ここを馬で渡ったのかと、また改めて感心しました。平等院には既に何回か行っていますが、やはり演能直前に訪ねるのは大いに刺激にもなり、特に朝日山の位置が判ったことは、私には大きな思い出となりました。


 
20代~30歳までは、指導者に教えられた通りに勤めれば良いでしょう。しかし、そこで留まっていては成長が止まります。様々なものを貪欲に吸収し、教えられたパッケージ通りに勤めるだけではなく、もっと先に踏み越え、殻を破り、演劇としての能を追求することの大事さを痛感しています。そして何よりも能という難解な演劇を、ご覧になる方に少しでも分かり易く伝えることの大切さを噛みしめています。もう少しで69歳。今だから判るのかもしれない・・・、と、私も頼政のように心の内で叫んでいます。
                          (2024年5月 記)
写真提供 新宮夕海

『嵐山』を勤めて 〜桜の花から真の花〜投稿日:2024-05-01

『嵐山』を勤めて
桜の花から真の花

前日の嵐が嘘のような、快晴に恵まれた春のひととき、「国立能楽堂定例公演」(令和6年4月10日)で、『嵐山』を勤めました。
能『嵐山』は桜(造花)を左右に配した一畳台の作り物を舞台の正面先に置いて、桜満開、
春爛漫の京都嵐山の光景をご想像していただくところから始まります。

まずは簡単にあらすじをご紹介します。
大和国・吉野山の桜は有名ですが、京の都からはあまりに遠いので、都近くの嵐山に吉野の桜を移し植えました。
春になり桜の開花が気になる帝が嵐山に勅使(ワキ)を向かわせます。
そこに老人夫婦(前シテ・前シテツレ)が現れ、木陰を清め桜に向かって祈念しています。不思議に思った勅使が尋ねると、吉野の桜を都に移すときに、木守と勝手の二神もこの嵐山に来られたと語り、実は自分達こそ木守・勝手の神であると名乗り、雲に乗って南の方に飛び去ります。(中入)
その後、蔵王権現の末社の神(アイ)が現れ舞を舞い、続いて木守と勝手の明神(いずれも後シテツレ)が神体として現れ、嵐山の美景を眺めながら舞楽を奏すと、最後に蔵王権現(後シテ)も現れ、衆生の苦患を助け国土を守ると誓い、栄える御代を祝福します。

『嵐山』は脇能です。脇能は神が出現する能で、正式五番立の最初の演目『翁』の脇に演じられることからこの名があります。脇能は喜多流では「真」「行」「草」の三段階に分けられ、『高砂』や『弓八幡』は本格的な脇能の構成で、演者達には気品と力強さが求められる「真」の脇能となります。それに比べて『嵐山』は穏やかで、華やかさが求められる「草」の脇能です。装束も、「真」の脇能の前シテは大口袴をはくのに対して、『嵐山』のように「草」の脇能では着流し姿となり、少し軽い扱いとなります。
従って、前シテの尉は、『高砂』のような強く硬質な尉ではなく、ほんわかと、柔らかな雰囲気の尉を勤めるのが演者の心得です。

謡についても、『高砂』は終始、強吟で謡いますが、『嵐山』は柔らかい和吟が主になります。後場は、「下り端(さがりは)」の、ゆったりとしたリズムに乗って木守・勝手明神が現れ美しい神遊びの趣の舞を見せ、最後に蔵王権現が登場すると、強吟の大ノリのリズムとなって豪快な謡になりますが、全体には柔らかい雰囲気で終始します。今回囃子方の方々にも、全体に「草」の脇能らしく、柔らかく囃していただくようにお願いし、それに応えていただきました。

『嵐山』は、前場の尉(前シテ)と姥(前シテツレ)は木守明神と勝手明神の化身として現れ、後場でそのまま木守・勝手の二神を演じれば理にかない判りやすいのですが、後シテは蔵王権現という全く別の神になり、木守・勝手の二神は別人が勤めます。従って、多くの能役者を必要とします。

今回、前シテの尉と後シテの蔵王権現を私が勤め、前ツレの姥を谷友矩君、後ツレの木守明神を狩野祐一君、勝手明神を金子龍晟君に勤めてもらいました。彼らは二十代半ばから三十代前半の年齢で、今回、意識して若手を起用いたしました。後ツレの二神が登場し、嵐山の辺りの美景を紹介し相舞になりますが、ここは二人が呼吸を合わせ美しく舞う見せどころです。若い二人は喜多能楽堂が改修工事で使用出来ないため、国立能楽堂の研修舞台を拝借して稽古を重ね、よく揃って立派に舞われたので、よい勉強になったのではないかと思います。次代を担う若手を起用して経験を積んでもらうのも、我々世代の役目、そんな年齢になってしまったかと、複雑な心境です。

この後ツレ、喜多流では勝手明神が「小面」に天冠、長絹姿で女神、木守明神は「邯鄲男」に狩衣姿で男神の扮装で現れます。勝手神社などに伝わる話では、本来、木守明神が女神で勝手明神が男神とされています。木守は子守に通じ、子守明神とも呼ばれ、子授け祈願されたとの史料もあるようで、女神が本来のようです。宝生流と金春流は本来のように木守を女神、勝手を男神としていますが、喜多流と観世流は逆になっています。いつから、なぜそうなったのかは不明です。私は現行の通りに演っていても、あまり気になりませんが、子守明神に子授け祈願などでお参りされている方々には、喜多流の舞台演出には違和感を持たれるかもしれません。

後シテの蔵王権現は早笛に乗って突如姿を現したかと思うと、短い舞を舞い、あっという間に留拍子を踏んで終曲となります。舞働も神舞も舞うことはなく、演者としては少し物足りなさを感じますが、その短い時間に蔵王権現の威厳、荘厳さをお見せするのが大事な心得のようです。荒削りにならないように演じるには、若い能役者よりも逆に歳を重ねた者の方が似合うのかもしれません。

今回の装束は敢えて紺色狩衣も赤半切袴とも「立涌」(たてわく)柄に揃えてみました。結果は悪くはありませんでしたが、特別効果が出るものでもないことを学びました。
面は「不動」でも良いかと思いましたが、従来通り「大飛出」にしました。短い時間に強い威厳と荘厳さを目立たせるには、ご覧になる方の目に飛び込んで来るような扮装選びも大事な技で貴重な仕事だと思います。

私にとって『嵐山』はツレ役の姥や勝手明神の経験はありますが、シテ役は稽古能の経験もなく、今回が初演でした。どうも喜多実先生の指導法の影響でしょうか。先生は『嵐山』よりも『弓八幡』や『養老』を稽古し、『高砂』を目指すのが良いとお考えになられたと思います。『嵐山』は若うちに稽古し、披露しておいた方が良い曲ではないことを、今回勤めて判りました。脇能は『弓八幡』→『養老』→『高砂』の順番に、稽古を重ねていくのが吉、これは喜多実先生のお考えでした。この順番で、それぞれのツレやシテを十分稽古・体得し、年を経てさまざまな経験をした後に、『嵐山』の柔らかい前シテの尉、短くコンパクトに豪快さを示す後シテが出来上がるもの、と思います。

『嵐山』の作者は金春禅鳳、世阿弥の娘婿・金春禅竹の孫ですから、世阿弥にとっては曽孫にあたります。世阿弥からだいぶ時代が新しくなり、観世小次郎信光の時代に近いのではないでしょうか。世阿弥や禅竹のような渋い味わい深い能が流行らない時代となり、楽しく華やか、登場人物も大勢で賑やか、見て判りやすい演出が優先された時代です。

『嵐山』の脇能は、堅さより柔らかさ、これを演じる者も三役も意識することが大事だと思いました。最後の謡「光も輝く千本の桜、榮行く春こそ久しけれ」で、全体に春爛漫の桜を愛で、明るい「陽」であり軽めの「草」の能になっているのです。ここに「陰」は似合わない、と意識することが勤める者には肝要です。

前シテの出は「真之一声」です。荘重な一声の出囃子となりますが、「陰」(陰気)の謡になってはいけないはずです。ところが「真之一声」を音程低く、重々しい鈍重に謡う能役者がいます。「真之一声」は脇能のほかには『松風』で使われます。こちらは松風・村雨姉妹の海女乙女が汐汲みという重労働をさせられている訳ですから、暗い重々しい雰囲気で「陰」の謡が吉ですが、『嵐山』は祝言能で、重々しさは必要なく、明るく「陽」の心意気で謡わなくてはいけません。姥役の谷友矩君にこのことを伝え、一緒に明るく謡えたことを嬉しく思っています。通常の「真之一声」は「掛」「一段(越之段)」「二段」と三段の構成ですが、今回は特別に時間短縮を優先し、お囃子方のご協力を得て「掛」でシテツレとシテが登場する演出にしました。

禅鳳の『嵐山』は楽しく華やかに、判りやすく、を目指していたようで、前場も通常の序・サシ・クセがないコンパクトなつくりです。私は最近、ダラダラと間延びしがちな部分を演らない、を演能のテーマの一つにしています。演じる側が自流のためのルールばかりを優先するのではなく、見る側の立場にたって、今の時代に似合う能を勤めるのが、第一ではないかと思っています。

それからもう一つ、間狂言について私論です。アイは前場と後場を繋ぐお役目で、後場の登場人物の着替え時間を作ってくださいます。ただし『嵐山』のように前後で役者が変わる場合は、装束付けのため、という大義名分はなくなります。であれば、もう少し短く、コンパクトなアイの語り、舞も再考されて良いのではないでしょうか。これはこれから狂言方の方々とも相談して、今後の課題にしたいと思っています。

明るく「陽」な祝言能としての『嵐山』。地謡も囃子方も「陽」な雰囲気でサクサクと謡い、囃してくださいました。役者全員が緊張感をもって、軽くサラリとお勤めくださり、感謝しています。舞台上のすべての能楽師の技が一つになり、ご覧になる方に楽しんでいただき、そこに感動が生まれたら、それが世阿弥の説く「真の花(まことのはな)」です。これからも「真の花」を目指さねば、と桜が教えてくれました。これからも精進し良い舞台を勤めたい、と新たに思いました。

写真提供 新宮夕海
嵐山出演者
ワキ 福王和幸
囃子方 笛 槻宅 聡 小鼓 観世新九郎 大鼓 柿原弘和 太鼓 前川光範
間狂言 高澤祐介 地頭 長島 茂 
                          (2024年4月 記)

『融』を勤めて 小書「曲水之舞」投稿日:2024-04-01

『融』を勤めて
小書「曲水之舞」

第106回「粟谷能の会」(令和6年3月3日)では、観世銕之丞氏をお迎えしての異流共演『蝉丸』のシテ・逆髪と『融』のシテを勤めました。一日に能二番を勤めることは、以前ならさほど苦にならなかったのですが、68歳になった今、体力と記憶力に気を配り精一杯勤めようと心に期し、両曲とも無事終えることができ、今はほっとしています。

まずは今回の『融』のあらすじです。
前場では、融の霊が汐汲みの老人(前シテ)となり、荒れ果てた六条河原の院に現れ、旅僧(ワキ)に河原の院の謂われ、そして都の周りの景色を教え、汐汲みを見せると、姿を消してしまいます。(中入)
後場は月の世界より舞い降りた融の霊(後シテ)が遊楽遊舞に興じていた頃を懐かしみ、舞い遊び、夜があける前に月に戻っていくのでした。

融は第52代・嵯峨天皇の皇子で皇位継承権がありながら、藤原基経に阻まれ天皇になれず降下し、源姓となります。その鬱憤を晴らすように、源融は六条河原の辺りに贅をつくした邸宅・河原の院をつくり、陸奥の塩竃の浦を模した庭に、難波から海水を運ばせて塩を焼かせ、その景色を楽しんだといわれています。しかし、融の死後、年月が流れ、素晴らしかった邸宅も廃墟と化しています。

融の霊はその旧跡に月からやって来て、最後に月に帰って行きます。前シテの一声の謡「月もはや」で現れ、ワキと問答をしていると月がやや高く上がって明るくなり「月こそ出でて候へ」と喜びます。月に照らされた周りの名所を教え、後場でも月の明かりに恍惚として舞い遊び、やがて、月が傾いて明け方になると「月もはや」と謡って、月の都に帰って行きます。「月もはや」で始まり「月もはや」で閉じられる、まさに月と共にある融とその詩情で作られていて、『融』のキーワードは「月」なのです。

前場は源融の霊が汐汲みの老人となり廃墟となってしまった河原の院に現れ、悔しく無念な気持ちはあったでしょう。ただ能『融』は不思議なことに、融大臣の無念な執心を晴らす仏教的な背景がまったく感じられません。それはワキの旅僧が一度も読経しないのが要因で、私はワキが普通の旅人でも良いと思いますが、敢えて旅僧にした訳が知りたいです。

今回の粟谷能の会では二番の演能となり、時間的な制約があることから、通常2時間近くかかる『融』を1時間15分ほどに短縮してご覧いただくことにしました。
短縮したところは2か所です。まず、前シテが登場して「月もはや、出潮になりて塩竈の。うら寂びまさる、夕べかな」と謡った後のサシコエ、下歌、上歌を省略しました。うら寂びまさる塩竈に自らの老いを重ねて嘆くところです。
次に、初同(地謡の最初の謡)の最後の謡「千賀の浦曲(うらわ)を眺めん」のあとのワキ謡とシテの語り、二同(地謡の2番目の謡)を省略しました。河原の院の謂れを語り、荒れ果てた姿を目の当たりにして、昔恋しいと慕っても願っても甲斐ない・・・と謡うところです。

通常の2時間近い演能に慣れている方が、省略したところは大事な場面で外せない、本来の能の姿を大切に壊すべきではない、と仰っしゃるのは分かります。その通りだと思いますが、先に述べたように、融の執心よりは月と融の詩情をテーマに決めて、全体の作品を壊さないように配慮した短縮版『融』も、これからは有りではないかと思います。
 

今、若者は映画など動画を倍速、三倍速で見るようで、タイパ(タイム・パフォーマンス)を重視する時代のようです。そのような意識を持たれる方には、2時間の能はあまりにも長く感じられるのではないでしょうか。これからの時代、粟谷能の会は能二番立の場合、一番は正規通り、もう一番は短めでという番組が良いと考えています。1時間40分の『蝉丸』をご覧になり、狂言の後に、1時間15分ほどの『融』をご覧になって、一日に二番「どちらも、それぞれ面白かった」と感じていただける興行を目指していきたい、と思っています。


 
私の『融』の初演は平成4年「妙花の会」、平成28年の「粟谷能の会」で再演し、2年後に「初秋ひたち能と狂言」でも勤め、今回が4回目です。過去3回とも早舞は「クツロギ」(橋掛りに使う特殊演出)で勤めていますが、今回の小書「曲水之舞」は最初に橋掛りを使う演出で重なるので「クツロギ」は出来ませんでした。


 
喜多流の『融』の小書は「曲水之舞」「笏之舞」「遊曲之舞」「遊曲」があります。
「曲水之舞」「笏之舞」「遊曲之舞」は、いずれも早舞の前にイロエやハタラキ的な短い舞が加わりますが、「遊曲」は早舞が無くなり、イロエだけの特別に重い習となります。


   
今回の「曲水之舞」は通常の早舞の前に曲水の宴を想起させる型が入ります。流れる盃を両手で掬い、その後は、左手で右袖(袂)を持ち、右手の中啓(扇)を盃と見なす演出で、早舞となるまで、終始右手で盃を持っている構えで舞います。盃を両手で掬うと、まずは水上(川上)を想定する幕際まで、右手を少しずつ上げながら行きます。そして、ゆっくり振り返り下に流れる曲水を見て、その流れに盃を流すように、また融自身が流れる盃になったような心持ちで幕際から徐々にスピードを上げて本舞台へと入り、円を描くように丸く廻ります。ここまでが曲水之舞で、その後に通常の早舞となります。今回は時間短縮もあり、掛を省略して三段構成で勤めました。


   
最初に橋掛りを使う小書「曲水之舞」は、同様に橋掛りを使う「クツロギ」と重なるので、敬遠されあまり多く演じられていません。父・菊生の『融』は「曲水之舞」しか演じていませんが、写真を見ると今でも当時の舞台が脳裏に浮かんで来ます。今回の短縮版『融』を父はどのように思っているのだろうか・・・、少し気になります。


 
後シテの格好ですが、通常は色鉢巻きを頭に巻いて面を付け、頭に初冠を載せるだけですが、今回はそこに観世銕之丞家より「馬毛頭」(ばすかしら)を拝借して付けました。
昔、野村萬先生がまだ万之丞時代、観世寿夫先生が『融』をお勤めになる際に、「面と初冠だけでは、人間の生の部分が見え過ぎて、夢の世界の融の霊には似合わないのでは?」と仰っしゃられたのを受けて、寿夫先生が工夫されて「馬毛頭」を付けられたのが最初だと能夫から聞いています。そのお姿は『観世壽夫 至花の風姿』でご覧になれます。
実は喜多流で初めて、寿夫先生の真似をして、馬毛頭に似た黒い毛(黒垂)を付けたのは私で、しかも初演のときでした。若輩ながら、自分の立場で、自分の出来る範囲内で、より良い演出をしたいと思い始めていた頃でした。当時は「あのような、奇を衒うことはしないほうがいい」など、陰口もあったようですが、時が過ぎると今ではそれが普通となり、陰口をたたく者もいないでしょう。いつの世も最初に挑む者に陰口は付き物ですが、今回の初番『蝉丸』の逆髪のように、自分の思う通りに演じたい、を貫いて生きている私はたいへん恵まれ、少し変わり者なのかもしれません。
演能は、より良い演出、より想像しやすい姿をご覧いただくのが大事で、最優先だと信じています。これからも、良いと思うことは周りを気にせず、我が道を邪魔されずに進みたいと思っています。

最後に、後シテは本来「指貫」を穿きますが、今回『蝉丸』のツレ・蝉丸で銕之丞氏が「指貫」を穿かれましたので、二番「指貫」が続くのは良くないため、ゲストを優先して、私が「色大口袴」を穿いたことを記しておきます。
                    (2024年3月 記)
撮影 新宮夕海

ワキ 宝生常三
笛 一噌隆之
小鼓 観世新九郎
大鼓 亀井洋祐
太鼓 小寺真佐人

(『融』については、演能レポート「『融』を演じて 月の詩情に寄せた名曲」(平成28年3月)に詳しく書いていますので、合わせてご覧ください。)
http://awaya-akio.com/2016/03/06/post480/

『蝉丸』を勤めて投稿日:2024-03-26

『蝉丸』を勤めて
異流共演と狂女・逆髪

能には、心の中が屈折している主人公を扱った演目が多くあります。「第106回 粟谷能の会」(令和6年3月3日)で勤めた『蝉丸』のシテ・逆髪(さかがみ)とシテツレ・蝉丸は屈折の特上クラスの人物で、しかも姉弟です。今回、弟の蝉丸を観世流の観世銕之丞氏にお引き受けいただき、姉の逆髪を私が勤める異流共演が実現しました。

実は数年前、大槻能楽堂自主公演で銕之丞氏と私の異流共演『蝉丸』が企画されましたが、折悪しくコロナ禍で、公演中止となりました。この企画を是非復活したく、今回の「粟谷能の会」で出来ないものかと銕之丞氏に相談しましたところ、快諾してくださり実現に至りました。大槻能楽堂自主公演では観世流の地謡で、私一人が異流で加わる演出でしたが、今回は喜多流の地謡となりました。この異流共演で舞台上になにか面白い化学反応が起きるのではないか、と期待していました。予想通り、ご覧になられた方々からは、二人の個性のぶつかり合いがとても面白かったとご感想をいただき、企画実行出来たことを、改めて喜んでいます。

私の記憶に残る異流共演は、観世銕之丞氏のお父様と私の父が以前中尊寺の白山神社能舞台にてシテ・建礼門院を先代・観世銕之亟先生、ツレ・後白河法皇を父菊生が勤めた『大原御幸』です。今、無事に終えると、今回はあの衝撃的な『大原御幸』の続編のようにも思えて、思い出に残る舞台となりました。また『蝉丸』の異流共演はシテ・逆髪を友枝昭世師、蝉丸を大槻文蔵先生が勤められた映像が、とても勉強になりました。

先日、写真の整理をしていましたら、祖父・粟谷益二郎(本名・益次郎)が『蝉丸』の逆髪を勤めている貴重な写真がありました。姉弟の再会場面、「互いに手に手を取り交わし」と手を差し出す益二郎に「姉宮かと」と受けておられる蝉丸は金春流の桜間金太郎先生でした。このモノクロ写真は、祖父が大正時代に既に『蝉丸』で異流共演を勤めていたことを教えてくれ、今回の企画が特異なことではないと証明してくれました。それで俄然、逆髪を勤める気持ちが強くなり自信にも繋がりました。

はじめは異流共演に不安を感じていましたが、『蝉丸』は観世流と喜多流で詞章の違いがさほど多くなく、それほど演りにくいことはありませんでした。ただ一点、藁屋の作り物が脇座から笛座前に置き替わると、藁屋を見て謡を覚えている私には最初、どうしても違和感があり、謡を間違えることが多く、正直慣れるのに時間がかかりました。

今回、クセの上羽(クセの中でシテが謡うところ)「たまたま言訪ふ ものとては」は、喜多流ではシテの謡ですが、ここは蝉丸の心情ですのでツレが謡うように変えました。
またチラシや番組に記載しませんでしたが、銕之丞氏から「替の型」で勤めたいとの、お申し出がありました。「替の型」は喜多流には無く、観世流にある小書(特別演出)の一つで、蝉丸の位が上がりシテと同等に扱われ、作り物(藁屋)の位置が変わり、蝉丸の装束が大口袴から指貫になる、など演出が変わります。本来、脇座前に置かれる藁屋は、大小前に置くこともあるようですが、今回は銕之丞氏のご希望で笛座の前に斜めに置きました。蝉丸がシテと同等になるため、観客からよく見えるように、目立たせる演出です。逆髪と蝉丸の両シテの意識は、まさに異流共演に相応しい演出となりました。

私の『蝉丸』の演能はツレ・蝉丸役が2回、シテ・逆髪役が1回です。今回、逆髪の再演にあたり、屈折した逆髪をどのように演じたらよいか悩んでいたところ、鑑賞講座(1月18日開催)で話された銕之丞氏のお言葉で、逆髪の輪郭がはっきりし、悩みが消えました。


 
能『蝉丸』は皇族として生まれながら不遇の境遇にある姉・逆髪と弟・蝉丸の悲運の物語です。逆髪は毛が逆立つ狂女、蝉丸は生まれつき盲目の身です。
盲目の蝉丸は父・帝の命令にて逢坂山で出家させられ捨てられます。供してきたワキ・清貫が勅命とはいえ蝉丸を出家させ捨ておかなければならないことの悲しさに沈んでいると、蝉丸は「これは前世の戒行がつたなかったゆえ、この世で過去の罪障を償い、後世で救われるようにとの、父帝の思し召し、真の親の慈悲だから嘆くことはない」と清貫を慰めるほど、多分に仏教的で内省的、運命を受け容れる諦念が見えます。それでも清貫一行が立ち去ると、さすがに寂しく、泣き悲しむ蝉丸です。

それに対して姉の逆髪は違います。生まれつき逆立つ髪を、宮中の女官達から白い目で見られ、陰口を叩かれていたかもしれません。実際に髪が天に向かい生え伸びるなどあり得ませんから、きっと現代のイメージでは天然パーマ、縮れ毛、その程度のものと思いますが、真っすぐな髪がもてはやされた時代に縮れ毛は異様に見られ、敬遠されたのではないでしょうか。そんな環境下にあった逆髪の心は屈折し、時には自閉症のように、また逆に落ち着いてじっとしていられない性分もあったのかもしれません。外と内への心のバランスが崩れ、最終的には自分の思うままに宮中で行動し、遂には放浪の旅にも出てしまうのです。

逆髪は登場すると自分の髪は逆さまに生え上り、いくら撫でつけても下がらないと謡い、童どもに笑われると、身分の低い者が私のような高位の者を笑うなんて、あなた方が逆でおかしい、と嘲罵し、あっけらかんとしています。周りから何を言われても、自分を正当化し、気にせず勝気な性分です。弟と再会して、お互いの境涯を嘆き合いますが、時が経つとまた逆髪は彷徨いたくなるのです。蝉丸が引き留めても、行く当てが決まっているわけでもないのに、立ち去ります。自分の気持ちに正直であり、その意識はまっすぐでも一方通行です。このあたりが周りから狂人と見られる所以ではないでしょうか。そのような逆髪をどのように演じたらよいのか分かりませんでしたが、銕之丞氏の「能『蝉丸』は姉と私なのです」の一言で判りました。

作者・世阿弥はハンディキャップがある二人の姉弟の悲劇を、勝気な姉と内省的な弟という性格や行動の違い、動と静、陽と陰を描き分けて作りました。蝉丸の琵琶の音にひかれて、二人が再会する劇的な場面で観客の涙を誘い、最後は、藁屋に蝉丸一人残して、会者定離の理をも表し、また涙を誘う、さすが世阿弥と感心させられます。このような昔話ですが、現在の我々の生活とかけ離れたものではありません。ハンディを背負った人、悩みを抱えている人達がそれぞれの性格に合った、それぞれの生き方をしていけば良いのでは?と、語りかけているように思われます。能は現代にも通じ、決して古臭いものではないのです。

では能役者として動的で勝気な逆髪をどのような格好(面・装束)で演じたら良いのか、
また逆立つ髪をどのようにご覧にいれたらよいのか、いろいろ悩みました。

我が家の喜多寿山の伝書に
「シテ(逆髪)ノ出立、玉葛ノ後ト同事、但シ左右共髪ヲ分ケ前ヘ下ル」
とあります。『玉葛』の後シテは唐織着流姿で片方(左)だけ髪を前に垂らしますが、逆髪の出立は唐織肩脱着流姿に鬘を前に左右に分けて垂らすのが喜多流の基本形です。しかし近年、鬘を黒頭に変えたり、唐織ではなく摺箔に大口袴、または緋色の長袴などに替える出立も多くなされるようになりました。

喜多流の基本形である鬘を左右に分けて垂らす姿は綺麗ですが、勝気な狂女としての逆髪を想像いただくには難しいと思い、今回は黒頭をつけることにしました。黒頭の代わりに観世銕之丞家より馬毛頭(ばすかしら)を拝借する選択もありましたが、次の演目の『融』に馬毛頭を使いたいこともあり、出る寸前まで悩んだ末、先に紹介した祖父・益二郎の黒頭の写真の姿が力となり黒頭に決めました。

袴は宮中の人らしく緋色の長袴にしました。都から逢坂山に放浪の旅をする逆髪が、引きずるほどの長い袴を穿くのは理にあわず、不適かもしれませんが、そこは写実ばかりではない、能ならではの演出と割り切ることにしました。ただ今回、右足の長袴がからまったまま出てしまい、とても動きにくく往生しましたが、それも最終的には自己責任、自分自身の注意不足と反省し、以後気をつけたいと思いました。

面は、本来喜多流は「小面」ですが、狂女の逆髪には可愛らし過ぎると思い、愛用の石塚シゲミ打の「増女」を拝借しました。「小面」より少し大人で、艶がある表情がとても好きで気に入っている面です。

今回は銕之丞氏がしっとりと内省的な蝉丸を演じてくださったので、その対照を鮮やかに観ていただきたく、舞の動きも謡も、やや快活に勤めました。

銕之丞氏の圧倒的な存在感は、観る人を魅了したことは間違いありません。朝早くから楽屋入りされた銕之丞氏のお陰で楽屋の空気がきゅっと締まって緊張感が漂いました。とてもよい空気感で一日が始まり、公演が終わるまで緊張感が持続したことに感謝しています。
地謡の面々も、特別な緊張感でエネルギーをもって謡ってくれました。
異流共演の試みは、いろいろな意味で素晴らしい効果をもたらし、実現出来て本当によかった、と喜んでおります。

観世銕之丞先生、いろいろお世話になり、厚く御礼申し上げます。
また、大鼓の亀井広忠氏、小鼓の鵜澤洋太郎氏が、銕之丞氏の謡には観世流に合わせ、私の謡には喜多流でお付き合いいただくという、巧みに打ち分けられた技に、改めて感謝と御礼を申し上げます。『蝉丸』の出演者の皆様、異流共演を盛り立てていただきありがとうございました。              (2024年3月 記)

写真撮影 新宮夕海

(なお、ツレ・蝉丸を勤めたときの演能レポート「『蝉丸について』」(平成19年3月)も合わせてご覧いただけると幸いです。)

広島蝋燭薪能投稿日:2024-02-13

国立能楽堂定例公演4月投稿日:2024-02-13

第106回 粟谷能の会投稿日:2023-11-05

『敦盛』を勤めて 〜若やいで美青年を演じる投稿日:2023-09-06

『敦盛』を勤めて
若やいで美青年を演じる

8月の喜多流自主公演(令和5年8月20日 於:観世能楽堂)で『敦盛』を勤めました。
『敦盛』の初演は平成7年10月の「粟谷能の会」でした。稽古能では勤めていますが、公開ではこのときが初めてでした。その後、半能で勤めたこともありましたが、正式には今回が2回目、実に28年ぶりとなりました。『敦盛』はシテが16歳の青年ですので、20代~30代の若いうちに一度は勤めておくべき演目ですが、私は機会がなく少し遅めの40歳での披きとなりました。

(撮影 三上文規)

再演に際して、私は面や装束は出来る限り前回と重ならないよう、違うものを選ぶようにしていますが、今回は40歳初演の時と同じ面と装束を選び、若い頃の雰囲気そのままを再現出来れば面白いのではないかと思い、敢えて同じものにしました。鏡の間で自分の姿を見ていると40歳の時に戻るような不思議な気分を味わい、とても面白く感じました。

(撮影 新宮夕海)

『敦盛』の物語は、蓮生法師(ワキ)の名乗りから始まります。源氏の武将・熊谷次郎直実は、一の谷合戦で16歳の公達・平敦盛を手にかけたことで、世の無常を感じ出家して名を蓮生法師としました。蓮生が敦盛の菩提を弔うため、再び一の谷を訪れ弔っていると、遠くから笛の音が聞こえ、数人の草刈男(前シテ・シテツレ)が笛を吹きながらやって来ます。身にそぐわない風流な男達と笛の故事などを話すうちに、男達は立ち去りますが、一人(シテ)が居残り、実は自分は敦盛の霊であるとほのめかし、弔ってほしいと頼み消え失せます。

(撮影 前島𠮷裕)

『敦盛』のワキは行きずりの旅僧ではなく、敦盛の因縁の敵、熊谷次郎直実すなわち蓮生法師に設定しています。かつて戦で敵同士であった二人が、敦盛は霊として、直実は出家の身・蓮生として、再会することで、劇的に面白くしています。
舞台進行はワキが名乗りのあとに一ノ谷にて弔いの念仏を唱えていると遠くの方から笛の音色が聞こえて来ます。すると「ああ面白い、笛の音が聞こえてきた」と、謡いますが、本来は笛の音は鳴りません。今回はご覧になる方々に実際に笛の音色が聞こえた方が舞台の進行と状況が分かり易くなると思い、笛の杉信太朗氏とワキの宝生欣哉氏にご協力いただき、ワキの念仏の後に短いアシラヒ笛を吹いていただきました。これにより、シテとシテツレの「草刈笛の声添えて」の次第の謡で、笛を吹きながら現れたなあ、とご覧になる方々が想像して下されば・・・と思っての工夫、演出でした。

(撮影 新宮夕海)

この演出は喜多流にはありませんが、金剛流に「青葉之会釈」という小書で存在しますので、まったく新しい演出ではありません。能は観客の想像に委ねるところが多い少し不親切な演劇です。演者はそこにあぐらをかくのではなく、少しでも分かり易くご覧いただけるような工夫は必須です。逸脱しない範囲内で、できる限り分かり易くご覧いただけるように考え対応することは、今の時代とても大事だと思っています。ブログやフェイスブックに能を紹介することで、自身不親切な部分に気づくことがあります。今回も投稿がきっかけで笛の演出が実現出来て、とても有意義だったと思っています。私にとって演能レポートは、頭の整理と過去の演出の見直し、それだけでなく、新たな発想が生まれることにもなり、とても楽しいライフワークです。

(撮影 前島𠮷裕)

後場は、蓮生が敦盛の霊を弔い念仏を唱えると、武将姿の敦盛の亡霊(後シテ)が現れ、平家一門の栄枯盛衰を語り、合戦前の宴を懐かしみ、そして舞を見せ、最後は討死の有様を見せます。敦盛は敵の蓮生に巡り会いましたが、今は敵ではない蓮生法師に回向を頼み消え失せます。

(撮影 新宮夕海)

後場は舞いどころが多く、修羅能の武将は「カケリ」を舞うのが定番ですが、『敦盛』は正規の舞「男舞」を舞う特異な曲です。カケリは舞とも言えないほど短く激しい動きですが、男舞は少しスピーデイーに舞をみせる趣向です。喜多流の敦盛は美青年、16歳の未熟な男として、大人の男に成っていないため、正式な舞の構成の五段の寸法ではなく、短く三段で済ませます。明日、死ぬかもしれないという戦の前に、管弦の宴を催す平家方の優美さ。戦さ場にも女性たちを同行させる平家の人達に対し、荒々しく戦場を駆ける坂東武者では、その勝敗は見えていたのではないでしょうか。

(撮影 新宮夕海)

敦盛は宴で笛を吹き、その笛を陣中に置き忘れ取りに戻ったのが命取りとなります。敦盛が一人逃げ遅れ、熊谷次郎直実と相まみえるようになったのは、笛への愛着、そして何よりも大事なものを置き忘れた不徳のいたすところです。

(撮影 新宮夕海)

カケリを男舞に変えて、音楽好きの貴公子・敦盛を強調した世阿弥の演出は冴えています。しかし、修羅能でありながら、修羅能らしくないところを演じなければいけないのが、演者の注意点かもしれません。後場は平家一門の栄枯盛衰を語りますが、敦盛が修羅道に堕ちて苦しむ様は無く、直実に殺される戦闘場面も短く作られていて、「敵はこれぞと討たんとするに」と、太刀を抜き、討ちかかりますが、すぐに弔いに感謝して太刀を捨て同じ蓮(はちす)に生まれよう、敵ではないと言い終曲します。全く修羅能らしくないのです。

(撮影 新宮夕海)

能は、特に世阿弥は、強い武将を描くより、優美で、美しく散っていった貴公子を描いて名作を多く残しています。『清経』『通盛』『忠度』など、能は亡びの美学、亡びる者への鎮魂の意味があるようで、平家の公達の能を演じると、いつもそのことを感じます。
敦盛が腰にさしていた笛のことを『平家物語』(敦盛最期)では、鳥羽院が敦盛の祖父・忠盛に与えたもので、それが父・経盛に相伝され、才能ある敦盛に与えられたもの、名を「小枝」と言う、と書かれています。一の谷の合戦で源氏の陣地であった須磨寺には、敦盛が愛用した笛「小枝の笛」が「青葉の笛」と呼ばれ、今でも宝物館に展示されているようです。

(撮影 前島吉裕)

能『敦盛』の詞章には、前場で笛づくしの謡がありますが、そこには「小枝、蝉折、様々に、笛の名は多けれども、草刈りの吹く笛なれば、これも名は青葉の笛と思し召せ」と謡い、敦盛の笛が「青葉の笛」なのか「小枝の笛」なのかは、はっきりしません。前シテを草刈男としたのは、草刈笛の説話もあるようですが、「青葉の笛」のイメージも重なっていたのかもしれません。

(撮影 前島𠮷裕)

28年ぶりの『敦盛』、演じるにあたり一番心掛けたのは、クセの仕舞どころや男舞、キリの仕舞どころなどで、若い貴公子になるために、もうすぐ68歳の私が、懸命に若やいで舞おうとしたことです。若いころなら、何も考えずに若々しくできましたが、今はそこに意識を集中して若々しく演じる、そこへの挑戦でした。
『敦盛』はもしオファーがあればまた懸命に勤めますが、おそらく、これが舞い納めとなるでしょう。来年は『頼政』が2回、予定されています。同じ平家物語を本説にしている能でも、『頼政』など、年寄系の能にシフトし、老武者の心を演じたいと考えています。

『敦盛』の出演者(敬称略)
ワキ:宝生欣哉 後見:友枝昭世・内田安信 笛:杉信太朗 小鼓:大倉源次郎 大鼓:佃 良勝
(2023年9月 記)

まほろば唐松 定期能公演投稿日:2023-08-11

喜多流8月自主公演投稿日:2023-06-21

 

『三輪』を勤めて 三輪明神を男神と意識投稿日:2023-03-24

『三輪』を勤めて
三輪明神を男神と意識

第105回・粟谷能の会(令和5年3月5日、於:国立能楽堂)で『三輪』を勤めました。私の『三輪』初演は平成6年、広島花の会で、その後、平成19年に粟谷能の会(粟谷菊生一周忌追善)にて小書「神遊」に挑戦し、平成29年に広島薪能で勤め、今回は4回目です。小書への取り組みは、新しい視点から能を深く掘り下げる作業ができるので、色々と勤めて参りましたが、特に小書「神遊」は若い頃からの憧れでもあり、その経験がその後の演能にとても役に立っています。しかし今回は敢えて小書を付けず、『三輪』の本質を知りたいと選曲しました。

故・観世銕之亟先生(観世静夫先生)は「能を大別した時、神の能と仏の能があり、私は神様の出現する能の方が大好きです」と、おっしゃっておられました。今回勤める『三輪』はシテが三輪明神、ワキは高僧の玄賓僧都(げんぴんそうず)で、神様と仏様の両方が絡んでおり、また、三輪明神が男神と女神の諸説あり、どちらを想定するかで演じ方も変わると思います。
「神と仏」「神と衆生」「男と女」、現代人ならば、しっかり区分けしたいところですが、逆に分けない曖昧さが能『三輪』の魅力であり面白さかもしれません。私は今まで女神を想定して勤めてきましたが、今回は男神の意識で勤めてみました。
この観点に立てたことで、今回新しい試みが出来て、しかも少し本質に近づけたという手応えを感じ、素直に喜んでおります。
三輪明神を男神と考えると、おのずと装束選びも違ってきます。私は演能の手引きとして、伝書を主体に、諸先輩からの伝承と、そして演能写真も大きな手掛かりにしています。『三輪』で、心を動かされた写真が二枚あります。一枚はモノクロの観世寿夫氏の大口袴を着流しに替え、蔓帯をしないお姿です。「寿夫先生は、三輪明神に王朝風の蔓帯は似合わないと考えられ、外されたのだ」と従兄の能夫が説明してくれ、能は決まり事でがんじがらめではなく、色々な工夫が出来る余白があることを教えてくれました。能の可能性に目覚めた一枚です。今回は男神として演じるために着流しにはいたしませんでしたが、蔓帯は外しました。


(「観世寿夫至花の風姿 平凡社より)

そしてもう一枚は56世梅若六郎先生の写真集の白地狩衣に浅黄色の大口袴、面は「十六中将」の男顔のお姿です。
これを見たときは、さらにすごい衝撃が走りました。通常の緋大口袴に長絹の女姿とがらりと違って、まさに男神を具現しています。この写真は男神を意識した演出の大きな原動力となり、白地の狩衣と浅黄色の大口袴の装束はすぐに決まりました。面は敢えて女顔にこだわり、本来のかわいい「小面」ではなく、クセの詞章を考えて、やや艶のある大人びた「増女」にしました。


(56世梅若六郎 能百舞台より)

ここで、『三輪』のあらすじを簡単に記しておきます。
三輪山に住む玄賓僧都(ワキ)の庵に、三輪明神が里女(前シテ)に取り憑いて、樒(しきみ:仏前草木)と閼伽の水(あかのみず:仏前に供える水)を毎日供えに通っています。里女は玄賓に取り次いでもらうと、僧に救済を求め、衣を一枚所望します。受け取って帰ろうとすると、住処を尋ねられ、里女は三輪明神の神詠を引き、杉の立つ門を目印に訪ねて来て、と言って、姿を消します。

【中入】

玄賓が教えられた場所に行くと神木に与えた衣がかかっていて、金色の文字で歌が書かれています。読むと、女の顔をした三輪明神(後シテ)が現れ、衆生(人間)の罪を助けてほしいと願います。そして、神代の昔物語は衆生のための方便であると語ると、神婚譚や天の岩戸の前の神楽を再現して見せ、最後に三輪と伊勢の神は同体である、と告げ、夜明けと共に姿を消すのでした。

能『三輪』はなかなかわかりにくい曲です。演ずるにあたり私のいくつかの疑問の私なりの答えをご紹介いたします。
先ず、三輪明神はなぜ里女になり、しかも神が仏に救いを求めるのか?
神はつい万能と思ってしまいますが、能の世界では神が人間界に降りられ力を発揮するには、人に取り憑かなければならない設定が多いです。
能『三輪』では、高僧の玄賓僧都に毎日樒・閼伽を供え、「憂き年月を三輪の里に過ごしている」と嘆く仏を信仰する里の女に三輪明神は取り憑きます。そのため神が玄賓僧都に救いを求める不思議な現象となりますが、これは神が人間救済のために、身を犠牲にし、時には人間になって、人間の迷える心、老いの苦悩も共に苦しみ、我々衆生を救済して下さる、と考えると何とも有難いお話で、腑に落ちます。
ということで、三輪明神は里の女の嘆きを助けるために天より降りられ取り憑いた、と考え勤めました。


(前シテ 撮影 吉越 研)

次に後場の見どころとなる二つの昔物語、神婚譚と天の岩戸隠れの話をどうしてここで紹介されたのか? 
答えのヒントは序のシテと地謡の謡にあります。「それ神代の昔物語は末代の衆生の為、済度方便の事業(ことわざ)、品々以て世の為なり」と、昔物語は人々を救う手立てであるということで、神婚譚や天の岩戸隠れの話を選ばれたのは三輪明神の済度方便のお考え、と思うと、これも腑に落ちます。

この神婚譚のクセはとてもエッチで面白い内容です。大和に住む夫婦の女が、夜にしか来ない男に「昼もいらして」とおねだりをすると、男は「昼は恥ずかしい、そんな事を言うならもう会わない」と別れを告げます。女は別れを悲しみ男の住処を知ろうと裳裾に糸を付け、糸を手繰って住処に辿り着くと糸は杉に絡まっていました。能に「蛇」の詞章はありませんが、説話では杉の下に蛇がいたとされています。女は「私の相手は杉?」「えっ、私は蛇と・・・・・」。
こんなエロチックなお話を三輪明神が謡い舞って玄賓に見せますが、ここはさらさらと、軽快に進めると舞台効果が上がると思い、地頭の友枝昭世師にお願いして軽く謡っていただきました。これはとても好評で、自身満足しています。

神婚譚の後、玄賓は「もっともっと聞かせて、見せて」とねだるので、明神はさらに続けます。
天照大神が岩戸隠れをなさり、世の中が暗闇となったため、岩戸から出てきていただこうと、八百万の神たちが岩戸の前で楽しそうに歌声をあげたのが神楽の始まりであると、その有様を見せます。


(観世流・故 山中義滋氏) 

「神楽」は、御幣を使って舞う流儀もありますが、喜多流は中啓(扇)で舞います。これは三輪明神が巫女に取り憑いて舞うのではなく、明神自身が舞われることを意味します。能の基本的な作風は、前場で化身として現れ、後場で本来の姿になって登場するものです。喜多流の『三輪』は前場で里女に取り憑いて現れ、後場で本来の三輪明神が出現するので、正に基本形、理にかなっていると思います。


(後シテ 撮影 吉越 研)

『三輪』の神楽は神楽と神舞の2部構成です。私は前半の神楽は天鈿女命(あまのうずめのみこと)のイメージで、リズム良くワクワクするような雰囲気で舞い、後半の神舞はガラッと変わって、手力雄命(たぢからおのみこと)が岩戸を開ける情景を力感溢れる舞でお見せしたいと思いました。神楽は地謡の声が入らず、囃子方4人とシテだけの世界となります。シテは笛や小鼓、大鼓、そして太鼓の音色に合わせて舞いますが、ここは能役者の舞の技量が計られるところです。今回のお囃子方(笛・松田弘之、小鼓・鵜澤洋太郎、大鼓・亀井広忠、太鼓・小寺真佐人)の素晴らしい神楽に乗って舞うことが出来たことも、大きな喜びでした。


 
『三輪』のシテは一人で何役もこなします。前シテでは里女になり、神婚譚では妻の女と夜しか来ない男にもなります。神楽で天鈿女命と手力雄命になり、最後は岩戸を開けて姿を現す天照大神にもなってしまい、一人六役です。それを三輪明神として姿、恰好を変えずに目まぐるしく変化・展開するのですから、ご覧になる方は「今、何に変身しているのか?」を、常に想像して見ていただけると、舞台進行がお分かりになるのではないでしょうか。

最近、加齢してせっかちになったのかもしれませんが、能の演能時間が必要以上に長く感じることがあります。
地謡で昔、父・菊生と一緒に謡っていたときは、すべてが乗りよく謡っていたように思い出します。静かにゆっくりでもテンポ良く、ご覧になる方がワクワクするような、観ていて、聞いていて楽しくなるように、それが悲劇であっても同様に演じたいです。演者も観客も心の興奮が起きる舞台こそ、世阿弥が説く「華(花)」です。
「えっ、もう終わったの?」と、ご感想をいただけたら、演者たちの勝ち、「まだ演るの?」と観客に時計を見られたら演者たちの負け、と思っています。今回、80分の演能時間を「区間新記録ですね」と、仲間から冷やかされましたが、「その通り! 新記録」と、笑って答えました。

今回も様々な新しい試みをいたしましたが、いつも一緒になって考え協力してくれる仲間がいることが有難く、感謝しています。仲間がいるから今日までやってこられた、とつくづく思います。多くの人の支えがあって私の今があるのです。
能には面や装束、型など、色々な決まり事がありますが、実は幅広く対応する懐の深さを備えていることを教えてくれ、様々な工夫をし、挑むことの喜びを熱く語ってくれたのは、今残念ながら休演中の従兄の能夫です。能の懐の深さを知ったことが、私がこれまで演能を続けてこられた一因で感謝しています。
能夫の復帰を願っています。              
写真提供 『三輪』撮影 新宮夕海 (2023年3月 記)

※広島蝋燭薪能(会場変更)投稿日:2023-03-24

※会場が「JMSアステールプラザ能舞台」に変更になりました

高知県能楽鑑賞会能投稿日:2023-01-24

『大江山』を勤めて投稿日:2022-12-26

『大江山』を勤めて
騙されるのは鬼 騙すのは人間

鬼退治を題材にした能『大江山』を喜多流自主公演(令和4年12月18日)で勤めました。『大江山』の初演は平成11年6月、同じ喜多流自主公演で、今回は実に23年ぶりの再演です。お相手のワキ(源頼光)は初演のときと同じ殿田謙吉氏で、お互い23年の齢を重ねての共演となりました。

まずは、物語のあらすじを簡単に記します。
「大江山の鬼を退治せよ」との勅命を受けた源頼光一行が山伏姿に変装して大江山に向かいます。大江山に着くと、血染めの衣を洗う女(アイ)の案内で、鬼の頭領・酒呑童子(前シテ)に近づき、一夜の宿を乞います。童子は出家の人には手を出さないと決めているとして、一行を素直に迎え入れ、酒宴を開き歓待し、やがて泥酔して寝室で眠りにつきます。
(中入)
夜更けを待って、武者姿となった頼光一行が寝室に討ち入ると、童子は身の丈が2丈(6メートル)の鬼(後シテ)になっていて、自分を騙したことを怒り、凄まじい勢いで襲いかかります。しかし、ついに鬼は首を討たれ、頼光一行は喜び勇んで都に帰ります。

酒呑童子は『大江山絵詞』や『御伽草子』、『酒呑童子絵巻』などに、財宝を盗んだり、京の女をかどわかしたり、悪事を働く鬼として描かれています。ゆえに「大江山の鬼を退治せよ」との勅命が下り、鬼退治の武勇伝が出来るのも自然です。

しかし、能『大江山』の前場の酒呑童子にはその悪い鬼のイメージがありません。お酒が好きで呑むと赤ら顔となり、童心を失わず、無邪気で、敵意も害意も示さず、素直に心開いて身の上話をし、自ら歌い舞って酒宴を盛り上げます。このあたりが、この能の見どころにもなっています。私も酒好きなので、酒呑童子の気持ちになって楽しく勤める事が出来ました。

さて、童子の身の上話に耳を傾けてみると、どうやら、彼らはもともと比叡山を栖にしていた先住民族のようです。そこに大師坊(天台宗の開祖・最澄)という似非者がやってきて、根本中堂(延暦寺)を建て、麓には七社の霊神を祀り、仏たちも組みして「出て行け、出て行け」と責め立てるので、ついに追い出されてしまい、それからは飛行して転々としたが、都が懐かしくなって都にほど近い大江山に隠れ住み着いた、と語ります。

この経緯を素直に読めば、悪は大師坊となりそうですが、追い出された大江山の童子たちが、悪事を働くと悪者にされ、退治される運命になります。しかも、退治する側の頼光一行は武者であることを偽り、山伏姿になって近づき、うまい酒と偽って、鬼が飲めば五体の自由を失う酒を飲ませてしまいます。また、隠れ家は人に知らせないから安心しろ、と約束しながら、それも守らず鬼退治です。

このように、騙されるのは鬼 騙すのは人間、です。
無邪気に山伏達を信じ歓待した鬼は怒りに震え「情け無しとよ、客僧達。偽りあらじと云いつるに。鬼神に横道無きものを」の名セリフを吐いて襲い掛かります。
しかし、最後に勝つのは騙す側で、騙される側は退治されてしまいます。なんという理不尽。ときの権力者が領土拡大をしようとするとき、そこに住み着いていた先住民族や抵抗勢力は邪魔者です。そのとき、邪魔者を悪者・鬼に仕立てあげ、排除すべき存在として正当化し、追い出すというのは権力側の上手いやり方、現在にも通じるかもしれません。

能の作者はパトロンでもある体制側に逆らうことはできませんから、『大江山』では後場で胸のすくような鬼退治を見せて、体制側に軍配を上げます。それでも、前場で、退治されるべき鬼をただ悪者にするのではなく、愛すべき存在として描くことで、権力に対し秘やかな抵抗を試みている、と私は思います。

とはいえ、能『大江山』は物語がシンプルで、動きもあり素直に楽しめる能です。
ワキと従者(ワキツレ)の六人が舞台狭しと向き合って連吟するスタートは、勇壮な鬼退治の物語の始まりを予感させます。大師坊が追い出しを謀ったときに、童子が抵抗して「一夜に三十余丈の楠となって奇瑞を見せよう」とした話や、比叡山を出てから霞に紛れ、雲に乗り、筑紫や彦山、大山、白山、立山、富士と飛行した話など、空想的、童話的な要素もあり面白いところです。アイの洗濯女と剛力のやり取りも、おとぎ話そのままで面白く楽しめます。もちろん、後場の鬼と頼光らとの戦いぶりは見ていて心躍るところです。
ご覧になる方には、この鬼退治の能をただただ楽しんでいただければ良いのですが、ここに書いたような裏話を少し心にとどめて見ていただけたら、と、これは演者としての思いです。

今回前場の装束は、初演のときと全く同じでは面白くないので、半切を変えてみました。
面は粟谷家に、かわいい顔の出目半蔵打の名品の「童子」がありますが、酒呑童子の本性が見え隠れするような表情がほしくなり、少しひねくれた感じの「童子」を拝借して勤めました。
謡い方も、本来は面の「童子」に合わせて謡うべきですが、この曲は特別で、体の内に鬼という荒い正体を抱えているイメージが観る側に伝わらないと演者としては失格です。やや荒く強く「童子なのに、なんだか不気味」と、思っていただけるような謡い方が吉だと思います。

後場の装束も、以前勤めた『羅生門』と同じでは代わり映えしないので、金地に紺色の派手な法被を拝借して、面も通常の「顰(しかみ)」ではなく、よりスケールの大きな「大顰(おおしかみ)」を拝借しました。
鬼の動きは豪快に荒く、大きな動きで演じるのが心得ですが、ともすると速く動けば良い、と誤解しがちです。鬼は適度なスピードと型の切れが演じるうえで大事です。動き過ぎるとかえって小さく見え逆効果になることを、演者は早めに体得することが大事だと思っています。

今回、久しぶりに『大江山』を勤めて、私自身は楽しく勤められました。幽玄の能とは違って、演技的にはストレート勝負ですが、この曲に込められた裏側を知っていただけたら、酒好きの酒呑明生としては、とても嬉しく心地よい酔いに浸れそうです。

写真提供 
新宮夕海 前島写真店 (2022年12月 記)

第105回 粟谷能の会投稿日:2022-12-01

喜多流12月自主公演投稿日:2022-11-15

『杜若』を勤めて投稿日:2022-07-11

『杜若』を勤めて
メインは杜若の花の精

初夏の水辺に美しく咲く杜若。本格的な夏の暑さの前の涼しげで凛とした姿に目を楽しませる人も多いのではないでしょうか。かく言う私もその一人ですが、そう感じるのは大人いや高齢者の証なのかもしれないと微妙な心境でもあります。
その杜若の精をシテにした能『杜若』を6月の喜多流自主公演(2022年6月26日)で勤めました。『杜若』にはちょうどよい季節の演能のはずでしたが、当日は猛暑、異例の早い梅雨明け宣言が出るほどで、初夏の情緒とは程遠い状況でした。それでもこの時期に、『杜若』を勤めることができたことを喜んでいます。


(前島写真店提供)

私の『杜若』初演は昭和62年6月27日の「妙花の会」で、ちょうど35年前でした。当時の動画を見ると、笛・一噌仙幸先生、小鼓・鵜澤速雄先生、太鼓・観世元信先生がいらっしゃり歴史を感じますが、皆様あちらに行かれてしまい、今は大鼓の佃良勝先生お一人になってしまいました。残念至極です。

2回目は初演の7年後、平成6年7月30日「青森薪能」(外ヶ浜)にて、そして3回目はそれからかなり時が経ち21年後、平成27年8月30日「唐松まほろば能」(秋田県大仙市)と、両方とも小書「働キ」で、曲(クセ)などを省略する特別演出で勤めました。
今回はそれから7年後で4回目。久しぶりに小書無し、省略無しで勤めました。

まずは『杜若』の簡単なあらすじをご紹介します。
諸国一見の僧(ワキ)が都から東国へ旅を重ねて三河(愛知県)に着くと、沢辺に杜若が美しく咲いています。見とれていると里女(シテ・杜若の精)が現れ、昔ここで在原業平が「かきつばた」の五文字を各句の頭に置いて、
「唐衣 着つつ馴れにし 妻しあれば 遥々来ぬる 旅をしぞ思ふ」
と歌に詠んだ故事を教え、僧を自分の庵に案内します。(物着)
女は冠(業平の五節舞のときの冠)と唐衣(二条后・高子の御衣)を着て僧の前に現れ、自分は杜若の精であり、業平は歌舞の菩薩の化現であるので、その詠歌の功徳により非情の草木も成仏したと教え、僧に舞を見せながら消えてゆきます。

ご覧になる方は、まず、脳裡に紫色のスクリーンを張り、尾形光琳の絵のような美しい杜若を思い描いて、あるときは花の精、あるときは・・・、花の精→業平→高子→歌舞の菩薩と、万華鏡を回すように見ていただく感覚ではないでしょうか。かといって、どの部分が業平で、高子でという、はっきりした区別はなく、それは見ていただく方のご想像にお任せして、その変化をご自由に楽しんでいただければ良い、と思います。

私自身は演じていて、『杜若』という能は、やはり花の精がメインだと今回勤めて感じました。
前半は「伊勢物語」の九段「東下り」の中でも、三河の八つ橋に着いたときのこと、杜若が美しく咲いている光景を見て、「かきつばた」の歌を詠じた話です。いろいろな恋の物語がある「伊勢物語」の中からこの箇所の杜若に着目し、能の題名も杜若、シテも杜若の精にするあたり、作者・世阿弥の才を感じさせられます。杜若の美しい情景に心を寄せながら、業平と高子の恋の香も少し混ぜ、全体に「伊勢物語」の雰囲気を立ち昇らせているのは世阿弥の若いときの感性という気がします。

後シテの姿は前回同様、初冠に「日陰の糸」を垂らし、杜若の花を挿頭しました。まさに花の精を象徴する形です。「日陰の糸」はおしゃれで華やかさが増しますが、喜多流では使用しません。他流では珍しいものではありませんので、喜多流にはなくとも「能にはある」という友枝昭世師のお言葉をお借りして、私も「能にはある!」を信条として拝借して付けて勤めました。

「伊勢物語」を本説にした能は、『井筒』、『雲林院』、『隅田川』などありますが、どれも「物語」があり単純ではありません。それに対して、『杜若』は深刻な恋の悩みやメッセージがあるわけではなく、絵画のようで、他のものとは趣が違います。
観世流の梅若桜雪(六郎)氏は「これはただ単に観て何かを感じていただく、それが杜若の精であってもいいし、業平の姿を重ねてもいい、理屈抜きで何かを感じとってもらう作品」と、書かれています。亡父・菊生も「あまり深刻にならず、綺麗に気品をもって、そしてところどころに女性の優しさを盛り込めるといい」と言っていまして、私もまさにその通りと思っています。

今回、お相手いただきましたワキ(旅僧)の福王和幸氏は、坦々と軽い感じで謡ってくださいまして、とても演りやすく感謝しています。このワキは特別に偉い僧でもなく、花好きで、美しい杜若を愛で、そこに現れた女性に軽く問答をする役どころです。若者が『杜若』を手がけると、どうしても慎重に演じる意識が強くなり鈍重で堅くなってしまいます。しかし、この軽みがこの能には必須で、軽くさらり演じるところに、この曲の本線があるように思います。

この能は世阿弥作(一説)とされていますが、舞台上で物着をする構成で、やや古い作品ではないでしょうか。世阿弥が複式夢幻能を完成させる前の段階の作品ではないかと感じます。
複式夢幻能では前場と後場の2部形式で、舞台上で装束を替えることを避けました。
『杜若』の場合は舞台上で長絹を着て初冠を付け、太刀をはき、と後見は懸命に短時間の着付けを目指しますが、ご覧になる方には、着替える時間が長いと感じられる方もおられるようです。そのストレスを解消するために、中入りしてゆっくりと装束替えをする複式が生まれたのではないでしょうか。

そして最後、「御法を得てこそ帰りけれ」で終曲しますが、演じ終えて、自分はどこに帰っていくのだろう?と、正直、心もとなくなりました。
僧の夢の中に帰るのでもなく、死者としてあちらの世界に帰るでもなく・・・。シテは杜若の花の精で、現実の女でもなく、死者の化身(霊)でもなくというのも、何か説得力がなく、整理されていないような、未完成な印象を受けます。
ここからいろいろ改善を試み、複式夢幻能という形が確立されていったのでは・・・、そんなことは深く考える必要はない、と先人にお叱りをうけそうですが、気になった自分がおかしくてたまりません。

今回は初回以来久しぶりにクセを舞いました。2回目、3回目は演能時間のこともあり、序からクセまでを省略し序の舞に工夫をこらす演出にして演出効果をあげましたが、序からクセには「伊勢物語」はどのようなものかを語る美しい詞章が連なり、クセの舞は長い二段曲(にだんぐせ)で型も多く、非常に遣り甲斐があり面白い見所でもあります。今回、ここを省略無しで正式に勤めたことで、作者の本来の思いを身体で感じ取ることが出来ました。

クセの舞は謡と型がきれいに合っていないと失格です。遅れたり早すぎては駄目で、演者が謡のスピードに合わせてしっかり型をはめていかなければなりません。この意味で、若い能楽師にとって『杜若』は課題曲にもなっているのでしょう。しかし、齢を重ねた今、単に謡と合わせるという基本的な運動能力にとどまらず、何かを加わえて世阿弥の意図を引き出す、それが役者の魂、役者の華、というエネルギーの発散によって表現されなくてはならない、と偉そうに勝手に思っています。


 
クセの舞の中、「秋風吹くと」のところで、亡父・菊生が好んだ替之型で勤めました。蛍が飛んでいるのを見廻しながら「秋風吹くと」で扇を左肩へうけ、遠くの空を見るような所作です。これは「伊勢物語」四十五段、男を思いながらも病んで亡くなった女を悼む歌から「飛ぶ蛍の 雲の上まで行くべくは 秋風吹くと・・・」と謡われるところです。父が好きだった『杜若』。父のかわいらしい所作を思い出しながら真似てみました。

今回の面は、最近愛用している「小面」を使いました。父は堰(せき)の銘が入った小面を愛用し、「違う小面を使うと、浮気しちゃ嫌よ、と言われそうで、いつもこれを使っています」と、宮中の美智子皇后様にもお話したのは有名ですが、私も同じようになってきたのかな? というわけで、特に銘は入っていないこの小面が気にいっています。

今年は3月に粟谷能の会にて粟谷菊生十七回忌追善能を催しましたが、演能のたびに、父の姿がまぶたに浮かび、今も私の中に生きているのだと感じさせられます。父の能を思う猛暑の夏となりました。                       

写真提供 シテ粟谷明生 撮影 新宮夕海
モノクロ写真 シテ粟谷菊生 撮影 あびこ喜久三

三役
ワキ 福王和幸
笛 栗林祐輔
小鼓 観世新九郎
大鼓 大倉慶乃助
太鼓 金春惣右衛門

(2022年7月 記)                                             

『夕顔』「山の端之出」を勤めて投稿日:2022-05-25

『夕顔』「山の端之出」を勤めて
夕顔の不安と哀しさ優雅さ

国立能楽堂の5月の定例公演(2022年5月11日)で『夕顔』を勤めました。
源氏物語の『夕顔』の巻を本説として、夕顔という女性の霊を主人公にした曲は『夕顔』と『半蔀』の2曲があります。私、3月の粟谷能の会にて『半蔀』を、今回、5月に『夕顔』と、短い間にこれらの2曲を勤める事となりました。これまで同じような曲が続く事を避けてきましたが、今回このようになってしまったのは私の不徳のいたすところです。それでも勤め終えてみると、両曲を見比べるよい機会になり、面白い発見もありました。

さて、夕顔はどのような女性なのでしょうか。頭中将にみそめられ玉蔓を生みますが、中将の妻の右大臣家から追われ、五条あたりの荒家に隠れ住むことになります。そして光源氏との出会いとなり、誘いに乗って逢瀬を重ね、なにがしの院で物の怪に取り憑かれ儚く短い一生を終えます。

能『半蔀』(作者は内藤左衛門)は源氏と夕顔の出会いに焦点を当て、夕顔が源氏との恋を懐かしむ様子を、夕顔の花と重ねて美しく戯曲されています。
一方、『夕顔』(作者は世阿弥)は夕顔という女性の霊が、儚く亡くなる悲しい出来事を主軸に、源氏の誘いに自らをコントロールできなかった自身の過去を懺悔し、僧に弔いを願う展開です。光源氏との深い契りを忘れられず、僧の弔いで成仏するという、夕顔の心の揺れ動きを主題として構成されています。

今回の『夕顔』は国立能楽堂から小書「山の端之出」で出演を依頼されました。
この小書は、シテ(女・夕顔の霊)の「山の端の心も知らで行く月は 上の空にて影や絶えなん」の謡を見所の鑑賞者にはご覧になれない幕の内から謡います。
すると、ワキ(旅僧)が「不思議やなあの四阿(あずまや)より、女の歌を吟ずる声の聞こえ候、暫く休らひ歌の主をも見ばやと思ひ候」と、受ける形になり、通常の謡の順序が逆になります。

この「山の端の・・・」という歌は「山の端の心=光源氏の心」も知らないで「行く月=行く私」は上の空・・・と、夕顔が源氏に誘われ、なにがしの院に行くときの不安な気持ちを詠ったもので、夕顔の心情を表す大事な歌です。小書「山の端之出」はここを強調する演出です。

演者としては、幕の内から見所の隅々まで声を届かせる声量が必須です。もちろん能における女性の声として届かせなければいけません。鑑賞者に謡が聞こえなかったら演者失格です。終演後、よく聞こえました、とのご感想をいただき、ほっと安堵しております。

この小書、本来はワキの言葉の後に、囃子方の囃す一声にてシテの登場となりますが、今回はアシラヒ(囃子による明確なリズムを伴わない演奏)を打っていただき、姿を見せると「巫山(ぶさん)の雲は忽ちに・・・」と、鼻歌を口ずさむように謡いながら登場することにしました。以前はこの歩みながら謡う事は平気でしたが、馬齢を重ね肉体的にきつく感じるようになったのは少し残念でした。とは思いながらも、どうにか粗相なく出来た事を素直に喜んでおります。また今回は、下げ歌と上げ歌を省略しました。遠くから「山の端の・・・」の歌が響き、女の姿が見えて鼻歌が聞こえてくるとすぐに、旅僧と女の問答となる方が、作品が引き締まると思ったからです。今回、小鼓の観世新九郎氏、大鼓の亀井広忠氏に、この事をご理解いただき、私の「山の端之出」にご協力いただけたことに感謝しております。

『夕顔』の舞台は、源融の大臣の住んでいた河原の院です。今は廃墟となった「なにがしの院」を序やサシ、クセにて繰り広げます。

このクセは居グセです。動きがほとんどなく、見る側は地謡の詞章を聞き、動かないシテの心情を想像します。作者の世阿弥は見る側が源氏物語の夕顔の巻を知っていることを想定して作っています。私も夕顔の巻を知らない青年期は、内容がわからず、つまらない能だと敬遠していましたが、今はそれなりに面白く思うようになりました。しかし、こんな難しい課題を戯曲にした世阿弥の手腕にはただただ感心すると同時に、見る側の鑑賞力も期待されているのだと感じさせられます。

後場は読経に引かれ、シテ(夕顔の霊)がゆっくり現れ「あら有難の御経やな」と、僧に感謝します。この「あら有難の御経やな」の謡は下掛り(金春、金剛、喜多流)にしかなく、上掛り(観世、宝生流)は、いきなり「さなきだに女は五障の罪深きに」と謡い出します。上掛りにない「有難の御経やな」を敢えて謡う喜多流の演出は、旅僧への感謝の気持ちが、込められていて、これが本曲のテーマになっているのではないでしょうか。
ここは丁寧に思いを込めて謡いたいところです。

供養と読経を経て、「優婆塞が行ふ道をしるべにて 来ん世も深き契り絶えすな」と謡うと、夕顔は序ノ舞を舞います。序ノ舞は能という芸能でしかできない表現です。演者は決められた型の舞を寸法通りに舞うだけです。鑑賞者はその舞から自由に想像し、演者は想像力に委ねます。
例えば、昔を懐かしんでいる、いや過去を後悔して改心している、読経のお返しにきれいな舞を見せる感謝の舞、読経により成仏できた喜びの舞と、といろいろな見方があって良いと思います。そこが能の面白さ、能でしか味わえない世界ではないでしょうか。

このところ私の演能は序ノ舞が続いてしまいました。粟谷能の会の『半蔀』、喜多流自主公演の『西行桜』、広島蝋燭薪能で『羽衣』、そして今回の『夕顔』、私自身も少し食傷気味で、本三番目物ではありますが、定型の型ではなく、袖をかつぐ型など、やや派手な印象の替の型の序ノ舞にしました。

序ノ舞が終わると「お僧の今の弔いを受けて、数々嬉しや」と夕顔は「笑みの眉」を開き、変成男子となって解脱・成仏します。現代の女性からは、「男子に変わって成仏? なにそれ!」と、お叱りを受けそうですが、当時の仏教思想、法華経では、女性の救済は男性に変成してはじめてなされるという考え方なのです。ご不満に思われる方はたくさんおられると思いますが、ここは能という演劇として受け止めて、夕顔の哀しさ優雅さを鑑賞していただきたいところです。

そして夜が明けぬ間に、夕顔の霊は姿を消して終曲します。
通常は常座で留拍子を踏んで終曲となりますが、今回は、敢えて視覚的にも分かりやすくご覧いただきたく、謡の中で入幕としました。

演じるにあたり、面は本来「小面(こおもて)」、若い女性の面が決まりですが、私の夕顔像には似合わないと思い、やや大人びたきれいな女性の「宝増(たからぞう)」にしました。

装束について、『半蔀』も『夕顔』も伝書には白色や紫色の長絹に緋大口袴と記載されています。今回、3月の『半蔀』の白色長絹に緋色大口袴と変えてみたく、少し冒険でしたが浅黄の大口袴にしました。ご覧になられた方はどのように思われたでしょうか。
短い期間に2曲を勤めることで装束を替える発想が起こった事が面白く、私自身、装束選びを楽しめたのは貴重な経験でした。

今年の私の演能は上半期に集中してしまい、あとは6月喜多流自主公演『杜若』、12月喜多流自主公演『大江山』を残すところとなりました。
コロナ感染症は、いまだに終息したとは言えない状況です。そのなかで、私自身は感染しないように気をつけてきましたが、もし感染したら・・・という不安が常にありました。

コロナ対策により、感染していなくても濃厚接触者となってしまうと何日かの自宅待機が義務づけられ、舞台に立てない事も起きるかもしれません。これから代演者の手当てが出来ず、興行が中止になることもあり得ます。PCR検査で陽性になり、症状が出て苦しいならば仕方がありませんが、何の症状もなく、ただ濃厚接触者であるというだけで舞台に立てないという状況はどうでしょうか。
医療従事者や保育士などでは待機日数の縮小も考慮されました。
演劇の世界が、これからコロナ対策をどのように考え対処するか、少し角度を変えて考える時期が来ているのではないでしょうか。             (2022年5月 記)

写真提供:国立能楽堂

『西行桜』を勤めて ー西行に会いたかった桜の精ー投稿日:2022-05-06

『西行桜』を勤めて
西行に会いたかった桜の精

厳島神社の桃花祭・神能での奉納(4月16日~18日)を終えた翌日、京都に立ち寄って、勝持寺など西山方面の寺々を巡ってきました。
勝持寺は西行法師が出家し庵を結んだ場所です。境内には100本もの桜の木が植えられていて「花の寺」として親しまれています。西行が植えた枝垂れ桜は「西行桜」と呼ばれ、能『西行桜』の舞台となっています。

鐘楼堂の隣にある西行桜は花の盛りは過ぎていましたが、他の桜が少し残って私を迎えてくれました。5日後の喜多流自主公演(2022年4月24日)で『西行桜』を勤めるにあたって、演能前、「西行桜」に能『西行桜』の成功祈願をしてきました。

能『西行桜』の物語は都の西山にある、西行の庵(現在の勝持寺)が舞台です。世俗の騒がしい花見客をあまり快く思っていなかった西行(ワキ)は花見禁止令を出しますが、それを知らない都の花見客達(ワキツレ)は、今日も大勢で訪れ、当然のように案内を乞います。西行は無下に断れず、花見客達を庭に招き入れますが、静かな環境を破られた思いを、
「花見にと 群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の科(とが)にはありける」
(花見を楽しもうと人が群れ集まるのは桜の罪なのだ)
と、歌に詠み、そして花見客達と一緒に桜の木陰で一夜を明かすこととなります。

本来、一緒に眠るのですから、花見客達は舞台に留まらなければいけないのですが、能はその後、老人(シテ・老桜の精)と西行(ワキ)の二人だけの世界を繰り広げるために、敢えて花見客達を切戸口から退場させます。そして西行の夢の中に老人が現れ、舞台は二人に焦点が絞られ展開していきます。

老人は西行に
「いや浮世と見るも山と見るも、ただその人の心にあり、非情無心の草木の花に浮世の科はあらじ」(いや違いますよ、すべての現象はその人の心次第、草木には心が無いのだから、花に罪は無いでしょう)
と、西行の詠歌に異議を唱えます。西行はすぐに納得し、老人の正体を尋ねると老人は老木の桜の精と明かし、会えたことを喜び、都の花の名所の数々を紹介します。そして名残を惜しみ舞を舞い、夜明けと共に姿を消し、西行の夢はそこで覚めて、終曲します。

能『西行桜』は最初に、桜の木(塚)が舞台中央に据えられ、西行と従者(アイ)が登場し、アイの花見禁止令の触れから始まりますが、シテはその作り物の中で待機しています。作り物の引き廻しが下りて姿を現すまで、25分ほど、舞台進行の3分の1強が西行と花見客とのやりとりに費やされ、その間、シテは狭い作り物の中でじっと待機を強いられます。装束も面もきちんとつけた状態なので、じっと動かないでいるのは思いのほか難儀です。実際、脚が硬直して、作り物から出てよろけてしまうことも過去にはあったようです。

父・菊生は『西行桜』を勤めておりません。長い作り物での待機や、観世寿夫氏の最後の舞台が『西行桜』だったことが気になり避けて、生涯『西行桜』を勤めることはありませんでした。一度は甥の粟谷能夫に勧められて平成10年「第63回粟谷能の会」で勤める決心をしましたが、気弱になり『羽衣』舞込に変更してしまいました。そのとき、能夫の「あたら『西行桜』の科にはありける」と放った言葉は面白く、今でも懐かしく思い出されます。

さて、『西行桜』を勤めるにあたって、この老人、爺さんはどんな爺さんなのだろうか、どのような気持ちで勤めたらいいのだろうか、とずっと考えてきました。
老人は西行の「桜の科」という歌に対して文句をつけに現れますが、実はそれを口実にして、西行に会いたかったのではないでしょうか?
西行も桜の精の抗議に対して「これは理(ことわり)」とすぐに非を認め、よって論争にはならず、老木の精も「有難や上人の御値遇に引かれて」と、会えた喜びを素直に吐露しています。

春を満喫し、桜の名所を教え、西行と過ごす時間を楽しみますが、時の流れは速く、すぐに別れが訪れると思うと名残惜しくなるのです。シテ謡の「あら名残惜しの夜遊やな、惜しむべし、惜しむべし、得難きは時、逢ひ難きは友なるべし・・・」は正に老桜の精の心情ですが、この言葉は、そのまま私自身にも、また観客の皆様にも身に沁みる言葉ではないでしょうか。西行と過ごすその時だけでなく、人は人生そのものを惜しむのである、と作者・世阿弥が発信しています。それが自然と素直に私の身体に浸透するようになったのは、人生の残り時間を意識するようになってきたからでしょうか、時間の大切さを痛感します。

老木の桜の精が舞う序ノ舞、正直私はこの舞がなにを伝えようとして設定されたのかは、まだ判りません。西行に夜遊の舞を見せているのか、西行に会えた喜びを身体で表現したかったのか・・・。ただ演者としては、老木の精らしく舞うことだけを考えていましたが、その真意はわからないままです。
きっとご覧になる方の自由な想像でよいのでしょう。それが能にしかない表現方法なのだ、と納得しています。

今回、特に気なったことがありました。それは、後夜の鐘の音が響き渡り、春の夜が明け始めるときに、シテが「待て暫し夜はまだ深きぞ」と、ワキに向かって行う巻サシヒラキの型(動き)です。喜多流のこの型は、まるで桜の精が西行に向かって「待て暫し」と言っているように見えてしまいます。しかし、それは違います。老桜の精が「夜よ、まだ明けないでくれ! もう少し待ってくれ! もう少し時間をくれ!」と、昇ろうとする陽に、時の流れを止めるように叫んでいる、そのように解釈したいのです。よって今回は従来の型ではなく、東の空(幕方向)に向かって謡う型に変えました。

これについては、いろいろ議論があり、「待て暫し」は西行の言葉と解釈される方もいらっしゃったようですが、朋友・森常好氏が「あれはワキの台詞ではない、老桜の精の言葉」と明言してくれたことが力となり、友枝昭世師とも相談して型を変えて演じました。
今後、型を変えるか、従来通りで進むかは演者の自由です。但し、ご覧になる方が誤解をなさるような表現は改善すべきだと、私は思いますが、どうでしょうか。

楽屋内の話ですが、桜の作り物は以前は塚の榊の中に桜の花をいくつか載せるだけでした。ある時、観世寿夫氏の「西行が植えた桜は枝垂れ桜である」との言葉から、枝垂れ桜を模して枝先を垂らし桜の花をつけるようになりました。今、喜多流でも枝垂れ桜をさすようになりましたが、これも銕仙会に傾倒していた能夫が最初に喜多流に導入したと記憶しています。良いものは真似る、先ほどの「待て暫し」の解釈同様、それが演者の正しい舵取りだと思います。今回はもう少し桜を多く飾って華やかさを増やしたかった、と少し後悔しています。

面や装束は原則として伝書に記載された物を着用しますが、柄や色などは演者の好みの選択が許されます。
桜の精というと、若く美しい女性を想像したくなりますが、皮肉なことに、『西行桜』の精は男の老人です。西行と対峙させるのは年の功を経た男性がよいと世阿弥は考えたのでしょう。桜の花はパッと咲いて散ってしまう、その華やかさ、美しさに目と心を奪われがちですが、実は綺麗な花を支えているのは幹です。今回はその幹を演じる、気持ちで勤めました。

その幹の色、桜をよく見ると黒く見えてきます。
観世寿夫氏が黒っぽい狩衣を着られたと聞いていますが、まさに幹をイメージされていたのではないでしょうか。銕仙会では寿夫氏の教えを守り、この狩衣を黒っぽいものにしているようで、私も黒色で、と思いましたが、似合う黒色の狩衣がないので、我が家にある濃い茶色の狩衣を着ました。黒ではありませんが、桜の幹になるという私の心は変わりません。

また老人の桜の精の烏帽子は、喜多流では色によって持つ中啓(扇)が変わります。
黒色の黒風折烏帽子を被ると紅無の中啓となり、金色の金風折烏帽子では紅入の中啓になり、これもどちらを選ぶかは演者の自由です。黒色ならば枯れた墨絵の世界で老木の桜の精、金色ならば少し華やかなイメージになります。今回は華やかさを前面に出したく金風折烏帽子にしました。

面は通常通り粟谷家所蔵の「石王尉(いしおうじょう)」にしましたが、私の思う老桜の精の雰囲気と似合わなかったように思え、少し心残りです。西行の歌に文句をつけるひねくれた老人には石王尉の顔は似合いますが、西行に会えて喜びに満ちた雰囲気には、下向き加減な人相はどうも似合いません。観世流ではより柔和な表情の「皺尉(しわじょう)」を使うようですが、こちらの方が私の描く老人に近いように思えます。

能役者にとって、春の『西行桜』、秋の『遊行柳』の老木の精はいずれ演らねばならない目標となる演目です。しかもこの二曲はどんなに達者な演者でも3~40代では手に負えませんし、若者が演じては似合いません。この曲は若者を寄せ付けない不思議な力を持つ作品です。

確かに私も、馬齢を重ねてようやく、老い木の気持ちが分かるようになり、「ああ、『西行桜』を勤める歳になったのだな」と、つくづく自身の老いを感じています。
今回66歳の初演は少し遅いのかもしれませんが、この年になって判る老いの世界観を味方につけて勤められた事は喜びで、自分には適齢期であったと思っています。

一曲一曲の演能の大切さ、惜しむべしは時です。
後夜の鐘の音が聞こえるまでは舞い続けなければ・・・。
己の人生で、いつどんな鐘が聞こえて来るのか、春宵一刻値千金、春の夜の夢のなかに、しばしまどろみました。  
                
能『西行桜』写真提供 新宮夕海
小鼓:大倉源次郎 大鼓:亀井広忠
勝持寺 石王尉 撮影 粟谷明生
(2022年4月 記)

『邯鄲』小書「傘之出」を勤めて投稿日:2022-04-23

『邯鄲』小書「傘之出」を勤めて
大槻能楽堂自主公演能「能の描く男たち」

大槻能楽堂自主公演では毎年様々なテーマで企画し、斬新な催しを行っています。今年最初の3回シリーズは「能の魅力を探るシリーズ・能の描く男たち」、その第3回『邯鄲』(2022年3月26日)でお招きをいただき、シテを勤めました。ちなみに第1回(1月)は『頼政』で源氏の決起を促し果てた源頼政を、第2回(2月)は『雲林院』で二条の后を愛した在原業平を、そして私の『邯鄲』で人生に迷う盧生青年をと、能の描く男たちをご覧いただく企画でした。

この大槻自主公演を主催する観世流の大槻文蔵先生とは、父・菊生が流儀を超えて親しくさせていただいていて、亡くなる2年前までは毎年、この自主公演にお招きいただき、父は喜多流を代表してシテを勤めておりました。私も地謡で謡うことが多く、大いに勉強させていただきました。私自身は父が亡くなった2年後の平成20年(2008年)に『采女』を勤めさせていただき、今回は2回目です。実は2年前に『蝉丸』で観世銕之丞氏の蝉丸と私の逆髪で異流共演の企画がありましたが、コロナ感染症により中止になり残念でした。
大槻文蔵先生が他流の能楽師を招いて流儀を超え意欲的に取り組まれている会、この貴重な会からの出演依頼は光栄であり名誉なことで、大変嬉しく、私なりに精一杯勤めさせていただきました。

『邯鄲』は「邯鄲の夢」の伝説がよく知られ、能もとても分かりやすい三段構成です。人生に迷う盧生青年が高僧の教えを乞いに向かう第一段、宿に着いて、悟りが得られるという枕を紹介され、眠りに落ちると、王位について豪華絢爛な宮廷生活に浸る第二段、やがて夢が覚めて悟りは・・・という第三段、まさに、迷い、夢、悟りという序破急が利いた能になっています。迷いは沈鬱なムード、夢は豪華、最後は愁嘆と、これもくっきり謡い舞い分けるというのが、これまでの常識でした。確かにそれは大事なのですが、今回、最初の「迷い」のところが気になりました。

私の『邯鄲』は今回で四回目ですが、過去の三回は、悩み深く真摯ながらも、暗く陰湿な青年像を思い描いて演じてきました。しかし、盧生青年は決して心病んでいるのではなく、どのように生きたいかを非常に前向きに考えている。仏の道にも入らず呆然と暮らしているようでも、高僧がいるという羊飛山に行こうと一歩踏み出したではないか。であるならば今回は、病的で暗い盧生ではなく、羊飛山に向かう意志の強さ、少し拘りのある頑固な求道者としての盧生を演じてみたいと思いました。私も馬齢を重ね、人生の様々な経験をしていくうちに、そんな若者の迷いの中にも希望や輝きがあるように感じられてきたのです。そうすると自然、次第の強吟「浮世の旅に迷ひ来て」の謡も、従来の低く陰湿に謡うのと変わってきます。シテの登場する次第のノリも重々しくならないようにお囃子方に私の思いをお伝えしてご協力いただきました。羊飛山への道行も、求道者の心が決まって希望に満ちているという面もあるのではないでしょうか。父・菊生もそれほど陰鬱にならず、強く求道者のようなイメージで謡っていたように思い出されます。

今回は「傘之出」という小書で勤めました。
(「傘之出」についてくわしくは、平成20年の演能レポート「小書・傘之出の演出と展開」をご覧ください。さらに、平成22年の演能レポートで小書「働き」と「傘之出」を比べています。そちらも見ていただければ幸いです。)
「傘之出」という小書は、初同(最初の地謡)の「一村雨の雨宿り」から発想されたようで、シテの盧生は傘をさして登場します。傘をささない場合よりは、足取りが自然に重くなるので、謡や囃子をそう重くしなくとも、迷う盧生の姿を傘がより強く演出してくれます。


 
「傘之出」で常と最も違うところは最後の場面です。常は「・・・悟り得て。望み叶へて帰りけり」の「帰りけ~り~」を上音で陽の心持ちで謡い終曲します。めでたしめでたし、盧生はどうやら悟ったらしい、とご覧になる方の気持ちも明るく終わります。それに対して「傘之出」になると、「帰りけ~り~」を下音に下げ、悟ったのかどうか、不安を感じさ、さらにそれで終曲とならず続きがあります。アイ(宿の女主人)が「さあらばお傘を参らせ候べし」と傘を差し出し、シテが「近頃祝着申して候」と返すと、アイが「また、重ねて御参り候へや」と声をかけて止める形となります。お客様はそこで盧生は悟ったのか、まだ悟っていないからもう一度来なければいけないのか、などと様々に想像できる終わり方です。

こう考えると、「傘之出」の演出は陰陽でいえば、どちらかというと陰の世界、最初の盧生の迷いや道行をあまり明るくしてはちぐはぐになるかもしれず、その辺の兼ね合いが難しく課題が残るところです。ご覧になった方はどのように感じられたでしょうか。

今回は、次第や初同を従来の重々しく謡うのではなく、ややサラリ、と軽く明るく謡うことによって、従来と違う舞台となったと思います。演者がどのような意図で勤めているのかを見ていただきたい。従来の固定観念に縛られず、頑迷固陋にならず、なのです。実際、シテ方五流あればそれぞれ違う演出があり、同じ流儀でも一人ひとり違います。同じ人間でも年齢によって変わっていきます。66歳になったジジイ(私)も、日々変化しています。その新鮮さを大事にしたいです。能は古典芸能とはいえ、伝統を重んじながらも守りに入るのではなく、柔軟な発想をもち、変化しながら伝えていくもの、と思うのです。そうでなければ時代に取り残されてしまいます。

能『邯鄲』で盧生が起こされる印象的な場面が2か所あります。
一つは邯鄲の枕で眠っている夢の中で、勅使(ワキ)が扇でパンパ~ンと一畳台を叩いて起こし、盧生が王位を譲られたことを告げる場面。以前、宝生閑先生の叩き方のタイミングや美しい所作が素晴らしかったことを思い出します。今回はワキが福王流だったため、2回、パン、パ~ンと叩かず、1回は音なしで2回目に大きく音を立て叩く型でした。宝生流に馴れていたせいか、2回で合わせるタイミングで身体が覚えてしまったようで、今回の起き方は新鮮に感じられました。

もう一つは、宿の女主人が廬生を起こす場面です。廬生が一畳台に飛び込み横になっているところに女主人はすっと近づき、中啓で叩き起こします。その後すぐに後ずさりして「あら久しと御休み候、粟の飯の出来て候。とうとうお昼なれ候へや」と廬生に声をかけます。この起こした後の処理ですが、早めに声をかけるのがお狂言の教えのようですが、私は逆にゆっくり後ずさりして、ゆったりと声をかける方が、盧生が壮大な夢を見ていた余韻が伝わり演劇的な効果は上がるのではないか、と思っています。アイの分担に口出しするのはどうかとも思いましたが、ひとつの考え方があることを残したく、敢えてここに書かせていただきました。

『邯鄲』「傘之出」は特にシテとアイとの掛合が多い能で、互いに呼吸を合わせることが大事です。たとえば傘を手渡すところや、最後の「また、重ねて御参り候へ」と声をかけるタイミングなどは、今回、申し合わせもなく、簡単な打ち合わせ程度だったにも拘わらず、私の意図をよく理解してお相手くださいました小笠原由祠氏に感謝しています。

今回の大槻能楽堂自主公演は観世流ではなく、他流である喜多流が演じる公演でした。シテの私はもちろん、地謡陣も光栄であると同時に緊張して臨んだことは間違いありません。大槻文蔵先生のお考えは他流の能を見て学ぶ、我々喜多流も見習うべきです。見られる緊張がよい刺激になり地謡陣もエネルギッシュに懸命に謡ってくれました。お客様から「本気度がガンガン伝わってきてよかったです」という感想をいただきました。いつも本気でやっているつもりですが、やはり他流の目が光っている時は場では、エネルギーの入り方が違ってくるのでしょうか。

最初に文蔵先生から『邯鄲』のご依頼があった時、「今、喜多流ではちょうどよい年ごろの子方が居ませんが・・・」と申し上げましたところ、先生が「子方はこちらに居ますから、それでよければやっていただけませんか」と有難いお言葉。文蔵先生の弟子の齊藤信輔氏のお嬢さんで齊藤葵さんが子方(舞人)を勤めてくださいました。これは一つの異流共演です。葵さんには立派に勤めていただき感謝しています。

私も『邯鄲』子方を9回勤め、その頃のことが懐かしく思い出されます。シテは平成元年初演、平成20年に小書「傘之出」で、平成22年に小書「働」で勤め、今回が4回目。他流試合のような演能ながら、
多くの方々のご協力のもと勤めさせていただき、良い思い出になりました。
(2022年4月 記)
写真提供 邯鄲 撮影 森口ミツル
モノクロ写真 邯鄲 子方 粟谷明生 シテ 友枝昭世
 

喜多流6月自主公演「杜若」投稿日:2022-04-01

『土蜘蛛』を勤めて投稿日:2022-03-28

『土蜘蛛』を勤めて
豪快に蜘蛛の糸を撒く

第104回 粟谷菊生十七回忌追善 粟谷能の会(2022年3月6日、於:国立能楽堂)で、『半蔀』と『土蜘蛛』の2曲を勤めました。粟谷能の会のことや『半蔀』についてはすでに書きましたので、ここでは『土蜘蛛』についてレポートします。

能『土蜘蛛』は鬼畜・妖怪退治の風流能(見た目が派手なショー的な能)です。作者は不明ですが、劇的、ショー的な能が流行する時代の作品で、そう古いものではないようです。

病に伏している源頼光(シテツレ)のところに侍女・胡蝶(シテツレ)が見舞いに行くと、いつの間にか僧(前シテ・土蜘蛛の精魂が僧に化けた者)が現れます。僧は頼光と言葉を交わしながら近づくと、たちまち蜘蛛の本性を現して千筋の糸を投げかけますが、頼光に斬られ退散します。

警護の独武者(ワキ)が事情を聞きつけて駆けつけると、夥しく血が流れているので、血を辿って蜘蛛の退治に出かけます。独武者が郎党(ワキツレ)を連れて葛城山の古塚に着くと、中から土蜘蛛の精(後シテ)が姿を見せ、蜘蛛の糸を繰り出しますが、遂に独武者に斬り伏せられてしまいます。


撮影 吉越 研

この『土蜘蛛』は演能時間も50分ほどと、とても分かりやすい能で、実際に蜘蛛の糸を次々に撒く演出は無条件に面白く、人気曲となっています。
勤めるにあたり、まずはこの蜘蛛の糸(巣)の準備が肝要です。5間5双(ごけんごそう)の大きいサイズと、3間3双の小さいものがあります。通常喜多流では9個ほどの投巣ですが、近年投巣が多くなる傾向で、今回は15個ほど用意しました。余談ですが、蜘蛛の糸はなかなか高価なので土蜘蛛の演能が経済的に厳しいことをお弟子様に話しました。すると、お弟子様がお仲間を集めて「蜘蛛の糸の会」を立ち上げ、資金集めをして下さり多く撒くことが出来ました。ここに、ご協力の皆様に感謝御礼を申し上げます。

この蜘蛛の糸を投げかける演出ですが、健忘斎の伝書には前シテに投巣の記載はなく、後シテのみ投巣の記載があります。高林呻二氏は「前シテで投げないのは初心の型で、高林家に伝わっている伝書では、朱書きで巣を投げる、と書き足しています。江戸時代には前シテも投巣していたようです。祖父のお弟子様が幅一センチほどの糸を5~6本まとめて投げていたようですが、今のような形のものではありません。現在の蜘蛛の巣の演出は金剛流の小書・千筋之伝に限られていた、と聞いています」と、教えてくださいました。
いつの時代も能を面白く観ていただくための工夫がなされていて、今日まで能という芸能が継承されている事を、改めて感じました。


撮影 粟谷明生

『土蜘蛛』の後シテは通常、赤頭に赤色系の半切袴を着用しますが、『半蔀』が緋色の大口袴を穿くため重なるので、今回は敢えて紅無の装束にして黒頭としました。面も粟谷家所蔵の赤色の強い「顰(しかみ)」ではなく、石塚シゲミ氏の打たれた赤みの弱い面を拝借いたしました。

『土蜘蛛』のような鬼退治物は、鬼を退治してめでたしめでたしと終わりますが、さて、悪いのはどちらでしょうか。昔、蜘蛛族という先住民がいて平和に暮らしていたところに、侵略者がやってきて、彼らを奥地に追い出してしまったとしたら・・・。

戯曲はいつも征服者側が作っています。先住民を異界の者、鬼として悪者に仕立て、鬼退治をして、為政者側を勝者にします。今行われている戦争と同じだと痛感します。
能には、「それでいいの?」という問いかけ、先住民の恨みや哀しみのメッセージが隠されているはずです。これは能『大江山』、『紅葉狩』などの鬼退治物に共通しています。ご覧になる方はそこまでお考えにならなくてもよいかもしれませんが、演じる私はどうしても意識してしまうのです。

ようやく「粟谷能の会」を終えて、ほっとしています。今回、一人でいろいろな手配をし、宣伝もして、何とか多くの方にご来場いただきたいと、心を砕いて参りました。当日は二番を勤めるのは・・・と、不安もあり、なかなか大変でしたが、それでも多くの方々の力添えを得て、よい形で終えることができ、関係各位、観てくださった方々には感謝してもしきれない気持ちで一杯です。
来年も国立能楽堂で「粟谷能の会」を催すべく、会場を確保し、着々と準備を進めているところです。皆様の変わらぬご支援を心よりお願い申し上げます。   

