我流『年来稽古条々』(18)

我流『年来稽古条々』(18)
 ?青年期・その十二?
   『石橋』について

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 前回は『道成寺』以降の話をしました。次は『石橋』の話かなと思うのですが・・・。

能夫 そうね。『石橋』といえば、僕の披きは昭和五十九年だから、三十五歳のときだった。宮島の厳島神社で披いている。その年は『楊貴妃』も勤めているね。

明生 能夫さんの『石橋』は三十五歳ですか。能夫さんの世代ぐらいから、『石橋』の披きが遅くなっていますね。

能夫 僕の前の人たちは早かったと思うよ。

明生 二十三、四歳で披かれています。友枝昭世さん、香川靖嗣さん、塩津哲生さん、みなさんお若い時に。

能夫 実先生(先代家元、喜多実先生)が、早く披かせようとなさったからね。

明生 そのようなご意向はありましたね。香川さんは実先生が親をやられ、塩津さんの時は父が親獅子を勤めています。私はそういうものだと思って憧れていたわけです、そのうち出来るんだってね。それがどうして変わってしまったのか・・・。子獅子と獅子つまりシテとツレを一緒くたにし、大事にし過ぎたせいでしょうか。流儀独特の一人獅子(シテ一人が勤める)が重いというのはわかりますが・・・。

能夫 どうしてかね、不思議だよ。前シテを含めてなら話は別だが、半能で後半だけのものでしょ。獅子の披きといったって、赤の方は子獅子ですよ。ツレですからね。明生君はいつ披いたの。

明生 私は平成二年、三十四歳のときで、親獅子は父・菊生でした。私も早くないですよ。 

能夫 みんなそれくらいになっているね。『道成寺』が終わって数年してからというパターンになっている。でもあれは二十代前半に披いておくべきものだよ。『道成寺』より前に披いておくべき。謡は無く動きだけのものですから、しかもツレでしょ。

明生 私は三十二歳のとき、以前から「披きは父と!」と決めていましたから、でもどうも待っていても、叶えられそうもないと思いまして、父に一緒にやりたいと申し出たんです・・・。

能夫 粟谷能の会だったね。

明生 そうです。初めて自分で希望曲を言ったわけで・・・、照れ臭いものがありました。

能夫 子獅子の芸はいわば瞬間芸だよね。ある意味運動能力だけで処理出来る世界ですよ。曲を理解するという前に、どれだけ動けるか。若い体に覚えさせる、理屈ではないものなあ。もちろん深山幽谷の世界を演じるのだから、それなりの取り組む姿勢は必要だけれど。

明生 一畳台に上って跳びはねてくるっと回転しても全然恐くないというとき、一番体がきれる若いときに披いていないといけませんよね。大丈夫かな、ちょっと怖いなーなんて心配するようになったら、もう・・・。

能夫 台の上に上がってコワ?イと思っては・・・。不思議だね、昔は何でもなくできていたのに。

明生 回転のスピードもだんだん落ちてくるでしょ。以前は一回転半もなんなく素早く出来たのが、段々スピードダウンして。あともう少し・・・、なんて必死だからバランスを崩したりしてね。

能夫 若い肉体とは違うよ。だから早く披かなければ。

明生 年齢が上がれば運動能力は悲しいかな低下していきます。子獅子には年齢を補うものがあるわけではないし。

能夫 五十代、六十代になって、何かを打ち立てようという種の曲ではないからね。

明生 『景清』や『定家』なら、五十代、六十代と積み上げて芸を見ていただくということはありますけど、『石橋』はそういう曲とは違いますから。

能夫 見てくださる人は面白いでしょうが、深みのある曲とは違う・・・。

明生 昔なら、五番立ての一番最後の出し物で。最後にめでたしめでたしと、ご覧になる方もスカッとしたよい気分で帰れるということですね。

能夫 牡丹は華やかだし、千秋万歳と寿いで、確かに気持ちいいよ。若いころは獅子への憧れもあったし、格好いいしね。悪い曲ではない、だけど『実盛』の霊が出てくるような、ああいう重さはないでしょ。『石橋』の歴史はね、室町時代に秘曲にされ過ぎたためか、一時途絶えるんですよ。それを江戸時代、二代将軍・徳川秀忠が『石橋』を見たいという所望で復興したらしい。途中伝書も途絶えて、だからアイ狂言などは囃子方と調整が出来ていなくて具合が悪いところもあるし。

