僕が謡や仕舞を教えるようになったのは十代の終わりのころだった。秋田や東京女子大などに教えに行けたのは、父が地盤を築いておいてくれたから。それを踏襲するだけでは、丹精して育ったものを刈り取るだけになる。僕の子や孫へと長く続けてもらうためにも、親父がやってくれたと同じように、僕も植林しなければならない。とりわけ学生を教えることは、将来の能愛好家をつくることになるから重要だ。若い学生のときに謡や能の楽しみを知ってしまうと、それはからだにしみ込んで、忙しい社会人になって一時離れることになっても、必ず戻ってきてくれるものなのだ。
僕も学生を教えられないものかと思っていたところ、女房の母親が知り合いの東大生を一人紹介してくれ、たぶん昭和25年頃に東大喜多会ができたと記憶している。東大病院外科の木元博士に喜多会の部長になってほしい旨をお願いしたところ、「将来のためと思って菊生さんが学生を教えたいというなら私立の方がいいのではありませんか。東大は一匹狼が多くて、キミの期待には応じられないかもしれない。私立は社会に出るとスクラムを組みますからね」と忠告してくださったが、当時、慶應や早稲田といった私大にはすでに謡曲部があって、僕の入る余地はなかった。僕は東大と阪大といういずれも国立大学に縁あって教えに行くことになったが、卒業後も結束が固く、OB、OGの会をつくり、息長くつき合いが続いている。
東大喜多会は最後は入部部員がいなくなり廃部となり残念であるが、阪大はこの5月4日(平成15年)にOB会の翁会総会を京都西本願寺の聞法会館で開き50名が集まって、私の傘寿のお祝いをしてくれた。
阪大に初めて教えに行ったのは昭和四十二年。僕が大阪で謡や仕舞を教えていたその頃中学生だった子のうち、二人が阪大に合格したことをきっかけにして謡曲部をつくろうということになった。当時は学生運動が盛んで大学は勉強どころではなかった。授業がないから謡の稽古をするといった具合で、生徒はかなり熱心で、阪大謡曲部の基礎を築いてくれたように思う。僕は月一回ぐらい教えに行っていただろうか。僕がいないときでも稽古ができるように、謡は、阪大の近くに住む、謡の上手な僕のお弟子さんにお願いし、型の方は僕が中学生のころから教えていて、阪大に入った前記の二人が仲間に教えるというように、一通りのレールを引いた。その後は新一年生が入ってくると二年上の部員(三年生)が教え、一学期に仕舞三曲を覚えさせる、これが阪大謡曲部の伝統になり、今に続いている。
阪大や東大の学生の中には独特の覚え方があるらしい。謡本をみると、アンダンテ、モデラート、四拍子などと書いてある。なるほどこんな風にして覚えるのかと妙に感心したことがある。半下げといって半音下がるところがあって、下げたら少しずつ上げていってもとに戻すのだが、こういうことを六十代ぐらいの人にいくら説明してもなかなか理解してもらえないが、学生は一回言うとすぐにわかってくれる。学生というのは乾いた土に水がしみ込むように飲み込みが早いから、教えていても実に気持ちがよい。しかしあまり理屈ばかりではダメで、特に一年生にはあまり説明しないで、感覚的に入ってもらうようにしている。大ノリの八拍子も慣れないと謡いにくいところだが、まずはからだで覚えてもらい、理屈は二年生になってから徐々に・・・としている。
からだで覚えるといっても、もう少し謡本の内容を読んできなさいよと注意したくなることもあるのだが・・・。阪大の話ではないが、ある会社で相当お偉いお弟子様が『融』で「木幡山伏見の竹田、淀鳥羽も見えたりや」と謡うところを、「木幡、山伏」と平気で謡ってしまう。「ここは木幡山、伏見の竹田ですよ」と僕が注意すると、「あっ、そうでしたか。山伏と思いました」などと。山伏など全く物語に関係ないお話なのに、もう少し謡本の内容を理解して謡っていただきたいと思う。
阪大では、年一回一週間の夏合宿も恒例の行事になっている。僕も毎年楽しみに出かけ、学生と同じ生活をする。合宿所は三食五千円ぐらいの予算だからかなり粗食だが、僕の食事が特別ということはない。あるとき天ぷらが出たのだが、あまり衣が硬くて唇を切って往生してしまった。蚊の襲撃にあったり、部屋に蛙が跳んできたりと合宿のエピソードには事欠かない。