写真提供 新宮夕海
(出演者) 
頼光 佐々木多門 太刀持 佐藤寛泰 
独武者 森 常好 
笛 杉 信太朗 小鼓 鵜澤洋太郎 大鼓 亀井洋佑 太鼓 金春惣右衛門
(2022年3月 記)

『半蔀』を勤めて投稿日:2022-03-28

『半蔀』を勤めて
源氏と夕顔の出会いが焦点

第104回・粟谷能の会を2年ぶりに、平成4年(2022年)3月6日、国立能楽堂において、無事開催することが出来ました。昨年、粟谷新太郎二十三回忌追善として企画していましたが、コロナ感染症拡大により断念し、同じ番組編成で、今年、粟谷菊生十七回忌追善として開催することになったものです。

当初、粟谷能夫が新太郎(能夫の父)の追善能で『檜垣』という秘曲に挑戦し、私が『檜垣』を謡った後に『土蜘蛛』を勤める予定でしたが、能夫の健康が優れないため曲目を『半蔀』に変更していました。しかし残念ながら、昨年未に粟谷能の会への出演が難しいと能夫本人が辞退したため、私が『半蔀』と『土蜘蛛』の2曲を勤めることとなりました。

今年に入り、コロナ感染症はオミクロン株に替り、2月には東京都の感染者数が2万人を超え、これまでにない非常事態となって、粟谷能の会の開催も危ぶまれました。そんななかでしたが、感染対策をしっかりたて、多くの方々にご協力をいただき、無事開催にこぎつけたこと、そして、多くの方々が能楽堂に駆けつけてくださり、盛況のうちに終わることが出来たことが、何より嬉しく、皆様に感謝申し上げる次第です。その後、粟谷能の会鑑賞者の感染の報告もなく、安堵しているところです。

ではまずは、『半蔀』についてレポートすることにいたします。
『半蔀』は喜多流では「はしとみ」と読み、「はじとみ」と濁りません。中学生のとき、漢字の読み方テストで「はしとみ」と書いて、×点をもらったことを思い出します。
私の『半蔀』の初演は昭和59年の青年喜多会、その後、平成16年に横浜能楽堂で小書「立花供養」で勤め、平成30年に厳島神社のご神能、そして今回で4回目になります。

シテは「源氏物語」に出てくる夕顔の女、清楚で、どこか哀愁を含んでいる可愛い女性です。
能『半蔀』はその夕顔が光源氏と出会ったときに焦点を当て、歌を取り交わし、契りを結んだ嬉しくも儚い恋の思い出がテーマとなっています。

紫野に住む僧(ワキ)が立花供養をしていると、美しい女(前シテ)が現れて夕顔の花を手向け、名も名乗らずに消え去ります。光源氏と夕顔の物語を聞いた僧が五条あたりで読経して待っていると、半蔀を押し開き、夕顔の霊(後シテ)が現れます。光源氏と歌を交わしたときのことを語り、舞を舞い、夜が明けぬ前にと半蔀の内に入ってしまいますが、それは僧の夢だったと終わります。

このように、最も三番目物らしい優雅な美しい能です。演じる側としては、前場で僧と少し会話をし、すぐに中入り、後場も序ノ舞を美しく舞うことで、それほど負荷がかかるわけでもなく難しいという感じはしません。観る側もその優美さに浸って下さればいいのですが、深く味わおうとすれば、「源氏物語」の夕顔の巻のお話が頭に入っていることが必須条件になります。


(撮影 吉越 研)

では、夕顔の巻で、夕顔と源氏の出会いはどのようなものだったのでしょうか。
源氏があるとき、源氏の乳母のお見舞いに行くと、その近くに何やら清げな住まいがあり、そこに美しい白い花、夕顔が咲いています。源氏が「ひと房折りて参れ」と命じ、従者の惟光が折りに行くと、女童が香を焚きしめた白い扇を差し出して、これに置いて持って行って、というのです。そこには「もしかして源氏の君?」と問うような歌が書かれていました。
源氏はそれを見て、気の利いた詠いぶりに興味を惹かれ、
「寄りてこそ それかとも見めたそがれに ほのぼの見つる花の夕顔」
(寄ってみなければわかりませんよ。黄昏時にほのぼのみた夕顔の花なのだから)
と返歌します。それが出会いでした。その後、逢瀬を重ねますが、あるとき、夕顔は物の怪に取り憑かれ、儚く亡くなってしまいます。

能『半蔀』は亡くなる悲しい出来事には触れず、この出会いのころを、後場のクセから序ノ舞、キリまで描いていきます。シテは時には夕顔の花の精、またある時は夕顔、そして光源氏や従者の惟光にも変わり、一人四役を、姿や格好はそのままに、謡い舞って演じ分けます。ちょうど噺家が長屋の熊さんやご隠居さん、おかみさんを演じ分けるのと同じです。ご覧になる方は、「今はだれ?」と想像して鑑賞していただけるとよいのです。

ただ能は、夕顔の女本人と夕顔の花の精とが二重写しに戯曲されているため、花の精か現身か少しわかりにくいかもしれませんが、こういうところが能らしい表現なのです。
序ノ舞は在りし日の思い出にひたり、苦の縛りがとれて、楽しく舞いますが、それはほんのいっときのこと。シテの「折りてこそ。それかとも見め。黄昏に」の謡(源氏の歌の「寄りてこそ」がここでは「折りてこそ」に)を受けて、地謡の大ノリ「ほのぼの見えし。花の夕顔、花の夕顔、花の夕顔」と「花の夕顔」を3回唱えて、あの出会いの喜びを謳い上げたかと思うと、すぐに「東雲の朝間」になり、僧の夢の話となって、夕顔は消えてしまします。
あっという間の出来事、なんと儚い、人生の儚さも感じてしまいます。

話は前後しますが、能『半蔀』は中入り後、半蔀の作り物が舞台に据えられます。同じ夕顔を題材にした能に、世阿弥作の『夕顔』がありますが、この能にはそのような作り物がありません。
半蔀の作り物は、夕顔の花や瓢箪の蔓がからめられた板戸の上半分が下から上に押し開かれるもので、まさに能『半蔀』を象徴するようなものです。後場で半蔀が開かれ、夕顔が出てくる場面は「御姿 見るに涙も止どまらず」と地謡が謡い最も美しく印象的なところです。

『半蔀』の作者は内藤左衛門という武士で、世阿弥よりずっと後の人です。幽玄の能を完成した世阿弥の後に観世小次郎信光など、能を劇的、ショー的に面白くしようとする流れがありますが、内藤左衛門もその流れにあって、源氏と夕顔の出会いに焦点を当てて分かりやすく、しかも詩的に美しくつくり、作り物も効果的に配しています。

その作り物を通常は本舞台(常座)に出しますが、舞台が狭くなり少し窮屈な感じがして舞いづらくなります。そこで今回は橋掛りの一の松のあたりに置くことにしました。国立能楽堂の橋掛りは長く横幅もあるので好都合です。こうすることで、本舞台が広く使え、序ノ舞をゆったりと大きく舞うことができます。私はこのようにすることが多く、4回の『半蔀』で通常通り常座に置いたのは、青年喜多会のときの初演だけです。

また、前場の出について、通常はワキが舞台中央にて読経を終え脇座についてから、囃子方のアシラヒとなり、シテはゆっくり出ますが、今回はワキが「敬って申す」と花の供養を始めるところで幕から出て、三の松あたりに止まり、静かにお経を聞く姿をご覧いただけるように演出を替えました。お経を唱え供養してくれていることを喜んで出てきた風情です。


撮影 吉越 研

この前場のアシライ出や後場の作り物の設置、しかもシテが作り物の中に入って出る演出などで時間短縮となり、通常は1時間30分かかるところが1時間15分ほどで終曲となりました。これからの時代、このくらいすっきりした演出も良いのではないかと思っています。

『半蔀』はシンプルな美しい能です。シンプルであるからこそ、演者は美しい謡声ときれいな舞の動きを披露するに尽きるのではないでしょうか。能にフィギュアスケートの採点のような技術点・芸術点があるとしたら、『半蔀』は技術点の占める割合が相当高いと思います。振り返ると昔の謡い方は粗削りで、ワキとの会話の感情表現もずさんだったな、と反省しています。これらを直してハイレベルな謡にして、また加齢と共に丸くなる背中や、足腰の衰えなど、これら老いの現象に抵抗して美しく舞い、あまり巧まず、坦々と勤めることで、『半蔀』という能は三番目物らしい優美な能になるのではないでしょうか。

写真提供 吉越 研 新宮夕海
出演者 小鼓 飯田清一 大鼓 亀井広忠

(2022年3月 記)

国立能楽堂5月定例公演投稿日:2022-03-21

広島蝋燭薪能投稿日:2022-03-16

喜多流4月自主公演投稿日:2022-02-17

『望月』を勤めて投稿日:2022-02-04

『望月』を勤めて
生の舞台を催す意義

コロナ感染症のオミクロン株が猛威を振るって、なかなか先が見通せないこの頃です。
令和2年(2020年)以来、コロナ感染症により文化芸術活動が大いに制限されたことから、国が対策として「文化庁アートキャラバン事業」(令和2年度)を企画し、活動を支援しています。能もその事業の対象となり、「日本全国能楽キャラバン!」と称して、全国各地で多くの公演を行ってきました。その一つ、広島での公演(令和4年1月18日、於;JMSアステールプラザ)で『望月』を勤めました。
(実は、昨年10月に勤めた『竹生島』もこの事業の一つとして実施されたものです。)

能『望月』は能『放下僧』同様、仇討ち物語の現在物ですが、獅子舞があることから喜多流では特に重い習いの曲目となっています。
シテの小沢友房が主君・安田友春の妻(ツレ)と子の花若(子方)とで、主君の敵の望月秋長(ワキ)を討つわかりやすい物語で、見どころ満載の能です。

物語は、シテの小沢が主君が討たれたときにその場に居合わさず、思い空しく守山の宿屋の亭主となっている独白から始まります。そこへ、主君の妻と子が宿を求めてやって来て、涙の対面となります。そしてあろうことか、同じ宿に主君の敵の望月までやって来るのです。友房は奮い立ち、友春の妻を盲御前(めくらごぜ)に仕立てて、望月に酒をふるまい酔いに乗じて仇討ちを遂げようとしますが、この計略を練るところから実行までの舞台進行がまさに緊迫した場面の連続となります。

前場はそれぞれの役者の謡の技芸で緊張感を高め、後場は逆に子方の鞨鼓の舞とシテの獅子の舞を見せながら、視覚で楽しませる構成です。喜多流は実際に望月をとり押さえ問答をするスリリングな場面や、最後は笠を望月に見立てて短刀を抜いて斬り刺す型もあり、かなりリアルな演出となっています。

このような曲では、シテは芝居心を持ちながらも能の結界を超えずに演じるのが心得です。この難しい心得は稽古はもちろんですが、年齢を重ね、場を積むことで少しずつ味わいが出せるようになっていくもののようです。

また、『望月』には適齢期の子方が必須です。私の披きの時(平成12年)は息子の尚生が子方で、シテとして親としてどう導いたらいいかに心を砕きました。2回目(平成29年)は大島伊織君が子方を勤め、ツレがお父様の大島輝久氏で、親子でよく研究されて上出来の舞台をつくってくださいました。そして今回は3回目、子方は今度も大島伊織君です。前回は小学校2年生で子方適齢期、その後6回『望月』子方を勤めて、中学生になった今回で子方は卒業となりました。彼の成長がまぶしく感じられ、伊織君の最初と最後の『望月』子方にシテとして共演できたことを正直嬉しく思いました。

能で獅子を舞うのは『望月』と『石橋』だけです。同じ獅子の舞でも二曲は違います。
『石橋』は霊獣のような獅子が牡丹の飾られた一畳台で軽やかに遊び戯れ、速さと強さが求められます。一方『望月』の獅子は人間(武士)が変装し、敵の望月の様子を見、仇討ちのチャンスを窺うもので、動きも『石橋』よりはややゆったりと、人が演じる柔らかさが必要となります。今回、膝の具合が悪く難儀でしたが、まあどうにか舞えたかな、と思っています。体力的なこと、そしてこれから喜多流に子方になれる子供がいない状況を思うと、今回が『望月』の舞い納めと感慨深いものがありました。

今年1月、コロナのオミクロン株急拡大により、広島は全国でもいち早く、「まん延防止等重点措置」適用になりました。公演を無観客にして映像で有料配信する案が出されましたが、私は生の公演にこだわり、リスキーでも有観客での演能を主張しました。
能の映像配信は、生でご覧になるものとは雲泥の差がある、と思っています。もちろん資料として映像で残すことは価値あることですが、しかし舞台での息吹、緊張感、空気の揺れ、能空間の全容、それらすべてを生で丸ごと味わっていただいてこそ、能は成り立つのです。

当日は予想を上回るご来場者で、お客様がリスクを負いながら、勇気をもって心強く鑑賞に来てくださったことに、演じていて胸が熱くなりました。まさに一期一会の舞台、大切なひとときを共有出来たことが喜びです。
そして今回、アステールプラザが閉鎖せず、スタッフが全員協力してお客様をお招きしてくださったからこそ開催出来たと思っております。
関係者の皆様、ご来場のすべての方々に感謝申し上げます。
有観客で演じる素晴らしさを改めて噛みしめています。
 
(今回も能楽協会関連の公演のため演能写真の掲載が出来なかったことを申し添えます。)
写真 『望月』 後シテ 粟谷明生 平成29年 


                          (2022年1月 記)

『龍虎』を勤めて投稿日:2022-01-19

『龍虎』を勤めて
龍と虎の爽やかな闘い

「虎の尾を踏み、毒蛇の口を逃れたる心地して・・・」とは、
武蔵坊弁慶ら源義経一行が厳しい関所の詰問をくぐり抜け、陸奥の国に落ち延びていく能『安宅』の最後の謡です。
虎の尾を踏んだり、毒蛇に噛まれるのは危険極まりない行為でご免こうむりますが、令和4年寅年のはじめ(1月8日)に、国立能楽堂普及公演にて、虎をテーマにした稀曲を勤めることが出来たのは幸いでした。

『龍虎』は観世小次郎信光作の龍と虎の勢いを争う闘いが見どころの風流(ショー的)の能です。当時人気だった「龍虎図」(龍と虎が向き合ってまさに闘い出さんとしている図)から発想して能の物語に面白く作ったもののようです。

物語は、諸国を巡った僧(ワキ)が天竺(インド)を目指し、まず唐(中国)に辿り着くところから始まります。僧が雄大な景色を眺めていると、樵の老人(前シテ)が若者(前シテツレ)を連れて現れます。老人は僧に天竺を目指すより自国に心を向けよ、と話し、竹林の巌洞に住む虎と、空高い雲より現れる龍も、人間同様に儚く闘うこと、そして中国の皇帝の龍と虎の故事を語り、ここで待っていれば闘いが見られると言い残して家路につきます。

前場は動きが少なく、静かな場面が続きます。ご覧になる方はやや退屈するかもしれませんが、よく耳を傾けると「心せよ、胸の月、よその光を尋ねても」(自分の胸、自国に心を向けよ)や、「争いは人の身も異らぬ(かわらぬ)ものを」、「畜類の闘ふ事も理や」などの真実をついた謡の聞きどころがさまざまにあります。
後場はガラリと景色が変わります。一畳台が舞台中央に運ばれ、その上に竹葉を葺いた山(岩屋)が置かれます。

僧が竹林を眺めていると、太鼓の撥音とともに、峰より雲が湧き上がり、龍(後ツレ)が勢いよく姿を現します。すると、岩屋にいた虎(後シテ)も負けじと飛び出して、悪風を吹き出し、激しい闘いの場面となります。
前場の曲(クセ)で「龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば(うそむけば:吼えれば)風生ず」と謡われた通り、龍は雲を虎は風を起こし、力が伯仲する両者は互いに譲らず、舞台狭しと闘いを繰り広げます。そしてついに勝負はつかず、いつしか龍は雲居に昇り、虎は巌洞に入って、僧の前から姿を消した、と終わります。

『龍虎』は何か特別なメッセージがあるわけではありません。凄惨な闘いというよりは、単なる畜類の威勢の競い合いの能で、深い心持ちなどもありません。サシの謡に「勢い妙にして・・・畜類と雖も位高く」と謡われるように、両者がじゃれ合うような妙なる風情もあります。平物なら平物らしく、爽やかにサラリとした舞台進行を心がけました。

装束について、前場でシテがワキの僧を見て「見馴れ申さぬ御姿なり」と謡うので、シテと日本の僧のワキの姿が違うことを意識して、今回は敢えて、水衣の上に側次(そばつぎ)を付けて唐人らしい雰囲気にしました。

面について、後ツレの龍は通常「黒髭」を付けて登場します。
龍がシテの代表的な演目に『竹生島』、『春日龍神』、『岩船』などがあり、またシテツレとして活躍する演目には『絃上』や『張良』がありますが、面は全て「黒髭」です。『玉井』のシテは大龍王ですので特別に「大悪尉」に代えます。今回は伝書通り「黒髭」にしました。
一方、虎の方は、謡本には「顰(シカミ)又は獅子口」となっています。伝書には、後シテ面「顰」にては取り合わせ悪し、口を明けたる面にては乗り合い悪しき也、長霊ベシミを用いても宜し、となっていますが、近年先人たちは「獅子口」を使われていましたので同様にしました。

また、虎も龍もそれぞれ虎、龍の立物を頭に戴き、どちらも本来「赤頭」ですが、我が家の伝書に「虎は白頭、紺半切にても宜し」と書いてありましたので、白頭に黒色竹模様の半切にしました。近年は、両者を区別するためか、虎を白頭にすることが多いようです。

さて、能のシテがこの世の動物になるのは、『小鍛冶』の狐などありますが、この狐は稲荷明神という神の使いです。シテが聖獣でもないこの世の虎に扮する『龍虎』は珍しい戯曲だと思われます。実際に演能の機会も少なく、もちろん私も今回が初演です。

ちなみに、国立能楽堂でも今回を含めて5回しか演じられていません。そのうち3回は喜多流で、1988年11月に香川靖嗣氏、2008年12月に出雲康雅氏、今回の私となります。他には、私が十代の頃に青年喜多会で大島政允氏が勤められた記憶があります。
今回、稀曲の『龍虎』を生涯に一度でも勤める事が出来、それなりに勉強になったことは確かで、寅年のはじめに、『龍虎』で虎に扮したのは何か吉運になるかもしれません。勇猛なパワーとエネルギーで、龍というよりはオミクロン(新型コロナウイルス感染症の変異ウイルス)を追い払い、よい年になるようにしたいと思いました。

写真提供 国立能楽堂
前ツレ 谷 友矩
後ツレ 佐々木多門
小鼓  鵜澤洋太郎
大鼓  谷口正壽
                           (2022年1月 記)

新春 広島能楽特別公演投稿日:2021-12-26


大槻能楽堂 自主公演能投稿日:2021-12-26


第104回粟谷能の会投稿日:2021-12-09

『羽衣』を勤めて投稿日:2021-10-31

『羽衣』を勤めて
横浜かもんやま能で小書「霞留」を

横浜能楽堂で催される「横浜かもんやま能」(2021年10月16日)で、能『羽衣』を「霞留」の小書(特別演出)で勤めました。横浜能楽堂でシテを勤めるのは久しぶり、2004年に能『半蔀』を小書「立花」で勤めて以来、実に17年ぶりとなりました。立花では生花を川瀬敏郎氏に生けていただいたことを思い出します。

横浜能楽堂は和風の落ち着いた雰囲気があり、舞台に立つと、その和の空気感が身体に沁み込んできて、とても気持ちよい舞台です。



 
「横浜かもんやま能」は伝統があり、今回の催しが37回目となりました。井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼ゆかりの「掃部山公園」で薪能としてスタートし、公園内に「横浜能楽堂」が建てられると、能楽堂で催されるようになり、直弼公とゆかりのある喜多流と観世流・銕仙会銕之丞家の二家が交替で勤め、狂言は大蔵流・茂山家と決まっています。
今回は、昨年の催しがコロナ感染症の影響で、今年に繰り延べになり、私が勤めることになりました。

では本題に入ります。
能『羽衣』の小書は、喜多流では「舞込」と「霞留」の二つがあります。正確には「雲井之舞」と称して演じられた小書、これは、喜多流十四世宗家・喜多六平太先生が大正4年12月8日、天皇御即位の天覧能に勤めた特別の小書ですので、現在は演能されることはありません。また「物着」の小書もあるようですが、伝書には記載されておりませんので、現在の小書は「舞込」、「霞留」の二つです。

『羽衣』は能のなかでも最も人気曲、ポピュラーな曲でよく演じられていますが、通常の小書なしの演能はあまり演られることがなく、小書「舞込」が多く、「霞留」は意外と少ないです。

私の『羽衣』も通常の演能は稽古能で勤めただけで、あとは「舞込」が6回、「霞留」は1998年(平成10年)10月の粟谷能の会以来2回目です。
1998年の演能レポートに、かなり丁寧に書いていますので、今回は簡潔にレポートしようと思います。

通常や「舞込」では、まず最初に舞台中央先に羽衣(長絹)を松の作り物に載せて出しますが、「霞留」では松の作り物を出しません。では、羽衣はどこに置くのでしょう。伝書には「一の松の松に掛ける」と書いてありますが、現在は一の松近くの橋掛りの欄干に掛けます。天女が降り立つ目印、依代的な意味もある松ですが、一の松が欄干から遠いとワキが羽衣を取りにくく、また松から落ちるハプニングも想定されますので、演者の工夫で欄干に掛けるように変わったと思われます。申楽談儀「してみて善きに就くべし せずは善悪定めがたし」の通り、自然の成り行きと納得しています。

ご覧になった方は、作り物の松が出ないことをどう思われたのでしょうか。
作り物が舞台中央先に置かれると、「シテが舞っている姿が見えない」と、言われることがあります。物語を象徴する作り物、舞台先に置かれるのには意味があるのですが、確かに邪魔かもしれません。演者としては作り物がないとのびのびと舞える反面、作り物があることで、自身の舞台での位置がわかる利点もあり一長一短ですが、「霞留」は作り物を出さないのが決まりです。

また、通常や「舞込」では、ワキの「衣を返し与ふれば」の後にすぐに物着になりますが、我が家の伝書には、「霞留」になると、ワキの謡の後に「少女(おとめ)は衣を取り返し」と謡の言葉を変えて入れ、「天の羽衣風に和し」と続き、次第「東遊の駿河舞・・・・此時や始なるらん」を謡ったあとに物着となり、その後は序の「それ久堅の天といっぱ・・・」と変わります。今回は「少女は衣を取り返し」の謡を入れない近年喜多流の方々がやられている形式で勤めました。

序之舞は、「舞込」は黄鐘調ですが、「霞留」は盤渉調(高い音色)となり、華やかな感じが強調されます。また序之舞の構成も、最後が破之舞の位となり、すぐに「東遊の数々に・・・」の仕舞どころとなるのも「霞留」の特徴です。


 
天女が最後に「国土にこれを施し給う」と宝を国土に施す型がありますが、「霞留」では、扇(中啓)を舞台に落とす型となります。普通は立ったまま落としますが、中啓が閉じてしまったり、良い場所に落ちなかったり、と見苦しくなることもあるので、今回は膝をつき下居して綺麗に落ちるように試みました。その後は扇を持たずに舞いますが、これは珍しいことです。

最後、幕に入る型が「舞込」と「霞留」では大きく異なります。
「舞込」では、三保の松原、愛鷹山、富士の高嶺を眺め、橋掛りの三の松のあたりでくるくると回って、「霞に紛れて失せにけり」の謡と共に名残惜しそうに下界を見ながら消えるように後ろに下がりながら入幕します。
それに対して「霞留」は、最後の地謡の「失せにけり」を謡わずに「霞に紛れて」で謡を止め、お囃子が囃すだけの残り止め(のこりどめ)となり、天女は地上を振り返らず、幕に向かいスーッと消えるように、天女は月の世界へと上っていくイメージで入幕します。地上への未練や後腐れなく、お囃子のかけ声と音色だけで消えていく特別な演出で印象的です。

このように、二つの小書では細かな違いがあります。「霞留」について、実は我が家の伝書に書いてあるのは作り物を出さないことと、序之舞を盤渉調にすることだけで、扇を落とすことや残り止めにすることは書いてありません。これらは先人たちの工夫の積み重ねで、やはり「してみて善きに就くべし」です。

私は『羽衣』を何回か演じてみて、「舞込」も「霞留」もそれぞれに良さ、面白さがあると思っています。今回も、いろいろなやり方(小書・特別演出)があって、日々時の流れとともに能の演出も幅を広げているのだと、感じました。

今回の装束は前回の『羽衣』で白色腰巻と白色長絹にしたので、今回少し変えて、白色腰巻に赤色長絹にしました。冠には喜多流のお決まりの赤色の牡丹を挿しました。
通常は冠に月輪を挿しますが、小書になると赤色の牡丹を挿すのはなぜか、以前の演能レポートで今後の研究課題と書きましたが、まだ解明出来ずにいます。どうも年を重ねて大らか、いや鈍感になったようで、能にはいろいろな可能性があっていいと、最近はあまりこだわらなくなりました。これがよいのか、そうではないのか・・・・。

さて、最後に面を「小面」にするか「増女」にするか迷いました。可愛らしく可憐な乙女のイメージで喜多流本来の「小面」で勤めたい気持ちもありましたが、前回が「小面」でしたので、変えて「増女」にしました。当然、謡や舞の動きなどはややゆったり、可憐よりも落ち着いた品格ある風を心がけて勤めました。

「疑いは人間にあり、天に偽り無きものを」という名セリフ、数ある羽衣伝説と違い、舞を所望するだけで羽衣を返すという清らかで上品な作り、美しい天女の舞姿、天から音楽が降り注ぐような詞章、何度ご覧になってもさわやかで晴れやかな気分でお帰りになれる曲ではないでしょうか。人気曲であることが改めてわかります。

10月に『竹生島』を井伊掃部頭直弼が創案した小書「女体」で勤め、1週間後に直弼公ゆかりの「横浜かもんやま能」で『羽衣』を勤めることが出来ました。直弼公とのご縁を感じながらも、直弼公だけではなく、先人たちや多くの鑑賞者の方々に支えられてきた能なのだ、と改めて思いました。

(2021年10月 記)
写真提供 新宮夕海

『竹生島』を勤めて 「女体」という特別演出投稿日:2021-10-20

『竹生島』を勤めて
「女体」という特別演出

琵琶湖内の北側にある小さな島、竹生島を舞台とした能『竹生島』を秋麗特別公演(第一部)(2021年10月8日、於:喜多能楽堂)で勤めました。
『竹生島』は初番目物(脇能)で、島の寺院に祀られている弁財天や水中にすむ龍神が登場し、衆生済度、国土守護を約束する祝言能です。

脇能とは『翁』の脇に置かれ、神をテーマにした作品で『高砂』『養老』などがポピュラーです。江戸幕府が奨励した江戸式楽の正式な番組は『翁』付脇能(一番目物・神)から始まり、修羅物(二番目物・男)、髷物(三番目物・女)、四番目物(狂)、五番目物(切能・鬼)の五番立てで、各曲の間にはそれぞれ狂言が入り相当な時間がかかります。現在は正式五番立てが行われるのは稀になりました。
今回は、五番立てのうち、最初の一番目物のブロックを正式にお見せしよう、と企画され『翁』、能『竹生島』、狂言『大黒連歌』の番組となりました。

(写真 秋麗特別公演番組)

『翁』は「能にして能にあらず」と言われ、猿楽の能を奉納する前の御神事です。喜多流では千歳が面箱を持ち上げて先頭に登場し露払いの千歳之舞を舞うと、翁太夫が舞台上で翁の面を付けて翁之舞を舞い、面を面箱に戻して退場します。次に三番叟(三)がもみの段と鈴の段を舞い神事は終わりますが、すぐに続いて脇能『竹生島』が始まります。そして最後はおめでたい内容の脇狂言『大黒連歌』、これを一気に通して行います。

(写真 粟谷明生素袍姿 厳島神社にて)

『翁』は太夫以外は皆、囃子方も地謡、後見も侍烏帽子を被り素袍姿となりますが、続く『竹生島』も『大黒連歌』もそのままの姿で勤めますので、この珍しい光景も見どころのひとつで、このような正式な形をご覧いただけたのは意義があった、と思っています。

さて能『竹生島』の話をいたします。
今回は小書(特別演出)「女体(にょたい)」で勤めました。
通常は中入で、前シテツレ(女)が宮に入り弁財天に変身し、前シテの老人は本幕に入り龍神に扮して登場します。
それに対して、喜多流の「女体」(観世流とも共有)では、後場の配役が逆になり、シテの老人が弁財天を、シテツレが龍神を勤めます。
弁財天といえば七福神の神様の一人、琵琶を片手にした紅一点で、女神のイメージですから、老人(男)が逞しい龍神に、女が弁財天に変身するのが自然で、「女体」になり、男が女神になり女が龍神になるというのは、ねじれた印象がぬぐえません。地謡が「社壇の扉を押し開き御殿に入らせ給ひければ」と謡っているのに女が宮(御殿)に入らず幕に消え、「翁も水中に入るかと・・・」と謡われているのに宮に入るのも不自然です。その点、金剛流の「女体」は、前の老人をツレ、女をシテと、前後両方の役柄を変えて理に適うようにしています。

ではなぜ、喜多流は後のシテとツレを入れ替えるだけ、敢えてねじれたままにしたのか、今回その謎解きができたような気がしました。

(写真 宝厳寺弁財天)

竹生島にある宝厳寺(ほうごんじ)の本尊は弁財天です。そのお姿は変わっていて、一見、美しい女性の姿に見えますが、腕は八本、頭の上に小さな鳥居と男の顔が見られ、蛇も載っています。蛇を男性自身とも解釈すると竹生島の弁財天は女のようであり、男のようでもある、両性具有の神、つまり男とか女とか、そういう性を超越した存在なのかもしれません。そう考えると、老人が弁財天になっても何の不思議もなく、金剛流のように理に適う演出にしなくても済むのかもしれません。今回、そんな神々の世界が面白く思えました。

この小書「女体」は井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼が創案したものです。直弼公は大変な能の愛好家で、能面や能装束も多く収集していたようで、知識も豊富だったものと思われます。竹生島の弁財天への信仰も厚く、病気平癒のお礼に能面を寄進し、宝物館にはその能面が展示されているほどです。また井伊家の能面や能装束は現在、彦根博物館に所蔵・展示されてもいます。

直弼公は「女体」を作るにあたり、いろいろな工夫をしています。
まずは『翁』付きに限ってですが、シテの出を通常の一声ではなく、真之一声の囃子に変えて能『白髭』の「釣りの営みいつまでか、暇も波間に明け暮れん、棹さし馴るる蜑小舟、渡りかねたる浮世かな」の謡を入れています。これは『翁』付脇能の場合、シテの登場は真之一声、という約束事から考えられた演出です。
今回は、このコロナ禍の時期に、『翁』から狂言まで休憩なしの連続長時間公演では、ご覧になる方のご負担も大きいだろうと思い、可能な限り時間短縮を図りました。
『翁』や狂言での短縮は難しいので、能『竹生島』を短縮しました。アイ語りは、その間、宮の中で装束を替えなければならないので短くすることができません。そこで、真之一声の最初(掛り)を囃し(能『白髭』の謡はなし)、その後通常の一声につなげる形にしました。

また、後シテの弁財天の舞(楽)を本来の五段構成から三段に短くし、直弼公の創案された通り盤渉調(ばんしきちょう)で勤めました。盤渉は水に関連した作品に囃され、音色が高くリズムも乗りよくなるので、今回の演出に似合っていたと思っています。

話は前後しますが、最初に舞台正面に運ばれる宮の作り物についてです。一畳台の上に宮を載せるのが本来ですが、今回は一畳台を省いて宮だけにしました。実は私の足の不具合があり試演してみました。通常の一畳台の上での装束替えはシテが高いところにいるので、後見にとって大変付けにくく苦労します。今回、物着に関してはスムーズに出来ましたが、一畳台がないと、やはり少し華やかさに欠けて見えたかもしれません。気になるところです。

また通常、前ツレと後ツレは同一人物が演じますが、「女体」では別々になります。今回は前ツレの女を佐々木多門氏、後ツレの龍神を友枝雄人氏が勤めてくれました。「女体」のツレは中入りしてから十分に時間があるので、別人が勤めなくとも可能ですが、これも直弼公のお考えなのでしょうか。私は同一人物でも可能だと思っています。

(写真 能面三光尉 増女)

後場の龍神は勇壮に舞い、豪快さがあって見栄えが良いですが、舞は舞働で短く、物足りなさを感じ、弁財天を後シテにする「女体」が考えられたのでしょうか。
「女体」では弁財天にシテらしさ、シテとしての風格を出すために、後半を少し作り変え工夫しています。弁財天の舞が終わると、早笛に乗って龍神が出現し舞働を舞い、通常は早めに弁財天を送り帰し、龍神が脚光を浴びる演出ですが、「女体」では、弁財天が留まって最後まで中心的な役割を演じます。通常、龍神が謡う「もとより衆生済度の誓」を弁財天が謡い、その後の「或いは天女の形を現じ・・・」、「又は下界の龍神となって」の地謡に合わせ、国土を守っているのは私なのだと、大らかに説明し、舞台上で堂々たる、ゆったりとした動きを見せます。最後、龍神が勢いよく幕に入った後も、弁財天がどっしりと私が一番偉いのだと主張するかのような終曲です。

後シテ・弁財天の面は、石塚シゲミ打の「増女」を拝借しました。冠には「月輪(がちりん)」を挿し、瓔珞を垂らすのは常の通りです。

今回は『翁』付の正式な一番目物の試みと、特別演出「女体」のことを中心にレポートしましたが、前場の長閑な春の風情、琵琶湖を船で竹生島まで漕ぎ渡るときの湖上の風景を謡い上げるところなど、なかなかの名文で聞かせどころです。十分に楽しみ味わっていただきたいところです。

(写真 竹生島全景)

現在、竹生島までは長浜港や彦根港からの航路があり、25分~35分で行けますが、この能では志賀の真野のあたり、琵琶湖の南の方から乗船しているようで、かなり長距離の航路です。老人が漕いで行くには少々難しいのではないかと思っていましたが、当時は帆船もあったようで、それならば渡れると納得しました。
(竹生島を訪ねた、写真探訪「竹生島参詣」をご覧ください。)

今はJR湖西線ができ、琵琶湖の西側を北上する電車がありますが、それに乗って琵琶湖を眺めていると、まさに、能『竹生島』の謡の景色が、志賀の浦、近江の江、花はさながら白雪のよう、山は都の富士のよう、春の日に比良の嶺颪(ねおろし)などが自分の中に見えてくる感じがします。京都や琵琶湖周辺の、その地の位置関係を熟知している人にとっては、身近な心地よい船旅が想像でき、楽しい気分にさせられるのではないでしょうか。

能では、竹生島に着く前に、「月海上に浮かんでは兎も浪を走るか」(月の影が湖上に浮かべば、月の中の兎も浪の上を走るかのようだ)の謡があります。昔は月に兎がいる、と思っていたため、このような詞章が生まれたのでしょう。
「釣り船を漕いで白波が立ち、そこに兎がぴょんぴょん飛び跳ねるのを追うように面を切るんだ!」と、父が教えてくれたことを思い出します。

昔、中学生のころ、「女体」の2文字を見ただけで、なんとも不思議な気分になり、男子校の仲間と「にょたい!」などと口にしてクスクス笑いあったことがありました。あれから50年! 毒舌漫談の綾小路きみまろの「あれから40年!」ではないですが、月日の経つのが早いのに驚かされます。2002年に『竹生島』を勤め、およそ20年後に井伊直弼公が創案した「女体」を勤めることが出来、能楽師人生、ありがたいことだと感じています。

ご報告
この度の能『竹生島』の演能写真は、主催の能楽協会と協会依頼の撮影者との契約にblog、SNS等での公開が含まれていないため、現在のところ、演能レポートへの掲載が許可されずにおります。

私が個人的に依頼した撮影者の写真であれば、掲載も可能だったのですが、今回、依頼していた方が前日体調を崩されて撮影ができませんでした。

今後は協会に契約内容の変更を申し入れたり、当日、不都合が生じた場合は代行者を立てるなどして、一期一会の演能写真を皆様にご覧いただけるように対処して参りたいと思っております。

(2021年10月 記)

『鵜飼』を勤めて投稿日:2021-10-04

『鵜飼』を勤めて
名曲ゆえの多彩な楽しみ

                         粟谷 明生

殺生禁断の地で密漁をした罪で捕らえられ殺された鵜使いの物語、能『鵜飼』を喜多流自主公演(2021年9月26日)で勤めました。この会も、コロナ感染症のために1年順延になったもので、本来は昨年の9月に予定されていたものです。

『鵜飼』を勤めるのは今回で3回目です。初演は26歳(1981年)のとき、2回目は54歳(2009年)、そして今回が丁度65歳の最後の舞台でした。
初演のときは、今思い出すと恥ずかしながら、ただ教えられるまま、型通りに真似て吉と思っていました。能は不思議なものでそれでも一応成立してしまいます。が、そこが演者にとって落とし穴であることは後日知ることとなりました。

再演のときは、能『鵜飼』のゆかりの地、石和温泉の「遠妙寺(おんみょうじ)(鵜飼山)」にも行き(「写真探訪・『鵜飼』ゆかりの地を訪ねて」をご覧ください)、この曲はどういうものなのか、主人公の気持ちや背景なども考えて臨みました。そして「鵜之段」を演じていて、鵜使いが暗闇の中、松明(篝火)の光に集まる魚を捕えようと懸命に鵜を操るときに、闇を晴らす月が出てくると、あたり全体が明るくなって篝火の効果がなくなる、鵜使いには月は邪魔ものなのだと気づかされました。

鵜使いが月を嫌う気持ちが分かり、その発見が面白く、当時の演能レポートに、能『鵜飼』は「暗闇」と「月」がキーポイントと書きました。暗闇という迷い多き衆生の世界と真如の月という明るく正しい世界、この対比された言葉を追うことで、『鵜飼』が描く謎解きが一つできたような気がしました。このように能は演じてはじめて謎が解けることがあり、それが楽しみとなりました。
今回もやはり再演の時に面白く感じた「暗闇」と「月」、「人間の心の闇と光」、これがテーマであることを再認識させられました。

シテ(鵜使いの霊・老人)が登場して最初に謡う一声「鵜舟に燈す篝火の、後の闇路を如何にせん」には、鵜飼という殺生をしている人間の、その後の闇路、報いをどうしたものかと怖れる気持ちが込められ、最初にテーマを表白していることが分かります。
七夕の牽牛、織女の二つの星は月に誓って夫婦になり、雲上人は月を愛で、月の無い夜を嘆くのに、それに引き替え自分は、月の夜を厭い、闇になる夜を悦んでいる、それでも篝火が消えて闇になると悲しい・・・と、鵜使いの老人の思いが展開します。
この能のシテの最初の一声、さりげなく謡ってしまいますが、ここに大事なエキスが隠れていることを知りました。

『鵜飼』は、清澄の僧(ワキ)が甲斐の国への旅の途中、石和に到着し、鵜使いの老人(シテ)に出会います。老人と僧が問答していると、従僧(ワキツレ)が、あの鵜使いは2、3年前に一夜の宿を貸してくれた者だと気づきます。老人は、その者は殺生禁断の川で鵜飼いをして捕らえられ、罧(ふしづけ:簀巻きにされ沈められる)にされ死んだと語り(「語り」)、自分がその霊であると明かし、弔ってほしいと頼みます。
僧が懇ろに弔うことを約束して、鵜を使う様を見せてほしいと言うので、老人がその様子を見せるのが「湿る焚松(たいまつ)振り立てて」から始まる一番の見どころ「鵜之段」です。

鵜使いにとっては、殺生はいけないことと言われても、長年やって来た生業であり、鵜を使って行う漁は楽しいものでもありました。鵜使いが荒鵜どもを「ばっと放せば」に続く地謡「面白の有様や、底にも見ゆる篝火に驚く魚を追い廻し、かづき上げ掬ひ上げ・・・」は軽快に運んで謡います。シテも右手に松明、左手に鵜をあやつる縄に見立てた中啓を持って、きびきびと舞います。老人といっても、長年の労働作業はお手の物です。きびきびと手際よく動く意識が肝心です。

それでも「鵜之段」の終盤、「不思議やな・・・・」から「月になり行く悲しさよ」と謡は締まり、シテの心も沈んでいきます。そして「闇路に迷ふ此の身の名残惜しさを如何にせん」と消えていきます。

最初の明るく楽しい雰囲気から闇に沈む心、ここにも暗闇と月の対比が鮮やかです。
中入りは、静かにスーッと闇に消えていく風情が大事ですが、今回は通常通り常座で止めず、そのまま橋掛りに入り、三の松で一旦立ち止まり振り返り、娑婆への名残惜しい気持ちを表現する型を試みました。

後場は前場とはうって変わった趣向となります。
太鼓も加わり賑やかに囃す早笛に乗って登場する後シテは、なんと閻魔王。
「悪い事をしたら地獄に堕ちるよ」「嘘ついたら閻魔様に舌を抜かれるよ」「物を盗んだら鬼に叩かれるよ」などと子供の頃に言われたことを思い出します。閻魔王は冥途の番人で、生前の善行悪行を判断して、極楽行きか、地獄に堕ちるかを審判する偉い鬼です。

謡本には後シテ「閻魔王」と書いてありますが、詞章には閻魔という言葉はなく「悪鬼」と書かれています。それでも、鉄札(悪行を記したもの)や金紙(善行を記したもの)を見て判断できるのは閻魔王だけです。能の世界での悪鬼は閻魔王、そしてそれに仕える眷属を含めた者の大きな枠内と考えて勤めました。

殺生を生業とする者を主人公にした能には『鵜飼』のほかに『阿漕』と『烏頭』があり、これを三卑賤と呼んでいます。『阿漕』と『烏頭』は後シテも前シテと同一人物で、地獄で苦しむ様を見せ救いがない描き方ですが、『鵜飼』は後場では閻魔王がシテとなって、鵜使いが生前、僧に一夜の宿を貸したという功徳により、地獄に堕ちるところを改め、極楽に送り変える、と豪快に紹介する、前の二曲とは全く違った構成です。
よく「前と後、全くの別人格をよく演じられますね」と、言われますが、能楽師は基礎的な型を稽古し、それを積み上げていくので、それらを一つにまとめてもあまり違和感は無く演じることが出来ます。

以前写真探訪で訪れた「遠妙寺(鵜飼山)」の当山の由緒に、日蓮上人が弟子の日朗、日向上人と当地を廻ったときに、鵜使いの霊に出会い、法華経一部八巻、六万九千三百八十余文字を河原の小石一石に一字ずつ書き、川に沈めて施餓鬼供養した、この縁起によって謡曲『鵜飼』は作られたというようなことが書かれています。これから考えると、『鵜飼』という能は、殺生することの罪、それによる苦悩を描くというよりは、法華経を信じれば救われるということがテーマで、宗教宣伝曲となっていることが分かります。ただ、ここをあからさまにして、あまりに説教臭くなっては面白くありません。能の戯曲者が救済劇を巧みに入れ込んで面白いお話に仕上げているところが人気曲になるゆえんです。説教がましくないけれど、これを楽しく観て、「日蓮さんも良いかもしれない」と、なるかもしれません。

『鵜飼』が他の二曲のように四番目物(狂い物)の能に分離されず、切能に分類されているのも、さもありなんです。ご覧になる方は、最後の演目で閻魔王の豪快な救済劇を楽しみ、ああ、胸がすっとしたとお帰りになれるわけです。

演者にとって、後場はいかに力感が出せるかが勝負です。スピード感よりは重みがある力強さ、重厚感のある動き、舞が大事です。

閻魔や悪鬼に使用する面は「小べしみ」と呼ばれ、真っ赤な顔をして口をへの字で結んで、なにか我慢を強いられているような強い意志を感じさせる面です。面は粟谷家所蔵の是閑打の烙印がある名品で勤めました。閻魔王には似合っていたのではないでしょうか。

『鵜飼』の鵜使いは最後、閻魔王に救われますが、前場の「語り」、なぜ鵜使いの老人が罧の刑に処せられて殺されたかを生々しく語る場面も見せ場、語りの聞かせどころです。
禁止されていることを守れない人は、今の世にもいます。
例えば、有刺鉄線が張られ立ち入り禁止の看板があっても、無視して、釣り糸を垂らす釣り人。たぶん、そこはよく釣れるポイントなのでしょう。「ここは立ち入り禁止では?」と言われても「誰にも迷惑はかからないだろ」とか「そりゃ入っちゃいけないのは分かっているけれど・・・」などと悪びれもせず答える、などということありますね?
能『鵜飼』の老人も「殺生が良くないことは知っているよ」「禁漁区なのも知っている、でも・・・」とやってしまう。捕まっても、手を合わせ神妙な面持ちで、「殺生禁断の地とは知らなかった、これからは気を付けます」と、嘘の釈明をするところがありますが、ここは昔も今も変わらない人間の嫌な部分を見せつけるように演出されています。

そしてルール違反をする人を取り締まるというのも、今も昔も同じです。
『鵜飼』では石和村の者が「一殺多生」の理を掲げて、密猟者の鵜使いを見せしめにしようと、残酷な罧の刑に処します。見せしめとして一人を殺しても、他の多くの人が生きられるならいいではないか・・・・。その理念で行われた残酷な処刑は過去の歴史にもいろいろあったのではないでしょうか。現在のコロナ禍で、要請に従わない店は「店名を公開します」と脅し、一店を見せしめにして、他の店に守らせようとするのと似ていますし、自粛警察のように、取り締まる資格もない者が違反者を取り締まるという不思議な現象も起こります。

能は室町時代に作られた芸能ですが、作品テーマは現代にも通じていて、決して古臭いものではないのです。『鵜飼』という作品がそれを証明しています。

今に通じる能『鵜飼』、前場の一声や「語り」、「鵜之段」、後場の閻魔王の豪快な舞、どれをとっても楽しめ、コンパクトに構成された見どころ満載の能、『鵜飼』はつくづく名作だと感じさせられます。人それぞれ、時代が変わっても、共感できるものがあります。名曲は懐が広く、観る者が問いかければ、ちゃんとその分だけ、返答してくれます。

30代から50代までは肉体はいくらでも酷使できる、体はいくらでも動くもの、と思っていました。しかし、60代半ばともなるとそうはいかなくなり、身体の故障も多少増えて来て困っています。昨今はコロナ禍で、モチベーションが下がるなどの負も背負いました。それでも「年月を経て習得できる技もある」「年齢を重ねることで表現できることもある」と自らを鼓舞しています。
父・菊生はよく、お能は謡10年、舞3年と言って、謡が大事、謡の技の習得が大事と言っていました。だから老いて体が動かなくなってきたときこそ、味わい深い謡で勝負する、先人も皆そうやって老いにあらがっていたように思います。
私も老いの入り口にあって、3回目の『鵜飼』を勤め、能の懐の深さ、この年になって分る能の魅力にも気づかされました。馬齢を重ねることも満更捨てたものじゃない、と思い、いや思いたいと日々過ごしています。
コロナの時代、うがいをしながら、うがいの語源は鵜飼だ!
鵜が飲み込んだ魚を吐き出す姿に似ていることに由来している、と思うと、今の時期に『鵜飼』を勤めたのも何かのご縁かな、と、ふと口元が緩みました。
写真提供 
前島𠮷裕
新宮夕海                        (2021年9月 記)

第二回能楽堂コラボ「花焔」投稿日:2021-09-30

喜多流 秋麗特別公演投稿日:2021-09-30

第27回 能楽座自主公演投稿日:2021-09-30

第37回 横浜かもんやま能投稿日:2021-09-30

喜多流9月自主公演投稿日:2021-07-07

『玉葛』を勤めて 20年ぶりの再演で感じたこと投稿日:2021-07-07

『玉葛』を勤めて
20年ぶりの再演で感じたこと

粟谷 明生

源氏物語で、夕顔と頭中将との間に生まれた娘、玉葛をテーマにした能『玉葛』を、6月の喜多流自主公演(令和3年6月27日)で勤めました。平成13年2月の広島「花の会」以来、実に20年ぶりの再演です。
前回の「広島・花の会」では他の演目との兼ね合いもあり、装束を常と変えて演じましたが、今回は通常通り、前シテ(里女)は水衣に腰巻姿、後シテ(玉葛の霊)は唐織肩脱ぎの狂女の出で立ちで勤めました。

能『玉葛』は三番目物(夢幻能)と四番目物(狂女物)の二つの要素を取り入れた特殊な構成の能です。
夢幻能とは、前場の主人公(シテ)が仮の姿で現れ、僧(ワキ)に昔語りをすると、僧の弔いにより後場に亡霊(後シテ)が昔の姿で現れ、舞を舞い夜明けと共に消え失せますが、それは僧の夢であった、と構成されています。
狂女物は生きている者の狂い(狂いとは、思いが一点に集中しすぎること)を見せる能で、舞は優雅な「舞」ではなく、「カケリ」と呼ばれる短時間の緩急ある立ち回りの動きで心の乱れを表現します。

狂女は一般に現在能に登場しますが、『玉葛』では現身の人間ではなく、玉葛の亡霊が狂乱してカケリを舞うので異色作品です。基本的な戯曲構成ではないのに、今にそのまま継続されていることに改めて驚いておりますが、その特別な魅力が何なのかは、正直まだわからないでいます。

能『玉葛』のあらすじを簡単に記しておきます。
初瀬の長谷観音に参詣する旅僧(ワキ)が小舟に棹さす女(前シテ)に出会い、御堂と二本(ふたもと)の杉に案内されます。

女は玉葛が筑紫から都へ逃げ上り、この初瀬で母・夕顔の侍女だった右近(今は源氏に仕えている)に出会ったこと、そして玉葛の薄幸流転の人生を語り、実は自分がその玉葛の霊であると明かし、消え去ります。
(中入)
後場は玉葛の霊(後シテ)が現在物の狂女物の『班女』同様に肩脱ぎの格好で、しかも髪を乱した狂乱の風情で現れ、妄執を狂い見せます。やがて昔の事を懺悔して妄執を晴らしたように見せますが、僧の夢はそこで覚めるのでした。

玉葛は夕顔と頭中将との間の娘ですが、夕顔は早々に頭中将とは疎遠になり、後に源氏と逢瀬を重ねるようになります。その折に物の怪に襲われ、はかなく亡くなってしまいます。源氏はうろたえますが、あまりにも突然なこととて、夕顔は秘密裏に荼毘に付されます。
母の行方がわからないまま、玉葛は乳母に育てられ、4歳のときに、乳母の夫の赴任先の筑紫に下ります。二十歳になると玉葛の容色の美しさに求婚者が多く、このまま、高貴な人の娘を田舎に埋もれさせるわけにいかないと、乳母らは玉葛を連れて都に逃げ上ります。
その後、母との再会を願い初瀬詣をすると、奇跡的にも夕顔の侍女だった右近に巡り合います。右近から事情を聞いた源氏は、夕顔の遺児・玉葛が美しい娘に成長したことを喜び、紫上と相談のうえ、養父として彼女を六条院に引き取り、万事を花散里に託します。
都でも、玉葛は多くの男性から求愛されますが、ついに鬚黒大将の妻になり、何人かの子供にも恵まれ、平穏な生活を送るようになります。子供たちが大人になってからのことも少しふれられますが、源氏物語のなかに描かれる玉葛はざっとこのようなところです。

では、玉葛は何に苦しみ、狂乱するのでしょうか。
ワキの僧が「たとひ業因重くとも、照らさざらめや日の光」と謡い、
後場のシテと地謡の掛け合い、
「払へど払へど執心の 長き闇路や黒髪の あかぬやいつの寝乱れ髪」や、
「げに妄執の雲霧の 迷もよしや憂かりける」の謡は、
暗い闇の「負」や「陰」を想像させます。

美しさゆえに多くの男の心を迷わせた、その業因が玉葛の狂乱の原因だと解説書には書かれています。今の世では考えられない世界観ですが、そういう事もあるのかもしれません。
ただ私は、多くの男性というよりは、とりわけ光源氏からの思慕に悩み苦しんだと思って勤めました。養父としてわきまえているように見せながら、執拗に玉葛に懸想してくる源氏。後半「寝乱れ髪」と謡われるように、ついに添い寝までするに至っては、それは事件であり、玉葛にとって衝撃の第一ではなかったでしょうか。
能『玉葛』の作者、金春禅竹はそこに焦点を当てて戯曲したのではないか、と思います。

その玉葛にふさわしい面をどうしたらよいのか、悩みました。
喜多流では江戸時代から、前シテも後シテも「小面」と決まっていますが、後シテの心の乱れをかわいい表情の小面で表現するには難し過ぎます。前回は苦悩に眉根を寄せた粟谷家所蔵の「玉葛女」を使いましたが、今回は心の乱れは身体で表現し、面は美しくきれいな表情、しかも、やや色気のある面にしたく、石塚シゲミ氏の打たれた「増女」を拝借しました。この面は何回か使わせていただいていますが、自分に似合う面と思えるので、安心して使え重宝です。

また今回、作品のメインとなる曲(クセ)の部分を常とは違う舞曲(まいぐせ)にしてみました。
「クセ」には、シテは動かず座ったままで地謡が物語を進行させる「居曲(いぐせ)」とシテが立って舞う「舞曲(まいぐせ)」の二つがあります。

『玉葛』は通常は居曲ですが、今回の自主公演は初番『小督』、三番目『阿漕』と居曲が重なってしまったので、私の『玉葛』は「替えの型」があることを根拠に、舞曲で勤めました。
クセの前半は船に乗って松浦潟、浮島、響の灘を渡っていく風情を、シテは座ったままで地謡が謡い聞かせます。

「かくて都の内とても我はうきたる舟の上」から動き出し、「初瀬の寺に詣でつつ」と合掌して、シテ謡「年も経ぬ 祈る契りや初瀬山」の上羽の後は、常の通りの舞の基本的な型が続き、最後は元の場所に戻り、ワキに弔いを頼む型で終わります。

20年ぶりの再演となった『玉葛』。前回の演能レポートは「漠としたわかりにくさとは?」と題して、この偏屈で厄介で難しい『玉葛』と格闘していたことを思い出させてくれます。若い時は考えすぎて上滑りしているところもあったかなと、懐かしくも面はゆくもあります。

後場は一声を謡い、カケリを舞い、仕舞どころとなって終曲する、とても短くコンパクトに作られているので簡単に勤められそうに見えますが、実は曲の深いところの表現が難しく、演じる者の生き様、経験などが裏打ちとなるように思えます。

曲目の真意を観る方に伝える、その難しさをより強く感じました。
父・菊生が「若いうちは青い鳥を探しに外に行きたがるが、実は青い鳥は身近なところにいたことを知るんだよ」と、話してくれたことを思い出します。
今回は、いろいろ工夫するというよりは、基本型に戻ってさりげなくやる、それを通し、そのことの難しさを感じた『玉葛』でした。
(令和3年7月 記)

能「玉葛」 写真提供 新宮夕海

粟谷明生の解能新書2投稿日:2021-06-05

粟谷明生の解能新書2

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『小塩』を勤めて投稿日:2021-05-31

『小塩』を勤めて
夢か現か、業平の恋と懐旧

粟谷 明生

平安時代の和歌の名手、しかも美男子(イケメン)で色男といえば、まず思い浮かぶのが在原業平です。業平自身が登場する能は『小塩』と『雲林院』の二曲だけで、『小塩』は喜多流では、しばらく演能が途絶えていましたが、十五世宗家・喜多実先生が復曲され謡本も販売されるようになりました。その後、何回か演じられ、今はかなりポピュラーな演目となりました。
その『小塩』を喜多流自主公演(令和三年五月二十三日、於・喜多能楽堂)で初めて勤めました。自主公演は新型コロナ感染症の影響で、昨年度の公演予定がすべて一年繰り延べになり、今回の『小塩』も本来なら昨年の五月に勤めるはずだったものです。


まずは、『小塩』のあらすじを簡単にご紹介します。
桜が満開の大原野(京都)で花見をしている都人(ワキ)の前に、桜の枝をかざした老人(前シテ)が現れます。都人は老人に声をかけ、桜花を共に愛でますが、老人(地謡)が、
「大原や小塩の山も今日こそは 神代の事も思ひ出づらめ」
と、古歌を詠むと都人はその歌の作者を尋ねます。
老人は二条の后がこの大原野に行幸された時、在原業平が后との昔の契りを想い詠んだ歌だと答え、そのまま名乗らず夕霞の中に消えてゆきます。(中入)


都人は先程の老人が業平の霊であると判ると再会を待ちます。
すると花見車に乗った業平が現れ、自らの和歌を詠じて舞を舞います。そして二条の后に供奉してこの大原野に来た昔が忘れられないと語ると、春の夜の夢の如く消え失せてしまうのでした。


『小塩』の舞台となっている大原野小塩山は京都市西京区西部にあり、それほど高くないこんもりとした山です。大原野には業平ゆかりの「十輪寺」があり、境内には業平の墓と伝えられる小さな塔が建っています。毎月5月28日には業平忌の法要が行われているそうです。
大原野には『西行桜』ゆかりの「勝持寺」もあり、両方のお寺を巡ったことを思い出します。
以前は、演能前に謡跡めぐりをして演能資料集めをし、謡曲保存会の駒札を見つけると喜んでカメラに収めたりしていました。最近はなかなかそういう事も出来なくなっていましたが、コロナが収束したら、またカメラを持って出かけたいと思います。
ちょっと脱線しますが、京都在住の喜多流能楽師の高林呻二氏からの面白い情報がありましたのでここに記しておきます。
「寂光院の大原は“おはら”、小塩の大原は“おおはら”と読み分けていたのですが、デュークエイセスの“女ひとり”の辺から“おはら”も“おおはら”と呼ぶのが主流になったようです」
なるほど、京都人が“おおはら”と呼ぶのはもともと大原野の方だったということ、地元の人でないと分らない感覚です。

大原野には藤原氏を祀る大原野神社があります。
能『小塩』は、その藤原氏出身の二条の后(藤原高子)が行幸された時に、昔恋仲だった在原業平も同行していて、あらすじにも挙げた
「大原や小塩の山も今日こそは 神代の事も思ひ出づらめ」
と詠いかけるのですが、この、業平が后との恋を懐かしんで詠んだ和歌をテーマに、金春禅竹が作ったと言われています。
ここでの「神代の事」というのは、藤原氏の祖神(大原小塩山の祭神)である天児屋根命(アメノコヤネノミコト)が皇祖・瓊瓊杵尊(ニニギノノミコト)に従って降臨されたことを表しています。つまり、その神の子孫である御息所(二条の后)が参拝することで、降臨した昔のことが思い出されるでしょうという、懐の大きな歌です。業平が家来として、藤原氏や御息所を賛美するような歌でもありますが、二条の后との懐かしい恋の思い出を晴れやかに詠ったとも見て取れます。
これは業平52歳、后(高子)35歳のこと、17歳違いの二人が駆け落ちして17年経っての出来事です。


在原業平が歌人でイケメン、色好みの貴族だったことは知られていますが、勇猛な武官であったことはあまり知られていないようです。弓も上手で力強かったようです。
業平の父は平城天皇の皇子・阿保親王ですが、嵯峨天皇との対立に敗れ、大宰府に左遷されます。その後、都に戻りますが皇位継承の争いを避け臣籍降下を願い出て、在原朝臣を名乗ります。阿保親王には男の子が何人かいて、次男が能『松風』にも描かれる行平、業平は五男で最後は中将の官位につきます。いずれも、皇族の出ですが、政治のひのき舞台からは退き、その憂き思いが和歌の世界で開花し、伊勢物語などに多くの名歌を残したといわれています。

伊勢物語で描かれる業平の最も熱き恋は二条の后・高子との恋。伊勢物語の六段には、昔男(業平らしい)が女(高子らしい)を連れ出して芥川のあたりに籠っていると、雷が鳴り雨も激しくなってくる、男が女を奥に押し入れ、戸口で見張りをしているすきの、夜も明け方に鬼が女を一口に食ってしまった、男が気づいたときには女の姿はなし、男は足摺りして泣いたけれども甲斐なしであった、とあります。この鬼は実は高子の兄たち(藤原国経、基経)で、妹を取り戻しにやって来たのでした。
このようなエピソードが語られるように、業平と高子の恋は、駆け落ちまでしたけれども、はかなく、実ることはなかったのです。

能『雲林院』の現行曲は世阿弥が改題したもので、『小塩』と同じように、女物の本三番目物に準じる、三番目物として、しっとりとした曲趣になっていますが、もともとの曲は、今述べた、芥川の鬼にとられた事件に焦点をあて、後場には業平は登場せず、シテが兄の基経、ツレが高子で、古作の能らしい素朴な作りになっています。
世阿弥改題の現行曲は鬼の能をやめ、後は業平をシテにして優雅に作り変えていて、二人の駆け落ちなどの事件性はないのですが、その頃の恋の話に主眼が置かれます。
それに対して、『小塩』は満開の桜を愛でながら、駆け落ちから17年後、大原野で再会した時の話を据えて、事件からある時間がたった人間の思いに光を当てています。このところが、『小塩』という曲の主旨なのでしょう。穏やかで、昔を懐かしむ風情があります。

能を私流に陰陽で分類すると、『小塩』は陽で、『雲林院』は陰になるように思われます。
前シテの老人も花を愛でて陽気な感じですし、後シテも自らの和歌を聞きながら、気持ちよく序の舞を舞います。


後場の一声の和歌にもその違いが現れます。
「月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」
歌の意味は、月も春も昔のままというわけではないのか、私だけは元のままなのだけれどといったところで、これも、伊勢物語の第四段や古今和歌集にも登場する業平の歌です。『小塩』では下の句が「我が身ぞもとの身も知らじ」となって、私の当時の姿を見知るはずもあるまいとワキに語り掛ける格好になっています。
この和歌の謡い方に違いがあります。『小塩』が声の調子を張って高音で謡うのに対して、『雲林院』では調子を抑え、低音で謡います。これも、『小塩』が陽で、『雲林院』が陰とする根拠のひとつです。

これまで喜多流の『小塩』は三番目物として大事に扱い、シテ謡も地謡も、比較的大事にゆっくり丁寧に「陰」を基本にしていたように思われますが、どうも不似合いに感じました。業平の二条の后への懐旧と遊舞の舞に多少翳りはありますが、それよりは逆に衰えぬ色好みの輝きを舞台上に押し出す「陽」の気で演じた方が良いのではないかと思います。これまで、初同は重い感じで謡っていましたが、地謡に「もう少し陽気な感じでさらさらと謡ってほしい」と、お願いし、囃子方の皆様にもそのように位を合わせていただきました。

後場の一声、シテの「月やあらぬ・・・」の和歌の謡は聞かせどころですが、節づかいが難しい謡で、きれいに華やかに、しかもうるさくなく張って謡わなければいけないので難所です。また、序の舞の位も普段より軽めにサラリと囃していただきました。
この曲は全体にあまりベタつかず、陽の気持ちで、軽くサラリと演じることが心得だと思います。


さて、前場に戻ってみましょう。時は春、桜が満開の大原野です。桜の枝をかざした老人(前シテ)が登場して、長々と謡います。ここがご覧になる方には退屈なところかもしれませんが、よくよく謡の中身を聞いてみると、なかなか身に沁みることが多いのです。
まずは次の詞章。
「年経れば齢は老いぬ然はあれど 花をし見れば物思ひも無し、と詠みしも身の上に、今白雪を戴くまで、光に当たる春の日の、長閑けき御代の時なれや」
(年月が経って老人になっても、花を見ていると何の物思いもないと、詠んだ人の心がよくわかる。今白髪の老人になったが、光り輝く春を楽しむことができるのは長閑な聖代のおかげでありがたいことだなあ)
歳をとっても、花を見れば物思いも無しなどと、いいではありませんか。

そして次は、満開の花盛り、それに誘われてやって来た老人が、
「老な厭ひそ 花心」を繰り返し、花たちよ、花見に集うみなさんよ、どうぞ老い人を厭わないで、と謡います。老人でありながらおちゃめで華やかな風情。これもいいです。


これらの老人の謡は少し熱っぽく開放的に、軽快、陽気に謡いたいものです。
このあたり、今まではあまり気にせず謡っていましたが、近ごろ・・・私も髪の毛が白くなり四季の花を見ては感傷に浸るようになって、この老人の心境が痛いほど分かります。
謡の「老いの世界」がようやく分るようになってきて、加齢するのも悪くないかと思ったり、しかし加齢は体力低下のマイナス面もあり、嬉しいやら悲しいやら複雑な心境です。先人たちが、年を取って体力が衰える分、謡の力をつけていくのだ、と話されていたことを思い出し、これもしみじみと分かるようになりました。

後場は作者禅竹が、業平の名歌をこれでもかと、まるでパッチワークのように貼り付けています。十五歳のとき、奈良の春日野に鷹狩りに行って、気になる姉妹を目にして詠んだ歌。
「春日野の若紫の摺衣 忍ぶの乱れ限り知られず」(伊勢物語初段)
(春日野には紫草のみならず、あなたの匂い立つ若さが充ち満ちて、私の心も、お二人の美しさつややかさに染まってしまい、この布の忍摺模様のように、私の心は限りなく乱れ、野の草々ならば、やがて静まるものの、この布模様は消えてはくれないのです。)


なんとオマセ。なんと女たらし、なんと和歌の天才。着ていた忍摺模様の狩衣の裾を切って歌を書いてやったといいます。若い時にこんな歌を詠み、それに磨きがかかって、五十代には「大原や小塩の山・・・」のような、あの大きな詠いぶりとなるのでしょう。


そして、まだまだ伊勢物語の和歌は続きます。
「みちのくの忍ぶもぢずり誰故に 乱れ初めにし我ならなくに」(初段)
「唐衣きつつ馴れにし妻しあれば 遥々来ぬる旅をしぞ思ふ」(第九段)
「武蔵野は今日はな焼きそ 若草の妻もこもれり我もこもれり」(第十二段)

和歌をこんなに貼り付けていいの? と現代人の私たちは思ってしまいますが、昔は伊勢物語がよく知られていて、耳に快かったのかもしれません。皆様はどう思われたでしょうか。


後シテの面について、復曲された喜多実先生は「源氏」を使われましたが、私は伝書通り「中将」にしました。「中将」という面はこの曲と『雲林院』の在中将・在原業平を想像して打たれた作品です。眉間にしわを寄せ、もて過ぎて苦悩している業平の面影を浮かべる面です。


「源氏」や「十六中将」よりやや年齢が高いお顔で、今回は「中将」が似合う、と思い選びましたが、また機会があれば、もう少し若い面をかけて、装束も今回は白色の狩衣にしましたが青色系も似合うと思います。また業平は武官なので、太刀を佩く(はく)のが理にかなっています。但し、「花見車の出入りに支障をきたす」との教えがあり今回はやめましたが、これも工夫をして太刀を佩いてみたい、などと思案しています。

さていよいよ終盤です。最後は、「まどろめば・・・夢か現か世人定めよ・・・」と舞い納め、業平の霊は姿を消します。ここにも伊勢物語にある、業平と斎宮との恋の歌を織り込み、能『小塩』は業平のお話をすべて夢、幻、として終曲します。世の中には良いにしても悪いにしても結論が出せない現象がある、それを夢のように現のように、人は夢幻のうちに溶け込ませて生きていくのかもしれません。


今回の『小塩』は最初に述べたように一年繰り延べになっての演能でした。この一年、コロナウィルス感染症で、ほとんどの能の催しは中止や延期を強いられました。どんなに日頃体を鍛錬していても、舞台に立たないでいると、お能の体が鈍ります。アスリートと同じです。能楽師も苦しい一年で、まるで夢、幻のようでもありますが、これからは、能の公演を中止・延期するのではなく、十分な対策を立てながら、演能活動を行なわなければいけない、と老いと闘いながら、気持ちを引き締めています。
(令和3年5月 記)
写真提供 
前島写真店  2,7,8,13
石田 裕   1,3,5,6、9,10,11,
あびこ喜久三 12
謡蹟めぐり  4

第61回式能投稿日:2020-12-11

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日本能楽会東京公演投稿日:2020-12-11

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第104回粟谷能の会投稿日:2020-12-11

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第104回 粟谷能の会
開催延期のお知らせ

拝啓 時下益々ご盛栄のこととお慶び申し上げます。

本年、3月7日(日)に予定しておりました
「第104回 粟谷能の会」は、新型コロナウィルスの感染が拡大している状況、緊急事態宣言の期間が3月7日迄延長されたため、番組を変えずに翌年、令和4年3月6日(日)に延期することにいたしました。
何卒、ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。

[contact-form-7 id=”5385″ title=”第104回粟谷能の会”]

2021年粟谷明生能楽教室投稿日:2020-12-01

2021年粟谷明生能楽教室

時間:各コースとも、19時から20時10分ごろまで
会場:五反田、「池田山舞台」
(東京都品川区東五反田5-16-13)
受講料:25,000円(25歳以下の方は8,000円)
下記の予定ですが、曲目等の変更があるかも知れません。ご容赦下さい。

お申し込みはコチラのフォームからお願いいたします。

1/12 1/19 1/26 2/2 (全4回)
(中級 『玉葛』コース)
「玉葛」の仕舞のコースです。
仕舞の難易度は、経験のある方向けのコースとなっております。

2/9 2/16 3/2 3/9 (全4回)
(中級 『葛城』クセコース)
「葛城クセ」の仕舞のコースです。
仕舞の難易度は、経験のある方向けのコースとなっております。

3/23 3/30 4/6 4/13 (全4回)
(女性向けコース 初心者向)
※時間:14時半から15時半
毎回座学20分+実技40分にて謡(発声)と舞(動き)の体験、幅広い能の知識をレクチャー致します。
お能が初めての方、大歓迎のコースです。

5/11 5/18 5/25 6/1 (全4回)
(初・中級リクエストクラス)
詳細未定

6/8 6/15 6/22 6/29 (全4回)
(初・中級リクエストクラス)
詳細未定

7/6 7/13 7/27 8/3 8/24  (全5回)
(上級 『女郎花』クセとキリのコース)
全5回。仕舞「女郎花」という長めの仕舞のコースです。
仕舞の経験者の方限定です。

8/31 9/7 9/14 9/21 (全4回)
(初級 『人間五十年』コース)
謡と舞を体得しちゃおう!
毎回座学20分+実技40分

9/28 10/5 10/12 10/19 (全4回)
(初級 湯谷コース)
仕舞「湯谷」を舞ってみようというコースです。
初心者の方、大歓迎のコースです。

10/26 11/2 11/9 11/16 (全4回)
(中級 雲雀山コース)
仕舞「雲雀山」のコースです。
難易度は、仕舞の経験がある方向けのコースです。

11/30 12/7 12/14 12/21 (全4回)
(初・中級リクエストコース)
詳細未定

『氷室』白頭を勤めて投稿日:2020-07-16

『氷室』白頭を勤めて
コロナ下で能の美意識を思う

粟谷 明生

今年(令和2年)3月以来、新型コロナウィルス感染症による自粛要請で、能だけでなく、音楽、映画、演劇などの芸能活動が軒並み中止に追い込まれました。国立能楽堂での公演も6月まですべて中止、7月から感染予防対策を講じて再開されることとなり、私はその第1回目として定例公演で、能『氷室』を勤めました。私としては、3月の粟谷能の会の『朝長』以来、実に4か月ぶり、久しぶりに舞台に立てた喜びを感じています。

舞台を勤める仲間も、久しぶりに会えて笑顔をかわし、全員が揃って舞台を創り上げる喜びをかみしめていました。一人の代演もなく、予定された出演者で気持ちを合わせ、舞台を無事勤められて、気持ちよいスタートがきれたことを嬉しく思っています。


当初、7月の公演も出来るかどうか危ぶまれ、実施するとしても、ソーシャル・ディスタンスを保つために観客は100人ぐらい、と聞かされましたが、その後、100人が300人となり、国立能楽堂の全客数のおよそ半分で公演ができることとなりました。当日の客席は前後左右を空け、市松模様のように座っていただきましたが、満席となり、みなさまがコロナ下にあっても駆けつけてくださったことに、ただただ感謝申し上げる次第です。


では能『氷室』ついて記します。
『氷室』は脇能に分類されますが、氷室を守る氷室明神(後シテ)の面はベシミ系で、「三日月」や「邯鄲男」などを使用する『高砂』や『弓八幡』、『養老』の神々の形相とは異なります。これは氷室明神が清浄な氷を神格化したものと考えられますが、私は液体の水から固体の氷への変貌を、強く口を結ぶ「べしむ」表情で表現しようとしたのではないか、と考えています。とにかく脇能としては特異な面の選択です。


先ずは簡単にあらすじをご紹介します。
亀山院に仕える臣下(ワキ)が丹後国の久世戸に参詣した帰途、氷室山に立ち寄ると、氷室守の老人(前シテ)と若い男(前ツレ)が現れます。老人は年々捧げる氷の謂れや氷室がこの地にあることを語り、夏でも氷が溶けないのは君徳によるものだと讃え、臣下に氷を献上する祭を見るように勧めて氷室に隠れます。<中入>
氷室明神に仕える神職(アイ)が雪乞いや雪まろめを見せると、やがて音楽と共に天女(後ツレ)が降りて舞楽を舞い、氷室明神(後シテ)が氷を持って氷室から出現します。明神は氷の威力を見せ、君に捧げる氷の守護神となり、臣下を都に送り届けます。
このような内容で、氷を守る氷室明神と夏でも氷が溶けない君徳を寿ぐ、脇能です。


『氷室』は初演でしたが、今回は小書「白頭(はくとう)」で勤めました。
「白頭」は前場に変わりはありませんが、後場の装束や面、謡い方や動きが少し変わります。
まず、頭(かしら)の毛が赤色から白色になり、装束は白色の袷狩衣となります。面は常は「小ベシミ」ですが、白頭になると老いた顔の「悪尉ベシミ」に替わります。謡い方もどっしりと速度がゆっくりとなり、動きも重々しく遅くなります。
初演は小書無しの通常の演出で勤めるのが本来ですが、私自身、白髪も増えて徐々に高齢者の仲間入りです。速い動きよりもゆったりとした動きの方が今の自分の体力に似合っているので小書「白頭」で勤めさせていただきました。
演ると、やはり冷たい氷室のイメージ、氷室を守る氷室明神を想像するとき、赤い毛の赤ら顔の形相ではなかなか難しいと思いました。小書「白頭」の演出が本来の姿ではないでしょうか。


話は前後しますが、前シテの老人は『高砂』同様、「小尉」の面をつけ装束は水衣に白大口袴、雪を掻き集める「柄振り(朳)(えぶり)」と呼ばれる小道具を持って登場します。
ワキに問われるまま、氷室の謂れや夏でも氷が溶けない君徳を語った後、「夏の日になるまで消えぬ薄氷」から始まるクセは居グセで地謡が話を進めます。


そして上羽(シテ謡)の「然れば年立つ初春の」で「柄振り」を持ち、地謡の「雪のしづりを掻き集めて、木の下水に掻き入れて、氷を重ね雪を積みて・・・」に合わせて、雪をかき集め、氷室に見立てた作り物の塚に雪を投げ込む型をします。全体に動きが少ない中で唯一、前場の見どころです。


演者にとってこの「柄振り」、実は意外と扱いにくく難儀します。「柄振り」は土の表面をならす道具で、柄の先についた横板の掻く部分(土に当たるところ)が常に下になるように持たなければなりませんが、面をつけるとこれがなかなかうまく持てません。いい位置を保つのが難しいのです。「柄振り」を使う曲は『氷室』以外にはなく、不慣れですが、今回は稽古でも本番に使う柄振りが使えたので助かりました。


今回、中入り前の地謡「薄氷を踏むと見えて」で、特別に『天鼓』の宮殿に上るときの「抜く足」の型を取り入れてみました。老人が薄氷の上を浮遊するように氷室に入る感じが出せれば、と試みてみましたが、どのようにご覧になられたでしょうか。


後シテの登場は塚の引き回しが外され、氷室明神が両手に大きな氷を持って現れます。
この氷の小道具が意外と大きく扱いにくく、稽古では何も不具合を感じませんでしたが、いざ袷狩衣を着ると重い袖が邪魔で、よりいっそう重く不自由さを感じました。


塚から出て、舞働とキリの仕舞を舞い、氷をワキに渡すと一曲も終わりです。今回は福王流のようにワキが氷を持って先に入幕する演出を下掛宝生流宗家・宝生欣哉氏のご許可を得て殿田謙吉氏に勤めていただきました。都に氷を運ぶワキを、シテは後ろで見送り見守る演出で、お客様にはわかりやすかったのではないでしょうか。


さて今回は、コロナウィルス感染下にある演能についても書き留めておきます。
まず、お客様には検温、マスク着用、消毒、などのご協力をいただき、主催者の国立能楽堂は、至る所に消毒液を置き、座席の周りに十分な空間がとれる対応をしていました。
感染予防のため、密集、密閉、密接を避ける東京都からの要請にも応え、舞台からお客様までの距離は十分空けて、飛沫感染の防止対策は万全に近い状態でした。お越しになられたお客様にご心配をおかけするようなことはありませんでした。

近頃、舞台上で地謡がマスクをしたり、互いを仕切るパーテーションを置いたり、換気のため切戸口を開け放すなどしているようですが、これはお客様に対する安全対策ではありません。これらは実は能楽師同士が感染しないためのガイドラインに沿った処置にほかなりません。我々、出演者は政治家や都庁に勤務する方々と同様、日頃から感染に気をつけて健康です。当日の楽屋入りの際には検温をし、楽屋ではマスクをして、ソーシャル・ディスタンスを保ち、万全の対策で待機していました。そしていざ舞台では、お互いを信じ、気持ちを張り詰め、よい舞台を勤めることだけを考え一致団結しました。この思いが能役者には大切で忘れてはいけない役者意識、魂でもあります。

演者が自身と隣の身を守るためにマスクをして、パーティションを置けば、当然舞台の空気は変わります。お客様はそれを見てどうお思いになるのでしょうか。能役者さんの安全も大事ですね、そんなにまでして観客に対して気をつけて下さるんですか、と好意的に受け取って下さる方もいらっしゃれば、リスクを背負って観に来ているのだから従来通りの美しい能舞台を繰り広げてほしい、と思われる方もおられるでしょう。この問題は賛否両論です。それは十分承知です。ただ私は、お越しいただいた皆様に、出来る限り従来の本物の能をご覧いただきたい一心でした。演者はマスクをしない、パーテーションも置かない、切戸口も閉める、私の思う能の美意識を損なうような演出は行わない、それを最優先にしたのです。

地謡も常の通り、二列八人で謡ってもらいました。二列八人では危険だから一列五人で、と仕方なく対応される方もおられるでしょう。それはそれで結構です。
しかし地謡は人の声の力です。二列八人を変えれば力量が変わってしまいます。
人数が減っても謡える人が揃っていればいい、とおっしゃる方のお考えもわかりますが、後列の四人が地頭を中心に、隣同士で「機(気)」を感じ息を合わせて前列の四人に声と機で伝え、その結果、八人の声が一つになって聞こえるのが地謡です。西洋音楽のようなきれいに一つにまとまる音ではなく、ゴツゴツした、いろいろな音が混ざり合い、それが一つの塊となって聞こえて来るのが良い地謡です。

歴史を訪ねれば、地謡はいろいろな形で謡われてきました。喜多流の謡本には地謡ではなく「同音」と書かれています。これはワキも一緒に謡っていた名残です。
今、地謡は二列八人が定着しています。それは年月を経て、この形が「吉」として伝わってきたからです。その能の美意識に立ち返ると、コロナ下であっても、削ってはいけない、損ねてはいけないものがあります。

今回、私のこのこだわりを演者の皆様に、もし感染が心配な方は出演をご辞退されても構わないのでお申し出てください、とあらかじめ伝えましたが、皆様、私のこだわりに賛同して下さったことを喜んでいます。

久しぶりの舞台に取り組めた喜びもあり、出演者全員がいつもよりとても気が入り、一つの塊のようになって勤めて下さって、よい舞台が出来たと確信しています。これは当たり前のことかもしれませんが、日頃忙しさの中で忘れかけていた大切なことを、コロナが再確認させてくれたように思います。

それでも、能の様式美を損なわない範囲で、東京都の要請に応える対策としてできることをいくつか試みました。できるだけ密にならないようにと、ワキとワキツレの連吟が終わると、常はワキツレは地謡前に一曲が終わるまで着座しますが、今回はすぐに切戸口から退場しました。また後場では、天女(後ツレ)も舞い終わるとそのまま、橋掛りから退場してもらいました。また、東京都からの演能時間の短縮化に応えて、すべての登場の出囃子を一部省略し演能時間を短縮しました。

3月から演能が出来ず、これだけ長期の休みは初めての経験です。舞台があることが日常だったのが、そうではない事態を突き付けられ、舞台や公演、お弟子様の稽古までが次々と中止、延期となっていく中で、今後どのように舞台を再開し、生活していくのか、と悩みました。

今回は国立能楽堂だからこそ、採算度外視してでも出来る、入場者半数でのスタートですが、一般の個人能楽師主催の会では再開へ踏み出すことが難しく、公共機関も感染を怖れて公演には前向きではない状況です。

しかし、それでは停滞どころか死滅に向かってしまいます。この苦しい状況でも、どうにか動き出さなければなりません。今、再発見したことを無駄にせず、苦しい時代を潜り抜けてきた先人たちを見習い、自分は己の能を貫ぬかねばならない、と思いを強くしているところです。

『氷室』出演者を記載しておきます。
前後シテ 粟谷明生
前シテツレ 佐藤 陽
後シテツレ 友枝雄人
ワキ 殿田謙吉
ワキツレ 則久英志
ワキツレ 野口能弘
アイ 大蔵彌太郎
アイ 吉田信海
笛 竹市 学
小鼓 鵜澤洋太郎
大鼓 山本哲也
太鼓 桜井 均
後見 中村邦生
後見 狩野了一
地頭 長島 茂
地謡 金子敬一郎
地謡 内田成信
地謡 粟谷充雄
地謡 佐々木多門
地謡 大島輝久
地謡 友枝真也
地謡 塩津圭介
以上
                            (2020年7月 記)
写真 能『氷室』 提供 国立能楽堂 

国立能楽堂定例公演「氷室」投稿日:2020-06-01

国立能楽堂 2020年7月定例公演

大槻能楽堂自主公演投稿日:2020-04-05

延期となりました
情報が入り次第、更新させていただきます

『朝長』を勤めて投稿日:2020-03-18



撮影 成田幸雄

『朝長』を勤めて
前シテの語りに挑む
粟谷 明生

昨年(2019年)の12月ごろ中国で発生した新型コロナウイルスが、今年に入って日本にも上陸し、2月の後半には感染拡大を防ぐための正念場として、各種イベントの中止などが要請されました。ちょうどその折も折、3月1日は国立能楽堂にて粟谷能の会でした。
国立能楽堂主催のイベントはすべて中止か延期となりましたが、粟谷能の会は最善の注意を払って実施する決断に至りました。
皆様には、具合の悪い方はご入場をお控えいただき、マスクの着用、手洗い、うがいの励行などを呼びかけ、注意を払ってお出かけくださるようお願いいたしました。当日は、欠席の方もございましたが、ご来場いただきました皆様のお陰で無事開催でき、今のところ、とりたてて問題は起こっておらず、ほっと胸をなでおろしているところです。
非常事態にも関わらず、ご来場いただいた皆様、よい舞台をつくってくださった囃子方の皆様、ワキの森常好氏、アイの野村萬斎氏、地謡、後見の方々には感謝申し上げます。

では私がシテを勤めた『朝長(ともなが)』について記していきます。
朝長は源氏の武将・源義朝(よしとも)の次男です。義朝親子は平治の乱で平清盛と戦い、敗北して都落ちします。

能『朝長』では、長男の悪源太義平は平家方に生け捕られて斬首され、三男の頼朝は弥平兵衛に捕られて都に送られ、父義朝は野間の内海に落ち行き、頼みにしていた長田に裏切られ討たれたと、史実通りに描いています。ところが朝長に関しては、膝に矢傷を負い、美濃の青墓の宿に着くと、史実では、父義朝によって不甲斐ない息子として斬られてしまいますが、能では、「味方の足手まといになりたくない、雑兵などに討たれて犬死するくらいならば・・・」と、潔く自害する演出になっています。

作者はなぜ、史実を曲げて戯曲を作ったのでしょう。私の推察では16歳という、まだ若い我が子を実の父が斬るという無惨な史実を、自害する演出に変える事によって、より朝長の健気さ、将来ある若者の痛ましさがクローズアップされる、と考えたからではないかと思います。

『朝長』の舞台進行は、朝長が自害して10年の月日を経て、元乳母子(めのとご:養育係の子)として朝長に仕えていた嵯峨清涼寺の僧(ワキ)が、都大崩れで重傷(おもで)を負って自害した朝長を弔おうと、青墓の宿に向かうところから始まります。



撮影 新宮夕海

そこに青墓の長者(前シテ)が現れます。謡本には名は記載されていませんが、大炊延寿(おおいのえんじゅ)と考えられます。青墓の宿の女主人でそれなりの経済力もあり、源氏の応援者で、義朝とは深い関係にあったように思われます。都落ちした義朝親子が敗走の途次、長者を頼みにして訪ね、一夜を明かしますが、その夜、朝長の自害という事件が起こります。長者は朝長の最期に居合わせ、惨事を我が子のことのように嘆き、その後も弔い続けています。

前場は、朝長にゆかりのあるシテとワキの二人が出会い、朝長の死を嘆き、語り合う様子を丁寧に描いていきます。

ここに喜多流と他流との演出に少し違いがあります。まずは登場の場面で、上掛りはシテが侍女や伴の者(男ツレ)を連れて登場しますが、喜多流はシテ一人で出ます。まだ物騒な戦乱の世でしたから、長者は伴の者を連れて出なければならない事情があったのでしょうが、喜多流は一人、伴を連れていません。これは青墓の長者に焦点を当てたいと考えた喜多大夫の意図のように思えます。今回、最初はどこの誰ともわからない僧へ警戒心を持ちながらも、僧が朝長の乳母子であると分かると、次第に心を許して、問われるままに、朝長の最期の様子を語る、そのようなシテの心の動きがご覧になる皆様に伝われば、と勤めました。


もう一つの違いは、ワキの僧の役名が流儀により異なることです。福王流は「御傳(おんめのと)」と、名乗りますが、下掛宝生流は「御乳母子(おんめのとご)」です。「子」が付くと付かないでは大きな違いがあります。乳母子は養育係の子なので、朝長と年齢もそう変わらず、昔一緒に暮らし遊んだ間柄になりますが、御傳では、朝長から見たらおじさんのような存在で、やや遠い感じになります。今回は下掛宝生流の森常好氏でしたので、喜多流の謡本と同じで、私としては演じやすく感じました。



撮影 新宮夕海

さて、前場の地謡の位(スピード)をどうするか・・・。
実は『朝長』の謡の位は確固たるものがあるわけではありません。喜多実先生(十五世喜多流宗家)時代の謡と、父菊生が謡っていた位取りは違いました。結論から申しますと、シテの語りの位に地謡や囃子が合わせれば良いのです。

私はあまり重苦しいべたつく感じではなく、むしろ強い気持ちを前面にぐんぐん押すように謡いたいと思いました。初同(地謡が初めて謡うところ)の「死の縁の所もあひに青墓の・・・」(「死」という縁で出会った青墓の地・・・)の謡は、悲しさをじっくりじんわり謡うのではなく、やや強く張り上げる勢いある地謡を望み、地頭の長島茂氏や副地頭の金子敬一郎氏、小鼓の鵜澤洋太郎氏や大鼓の亀井広忠氏に私の気持、意図をお伝えしました。そして私の思う位で謡い囃してくださった事にとても感謝しています。

初同が終わると、ワキに「朝長の最期の仕儀を語って」と所望され、シテの語りが始まります。この語りはその場に居合わせた者のみが知る迫真の語りで、能『朝長』でもっとも大切な見せ場であり、聞かせどころです。



撮影 成田幸雄

「八日の夜に入りて、あらけなく門(かど)を敲く音す」と、義朝親子ら武具(もののぐ)した武人が「あらけなく」やって来て、一夜の宿を頼む緊迫した場面から始まり、やがて、膝の口を射られて重傷を負った朝長の自害の話に移っていきます。
「夜更け、人静まって、朝長の御声にて、南無阿弥陀仏」との声。
「こはいかにとて鎌田殿参り『朝長の御腹召されて候や』と申されければ、
義朝驚きご覧ずるに、はや、
御肌衣(おんぱだぎぬ)も紅(くれない)に染みて、目も当てられぬ有様なり」と。
そして、鎌田殿が朝長を抱きかかえ、義朝が「何とて自害するぞ」と問うと、朝長は苦しい息で、膝の口を射させられ、もう一足も歩くことができない、敵にあって犬死するよりは自害したほうがよい、雑兵の手にかかることはあまりに口惜しい、「ここにてお暇賜はらんと」と、シテが語り終えるや、地謡が「これを最期のお言葉にてこと切れさせ給へば・・・」と、続いて謡います。

シテの語りは、最初は青墓の長者の語りですが、あるときは朝長となり、あるときは義朝となるような、その場の様子がリアルに想像できるように謡わなければなりません。父菊生が「御肌衣も紅に染みて・・・の謡は、床がみるみるうちに真っ赤になっていくのが想像できるように謡わなきゃダメだ」と話してくれたことを思い出します。



撮影 新宮夕海

実はこの大切な語り、かなりの悪条件のもとで謡わなければならず、シテは大変苦しいのです。次第で登場して名乗り、サシコエ、下げ歌、上げ歌と謡って、正面先に出たあとは、ずっと座ったままです。ワキとの問答によってお互いの素性や朝長との縁がわかり、初同、語り、そのあとの地謡まで、ずっと窮屈な唐織の着流し姿で座り続けなければならないので足が痛くてたまりません。
難しい語りをこの肉体的苦痛に堪えながら演じるのですが、不思議なもので、語りを謡っているときはさほど痛みを感じません。語り終えると、安心するのか、急に足の痛みが襲ってきます。
今回は足の痛みを少しでも和らげたいと思い、大きめの、生地が柔らかな唐織を観世銕之丞氏から拝借しました。いつも大事な物を貸してくださる銕之丞氏には本当にお世話になり感謝しております。

シテが語り終え、「これを最期のお言葉にて」と、「悲しきかなや」の段、「かくて夕陽(せきよう)影映る」の段、これらをどのように謡い分けるか。今喜多流では確固たる決まりはありません。
昔、父菊生にどのように謡い分けるのかを尋ねたことがありますが、答えは「その場の雰囲気だよ」の一言でした。何かはぐらかされたように思っていましたが、今それが正論と判りました。
能は常にシテの謡を受けて地謡が謡う、シテが強く謡えば強く、シテがじんわり謡えば柔らかくなのです。シテの謡に合わせる事は、判っていたつもりでしたが、今回の『朝長』がそれを更に教えてくれたように思います。

細かいことですが、 「これを最期のお言葉にて」の謡、父菊生は「こーれーを・・・」と1音1音ずつ音を上げて謡っていました。音を少しずつ上げる事で謡がホットになるのです。逆に平坦な音の並びではクールで熱が伝わりません。父が「僕の謡を浪花節みたいだ、と言うが、浪花節で結構じゃないか・・・」と言っていたことも思い出しました。私も数多く『朝長』の地謡を経験してきましたが、今は菊生風が一番だと思っているのです。そして、この事を地謡陣に伝えると「はい、菊生先生のパターンですね」と、すぐに了解してくれたのは菊生の謡が今に伝承されている、と息子ながら嬉しかったです。



撮影 成田幸雄

そして、もっとも難しい「悲しきかなや」の段です。人間もみな、死すれば骨となって苔底に埋もれていき、会いたくとも会えず、声を聞きたくても聞くことができない、ただ仏も衆生もそれを憐れむ心が大切なのだ、そうすれば亡魂も哀れと思うだろう・・・と、これを聞くとき私は、青墓の長者も僧も悲しかっただろう、そして16歳という若さで自害しなければならなかった朝長も無惨で悲しかっただろう、仏もそれを救うことができない、強烈な絶望感がありながら、弔うものと弔われるものが強く支え合っている、これが自然の摂理なのだと、諦めとは違う強いものを感じます。だからこそ先に述べたように、やや強い謡が必要なのです。



撮影 新宮夕海

次の「かくて夕陽影映る・・・」では、それまでの緊張感からやや解き放たれて、ふと空を見上げると陽が落ち夕暮れです。シテは僧を伴い青墓の宿に帰り、僧を大切にお世話するようにと申しつけ中入りとなります。「かくて夕陽」からは情景描写となり、柔らかな雰囲気となります。前の「悲しきかなや」をやや堅く強く謡うことで「かくて夕陽」の穏やかさに効いてきます。
能『朝長』の前場は動きがないので退屈してしまうかもしれませんが、このような凝縮されたよい詞章に耳を傾け、情景を想像する訳ですから、演じる者にもご覧になる方にも大曲、という事になるのでしょう。



撮影 成田幸雄

後場は、ワキが観音懺法を読み弔っているところへ、「あら たっとの懺法やな」と後シテの朝長の霊が現れます。そして、源氏の、とりわけ父や兄、弟の悲運を語り、長者や僧の弔いに感謝し、自害になるまでの様子を再現します。しかし、後場は前場の語りほど重苦しくなく、どちらかというとさらりと描かれています。演者としては、常の型付通り演じればよく、それほど難しいというものではありません。
また、「前シテと後シテがまったく別人格を演じ分けるのは難しいでしょう?」と聞かれますが、
「さほど苦にはなりません」とお答えしています。



撮影 成田幸雄

後シテの面は伝書には「中将」と書かれています。16歳の朝長に大人顔の「中将」は不似合いですが、『朝長』という曲を大事に扱う、位の高さからの配慮だと思われます。朝長は16歳ですから、そのものズバリの面「十六」を使用するのが理に適うのですが、どうも「十六」ではかわいらしく、能『朝長』には軽すぎるように思い、我が家にある「今若」にしました。「今若」は凛々しい顔で、朝長にはやや強すぎるかもしれませんが、潔く自害する強さも持ち合わせているので適当だと決めました。



撮影 新宮夕海

最後に、『朝長』の作者について考えてみます。喜多流の謡本では作者は世阿弥となっていますが、昨今の研究では、命の尊さをテーマに、世阿弥とは異なる作風で悲劇を得意とする、世阿弥の長男・観世十郎元雅の作ではないかという説が有力になっています。
前シテと後シテが同人物でないことや、また史実を曲げての演出は世阿弥らしくありません。朝長が父に斬られたのではなく自害した演出も観音懺法で弔う演出も工夫のひとつだと思います。
観音懺法は実は平安末期にはまだ存在していませんでした。元雅の時代に流行っていた観音懺法を取り入れることで、観客に親近感を持たせる効果を狙ったものと推測できます。



撮影 成田幸雄

私も演じていて『朝長』の作者は世阿弥ではないと感じ、元雅作に賛同します。それに、元雅は前シテと後シテを別人格で描く先駆者ではなかったかと思います。それ以前の作品で、このような配役は見当たりません。元雅は世阿弥が確立した複式夢幻能の定型を打ち破り、能の新しい可能性を切り拓いたのではないでしょうか。以前、前シテの青墓の長者を弔いの場に残し、後シテの朝長の霊を別の役者が勤める演出もありましたが、どうも説明的で、現行の演出の方が能として完成度が高いと思います。



撮影 新宮夕海

今回、能『朝長』を勤めて、『頼政』、『実盛』の三修羅といわれる大曲を勤められて感慨深いものがあります。修羅能はあと一曲『兼平』を残していますが、そのうち勤めて修羅能全曲制覇をしたいと思っています。ここまで舞台を踏むことが出来たのは、ひとえに健康に恵まれ、お客様に恵まれ、一緒に作品を創り上げる能の仲間に恵まれたから、と感謝の念で一杯です。命の限り、能というものに挑戦していきたい、と『朝長』を勤め終えて思っています。
(令和2年3月 記)

粟谷明生の能楽教室2020投稿日:2020-03-03

粟谷明生の能楽教室
お申し込みお問い合わせは下記フォームよりお願いいたします。

能楽教室はプログラムが一部変更となりました
下記日程を予定しおります
なお、都合により安宅のクラスは中止とさせていただきます

・田村クセ
6月2日、9日、16日、30日

・柏崎道行
7月7日、14日、21日、28日

>お申し込み・お問い合わせはこちらから<

『谷行』素袍を勤めて投稿日:2020-02-04

『谷行』素袍を勤めて


令和2年1月25日 「大槻能楽堂リニューアル記念日賀寿能」にて、仕舞『谷行』を「素袍」の小書にて勤めました。

昨年9月7日の能楽座公演での仕舞『熊坂』小書「長裃」に引き続き、今回の仕舞とで、喜多流にしかない珍しい仕舞小書の二曲を勤められたことは、とても良い勉強となりました。


今回の大槻能楽堂リニューアル公演の晴れの舞台にて、大槻文蔵先生より『熊坂』「長裃」か『谷行』「素袍」のどちらかで、とのご依頼を受け、「長裃」は父が前回の改修工事記念公演にて勤めたので、親子で同じものも記念になるかと思いましたが、まだ勤めた事のない『谷行』素袍の方が勉強になると思い、演らせていただきました。


長裃や素袍はとても動きにくい扮装です。
何故、動きにくい環境で、動きの速い仕舞を舞わなければいけないのか?
何故、それが喜多流にだけにあるのでしょうか?

