『玉葛』を勤めて 20年ぶりの再演で感じたこと

『玉葛』を勤めて
20年ぶりの再演で感じたこと

粟谷 明生

源氏物語で、夕顔と頭中将との間に生まれた娘、玉葛をテーマにした能『玉葛』を、6月の喜多流自主公演(令和3年6月27日)で勤めました。平成13年2月の広島「花の会」以来、実に20年ぶりの再演です。
前回の「広島・花の会」では他の演目との兼ね合いもあり、装束を常と変えて演じましたが、今回は通常通り、前シテ(里女)は水衣に腰巻姿、後シテ(玉葛の霊)は唐織肩脱ぎの狂女の出で立ちで勤めました。

能『玉葛』は三番目物(夢幻能)と四番目物(狂女物)の二つの要素を取り入れた特殊な構成の能です。
夢幻能とは、前場の主人公(シテ)が仮の姿で現れ、僧(ワキ)に昔語りをすると、僧の弔いにより後場に亡霊(後シテ)が昔の姿で現れ、舞を舞い夜明けと共に消え失せますが、それは僧の夢であった、と構成されています。
狂女物は生きている者の狂い(狂いとは、思いが一点に集中しすぎること)を見せる能で、舞は優雅な「舞」ではなく、「カケリ」と呼ばれる短時間の緩急ある立ち回りの動きで心の乱れを表現します。

狂女は一般に現在能に登場しますが、『玉葛』では現身の人間ではなく、玉葛の亡霊が狂乱してカケリを舞うので異色作品です。基本的な戯曲構成ではないのに、今にそのまま継続されていることに改めて驚いておりますが、その特別な魅力が何なのかは、正直まだわからないでいます。

能『玉葛』のあらすじを簡単に記しておきます。
初瀬の長谷観音に参詣する旅僧(ワキ)が小舟に棹さす女(前シテ)に出会い、御堂と二本(ふたもと)の杉に案内されます。

女は玉葛が筑紫から都へ逃げ上り、この初瀬で母・夕顔の侍女だった右近(今は源氏に仕えている)に出会ったこと、そして玉葛の薄幸流転の人生を語り、実は自分がその玉葛の霊であると明かし、消え去ります。
(中入)
後場は玉葛の霊(後シテ)が現在物の狂女物の『班女』同様に肩脱ぎの格好で、しかも髪を乱した狂乱の風情で現れ、妄執を狂い見せます。やがて昔の事を懺悔して妄執を晴らしたように見せますが、僧の夢はそこで覚めるのでした。

玉葛は夕顔と頭中将との間の娘ですが、夕顔は早々に頭中将とは疎遠になり、後に源氏と逢瀬を重ねるようになります。その折に物の怪に襲われ、はかなく亡くなってしまいます。源氏はうろたえますが、あまりにも突然なこととて、夕顔は秘密裏に荼毘に付されます。
母の行方がわからないまま、玉葛は乳母に育てられ、4歳のときに、乳母の夫の赴任先の筑紫に下ります。二十歳になると玉葛の容色の美しさに求婚者が多く、このまま、高貴な人の娘を田舎に埋もれさせるわけにいかないと、乳母らは玉葛を連れて都に逃げ上ります。
その後、母との再会を願い初瀬詣をすると、奇跡的にも夕顔の侍女だった右近に巡り合います。右近から事情を聞いた源氏は、夕顔の遺児・玉葛が美しい娘に成長したことを喜び、紫上と相談のうえ、養父として彼女を六条院に引き取り、万事を花散里に託します。
都でも、玉葛は多くの男性から求愛されますが、ついに鬚黒大将の妻になり、何人かの子供にも恵まれ、平穏な生活を送るようになります。子供たちが大人になってからのことも少しふれられますが、源氏物語のなかに描かれる玉葛はざっとこのようなところです。

では、玉葛は何に苦しみ、狂乱するのでしょうか。
ワキの僧が「たとひ業因重くとも、照らさざらめや日の光」と謡い、
後場のシテと地謡の掛け合い、
「払へど払へど執心の 長き闇路や黒髪の あかぬやいつの寝乱れ髪」や、
「げに妄執の雲霧の 迷もよしや憂かりける」の謡は、
暗い闇の「負」や「陰」を想像させます。

美しさゆえに多くの男の心を迷わせた、その業因が玉葛の狂乱の原因だと解説書には書かれています。今の世では考えられない世界観ですが、そういう事もあるのかもしれません。
ただ私は、多くの男性というよりは、とりわけ光源氏からの思慕に悩み苦しんだと思って勤めました。養父としてわきまえているように見せながら、執拗に玉葛に懸想してくる源氏。後半「寝乱れ髪」と謡われるように、ついに添い寝までするに至っては、それは事件であり、玉葛にとって衝撃の第一ではなかったでしょうか。
能『玉葛』の作者、金春禅竹はそこに焦点を当てて戯曲したのではないか、と思います。

その玉葛にふさわしい面をどうしたらよいのか、悩みました。
喜多流では江戸時代から、前シテも後シテも「小面」と決まっていますが、後シテの心の乱れをかわいい表情の小面で表現するには難し過ぎます。前回は苦悩に眉根を寄せた粟谷家所蔵の「玉葛女」を使いましたが、今回は心の乱れは身体で表現し、面は美しくきれいな表情、しかも、やや色気のある面にしたく、石塚シゲミ氏の打たれた「増女」を拝借しました。この面は何回か使わせていただいていますが、自分に似合う面と思えるので、安心して使え重宝です。

また今回、作品のメインとなる曲(クセ)の部分を常とは違う舞曲(まいぐせ)にしてみました。
「クセ」には、シテは動かず座ったままで地謡が物語を進行させる「居曲(いぐせ)」とシテが立って舞う「舞曲(まいぐせ)」の二つがあります。

『玉葛』は通常は居曲ですが、今回の自主公演は初番『小督』、三番目『阿漕』と居曲が重なってしまったので、私の『玉葛』は「替えの型」があることを根拠に、舞曲で勤めました。
クセの前半は船に乗って松浦潟、浮島、響の灘を渡っていく風情を、シテは座ったままで地謡が謡い聞かせます。

「かくて都の内とても我はうきたる舟の上」から動き出し、「初瀬の寺に詣でつつ」と合掌して、シテ謡「年も経ぬ 祈る契りや初瀬山」の上羽の後は、常の通りの舞の基本的な型が続き、最後は元の場所に戻り、ワキに弔いを頼む型で終わります。

20年ぶりの再演となった『玉葛』。前回の演能レポートは「漠としたわかりにくさとは?」と題して、この偏屈で厄介で難しい『玉葛』と格闘していたことを思い出させてくれます。若い時は考えすぎて上滑りしているところもあったかなと、懐かしくも面はゆくもあります。

後場は一声を謡い、カケリを舞い、仕舞どころとなって終曲する、とても短くコンパクトに作られているので簡単に勤められそうに見えますが、実は曲の深いところの表現が難しく、演じる者の生き様、経験などが裏打ちとなるように思えます。

曲目の真意を観る方に伝える、その難しさをより強く感じました。
父・菊生が「若いうちは青い鳥を探しに外に行きたがるが、実は青い鳥は身近なところにいたことを知るんだよ」と、話してくれたことを思い出します。
今回は、いろいろ工夫するというよりは、基本型に戻ってさりげなくやる、それを通し、そのことの難しさを感じた『玉葛』でした。
(令和3年7月 記)

能「玉葛」 写真提供 新宮夕海