学生が熱心に稽古している姿を見ているうちに、僕はこの子たちに何とか能を舞う経験をさせてあげたいと思うようになった。年一回、十二月の第一土曜日に行う自演能。これが恒例になって、もう三十回は越えている。初めのころの番組は『羽衣』『小袖曽我』『小鍛冶』と決まっていたが、そのうち『通小町』や『忠度』『花月』など、新しい曲も入れるようになった。お能を舞った後、学生は必ず泣いている。なぜ泣くのか。それはやり遂げた達成感とあっという間に終わってしまう花火のような舞台への名残惜しさではないだろうか。お能を舞った連中が、後に集まると、「オーッ、お前は『花月』やったのか、うちは『羽衣』や」と話がはずむ。一度お能を舞った人間は、必ず謡や舞、お能に戻ってくる。何か特別な魔力があるようだ。
自演会で僕に入ってくる謝礼は七万円。三十年以上前からこの額は変わっていない。最初のころの七万円というのは、学生にとっては大変な額だったことだろう。親御さんから出してもらったり、あるいは仕送りの中からなけなしのお金を集めて僕へ最大限のお礼をしてくれたのだと思う。ところが三十年以上たった今も同じ。これでは新幹線代と宿泊代で消えてしまう額だが、僕は植林、植林と思って、黙って受け取っている。
阪大では、僕の舞台があるときには必ず観に来てくれて、終演後、僕が着替えて楽屋口から出てくるまでは、楽屋口の前で整列して待っているという規則があるらしい。ある寒い日のこと、「粟谷先生は学生をよく育てていますね。早く行っておあげなさい。学生が寒いところに立ってずっと待っていますよ」と言ってくれる人があった。学生たちはみんなで話しながら、寒さに耐え、僕が出て来て車に乗って帰るのを見送る、というしきたりになっているのだ。
阪大の稽古の後は学生主催の会食があって、そのあと何人かを連れて二次会に行くのが恒例で、そこでみんなといろいろな話をすることを楽しみにしてきた。昔は部員が多かったから、学生の方で今回は誰と誰にするかと割り振りをしているようだった。半数は女の子を入れるという心憎い気配り。それで、豪華なところではないが、彼らが行ったことのないちょっと気のきいた店に連れていく。「菊生先生、おでんのおつゆお代わりしてもよろしいでしょうか」などという子がいたりして、同じものを食べて「同じ竃(かまど)の飯を食う」という言葉があるが「和」を作って行くように思う。
その頃の連中も、今ではみんな偉くなって社会で重要な役割を果たしている。そしてOB、OG会に参加して、いまだにつき合いが続いている人が多いのは大変嬉しい事だ。
「菊ちゃん、いつまで学生と遊んでいるんだ」と太良ちゃん(野村萬)に言われたことがあるが、僕は学生に教えることが好きだからいまだに教えている。教えているというより、学生の若いエネルギーにふれ、生きる力をいただいているようなものなのだ。
合宿の方は、暑い夏、一週間かんづめになるのはきついだろうとの明生の進言に、自分もそうかなと思っていたところ、たまたま肉離れを起こし、さすがの僕も観念して、平成十二年の夏から、息子の明生に行ってもらっている。明生は僕が病気をしたときに代役で教えに行ってくれたことがあったが、学生を教えることの楽しさを知ったらしい。学生の方も僕よりはもうちょっと自分たちに近い明生に親しみを持ってくれたようである。
しかしまだまだ阪大は全面的には明生に渡さないぞという心意気で今のところ頑張っている。とは言え、将来は勿論引き継いで貰いたいと思っていることも確かだ。情熱を注いで育ててきた学生たち。さまざまな思い出が頭をめぐる。これらの思い出は僕にとって大切な宝物だ。そして僕の植林した樹木はしっかり大地に根付き、枝をはり、次の世代に渡してあげられるようになってきていることを僕はとても喜んでいる。
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