先人からの話では、室町時代よりある四座(現在の観世、宝生、金春、金剛)より後に出て来た喜多大夫への、江戸期の将軍や殿様からの技芸の採点であり、からかい半分の嫌がらせでもあったのではないか、と聞いていますが、確かではありません。

当然、指名された大夫は、不自由な状態でも、恙無く舞わなければいけません。
そこで常とは違う型を駆使して勤めたものと考えられます。


さて、『谷行』素袍の型ですが、通常の型と少し違います。
素袍は当然、侍烏帽子を被ります。素袍の長い袴を引きずり、両袖が長く大きな袂はとても舞いづらいものです。


そこで、本来の両足や片足飛びの型をせず、足払いの型に替えたり、飛ばずに裾払いでこなし、しかしあまりに消極的に見えてはいけないので、そこを大胆に粗相なく舞う事を、第一とします。


ではこの小書を私はどのように伝承しているのかを、ご紹介します。
亡くなりました伯父の新太郎が勤めることになり、喜多実宗家に習いに行くと、「自分は知らないので兄の後藤(得三)のところに行ってくれ」、と言われたそうです。
新太郎は後藤先生に直伝を受け、その教えが菊生から能夫へと伝わり、そしてこの度、私が披かせていただく事となりました。


この小書で舞う時の地謡は、舞い手が素袍を着ているからといって、丁寧にゆっくり謡うのは良くありません。やや速く謡う心持ちの方が良いようです。動きにくいだろうと思いゆっくり謡うと、妙な鈍重感が生まれ、キリッとした鬼神の俊敏性が見えずよくないのです。少し速めに謡われる中で、両袖と裾のさばきを巧みに見せるところが、演者の心得だと思っています。

もう舞うことは無いでしょうが、これから舞う人へのメッセージと思い、ここに書き記しておきます。
このような晴れの舞台で『谷行』の「素袍」を勤めさせていただきました大槻文蔵先生に心よりお礼を申し上げます。

(『谷行』素袍 写真 シテ 粟谷明生 撮影 森口ミツル) 

『羅生門』を勤めて投稿日:2019-12-24


ワキ方が大活躍する
『羅生門』を勤めて

「第3回下掛宝生流能の会」(2019 年12月21日・於国立能楽堂)にて『羅生門』を勤めました。
『羅生門』はワキ方が活躍する稀曲で上演頻度が低い能です。

喜多流での『羅生門』の演能は近年では、1983年に友枝昭世師が「穂高光晴の会」で、これが私の記憶では最初で、その後に亡父 菊生が1987年65歳にて「国立能楽堂定例公演」で勤めています。二回ともワキは宝生閑師が勤められています。

今回の『羅生門』は喜多流としては32年ぶり、3回目となります。ワキは殿田謙吉氏が披かれました。ここでシテとして、貴重な機会を与えていただきまして、会主の宝生欣哉様に、厚くお礼と感謝を申し上げます。

父は65歳、私は64歳と不思議と年齢が近く、自然と父を意識してしまい、同じ面「顰」と装束を着て、父の鬼を思い出しながら、また父に負けないように、と思い勤めました。

『羅生門』は前場と後場のある複式能です。

前場は、源頼光(主ワキツレ)が先頭に立ち、平井保昌(ワキツレ)や大勢の頼光の郎党(ワキツレ)を従えて登場し、屈強の兵を想像させてくれます。ワキの渡辺綱は最後に、しんがり、として登場します。

春のひととき、綱が頼光や保昌に酌をして酒宴を楽しんでいると、保昌が羅生門に鬼が出るという噂話をはじめます。それを聞いた綱は鬼などいないと、反論し口論となり、遂には綱が羅生門に行き標(しるし)の札を置いて来ることとなります。今の夏の夜の肝試しみたいです。

後場は綱が一畳台に上がり、宮の作り物の中に札を置いて帰ろうとすると、シテ(鬼)が姿を現し、綱の兜を掴み、奪い取ります。



  
兜を持った鬼が現れると、綱に兜を投げ捨て、その後は両者の闘いとなり、腕を斬り落とされた鬼は、また来る、と叫びながら虚空に逃げ去ります。
物語はわかりやすく演能時間も50分ほどの短い演目なので、どなたでもお気軽にお楽しみいただける作品です。


この曲のシテは謡が一句も無く、しかも勤めるのは後場だけです。
後場の出番も短いため、あまり重圧を感じる事なく勤められますが、往々にしてあまり気が入らないような事もあるようで、ここはモチベーションをいかに上げて荒々しい鬼に扮するかが大事です。そして日頃ワキ方の皆様がシテにうまく対応してくださる様に、この曲こそ、シテはワキが演じやすい様にお相手する事が使命で、大事な心得だと思いました。

『羅生門』のシテには珍しく面白い演出がいくつかあります。

後場でワキは鍬形をつけた黒頭を兜と見立て登場します。
手に持つ札を宮の作り物の中に差し入れるとシテは後ろから兜を掴む型となります。

ここの型は引き回しを下ろさずに後見が掴むやり方と、シテの首元まで下ろし鬼の形相を見せ、シテ自身が掴み取る二通りが伝書に書かれています。

友枝昭世師は後見に取らせ、亡父は自身で掴んでいました。今回は父を真似てシテ自身が奪い取る型で演りました。

鬼の姿を見せて、片手でワキの兜の黒頭を掴み実際に引き千切るように奪い取ると、すぐに引き回しを引き上げ鬼は姿を隠しますが、ここは後見2人の息のあった所作が腕の見せ所で、今回とても上手くこなしていただきました。

作り物から出て台に上がり姿を見せた鬼は、持っていた兜の黒頭を実際に投げ捨てます。喜多流ではあまり投げ捨てる型はありませんが、ここは大胆に、鬼らしく投げ捨てます。

そして黒頭を捨てた鬼は一畳台より飛び降り、綱への威嚇を表す舞働となります。型は『紅葉狩』や『船弁慶』と同様で動きの寸法も変わらず、ここに敢えて工夫はしませんでした。
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最後に両者の闘いとなり、綱に斬られた鬼は遂に片腕を斬り落とされて「脇築土に上り(わきついじにのぼり)」の謡に合わせて片足で台の上がり下りをして幕に走り込み消えます。退治した綱は名を挙げた!と脇留で終わります。
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今回ワキを披かれた殿田謙吉氏は今年還暦を迎えられ、私と同年代です。亡き宝生閑師に師事されました。殿田氏とは平素から舞台をご一緒する事も多く、お互いによく話合い舞台をつくることができた、と喜んでいます。
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今回の公演が無事に終わると、さて次はいつかな? 今回頼光を勤められた尚哉さんの綱かな、それはいつだろうか・・・私はそれまで舞台生活を続けていられるだろうか・・・と思うと少し寂しくもなりますが、芸は継承される、と信じ、私自身は可能な限り芸道精進を心掛け、これからも健康な身体で舞台を勤めたいと、令和元年最後の能を勤めて思いました。
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短い『羅生門』の鬼でしたが、とても貴重な時間を過ごせた事を感謝し、良き年を迎えたいと願っています。
(令和元年12月 記)
写真提供
前島写真店 成田幸雄 1,6,
新宮夕海 2.3.4.5,7.8.9.10.11.12.13.14.15

『雨月』を勤めて投稿日:2019-12-04

『雨月』を勤めて
住吉明神が描く風情と和歌の徳


(1)

11月喜多流自主公演にて能『雨月』(シテ)を勤めました。
『雨月』は上田秋成の雨月物語と関係ありますか?
と、お尋ねを受ける事がありますが、まったく関係ありません。
能『雨月』は能『高砂』と同じく、摂津の住吉神社の住吉明神を取り上げた演目で、前場と後場の複式構成となっています。前場に老夫婦が登場しますが、シテの老翁は摂津・住吉明神の神霊ですので、シテツレの姥は播州・高砂明神の化身とも考えられます。しかし、ここは敢えて住吉明神だけに焦点を当てた方が、良いようです。


舞台進行にあわせてご紹介します。まず板屋の作物の中にシテとツレが入り引廻で隠して地謡座前に置かれます。


(2)

ワキの西行法師が嵯峨野から住吉大社へ参詣する旨を謡い終えると、すぐにシテは「風枯木を吹けば晴天の雨・・・」と謡い出します。ワキがこれを聞き尋ねてくるきっかけとなる大事な謡です。ワキは宿を所望しますが、老翁はすぐに断ります。すると即座に姥にたしなめられるのは能『鉢木』も同様です。無碍に断る老翁や主人に姥や女房は「だからあなたはダメなのよ!」とたしなめる、これは現代に通じます。
曲名になっている『雨月』は雨と月、どちらが楽しいか?からきています。


(3)

「軒を葺いて雨音を楽しもう!」と言い張る老翁に、姥は「月を見て楽しむには軒を葺かない方がいいわ!」と譲りません。まさに今も変わらぬ夫婦の姿です。「能は現代に生きている!」を証明してくれて面白いです。


(4)

ふと口ずさんだ「賤が軒端を葺きぞ煩う」の歌の下の句に、良い上の句を繋げば宿を貸そう、と言い出す老翁に、西行法師はすぐ「月は漏れ、雨は溜まれと、とにかくに」と上の句を付けます。老翁は喜んで「月は漏れ、雨は溜まれと、とにかくに、賤が軒端を葺きぞ煩う」を詠吟しますが、ここは住吉の神が大好きな和歌を楽しく朗詠する気持を膨らませて謡うところで、前半の一番の聞かせところです。一曲のテーマである「和歌の徳」を前場では音として観客の耳に届ける大事なところだと思い勤めました。


(5)

見事な歌心に感心した老翁は宿を貸すことにします。そして村雨が降ってきたと思ったら風の音だと、思わず老翁は作物から出て、動き舞となります。砧を打ち、落ち葉を集めて秋の名残を惜しみますが、伝書にはあまり舞う意識を持たないように、と記してあります。なるほどあまり動き過ぎては、秋の風情には似合わない、この様な感じは実際に舞台にて、演じてみてはじめて解ることで、貴重な経験が出来たと喜んでいます。夜が更けると西行法師に休息をすすめ、老夫婦は姿を消し中入となります。


(6)

能『雨月』は「風情の能」と、教えられていますが、これは特に前場に関しての教えのようです。秋の情緒ある風景描写と和歌の称賛がこの曲のテーマです。派手な動きがなく地味で渋い能ですので、はじめて能をご覧になる方には少々退屈に思われるかもしれませんが、演者の能楽師としては、この曲をどのように勤め終えるか・・・どのように通過するかが、シテ方能楽師の中間テストのように思われます。落ち着いた曲の風情を醸し出すには、若年では中々難しく、父の言葉「秋の到来を少し寂しく感じるようになって・・・、そしてようやく手掛けられる曲なのかもしれないなあ」を思い出しました。
この度、64歳にて初めて『雨月』を勤めさせていただきましたが、最初は喜びの反面、この曲が選定された事が馬齢を重ねた証であるように思えて、中々複雑な思いでいました。勤め終えて、年を経た者でなければ手に負えないところに少し手応えを感じられたことを素直に喜んでいます。この曲の持つ不思議な力、これを体に染みこますか、撥ね除け通り過ぎるか、そこが今後の能楽人生の大きな分岐点にもなるような、そんな大事な曲だということも、演じて知りました。


(7)

さて中入り後、少し寝てしまい目を覚ました西行は、先程の老人夫婦は見当たらず、自分一人松の下に居ることに気づきます。すると、住吉神社の宮人に乗り移った住吉明神が「石王尉」と呼ばれる老人の面を付けて現れ、自ら名乗り、弊を持ち祝詞をあげて、和歌の徳を讃え舞を舞います。
普通、祝詞はあまり抑揚を付けずに平坦に謡うようにしていますが、『雨月』の祝詞は住吉の神の感情が幾分出た方が良いと思って勤めました。
最後は神が宜祢(きね)に乗り移り、神の思いが言葉を超えて、思わず舞い出す風情で舞います。


(8)

喜多流の後シテの舞は「真之序之舞(しんのじょのまい)」です。他流では「働き」の演出もあるようです。「喜多さんの真之序は仰々しいな」と、お囃子方からもご指摘いただきましたが、従来通りで勤めました。
住吉明神を扱った曲目に有名な『高砂』がありますが、こちらは「神舞」を舞います。


(9)

『高砂』の後シテの使用面について、伝書には「邯鄲男」又は「三日月」と記されていますが、これらのお顔立ちは、若さと力強さを感じさせてくれますので、舞も当然キビキビと早い「神舞」です。一方、『雨月』や『白楽天』の後シテの住吉明神は面「石王尉」を付けて老体として登場しますので、落ち着きながらも力強い「真之序之舞」を舞うというのが喜多流の主張のようです。今回は神力を備えたパワーある老人であるかのように舞いたいと思い、お囃子方にはそれなりのスピード感でお願いしました。


(10,11)

能『雨月』は四番目物にも脇能でも扱える曲です。この曲の舞台進行は、前場では老翁と姥と西行の3人で展開しますが、後場には姥は登場せず、ワキもシテに絡む事はありませんので、脇能の扱いが吉と私は思い、今回は初番でもあるので、脇能扱いとして勤めることとしました。真之序之舞もややサラリと住吉の神様が喜んで舞われているような雰囲気で勤めたく、その旨をお囃子方にお話するとご理解いただき、とても上手く囃して下さいました。ここに感謝申し上げます。


(12)

後場をご覧になる時に注意しなければいけないのは、シテは老体で登場しますが、住吉の神様が老いているのではないということ。老人に取り憑くのがお好きなのです。
神が老人に取り憑いているので、演者としては単に老いた風体を真似るのではなく「不思議な力を持っている爺さんだなあ」と思わせる演技が必要です。これは前場のシテにも言えることですが、特に後シテの住吉明神は、西行法師が嵯峨野からわざわざ住吉まで来て参拝してくれた事への喜びと、更に和歌の徳を伝えようとし、次第に言葉だけでは済ませられなくなり、遂に思わず身体を動かして楽しく舞ってしまうのです。そのような気持ちで勤めました。


(13)

舞い終えた神は西行法師に念を押すように詰め寄るかと思うと、急に宮人から離れます。取り憑かれていた宮人は正気に戻り、本宅に帰宅したと終曲しますが、このもぬけの殻となるところがクライマックスです。ここをうまく見せるためにも、それまでの老体の動きが力強くなくては、変化が強く表れません。それまでのパワフルさが必要なのです。宮人は正に薬を飲んでパワーを発揮するかのように舞い謡い、神が離れると途端に、薬の効き目が切れ力を失ってしまう・・・、これも現代に通じるように思えてなりません。


(14)

今回、はじめて「石王尉」を付けました。この面は『西行桜』では桜の精、『遊行柳』では「柳の精」となりますが、『雨月』や『白楽天』では住吉の神となります。
この面が『雨月』の住吉の神では、なにを思われているのか、何を伝えたいのか、と、お顔を眺め、自身に問いかけていますが、未だに答えはわかりません。まだその域に至っていないようです。
父が勤めた『雨月』の写真の裏に、「膝故障 具合悪し」と記されていましたが、私も左足不良での演能となり、思わず苦笑してしまいました。終演後、先輩方にご挨拶に行くと、「菊生先生に似ていたよ。おとうさんそっくり」と言っていただきましたが、父が勤めたのは74歳の時、私は64歳、この隔たりがあるうえで、父似が、嬉しいような、そんな老人に見えたか、親子だから仕方ないか・・・、とこれまた複雑な気持ちがこみ上げ苦笑しながら、自身の能への道にあと何回テスト曲が来るのだろうか、と期待と楽しみを感じ、健康で能の道を歩いて行きたい、と改めて思いました。

(令和元年11月 記)

写真提供
(前島写真店 成田幸雄)1,4,5,6、9、12,13
(石田 裕)2,3,7,8,10,11,14

喜多流11月自主公演投稿日:2019-10-29

第103回粟谷能の会投稿日:2019-10-17

仕舞『熊坂』長裃を披いて投稿日:2019-09-15

仕舞『熊坂』長裃を披いて

能楽は本来、能面や能装束を着用して演じられますが、それらを使用せずに能の一部分をシテ(主人公)が一人で舞う事もあります。地謡に合わせて舞うのを「仕舞」、お囃子方が入るのを「舞囃子」と言います。

仕舞や舞囃子は通常、全員紋付袴姿で舞台を勤めますが、演能の場所により、また演目が高貴、高尚になると、敬意を表す意味もあり、紋付の上に裃や素袍を着て勤めることがあります。

裃は上半身に肩衣を付け、下半身は袴をはきますが、袴には短い袴と長い袴の二つがあり、短い袴を「半裃」、長い袴を「長裃」と呼びます。

喜多流にはこの「長裃」を小書の特殊演出として仕舞や舞囃子で勤めることがあります。

仕舞は『熊坂』で、舞囃子は『高砂』です。これらは喜多流独自のもので、他の流儀にはありません。両曲とも動きが激しく、動きにくい「長裃」での演能は演者の舞い方の工夫が必須で、そして粗相をしないように細心の注意を払っての勤めとなります。

その仕舞『熊坂』を「長裃」の小書にて、令和元年9月7日 「第25回能楽座自主公演」にて披かせていただきました。

今回の能楽座自主公演は、昨年亡くなられた笛方の藤田六郎兵衛氏を偲ぶ会で、各流儀の方々が集合し、舞囃子、独吟、仕舞、狂言、能と披露され、私もその一人に加えていただきました。

『熊坂』の仕舞は、暗闇の中、高齢(63歳)の熊坂長範が若い牛若丸を相手に薙刀を振りまわし奮闘しますが、翻弄され、最後は敗れた無念さを左手で足を強く叩き悔しがり終わります。
牛若丸を登場させず、熊坂一人で演じるところが能らしい演出です。

激しい動きの型に、長い裾は動きにくく苦労しますが、裾を上手くさばき、粗相無く勤めるのが演者の心得です。

亡父菊生が「通常の飛ぶ型を綺麗な裾さばきに変える、そこが一番の見せどころだよ」と教えてくれたことを思い出し、地謡に普段よりも幾分しっかり、ゆっくり謡っていただき、型の速さより、どっしりとした重厚感のある薙刀さばきを心掛け、敢えて父の茶色の裃を着て勤めました。

事前に実際に長裃を付けて数回稽古し、どうにか無事に舞い終えることが出来ましたが、後日自身の動画を見ると、もうすこし軽快な裾さばきがあってもよかったかな、と反省もしています。さて、この小書はどうして喜多流だけにあるのか、正直はっきりした事はわかりません。

流儀の重鎮・高林白牛口二氏は「残念ながら、喜多家の伝書は明治維新、震災、戦災などで散逸してしまったので書き物としては残っていない。また弟子家にその秘技を教えてはいなかった、と考えられるので結局なにも残っていないのが実情です」
と、教えて下さいました。父が「殿様は不自由な格好でどのくらい舞えるか、技量を見てみたかったのだろう。半分嫌がらせかもしれないなあ。しかし、そこを粗相無く、見事に舞わなきゃなあ」と、話してくれたことも思い出しました。


       

この度の「長裃」の披きに続き、来年1月25日(土)には大槻能楽堂改修記念能にて、仕舞『谷行』素袍を勤めることとなりました。珍しい仕舞の小書を勤められる幸せを感じております。次回も精一杯、活発にそして粗相無くを心掛けて勤めたい、と思っております。

写真 仕舞『熊坂』長裃 シテ 粟谷明生
撮影 新宮夕海

体験しよう!能楽の世界投稿日:2019-09-12

(日時)
11月4日(月祝)
第一部 13:00-14:30 (仕舞・面の体験)
第二部 15:30-17:00 (謡・小鼓の体験)

(場所)
東京五反田・池田山舞台
JR、東急池上線 都営浅草線・五反田駅より、徒歩4分

(参加費)
¥5,000
両方受講の場合は¥8,000

(注意事項)
服装は、ラフな格好で結構です。
お着物でも、デニムスタイルでもご自由です。
白足袋もしくは白ソックスをご持参下さい。

(懇親会)
終了後、17時半より池田山駅近くにて懇親会を行います。粟谷明生と直接お話が出来る時間をお楽しみ下さい。

会費 ¥4,000 (予定)

お申し込みフォームはこちら
https://forms.gle/M9s8joLUj2EC5Thc7

下掛宝生流能の会投稿日:2019-07-07

喜多流素謡・仕舞の会投稿日:2019-07-07

『岩船』を勤めて投稿日:2019-07-01

シンプルな祝言・脇能
『岩船』を勤めて


写真 『岩船』後シテ 撮影 新宮夕海 

                                 粟谷 明生

令和元年の6月・喜多流自主公演(6月23日)で『岩船』を勤めました。『岩船』は御代を祝賀する脇能でシンプルな物語です。前シテは童子(天探女・あまのさくめ)ですが、後場には登場せず、後シテは岩船を守護する龍神として現れます。見どころは、後シテの龍神が櫂棹を持ち、海上を軽快に動きまわる舞となります。

写真 前シテ 撮影 新宮夕海

まずは簡単な『岩船』のあらすじからご紹介いたします。時の帝より、摂津国住吉津守の浦(今の大阪市住吉区)に新しく浜の市を作り、高麗(こま・朝鮮)や唐土(もろこし・中国)の宝を買い取るようにとの勅命が下り、命を受けた勅使(ワキ)が津守の浦に着くと、宝珠を持つ童子(前シテ)に出会います。

写真 前シテ 撮影 新宮夕海 

童子は唐人風ながらも大和詞(ことば)を話し、勅使に御代を賞賛し、帝への捧げ物として宝珠を託します。そして住吉の浜の市の繁栄を寿ぎ、周囲の景色を楽しむと、やがて宝を積んだ岩船がやってくると語り、実は自分は岩船の漕ぎ手の天探女だと名乗り嵐のように消え失せます。

写真 後シテ 撮影 石田 裕

後場は、海中から龍神(後シテ)が現れ、天探女と協力して住吉の岸に岩船を寄せて、船中から宝を運び出します。金銀珠玉が津守の浦に山のように積まれ、そして、神の加護により御代は千代に繁栄すると寿ぎ終曲します。神の住む住吉の市の繁栄、そして岩船がもたらす天から帝への宝のプレゼント、それが作品のテーマとなっています。
前シテの「天探女」とは何者でしょうか。
文字通り、天を探る、天の動向や人の心を探る力がある女神で、古事記や日本書紀にも登場しますが、「天邪鬼」の語源・由来になったとも言われ、あまりよいイメージの女神ではないようです。しかし能『岩船』の「天探女」にはそのようなイメージはなく、あくまでも日本の帝に捧げ物をするためにやってきた女神、という設定です。

写真 前シテ 撮影 石田 裕

能『岩船』の前シテ・天探女は、舞台では能面「童子・どうじ」をつけ可愛い少年のイメージで登場しますが、天探女は女性です。男子の童子として登場することに違和感を持っていましたが、「神は何にでも取り憑ける」と考えると、すんなり腑に落ち演じることが出来ました。

中入前に、自分は「天探女」で岩船の漕ぎ手と正体を明かしますが、後場には登場せず、後シテは一転して、龍神となり登場します。
このように前シテと後シテが全く違う設定は、例えば『鵜飼』『朝長』や『船弁慶』などにもあり、珍しくはありませんが、これが能の大胆な面白い演出方法です。
『岩船』も後場に前シテとは違う龍王を登場させ、そこに焦点を当てたのは、やはりとても奇抜な演出で、演じると、とても面白いと感心してしまいました。

写真 前シテ 石田 裕

さて、曲名『岩船』の岩船とは何でしょうか。正式には「天の岩船(あまのいわふね)」と呼ばれ、諸神が高天の原から天降りになさった時に乗られた船と言われています。この船に、神々が宝をたくさん積んでやって来て、帝に捧げ物をするのですから、七福神が乗っている船をイメージしてもいいかもしれません。
しかし、「天降る」ならば、海の上を「えいさら、えいさ」とやって来るのでなく、虚空を翔け巡り舞い下りて来ればいいのではないかと気になります。

そこで私なりの解釈を紹介します。
岩船は豪華大型船です。入り組んだ湾の中にある住吉の浜には直接着岸できません。
そのため、住吉の浜の遠く沖合にまずは停泊して、今でいうタグボートのような小さな、それでいて馬力がある曳舟が、天の岩船号を岸に寄せる、そう考えると自然です。

このタグボート役を担ったのが後シテの秋津島根(日本土着)の龍神です。早笛で登場して名乗ると、「宝を寄する波の鼓。拍子を揃えて、えいやえい、えいさらえいさ」の謡に合わせて威勢よく曳く様子が描かれます。しかも、龍神には八大龍王が加勢してついには御船を住吉の岸に着けるのですから、豪華です。その様を龍神の俊敏な動きを豪快にお見せするところが演者にとっての最大の技芸の見せ場となります。
八大龍王は難陀、跋難陀、娑伽羅・・・と難しい名前の付いた、中国の八龍王のことですが、後シテはその八大龍王を従えて大活躍する日本の龍王です。中国の龍王は素晴らしいけれど、日本の、純国産の龍王もすごいぞ、とのPRにも思えます。

喜多流の謡本には、ワキ「此の君、賢王にましますにより」と、この国が賢い帝によりよく治められている、だから、神が隣国(高麗、唐土)の宝を集めて帝に捧げるのだというように書かれています。

この国の誇り、偉大さを表現するこの曲は、かなりの日本贔屓の自信過剰と思われます。
今の時代、ちょっとやり過ぎのようにも感じますが、ウラがないストレートな表現が脇能・祝言能のよさかもしれません。同じように神々の話でも切能になると、そこはまたウラがあり、能の戯曲には表と裏があることを知っておくことは大事かもしれません。

日本の龍神が八大龍王に加勢してもらうという設定、実際に龍が八匹も出てくると壮観なのでしょうが、そうはせず、後シテの龍神を代表にして、その様子を描くところが能らしい演出です。しかし例外として、宝生流の小書で『春日龍神』の龍神揃、『鞍馬天狗』の天狗揃など、故意に演者がたくさん舞台に上がる演出もあり、それはそれで豪華ですが、能『岩船』には、そのような小書はありません。

宝生、金春、金剛、喜多の四流は前場と後場のある複式能の構成を今に残していますが、観世流は敢えて前場の無い半能として祝言能に徹しています。

写真 後シテ 撮影 新宮夕海

能『岩船』は一時、喜多流で謡本が発売されていない時期がありました。今は一冊本が販売されて謡のお稽古も可能となりましたが、内容がシンプルで、必ずしも謡って面白い内容とは言えないからか、お稽古される方は少ないようです。

実は演能もそう多くなく、今回は、平成27年に友枝真也氏が自主公演で勤められて以来、4年ぶりでした。それまでも演能は4、5年に1回ぐらいです。
シンプルな内容ですが、こういう祝言能・脇能が存在することを知っていただくうえで、今回の自主公演の番組は意義があると思い、勤めました。いつものことですが、取組んでみるといろいろな発見があり、また工夫してみたいことも出てきて、演能とは実に能楽師にとって楽しい場、といえるのです。

写真 前シテ 石田 裕

今回、装束を唐風にと、心がけました。ワキが童子を見たときに「姿は唐人なるが、声は大和詞なり」と語ります。ご覧になった方が日本人ではない異国の人だと想像出来るように、と扮装を考え装束を選びました。
まず前シテの童子は通常は黒頭ですが、喝食鬘の御垂髪(おすべらかす)に替えました。
また水衣の上に側次(そばつぎ・陣羽織のような唐風袖なし)を羽織り、より唐人の童子のイメージが強くなるように演出しました。唐風の装束は唐帽子などいろいろありますが、粟谷家に唐風を演出するにもってこいの側次があるのは恵まれています。この格好、玄人筋から好評で、まずは安堵しています。

写真 前シテ 撮影 新宮夕海

後シテの龍神の装束は、全体に赤色系統、赤頭に大きな龍を戴き、櫂棹を持って登場します。櫂棹は普通、ただの白木の棒ですが、唐艪(からろ)と謡われていますので、少し唐風にしたいと思い、紅段(赤い布)で巻き異国的な感じを出しました。

写真 後シテ 撮影 新宮夕海

それにしても頭に載せる龍(木製)、昔は重さをなんとも思いませんでしたが、とても重く感じてしまいました。加齢が原因でしょうか・・・。キビキビした動きがだんだん身体から離れていくのが悲しく内心忸怩たる思いはしています。もっと身体を鍛えないといけないようです。

写真 後シテ 石田 裕

喜多流の謡本の前シテの出囃子に「真之一声」と記載されていますが、これは間違いです。「真之一声」は脇能の前シテの出を囃す荘厳な囃子事で、シテツレを伴って出るのが常です。金春流は今でもシテツレを伴って演じられているようですが、喜多流はシテ一人の設定ですので、ここは普通の「一声」で勤めました。

写真 喜多流『岩船』謡本より 

また、中入り後のアイについて、番組の解説に、浦人(アイ)が住吉明神の由来や岩船のことを語ると書かれていましたが、野村万作先生から「和泉流は浦人ではなく、鱗(うろくず)の精です」とご注意を受けました。アイは「賢徳」の面をつけ末社の神の格好で登場し、立ちしゃべりをした後に三段の舞を舞います。
大蔵流のアイは浦人で、舞はなくしゃべりだけです。このように流儀によってアイの演出が違うことがあるようです。今後はより深く事前に調べ、間違えないようにしないといけないと思いました。

写真 後シテ 撮影 新宮夕海

『岩船』は「櫂棹の扱いに注意」がシテの心得で知ってはいましたが、それでも演じてわかったことがあります。申合せの時は袴ですので棹が自分の体そばに寄せる心得を簡単に出来るのですが、本番では幅広の半切袴を履きますから、棹が身体から遠くなり勝手が違います。長い棹の先が舞台上の人間に当たらないようにしなければいけない事を改めて知りました。

『岩船』はあまりにシンプルで、敬遠されるむきもありますが、演者として一度は演ってみてもいいか、と思いました。唐風の装束の工夫や、狂言(アイ)もいろいろあることを知り、櫂棹のことも勉強になりました。いつも演じて思いますが、どんな能も、それぞれに面白みがあるから今に残っているのだと、今回も再認識しました。                    
(令和元年6月 記)

能楽座自主公演投稿日:2019-06-18

能楽座自主公演

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MOA美術館定期演能会投稿日:2019-05-14

MOA美術館定期演能会

11月30日(土) 13時30分開演

◯能楽ミニ講座
シテ方喜多流 金子敬一郎

◯仕舞
「鐘之段」 内田成信
「玉之段」 狩野了一

◯能「紅葉狩」
シテ方喜多流 粟谷 明生

◯狂言「墨塗」
狂言方和泉流 三宅右近

【料金】

SS席   8,000円

S席    7,500円

A席    5,000円

B席    4,000円

お問い合わせ、チケットのお申し込みはこちらから
お申し込み、お問い合わせフォーム

※粟谷明生取り扱いはSS席、S席のみとなります。その他の席種をご希望の方は、MOA美術館ホームページをご覧ください。

訓しい情報はMOA美術館ホームページよりご覧ください。こちら

国立能楽堂ショーケース投稿日:2019-05-03


2019広島蝋燭薪能投稿日:2019-05-02


体験しよう! 能楽の世界投稿日:2019-03-22

粟谷明生の「体験しよう!能楽の世界」

●7月13日(土)
「風」13:00~14:20
「姿」15:00~16:20
●7月14日(日)
「花」13:00~14:20
「伝」15:00~16:20
各回とも定員30名

お問い合わせは、お申込みはこちらから
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『木賊』を演じて投稿日:2019-03-18

『木賊』を演じて
酔狂で描く一途な親心
粟谷 明生

(『木賊』撮影:新宮夕海)

能『木賊』は男親と子の再会をテーマにした物狂能です。能には親子再会物、特に母子再会の女物狂能は多くありますが、男親と子の再会物は珍しく、『弱法師』や『花月』、『歌占』などあるとはいえ、男親が老翁というのはこの『木賊』一曲だけです。

(『卒都婆小町』撮影:前島写真店)

以前喜多流では、『卒都婆小町』などの老女物と同じように、『木賊』は演者が還暦を過ぎなければ勤められない秘曲として扱われていましたが、近年、還暦前に披かれた方々のお陰で、この秘曲が神棚から降ろされ、能楽師にとってやや身近に感じられるようになり演出も見直されるようになりました。

その『木賊』を第102回粟谷能の会(平成31年3月3日)で披きましたが、身近になったとはいえ、難曲であることに違いないことを実感しました。

シテの老翁は生真面目で頑固、子を思う一途な父親で、『木賊』はその一途な親心がテーマです。しかも老人の物狂能で、行方知らずになった息子を思い、酒に酔っては狂う「酔狂」が特殊です。酔狂という言葉、酒を呑んで常軌を逸することと、好奇心から変わったことを好むことと二通りありますが、『木賊』で扱うのは前者の意味です。今ではあまり聞かなくなりましたが、酒をこよなく愛する高知県人は、「あいつは酔狂やきー」などと、今でもうわさ話をします。酒を呑むとしつこくなり、まわりの人が迷惑でも、本人はいたって真剣で、「まっこと、そーじゃきー」としつこく同じ話を繰り返します。「もう先ほど聞きましたよ」と返しても、「いやまっこと分かっておらんで言うてるがやきー」と、若い頃、高知の御弟子様との宴席で実際にそんな酔狂人とお付き合いさせられたことを思い出します。しかし酔狂な人は一本気、一途で頑固であるからこそ、高知には坂本龍馬などのすごい力を発揮する県民性があるのかもしれません。

かく言う私自身も酒好きで、ついつい飲み過ぎ失敗もしますから、人のことをとやかく言えませんが、身近で言えば、父・菊生も酔狂な部分を持ち合わせていた、と思っています。
芸論や子供の教育論などになると譲らず、私と言い争いになったこともありましたが、それもよき思い出となっています。


(『木賊』撮影:石田 裕)

この「酔狂」が存分に描かれるのが、能『木賊』で、特に後半の、ワキの僧たちを家に招いてお酒を勧めるところから、ここが『木賊』の一番の見どころであり、演者にとっても最難関であることは間違いありません。ここがある故に、『木賊』は高位で難曲と言っても過言ではないでしょう。私は普段、あまり面を掛けて稽古をしませんが、『木賊』ばかりは尉の面を掛けなくてはなかなか気持ちが立ち上がってこないので「小牛尉」の面を掛けて稽古を重ねました。

というわけで、まずは「酔狂」の場面を書きたいのですが、その前に、この老翁と息子の関係や、この物語がどう展開していくかを見ておきたいと思います。


(『木賊』撮影:吉越 研)

最初に、息子の松若(子方)を先頭に、師の僧たち(ワキ・ワキツレ)が登場します。信濃国、園原の伏屋の里で育った松若が親に内緒で出家したが、年月が過ぎ故郷の父親のことが気になり、一目対面したいと、故郷の伏屋の里を訪ねます。
そこに父・老翁(シテ)が従者(シテツレ)を連れて、木賊を担ぎ登場し、秋の伏屋の里の景色を謡います。能『木賊』は確かに後半の物狂いの場面は重苦しいですが、前半の僧たちと老翁が出会う場面はサラッとしたものですから、前後の場面の雰囲気は当然違わなくてはいけません。


(『木賊』撮影:新宮夕海)

今回、シテの一声(出囃子)があまりゆっくりと重くならず、軽めにサラサラと囃していただきたく、大鼓の亀井広忠氏に相談すると、「あまり重苦しいのはいかがなものでしょうか。従者の中に老人がいるだけ。老人のスピードに合わせるのではなく、サラリと打ちたいですよ」と言われたので、これ幸い、友枝昭世師の前場は軽くサラリと、の教えの通りに勤めることが出来ました。


(『木賊』撮影:吉越 研)

やがて僧が老翁に、刈り持っている木賊のことや、坂上是則が詠んだ「園原や伏屋に生ふる帚木の ありとは見えて逢わぬ君かな」(新古今和歌集)の歌のことを尋ねます。老翁は帚木というものが遠くからは見えるが近づくと見えない、そのように歌人が知っていて詠んだのだろうと、僧たちを帚木のある場所に案内します。
この「園原や・・・」の歌は恋の歌で、そこに見えているのに、逢えない君と嘆く歌ですが、この歌こそ、能『木賊』の芯になっているのではないでしょうか。
「親の心、子知らず」、「子は親に薄情だ」と怒る父親の一方的な思い込みにリンクさせて構成・演出しているのだと思います。

この帚木、源氏物語でも『帚木』巻があり、遠くには見えるが近くに行くとすっと消えてしまう、そういう女性の象徴のように使われていますが、ここでも親子の情愛のもどかしさに効果的に使われています。帚木という木は、今は落雷にあって根っこしかないようですが、実際に園原村にあった大木で箒のような形をしていたようです。
伝書にも「帚木は、高く見上げる」と書かれていて、今回、実在した帚木の写真を見て、伝書の真実性に改めて感心してしまいました。


(『木賊』ワキ:森 常好  撮影:石田 裕)

さて、この親子、どういう人物で、どうして子は自ら出家してしまったのか、演者として気になるところで、自分なりに推察をしました。

詞章では松若は「稚き人」と書かれていますが、出家したのは9~10歳ぐらいで、そして父に一目対面したいと故郷に訪ねて来たのはそれから10年後ぐらい。
出家して、師匠に一目父親と対面したいと言えるには、少なくとも5年~10年の歳月が必要だったのでは・・・となると、舞台に登場する松若は19、20歳ぐらいということになります。実際、子方はもっと小さい年齢の子が演じますが、それが能独特の演出であって、親子対面の場面で幼い子の方が涙を誘う、その効果を能はよく知っているから、と思います。


(『木賊』子方:大島伊織  撮影:新宮夕海)

老翁の父親の立場と性格は、決して貧しくはない、むしろ名家の主人で、質素、謹厳実直、子供に厳しかったのではないでしょうか。木賊刈りはもちろん生業ではなく、己の山に生え過ぎた木賊を刈るためで、これを家づと(家へのみやげ)だと僧に答えるところからも、推察出来ます。

また、「木賊刈る園原山の木の間より 磨かれ出づる秋の夜の月」の歌を謡いながら、露に映る澄んだ月影も刈ってしまおう、「刈れや刈れや花草」と花をつける草も刈ってしまおう、無駄なものは全部刈ってしまおう、と妙な一徹主義、そして「磨くべきは真如の玉ぞかし」「磨けや磨け、身のために」などと、自身生きるべき道への強い信念があって、その強い思いが我が子の教育にも波及していたのではないでしょうか。

「自分の信じるものは間違いない」「私の言う通りにしていれば、幸せになる」「無駄なことはするな、余計なことは考えるな」などと、一方的に口うるさい頑固親父です。
息子の意見、言い分には聞く耳を持たない父親に対して、松若は黙って家を出るしかなかったのです。

父親は老翁という設定ですが、今とは違い、当時は40から50歳ぐらいで、すでに老い人で、子供が19、20歳なら、ちょうどよい年齢で計算が合うな、と想定して稽古し、舞台を勤めました。

ちょっと話はそれますが、この曲は最初『フセヤ』との曲名だったようです。世阿弥から金春禅竹に相伝された曲名を記した「能本三十五番目録」に『フセヤ』があることから、これが『木賊』の古名だと考えられているそうです。木賊刈りのことはこの曲の最初に出て来るだけ、「園原や伏屋に生ふる帚木・・・」の歌からも、これから起こる伏屋での老翁の物狂いからも、『伏屋』がタイトルでよさそうなものですが、曲名が『木賊』となったのは何故でしょうか。

あまり露骨な表現を嫌う能(申楽)の考え方があったのでしょうか、よくわかりませんが、後の人がどこかで曲名を変えたのは確かです。しかし一見、物語には関係ないように見える木賊刈りで、老翁の実直さや自らを磨こうという謹厳な人となりを描くあたり、戯曲の構成としてうまくできていると感心してしまいます。

話を能の物語に戻します。子供の行方が知れなくなって、父親が苦しんだことは想像に難くありません。老翁は僧たちを自宅に招き一夜接待する「旦過(たんが)」に誘います。僧を泊めて話を聞けば、何か息子の手掛かりがつかめるかも知れないとの思いがあったでしょう。老翁は、自分には子が一人あるが、往来の僧に誘われ、失って(行方不明になって)しまったと告白します。そして「心安く一夜を明かして」といって物着になり、前半は終わります。僧たちに「どうぞ心安く」などと言いながら、ここは、お前らの仲間が我が子をさらったのだという、憎しみといら立ちがあったのではないかと思います。

老翁が物着している間に、従者(シテツレ)が「老翁はおかしな振る舞いをするかもしれないから、気を付けて」と注意すると、すぐに子方の松若が「只今の老翁は父親です」と僧に明かします。僧は喜びますが、松若はなぜか「まだ再会させないでほしい」と僧に頼みます。父と分かりながら、すぐに名乗り出ない、子供の複雑な心境です。自分はまだ修行の身、家に帰るわけにはいかない、一目会えればいいという思いだったのでしょうか。


(『木賊』撮影:吉越 研)

そうとも知らない老翁。物着をして現れた姿を見れば、常軌を逸しているとすぐにわかります。子供が昔着ていた赤い着物を羽織り、子供の小結烏帽子(こゆいえぼし)を頭に載せています。子供の着物は裄(ゆき)が短くつんつるてん、袖のなかに大人の着物の袖がよじれ押し込まれていて、今でいえば、小学生がかぶる帽子をかぶり、ランドセルを背負って出てきたような異様な姿です。そして酒を僧たちに勧めるのです。

私はこの時すでに、老翁は酒を少し呑んでいた、とみて演じました。僧たちに酒を準備しながら、ちょっとひとくち・・・。であるからこそ、あの常軌を逸した姿でも登場でき、もうここから酔狂の世界が始まっているのです。

物着について、江戸時代の伝書には「肩上げした水衣の袖を物着にて下ろす」とありますが、近年は掛素袍や子方長絹などを着用し、しかも子方の中啓を持つ演出が主流となりました。これは近年の先人たちのよい工夫だと思い真似をして、観世銕之丞先生(銕仙会)から貴重な子方長絹を拝借し、今回の公演の原動力となりました。「たいへん似合っていた」と好評を得て、氏には感謝しております。


(『木賊』 撮影:石田 裕)

酒を勧める老翁に、僧たちは仏の戒めにより飲酒はできないと断りますが、古い故事などを引き、「法の真水と思って飲みましょう」と誘います。やがて酔うほどに、子はどうして親の心がわからないのか、と恨みの涙を、漣々(れんれん)と流すのです。


(『木賊』撮影:新宮夕海)

そしてクセ(舞クセ)では「親は千里を行けども子を忘れぬぞ、子は千里を経れども親を思わぬ」と、くどき、「人の親の心は闇にはあらねども 子を思う道に惑いぬるかな」(藤原兼輔)は本当のことだと嘆き、子の昔の面影が忘れられない、我が子はこう舞ったぞ、手はこう指したぞ、と舞いながら我が子の父への薄情を嘆き悲しみます。そして遂に興奮して狂い、泣き崩れて「酔泣(えいなき)」となるのです。


(『木賊』 撮影:新宮夕海)

まさに酔狂。これでもかこれでもかと、かなりくどい嘆きの表白です。それも父親の側の言い分ばかり、子はどんな気持ちで家を出たのかなどは考えません。ただただ親の悲しいつらい気持ち、一方通行の嘆きです。この曲の後半の詞章の大半は父親の言い分、きっと子の言い分もあるのでしょうが、そこには故意に光を当てない演出です。能『木賊』は父親の頑なで一方通行の愛、真面目過ぎて自分の思いをごり押しする愛を描こうとしたのではないでしょうか。こんな父親、今も身近にいそうです。リアリティがあり、現在にも十分通じる話です。決して古びない、それゆえに、能は時代が変わっても長く継承されているのだと思います。やはり作者・世阿弥はすごいと感心させられます。(『木賊』は世阿弥作の可能性が高い、世阿弥系統の作品といわれています。)


(『木賊』撮影:新宮夕海)

今回、舞クセで「子はこう舞ったぞ」と地謡を聞きながら舞うときに、父はこう舞っていたかもしれない、と不思議な感覚になりました。この仕舞所は基本の型の連続ではありますが、それをその通りに舞うのではなく工夫が必要となります。その工夫こそに演者の力量が測られる、と信じています。老翁の心情をよく理解し、演者自身の身体を通して真似たものがごく自然と現れる、そのような舞でなければならないと思っています。更に酒が入って舞っていることを忘れてはいけないのです。単に狂うだけでなく、ここは酔狂なのです。酒に酔って狂い、思いがどんどん強烈になり興奮度が高まるのだと思って演じました。


(『木賊』撮影:新宮夕海)

そして老翁が「子を思ふ」と謡い序の舞となります。笛、小鼓、大鼓の囃子方の音色と掛け声に合わせて、まさに能ならではの表現で、最大の見どころです。
ご覧になった方から、序の舞で舞いながら扇を使って泣くような所作が入っていたが、特別な演出なのかと聞かれましたが、『船弁慶』で静御前が序の舞を舞うときシオリ(泣く型)が入りますので、舞の中に現実味を帯びた所作が入るのは珍しいことではなく、今回も特別ということではありません。ただし、今回は子方の中啓が老翁の心を動かす一物であるのを重視、誇張したことは確かです。幽玄能のような夢で舞う序の舞ではこのような表現はないかもしれませんが、現在物では正々堂々と感情表現が可能となります。


(『木賊』撮影:吉越 研)

老翁が我が子の扇を見ては泣き出すところ、今回、泣く前後の囃子方のスピードコントロールがよく、とても気持ちよく演じることができました。笛の松田弘之氏、小鼓の鵜沢洋太郎氏、大鼓の亀井広忠氏、囃子方の3人の方々に感謝しています。


(『木賊』撮影:新宮夕海)

そしていよいよクライマックス、悲しみの一連の動きを大ノリ地で謡い、物狂いとなった老翁は、親が狂うなら子は囃すべきではないか、いま一目、父の前に見えよ、と訴えかけます。

現在物は夢の世界ではないのでリアリティある芝居心が必要です。役者の力量がはっきり現れる難しい曲、恐い曲です。最終的には、舞台を見てくださった観客に、自然と涙腺がゆるむような感情が伝わらないと、演者落第だと思っています。


(『木賊』撮影:吉越 研)

泣き悲しむ父の姿を見た松若は遂にたまらず、自ら名乗り、二人は目出度く再会します。その後二人は古里を仏道を広める寺とし、これが伏屋の物語、目出度し目出度し、と終わります。再会後の話はこのようにあっさりしています。
しかしこの短いフレーズのなかに、一途な老翁は松若のすべてを許したのだと想像できます。仏道に入った息子の気持ちを汲んだからこそ、古里を仏道を広める寺としたのでしょう。親子というのはこんなふうに和解できるのです。


(『木賊』撮影:吉越 研)

『木賊』は大事に扱われ位が重い曲、還暦過ぎないとできない曲とされてきたことは、最初に述べました。私も今63歳、還暦を何年か過ぎました。お酒は昔から好きで楽しく陽気に飲むことが多いのですが、最近、気の合う仲間たちと呑み語り合うと、思わず涙がにじむことがあります。こんなことは若いときにはなかったことです。「酔泣」をしてしまうチョイ爺になったからこそわかることもある、なるほど、『木賊』は還暦過ぎないと・・・という意味がしみじみわかります。能を解るには時間がかかる、まさに実感です。

ワキは朋友・森常好氏が勤めてくれ、子方に大島伊織くんがちょうどよい年頃で、立派に勤めてくれました。そして地頭に我が師友枝昭世師、演能後に地謡を謡ってくれた従兄弟の能夫にも、そして貴重な面「木賊尉」と装束「子方長絹」を貸して下さいました観世銕之丞様、皆様に御礼と感謝の心で一杯です。

よい時期に披くことができた、と幸せな気持でこれを書きとどめました。
(平成31年3月 記)

2019厳島神社御神能投稿日:2019-02-27


『東岸居士』を勤めて投稿日:2018-11-16

『東岸居士』を勤めて
謡い舞い尽くし、そして・・・




                             粟谷 明生

先々代十五世宗家・喜多実先生は10代から20代までの若い能楽師に習得曲を何曲か設定されていました。宗家預かりの友枝昭世師から私の後輩の長島茂氏までの世代がその経験者です。
脇能は『高砂』や『養老』はなかなか許されず、最初は『賀茂』、修羅能(二番目物)は動きが激しい『箙』と、不思議と床几の型が難しいマイナーな曲の『知章』を選曲され、三番目物は『東北』、『半蔀』よりは、まずは『六浦』、『羽衣』を、時には脇能としての分類にもなる『龍田』、そして四番目物に『東岸居士』が入っていました。五番目物は『紅葉狩』が多かった、と記憶しています。
私の『東岸居士』の初演は昭和51年の青年喜多会で、21歳でした。
今回は、喜多流自主公演(平成30年10月28日)で42年ぶりの再演となりました。



東岸居士(シテ)は自然居士(じねんこじ)の弟子で、名は玄寿といい東山雲居寺の放下僧(ほうかそう)です。
舞台は、東国から来た旅人(ワキ)が京都の清水寺へ参る途中、白川の橋で、門前の者(アイ)に東岸居士に引き合わせてくれと頼み、東岸居士が登場します。ワキとの問答になり、ワキの所望により、シテは中の舞、曲舞そして鞨鼓を舞いながら、仏の教化をするというシンプルなお話です。演能時間は50分ほどの単式現在能で、シテが終始、謡い舞い尽くす作品構成で、とりたてて高位の内容が濃い作品ではありません。何も飾らない演者の芸を淡々と見ていただくもの、と解釈されて実先生は若者に理屈抜きの謡や舞の基本を学ばせたかった、と思います。

では若者が研修過程で行う基本通りを吉(よし)としても、大人になった、しかも還暦を超えた自分が若い時と同じような再演はいかがなものか、それでは恥ずかしいです。
曲目の内容を把握し、テーマはなにか? 居士とはいかなる者か? など作品に隠されているメッセージを解きあかしたくなりました。
再演は、一度勤めたからと安心するのではなく、初演の経験を活かし演者の成長が舞台に現れるようにならなくては、と思います。演者の曲に対する意識が膨らまないと、父の言う「大人の芸」の域には至らないでしょう。特にシンプルな現在物ほど大人の味わいが必要とされます。



では具体的にどのように考え演出したかというと、まず中之舞については、舞は本来五段寸法ですが、長くだれるのは良くないと思い、近年流行の三段寸法に短縮し、替の型にして『東岸居士』特有の数珠を担ぐ型は取り入れました。


鞨鼓はややリズムをずらし遊興的な打ち方にするのも一興かと思いましたが、父の「一クサリ十六粒を舞いながら打つ難しさを披露する、そこは外さない方が吉」との教えが頭をよぎり、子方時代に覚えさせられた通りに打ちました。



ここでの中之舞や鞨鼓は、居士が、聴衆に向けて説教し仏道へ勧誘しようという意図で舞うものですから、人をその気にさせる、楽しく興味をもたせるもの、軽やかに乗りよくが大事だと思います。

さて、烏帽子について、寿山が書き残した喜多健忘斎の伝書に
「此の能、橋元にて舞い、謡いて供養を勧めたる能なれば、初めより烏帽子着ける理有り。さりながら曲舞(くせまい)に烏帽子の取合せ、宜しからず、後者損也」とあるのが気になりました。
伝書は先人の習得した技芸を後世に伝承する文書です。我が家の伝書には、最後に「こうしたら徳する、これは損」と書かれていて、そこが面白く演能に興味が湧きます。ここにも「後者損也」とあります。東岸居士は半俗半僧で、特に位があるわけではない自由な仏教徒です。現に『自然居士』は、人買い人の嫌がらせにより、いやいや烏帽子を附けさせられますが、最初は被っていません。今回は再演でもあるので、敢えて、健忘斎の教えの通り、烏帽子なしで演じてみました。



さて、謡い舞い尽くしの『東岸居士』ではありますが、稽古して初同の詞章が気になりはじめました。
「東岸西岸の柳の髪は長く乱るるとも
 南枝北枝の梅の花、開くる法(のり)の一條(ひとすじ)に
 渡らん為の橋なれば、勧めに入りつつ、彼の岸に到り給へや」 

この前半の二行は和漢朗詠集の慶滋保胤(よししげのやすたね)の次の句(元は漢文)を引いています。
「東岸西岸の柳 遅速同じからず
南枝北枝の梅 開落すでに異なり」

春は地形によって訪れ方が違う。東岸の柳は西岸の柳より芽吹くのが早く、同じ梅でも南側の梅が散るころ北側の梅が開くというように、花の開く時期が異なっている、との朗詠です。東岸居士の説教も、この朗詠を下敷きにし、自然の営みも人間の行いも、いろいろ違うところがある、法の道に入るにしても東岸からと西岸からとでは違うのだ、ということを含んで始まっていますが、「どんな梅の花も時がくれば自然と花開くように、自然と悟ることができます。そのための橋なのだから、どうぞ私の勧進に従って、涅槃の彼岸に到りましょう」と、甘言で誘います。

そして、序やサシ、クセで、末法の世に生を受け、出離の道(生死の道の迷界を離れて涅槃に入る道)に入るのも難しい云々と、さんざんに、罪深い人間の苦しみや無力を謡い上げます。(この辺りは、難しそうなことが書かれているので、最後に現代語訳を記載しました。)

やがて、鞨鼓を打ち出すと、「いずれも極楽の歌舞の菩薩の御法だ、音楽だ、お聞きなさい旅人よ。本当に面白い」、「南無三宝(おおそうだ!)、太鼓も鞨鼓も笛、篳篥、絃管共に極楽の菩薩の遊びと聞く」
と謡い上げ、そして最後は「どうして人は雪と氷とを区別するのだ。溶けてしまえば同じ水だ。多くの仏の教えも、すべての真理も一つ、萬法皆一如。万物の真相は一つだから、法門に入ろうよ!」と、たたみ掛けるようにメッセージを送って終曲します。



難しいことも甘い言葉で人々を気持ちよくし勧進する。この居士の思想と生き様が、稽古を重ねて行くうちに、なにか疑念を持つようになってしまったのです。

「萬法皆一如」

初同に隠された、東岸と西岸では違う、花も南と北では違う、という現実。ところが真実を裏返すように「所詮、同じ柳、同じ梅、皆同じだよ」と、ざっくばらんな言い方に「矛盾していない?」と疑問を感じ、眉唾者のノリの良さを感じてしまうのですが、もしかしたら作者の観阿弥と世阿弥はそれを逆手にとって戯曲したのかもしれない、などと自由勝手に想像して演じました。

東岸居士の「居士」は、もともとは在俗の仏教徒の称号ですが、今は男性の戒名の最後に「○○居士」などと使ったり、また謹厳居士のように、性格や素性などを表す意味にも使っています。東岸居士とは、東岸に出没する居士の意で端的に言うと束縛を嫌う自由な芸能仏教徒、と私は思っています。その自由な活動には僧籍が有功で、それを上手く活用していたのではないでしょうか。



東岸居士自身、もともと家も無いのだから出家とは言わない、髪も剃らず、墨染の衣も着ないと答えています。が、しかし袈裟は掛け数珠を離さず持っているのが居士の根拠です。飄々とした生き方には自由人の趣がありますが、その自由が大雑把で、いいかげん、怪しさを感じさせます。橋のほとりで、橋のための勧進といって説教し、舞を舞い鞨鼓を打って見せ、人々から勧進料いただきますが、果たしてそのお金はどう使われるのか・・・いささか怪しいところです。

この様な怪しい勧誘は現代にもありそうです。おいしい投資話につい契約してひどい目に合うとか、あやしい宗教の勧誘にはまって財産を貢いでしまうとか・・・、現在にも十分通じる内容です。



仏法を庶民に分かりやすく広めるための、巧妙な話術と余興の舞、今風に言えば、ラッパーのラップ感覚です。最近、あるお寺でのライブで、若く可愛いアイドル系の女の子が歌や踊りで仏の教えを紹介する映像を見て、私は思わずのけぞり、「おお、南無三宝」と『東岸居士』の謡を謡ってしまいました。

現代に残っている能は、今にも十分通じる内容を含んでいるのです。そうでなければ、能は現在まで生き残っていないともいえるでしょう。



今回の『東岸居士』も萬法皆一如と言うけれど、本当にそうなの。東岸と西岸の柳はやはり違うんじゃないの? 南枝と北枝では開き方が違うでしょう・・・、善と悪はやっぱり同じにはならないよ、現実はそうではない、ということも秘かに提示しているように私には見えました。

『卒都婆小町』のレポートでも書きましたが、「悟りの道に入ろうよ」と言いながら、小町さんは本当に悟りの境地になったのかな、どう思います? というような戯曲です。

『東岸居士』の最後は「萬法皆一如」と謡い、型の動きは両手で大きな円を描き、撥と撥を重ねて合わせ、「わかりましたね」と念を押すように、よかった、目出度し目出度し、と締めますが、私は本当に「萬法皆一如?」と曖昧な気持を込めて舞おさめました。



深読みし過ぎかもしれませんが、能は深く読めば読むほど、いろいろな表情を見せてくれます。懐が深いのです。再演することで、今回もまた裏側を覗けたように思えて、やっぱり能は面白い、と再認識しました。
そして能は、観るより以上に演る方が面白い芸能!と改めて感じました。

添付資料 現代語訳 訳・長谷川 郁
東岸居士現代語訳はこちら(PDF)

写真 『東岸居士』シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
写真 二枚目 撮影 あびこ喜久三

                     (2018年11月 記)

夢のひとしずく 能への思い投稿日:2018-09-16

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粟谷菊生 能語り投稿日:2018-09-16

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我流「花鏡」5投稿日:2018-07-20

我流に現代風に世阿弥伝書の「花鏡」を読み解くことを試みてみます。
その5 先能其物成、去能其態似
(まず能く其の物に成り、さて能くそのわざを似せよ)

この段には、演者は演じるべき対象になりきり、その姿で演技するとよいと書かれています。舞台に携わる者にとってハイレベルな内容ですが、現在の能楽師にも充分適用するもので役立ちます。しかし、初心の者や若年層がこの段の上辺だけを真似ることは少し危険で、よく内容を把握し基礎的な力を身に付けた上で解読しないといけないと思います。自戒を込めてここに思うところを書いてみます。老翁の役は年老いた姿であるから、腰を曲げ、足もとも弱々しく、サシやヒラキの所作も内輪にして舞い謡うこと。女に扮する場合は腰つきをすらりとし、身体つきも柔らかく心持ちも力まぬこと。また激しい動きのある役は心に気魄をもち身体もがっちりと構えること。あらゆる種類の人物に成り切る工夫をして、その姿を基盤にして演技すべき…と記載されています。
ここでの「成り切る姿」とは形態はもちろんのこと、心持ちという精神性も大きく関連していることは見逃せません。

ここでは老翁について考えてみます。
喜多流では老翁の役は三つに分けられると思います。まず一番目は『高砂』『弓八幡』『養老』『竹生島』など脇能の前シテの老翁役です。これらはあまり老人を強く意識せず、老いというものを前面に出さないようにと教えられてきました。年劫を経た豊かさ、優しさが出るように演じられればよいのではないでしょうか。
二番目は『雲林院』『小塩』『頼政』などの前シテの老翁役です。私はこの役が最も難しいと思っています。立っている姿一つとっても、演者の身体を通した「老いの風情」が感じられなければ、作品の持つ情緒が損なわれます。この「風情」なるものは、劫を経れば自然と無意識に身に付くというものではなく、もちろん技術的に巧むものだけでもありませんが、能役者のそれまでの豊富な舞台経験などに加え、老いを演じるという虚構の意識が必要です。能役者が身体全体にその役になる意識を持ち、尚そこに風情がかもし出される、特に老いの風情を生み出すことこそが究極の演技だと思います。
そして三番目は『西行桜』『遊行柳』などの桜や柳の精で、舞を舞う要素が加わります。この段に書かれていることは、この種の舞を舞う老人に実によく当てはまり、腰や手の動きについての教えは現在にもそのまま通用します。

私が二十代の時、伯父新太郎の『遊行柳』の申合で地謡をしていて、不遜ながらも「なんだか覇気がないなあ。いくら爺さん役でも…もう少し身体も肘もピンと張ったらいいのになあ…」と感じたことがありました。しかし本番では「うわぁー! 老翁だ! 柳の精がいる…!」と思わず地謡座で歓喜してしまったことを覚えています。また逆に申合では、両手も肘もしっかりと上げて立派な構え、それに似合った大きな動き、「老人でも能はこうでなければ…」と感心させられた人の舞台に老人も、柳の精も見えてこなかったこともありました。私自身では『頼政』初演の時、あとでビデオや写真で前シテの尉の姿を見てがっかり愕然としたことがあります。元気溌剌としていて、身体のラインなどから受ける印象は、とても尉とか老人の雰囲気ではなく、風情のふの字も感じられなかったのです。
今、老人の役を見事に演じられている方の舞台に接し、その難しさが判ってきただけに、しっかり見て、その姿を盗み真似したいと思っています。老人の役とは、それほどまでに難しく、しかし魅力を秘めているのです。

老女物と言われる大曲はもちろん難易度が高く、最高位です。しかし、老女物は、私見ですが、男性の演者が女性に化けるという虚偽・嘘の行為が基盤にあるため、その嘘自体が演者にはとても救いとなっていると思います。逆に男性演者が老翁を演じる場合が難儀です。特にお年よりの演者は、いかにも似合っていそうですが、どうしても生(なま)になりがちで見ていてちょっと辛いときがあります。まして同性として青年や壮年の者が老いを演じることは並大抵ではないのですが、虚構を演じる能の世界だからこそ面白いのではないでしょうか?
能は男の太夫・役者が翁になる『翁』からはじまり、そして芸道の最高峰、「老翁を極めること」に至るのではないだろうかと今思っています。

我流「花鏡」4投稿日:2018-07-20

我流に現代風に世阿弥伝書の「花鏡」を読み解くことを試みてみます。

その四、先聞後見(せんもんごけん)

これは字の如く、演者は観客に先ず謡を聞かせてその後に動作を見せるべきであるという教えです。
上手な能役者はこの手法を確固として守っているため、動きの型が舞台で映えます。
例えば泣く動作(シオリ)をする時は、先ず謡われる「悲しい」「泣く」「涙」などの言葉を聞いてから行うと効果が上がります。
先日勤めた『鬼界島』では、クセの上羽の部分でシテが「せめて思いのあまりにや」と謡い、そのあと地謡は「先に読みたる免状をまた引き開き同じ跡を繰り返し、繰り返し見れども」と続けます。そのときシテは折りたたんである赦免状を再度開き見ますが、この時も拡げる型と謡の「引き開き」の言葉が同時進行してしまうと型も謡も生きないと指導されました。

シテは所作を少し遅れぎみにして、赦免状を恨みをもってじっくり開き見るところを観客に想像させる時間が必要です。そして観客の脳裏に思い描かれているものをなぞるかのように役者の動きが後押しすると効果満点です。

昔、私は泣く、悲しいという言葉があると同時に、ひどい場合は言葉以前にシオルしぐさをしてしまい、「それでは観客は聴くことと見ることを同時に処理しなくてはいけなくなり窮屈になる」と注意を受けたことがあります。美しい動きや、心に残る演技とは、実はこのように工夫がなされていることを知っていただきたいと思います。

これから能をご覧になる時に、このあたりを注意するのも一つの鑑賞方法で面白いかもしれません。

我流「花鏡」3投稿日:2018-07-20

我流に現代風に世阿弥伝書の「花鏡」を読み解くことを試みてみます。

その三、「強身動宥足踏(ごうしんどうゆうそくとう)、強足踏宥身動(ごうそくとうゆうしんどう)」

少年期の能の稽古は先生の謡うように、また舞う通りに真似ることから始まります。その際、細かい説明はなく、謡は謡っている内容、意味など判らなくても音と調子をよく聞き、繰り返すことで覚えます。舞の稽古も先生の動かれる通りに真似して身体で覚えます。

少年期の子どもは驚くほど吸収が早く、すぐに覚えてしまい大人の私には羨ましいかぎりです。青年期になり身体がしっかりと出来あがってくると必ず注意されることは「粗い!粗い!」です。当人は、力強さを示そうと、がむしゃらに勢い良く激しく動き廻って、「どうだ!」とばかり有頂天になっているのですが…そこに「駄目!」がでます。

「どういけないのか?」と質問したこともありましたが、懇切丁寧な答えはなく、「そうかー、この世界は理屈ではないのだー」と自分に言い聞かせていました。ところが世阿弥は「強身動宥足踏(ごうしんどうゆうそくとう)、強足踏宥身動(ごうそくとうゆうしんどう)」と、動きの粗さについて的確な注意を記しているではありませんか。これは貴重です。

以前若者が『賀茂』の仕舞の稽古をしているのを見て、あっ!これか!と閃きました。『賀茂』の仕舞は後シテの別雷神(わけいかづちのかみ)が雷鳴をとどろかせ、護国豊穰と国土守護する動きの激しい仕舞です。拍子は雷鳴を表しドンドンと力強く踏みます。拍子の踏み方は難しく未熟者はリズムを外してしまいます。私自身もそうでしたが、次第に外さないようになるとそこで満足してしまい、稽古を重ねるたびにその足音は段々うるさく騒音となります。

世阿弥は、身体を激しく使う際に足踏みをそっと踏むようにすると動作は強く見えるが粗くならない、また足踏みを強く踏むときは、身体を静かに動かすと足音は高いけれど身体の動きが静かなために荒くはならないと説明しています。

つまり身体と足とが同じような強さで動くと粗く見えてしまうということです。青年の溌剌とした仕舞を見るとき、激しさが増せば増すほど、荒い、粗いと感じるのはここに落とし穴があったのです。

以前、友枝昭世師の『賀茂』を地謡で謡いながら、師の絶妙な力ある拍子のなかに、躍動的で落ち着いた力強いエネルギーを感じたことがありました。どうしたらあのように表現出来るのかと思っていましたが、世阿弥のこの論理を知ることで理解出来ました。

そして、この段の最後に「足踏みは舞の中では習わず劇的所作の際習うこと」と、的確に留めを刺しているのが、私は世阿弥らしくて好きなところです。

我流「花鏡」2投稿日:2018-07-20

我流に現代風に世阿弥伝書の「花鏡」を読み解くことを試みてみます。

その二、「動十分心、動七分身」
先代喜多実先生の稽古は「気を入れてー! 気を!」がモットーでした。若輩で未熟な私は生意気にも今流行の「気合いだー!気合いだー!」に似た野暮ったい感じがして仰っしゃるこの言葉が好きになれず抵抗感を持っていました。しかし、世阿弥の「動十分心、動七分身」には実先生の仰っしゃりたかったことが記されていて、今にして、実先生の思いが身にしみます。
「動十分心、動七分身」とは身体の動きを心の動きより少し控えて演じるべきであると、身体と心のバランスについて説いています。身体の外側ではなく身体の内部、つまり心とか思う気持ちを充分にこめることで、それを最大限に表現するには身体を動かし過ぎてはいけないという教えです。その割合を10と7と細かい比率で表しているのは世阿弥らしいところです。実際舞台で、動きばかりが目立つ芸は粗さとしてしか映らないから不思議です。

例えば『経政』『敦盛』『通盛』などの修羅物を、平家の公達である意識や修羅の苦患・執心などを意識せずに、やたら威勢のみ激しい身体の動きだけに終始すると忽ち楽屋裏では「鬼・畜生じゃあるまいし!」と厳しい言葉が飛び交います。特に身体が十分に利いて動き廻れる青年期にこの状況に陥りやすいようです。年を経て身体の動きが鈍く利かなくなる年代になると、この粗さは自然と少なくなってきますが、心を充分にする意識をしない限り、粗さがなくなるわけではないようです。特に世阿弥は身体が利かない、動けない年代からは、身体の動きより心の働きを充分にすべきであると注意を呼びかけています。

ではどのようにしたら心を十分に働かせることができるのでしょうか?

私は稽古の時、先生方から必ず「強く!もっと強く!」と注意され教わってきました。このなんとも単純な簡単な言葉に、実は非常に難しいものが隠されているのを知ったのは、恥ずかしながらつい最近なのです。「強く」という真意を把握せずに、一般に「粗野・乱暴」といわれる粗削りな感覚と錯覚すると、とんだ間違いを犯してしまいます。「強く・強さ」とは、能の世界では力がストレートに表現されるだけのものではなく、出して表現する力よりも息や機を身体の内部に引き込む力をさし、それが大事でその力が心の働きと連動すると考えられています。もちろん単に物理的になっては駄目ですが、真の強さとは、心を10、動きを7の割合にして、引く力によって心の働きを活発にさせ表していくものです。難しいですが、このような理屈を理解することで、謡や舞の新境地を開く助けになるのではないでしょうか。

満開の桜投稿日:2018-07-20

春が訪れ、今東京は桜が満開です。
今各地で咲いている桜の大半は「染井吉野」です。
これはオオシマザクラとエドヒガンとの雑種で木の生長が早く春に葉に先立って開花します。命名は幕末の頃、江戸染井の植木屋から売り出されたのでこの名がつきました。つまり「染井吉野」は最近の桜なのです。
能に謡われている桜は今我々が楽しんでいる「染井吉野」ではなく「山桜」や「八重桜」をさし、これらが主流です。謡本にある詞章には「山桜」「八重桜」は出てきますが「染井吉野」は見当たりません。

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現在、桜の開花状態が80%になれば満開とするようですが、遅咲きの花が開花するときははじめに咲いた花は必ず散り始めるので100%の満開はないといいます。しかしそんなことを聞くとなんとも味気ない気がします。
『鞍馬天狗』では「今を盛りと見えて侯、咲きも残らず散りもはじめず」と満開を表現して謡います。何%よりもこの「咲きも残らず散りもはじめず」という美しい言葉の響きがなんともいえぬ満開の感じを表現していると思いませんか?

桜の花の寿命は残念なことに短く、この美しい風景にいたずらをするのが春風と春雨です。一年掛けて待ち続けた開花も、あっという間にこの風と雨で吹き散らされてしまい、私達の楽しみを奪います。
『湯谷』のシテ・湯谷は「今までは盛りと見えつる花を散らすは、あら心なの村雨やな春雨の」と謡います。
昔、学生時代には桜など興味もなく、いつ咲こうが無関心でしたが、次第に桜の美しさに惹かれるようになりました。つい最近までは桜が風で舞う花吹雪を見るのが好きでしたが、今、この湯谷の気持ちがじんわりと判るようになりました。
「歳をとったんだよ」と言われるかもしれませんが、能は若造では判らないことが沢山隠されているように思えてなりません。

我流『年来稽古条々』(23)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(23)

   研究公演以降・その一
『三輪』『熊坂』について

粟谷 能夫

粟谷 明生

明生 今回からは青年期以降のことを話していきたいと思います。青年期の様々な課題を終えて、能楽師としてどう生きていくか、第二のステージに立たされるとき。能夫さんと二人で研究公演を立ち上げましたね。第一回は平成三年で、能夫さんが四十一歳、私は三十五歳でした。

能夫 研究公演は明生君が言いだしたね。当時は粟谷能の会でも父や菊生叔父が頑張っていたから、僕らは初番かトメに出してもらうぐらいだったでしょ。曲目の選択の余地はなかったし、僕ももっとたくさん舞いたいと思っていたところだったからね・・・。

明生 私は将来の見通しというものが気になる性質(たち)で・・・(笑)、十年後十五年後は、どのようになっているか心配症で、推測してしまう性分で・・・。もちろん推測ですからハズレも無駄もあります。不謹慎ですが、そのうち父も新太郎伯父もいない時代が来る、そのときを見据えて、今から力をつけて準備しておかなければいけないと・・・三十代になって危機感を持つようになったのです。

能夫 明生君の覚悟みたいなものを感じたよ。実際、十五年後にはその通りになったからね・・・。

明生 力をつけるにはどうするか。青年期を過ぎたら、曲とどうのように出会い、対処するかが重要だと思います。難易度の高い曲を披きという形で挑戦したり、あるいは一度勤めた曲を小書によって視点を替えて取り組む、あるいはよく演じられる曲についても、能役者が自分の成長にあわせて、その年々に曲とどう出会い、どう掘り下げるかを問うべきだ、と思います・・・。

能夫 それをやってきたのが研究公演だったね。「研究」と名がつくだけに、師や親に言われるだけのものではない、自分たちの思いや志を形にする、研究的に取り組む姿勢だよね。曲の読み込みを主として、己の能を自分なりに考え創り上げていくことが第二ステージには必要でしょう。

明生 青年期までの能の習得はまずは基本形、第一ステージから入り、謡と型を体の器官に叩き込む、という方法で技を修得します。体に染みこんだものは老いても忘れないという教えからで、能を志す者はこの方法で鍛え上げられます。基本は大事なことです。しかしその段階をクリアーしたと満足していては不十分と気がつかないといけないでしょう。第二ステージからは作品の読み込みが不可欠で、体に叩き込んだあと次の段階に何をするかが大事ですね。

能夫 そういうことだね。小書については、やれ特別演出だとか、目新しいことをすればいいと考えるのは問題だ、と苦言を呈する方もいるね・・・。

明生 確かにそうです。小書を四つも五つも並べるのは趣味じゃないですが、でも作品の読み込みに、小書は一つの良い手段になります。一応、初演は小書なしで勤め、次に小書で挑戦する、すると新たに見えてくるものがあります。たとえば『安宅』で、普通にお披きをしてから「延年之舞」という小書に挑むのであって、いきなり「延年之舞」はあり得ません。つまり「延年之舞」は作品をより深く読み込む投薬になる可能性がある、最終的には、小書をつけなくても作品の真髄を表現出来るようになれたら、最高位だと思います。「却来(きゃくらい)」とは・・・、最終地点がともするとスタート地点に近いところにある、という考えだと勝手に解釈しているのですが・・・。私個人の意見としてですが、能役者が原点に戻る一つの手段として小書演出に取り組むことは大事なことだと思います。いろいろな発見がありますから。

能夫 明生君はこれまで小書に意欲的に取り組んできたけれど、そういう思いはなんとなく感じていたよ。

明生 研究公演の第一回の番組に「様々な試みを研究し、私たちのよりよい演能を!」という、我々のモットーのような一文がありますが、あれ、気に入っていまして、まさにその通りで、演ってみたい曲に取り組み、小書など様々な演出や工夫を試みる、そんな拘束されない会にしたかった。自分たちの会ですから、少々冒険をしても許してもらう、自由に思い切りやろうと・・・。

能夫 燃えていたね。明生君はこの当たりから本当に意識的に能に取り組むようになった、昔と変わったね、成長したなと思ったよ。喜ばしいことですよ(笑)。

明生 それで、この当たりから振り返ってみたいと思うわけです。実は、研究公演についてはホームページのロンギの部屋で「研究公演つれづれ」として掲載しています。今回多少重複するかもしれませんが、研究公演で取り上げた曲を手がかりにして、その後の展開や能への思いなどにも広げて話し合っていけたらと思いますが・・・。

能夫 研究公演で取り上げた曲は、いずれも思いのある曲ばかり。その曲を手がかりにするのは話しやすいね。

明生 ということで第一回の曲からはじめましょう。

能夫さんが『三輪』、私が『熊坂』でした。能夫さんは『三輪』でも当時は珍しい「岩戸之舞」の小書で勤めましたね。『三輪』の小書といえば「神遊」です。私も「神遊」には憧れがあって、昨年粟谷能の会「粟谷菊生一周忌追善」で披きました。「神遊」は『道成寺』を披いてから許される位の高い小書で、流儀の者ならば憧れる小書ですね。それをあえて「岩戸之舞」にこだわったのはどうしてですか。

能夫 それは以前からの志、ということかな。「岩戸之舞」という小書について、我が家の型付には二通りあることを僕は早くから認識していたんだ。ところが先人たちは一方の型しかやらない。僕はもう一方のものを掘り起こしてみたいと思っていたんだ。

明生 そのふたつの型はどのように違いますか。

能夫 よくやられる型は天照大神がどこに隠れているのかと、暗闇の中を探す型でイロエの型が入る。もう一方の型は神々が神楽を奏し舞うと、天照大神が天の岩戸から出るというとても原始的なもの。天鈿女(あまのうずめ)が岩戸の前で舞ったという神話があって、それが芸能の始まりともなっているわけでしょ。そういうとても原初のものが喜多流にもあるということを演っておきたかったんだよ。

明生 『翁』にあるような型をしますね。

能夫 そう。扇で口元を隠し、袖をかづく型で太陽の出現を表したり、また左袖を巻く、喜びの型もするんだ。来年、僕は『葛城』を勤めるけれど、それにも「岩戸之舞」があるよ。観世流には『葛城』に「大和舞」という素晴らしい小書があり憧れてしまうが、それに匹敵しないまでも、同じような舞です。岩戸の前で舞った原始の舞だよね。

明生 それにしても『三輪』という曲は原始というか、いろいろなものが入り混じっていて、複雑な曲ですね。

能夫 神婚譚が出てきたと思ったら、天の岩戸を開く話になり、話が前後したり重複したり、関連がなかったり、何か変だよね。それらを重層させることが、一つのまじないのようであり、呪術性が出るかもしれないけれどね。

明生 複雑ですが、一つの表現方法ですよね。原初の神、神話に出てくるような神は、一般的な神の存在意識よりも、もっと身近なものとしてあったのではないですかね。

能夫 肉感的であり、現実的なものだっただろうね。神様だって男もいれば女もいるしね。

明生 崇め奉るような高みにあるようなものではなく、結婚もすれば性交もする、不思議なエロチシズムがあって、とても身近で、人間的・・・。でも能はそれらをうまくオブラートに包んでいますね。そのあたりに気がつくのは、ある程度年を経てからかもしれないなあ。

能夫 『三輪』の後シテは緋色大口袴をはいて、鬘帯をして出てくるというのが普通のイメージでしょ。でも観世寿夫さんは、小書「素囃子(しらばやし)」で原始的な出立ちで出てこられてね、それが素敵なんだ。そのイメージもあって、原初にかえる曲創りをしてみたかった。

明生 私は昨年、憧れの「神遊」を勤めて、正直『三輪』はもういいかなと思いましたが、ここで話していたら「岩戸之舞」で新たな工夫をして演ってみたくなりました。思い切りわがままにね。もう少し年を経てからがいいかな・・・。
今度は私の『熊坂』の話にしましょう。能夫さんが選曲してくれましたね。

能夫 『熊坂』ってたいへんな曲だからね、ちょうど挑戦するのによい機会だと思ったんだ。

明生 自分の会で、『熊坂』に挑むとなると、俄然やる気になりました。三役も自分たちで決めて交渉係は私、番組作成も。二回目からは新しい形にしたいとグラフィックデザイナーとも相談して・・・、自分自身でプロデュース出来る貴重な会として、実に面白いと思いましたよ。

能夫 それが「人任せ」の会とは違うところだね。すべてを学ぶことになるね。

明生 『熊坂』の中入りの型は常座で廻返シと型付にはあります。披きではありましたが、そこを、父の薦めもあって、スーッと消えていくように、何もせずに幕に入る替えの型で演りました。それをご覧になられた銕仙会の笠井賢一さんに「あの溶けて消えていくような感じを表現するには、シテ方と囃子方とが双方もっと何かする余地がある。菊生先生の謡と明生君の動きが、ちぐはぐに感じたのはどうしてだろうか?」と言われました。

能夫 単に型を替えるだけではなくて、その舞台全体でムードを替えなければならないということかな。

明生 そうですね。父の地謡は従来の廻返シに似合った謡い方で押し通して、そこに力量不足な私がスーッと消えようとしても効果が上がらなかったのだと思います。後日、父に「何もせずに中入りする場合は、常の廻返シの時とは違うように工夫し、謡わないとだめみたい」と話したら、父がいやな顔しながら、ごもっともだな、と答えたのが印象的で、型を替えるならば、囃子方も地謡も全部が協力して創り上げていかなければ無理だということを学びました。当たり前のことですが、肌で感じた勉強でしたね。そして、演者サイドばかりで話すのではなく、笠井さんや見所の第三者にも指摘してもらうことの大事さも知りました。

能夫 僕は『熊坂』をその後、喜多自主公演(平成十七年十一月)で演っているね、もう、三年前!か

明生 『熊坂』は、若造では勤められない曲だと思います。後場で長刀を振り回し、動き廻るので、あまり年をとってから勤めるのは苦労するかもしれませんが。

能夫 でも、菊生叔父も演っていたね、観世銕之亟先生も晩年になさっている。僕も『熊坂』という曲は本当は若造ではできない曲だと思うよ。だからみんな、五十歳を過ぎてからやり直すというか再挑戦している。その姿を見ていたから、自分も・・・と思った。演ってみると、いやあ面白いんだね。もちろん若い頃ほど体は動かないよ。でもそれでもスタンスを替えて挑戦する、これはまさに『熊坂』のシテ・熊坂長範なのよ。その悲惨さみたいなものが、その年になってしみじみとわかるようになる。体を通して表現できるようになるというのかな。先輩たちもそういうものを目標にしていたと思うね。

明生 体の動きが鈍くなり、そういう体力的なものに追いつかなくなるジレ、それがかえって作品を引き立たせるのかもしれません。もちろん、歳を経ねば何事も・・・ということではないのですが。

能夫 動けなくなったときの喪失感だね。

明生 でもそれには、若いうちに、動いて動き廻っておかなくては成就しませんね。年をとって、さあ本物を演ってみようとしても、そりゃ無惨ですからね。

能夫 最初から動けないのはダメだよ。年月が経ち、前みたいに動けない、でも必死になって挑むというムードね。肉体はついていかないけれど、精一杯やっているという中から出てくる表現だね。

明生 老いの抵抗? 必死なもがきみたいなものが喪失感を溢れ出すのでしょうか。私も二、三年のうちにもう一度演ってみようかな。

能夫 体が動かなくなったとき、永年培ってきた精神力というか、精神性、いろいろな思考がマッチしてきて、舞わせてくれるんじゃないかな。

明生 『熊坂』に長裃という仕舞の小書がありますね。

能夫 僕は後に研究公演でやったよ。『熊坂』の仕舞を長裃をつけて舞うんだ。昔、意地悪なお殿様が、わざと難しい注文を付けて演らせたのかもしれないね。長裃は裾さばきが難しいから、飛んだり跳ねたり、飛び廻ったりするのができない、別な表現方法が必要になるんだ。僕も演ってみてそう思ったよ。

明生 新太郎伯父は長裃でも飛んじゃいましたね。追悼号の「阿吽」に掲載された写真が『熊坂』の長裃姿ですね。

能夫 ああ、あのときは菊生叔父が謡ってくれてね。父は長裃の扱いに自信があったんじゃない。同じような趣向で『谷行』の素袍という小書もあるね。父が演るにあたって、実先生に教えを乞うたら、「私は知らない。後藤の兄が六平太先生から伝承しているから兄に聞け」と言われて、習いに行ったよ。僕もその稽古に付き合っているから型は知っている。『谷行』の素袍は後藤得三先生から新太郎、そして僕へと、伝承されているというわけなの。裾さばきに独特な工夫があるよ。

明生 能は高年齢になっても、いろいろ条件をつけてやり様があるということですね。

能夫 能はその人の生き様みたいなもので、表現できる範囲がいくらでも広くなるということですよ。それができるためにも、早くから曲の読み込み、研究、工夫が必要だね。

(つづく)

我流『稽古条々』(39) 『山姫』『卒都婆小町』について ?研究公演以降・その十七?投稿日:2018-06-07

明生 いつものように、今度の粟谷能の会(平成三十年三月四日)に勤める演目について話していきましょう。

能夫 今度は菊生叔父の十三回忌追善能ということになるね。早いものだね。明生君が『江口』を勤め、菊生叔父が地頭を勤めるというので張り切っていたのに、申合せの日に倒れてね。怒涛の日々。生々しく覚えていますよ。

明生 当日は命をつないでくれましたが、その三日後にはあちらの世界ですから。あまりにも急で、信じられなかったですよ。父が倒れても舞台はちゃんと勤めなければいけないし、粟谷能の会の二日後には明治神宮の薪能で、父の代演で『高砂』の仕舞を舞わなければならなくなって、もう大変でした。能夫さんも『道成寺』でしたからね。

能夫 「明日、道成寺をやってきます」と、病院の菊生叔父に挨拶して…ね。

明生 そうしてもう十三回忌。父への手向けとして、今回、私は大曲『卒都婆小町』に挑みます。能夫さんは『山姫』、復曲能ですね。

能夫 僕の『山姫』も菊生叔父への手向けになるといいね。昔から、この曲のことが気になっていて、いつか演ってみたいと思っていたんだ。喜多流は遠ざけていたけれど。

明生 遠ざけていたというのは何か理由があるのですか。

能夫 それはわからない。

明生 演能の記録は?