明生 アイの登場の仕方と太鼓の手組みが合わないとか。

能夫 だから秘曲と言って大事にし過ぎてお蔵に入れっぱなしではいけないんだよ。

明生 喜多流は一人獅子が位が重く、大事にしていますね。巻き毛になり、あれも憧れますが。

能夫 カーリーヘアね。伝書には「残らず縮む」と書いてある。頭は赤毛の髪を巻いて糸で止めて作るんだよ。あるときはパーマネントをかけにいくんだ。巻いてもすぐにもとに戻ってしまうから。

明生 特殊ですよね。面は大獅子。家元にあるあの面はいいですよね。

能夫 あの巻き毛は、獅子を演じるうえでのリアリズムだと思う。琳派の屏風絵を見ても、獅子は巻き毛で描かれているでしょ。唐獅子もみんなそう。そういうことから来ていると思うね。

明生 だから、あの巻き毛の一人獅子の位が重い喜多流の主張はそれでいいと思います。『石橋』といってもいろいろな段階があり、親子の連獅子のときの子獅子(赤)、巻き毛の一人獅子、そして連獅子の親獅子(白)。今、それらをどういう順序でどう演じていくかという基準を再考しないといけないと思います。友枝師は、本来は一人獅子を勤めた者が親獅子を演じる、それが順当だと仰っています。とても理にかなっていると思いますが、ですが巻き毛の一人獅子が余りに重くなりすぎているために、親獅子をできる人が限られてしまっているという弊害が出ています。それで、縛りを緩くして一人獅子の有無に関係なく白(親)をやることになったのでしょうね。父も能夫さんも巻き毛をする前に白をやっていますよね。

能夫 一度、獅子の披き全般を見直す必要があると思うよ。

明生 『石橋』の子獅子(赤)は二十代に披く、体がきれて勢いがあるときに。

能夫 そうだね。僕らの前の世代は二十代半ばで披いていたし、その前の父・新太郎や菊生叔父、友枝喜久夫先生の世代も二十代の若いころにやっているわけですから。

明生 そういう世代のことをよく知っている能夫さんたちが、私も含めてですが、このことを主張し改善していかなければいけないのかもしれませんね。そうでないと、今の歪んだ状況を、みんながこんなものだと思ってしまう。

能夫 これが正当になってしまうからね。今のように変わったのは何だったのか。一度考えておく必要があるね。

明生 そうですよ。子獅子が早く披ければ、一人獅子、親獅子とつながっていき、前場も勤めることができるわけですから。

能夫 子獅子を二十代で披いておけば、それを何回か勤めて深めていき、四十代ぐらいで一人獅子、親獅子へと進めていける。今のように三十代半ばでやっと子獅子の披きではなかなか次へステップアップしていかないからね。

明生 『望月』も含めて、獅子の曲全体の位の配置を再考しましょう。

能夫 能で獅子がある曲は『石橋』と『望月』の二曲。『望月』は仇討ちという物語性もあり、『石橋』のように獅子舞を見せるだけのものではないから、『石橋』より後になるだろうね。

明生 今披きの曲というとまず『猩々乱』となっていますが、私は順番が違っていると思います。流儀の『猩々乱』は腰を低く入れた姿勢での持続力が非常にハードで難易度が高いです。それが酔う姿でもあるわけで。『石橋』のツレよりも一段上の位にあって然るべきではないでしょうか。

能夫 ある意味、そういうこともいえるね。僕が十代か二十代のころには、『石橋』の子獅子、『道成寺』までやってから独立したいなあと思っていたんだ。それらを披いて一人前という風に、先輩たちを見て考えていたからね。それまではそういう流れだったと思うよ。ところが実際は、独立と同時に『道成寺』だったし、その後数年経って『石橋』でした。それだけ披きが全体的に遅くなっているということだね。この根拠は何だろう。いつ披くかの根拠を考えながら組み立てていくことを、どこかで練り直さなければいけない。そういうことを主張していく年齢になってきたということだね

明生 自分たちの二十代、三十代、四十代を振り返り、どう改革すべきかを検証し、主張する、これは喜多流全体のためでもあり、具体的に言えば、我々能楽師みんなの子供たちのためでもあると思います。

能夫 そういうことだね。

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