阪大機関誌「邯鄲」への寄稿 平成21年度

与えられること、与えること

                          粟谷明生

 私は高校生までクラブ活動なるものをしなかった、いや出来なかった。それは「能の稽古や催しが優先!」と父から釘をさすように言われた言葉が忘れられず、またそれを納得していたからだ。

しかし大学に入り「一度の人生だ、後悔したくない」と夏は山、冬はスキーを楽しむ愛好会を選び入部してしまった。

夏合宿は一週間、キスリング(リュックサック)に30キロ近い装備を背負わされ縦走する。山を歩くことは楽しく、テントでの生活もいいものだ。しかし時には、苦しくてバテてしまい歩けなくなる者も出る。その時はバテた人の荷物は周りの者に分担されるのが、山のルールだ。

バテた者は周りに詫びながらも荷物が軽くなるので内心ほっとする。周りの者はさらに重くなるので辛いが、気持ちは暗くならない。助けてあげる、どうにかしてあげたいという気持ちが、体力や心に活力を与え余裕が生まれ、不思議と力が湧いてくる。

作家の倉本聰さんの「人は他人から与えられることはうれしい。だが、与えることはもっとうれしい。いや、人に与えること、人の役に立っているという意識こそが、そも人間の生き甲斐なのではあるまいか…」を読んで私は、学生時代の山のクラブのことを思い出した。

阪大喜多会へ入部した当初の一年生は、何もかもはじめての経験で、周りからいろいろと教えてもらい成長していく。若さなのだろう、その成長の早さには驚かされる。

そして一年、あっという間に過ぎ、教わる者は、教える者へと早変わりさせられることになる。
「この間まで何も知らなかった私がもう教える側ですよ」と、笑顔ながらも驚いている学生を私は何人も見てきたが、皆きっちりと次の世代に伝えてくれていて、本当にうれしい。

さて、いざというときの山でのあの力の源、余裕はどのように生まれるのだろうか?

それは、日頃のトレーニングと経験だ。余裕は日々のお稽古と発表経験がものをいう。山も能も、日頃のトレーニングと稽古が大事で、その継続と蓄積が活力の源だと思う。

常に教わり、教え、次に伝える、そして教えることの重大さと面白さが判ったときそれがホンモノになる、のではないだろうか。
与えられるものよりも、与える力、人に役立つという意識、阪大喜多会は能を学びながら人間関係をも学べるよいところだ。

私も今ようやく、与える、指導する喜びを味わえる年代になってきている。あの山のクラブの初心を忘れないで、能を学生に楽しく伝えていけたら、と思っている。
                     (平成21年5月)

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