能夫 京都で高林吟二氏が白牛口二氏に舞わせたので、高林家には手附もあって、僕は今回その手附をいただきました。またその中には囃子方の手附もあり、大変参考になりました。それでも、六平太先生(十四世喜多流宗家)が復曲の要望があるようなことを何かに書いていますよ。そのためか、謡本も一応残っている。

明生 『山姫』というと『山姥』の間違いでは? と言われますが……。

能夫 同じ系統のものかもしれないけれど、違いますね。それに、『山姫』はそんなに昔からある能ではなく、せいぜい、江戸後期から明治前期にできたものではないかな。「山姫」というのは日本各地に伝説が残っている。だいたい山に住む美しい女ですよ。男を誘って、使うだけ使って、役に立たなくなったら捨てるみたいな恐ろしい伝説。生き血を吸って死なせたりね。山姫を象徴するものがアケビの実で、性的な意味合いもある。

明生 美しい女は恐いですね。山の美しい女に魅せられて、山奥へと引き込まれていく話というと、小説「高野聖」‐8‐を思い出します。

能夫 いろいろなことが考えられるけれど、没落したお姫様が山に潜んでいたとか、人間の女性が生気を失った姿ではないか、といったことだろうね。この話、まんが・日本昔話にもあるんですよ。山で山姫に出会って山姫が笑うのにつられて笑ってしまうと二度と山から帰れない、と言われていたという話です。能『山姫』は春夏秋冬の花盛りとか雪景色をめぐります。特別な物語らしきものは何もない。俳句のような曲ですよ。

明生 四季を表す何か作り物はあるのですか。

能夫 特にない。いたってシンプル。

明生 時間はどのくらいですか。

能夫 四十分くらいかな。一場もので、中入りもない。ワキが次第で出て「このあたりに住まいするもの」と名乗るけれど、場所は明らかにしないんだ。だから場所の設定はないが、手附を見ると山城の国常盤音戸山と書いてあるから、京都の北方ですね。だから山姫は都落ちした女性と考えてもいいのでしょうね。山の精というより、もっと雅な感じではないかな。東北や九州のほうにある伝説の「山姫」とはちょっと違います。ワキが春の花盛りを愛でていると、シテがアシライで出て一の松で止まり、「あかで見る、心を花の心とや」と謡い、ワキとの対話になります。シテは山姫と明かし、舞台に入り、やがて、ワキから「四季の眺めの有様、くわしく御物語候へ」と言われ、序・サシ・クセと、いつもの能の構成で、四季をめぐる趣向なんだ。最後は春に戻り「明けゆく春こそ久しけれ」で終わる。

明生 詞章を読んでみると、なかなかいいですね。

能夫 「匂やかに咲ける澤辺の杜若」とか「卯の花の垣根にしのぶ時鳥」、「暗き夜半にも蛍飛ぶ、影も星とや見えぬらん」とか、非常にすばらしい。最後「白波のよるかと思へば東雲の空の、……明けゆく春こそ久しけれ」と終わるのはスタンダードな感じですが。

明生 舞はどうなりますか。

能夫 太鼓入りの中之舞か序之舞かを選択できます。今回は中之舞で舞おうかなと考えています。大小物の中之舞でもいけそうです。

明生 装束をどうするかですね。

能夫 腰巻で天女の出立と書いてある。

明生 全体に天女のイメージですね。

能夫 面も「小面」か「増女」で。そんなにドロドロした内容ではないから、きれいな方が絶対いい。

明生 だいぶイメージができてきましたね。

能夫 一年前ぐらいから取り組んでいるからね。復曲能でしょ。最初から物を作るに近い感じですから、それができる喜びを感じています。新しいものにチャレンジするというのは楽しいことですよ。

明生 掘り起こす作業は楽しいものですよね。

能夫 これが僕を呼んでいたんだよ。若いときからね。今、いい環境のなかで、責任者としてやらせてもらっている、‐9‐『卒都婆小町』 シテ 粟谷菊生 平成3年3月粟谷能の会 撮影:吉越 研幸せですね。まだまだ漠然としているところもあるけれど、それはもう仕方なくて、風情を大切に割り切ってやるしかない。あまり格好ばかりつけていても、能に拒否されるような気がするしね。だから坦々と勤めますよ。

明生 それがいいですね。楽しみにしています。

能夫 ではここらで『卒都婆小町』に行こうかな。

明生 父・菊生が『卒都婆小町』を勤めたのは七十代になってから、案外遅いです。

能夫 うちの父・新太郎は演っていないからね、

明生 その代わり、新太郎伯父は老女物では『鸚鵡小町』を勤めていますね。父は『鸚鵡小町』は演らなかった。

能夫 『卒都婆小町』などの老女物は還暦過ぎてからでないとというのが、暗黙のうちにあった気がします。


『卒都婆小町』シテ 粟谷菊生 平成3年3月 粟谷能の会 撮影:吉越 研

明生 私の記憶では、実先生(喜多実・十五世喜多流宗家)がなさるときに、友枝喜久夫先生や新太郎、菊生といった当時の精鋭が地謡でしたが、当時は『卒都婆小町』を大事大事にし過ぎて、あまり演じられないものだから。慣れていない、と言うのか……。

能夫 『卒都婆小町』は老女物といってもちょっと違うからね。現在物、狂乱物ですから、老女物の入口に位置しているといっていい。『羽衣』のようにしょっちゅう出るものではないにしても、流儀として、みんながもっと経験できるようなシステムがあってもいいよね。

明生 そうですね。実先生のあとは、後藤得三先生、喜多長世先生(十六世喜多流宗家)、友枝喜久夫先生がなさいました。

能夫 先輩ではそのぐらいですか。その後、菊生叔父、友枝昭世さんが演られたね。

明生 普通、老女物は一回勤めて終わり、という方が多い中、二回、三回と再演されて、進化させていますね。

能夫 最初はオーソドックスに勤めて、再演することで、それをカスタマイズできるからね。

明生 能夫さんは平成十七年三月の粟谷能の会、新太郎伯父の七回忌追善能で『卒都婆小町』を披いていますね。父・菊生が地頭で、私もそのときに地謡で謡わせてもらい勉強になりました。そういう機会があって、だんだん自分もシテへと気持ちが向いていきます。

能夫 平成十七年三月というと、五十七歳か。‐10‐『卒都婆小町』 シテ 粟谷能夫 平成17 年3月第77 回粟谷能の会 撮影:東條 睦

明生 早かったですね。私、今度の三月は六十二歳です。本当は数年前、『卒都婆小町』を演りたいと申し出たのですが、まだ演ることがあるだろうと言われ、その時は『求塚』になりました。

能夫 今回は満を持しての挑戦になるね。『卒都婆小町』に限らずだけれど、囃子方や地謡、そういうメンバーが揃い、シテも時期が来て、みたいなものがあるからね。

明生 そうですね。今回はワキが森常好氏、囃子方は小鼓が大倉源次郎氏、大鼓が亀井広忠氏、笛を松田弘之氏にお願いしました。精鋭が揃い、いい人選になったと喜んでいます。

能夫 それにしても『卒都婆小町』は面白いよね。

明生 まだよくわかりませんが、そんなに面白いですか。

能夫 楽しいよ。すべてがね。あの気持ちのよさ。卒都婆問答のこ気味良さ、芝居心、後半の深草少将に憑依しての狂い、すべてが面白いよ。稽古の時も舞台に立った時も、すべてが楽しい。

明生 シテが習ノ次第で登場するときに、橋掛りの途中で休息する場面がありますね。そこを父は二の松のあたりで柱に手をかけて休むようにしましたね。やれやれ疲れたという時の老人の所作を、杖に体を預けるようにする人、背を後ろに反って伸びをする人もあるそうですが、父は老人を観察して、柱に手をかけるようにした。

能夫 菊生叔父の工夫だな。

明生 そうですね。その後は、舞台中央に床几を据え、床几を卒都婆と見立て、シテ(小町)がそこに腰かけると、僧に咎められて卒都婆問答が始まります。

能夫 卒都婆問答は屁理屈だけれど、咎める僧を論破してしまうんだから、気持ちいいよね。知力というか才気というか。相手は高僧だよ。それを最後は「頭を地に付けて、三度礼」させてしまうんだから。ここは権威主義的にやってもダメなんだ。ダジャレもあるし。

明生 「極楽の内ならばこそ悪しからめ、外はなにかは苦しかるべき」というシテの謡がありますが、極楽の内なら悪いだろうが外なんだからいいでしょと、この「外は」は明らかに「卒都婆」にかけたダジャレですからね。

能夫 能では笑いは起こらないけれど、クスッとなってもおかしくないところだね。‐11‐

明生 卒都婆問答で論破したあと、僧は不思議に思って、小町に「御身はいかなる人ぞ」と問い、名を名乗らせますね。このとき小町は恥ずかしそうにして、それでも「出羽の郡司、小野の良実が娘、小野の小町が成れる果てにてさむらふなり」と名乗るところ。野村四郎先生は、あそこでシテの顔がポーッと赤くなるような艶ある表情が必要だとおっしゃってますね。(ホームページ読物・ロンギの部屋「野村四郎氏と『卒都婆小町』を語る」参照。)

能夫 老女と言っても、昔美しかった人、歌詠みで知られていた人の成れの果ての恥ずかしさもあるし。その小町が僧を論破していく過程に芝居心あり、演劇性あり…。

明生 そして後半の狂い。急に深草少将が憑依して、声も変わり、「小町のもとへ通うよのう」ですからね。

能夫 小町は深草少将を九十九日も通わせておきながら袖にしてしまうけれども、それへの傷をずっと背負っているんだな。思われ続けることへの負荷ですよ。そうして年を重ねて百歳の老婆になると、あんな風になる…。

明生 深草少将の百夜通いの果てに死んでしまうところまでを演じ、こんな風に少将の怨念が憑いて自分を狂わせると言いながら、最後は「悟りの道に入ろうよ」でしょ。現在物で小町はその場ではまだ生きていて、成仏を願っているんだけれど、何だかもう向こうの世界に逝っているような錯覚に陥るんですよ。ただ成仏させて!と願えばいいのかな。でも、最後は音楽的には静まってきますからね。


『卒都婆小町』シテ 粟谷能夫 平成 17 年3月 第 77 回粟谷能の会 撮影:東條 睦

能夫 百夜通いの激しい狂いと、その後の「悟りに入ろうよ」の変化、地謡としても切り替えが必要だね。昔はただガーッと謡うだけだったけれど。ところでこの曲、もともとはかなり長い曲だったらしいね。シテの着きセリフの後にももう一段シテ謡があったらしいし、それに最後「かやうに物には狂はするぞや」のあとに、玉津島明神の使いの烏が登場して、小町を救済するような場面があったらしい。それらを世阿弥が削除して今の形にしたと言われている。

明生 狂乱したあとに、「悟りの道に入ろうよ」がどうも唐突な感じでしたが、そういう展開ならわかりやすいかも。でも簡単に救われない形にして余韻を持たせるやり方は世阿弥らしいところかもしれませんね。

能夫 烏のことや、今の形になる前の詞章など、はっきりしたことは分かっていないが、そういうことがあったらしいということは抑えておきたいね。ところで、面はどうするつもり?

明生 能夫さんは「檜垣女」でしたね。私は痩女系の「老女」で勤めたい、と思っています。芯の強さが感じられ、しかも昔の美形を背負っているような……。

能夫 老女物といっても、老女過ぎてもいけないと思う。髪も白髪ではなくごま塩ぐらいのほうがリアルさが出る。

明生 私も真っ白は似合わないと思います。

能夫 とにかく『卒都婆小町』は面白い。そこを感じて演ってくださいよ。

明生 分かりました。演って感じてみたいです。 (つづく)

『山姫』と日本人の心 粟谷能夫投稿日:2018-06-07

 母の残してくれた私の演能記録を見ていましたら、十三歳の時、第一回粟谷能の会(昭和三十七年十月七日)に父の『景清』でツレ(娘・人丸)を、同年十二月に『烏帽子折』の子方を勤めておりました。当時、学校から帰宅すると、喜多実先生のお宅へ伺い稽古をして頂く毎日でした。
 『烏帽子折』は子方(牛若丸)が平泉を目ざす道中、鏡の宿で平家方が牛若を探索していることを知ると、姿を変えるために烏帽子を求め、また赤坂の宿では盗賊、熊坂を討ち取る活躍を見せます。この曲で子方卒業と言われております。そして能楽師としての本当の修行が始まるのです。
 其頃父から太鼓の稽古に行くように言われました。自宅から歩いて通えるお宅で、太鼓金春流の柿本豊次先生の稽古を受けました。いざ太鼓を目の前にした時、太鼓の皮の真中に撥革(この上のみ打つ)がはってあり、正確に打てるのかと不安でした。其後、小鼓、大鼓と稽古を受けるようになり、謡の地拍子の理解に役立ちましたし、お囃子の方々のご苦労も身にしみて分かりました。
 太鼓の稽古を始めるにあたり、父が金春流太鼓手附を用意してくれました。その中に『山姫』という曲目を見つけたのです。謡本を探してみると、大正九年発行の謡本がありましたが、変体仮名のため当時は全く読めませんでした。それ以来、私の頭の中にいつか『山姫』を世に出したいとの思いがふくらみ、今日にいたりました。
 能『山姫』は「山里いかに、春を知るらん」の心で、春の花を眺めるため山々を散策する里人(ワキ)が、山姫(シテ)にめぐりあい、山姫が四季折々の眺めを舞い語るという、一場面(中入りのない)のシンプルな内容です。山姫とは山を守る女神だとか、少し怖い妖怪であるというような民間伝承もあるようですが、今私は、山姫は自然の厳しさというより花鳥風月を愛でる山の精と感じています。
 日本人の四季を愛でる文章の多くは、自然との共存を見出し、人間もその一部であると実感せしめることに徹しております。例えば日本人は虫の音を聞き夏の終わりを思ったりしますが、欧米人には、雑音としてしか聞こえないといいます。また、日本人は月の呼び名を多く持っています。四季の気配をいち早く感じる民族なのです。
 『山姫』の能にも、日本人の心の中にも、四季の移り変わりの中に美を見出してきた日本古来の感性や自然に対する畏敬の念が根底にあるように思います。このようなことを思いながら、今年の粟谷能の会(平成三十年三月四日)で『山姫』を勤めます。


『伯母捨』シテ 粟谷能夫(平成 29 年3月5日 粟谷能の会) 撮影:吉越 研

我流『年来稽古条々』( 38 )?研究公演以降・その十六?『伯母捨』 『石橋』について投稿日:2018-06-07

四季投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』( 37 )?研究公演以降・その十五?『白田村』 『融』について投稿日:2018-06-07

能の無常と永遠 粟谷能夫投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』( 36 ) ?研究公演以降・その十四? 『三輪』 『正尊』、そして 『安宅』投稿日:2018-06-07

粟谷新太郎十七回忌に寄せて投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』( 35 )?研究公演以降・その十三?『清経』 『紅葉狩』について投稿日:2018-06-07

『道成寺』再び 粟谷明生投稿日:2018-06-07

『道成寺』再び 粟谷明生

平成二十六年三月二日(日)第九五回粟谷能の会(於:国立能楽堂)にて『道成寺』を二十八年ぶりに(初演・昭和六十一年三月二日)再演しました。

能『道成寺』は「安珍清姫伝説」で焼失した道成寺の鐘の後日談「鐘供養伝説」を元に観世小次郎信光が能劇化したものといわれています。安珍を登場させず、清姫の名前も明らかにせず、白拍子として設定し、鐘への執念をテーマにした能の大曲です。

まず今回使用した面と装束についてご紹介します。喜多流は、前シテの面は「曲見」、装束は「黒色丸尽縫箔」を腰巻にして「紅無鶴菱模様」の唐織を坪折(壺折)にするように伝わっていますが、近年、若年の者が初演で年増女の「曲見」を使いこなすのは難しいとの配慮から、「増女」に替える傾向となり、私の披きも「増女」で、それに伴い、装束は「紅入蝶柄模様」の唐織でした。今回は「曲見」も考えましたが、やはり、美しく若い女に拘りたく、面は「増女」系で唐織も紅入りとしました。面は世にも不思議な女、妖しげな艶と幾分ヒステリックな一面も出したいと、梅若玄祥先生より梅若家の名物面「逆髪」の写し「白露」臥牛氏郷打を拝借し、唐織は『道成寺』に相応しい貴重な色入唐織「赤地鱗地紋花笠に獨楽糸」を観世銕之丞先生から拝借しました。両先生には感謝の気持ちで一杯です。

では舞台進行に合わせて演能を振り返ります。『道成寺』といえば鐘ですが、この鐘の吊り方が上掛りと下掛りでは大いに違います。上掛りはあらかじめ狂言方の後見が作り物を出す心持ちで鐘を吊り、その後にワキが登場して能が始まります。それに対して、喜多流など下掛りはワキの登場後、狂言方が演技として鐘を吊るところに面白さが増します。吊り終わると、能力(アイ)は道成寺で鐘供養が行われ、女人禁制であることを、周りに「ふれ」伝えます。

そしていよいよ前シテの出となります。通常は習之次第と呼ばれる出囃子が数分間囃され、シテが姿を現しますが、今回は、次第のはじまりと同時に幕を上げ、すぐにシテが姿を現す替えの演出にしました。これは鐘への恨み、怒りを必死に抑えていた女が、鐘供養の「ふれ」を聞いた途端に、恨みのスイッチが入り瞬く間に出現したと思える景色にしたかったためです。より女の激しく昂ぶった精神状態を表すのに相応しい演出と思い、試行しました。

女人禁制であるから供養の場には入れぬと断るアイに、お構いなしに境内に入り込む白拍子。通常は次第も道行も本舞台にて行うところを、橋掛りで行い、アイとの問答をしながら、境内と考えられる本舞台に入る演出とし、白拍子の図々しさ、不貞不貞しさを表現したいと考えました。
能力のはからいで、シテは女人禁制の鐘供養の場に入り、舞人の象徴である烏帽子をつけて、いよいよ舞となります。はじめは遠くから鐘を眺めている白拍子ですが、鐘を見るうちに興奮し鐘の下に走り寄り「乱拍子」を踏み始めます。

乱拍子は白拍子の舞を模したもので、シテと小鼓の二人だけによる特殊な舞、シテ方は小鼓方の流儀に合わせて舞(型=動き)を合わせます。初演では幸流の亀井俊一氏のお相手で勤めましたが、今回は大倉流宗家・大倉源次郎氏にお相手をお願いしました。足の動き(型)は踵を上げ、次に爪先を上げ、横に向け、また元に戻す、という単純な運動の繰り返しですが、小鼓の呼吸に合わせ、立つ姿勢を乱さず足の動きだけで演じるには体力だけではない、技術力も必須と知りました。身体の堅さをとり、ほんのりと女らしい柔らかみを感じさせるスムーズな身のこなしを意識し取り組みました。幸流は掛け声と打つ音、その間(ま)を大事にし、自然と時間が長めになります。一方、大倉流、幸淸流、観世流などは掛け声を長く引く間に合わせて足を動かすため、掛け声が終われば次の動きとなり、乱拍子の時間は幸流より短くなります。今回、ご覧いただいた方から「乱拍子が短く感じられた」とのご感想をいただきました。これは本来八段であるものを六段に短縮したこともありますが、小鼓の流儀の違いが大きな要因だと言えます。

「乱拍子」の舞は単純な動きですが、これを演者はなにと考え演じるのか、なにを真似てなにを思うのか、そこの再認識が再演の課題でもありました。道成寺の階段を蛇のように這い上がる心持ちを足遣いで表現するとも、足拍子を踏む乱拍子という踊りのステップのようなものとも考えられます。私はその両方を思いながらも、もうひとつ、道成寺という土地や鐘への思いを抑えながらも、ついには爆発してしまう、女の心の中の葛藤であり、冷静と興奮の交錯のイメージで勤めました。

「乱拍子」の最後は「寺とは名付けたり」のシテ謡から大鼓も打ち出し、白拍子の思いは遂に炸裂し、速い舞「急之舞」に急変します。この舞も揺るぎの無い下半身としなやかな上半身の動きが必須で、剛柔のバランスをうまくとりながら、身体を乱すことなく俊敏な足さばきの中にも常に「女」を感じさせなくてはいけない、とは父の言葉です。

舞が終わり「春の夕べを、来て見れば」「入相の鐘に花や散るらん」と、シテと地謡は熱唱し舞台はクライマックス、鐘入りを迎えます。この曲最大の見せ場であり難所です。何度もリハーサルが出来ないので、まさに一発勝負です。喜多流は烏帽子を後ろに払い落とし、片手を上げて鐘を目掛け、後ろ姿を見せたまま、鐘の真ん中で二つ足拍子を踏み飛び上がります。これが鐘後見の鐘を落とすタイミングと合い、シテは頭を打ちながら姿を消すことになります。今回、鐘後見の大役を受けて下さった中村邦生氏が、よい具合に落として下さったので感謝しています。
初演の難関として鐘の中での着替えがあります。面を外し、唐織紐を解いて脱ぎ、般若を付ける。狭く暗い中での作業は不自由です。今回は垂れ髪を付ける新工夫に挑みました。般若の面は下から上へのベクトル、口も角も上に、鬘の毛も上に向けて掴み上げるが、それに対して垂れ髪は下への力が加わるので、上への力が半減されるような不思議な感じを受けたとのご感想をいただきました。なるほど、然りです。しかし、そのバランスを故意に崩し、怒るだけではない女の悲しみをどことなく感じさせられないだろうかとの思いで試行してみました。世阿弥の言う「してみて、よきにつくべし、せずば善悪定めがたし」の精神が私は好きです。まずは試してみて、ということでした。垂れ髪が流行るか廃るか、将来を見ていきたいと思っています。

後場は「あれ見よ蛇体は、現れたり」で後シテが姿を見せますが、後シテの面は喜多流では「般若」をつけます。蛇のようになってしまった女の恐ろしさを「蛇じゃ」という面で表現するのが順当とも言えますが、敢えて「般若」を使用するところに、そうならざるを得なかった女の悲しさがより強調されるのではないでしょうか。蛇体の女は大勢の僧に祈られて退散し、遂に日高川に飛んで消えます。近年、最後は幕の中に飛び入り幕を下ろして姿を見せない演出が普通となりましたが、我が家の伝書にはそれは替え演出であり、本来は橋掛りにて飛び臥し、その後立って入幕すると記載されています。このやり方は、死んだとは謡わない、もしかするとまた心のスイッチが入り現れるかもしれない、そのような悲しさ、終わりのない女の怒りと恨みをより一層引き立たせる演出と思い試みました。

能・狂言の世界では、大きな曲に挑み演ずることによって、能役者の成長の証を示す慣習があります。その中でも『道成寺』は筆頭で、披いて、はじめて一人前とみなされます。しかし、残念ながら披きは無事に勤めるという域を超えることは出来ないのです。『道成寺』という戯曲の大きなテーマを若さあふれる者が一回目で演じきることには少々無理があります。今回五十八歳の再演にあたり、初演では出来なかったことへの再チャレンジ精神で臨みました。それは緩みがちな私の精神と肉体に負荷をかける絶好の機会となり緊張の日々でした。その稽古の日々で、ふと見えて来たキーワードは「妖気」です。「美」と「妖」の交錯、相克です。「美」の静、と「妖」の動が、常にこの不思議な白拍子の女の魂を動かしているのではないか、と。そして、怒り爆発ギリギリの精神状態の危険な女をどう再演出来るかが、私のテーマとなりました。

作者の観世小次郎信光はお囃子事が達者な能役者だったようで、『道成寺』は信光らしい囃子方のパフォーマンスが遺憾なく発揮されています。観る者を飽きさせない、おもしろ演出満載の『道成寺』です。披きはこのお任せコースに乗ればよいのでしょうが、再演はこのコースをどのように扱うかが問われます。フィギュアスケートは技術点と芸術点で審査されます。能役者とアスリートは同じにはなりませんが、技術点の満点を目指すのが初演の披きだとすると、再演では技術点の満点は当然、芸術点に重きをおいて、両者の高得点でよい舞台を作るものなのです。

初心にもどり、『道成寺』が大勢の仲間の協力で出来上がるものであることを再確認し、仲間への感謝の気持ちがこみ上げてきたこと、NHKの公開録画という高いハードルの設定にどうにか応えられたことなど、充実感に浸っています。舞台を創ってくれた囃子方、ワキ方、狂言方、喜多流の地謡、後見、楽屋働きの仲間たち、観てくださった方々、『道成寺』にかかわったすべての人たちに感謝しています。*(「粟谷能の会」のホームページの演能レポートで補足&写真入りで掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)


『道成寺』 シテ 粟谷明生(平成26 年3月2日 粟谷能の会) 撮影:青木信二

いにしえの「頼政」専用面 粟谷 能夫投稿日:2018-06-07

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『葛城』について    小書「古式の神楽」を再考する投稿日:2018-06-07

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『船弁慶』について   新時代を切り拓いた信光の工夫 粟谷 明生投稿日:2018-06-07

観世寿夫賞を受賞して 粟谷 能夫投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』( 32 ) ?研究公演以降・その十? 『隅田川』 『船弁慶』について投稿日:2018-06-07

能と歩む人生の四季 粟谷 能夫投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(31)?研究公演以降・その九?『歌占』『求塚』について投稿日:2018-06-07

明生 今回は秋の粟谷能の会(平成二十四年十月十四日)で取り上げる曲目について話していきましょう。
 父・菊生の七回忌追善能です。能夫が『歌占』、私が『求塚』を勤めることになっています。

能夫 もう七回忌、早いね。追善能だから、菊生叔父の好きだった曲をやろうということだね。まあ、追善と称して大曲を勤めたいという気持ちもあるし、時間的なバランスも考えてのことだけれど。君が勤める『求塚』は、菊生叔父が、好きだったねえ。『歌占』が好きだったというのは意外に思われるかもしれないけれど。

明生 『歌占』も好きでした。現代物もやれば、切能もやる、なんでもやるオールマイティの人でしたから。

能夫 そうね。何でもやるという自負があったよね。

明生 『歌占』は舞の型がよかったですね。

能夫 技というか。地獄の曲舞なんかすごい型の連続でしょ。謡の力も考えていたかもしれないけれど、そういう技で思いを表現するというのがあったと思う。

明生 曲(クセ)はいろいろな地獄の有様を型で表現しますが、なにしろ型の切れがよく格好良く見えて憧れました。

能夫 最初の菊生叔父は白垂れではなくて、尉髪を巻き上げる『春日龍神』の前シテと同じような格好だった。尉髪をグルグル巻きにして翁烏帽子に入れ込んでしまうやり方。

明生 鏡の間で自分の顔を見て「直面は嫌だ、もう一度やり直したい」と言っていましたよ。

能夫 そう当時は直面だったよね。いつ頃の事かな。

明生 父が五十代の最初かな。

能夫 そのくらいだね。『歌占』はあまり若いころにはやらせない曲だから。相応の年にならないとできない。菊生叔父以降、直面で『歌占』をする人、見たことないなあ。

明生 『歌占』は、一度死んで三日後に蘇生するわけですが、演者の生な顔で演るより面をかける方が似合うと思いますよ。父の『歌占』が面をかけるかかけないかの境目ではなかったでしょうか。

能夫 それから『歌占』は仮面劇になったね。

明生 『歌占』はいつ演られましたか。

能夫 喜多会(昭和六十三年)で披いて、今回が二度目。白垂れで勤めたね。『歌占』といえば、やっぱり憧れがあったよ。実先生が主催された能に親しむ会で、初めて寿夫先生をゲストとしてお迎えしてね。実先生が『歌占』で、寿夫先生が『羽衣』。そのときの実先生の『歌占』がすごかった。

明生 どのようにすごいの? テンションの高さ?

能夫 そう高くてね、それに憧れたんだよ。舞の技にね。喜多流というのは型でものを表現するという指向が強いでしょ。実先生の舞の型はすごくてね。あのときの装束は流儀にある替えの装束だったね。巫(みこ)とも違う、神官とも違う、魔法使いのおばあさんみたいな設定なんだ。烏帽子も翁烏帽子ではなく 後折烏帽子で。

明生 まさに男巫という感じですかね?

能夫 そうね。あの格好は、もしかして芸能として使っているのはうちだけかも。あの実先生の舞台を観たとき、『歌占』って、目指す曲だなと思ったよ。

明生 地獄の謡や曲舞もあるし。

能夫 僕も若かったから、そういうところまでは見えていなかったけれど、とにかく格好いい、颯爽としているなって。何かお能の究極でしょ。現実にないものを見せる、生と死の極みのようなことを伝える、ああいう仕掛けは。

明生 歌舞伎役者さんが踊り中心の曲があるって言っていたけれど、この間私が勤めた『百万』などまさにそれで、狂女は止まっていないわけですよ。車の段、笹の段、法楽の舞と、ずっと舞いっぱなし、動きっぱなし。『歌占』は、男舞などの舞はないし、説明的なところもありますが、地獄の曲舞が見せ場ですね。最初は床几にかけていますが、次第に動きか活溌になり、地謡も共鳴して、わーっと謡う。こういうところが喜多流には合っているなと思いますね。

能夫 『歌占』という曲は、謡や仕舞、舞囃子を稽古していると、憧れるんだよね。要するに青年が目指す輝ける曲だったんだ。あそこに早く到達してみたいという目標だね。

明生 技術がある水準まで到達していないとできない。やりたいと言っても、腰が入っていない、シカケ・ヒラキもできない者が何を言っているんだと言われる。言われないために頑張ったというね。

能夫 技術オンリーでもだめ、思考オンリーでもだめ。両方がそろっていないと無理だと、昔から思っていた。うちでは技術的な極致とか言われるけれどね。

明生 喜多流の能楽師として芸の習得過程を山登りに例えると、第一ベースキャンプがまず『歌占』。これがきっちりと出来ていないと次のキャンプに行けない、という気がします。型を重視する喜多流ならではの意識、ここをちゃんと表現出来て、それで、次の第二ステップ、アタックキャンプに向かうわけです。

能夫 それに戯曲的にも面白いしね。

明生 世阿弥の息子、元雅の作品ですから。元雅の作品といえば『隅田川』『盛久』『弱法師』、どれも生と死を突き詰めて描いています。暗いけれど情念が燃えている。『歌占』のように、一度死んで三日で蘇生するなんてリアリティがないように見えますが、現代だって、死にそうになるなど擬似的に死を経験することはあるわけで、そういう意味では全くリアリティがないわけではない。地獄の曲舞で地獄をリアルに描いていながら、救いはないかというと、親子再会で生への希望を描いてみせる。

能夫 技だけではない、そういう戯曲も理解しないと。大
人はね…。

明生 『百万』にしても『三井寺』にしても、狂女ものは親子再会はとってつけたような感じでしょ。でも『歌占』はそうではないと思うんですよ。私も自主公演(平成十二年五月)で披いて演能レポートにも書いたのですが、『歌占』は地獄の曲舞がいいといいながらも、親子の再会をしっかりと描かないと、曲舞が希薄なものになってしまう…。

能夫 普通、狂女ものは最後に再会劇をもってきてシャンシャンとなるけれど、『歌占』は占いをしてすぐに再会させてしまう。順序が逆転しているから、面白いよね。

明生 「金土の初爻を尋ぬるに」から占ってすぐ再会です。再会で盛り上げておいて、じゃあ、地獄をお見せしましょうと曲舞に入るわけです。その次元の違いみたいなものを演じ分けないといけない。

能夫 その進行の難しさだね。

明生 さて次は『求塚』に入りましょう。父菊生の最後の『求塚』は大槻自主公演でした。

能夫 昔、梅若学院での舞台を僕は観ている。菊生叔父は結構この曲好きだったでしょう。痩女物への憧れってあるよね。

明生 痩女物は、春の『求塚』、秋は『砧』と言われていますね。今回は秋に『求塚』になってしまいましたけれど。

能夫 まあ追善だから、許してもらおうよ。

明生 私たちは地謡の充実を目指してということで、平成五年の研究公演で『求塚』をやりましたね。

能夫 友枝昭世師にシテをお願いしたね。

明生 私自身は新太郎伯父のツレをやらせてもらい、いろいろな方の地謡も謡わせていただき、諸先輩の舞台を拝見していますが、なかなか難しくて、どこを、何を狙って何をするんだというようなことが…。先日観世清和氏の舞台を拝見しました。喜多流は太鼓なしですが、観世流は後場が出端となり太鼓が入りますね。太鼓があると苦悩の激しさが強調されますね。

能夫 先人の能、他流の能も見て、研究公演で地謡を謡いと、経験を積み重ねている中から、自分の能ができてくればいいんじゃないのかな。

明生 私、『定家』をやらせていただき順番が違うかもしれませんが、自分なりの『求塚』をと思っています。父の追善ではありますが、父の通りというわけにいかない…。

能夫 それはそうだよ。教えられたものに自分なりのものを何パーセントか足していく。それができることこそ追善になると思うよ。たとえば、父たちは痩女物の足の運びは地獄の有様をいかにも剣山の上を歩む心で、いかにも大袈裟に痛い、痛いみたいな足の運びをしていたけれど、あれはやり過ぎだと思う、とかね。明生 型付通りにやる、それに対する疑問とか、そういうことは父たちの世代は許されなかったから。プレーヤーはまずコピーからだから、何も疑問をさしはさまない。でも、それは三十五とか四十歳ぐらいまで、四十歳過ぎたらコピーだけではつまらない、いけない、と思うのです。

能夫 そのためには、蓄積が必要なはずだよね。伝承ということもあるけれど、自分なりに調べたり、能動的に取り組んだりしてきた軌跡ね。

明生 全部親たちと同じことをするのではなく、かといって、全否定するわけではありませんが…。

能夫 それでいいと思うよ。ところで、『求塚』という曲は前は若菜摘む段と独白の場があり、中入りして、後は地獄めぐり。若菜を摘むところはすごくいいよね。君がためにと、何か思う人のために若菜を摘む。それは神聖な行為であるし、季節の喜びもある。雪が溶けてきて、燃え立つ春を迎え、生命の復活を思わせる。その後で苦悩を見せる、あのギャップの作りはうまいと思うよ。

明生 劇作家のうまさですね。ツレの若菜摘みの乙女が帰った後に一人残るシテ。求塚のいわれを語り始めますよね。そして「その時わらわ思うよう」と一人称になるところから場面転換が起こります。冷静にいわれを語っていたのが、自分のこととなって気持ちが高ぶってくる。

能夫 恐ろしいよね。ここで印象が変わる。技術的にも変わらなければいけないからね。

明生 心してやらないといけないですね。少し演じるイメージがわいてきました。主人公の莵名日処女は、二人の男性に愛されて、どちらとも選びえず、入水してしまうのだけれど、この主人公をどのあたりの人種とみて演じたらいいのでしょうかね。

能夫 普通の女じゃないだろうね。

明生 豪族の女?

能夫 あるいは巫女というか、そういう特殊な能力をもった人かもしれない。他県の人が取り合うわけで、同じ村の中で戦っているわけではないでしょ。だから土地の田舎娘ではないよね。巫女とか、その人を獲得することで村が繁栄するとか。懸想されるほど美人とか。何か見込まれるだけの設定がないと。

明生 それにしても、どうして菟名日乙女はあれほどの地獄の責め苦を受けなければならないのか。二人の男のどちらかを選ばなかったから? 選ぶために鴛鴦を殺す結果になったこと? 入水したことで、後に二人の男が刺し違えて死ぬことになったから? 

能夫 すべては美しすぎることが罪なんだよ。男を惑わせる罪。昔は宗教的にそう考えるところがあったと思うよ。『求塚』は煩悩と執心を凝縮して描いているんだ。だから前の早乙女が美しければ美しいほど、地獄の責め苦がリアルになって迫ってくる。

明生 だから痩女物であっても、どこか美しさをにじませるものであってほしいと思います。今、後シテの「痩女」は、私のイメージで打っていただいているところです。今回は『歌占』も『求塚』も地獄を見せるところが共通していますね。今はそう地獄をリアルに想像することがありませんが、昔は地獄をリアルに見せることで、今をよりよく生きなければということを教えたのでしょうね。

能夫 あの時代は、源信の「往生要集」から始まって、地獄がものすごくリアリティあったと思うよ。今の時代はいろいろあっても、本当の地獄を想像していないでしょ。中世は四条河原に死者が累々とした時代で、悲惨さが違う。

明生 生き死にが身近にあった時代ですよね。

能夫 地獄めぐりというのは能の本質でもあるよね。本三番目ものだって、直接地獄が描かれていなくとも、みんな地獄をめぐって、現れてくるんだからね。執心をもった人が地獄の責め苦にあっても、どうしても思いを伝えたいと、現れて訴えるんだ。

明生 能は、そういう思いをもって死んで行った人への鎮魂の芸能ですからね。

能夫 そういう意味でも、今回は、追善能として精一杯勤めたいね。

明生 七回忌というのは死後丸六年ですよね。皆様にも言われたのですが、親のありがた味が分かってくるのは五年過ぎてからだよと。それが何となくわかります。一周忌や三回忌ではまだそこまでの余裕がなかったけれど。

能夫 そう。父たちには負けたくないけれど、父たちの理屈じゃなくテンションの高さを特徴とする能も、やはり説得力があったね。でも僕は僕なりのスタイルでいきたいな。

明生 父は良いと決まるとそのスタイルを本当に変えなかったですね。装束も然り、面もいつも同じものを愛用しました。自分なりの完成パターンを確立したというのでしょうか。踏襲している。「変えなくていいの、それが良ければ」、そんな風に話していましたよ。私はだめですね。ちょこちょこ変えたがる、もっと泰然自若と、なんてご忠告を受けるのですが、この性格変わらないですよ。

能夫 それでいいんじゃないの。生きている以上は変わろうよ、進化しようよ。世阿弥も花と面白きと珍しきは同じ心と言っているよね。いつも同じではダメだと戒めている。

明生 父たちは父たち、私たちは私たちのやり方、その時代時代に適応した生き方でいいでしょう。

能夫 今回特に菊生叔父が大事にし、また好きだった曲を演るけれども、前の時代の単なるコピーではない、私たちがどう勤めるかを是非観ていただきたいですね。

明生 そうですね。頑張って勤めましょう。

(つづく)

写真 「歌占」シテ:粟谷明生 子方:粟谷尚生 撮影:石田裕
写真 「求塚」シテ:粟谷能夫 撮影:三上文規

スカイツリーと空の月投稿日:2018-06-07

スカイツリーと空の月
粟谷 能夫
 
 今年五月に東京スカイツリーが開場となりました。隅田川の業平橋のほとりです。業平といえば「伊勢物語」。業平東下りの段(九段)に隅田川が描かれています。

 「昔、おとこありけり。そのおとこ、身を要なき物に思ひなして、京にはあらじ、あずまの方に住むべき国求め・・・」

 と、東下りの冒頭です。やがて隅田川に至り、
 名にし負はば いざ事とはむ都鳥
   我が思ふ人はありやなしや

と詠むと、「舟こぞりて泣きにけり」とあります。
 能『隅田川』はこの和歌を元に構想されたものです。子を捜し都より東の地、隅田川までやってきた物狂いの女(シテ)は、この歌をひき、「ありやなしや」と問う心は業平も自分も同じと訴えます。このようなよい場面を織り込みながらも、救いの無い母と子のドラマを生み出しました。しかしここには、母親の子に対する深い慈しみの心や、温かいまなざしが投影されております。

 私の子どもの頃は東京といえども高層ビルも無く、高い所へ上るといえば、電波塔ぐらいでした。東京タワーができるまでは、各放送局が電波塔を持っていたのです。私も赤坂プリンスホテル辺りにあった電波塔に連れて行ってもらったことがあります。大変高くて少し怖かったことを覚えています。

 東京タワー開場の折には、母に連れられて妹と共に展望台までエレベーターで上り、下りは歩いて階段を下りた記憶があります。その折、日付入りのメダルを買ってもらい嬉しかったこともよい思い出です。

 また今年は金環日食や金星の太陽面通過等、天体ショーがあり、皆専用メガネ等で空を見上げる様子をテレビ等で見ました。私の頃は小学校の校庭で下敷き越しに観察をした記憶があり、随分と進歩したものだと感じています。

 能にも空を見上げる事があまたあります。例えば月を見る場合、役者は自身思い描く月を想像しながら上を見ます。暖かい大きな月なのか、遠くに見える小さく寒々しい月なのかと。しかし観客は月を見ている役者の姿を見ることで、月を見ているなと想像し、自分なりの月を考えます。

 その曲に適うような月を伝えられるのかと、思うことがあります。扇のかざし方、面の傾け方、あらゆる所作に神経を集中します。そこに謡が加わる事で情景が浮かび上がり、なんとかまとまるのだと思っています。

 スカイツリーを眺め、空を見上げて、能のふかぶかとした趣きに想いをいたしているところです。

写真 シテ:粟谷能夫 撮影:吉越研

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面のウケについて 「小ベシミ(こべしみ)」を例にして投稿日:2018-06-07

面のウケについて
「小ベシミ(こべしみ)」を例にして


口をへの字に結び、怒りを押さえ、物を言うのを堪えているような赤ら顔の表情の「小ベシミ」は『鵜飼』『野守』『昭君』『鍾馗』などの後シテに使用されます。

面の表情は上向きでもなく、俯き過ぎにもならない中庸の位置を「よいウケ」と言います。私たちシテ方の能楽師は面の裏側に当て物という小さなクッションを付けて受け具合を調整し、一旦決めたらその角度を動かさないように一定にし、首を据えて舞台を勤めます。
面は上に向けると緩んだ表情に、下に向け過ぎると暗い表情になりますが、適度な中庸な受けがなんとも言えぬ物言う表情になるのが不思議です。

面によって受けの幅が広いものと狭いものがあります。
「小ベシミ」は狭い場合が多く、受けの判断がしづらい面です。
下顎が出たら面は生きませんし、また引きすぎても、これまただめで、判断がむずかしいのです。
「大ベシミ」は「小ベシミ」よりスケールが上回りますが、この面の受けは「小ベシミ」より広いように思えます。

何故でしょう?

彫りの深さも関係していると思いますが、もしかすると大ベシミの表情に隠されている滑稽な部分、どこか間が抜けた感じの表情が関係しているかもしれません。
「小ベシミ」に滑稽さや間の抜けたものは微塵も感じません。だから、受けがむずかしいのかもしれません。

この受け具合は付ける人間では見られないので、他人に見て判断してもらいます。
周りの能楽師は、受けを横から目を見て判断している人がいますが、これは正確さに欠けます。私は正面から口のラインで受けを決めています。
「明生、ウケ見て」と言われた時は責任を感じながらも、私の眼力を評価されてのことと思うと、嬉しいものです。

我流『年来稽古条々』( 30 )?研究公演以降・その八?『景清』 『砧』について投稿日:2018-06-07

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喜多流の謡について 声と謡 投稿日:2018-06-07

ランチタイムに「今日はちょっと静かなお店でゆったり雰囲気を楽しみながら昼食でも…」などと、私に似合わぬ行動をすると事件は起きる。

「えっ何?」と、びっくりするほど大声で話すお客さんに遭遇した。
隣合わせではないのに、まるですぐ隣に居るかのように話の内容もはっきり聞こえる、その馬鹿デカイ声。

柄にも無くわざわざ静かなお店を選ぶと、この様か…と首をうなだれた。
「仕方がない、運が悪かった」と自分自身に言い聞かせるが、なかなか諦められない私、まだまだ未熟だ。

デカ声の張本人は自分の声がお店でどのような影響を及ぼしているのかなどお構いなし、ひたすら喋りまくる。

その相手は頷いているだけ、屹度うるさいな?と思っているかもしれないが、言わないでいる。私も言えないだろう。

悪いことは続くもので、コーヒーをあまり飲まない私が、珍しくコーヒーを飲もうと、ひょっとマクドナルドに入った。

すると、またまた大きな声が聞こえて来た。
よく通る声で、とても大きく響く声だが、先ほどのオジサンの声とは違う、かわいいものだった。

声を出しているのは女の子、歳の頃は小学生の高学年ぐらいだろうか…。
「この女の子に謡を謡わせたら、きっといいかも…」などと感心してしまった。

しかしその賛美も束の間、その声は止むことを知らず、次第にどんどん大きくなり限界を越えていった。女の子は遂には、お店中を走り回り、声は店内に響き渡った。

女の子の動きは普通でなく、その挙動を見ればだれも注意は出来ない、そんな状況だった。女の子は自分の声をうまく制御出来ないのだろう。脳からの指令がうまく繋がらないようだ。うまく繋がれば太い喉と良い声でよい謡が謡えるのだが‥‥、残念だ。

先ほどのオジサンも、もしかしたら脳からの指令が外れているのかもしれない。

声は制御力というコントロールを失うと雑音になり、人に害を与えるものに変わる。
能の謡も同様、「どのように謡うか?」と脳に尋ねる必要がある。

どのような吟なのか、強吟か和吟か。リズムは小ノリか大ノリか、それとも拍子に合わずなのか、と。

吟とリズムを確認して、声量と声の高さ、謡のスピード、陰か陽か? 息づかいはどのように配分するか? など、いろいろなことを考え、脳が身体に指令し、鼻から空気を吸い込み腹に溜め、徐々に喉を通して口から空気を出して声となる。

能は舞歌二曲から成るが、歌の占める割合は舞よりはるかに大きい。
だから、謡声は大事、考え抜かれた洗練されたものでなければいけないと私は思う。

どのように声を出したら、舞台から客席に伝わるか、観客に心地よく聞こえるか。
心地よいという言葉は適切でないかもしれないが、能に心地よく浸ってもらうための謡だ。
シテ方能楽師というプロならば、そのスキルは獲得しなければいけない。

しかし、若手(喜多流)の謡を聞いているとどうも謡を蔑ろにしているように思える。
それは間違いである。

だれも間違いであることは判っているのかもしれないが、しかし本人も指導者もそれには触れないようにしているのが現状だ。

私は能楽師(喜多流)も正規にボイストレーニングをした方がよいと考えている。
自分がしていないのにおこがましいが、しなくて苦労したから、これからの人にはもっと効率よく正しく習ってほしいと思う。

私は流儀の若手能楽師の何人かに先生を紹介するから、と呼びかけたが、反応は寂しいものだった。

内弟子の佐藤陽と息子・尚生の二人が習いたいと申し出たので、私は先生を紹介し、やるか、やらないかは本人達に委せた。現在もトレーニングを続けているところを見ると彼らはトレーニングの必要性を認めているのだろう。トレーニングしたから直ぐに見違えるようによい声になるということにはならない、とトレーナーからも言われているが、昔に比べて、声に張りが出てきたことは確かで、トレーニングしない人より数段進歩していると思うのだが、私の欲目だろうか。

シテ方の能役者は、まず謡のレベルを上げることが第一だと思う。

これには時間がかかるが、時間をかければかけるほど熟成した謡が生まれると思いたい。
リアリティがあり説得力もあって、心地よく聞こえる、そんな謡が私の理想だ。

今、私を含めて喜多流の能楽師は能という様式美のプロテクターに頼り過ぎているきらいがあるのではないだろうか。

流儀の若手も中年能楽師も一度プロテクターを外して、謡というシンプルな、実はとても複雑なものを再考する時期が来ているのではないかと思う。

それが私の思う本物の能楽師に近づく、時間はかかるが近道のように思えてならない。
もっともっと謡に、声というものに意識を持たなければいけないと、あの昼下がり、オジサンと女の子が大声で私に注意してくれたのかもしれない

@uJ\??M@Wv@投稿日:2018-06-07

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我流『年来稽古条々』(29)?研究公演以降・その七?『小原御幸』について投稿日:2018-06-07

  我流『年来稽古条々』(29)
   ?研究公演以降・その七?
    
『小原御幸』について
粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 研究公演の第七回は平成八年(六月二十二日)、能夫さんの『小原御幸』でした。大曲に挑む、ということで、二年間懸けて、各自、能一番ずつ、私が『松風』(平成七年)を勤め、能夫さんが『小原御幸』でした。法皇役は香川靖嗣さんにお願いしました。今回は『小原御幸』を中心に話をしたいと思います。

能夫 平成八年、もう十五年も前になるんだね。

明生 曲を決めたのは二年前でしたから、平成六年のこと、父(粟谷菊生)にどのようにして『小原御幸』を許可してもらおうかと思案して…。きっと、「もっと身体を動かす曲をやった方がいいんじゃないか」と言われるのを予想して、その時は「謡を勉強したいので…」と答えるから、と言われたのを覚えています。

能夫 そうだね。『小原御幸』はほとんどが謡や語りで出来ている能だよ。もともと謡い物として作られたと言われるぐらいですから、シテの動きは極端に少ないね。謡や語りが、いかに説得力をもってできるか、それが課題だったね。人生の辛さも分かってくる、ある年齢を過ぎないとできない曲だ、と言われていたから、余計に早く手がけてみたかったわけね。『小原御幸』は喜多流では外の曲扱いだから、伝書も最後の方に記載されているだろう。

明生 そうですね。『小原御幸』は本人が希望しないとできない曲です。選択の理由はなんですか?

能夫 それはいろいろな先人の『小原御幸』を見て来て、憧れが生まれるじゃない。観世寿夫さんの『大原御幸』とか、父(粟谷新太郎)も友枝喜久夫先生も好きだったし、そういう目標みたいなものがあるよね。いい曲でもあるし、花帽子をつけてみたいとか、楚々たる雰囲気がいいなとか。

明生 最初のシテの謡「山里は物の寂しき事こそ…」は京から離れた大原の山里に寂しく暮らす建礼門院の境地を語り、場面作りをする大事な謡ですね。この謡で忘れられないのは、フラメンコのステージで先代の観世銕之亟先生の、ここの謡が流れてきたことですよ。それがもう透明感というか、寂しさの中にある気品というか、そんな雰囲気をひしひしと感じさせる謡で、あれは絶品でした。

能夫 僕も先代の銕之亟先生の『大原御幸』の後シテの語りを聞いたことがあるが、まさにリアリティだね。喜多流は藁屋にシテ一人が入って、ツレの阿波の内侍と大納言の局はその地謡前に座る演出だけれど、観世流は大きな大屋台にシテとツレの三人が入っているね。喜多流では地謡が謡う「折々に…」のところも、三人の連吟になる。

明生 そういう演出の違いはありますね…。

能夫 話は少しずれるが…。『小原御幸』の舞台は大原寂光

院だけれど、同じ大原にある三千院、あそこの仏像は正座しているんだよ。阿弥陀三尊坐像の脇士ね。普通、仏像というと立っているか胡坐をかいているか、半跏の姿でしょ。それが正座しているの、珍しいよね。正座は何か礼儀正しいというイメージだけれど、日本古来からのものではないといういい方もされてきたが。このお姿で、昔からの座り方であったことが判るよね。あのイメージで、シテもツレも下居するといいじゃないかな…、と思うよ。

明生 なるほど。能夫 後シテの謡も難しいんだな。後の出の橋掛りの一の松で止まって謡う、祈りのところなんかもいいところですが、難しいよ。

明生 「極重悪人無他方便、…一門の人々成等正覚」の祈りですね。短い前場ですぐに中入りとなり、後場は後白河法皇の登場です。シテは山に花摘みに出かけ帰ってくる。法皇が訪ねて来ているなどつゆ知らずに。

能夫 侘び住まいで空しい日々を暮らしながら、ただ先帝・安徳天皇のことばかりを思い静かに読経しているわけですよ。祈ることで救われようとする静かな境地なのにね。

明生 そこに後白河法皇の御幸の知らせが…。

能夫 これで心がざわめくわけだよ。後白河法皇は建礼門院の舅であり、安徳天皇の祖父にあたるけれど、平家を滅ぼすための宣旨を出すぐらいの策士でしょ。

明生 建礼門院は平清盛の娘・徳子ですからね。法皇は最初、平家と姻戚関係を結んで組みしながら、源氏が勢力を伸ばしてくると源氏につくぐらいの人間です。建礼門院としては身内でありながら仇のような複雑な心境ですよね。

能夫 心の中はどろどろしているよね。だから、内侍から法皇の御幸を告げられたときに、シテには躊躇があるんだ。会いたくないってね。でも法皇だから…、力関係からいっても帰すことはできない。

明生 心の動揺をどう謡うかですね。

能夫 そう、そこが難しいよ。謡と立ち居・振舞みたいなもので物語を進めていかなければならないのが『小原御幸』だよ。シカケ・ヒラキといった型で修業してきた人間にとっては、その表現法が使えないわけだから、謡うこと自体を考えなければいけないよね。建礼門院という高位で物静かな人物を八割がた声だけで表現する…。能には、そういう課題の曲が用意されているんだと痛感したよ。

明生 建礼門院にたたみかけるように、六道の有様を語れと言って平家滅亡の有様を語らせ、挙句の果てには安徳天皇が入水して亡くなる最期の有様まで語らせる法皇役、この悪役も中々ぴったりの人っていないですよね。観世銕之亟先生が法皇を父に依頼したことがありましたが、父の法皇も正直完璧かというと…、逆に法皇がピッタリはまり役だね、なんて言われたくないですね。(笑)

能夫 そうだね、ある種サドだからね。これでもかといたぶる感じ。銕之亟先生は黒ミサの世界だと言っておられた。

明生 だからこの法皇役って本当に難しい。悪役に徹し芝居が出来れば出来るほど『小原御幸』という能がしまるような気がします。父が広島で勤めた時に、亡くなった観世栄夫先生がやられましたが、あの時は似合ってると思いました。あ、栄夫先生に失礼かな。(笑)

能夫 すごく強く演じられていたね、覚えているよ。語りたくない女院に、「自分は六道の有様を見たいのだが…、普通は仏や菩薩の位でなければ見られない世界を、おまえは見て来たのだね?」と挑発して、うまく引き出すんだよ。

明生 あそこはぞくぞくする場面ですね。ロンギまではなんとなく静かで流れるように謡ってきたものが、一変する。台本がうまく仕掛けていますね。

能夫 本当に魔女裁判みたいだよ。国母だった人が、自分も平家とともに、安徳天皇とともに入水して果てようとしたのに、黒髪がからまって不本意ながら生き延びてしまう。そういう辛い思いをしている人に、その有様を再現させて語らせるんだから。

明生 残酷ですね。生涯の一番忌まわしい部分を語らなければならない。それも滅亡に追いやった張本人の前で…。

能夫 そう。そこですよ。子どもを失い、一門も全滅し、自分だけ生き残った。その思い。

明生 それはやはり能楽師人生のすべてをかけて謡うしかないですね。

能夫 自分の人生で体験したこと。一番つらいこと。死とどう向き合ってきたかといったこと、すべての集大成になる。だからあまり若くしてはできない曲なわけだよね。

明生 でも、一度やって経験しないとそれもわからない。

能夫 謡い、語るとき、自分の肉体をどうしたらいいのか。同情から始まって、シテという登場人物の心境になったとして、でも表現はこの肉体でしなければならないんだ。それは経験してみないとね。具体的に言うと、たとえば笠をかぶっただけでも自分の声が稽古のときとは違うと感じるでしょ。ましてや花帽子ですよ。結構聞こえないんだよ。

明生 私は俊寛でしか経験がないのですが、息苦しいですよね。なんとなく酸素不足で苦しい感じ…。

能夫 それをかぶって謡う。それはやはり経験してみないとわからない。だから、研究公演で演ってみて、ちゃんと出来たとは言えないが、語りというものの大切さを勉強した、という手応えは充分感じましたね。

明生 経験値を上げるということですよね。私はまだ『小原御幸』のシテは勤めていないですし、ツレも法皇も経験が無いのですが、地謡はたくさん経験して来ました。この研究公演では、後列で父の左隣で謡わせてもらいましたが。これは研究公演だからこそ出来たこと。それ以外は父の地頭の前列で謡ってきたわけで、あ、このように謡うのかと身体に染みこませてきたものを、あの時は後列で謡い、後列の舞台を支える力、責任感を肌で感じました。

能夫 そうなんだ。僕もこのシテを勤めたことで、今度、地謡を謡うときにとてもプラスになったね。

明生 シテの経験を経て地謡を謡うのと、無くて謡うのとでは雲泥の差です。だから、いずれ地頭や副地頭を謡う使命、宿命かな、そういう人は、出来るだけ多くシテを経験しておくべきだと思います。そして、そこで学んだことを生かして、他の人のために謡う、それが普通で、健康的で、そうでなければいけないと思います。能はシテだけ良ければいいという物ではなくて、地謡も、三役も全てがよくなければいけませんからね。

能夫 『小原御幸』は特にマスゲームみたいなもの。みんなの力量が上がって、みんなが揃っていないとできないよ。

明生 本当にそう思います。私もいつかシテを勤めて、この難しい謡と語りに挑戦したいと思います。能夫さんは研究公演以来、『小原御幸』は再演していませんね。

能夫 僕は、それ切り演っていないね。なかなか人手が必要だからね出にくい曲ではあるね。いい曲ですが…。今だから言えるのだが、謡の勉強をするなら『朝長』がいいよ。

明生 『小原御幸』と『朝長』の語りは共通項もあるけれど、質的にちょっと違う感じがしますが。

能夫 『朝長』はまた違う世界での、現場にいたリアリティを語るんだね。『小原御幸』の方がスケールの大きさ、物語の大きさという点では上をいくかな…そんな感じがする。平家滅亡の過程をすべて述べるでしょ。平家物語の最後、わざわざ灌頂巻をつくって、この物語を平家物語の締めくくりにしただけのことはあるわけで…。

明生 平家物語の集約されたものですね。一番辛い部分。愛別離苦、親との別れ、子どもとの別れ、人間の生き死にに関することを物語る。究極のお能のテーマです。そういう辛いものに対してじっと耐えている、そういう人間と拮抗するような謡ができないといけないわけですね。

能夫 そういうことだね。愛別離苦は過去の話ではなく、現代にもあることでしょ。今回の東日本大震災だって、親を亡くした人、子を亡くした人、家や財産、仕事を亡くした人がいて、辛い体験をされている。そういうときに能は何ができるのか、考えさせられた。

明生 自粛、自粛ムードのなかで、お能をやっていていいのかって。お能を見たって腹がふくれるわけではないし、そういう意味では不急不要の最たるものかもしれません。

能夫 でも、じゃあこういう芸能が全くなくなってもいいかというと、そうではないと思うよ。被災しても、日本人って素晴らしいと、外国のメディアが賞讃しているじゃない。略奪はないし、物資が来たときに、我先に奪い合うわけでなく、みんな整然と並んで受け取っている、と…。日本にはそういう文化があるんだよ。儒教や仏教、お能や芸能、文学、そういうものから育まれた精神というものがあると思う。だから、我々が今までやってきたことは、そういう文化を浸透させ、秩序を生んできたと思うな。

明生 直接の腹の足しにはならないけれど、そういうことはありますね。そして能は辛い経験をした人が救われていく話です。特に乱世にはこういう救いの芸能が必要だったのかも。それは現代にも通じると言えますね。

能夫 能は魂を鎮める芸能でもあるからね。つらい運命を引き受ける芸能、そういうものが今こそ必要だよ。そして今、日本中で何ができるかが問われているよね。それに震災で、みんな人との絆の大切さを感じたのではないかな。自分一人で生きています、村社会なんて関係ありません、みたいに開き直る人がいるけれど、でもやはりみんな関わりあって生きているよね。絶海の孤島なら一人で、と言えるかもしれないけれど、日本の国土にいる限り、それはあり得ない。電気一つにしても、自分で作り出しているわけではないし。何でもそうだよ。そういうことを知るよい機会になったと思いますよ。

明生 はい。電気だって、今まで無頓着に使っていましたからね。能のことは考えているつもりですが、電気のこと、原発のこと、何も考えていなかったなあ。自分たちの生活はこれでいいのかな、あらゆることを見直そうというムードになって来ましたね。

能夫 今、電気がないと何もできないけれど、これ高々百年ちょっとの話でしょ。江戸時代は電気なんてなかったのだから。

明生 能楽界もいろいろなことを見直すのにいい時期かもしれません。能も過去にはいろいろ困難な時期がありました。明治時代にはパトロンだった大名がいなくなって経済的に困窮したし、欧化政策で日本の古くからの芸能はスポイルされた。戦中は歌舞音曲はまかりならない、だったし、戦後はマッカーサーが来て、八度ないのは音楽ではないと言われたり…、能は数々の存亡の危機に立たされて来ました。

能夫 そこを先人たちが頑張って乗り切ってくれたわけです。我々もこの困難なときに、みんなで考え、見直していく、ほんとうにいい時期かもしれないね。

明生 興行のやり方、プロデュース力をつけるとか、若い能楽師への教育とか。改めて考える時期ですね。

能夫 子どもたちに日本の芸能、文化を、特に能をもっと知ってもらう努力が必要だね。惜しんではダメなんだよ。

明生 まだまだやることはたくさんありますね。 (つづく)

 
『小原御幸』 シテ 粟谷能夫( 撮影 あびこ喜久三)

鎮魂と祈りの芸能投稿日:2018-06-07

鎮魂と祈りの芸能

粟谷能夫
 

平成二十三年三月に起こった東日本大震災では多くの方が被災され、自然現象のとてつもない大きさを思い知らされました。東京に住む私にとりましても、余震の恐怖や、現場の凄さまじさを見るにつけて心身の強い緊張が中々取れず、心に余裕を取り戻すのに時間を要しました。

しかしながら、避難所で人々が協力し助け合い、手を取り合っている姿には励まされました。これは皆が同じ価値観の上に立っているもので、仏教や儒教の教えが心を一つにしているのだと思います。大昔から自然に畏敬の念を払い、共生してきた人々の無常観なのかもしれません。やはり、このような非常時に支えとなるのが心のありようで、日ごろからの文化教育の大切さを痛感いたしました。

能には天下泰平、五穀豊穣、子孫繁栄から始まり、人間の普遍的な情感を主題とし、仏教や儒教などの教えを取り入れた人間の心のドラマが多数有ります。鎮魂、祈り、復活の思いを込めた芸能であり、だからこそ、今、能の出番だと思います。

そして能は時代を取り入れ時代に対応しながら今日を迎えています。能の庇護者の好みの変化や戦乱など、困難を背景にして、むしろレパートリーを増やしてきました。困難な時代こそ文化や芸能は人々を救い、鼓舞してきたといえます。

戦後でいうならば、西洋化の著しい中、人々に日本文化の素晴らしさを示し、世界に誇れるものである事を知らしめるため、三島由紀夫は「近代能楽集」を発表しました。敗戦で打ちひしがれた日本人の魂を取り戻すかのように発表したものでしょう。

編集者の言葉によれば、「若い時より能に親しんでいた著者は、能楽の自由な空間と時間の処理方法に着目、・・・・・・古典文学の持つ永遠のテーマを近代能という形で作品化した大胆な試みは、ギリシャ古典劇にも通じるその普遍性を世界に発信した」のです。

日本には日本人の心情に根ざした芸能が数多く有り、人々の心を慰め、励ましてきました。困難な時代であればあるほど、鎮魂と祈りの芸能が必要です。私たちも芸能の持っている力を信じ、日々活動して参りたいと思います。

そして、舞台芸術は基本的には人と人との繋がりによって成り立っています。それは演者と観客ということでもあり、演者対演者ということでもあります。また、自然と人、神と人間との繋がりの中にも存在意義があります。避難所での人の繋がりや絆を見るにつけ、この基本に立ち返らなければと再確認したのです。

『鸚鵡小町』 シテ 粟谷能夫(平成23 年3月6日 粟谷能の会) 撮影:吉越 研

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囃子方の床几投稿日:2018-06-07

解能新書 囃子方の床几

能の囃子方は笛、小鼓、大鼓、曲により太鼓が入ると4人になります。

舞囃子の時でも能の時でも、笛と太鼓は常に正座していますが、小鼓と大鼓は能の時には床几に腰掛けます。

この床几の姿勢、腰掛けるから長時間正座するより、足が痺れないで楽かと思われるかもしれませんが、そうではありません。

実は長時間腰掛けて、背筋を伸ばし緊張感ある姿勢を保つことは、体力が要りきついものなのです。

では何故、中の二人だけが腰掛けるのでしょうか?

「あれはトーテンポールのようなもの」と囃子方の先生が教えて下さいました。
舞台の橋掛りは現在、正面の鏡板を見て左側にありますが、その昔は右側にも、そして真後ろにもありました。

シテが真後ろから登場するとき、囃子方が下に座っていると、面を付けて視界の狭いシテは囃子方にぶつかる恐れがあります。
そこで、シテが安心して本舞台に入れるようにと、小鼓と大鼓が目印の役目として床几にかけました。

後見が大小前に置かれた作物で作業をするとき、また物着をするときに、小鼓と大鼓の間を行き来しても、小鼓と大鼓の方からは怒られませんが、笛と小鼓や大鼓と太鼓の間を通るようなことをしたら、怒鳴られます。

「そこを通るんじゃない!」なんて、よく能楽師の卵が怒られた光景を思い出しますが、いま立派な能楽師の先生方も、昔、子どものころは、いろいろな先輩に怒られながら成長しているのです。

こんな裏話も知って能をご覧になるのも、面白いかもしれませんね。

囃子方絵 小学館「能楽入門3」より 
床几 2枚 撮影 粟谷明生

@uJ\??M@Uv@投稿日:2018-06-07

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「粟谷能の会通信 創刊テスト号」《5月の喜多流自主公演のご案内》投稿日:2018-06-07

@@@@ 「粟谷能の会通信 創刊テスト号」 @@@@
《5月の喜多流自主公演のご案内》
日時:5月22日(日)12時開演
場所:喜多能楽堂
演目:『橋弁慶』シテ・内田安信 『湯谷』シテ・高林呻二 『船橋』シテ・粟谷能夫
料金:一般前売自由席6,000円 学生前売2,500円 指定席料2,500円
配役など詳細はこちら:
http://www.kita-noh.com/schedule/koen/852/
番組表がダウンロードできます。
チケット申し込み先
http://atelier19.moo.jp/nohcgi/

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今号は、粟谷能夫が勤めます『船橋』 をご紹介いたします。
能『船橋(ふなばし)』
あらすじ:三熊野の山伏(ワキ)が上野国・佐野の山路に赴くと、里男(シテ)と里女(シテ連)が現れ、橋の建立の勧進を勧める。山伏が橋はいつ頃から出来たか聞くと、万葉集の歌「東路の佐野の船橋取り放し」を引いて答える。山伏は「取り放し」と「鳥は無し」のどちらが本説かを問うと、男は云われを語り始める。昔、川を隔てて住む男女がこの船橋を恋の通路にしていたが、それを快く思わない二親が、橋板をはずしたため、夜這いする二人は川に落ちて三途に沈み果てた。その妄執で地獄の氷に閉じられて浮かぶことも出来ない、と語り、実は我々がその二人であると明かし、山伏に弔いを頼み、姿を消す。
<中入>
山伏が祈祷すると、男女の霊が現れ、男は地獄の苦しみを訴え、懺悔の為に昔通い慣れた船橋を渡り、女に逢いに行く様子を再現して見せる。そして最後に山伏の法力で成仏が出来たことを喜び、再び消え失せる。
(詳しい詞章はここをクリック。※ただし喜多流の謡本に拠っています)

ひと言:
船橋というのは、その名のとおり川に船を浮かべ板で繋いで作った橋です。
このお能では悲しい恋の末路と、後場では執心の鬼となって現れる里男、その成仏を物語の軸としています。この能の根元となっている万葉集の歌(巻第十四・東歌)
《かみつけの さののふなはし とりはなし おやはさくれど わはさかるがへ》は、
親は離そうとするが、私たちは離れない、といった歌です。
詞章を見て頂ければお判りのように、前場で里男(前シテ)は《とりはなし》の説明を《取り放し》のみ語り退場し中入りとなります。そのとき「佐野の船橋鳥は無し、鐘こそ響け夕暮れの・・・」と地謡が情景を謡うばかりです。
では、《鳥は無し》はどうなっているのでしょう。実は中入り中にアイが説明してくれます。
どういうことかというと、二人が川に落ちた後、娘の親は娘の遺体を捜そうとします。
ある人から鶏を船に乗せると、娘の沈んでいるところで鳴くと聞いた親は鶏を捜しますが、どこにも見つからず、それで《鳥は無し》とも云う、ということです。

後場の見どころは、男の幽霊として現れる後シテが、女(ツレ)に逢いに行く様、また橋を踏み外し河に落ち行く様を、カケリと動きの多い型で表現するところです。

また今回は粟谷明生が自主公演初の地頭を勤めます。上州の情景や演者の気持ちを代弁するよう心掛けて謡いたい、意気込んでおります。

能用語紹介コーナー ⇒ ⇒ ⇒
 「カケリ(翔)」
後場でシテはカケリを舞います。但し、これは舞、というよりは、動きといったものです。
カケリは修羅物や狂女物などでよく見るもので、修羅道の苦しみであったり、物狂の心の動揺などを表す短い動きです。
一言にカケリといっても、その曲ごとに様々にニュアンスが違います。
ご覧になる際に、「何か動いてるな」ではなく「どういう描写なのかな」と少しだけ考えていただけると、一層舞台をお楽しみいただけると思います。

新「粟谷能の会通信」新設のお知らせ投稿日:2018-06-07

新「粟谷能の会通信」新設のお知らせ

粟谷能の会メール会員を対象に公演などの情報をメールでご案内して参りました「粟谷能の会通信」を、この度、粟谷能の会のホームページでご覧頂けるようにいたしました。
平成23年6月号から、月毎の更新を目標に、粟谷家に関わる演能情報、鑑賞の手引き、見どころなどをご案内いたします。
お試し版として、創刊号を公開しましたので、ご意見やご要望などございましたら、お気軽にお知らせ頂きたくお願い申し上げます。
より良い「粟谷能の会通信」を更新してまいりたいと思います。
ご意見は下記まで
akio@awaya-noh.com

謡の覚え方と上達の秘訣投稿日:2018-06-07

謡は能という戯曲の詞章(文章)を声を出して歌い上げるものです。
私たちシテ方の能役者は詞章を暗記します。
それは会話文でも、想いを込めた胸の内の感情であっても、舞台進行に伴い
すべて声を謡の音に変えて発し、観客に伝えます。

地謡は、謡うためだけの専門分野です。
文楽の義太夫や歌舞伎の長唄などの謡い手は、本を見ますが、能では役者はもとより地謡も謡本を見ることはありません。ですから謡の詞章を覚えなければならないのです。
芝居の役者さん同様、台詞覚えも仕事の一つで、これが一苦労です。

若い時分、謡を覚えるのは、鵜呑み、丸暗記でした。
謡っている意味など理解していません。とにかく声を出して、音で覚えます。繰り返し声を出すことで、身体に叩き込むやり方です。
若い頃は頭脳も柔らかいのでしょう。不思議と意味も判らないのにどんどん覚えられました。今は違います。脳細胞が減ったためでしょうか。二倍は時間がかかります。

この若いときの丸暗記は悪いことではないと思いますが、しかし大人になり、そのまま変えないのは問題です。舞台芸術にはならないからです。

大人には、大人の覚え方が必要になってくると思います。
理屈がわかり、意味を知り、型(動き)を把握して、謡声でフォローして覚えるのです。

では、謡を習われている謡曲愛好家の皆様に、謡上達の方法をお教えしましょう。

それは舞台人同様、暗記することです。
謡を暗記し声を発すると、その謡の言葉が生き生きと響いてきます。

何故でしょうか?
下を向いて前屈みで、謡本を読んでいると声の通りが良くありません。
しかし暗記すると姿勢を真っ直ぐにして声を出すことができます。すると身体全体を使って共鳴させて声が出るのです。
嘘だとお思いなら、一度試してみて下さい。

それから、もうひとつ、
能をたくさん観ることです。

但し、舞台に目を向けて鑑賞して下さい。
折角能楽堂にいらして能をご覧になられても、膝の上においた謡本の詞章ばかり見ていては、謡を聞いているだけに過ぎず、それでは役者の動きが判りません。

舞台で能役者の動きに、注目して下さい。
そして、ここからが大事です。
謡うときは、その見た能の光景を思い出しながら謡ってみるのです。
『羽衣』を謡うには能『羽衣』をご覧になり、想像しながら謡います。
きっと上手に聞こえるはずです。是非試してみて下さい。

(平成23年1月 粟谷明生記)

我流『年来稽古条々』(28)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(28)
?研究公演以降・その6
 『松風』について

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 今回は、第6回研究公演(平成7年11月25日)で取り上げた『松風』について話したいと思います。研究公演を立ち上げて五回が過ぎ、そろそろ大曲に挑もうということで、一日に能一番の番組にして、まず私が『松風』を勤めました。あの時は、父が仕舞『芭蕉』を、能夫さんが仕舞『熊坂』を長裃の小書でやられました。仕舞の小書については後日取り上げるとして、では本題の『松風』について。あのときの『松風』の地謡は豪華な顔ぶれでした。地頭が父(粟谷菊生)、副地頭が友枝(昭世)師、左端に能夫さん、右端が幸雄叔父と、まあ贅沢なことで有難かったです。でも申し訳ないのですが、非常に豪華過ぎて・・・船頭が多すぎたというか…。

能夫 相殺してしまうかもしれないね。(笑)

明生 原因は私でして…。皆様、私のことを心配されて謡われるものですから、譲り合う、というか…。地謡は、少し負を背負っている方が却ってよいことってありますから。

能夫 負と言っても地謡を謡えない人では困るが、喜多流は人数が少ないから、適度なバランスが必要だね。

明生 『松風』を今までに何回演られましたか?

能夫 僕の披きは昭和63年の粟谷能の会でだった。その後は、青森の公演で一度しているね。それっきりかな…。

明生 能夫さんのお披きでは私がツレを勤めましたね。それで私のほうは研究公演の十年後、平成17年の粟谷能の会で再演しましたが、二度目も父が地頭をしてくれまして。最近ようやく父の謡の味、というか、良さみたいなものが判るようになってきて、まあ遅ればせながら、有り難みを噛みしめているのですが…。父の謡は音量も調子も大きく、高く、自分の肉体疲労など考えずに、シテを盛り立てる、舞台を支える意識で謡っていたように思えます。特に『松風』はホットに謡うようにしていたと…。冷たい『松風』ではダメな気がしますが。

能夫 そうだね。ホットな感じだね。僕も『松風』を謡うとなるとなんだが、特有の意気込みというか、感性が湧いてくるよ。『松風』は詞章もいいしね。シテの謡も含めて、『松風』は『道成寺』に匹敵する、いやその上を行く曲だよ。だから『道成寺』の次の課題曲となるわけさ。

明生 『道成寺』が終わると、次は『松風』。『道成寺』も難しいですが、『松風』はもっと上。能役者ならば目指さなければいけない曲だよ、とよく言われていましたね。
確かに『道成寺』はいろいろ秘技があり、難易度は高いですが、鐘入りすれば、誰にも見られない、一息つける場があり、我に帰ることが出来ます。ところが、『松風』は汐汲みの段が終わり、やれやれ前半が終わったか、と思う間もなく、曲は後半に続行されていくわけで、長丁場の苦しさ、体力が必要ですね。

能夫 『松風』はとてもやり甲斐のある大曲だね。シテ(松風)とツレ(村雨)の力が拮抗していなくてはいけないし、中入りがないのも特殊であるし、憑依する面白さもある。能のいろいろな要素が入っていて難易度が高くなっている。夢幻能であるようで現在能のようなところもある。『道成寺』はある意味、運動能力を試される、体育会系の成果を期待されるが、『松風』はそれだけではない。だから『道成寺』に取り組むと同じような懸命な意識で稽古して、技術面と精神面の両方を磨かないと、処せない曲だね。『松風』には映えがある、それが難関だよ。

明生 ですから早いうちに一度経験しておく必要がありますね。どのくらいの負荷がかかるのかを身を以て知ることが第一で、ある年齢になったら自然と出来る、という領分のものとは違うことが判らないといけないと思いますよ。

能夫 明生君はいつもそう言っているね。

明生 力量に合った経験の積み重ね、が大事で…。『松風』は確かにシテとツレが拮抗する曲です。だからまずシテを勤める前にツレをきちんと経験していなくてはいけない。辛いシテツレの経験無しで、シテなど言語道断ですよ。だから、日頃の学習が大事で、『松風』のツレの指名を受けられるような状態、条件を備えていなければいけないですね。そこを満たして、はじめてシテという晴れ舞台に上がれる、能夫さんが言われる、競泳のスタート台に立てるわけですね。『松風』のツレ役は、謡は多く、足の痺れも心配で、逃げたくなる気持ちも判りますが、まあご指名がかかる喜びみたいなものもありますからね。

能夫 先輩に、「頼む、やってくれよ」と言われたときの嬉しさって、あるじゃない。

明生 嬉しさの反面、不安感もあってね。でもその経験を活かさないといけないですね。そしてシテを勤めると、次にツレを演るときに、「あっ! こう動けば、この程度に謡えば」という程度が判ってきます。それ以前は、ただ書付にある通り機械のように動き謡うだけでしたから、悪くはないが、良いわけがない。パターン化されて…。

能夫 昔は皆、パターンでやっていたよね。明生君の最初のツレのシテは菊叔父ちゃんかな?

明生 そうです。27歳の時、大事なところで謡を間違えて、恥かきました。楽屋で怒鳴られるなあと覚悟していたら、父の無念そうな顔、妙に静かに「しっかりして頂戴よ」と叱られたの、今でも覚えています。大反省です。そんなこともあり、能夫さんのお披きの『松風』のツレは改心して…(笑)。あのときは能夫さんに細かく、ツレの立場での心持ちまで教えてもらい、あれで能の面白さを知った、引き込まれた、といっても過言じゃない。それまでツレであのような細かい稽古は正直無かったですからね。パターンで覚えるだけでしたから…。それが33歳のときです。

能夫 『松風』というのはシテ・ツレが二人で一人みたいなところがあって一緒に創ろうとする気持ちが絶対必要でしょ。ツレが何も知らなかったら、こうやろうよ、こうやってよ、なぜなら、と説明してそれに応えてくれないと困る。運命共同体というか、一緒に仕事するわけだから。ただ昔の人たちは、そんなことはしなかったみたいで、自分のことだけで…。自分が良ければ相手も当然そうだ、と勝手に思っていたからね。まあそれで出来上がってしまう凄さもあるわけだが、僕はそういうのはいやだから。

明生 あのときの稽古のお陰で、いま役に立っています。ツレの在り方を教わり、その後、父の相手を二度、そして研究公演でシテを披いたわけですが、先ほど話したように十年後にもう一度シテを勤め、実はその間に友枝昭世師のツレを平成十四年、宮島厳島神社の観月能で勤めまして、このときはじめてまともなツレが出来たかな…と思っているのです。それまでは、どこかシテに寄りかかる気持ちが強かったのですが、あの時は拮抗出来た。そう実感したのが観月能でした。観月能にふさわしく、月がきれいな秋の夜、師の友枝さんからの指名でお役を勤め、父が地頭で能夫さんも地謡にいて、三役も揃い最高のロケーションでした。ただ書付通り、右向いて左向いてと幼稚でいたら、評価を下げたと思いますね。

能夫 『松風』はそういう風にツレが充実してはじめて成立するんだよ。姉の松風、妹の村雨、この姉妹の微妙な関係が出てこなきゃね。

明生 あの二人の姉妹の性格をどのように演じるか、このさじ加減がミソですね。

能夫 そう、それと先ほど話した、『松風』は長丁場で、中入りがなく二時間近い時間を舞台の上でさらされながら表現しなければいけない。

明生 中入りがあれば、楽屋で一息ついて変身して登場出来ますからね・・・。

能夫 中入りは、インタバルで何かチェンジして出て行ける。ところが『松風』は、己の体だけで己の世界を変えていかなければならない。肉体で攻めて凌いでいくような能だね。古作の能だから、能の原型というか、そういう特徴がある。戯曲の処理能力というか、曲を理解していないとできないね。覚悟してやらないと…、ただ『松風』をやりましただけのことになってしまい、それじゃ『松風』にならない。

明生 松風の恋慕をいかに表現するか。やはり型と謡というものが試されますね。謡の力で、恋で壊れている女を演じるわけですから。男の役者が女に扮して、その女が行平に憑依して男になる…。女性では表現出来ない世界を男が創造する、それが能ですね。女流能楽師の方々には、申し訳ないがそこには限界があると思いますよ。

能夫 そうだね。「げにや思い内にあれば、色ほかに現れさむらふぞや」、あそこは、単に上音で綺麗に謡えばそれでいい、というものではないよね。やはり、生々しい恋の能だから、型で処理するのではなく、何か心情が前に出たり、後ろに引っ込んだりしないとね。それが見えないと・・・。

明生 『松風』は熱い恋、『野宮』は何か冷たい愛…。

能夫 両者には、身分の違いもあるからね。六条御息所は高貴な人だもの。でもカッと燃えるところもあって…。

明生 御息所の燃えるのと、松風のお姉様の狂気とを演じ分けないといけませんよね。同じ手法では無理ですから。演ってみてわかりました。最近、思うのは、温かみのある謡や舞、ということ。父の『松風』は温かだったなあ、と。私も温かく演りたいなあ、と…。

能夫 温かさね、判るよ。『松風』は内に秘めてだけではない、ふと表に溢れ出てしまう感情、そういうものが起きないと、世界が立ち上がらない気がするね。

明生 『野宮』と『松風』はどちらも「破之舞」がありますが、これも質が違う気がします。破之舞は『羽衣』でも舞いますが、あれは最後の付録、サービスの舞です。それに対して『野宮』や『松風』の破之舞は序之舞よりも想いが強くストレスもある。両者の微妙な違いを舞い分ける心が大事だとわかったのは、やはり経験からですね。『松風』を勤めて、破之舞の重要性を知りました。『羽衣』だけでは破之舞は語れませんからね。

能夫 『松風』も『野宮』も破之舞が醍醐味だね。舞ってて楽しいもの。ところで「真之一声(しんのいっせい)」だけれど、あれ、おかしくない? 嫌じゃない?

明生 真之一声は脇能の出囃子ですよね。脇能以外ではこの『松風』だけですか? なるほど・・・、なぜ真之一声なんですかね。

能夫 根拠はないよね。『松風』という曲を大事に考えたからかな。でも鬱陶しいよ。似合わない。

明生 身分は低いし、神々が現れるわけではないし、神への祈りがないのに、空虚な感じがしますね。

能夫 汐汲みという作業をしている、いわば労働者に真(まこと)の一声だからね。考え直してもいいような気がするな。違和感あるよ。真之一声で厳かにやらなくても、リアルな今を謡ったほうがいいんじゃないのかな。

明生 今後考えてもいいかもしれませんね。私は、研究公演の披きは、普通に小書なしで、十年後の再演は小書「見留(みとめ)」で勤めましたが、喜多流の小書にはこの他に、身体の身を使う「身留(みどめ)」、それに「戯之舞(たわむれのまい)」がありますね。父は「見留」一辺倒で、すーっと幕に消えて入っていく景色の良さを一番に上げて、「見留」が一番、が口癖でした・・・。

能夫 『松風』は各流儀にたくさんの小書があるね。やり様もいろいろだね。

明生 「戯之舞」の面白い実先生のお話がありましたね。「戯之舞」は元来、十四世喜多六平太先生が、観世清廉氏と『求塚』と交換しようとされたが、喜多身内から反対があり取り止めになり、後に、昭和44年に実先生が観世元正氏に再度お願いに伺い頂戴した。そのお礼にと何か差し上げます、とおっしゃったら、『鸚鵡小町』の型付をいただいています、とのお返事だったとか。
まあ、経緯などどうでもいいのですが、私、次回はこの「戯之舞」でやってみたいと思っているのですが…。この「戯之舞」を再考し、「真之一声」についても考えてみたいですね。『松風』は体力がいる曲ですから、早めに計画しないといけないな。実先生のように15,6回も出来る立場とは違うので、還暦前にもう一度…。

能夫 ほんとうに体力がいるからね。やり様はいろいろあるけれど、型の連続だけではできないということは確か。技術力だけでは絶対に解決できない。内面の演技ということかな。そこに恋する女がいなければいけないからね。

明生 はい。シテが出来ればいいですが、地謡でも同じような気持ちで謡いたいと思います。地謡は、隣同士お互いの主張があり、ぶつかり合いがあって、そう出来れば上質な地謡が出来上がるわけですから。

能夫 隣同士、前列と後列でも、絶妙な呼吸を大事にしたいね。『松風』のシテをやることで、ツレがわかり、地謡がわかる、そういう相互性が大事だよね。

明生 みんなで創り上げていく。これがすごく刺激的。刺激し、感じていければ、次にシテを勤めるときに、自分はこうしたいという、なにかが生まれてきますから…。

能夫 そういうものが重層化したときにふくらみのある、温かさが出てくるのかもね。

明生 大事なもの、大曲をすればするほど、そういった底力がないと出来ないなと思いますね。それが今の素直な感想です。どうやって地頭を盛り上げ、シテを盛り上げ、囃子方も含めて、曲全体を創り上げていくか、大事な課題だな…。

能夫 そうやって全員がやらなければいけないんだよね。全員の曲への理解を深めていく。それができたとき、流儀全体のレベルが上がっていくんじゃないかな。

明生 そうですね。なんだか私の『松風』の話ばかりになってしまって…。では次回は能夫さんの『小原御幸』についてですね。

(つづく)

秋田・唐松能楽殿の定期能にて投稿日:2018-06-07

秋田・唐松能楽殿の定期能にて
粟谷 能夫

秋田県大仙市協和町に唐松神社が鎮座し、その神域に唐松能楽殿があり定期能を催しています。

神社発行の唐松山縁起大略によれば、太古鳥海山に降臨し、この地に居を構えた饒速日命が天祖三神を祀り、十種の神宝を安置し、天の宮と称したのが、創祀としています。その後、饒速日命は幾内に降臨しその後裔が、物部氏であり、崇仏戦争に敗れた物部守屋の一子那加世が東奥の地に分け入り、数代の後、唐松にお祀りされたそうです。また神社には秋田物部文書が伝わっています。

このように長い歴史を持ち、今でいうパワースポットの地に、平成2年「ふるさと創成」事業の一環として、唐松能楽殿が出来上がりました。京都西本願寺にある「北舞台」を手本にしたそうです。

定期能は夏に催していますので、少し暑い時もありますが、時折スーっと風が通ったり、木々の緑が目に入ったりと屋外の能の良さを体感しています。

もともと能は屋外で演じられたものでありますが、演者にとっては、開かれた空間であるだけに、演技及び演出や発声などいろいろと課題が見えてくるのも事実です。

一方、観客の方は少し暑いですが、自然が感じられる開放的な空間の中で能を楽しんでいるようです。
私がいつも感心してしまうのは、地元の中学3年生が数十人熱心に静かに観能していることです。若者たちに日本の古典文化に触れさせてあげたいとの主催者の配慮であり、素晴らしいことだと思います。

平成22年夏の定期能は御承知の通り大変異常な暑さでした。私などは装束を付けただけで玉のような汗が噴き出し、精神力を維持するのも容易ではない状態で、舞台へ出てからも、目に汗が入ったりなど大変な演能でした。中学生の一人が熱中症で倒れたほどで観客の皆様も扇子やパンフレットで涼をとっておられました。

一人の中学生が「暑い中、演者は汗を流しながら一生懸命演じているのに、観る側がパタパタと涼をとっていては申し訳ない」と呟やいているのを聞き、自己中心的でなく他人のことをおもんばかる秋田の教育は素晴らしい、全国テストで一番になる学力だけでなく、心の教育の大事さを痛感しました。この事は今年一番の感動であり、異常な暑さの置きみやげのような気がします。

そして定期能を長いこと続けてこられた大人たちの心が通じたのだと思いました。

研究公演 『檜垣』を謡う心意気投稿日:2018-06-07

老女物の継承
?『檜垣』を謡う心意気?
                         粟谷明生

伊勢神宮の内宮は2000年以上の歴史がありますが、神殿は20年毎に建て替えられ、これを「遷宮」と呼んでいます。
この行事は1300年も続き、来年62回目を迎えますが、神殿の修復もさることながら、実は神殿造りに携わる職人達の技術伝承が途絶えないように、というねらいもあるといいます。

粟谷能の会・研究公演の『檜垣』は、前回(昭和62年シテ・友枝喜久夫 地頭・粟谷菊生、笛・一噌仙幸、小鼓・北村治、大鼓・柿原崇志)の演能から、実に24年ぶりとなります。遷宮と同様、演能もあまりに時間が経ち過ぎては、よりよい継承が出来なくなる、と考えて、今回の企画をしました。

神殿造りの職人と能楽師、敢えて両者に違いを見出すならば、神殿造りの職人に新工夫や創作は不要で、受け継がれてきた建造技術を体得して、20年前と同じものを復元することが課題となるのでしょう。一方、能楽師は、前回の公演を参考にしながらも、演じる者が、それぞれに自分なりの舞台、今の時代に似合う演能スタイルを心掛けるべきだと、私は思っています。

そこで、今回の『檜垣』の演能での新たな試みを、ご鑑賞の参考になればと記載します。

1,二の同音「理を論ぜざる、いつを限る習ぞや」「老少といっぱ分別なし替わるを以て期とせり」の間に打ち切りを入れて、この部分の主張を強調。

2,通常、次第は同じ和歌を二度繰り返し、その後に地取りとなるが、『檜垣』は「釣瓶の水に影落ちて袂を月や上るらん」と一句のため、地取の中止。

3,動きの少ないクセの部分に、友枝昭世氏に新たに動きを入れてもらう。

4,最後終曲は、一般的には、残りトメ(謡が終わったあとに囃子方だけで一クサリ、演奏するやり方)だが、今回は敢えて、「罪を助けてたび給え」と地謡で謡い切り、その余韻を強調。

粟谷能の会・研究公演の『檜垣』。24年ぶりの老女物の継承と私たちの課題である「地謡の充実」のために、力を尽くして舞台を創り上げたいと思っています。

D席となりますが、当日売り(12月2日午後6時開演)はまだございますので、ご来場をお待ちしております。

回転する型投稿日:2018-06-07

回転する型

能の舞の動きには回転する型がありますが、
基本は「廻り下り(まわりさがり)」と「廻り返し(まわりかえし)」の二通りです。
動きの激しい曲には、飛び回りと言って飛び上がりながら回転するものもあります。
また移動しないで一ヶ所でクルクル廻るもの、例えば『土蜘蛛』や『舎利』にありますが、これは究めて異例で、基本は上がるか、下がるかのいずれかになります。

では基本の「廻り下り(まわりさがり)」 と「廻り返し(まわりかえし)」
の違いはどのようなものなのでしょうか。

「廻り下り」は演者が鏡板の方、つまり囃子方の方に向かって移動しながら回転するもので、
「廻り返し」は逆に神が降りていると思われる正面先に向かって回転する動きです。

この違いを陰陽で考えると、
「下がり」は陰で暗く、水底に沈んだり地獄に落ちるイメージで、
「廻り返し」は陽で明るく、神に近づこうと天空に上がるイメージ、祝言の心、
と私は解釈しています。

演者が廻りはじめたら、前か後ろか? と気にして能をご覧になられるのも、一つの鑑賞法かと思います。

我流『年来稽古条々』(27)投稿日:2018-06-07

「より上るは四十以来」投稿日:2018-06-07

高知能楽鑑賞会で『巴』をご覧になる方へ投稿日:2018-06-07

高知能楽鑑賞会で『巴』をご覧になる方へ

高知能楽鑑賞会(22年7月25日)は粟谷菊生追悼番組です。
父が好きで得意でもあった『巴』と『天鼓』を、父への手向けとして、愚息私が『巴』を、我が師・友枝昭世師が『天鼓』を勤めます。
そこで、鑑賞していただく手引きとして、私が勤めます『巴』を演者の立場からご紹介いたします。
能で木曽義仲(源義仲)本人が主人公(シテ)として登場する曲はありませんが、家来によって、たとえば『巴』は巴御前、『兼平』は今井兼平によって義仲公が描かれています。
『巴』は二番目物・修羅物に分類されますが、シテが女性であること、修羅物でありながら雄々しい戦物語だけではなく、幽玄の情緒に富んでいるのはいささか特異です。
修羅物は、主人公が戦死したゆかりの地に現れ、自分の討死にした有様を物語り、修羅道での苦患の有様を述べ、旅僧に回向を頼むのが定型です。
ところが、巴御前は討死にしていません。よって自分が非業の死をとげた土地に現れるわけでなく、愛する男が祀られている祠に現れ、共に死ねなかった執念と恋慕の情のために成仏出来なことを嘆きます。女の恋慕の悲しさに焦点があてられているのが特徴です。
前場は義仲を慕う里女として登場し、僧に回向を頼み、後場は自身女武者として長刀を抱え勇ましい姿で戦物語を演じます。

私は今までに三度『巴』を勤めていますが、私の『巴』を顧みると、鮮やかな長刀さばきで奮戦の有様を見せるのが一番の見どころとはいえ、どうも女武者の勇ましさ、長刀さばきの技ばかりに気をとられ、女としての巴御前、義仲に恋する愛らしさ、悲哀の女性を意識していたか、と言われると、いささか自信がありません。

能『巴』で思い出すのは、以前にある女性の方に言われた言葉です。
「巴は何度も観ていますが、ご立派な巴は何度も拝見しました。でも、あ?女だ、愛らしい、かわいい、イロっぽい、と思ったことは一度もない。もちろんあなたの舞台もよ。
しかし、あなたのお父様の『巴』は違う。あ?女だ、女以上に女だ! と感じさせてくれた。そこまでしてくれないと能『巴』ではない・・・。わかる?」
今でもこの言葉が頭から離れません。今回父のように出来るかはまったく自信がありませんが、私なりに巴御前の女らしさを意識して演じたいと思っています。

『巴』のあらすじを簡単に記しておきます。
木曽に住む僧が都へ上る途中、近江国(滋賀県)粟津が原に着くと、一人の里女が現れ、松の木陰の社に参拝し涙を流しています。不審に思った僧が女に言葉をかけると、女は行経和尚も宇佐八幡へ詣でたとき、「何ごとのおわしますとは知らねども、忝なさに涙こぼるる」と詠まれたように、神社の前で涙を流すことは不思議ではないと答えます。そしてここはあなたと故郷を同じにする木曽義仲公が神として祀られているところであると教え、その霊を慰めてほしいと頼み、実は自分も亡霊であるといい残して、夕暮れの草陰に消えてしまいます。〈中入〉
旅僧は、里人に、義仲の最期と巴御前のことを聞き、同国の縁と思い、一夜をここで明かし読経します。すると先の女が、長刀をもち甲冑姿で現れ、自分は巴という女武者であると名のり、義仲の遺言により一緒に死ぬことが許されなかったことの無念さ、戦模様を語り見せます。遂には形見の品をもって一人落ちのびたが、いまだにある心残りが成仏のさまたげになっているので、その執心を晴らしてほしいと重ねて回向を願って消え失せます。

前場は琵琶湖畔の粟津が原。一人の女(前シテ)、実は巴御前の霊は旅僧が木曽の人であることを予め知っているかのように、夕暮れ近くに寂しく登場します。もしかするとこの女はずっと木曽に所縁のある者を待っていたのかもしれません。
中入り前、「さる程に暮れてゆく日も山の端に、入相の鐘の音の、浦わの波に響きつつ」と西の空を見上げそのまま正面へ向いてうつむき、鐘の音を聞く型がありますが、そこで観ている方に鐘の音が聞こえれば、演じ手の勝ち、これが父の言葉でした。

後場は、通常の唐織を壺織にせず、長絹を肩上げして甲冑姿を想像して頂く替えの扮装にする予定です。面は父の追悼でもあるので父愛用の河内井関の小面をと思いましたが、かわいい巴よりも、より艶ある女の巴を演じてみたくなり、異例ですが宝増で勤めるつもりです。

能でシテが長刀を使う曲は『橋弁慶』『船弁慶』『熊坂』の三曲で、いずれも男物です。女物は『巴』一曲で、敢えて『平家物語』に記載のない巴御前に長刀を持たせたのは作者の創意だと思われます。父は「巴の長刀は軽快に鮮やかに、知盛や熊坂とは違う…」と教えてくれました。

終盤、重傷を負った主君に自害をすすめ、自らは寄せくる敵を追っ払らい戻ると義仲は…、巴は長刀を捨て、死骸に別れを告げ、義仲の形見を胸に木曽の里に去って行きます。
「後ろ姿に哀愁が出ないとだめだ、後ろ姿だよ。最後の留めの型は笠と小太刀を捨てるも吉、また笠だけ捨て太刀は義仲だと思って肌身離さず持ちかえる、どちらでもいい。その型の意味さえ判っていればな…」これも父の教えです。

最後は修羅物らしくない鬘物の情緒がうかがわれる『巴』ですが、強さと哀れさをうまくにじませ、父の巴を思い出しながら、明生の巴を演じたいと思っております。
ご来場をお待ちしております。

22年7月17日 演能前に       粟谷明生
写真 平成5年 粟谷益二郎37回忌追善 粟谷能の会 シテ 粟谷明生 撮影 三上文規

「小さいことは良いことだ」投稿日:2018-06-07

「小さいことは良いことだ」

粟谷明生
「小さいことは良いことだ」、これは安田佳生氏のエッセイの一節で、読んで目から鱗が落ちた。とても面白く勉強になったので、私の意見も交えてご紹介したい。
安田氏は、会社は安定感、知名度、資金力などを思い浮かべると、大きい会社がいいと感じる人が多いだろう、しかし何事も適正サイズがあるとしても、大きければ良いというわけではなく、むしろこれからは小さい会社の時代だと説かれている。大きい会社にお勤めの「大きい方がいいに決まっているじゃないか!」という上から目線の常識的な考えを覆す内容だ。
小さいことは良いこと、これからは小さい会社が勝つ時代で、未来があり、明るく自由である、という。

何故小さい会社が良いのだろうか?
それは、大きな会社の既存の仕組みから抜け出し、直接顧客に支持される会社に変われるからだという。
小さな会社が勝ち残るには、顧客を選ぶことが大事だともいう。
顧客から選ばれるのではなく、会社が顧客を選ぶという意識、ここがポイントである。
自分たちがやりたい仕事や提供したい価値、それを徹底的に追求することによって顧客を絞り込む。大きな会社は事業上の特性上、極端に顧客を絞り込むことが出来ないから、それが出来る小さい会社は自由なのだ、と…。なるほどと勉強になる。さてこの論理、私の周りにも通じるようだ。

観宝春剛喜

これ漢文ではない。シテ方能楽師の人数が多い順に流儀を並べてみた。内訳は観世561名、宝生270名、金春120名、金剛100名、喜多54名(平成22年調査)となる。

喜多流は本当に小さな流儀だ。父は私が生まれて、十四世喜多六平太先生に「明生です!」とお見せすると、「ほお?、あき坊か?かわいそうに喜多流だね」と仰ったという。小さな流儀に生まれたことへの哀感だったのだろう。しかし父は私を可哀想だと思ったことは一度もない、と言っていたし、私も自分がそのような立場だと思ったことはない。ではあるが、安田氏の説で力を得た。

喜多流は小さいからこそ良いのである。
流内は高齢者も若者も上下の礼節は重んじながらも、年齢を越えてお互いに意見を言い合い、仲間意識を強く持ち、結束力を大事にしている。つまり明るい流儀なのだ。
少人数ということは裏を返せば、流内の競争率は低いと言える。
頑張れば努力は認められるし、500人の中のベスト5に入るのは並大抵ではないが、50人のベスト5なら、やる気も出るというものだ。また現在は、古来の風習や型附を頑なに守るだけではなく、演能の幅を脹らます作業も認められる自由さがあり、流儀内の寛容な雰囲気が、健康的で居心地の良さをつくっている。少なくとも私はそう思っている。

但し、短所もあるから気をつけなくてはいけない。
小さな流儀は当然人数が少ない。命は永遠ではないから、今生きる我々もいずれはあちらに旅立つことになる。これは避けようがない。ならば常に少ないながらも人の確保が大事だ。小さい流儀ほど後継者のことを深刻に考えていなくてはいけない。
後継者不足で流儀消滅、なんて有り得ないと思っている、そのこと自体に危機感を覚える。

後継者は、家の子はもちろん能が好きで、才能があれば嗣いでほしい。また家の子でない者でも能が好きで、才能があれば喜多流に入ってほしいと私は思う。家の子でなくてはいけない、という先入観を捨て、広く門を開き受け入れ態勢をとる。これ言うは簡単だが、正直、本音にまで浸透させるのに時間がかかるようだ。しかし明るく未来のある小さな喜多流だからこそ、我々は「後継者問題こそ重視」という意識改革を置き去りにしないでいたいと思う。

後継者を育てるためには、小さい流儀は小さいながら各個人の技を磨き上げ、舞台活動、愛好者確保と流儀繁栄の努力を惜しんではいけない。父の口癖の「人の三倍の努力」、これが必要だ。

私の願いは、これからの喜多流の人は、謡えて、舞えて、裏方も出来るそんな三拍子揃う人になること。何でも出来る技を習得することは並大抵ではないが、好きであれば必ず達成出来るとはず。
将来、喜多流がそういう人たちの集団になれば、ますます良い流儀となり、きっと良い流儀であり続けるだろうと思う。
安田さんの文章が私の身をまた引き締めてくれたようだ。
            (平成22年4月 記)

舞の型(進み方)投稿日:2018-06-07

舞の型(進み方)

舞の寸法では、掛りが儀式的な要素で「天」「地」「人」の三角形を描いて動き、初段からは役に似合った舞を始めるとご紹介しました。今回は図を参照しながら、初段から順を追って、舞い手の型、動きの順番をご紹介します。
注:型(進み方)は演者が正面席に向かっての動きとして記載しています。

まず舞の型附(かたつけ=動く順)は、正面先遠方に鎮座されていると想定する神に、
舞い手が徐々に近づく意識が基本理念です。

但し、いきなり神に直進して近づいては無礼になりますので、神社仏閣の参拝同様、鳥居・楼門や山門を越えて拝殿や本堂に辿り着くように、舞も回り道をしながら徐々に正面先の神に近づきます。段階を踏んで意図的にジグザグに回り道をしながら近づきます。
順路は下記の通りです。
図(掛り)

図(初段)

二段目では※のところで神に最も近づきますが、その後二段オロシで拍子を踏むと、以後は徐々に元の「人」(大小前)に戻ります。
図(二段)

最後の短い三段目の段では、目付柱近くで右手をカザス(高々と上げる)と、そろそろ舞も終わりとなり、大小前にて終了します。

図(三段)

クセの舞やお囃子に合わせての舞で、目付柱付近で右手を上げる型(カザシ)は、そろそろ舞を終わらせる、という舞い手の囃子方や地謡への合図です。この型を注意深くご覧になるのも、舞の進行の目安になると思います。

舞の寸法(構造)投稿日:2018-06-07

能の舞は地謡に合わせて舞うものと、囃子方の演奏に合わせて舞うものがあります。
ここではお囃子に合わせる舞の寸法(構成)をご紹介します。
舞は正式には五段ですが、但し、近年は省略して三段で演じる場合が多くなりました。
今回は、三段の寸法での舞の構成をご説明しましょう。

舞は次のようなブロックで構成されています。
掛り(かかり)→初段(しょだん)→二段(にだん)→三段(さんだん)。
まず掛りと呼ばれる、0(ゼロ)段があり、「天」「地」「人」でご紹介したように、左回りで三角形を描き、「人」で大小前に戻ります。
次に初段(一段)、二段、三段と進んでいきます。

「今日の舞は三段でお願いします」とか「すいません、五段でお願いします」
と、シテは予めお囃子方に伝えておきます。
この三や五は段の区切りのことで、舞自体のブロックは、「三段」なら0,1,2,3、の4ブロック、4段構成となります。

ここで能役者の心のうちを披露すると
掛りは、「天」・「地」・「人」の項目で説明した通り、翁の舞を基盤にした儀式的な要素が含まれているため、演者は曲趣に沿った舞を舞う、という意識よりも、舞をはじめるプロローグ・序曲のつもりで舞います。

本来の役になりすまして舞いはじめるのは、実は初段からです。
つまりゼロ段は数えない、そのように私は解釈しています。

能舞台と天地人投稿日:2018-06-07

能楽師・粟谷明生が演じる立場から能を解説する「解能新書」
その2は舞の構造を説明します。
能の舞は左回りからはじまります。
舞人は舞台に「天」・「地」・「人」を頭に描き舞います。(図1参照)


図1
本舞台の目付柱あたりを「天」、ワキ柱近くを「地」、大小前と呼ばれる小鼓座と大鼓座の間を「人」としています。
舞人は舞(お囃子に囃される舞)のはじめ(掛かり)に、まず「天」に行き、次に「地」へ移動し、「人」に戻るという左回りをして、三角形を描きます。
これは翁の舞に基づいています。
翁のシテは「天」「地」それぞれで拍子を踏み、その後、面を隠す型や左袖を巻く型をして、最後に「人」に戻り「人の拍子」を踏み舞納めます。決して「地」から「天」へと逆回りすることはありません。
仕舞も「人」よりはじまり、「天」から「地」へと左回りに移動して「人」に戻る、この一連の動きを、上羽(あげは:クセの後半以降にある、1?2句、上音で始まる、シテやワキなどの役の謡)までに行うのが基本形です。もちろん例外もあります。
中の舞、序の舞など、お囃子方に囃される舞や、クセなどの仕舞を、注意深くご覧になると、みな最初に左回りしているのがお判りになると思います。

能『定家』の物語投稿日:2018-06-07

能『定家』の物語

神無月十日の頃のことです。未だ都に上ったことのない、北国育ちの僧が、一度は都を見てみたいと思い立ち、京の都へとやって参りました。

都はといえば、冬枯れの木々にも名残の紅葉がところどころに残り、鮮やかに彩られており、折しも冬になるかならぬかの時雨の頃です。空模様が怪しくなり、上京(かみぎょう)という処に着いたころ、ついに雨が降り出してしまい、僧とその従者は、ちょうど近くにあった建物で雨をしのぐことにしました。
しばらく雨宿りをしていると、どこからともなく手に数珠を持った女が現れました。

(女)「もうし、お坊様、どうしてこの建物にいらっしゃるのですか」
(僧)「時雨が降ってきたので、雨宿りをしているのです。そうお聞きになったということは、この建物はなにか特別な所なのでしょうか?」
(女)「ここは『時雨の亭』という名の由緒あるところです。そのことをご存知だったわけではないのですね?」

(僧)なるほど、あらためて建物に掲げられた額を見ますと『時雨の亭』と書かれていますね。」

(女)「それは昔、藤原定家という貴族が建てたものです。洛中といわれていますが、昔から寂しいところで、今の時季…時雨の頃にはとても趣深い場所で、定家の卿は、ここに居を構えて、毎年歌を詠んでいました。ちょうどこの時季に、あなたさまのようなお坊様がここを立ち寄られたのも、何かのご縁でしょう。今は亡き定家卿の菩提を弔って下さい。」

僧は、この話に興味を惹かれ、『時雨の亭』について、定家の卿という人について、さらに詳しく話をしてもらいました。

(女)「定家の卿はここで様々な歌を詠われました。ですから『時雨の亭』という名の由来は、定家卿のどの歌であるかはわかりません。ただ有名な〈偽りの なき世なりけり 神無月 誰がまことより 時雨初めけん〉という歌の詞書きに〈私の家にて〉とありますから、もしかするとこの歌に由来するのかもしれません。」

僧は、とてもいい歌だと思いました。
この世には、嘘偽りは多くありますが、時雨の時季になれば時雨が降る、これに偽りはなく。作者はすでに亡き人ではあるものの、定家卿がここで風雅を楽しんだ昔と同じように時雨は降っているのでしょう。
そうしてみると、人というものは本当にはかないものです。ですが、この儚い世でこうして誰かと出会うというのは、〈一樹の蔭、一河の流れ〉というように前世からの因縁があるのでしょう。そう思うと僧は、この浅からぬ縁に心惹かれるものを感じました。時雨の亭の周りは今や荒れ放題で人の訪れもないのでしょう、時雨が去ったあとの夕暮れが、さらに寂しさを増しています。
女はさらに、今日は供養するために行くところがある、と言って僧を案内しました。

連れてこられた場所には、蔦葛が這い纏っている石塔があり、どうやら年月の経ったお墓のようです。

(僧)「ずいぶんと古いお墓ですね、これはいったいどなたが眠っているのですか?」

(女)「これは、式子内親王のお墓です。ここに這っている草は定家葛です。」

どうやら先ほどの『時雨の亭』を建てたという定家と関係のある場所のようです。

(女)「式子内親王という人は、もともと賀茂の斎院を務められた方です。しばらくして、その任を退かれると、藤原の定家の卿と秘めた恋をし、契りを結ばれたのです。しかし、その後、内親王は亡くなられ、定家の卿は思いの深さゆえに執心が葛となり、お墓に這いまとっているのです。そのため、内親王も定家の卿も、成仏ができず苦しんでいます。どうか、お坊様、お経を読んで弔ってください。」

僧は、その申し出を受けることにして女の話をさらに聞きました。

(女)定家と内親王は世間に秘めた恋でした。それもそのはず、内親王は後白河法皇の姫であり、定家は歌を詠む貴族にすぎません。ふたりの身分には大きな差がありましたから、世に認められるはずもないものです。
〈玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする〉と内親王が詠まれたように、絶え忍ばねばならぬ恋の辛さに、ふたりの心はやがて弱ってゆきました。いつしかその秘めた仲も人の知ることとなり、離れ離れにならざるを得なかったのです。
内親王はなんと、悲しい女性でしょう。
辛い恋などしない、とお就きになった斎院の位であったのに、神はその思いを聞いて下さらなかったのでしょうか。定家の卿との恋があらわになってしまったのは、本当に悲しいことでした。
隠そうとしても、ふたりが恋仲であるという噂は、世間に広まってしまい、それを恐れるが故に、まるで太陽が雲に隠されるように、定家の卿の通い路も絶えてしまい、互いが苦しい思いをしたのです。
定家の卿が〈君葛城の峰の雲〉と詠んだのは、手の届かぬ存在のたとえなのでしょう。この思いこそが執心を生み、定家葛となり、お墓から離れることなく、乱れた髪のように這いまとい、思い焦がれるかのように赤く紅葉するのかもしれません。

女はここまで話すと、僧に、どうかこの妄執を断ち切ってほしいと願い、姿を消しました。自分こそが式子内親王であると、云い残して……。

この出来事を不可思議に思った僧は、近くに住んでいる都のものにこのあたりの話を聞くことにいたしました。

(都の者)「今はむかし、後鳥羽上皇の時代のこと、式子内親王という方が賀茂の斎院になりました。しばらくして、その位を下りられ、この近くの歓喜寺というところにお住まいになりました。そのとき、〈恋せじと御手洗川にせし御祓 神や受けずもなりにけるかな〉とお詠みになったのでございます。男性と恋をしないという心が込められております。
しかしながら、定家の卿が内親王に恋慕し、忍びつつこちらへ通われたのです。
その恋は秘めたものでしたが、やがて世間の知られるところとなり、定家の卿は通うのを憚られるようになりました。
その後、内親王はこの世を去り、お墓はこの場所に築かれました。
年月が経ち、定家の卿が亡くなられますと、内親王のお墓には蔦葛が覆い隠すほどに這い纏うようになったのでございます。近くのものたちがそれを取り除きますが、不思議なことに一夜のうちにまた元通りになってしまうのです。
みなは気味悪がって、このことをとある位の高い人に相談いたしますと、その御方は夢でみたことをお話になりました。〈式子内親王のお墓に這い纏う蔦葛は、取り除くのではない。それは定家の卿の執心であり、もしこの後、それを取り除くようなことをすれば、祟りを起こす〉と告げたれたそうでございます。
その後は、誰もその墓を触るものはなく、ただ、あの植物を《定家葛》といい、この建物を『時雨の亭』というと伝えられているのです。」

都の者の話は、僧が不思議な女から聞いたものと同じでした。

(僧)「なるほど、先ほど、あの『時雨の亭』に立ち寄ると、どこからともなく女性が現れてそのような話をした。不思議なことに、その女性は、自分は式子内親王だといい、姿が見えなくなってしまった…」

(都の者)「なんということでしょう、お坊様は不思議な体験をなさいました。それは間違いなく、式子内親王が妄執にとらわれた亡霊の姿となって、あなたさまに助けを求めたのございましょう。どうか、お坊様、ここでありがたい読経をなさって、おふたりの執心をお弔いになってください」

僧は、その言葉に、先ほどの女は式子内親王の亡霊であると確信し、弔いをしよう、と約束しました。

荒れ野の原は、日が沈むと、なおいっそう恐ろしさが増します。
月の光があたりを照らすと、時雨の名残の露が哀しく光っています。
僧は、人の世の儚さを思い、読経をはじめました。

すると、僧へ語りかけてくる声が聞こえて来ました。
これは、式子内親王に違いありません。

(内親王)「夢なのでしょうか、月影の闇の路を、あなたの弔いの声を頼りにやってまいりました。思い出します、定家の卿もこうして、私の住まいへと闇に紛れて忍びつつ通ってきたものです。しかしそのような通い合った心もやがて、紅葉が散り散りになるように、薄れてしまいました。人の心は無常なものです。私の住まいもまた、無常なもので、このような荒れ野になってしまいました。しかしそれだけならばまだしも、私の墓は定家の妄執の葛が這い、私は成仏もできず苦しいのです。」

(僧)「なんとお痛わしいことだ。
『仏平等説 如一味雨、随衆生性 所受不同』」

(内親王)「私はこうして苦しい姿でいるけれども、今のお経は私の心に響いてまいります。なんと有難いことでしょう。今のは法華経の薬草喩品ですね?」

(僧)「そうです、この教えによって救われない草木はありません、定家の執心によって苦しめる葛を払いのけ、どうか成仏なさいませ。」

仏の慈悲は雨のように万物に与えられ、『草木国土 悉皆成仏』という言葉の通り、すべての衆生は成仏がかなうのでしょう。
やがて纏わりついていた葛と涙とが、ほろほろと落ち、解け広がり、そこに内親王の姿が現れました。苦しみからやっと逃れられた内親王は、よろよろとした弱い足取りながらも、お礼に、と、

(内親王)「昔、宮中で華やかに過ごした有様を舞でお目にかけましょう」
そう云って懐かしむように、舞いました。
しかし舞終えると、今度は恥ずかしそうに、顔を伏せ涙を流し…

(内親王)「昔は私も、〈月の顔、桂の眉〉といわれるように美しかったものですが、この世から消えたのち、悲しくも定家葛に纏われ、醜いゆえに夜しか姿を現さぬ葛城の女神のようになってしまいました。私も女神にならって、夢の覚めないうちに、姿を隠しましょう。」

そう言うと、内親王の姿は墓の影へと消えて行きました。
見れば、またもとの通りに定家葛が墓に這い纏ってゆきます。

ありがたいお経によって、内親王は成仏がかなったのでしょうか?
あとには、時雨の露に濡れた寂しい荒れ野が残るばかりでした…。
(終わり)
現代語訳 伊奈山明子・粟谷明生
挿絵   宮島 咲

参考 「定家」詞章 PDFファイルです。

定家詞章.pdf

我流『年来稽古条々』(26)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(26)
?研究公演以降その四?
 『蝉丸』で見直す力を

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 第四回・研究公演で取り上げた『蝉丸』について話していきましょう。第四回の公演は平成五年十一月二十七日でした。第三回の『求塚』が五月ですから、その年は研究公演を年二回やりましたね。

能夫 すごく頑張っていたよね。

明生 『蝉丸』は二人で同じ曲に挑もうということでした。

能夫 共有しようということだね。

明生 一曲の場合、片方がシテで片方が地謡ということになると、地謡は舞台に出ないことになるから、両方が一緒に出られるものにしたいということで『蝉丸』が選ばれました。シテの逆髪を能夫さんが勤め、私がツレの蝉丸を勤めることにしましたね。ツレ蝉丸は曲名に名前があがるほど、大切な役で重く扱われています。だからシテもツレもほとんど同等の意識で演じることができますから。

能夫 僕が年上だからシテをやったというぐらいで、どちらがシテになってもいいぐらいの曲ですよ。シテとツレがほとんど同等で拮抗してよい舞台を創らなければならない曲なんだ。だから明生君も燃えていたよね。

明生 そうですね。大事に勤めたいという気持ちでした。

能夫 僕も『蝉丸』のシテは初めてだったので、同じように大事に勤めたいという気持ちがあったよね。過去のものを観て来て、自分がするときにはこういうふうにしたいということがいろいろあったから。

明生 それで、変えたことがありましたね。

能夫 今までは「花の都を立ち出て・・・」という道行の段が終わると、シテは大小前に座ってしまい、そこでツレの「第一第二の絃は・・・」という謡を聞くわけ。弟の蝉丸のすぐそばにいて声を聞いているのに、わざわざ立ち上がって遠くの常座に行き、弟との問答が始まる。それでは、姉と弟の再会が舞台進行上、おかしいでしょう。

明生 健忘斎の伝書にはどう書いてあるのですか。

能夫 その通りに書いてある。だから父も菊生叔父もみんなそのように演ってきたんだ。だけど観世流は、橋掛りにいて蝉丸の声を聞くという演出なんだよ。「花の都」の段を橋掛りで聞いて、それでだんだん距離が詰まってきて、弟の蝉丸との再会になる、このほうが自然でしょ。それで、研究公演では僕は「花の都・・・」から蝉丸が「世の中はとにもかくにも・・・」を謡い始めるまで、橋掛りの一の松に佇むことにしたんだ。

明生 そこは何とか変えられてよかったですね。でも、能夫さんはもっと変えたいことがあった。全部で四つありました。一つは今のこと、シテが大小前に座るのではなく橋掛りにいることですね。二つめは、クセの上羽の謡「たまたま言訪ふものとては」を喜多流の謡本ではシテが謡うことになっていますが、意味合いからツレが謡う方がよいということ。三つ目は蝉丸が藁屋を出るタイミング、これを早めにしたいと言われましたね。

能夫 だって再会したのだからね。藁屋の中に入りっぱなしというのは不自然でしょう。理不尽なことがいっぱいあるよね。

明生 それと四番目はツレが琵琶を弾く場面で、型として中啓を使って、琵琶を弾く風情を見せる、ということもやりたかった。いろいろやりたいことはありましたが、能夫さんは研究公演ではこの中の一つだねといいました。

能夫 そうね。『蝉丸』は初めて挑む曲でもあったし、研究公演だからといっても、どうしても変えたいというところ一つだけにして、その後につなげていこうという思いだったね。

明生 だから、研究公演では思っていることの四分の一しかできなかったわけです。でも、伝書や謡本に書かれていることや、流儀の先輩たちが演られてきたことでも、ここは理不尽だということがあれば見直していかなければ、という、そういう志しがスタートしたのだと思います。

能夫 研究公演の『蝉丸』は、見直す力が必要ということを意識し始め、それを実行に移した初めての曲であり、場であったと言っていいと思うね。

明生 その後、確か彦根での能で、友枝昭世氏がシテで能夫さんがツレ、という機会がありましたね。

能夫 そこでもっと改革しようとしたんだ。研究公演でできなかったことや、その他諸々とね…。

明生 友枝氏との相談も進んでいたのですが、友枝さんが病気になられ、出来なくなってしまったのですね。

能夫 それで急遽、菊生叔父がシテを代役することになってしまって…。菊生叔父に根本的に改革しましょう、なんて言えないし、またそのような時間もなかったので、あのときは今まで通りでやることになった。菊生叔父には言えないよな。それはそれでいいのだよ。(笑)

明生 そこでは近代型にしようとした試みはできなかった、ということですね。それから時が経ち、平成十九年に愛知県豊田市の豊田能楽堂の三月公演で能夫さんと二人で『蝉丸』という企画のお話がありまして…。能夫さんがシテで私がツレで。そのときは今度こそと、研究公演で考えていた四つのことを全部やりましたね。ツレが藁屋から出るところも序のところにして、いろいろと・・・。

能夫 ツレが藁屋から出て、お互いが身近にいるという状況を創らないとね…。再会なんだからね。

明生 研究公演から十四年もの月日が経ってしまいましたね。でもこの間に様々な試みをしてきて、よかったなと思いますよ。いろいろ苦言を呈する方もおられますが、あのときはスムーズにクレームもなく・・・。まあ、言う人をお
呼びしていなかったこともありますが…。(笑)

能夫 普通は流儀のやり方を変えるというのは大変な抵抗があるんだよ。観世寿夫さん、あれほどの人だって大変だったんだから。昭和三十六年に寿夫さんが『昭君』で新しい試みをしようとしたとき。先代の銕之亟さんがシテで、寿夫さんが地頭だった。ところが雅雪さん(寿夫さんの父)から待った!、が入ってできなかった。寿夫さんは涙を飲んで諦めたという話がある。これはもう伝説になっているぐらい有名な話だよ。それぐらい流儀の型や決まりごとを変えるのは大変なことなんだよ。

明生 それは私たちが父親にダメ出しされるのと、同じですね。

能夫 その改革ができたのが、昭和四十八年だよ。

明生 十二年後か。やっぱり改革には十年以上の歳月がかかるということなのですね。

能夫 それでも最初にどこかでカッと爪を立てるとか、そうしないと物事は変わらないということだよね。

明生 そう、どこかで爪を立てないとですね。能役者は、演出的にも演劇的にも考えて、型付を検討し、不備なところがあれば改善しようとするのが健全ですよ。ただ目先だけを変えればいいというのではないと思いますが、そういう見直す努力をする、ということが大事だと思います。
現在、当たり前にやっていることも、歴史的に見れば、高々数十年ぐらいのあいだでのこと、そこで固まってきたことかもしれないのです。だからもっと昔のことを調べていくと違うやり方をしているということもあります。

能夫 だから、親や先輩がやっていることを金科玉条のようにして真似するだけではない、見直す力が必要ということですよ。

明生 以前に能夫さんが話してくれたことがありましたね。だいぶ昔のことですが、友枝さんが新工夫をされたときに、ある人が「あれは喜多流にあるのか?」と尋ねられたら、友枝さんは「喜多流にはないかもしれないが、能にはある」と答えたと・・・。

能夫 格好いいじゃない。能にはある! これからはもっと能という大きな枠の中でやっていこうよ。

明生 そんなこともあって友枝さんは私たちがこういうふうに変えてみたいと相談すると受け止めてくれますよね

能夫 友枝さんは見直すこと、新しいこと、改革すること、そういうことを許容する懐の広さがあるよね。こうやりたいと僕らがいうと、それはいいけれど、こういう問題があるよと、細かな指摘もしてくれたり、そういう意図ならば全面的にやってみろ、と言ってくれたりね。そして僕らがやったことを見て、どうだったということも言ってくれる。ご自身も声高には言わないけれど、ちゃんと改革というか冒険をやっておられるよね。先日の『江口』だって、普通はワキのサシコエが終わるときに、シテが呼びかけるのを、、そこにアシライ笛を入れて、心象風景を共有しているところに、遊女・江口(シテ)がふっと現れるようにされました。新工夫ですよ。

明生 私も、友枝師に『江口』の稽古を受けたとき、「のう、のう」とただ呼びかけで出るのではなく、ワキが西行の歌を詠じはじめると、シテが三の松あたりにすっと現れ、歌をそっと聞いている、その風情を観客に見せるというのは、どうですか、と申し上げたら、それいいじゃない、と言って下さいまして。『半蔀』の「立花」のときも、川瀬敏郎さのお花が舞台の中央前方に出ているわけですから、「いつもの位置取りや型をすこし替えていいですか?」とお聞きすると、「今日はお花が半分主役だからね。そうした方がいいよ」というように心に響く、やる気が出る言葉で返して下さいますから。

能夫 そういうことだよね。『半蔀』といえば、寿夫先生の印象に残る言葉があるよ。潗の会で浅井(文義)君が稽古しているときのこと。先生が「ワキが夕顔の花をイメージしたときに、シテはふっとワキのイメージの中に入っていく」そう言われたんだ。僕がワキが謡っているときになぜシテがアシライのように出てくるのか?と質問したときの答えだった。ワキの作っている世界にシテが入っていくということで、ただお囃子の手組だけの対応では絶対できないということなんだ。

明生 私たちはただアシライ笛に合わせて、コイ合いくつ、としか考えていませんでしたからね。ワキがどのような対応で動いているかなどと、正直以前はあまり考えていませんでしたよ。

能夫 そうでしょう。舞台というのは役者と役者のかかわりで創っていくものでしょ。アシライ笛だってそのためにあるんだよね。アシライがあるからそれに合わせて出るのではなく、むしろ舞台全体を創るためにアシライがある。考え方が逆転しているわけ。そういうことを、あの時代、僕は二十代後半だったから全然わからなかったけれど。
でもその話を聞いたことが僕にとっては画期的なことだったね。

明生 そういういい話を次の世代へどうつなげるかですね。私自身もそう見ていないし、今、寿夫さんの素晴らしさを知る人が少なくなっていますからね。

能夫 それからね、『葛城』についても思い出があるよ。寿夫先生に今度は何をするのと聞かれて、『葛城』と答えたら、『葛城』は面白いよ、普通の世界じゃない、神様の世界を描いているあたりが面白い、音曲的にもこんなに面白いものはないというようなことを言われたんだ。そのころ僕は、『葛城』という曲に対し明確なイメージをもてなくて迷っていたが、先生の一言により道がばっとひらけて、やる気がわいてきましたよ。

明生 『三輪』とか『葛城』は不思議な能ですよね。人間的でもあり神的でもあり、両方備えている…。

能夫 それを寿夫さんは指摘されたんだな。そういう意識で能を創っているんだ。寿夫さんの能の成り立ち、美しさ、それはそういうところの意識の違いにあるんだと感じた。「じゃあ、頑張ってやります」なんて僕も言ってね。ずいぶん励まされました。この二つのことは、寿夫さんと直接言葉を交わして影響を受けたこと、忘れられないね。ああいうすごい方と命を共にしたというか、同じ時間を呼吸できたということは嬉しいことですよ。

明生 能夫さんは寿夫さんのお能の見方に影響を受けて、自分のやっている能を見直そうと・・・。もちろん単純に右回りしていたのを左回りにしてみるかということでなく、この能にこれが必然だということをよく考えてですね。

能夫 右回りのことで一つ思い出したよ。中入りは普通、右回りして常座で正面を向いて「失せにけり」とかになるでしょ。右回りというのは、正面から中正面、脇正面まで、全部の観客の視線に演者の身をさらすわけですよ。そこになにかキュッと凝縮したものが必要だよね。それを静夫先生(先代・観世銕之亟先生)は「凝固」とか「凝結」という言葉で説明された。凝固だと石になってしまうから、違うかな。「凝結」だね。「失せにけり」だから生身の人間はそこにはいない感じで凝結している、でも内燃機関は静かに燃えているみたいな・・・ね。

明生 中入り前の右回りも、そう言われると意識が違ってきますね。

能夫 そうでしょ。そう考えると、お能って本当に面白い。こんなふうに何気なくやっていることも見直す力が絶対必要だということですよ。流儀とかでなくて、曲に対して、能に対してどうなんだということをやっていかないとね。

明生 お能って本当に面白い、と素直に理解出来るのは、もしかすると演じている者だけかな…なんて、こんな事をいうと観客の方々に叱られるかな。とにかく、友枝さんがおっしゃった、「流儀にはなくても能にある!」ですよね。能を生かすには?ということを追求していかなければいけませんね。
 というわけで、研究公演の『蝉丸』は我々が能を見直す最初の曲になったということですね。以来、いろいろ見直しをやってきました。そして今度の研究公演、平成二十二年十二月に『檜垣』を計画したのも、その心意気ですよね。シテを友枝昭世氏にお願いして、我々が地謡を謡います。是非期待していただきたいと思います。

(つづく)

謡が身につくということ投稿日:2018-06-07

メイキングNHKテレビ 「芸能花舞台」 その3投稿日:2018-06-07

○一調一声が得意だった

?『井筒』のあとに、一調一声の『玉葛』を一部分ですが聴いていただこうと思うのですが…。小鼓が曽和博朗(ひろし)さんで謡が菊生さんです。

山崎 とても面白いと思いますよ。やっぱり菊生さんは舞う人なんだね。自分が舞っているからリズムがものすごくいいんですよ。謡い屋さんに謡わせるとああはいかないんですよ。菊生さんは謡いながら舞っているね。だからとても面白いよ。僕なんかが聴いていると、舞台が目に浮かんでくるよ。

明生 一調一声は囃子方が打つ手組に合わせて謡うわけです。拍子に合っているところも、合わないところも、囃子に合わせ音の幅や高低差でふくらみをつけて謡う、しかも、今山崎先生が仰ったように、聞いている人がその情景が思い浮かぶよう…というのは、なかなか至難の技なんですね。

山崎 今回の一調一声は小鼓と謡ですね。小鼓に合わせてシテも一人で、リズムにはずれないように謡わなくてはいけない。ところが今言われたように、拍子に合わないところが難しいんです。ここに気持ちを込めて謡わなければよい一調にはならないんですよ。拍子に合わないところは自由に謡うところだけれども、そこをいかに気持ちを込めて膨らませて謡うか、これが一調の謡い方のコツなんですね。だから意地悪く言えば、これを聴くことで、その人がわかっている人かどうかがわかるくらいなんですよ。

明生 曽和先生との一調一声をNHKで収録するとき裏話がありまして…。リハーサルのとき、曽和先生が「菊生さん、どうしますか? 一回やっときますか?」と聞かれ「そうだね」と言ってお二人は別の部屋に行かれて申合わせをしたんです。
それで父が戻って来たときに「どうだった?」と聞くと、「まあ普通、とんでもない手組はなかったよ」と答えてくれて…。さて本番が無事終わって父が楽屋に戻ってくると「やっぱり博ちゃんは本番で違う手を打ってきたよ」と言うのです。
「博ちゃんは、馴れが嫌いでね。だから最後のところで申合とは違う手を打ってきたよ。でもな明生、僕もそうくるだろうなと覚悟していたからね」と、今でもその時の父の顔、克明に覚えていますよ。
なんでも、この録画はまずは曽和先生が先に決まっていて、NHKが「謡い手はどなたに?」と曽和先生に聞かれたら、「粟谷さんでお願い」とのお返事だったとか。これはNHKから聞いた話ですが…。

山崎 それもいい話だよね。馴れちゃダメなんだよ。いつも真剣勝負だから、一調一声というのは。だから面白いんだよ。何度もリハーサルやっているのをそのまま聞いても面白くもなんともない、緊張感がないよ。お互いに真剣勝負でぶつかってやるから、こちらにも伝わって来るんだよ。

明生 『玉葛』の「あかぬやいつの寝乱れ髪、結ぼれゆく思ひかな」というところ、幸流の鼓は「流し」といって、最初にチ チ チ チ チと干高い音の連打で始まり、次第にポン ポン ポンと音色を変えて連打するところがあるんですね。ここを小鼓への配慮なく無神経に謡うとダメなんですね。相手が楽しんで打ちたい気持ちを汲んで、ゆったりと邪魔にならないように、打ちやすいように、そう謡うのがよろしいようです。
 基本的には一調一声は一対一でするのですが、主人公、主役は小鼓なんですね。シテはそれを補うように、楽器奏者を盛り立てるように謡わなければならない、向こうが楽しく好きなように打てるようにしなければ、と父はよく言っていました。
だから、「あーかーぬ」というところは、向こうはたくさん打ちたいのだから、サラリと短く謡ってはダメで、そういうことを心得えておけよ、とよく言われましたね。

山崎 一調というのは囃子方のものなんですよ。囃子方が主人公なんだ。舞台の真ん中に座るのが囃子方。謡い手はそれに謡いかけるわけですよ。そのためには囃子方を生かさなければならないのね。そういうところが菊生さんはうまかった人なんですね。だからみんな、菊ちゃんに謡ってくれ、とオーダーが殺到したんでしょう。

明生 お囃子方の方では、父とか梅若六郎(現・玄祥)先生
だと心配しないですむ、好きなように打っても合わせてくれるといって歓迎されていましたね。僕みたいな新米は、お相手から「おい大丈夫か、こう打つからね、外すなよ」、なんて言われたりしてますからね(笑)。

山崎 そういうものなんだよ。あくまでも楽器が主だからね。だから能の地謡と一調一声の謡は全然別のものなのね。だから経験を積んでいないとダメなの。菊ちゃんのように海千山千の人でないと、囃子方は安心できない。だから菊ちゃんはよく囃子方に頼まれたんだね。

明生 囃子科協議会の調べによると、今まで一調一声の出番が一番多かったのは父だそうです。「菊ちゃん、なんでそんなに出ているの?」とは北村治さんのお言葉ですが。
結局、頼んでもみんな嫌がるのを、父は嫌がらなかったからでしょうね。私は嫌ですが…(笑)。

山崎 そりゃ嫌がるさ。それから囃子方の会というのはお素人さんが打つんだよね。それを打ちやすいように謡ってあげなくちゃならない。それには彼はとてもいいんだよ。

明生 プロの会でないときは苦労すると言ってましたね。お素人さんの中には謡に関係なく自由勝手に打つ方もおられるわけで…。それをハイハイとうまく無傷のように謡い終えて、「ああ、よかったですね。お上手、お上手、なんてお上手が言えるのは、僕と六郎さんぐらいだよ」と言っていましたよ。お弟子さんたちも失敗していてもわからないから、「先生、次回もまたやります!」となるんですって(笑)。
 一調や一調一声はみんな敬遠しがちなのですが、父は相手がどう打ってくるか分からないスリリングな感じが好きと言って、頼まれれば必ず受けていましたから。
で、「一調を謡う時の心得とか、コツはどうしたらいいの?」と聞いたら、「経験と馴れ」ですって。

○好きな曲『鬼界島』

?最後に菊生先生のお能を、名演と言われている舞台を見ていただこうと思いまして、

明生 菊生と言えば『景清』でしょう? 『景清』『弱法師』などが父のお得意十八番でしたよ。これに関わる話ならばいくらでもありますよ、裏話がね。

?すいません。『景清』と『弱法師』は放送に支障ある言葉がありまして、違う曲でお願いします。それで『鬼界島』を取り上げてみたいのです。先生がお好きでしかも工夫されたところがあるということで。2000年の舞台映像がありますので、これでお願いします。
 『鬼界島』は伝書に残っていない、というようなことが、明生さんのホームページに記載されていたのですが、先人のみなさん、そして菊生さんそれぞれのご工夫されていることがあるようでしたらお聞かせいただきたいのですが・・・。

明生 九世・喜多健忘斎の伝書には『鬼界島』と『草紙洗小町』の二曲についての記載はありません。それ以前の伝書にはありますよ。でも『俊寛』となっていて観世流に近い型みたいです。『隅田川』も『角田川』と書いてあったり。それらを全部整理したのが健忘斎なのでしょう。この我が家の伝書は私が知る限りでは、高林家と我が家の二家にしか残っていないと思います。家元のところにも以前はあったようですが戦争で焼けてしまった、と父は申しておりました。ですから貴重な伝書です。もちろんこれは祖父益二郎が手に入れて書家に写させたものですが…。昔の弟子は修行した後に、先生から写しのお許しをいただいたそうで…その写しなんです。
 そこに、今言った二曲がないのはどうしたわけなのか、幕府から何か言われたのか、他流からの何かの影響があったのか、それはもう全然分かりません。
 たぶんその後、時代を経て、十四世喜多六平太先生が流儀を再興され、この曲をなさって、現代やっている原型を創られたのではないだろうか、と言われています。それを実先生も継承されてと。といっても、実先生はあまり『鬼界島』をお好きではなかったので、あまりおやりにならなかったですし、弟子の稽古でもあまり細かなことは仰らなかったみたいですね。『鬼界島』は友枝喜久夫先生や新太郎伯父、父などが、六平太先生はこうやっていたという教えでやられていました。今は我々がそれを受け継いでいます。

?『鬼界島』はあまり多くは上演されていなかったのですか、それを六平太先生がやるようになってやるようになった?

明生 昔のことは判りません。ただ他の流儀と比べるとあまり多くは上演されていなかったかもしれませんね。でも父たちの時代は結構多くやっていました。やはり名人の先生の舞台を見て憧れて、いつか自分もあのように!と皆様やりたがったのではないですか。
六平太先生が『羽衣』が好きとなると直弟子たちも『羽衣』をやりたがる。先生が『井筒』をあまりやらないと、みんなもあまり・・・というようにね。

?菊生先生は『鬼界島』お好きだった?

明生 好きでしたね。父は非常に好んで『鬼界島』をやっています。上演回数もすごく多いですよ。

?伝書に記載されていないので、ある程度自由にできたのですか? 
菊生先生の工夫みたいなところもあったと聞いていますが。

明生 六平太先生からの教えに自分なりの工夫を重ねていったと思います。
『鬼界島』はシカケ・ヒラキ、サシ・ヒラキとか、左右して上羽して拍子をポンと踏んで・・・というような舞の型はありません。『小原御幸』もそうですが、謡が中心の曲ですので型らしき型はないのです。だからこそ役者の創造性が能そのものに反映され、それが充分許される特異な曲目と言えます。

山崎 この曲は能としての型がないので、あれが能かなと思うほど、非常に不思議な曲で、むしろとても演劇的。能というのは型というものがあって、個人が出せないカテゴリーがあるわけね。この曲のように型がないものは、能であるという核をもって演劇にならないように作る、これに難しさと面白さがあるんですよ。『鬼界島』のような演劇的なものはヘタをすると芝居になってしまうんです。芝居のセリフが謡になっているという違いはあるけれど、芝居になりやすい。だからこういう曲はやらないよという人も多いんだ。こんなの能じゃないと言う人もいるし。だけど、こういうものを能的にやるのも面白いという人もいる。

?菊生先生はその考え方だったんですね。

明生 そうですね。

山崎 菊生さんという人は、こういう能らしくないものを、能のカテゴリーの中にちゃんとやろうというところがあったのね。あの人、割合無造作な人ではあるけれど、非常に緻密にものを考える人なんだよ。一見素朴そうに見えて、何も考えないのかなと思うと、そうじゃなくて、非常に緻密に考えるんだね。僕は長年付き合ってきたから、そこがよくわかるんだね。非常に細かいですよ。

明生 父は、六平太先生の型をベースにして、歌舞伎の初代吉右衛門さんの「俊寛」がよかったから、それを取り入れて、自分なりのものを作った、と言っていました。
 最後の場面、迎えの船が成経と康頼(ツレ)を乗せて出て行き、俊寛だけ島に取り残されるシーン。この映像では両手を上げていますが、以前は片手でした・・・、とにかく、手をあげて船の行方をずっと見つめているシーンです。そのあと正面向いて少し下を見て右足一足をぐっとなんとも言えない力で後ろに引き下がり終曲となるのですが、その一連の一型で一人残された絶望感を表現するのです。そこを、吉右衛門さんの芝居を見て、右手をずっと上げてどんぐりまなこで船の行方を見つめているところ、そこが気にいって、それをいただいたんだと言っていました。最後には片手でなく両手をあげて、あーあーとか、お?い、という嘆きの絶叫を無声で表現する、そう私は解釈していますね。

山崎 ずっと手を差しのべて船を追う、それだけで表現ね。船が遠くにいってしまった悲哀、一人取り残された悲壮感を、じっくり見せてくれる。能なんだね。ところがこれが芝居になると、歌舞伎なんか、船が遠くに離れて行くと俊寛は岩によじ登り、それがまわり舞台になって動いていって、船が小さくなっていく・・・そこまでリアルにやるの!と思うほどリアルなんだよ。能は、ただ船が静かに帰っていって、俊寛は手を差し出すだけ。これだけで孤島に一人残された悲哀が舞台全体に広がっていき、観るものの涙を誘うよね。お能はよくできているよね。

明生 それから、ツレの成経と康頼が二人で「痛はしの御事や、我等都に上りなば、よきやうに申し直しつつ、やがて帰洛は有るべし、御心強く待ち給へ」と謡うところがあります。「あ?、かわいそうに。私たちが都に帰ったらとりなしてやりますから、心を強くして待っていて」と慰めるわけですね。ここをしんみりと、かわいそうという同情の気持ちを込めて謡いましたら、父が「お前らはそんなにしんみり謡うんじゃない。だいたいお前らは僕のこと、俊寛のことなんかそんなに心配していないんだよ。さらっと謡ってくれ。そうするとその後の僕の、“帰洛を待てよとの”の謡が利くから」と言うんです。
お前らが「痛はしの」なんてしんみり謡うと全然引き立たないじゃないか、と怒られたことがあります。ツレはツレらしくサラッと、内心はそんなこと思っていないけれど一応言っておくよ、ぐらいの気持ちで謡う心得ですね。そうするとシテはやりやすい、という事なのですね。

山崎 それはいい話だよ。

?それは腑に落ちる芸談ですね。なるほどなるほど。これは鑑賞のポイントにしていいですね。

山崎 こんな風に菊生さんは工夫しているんだよ。菊生さんは『鬼界島』が好きだったし、事実よかったよね。明生くん、喜多流としては今、『鬼界島』はあまり出ない曲なの?

明生 いいえ、出ています。喜多自主公演でもここ何年かで数回は出ていますし。
何となく能役者の力量が試される曲目ですね。

?それはなぜ?

明生 いくらシカケ・ヒラキだけを上手くやって舞っても、演じる心みたいなものを取得していないと本物ではないのです。能は一見なにも演者がしていないように見えるかもしれませんが、表現力が大事でそこで勝負しなければならない世界です。いろいろな曲や役を経験することもそれを得るための過程なのです。
『鬼界島』は立派に舞をこなすだけでは手も足も出ない曲です。まず謡が上手でないとダメですね。本当に説得力ある謡、涙が出てくるような謡ですが、それが発声できないといけないのです。私の型付には細かなことなどはあまり書いてありません。そういう意味では若年や未熟者には手に負えない曲と言えて、まあ四十代後半ぐらいになって、ようやくそろそろ演ってみたら?と言われる曲なのです。

山崎 このシテはかなり難しいと思うよ。菊生さんは好きだったらしいが、何回やっている? 僕も何回も観ているもの。

明生 そうですね。地方の公演も含めると、正確な数字はちょっと判りませんで、すいません。地方公演では、というよりどこでもそうでしょうが、日本人ならばこの曲は結構受けますね。わかりやすいし、お涙頂戴というの日本人好きなのです。

山崎 情が深い内容だしね。

明生 それから、シテの面は「俊寛」という専用面ですが、父はいつもアラブ人のような彫りの深い面を使用していました。決して品があるとはいえない独特な顔です。
俊寛僧都といえばいくら島流しになっているとはいえ、それなりの位のある人のはずですから、この顔でいいのかなと思うのですが、父はいつもそれを気に入って使用していました。
父は頭に花帽子をかぶるんですよ。位が高い僧ですから普通は沙門帽子なのですが、父は絶対花帽子。我々はこの花帽子に慣れてしまったせいか、これを見ると喜多流の俊寛だなという気がするのですが・・・。あの花帽子はシテにとっては呼吸がしにくい、苦しい被りものなのですが…かならず花帽子。父も年をとってからはきつかったと思うんですけどね。

山崎 花帽子は喜多流だけかな?

明生 ウーン、どうでしょうか。判りません、六平太先生のお好みなのかな?。

山崎 僕は沙門でいいと思うけどねえ。

?花帽子にするのは何か?

明生 知りません。六平太先生がつけていたのを憧れて、かな?
みなさん花帽子、花帽子って仰いますよ。
伝書にないわけですから判りません。ただ喜多流でも沙門でなさる人もいますし…。

山崎 沙門が多いですよ。

明生 その面の話ですが…。彫りが深くてギスギスした感じのお顔をしているんですが、花帽子をかぶるとそれが大分隠れてしまい、独特のお顔になるのです。それが気に入っていたんですね。

?そういう、ご自分がなさった『鬼界島』について、菊生さんのメモとか覚書、型付みたいなものはあるんですか?

明生 ないですよ。父は書きません、ですから私が書くように、反抗精神ですね(笑)。

○創造と継承と

?それにしても、九世・健忘斎の伝書には興味ありますね。それを見せてもらえますか?
我々一般の人間は、そういう能楽の演出ブック、演出帳というのは興味があります。
能楽師の方はこういうものをご覧になって演技を伝えていらっしゃるのかなと思うのですが、一般にはそれがなかなかわからないものですから。これを一度見せて、その中に『鬼界島』が書かれていなかったということを示したいのですが・・・。

山崎 あんまり見せたくないやねえ。

明生 それはサービスしますよ、いいですよ。

山崎 一種の型付だよね。

明生 父はなんでも健忘斎の伝書があるからいいんだといって、ほとんど書き留めたりせずに、それを頼りにしてやっていました。自分の工夫は口で語るばかりで・・・。友枝先生のところにはこの伝書がありませんが、友枝喜久夫先生はご自身がやられたことを細かく書いておられて、それが次の世代の友枝昭世氏がご参考にされているようです。
観世流の銕仙会ならば、華雪先生が几帳面に細かく書き残されたものがバイブルみたいになっていて、それを現代の方々が読まれているようですよ。だから銕仙会の人はその華雪メモが重宝だとお聞きしていますが。

山崎 昔の喜多流は、名人・六平太が何かやろうと思っても、自分のところには型付がないわけです。それで九州から来た友枝に「これやったことあるか」「やりました」「そうか、ではやってみろ」と言ってやらせて、それを見て、全部作ったという話がある。
 家元なのに『石橋』をやっていなかったんだな、六平太という人は。ところが素人の弟子で偉い人がたくさんいたから、今度お前の家で『石橋』やらせてあげるからと言って、それを写して、今その型が家元のところに残っているという話だけどね。本当かウソかわからないけれど。それぐらい型付がなかったんだよ。

明生 関東大震災と第二次世界大戦で二回焼けていますから。六平太先生が二回も焼けちゃしょうがないよ、と言っていたという話があります。
喜多流は外様大名が庇護してくれていましたからね。福岡の黒田 熊本の細川、秋田の佐竹、安芸の浅野、そういう遠いところの大名のところに伝書が残っているわけです。
震災の後、落ち着いたころにそういう遠方の弟子に伝書を持ってこさせて写したようですが、それも戦争で焼けてしまったんですね。

?九世の伝書は喜多流で残っているもので古いほうですか。

明生 九世というのは喜多健忘斎といって、喜多流の中興の祖と言われている人です。
江戸時代後期の人ですけどね。このころは観世大夫も宝生大夫も若かったので、健忘斎が能楽界を牛耳っていて、とにかく優秀な方だったということですね。面の目利きでもあったようです。健忘斎以前の伝書もあるにはあるのですが、現代にマッチしないというか、あまりや役に立たないものが多いのです。
 健忘斎の伝書は曲目ごとに文章が連なっていて、この時はこうすると書いてありますが、最後に、こういうことをすると大損なりとか、これは未熟者はやらぬことなりとか、この型は吉とか、そんな書き方をしています。健忘斎がどういうことを言おうとしたか、その行間を読むことが大事で、またそれが楽しいのです。
 父はもっぱらこの健忘斎の伝書をベースにしていましたが、そこに必ず菊生流を加えるんですね。だから創造と継承ということをよく言っていました。伝統芸能は継承が大事、それは当然ですが、決められたことをそのままやるのではなく、自分で考え、工夫して、創造して行くことが大事ということですね。こういう役者魂が大事なんだということを、父はいつも言っていました。
なにか新しいことを私たちがすると、「今青い鳥をさがしているんだね、そう捜すことが大事、青い鳥が本当は身近な我が家や当流にあるということを、他人が教えてもだめなの、自分で捜して、自分が納得しないとだめなんだよ…」と。

?山崎先生も最後にひとことお願いします。

山崎 僕はこうみえても喜多流を習っていたんだよ。僕の先生は高林吟二さんでね。
で、菊ちゃんと僕は九歳違いだけどね。僕が高校のときに一緒に遊んでいるんだよ。家が近くだったから。有ちゃん、有ちゃんと、よく僕のところに来てくれてね。長いつき合いだったからね。菊ちゃんは「私は次男だから」ということをよく言っていたね。次男だから長男を立てて出過ぎたことはしない、だけど次男としてやるべきことはいろいろあって、ちゃんとやったんだ。喜多流や粟谷の家を支えるということね。次男としての苦労もした、その半面、次男だから割に自由に創造できる面もあったのね。非常に楽しそうに能をやっていたよね。

?山崎先生の方が菊生先生より年上なんですよね。


写真 左 粟谷明生と山崎有一郎 録画後

p>山崎 そう。今年僕は96歳ですよ。もう能楽界で私より年上の人は誰もいなくなったね。
六平太先生や実先生、古い人の能を観ている人がだんだんいなくなってきたね。
 飯田橋3丁目にあった舞台なんか知らないでしょ。僕が最初に稽古に行ったのはそこだったんだよ。僕が初めてそこに行ったのは5つか6つの頃のことだよ。11月の終わり、雪がちらちら降っているときだった。その舞台のそばに木田建設事務所というのがあって、それは僕の親父の知り合いの事務所なんだ。僕の弟が生まれるときで、僕と妹がその木田の事務所に預けられることになって、飯田橋で人力車に乗ったんだ。「木田」といったのに、「喜多」と間違えて、喜多の舞台に連れて行かれてしまったんだよ。入ると右側が応接間のようになっていて、六平太先生と奥様がおられてね。僕がお二人にご挨拶をするとどういうわけか入れてもらってね。それで晩になって、八時、九時になる。「坊ちゃん、お腹すいたね」「はい」と言ったら鍋焼きうどんが出てきたんだよ。奥さんたちも困ったと思うよね。布団も敷いてくれてね。翌日になって親父が飛んできて六平太先生にぺこぺこ頭を下げているんだ。何でお辞儀をしているんだろうと僕は思ったけれど、それは喜多と木田の間違いだったんだね。この話、僕はほうぼうで書いているけれどね。六平太先生との最初の出会いですよ。そのあと、稽古に行くようになったんだね。
 その時分は喜多さんには伊藤千六、福岡周斎とか、高林吟二とかそうそうたるメンバーがいましたよ。あとで喜多流の幹部になるような人たちもね。そういうことを知っている人はもういなくなっちゃったんじゃないかな。

?そういう話をまた今度いろいろ聞かせてください。今日はありがとうございました。

メイキングNHKテレビ 「芸能花舞台」 その2投稿日:2018-06-07

メイキングNHKテレビ 「芸能花舞台」 その2

?明生さんの出版された「粟谷菊生・能語り」の中で、そんな謡を謡っているようじゃ女を口説けないぞと、よく注意されたというお話が出ていますね、これがいい話だなと思いまして…。


写真 読売新聞に掲載された「粟谷菊生・能語り」著 粟谷明生

明生 え! 今のこと…放送で言うの?

?それぐらいだったら。お人柄も出ますし。よいと思いますが…

明生 いやだな?。

山崎 でも菊生さんという人はそういうことをよく言った人なんだよ。

明生 軽妙洒脱というか。

山崎 そういう話はたくさん聞いているねえ。

○浮きの謡い方

?謡い方でいえば、たとえば、『羽衣』の最後、「かすかになりて、天つ御空の・・・」の謡い方を実先生が変えられたとか。

明生 昔の喜多流は浮き(謡の途中で音を浮かし少し高くすること)が早かったんですよ。
例えば『羽衣』の最後の場面「かすかになりて」を今は「なりい?」と一回のウキ(浮く音)、昔は「な?あり?い?」と「なあ」と「りい」を浮かしています。上がるところをできるだけ少なくしようとなさったのが実先生のお考え。昔はウキが二字前とか三字前から上げるものですから、音が上がってつってしまう傾向になります。謡い手は高い音まで上げなければいけないから当然苦しいわけです。でもその苦しさが聞いている人にはいいんだよ、と父は言うんですね。祖父の益二郎とか十四世六平太先生の時代はみんなそういう風にウキを早くしてやっていたのです。


写真 粟谷菊生

山崎 それを実先生が謡いやすくしたということでしょうね。

明生 そうですね。謡いやすいですよ。

山崎 シンプルにしているんですよ。昔の謡い方のほうが言ってみれば芸術的なんだよ。だけど、そんな謡い方ばかりでは普及しないから、なるべく謡いやすい簡単に謡える謡にするというのが実さん。こういう考え方は実さんの偉いところだね。だから実さんの時代に喜多流の流儀の人がだいぶ増えたんですよ。これは大事なことだと思うよ。

明生 そうですね、芸術性から普及に、それが実先生のやり方なのですね。

?そうすると、謡いやすくはなったけれど、ちょっとシンプルになり過ぎたというのがあるのでしょうか。

山崎 菊生さんの言葉で言うと、花(華)がなくなったということね。

明生 そうなのでしょうね。山崎先生のおっしゃるように、シンプルにさせるのは普及させるためだったのかもしれませんね。
特に大ノリ(謡い方のひとつ)は実先生のやり方ならば、わりと簡単に謡えるんですよ。普及するためにはいい手法なのかもしれませんね。

山崎 実先生の時代に流儀の人が増えた、これは大きいことなんですよ。謡本も新しくしたしね。そういう意味では実先生は中興の祖ですよ。それは実先生の功績だと思いますね。


写真 右 粟谷益二郎と菊生

明生 謡本を読み易い字体に変えたのは十四世喜多六平太先生です。実先生は昭和の改訂版に更に手を入れられましたが…。実は菊生の意識の中には六平太先生や実先生だけではなく、父親の益二郎の影響が結構多いのです。「僕は、おやじの謡い方を継承している」と自慢していましたからね。祖父の謡いは、今の謡い方とはちょっと違います。今聞くとクラッシックな感じを受けます。
友枝昭世さん以降の能楽師は全員実先生に習っているので、当然実先生風に謡います。
しかしそうは言っても昔の方々と一緒に謡うことはある訳でして…。ですから父と一緒に謡う時は、当然早いウキで合わせて謡いますよ。

山崎 益二郎さんという人は本当に謡のうまい人だったからね。昔は謡がうまい人が一杯いたんだよ。福岡周斎とか伊藤千六とかね。昔は謡がうまいというのが第一条件だったからね。今は舞のほうがどうとか、見える姿をどうとか言うけれどね、昔は謡ができなければ能役者になれなかったわけですよ。


写真 福岡周斎

写真 伊藤千六(後に伊藤裕康に改名)

?菊生先生は益二郎さんと六平太先生のを聞いていたので、そちらがいいということに?

山崎 そこが難しいやねえ。菊生さんは実さんに教わって実演者としてやってきた人。それでも六平太先生に心酔していたからね。

?菊生先生は謡の人と言われたのですか。

明生 そうですね…。でもそれは還暦過ぎてからではないかと?、その頃からピークを迎えたのではないでしょうかね。
能夫は「菊生叔父ちゃんの謡、そういうスタイルを完成させたね」と言っていますし…。

山崎 喜多流の謡というと、粟谷菊生型とか友枝喜久夫型とか言われてね、そういう連中が謡っているのが喜多流の謡になっていくんだね。そういう意味では菊生さんというのは喜多流でも大事な存在だったと思うよ。今はほとんどみなさん菊生さんの謡を謡っているんじゃない? なにしろ粟谷一門の人数が大いんだから。一番多くいたときは現役の能楽師が九人いたことがあったでしょ。ある時期なんか野球のチームができるぐらいだもの。喜多流の中でも粟谷勢力は相当なものだったよね。


写真 粟谷菊生

明生 はい、そうなれば嬉しいのですが、でも正直申しますと残念ながら菊生の謡を謡っているのは、ほんの少数なんですよ。
つまりそれほど難しい、ということなんでしょうかね。私は私なりに精一杯真似ているつもりなんですが、でも向こうにいる父から、そんなんじゃないよ、と聞こえてきそうでして…。

○地頭として活躍

?菊生さんはシテが舞えなくなってからもずっと地頭としてご活躍されましたよね。
地頭というのはお能の中では大切なものなのですか。

明生 それは大切ですよ。

山崎 今回の放送でこのことを強調しないといけないと思うよ。能の中では、シテと地頭が野球でいうバッテリーのようなものなんですよ。シテがピッチャーで舞い手、地頭がキャッチャーなんです。極端な言い方をすると、地頭がシテを舞わしていると言ってもいいんだ。だから本当の名人はみんな自分の地頭をもっていたよね。いいコンビみたいな人がいましたよ。粟谷益二郎が六平太の地頭というようにね。

明生 父の場合も友枝昭世さんの専属の地頭であったように思えますね。

山崎 それはどこでもそうなんです。名人上手にはね。たとえば金春流の櫻間弓川には本田秀雄とか、観世流なら観世左近には藤波順三郎とかね。近いところで言えば近藤乾三には高橋進とか、全部名人上手には名地頭がいたんですよ。

明生 うちの父は、「俺が舞うときにはどうするんだよ?」と愚痴ってましたよ(笑)。

山崎 そうね、菊生さんをうまく舞わせてあげられる地頭は難しいね。あなたも舞うときには一番舞いやすい地頭というのがあるでしょ。自分が主催する会なんかでは、自分の思うような地頭を選ぶべきだよ。これはもう、地頭を選ぶことによって能が違ってくるもの。ある場合は自分より上位の人になるかもしれない。でもそれはお互い肝胆相照らして、何でも意見が言えるような人でないとダメだよね。
 野球のバッテリーだから、たとえば、舞の緩急にしたって動きの緩急にしたって、全部地頭が握っているんだからね。どうにもならないよ、舞うほうは。

明生 父は友枝昭世さんの演能のほとんどに関わっていましたから、友枝さんも父には絶対の信頼を寄せていましたし。「もう菊生先生に丸投げしておけば、ちゃんと僕を舞わせてくれるから安心なんだ。囃子方も僕が細かく言わなくても、菊生先生について行ってくれるから、もうそれでいい」とも仰っていましたからね。

山崎 そういう意味では、菊生さんが亡くなって一番打撃を受けているのは友枝さんだよね。

?それで、今回は友枝さんがシテで、菊生さんが地頭の『井筒』を映像として見ていただこうと思っています。序之舞の後のところでいいでしょうか。

明生 よいと思いますよ。よく録画されていて、父の声が十分聞きとれれば、という条件でね。父の謡の特徴は、音の高さを上手に調整するので、続けて謡う役者や地謡もとっては音がとりやすいのです。こんなこと言っても判らないですかね?
シテからも、謡いやすい舞いやすいというお褒めの言葉はよく聞こえてきましたよ。
父の謡は声量があり音域が広いので、音をどんどん上げていっても平気なんですよ。
『井筒』の「寺井に住める…」の「寺井」の節扱いも、今は一度しか上げない謡い方ですが、父のは三回も上がってきます、これは父だけですが。
まあ、このように我々が習ったものと違う謡い方であっても、リーダーの地頭には全員揃えてついて行く、合わせる、それが地謡の鉄則ですから、みなさん合わせますよ(笑)。
父が父の謡いたいように引っ張って行く…。みんな必死に大きな声で高い音を出して、そこで生まれる、臨場感と興奮、そこをねらっているんですね。
これがまた不思議なんですけれど、上手な地頭だとまわりも上手になった気になる、そう聞えるようになる、錯覚かもしれないのですが(笑)。
ところで、これはいつの録画ですか。


写真 粟谷菊生

?1996年のものです。

明生 みんなで大きな声で謡っているのですが、マイクのポジションもよかったのでしょうね、父の声が私にはびんびん響いてきますよ。視聴者にお判りになるかな?

山崎 これは得がたいね。やっぱり僕は長年喜多流を聞いているけれど、菊ちゃんの謡いはいいよ。

明生 ありがたいお言葉です。

山崎 地頭がいいってことはね、菊生さんは自分で舞っているからいいんだね。自分が舞っていない人の地頭はよくないんだよ。菊生さんは地頭で謡いながら自分でも舞っているよね。だからシテは舞いやすいんだ。

?あ、そういうことですね。自分が舞いやすいように謡えばいいわけですね。

山崎 そうです。だから地頭というのがすごく大事になるの。他の流儀で名地頭と言われている人でも、いつも地頭ばかりやっているけれど、どこかちぐはぐさを感じることがあるんだよ。それはその人が立ち方をやっていないからなんだ。だから立ち方ができる地頭じゃないとダメ。今やっていなくとも、かつてはやっていたという人でないとダメなんだね。
 そういう点では、喜多流はほとんど地頭専門という人はいないね。みんな舞っているね。

明生 そうですね。喜多流ではほとんど地頭専門という人はいませんね。実先生がむしろ型を重視されましたから。全員舞えなければダメだという教育でしたから…。


写真 地頭 福岡周斎の地謡
右より 大島政允 福岡周斎 粟谷明生 谷大作 梅津忠弘 出雲康雅

山崎 僕らが子どもの時分にね、例えば謡のうまい福岡周斎という人がいたんだよ。だけどあの人は舞わないんだ。独吟はすばらしいけれど、地頭をやらすと、あいつの地頭では舞えないという人が出てきたんだ。なぜだろうなって、僕は当時学生だからよくわからなかったんだけどね。だんだん、ああそうかと分かってきた。実際に能を何番も舞っていなければダメなんだよね。
今の喜多流の地頭を見るとほとんど立ち方ができる人がやっているからいいと思うね。それはある時期から実さんがそういう風に仕向けていったんじゃない。だから今の喜多流はそういう意味ではいいんじゃないですか。

メイキングNHKテレビ 「芸能花舞台」 その1投稿日:2018-06-07

メイキングNHKテレビ 「芸能花舞台」 伝統の至芸 粟谷菊生 
***その舞台裏話 ゲスト 山崎有一郎と粟谷明生が語る***

○前置き
この度、NHKの芸能花舞台・伝統の至芸で、没後三年となった粟谷菊生を取り上げていただきました。放映は平成21年10月22日(再放送:同10月25日)。
菊生の舞台映像とともに、葛西聖司アナウンサーのご案内で横浜能楽堂館長の山崎有一郎氏と私、粟谷明生が、菊生の芸風や思い出を語る内容です。
この制作に当たり、NHKのディレクター安里恭幸氏と数回の打ち合わせ、山崎氏とはご自宅にお邪魔してお話を聞かせて頂きました。いろいろな昔話や楽屋裏話が飛び出しましたが、残念ながら時間の都合で放映されたのはそのごく一部です。
そこで打ち合わせ中に出た面白い話、貴重な話をここに再現し、舞台裏をご覧いただきたいと思います。これを読まれて再度、ビデオなどで放送をご覧いただくと、面白さも倍増するのでは、と思います。

写真 録画当日 右より 葛西聖司 山崎有一郎 粟谷明生

○二人の師

?粟谷菊生さんは二人の師匠・名人十四世宗家喜多六平太先生と十五世宗家喜多実先生に習らわれましたね。お二人の芸風の違いはどんなものだったのですか。
菊生さんがお二人に習って苦労した話を、ご自身が語っているインタビュー映像を紹介したいので、よろしくお願い申し上げます。

山崎 喜多六平太先生の芸風は、ほわっとした情の人だね。実さんはカチッとした古武士的な強さを持って、知の人ですよ。古武士的なキリッとした感じというのは、僕は喜多流の流是でもあると思うよ。
 六平太という人はものをあまり考えない人なんですね。考えないで体で舞っている人。考えなくて出来る人、ということね。だから観る方が勝手に解釈して可愛いとか、面白いとか思うんだ。あの人はそれを意図してはやっていないと思う。それでも観る方は何となく暖かいものを感じたりする。名人芸の域にいかないと、こういう風にはなかなかできないですよ。


写真 
第一回能楽渡欧団、ローマ駅にて 喜多実先生と粟谷菊生(左)

 

実さんはそれに対してとても理知的、だからとてもわかりやすくて学生に人気があった。ふわっとした芸なんていうのは、僕らみたいに長く観ていればそういうものか、と思うけれど、若い学生が初めて観たら何のことかわからない、仕方ないでしょう。
そこへいくと実さんが、例えば『海人』で「さすが恩愛の故郷の方ぞ恋しき、あの波のあなたにぞ我が子やあるらん…」と、さっとサシの型をして右手で遠くを指す型をすると、そこに人がいるように見える、そうと分かる、そういう納得させるような型をするんですよ。それが当時の若者に非常に受けたのね。だから、実さんには学生のファンがとても多かった。他の能は何やっているか分からないけれど、実さんのはよく分かるってことでね。
観て分からないものにはファンはついて来ないからね。キリッとしまる古武士的なところも学生や若い人には非常に魅力的でね。実さんにはそういう意味で、若い愛好家を増やしたという功績があったのね。『羽衣』だとあの問答のところ、偽りは人間社会にあるというところね。

明生 まず先に天人(シテ)の舞楽を見せてもらわないと羽衣は返せない、という白龍(ワキ)に対して、天女が「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」というところですね。

山崎 ああいう理屈っぽいところになってくると、実さんの芸はキーッと光ってくるんだよ。六平太先生はここをほわほわとやってしまうけれど、実さんはどうしても羽衣を返さなければならないようなものをちゃんと作ってくるからね。こういうところがとても分かりやすくて、理屈っぽい学生には受けたの。実先生の芸というのは合理的だったと思う。そういうと実先生は嫌かもしれないけれど、結果的にそうなっていたと思う。
 それで一つ話があるんですがね。実先生に学生がいっぱいついてくるのを見て、実先生より少し若かった先代梅若六郎氏が、どうして実さんは受けるのだろうか、自分もああいう風にしたいと、僕に話をしたことがあるんだよ。でも梅若六郎という人は、そのような資質の持ち主ではないからね…、実さんのようにはなれないんだよ。


写真 喜多実先生と粟谷菊生(左)残雪の東京にて

?六平太先生の『羽衣』はかわいいと言われますが、実先生のはどうでしたか?
 また菊生先生のはどうでしょうか?

山崎 かわいいというのは六平太先生だよね。先生は身体がとても小さいから水衣や長絹を引きずってしまうんだ。それが何ともかわいらしいんだね。普通ならみっともないということなんだろうけれどね。もっと上にあげてやればいいのに、と当時は思ったもんですよ。


写真 『羽衣』シテ 十四世喜多六平太 大鼓 川崎九淵

明生 どうしてご自身や周りの方が装束に直しを入れなかったのでしょうかね?
父の話や、当時の写真からでも判りますが、長絹も長いままで、調整も敢えてしなかったようで、またそれでいい、という気風だったのかもしれませんね。父たちは、長絹とは引きずるものだ、それが素晴らしいと思っていた、と語っていましたからね。

山崎 僕も最初は、水衣や長絹は引きずるものだと思っていたね。だから、僕は何かに書いたことがあるのだけれど、短く着ている人のことを、あの人はつんつるてんだ、なんてね。
そうしたら、それは逆だったんだね。でも六平太先生の装束を引きずった姿をおかしいと思ったことは一ぺんもないものね。それが、何となくかわいいいんだよ。
 実先生のはね、かわいいというところはあまりないよ。全部が理に走っているから、きっちりしていて、納得はするけれど、かわいいという感じはしない。美しいというのはあるけれどね。
 菊生さんの『羽衣』はかわいいところがあるんだな。六平太風なんだよ。体は大きい割にとにかくかわいいんだ、菊生さんという人は。彼は六平太に心酔していたからね。

?具体的にどんなところが六平太風とか言えますか。

山崎 それはちょっと難しいけれどね。例えば、さっきの場面、ワキから衣を返してもらうところなんかね、六平太先生はかなり無造作でしたよ。菊生さんは割に慎重に受け取るね。そこはちょっと違うけれど、全体の雰囲気だね。
 菊生さんだって、演じるうえでは実さんに聞いた話や稽古を受けたことが、ずいぶん参考になっていると思うけれど、芯に何があるかというと、やっぱり六平太風だったと思うね。

明生 父は自分で言っていますけれど、小学校から大学までの勉強を実先生から教わって、大学院の内容を六平太先生から教えてもらった、と。だから、そういう芸風になるのでしょうね。

山崎 彼はね、とにかく六平太に心酔していたことは事実だよ。僕らがよく聞いたのは、昔、菊生さんが六平太先生のお共で釣りに行った話ね。六平太先生は菊坊、菊坊とかわいがって、よく釣りのお共に連れて行ったのね。葉巻をくわえ釣りをしながら、いろいろな話をしたんだね。それが六平太さんの芸談なんだよ。菊生さんはあんなこと聞いた、こんなこと聞いたと、僕らが学生の頃いろいろ教えてくれましたよ。その話が菊生さんの血となり肉となったと思うね。

写真 左 粟谷菊生と十四世喜多六平太

?それで言うと先ほどの、「疑いは人間にあり」の場面のところなどは・・・。

明生 「疑いは人間あり、天に偽り無きものを」の場面で、「天に偽り無きものを」と言うとき、相手(ワキ・白龍)の方をゆっくり向きながらやさしく諭すように謡うと「偽りはないわよ」という風に見えるけれども、正面向いて謡うと「天に偽りはないのよ、そんなことも知らないの!」と、少し冷たい感じになります。二通りどちらでもいいのですが、僕はやさしく見るほうが好き、と父はいつも言っていました。型付にはどっちを向かなければいけない、というようなことは書かれていない訳でして…。どちらをやっても、先生にそれはいかんと怒られることはありません。そこは自由ですね。

山崎 その辺の話は放送にいいんじゃない? とてもいいと思うよ。

○菊生さんはサービス精神が旺盛だった

山崎 菊生さんは、能をかなり演劇的に解釈する人なんだよ。感情を入れようとするんだね。だけどやたらに感情を入れても能にならないから、ちょっと型を作るんだよ。おそらく型付にはないものだと思うよ。自分で感情を入れるから型ができちゃうんだ。だから、他の人よりあの人、型が多いと思うよ。自分でいろいろなことを考えて、ちょっと向いてみようとか、手を出してみようとか、そんな型付にはないことをやっている人なんだよ。明生さん、そんなことを本人言っていない?

明生 そういうところはあるかもしれませんね(笑)。

山崎 あるよね。確かにあるんだよ。そこらが面白い。あの人の魅力なんだよ。

明生 父に「『卒都婆小町』の橋掛りの柱に手を添える型、あれはどうして?」と聞くと、「駅の階段を上がったお婆さんがそうしていたからね。参考にしていただいちゃったよ」なんて言っていました。

山崎 へえ、そう。それで、ちょっとやり過ぎるときもあるんだよね。菊生さんの舞台がすんで、僕が菊ちゃんに近づいていくと、何か言おうとしているな?とすぐにわかるんだろうね。こちらが言う前に、「ちょっとやり過ぎまして…」なんて言うもんだから、僕らはもう何も言えなくなる。
 そういう意味では菊生さんという人は本当に舞台を楽しんでいる人。舞台そのものが楽しい。自分が楽しむことによって、観るお客さんも楽しんでくれる、そういう考え方の旺盛な人だったよね。能楽師みんながそうだったら、能というものを本当に楽しくやっていたら、もっとお客さんも増えると思うんだよ…。その点でも、菊生さんというのは典型的な能役者だと思うよ。もったいないね、ああいう人がいないというのは・・・。
 舞台に立つ人はみんなそうでなくてはいけないと思うよ。ところが能役者は見せてやるみたいな偉そうなところがあるんだよ。そうじゃなくて、何もかも迎合的になることはないけれど、お金を出して観に来てくれるお客さんに、少なくともその時を楽しませる、サービス精神がないといけないと思うんだよ。何も媚びることはないけれど、みんなが楽しく面白い舞台にしなければ…。型通りにやって、はいそれでお終いだったら面白くないよね。型付はあるけれど、ちょっとした工夫で大変面白く映ることがあるわけですからね。そのことに努力しているか、していないか、というのでは違いがある。僕は、そういう意味では菊生さんというのは最大のサービス家だったと思うよ。自分のためじゃないよ。お客さんのために本当にサービスしていたと思うね。
 その点、お兄さんの新太郎さんという人は型通りきちんとやる人だったよ。それは粟谷家の長男だからね。粟谷家に伝わっていること、喜多流に伝わっていることを、ちゃんとやるということを非常に頑ななまでにやった人だと思う。粟谷の跡取りだからね。
 菊生さんは、俺は次男だから少々はずれていたっていい、面白く見えたほうがいいんだからという考え方、お客のためにやるんだという考え方があったと思うね。

○『羽衣』をちゃんとやれるか

?番組では2000年の『羽衣』の映像を観ていただきます。

明生 天女の頭の上に載せる冠を天冠(てんがん)といいますが、そこに瓔珞という垂れ下がった飾りがあります。「天女役を勤める能役者はこの瓔珞が出来るだけブラブラと揺れないように! それには腰を安定させ、運びをスムーズにすれば瓔珞は振れないんだよ」と、父はいつも言っていました。しかし残念ながら、晩年の映像では微妙に動いていますので、きっと父としては不満だろうと思います…。どうしても高齢になると、体力が衰えてきて揺れてしまうのは仕方がないことですが…、私もその内にそうなるのでしょうね…。
『羽衣』は能楽師だったらいつでも舞える身近なポピュラーな能ですが、父は「『羽衣』をちゃんと舞える能楽師がいま何人いるだろうか?」と言っていました。


写真 十四世喜多六平太先生と釣棹を見る粟谷菊生

 『羽衣』の舞台ははじめは三保の松原ですが、最後は天女がだんだん天、月の世界に舞い上がって帰っていきます。長絹は天女の翼だ、翼で浮遊して舞い上がっていくんだ…と。小書の「舞込」はその部分がより強調される演出です。長い橋掛りをうまく遣い、くるくると回転しながら上がっていく様子を見せます。
 最後、「愛鷹山(あしたかやま)や富士の高嶺・・・」と地謡が謡うときには、かなり天高くなっているわけです。六平太先生はそこで、「つま先立ちして伸び上がれ、天上から下界を見下ろす気持ちで…」と仰っていたといいます。
私が「愛鷹山や富士を見るんだね」と父に言いましたら「バカ、富士山を見るんじゃないよ。どんどん小さくなっていく白龍を見るんだよ」と言われたことがあります。羽衣伝説の天女と白龍、神と人間のつながりを描いているんですね。単に愛鷹山や富士山を見て、とやっているようじゃ?だめ、つまらないだろ、こういう教えなんですね。
 ですから、この二の松での型、父も私はもうこれ以上前にかかったら倒れてしまう、というほど限界ぎりぎりまで前のめりになって下界を見下ろす気持ちで演っています。この辺が見る人の想像をかき立てるところではないでしょうか。ワキの宝生閑先生も月世界、天界を見上げる風情で最後のワキ留めをなさっていますし…。

○謡における色気

?謡10年、舞3年と言われるようですが。

明生 これは特に菊生の言葉というのではなく、よく言われることなんですよ。

山崎 謡は能の第一条件ですからね。

明生 謡の方が難しくてということです。

?菊生先生は謡でどのあたりにこだわられておられたのでしょうか? 色気ということについてお聞かせ願いたいのですが…。

明生 色気と一言で言われても難しいのですが・・・。確かに、父はよく「色気のある謡を謡え、色気のある型を…」と言っていましたね。お酒が進むと、色気がエロケに変わっていきまして…(笑)。いまの謡にはエロケがない!と始終こぼしていましたよ。
 先ほどの、謡10年、舞3年ということを補足すると、舞の方は3年もやれば形にはなるけれど、謡は3年では声は出るようになっても、相手役や周りを納得させる作品としての謡はできない、舞台の総てのお相手を納得させ、お客さまにもアピールできる本物の謡、それを習得するには最低10年はかかるということです。大きな声を出して、書かれた文字を読むだけではなく、詞章の表現を伝えるという、能役者の気持ちを込めていかに伝わる謡が謡えるかが大事でして…。
 父は、「女をくどけるような謡、やさしくも説得力ある謡を謡え」と、しきりに言っていました。「ぶっきらぼうにくどいても女は落ちない…」、と。
ですから「菊生の謡は色気があるね?」とか、「かわいい女に化けちゃいますね」などと言われると、「そうだろう」とすごく喜んでいましたよ。


写真 鏡の間にて「羽衣」シテ粟谷菊生

我流『年来稽古条々』(25)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(25)

??研究公演以降・その三

  『求塚』で地謡の充実

明生 第三回の研究公演では、『求塚』を取り上げ、地謡の充実をテーマに取り組みました。友枝昭世師にシテをお願いし、我々は地謡を勤めたわけです。それがメインで、私は『松風』の舞囃子、能夫さんが『知章』の仕舞、父は『谷行』の素抱という珍しい小書の仕舞を舞ってくれて、石田幸雄さんに狂言『抜殻』という番組構成でした。平成五年五月、もう十六年前ですよ。あのころ地謡の充実を、と考え企画したわけですが…。

能夫 自分たちが主催する会で、シテをやらずに地謡を謡います! なんていう人は、それまでいなかったよね。

明生 一番でも多く舞いたいと思うからこそ、苦労して会を主催するわけですから、普通はありえない。地謡にまわって、シテをしないことは、一回舞うチャンスをつぶすことですからね。それを敢えて能夫さんはやろうとした。成果はどうあれ、地謡の充実を掲げることに意義があるとしたことに間違いはなかったと思いますが、自画自賛かな?

能夫 シテがどんなに舞台で頑張っても、地謡が充実していなければ、その作品は成立しない。シテと地謡をどうつなげていくか、そういうことが肝腎なんだ。
僕は、喜多流の能楽師はシテを勤めるのはもちろんだけれど、物着せから地謡、後見、すべてができる、オールマイティの人間であるべきと思っているんだ。シテを舞っているときでも、地謡や装束付けの苦労がわかり、対応できる人材でなければいけない。すべての面でオールマイティなのが能楽師だ、とずっと思っていたからね。シテを舞っていれば楽しいけれど、それだけではない、あらゆる経験をしたいと。それで、自分たちが主催する会だったら何から何まで自分たちで設営できるからね。それでこういう趣旨の会を研究公演でやりたいと提案したのさ。

明生 舞がない、謡だけで勝負する曲。能夫さんが『求塚』という大曲に挑もうと決められて、よい選曲でしたね。痩女物の春の代表曲で、そう頻繁に出る曲ではないし、友枝さんは初演でしたが、我々が謡いますから…と無理にお願いして。当時父は「一番でも多く舞ったほうがいいのに、お前らは何を考えているんだ」と、憤懣気味でしたが…。

能夫 それは菊生叔父とすると、「俺がいるじゃないか!」なんだろうね。(笑い)

明生 それで能夫さんがコンコンと説明してね。今は菊生叔父ちゃんがいらっしゃいますよ。だけどそのうち…いなくなるわけですから、次のことを考え、地謡がしっかり謡える人材を作っておかなければいけないんじゃないですか?・・・と。残念ですが、今そうなってしまいましたね。

能夫 それは仕方ないこと、自然なんだ、当たり前のことで、次のことが見えてこなければいけないでしょう。菊生叔父だって地謡の重要性はわかっていて、晩年はとくにそのことを主張していたからね。当時、菊生叔父は元気で地頭を頑張っていて、喜多流の能を支えてくれていたけれど、将来は我々にそれを託したい気持ちはあったと思うよ。

明生 謡が大事、と盛んに言っていましたね。

能夫 研究公演の『求塚』では、まわりが全部先輩だったよね。大鼓の柿原崇志さん、小鼓の北村治さん、笛は一噌仙幸さん、脇は宝生 閑さん。いろいろと経験をされてきた人の知恵や力を拝借して謡ったという感じだったね。僕らが新たなものを創るというよりは、伝統的というか・・・。

明生 経験者のお力を借りて学ぶという・・・。

能夫 そう、お力を借りながら、自分も何か表現したいなという気持ちはあったと思う。観世寿夫さんの『求塚』の連続写真があるけれど、そこで打たれているのは北村治さんだからね。そういう経験をされた方々と対峙して謡いたいと思ったよ。あのとき、治さんから「死ぬ気で謡え」って言われたよね。こっちは精一杯謡っているのに。でも甘かったのかもしれないね。囃子方の経験に対して僕らなりの主張したい謡い方と、舞台上でのキャッチボールはあったことは確かだね。そういう囃子方とのぶつかり合いが大切で、それがないといけないだろうね。

明生 あのとき、地謡の充実を掲げてやった体験が、このごろ舞台で少しですが活かせるようになったかな、と思っています。この間、『須磨源氏』(青年能)の地頭を勤めて…。『須磨源氏』はシテを勤めたことがありますから、自分なりの舞台展開が見えてくる、すると自然と謡い方も変わってきます。

能夫 そう違ってくるね。経験は大事だよね。

明生 位取り、乗り具合、音の高低など、ある程度自信を持って主張できるのです。そうすると、その能のドラマを支えているのは、シテだけではなくて地謡の底力だということが、だんだん肌で感じられてきます。地謡は作品全体を包み込むような力を持たないといけない・・・と。
以前はただ頭で考えていただけで、体感出来ていなかったかもしれないのです。もっとも地謡の前列で謡うだけでは深いところの体感は難しく、やはり後列や地頭で謡うと責任感も環境も全然違ってきますから。

能夫 そうだよね。本当に地謡の大切さがわかるよね。

明生 それも、ある時期に「地謡の充実」を意識したからこそ大切さがひしひし感じられるのだと思います。
その後、私は『求塚』を披いていないのですが、能夫さんは平成十二年の粟谷能の会で演られましたね。地謡を謡い込んで舞うのと、そうでない場合の違いはどうですか?

能夫 うーん、それはね。あのとき地頭をやらせてもらったからできたことがすごくある気がする。後シテの「飛魄飛び去る目の前に」とか「鴛鴦の鉄鳥となってくろがねの」のあたり、親父たちのやり方は、テクニック的にはテンション高くすごいけれど、あまりその情景が立ち上がってこなかったような気がしてね。もっともそれはそれで素晴らしさはあったと思うけれど、そこに描かれているリアリティが欠如しているように感じたんだ。それに対して、友枝昭世さんは最新型を見せてくれる人でしょう。実先生、友枝喜久夫さん、父新太郎、菊生叔父が演っていた『求塚』の像があるとすると、昭世さんはそういうものはわかっているが、だけど自分はこのようにしたい、と最新型を示してくれる。

明生 最新型ですね、今風に変える力というか、今まで見落としてきたものに光をあてる、そういうお能創りですね。

能夫 今まではこうだったけれど、自分はこうやりたいという主張がある。親父たちには無かったもの。ただテンション高くやりましょうみたいな。それで素晴らしい面もあるんだけれどね(笑い)。僕はそういうものと違うやり方をしたいなと思っていたんだ。
 そのお能のなかにどういうことが描かれていて、だからこういう表現になるというのでなければならないと思う。右向けと言われたから右向くというのではなくて、どうして右を向くのかを意識する。たとえば「風の行方をご覧ぜよ」で、型付に目付柱の方を見ると書いてあるから、そこを見る、それだけでは伝わらないよ。リアリティが無いじゃない、芝居心がないでしょ。風の行方を見る、風がふーっと通っていく、それに合わせて顔を動かす、とやらなければ。謡にしても、抑揚とかテンションだけでなく、一つ一つの言葉の意味を感じ表現しなければ・・・、そういう親父たちとの落差をとても感じた。
研究公演では『求塚』に関して、こうしてくださいと友枝さんに言えるほどの立場でもなかったし、そこまで自分も掘り下げていなかったけれど、そういうことは感じたね。だから次に、自分が勤めるときは、そのときに感じた経験が生かされたと思うよ。

明生 このことは、能夫さんが憧れた観世寿夫さんが目指したこととも通じますね。

能夫 そうね。何もしていないけれどある意味格好よくやってしまう親父たちの芸風と、寿夫さんたちのようにある主張もって表現していくという、僕は両方を観てきたから。

明生 友枝昭世さんも両方を観てこられて、自分はこうやりたい!をはっきり主張なさる。私はそこからいろいろ学ばせてもらうことが多いです。
私はまだ『求塚』を勤めていませんが、実は平成十年の大槻自主公演で、父に、「明生、いざとなったら舞えるようにしておいておくれ」と言われて代演のための稽古を受けました。そのとき研究公演での経験が助けになりました。結局、父は無事に勤めて、幸雄叔父が地頭で、能夫さんが副地頭、私も隣で謡わせてもらいましたが、研究公演の経験があったから、自分なりに自信を持って謡えました。大槻公演の客演という場で観客はもちろんのこと関西の三役の方も、喜多流の『求塚』とはどんなものなのか、興味を持たれていたとひしひしと感じました。私たちの地謡はこう、と自信を持って謡えたと思います。謡の重要性を意識した研究公演の『求塚』の経験が活かされている。だからこれからもどんどん意識してやっていきたいですね。
話はずれますが、『望月』のシテを勤めたあと、能夫さんに謡をもっと意識しなければ、と注意されましたね。『望月』は、ほとんどが科白、言葉ですから、正直、謡への意識がありませんでした。以前、故観世銕之亟先生に「ノリ地は語るように、科白はノリを意識して」と教えていただいたこともありました…。

能夫 語りというと、語りの調子があるけれど、そこに留まると謡がひと色になるということなんだろうな。僕もそういう謡をと、意識しているよ。

明生 「勁き花」(八世観世銕之亟遺稿集)に、銕之亟先生が「集団としての個性とは、個としての能役者の現代に生きる自覚と舞台に立てる役者としての身体とが稽古によって一人一人に培われてこそ、素朴な手織りの確かな舞台が出来、そのときにこそ発揮されるもの…本当の集団とは個々間に強い抵抗が在りながら一つの目的を共有する…」とありましたが、本当に今そう思います。

能夫 そうだね。個の力だよ。謡を大事に、個の充実。僕らが地謡の充実を目指しはじめたとき、周りの人は何か回り道をしているように思っていたかもしれないが…。

明生 それは回り道でなくて、通過しなければいけない道なのではないでしょうか。

能夫 長期的な視野に立つことって大事でしょ。

明生 そうですね。そして、ただ謡だけ充実すれば完璧かというとこれも片手落ちでして…。やはりたくさん舞う機会を作ることも必要で、『須磨源氏』で経験したように、シテを経験したからこそ謡える世界って、ありますから。シテと地謡、双方バランスよくが一番で、それが本物への近道です。だから極端はいけないかもしれないけれど。

能夫 もちろん両面が必要だけれど、今、喜多流全体としてみたとき、謡の重要性への認識を高めることが大事だと思うよ。謡への意識が希薄でしょう? その指針みたいなものがないよね。

明生 タイムズの対談で、梅若玄祥さんが、地謡は大事です、しかしその育成となると…と危惧しておられましたが、謡の育成というのは能楽界全体の問題でもあるようですね。他流のことは判らないので別として、喜多流として、そろそろ指導・育成の方法論を再考しないといけないと思います。間違えずに拍子をはずさない、だけではなく、謡の内容を深く知り、節扱いももっと細かく知ること…。どうも 喜多流は武士的なニュアンスが強く、竹をスパッと割ったような謡、とやや曖昧な言葉に甘えているように思えてなりません。それは教える方も教わるほうにも…。

能夫 そうだね。たとえば『班女』だったら「翠帳紅閨に枕を並ぶる床の上・・・」をどう謡うか。愛し合っていたときのことを思い出しながら、今は失われた恋を謡うわけでしょう。それを、下音はこの音、節はこう扱って、だけでは謡えないでしょう。

明生 『千寿』で「琴を枕の短か夜のうたた寝、夢もほどなく・・・明け渡る空の…」、抱き合って一夜を過ごし、夜が明ければ別れなければならない、その状況をどう謡うか。そのためには、もちろん経験も大事(笑い)、それから千寿と重衡がどういう間柄で、どういう生き方をしたか、その背景が身体を通して謡えるようにならないと…。

能夫 千寿はもともと頼朝の愛人でしょ。捕虜になった重衡が都に送還されるとき、慰めのために遣わされるわけで、それが恋をしてしまうのだから、複雑だよね、そう簡単には謡えないよね。

明生 そのあたりは、謡本だけでなく、平家物語にも目を通す。深い事情や、意味を知っているのと、そうでないのでは、謡の聞こえ方に違いが出てくると思います。詞章の読みも、能全体に描かれたことの読みも深く深くですね。

能夫 そう。だから源氏物語も読まなければならないし、伊勢物語も読まなければいけないわけなんだろうね。それと、他流はどういう表現をしているかとか、もっと広く音楽や演劇の世界にも関心をもってもいいよね。

明生 そういうことを意識して、早いうちから蓄積して、もちろん謡の技法の徹底した学習も伴っていかないと…、将来、間に合わないかもしれませんからね。

能夫 志と経験と外への関心、こういうことが必要だね。

明生 そういう意味では、地謡の充実を掲げた研究公演は、若い私たちに志があったと自負出来ますね。

能夫 そうだね。

明生 その後、平成十七年に研究公演を復活して、『木賊』(シテ・友枝昭世)で地謡の充実に再度取り組みまして…。

能夫 そして来年の十二月に、同じ趣旨で『檜垣』を友枝昭世さんにお願いし研究公演で取り組むことになったね。

明生 我々は地謡の大事さを意識して、微力ながらも、そこを確認する作業はやり続けていきたいですから・・・。

能夫 微力ながらも実践して、みんなもそれを目指そうよというメッセージを込めてね。

明生 十六年前の『求塚』がその原点になったといえますね。

(つづく)

美醜一如 粟谷能夫投稿日:2018-06-07

 あるところに長者が住んでいました。その長者の家の門口にある日美しい女性が現れ、その名を功徳天(幸福を呼ぶ神)といいました。長者は喜んで早速家の中に招き入れ、いつまでも留まるように願い出ます。すると、功徳天は「私には妹がおります。その妹と一緒なら」というので、長者がそれに応じると、やって来た妹は二目と見られぬ醜女でした。黒闇天(災害を呼ぶ神)といいます。
長者が「妹は困る、姉だけにしてほしい」と言ったところ、姉は「私と妹はいつも一緒に暮らしており、離れて生活する訳にはいかないのです」というので、困った長者は思案の末、結局二人を断ったというのです。

この説話は涅槃経に出てくる物語です。幸福と災害、或いは善と悪、この二つは別個の存在のように見えても切り離すことの出来ない一つのものであり、双方とも真実なのだと教え、姉妹を断った長者の思考は、いわば私たち人間の分別であり、分別はしばしば、真実を遠ざけ、ものの道理を不明にすると結んでいます。
お能でも同じような真実が描かれます。

『葵上』では、シテ六条御息所がワキ横川の聖の法力により「此の後またも来るまじ」と神妙に引き下がるのですが、「まず此度は帰るべし」と明らかに再来を予言する『鉄輪』のときよりも、一層重苦しい後味を感じます。六条御息所は深い教養に身を包んだ女性です。教養とか理性とかいうものは、人生の深刻な悩みの解決には大してプラスにはならぬばかりか、時にはマイナスに作用するもののようです。『道成寺』のシテのように髪を振り乱して日高川に飛び込むほどの行動を敢えてさせなかった彼女の誇りや理性が、いつまでも後悔と入り乱れて『野宮』のような陰鬱な苦しみを味あわせているのだとはいえないでしょうか。

これらに描かれる執心は一つのものにすべてをかける情熱というようなものに通じ、すべての女性が備えている本来は非常に美しい性質のものであると思います。その執心の対象が奪われさえしなければ、これらの悲劇も起こらなかったでしょう。

 人間はだれでも、心のうちに美醜をあわせ持っています。理性で醜さを消そうとしても、たやすく消せるものではないようです。おきびのように鎮まっていた醜い感情が、あるとき燃え盛り、あたりを焼き尽くすこともあるのです。人間の悲しさ、人間の真実。これを能は余すことなく描いています。そこには物質的な幸福より心理的な幸福を求めている人間の心情があるのでしょう。

阪大機関誌「邯鄲」への寄稿 平成21年度投稿日:2018-06-07

与えられること、与えること

                          粟谷明生

 私は高校生までクラブ活動なるものをしなかった、いや出来なかった。それは「能の稽古や催しが優先!」と父から釘をさすように言われた言葉が忘れられず、またそれを納得していたからだ。

しかし大学に入り「一度の人生だ、後悔したくない」と夏は山、冬はスキーを楽しむ愛好会を選び入部してしまった。

夏合宿は一週間、キスリング(リュックサック)に30キロ近い装備を背負わされ縦走する。山を歩くことは楽しく、テントでの生活もいいものだ。しかし時には、苦しくてバテてしまい歩けなくなる者も出る。その時はバテた人の荷物は周りの者に分担されるのが、山のルールだ。

バテた者は周りに詫びながらも荷物が軽くなるので内心ほっとする。周りの者はさらに重くなるので辛いが、気持ちは暗くならない。助けてあげる、どうにかしてあげたいという気持ちが、体力や心に活力を与え余裕が生まれ、不思議と力が湧いてくる。

作家の倉本聰さんの「人は他人から与えられることはうれしい。だが、与えることはもっとうれしい。いや、人に与えること、人の役に立っているという意識こそが、そも人間の生き甲斐なのではあるまいか…」を読んで私は、学生時代の山のクラブのことを思い出した。

阪大喜多会へ入部した当初の一年生は、何もかもはじめての経験で、周りからいろいろと教えてもらい成長していく。若さなのだろう、その成長の早さには驚かされる。

そして一年、あっという間に過ぎ、教わる者は、教える者へと早変わりさせられることになる。
「この間まで何も知らなかった私がもう教える側ですよ」と、笑顔ながらも驚いている学生を私は何人も見てきたが、皆きっちりと次の世代に伝えてくれていて、本当にうれしい。

さて、いざというときの山でのあの力の源、余裕はどのように生まれるのだろうか?

それは、日頃のトレーニングと経験だ。余裕は日々のお稽古と発表経験がものをいう。山も能も、日頃のトレーニングと稽古が大事で、その継続と蓄積が活力の源だと思う。

常に教わり、教え、次に伝える、そして教えることの重大さと面白さが判ったときそれがホンモノになる、のではないだろうか。
与えられるものよりも、与える力、人に役立つという意識、阪大喜多会は能を学びながら人間関係をも学べるよいところだ。

私も今ようやく、与える、指導する喜びを味わえる年代になってきている。あの山のクラブの初心を忘れないで、能を学生に楽しく伝えていけたら、と思っている。
                     (平成21年5月)

演劇における演出ということ投稿日:2018-06-07

ロンギの部屋

演劇における演出ということ

喜多流能楽師 粟谷明生
女優     金子あい
舞台スタッフ 伊奈山明子

今年(2009年)の5月2日に、「六道輪廻」という演劇を観に出かけた。
主演に和泉流狂言の人間国宝・野村万作氏、演出および出演に野村萬斎氏、脚本が笠井賢一氏。また、麻実れいさん、若村麻由美さんといったお名前がある。他に狂言師のお仲間、深田博治氏、高野和憲氏、月崎晴夫氏も出演されている。そして、私の弟子で女優の金子あいさんが出演し、演出助手として伊奈山明子さんもかかわっている。そこで、観劇の後、「六道輪廻」に関わった二人の弟子と、演劇について語り合い、面白い話も出たので、ここに書きとめておくことにした。

(粟谷明生)

■役者と演出家

粟谷 現代演劇に関わっているお二人と、能と芝居みたいな話ができれば、と思いまして… 。能では、シテが出演も演出もすべて一人でやりますが、現代演劇ではそれを分業しているわけですね。分業するよさも知りたいし、逆に分業しなくてもいいところもあるでしょう? そこが知りたいですね。

金子 そういえば、演出家はいつから職業としてあるんでしょうかね。 現代演劇に関して言えば、興行の規模が大きいほど分業されていますよね。小さい劇団なんかは人手もお金もないから皆で力を合わせて何でもやらなければならない。あえて共同演出なんというのもありますよ。ひとつ言えることは、古典でなく、新作を創る場合はある程度客観的な 目が必要なんじゃないかしら。つまり主観に埋没してしまうと、その作品をお客さんが見たときにどう感じるかということが全く分からなくなってしまう。自己満足的なところで終わってしまう危険がある。 世阿弥の時代にも本当に演出家はいなかったんですか?今のような演出家というようなことではないにしても、誰か、客観的に見ていたのではないかなと。


伊奈山 実際に演出家はいなかったけれども、大名たちが演出家的な目をもっていて、ああだこうだと言ったのでは?


粟谷 確かにそれはありますね。大名たちは、彼らのパトロンであり、また良い目を持った観客でもあったでしょう。
そして演能者たちが、作品を上演するごとに観客の反応をみて、作品を練っていったのでしょうね。
粟谷明生


金子 長く続いている芸能は何百年とやっているうちに、これ受けないねというものがそぎ落とされていったんでしようね。最初はつまらないものもたくさんあったと思いますよ。だから、年月が客観性を持たせてくれたというか、そんなところがあるんじゃないかな。


伊奈山 そうですね。いまだに観阿弥・世阿弥の作品が上演されているわけですが、その間にそれらの作品もいろんな演出の変遷をたどってきたでしょうし、時代に合わなくて廃れたものもたくさんあるでしょうね。
喜多流は五流のなかでは最後にできた流派ですが、新進気鋭ともいえた江戸時代の喜多流にも、演出家はいなかったのでしょうか?


粟谷 演出家みたいなものの記載は伝書をみても無いですね。シテ方のセンスに任される…。それが座の長であり、最後には家元に責任がいく事になるのでしょうが…。所詮シテのやりたいように…。


金子 たとえば新作能を、突然、明生先生がシテでやることになったとします。1ヶ月の稽古期間で来月やりますということになったら、その能のおもしろさをどこで判断するか、シテとしてどうするかということになるでしょ。やっぱり自分のかわりに見てくれる客観的な目がある程度必要だなというときに、そこに演出家という分業でやる人が現れてくるんじゃないかという気がするんです。


粟谷 なるほど。

金子あい


金子 つまり新しい作品を短期間でよりよく創るための職人さんみたいなところがあるんじゃないかな。現在の能の上演作品は蓄積されて、能楽界全体のレパートリーになっているんですね。たとえば『船弁慶』を明生先生しかやらないわけではなくて、誰でもやれる状態になっている、みんなが曲をシェアしているんですね。そうすると自分がやらなくとも、誰かの演じるものを見ることができる。そして誰かが演じるものに協力して、自分も参加しながら、その作品を見ることもできるわけです。お互いに見ながらやれるというのは、長年続いている「劇団」としてのメリットじゃないですか。

■「芝居しろ」「ちゃんと謡え」とは?

金子 話は変わりますが、テレビで女座長の大衆劇団のことをやっていたんです。座長の娘が16歳で主演を務めることになって。子別れの話なんですよ。当然、座長のおっかさんが演出というか指導をするわけですよね。
娘の方は今風の顔をした、そう「モーニング娘。」にいるような可愛らしい女の子なんです。それが舌足らずで、「あっしにゃあ・・・」なんてやっているんです。お客さんがおひねりを飛ばしたりして。微笑ましいんです。
座長のおっかさんは厳しくてね、「ここが一番の芝居どころなんだから、もうちょっと芝居しなきゃダメだよ」とか、言っているんですね。それを聞いて、ん?と思って。16歳の未熟な女の子に、「芝居する」というのが何なのかわかるのかなと。私なんかずーっと未熟なので、未だに分からないし出来ない(笑)。「芝居しろ」だけじゃなくてもっと順序だてて教えたりしてもいいのに、と思っちゃった。


伊奈山 「見て、真似ろ!」という世界ですよね。


金子 そうやって彼女はやってきたし、娘もやっていくんでしょうけどね。


粟谷 「芝居しなさいよね」というのは非常に面白いね、私も「ちゃんと謡えよ」なんていいながら、「ちゃんと」って何?みたいなものを恥ずかしながら感じてしまうときがあるのですよ。


金子 それをちゃんと順序だてて教えて欲しいんですよ。


伊奈山 伝統芸能の世界にはそういう順序立てみたいなものはないんですかね。


粟谷 「芝居をちゃんとしなさい」と言われても、子どもはその芝居の「し」の字も知らない、いや薄々知っているのかもしれないが…、果たして合っているのか疑問。指導の言葉って気をつけなきゃいけないね。同じようなこと能楽師にも言えますね。だから、そこをちゃんと把握出来るようにクリアーしたいね。

■ベーシックなテクニック

金子 お芝居でもそうなんですけれど、見て盗めということになると、その見る側の資質だのみになってしまうところがありませんか?_
言葉は悪いですけれど、盗み取る力がある子は、明生先生がどうやっているかを見てどんどん吸収していくわけですが、もしかすると才能が隠れていても貪欲に学ぶという意識が覚醒していない人だと、いたずらに時間が過ぎていってしまう。花開くまでには時間がかかる。その人が覚醒するのを待たないとならない。もちろん目に入っているものはどこかに記憶されているんだろうけれど。人間の記憶って一度目に入ったものは一生忘れないんですってね。思い出さないだけで。今日一日に体験したことは私たちの脳味噌に全部入っているんですよ。


粟谷 そうか。今日こうやって話したことも全部。だけど人間、忘れるからうまくやっていられる、ということもあるね。(笑)


金子 そういう意味でいうと、「門前の小僧、習わぬ経を読む」というのはありますよね。習わなくても、見ていることが脳に蓄積されていて、だから家の子は他の子よりできるみたいなことがあるわけですね。それは絶対的な好条件なんですけれど。ただ、現代的な演劇とか他の芸能をやっていると、短期間で結果を出さなければならない場合も多いから、すばやく結果を得るために論理的な教え方をしてもらうということも必要になってくるんですよ。


粟谷 そうか、金子さんは論理的に教えてくださいって、よく言うね(笑)


金子 ハハハ、言いますね。年月を積み重ねなければ、身につかないということはもちろんありますが、能楽の方でも後進を育てるというときに、もうちょっと、ベーシック技術部分みたいなものをちゃんと論理的に教えてもいいのではないか。もう少し整理して積極的に使っていってもいいんじゃないかという気がするんです。


粟谷 そうですね、でも私自身がそのように教えてもらっていないので、どうしたらいいのかわからない、これが本音です。他流にはもっと合理的で論理的な指導法があるのかもしれませんが…。喜多流はその点については稀薄というか…。


金子 現場では俳優のテクニック的な部分を指摘されることは少ないかもしれないなぁ。


粟谷 テクニック的な部分は指摘しない?


金子 できて当たり前なんですけれど、役者によって技術的なレベルにばらつきがあっても余り論理的な指摘はしないような気がする。外国の演出家なんかだと細かく言う人もいますよね。古典をいろいろやっていると、発音とか滑舌(かつぜつ)とかに敏感になりますね。年のせいかもしれないけど、若手のセリフが聞き取れない時があります。


伊奈山 滑舌が悪いと、言葉がわからないから作品の内容もわからなくなってきますよね。


粟谷 私は大丈夫かな?


金子 お能の発声はちょっと違うので何とも言えないんですけれど。


伊奈山 私はオペラをやっていましたが、発音や発声にはとても細かい指摘がされますね。


粟谷 プロに言うわけ?


伊奈山 プロに言いますよ。オペラの言語はイタリア語やドイツ語ですから、日本人にとって非日常の言語ですからね、必ず公演の際には専門家がついて、歌詞の正しい発音やアクセントを教えます。
発声についていえば、肺や横隔膜、声帯の構造もしっかり勉強しますしね。西洋の芸能は理論に基づいて教えられますね。

伊奈山明子


金子 外人の演出家と仕事をしたとき、「アーティキュレーション(明確な発声の仕方)が悪すぎる、なんて言われて、口のまわりが筋肉痛になるほど指導されました。そのときは、ばかばかしく思うんですけれど、結局、後で色々役に立ちましたね。


粟谷 すごいなあ、それは。


金子 「S」の音とかね。

粟谷 どういうこと?

金子 「さ・し・す・せ・そ」のSの音をはっきり発音するということなんです。「し」なら、しの前に 「スー」(無声)というSの音がくっつく感じ。花咲くの「咲く」だったら、「(S)さく」のように発音するんです。これは新内の師匠にも言われました。


伊奈山 西洋の言語だったら、子音を発音するということは当たり前ですね。


粟谷 能もそうなのかな?


伊奈山 私の個人的な意見ですが、能は聴いていると、子音を立てて発音しているところがあるなと思います。
ちなみに「劇団四季」ではそれと逆に、日本語は母音が大切だ、ということで母音発音でやっていますね。たとえば、「キミは明生くんですね」というのを「いいああいおうんえうえ」って練習するんですよ。


粟谷 何だ、それ?


伊奈山 母音だけで発音させるんです。


粟谷 それは何か効果があるの?


伊奈山 日本語は母音が大切であるという理念で訓練しているようですね。


金子 言いにくい部分をそれで練習すると、言いやすくなりますよ。


粟谷 喜多流は発声については何もしていないね、ていたらくでしてね。正確に記憶し、正確にリズムに合わす、それで吉としているところがありますよ、もっと勉強しなきゃいけないね・・・私もだよ。


金子 長い年月、謡というものが醸成され、完成度が高くなって、お能独特な発声法は確立しているんでしょうが、その一番いい発声法はこうですよという論理的な教え方があるわけではないんですね?


粟谷  そうですね、口伝みたいなものに頼っていますね。能は面をかける曲もあるでしょ、そうなるとこもった声に聞こえます。それは仕方がない、それでいいんだ、と思っている人いるのですよ。やはりはっきりと伝わらなければね?私、知らない曲で何を言っているのかさっぱり分からなくて、初心者の気持ちが判ったことがありましてね(笑)


伊奈山 先生でもわからないことがありますか・・・。


粟谷 僕は今出来る限り声が正確に力強く伝わるようにと心掛けていますが…直面物でたとえば『安宅』の弁慶は面をかけませんからよいのですが、面をかけるものは、毎回同じ面を使用するわけではないので、面当ての具合が悪く、しまった!口が開かない、なんていうときもあるのです。あ??と悔やむが時すでに遅しですよ。


伊奈山 現代人にとって能を理解するのに難しいな、と思われてしまうのは独特の発声に加えて、内容ですよね。
能の本説といわれる作品、たとえば「源氏物語」、「平家物語」といったようなものを昔の人は、そういう物語の内容を分かっていたから謡も聴きとれただろうし理解もしやすかったと思うんですよね。


粟谷 そうですね。
でも、諸大名やその取り巻き連中は分かっていたかもしれないけれど、その下の強制的に見せられていた連中はがどうだったろうね?

伊奈山「平家物語」でいえば、琵琶法師が諸国を渡り歩いて聞かせていたわけですから、庶民にも十分知る機会はあったでしょうね。「源氏物語」も、たくさんの写しがあったようですから、室町期には庶民までとはいかなくても相当広まっていてもおかしくないと思いますよ。
それに『道成寺』のように、民俗的なものも能の題材になっているわけですし・・・。
少なくとも、今の我々より能の内容が身近だったのではないでしょうか。


粟谷 確かに現代の人よりも室町や桃山の時代の人のほうが能の物語の内容を理解していたことはあるでしょうね。
室町から安土桃山時代というのは、日本史で一番すぐれたものを創り出した時代で、面や装束を見ると納得させられますよ。江戸期の特権階級の武士だけというのではなく、民衆を意識して一体となっていた時代ですからね。
江戸期は、きめられた雛型に押しこめられ自由な発想がなくなる、面や装束も創作から模写へと。模写がダメということではないですよ、模写も大事です。結局、長年の継続、変えずに守るという日本の伝統というものが、ひな形が好きなのです、でもやっぱりあの室町、桃山時代のエネルギーみたいなものが一番すばらしいと思いますよ。
たとえば海で死んだ男の顔を想像して「蛙」という表情を打つ、すばらしい想像じゃないですか。

■健忘斉の伝書を読んで

粟谷 喜多流の中興の祖といわれる九代目古能健忘斉の伝書を読むと、健忘斉がどうしてこんなに優れているのか、江戸時代初期に承認された新参者の喜多流が、何故他流を超えて健忘斉があれほど隆盛をふるえたのか?と不思議に思ってね、


金子 なぜかしら?


粟谷 あの時代、観世大夫も宝生大夫もお若くて、下掛の金剛も金春も喜多とは親戚関係にあるからね。時期が良かった。健忘斉は面の善し悪しの見極めの面利きの書物を書いたり、謡い方を説明した「悪魔払」を書いたり、話しているわけ。喜多流は新興勢力だったけれど、健忘斉のお陰で隆盛になり、その後の者も助かったことでしょう。そしてもう一つ忘れてはいけないのが、その次の十世十太夫寿山という人。「先生はこうおっしゃいました」と詳細に書き留めたものがありますが、その業績を評価したいですね。


伊奈山 「申楽談儀」と同じ形式なんですね。


粟谷 能楽の研究では第一人者の表章先生が、喜多の研究をなさったのは、新参者ではあったけれど、健忘斉が書き残した物に興味をひかれたのではないかと思うね。世阿弥の「花伝書」はとても素晴らしい。しかし、その後書き残す作業が少ないのは残念ですね。健忘斉は舞台のことをすべてを網羅して何から何まですべて書いたわけだよ。精神論までね。


伊奈山 世阿弥の最大の功績は伝書を書き残したことですよね。
世阿弥は、観阿弥や息子の元雅の優れた芸のことを書いていますが、私たちはその芸を観ることはできないですからね。
世阿弥が書き残したからこそ、彼らの芸がどうであったか、どのような考えにおいて上演していたか、600年の歳月を経て私たちが知ることができるわけですからね。


粟谷 だから、演じるだけ、話すだけでなく、それを書き残すことの大事さを私は言いたいわけ、観世寿夫さんはすぐれた能役者でありながら、書き残した資料の多さには驚くよ、すごく多いから、それがまた偉大でね。


金子 でも、300年ぐらい経ったら、中興の中興は明生先生、みたいなことになるかもしれませんよ。(笑)
私、この間、仕事で今様を歌わされたんです。今様なんか知らないのに・・・。それはそうとして、今様って「梁塵秘抄」に中に、今様というものを書きとめておこうと思うというくだりがあるんですよね。


粟谷 後白河法皇がね。


金子 有名なところらしいですね。要するに、文章や名画は書くことで後々まで残る。だけど歌や芸能は形に残らない、 それは非常に悲しいことなので、今様というものを書き留めておこうというんですね。芸能に携わっている人なら・・・


粟谷 後白河のその気持ち、わかるな?。


金子 私なんかも、まだ若いから形に残さなくたっていいよ、今やれればと思っていたんですけど、もう少ししたら、形に残すことにものすごく執着を感じるようになってくるんだろうなって。明生先生は私より13歳上だから、たぶんそういうところにだんだん来ているんだろうなって。


粟谷 そう、だからいろいろ書き残そうと、やり始めているのさ。この対談もそのひとつですよ。


金子 「梁塵秘抄」は今様を書き残してくれたわけですけど、残念ながらその節までは残っていない。誰かが復刻したといわれるものを、私のような役者が手探りでそれらしく、歌って見せたりしているわけです・・・。


粟谷 それが本物でなくても、本物に近いものでも、やるしかないのだね。
 

■序破急理論と心気精

粟谷 今、寿山の伝書を読んでいるのですが、序破急理論のところでの説明が面白くてね。一般的には序破急は、導入・展開・解決と説明されているでしょ。でも伝書では、序は物事の始まり、静かなること、破はそれが破れ動き出す。では、急は何だと思う? 


金子 止まる瞬間?


粟谷 いや「急、これ急ぐことにあらず、これ速やかなる心なり」と書いてある。いろいろ序破急の解説はあるけれど、これを読むと能楽師としては、「なるほど!」と納得させられちゃうね。


金子 なるほど?!そのニュアンスすごくよくわかります。分かってない人も多いのでは?


粟谷 今、序破急を無視する人が増えているように思いますが…これはいけないよね。父は理屈を並べるのは嫌いでしたが、謡や舞がもうちゃんと理屈に合っていたね。でも教える時は「俺のやる通りにやれ」だったからね。


伊奈山 
金子 なるほど


粟谷 父の教え方は悪くはないが、一般的にはそれだけではなくて…。もう少し親切に、まずは序破急に限らず基本理論は教え、習い…が、いいと思いますね。最近もう一つ面白いと思ったのは、心・気・精という項目。喜多流の大事な3つの心。この言葉、観世流でもあるようですが、「他流では心の気持ち、気の持ち、精の気持ちと3つに分けて考えるが当流さにあらず、心気精すべて1つなり」と書いてある。なんだかわかる?


金子 なに、なに?


粟谷 心・気・精。「心は不動で、気は動くもの、精は形あって無なるもの」と、むずかしいでしょ?ところが寿山の伝書にも、同じような内容が書かれていてね。能の型で、「余精」という一足出ながら両手を前に出す動作の型があるでしょう?


金子 はい


粟谷 精は「余精をもって知るべし」と書いてある。無なるものが、力余って形あるものになる、それが自然と動くような、身体内部からふわ?っと起きる勢いみたいなものなのね。それで余精なんですって。


金子 余精は喜多流だけのものなんですか?


粟谷 さあ知らない。喜多流の伝書に書いてあるから言っているだけのことですよ。『天鼓』で「月も涼しく星も・・・」で、型付には「ヨセイ」とカタカナで書かれているからその真意が判りにくいけれど、どうこの漢字を読んで説明を聞いたら?これなら判る気がしない?


伊奈山 はい、そうですね。お能にしてもバレエでも、型というものがありますが、その型ができた根拠を知らずにやっていますよね。


粟谷 はじめは分からなくてもいいと思うよ、でもある時期になってよい役者を目指すならば、分かろうと努力するは必要だよね。


伊奈山 物真似の領域を超えなければいけないというのは、そういうときじゃないですか。


粟谷 そう。型という基本を根本的に真似尽くした後のこと、それが条件だけどね。それが大人の役者への扉じゃないかな。はじめから精神論を並べても、そりゃダメでしょう。まずは基本で、それが身について応用編で…。


伊奈山 最初から精神論にいってはいけない、と。


粟谷 そう。まずは技の習得、その後に精神的な後ろ盾がほしくなる。そのとき能楽師にとってのバイブルのようなもの、伝書の必要性を知るんだね。私の場合、健忘斎と寿山、そして寿夫さんの本などもまさに後ろ盾なの。


金子 先ほどの序破急は知っていたけれど、心気精は知りませんでした。役者で本番をやるとき、心は不動なりというのは、自分がやろうとしていることがユラユラ揺らいでいてはできないということ、気というのは相手からもらうものだと思うんです。もしくは舞台に流れている目に見えない流れ、あるいはお客さんからもらうもの、それを感じたうえでやり取りをしていると思うんです。それで、精というのがいまひとつ文章にできない・・・。


粟谷 形あって無なるもの、禅問答みたいで難しいね。相手を意識するというのでは、三相応という言葉もある。役者が今何をしなければいけないかというとき、相手は今どういう年代か、相手はどういう人間か、自分はそこで何をしなければいけないかを見極める心得を持つべきだというアドバイスの言葉なので。大事な心得だけど・・・、これは割と自然に体感出来ますね。


金子 対相手の役者ということになるとそういうことなんですが・・・。心気精というのは、何か表現しようとするときに空中に浮かんでくるものに対する役者の心得のような気がして・・・。


粟谷 あとは自分で体得して(笑)序破急理論、心気精、三相応、みんな3つね。


伊奈山 世阿弥の一調二機三声も3つですね。私、この言葉を大切にして声を出すようにしています。


粟谷 声を出すとき、まず調、声の響きなるものを意識して、機はコミですね、そして声、声は「心声に発すとて、おのが心の邪正、おのずから声にあらわる」と悪魔払にあるけれど、調子、機会、声柄を考えるということね


金子 心ある役者なら、どうしようかなといつも考えながら声を出していると思うけれど。でも、中には考えなしで、ドバーッと声を出してしまう役者もいて頼むから出さないでといいたいときもある(笑)。


粟谷 それは、能楽師とて同じ事。とても大事な教えです。


伊奈山 オペラでも一緒ですね。


金子 型やメロディがあるものは、なんとなく声を出してもできるところがありますが、普通の役者は三番の声しかないわけですよ、メロディもなければ型もない。何もないから、感情だけがあって、声ができていないということはありますよね。だから何言っているかわからない、気持ちは分かるけど…みたいなことになる。両方が両立するような訓練がもう少しできるといいんじゃないかなと思います。


粟谷 確かに、日本人の指導者や経験を得た人間が、それなりのものを次の世代に、もうちょっとわかりやすく言わないと、今までのやり方とは別のやり方で教えないといけないということなのでしょうね。
今日はどうもありがとうございました。

(平成21年5月 記 白金・桂寿司にて)

能楽機関誌「DEN」2009年1?3月号より記載投稿日:2018-06-07


現在・過去・未来

粟谷明生 さん
●シテ方喜多流

粟谷菊生の継承と
そこからの飛翔

PROFILE
粟谷明生(あわや・あきお)
◆1955年(S30年)、東京生まれ。シテ方喜多流人間国宝、故・粟谷菊生の長男。父及び喜多実、友枝昭世に師事。59年『鞍馬天狗』花見にて初舞台。63年『猩々』にて初シテ。82年『猩々乱』以降、『道成寺』『石橋』連獅子、『翁』『安宅』『望月』『三輪』神遊等を披く。「粟谷能の会・研究公演」をはじめ、同世代にて「妙花の会」広島にゆかりのある能楽師を集め「花の会」などの立ち上げに努めた。

「粟谷能の会」を、従兄の粟谷能夫と主宰する粟谷明生さん。この会は昭和三十七年の十月に、能夫の父新太郎と明生の父菊生の兄弟で始めたもので、平成二十年で八十四回を数える。
人間国宝・芸術院会員でもあった喜多流の重鎮、粟谷菊生が亡くなって二年。「能?粟谷菊生舞台写真集」「景清?粟谷菊生の能舞台」と、明生さん自身が編纂された「粟谷菊生・能語り」も出版された。三回忌追善公演も済まされた現在の心境と、これからの展望を伺った。

●喜多実先生の教え

父の指導で三歳に初舞台を踏んだ明生さんは、小学生の頃から、先代喜多流宗家・喜多実に子方と仕舞の稽古を受けるようになる。

「少年期は同世代の仲間がいなかったこともあり稽古は一人、個人稽古でした。子方の稽古というのは、子方が関わる個所だけ教わります。
例えば『国栖』では“シテが最後に留拍子を踏んだら終わりだから、立ってシテの後に付いて帰りなさい”、とただそれだけ。途中で天女(ツレ)が登場し長い五節之舞を舞うなどとは知らされないから“あれ?僕はまだここに居ていいのかな?”と不安になるのです。この不安が逆に緊張感を生むからよい、という教えだと思いますが、当事者には、やや酷な感じもします。それで息子には自分の経験から、曲全体の流れや舞台進行を説明して稽古しました」

 明生さんの最後の子方は『満仲』(観世流『仲光』)の幸寿丸、シテの仲光に斬られる役だった。「私の子方時代の終幕は斬られてオシマイ!」と笑って話す明生さん。子方は舞台上で横に倒れても頭を舞台に付けない、それが実先生の教えだったと語る。

「この間、久々に『満仲』がありまして、幸寿丸の頭が舞台に付いていたのを見て、実先生の言われたことの真意が判りました。

頭を舞台につけると楽なのですが、それでは子どもの身体にある緊張感が薄れ能の型ではなくなる、たぶんそう言われたかったのではないでしょうか。
太刀の扱いも同様で、太刀が長刀や他の太刀に絶対に触れてはいけないと教えられました。これも理由などは教えては下さらない。
しかし最近、カチャンカチャンと竹光のあたる音を聞くことがあって、なるほど、これでは太刀が凶器であるという力は伝わらないと判りました。実先生の教え方は理屈抜き、鵜呑みにするしかありませんでした。

しかし若い時分は鵜呑みが一番だと思います。納得出来ない、気になるということは、時を経て自分で考え答えを出せということでしょう。正直、正しく早く教えるほうがとも思いますが、やはり時間を掛けたものの強さでしょうか。あまり楽をしちゃいけないのかもしれませんね」 

 中学、高校に通う頃は喜多実学校で先輩と一緒に団体稽古を受けた明生さん。指導の骨格は型重視、厳しく身体の動きと精神を教えられたという。

「実先生の指導を受けた人たちは皆、型については充分鍛えられたと胸を張って言えます。稽古場では、腰を入れろ!肘をはれ!背筋を伸ばせ!フラフラするな!が先生の口癖でした。型をきちんとするというのは、実先生の元で習った者同士の共通の美意識で、その同じ根っ子が今の喜多流を支えていると思います」

その後、明生さんは友枝昭世を師と仰ぎ、直接教えを乞うてきた。もちろん、父・菊生が身近にいて指針になったのは言うまでもない。

●追善能『絵馬』女体と伝書

 粟谷菊生三回忌追善公演(粟谷能の会)で、明生さんは『絵馬』を女体という小書で演能された。喜多流の本来の『絵馬』は、後シテの天照大神が男神として現れ、荒々しく神舞を舞うが、「女体」は、本来の天の岩戸隠れに沿った演出となり、シテは女姿で小面をつけてスピードある神舞を舞う。小面の狭い視界で、早い神舞を舞うには修練が必要とされ、「女体」は喜多流では重い習いとされている。

「先人の女体を拝見してきて、神舞が天照大神の怒りを彷彿とさせるものが多かったと思いますが、父の舞台や話からは、女性らしい優しさ柔らかさを基調にしていたように思います。ですから自分もそのような感じで勤めました。女体は実はお囃子方にとって体力的にも技術的にもご苦労な曲なのです。
でも、そこを力を合わせてやると素晴らしいものが出来上がります。今回もお囃子方の心意気を感じ、気持ちよく勤めることができました。女体に限らず、よい演能には三役の理解と協力がなければ出来ないと思います。シテはこのようにやりたい、こうしていただけないかと真摯にお願いして、そうすれば相手からも、このようなやり方があるよ、こうしたらと返事がきます。こういうやりとりがまた楽しいのです。

ですから私的な会では、出来る限り三役の交渉は自分自身でしています。己の舞台は己で決める、決められない場合もありますが、己で決められる粟谷能の会を特に大事にしています」

明生さんは一回一回の能を大切にしてきた。能は花火のようなもので、二度と同じ舞台は出来ない。だから、その一度に全力を投入する。どんなに素晴らしいものでも、舞台で演じられたものは残念だが消えてゆく。だからこそ、書き留めて残していきたい。同時に、今昔を問わず、書かれたものを読み起こす作業が大事だと考えている。

「私は伝書を元に師や諸先輩からの教えを自分用の型附として書き残していますが、伝書にはいろいろな事が書かれていて興味が湧きます。我が家には喜多家九代目七太夫古能健忘斉と十代目寿山の伝書があり、それらを読むと書く作業の重要性を感じます。
伝書を読むには、変体仮名の勉強も必要になりますが、読めるようになると実に面白いのです。特に後半に書かれている心得がとても為になり面白い。こうすると大損とか、こんな型があるが名人の業也とか、未熟者はこうしろとか。読み手が幅広く解釈出来るものが優れた伝書といえるのではないしょうか

●「謡はホットに、辛(から)くだよ」

 喜多流は技が切れるといわれるが、型重視の稽古だったから、型が決まるのは伝統なのだろう。だが、なぜ謡の稽古があまりなかったのだろうと不思議に思う。“喜多さんは仕舞や舞囃子を見ているといいが、どうもお能になると・・・”と言われるのは謡の問題だったのではないかと、明生さんは謡の重要性に気づいていく。

四十歳近くなった頃、故観世銕之亟さんがご子息の暁夫(現銕之丞)さんと近藤乾之助さん、粟谷菊生、明生親子を誘い、ひっそり呑む会を設けてくれた。その時に銕之亟氏に“お父さんの謡を真似たら”と言われたという。

「四十近くなって、これはとにかく父の隣で謡うことが勉強だと気づきました。父は“謡を面と向かって習うなんてことはないんだ、玄人はそんなに甘くないよ、とにかく、上手の前や隣で謡って覚えるんだよ、芸は盗むんじゃない、盗むなんて悪い言葉を使っちゃだめ、黙っていただく”と言っていました。
父が六十歳半ば頃、丁度油の乗りきった地頭時代がやってきますが、その時から、私は父の前列で謡い、そして晩年に父の隣で謡えたことが肥やしになっています。先日、大倉会大阪公演で、一調一声『玉葛』を大倉源次郎さんとやらせていただきましたが、父ならこう謡うだろうな、こうだったな?と思い出しました」

 「菊ちゃんの謡は浪花節的!」と言われると、菊生は「浪花節的で大いに結構だよ!」と言い返していたという。
明生さん自身も若い頃、父に向かって芸が臭くて浪花節的だと言って喧嘩になったこともあった。

「浪花節的、この言葉が誤解を招くのかもしれません。父の謡は情があり艶のあるものでした。父の口癖は“謡はホットに、辛く”、その言葉が今は頭から離れません。父の地頭に座る精神は、相手のために誠意を尽くし情で謡うということだったと思います。
舞台に立っている人のために、そして観客に喉が枯れても、体調が悪くなっても必死に謡う、そんな生き様でした。こんなお人好しの人はそうそう出現しないと思います。ですから義理人情に重きを置く浪花節的な人生だったのかもしれません。私が父を誇りに思えるのは、型も謡も出来た人だったからです。若い頃はそれに気づかなかったのですね」

 青い鳥ではないが、結局一番身近に学ぶべき人がいたということかもしれない。謡を語る時、単にシテの謡だけを評価しても意味をなさないという。

「先代観世銕之亟先生が教えて下さいました。“シテが出来、地頭が出来、後見も出来て初めて一人前の能楽師だよ。それが出来なきゃ能楽師じゃないと思うが、どう?”私の指針となる言葉です。

能をご覧になる方はシテの謡いを云々されますが、地頭、地謡がきちっと謡えてが大前提です。声は鮮明に綺麗に、音も正確に、囃子方への対応も出来て、尚かつ演者の雰囲気に合わせて作品を創り上げる、大変な仕事です。今喜多流の現場で補充しなくてはいけないのは優秀な地頭と地謡です」

●演能レポートの軌跡

 粟谷能の会のホームページ、粟谷明生のブログなど、その充実ぶりには目を見張るものがある。忙しい中どのようにして更新、投稿されるのだろう。

「ブログは書き込みが簡単なので楽屋内の情報を、粟谷能の会ホームページでは、演能レポートなどを書いています。現場の人間が書くことも良いのではと思いまして。書くことで発見があり、作品を改めて深く読み直す事も出来て、得をしながら楽しんで書いています。記録として残しておけば、五十年後には、この頃はこのように演じていたのか、この人がこんな事を考えていたのかと、こういう資料があってもいいかなと思います」

 これが明生さんの普及の形。以前は、演能レポートは舞い終わってから書いていたが、最近では演じることが決まると、あらすじから書き始め、メモをとる。この作業を通して舞台展開が見えてきて、疑問が出てくる。それに対応しながら書き直し、演じ終えて最終的な演能レポートが完成するという。

「だから、本音は自分のためにやっているのです。でも、粟谷能の会を観終わった後で、レポートを読むのが楽しみだとメールを下さる方が多くいらっしゃいます。自分の観方と演者の思いがどう違うか見てみたいと。それが面白くてまた舞台を観に来て下さる方も、いらっしゃいます。私なりの観客増員方法ですよ。」

粟谷能の会では、自分たちがやりたいものを演じられるが、必ずしも観客の入りがいい曲目とは限らない。自らの研鑚の場であり、プロとしての技量を観ていただく演能の場でもある。これを両立させていかなくてはならない。何年か後には『卒都婆小町』を演じたい。父菊生も「歳を取ってから演るのではなく、相応の若いうちに一度演っておくとよい」と話していたという。

「その前に『景清』『定家』ですね。父の演じた『景清』が強烈です。父と比べられたら堪らないが、そろそろ手がけておく必要があるでしょうね」

ツレ(人丸)を勤めた経験と地謡で見てきた様々な景清像を基盤に、自分なりのものをと、父を受け継ぎ、父を超える日を夢見る粟谷明生さんだった。


「粟谷菊生能語り」編纂:粟谷明生(ぺりかん社)
「能 粟谷菊生舞台写真集」編:鳥居明雄・吉越研(ぺりかん社)
「景清 粟谷菊生の能舞台」(ぺりかん社)

(平成21年上半期粟谷明生演能予定)
3月1日 国立能楽堂13時始
『安宅』延年之舞 粟谷能の会
SS 席 \12000 
S  席 \10000
A&B席 \7000 
C&D席 \5000  
学生料金 \3000

6月28日 喜多能楽堂12時始二番目
『雲雀山』    喜多流自主公演
当日券  \6000

能楽機関誌「DEN」2002年5月号より記載投稿日:2018-06-07


ザ、チャレンジ「ナンバーワンよりオンリーワン

粟谷明生(あわやあきお)さん 喜多流シテ方
プロフィール
1955年東京生まれ。 
シテ方喜多流、人間国宝粟谷菊生の長男。
父及び喜多実、友枝昭世に師事。
3歳『鞍馬天狗』花見にて初舞台。
8歳『猩々』にて初シテ。
27歳『猩々乱』
以後『道成寺』『石橋連獅子』『翁』『望月』等披く
重要無形文化財総合指定保持者

「粟谷能の会ホームページ」の演能レポートを見ると、喜多流能楽師粟谷明生さんが、一つの曲に対していかに取り組んだかが詳細に報告されている。「演能に際し、曲の内容を自分なりに深く読み込まなくてはと思うのです。古い伝書に目を通し研究者、見識者の文献を資料に、師、先輩の教えを受け、また違う分野の方々からもお話を伺う。するとだんだん身体の中に溜まったいろいろな情報が溢れだし、構想がふくらみ徐々に自分のスタイルの能が固まりはじめます。それで6年前より、演能後に記録として感想手記を残す作業を始めました。時々面倒になりますが、自分のためと思って続けています。」三月の粟谷能の会の『殺生石 女体』では創作面(岩崎久人打)「玉藻」をつけ、白頭、緋長袴、狩衣の扮装で「カケリ」を取り入れた。妖狐という存在だけではなく、殺生石に込められた玉藻の前や石の魂を幾重にも重ねて演じられないかという思いがあったからだ、という。

友枝師や能夫が育ててくれた
今、能に没頭し、意欲的に取り組む明生さんだが、仕方なく能をやっていた時期があったという。
子方時代は、仕舞なども含め147番、数多くの舞台に立っている。
「当時喜多流に私と同じ年代の子供がいないこともあり、どんどん役がつくので、否応なしに舞台をこなしていかなければならなかったのです。」
そして中学生の頃、華やかな表舞台から裏方の仕事や囃子のお稽古へとシフトして、少し時間ができると能について考えるようになった。
「この時期はこの道がつまらなくなり、稽古が嫌いになった時期です。原因ねー。変声期の悩み、仲間がいない寂しさ、教え方への疑問などですねー。」

能に面白さを感じられなかった二十代。しかし心の隅には能は嫌いじゃないという思いがあった。そんな明生さんに折にふれて、能の面白さを語り続けたのは六歳年上の従兄弟の粟谷能夫さんであった。
「私を能楽師にとどめた一番の功労者は、従兄弟の能夫です。ふてくされた青年に諦めることなく、能の魅力を語り、説いてくれたお陰です。粟谷能の会で『黒塚』を勤めるとき、観世寿夫さんの『黒塚』は「月もさしいる」で下を見るんだ、型付通り上の月を見るだけでなく、能の演技にはいろいろと幅があるのだと聞かされドキッとした。あれがきっかけですね。」
そして父の菊生さんも心配していたのだろう。
「『道成寺』を披くときに、父がうちの子は君に傾倒しているから、君が『道成寺』を教えてくれと友枝昭世さんに頼んでくれたのです。友枝昭世師はお仕着せではなく、私の美意識を呼び出して、なおかつ最後にはこう思うよと、大きな幅で教えて下さいました。それからはまた能が楽しくなりました。」

課題は訴えかけの強さがある謡、舞
平成3年に、明生さんは能夫さんと「研究公演」を始めた。ずっと継承されてきた能の様式美、それを今、生きている者が自分なりに解釈し、新たなものに創造する努力も必要ではないか。そんな考えからだった。
「能楽師には人それぞれの時期に、挑戦しなければいけない課題曲や大曲があります。これらを自分の意志やそれまでの実績で演じられるように運ぶ努力がなくてはいけないと思ったのです。私がいやなのは上から降りてくる順番を何もせず待っているだけ、人が舞うと直ぐ自分もという考え方に慣れてしまうこと。自分の演能活動のあり方にいつでも納得していたいですね。舞台が能楽師の生き様ですから。」
 明生さんがいつも心がけている言葉に出会ったのも、このころだった。
「それはナンバーワンになるのではなく、オンリーワンであること。私自身、私でなければ出来ない、見られないという舞台をより多く勤められるようにと心がけています。そのための一つの作業として演能レポートを書いているのかもしれません。」

自分自身が一生懸命やったものが、流儀とか家に貢献できる。能夫さんとも芸の力が拮抗した中で、お互いに刺激しあい、確固とした味わいが出てこなければ次の粟谷能の会は強くならないと語ってくれた。
そして、能は謡と舞、七割が謡で残りが舞だと明生さんは言う。
「訴えかけの強さ、それを今の課題にしています。謡では、役が秘めている内的な意識や思い、それを自分の内に籠めて謡えるかということ。舞に関しては、流儀や各家に伝わる型付をなぞるだけではない、役者自身に存在感があり、その演者の身体から強い訴えかけが醸し出されるものでありたい。
そのような演じ手になりたいのです。」
今年の課題は、秋の粟谷能の会での『野宮』だという。
「『野宮』は本三番目物。劇的な内容で名文が盛り込まれています。今まで本三番目物は『半蔀』『東北』を演じただけ。本来は『井筒』を先に勤めた方がいいのでしょうが、難しいものを早く手がけておきたいという、私のわがままで・・・。今年の目標舞台です。」
これから稽古に入るが、原典となる源氏物語「賢木の巻」をもう一度読まなくてはならいだろう、そこの言葉が能の世界でどのように展開されているかなど、研究することはたくさんある。
「能は今の我々の生活文化につながるようなことがテーマでもあるわけで、演じ手はそれを解るように謡い、舞わなければ」という明生さんの「オンリーワン」の舞台を観たい。

『安宅』?? 延年之舞について 投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(24)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(24)

   研究公演以降・その二
『井筒』『弱法師』について

粟谷 能夫

粟谷 明生

明生 今回は第二回研究公演で取り上げた曲について話してみたいと思います。平成四年六月、能夫さんが『井筒』、私が『弱法師』を勤めました。『井筒』は三番目物の代表的な曲。能楽師の憧れの曲ですね。

能夫 そう、僕には憧れがありましたね。

明生 あのときの『井筒』が能夫さんにとっては披きですね。四十二歳、当然もっと前に勤めていてもいいのに・・・、憧れがあったから大事にとっておいた訳ですか? 実は私も『井筒』を披いたのは遅くて、ようやく二年前(五十一歳)です。喜多流では『野宮』はとても大事に扱いますが、『井筒』は意外に若くても出来るのではないですか? 型付通りに動き、謡えばそれなりの格好になりますから。でも私はそれが嫌で拒絶していました。

能夫 『野宮』は相当な覚悟がないと太刀打ちできないね。曲自体が演者を寄せ付けないところがあるけれど、『井筒』は確かに、あまり考えずに型通りやれば格好になってしまうあまさがあるからね。本当は後場なんか、情感とかいろいろ要素が必要だと思うけれど。

明生 そうです。私は『井筒』という曲を意識しない者が、「え?、まずはお試しコースの『井筒』あたりから・・・」という考え方が嫌ですね。安易に取り組まないでほしいです。私は『井筒』を大事にし、し過ぎてしまい機会をだいぶ遅らせてしまった訳で・・・(笑)。

能夫 なかなかこれぞという『井筒』には出会わないよね。本当にそういう面では『井筒』は難しい。あまり巧みすぎてもダメだし、坦々と演じるところも必要な気もするし。

明生 『井筒』の型付は定型の動きの連続ですね。しかも作品の完成度が高いから安心してしまう。でも、そこに演者が寄りかかり状態になってはいけない、演者の思いが彷彿されるような舞台を志す、私はそう思っていますよ。

能夫 そうだね。

明生 当然、舞歌の技術を獲得してからという大前提はありますが・・・・。

能夫 喜多流が劣っているとは言わないが、観世寿夫さんの能を観たときに、『井筒』への、曲への思い入れにずいぶん違いがあると感じたよ。

明生 喜多流の先人たちは『井筒』のような三番目物よりはドラマ性がある四番目物のように、型を利かせるような曲がお好み、という傾向でしたね。それは多分に名人十四世六平太先生への憧れからでしょうか。

能夫 寿夫さんの『井筒』を観たとき、こんなに面白い曲だったのかと感動したよ。それまで墨絵だった能が極彩色に見える、奥行があって、立体感がある。情念、怨みつらみといったものが押し寄せてくる。そういうものを観せられたわけ。あのシンプルな『井筒』の中に。それは憧れてしまいますよ。能の面白さは、ああいう『井筒』のような三番目物にもあると感じたよ。初めてね。それはドキッとしたよ。

明生 私は奥手で、ようやく、最近ぼちぼちと三番目物の魅力に惹かれていますが・・・(笑)。

能夫 あの『井筒』を観たときはまだ若造だったけれど、これからはこういうものを演らなければ! と思ったよ。当時は父たちが元気で演能していたから、それにも携わらなければいけないけれど、内心どこか違うなと思っていてね。今ならいろいろなアプローチの仕方が考えられるが、昔は父たちのやっていることに否定的でね。方法論はいろいろあるけれど、まずはあの『井筒』のなかに憧れるものがある、深いものね。すぐに獲得できるわけではないけれど、その方向でいくと、答えがあると思っていたからね。

明生 ずっと憧れをためていたわけですね。それで、いよいよ研究公演で『井筒』! 能夫さんは小書「段之序」で演りたいと言われて、ところが父に「なにも最初だから、小書なしでいいじゃないか。能夫ならまたすぐにチャンスがあるよ」と止められ、仕方なく断念したでしょ。あれ悔しかったですね・・・。研究公演は、流儀内の閉鎖的な縛りからはある程度自由であったはず、単に稽古したものを先生にお見せする会、そんな主旨の会ではないつもりだったのに・・・と。実際、それから十年以上の月日が経ち、ようやく平成十四年、横浜能楽堂のかもんやま能で「段之序」が実現出来たわけですが。波風立てないでじっと我慢することの勉強だったのでしょうかね?(笑)

能夫 どうかね(笑)。その「段之序」ね。普通はシテが「懐かしや、昔男に移り舞」と謡って、地謡が「雪を廻らす花の袖」と謡って序之舞に入るところを、「段之序」は「雪を廻らす・・・」もシテが謡うでしょ。一声からのシテの謡が段々盛り上がって、高揚していく、そして「懐かしや・・・」「雪を廻らす・・・」と区切りながら、全部シテが謡い、シテ自身が序之舞の位を作っていく感じで、これがいいんだな。

明生 「花の袖」の節扱いは素声(シラコエ)で積み上げ固めたものを、柔らかく溶かすような感じでここが上手に謡えると、いいですよね。この演出、私はいいと思いますが、そうでもないという意見もありますね。通常序之舞の導入部分は、シテと地謡が詞章を分け合い、互いに盛り上げる、という作り方ですが。

能夫 「段之序」はシテが主導権をもって引っ張っていく。囃子方とだけで高揚していく、特別だね。

明生 ですから、シテの謡い方が大事ですね。張りとメラス(?)、謡に変化を付けないといけない。

能夫 『道成寺』の乱拍子の中の和歌もそうだけれど、たたみ込むように謡うことで、エネルギーの爆発を、じっと押さえ、その思いが遂に溢れ出るようなイメージなんだ、似てるでしょ?

明生 「段之序」の歴史は、小鼓方大倉流と喜多流の間に昔からきちっとした約束事がかわされていて。先日、大倉源次郎さんが大倉家の伝書を見せて下さいまして。

能夫 ちゃんと話し合いがなされたということが、残っているんだね。

明生 そうです。『井筒』という曲で、喜多流特有の「段之序」のような、シテ自身が少し高揚していくやり方があるということは面白い事ですよ。本来、昔は、カケリを入れる演出だってあったぐらいですから。

能夫 そういうわけで、後日、「段之序」も演らせてもらったけれど、研究公演の『井筒』では、憧れの曲を、どういう思いを込めるかを考え、『伊勢物語』を読んだりしてね。僕にとっては、『井筒』が原点というか出発点みたいな意識がすごくあるね。シカケ・ヒラキといった技術のうえに、何か物語を作っていくという意識が芽生えた。ものを表現しようという原点みたいなものを感じたね。『井筒』は難しい曲で、いまだに結論は出ないけれども。でもいい時期に、若気の至りみたいな時期だけど、寿夫さんの刺激的な『井筒』を見せてもらったお陰ですよ。もう、目が輝いていた時代だから。

明生 その思いをためて、研究公演で勤めたわけだから。

能夫 そう。研究公演は最初、青山の銕仙会の舞台を拝借して催したでしょ。あの本当にお客様と近いところで、『井筒』ができた喜びもあったね。

明生 さて、私の『弱法師』ですが、これは根底に技術至上主義みたいなものがないと出来上がらないですね。

能夫 そうね。『弱法師』は単にシカケ・ヒラキだけでは通用しない、技と心だね。

明生 なんといっても盲目の杖の扱い方が難しいですね。喜多流の杖扱いは独特で、パチパチと音を強く立てるようにして突きます。杖の先が体の正面中央にあるべきなんですが、ところがなかなか、うまくいかない。左か右に多少ずれてしまいます。上手な方の杖はラインがきちっと、よいところに決まり綺麗で、力をも感じられます。綺麗過ぎて、この人、本当に乞食の少年なの? と思ったりして(笑)。

能夫 長刀や杖という特殊なものを持つときは、まずはきちんとした技術力の修得が必要だよね。

明生 ですからまずは早めに一度経験して、杖の技をきちっと身につけなくてはいけないと思い、早くやりたい、と。それも父から止められて・・・。

能夫 そうだったね。明生君が研究公演の第一回で『弱法師』をやりたいと言ったね。「まあまあ、もう少し後で」と僕も言って、でも二回目には演ったね。

明生 なんでも準備が整えば、早いうちに一度演るべきという考えは生意気かもしれませんが、変えるつもりはありませんよ。技術力がどのくらい大変かを早く知り、早めに稽古に取り組む。年をとると、もう手足だけでなく、頭までも、すべてが鈍くなりますから(笑)。早く手がけて技術をマスターする、プロなら当たり前のことだと思いますが。そこを楽屋内の雰囲気を気にして怠る、遠慮する。それでは不健康でしょう、次が見えてこない。

能夫 杖でも長刀でも同じ、新しい道具が出てくると、その使い方ばかりに気をとられてしまうね。
僕が若いときに見ていた流儀の『弱法師』というものはね、ただ「貴賎の人に行きあいの」のぶつかる型だけの印象なんだよ。あそこだけ(笑)。

明生 ハハハ。私の好きな型は「紀の海までも見えたり、見えたり」と、盲目の目にも難波の風景がありありと見えると手を伸ばすところ。手と顔の向きを正反対にするタイミングがコツだと父は教えてくれましたが、そのあと、少しはしゃぐ風情で舞台をめぐる、しかし、盲目の悲しさで、その場に大勢いる人たちにぶつかり、よろけ、人々に笑われ、確かにここの印象しかなかったですね(笑)。最後にはへたりこんでしまう場面ですよね。

能夫 そう、あの大事な場面ね。寿夫さんの『弱法師』だと、そのぶつかるまでに心の陰影があって、ドラマというか志が立ち上がってきて、ぶつかることが必然だなと感じさせるものがあったんだよ。ところが喜多流のだと、ただぶつかるだけ。陰影も無ければ、心の動きも僕には見えなかったよ。寿夫さんのは、僕がまだ若造で、百%喜多流の意識で見ているから、なんてすごいんだと思ったよ。ああ、これが『弱法師』なのだ、これがお能なんだとね。それまではシテ柱に杖をカチッと当てる格好良さとか、型のことだけ考えていた若造でしたから。あれから自分の能に取り組む姿勢を考える、きっかけの曲となったね。

明生 能楽師は型を追求するだけで終わってしまってはだめですね。登場人物がどういう気持ちでいるか、なぜそのようになるかを知り。そう、なぜ俊徳丸が盲目の境涯になったか、日想観をすることで、目が見えていた時代に立ち返り、晴れやかに心の目で景色を見る、しかし現実の厳しさにふと我に帰る、最後は父・通俊と出会うわけですが・・・、そういうドラマですよね。
舞台になっている四天王寺、その裏手にある悲田院は今もありますが、家族や世間から捨てられた人が施しを受けにやってくる場所だったんですね。以前に行ったとき、詞章にあるようにまさに「踵をついで群集する」という感じで、貧しい人たちが大勢いましたが・・・。二年前に行くと、その人たちはいなくて、景色が変わっていましたよ。

能夫 何かの政策で、移動させられたのかな・・・。

明生 どうでしょうか。『弱法師』という曲は、そういう世間から捨てられた人の物語ですよね。そういうドラマを表現するためにも、早いうちに一度演って、技の修得をしておく。そして次に自分なりの『弱法師』の曲づくりですよ。十郎元雅作の名曲ですから、遣り甲斐と手応えのある曲ですから、若者が早めに一度。
私は研究公演の後、平成十五年八月に、秋田県のまほろば能で『弱法師』を小書「舞入」で勤めました。「舞入」は右手に扇、左手に杖を持って舞いますが、やってみて想像以上に難しかった。左手は一般に利き腕ではないから、思うようにいかない。まあ、それが出来るようにならなくてはいけないので集中して稽古しましたが、一度研究公演で勤めていたからある程度は楽でした。
はじめて勤める時に父から「最低これぐらいのことはやってくれよ」と言われまして。父は技術的なことばかり教えてくれましたよ。

能夫 技術的なこと? はじめての、研究公演の時だね。

明生 そうです。杖の扱い方ですね。この時の杖は右で顔が左、シテ柱に杖を当てたら顔は左、その時やや顔を斜に構え、なんて細かく具体的に教えてくれましたよ。でも挑んだから教えてくれたので、待っていても教えてはくれないんだ、ということが判ったのが一番の収穫かな(笑)。父にとっての『弱法師』は、ある程度技術力を高めることで作品は完成するという考え方だったのでしょう。とにかく技を正確に上手く、使えるように習い、稽古しろ、ということだったのかな。

能夫 『弱法師』は若者にとってすごいプレッシャーの曲、憧れの曲でもあり、挑戦のしがいもある曲、技術力もいる曲だね。だからこそ、次の世代の人たちの俊徳丸が早く観たいよね。(つづく)

能面を生き返らせる投稿日:2018-06-07

能面を生き返らせる 粟谷能夫


第八十四回・粟谷菊生三回忌追善粟谷能の会において、粟谷明生が『絵馬』「女体」の演能で、豊橋市魚町能楽保存会の所蔵する能面を拝借いたしました。

前シテには出目友閑作の「小尉」、後シテには井関河内作の「小面」、天鈿女命(あめのうずめのみこと)には出目是閑作の「増女」、手力雄命(たぢからおのみこと)には「大天神」(作者不詳)を使いました。いずれも保存状態もよく、質の高い名品で、舞台を引き立てていただきました。

魚町能楽保存会所蔵の面・装束は三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市)の藩主、大河内松平家に伝わったもので、明治維新後も城下の町人の手で大切に保存されてきました。空襲など幾多の困難を乗り越え、このように平成の現在まで伝わってきたことは、奇跡に近いものと思います。保存会の皆様の今日までのご苦労に感謝申し上げます。

能面は舞台で役者が使うことで演者の思いを受け血が通い、精気を宿して能面として完結するのです。
能面を美術品とみる趣がありますが、舞台に上がらない面はどんどん衰えていくような気がします。
高知の山内神社で薪能『熊坂』を勤めたときに、山内家伝来の面「長霊べし(漢字で)見」を使わせていただいたことがありますが、彩色の剥落があり、恐る恐る掛けた記憶があります。その折、神社所蔵の旧山内家の面を見せていただきましたが、保存状態が悪い面が多く、まことに残念な思いがありました、良い面も何面かありましたが、今はどうなっているのでしょう。

また、山口薪能を主催していただいている山口市の野田神社所蔵の能面もすべて見せていただきました。質の高い面が多数ありましたが、時間の経過と共に状態が悪くなるのではないかと心配しております。
江戸時代は能を愛好する大名が多く、各地で面や装束の名品が作られました。それを今も大切に保管しているところは多いと思いますが、演能に使われるでもなく、死蔵に等しい状態になっているのではないかと危惧しています。そのまま朽ちていくのでは余りにもあわれであり、日本の文化遺産の損失となりましょう。

ぜひ各地に埋もれている面を舞台の上で見たいと思います。傷みがあればその機会に修理できます。すぐれた面に息を吹き返してもらいたいと切に願います。演者にとってもよい面との出会いが刺激的な舞台を創り出すきっかけにもなるでしょう。多くの方の力を結集して、面の掘り起こし、再生運動を、ぜひやっていきたいものです。

「荻原達子さんを偲んで」への寄稿 平成19年夏投稿日:2018-06-07

「荻原達子さんの忘れえぬ言葉」

粟谷明生

平成15年、能楽座つくば公演で父粟谷菊生は『景清』を勤めた。
父は80歳近くだったが、荻原さんに「菊生さん、何か舞って下さらないかしら?」と依頼された。
すると父は「万事息子と甥の能夫に相談することにしているから、とりあえず明生に聞いてみてくれ」と答えたらしい。

その後、電話があり、私は「父の今の十八番は『景清』です。
もう『景清』しかお薦め出来ませんが?」とお答えすると、
「それでいいわ」と快く承諾された。

それまでも依頼がくれば、「父の『景清』は良いですから」と皆様にお薦めしてきたが、さすがにその回数も増えてくると、
「また『景清』? ほかにないのですか?」といわれるのではないかと、内心心配していたのだが、その時荻原さんは「いいわ」と即断されたのである。

そして電話の向こうから「明生ちゃんね、あの人はあの曲しかやらないね?、なんていう役者がいてもいいのよ、それが本物なら」と聞こえてきた。この言葉が忘れられない。

つくば公演当日の楽屋で、荻原さんが同じように父に話しているのを、私は聞いてしまった。

そのあと父は嬉しそうに「そうね、ではまたお見せいたしましょ!」といい、またいつもの景清に変身していった。それが昨日のことのように思い出される。
ご冥福をお祈り申し上げます。合掌

阪大機関誌「邯鄲」への寄稿 平成20年度投稿日:2018-06-07

「新たな試みに期待して」  粟谷明生

平成十八年十月に父が亡くなり、月日の流れるのは早いもので今年は三回忌を迎えます。阪大喜多会は創設して四十一年目、部員減少の危機を乗り越えながらも途絶えることなく活動が続いているのは、現役部員の頑張りは勿論のこと、OB・OGのあたたかい応援もあり、両者の一致団結が阪大喜多会不滅の所以であると思います。
これからも尚一層結束力を固め、末永く継続することを期待しています。きっと父もどこかで見守ってくれていることでしょう。

私が父の代わりに夏合宿だけ参加してかれこれ十年ほどが経ち、今は全面的に私が指導しております。その私の自演会も今回が三回目となります。日頃の部員の稽古の成果が充分に発揮出来るように、私も部員一同と共に夏合宿、自演会に向けて、芸道上達を心掛ける所存でいます。

阪大喜多会を振り返り思い出すことは、私が大学一年の頃、自演会のお手伝いに伺い、
当時揚げ幕の横から学生諸君の仕舞や謡を観たときのことです。
「あっ! 父にそっくりな動きだなあ、あの節は菊生節だ」と、よく似ていて、よく真似る技の巧みさに驚かされました。
これは父や先輩方の地道で丁寧な愛情が込もった教え、そしてなによりも個人の努力の賜物でしょう。

伝統芸能は反復、繰り返しが大事だと言われていますが、まさにその通り、実証していると感心したものです。
そして今、昔を思い出しながらそのよい伝統を守りつつ、更に新しい風を吹きこませてもよいのではないか、新しい試みがあってもよいのでは、と思うのです。

創立当時と今を比べると、四十名を超える部員の創立当時と、十二、三名の現在の状況では当然違いが生まれます。
この違いがありながら、昔と変わらぬ対応や稽古法をしていると、いつの日か無駄や破綻や生じるのでは、と私は予測します。

稽古法について言えば、今のメンバーに合わせた、少数精鋭のやりかたがあってしかるべきです。

例えば、部員が多く自分の稽古時間がとれなかった時代は、仕方なく深夜二、三時まで無理して起きて練習する必要があったでしょう。

しかし今、歴代の先輩方がそのようにしてきたからという習慣や形を真似て、無理して深夜の特別稽古をすることに疑問を感じます。眠たい目をこすりながら大広間で懸命に稽古する後輩、それをお酒を片手に赤ら顔の先輩が注意、指導する、それが阪大夏合宿の伝統です!といわれれば、それまでですが・・・。

私はそれよりももっと日中の稽古の効率を上げることを考え、二十四時には全員就寝し明日に備えることを提案します。
それでは注意されたことを直す時間がない、稽古不足になると思われるならば、早起きして稽古をすればよいと思いますが、いかがでしょうか。
その方が脳や身体が活発に動き効果も上がります。これは私が体験し実証済みです。

夏合宿の謡の稽古でも、例えば私が謡ったものを録音し、それを後日聴いて稽古するというやり方は、悪くはないですが、賢い手法とは思えません。
阪大喜多会は長い伝統のある会です。長い間に録音した父や私のテープは山積みされているはず、それを聞き込んで合宿に参加するのも一考ではないでしょうか。
合宿では、聴き込み、謡い込んできた謡を私が聞かせてもらい、誤りを正し些細なことでも直していく、そのようにすれば目覚ましい上達が可能になり、きっと効果も上がることでしょう。同じ足の痛さ、痺れを我慢するなら、効率よく、短い合宿期間で最大限の効果を上げるのです。

これはほんの一例です。工夫の仕方はいくらでもあるでしょう。むやみに先輩と同じことをするのではなく、新しい試みや改良、変えていく意識がこれからの阪大喜多会には必要です。
伝統、しきたりという言葉に甘えず、常に次の段階へ向上する気持ちを忘れないでほしいのです。
私の携わる能の世界も同様です。

能役者は常に向上心を持ち続けるべきです。先人の型や謡を真似ているだけでは、個人の個性ある謡と型には発展しません。
変化を求めない能・能役者にはそのダイナミズムが失われ、能は形ばかりの抜け殻状態になります。
上辺だけの真似は、猿まねで滑稽で、本来の継承とは無縁なものになります。私自身もこれらのことを肝に銘じて、精進していきたいと思っています。

最後に誤解がないように念を押しますが、改善、改良という新たな試みは、決して教えやしきたりに背くことではありません。
より良く変える、その努力を惜しんではいけない、ということです。

目新しいこと、奇抜なことの勧めではありません。
現状に満足しないで、常により良いものを目指す心、それを我々は持ち続けましょう。
能も部の活動も、そして皆さんがこれから出て行く世の中も、皆同じだと思います。
まずは部活動で、新しい挑戦をしてみて下さい。どんなアイデアがこれから飛び出すか、楽しみに期待しています。

平成20年 6月記   
粟谷明生

異次元への飛翔投稿日:2018-06-07

異次元への飛翔
粟谷 能夫


 面をかけて初めて舞台に立ったのは、十代半ばのころ、『小鍛冶』のシテを演じた時だったと思います。鏡の間で面をかけた時、全身が燃えるような熱さを感じたことが鮮烈な印象となっています。
 父、新太郎の影響で身近に面に親しんで育ったせいか、憧れが強かったことも確かで、面は能の舞台に欠かせないものという認識が無意識のうちにでき上がっていたのでしょう。面をかけない直面の曲も何番が勤めてきましたが、何ともやりにくさを感じています。
 仕舞や舞囃子のように紋付袴で舞う時に違和感がないのは、紋付袴が衣装以前の肉体の一部に近いものという感覚があるからかもしれません。それに対して、装束をつけた時に面をかけないと、顔だけが現次元のまま取り残されてしまっているようで、非常に恥ずかしさを覚えます。多分照れ屋の性格も手伝っているのでしょう。
 面は現在から異次元へ容易に自らの概念を移すきっかけともなります。そして能の舞台を通して何かを表現する時に、その根底には、紛れもなく自分自身があって、面をかけるということは、舞台で演技するための個を確立させる最後の仕上げであると思います。面は肉体及び精神行き来出来る通路であるのでしょう。
先日蝋燭能で『通盛』を勤めました。見所は真っ暗で、舞台はわずかな照明とろうそくのゆらめく明かりで薄暗く幻想的な雰囲気です。揚げ幕を上げ橋掛りを歩いている時、闇の中にうっすらとある舞台空間へ引き込まれるような感じがしました。闇の持つ力なのかもしれません。いつもは舞台空間を押しながら出るといった感じなのですが、面から見える明暗の違いで、このような体験をするとは思いませんでした。
僕にとりましては、能を糧として、咀嚼し、血肉化し、そして体現していくという作業が生活そのもので、それに値するだけ能はすばらしいものと信じています。
 たた、舞台づくりはそう簡単ではありません。技術的な部分はある程度稽古から得ていくことができますが、その上でいかに表現するかは感性に関わってきます。同時に伝統芸術とはいっても、今生きている人々に訴えるものを自分が持っているのかということもあります。
 能へのたゆみない挑戦、あるいは面を通してなら何かが見えてくるかもしれない、そんなことを思いながら、今後も自分なりの舞台づくりに取り組んでいくつもりです。

『三輪』における小書「神遊」の効果投稿日:2018-06-07

『三輪』における小書「神遊」の効果
女姿の男神

粟谷 明生


第八十二回粟谷能の会 粟谷菊生一周忌追善(平成十九年十月十四日・於 国立能楽堂)にて『三輪』「神遊」(かみあそび)を披きました。「神遊」は青年時代から先人たちの舞台を楽屋裏や地謡座から拝見しながら、「いずれ自分もあのような装束で、あのように舞えれば」と憧れた小書です。『道成寺』を披いてから許される、という流儀内の暗黙の了解事項があるほど位が高い小書でもあります。
今回の番組を決めたのは二年前、父に地頭を謡ってもらいと考えていましたが、まさかその父の追善でこの大曲を勤めることになろうとは思ってもいませんでした。能楽師の憧れであるこの大曲を勤められたことを、きっと父は喜んでくれていると思っています。
今回勤めるに当たり、『三輪』「神遊」の主旨は何か、単に囃子の秘事の解明だけではなく、曲の深層部、真意などを探りたいと思いました。これらの作業、そして演能を通して、いまの自分の状況を客観視でき、今後の方針も考えるよい機会となりました。
『三輪』の前シテは里の女ですが実は三輪明神の化身です。後シテの三輪明神は男神であるにも関わらず女神として現れます。クセでは古来より三輪山に鎮座する別の祭神、蛇神の神婚説話を取り入れ里の女になりすまし、また天の岩戸の伝説のくだりでは天照大神にも代わります。単に三輪神社の祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)という設定だけではない、様々なものが混じりあっています。
この複雑な神の役どころをどのように演じればいいのか。そんな素朴な疑問を抱いてしまいました。女姿ですから艶やかに、天照大神ならば堂々として、などといろいろ考えますが結局答えは、一能役者の習得した謡の力と型の美に落ち着くのではないでしょうか。天照大神また蛇神云々と言っても、型として清麗なもの、神楽を厳かに華麗に舞うことを第一とするしかなく、また先人たちもそのように取り組んでこられたのでは、と思いました。
能『三輪』は四番目ものですが、脇能的な要素も多い曲です。宗教的なメッセージを多分に持ちながらも、芸能を観て楽しんでいただくという娯楽的要素が強い能と言えます。ですから演者は脇能を勤めるときと同様に淡々と落ち度なく、神舞や神楽を舞い、一心に勤める気持ちを優先させることが大事だと思いました。
では次に、小書について考えてみます。『三輪』には各流独自の重い習の小書があります。観世流では宗家の「誓納」、片山家ご自慢の「白式神神楽」、金剛流では「神道」が演能され、金春流は近年金春信高氏が「三光」を作られています。喜多流の小書は「神遊」と呼ばれ、宝生流のみ小書を持ちませんが、作品の主旨を外したくない意図が強く残った結果かもしれません。
今回取り組んだ喜多流の重い習「神遊」はどのようにして命名されたのでしょうか。そもそも神遊とは、天照大神の岩戸隠れによりこの世が暗闇となり、それを嘆いた神々が相談して岩戸の前で舞い歌い魂を呼び入れたことをいいます。その鎮魂の奏法全体を表現しようとするのが「神遊」です。ですから神々の戯れや歓喜する様すべてを表したいため、巫女的要素を入れず、また天鈿女命(あまのうずめのみこと)の舞であると考えられる御幣や榊などを敢えて持たずに、扇(中啓)で舞い通します。
『三輪』は小書が付くと吉田神道の影響からか、囃子事に関する秘事口伝が加わります。流儀の「神遊」でも、前場はワキ方に音取(笛の独奏)や置鼓(小鼓の独奏)が囃され、シテ方は習次第(ならいのしだい)に三編返(さんべんがえし=次第、地取、次第と繰り返す)と脇能的で儀式的な演出に替わります。これは得てして楽屋内の約束事に縛られすぎて作品の本位から外れることになりがちです。今回芸術的な趣向とかけ離れるのを避け、ワキの宝生欣哉氏と御相談して脇方の習の音取や置鼓はやめて、自らも三編返を行なわずに勤めました。
習次第と呼ばれる特殊な次第は、喜多流では老女物の『卒都婆小町』『檜垣』と『道成寺』そして『三輪』「神遊」にのみ囃されます。老女物二曲は老いの位を際立たせる演出といえます。『道成寺』と『三輪』も位を上げることに変わりはありませんが、両曲に共通する「蛇体」の執心の強調とも神聖視とも捉えられています。観客にはシテの重々しい登場が、あの正体はなんだろうと興味をそそらせます。
昔、観世銕之亟先生(八世静雪)が、「『三輪』の次第は、三輪山への距離感ね。いまのように簡単に楽には行けないんだよ。だって三輪の山本道も無しって謡うだろ? サラサラ出てきたんじゃダメだよ」と仰ってました。いつか自分が演じるときには、と心がけてきた言葉です。
装束は通常の長絹が狩衣に替わり鬘は喝食鬘で結います。喝食鬘は鬘帯を使用しないため、王朝趣味が取り除かれ太古のイメージが膨らみます。三輪明神は男神ですが、女姿に男の烏帽子と狩衣を着るという不思議な取り合わせとなりますが、これが能楽師が憧れる魅力的な格好なのです。
面については、前場の曲見は常と変わらず、後場は父が生涯愛用した「堰」の小面を使いました。喜多流は後場では小面が決まりですが、天照大神というスケールの大きな神を、かわいい、愛らしい表情の小面では成立しにくいので、他のものをとも考えました。しかし初演であり、父の一周忌でもあるので、父が大事にしていた「堰」をつけて手向けようと思いました。「堰」は父のもの、これからもそっとしておいてあげよう、との思いもありましたが、能夫の「使ってみて今度は明生君の魂を吹き込んでみたら・・・」という言葉に押され使うことにしました。
後場の「ちはやふる・・・」の謡は難しいです。引廻しがはられた作り物の中で謡うため、声が籠もりがちで聞こえづらくなるので大きな声が必要です。といって大声ならばいい、というわけではありません。高音で張りのある声で神の心を謡うというのですが、苦心するところです。
仕舞所となるクセの前半はじっくり動かずに床几に掛けたままで、進行を地謡に任せ、上羽前の「さすが別れの悲しさに」からシテは作り物から出て舞い始めます。作り物に左袖を掛けたり、留めに足拍子を踏み、「語るにつけて恥ずかしや」と面を隠す型など、「神遊」特有の型となります。
そしていよいよロンギから神楽となります。「神遊」の面白さはこの神楽の構成にあります。序は六つと通常より増え、足拍子も常と替わり複雑になります。通常の神楽は神楽の部分と神舞(時には中之舞や序之舞)が一体となって構成されていますが、「神遊」は神楽と後半の舞とを分けています。後の神舞を破之舞に替え、短い二段構成とします。神楽が終わると「天の岩戸を引き立てて」のシテ謡になり「人の面、白々と見ゆる」で破之舞となります。破之舞ははじめを舞台で舞い、途中から橋掛りに行き、二の松で左袖を頭上に担いで岩戸隠れを表す『翁』と同様の型をして、すぐに橋掛りから舞台に戻りはじめます。はじめはゆっくり、徐々に勢いを増して日がさす有様を見せ、本舞台に入ると袖をはねて『翁』の左袖を巻く型となり、神々の歓喜を表して「妙なるはじめの物語」と一段落します。
神楽の譜は笛方の流儀により異なります。一噌流が常の神楽の譜と変わらないのに対して、森田流は「神遊」特有の譜があり、したがって森田流でなくては「神遊」の面白さは半減します。森田流は序のあとに、ラア、ラア、ラア、ラア、ラア、ラアと長い反復の吹き返しから始まり、二段目に十のユリや七つユリなどの、見ている者も陶酔するような特殊な譜となり雰囲気を盛り上げます。
楽屋内の話ですが、一時森田流寺井政数家では、大小鼓・太鼓と手組が揃わず具合が悪く、いつか改善出来ないものかと思っていました。我が家の伝書は、現在森田流のまとめ役をなさっている杉市和氏の譜と同様なので、この度中谷明氏のご了解を得て、槻宅聡氏には杉家の譜で吹いていただきました。これで長年のかけ違いが改善されました。
今回、小書「神遊」を調べ、独特な譜や重い習を学び、クセの神婚説話のくだりも改めて読み直し、幼くてはわからない艶やかな内側の部分も知りました。資料を調べ、稽古を重ねていくと、次第にその曲の持つ魅力を知り、その作品に引きつけられます。『野宮』や『井筒』などはもとより、はじめは気乗りのしなかった『千寿』や『盛久』でさえ勤めるとその魅力に惹かれていきます。これは正直能楽師でしか味わえない喜びです。
『三輪』は魅力ある曲で、且つ憧れる曲ですが、稽古を積めば積むほど、その深さや味わいを知れば知るほど、不思議と演じにくさを覚えました。
どうしてなのか?「神遊」は破之舞で『翁』の型があるように、『翁』と共通する祭事の儀礼的要素がふんだんに込められ、それが人間の感情的なものを拒んでいるように思えます。女神のような気高さと色模様を含む神話の豊かさ、流麗な型と躍動感あるリズムに酔うこの曲の良さは充分判りながらも、いま一つ踏み越えられないものがあるとしたら、それは人間を扱うものとそうでないものの違いではないでしょうか、それがいまの私の素直な感想です。
『翁』や『高砂』、『絵馬』も同様、祭事としては手応えがある位高い曲です。しかし、私の心に活力や遣り甲斐を持たせてくれるお能は、人間の苦悩や喜びをテーマにしたもののようです。もっと年を経て人間の苦悩や喜びを突き抜けて憂き世を達観するほどになればまた違った境地になるのかもしれませんが、今の私がその年々の能を見つめるとき、正直そんな思いにとらわれているのです。もしかしてそう思わせているのは『三輪』の神力なのかもしれません。
*(「粟谷能の会」のホームページ演能レポートで内容補足&写真も掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)

写真 三輪 シテ 粟谷明生
(平成19年10月14日 粟谷能の会 撮影 石田 裕)

我流『年来稽古条々』(22)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(22)
   稽古の原点を見つめる

粟谷 能夫
粟谷 明生


明生 子方時代から青年期へと、稽古を振り返り、『翁』まで話し合ってきました。自分たちの能を追及し、さらに大曲に挑むなどをしてきましたが、話はもう現在の私たちにまで迫って来ていると思います。そこで、時系列で語るところから一歩離れて、稽古そのものについて、原点に戻って話してみたいと思うのですが。 


能夫 稽古の原点ね。世阿弥は『風姿花伝』で「稽古は強かれ、情識はなかれ」と書いているね。稽古は厳しく、そこに自分の情、つまり自分勝手な考えを入れるな、と。


明生 基本ですね。子供の頃の稽古は理屈ではなく、ただ教えられた通りに、無心に覚えることを第一としますね。父の時代も、我々の子供のころの稽古もまさにそうで、これからも変わらないと思います。強烈な叩き込みですね。


能夫 そうだね。基礎習得までは、あまり頭でっかちになってはいけないのだろうね。


明生 稽古方法は反復運動ですね。一言に稽古と言っても謡と舞とがありますが、子供の頃の謡は意味も判らず丸暗記です。でも、そこで覚えたものは大人になっても間違えないですね。四十歳越して覚えた『伯母捨』などもう綺麗さっぱり忘れていますよ。(笑)


能夫 子供のころの稽古というのは嫌とか、そういうことはなかったんじゃない。


明生 そうですね。余計なことは考えずに、親や先生に言われるままに、素直でしたね。

能夫 僕は稽古が苦にならなかったよ。お能が好きだったからね。わけが判らないうちに好きになっていたんだね。


明生 お能が好きになるような環境があったからじゃないですか。


能夫 親が意識したかどうかわからないけれど、好きになるような環境を作ってくれていたんだね。僕が子供の頃、ガラスの電灯の笠をめがけて『道成寺』の真似事をして駆け込んだりしていたらしいから。自分では覚えていないよ。


明生 私も腰に刀を差して風呂敷を身体に巻いて「うう??」と唸っては刀でお能ごっこをしていました。観世三兄弟(観世寿夫、榮夫、静夫)の先生方もそうだったといいますね。華雪先生に子供用の装束を作ってもらいお能ごっこ、ここまでくると位の違いを痛感しますね。(笑)


能夫 能舞台とか楽屋とかいろいろ連れて行ってもらったしね。そういう環境づくり、それも子供教育というか稽古の一つの形でしょうね。


明生 茶道の小堀遠州流の「稽古照今」という言葉が僕は好きで、古を稽(かんがえ)今に照らす、基本をしっかり踏まえた上で今の自分を輝かせる、そう解釈していますが、いい言葉でしょ。世阿弥の「稽古は強かれ、情識はなかれ」にも通じますね。ただ、無心に強く稽古をする・・・。


能夫 そう、稽古は強かれだよ。


明生 強かれ、固い感じがしますが基本ですね。自分の昔を思い出すと小学生までは波風たたないですむのですが、これが中学ぐらいになって声変わりして、思うように自分の声が出ない、お能というものは自分にとって何なのだろう、なんて思い出すと、ただ言われるままの稽古というものを考え始めるようになりますね。


能夫 そのころになると、いろいろな能にふれて、能の善し悪しが多少見えてくるわけだよ。格好いい人もいれば、ちょっとギクシャクしていると感じさせられるものも見えてくる。小学生の頃とはまた違う考えが起こるよ。自分もあの格好いい人を真似たいとか、確固たるものに近づきたいという発想が芽生えてくる。そういうものが自分のなかにはあったと思うね。そのために確かな技術を獲得したいと、ね。親に言われる押しつけではなくと、自分で思ったものね。


明生 それは反逆児の私からするとご立派!と尊敬しちゃいます。(笑) 私はそこまで至っていませんでしたから。指導についてですが、狂言方は生涯親子で稽古をするでしょ。耕ちゃん(故野村万之丞)が太良先生(野村萬)に習うことについての善し悪しを話してくれたことがあります。また武司君(野村萬斎)からも万作先生(野村万作)に習う心の内みたいなものを聞いたことがありますが、そういう家族主義というか、家族で伝承していく形態ができ上がっている。何歳頃には何を披かせ次は何、という道が確立しています。似ているようで私たちとは少し違いますね。若い時分は実先生(十五世宗家喜多実)にお習いし、お互い、小さいときは父親に習っているとはいっても、狂言方のようなアットホームなものとは違いますから。


能夫 親子での稽古法が確立していて、いい関係で出来れば、それはすばらしいと思うよ。しかし親に習うというのは案外難しい面もあるからね。僕が若いころに寿夫さんに憧れて、親父の能を否定していた時期があったし、明生君だって、親たちのやっている能に反発したことがあったでしょ。だから親以外の人に習うのも悪くはないし利点もあるわけ、他流に目を向けることも悪くはないと思う。僕も遠回りはしたような気もするけれど、お能のすばらしさをより強く知ったし、またそれがあるからこそ父たちの能を見つめることもできたからね。


明生 能夫さんの場合は遠回りでなく、もっとも近道したんじゃないの。(笑)


能夫 明生君も反発したけれど、力強く戻ってきたね。


明生 そこですね。戻れるかどうかですよ。私はうまく戻してもらいましたが・・・。狂言方の人たちだって親子で反発する時期はあると思うけれど、一緒にいなければ興業が成立しないから、何とか、悪い言葉ですが騙しながらもやって、そして成長していくのでしょうね。シテ方の場合は、その青年期を上手く乗り切れないで離れていく人も出てくるわけです。だから青年期の稽古というのは教わる方も教える方も難しいと思います。


能夫 その時期は辛抱強くね。他流に気持ちが行くならそれもいい。気持ちが離れる人には、いろいろな仕掛けをして、いい能にふれさせるとか、能に何らかで参加させるとか、他のすばらしい能楽師と話す機会をつくるとかね。明生君にも僕はずいぶん仕掛けをしたんだよ。


明生 ありがとうございます。能夫さんも辛抱強くですね。(笑)


能夫 純粋培養だけでなく、いろいろなものにぶつかって体験をして戻ってくるのもいいんじゃない。そしてまた、家の子でなくとも、逆に青年期に能にめざめて門をたたく人もいるわけでしょ。そういう人たちを受け入れる開かれた面もあるわけで、これからはそこを充実させなくてはいけないし。そこで内にいた人も外から来る人も刺激しあえばいいね。そして究極は、憧れの能に近づきたいという気持ちが大事でしょ。そうすれば自ずと自分で技を磨こうという気持ちになるし。そういう意味では指導者が憧れられるような能を舞っていなければならないということだね。


明生 父が「俺が演っていることが教えていること」って言っていました。手取り足取り教えるわけではないが、いい謡を謡い、よい能を舞う、それが指導だと。最初は何言っているんだ、逃げみたいな意見と思っていましたが、今はよくわかります。父はあのように謡っていたな、と思い出しますからね。


能夫 我々もそういうことが言えるような能を舞っていかなければならないね。


明生 基本的な技術、たとえば舞は型を間違えずに、謡は調子を外さないでうまく合わせるとか、そういうことが完璧に出来たとしても、そこで止まっていては駄目で、その次に何をすべきか、というと結局、そこは誰も教えてくれません。だからそこから先は自分で尋ねていくしかないわけで、それが大人の能役者の味わう一つ壁ですね。そこを乗り越える事が必要となります。まさに照今でしょう。


能夫 そうだね、それまで蓄積してきたもの、それに何かもう一つプラスする作業、そういう問題意識を持つことね。僕は稽古で一番大事だと思うことは、集中力の維持ということ。例えば、『半蔀』を稽古していると、ああ、ここからは序ノ舞だ、ここからはキリだと、それぞれのパーツはさんざん稽古を積んでいるわけですから、そこに来ると流してしまうことがある。


明生 ありますね。サシまで来ると、あとは舞囃子で演っているから大丈夫なんて、勝手に思ってしまい型附を読まなくなる。ところが、能では違うということもありますね。


能夫 そうなんだよ。座敷謡や座敷舞とは違う。実際、伝書に座敷舞ではこうだがお能ではこうだなんて書いてあって、発見があるよね。だからお能一曲を通じて、どういうふうに謡い舞うのかということを意識しないといけない。伝書を読んだり、過去の人の能を思い出したりして、自分自身のお能を創っていかなければならないからね。


明生 それはもう自分自身で創り上げていくしかない。特にある年齢になったら誰も手を差し伸べてくれませんから。


能夫 それでも明生君は友枝昭世さんに習って最終チェックをしてもらっているからいいじゃない。僕はそれがないから、親父が書いてくれたものや伝書を見たり、これまで自分がいずれはこうやるぞと思いをためていたものとか、そういう自分を信じてやるしかないんだよ。


明生 それぞれのやり方があっていいと思いますね。私は披『道成寺』の時に志願して友枝師についた、能夫さんは誰にも習わずに自分のスタイルを確立していく道を選んだ。能楽師は最善の方法を自分自身で選択していかなければいけないということでしょうね。今の喜多流はそこの自由があり恵まれた環境だと思います。


能夫 自己責任ということだね。僕だって自分勝手に演っているというわけではないよ。その都度、菊生叔父に聞いたり、友枝さんにも聞いたりして、そういうところはきちっとクリアして、自分なりのものをと考えているよ。先人が演ってこられたもの、そういう情報、それに他流の人と話したときに、知ったこと、そういう諜報活動みたいなこともして、自分の能を創り出す、足し算が必要なんだよ。


明生 自分から教えを乞う前向きな足し算ですね。三番目物は技術面をクリアー出来ただけでは作品を手がけたと言えませんね、『野宮』や『定家』など特に感じますが、三番目物には足し算が必須ということですね。


能夫 そういう曲にどう取り組むかだな。明生君がよくいっているけれど、大曲にも早く取り組むべきだって。


明生 少し背伸びしてやれるぐらいのときに一回勤め、それで二回、三回と演って完成させていく、それが能役者の宿命でしょ。それも稽古の一つ。


能夫 この間の『定家』を振り返るとね。披きのときは、憧れの曲、大事な曲に体当たりするんだという、すごい緊張感で構えていたよね。それが二度目になると意外とリラックスしてできるようになる。一度演って余裕みたいなものができるというか、成長できたというのかな・・・。


明生 無駄な力が抜ける?


能夫 そうね。一回目ではどう頑張ってもそうはならないからね。だから、年齢的にはやや若くてもできるときに積極的にやって、それでまたやり直しをするというのが本物の前向きということかな。


明生 時々の初心というのですかね。その時々に真剣に取り組み、そこにその時々の自分の能を創る。「稽古照今」という言葉いいでしょう。


能夫 「稽古照今」だね。僕ぐらいの年齢になると生きていることすべてが稽古という気もしてくるな。


明生 そうですね。その人の生き方、人生、経験がすべてお能に反映されるということをつくづく感じますね。

能夫 時々の初心をどう出せるか。お互いに自分の人生をかけて稽古しよう。お能はそれだけの価値がありますよ。             

(平成19年10月記)

生命の輝きと息吹投稿日:2018-06-07

生命の輝きと息吹

粟谷能夫

萌え出ずる新緑の山々を見ていると、生命の輝きや息吹といったものを感ずるとともに、ほっとするような安心感にとらわれます。これは我々日本人の持っている共通の感覚といっていいでしょう。もしかしたら農耕民族として主に草食であったことの記憶であるのかもしれません。
 昨年の十月に菊生叔父を失いました。当初は突然のことで色々対応に追われて時を過しておりました。今年になり大きな喪失感に見舞われています。
 父新太郎の亡くなったときは、長期療養でもあり自然と覚悟ができておりました。とても悲しくはありましたが、又一面では、今こそ私の時代が来たような、ようしがんばるぞというような気持ちになったことを覚えています。今回の菊生叔父の死はあまりにも突然のことで驚くばかりでした。昨年十月三日(火)にNHKにて番囃子「頼政」の録音をし、おれが死んだときの追悼番組に使うために録音するんだろう、などと冗談を云っていた菊生叔父の姿が頭に残っていて、離れません。二日後に倒れるなどと信じられない・・・、それほど元気でした。
粟谷能の会にとりましても、父新太郎と菊生叔父の功績は多大なものがありました。祖父益二郎が亡くなりました後、二人で、益二郎追善として粟谷兄弟能を立ち上げ、それが粟谷能の会となって、今日に至っております。
 粟谷能の会の牽引者であった二人を失い戸惑いは隠せませんが、新太郎、菊生がやってきたように、これからは、能夫と明生で責任を持ってやっていけということだと自覚して、本年を迎えた次第です。そして今、命の輝きや息吹に後押しされ、励まされているようです。
 能は人間の心にうったえかける芸能だと感じています。人の生き死に、愛と別れ、執心と救い、人間のあらゆる情念に深く分け入り、それを詩情豊かに美しく、ときには激しく、描き出してきました。長く伝わる型のなかには、それらのさまざまな人間の感情や運命が宿っています。演者は型の動きを真似るだけでなく、型にこめられた、曲の本質を自らの肉体を通して発露するという作業をしなくてはならない、そうでなければ観客の心を動かすことはできないと思います。人間の心に強く訴えかけ体感の残るような舞台をめざさなければと初心を新たにしています。
 十月の粟谷能の会は粟谷菊生一周忌追善として、明生は『三輪』(神遊)、私は『石橋』とそれぞれ大曲に臨ませていただきます。父や叔父の志を受け継ぎ、全力で取り組みたいと思っております。
 今後ともよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

写真 定家 シテ 粟谷能夫 粟谷能の会 撮影 石田 裕

鼎談投稿日:2018-06-07

鼎談

粟谷 能夫
粟谷 明生
笠井 賢一


明生 前号に引き続き、菊生を偲んで、三人で語り合っていきたいと思います。祖父益二郎には女の子が一人いましたが早世してしまい、四人の息子全員を能楽師にしました。菊生はその次男です。父から聞いた話ですが、茂山千作(当時千五郎)氏に、「粟谷さんとこはご兄弟うまくいってますな、お宅のようになるには、うちはどないしたらよろしいか?」と聞かれたと。父はその秘訣を話したらそく、何年後に「七五三(しめ)ちゃんにお宅の通りやって間違いおまへんな」と言われたと、話してくれました。


笠井 その秘訣というのはどういうこと?


明生 次男は長男を立て、三男は次男を立てる。次男は長男の三倍の努力、三男はその倍の努力と・・・。兄貴をたて、マネージメントは全部次男坊。そして装束、舞台を持たない!っと。そして必ず、昔のたばこでスリーエーという銘柄の模様を例に出しては、益二郎が亡くなって粟谷の力が弱くなったときに、頂点が二つも三つもあっては力が分散するからよくない、弟は一歩下がって兄をもり立てる、頂点は一つの方が強い、これが秘訣!と、まあ、私によく諭すように話していました。


能夫 だから菊生叔父は、面も装束も舞台も本当に持たなかったね。すべて本家を立てるということで・・・。


明生 それでも五十歳を過ぎてからは、舞台上のことではは、自分もそろそろ自己主張したい時期にきたからと、スリーエーの一点になろうと・・・。演能の依頼があったら、それまでは聞かなかった、「新太郎へですか?」「菊生へですか?」を聞くからと宣言したようです。もちろん長男を立てる姿勢は崩さずにいました。私は能夫さんとは従兄弟ですが、浩之君も充雄君もみな、そのように教育を受けていますから、私は本家を立てますし、浩之君も充雄君も私たちを立ててくれて今のところ皆うまくいっています。能夫さんは「明生君、次はこれを舞っておくといいよ」と大曲やその時期にしておくべき曲目を積極的に薦めてくれますし、全く問題ない状態です。
 もっとも、能夫さんは子供のころ、菊生が長男だと思っていたのですよね。(笑)


能夫 そうなんだよ。だって、我が家にズカズカ入ってきて、てきぱきとものを決めていくから、長男だと思っていたよ。親父がおばあちゃんの面倒みているのに、どうして菊生叔父の方が威張っているんだろうってね・・・。(笑)
菊生叔父は対外的な窓口の立場をうまくこなしていたし、顔も広くて、何か主導者的なものを強く感じさせられましたね。


明生 多方面に交流関係が広かったですから・・・。新太郎伯父はやはり本家で、粟谷家の中心にどっしりと構えている感じで、菊生は次男として活発に外周りを・・・、いつも家にいませんでしたから、外周り専門?


笠井 次男だから長男を立てる。だから舞台も何も持たない。その代わり、自分は自分の世界で遊び、独特の世界をもつようになった、芸にも反映させていったという解釈もできます。次男気質ということもあるし、本来持っている人なつっこい気質もあったと思う。お酒を愛し、人との語らいを愛し、自由奔放な生き方をした人ですよ。


能夫 それはよくわかりますね。


明生 それだからこそ、魅力的な菊生の能を創りだせたということになるのでしょうが・・・。


笠井 ところで、能夫さんは寿夫イズムにかぶれて、新太郎さんとぶつかったという話は聞いているけれど、明生さんは菊生さんとはどうだったの。


明生 私は一回、父と取っ組み合いの喧嘩をしたことがあります。父は、父親と息子というのは、一度はそういう喧嘩をしなければ駄目だ、といっていましたが・・・。


笠井 どういうことで喧嘩を? 芸のこと?


明生 芸のことで言い合うことはありましたが、その一度の取っ組み合いの喧嘩はたわいもないことですよ。私が「能楽師なんてやる気ない」と反発して・・・。おやじも誰も謡の指導をしないのに、どうして出来るんだよ!ってね。


笠井 爆発したの。たわいなくないよ。能楽師として一大事だ。それはいつごろのこと?


明生 高校一年生ぐらいですかね。シテ方の親子というのはなかなかうまく教え、教えられるという関係を作るのがむずかしいと思いますね・・・


能夫 僕も親父とはよくぶつかったけど、それでも家には面はあるし装束はある、舞台もあるから、そういう座というようなところで育っているわけ。だから反発していても親父の姿が見えるし、常に能の環境のなかにいるわけですよ。だから、子供のころからずっと能は好きでした。でも明生君は親の姿を日常的に見ていないから、あれだけ子方をやっても、中学、高校ぐらいになって、気持ちが少し離れるのは無理もなかったかもしれないね。


笠井 確かに。銕仙会の三兄弟、寿夫、榮夫、静夫さんたちは、華雪おじいちゃんがいらして、子供用の装束を作ってくれてお能ごっこをして遊んでいたのだから、それは自然と好きになりますよ。


明生 今は華雪先生や能夫さんのような環境を持っている方が特別で、私のような環境の方のほうが多いのではないでしょうか。いや、私が特別ですかね。


笠井 それは、今後の能楽界の課題でしょうね。


明生 それで、父はそういう喧嘩をすると、父親は息子に殴られることで子が思いの外成長していることを実感する、子は子で、子どもの時に描いていた父親像より案外弱くなっていることを知ってしまう。それがいい、世界が変わるから、と言っていました。


笠井 一度、父親を否定しない限り、親を越えられないのだと思いますよ。


能夫 僕は実先生の指導を受けながら、先生や父、伯父の謡い方に違和感を覚えるようになって・・・。そこで寿夫さんや銕仙会の人たちにふれて、地謡の重要性というかシテと対峙する姿勢、そんな衝撃波を受けたわけ。舞っていればいい、謡いは二の次という風潮では通用しない、と外を見て感じたわけですよ。まあその後だいぶ経ちまして、親父たちの謡、益二郎の謡いみたいなものを、見直すようにもなるんですが。そうそう、うちの親父は僕の育成係を菊生叔父に任せたんですよ。


笠井 能夫さんは寿夫さんに真っ赤っかにかぶれていたから、親父さんたちも危機感を持ったのだろうね。


能夫 そう。だから喜多流本流に戻す方便として、菊生叔父に委託したのだと思いますよ。そんな風に親に反発しながらも、あるとき、父の謡や能のよさを知る、親も懸命にやってきたことを知り、自分にもこのDNAが流れていることに気づかされる。それで今度は本当の意味で、親に出会うのだと思う。


明生 そう、一回否定して、そしてまた「出会う」。


能夫 それで親の大きさ、ありがたさがわかるのですよ。


明生 まさに今、それを感じています。父たちも外の刺激をずいぶん受けていますよ。能夫さんが寿夫さんの影響を受けたように、父も観世三兄弟の影響を受けている、そう申していましたし、父はベネチアの国際演劇祭に行ったでしょ。


笠井 ああ、昭和二十九年の第一回能楽渡欧団ね。


明生 観世三兄弟もご一緒だったようで、この公演の話となると決まって父が話すことがありました。どこかの公演で靴を履いたまま現地の外人スタッフが舞台を掃いているので、団長(喜多実先生)が「だれか舞台を拭いてこい!」と仰った、もう始まる寸前だったが、直ぐに雑巾掛けをしたのが榮ちゃん(観世榮夫)と僕だよ。紋付をたすきがけして袴をたくし上げて中腰で、すーっと橋掛を拭いていたら、既に会場入りしていた観客から拍手が湧いたよ、拭いたのは榮ちゃんと僕で、揚げ幕の内から雑巾を絞って手渡ししていたのは、観世の御曹司で・・・。すいません、これは脱線してしまいました。まあ、そこでいろいろ刺激を受けたということです。その後も亡くなるまで親しくおつき合いさせていただきましたね。父の広い交流で、私はそのジュニア世代と、親しくお付き合いさせていただいています。能夫さんは他流では浅井文義さんとか櫻間金記さんとかお仲間がいらっしゃるが、私は父を通して、例えば武田喜永さんのご子息孝史さんや金井章さんの雄資さんとか観世銕之丞さん、故観世清顕さん皆ジュニア仲間というか・・・。もっともすべて森 常好さんや金春国和さんや耕ちゃん(故野村万之丞)を通してでしたが。他流の人と話すといろいろ刺激を受けますね。


笠井 そういう意味では親父さんたちが、外とのいいつながりをつくってくれたわけだね。それで能夫さんは菊生さんから指導を受け、謡を学んでいった・・・。


能夫 鍛えられたというかね。あるときから、菊生叔父から隣で謡ってくれというオーダーが出るようになった。


笠井 四十代ぐらいのこと?


能夫 そうねえ、十五年ぐらい前かな。二十年ぐらい前から一緒に謡ってはいるけど。


明生 父は晩年、大事な曲をやるときは、能夫を左に置いて、前には明生がいればいいと言ってくれました。それだけ言われるということは嬉しいし、励みになりました。晩年の菊生は地謡の評価が高かったという話が前号でも出ましたが、その確かな一ページが開かれたのは、京都での友枝昭世さんの『朝長』小書「懺法」のときだと私は思います。十五年ぐらい前かな。『朝長』という曲は、喜多流では地謡の位取りがきっちりとは決まっていない状況です。六平太先生の時の緩急と、実先生が違い。そして父の謡も、謡う度に違うというものだったので、「どのように謡うのかを決めてほしい、そうでなければ前列は謡えない」と口論になった。そうしたら友枝さんが、「まあまあアッ君、そういういい加減なところのよさが菊生先生のいいところなんだ。僕はその謡についていくから大丈夫、心配ない!」って、この一言でことは終わったのですが。私たち前列もそれに合わせられる力量をつければいいのか、と学んだわけです。


笠井 臨機応変というか・・・ね。


明生 それは父が謡う、という認識と、地頭という重さを教えられた一番だったと、私は思っています。地頭が力を尽くし、それにあわせて、地謡が全員一緒になって作りあげる、そういう意識になったことを覚えています。


能夫 確かに、喜多流をあげて行こうやというね。


明生 京都での喜多流の公演は、敵陣にて勤めるようなものですからね。ましてや小書「懺法」でしたから。


能夫 喜多流では初演かな? 重い小書だからね。


明生 その後、父は地頭として、能夫さんや私の舞台を支えてくれました。父は半分は能夫さんの父親でもあったように思えますよ。特に新太郎伯父が倒れてからは新太郎の代わりに能夫さんの親代わりというか、粟谷能の会の責任者というか、そういう気持ちがすごくあって、能夫さんを盛り立てていこうと・・・ね。


能夫 僕を育ててくれました。


明生 能夫さんのためにというのは、阿吽の『芭蕉』について書いていますが、それにはわけがあるわけで・・・。僕に『野宮』を舞わせ、『卒都婆小町』、『伯母捨』を薦めたのは能夫だから、その感謝の気持ちというのが本音です。『野宮』を決めたときは・・・。能夫さんが「何故叔父ちゃん演らないの? やったらいいじゃないですか」と言ったら、僕の思うような地謡をまだ謡ってくれないからできない・・・って。まあ、それぐらい『野宮』を大事に思っていたようでして。


能夫 能楽師にとって『野宮』ができるということは誉れですから。その人の人生を背負って舞台に立たなければならない曲ですし。能楽師の成長の証の曲でもありますから。


笠井 生き死にや、痛みの深さ、喪失感の深さ、それを表現しなければならない、すごい曲ですからね。


明生 能夫さんが『野宮』を、その二年後に『卒都婆小町』を、またその二年後に『伯母捨』をと薦めてくれたわけです。


能夫 明生君も一緒に話をしたね。


笠井 それはすごい。お二人が、菊生さんの六十代、七十代のプロデュースをしたわけだね。


明生 それで、父は能夫の言うことを聞いていれば間違いないと、我々の意見を聞いてくれていろいろなことに取り組んでくれたのです。高齢になるとどうしても我が儘になりますから、自分で自分をプロデュースするのがだんだん難しく、また億劫になりがちですから、まわりにそれをしてくれる誰かがいないといけないと思います。能夫さんは「菊生伯父の晩節を汚さないように、、僕らがフォローしますから」って父に常に言っていましたね。


能夫 それはすごく頑張りましたよ。


明生 能を舞わないことを決断したときは、私のところに周りから、いろいろご注意もありました。何でやめさせるのか、って。


能夫 まだ舞えるじゃないかって。確かにありました。


明生 「お父様はまだできると言っています」って。


笠井 言っているのかもしれないな。


明生 能夫と明生が結託して舞わせてくれないんだ、と冗談で言ってたみたいです。まあ、父は怪人二十面相だから、二面性がありまして。でも、能夫さんの「晩節を汚さない」、この一言に尽きますよ。結局納得してたんですよ。


能夫 ウフフ、そうね。


笠井 その結果、いい意味で功なり名を遂げられた。人間国宝にもなり芸術院会員にもなり、ほとんどすべての名誉をいただいた。それでいて変に孤立することもなかったし、変に権威ぶらなかったしね。


能夫 「大好きな菊生さん」と萬さんが言ってくれるぐらいで、人柄、人徳ですかね。人情味もあった。一つの時代が終わったという感じがすごくします。いい時代だった。


明生 反発もしましたけれど、支えてもらっていたんだなって。親が亡くならないと、わからないことってたくさんありますね。


能夫 本当にそう。それで成長するの。


明生 それにしても、父は私がこの年になるまでよく頑張ってくれたと思います。もうお前も抵抗力ができただろう、自分たちでやっていけるだろう?って・・・。


能夫 我々にいろいろなことを伝えてくれてね。まあ勝手に、そこのけそこのけで生きてきた人かもしれないけど、その中に真実があったというか、家族に対する愛も、粟谷家に対する愛も、能に対する愛も、人一倍あった人だったよね。そんな気がする・・・。


明生 そうですね。
(終わり)

写真 粟谷菊生 近影 平成18年8月2日 読売新聞取材時 撮影 亀田邦平

阿吽24投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信

粟谷菊生を偲ぶ その一投稿日:2018-06-07

鼎談
粟谷菊生を偲ぶ その一

粟谷 能夫
                  粟谷 明生
                  笠井 賢一

 

明生 今号は粟谷菊生の追悼号ということですから、「我流年来稽古条々」は次号にかけて、阿吽発起人の笠井さんにも加わっていただき、菊生を偲ぶ鼎談義としたいと思います。

笠井 菊生さんという方は、年齢を重ねるほどに独自の持ち味を発揮されましたね。この阿吽の最後の文章「写真集と弔辞」(22号)も粋じゃないですか。写真集に寄せられた各氏の文章を読んで感激し、これをそのまま弔辞にしてほしいと思った、生きているうちに手向けの言葉をいただけるなんて、何と幸せかという語り口ね。飄逸というか、何ともいえないユーモアがあって。自分で追悼のことまで言ってね。

能夫 すべて自分でやって、さいならって逝った感じ。

笠井 まさにそう。功なり名遂げたというか・・・。

能夫 倒れる二日前に、NHKで『頼政』の番囃子を元気で録音したんだからね。

明生 録音の経緯は、NHKの方から、菊生先生の謡を記録として録音しておきたいという電話がありまして。

笠井 最初は放送予定なしだったの。

明生 そうです。私が「故人を偲ぶ」といういざというとき用のものでしょうとちょっとふざけて言いましたら電話口で笑っていらした。曲や配役はすべてお任せします、一番お気に入りで、ということでしたので父に相談しました。父は『頼政』だなと即答して、ワキは閑ちゃん(宝生閑氏)、アイもあるから太良ちゃん(野村萬氏)、笛は仙ちゃん(一噌仙幸氏)、とどんどん配役を決めていきました。父と親しかった方が顔をそろえて下さり無事録音は終了しました。その二日後に倒れて、一週間ほどで亡くなるのです。ですから。放送は本当に「故人を偲ぶ」になってしまいました。

能夫 だから全部段取りして逝ったようなものだね。写真集を出すのもそうでしょ。最初、僕たちが勧めたときは嫌だといっていたんだよね。

明生 父は写真集などで俺の能のすべてが表現出来るわけないだろう、と記録として残してほしい私たちの思いには少し抵抗していました。パッと、花火のようにそのとき輝けばいいの、という・・・、まさに生き様がそうでしたが。ですから、あの写真集を発刊された鳥居明雄さんには本当に感謝しています。鳥居さんは、私が出したいのです、先生は許可して下さればいいのです、売る必要もないし何もすることはありません、と父を説得なさって。結局、出来上がって一番喜んでいるのは本人じゃないのって、母が言っていました。

笠井 結局、菊生さんはおいくつでしたか。

明生 八十三歳。十月三十一日が誕生日ですから、もう少し頑張ってくれたら八十四歳になるところでした。欲を言えば、倒れるのをあと四日遅くして、粟谷能の会が終わってからなら・・・。でも何とか会の日を生きてくれたから、よかったです。頑張ってくれたのだと思います。

能夫 粟谷能の会は益二郎五十回忌追善能ですからね、頑張ってくださいよと言って、本人もその気だったよ。

笠井 プログラムにも菊生さんの思いが書かれているね。それを読むとちょっとたまらないな。

能夫 たまらないですよ。

明生 約束破りですよ。でも人間、完璧はないですから。

笠井 舞台には立てなかったけれど、五十回忌追善能への意気込みがああいう形で残っているのはいいことで、何ともいえず魅力ですよ。益二郎さんは『烏頭』の舞台で倒れ、菊生さんもそのようにありたいという舞台人魂みたいなものがあったわけでしょ。五、六日入院したけど、まさにその通りの燃焼し尽くした舞台人生でした。そして葬儀のときにあの笑顔(遺影)でしょ。あれを見たらみんなああいう風に生きたいと思いますよ。

能夫 菊生叔父は何回も入院して修羅場を潜り抜けているでしょ。その度に復活して元気な姿を見せてくれていたから、誰もがこんなに早く逝くとは思っていなかった・・・。でも叔父ちゃんらしいね。走って走って、バタッと倒れて。その前に全部やることやって・・・。

笠井 理想的だよ。男の本懐だよ。

明生 葬儀も多くの人のお骨折りをいただいて、日本能楽会と粟谷家の合同葬儀にしていただき、多くの人がご弔問に来てくださって、ありがたいことでした。普通は合同葬なんてありえないことですから。

能夫 現役の日本能楽会長だったから。そうでなければありえない。お手伝いの人も菊生さんのためにと自然と集まったね。人柄だよ、徳だよって、野村四郎さんも言われてたよ。

明生 父は人が好きで、にぎやかなことが好きだったから、喜んでくれたと思いますよ。

笠井 僕が初めて菊生さんの能を観たのは、広島での反核と平和のための能の会で、『黒塚』でした。もう二十数年前のことです。それは観世流とか他の流儀にないものでした。ズカッとした大きさ、スケール感があった。こざかしさがなくて、ああいう表現というのはすごいなと思った。その後別の曲もいろいろ観て行くと『班女』などはあのかわいさでしょ。そして晩年になるほどに、謡の味わいが深まって、粟谷能の会や喜多流の地謡を支えたというのは、ものすごい業績だと思いますよ。

能夫 それはそう。僕たちはずっと菊叔父ちゃんに寄りかかっていたもの。若い頃、僕は寿夫イズムだったから、新太郎や菊生の謡い方は嫌だなと反発しながら、それでも隣に座らせてもらって、それはそれで一つの喜びでした。本当に僕なんか、自分なりの「こうあるべし」でやってきたつもりだったけど、お釈迦様の掌で孫悟空が飛び回っているようなものだったんだね。それでも、最初から父や菊生叔父に右習いだったら、今のような関係にはならなかっただろうし。ぶつかり合いながらいいものができてきたのではないかと、勝手に思っていますよ。

明生 反発していても、知らず知らずに教わり洗脳されているのでしょうね。最近、はっと、あっ、これ父だと思うことがありますから。

能夫 ある年齢になって、素人会などで地方に連れて行ってもらうでしょ。それで一緒に謡ったり飲み会に出たりするうちに、叔父ちゃんはこう謡っているというのが徐々に、ジワジワと僕らの体に入ってくるんだよね。

明生 そうですね。地方で全然知らないお弟子さんが近寄って来て握手させられて、「今日のは粟谷の節ですな」などと言われると、次の会では「粟谷の節というのはね・・・」などとしゃべっている自分がいたりするわけですよ(笑い)。

能夫 そういうことで鍛えられたというかね。とにかく菊生叔父の隣で地謡を謡うのは楽しかった・・・。

笠井 菊生さんという人は地謡を楽しんだ人だったね。これはすごく大事なことですよ。それは寿夫さんもそうだったし、先代銕之亟さんもそうでした。能で一番大切なことだから。

明生 父はそういう思いで謡っていたと思います。晩年は謡での評価が多くなって喜んでいましたが、たまに能を舞っていた身体が利いたときのことも評価してほしいよ、とこぼしていましたが。これは内緒にしておいた方が・・・。父は能に好き嫌いはありませんでしたが、中でも現在物が大好きで、特に『安宅』、『満仲』はお得意で何度も勤め、大曲『正尊』も披いています、人が演らない曲も嫌がらずに勤め、俺の能はこれだ!というスタイルと自負があったように思います。益二郎は六平太先生の名地頭とばかり言われてきましたが、父は親父の能はすばらしかったんだ、『羽衣』の最後、スーッと消えていくところなどきれいなんだよと、何度も話していました。そして自分も、『弱法師』などは身体が冴えて杖扱いも巧みなときは取り上げないで、動けなくなったら地謡のことばかり、と愚痴っぽく私には漏らしたこともありました。

笠井 菊生さんの舞台人としての評価は、もちろん謡だけでなく、舞っているところの評価もしかるべきものがあると思う。でも、僕は体が動くときの芸というのは何ほどのものかと思うんだ。京舞の先代井上八千代さんは四十代後半で人間国宝になった破格の人です。その頃の『長刀八島』の映像が残っていて、それは技が切れて実によく動いていますが、今見てそれほど感動しない。それより、七十代、八十代の体が動かなくなったときの八千代さんの方がずっと存在感があり深い表現力があっていいんですよ。つまり、四十代で技が冴えた人が七十代、八十代、年を経て動けなくなったときにもたらす豊かさというのは何にも代えがたいものがあるんですよ。菊生さんという人はそういう芸の人だったと思います。それにプラスして謡の感性がある人だったということですよ。

能夫 それはいえるね。僕は十年、二十年、三十年と地謡で菊生叔父の隣に座って、いただいてきたものがあるから、それをこれから発揮しないといけないと思っている。菊生叔父の死は、単に一人の爺いがいなくなったということではなく、粟谷能の会としても、喜多流としても、地謡を謡える貴重な戦力を失ったということですよ。そういう認識をして、これから残されたものが頑張らないとね。

明生 本当に、これは流儀の活動としては、とても打撃をうけ痛いことですよ。益二郎が亡くなったとき、新太郎と菊生が追善能をやって、粟谷兄弟能を作り、我々にもレールを敷いてくれました。今度は、その保護者がいなくなって、本当に我々が中心になってしっかりやらなければ、もう一度スイッチを自分たちで入れ直せよ、と言われているとすごく感じています。

笠井 そういう意味では下地はできてきたし、そうやっていくことが供養になるということでしょう。(次号へつづく)

阿吽23投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信

写真集と弔辞投稿日:2018-06-07

写真集と弔辞

粟谷菊生

 

 此の度 国文学の鳥居明雄教授と能の写真で皆様よく御存知の吉越研氏との編纂による僕の能の写真集が出ることになった。
 鳥居氏は彼の大学生時代から今日に至るまで僕の追っかけ的大ファンだったそうだが 一度もお目にかかったことは無かった。それが三年前の平成十五年四月 僕が宝生能楽堂での玉華会で「鬼界島」の能を勤めたとき ロビーではじめて妻に自己紹介をされ、それからの面識ということになる。このときの「菊生先生のこれまでの舞台を写真集に残しては…」との御提案が発端で以後 氏は大学での本業の傍(かたわ)ら まことに多大の御盡力を払はれこの二冊の写真集の上梓(じょうし)に至った。
 写真集の話のもち上った前年の夏 偶々(たまたま)妻は それまで演能順に整理してあった写真を急に思い立って曲目別に整理したそうだ。あまりの膨大さに半分は捨てたとのことだが喜多流専属のあびこ氏撮影の写真帳の分も、後に曲目別のアルバムに移し入れ、その後再度、五番立てに準じて分別するなど何回か整理し直してくれてあった。
 当初「景清」だけの写真集を企画されていた鳥居氏だったが はじめて来宅された折 アルバムを見て これは「景清」に限らないで いっそ演能曲全般に亘(わた)った写真集にするべきだという考えに変った。そのうち一冊にまとめるには余りに多過ぎるので検討の結果二転三転、最終的には「景清」を別に一冊にまとめることになった。昭和三十年代からの舞台写真を百数点に選別して しぼり込むには随分と手間と時間がかかったようではある。僕は「我、関せず」とばかり外野にいるつもりだったが、そのうち写真の場面が どういう謡の箇所かと聞かれる度(たび) それには説明したのだから 心ならずも些かの参画とはなった次第。

今年になって夏を迎える頃、本の刊行に当って「日頃御昵懇(ごじっこん)の方々から一言お言葉を頂けたら…」との出版社の宮田社長や鳥居氏の御意向で各氏に寄稿をお願いしたようだ。
各氏から寄せられた御文章を読ませて頂いて僕は感激した。御座なりでも儀礼的でもないお心のこもった、実に個性のあふれたそれぞれの素晴らしい文章に。これはこのまゝ弔辞にしてほしいと僕は思った。いや、死んでからでは僕が聞くことは出来ないわけで、生きているうちに こんな最高の手向けのお言葉を頂けるなんて何という幸せかと とても嬉しく思っている。
 「写真集が出来上がったら、一番うれしく眺めるのは吃度、能から幕引きをした貴方よ」と 何も彼もお見通しのような女房殿。それ当っているかも。

写真 粟谷菊生 仕舞「鉄輪」 出雲康雅の会 18年2月  撮影 石田 裕

阿吽22目次投稿日:2018-06-07

父や祖父の仕事に連なって投稿日:2018-06-07

父や祖父の仕事に連なって

粟谷能夫

平成十七年は父新太郎の七回忌の年にあたり、追善の能を三月と十月に東京、五月に福岡にて催しました。皆様のお力添えをいただき無事済ますことができましたことを感謝いたしております。

また秋には七回忌追善の粟谷会大会を催しましたところ、各地より父の薫陶を受けた方々が大勢ご参加くださいました。父への思いのうえに、地域を代表しての出演とあって熱気あふれる会にしていただきました。出演者の舞台での精華を見ていますと父のした仕事の偉大さに感心するばかりで、自分の未熟さを痛感させられました。全力で弟子と対峙している父の姿が浮かび上がってくる思いがしました。

そして一方で、父は面・装束を集めるという仕事もしてくれました。この二つの仕事のおかげで、今、私たちは能に集中することが出来るのだと感謝しております。

父は能を舞うのが趣味のような人でしたが、病気をするまではお酒を飲むことを楽しみとしておりました。自宅稽古が済むとよく外出し二時間ほどで戻って来るのです。母に聞くと新宿のバーへ行くのだといいます。当時の私ではちょっと理解が出来ませんでしたが、きっと美しい人がいたのだなーと思います。父のストレス解消術だったのです。 

晩年は能関係の骨董品、主に掛け軸、書画、彫り物、陶器などを求めて、中野の舞台に飾って楽しんでおりました。

父の収集したものの中で家宝となっているものがあります。それは喜多流九代目喜多健忘斎古能筆「月宮殿」の初同の一句を掛け軸としたものです。地方の旧家よりいただいたものです。古能公は多くの伝書を残し喜多流にとっては中興の祖であります。私も古能公の伝書を根拠に演能をいたしておりますが、伝書を読み込んでいくといろいろ発想や直感をもらい、目の前が急に明るくなるようなことがあります。父も掛け軸を見るたびに、気持ちを新たにしていたことでしょう。


本年(平成十八年)は祖父益二郎の五十回忌にあたります。祖父は十二歳のとき、広島より上京し十四世喜多六平太先生の内弟子となりました。粟谷の能の始まりです。独立後は東京に居を構え、各地へ稽古に出て多くの地盤を残してくれました。面装束の収集は自前の面装束にて能が舞いたいという強い意志からでした。父の話によると、不都合な装束にて能を舞わなくてはいけなかった無念さがきっかけになったようです。もちろん四人の息子たちのためでもあったのです。私は子方の謡の稽古を祖父から受けていたのですが、具体的な記憶はあまり残っていません。ただし祖父が亡くなった時(『烏頭』の演能中、私は子方でした)や申し合わせの日のことは鮮明に覚えています。

私自身も祖父や父の仕事にならって、演能や稽古はもちろんのこと、面装束の収集も続けております。収集以上に修理・修繕・維持・管理も大事と思い心がけております。

本年は祖父の五十回忌追善の会を計画しております。菊生叔父を先頭に充実した一年を送りたいと願っております。

写真 「実盛」粟谷能夫 撮影 東條睦
    掛軸 撮影 粟谷明生

我流『年来稽古条々』(20)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(20)
 ?青年期・その十四?
   『翁』について(1)

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 これまで『猩々乱』から始まって、青年期に重要な披きについて話してきました。今回はその披きの流れからいって、青年期より上の年齢での披きになりますが、『翁』について話し合っておきたいと思います。私の披きは平成七年、宮島の厳島神社・御神能のときで、三十九歳でした。能夫さんは何歳のときですか。

能夫 僕も同じ御神能のときで、三十四歳だね。『翁』の披きは通常は四十歳前後ということじゃないかね。


明生 『翁』は能以前の段階で神事として執り行われ、今につながっているので、特別ですから軽くは扱えませんね。

能夫 各流儀とも、昔も今も大切に扱っているね。


明生 以前は流儀の長老か代表役者が勤めるという風潮で、若手では『翁』を披くことは難しかったような印象を受けていますが。もっとも最近はそのような制約を払拭しつつあるようにも思えます。現に一月の初会では今後順次に若手にも順番が廻ってくるようですから…。

能夫 一時、日本能楽会会員になるには『翁』を披いていなければ云々ということがあって…、それでそういう配慮をしよう、という風も起きたね。


明生 そういう縛りがあったためか、『翁』を披いていない人は自分の会で披かざるを得なかったということもありました。でも自分の会で多大な投資をしてまでする曲ではないというのが、私の本音です・・・。

能夫 そうね。でも今は日本能楽会会員になるためという条件は外れたんでしょ。


明生 なくなりましたね。女流能楽師の入会が関係しているでしょうか…。

能夫 それにしても、我々は厳島神社の御神能で勤める機会があるからありがたいね。


明生 本当にそうですね。厳島神社の御神能は、毎年四月十六日と十八日を喜多流が担当していますが、初日の翁付脇能を隔年に執事の出雲康雅氏が、その間を能夫さんと私で勤めていますから、このところ我々は四年に一回、『翁』を勤める機会に恵まれていますね。

能夫 父はこの御神能が好きで愛着があったな…。晩年にはまた来年これるかなとよく言っていたよ。四月というすがすがしい季節で、とても気持ちがいいよね。一年息災に過ごし、今年も無事ここにやって来ることができました。ありがとうございましたと、自然と神に感謝する気持ちになるよ。


明生 四月十六日が一年の始まりのような、厳かで新鮮な気持ちにさせられます。我々はここで『翁』を披いたと考えていますが、こういう野外の神事で行う能では正式な披きとはいえないという意見もあるようですが…。お相手の狂言が素人だったりすることもあるからかもしれませんけれど・・・。

能夫 確かに御神能は全体に素人の方が多くなさって、我々がお手伝いする格好だし、参拝者がゾロゾロ歩いていたりするわけで・・・、でもそんなことがちっとも気にならないじゃない。何しろ厳島神社というのは『翁』を勤めるにはいいロケーションですよ。やってみるとわかるんだな。四月、若葉がもう萌え出していて…。幕を開けて一足出ると、空気は澄んでいるし・・・。もう、こんなに大夫冥利に尽きるところはないですよ。


明生 燦々と輝く陽の光とか海の匂いとか・・・もう自然を感じますね。自然の力に圧倒されるんですよ。装束だって陽に照らされた色を見ると、極上の綺麗さでしょう。能夫さんがよく言っていますよね。自然の神々しさ、木々の生命力、そういうものに訴えかける気持ちもなければ駄目だって・・・。

能夫 そうだよ。『翁』では我々は神にならないといけないんだから。


明生 宮島はその気にさせられる絶好のロケーションですね。

能夫 もともと『翁』というのは五穀豊穣、天下泰平を祈る祝言性の強いもので、一般の能とは違うよね。


明生 「能にして能にあらず」ですから。古い芸能の形ですね。「とうとうたらり」とあの訳の判らぬ呪文めいた謡も然り、「天下泰平、国土安穏。今日の御祈祷なり」と謡い舞うわけですから、演劇性はなく、「祈り」のパフォーマンスですかね…。

能夫 昔は、『翁』には特別な意識があって、勤める前には精進潔斎をしていたわけでしょ。


明生 勤める前日に沐浴して身を清め、食事も「別火」にして作るとか、私、恥ずかしながらしたことはありませんが…。楽屋は今でも女人禁制になりますね。

能夫 前の日は自宅に帰らず、別世界にいるような意識だろうね。銕仙会の浅井文義さんが銕仙会の舞台に泊り込んで精進潔斎をされたと聞いているけれど…。なんでも親父さんの書き付けがあって、それには翁汁という小豆汁のようなシンプルなものを食べて禊をするとあるらしいよ。


明生 そうですか。貴重な体験ですね。

能夫 そうね。厳島神社の御神能では、楽屋に翁飾りの祭壇が作られ、演者はその前に並ぶでしょう。


明生、そう。普通はまず太夫にそして三番叟、千歳、そしてお囃子方へと、後見二人がお神酒と土器を持ってお酌に廻りますが、後見が動かず演者が交代で移動してお神酒を頂くのは御神能の特徴かもしれませんね。

能夫 翁は元はといえば御神事そのものだったわけよ。それを芸能にしたのは観阿弥といわれている。あの有名な今熊野で大和猿楽四座が催した能のときね。


明生 鬼夜叉(世阿弥の幼少の呼び名)が足利義満に見出されたときの、あの歴史的な催しですね。

能夫 そう。あのときは、義満の側近である南阿弥という人が企画して、猿楽というローカルなものを中央に持ってきて将軍に見てもらおうとしたんだ。そのとき観阿弥に『翁』をやらせた。当時は『翁』といえば、その座の長がやることになっていたわけだけど、結崎座として、長老ではなく、一座のスターであった観阿弥が勤めた。その観阿弥の芸を、もちろん眉目秀麗だった鬼夜叉への寵愛もあったけど、義満が気に入るところとなったわけ。『翁』を長老ではなくその一座のスターがやるというのは、異例なことだったんだ。


明生 そのとき、観阿弥・世阿弥は何歳でした?

能夫 観阿弥が四十二歳、世阿弥は当時は鬼夜叉だけど、十二歳だったかな?・・・。


明生 観阿弥が四十二歳か。私たちが『翁』を披いた時期と同じくらいですね。長老でなくトップスターが勤めるにしても、四十歳ぐらいというのは適当かな…。

能夫 長老がやるのは神事という位置づけだけれど、一座のトップスターがやるのは芸能という位置づけになる。だから観阿弥が神事を芸能にしたんだと聞いているよ。もちろん、昔ながらの神事をそのまま継承した流れも、明治時代ぐらいまではあったようだけれど…。神事を芸能にしたというのは、芸能者が厄を祓い福を呼び寄せるという役目を担うということで。芸能は瓦乞食の所業と言われながらも、必要とされ今日まであるのは、人々を代表して厄を引き受け、福を祈るというところにあるんじゃないかな。


明生 そもそも、我々がやっている芸能の根っこはそういうところもありますね。芸能の力は祝言の力というか・・・。五穀豊穣や天下泰平という祈りから始まって、人間の悲しみ、苦しみ、すべてそういう普遍的な負を背負って、それを提示し、その苦しみから救済するという役目だと思います。

能夫 そう、それが芸能の根源。我々が能役者としてやっている根拠なんだよ。


明生 『翁』は能の根本芸ということになりますね。それにしても、お能の歴史の始まりといってもいい、あの記念すべき今熊野の能で観阿弥が『翁』を勤めたとは・・・。『翁』という曲の見方が少し変わりましたね。

能夫 あれがなかったら、今の我々もなかったかもしれない。その後、世阿弥が数々の台本を書き、能を発展させていくことにつながっていくわけだから。


明生 そう考えると、『翁』を単に儀礼的にやるだけではいけないことになりますね。

能夫 祝言性なりを体に引き受けていないとね。


明生 五穀豊穣や平和を祈るという芸、その根本にあるものがどこかで生きていないといけませんね。舞台に出て翁の面をつけることによって、神となり、人々を代表して厄を引き受け、福をもたらすという意識かあ…。

能夫 翁という存在になって、エネルギーを持って演じないとね。芸能者が神に通じる何かを感じて演じなければいけないということだね。


明生 でも、『翁』は全部で一時間ほどでしょう。その中で三番叟(大蔵流では三番三)が三十分ぐらい占めますから、我々翁大夫(シテ方)が演じる時間はとても短い。出入りの時間を引くと正味十五分ぐらいのものでしょうか。型付だけを見れば、まあ簡単にできてしまい安易に考えてしまいがちです。これが我々能楽師の陥りやすいワナで、一番悪いところですね。

能夫 そうだよ。型だけではない、精神性が大事だよ。もっと『翁』の根源的なことを意識して、それを体に入れてやらないとね。

花あるいのちと散りぎわ投稿日:2018-06-07

花あるいのちと散りぎわ

粟谷菊生

 

テレビを観ていたら超美味しそうなフランス料理が出てきた。銀座のLOSIERというフランス料理のレストランだ。二、三ヶ月前から予約でいっぱいだそうだが、そこのシェフが引退するという。満員御礼、味も最高の今引退することにしたのは何故?

僕は“三百六十日鮨男”と言われているくらい、“お鮨大好き人間”だが、ホテルに泊まると年甲斐もなく無性にステーキが食べたくなって、ワインならぬ常の如く好きなビールで独りビフテキを食べることがある。が、結婚披露宴で頂くディナーとたまにご招待を受けて頂く時以外は自分から仏蘭西料理を食べにわざわざ出掛けて行くことはない。

その日のテレビでの画面に出てくる静かでエレガントな雰囲気、上品なたたずまいの中でのテーブルに置かれている食器の美しさと見事な料理はさすが! しかし対照的にその陰で活気ある調理場の奮闘と迫力あるシェフの総指揮ぶりがいい。そのシェフが大繁昌の頂点にあって、しかも最高の味を提供できる技の頂点にあって今、引退の決意をした心境とはーー。彼は「今だからこそ引退するのだ」という。総指揮をするということは、やはり大変なことで肉体の衰えに自分自身が僅かにでも気づいた事が、引退のきっかけとなったようである。「自分と同じだと言いたいのでしょう?」と一緒にテレビを見ていた妻に言われたが、常に私の心の内を見抜いてしまうのが女房だ。そのシェフは引退して自分の時間が持てるようになったら世界中を旅行して各地の味を追及したいと夢を語っていたがーー。

花あるうちに退く美学が僕は好きだ。まだまだと言われて最後に無残な姿をさらけ出してしまいたくない。

若いときに読んだ「シラノ・ド・ベルジュラック」の最後の方。シラノが迫りくる死期を感じながら訪ねたロクサーヌ姫から「読んで」と言われて、昔、美男子ながら文才の無い友のために代筆して送り続けた、実はシラノ自身の心の内を込めて書いた恋文の一篇を、文字も読みえぬ暗さとなった夕闇の中で諳んじている如く読み続けている。

それを見てはじめて彼の心を知って驚くロクサーヌに瀕死のシラノが言う科白が「これが私の心飾気」(訳者の坪内逍遥は心意気を心飾気と書いてココロイキと読ませた)。この心飾気と書く文字が僕は大好きだ。

僕は去年、潔く心飾気で演能は引退したものの、さて仕舞はいつまで舞えるかと、うそ寒い怖れにおののきつつ今、散りぎわに向かっている菊爺なのだ。

写真 「柏崎 道行」粟谷菊生 撮影 安彦喜久三

阿吽21投稿日:2018-06-07

続・面について投稿日:2018-06-07

続・面について

粟谷能夫

父新太郎がいつも好んで掛けていた小面があります。先輩のお世話で手に入れたものですが、父が最初に集めた面で、我が家の小面の中でも一番年増の表情をしています。同じ小面と呼ばれる面でも表情や年齢に幅があり、この曲なら、この小面が相応しいとか、この小面なら演出の幅がここまで出来るなど演能意欲をかきたてられます。
私も当初あまりふくよかでない清楚な表情をした小面ばかりを使っていました。その大人びた印象に引かれたのだと思います。やがて自身の成長と共に様々な発想が生まれ、曲趣といおうか、その曲にふさわしい面を選択するようになりました。
時が経ち『野宮』を舞うことになりました。シテの深層心理の複雑さを考えると小面では成り立たないところがあるような気がして、たいそう悩んだ思いがあります。当時は喜多流の専用女面は小面を使う厳然たる流是があり、小面以外の選択肢は考えられませんでした。『野宮』に使えそうな小面を二、三面手にとり、結局、父が好んで使っていた小面といたしました。何か小面の創成期に近い古風な表情をしており、中に強靭な意志を含んでいるような力強い小面です。また一方でつややかさもあり、ひとことでは言い表せない深みのある面です。
能を舞う時には、どの面にしようか、装束は何にしようかと、まず第一に面の事が頭に浮かびます。観世寿夫先生は「面は安心して己の全部をゆだねられるものであってほしい、と同時に思い切って闘い合える相手でもなければならない」と書いておられます。この言葉は肝にめいじておかなければと思っています。
面と向かい合う機会が増えてゆくと面の裏の様子や刻印、面目利き極め書にも目が行くようになり、面打師の事にも興味を覚えるようになりました。
能面伝書によると、桃山時代から江戸時代になってくると、世阿弥が挙げた十人の能面作者は「十作」、室町末期までの六人の名人を「六作」と称するようになって、江戸期になると世襲能面打家が確立していったようです。
また九代目喜多健忘斎古能の著した「仮面譜」や「面目利書」を通して、能面の名称の起源、焼き印の形、彩色、かんな目の特徴などいろいろのことを学びました。健忘斎藤古能は多くの伝書を残してもいて喜多流にとっては中興の祖であります。広島の厳島神社所有の能面の中にも裏面に喜多古能の花押のある極め書があるものが多数あり、古能の面に対する造詣の深さを見て取れます。
家伝の面の焼き印や目利き極めに是閑、大和など多数の作者名を見出し、古面(新作面に対する)を持つことの豊かさをかみしめています。同時に、父の七回忌の今年、一面一面コツコツと集めてきた、祖父や父の仕事の大きさに、改めて思いをいたしているところです。

写真 『卒都婆小町』17年3月6日 粟谷能の会 撮影 東條 睦
小面 粟谷家蔵 撮影  粟谷明生

阿吽20投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信

百拾五曲投稿日:2018-06-07

百拾五曲

粟谷菊生

 

先代梅若六郎先生は、『輪蔵』のシテ一曲だけを残して全曲を舞われたと聞く。自分の能を振り返ってみると百拾五曲勤めている。しかし、その中で圧倒的に多いのは二番目物、四番目物、キリ能だ。好きなのに比較的少ないのが三番目物。友枝喜久夫先輩、兄新太郎の存命中は春秋会、果水会、鼎の会など演能の催しがしばしばあったが、三番目物は二人の先輩が優先的にお取りになってしまう。そのお蔭で人のやりたがらない曲、例えば『羅生門』などを勤めさせて頂くことにもなり、これは良い経験だったと思う。
甥や息子たちから、また同じ曲を演(や)るのかとよく言われたけれど、その曲が好きなだけでなく、リクエストされるからだ。『景清』『鬼界島』『頼政』『藤戸』『隅田川』『羽衣』などはそのよい例だ。『羽衣』などは何回舞っているか判らない。頼まれれば嫌といえない性質(たち)でなんでもお引き受けしてしまうと言いながら、何回頼まれても演らなかったものが一つある。それは『翁』だ。自分が選ぶとつい、好きな曲ばかりになってしまうが、その最たるものが『羽衣』で『班女』も好き。勿論、『湯谷』『松風』も好きなのだが、二人の先輩亡きあと、自分の好みの地を謡って貰える後輩の成長を待っていたこともあって、三番目物の上演回数は意外に少ない。『富士太鼓』『天鼓』『融』『烏頭』『鉢木』など好きな曲の多い中で、NHKで放映された最後の能は、自分にとってはやはり『景清』と希望したが、諸般の事情で『大江山』になってしまった。
こうしてみると、まだまだ舞残している曲はあるけれど、喜多流に長い間、あまり演能されていなかった『梅枝』は僕が舞ってから後輩がよく演能曲目の中に入れるようになったし、喜多流で二百年位誰も舞っていなかった『伯母捨』を自分が久々に勤められた事で自分としては満足に思っている。因みに老女物を喜多流ではあまりに大事にしすぎて高齢になってからでないと勤めさせて貰えなかったが、老女物だから老人になってからでないと、というものではない。老女物は非常に体力が要る。故に壮年に一度体験しておいて、人生のいろいろな「おもい」を味わってから、後年、もう一度演じてみると、本当のよい結果が出るのではないかと思う。身体がキカナクなった時「本質が判る、本当の花が判る」というのも事実だ。
僕も舞い残した曲は、あの世に先に逝かれて僕の逝くのを首を長くして待ち構えておられる諸先輩方の囃子や地で舞わせて頂くことにしよう。

写真 『実盛』17年2月5日 出雲康雅の会 撮影 石田 裕

面に想う投稿日:2018-06-07

面に想う

粟谷能夫

 私が初めて面を手に取ったのは子どものころ、お能ごっこのために父よりもらった稽古面でした。それをかけて廊下を走っていた記憶があります。そして子方として舞台に出るようになり、シテのかけていた、小面、曲見、怪士等と対面しました。殊に『船弁慶』の後シテの面はとても怖かったことを覚えています。十代後半頃になると演能用の装束出しを手伝うようになって、面、装束に触れる機会が増え、殊に面に強い関心を持つようになりました。
粟谷家の面、装束は祖父益二郎が苦労して収集したものが大半ですが、父も面を中心に収集を続けていました。
父の話では、戦後すぐの頃には銀座あたりの骨董屋に面の出物があり、ずいぶんと集めたそうです。その後は道具屋に頼んで捜してもらっていましたが、ある時その道具屋が十面ほど置いていったことがあります。四、五面はとても良い面で、残りはあまり必要としないものでしたので、私はてっきり良い面だけを求め、残りの面は返すのかと思っていましたら、父はすべて求めました。あとでその話をしたら、こちらの勝手ばかりすると次がなくなるのだ、と。大人の世界を垣間見た思いがしました。父だけでは手に負えない時は、目の届く範囲の方々にお世話しておりました。新しい面が手に入ると必ずその面をかけて能を舞う事を楽しみにしていた父。この面なら、あの曲にふさわしいなどと、面から能を発想することを楽しんでいるようでした。祖父や父の努力のおかげで面が揃い、今私たちが能を舞う時、多少の面の選択も出来る程で感謝しております。
私自身も粟谷家蔵の面や新しく求めた面を手に取る機会が多く、面への目利きの基礎が養われました。家の面、装束の把握が出来てくると、あの面がかけたい、あの装束が着たいと思うようになって、目標の曲目が出来ていきました。しかしその曲目へ到達するには、まだまだやらなくてはいけない事が山積みになっていることも事実でした。
二十歳ごろまでは、私の演能の面、装束は父が選んでくれ、それで勤めましたが、その後は少しずつ自分の主張を通すようにしてきました。能はシテの考え方次第で、面、装束の選択の幅があるものですから、今は自分で責任を持ち決めております。
先日の『船弁慶』(平成十六年秋の粟谷能の会)の前シテでは、その前の番組『砧』のツレが小面をかけるので、小面の使用を避けました。小面にもいろいろな表情のものがあるのですが、やはり、前後は重ならない方がよいという判断で、私の方は孫次郎系統の面としました。
面は手に取って見て良いと思ったものが、必ず舞台で良いわけではなく、またその逆の事もあります。舞台で最初の感じは良いのに、舞台が進行しても表情を一つも変えない物もあり、ここにはシテの責任もありますが、まことに難しい生き物のようです。面はある意味完成品ではなく、シテの演技の余地を残しているものの方が良いと思います。
父と面を通して感じ合っていた共通認識を基本に、面の力を借りる時もありましょうが、面を遣いこなす芸力をつけていきたいと思っています。

『船弁慶』粟谷能夫 粟谷能の会    撮影 東條 睦

『砧』について投稿日:2018-06-07

『砧』について
研究公演の新工夫の成果を再演

粟谷 明生

 第七六回の粟谷能の会(平成十六年十月十日、国立能楽堂)にて『砧』を勤めました。『砧』は粟谷能の会研究公演(平成十一年、シテ・粟谷能夫・ツレ粟谷明生)にて現行の演出の見直しを図り、その成果に基づき、いつの日か再演したいと思っていて、今回その願いが叶いました。

 最初に、演出を見直し、新工夫をした部分を簡単に説明します。第一は、前場の初めにワキの名乗りとツレ夕霧へのことづてを入れたことです。従来の喜多流の場合は、前場にワキが登場せず、ツレの次第で始まり、状況説明はツレの独白で済ませています。喜多流の謡本では、ワキは中入り後に登場し名乗りますが、ワキが下掛宝生流の場合中入り後に名乗りがないため、能『砧』として、どこにもワキの名乗りがない不自然なものになってしまいます。それに対し上掛はワキが先ず名乗り、長年の在京となったが、故郷の妻の事が気になるので使いを出し、「この暮れには必ず帰る」とことづける場面があります。これによって何某(主人)は無情な悪人ではなく、妻を思う心やさしい人として設定されます。今回はツレ(内田成信氏)に観世流同様、ワキのあとについて出てもらう形としました。
では何故喜多流は現在の形式となったのか、『砧』という作品の変遷をたどってみます。『砧』は世阿弥の晩年の作で、子息の元能に「このような能の味わいは、後の世には理解する人もいなくなってしまうだろう。そう思うとこの作品についてあれこれ書き残すのも気乗りがしない」と語ったと、元能著、申楽談儀に記されています。世阿弥の心配通り、その後は音阿弥の二度の演能を限りに途絶えます。慶長頃(戦国時代)には『蝉丸』『小原御幸』とともに、詞章のよさから座敷諷(ざしきうたい)として素謡専用曲となり、江戸中期頃、幕府から各流に演能可能曲の申出が命ぜられ復興されます。今日の喜多流の台本と演出が出来たのは、その折、合理的な演出を考案し、新流としての独自性を築きたいためだったように思われます。
 演出の見直しの第二点は、シテと夕霧が砧を打つ砧の段の後、「いかに申し候」に続いて「只今都より御使い下り」を入れたことです。従来は砧の段が終わると、間髪いれず「いかに申し候。殿はこの年の暮にも御下りあるまじく候」とツレの厳しい言葉が入ります。これでは余りに突飛すぎて、まるで夕霧は殿が今年帰らないのを知っていて、わざと焦らして通告したように誤解される危険があります。ここはワキ方、狂言方の科白にもあるように、やはりある時間の経過が必要で、また別に都から使いが来たという状況説明の言葉を補う必要があると考えました。
このように演出を見直し、台本を整える作業をしていくと、『砧』という曲は単なる復讐劇ではない、ましてや夕霧への嫉妬劇でもないことが判ります。夫と妻の思いが噛み合わず、このずれが妻の心の恋慕、怨恨、哀傷といった様々の心模様に錯綜していく。『砧』は一見ありふれた巷の出来事を素材にしながらも人間の心の襞(ひだ)や屈折、奥深くにある魂の呻きをテーマとして書かれているのです。
故観世寿夫氏は「人の心の中の鬼、つまりー怨念ーといってもいい、人間が生きる上で苦しみ、悲しみといった、より人間的なものを鬼と据え、世阿弥自身の根源である鬼を得意とする大和申楽の規範に戻り新たに創作したのではないだろうか。それはいままで創り上げてきた『井筒』などの幽玄無上の夢幻能とは別の、自分が完成させた様式の破壊という新しい作品への凄まじいまでの創造意欲なのである」と述べられています。私はこの文章に刺激され、作品に似合った演出を手がけることがいかに重要であるかを知りました。私の大好きな『砧』は中世という時を超越して、人間の心の弱みや恋慕の身勝手さを現代の我々にも鋭く抉るように訴えてきます。この名曲をあだやおろそかに演じては、作者の世阿弥に申し訳ない、寿夫氏が言われるのはまったくその通りと痛感します。
前シテの面は通常、曲見か深井です。伝書には小面とありますが、小面では色がありすぎ生々しくなり、孤独と不安、失意や時の喪失感などが表現しにくいです。今回は粟谷家蔵の「若深井」を使用しました。深井より少し若い感じの、憂いをおびた顔の面です。装束は『砧』に合う梶の葉模様の紅無唐織を仕立て直し使用しました。
 シテはアシラ匕出で橋掛り三の松にてサシコエを謡います。「それ鴛鴦の衾の下には・・・」と、ここは切実な思いを冷えた謡でと心得がある、難しく苦労するところです。そして、シテは夕霧の訪問に、じわっと答えます。「いかに夕霧」の一言にすべての思いが込められるようにと、ここも心持ちのある大事な謡です。すかさずシテは何故直ぐに連絡をしないのかと叱りつけますが、夕霧は刺激的な言葉で返してきます。「忙しくて連絡する時間がなかった、三年の月日や都にいたことは自分の本意ではない」云々と。前場はこのシテと夕霧との緊張感の中に、月の色、風の気色、影に置く霜、夜嵐、虫の音と、秋の風情を織りまぜ、シテの揺れ動く心情を、砧の音とともに謡い上げるところがみどころです。
この曲では砧を打つ作業がシテの心のありようを反映しています。演者は常に「砧」と向かい合いながら演じ、砧を打つ気持ちや作業、それが妻の床で行われたことなどを、確と把握し表現しないと『砧』は手に負えない作品となります。この曲の象徴ともいうべき「砧」の作り物は、喜多流には本来なく、我が家の伝書にも記載がありません。しかしこの作り物を出さない演出は、物語を理解しにくくさせ、演者側も気持ちを込める対象がないため、演じにくいということがあります。最近は前場の物着の時に正面先に出し最後まで置いたままにしていますが、当然作り物を出した時の正式な型付はないのです。作り物を出すならば、それに似合った動きが必要で、今回いろいろな資料をもとに工夫をこらす楽しみも味わうことができました。砧を打つ型を二度にし、最初は「今の砧の声添えて・・・」で少しヒステリックに打ち、二度目は「交じりて落つる露涙、ほろほろはらはらはら……」と意識
も朦朧と憔悴寸前の態と、打ち方に変化をつけてみました。
 後シテの出端は観世流の「梓之出」に近い演出としました。我が家の伝書に「この出端、鼓アズサ打つことあり、別の習い也」とあり、まったく喜多流に根拠のない事ではないので、御囃子方(一噌仙幸氏、大倉源次郎氏、亀井広忠氏、金春国和氏)のご協力のもと、流儀で初めて試みました。アズサの音に引かれながら、シテは三の松にて一度止まり、砧の音を探します。徐々に高鳴る砧の音とアズサの音に耳を傾けまた歩み始め、一ノ松にて「三瀬川沈み絶えにし……」と謡い「標梅花の光を……」で再び本舞台に入ります。小鼓はアズサを打ち太鼓の音に執心が込められる、よい演出効果だと思っています。
後シテの面は「痩女」、装束は白練の坪折に大口姿です。観世流は通常「泥眼」で鋭い強さを表しますが、喜多流の主張は「痩女」で、やつれて空しくなった女をひきずって寂々と登場します。そのため歩みも、「切る足」という独特の足遣いとなります。キリの仕舞はじっくりとゆっくり演じるのが当流の特徴です。しかし最後に堪えていた怒りは押さえ切れず、「夢ともせめてなど思い知らずや怨めしや」と、中啓を床に打ち、左手をさし出し夫に迫るとも、また、夫に触れたいとも思わせる型となり、それさえも出来ないと悲しみ泣きます。ここは地謡も囃子方も激しく謡い囃すところで、シテはただメソメソするだけではない、荒くなってはいけませんが、強さ、激しさが込められていなくてはいけない難しい大事な場面です。そして「・・・怨めしや」のあとの一瞬の静寂、夫は法華経を読誦し、妻は成仏することができた、とこの作品は終わります。
後場での地獄の責め、死後も砧を打ち続けなければいけないという因果関係は、生前の恋慕の執念が死後の苦悩煩悩の地獄に落ちるという構図で、仏教思想を基盤にしてはいますが、『実盛』のような時宗の賛美のパターンとは異なり、そこが焦点ではないはずです。法華読誦や成仏をクローズアップし過ぎてはこの作品が生きません。
 成仏とか宗教性とは別のところに、『砧』という作品の大事なメッセージがあると思います。砧を打つ賎の業を主軸に、妻の夫への揺れ動く様々な感情の起伏。一途に思うが故の怨みや激情。『砧』はそういった人間の普遍の感情の行き違い、心の葛藤を描いた集大成だと思います。世阿弥は晩年、不遇の時を過ごしました。体制の側にない芸能者のどうにもならない悲劇。そこに耐え、あきらめながら、世阿弥はただひたすらよい作品の創造に執念を燃やし、そして仕上げた『砧』です。生意気ですが「冷えた能」と世阿弥が自画自賛するのが、演じて肌で感じられたような気がしました。演能が終わった今でも、世阿弥の残した「かようの能の味わい…」の「かよう」とはいったい何であったのだろうか、そのことが心に残っています。
今回の演出の見直しを顧みて、昔なら演出を変えるなど、とても考えられない許されないことだったと感慨を深くします。今はよい時代となり、流儀では考え工夫する事が許される、さまざまな演出を試みることが出来きます。本来出さなかった作り物は出すのが普通になり、切る足の所作も次第に変わってきています。時代はよい方向に流れだしたと思います。明治・大正の名人たちは魅力的で芸もすばらしかったでしょう、しかし現代の能も今を映しながら確実に進歩を遂げていると思います。これからも作品の主張を見つめながら、一回一回の舞台を大事に真摯に勤めていきたい、そう思わせてくれた『砧』でした。
*(「粟谷能の会」のホームページ演能レポートで内容補足&写真も掲載しています。ご覧いただければ幸甚です。)

『砧』  粟谷明生 粟谷能の会    撮影 石田 裕

我流『年来稽古条々』(18)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(18)
 ?青年期・その十二?
   『石橋』について

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 前回は『道成寺』以降の話をしました。次は『石橋』の話かなと思うのですが・・・。

能夫 そうね。『石橋』といえば、僕の披きは昭和五十九年だから、三十五歳のときだった。宮島の厳島神社で披いている。その年は『楊貴妃』も勤めているね。

明生 能夫さんの『石橋』は三十五歳ですか。能夫さんの世代ぐらいから、『石橋』の披きが遅くなっていますね。

能夫 僕の前の人たちは早かったと思うよ。

明生 二十三、四歳で披かれています。友枝昭世さん、香川靖嗣さん、塩津哲生さん、みなさんお若い時に。

能夫 実先生(先代家元、喜多実先生)が、早く披かせようとなさったからね。

明生 そのようなご意向はありましたね。香川さんは実先生が親をやられ、塩津さんの時は父が親獅子を勤めています。私はそういうものだと思って憧れていたわけです、そのうち出来るんだってね。それがどうして変わってしまったのか・・・。子獅子と獅子つまりシテとツレを一緒くたにし、大事にし過ぎたせいでしょうか。流儀独特の一人獅子(シテ一人が勤める)が重いというのはわかりますが・・・。

能夫 どうしてかね、不思議だよ。前シテを含めてなら話は別だが、半能で後半だけのものでしょ。獅子の披きといったって、赤の方は子獅子ですよ。ツレですからね。明生君はいつ披いたの。

明生 私は平成二年、三十四歳のときで、親獅子は父・菊生でした。私も早くないですよ。 

能夫 みんなそれくらいになっているね。『道成寺』が終わって数年してからというパターンになっている。でもあれは二十代前半に披いておくべきものだよ。『道成寺』より前に披いておくべき。謡は無く動きだけのものですから、しかもツレでしょ。

明生 私は三十二歳のとき、以前から「披きは父と!」と決めていましたから、でもどうも待っていても、叶えられそうもないと思いまして、父に一緒にやりたいと申し出たんです・・・。

能夫 粟谷能の会だったね。

明生 そうです。初めて自分で希望曲を言ったわけで・・・、照れ臭いものがありました。

能夫 子獅子の芸はいわば瞬間芸だよね。ある意味運動能力だけで処理出来る世界ですよ。曲を理解するという前に、どれだけ動けるか。若い体に覚えさせる、理屈ではないものなあ。もちろん深山幽谷の世界を演じるのだから、それなりの取り組む姿勢は必要だけれど。

明生 一畳台に上って跳びはねてくるっと回転しても全然恐くないというとき、一番体がきれる若いときに披いていないといけませんよね。大丈夫かな、ちょっと怖いなーなんて心配するようになったら、もう・・・。

能夫 台の上に上がってコワ?イと思っては・・・。不思議だね、昔は何でもなくできていたのに。

明生 回転のスピードもだんだん落ちてくるでしょ。以前は一回転半もなんなく素早く出来たのが、段々スピードダウンして。あともう少し・・・、なんて必死だからバランスを崩したりしてね。

能夫 若い肉体とは違うよ。だから早く披かなければ。

明生 年齢が上がれば運動能力は悲しいかな低下していきます。子獅子には年齢を補うものがあるわけではないし。

能夫 五十代、六十代になって、何かを打ち立てようという種の曲ではないからね。

明生 『景清』や『定家』なら、五十代、六十代と積み上げて芸を見ていただくということはありますけど、『石橋』はそういう曲とは違いますから。

能夫 見てくださる人は面白いでしょうが、深みのある曲とは違う・・・。

明生 昔なら、五番立ての一番最後の出し物で。最後にめでたしめでたしと、ご覧になる方もスカッとしたよい気分で帰れるということですね。

能夫 牡丹は華やかだし、千秋万歳と寿いで、確かに気持ちいいよ。若いころは獅子への憧れもあったし、格好いいしね。悪い曲ではない、だけど『実盛』の霊が出てくるような、ああいう重さはないでしょ。『石橋』の歴史はね、室町時代に秘曲にされ過ぎたためか、一時途絶えるんですよ。それを江戸時代、二代将軍・徳川秀忠が『石橋』を見たいという所望で復興したらしい。途中伝書も途絶えて、だからアイ狂言などは囃子方と調整が出来ていなくて具合が悪いところもあるし。

明生 アイの登場の仕方と太鼓の手組みが合わないとか。

能夫 だから秘曲と言って大事にし過ぎてお蔵に入れっぱなしではいけないんだよ。

明生 喜多流は一人獅子が位が重く、大事にしていますね。巻き毛になり、あれも憧れますが。

能夫 カーリーヘアね。伝書には「残らず縮む」と書いてある。頭は赤毛の髪を巻いて糸で止めて作るんだよ。あるときはパーマネントをかけにいくんだ。巻いてもすぐにもとに戻ってしまうから。

明生 特殊ですよね。面は大獅子。家元にあるあの面はいいですよね。

能夫 あの巻き毛は、獅子を演じるうえでのリアリズムだと思う。琳派の屏風絵を見ても、獅子は巻き毛で描かれているでしょ。唐獅子もみんなそう。そういうことから来ていると思うね。

明生 だから、あの巻き毛の一人獅子の位が重い喜多流の主張はそれでいいと思います。『石橋』といってもいろいろな段階があり、親子の連獅子のときの子獅子(赤)、巻き毛の一人獅子、そして連獅子の親獅子(白)。今、それらをどういう順序でどう演じていくかという基準を再考しないといけないと思います。友枝師は、本来は一人獅子を勤めた者が親獅子を演じる、それが順当だと仰っています。とても理にかなっていると思いますが、ですが巻き毛の一人獅子が余りに重くなりすぎているために、親獅子をできる人が限られてしまっているという弊害が出ています。それで、縛りを緩くして一人獅子の有無に関係なく白(親)をやることになったのでしょうね。父も能夫さんも巻き毛をする前に白をやっていますよね。

能夫 一度、獅子の披き全般を見直す必要があると思うよ。

明生 『石橋』の子獅子(赤)は二十代に披く、体がきれて勢いがあるときに。

能夫 そうだね。僕らの前の世代は二十代半ばで披いていたし、その前の父・新太郎や菊生叔父、友枝喜久夫先生の世代も二十代の若いころにやっているわけですから。

明生 そういう世代のことをよく知っている能夫さんたちが、私も含めてですが、このことを主張し改善していかなければいけないのかもしれませんね。そうでないと、今の歪んだ状況を、みんながこんなものだと思ってしまう。

能夫 これが正当になってしまうからね。今のように変わったのは何だったのか。一度考えておく必要があるね。

明生 そうですよ。子獅子が早く披ければ、一人獅子、親獅子とつながっていき、前場も勤めることができるわけですから。

能夫 子獅子を二十代で披いておけば、それを何回か勤めて深めていき、四十代ぐらいで一人獅子、親獅子へと進めていける。今のように三十代半ばでやっと子獅子の披きではなかなか次へステップアップしていかないからね。

明生 『望月』も含めて、獅子の曲全体の位の配置を再考しましょう。

能夫 能で獅子がある曲は『石橋』と『望月』の二曲。『望月』は仇討ちという物語性もあり、『石橋』のように獅子舞を見せるだけのものではないから、『石橋』より後になるだろうね。

明生 今披きの曲というとまず『猩々乱』となっていますが、私は順番が違っていると思います。流儀の『猩々乱』は腰を低く入れた姿勢での持続力が非常にハードで難易度が高いです。それが酔う姿でもあるわけで。『石橋』のツレよりも一段上の位にあって然るべきではないでしょうか。

能夫 ある意味、そういうこともいえるね。僕が十代か二十代のころには、『石橋』の子獅子、『道成寺』までやってから独立したいなあと思っていたんだ。それらを披いて一人前という風に、先輩たちを見て考えていたからね。それまではそういう流れだったと思うよ。ところが実際は、独立と同時に『道成寺』だったし、その後数年経って『石橋』でした。それだけ披きが全体的に遅くなっているということだね。この根拠は何だろう。いつ披くかの根拠を考えながら組み立てていくことを、どこかで練り直さなければいけない。そういうことを主張していく年齢になってきたということだね

明生 自分たちの二十代、三十代、四十代を振り返り、どう改革すべきかを検証し、主張する、これは喜多流全体のためでもあり、具体的に言えば、我々能楽師みんなの子供たちのためでもあると思います。

能夫 そういうことだね。

神楽坂投稿日:2018-06-07

神楽坂

粟谷菊生

 

最近子どもの頃住んでいた神楽坂に行く機会があった。坂を上がりながら左右の商店の変貌に驚き、「この路地の奥には◯◯という店があったんだ」などと同行の妻に説明しながら独り遠い昔の思い出に浸っていたが、そのうちに「あった!あった!」むかし懐かし、老舗の履物屋の「助六」が…。父益二郎がいつも下駄を買っていたあの「助六」。平素、白足袋で通していた父はウナギと言って裏が白ネルになっている鼻緒の下駄を愛用していた。さすが神楽坂、気の利いた鼻緒の男物の下駄がある。デパートや他所では見つからないという妻の言葉に、早速買ってしまった。因みに僕は銀座の阿波屋で草履を注文しているのだが、或るお弟子さんが僕にプレゼントして下さろうと阿波屋に行って「マムシでお願いします」と言ってしまったそうな。お店の人、吃驚仰天。
 脳梗塞や半年前の思わぬ転倒で足の弱った僕は底の滑らかな皮草履は滑りそうで履けなくなってしまっている。特別の時以外は不本意ながら底裏がゴムで凸凹になっている安っぽい草履を履いている。下駄もエスカレーターに乗る時、怖い目にあったことがあるので、折角買った下駄だが少々の雨だったら履き慣れたゴムの裏の草履にしてしまう。もう見栄も恰好も構っちゃあいられない。老醜と言う言葉があるが、加齢はやっぱり美から遠ざかるようだ。一心同体とは決して決して言わないが、長年連れ添った女房殿、僕の思いは手に取るように判るらしく、「老いの浪の、上にて舞はむ、足弱の、おぼつかなくも、こらえ、こらえて」と戯れ歌を詠んでくれた。
 喜多流の自主公演は一昨年(平成十四年)十二月で引退し、大阪は今年(十六年)六月に『鬼界島』で幕引きとし、この秋十月に粟谷能の会も『景清』で舞い納めとした。僕の元気なうちに息子や甥に大曲を舞はせて、その地を謡いたいと謡を謡うことの大好きな僕は、今張り切っている。
 長命の喜びにはウラがある。喜びのウラは哀しみで、深みも判る反面、淋しさも味わわされる。これは誰もが味わっていることで、別に僕だけではない…などと、ちょっとしんみりしているかと思うと、来年の仕事の依頼が次々に入り、手帳のスケジュール欄がどんどん埋まっていくのは、もう少し生かしておこうという神様の思し召しかな、と相変わらずの能天気でもある。
 景清で 舞い納めとす 胸の内 
     めでたくもあり めでたくもなし 

10月30日

『景清』 粟谷菊生 能楽座札幌公演  撮影 三上文規

阿吽19投稿日:2018-06-07

粟谷能の会通信

『八島』の修羅道について投稿日:2018-06-07


能『八島』は、喜多流では『八島』と書きますが観世流は『屋島』です。もっとも観世流も大成版以前は『八島』と書かれていたようですが、八の方が末広がりでめでたい感じがします。

私が『八島』の仕舞を勤めたのは今までに25回を数えます。それは若い時分、父が舞う機会があれば必ず『八島』と番組に記載したことに依ります。青少年時代は義経の修羅の苦患、妄執などは無縁で、ただ元気よく舞えばいいと思っており、指導法も強く強くと理屈抜き、身体を激しく動かすことに集中していました。子どもの頃は謡本を見ることなく、先生の謡われた通りの鸚鵡返しの稽古なので、シテ謡の「今日の修羅の敵は誰そ、何、能登守教経とや」を「今日の修羅の、かたき、わたそ(渡そう)、なにの とのかみ(何の、殿守)」と発音していました。音(おん)だけで覚えて起こる現象です。お恥ずかしい話ですが、それでも通用してきたので可笑しなものです。

ツレは6回勤め、その内3回が伯父故新太郎のシテでした。伯父は『八島』が好きだったようです。このツレは若者でなければ舞台映えしません。私も20歳に伯父のツレを初めて勤めてから、最後は37歳、父菊生のNHKテレビ放送の録画の時で、ぎりぎり間に合った感じです。以前は一声の「漁翁夜西巌に傍って宿す、暁湘水を汲んで楚竹を燃くも(老いた漁夫が夜に舟を西岸に寄せて宿り、明け方に湘江の水を汲んで楚竹を焚く)」の漢詩の意味など皆目判らず謡っていたのが実態で、今思い出しますと照臭い限りです。

私はこのツレが誰であるか気になりました。何者か判然としないこの役が物語を立体化させるとか、語りに立体感をもたらすための工夫だと言われる方もおられますが、どうも説得力に欠けます。演じる側としては、誰々と指定されたい気持ちが強く、大半の演者は義経の家来であると思っていて、とりわけ佐藤継信ではないだろうかという意見が多いのです。しかし佐藤継信ならば後場まで居残る喜多流の演出では弓流しの場に居合わせるのが理屈に合いません。高林白牛口二氏は、ツレは義経の霊の分身であると説明されます。義経の霊は漁翁一人として登場するのではなく、ツレの若い漁師にも乗り移って分身として登場するということです。これならばツレが後場まで残る喜多流の主張に合うはずと述べられました。私は今、この説が一番妥当ではないかと納得しています。

先代宗家喜多実先生は、シテの中入と同時にツレは後ろ(地謡側)を向くように指導されていましたが、これは見所に御尻を向け、しびれている足が丸見えで見栄えも悪く、現場はかなり抵抗感がありました。特にアイが「那須語(なすのかたり)」という那須与一が扇の的を射る話を演じる時には景色が悪く、野村萬斎(当時野村武司)さんの披きのときには、私(ツレ)は一旦立って笛座後方に移動し、後シテの一声の登場でまた地謡前に着座したと記憶しています。喜多流の場合、後場にツレが着座する必要性は弓流しの段にツレの謡があるからです。今回厳島神社の御神能という奉納の場でもあるので、試演として従来のやり方を見直し、ツレの友枝雄人氏には中入でシテと共に退場してもらい、後のツレ謡は地謡で謡うことにしました。また通常二同(にのどう=二つ目の同音)「鉢附の板より引きちぎって」のところでツレは立ち地謡前に移動しますが、今回は初同「さて慰みは浦の名の」にて移動して、シテとツレの舞台上での交差を避けてみましたが、効果ある演出と喜多流内部では好評でした。

『田村』『箙』『八島』の勝者の三番を勝修羅と言いますが、この区分けは江戸式楽以降の発想でいかにも武士好みです。作品内容を考えると『田村』は清水寺観世音菩薩の功徳を祝言能として描き修羅とはいえません。『箙』は梶原景季の勝修羅としての勇壮な能といえますが、『八島』の主題は修羅道(敗れても再生し戦い続け苦しむ世界のこと)に苦しむ武将義経の苦悩だと思うので、単に勝修羅と区分けすることに今は意味を見いだせないように思えます。この勝修羅といわれる三曲は青年期までに稽古し習得しておかなくてはいけない曲ですが、稽古順は『田村』『箙』、そのあとに『八島』となります。

能『八島』のシテは昭和59年(29歳)粟谷能の会で披き、今回(厳島神社・御神能 平成16年4月16日)は20年ぶり、「弓流」の小書での再演となりました。『八島』が世阿弥作であることは間違いないようです。作品構成は上手く整理され申楽談義にも「道盛、忠度、義常、三番修羅がかりにはよき能也」と載っています、『義常』は『八島』と言って問題なく、ワキの宿借りの問答は『松風』や『絃上』にも似て、シテもツレも言葉を間違え安く、気を遣うところです。

『八島』の前シテの面は本来「三光尉」ですが、今回御神能に用意された尉の面に「笑尉」がありましたので試しに使用してみました。表情は名前の如く、笑んだ顔のため修羅の苦患とは無縁な前シテとなってしまいますが、能楽師の好奇心で、一度はつけてみようという遊び心でつけてみました。結果は人物像に陰りが出ないのでいま一つだったように思えます。
塩屋に通された僧(ワキ)が八島の合戦の模様を尋ねると、老人(シテ)は「あらあら見及びたるところを語って聞かせ申し候べし」と語り始めます。この語りが聞かせどころで、あまり熱が入り力が外へ発散し過ぎては尉の語りには似合わず、抑制を意識し過ぎ内へ引きこもると臨場感の欠けた修羅場の語りではなくなり、面白味が半減します。丁度よい頃合いを体得することが演者の大事な修業過程の一つで、今回も苦労したところです。

老人は屋島の合戦の有り様をまず義経の装束描写と名乗りから始めます。ここは平家物語「継信最期」の原文に添って前半の見せ場の始まりです。語り終え我に返るように「今のように思い出されて候」と一旦落ち着くように謡いますが、能夫氏は、「菊生叔父や新太郎は、あそこは、最後まで強い口調で熱く謡っていたなあ」と話してくれました。能夫氏は一旦冷静に静まるからこそ、供の男(ツレ)が謡い出す戦況場面がまた生きてくるのではないかと言います。私も同感です。シテを挑発するかのような謡が、ツレの大事な仕事で、その触発にまたシテが語り始める、そのような繋がりの面白さなのです。

平家物語原文では、物語の進行は継信最期、那須与一扇の的、錣引き、弓流と進みますが、能では錣引きの後に継信最期の話となり、那須与一扇の的は狂言方が担当して、後場で弓流となります。子どもの頃より、能の世界で書かれた歴史に慣れ親しんできたため、誤って歴史を認識していたことを知りました。今回平家物語を読み直し、能の屋島の合戦が平家原本とどのように異なって戯曲化されているかを知り勉強になりました。

三保谷四郎と悪七兵衛景清の錣引き、ここも緩急と語る口調に気をつけなければいけないところです。やり過ぎては老人の枠から外れてしまい、内にこもり過ぎては気持ちが伝わりません。こういうところを偉大な先人たちはいとも簡単にやっておられたように思えます。見ていた時は自分も簡単に出来る気でいたのですが、いざ舞台に立つとなかなかうまくいきません。「鉢附の板より引きちぎって」で両手を放し両者が左右にどっと分かれる型がありますが、床几に腰掛けた少ない動きの中での型で難しいところです。この錣引きの模様は能『景清』の方が詳細にリアルに演じられています。『八島』では「これをご覧じて義経」でシテは床几から立ち、継信最期の話へと移ります。義経目掛けて能登殿が放った矢を、継信が身代わりになって受け、馬からどっと落ちます。平家方は教経の郎党、菊王丸が継信の弟忠信に討たれ、源平共に哀れに思い、互いに引き潮のように兵を引き、あとは磯の波や松風ばかりの音が寂しく聞こえるという地謡の謡で、シテはワキに静かに向かい下居します。小さな動きながらも激しい戦闘場面、ここが上手く繰り広げられなくてはと、演者が奮闘するところです。この後のロンギが唯一幽玄の世界となります。世阿弥はここを最も大事にしていたようで、最後の「よし、常の浮世の夢ばし覚め給ふなよ」は、義経と、よし、常の浮世の掛け詞でしっとりとした雰囲気を出し、悲劇の英雄義経の姿を垣間見せて中入します。

今回は小書「弓流」ですのでアイは「那須語」となります。語りの最後は「乳吸えやい、乳飲ませいやい」で終わります。この面白い表現、よくよく調べてみると、「よくやった、でかした与一、褒美に女性のところで甘えてくることを許すぞ」ということのようで、このいかにも武骨な武将らしい言葉の使われ方が私は好きです。

後シテの面は通常、平太(赤)ですが、小書の時は白平太になります。生憎厳島神社には白平太がなく、残念ながら常の平太(赤)にて勤めました。出立ちは厚板、半切、法被の肩脱ぎとなりますが、古来は厚板の上に法被と側次を重ねていました。以前『箙』の時も試してみましたが、なかなか重厚感ある扮装なので今回もまた付けてみました。
一声で「落下枝に帰らず、破鏡再び照らさず、然れども猶妄執の嗔恚とて…」と修羅道での苦悩、妄執を嘆きますが、不思議と救済を求めないのが、この曲の特徴です。おめでたい勝修羅といわれる所以でしょうが、根幹のテーマはやはり殺人者の懺悔、成仏への懇願ではないかと私は思っています。しかしそこを明らかにしないところに、この作品の妙な明るさと特別な味わいがあるようで、判官贔屓にはたまらないのかもしれません。私は今回演じて、何かふっきれない、すっきりしないもどかしさを感じました。勇壮なだけではない、義経自身の悔しさ、敗北者の悲劇がどうにか表現出来ないだろうかと試みましたが、手ごたえを感じるまでにはいかなかったことが反省点で、少し残念に思っています。

喜多流の弓流は、我が家の伝書には「囃子方、装束に変わりなし」、「舟を寄せ熊手にかけて、既に危うく見え給いしに」後に立ち、少し出て下居、「其の時熊手を切り払い」と切り払う型をするとあります。今回は下居せず元の座にシサリながら左手に弓(扇)を抱えたまま床几に腰かけました。弓流はこのもとの所に戻るのが難儀で技の見せ所です。「後見は床几にくれぐれも触れぬこと」と注意書きがされています。最後の仕舞どころに緩急がつき、橋掛りでの特殊な型が入り、「春の夜の闇より明けて、敵と見えしは群れ居る鴎」とまた舞台に入り、激しく面遣いして常座で廻り返しをして留拍子を踏み終曲します。

源義経という人は平家を滅ぼすためだけに生まれてきた人ではなかったでしょうか。義経が登場する能は『鞍馬天狗』『橋弁慶』『関原与一』『熊坂』『烏帽子折』『八島』『正尊』『安宅』『船弁慶』『摂待』などですが、シテが源義経(『関原与一』のシテは牛若丸)はこの『八島』だけです。負けず嫌いの源氏の御曹司は百戦錬磨の名将義経となりますが、壇ノ浦の合戦以降は、人生の歯車がかみ合わなくなります。政治家頼朝の策略に使い捨てのように使われ、奥州、藤原家を頼みに下向しますが、遂に衣川の戦いで自害して果てます。一の谷合戦の奇襲作戦、屋島の戦いの前に逆艪問題で梶原景時と対立し猪武者と言われても「勝ったるぞ、ここちよき」と尻込みを嫌う性格、壇ノ浦合戦では楫取、水夫(かこ)を射殺すルール違反の新戦法で勝利し、あくどさも見せつける義経。これらの出来事で修羅道に落ち、梵天に攻め上っては負け、攻め上っては負けという戦いの日々を暮らす義経の苦悩、これがこの曲の主題であり、そこが表現出来なくては意味がないと思っています。

大槻文蔵先生は、能は歴史の王道を歩いた人ではなく、そこからこぼれた人を描いている、平家物語は歴史を上から書いているが、それを下から描いているのが能だと仰っています。すばらしい言葉で心に残ります。
私はどうにかして義経の心の奥深いところにくすぶっている嗔恚(成仏を妨げる生前の怒りの心)と妄執の苦悩を表現できるような『八島』を勤めたいと、再挑戦を心に期しているのです。

(平成16年4月 記)
写真
『八島』 シテ 粟谷明生 撮影 石田 裕
面 笑尉 (厳島神社蔵) 撮影 粟谷明生

当麻投稿日:2018-06-07

当麻

粟谷能夫

 私が『当麻』という曲に本当に出会ったのは観世寿夫さんの舞囃子でした。シテの身体より出る圧倒的な力を感じました。それは曲に対する思いや、曲のもっている世界、そしてシテの思想ともいうべきものが綾をなしていたのだと思います。
それから数十年経て、私自身の『当麻』を演ずることとなりました(平成十六年春の粟谷能の会)。いつもどおりに謡本の読み込みや資料集めに取り掛かりました。二上山の麓の寺となれば、悲劇の死をむかえ、古墳の闇から復活した大津皇子の魂と藤原郎女(中将姫)との交感を題材とした折口信夫の「死者の書」があり、多くの教示をいただきました。
余談ですが中将姫の父である横佩の右大臣藤原豊成の横佩とは、当時縦にさげて佩(は)く大刀を横だへ(え)て吊る佩き方を考え出したことによるもので、豊成は伊達者であったそうです。
そして『当麻』の世界を的確にとらえた小林秀雄の文章です。「中将姫の精魂が現れて舞う。音楽と踊りと歌との最小限度の形式、音楽は叫び声の様なものとなり、踊りは日常の起居の様なものとなり、歌は祈りの連続の様なものになって了っている。そして、そういうものがこれでいいのだ、他に何が必要なのか、と僕に絶えず囁いている様であった。音と形との単純な執拗な流れに、僕は次第に説得され征服されて行く様に思えた。」小林氏は能『当麻』の描く世界を直感し、能の持つ、呪術的な力を感覚的に受け止めています。恍惚とするような歓喜の状態に入り込んだのでしょう。このあたりにこの曲の本質があるのだと私は思います。そして「中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花の様に見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。」と言っています。昭和十七年に梅若万三郎の『当麻』を見て「無常という事」に書いたものです。私も『当麻』は浄土経の讃美歌の様な曲で、人間の一生が下敷きになっていると思うのです。
前シテの老尼はツレの侍女「若い女」を伴って現れ、念仏を勧め、中将姫について語ります。そして二人は阿弥陀如来と観世音菩薩の化身である、化尼、化女であると言って中入りとなります。この前シテとツレは、生身の阿弥陀如来と中将姫の化身であるととらえても良いのではないでしょうか。双方とも、人生を悟った人の心と、未だ無垢な少女のような人の心のゆらぎを抱えているように思われます。後シテは中将姫の霊として現れ、法悦の姿を表し「早舞」を舞います。宗教性を高度な音楽性によって表現するような「早舞」と言われますが、私は西方浄土の空気のようなものを舞っているのだと考えています。
 先代観世銕之亟さんはこの曲の「早舞」とは曼荼羅を織っているのだとおっしゃっていました。まさにシテの『当麻』に対する思いや考えをタテ糸にし様々な教え等を横糸として織り上げて行くものだと思うのです。

写真 『当麻』二段返  シテ粟谷能夫  撮影 東條 睦

「石橋の間」投稿日:2018-06-07

「石橋の間」

粟谷菊生

 

昨年(平成十五年十二月十五日)芸術院会員の任命を受け、今年六月七日に新会員として、今年度の院賞受賞者の芸術院に於ける授賞式に参列。今年は芸術院創設六十年を迎えるにあたって、両陛下のご来臨を仰ぐこととなり、旧会員も多数参列した。式後、文部科学大臣主催の午餐会に夫婦同伴で招かれ、そのあと受賞者と新会員のみ、午後の宮中に於ける茶会にお招きいただいた。人間国宝、院賞受賞につづいて宮中へのお招きを受けたのは、今回が三度目。「石橋の間」で前田青邨画伯描く先々代家元、十四世喜多六平太先生の『石橋』の絵画を眺めるのも、従ってこれで三度目になる。
 故六平太翁は明治七年七月七日生まれの戌年(いぬどし)で、僕は四廻り下の同じ干支なので互いに気心が通じるというか非常に可愛がっていただき、釣りのお供もよくさせられた。その折々に人生訓や芸談、能の心や演技の虎の巻的なことも話していただいたのは、今にして思えばまことに私は果報者であった。迫力ある此の有名な「石橋」の絵画の前に最初に立った時は、「オイオイ、キク坊! 何しに来た?」と言われているような気がしたが、二度三度と伺うようになった今、「先生、また参りましたよ」と心の中で言って、その絵画を見上げ「オー、また来たね」と石橋の六平太先生から言われているような気がする。
この絵画が描かれるに当たって、こんな一幕があった。画伯と相対(あいたい)して話しておられた六平太先生が、先ずデッサンをして頂くには装束の下の腕の張り方、筋肉のあり方を見て頂きたいとその頃既にご老体であったにも拘わらず着物を脱ぎ捨て褌(ふんどし)一つになられて舞台で『石橋』の獅子の型をして御見せになった。「褌が汚れています」と慌ててご注意申し上げたが、そんなことは一向に頓着なく…。画伯はと見ればこちらも素知らぬお顔でデッサンの筆を運ばせていらっしゃる。高齢の裸体は常識的には正視には耐えられるものではなかったと思うが、両雄相対する姿に一種の感動すら覚えた。僕はその場に居合わせたこともあって此の絵画には格別の感慨がある。此の絵画の他に、宮中には青邨画伯描く六平太先生の「出を待つ」という絵画もあるが、『石橋』の絵画だけがある故に「石橋の間」と呼ばれている此処に立つ時、六平太先生に再会出来る懐かしさのようなものを、ひそかに感じてしまう。
白寿を全うした先生にあやかり何とかして一日も長く舞えたらいいなあ…と、若い時には考えられない芸への執着に我ながら驚き、先輩たちの晩年の心境が理解出来るようになった。という事は、今は亡き先輩たちのその晩年と自分が同じ年齢になっているということで愕然とする。惨めな幕引きだけはしたくないと常々心に決めながら、命ある限り舞いたいと思う心もあるにはあるんですなー、困ったことに。

写真 上 「出を待つ」下 「石橋」  前田青邨記念館所蔵品目録より複写

我流『年来稽古条々』(17)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(17)
 壮年期その一
   『道成寺』以降

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 今回からは『道成寺』後のことを具体的に話していきましょうか。能夫さんはどんな曲目を手がけましたか。

能夫 昭和五十四年、『道成寺』と同じ年に青年喜多会で『湯谷』。同会では翌年に『八島』、粟谷能の会では五十五年に『葛城』その年まで粟谷兄弟能と呼んでいたけど…。五十六年に『葵上』、五十七年に『自然居士』、五十六年には喜多会にも入って、喜多会の最初が『忠度』だった。他には『羽衣』、『杜若』、『雷電』、『鵺』というところかな。

明生 結構重いものをやっていますね。『道成寺』の前後では、曲がワンランク違ってくるという感じがします。

能夫 それはあるよね。大人の世界に入っていくという、そんな気がしますね。粟谷兄弟能が粟谷能の会と名称が変わったのが五十六年でしょう。我々を会に入れて、完全に年二回でやろうという方針になって。五十六年から明生君も入っているね。

明生 その年に『小鍛冶』白頭を勤め、それから毎年一番のペースになっています。

能夫 明生君は『道成寺』の後はどんな曲を手がけたの。

明生 『道成寺』(昭和六十一年)の後すぐ、その年に青年喜多会で『山姥』、翌六十二年は三月に粟谷能の会で『自然居士』、六月に妙花の会で『杜若』、九月に青年喜多会で『湯谷』です。『道成寺』の後は、私も結構重い曲をやらせていただいていますね。

能夫 やらなくちゃ、やらなくてはいけないという気持ちもあるし、ある年齢になったというか、『道成寺』をやると、次はこんなものができそうだみたいなものが見えてくるということはあるね。

明生 そうですね。青年喜多会では私が同人の中では年上になる、そうなると真ん中を勤めることになって『湯谷』がつく、翌年の『東北』で卒業しました。まだ喜多会には入っていなかったので演能の機会が少なくなるなー。で、「妙花の会」を起こしたのです。

能夫 意識的に動き出したわけだ。「妙花の会」が六十二年にスタートして、それで『杜若』を舞ったわけだね。

明生 会を立ち上げていきなり本三番目ものを選曲するのには若かったし抵抗がありましたから、小面をかけて、そこそこ幽玄の世界を味わえる曲と考えて『杜若』を選びました。

能夫 そういうことはあるね。『杜若』はあの初冠に追掛で長絹姿の美しさはなんともいえないね。でも、後半の恋の話がたくさん出てくるところ、コラージュとかフーガとか言われるけれど、何だか散漫な感じがして、あまり好きになれないんだ・・・。でもあの曲好きな人結構多いよ。親父も好きだったし、菊生叔父も好きでしょ。

明生 昔から能夫さんは、父たちの時代の人は何であの曲が好きなんだろうと言っていましたね。手ごろだから演能機会が多いということだと思いますが。でも私も勤めてみて、なかなか若造では難しいところが多い気がしました。

能夫 『杜若』をいい形でしおおせるのは難しい・・・。でも、あのころはとにかく時間があったから一生懸命稽古をしたという気はするね。

明生 で、能夫さんは『道成寺』後、すぐに『湯谷』ですね。私も翌年に勤めています。『湯谷』はどうですか。

能夫 『湯谷』を舞えるようになったという喜びはあるよね。豊かで華やかさもあるし、見た目もいいし。

明生 実先生が指定してくださった最後の曲が『湯谷』でしたから、まずは楷書の感じで稽古しました。当時はすでに友枝昭世師に習っていましたけれど『湯谷』の雰囲気がわからなくて、つまり現在物への戸惑いですが。思い出すのは、文ノ段を森常好さんと連吟したこと。あそこは普通連吟なのですが、最近はシテ一人で読むことが多くなっています。そこを本来の形でやろうと。森さんなら同年輩でもあるし、つーかーの仲ですし。

能夫 謡本では「もろともに読み候べし」となっているね。ワキと読むヒントになるものは何だったの。

明生 父の鏑木岑男さんと連吟している写真や、新太郎伯父が厳島御神能のNHK録画の時も連吟していまして…。一人で読むのもいいですが二人で寄り添って謡う景色が私は好きなので。

能夫 演出的なことを明生君が見直そうとした、その萌芽がそこにあったのかもしれないね。いいことですよ。

明生 それで、常好さんに「こうしたい、ここはこのように」と注文したら、「あっそう、了解」なんて、いとも簡単に返事してくるんです。こちらは初めてでも、おワキの方は何回もやられているから。

能夫 ワキ方はいろいろな人のお相手をしているから対応できるんだね。『湯谷』は親父や菊生叔父、友枝喜久夫先生、みんな好きだったね。僕はそんなに好きな曲ではないけど。六平太先生がお好きだったから、みんな憧れて、自分もああいう風に舞いたいというのがあったのだろうね。

明生 能夫さんの好みは現在物より幽玄物だから。『湯谷』よりは『野宮』『定家』『松風』でしょ。

能夫 そうね。『野宮』『定家』だったら喜んで舞うね。

明生 『杜若』もそうでしたが、『湯谷』にしても、我々と父たちの世代とは好みが違いますね。それは時代もあるし、憧れる人の違いもあるのではないでしょうか。父たちは六平太先生に憧れ、能夫さんは実先生に教わり、寿夫さんに憧れてということですから。そういう違いがあっていいと思いますね。

能夫 それでも、考えてみれば僕はいい環境にいたと思うな。父もいて菊生叔父もいて、それぞれに一生懸命やっていた。実先生も、そして六平太先生もおられて、寿夫さんたちもいて、いい環境にあったんだな。

明生 いいですね。それから『自然居士』を私が『道成寺』の翌年、能夫さんが三年後に勤めていますね。

能夫 『自然居士』はすごく面白い曲ですよ。憧れもあったしね。何をやりたいと聞いてもらえる立場になって、自分から『自然居士』をやりたいと言った気がする。羯鼓とかクセはあるパターンでできるんだけれど、やっぱり会話が難しい。ただセリフを言っていれば通じるんだと思っていたのが、そうじゃないゾと、発見するときだね。

明生 それは『道成寺』をやって祈りを体験するから感じられるんですよね。それまでは、相手とは関係なく、自分のなかでまっすぐに謡っていたものが、相手と対話するという工夫が必要になる。一度買い取った子は返さないと言いはる人商人から、自然居士は子を取り戻さなければいけないわけだから、平坦な言葉では通じませんね。

能夫 大きく包み込んで勝たないといけないわけでしょ。相手の出方によって、すごく動いていなければならない。相手の裏をかくこともあればおちょくることもあり諧謔もあったりと、いろいろな言葉のニュアンスがある。『自然居士』はパターンでできる能じゃないんだよ。ほんと、セリフ劇だからね。そこが楽しいところですよ。

明生 能楽師が役者にならなければいけないというイメージがありますね。

能夫 そうそう、そういうものをしょわないとね。

明生 それで『自然居士』、一人で稽古していると馬鹿馬鹿しくなるんですよ。謡本を覚えて、間も覚えて、でも相手がいないと…。

能夫 確かに一人で稽古していると何か空虚だよね。

明生 それで常好さんと一緒に稽古する事になり、アイの野村耕介(野村万之丞)さんにも参加してもらいいろいろ相談していくうちに、萬舞台できちっとやろうということで、佃良勝さんが役ではないのですがアシラヒをして下さり、地謡がいないなーと困っていたら観世暁夫(現 観世銕之丞)さんが「僕が謡うよ」ということで…。

能夫 すごくいいじゃない。僕のときは実先生のもとにあって、なかなかそういうことはできなかったけれど。

明生 その後『野守』「居留」でもそういうことをやりました。あのときは金春国和さんと地謡は宝生流の武田孝史さんで、特に緩急の付け方をみんなでいろいろ試みたことが楽しかったです。みんなに、寿司ぐらい奢れよと言われて、食べて飲んで話して、いい思い出ですね。

能夫 いい仲間がいたってことじゃない。明生君は恵まれているなあ。幸せな時間を過ごせたということですよ。

明生 能夫さんの『自然居士』のワキは?

能夫 工藤和哉さん。工藤さんはもう百戦錬磨の人、いろいろな人の相手をされているでしょ。そうこちらは披きだからね、コチンコチンになってぶつかっていくわけだから。今考えると、あの『自然居士』は子供っぽいものだったと思うよ。

明生 百戦錬磨の人に太刀打ちできるわけないですよね。

能夫 そう。第一回の『自然居士』では無理!(笑い)でも、それでコンチキショウとなって次の道があるわけだから。次の『自然居士』はお相手が宝生閑さんだったけれど、結構面白くできたと思っているんだ、こういうことが楽しいよね。

明生 『道成寺』が終わると少し自信がつくというか余裕が生まれる、それで曲をどういう風に演出し演じていこうかということを意識しだす。

能夫 自分で考える余地をもってやっていくという、それが少しずつやれるようになるのが『道成寺』以降ということなんだろうね。

『采女?佐々浪之伝』の新工夫投稿日:2018-06-07

『采女?佐々浪之伝』の新工夫

粟谷 明生

 『采女?佐々浪之伝』といえば、六年前(平成九年)、粟谷能夫と私で主催する粟谷能の会研究公演でのスローガン、「新しい試み」に挑んだ思い入れのある曲です。今回、秋の粟谷能の会(平成十五年十月十二日)では、もう一度、この『采女』を取り上げ、研究公演の成果と反省を踏まえ、一歩進めた、粟谷明生の『采女』を観ていただきたいと思い勤めました。
 通常の『采女』の上演時間はおよそ二時間、長い作品です。粟谷能の会のように三番立の番組では、一曲にたっぷり二時間はかけにくい状況があります。もちろん二時間なければ成り立たない曲であれば、番組構成を工夫し、その時間を確保することになりますが、現状の『采女』という作品ではどうでしょうか。やや散漫な筋立ては、曲位として無駄な重さが感じられ、そのためか『采女』の上演回数はけっして多くなく、せっかくの優れた作品がどこかで損をしているように思えてなりません。構成の散漫さを整理することで、『采女』のよさを十二分に引き出し、現代版として再生、普及できないものか、これが私の挑戦であり、かなえられそうな夢だったのです。
 では、『采女』の散漫さとはどこにあるのか。それは春日明神の縁起と猿沢の池に身を投げた采女の物語の二本立て構成にあるのではないでしょうか。『采女』は世阿弥作となっていますが、もともとは古作の『飛火』が原形で、それを世阿弥が改作したようです。原形は、春日山の賛美が主体で、そこに後から采女の話をつけ加え作品化したものです。しかしその手法は、当時はよかったのでしょうが、現代から照らしてみると、少し冗漫な作品に思えるのです。
 『采女』の小書は、昭和五十年、先代・喜多実先生が「小波之伝」(当初は「佐々浪之伝」)として、長時間の作品を凝縮するために土岐善麿氏と創案されたもので、それを基に私は先の研究公演で前場の春日明神の縁起や、後場の序、サシ、クセを省き、改訂版の「佐々浪の伝」として試演しました。新演出を考えるとき、演者だけでは思考に片寄りが生じ、つい演者のやりやすい方向に流れてしまう傾向があります。舞台全体を客観的に厳しい目で見ることのできる人は必要です。今回の小書再考には、日頃お世話頂いている演出家の笠井賢一氏にご協力頂き取り組みました。
 まず新たな台本作りの検討からはじめました。作品の主題を明確にするため研究公演での詞章を更に絞り込むことにしました。前場は春日神社の由来、神木の植樹の草木縁起を完全に削除し、後場は序、サシ、采女が安積山の歌を歌ったという采女の身にまつわるクセや、宮廷での酒宴の様の部分、そして「月に啼け…」の和歌に継ぐ御世を寿ぐ祝言を削除し、入水した采女の、現世の苦患を超えて仏果得脱の清逸の境地に焦点を当てたいと思いました。
 春日山の植林から始まる春日縁起は興福寺、春日大社を讚える宗教賛美であり、藤原氏への権力者賛美です。創作された当時、芸能者達が権力者である観客のために、自らが生きていく工夫としては欠かせない部分であっても、今それがはたして必要なのか、意見の分かれるところですが、敢えて今回の作品は、采女という女性に関連性が薄いこれらの部分を大胆に削除しました。
 この能は、采女という女性の恨みや悲しみの訴えではなく、得脱の晴れやかな境地を表現したいのだと思います。采女は帝の寵愛を失ったと嘆き哀しみ、猿沢の池に身を投げますが、帝はあわれと思い、「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき」(我が愛しい人との契りの後の寝乱れ髪が、今は猿沢の池の玉藻のように見えることの悲しさよ)と歌い弔います。帝の心も知らず恨んで恥ずかしい、浅はかだったと…采女は悲しみます。そこにはドロドロした恨み節はなく、すでに変成男子を経て成仏し生まれ変わった采女がいるのです。
 「佐々浪之伝」の主題は、入水した采女の現世の苦患を超え浄土を喜ぶ清らかな境地であり、法悦の余情と功徳、昇華した成仏得脱の境地です。詞章を切り詰めて削った意図は、最小限の言葉によって能『采女』を表現する、能でなければ成しえない新たな『采女』の創作なのかもしれません。おそらく、これほどまでに言葉を削れば通常の芝居なら支障が出るはずです。最小限の凝縮された言葉や、言葉では語れない思いを序ノ舞という舞に感情移入し、舞歌という能の世界で濃密な時間と空間を織りなす…。梅若六郎氏は、能は基本的に無駄なものを削ぎ落としていく木彫芸術のようなものだが、削ぎ落とし過ぎると演者は理解していても観客には意味がつかめない事も起こる、程度が問題だ…と言われています。この、程度が実に難しく、今回も絞りに絞った狭いテーマを扱いながらも、観る人の想像に任せる余白を大事に残し、単なる仏法讃歌やお説教曲ではない『采女』という作品を蘇らせたい、その一念でした。
 今回の前場では、植林の話も削除するため、シテの登場をどのようにするかが問題となりました。観世流の小書「美奈保之伝」ではシテがワキに呼び掛け猿沢の池へ案内しますが、喜多流らしさも考え、実先生のアシラヒ出を生かしながら「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の…」という帝の歌を謡う形としました。
 以前、観世流の片山慶次郎氏が雑誌『観世』の『采女』の記事の中で、「美奈保之伝」も呼びかけの言葉に工夫が必要では…例えば「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の…」と謡うアシラヒ出の可能性もあるのでは、と語っておられますが、これは今回の演出を選択する上での大きな自信となりました。
 ただ問題もあり、「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の…」の詞章が前場だけで三回もあり、少しくどい感じになります。そこで、シテの朗詠する形、シテの言葉で謡う形、地謡の小のりで謡う形と彩りの変化で対応してみました。
 後シテの出に関して、笠井氏より定型の常座でのシカケ、ヒラキではない、「美奈保之伝」の被衣に替わるような演出をとの提案に、一声の留めを一ノ松にして、囃子方にお願いして特殊な手組を入れていただき、池水から浮かび上がる風情で心情のこもる謡が謡えればと試みました。
 序ノ舞は、研究公演でも試みた干之掛(かんのかかり)で、采女という女が昇華していく様とも、また我が家の伝書にある「采女一日曠れ(はれ)也」のキーワードの如く、采女にとっての晴れやかな時の表現としました。曠れの絶頂感を官能的な高音から始める干之掛は、まさに最適だと思います。
 二段オロシでは中正面を池と想定して見渡し、袖をかづきながら思い入れの型をして、妙なる調べを聞いているとも、また御光に照らされるかのように正先に出て、ふと祈り合掌してしまう、静かで穏やかな特殊な舞の時間があってもよいのではないか…、私なりの冒険でした。「美奈保之伝」は水のイメージを重視して、拍子を踏まぬ、袖を返さぬが教えですが、今回は水のイメージに拘わりすぎないように注意し、采女が現世に現れて、法悦の舞を舞う凝縮されたひとときの舞、まさに「一日曠れ」ただそれだけを念頭に描いてみました。
 序ノ舞が終わり、女は「猿沢の池の面」と謡い、「よく弔はせ給や」と、祈り続けることを願って池の底に消えていきます。重ねて祈ることで、采女の魂の鎮魂を永遠の祈りに高めているようです。采女はあくまでも美しく、水と同化していく様にも見えますが、采女にとって水や池は単に死に場所ではなく成仏の場所と変わっているのです。これは稽古を重ねていくうちに気づいたことで、私の発見でありました。
 采女が重ねて弔いを願い永遠を求めるように、私たちが携わる伝統芸能の世界も同じ、繰り返し反復することが神髄かもしれません。しかしその反復の中にも、新しい試みや改良が必要です。変えていく力を失うことは、能という伝統芸能のダイナミズムが失われ、抜け殻のようになるのではないでしょうか。芸能の世界での“変える力”は、根こそぎ変えるものではなく、伝統の持つよさ、匂いを残しながらの変革ではないでしょうか。「名曲は伝承されつつ、その時々の工夫が加えられ、名曲であるが故に一層の磨きがかかってくる」これも梅若六郎氏のお言葉で、今回の作業をするにあたり、大きな支えとなりました。
 演じ終え、この「佐々浪之伝」という小書が多くの方に親しまれていくとよいと思っています。その意味もあって、お囃子方を前回の研究公演のときと敢えて代え、笛は森田流から一噌流へ、小鼓は観世流から大倉流へ、大鼓も高安流から葛野流にとお願いしました。みなさま私の試みを快く理解し協力してくださいましたこと深く感謝しています。地頭を引き受けてくださった私の師・友枝昭世氏が「そこそこの作品になってきたね。序ノ舞を再考すれば…、そのうちやってみようかな」と言ってくださいました。この小書が多くの舞台で演じられることは嬉しい限りです。コンパクトながら、能の世界を十二分に楽しめるそんな作品になるように、さらに改良を加えていきたい、あの池の采女が喜んでくれるような作品になればと思っています。
* (演能レポートで内容 補足&写真も掲載しています。)
写真 『采女 佐々浪之伝』粟谷明生 撮影 東條 睦

派手な大島投稿日:2018-06-07

派手な大島

粟谷菊生

傘寿を越えて、はや一年。月日の経つのも早いが、この一年間の加速度的わが肉体の衰えには、我ながら愕然。「八十を越えてみたら思い知るぞ!」と或る先人はよく言っていたが、「はあ、そんなもんですかねえ」という感じで、聞く耳もなかば上の空だったが、自分が実際その年齢になってみると、つくづくその言葉が身にしみる。

現在、八十を過ぎて舞台で能を勤める非常に数少ない能役者の中に入ってしまったが、私の知る限りでは、せいぜい三人位だろう。
八十歳過ぎて『道成寺』を舞った故桜間道雄氏には全く敬服。明治生まれの人たちは強かった。自分で鍛えようと思わなくても、今のように車の無かった環境では自然に鍛えられていたのではないだろうか。スキーの三浦雄一郎の父上は今も現役スキーヤーで、自己管理を理想的に全うしておられる。それを見ると、その強靱な意志に脱帽してしまう。僕は、「菊ちゃんが飲まなくなったらオシマイだ」と言われると、すぐ「そうだ、そうだ」と、そのお言葉を素直に有り難く受け入れて、相も変わらず飲んでしまっている、だらしのない男。
平成十六年も能六番程度は勤めることになっているが、曲目が限定されることは否めない。もう可愛い女にはなれなくなってしまったのが残念無念。しかし自由の利かない枠の中で如何によい舞台を観客に見ていただけるか、それしかないと、その都度歯を食いしばって頑張っているというのが現状だ。それに地頭を勤めさせて頂いていることも舞台に足を運ぶ喜びとはなっている。
顧みればここ十数年和服で通しているが、着物の目方も老体にはだんだん重荷になってくる。紬やお召しよりも大島の方が軽くてよい。というわけで最近ひとつ新調した。先代家元、実先生から頂戴している極上の大島は普段着のよそゆき用。何年か前に作ってはいるが僕はすぐに食べこぼしをするので代えをもう一枚…と今回は僕の好みで選んだところ「貴方は汚れの目立つことを考えないで、洋服でも着物でも明るいキレイな色をお選びになるのね」と言われてしまった。光線の具合で僕にはもう少し地味に見えたのだけれど。気の小さい?それともケチ?な僕は新調したてのばかり着ては勿体ないと思って古い方を着ようとしたら「これ少し派手だから年をとると着られなくなるでしょう。今のうちにどんどんお召しなって」と妻に言われ、一瞬?…と思わず黙したが「僕は八十過ぎているんですよ、もう充分老人ですよ!」今度は一瞬おいて女房、大爆笑。マチガイでもこんなこといわれると一寸嬉しくなっちゃったりして。その日はいそいそと稽古に出かけたという次第。

写真 『大江山』粟谷菊生 撮影 石田 裕

我流『年来稽古条々』(16)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(16)
 青年期・その十
   『道成寺』を終えて

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 前回は、『道成寺』は若さの限界に挑む曲であったけれど、それはあくまでも通過点、その結果云々ではなく、何をつかむかが重要だという話になりましたが、もう少し踏み込んで話してみたいと思います。

能夫 『道成寺』のすぐ後は、何か後遺症みたいなものが残ったね。体の後遺症もあるし、いろんな意味での後遺症。一年以上かけて、あれだけ謡って体を使って、曲に集中しているわけだから、ダメージも受けるし。それでわかったこともあるし、やれなかったなという思いもあるし…。

明生 それはありますね。『道成寺』の演能後は、当時、実先生がご健在でいらっしゃったので、秋に『湯谷』、翌年には『東北』を舞うようにとご指示がありました。それで青年喜多会を卒業させていただいたわけでして。

能夫 僕もすぐに『湯谷』だな、翌年に『八島』を、その次の年、昭和五十六年には喜多会に入った。『道成寺』で清姫の怨念のすごさ、体も使い謡に磨きをかけ、劇的な極致みたいなものに挑戦したわけでしょ。だからその後は、少し路線を変えた方がいいという考え方があるようだよ。高林白牛口二氏に「『道成寺』の後は『芭蕉』を舞え」という教えがあると聞かされたね…、心・体のスイッチを入れ替えるという意識かな。でもまあ三十歳で『道成寺』を披いて、すぐ『芭蕉』というのもね…。

明生 『芭蕉』ですか。以前野村四郎さんに、この話をしましたら、「主旨はわかるね、でもそれならば『東北』でいいんじゃない」とおっしゃられた。同感ですね。

能夫 そういう曲でリセットするというか、激しい曲をやった後は夢幻能に帰れというか。精神的にあまりドロドロしないものにする、お口直しだな。

明生 お口直しですか…。

能夫 『道成寺』の後、意識したのは、やっぱり謡だな。『道成寺』では、道行も和歌も、聞かせどころでしょ。そこを謡うときに自分で何か際立たせる作業をしなければいけないと思うな、自分に付加するプラスアルファーがないといけない、何か探らないといけない気がしたね。それまで修業してきただけのことでは獲得できない何かが必要だということを感じたよ。そういうことは思いもよらないことだったからね。もちろん一所懸命稽古はした。そうしていれば自然とできると思っていたからね。

明生 そう。生意気とお叱りをうけるかもしれませんが、流儀の指導法に限界があるのではないでしょうか。内弟子時代、謡の稽古が少なかった、もちろん団体での稽古はありましたが、それは暗記力テストでしかなかった…。もちろん若いときに沢山の謡を身体にたたき込むことは大事ですが、もう一歩踏み込んだ謡で世界を表現する学習があってもいいでしょう。まず、声の出し方から始まり、言葉の詰め開きの程度や、感情の入れ具合、祝言、恋慕、哀傷、恨みなど役や曲に沿う謡の稽古が当然必要です。しかし残念ながら流儀には、そのような慣習がなかった。それは先代実先生が型重視のお考えで、謡にさほど拘りがなかったからだと思います。現実に『道成寺』を勤めるまでは、謡のことはさほど注意されないのに、『道成寺』や『葵上』になると、急に謡のまずさを指摘される。体力的にもきびしい緊張感の持続の中、いきなり謡へのプレッシャーという新顔が入り戸惑うわけです。私も散々言われ、書かれもしましたから、かなりへこみました。

能夫 『道成寺』では謡について言われることが多かったね。身体的にはまあまあなんだよ。披きだから緊張感もあるし、ある程度動きは御せるけれど、謡は・・・。

明生 謡は難しいですね。でも基本は二曲三体でしょ、その二曲舞歌も割合からいうと、七・三で謡ですから。披きの『道成寺』は、まずは型がきちんとできないといけないから、型を優先するのは仕方のないことです。謡は駄目でもともかく型はしっかり…と、これが現状ですね。

能夫 ただ間違わなければいい、つつがなくだけでは悲しいね。大曲の重圧だけで、その曲趣を考えないのはいけないよ。清姫の狂気、鐘への執心として出てくる根拠はこれだというぐらいのテンションのある謡い方ができないとね。テンションもない、張りもない謡い方では落第だよ。

明生 表現の幅は難しいです。絶叫だけではダメだし、押さえ過ぎて小さくなってはつまらない…。

能夫 そうそう、それでは届かない。それまでは、曲趣を考えるということに価値があるなんて夢にも思っていなかったよ。それが能であるとも思っていなかったからね。

明生 そう教えられていないから。『道成寺』を披くならまずは謡ってみろ、から始まらないといけないのではないでしょうか。でも現場はまずは一番を通してやってみろとはじまる。すると乱拍子がこうで、急之舞は、キリの型がこうでと教わる、謡の注意は後回し。本当はそこが大事なのかもしれないのに。

能夫 そこが問題だな。『道成寺』をやったことで、謡が課題ということがはっきり見えてきたということだろうね。曲を謡うということ、本当に曲を舞うことの大切さ。

明生 本当にそう思います。

能夫 それと前にも話したが、やっぱり新鮮なのは祈りだね。自分だけで作るのではなくて、相手があって、相手との力関係で行ったり来たりする、気のような・・・。

明生 そうですね。祈りは舞囃子の稽古では体験できませんから。『黒塚』や『葵上』といった能に携わらないとできませんね。

能夫 『道成寺』の後、明生君は妙花の会を起こしたね。

明生 そうですね。発起人になって。『道成寺』をやりだすと、お能は面白いと感じるようになって。演能するチャンスを多くしたいと考えました。

能夫 よかったよねえ。それを待っていたんだよ(笑い)。『道成寺』を舞って、行動を起こすエネルギーがふつふつと沸いてきたわけだ。妙花の会はいつからだった?

明生 『道成寺』の翌年、昭和六十二年です。青年喜多会引退が六十三年ですから、一年ぐらい二つの会がだぶっています。能夫さんは青年喜多会を卒業するとすぐに喜多会に入ったでしょ。

能夫 そうね。実先生がいらしたときの喜多会は、入れるというのがある面ではちょっと名誉なことだったからね。

明生 能夫さんのときはそうでしたね。私のときは実先生がご他界なされていたので、参加が自由でしたから、喜多会に入る前に少し考えてみよう、もっと個人的な会で活動してみたいというような思いがありまして。上の先輩方は果水会を作られていたので、その下の年齢の仲間で同志をつのってみてはと…。それで妙花の会を発足しました。 師や父が与えてくれるものだけでなく、自分で演能の機会を作り、そこで学ぶ必要が絶対あると思って…。

能夫 演能について積極的に意識するようになった・・・。

明生 『道成寺』を勤めてから、三役との交渉係をやるようにもなりました。それまでは、すべて人任せでしたから。

能夫 『道成寺』は親や流儀の人たちのお世話でやる、いわば「お任せコース」でしょ。

明生 『道成寺』を勤める前はそうでした。ただお能を舞っていればいいというものから、喜多内や囃子方の交渉からパンフレット類を作るところまでやるようになって。

能夫 ある意味では本当のお能づくりかもしれないね。制作ということかな。

明生 三十歳そこそこで三役の方にお願いするわけで、何だ若造が来てと対応されることもあり勉強になりました。

能夫 そういうことに耐えながら(笑い)、交渉の中で獲得していくものはたくさんありますよ。

明生 『道成寺』を終えると、能はシテだけではない、三役の方や喜多内も含めて大勢の人の力添えで一つの曲が創られていることを実感します。会を起こそうとしたときもそう。そういうことを通しても、お能の面白さと同時に、物事を立ち上げる喜びみたいなものを感じていったと思います。それが後の、小書の再考に挑むようになり、伝書を読むだけでは解決できないことを、三役にご相談したり、そういう過程からの曲づくりにふくらんでいきます。

能夫 明生君が『采女?佐々浪の伝』など、具体的に小書に挑戦していくのは十年ぐらいしてからでしょ。演出的な課題、伝書を読むことなど、謡の問題ももちろんそう、いろいろな課題が出てくる。それを具体的に実践に移していくには、『道成寺』から五年、十年と年月がかかる。

明生 最近『道成寺』を披くのが遅いから、課題に目を向ける時期がどうしても遅くなっている気がします。

能夫 その問題はあるね。でも長生きの時代だからいいのかな。いずれにしても、これは能役者としての一生の課題でもあるね。(つづく)

伝書から投稿日:2018-06-07

伝書から

粟谷能夫

伝書とは有り難いものだ。平成15年、秋の粟谷能の会にて演じた『藤戸』「子方出」の小書において考えれば、常には登場しない子方(漁夫の子)を出す演出となる。前シテの謡「生き残りたる母や子をも、問い慰めてたび給はば。少しの恨みも晴るべきに…」による根拠からのもので、多分下掛りにしかない演出だと思う。
 家の伝書には「藤戸、子方出ル事、装束常ノ如シ、子方着流シ女出立、一声子方先二出ル、子方要ノ松ノ辺へ行ク時、シテ跡ヨリ此の島のト子方二謡掛ケル、子方立帰リ(さん候お着きと申し候)ト謡ウ、皆人のト、シテ正面向キテ立チ…」と書かれている。
 今回の『藤戸』は私にとって二度目でもあるため前々からの念願であった「子方出」の特別演出で勤めた。「子方出」の演出は昭和38年に先代喜多実先生が能に親しむ会で子方、粟谷明生で演じられて以来のことではないだろうか。
 伝書の型付の中には舞台での細かい動きまでは記されておらず、よって読み込んで自分で考え創らなくてはならないところがある。実はここに舞台づくりの喜びがあると思っている。決められたものをただ真似るのではなく、作り上げる、生み出す力が大切だと思う。
 今回、面の選択は前シテは二十歳あまりで戦の被害者として無残に殺された漁夫の母という設定である。孫を連れての登場ともなれば、それなりの年齢が想定でき、曲見、姥、痩女などが考えられ、鬘も常の黒い鬘、姥鬘、老女鬘などと選択肢は増える。装束の付け方も着流、姥着け、水衣姿といろいろ考えられ迷うところだ。
 子方を出す意味とは何であろうか。孫を伴って出ることで、不当に殺された子どもの親や家族の悲しみが際立つのではないだろうか。
 子方にどれだけの演技を求め、常の演出の何処を工夫すればよいのか、いろいろ悩み試行錯誤し稽古にはいったが、それが能役者の楽しみだと感じている。
 演能後、前記の実先生の『藤戸』の写真を何枚か見る機会を得ることができた。橋掛の一ノ松にシテ、二ノ松に子方が二人並び、シテは痩女厚板着流姿で子方は女唐織着流姿の出立ちのものが二枚であった。また残りの写真には曲(クセ)の最後に子方の所作があったようで、シテに縋る子方の写真は僕のかすかな遠い記憶を少し蘇らせてくれたみたいだ。子方を出す演出一つにもシテの思いや考え方により、様々なやりようが成立すると思う。伝書、型付は大いなる根拠であり、役者を型に縛りつけるものではないと思う。
演者が舞台を作り出すためには、伝書とはそのシナリオ作りの大事な注釈の一つではないだろうか。謡本という台本に伝書という型付や心持ちが、被さり一つになる。そこには先人達の工夫や失敗もある。それらを生かすも殺すも役者の精神性で有り、探求心ではないだろうか。
 能に対する考え方は人様々だが、先人の後をなぞるだけではなく、今生きている自らの思考や価値観を作品に吹き込んで大きく豊かな能を創造していきたいと思っている。

写真 『藤戸 子方出』 シテ 粟谷能夫         撮影 石田 裕
   『藤戸 子方出』 シテ 喜多 実 子方 粟谷明生 撮影 あびこ

阿吽17投稿日:2018-06-07

夏の全国浴衣会投稿日:2018-06-07

夏の全国浴衣会

粟谷菊生

毎夏、各地で行われる菊生会全国浴衣会も今年で第三十五回。初回は昭和四十三年、高野山の密巖院で私も四十五歳の男盛り。お弟子さん達も皆若かったが、今ではもう卒寿になられた方もいらっしゃるし、既に鬼籍に入られた方もおられる。しかしこの三十五年間浴衣会で大勢の社中が集まるのに一度の事故も無かったというのは奇跡のようなものかもしれない。全国から参集する会員は多いときは百名を越す。旅館の大広間を借り切っての二日間の謡会と三日目の観光。毎年七月の第一土、日、月曜と決めている。初日は現地に到着後午後一時から始まり、翌日は昔は朝六時から初めていたが、明生の勧めで最近は七時から、夕方五時半まで終日、謡と仕舞と、時には連調もある謡漬けの一日となる。明生もはじめは、なんで朝早く六時に開始するのかと不服だったが、いざ自分の社中を参加させてみると、やはりなるべく多くの方に謡ったり舞ったりして頂きたいと思うようになるのが人情で、必然的に朝七時開始というプログラムをいつのまにか自分で作ってしまっている。
昔、朝五時頃から起き出し各部屋を起こしてまわるという奇特な御仁もいらっしゃって、ご婦人方はお化粧、身繕いと男性より大変な筈だから、おちおちゆっくり寝てはいられないのだろうと推察する。
印刷された番組は一応、各自に配られてはいるのだが番組通りに進行しないのが、この浴衣会のコワーイところ。番組通りだと自分の出番はまだまだ先だと、ひそかに抜け出して自分の部屋でちょいっと御午睡、あるいはほんの少し外へお散歩に…などと出来るわけだが、そうはさせない。番組の順序には全く頓着なく突如掲示板に出ている順序を僕が変えるから油断も隙もあらばこそ。此の実に絶妙なアイデアにユニークな組立式移動掲示板を考案作成して下さったのは山口の吉田隆次氏のお弟子さんで、毎回、非常に重宝させて頂いているし、浴衣会の名物となっている。夜の宴会は、勿論壮観だが、各自の部屋に引き上げてからのお喋りもまた楽しみなのではないだろうか。
振り返ると、あんな所にも、こんな所にも、そして、あんな事もこんな事も…と思い出は盡きない。明生会と合併して行くようになって何年になるだろう。菊生会明生会両方の社中同志が交流し、東京と地方の方々との交流も深まる。
地方にこんな謡の名手がいらっしゃったのか…とか、あの方は随分と御上達なさったとか、新鮮な刺激や感動を覚えて下さることもあると思う。また、地方から東京に観能にいらしても能楽堂で知己に会えるのはなんとなく温いものが感じられるのではなかろうか。いずれ明生が引き継いでくれるだろうが、一年でも長くこの浴衣会が続くことを願っている。

写真 鬼界島(シテ粟谷菊生 平成12年 粟谷能の会)

『烏頭』ー殺生の業についてー投稿日:2018-06-07

『烏頭』ー殺生の業についてー

粟谷 明生

 本州最北端の地、青森市で催される「外ケ浜薪能」にて『烏頭』(他流では『善知鳥』)を勤めました。外ケ浜(注・謡曲では外の浜)は『烏頭』の舞台として知られ、また版画家・棟方志功の出身地であります。棟方志功には能『烏頭』を題材にした「善知鳥版画巻」があり、今年は彼の生誕百年祭である為、今回の実行委員の方々が『烏頭』を選曲されました。
 能『烏頭』は陸奥・外の浜でうとう鳥(ウミスズメ科の海鳥)を獲る猟師が、死後地獄の責めに苦しみ、僧に救いを求める物語です。
 舞台は、越中の国(富山県)立山へ禅定(ぜんじょう=山中の霊場を廻る修業)した僧(ワキ)が目のあたりに地獄の光景を見て感慨し下山するところから始まります。そこに、去年の春、外の浜で死んだ猟師の霊(シテ)が老人として現れ、禅定を終え陸奥へ向かう僧に、死別した妻子に麻衣の袖を届け、蓑笠を手向けてほしいと伝言します。立山といえば嶮しい霊山。今は立山黒部アルペンルートがあり、室堂あたりまでは容易に入ることができますが、その昔は、修験の山として信仰され、霊が集まる恐山、峻厳な秘境であり、立山に入ることが修行とされていました。殺生を生業にする人間の罪という重いテーマを、前場、峻厳の地の立山と、後場、本州最北の地の外ケ浜とを結んで描くところに、能『烏頭』の展開の面白さが感じられます。
 今回は、初めてご覧になる方も大勢いらっしゃると思い、少し解りやすいように手を加えてみました。
 一つは、既存の簡略化されたアイの言葉の見直しです。横道萬里雄氏は著書「能劇そぞろ歩き」に『善知鳥』のアイの試案を書かれています。今回ご承諾を頂き、そのアイの言葉を野村万作氏のご協力を得て深田博治氏に勤めていただきました。通常、僧(ワキ)が外の浜在所の者(アイ)に猟師の家を訪ねると、「さん候、去年の春みまかりたる猟師の家は、あれに見えたる高もがりの内にて候。あれへ御出であって、心静かに御尋ね候へ」と非常に手短に、ややそっけなく答えます。それに対してワキは「ねんごろに御教へ祝着申して候」とたいそう仰々しく受けて謡いますが、私はここを不自然に感じていました。今回はご当地ソングでもあり、外ケ浜や主人公の猟師の説明などを丁寧に語ることにより、内容もわかりやすく、身近に親しみを感じていただけるのではと思い試演してみました。
 また「出し置き」の手法をとらないことにしました。出し置きとは、本来その場にいない人物を、最初から舞台に出しておくやり方です。『烏頭』の前場は立山が舞台ですから、外ケ浜の妻子がいるはずがないのですが、子方とツレは最初に登場してワキ座に座っています。初めて能をご覧になる方は、戸惑いを感じるところだと思います。「出し置き」は、能という中世の日本の演劇の特徴的な手法で面白いとは思いますが、敢えてわかりやすさに重点を置いて、中入り後、場面が外ケ浜に転回するところで、子どもと妻(子方とツレ)を登場させ、アイはワキに呼び出され幕から登場していただくことにしました。
 面は前シテが小牛尉、尉としては品のよい顔で、喜多流では『高砂』や『弓八幡』などの脇能に使用しますが、なぜ身分の低い猟師の霊が小牛尉を使用するのか、品位の落ちる三光尉でよいと思うのですが、その理由がはっきりしません。研究の余地がありそうです。
 前シテは呼掛で橋掛りにて留まり、片袖を脱ぎ取りワキに渡します。シテは本舞台へ入るぎりぎりのところで、ワキは決して橋掛りに入らずに受け渡しをするのが心得です。シテのいる橋掛りは霊界、ワキの立つ本舞台は現世とされています。その境で「立ち別れゆくその跡の」と二人の離れ行く歩みが糸を引くように同じようになると良いといわれています。ワキとよくよく稽古しないかぎり、なかなか難しいところですが、一つの見せ場です。
 『烏頭』のメッセージはシテ自らが謡う「何しに殺しけん」に集約されていると思います。人間が生きていくために、他の動物の命を奪わねばならぬ悲しい業。地球上のあらゆる生き物は弱肉強食のルールの上で成り立ち、人間もまた例外ではないのです。もし猟師の殺生が罪というなら、それは人間の背負った宿命的な罪というべきでしょう。
 生きるための生業なら致し方ないと思う殺生ですが、『烏頭』の猟師は地獄に落ちて呵責の責めを負い続けています。能では『烏頭』『阿漕』『鵜飼』の三曲を三卑賎と呼び、いずれも殺生を生業にする猟師達の話ですが、『阿漕』と『鵜飼』の猟師達が弔われ成仏していくのに対して、『烏頭』は最後まで成仏出来ずに消えていきます。救われない何かがあり、それが『烏頭』の特徴ともいえます。
 では、救われない何かとは何か。答えは狩猟方法にあるのではないでしょうか。幼い雛鳥を狩猟する悪業を重ねていくうちに、殺生自体が快楽になってしまった猟師。目の色を変えて雛鳥を散々に打つ姿は、正気の沙汰とは思えず、まるで何かに取りつかれているように見えます。
 猟師が鳥を打つ様を描く「カケリ」は「追打之カケリ」とも言われ、修羅道に堕ちた武者たちの苦悩や、狂女の心の狂いの様を表すカケリとは明らかに違います。この型は正先に置かれた笠を巣に見立て、はじめは親鳥を狙い打ち、逃げられると空を見上げ悔しがります。二度目は橋掛りで「うとう」と親鳥の声をまねて謡い、それに答える雛鳥を見つけ、散々に打ち殺し捕獲します。親鳥はそれを見て空から血の涙を流し、泣き叫ぶという悲惨な場面です。
 生まれたばかりの雛鳥の生命を絶つという罪の深さ、それを人間と鳥類の親子の情にからめて描いたところに、『烏頭』の主張があります。うとう鳥は親子の情愛が深い鳥と言われています。「平沙に子を産みて落雁の儚や親は隠すと」も、外敵に見つからないように、親は懸命に巣を隠して子を守ろうとします。ところが、親鳥が「うとう」と鳴くと「やすかた」と答える習性があり、その親子の絆の深さがかえって命取りになっているわけです。そして親子の別離は猟師の霊にも降りかかります。ひと目妻子に会いたいと外ケ浜までやって来る猟師の霊ですが、子供の髪を撫でようとしても、「横障の雲の隔てか」と阻まれてしまいます。まさに因果応報、罪の深さを鮮烈に描き出しています。
 救済なき罪にもがく猟師の心境。そこをどう表現するかが演者の力。後シテの「一見卒都婆永離三悪道、この文の如くんば・・・」と経文を唱えれば助けてもらえるはずなのに、何故俺は救われないのか・・・という悲痛な謡を、単に朗々と謡ってはその苦しみが表現できるはずがなく、陰々滅々と気持ちを埋没して謡うだけでは、あの苦しみの訴えは通じないのではないか…。父は淡々と落ち着いて力強く謡う中に本当の強さが生まれ、それが聞いている人の想像力を掻き立てる、あまり前面に押し出すような謡ではいけないと教えています。演じる心に余裕をつくり、下の下の身分の嘆き、実盛や頼政などの武将のような訴えかけの強さとも違う、低い身分にありながらもそこに強い張りと内圧のある叫びのような謡ができればと思うのですが、今回もつくづくその難しさを実感させられました。
 私が『烏頭』の子方を初めて勤めたのは六歳の時、父菊生がシテの時です。シテツレは二十三年前の昭和五十五年に父菊生のシテで、これも青森公演でした。私自身シテは、十年ほど前の妙花の会以来の二回目の演能となります。
 子方で思い出すことはたった一度の稽古で「ツレが立たせに来たら立ってシテの傍まで行きなさい、シテが触ろうとするから、触られないように長袴を踏まないようにもとに戻り、あとは最後まで座っていて、終わったら立って帰るんだよ」とこの程度の指示で、最初から舞台に出させられたあのときの心境です。中入りが過ぎるうちに段々、いつシテの近くに行くのだろうと不安がつのりました。シテが我が子の髪を撫でようと寄って来るところを、スッと後ずさりして逃げる動作は子ども心にも難しいと思い緊張しましたが、何よりもシテと向き合って、その面の顔をまともに見た瞬間、本当に恐ろしいと驚きました。これは髪を撫でてくれるのではない、殺しに来るから逃げるのだと思いました。それほどの恐怖を覚えたのです。もちろん、その場面はただ恐ろしいというものではありませんが、触りたいけれども触れない無念さで歩みよるその緊迫感が、子方の私には異常な恐ろしさと映ったのでした。
 恐ろしい形相のシテ、永遠に子に触れることのできないシテ。何故作者はシテの猟師に救済処置を施さなかったか、成仏させず永遠に地獄の責めを負わせることにしたのか。それは幼い命を奪うことがいかに悪であるかという大事な教えであるように思えます。最近の幼児殺害という悲惨な事件の数々。大人、子どもを問わず人間のもって生まれた残虐性と愚かさをこの作品は戒めているのではないか、現代にも通じる強いメッセージになっているように思えてなりません。人間が生きるかぎり『烏頭』は、永遠のテーマとして舞台で演じ続けられるでしょう。猟師の魂はあの恐ろしい地獄の有り様を表す立山の霊山に永遠に彷徨い続けていると、私は思っています。

(平成十五年七月 記)
写真 「烏頭」 シテ 粟谷明生 平成15年7月 外ケ浜薪能  撮影 石田 裕

我流『年来稽古条々』(15)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(15)
 青年期・その九
   『道成寺』本番、そして

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 『道成寺』について、もう一回、本番以降のことを話し合ってみたいと思います。まず装束と面ですが、近年通常は紅無鶴菱模様唐織で、面は「増女」ですね。

能夫 僕はそう。実先生の鶴菱唐織を拝借して、面は本来「曲見」だけれど、披きでは使いこなせないから、どうしても「増女」になるね。「増女」だと少しアンバランスになる気がするけれど・・・。金春流は「若曲見」とか「白曲見」を使っているね。僕は「泣増(なきぞう)」、これは父が僕の披きのために買ってくれたものなんだ。


明生 私も「増女」でしたが、装束は紅入蝶柄模様の唐織でした。父がこれを着ろと言ったのが印象に残っていますが、これは何か意味があったのですか。

能夫 深い意味はないと思うよ。菊生叔父が実先生に「鶴菱でなければいけないでしょうか」とお伺いを立てていたのを覚えている。実先生が「そんなことはないよ」と言ってくださったから、家にある少ない選択肢の中から蝶模様が選ばれたというわけだよ。


明生 そうですか、披きで紅入の着用は珍しいですね。その後は皆、鶴菱模様ですから。


能夫 そう決めてかかるのも変だと思うよ。本当だったらシテが自分の主張で決めるべきもので、いろいろな選択肢があった方がいいと思うけれど。そういうこともあって菊生叔父は実先生に聞いたんじゃないかな。


明生 装束もそうですが、演技においても、今みたいに自分でどの様にしようなどとは考えませんでしたね。

能夫 まあ考えないこともないけれど、自分でこう解釈してこうしたいなどということが許される状況ではなかったでしょ。実先生もいらして、もうみんな先輩たちがいるから、勝手なことはできないよ。


明生 そうですね。ただ粗相なく、つつがなくやろうということでした。『道成寺』というのはすごく資金がかかります。それを親が負担し、一門の人たちが支えてやらせてくれるわけです。だから披きではすごく親や一門の人たちの応援に感謝しましたよ。舞台に出ていく前に、新太郎伯父に「しっかりやれ」とか「ちゃんと戻ってこい」と言われるわけです。それが一番心に残っています。だから芸術性がどうとか言う前に、粗相しないで、親や一門の人たちに恥をかかせないで、とにかく無事にということがありますよね。

能夫 まあ、つつがなくだよね。


明生 そう。粗相したら恥ですよ。父や伯父たちは遠方からもお客様を呼んでいるわけでしょ。それで失敗でした、不勉強でしたではすまない。

能夫 本当にそう。まず基本は失敗なくきちんとやること。それを通過することで次のステップに行くということだよね。自分の価値を自分で見極め、その後の点数を上げていくのは自分自身だということを自覚する曲だと思うね。
 でも、つつがなくと言ったって、もちろん『道成寺』自体はそんなにおとなしい曲ではないからね。乱拍子があって、初めは鎮静していたものが、急の舞で爆発して鐘入りする。その辺の心の変化というか、対応の仕方というのは今までにないものだから。尋常なエネルギーではない、それは演じると強く感じるね。


明生 理屈だけでは絶対にできない。

能夫 そうなんだよ。乱拍子は地謡でも見ているし、いろいろなところで見ていてイメージはできている。ところが見るのとやるのとでは大違い、そういうことを発見するね。見ているときは割に単純な作業だと思うけれど、実際にやってみると、もう勘弁してよといいたくなるほどつらいし、バランスがうまくとれなかったりする。鼓との戦い、せめぎ合いも感じた。そして急激に爆発するというのが難しいね。徐々にスピードアップするならいいけど、急激に爆発するからね。そういう意味でも『道成寺』というのはすごくおもしろい題材だと思うよ。


明生 そして何といっても興奮するのが鐘入りですね。

能夫 鐘入りも流儀によっていろいろなやり方があるでしょ。以前、NHKで各流儀の違いをやったことがあるね。喜多流は目付けから鐘の下に行き、縁に片手をかけて飛び込む、観世流は鐘の下で正面を向いて、両手で縁をさわって飛び上がる感じだね。


明生 動きとしては角で鐘に向かい、左廻りしながら烏帽子を白洲に払い落とすように取って鐘を見る。私、ここまでは冷静でいられたのですが、その後はあまりはっきり覚えていません。ハッと気がつくと、鐘の中に落ちていた。

能夫 何度も稽古しているから、体は自然と動いているけれど、僕もあまり記憶がないね。終わって扇を見みると壊れていたんだ。びっくりしたね。とにかく鐘入りは孤独な戦い。実先生は、片膝ついて落ちるとおっしゃていたけれど、そうはいかないね。


明生 実際はそんなお行儀よいものではなくて、仰向けにされた蛙のような状態ですからね。そしてハッと気がついて思い出すわけです。安心している場合じゃないぞ。鐘の中での手順を手際よくやらなければと。足でも手でもいいから鐘を回せと言われたことを思い出すのです。

能夫 うちの流儀は、落とした後に再度、鐘を少し上げ、鐘を正面に向ける作業をさせるね。シテが中で失神していませんよ、ちゃんと生きていますよという証し、合図にもなる。それから僕は、習之次第というもののおもしろさも感じたね。ちょっと誘ってくるような出でしょう。


明生 幕離れでノリがグンと進んできますね。その後少し沈滞し落ち着く出で・・・。

能夫 出るときに、執心とか思いが含有されていなければいけない、その思いが幕離れの具合に現れていると思う。

明生 幕から出た後に大小鼓がコイ合、三地を打つという習之次第は、流儀では『三輪、神遊』や『卒都婆小町』『檜垣』にありますが、普通は『道成寺』で初めて体験します。幕上げの後、通常は大小鼓はノル打ち方を続けますが、習之次第では一旦沈まる特別な手組み、あの落ち着く感じが初経験になりますね。

能夫 そうなんだ。『道成寺』というのはすべてが新しく、すべてが楽しくてしようがないね。『道成寺』に携わっている時間はみんなそうだと思うけれど。いい時間だったんだな、『道成寺』に向かっているころというのは。いろいろなことを経験して、一人の人間ができ上がっていくような感じがある。稽古に向かう態度、プレッシャーに対して真剣に取り組む気構え、他の曲に向かうときとは全く違うものが確かにあったと思う・・・。
 終わったときは本当にくたびれたと感じた。しゃがみ込んでしまったよ。その夜の宴席では何も食べられなかった。あんなに消耗したことはなかったね。初めての経験でした。宴会のときにはみなさんにありがとうと言ったけど、僕はまるで抜け殻みたいだった・・・。


明生 終演後、私のときも大宴会でした。二次会もあって、他流の友人も来てくれて。無事終わったという解放感にひたりました。だからパーと飲む。

能夫 パーとね。


明生 その後はしばらく放心状態でした。二、三日して、父に友枝さんにお世話になったのだからご挨拶をしなさいと言われて、昭世さんをお招きして、能夫さんと私の三人の席を設けましたね。話題はあそこがまずかった、こうしたらよかったという反省よりも、無事に勤めて良かったということでした。これからが大事だとも言われました。『道成寺』に向けたと同じぐらいのエネルギーで、これからも励めよの言葉が印象に残っています。

能夫 『道成寺』というのは結果が出るわけじゃなくて、通過点だということだよ。それからどう枝分かれするかは、それぞれであって、『道成寺』で何をつかむか、まるでリトマス試験紙のように試されるんだ。ある時期、これだけのことを逃げ隠れなくやったという実感はある。実際、一番稽古するのが『道成寺』だからね。これは大事なことですよ。


明生 若さの限界に挑んだということですね。挑んだ分だけ手ごたえがあったと、後で感じられます。だから日々が大切だと。

能夫 いつのときも地道にやっておかないといけないということだね。

明生 『道成寺』が終わってから、能夫さんに「『道成寺』と同じくらい稽古するのが『松風』だからね」って言われました。それで『松風』をやるとき、同じくらいの時間をかけて、それだけのことがある曲だと実感しました。

能夫 自分で演じてみてそう思ったからね。『道成寺』の体験はそれらの曲への布石といえるだろうね。

(つづく)

『芭蕉』と向かいあって投稿日:2018-06-07

『芭蕉』と向かいあって

粟谷能夫

 能役者として、これまで辿ってきた道筋、歴史といったもので勝負するしかない、そうでなければ全く歯が立たない曲があることを『芭蕉』(平成十五年三月二日、粟谷能の会)という大曲に取り組む中でつくづくと思い知ることが出来ました。前号「阿吽」巻頭の菊生叔父の文章の中で『芭蕉』の地頭として舞台を支えるという、熱い応援を受けて私自身大きな一歩を踏み出すことが出来ました。
 私の人生の中で『芭蕉』の記憶を辿ってみると、まず父の舞台が蘇ります。言葉では表現できない能の極致のようなものでした。外見は豪放磊落にみえて、実は繊細でこわれやすい父の内面が、『芭蕉』の曲をとおして佳く出ていたと思います。
 次に、観世寿夫さんが地頭をされていた、観世静夫さんの舞台です。それは思いの外に情緒的な舞台でした。『芭蕉』は、どちらかといえば無機的な曲と思っていた私には、新鮮な驚きであり、初めはよく理解できませんでした。しかし、静夫さんの能は寿夫さんの抽象度の高い謡と対峙しながらも良い味を出している。その人の人間性や体質、思いを出して、その人の能を創り上げていいのだ、能というものは、それほどまでに幅広く懐が深いのだと、その時に強く感じさせられました。
 そして次に思い出されるのは、寿夫さんの「芭蕉と禅竹」という文章です。
「能では、多くのめんにおいて、表面的に人間的な表現を否定してしまって、しかもそうした抑圧をつきぬけて訴えかける、より深い時点において人間を表現するという技法が用いられていますが、この曲なども、一見して非人間的な主題と見られやすいが、その奥底には人間が強く描き出されていると思うのです。しかし一歩まちがうとまったく劇でなくなってしまう、その辺のところに、この曲のむずかしさがあるのではないでしょうか。私ははじめにあげた『安宅』や『船弁慶』と比較して、この『芭蕉』や『定家』といった曲のほうが、より本質的な意味で演劇であると考えると同時に、現代に能がつながり得る価値を持っていると思うのです。」
 今回『芭蕉』という大曲に取り組むうえで、この文章から大きな勇気を頂きました。夢幻能の極致ともいえるこの能に何を巧むことができるだろうか。能役者として、これまで辿ってきた道すじ、様々な出会いを糧に、自分自身の思いと人間性で、自らの自叙伝を書くつもりで創り上げていくものだと思うのです。

写真 芭蕉 (シテ粟谷能夫 平成15年 粟谷能の会)

阿吽16投稿日:2018-06-07

能の仕掛け投稿日:2018-06-07

能の仕掛け

粟谷能夫

黒塚 粟谷能夫 能は長い時間かけて今日のような様式をもつ芸能として作られて来ました。我々が教わってきたことは流儀の規範として大切なことですが、それが形だけの伝承では大事なものが抜け落ちてしまいます。伝承というものの根拠を理解し、また諸先輩の理解のしかたを学び、より良い表現に至ろうという努力を忘れるべきではないと思います。
 能の表現にとっての一番の基礎となる「構え」と「運び」そして「シカケ、ヒラキ」についてどれだけの人が自覚的なのでしょうか。
 具体的に言うと「構え」というのは、前に行こうという力で、両腕を前に引き上げ、肩甲骨を返す(左右の肩甲骨を引き寄せる)ことで後ろに引き戻される力を身体の中に作り、さらに肘を内側へねじることによって外へ向かう力と対峙するのです。このことで前と後、内と外に引かれ合う緊張感が生じ、ねじれという負荷をかけることで、能役者の身体の強い存在感が表現可能になります。また腰を入れる(腰椎を緊張させ腰を引き上げる)というのも「構え」の力学的中心を腰に置くことで安定した動きを得、重力に対して反発する力を生み出す身体の技法なのです。ここには拮抗する上下の力のせめぎ合いがあり、腰を入れるより腰を返すと表現した方がわかりやすいかもしれません。
 このように前後、左右、天地とあらゆる方向から引っ張り合うその中に強い存在感、緊張感のある「構え」が成り立ちます。このような力学的根拠なしに形だけを真似ても能の表現にはならないのです。「運び」というのは、この身体が、上下左右にゆれ動くこともなく前に進むことです。前後に引き合っている力の均衡が破れて、何足(なんぞく)か前進するのですから強い表現となり得るのです。
そして「シカケ」によって、前方それもあるときは宇宙の彼方という無限大の焦点に向かって凝縮した気力を集中させ、「ヒラキ」によって大きく解放してやります。こうした型の内実に無感覚で安易に「シカケ」をしたのでは器械体操のように両手を広げた「ヒラキ」になり、最後まで開ききってしまっては、役者の限界が見えてしまい、存在感、緊張感が失われてしまいます。負荷がかかっていれば開ききることはあり得ないのです。そしてその残り部分、余白や余韻を観客の想像力に委ねる、このことも表現の豊かさだと思うのです。
 先代の観世銕之亟さんが「アクセルを踏みながらブレーキを踏む」とよくおっしゃっていましたが、負荷の掛け方を的確に表現された言葉だと思います。
 これが能の「仕掛け」であり、単なる「シカケ、ヒラキ」という物理的な動きとは違います。三間四方という限られた空間で時空を越えて人間の深い情念を表現し、宇宙的な大きさを表現する芸能の本質的な方法であり、まさに仕掛けなのです。

写真 粟谷能夫「黒塚」 撮影 東條睦

『野宮』での心の作業投稿日:2018-06-07


能楽師を志し、それを生業とするならば、一年に一番は心体ともに駆使するような大曲に挑み、つい緩む己自身にねじを巻くように鍛え上げる機会を自ら求めなければと思うようになりました。秋の粟谷能の会(平成十四年十月十三日)の『野宮』はまさにそういう試練の曲で、私にとっては大きな一番となったのです。 『野宮』は源氏物語を題材にし、もの寂しい晩秋の嵯峨野を舞台に、光源氏を愛した六条御息所の狂おしいまでの恋心と諦念を描いています。源氏物語「賢木の巻」や「葵の巻」を中心に、源氏と御息所の関係や背景をある程度理解したうえでないと、能『野宮』を観るのは苦しいはずです。これは観る方だけでなく、我々演ずる方にも言えることで『野宮』という曲の位の高さであるとも思われます。
そこで、『野宮』という曲に触れる前に源氏物語に目を通し、源氏と御息所の関係や人間像、二人の間で起こったできごとなどを自分なりに整理し稽古にかかりたいと思いました。この作業が、能『野宮』を演じるのに必要か不要か、演者はあまり考えすぎるとろくなものにはならないという声も聞きますが、自分自身舞台上での何かの助けになるのではと試みてみました。

御息所は十六歳で東宮妃(皇太子妃)になられますが、二十歳で東宮が突然亡くなられ未亡人となってしまいます。東宮妃としてのプライドが高く、一途な性格の持ち主だったようです。東宮妃として将来を約束されていた方が、いきなり東宮の死にみまわれ、いくら高貴の出とはいえ、経済的、社会的地位を失い没落していく寂しさを感じていたことは間違いありません。そこへ現れたのが光源氏です。七歳年下のプレイボーイ。年下とはいえ、経済力があり、恋の遊びにはたけています。年上の女性、藤壺との禁断の恋も経験ずみ、高貴で教養があり美貌の夫人に興味を持ったのも自然の成り行き。御息所の寂しい心にすっと入って虜にするのはそう難しいことではなかったのでしょう。御息所は簡単に源氏の誘惑に負け、恋に落ちていきます。源氏十七歳、御息所二十四歳のことでした。

これが御息所の間違いの始まり、不幸の始まりだったのです。手に入れた女性には興味がなくなるのがプレイボーイの常、次第に源氏の訪れは間遠になっていきます。御息所の幸せな期間は短く、悲しみの時間が長い、薄幸不運な生涯を生きた人というのが、御息所の大前提になっています。
御息所はプライド高く、教養があって美貌の持ち主、申し分ない女性ではありますが、このプライドの高さが一つの落とし穴になって、車争いをめぐる正妻への激しい嫉妬に結びついていきます。
夕顔や葵上に嫉妬を感じ始めたとき、御息所はこんな恋をしてはいけない、この恋は成就するものではないと察し、御代替わりで、娘が伊勢斎宮として選ばれた段階で自分も伊勢に行ってしまおうと、一度は決意しています。
そんな折、葵上との車争い事件が勃発します。ある日賀茂の斎院の御禊があり、その行列に源氏が出ると聞き、御息所も見物に出かけます。そこで後からきた葵上の車と出くわし、車置きの場所で争いになり、権力の衰えつつある御息所は無惨にも車を押しのけられてしまいます。御息所の車と承知の上での雑仕等の乱暴、この屈辱を受けたことが、御息所の敗北感と葵上に対する恨みへ増幅していきます。そして、葵上が妊娠していると知ると、生き霊となって葵上に取り憑きます。自分の意識ではもうどうにも制御できない、恐ろしいまでの恨みであり嫉妬です。そしてついに葵上を呪い殺してしまうのですが、そのとき源氏に自分の生き霊の姿を見られてしまい、これで源氏に自分の本性を知られてしまった、本当に嫌われてしまったと絶望します。手を洗っても髪を洗っても、葵上の物の怪を払う祈祷時に使われていた芥子の実の匂いがとれず、その絶望感は一層深いものとなっていきます。

ここで御息所は完全に伊勢に行くことを決心します。葵上亡き後、次の源氏の再婚相手は御息所ではないかと世間では噂されますが、そんなことはない、源氏の心が冷えきっていることを知っているのは御息所自身です。伊勢に行くことをもっと早く決断していればこんなに嫌な思いをしないですんだかもしれないと思いつつ、源氏を思う気持ちを断ち切れず、最後に大きな傷を負ってしまう御息所。『野宮』の謡「物見車の力もなき、身の程ぞ思ひ知られたる。よしや思えば・・・」に、その万感の思いが込められている気がします。
伊勢に行く前に皇女は精進潔斎のために、一時宮にこもります。その宮が嵯峨野にある野宮。御息所も娘につき添い、野宮に引きこもっています。そこに源氏の訪れです。源氏物語では、源氏は伊勢に行く御息所にご挨拶もしないのは礼儀知らずで無粋な男だと思われてはまずい、世間体を気にして出かけたように書かれています。愛情というよりは世間体。もう二度と逢うことはないだろうから、御息所の鎮魂のためにも一度は行かねばという気持ちだったのでしょう。それでも嵯峨野に入ってみると寂しい秋の風情です。もののあわれが加わると、一度心を動かした女性への愛しさが蘇ってきます。源氏は榊を神垣にはさんで御息所に歌を送ります。歌のやりとりの後、禁忌の野宮にずうずうしくも入っていく源氏、それを拒むことができない御息所。そして一夜の契りを結ぶことに。それが謡の詞章に繰り返し出てくる長月七日、あの日なのです。
御息所にとって、長月七日はどういう日だったのでしょうか。源氏との恋は終しまいにする、あれほど心に固く決めていたのに、なぜ受け入れてしまったのかという後悔の念であったか、それともあの日を自分にとって永遠の日にして大切にしまっておこうとしたのか。ここをどう解釈するかによって、前シテのイメージのふくらませ方が違ってきます。私は、長月七日を永遠のものにし、これにより救われないことになってもいいという強い情念ではなかったかという気がします。仏の世界から見て身の程知らない、これでは成仏できないと言われても仕方ない程の愛執、これが最後の「火宅留め」にもつながっていくと思うのです。
御息所はその後、娘が斎宮としての伊勢神宮奉仕が終わると、ともに都に戻りますが、間もなく重い病の身となってしまいます。源氏は今をときめく内大臣。死を悟って尼になった御息所を見舞うと、御息所は娘の将来を源氏に託します。幸薄い、短い生涯であったと思われます。
ざっと源氏物語を整理してみました。これが私が『野宮』を演じるために、原文や解説を読み込んでベースにしたものです。そして次は、演者が謡本という台本を通して何を読み込むか、能作者はこの能に何を言わせたいのか、能『野宮』をどのように表現し世界を創り上げるか。源氏物語原文の読み込みは、台本を読み解くための一つの手段と言えるでしょう。ちなみに『野宮』の作者は世阿弥と昔の喜多流の謡本に書かれていましたが、今は金春禅竹作が定説になっています。
『野宮』の構成は、前場で賢木の巻を基に晩秋の野宮に源氏への想いを語る御息所、後場は車争いの場面を再現して舞台には登場しない対葵上との世界を創り出し、源氏の来訪を回想しての序之舞、破之舞を舞い、再び車に乗って火宅を出たであろうかと終わります。
ここからは、私自身の能『野宮』を通して順を追って振り返っていきたいと思います。

まず、後見が小柴垣のついた鳥居の作り物を舞台正面の先の方に持って出ます。喜多流の作り物は正方形の台輪に鳥居を立て、台輪の左右の辺上に小柴垣を取りつけて、台輪の内を神域とし、外と区別していますが、観世流では台輪を使用しませんので小柴垣はその左右に張り出す形となります。喜多流の小柴垣のつけ方ですと、作り物に榊を置く型や足を踏み入れる型が、正面の限られた人にしか見えないので支障があることは承知しているのですが、今回は披きであるため、敢えてそれには触れず、従来の手法に従い勤めました。
面は本来「小面」となっていますが、これまで説明してきたような御息所像を思うと、小面では少々難があり、多少大人っぽい小面を選ぶとしても、やはりそこには限界があります。理知的で少しヒステリックなものが良いのではと、今回はお許しを得てやや柔らかい表情の「増」を使用いたしました。
前シテは次第の囃子で登場します。里女と謡本に書かれていますが、ここは確実に御息所の霊の意識です。ゆったりと囃す次第にゆっくりゆっくり執心を引きずりながらの登場ですが、ワキの「女性一人忽然と来り給ふ」の言葉通り、この女性は霊界から一瞬のうちに嵯峨野に舞い降りてくるという、この世のものでない不思議さと存在感を漂わせ、運びにもゆっくりとした想いと、忽然として現れるスピード感が同居しています。単に鈍重な物理的歩行にとどまらないが心得で、この次第のノリと運びの難しさではないでしょうか。
そして作品の主題となる次第の謡、ここの謡に緊張と不安がふくらみます。何度と稽古を重ねても、本番当日での状態でどのように声が出るかは本人も判らない未知なもの、曲の主題を謡う大事な瞬間であるから尚更そうなるのです。「花に慣れ来し野宮の・・・秋より後はいかならん」は、この野宮のあたりで、咲き乱れた花を眺めて楽しく過ごして来たが、秋が過ぎ花の散ってしまった後はどんなに淋しいことだろうというほどの意味で、秋を飽きに掛けて源氏に飽きられ捨てられたれ淋しい御息所の心情を謡います。ここをどのように表現出来るか。次第はシテが作品をいかに把握出来ているかを試されるところで、集中度の高さが要求され、演者には一番怖いところです。
忽然と現れた御息所の気位の高さはワキとの問答の中に隠されています。能の多くの場合、執心に悩む霊は、僧に成仏を願うため現れますが、御息所の場合は、長月七日は源氏との最後の契りを結んだ大切な日、宮を清め御神事をするのだから関係のない人は僧でもさしさわりがある、「とくとく帰り給へとよ」と強く訴えます。他にはみられない手法で御息所のプライドの高さが表されます。
私は前場で次の三ヶ所が好きで、いつも謡ながら興奮してしまうところがあります。それらは謡と型の融合するすばらしい見せ場と思っています。一つは初同の「うら枯れの、草葉に荒るる野の宮の・・・」と入り、「今も火焼屋のかすかなる、光はわが思い内にある、色や外に見えつらん、あらさびし宮所、あらさびしこの宮所」です。火焼屋から漏れる光が源氏にも見え、また自分の魂にも見えるのでしょうか。その光は遠くに消えていくかと思うと、不意に自らの胸にすーっと入りこみ、体をめぐり、女性そのものをほてらせます。目付柱先をじっくりと見、次第に正面に直し、とくと一足引いて左に廻るという簡素な型付けのなかにも、謡い込まれるものはエロチシズムにあふれています。「あらさびしこの宮所」とは、ほてる肉体を持つ己の悲しさ。寂しいのは嵯峨野のうら悲しい景色だけではない、己の心が、肉体が寂しいのだという心の叫びが非常に美しい詞章に織り込まれているとは父からの教えです。
二つ目は、クセの上羽後です。『野宮』のクセは観世流では下居(したにいる)ですが、喜多流では床几にかけます。クセで「つらきものには・・・」と秋の景色を謡い始め、源氏との禁断の逢瀬があり、そして御息所と娘は桂川でのお祓いを受け伊勢へと旅立って行くことになったと語ります。作り物の鳥居は伊勢の鳥居にも、また鈴鹿川にも見え、「身は浮き草の寄る辺なき心の水に誘われて・・・」と、シテはおもむろに床几から立ち、自然に動き始める心持ちの型どころとなります。床几にかける意は、御息所の位の高さを表しているとも言われますが、私はこのふと立ち上がる風情が、なにかに取り憑かれたようにも、またどこかへ引き込まれてくようにもみえ、また見せるためではと思え、たまらなく好きなのです。「伊勢まで誰か思わんの・・・」とじっと遠くを見、距離感を出しながら歩みだす姿、両手を広げ娘の手を引こうとする御息所とも、また手を引かれる娘のようでもあるといわれ、「ためし無きものを親と子の、多気の都路に赴きし心こそ恨みなりけれ」とシオリ下居る型どころは、伊勢に下る御息所を描く絶頂だと感じています。

最後は中入り前の地謡の「黒木の鳥居の二柱に・・・」の謡です。シテは鳥居を見込み佇んでいるかと思うや、その姿は光のように消え魂だけが残る風情。この最後のところで、囃子方も地謡も気をかけ少しかかり気味に囃し謡う心得で良いところですが、また、もっとも難しいところだと思います。三番目物で中入り前がこのように強くかかるのも御息所の性格がなせる珍しい手法ではないでしょうか。
中入後のアイ語りは和泉流の野村与十郎さんが勤めてくださいました。本来の語りは車争いのことにはふれないのですが、近年野村家では、前場でふれない賀茂の車争いの話と、御息所が生き霊になった話を入れ、野宮に源氏が訪れた後、鈴鹿川の歌を詠み交わしたという話に続けています。車争いの段が入った事が、後の場面に続く橋渡しになり、わかりやすく良い語りであると思います。
後シテは車に乗った様子で登場し一声を静かに謡います。車争いの場面を語り、序之舞、破之舞と続きます。ここは情景描写であり、舞でありと、動いて表現できるので、前シテのように動きの少ない中に感情表現をしなければならない難しさと違って、取り組みやすさは感じます。
車争いの後、「身の程ぞ思い知られたる・・・」と舞台を二まわりしますが、これは妄執の闇から逃れられない輪廻の世界を表しているのでしょうか。「身はなお牛の小車の」で左手を高くつき上げ肩に乗せる場面は、牛の角がせり上がる真似であり、牛車を引く型と言われていますが、昔、後藤得三先生が「あの左手は光源氏、男性そのもので、あれが御息所の肩に重くのし掛かる。そこがわからなければ・・・」とおっしゃったことが甦ります。


野宮後シテ序之舞は「昔に帰る花の袖」「月にと返す気色かな」と謡い始まります。美貌も地位もあった東宮妃のころ、あるいは初めて源氏との逢瀬があったころ、そして野宮での最後のあの時を回想し、月夜に舞を舞おうという情趣でしょう。森田流の伝書には「序之舞とは謡では表現出来ない所作を舞に感情移入して一曲を盛り上げる」と、舞が楽劇の原点であると書かれています。このことは『野宮』など三番目物の序之舞のほとんどに通じ、役者がその役になるのではなく、つまり六条御息所としてではない別な世界、演者自身の思いを持ち舞うということなのです。あのゆったりとした時の流れと四つに組み、速く動きたくてたまらない自分を、じっと我慢させ苛める苦痛そのものが舞としての表現の真髄だということが、今回少しわかったような気がしました。
では破之舞とはどのようなものか。流儀には、太鼓ものでは『羽衣』、大小物ではこの『野宮』『松風』『二人祇王』の三曲しかありません。破之舞とは「本音の舞、二の舞ともいって、主人公の具象的な表現の本音である」と伝書にあります。「野の宮の夜すがら、なつかしや」という御息所の本音の心、その最後の夜がなつかしいという心の興奮や高ぶりを舞います。通常の舞は、歌舞音曲の形式にのっとって、ひたすら舞う抽象的な動きや型ですが、破之舞には心がある、本音の舞であるということです。この二つの舞の表現法を区別し意識することが大事な心得です。
喜多の九代古能(健忘斎)は「舞の後の破之舞は難しい。が、もっと難しいのがある。それは舞後のイロエや働き、余韻をあらわす、これが一番難しい」と。イロエや働きは、囃子方があまりにすばらしく囃したご褒美に、シテがもう少し舞い続けたいという気持ちから拍子を踏みだすと、自然とイロエや働き入りになるという約束事ですが、一つの舞を舞った後に本音の心を表す所作だといえます。いずれにせよ、舞後の舞が重要で、本音でここを掌握出来なくては駄目だということは確かなようです。
最後はこの曲に限っての火宅留めです。「火宅の門をや、出でぬらん、火宅の門」と謡う観世流、「火宅」で留める喜多流。御息所は火宅というこの世の苦しみの世界を出られるでしょうか、いやいやとてもでられない……。成仏できなくともよい、源氏とのあの日の思い出を大事に抱いていたいという強い意志があるように私には思えるのです。「火宅……」と留めた後の静まり返った舞台の緊張感の持続、これがこの曲の終演です。
今回の演能にあたり雑誌観世での野村四郎氏の対談『野宮』が私の演能に大きな力を与えて下さいました。「『野宮』は作品が役者を選んでくるように思います。下手すると作品の方が拒否反応を起こす。貴方にはまだ無理だよというような。」「人物像だけをぎゅっと絞り込んでいったからといって『野宮』にはならない、御息所になるわけではない」と語っておられます。これは心に残るメッセージで、私の心に衝撃が走り心引き締まる思いとなりました。たとえば『羽衣』なら天女になって舞おうという作業がある程度できるのですが、『野宮』ではそれができないと思い知らされるのです。また「ベースに季節感、秋深く木枯らしが吹きすさぶような世界、そして深い森をイメージし、御息所という高貴で複雑な女性の情念の世界や諸々の性格を、演者が身体の中に思い宿らせて演技という形にしていく」と、つまり心の中での作業が行われないと全く歯が立たない作品だとおっしゃっています。外面上の御息所を真似ても能『野宮』には成りえない、また最小限の動きで、最大限の描写をするところに能の最も大事な要素があり、『野宮』はまさにそうであるという野村四郎氏のお話は原文を読み込む作業など吹き飛ばすほどのものでした。
私にとって『野宮』という大曲は心と体を切り刻むような思い出の曲になりました。粟谷能の会の三番立ての真ん中を、父や能夫がゆずり押し出してくれる形で挑むことができた、そのうれしさと重圧をひしひしと感じています。   (平成十四年十月 記)
撮影、「野宮」東條氏

野宮神社
野宮神社鳥居
神社のまわりの小道
鳥居の説明
以上 撮影 粟谷明生

我流『年来稽古条々』(14)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(14)
 青年期・その八
   『道成寺』に向けて

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 先回は『道成寺』がどう設定されたかとか、稽古の話も少し入りましたが、今回は『道成寺』についてもう一回、本番前の話をしてみたいと思います。

能夫 僕の『道成寺』は先輩たちから間があいたでしょ。うちの親父が僕の三、四年前に、芸道五十年というのでやっているけど。あの頃は僕、銕仙会の能をよく見に行っていて、特に観世寿夫さんの存在感のある謡のすごさ、ただ謡うのではなくエネルギーをかけて主張するような衝撃波が伝わってきていたんだ。謡の重要性ということを教えられたと思う。喜多流では型の方が強調されて、謡にまで至らないということは感じていた・・・。 このことは『道成寺』に限ったことではないけれど。

明生 私は『道成寺』から友枝昭世師に習い始めました。師は実際に「こうやるんだ」と、目の前で見せてくださる。それまでは実先生がご高齢であったため、実際に見せて下さるというより口頭でのご注意が主でしたので、その指導は衝撃的でした。目の前でこうする、でもキミはこうなっていると・・・

能夫 ここがこう駄目だと真似されるわけでしょ。

明生 そう。それはすごい衝撃ですよ。私にとっては新しい一ページが開かれたという感じでした。父が友枝氏に稽古の経過を聞くと「駄目ですねえ。徹底的にやり直さないと」と言われたとか・・・(笑い)。

能夫 まあ大変なことだよな。『道成寺』という曲は。

明生 それまで私はお能に対して少し横向いていて、『道成寺』当たりが立ち直る機会になったわけですから当然ですよ。乱拍子からやり直しという感じでね。友枝師にとって、教えるからにはここは絶対直さないと、というところが多々あったと思います。だから謡の注意以前に、型を徹底的に直そうという・・・。乱拍子に絡む和歌の謡、そして大事な次第「作りし罪も消えぬべき」や道行などは後回しになってしまうのです。本来能の稽古は謡の稽古から入り、次に型でしょうけれど・・・。今の状況はあまり褒められたものではないのかもしれませんね。

能夫 そういう傾向はあるなあ。でも具体的に体を使って教えてもらえたというのは大きいことだよ。僕の場合は、先輩たちから聞きながら自分なりに作っていったものを見ていただくという形だったからね。自分との闘いというか、日々集中して稽古をしながら、人生というか、その時間を『道成寺』に捧げるという感覚。『道成寺』のために生きているみたいな、充実した時間を過ごしたという喜びね。実先生は内弟子には本当に一生懸命稽古して下さった人で、そういう方向性のもとで出来た喜びと達成感はあるね。

明生 能夫さんのころは乱拍子のために幸流に入門するということをしましたね。

能夫 そう。乱拍子は喜多流からではなく幸流から相伝を受けるという建前になっていたから。

明生 特別な秘伝のようなものを教えてもらいましたか。

能夫 特別ということはそれほどないよ。入門というのは形式だよ。でも幸流から、乱拍子の間については教わったね。二呼吸プラスアルファから二呼吸になって、一呼吸プラスアルファ、そして一呼吸と、和歌の段までだんだん間が詰まって行くと。間が詰まって行くからテンションが上がって行って、和歌の段でそして最後に爆発するわけですよ。そういう風に思ってやっていますからと横山貴俊氏から教わったね。

明生 小鼓との呼吸は難しいですね。仕掛け操るのは小鼓ですからね・・・。
シテが能動的に動いては乱拍子の規範から外れてしまうでしょう。

能夫 だから、こみの取り方、小鼓方の心得、そういうことを習うのが入門ということになるだろうね。

明生 稽古法についていえば、私は装束をつけての稽古を一回やらせてもらいました。

能夫 申合せの前だったね。

明生 申合せでは装束をつけない慣習ですから、いきなり本番では自信がなかったので、それでお願いして。私は『葵上』が『道成寺』の後だったので、坪折、腰巻という格好の経験がなくて、いろいろなことが初体験でした。あのときは能夫さんと友枝師と父が立ち会ってくれました。

能夫 喜多流では当時、下申合せという習慣がなかったからね。乱拍子は別に稽古があったけれど、総合稽古のようなものは申合せ以外にはなかった。

明生 装束はわが家にもあることだし。装束をつけて実際どうなるか、ということをやった覚えがあります。

能夫 観世流では下申合せを全員揃ってやるでしょう。

明生 そこへいくと喜多流は申合せだけでいきなり本番ですから、無謀というか・・・。

能夫 鐘入りなんか本番まで一度もやらないのだから恐いよ。どうなるのだろうかと思ってね。

明生 鐘入りはあるところまではシテの責任で、それ以後は鐘後見の責任というところがあります。鐘後見にしてみれば、シテはちゃんと鐘の下まで来いよという気持ちだし、シテとしてはうまく鐘の下に行けるか、強いプレッシャーがありますね。

能夫 昔話でシテが鐘の下に行けなかったということがあって・・・。僕らはそこに行けないとは夢にも思っていないけれど、でもどういう状況になるかわからない、それはもう胃が痛くなるほど恐かった。当日までね。

明生 その鐘の作り物はシテの責任で作りますね。昔は鐘の下の周囲に五銭硬貨をいれ、落下時に金属音をさせたり、内側の天には赤頭を入れたりして衝撃を和らげるようにしていましたが、私のときはスポンジ系統のものを入れて工夫しました。

能夫 僕は棚を四つ取り付けて面を前後に二つ。二つというのは面が割れたりする事故に備えて。それまでは面をただひもで鐘の内側の骨組みの竹に結わえているだけだったから危険だったよ。あとの二つの棚は妙鉢を入れるね。

明生 あの四つの棚は能夫さんのやり方なのですか。鐘の中のことはすべてシテの責任で行いますから、事前に能夫さんに一度入って見てもらいましたね。

能夫 そういう意味では『道成寺』というのは、いろいろなことを総合的に学ぶ機会でもあるね。

明生 作り物や面装束だけでなく、たとえば小鼓のお相手をどなたにお願いするかとか・・・。

能夫 『道成寺』の制作というか、経済までも勉強する必要があるね。『道成寺』は親がかりでやることが多いけれど、ある程度披く人間が責任を持ってやった方がいい。独立する機会でもあるし・・・。

明生 『道成寺』にかかる経費の帳簿を見せてもらうと、大変なことをやらせてもらうのだということがわかります。稽古が始まって本番までの一年と、税務処理をすませるまでの残りの時間、とても長丁場です。うちの場合は一つの家族で催しているありがたさを痛切に感じますが、でも、経済のこと、三役の配役や交渉まで、総合的に知っていかないといけませんね。

能夫 能の仕組みをわかるために、『道成寺』を通して汗をかいた方がいいと思うね。そういえば、『道成寺』の年は、僕、アスレチッククラブに通っていたよ。体作りね。

明生 私も行きました。『道成寺』は体力がいると思って。あの当時三十歳でこんなに体力が落ちているのか、二十代とは違ってきた・・・と唖然としたのを覚えていますよ。

能夫 確かに、それは思ったね。だから負荷をかけて耐久力をつけるといおうか・・・。

明生 今となってはあのころに戻りたいけれど(笑い)。当時はすべてに対して、出来る限りしておこうという気持ちでいましたから、肉体的にもある自信を持っておきたいと目指したわけです。

能夫 そうだったな。

明生 人に指図される前に、先に自分で、という気持ちで。

能夫 自覚だな。トラックを走って、腹筋何回、背筋何回ってね。それで効果があったかはわからないけれど、だけどやっておきたかった。

明生 そういうことをやっていると、本番で「おまーく」といって出て行くときの自分自身への充足感が違うと思っていましたから、今でもそう思いますよ。

能夫 『道成寺』に向けての一年はやはり特別なものだったかもしれないな。だから舞台によいものが出てくるんだろうね。

明生 若さもあったし。でも能楽師たるもの、年に一番は大曲を舞って、緊張感ある一年を意識的に作っていかなければいけませんね。

能夫 そうね。『道成寺』が終わった途端に、運動をやめたせいかギックリ腰になってね。急にやめたからね。

明生 そうですよ。能も大曲を演じた後、また舞わないとお能のギックリ腰になってしまいますよ。

能夫 そうか、お能のギックリ腰ね。これはいけないね(笑い)。

つづく

『芭蕉』によせて投稿日:2018-06-07

『芭蕉』によせて

粟谷菊生

通小町 粟谷菊生謡曲の文章というものは何れも美しく優れたものではあるが、『芭蕉』のそれはとりわけ胸を打つものの一つだと思う。ワキのサシコエ「既に夕陽、西に映り…」から始まる情景描写には寂寞たる山陰の迫り来る夕闇と冷気を自ら覚え、シテの次第の「芭蕉に落ちて松の声…」以降の詞章にはその味わい、美しさにふっと静かな感動を覚えるのは人生の晩年に在る身の殊更の感慨だろうか。
花も色も無い、微塵たりとも色っぽいものは入らぬこの三番目物の凄まじいまでの冷たさ、寂びた寒さの中にあるこれほどの優雅さは一体何なのだろう。
 僕は『芭蕉』の能を舞ったことが一度も無い。良い曲だとお思いながら長いこと、いざ何を舞おうかという時は、きまって『羽衣』『班女』『湯谷』『松風』のような華やいだ色っぽい「可愛いい女」のものに、つい走ってしまう。自分はいつまでも若いような気になっている呆れた錯角を持ち続けていたのかもしれない。或いは『隅田川』『景清』『鬼界島』のようなものを、つい選んでしまうのだが温かい情味のあるものが好きなのは、これはもう僕の体質のなせるわざかも知れない。そして又それらのリクエストが断然多いのも確かだ。そのくせ、あまり演じられた事のない『羅生門』のような能の依頼がくれば、いやとは言わず引き受けてしまうし、うちの流儀では四、五十年途絶えていた『梅枝』のような曲を演ってみたりもするのだが…。
この齡になるまでには、やはり随分といろいろな曲目を沢山舞ってきている。にも拘わらず、この『芭蕉』は何故か自分がシテとして舞った事がなかったのだ。『芭蕉』の地頭を最初に勤めたのは昭和五十八年、兄、新太郎がシテの舞台だった。その時の『芭蕉』は気負いや衒いの全く無い、アクの抜けた、枯れ寂びた芭蕉の葉を見る思いのする、『芭蕉』の曲そのもので素晴らしかった。そしてこの度、平成十五年度春の粟谷能の会では兄の息子、能夫の『芭蕉』。何十年かの隔たりを思い、走り去る歳月の早さに今更ながら愕然とするが、こうして傘寿を過ぎて今また甥の地頭を勤められるのは幸せと言わねばなるまい。兄がこの曲を舞った齡に比べると能夫は、はるかに若い。彼は菊生叔父が地頭をしてくれるうちに…という計算であったかもしれない。結構、結構。何はともあれ、僕は謡が好きなのだから。
こういう謡い甲斐のあるものを謡えるのは、或る種の緊張感と充実感があり、張り合いもある。この長く静かな重い曲を精魂込めて謡いたいので僕は仕舞『山姥』を舞うことにした。
父子二代の『芭蕉』の地頭を勤めるのは、まことに感無量であるとともに、これが兄への供養にもなると思っている。

写真 粟谷菊生「通小町」 撮影 東條睦

傘寿、目の前投稿日:2018-06-07

傘寿、目の前

粟谷菊生

 年をとるというのは大変なコトなんだ、高齢になって生きている人というのはエライんだ・・・とつくづく思うようになった。
 吉行あぐりさんのような方は稀有だと思う。九十九.九%の人は高齢になるに従い、何らかの故障が身体に出てくる。頭にも、肉体にも。一度つまずくと、多くの場合その支障を引きずって多かれ少なかれ苦痛と闘いながら生きて行かなければならない。
 僕も四年前に自分の不注意と、まずい巡り合わせで脳梗塞になり、左脚に不自由を感じるようになった。言語に支障を来さなかったのは好運というか、神様のおはからいに感謝せねばならないが、脚のハンディを克服して舞台で舞うことは、その都度ギリギリ精一杯、渾身の闘志で立ち向かうしかない。いつも、これが最後だ、これが最後だ・・・と思ってしまう。自分の思うようにならない肉体をカバーするため、謡には、これまで以上の・・・もちろん、今までだって謡には常にベストを尽くしてきたつもりだし、又僕にとっても謡は大好きなので、おろそかに謡ったことは一度も無いが、・・・それでも謡の一言一句を、これまで以上に万感の思いを込めて、表現し得る最大限のものを出そうと、真底そう思って謡っている。
 はてさて、こんなことを字に書いてしまっては、僕自身、なんだかふうっと拍子抜けしてしまう感じ。何故なら演じている時は、そんな客観的な思考などは、まるで無く、ただただ全身全霊、一丸となって、そのものになり切っているだけなのだから。ただ以前と違って観てくださっている方々に、肉体の支障を感じさせないようにしようと細心の配慮を必要とし神経をも使わねばならなくなっていることは事実だ。そこで加齢の悲嘆をしみじみ味わっているわけだが、生きとし生けるもの必ず終わりはあるので、老木のあとには若木が萌え出るのは理の当然。息子、孫、甥、そして流儀内の若手たちが、ぐんぐんのびてくるのを見るのは心強い。あと五年は生きてくれと息子と甥に言われている。新太郎の七回忌や益二郎の五十回忌の追善能をしたいからと。自分自身は明日死んでよいと思っているが、伝えておかねばならない事もまだまだあるのが、もう少し生きながらえさせて貰うよすがとなろうか。
 妻には「死ぬのは、ちっとも怖くはないが貴女に逢えなくなるのが淋しいし、イヤだなあ!」と云った。こういう言葉を私の年代の者がぬけぬけと言えますか?言えないでしょう。日本の古き夫たちよ、もっと素直に心の内を妻に表現しなさい!でも、こう僕が言った時、我が女房殿は「その科白(せりふ)、どこで覚えていらしたの?」・・・そして何秒か間をおいて「それ何人に仰ったの?」・・・と。ギャフーン!

写真「頼政」粟谷菊生 撮影 三上文規

我流『年来稽古条々』(13)投稿日:2018-06-07

我流『年来稽古条々』(13)

青年期・その七『道成寺』を披く

粟谷能夫 粟谷明生

明生 先回は『道成寺』までということで『黒塚』を中心に話しました。そろそろ『道成寺』に入りましょうか。

能夫 そうね。僕が『道成寺』を披いたのは昭和五十四年十月十四日の粟谷兄弟能でのことだった。当時は粟谷能の会ではなく兄弟能といっていたんだね。僕は三十歳。その日の番組は新太郎の『清経』、菊生の『羽衣』、そして僕の『道成寺』。明生君は『清経』でツレをやっている。

明生 私の披きは昭和六十一年三月二日の粟谷能の会のときです。『景清』菊生、『富士太鼓』新太郎、私の『道成寺』でした。能夫さんは『景清』のツレでしたね。私も三十歳で披いています。このころは『道成寺』の披きというと三十代前半というのが一般的なところでしょうか。

能夫 先輩ではもっと早かった方もおられるけれど。友枝昭世さん、香川靖嗣さんは早かったよ。

明生 二十代で披いておられたようです。我々の世代は三十歳になればそろそろよいのではという感じで。まあそれまでの修業過程に基づきますね。我々の後の世代はもっと遅くなっていますよ。三十五、六歳とか・・・。能夫さんは『道成寺』をやらせてくださいと願い出たのですか、それとも実先生にそろそろやるように言われたのですか。

能夫 その辺のことはよく覚えていないんだ。まあ両方からボチボチって話になったんだろうなあ。自分でもそろそろという気持ちは持っていたし、父や菊生叔父に話をして、よしということで実先生に申し上げたと思うけれど。

明生 当時は実先生の許可を得ないとできないわけで。粟谷家としても、実先生に申請して許可をいただいたわけですね

能夫 それで日程が決まったのは二年ぐらい前だった。

明生 私は二年半前でした。父流のお願いの仕方というのがありまして、年末に「三年後になりますが・・・」とお願いする、すると、「う、三年後ね」「それまでにしっかり勉強すればよいか」となる。でも年が明けたら、あっという間に二年後になるのですよ。。

能夫 僕は、自分の世代のトップバッターだったから・・・。そのきつさはあったと思う。

明生 友枝昭世さんがやられて、昭和四十五年に内田安信さん、香川靖嗣さん、昭和四十六年には塩津哲生さんが披かれた後、少し間があいて、能夫さんですからね。

能夫 だから、しばらくやっていないという難しさがあるし、次の世代のさきがけとしての責任もあるし・・・。

明生 能夫さんの場合はそういう面での、つらさがあったでしょうね。私の『道成寺』は指導者が変わるという節目でもありました。それまでは喜多実先生が直接の師でしたが、『道成寺』からは友枝昭世師になるという・・・。

能夫 僕のときは実先生が面倒をみてくれたけれど、明生君のころは先生もご高齢になられたからね。

明生 私が『道成寺』を披くとなったとき、父が昭世さんへ、「うちの子は君に傾倒しているから、君が教えてくれないか」と頼んだのです。それから友枝昭世師に御指導を受けているのですが。それでも申合せは実先生がいらして見てくださいました。

能夫 そういう意味では、僕と明生君では多少時代背景が違うなあ。いずれにしても『道成寺』ができると決まると、からだの張りみたいのものが違ってくるよね。『道成寺』を舞えるのだという、うれしさと緊張感が生まれて。

明生 私たちにとって『道成寺』というのは、それまでの舞台や稽古、しいては生活態度までの総決算ですからね。技術的、芸術的な観点で作品をみたらまだまだ未熟と思われるし、お客様に、安珍清姫の物語の女の情念を豊かに想像させられるかといったら、難しいと思います。でも『道成寺』を披くという一つの意味は、ここまでやってきたという成果を見てもらう、仲間うちに認められるということじゃないですか。能夫が、明生が、一生懸命取り組んでいるのがわかったという、まずはそれでいいのではと思うのです。その裏付けとなるものをきちんとやっていく事が大事で。多少破天荒でもエネルギッシュに、まさしく若者の披き『道成寺』、ここにあり、というものにならないと。

能夫 そういうものがないといけないよ。ただきれいに、そつなく舞うというのではなく、何か『道成寺』の命といおうか、そういうものを伝えようとする気迫がないとね。

明生 『道成寺』を舞えると決まってから二年近く、能夫さんはどんな風に過ごしましたか。

能夫 型付のことや囃子のことなど、何かと資料集めから始めたような気がする。高林さんの家から型付をいただいたり。法政大学の能楽研究所にも行ったり・・・。

明生 能夫さんは寿夫さんの能にふれ、伝書を読むとか、能について熟考、掘り起こし、そういうことに時間をかけていたことを、近くで見ていたからわかりましたよ。もちろん熟考して、自分なりの試みをやっても、全部がうまくいくとは限らないけれど、それが、後の演能に生きてくるということは絶対ありますから。

能夫 僕らの前の世代は、ご自分で研究しようなどとはあまりされなかったでしょ。実先生が強かったから、そういうことができないという状況もあったし・・・。

明生 舞う技術の基本、シカケ、ヒラキは大事ですが、でもある年齢になったらその段階にとどまるだけではいかがなものか。痩せた能になるのではないでしょうか。型としての動きから作品の背景を背負った動き、舞へと意識していくことが必要でしょう。

能夫 上の人からたたき込まれる時代もあって、それはそれでよい時代だったんだよ。でも今の時代はおそらく、それだけではダメで、自分なりの何かを表現するか、プラスするものを意識していかなければと思う。僕は寿夫さんによって目を開かれ、観世流の浅井文義君に引っ張り回され、いろいろな経験させてもらって、結果は悪くなかったからね。伝書とか資料を読んだり、僕が意識的にやり出すきっかけになったのは、まさに『道成寺』だったんだよ。

明生 能夫さんはそれをやり始めたから感心しますよ。『道成寺』では鐘の作り方とか、習の次第でのシテの出についてなど、いろいろ掘り起こしてくれたから、後に続く私はそれを見て、踏襲すべきことは踏襲し、変えたいところは考えればいいのだから、助かりましたよ。乱拍子の下申合せの仕方も当時としては画期的だったのではないですか。

能夫 乱拍子、喜多流は幸流と合わせることになっている。僕のお相手は横山貴俊さん、本番が十月でしたから、その年が明けてすぐに、下申合せの稽古をさせてもらうことになった。そうしたら、笛の一噌仙幸さんが、自分も一度呼んでほしいと言ってくださって、それで笛と鼓とで合わせる稽古ができた。これがよかった・・・。

明生 一回は小鼓と、もう一回は笛も加えてと、稽古法みたいなものが、私に伝承されました。乱拍子では、鼓と合わせる稽古は当然必要ですが、笛をお願いしないと臨場感が出ませんね。単なる器械体操みたいになって、でも笛が入ると、芸術性が出てくるというか・・・。

能夫 奥行きが出るというか・・・。僕、あのとき仙幸さんが「やってよ」とよく言ってくださったなと思ってね。

明生 私も能夫さんが笛も入った方がいいよと言ってくれたので、一回目は亀井俊一さんと、二回目は笛の一噌仙幸さんにもお願いしました。

能夫 それから継続の稽古、通しの稽古をしないとダメだね。乱拍子だけで終わりにしないで鐘入りまでね。

明生 一つ一つの型がある程度できてきたら、それをやらないといけませんね。乱拍子の後、「山寺のや」と地が入って急の舞に急速に入って行く当たり、その後の鐘入りまでは一連のものですからね。

能夫 そこを通してやらないとね。そのとき思ったのは、後(後場)もちゃんとできないといけないということ。乱拍子や鐘入りに集中して、後は惰性になりやすいでしょ。いろいろ言っているけれど、『道成寺』というのは、考えるより、若いエネルギーをぶつけようとしか思っていなかったような気もする。それをすることによって、いろいろな課題が見えてくるだろうなと思っていたけれど。

明生 そうですね。若さをぶつける、それに尽きますね。

能夫 それから、僕の本番は十月だったから、稽古が真夏の暑いときで苦労したのを覚えているよ。

明生 それで私の『道成寺』のときは「春がいいよ」と

能夫 十月にやるということは、夏が稽古本番でしょ。家元のところに行き、見ていただき・・・。暑いうえに蚊が 飛んでくるから気が散るじゃない。集中できないんだよ。

明生 夏の練馬の中村町ね。蝉のミーン、ミーン、蚊のプーン、思わずパチン。かゆい、かゆいじゃ、いやになってしまいますよね。(笑い)

能夫 まあ、でもそんな中で、集中力を持続させる精神力も身につけていったんだがね・・・                                         

つづく

写真1 39回粟谷能の会の番組 表紙は粟谷能夫の道成寺
写真2 粟谷明生 道成寺 吉越立雄撮影        

地謡の熱き思い投稿日:2018-06-07

地謡の熱き思い

粟谷能夫

 能はシテ一人ではできない。シテの謡とワキや地謡の謡が躍動感をもって曲の世界を造形し、囃子がそれをくっきり浮かび上がらせる。人に感動を与える能は、そういう総合された力があってこそなのだ。このごろ地謡の重要さに思いをせずにはいられない。
 今年三月の粟谷能の会に於ける私の『西行桜』に引きつけて考えてみたい。『西行桜』といえば、観世寿夫さんの晩年の舞台が鮮やかに思い起こされる。特に最後の『西行桜』は寿夫さんの熱といおうか、あたたかいオーラが見えてきた。寿夫さんの能はときに怜悧で冷たいと評されることもあったが、あのときの舞台はあたたかい能だと感じさせられた。それは寿夫さんの能世界が変わるときだったかもしれず、その前兆を見たような、不思議な感動であった。それを二十数年経て、今自分が舞おうとしている・・・。
 『西行桜』は閑雅の中に桜の美しさを味わいたい歌人・西行と桜の木の精との心の交流とでもいったものを描いている。しかもその桜の精は美しい乙女ではなく、老翁であるところに、この曲の曲趣があって、春爛漫を愛でながらも薄墨桜のような渋さ、老いて散りゆくもののあわれさをにじませているように思われる。
 この世界を創り出すのが地謡の謡。謡い出しで、世捨て人も山までも桜の花に誘い出されると謡い上げ、サシのシテとのかけ合いや、クセの地謡で「見渡せば、柳桜をこき交ぜて、都は春の錦、燦爛たり、千本の桜を植え置き・・・」からの桜の名所を経巡っての詠嘆。これらの謡で、地謡が世界を創ってくれるから、シテの「惜しむべし、惜しむべし、得がたきは時、逢ひがたきは友なるべし、春宵一刻値千金」という強い感懐が引き出され、「待て暫し」と春を惜しみ人生を惜しむ風情が浮き上がってくる。これはシテ一人ではどう頑張っても創り出せる世界ではない。
 地謡は謡いながらシテを創っていく、全体を自分の中に呼び込んでいくという感覚、よい能だったと思える舞台にはそんな感覚がある。だから地謡は恐くもあり楽しくもあるのだ。シテのためにエネルギッシュに謡うのだという心意気、その世界をどう創るかという思いが地謡一人一人の中にないといけないと思う。
最近「前列病」という病気があると知らされた。ただ座っているだけで、地謡や能に積極的に参加しようとしない症状だ。前列は後列に比べれば責任感の度合いは少ないかもしれないが、一人一人が自覚を持ち地謡を支えていかなければいけない。私が地謡の前列にいた頃の大先輩たちは、どんな曲でも、大いに気張って謡われ、喜多流の謡とはこういうものだと強く体感させてくださった。

我々も次の世代も、この先達のよき伝統を受け継ぎ、地謡の熱き思いを謡っていかなければと思う。そのためにやるべきことは山積みされている。

写真「西行桜」 粟谷能夫 撮影 東條睦