我流『年来稽古条々』(17)

我流『年来稽古条々』(17)
 壮年期その一
   『道成寺』以降

粟谷 能夫
粟谷 明生

明生 今回からは『道成寺』後のことを具体的に話していきましょうか。能夫さんはどんな曲目を手がけましたか。

能夫 昭和五十四年、『道成寺』と同じ年に青年喜多会で『湯谷』。同会では翌年に『八島』、粟谷能の会では五十五年に『葛城』その年まで粟谷兄弟能と呼んでいたけど…。五十六年に『葵上』、五十七年に『自然居士』、五十六年には喜多会にも入って、喜多会の最初が『忠度』だった。他には『羽衣』、『杜若』、『雷電』、『鵺』というところかな。

明生 結構重いものをやっていますね。『道成寺』の前後では、曲がワンランク違ってくるという感じがします。

能夫 それはあるよね。大人の世界に入っていくという、そんな気がしますね。粟谷兄弟能が粟谷能の会と名称が変わったのが五十六年でしょう。我々を会に入れて、完全に年二回でやろうという方針になって。五十六年から明生君も入っているね。

明生 その年に『小鍛冶』白頭を勤め、それから毎年一番のペースになっています。

能夫 明生君は『道成寺』の後はどんな曲を手がけたの。

明生 『道成寺』(昭和六十一年)の後すぐ、その年に青年喜多会で『山姥』、翌六十二年は三月に粟谷能の会で『自然居士』、六月に妙花の会で『杜若』、九月に青年喜多会で『湯谷』です。『道成寺』の後は、私も結構重い曲をやらせていただいていますね。

能夫 やらなくちゃ、やらなくてはいけないという気持ちもあるし、ある年齢になったというか、『道成寺』をやると、次はこんなものができそうだみたいなものが見えてくるということはあるね。

明生 そうですね。青年喜多会では私が同人の中では年上になる、そうなると真ん中を勤めることになって『湯谷』がつく、翌年の『東北』で卒業しました。まだ喜多会には入っていなかったので演能の機会が少なくなるなー。で、「妙花の会」を起こしたのです。

能夫 意識的に動き出したわけだ。「妙花の会」が六十二年にスタートして、それで『杜若』を舞ったわけだね。

明生 会を立ち上げていきなり本三番目ものを選曲するのには若かったし抵抗がありましたから、小面をかけて、そこそこ幽玄の世界を味わえる曲と考えて『杜若』を選びました。

能夫 そういうことはあるね。『杜若』はあの初冠に追掛で長絹姿の美しさはなんともいえないね。でも、後半の恋の話がたくさん出てくるところ、コラージュとかフーガとか言われるけれど、何だか散漫な感じがして、あまり好きになれないんだ・・・。でもあの曲好きな人結構多いよ。親父も好きだったし、菊生叔父も好きでしょ。

明生 昔から能夫さんは、父たちの時代の人は何であの曲が好きなんだろうと言っていましたね。手ごろだから演能機会が多いということだと思いますが。でも私も勤めてみて、なかなか若造では難しいところが多い気がしました。

能夫 『杜若』をいい形でしおおせるのは難しい・・・。でも、あのころはとにかく時間があったから一生懸命稽古をしたという気はするね。

明生 で、能夫さんは『道成寺』後、すぐに『湯谷』ですね。私も翌年に勤めています。『湯谷』はどうですか。

能夫 『湯谷』を舞えるようになったという喜びはあるよね。豊かで華やかさもあるし、見た目もいいし。

明生 実先生が指定してくださった最後の曲が『湯谷』でしたから、まずは楷書の感じで稽古しました。当時はすでに友枝昭世師に習っていましたけれど『湯谷』の雰囲気がわからなくて、つまり現在物への戸惑いですが。思い出すのは、文ノ段を森常好さんと連吟したこと。あそこは普通連吟なのですが、最近はシテ一人で読むことが多くなっています。そこを本来の形でやろうと。森さんなら同年輩でもあるし、つーかーの仲ですし。

能夫 謡本では「もろともに読み候べし」となっているね。ワキと読むヒントになるものは何だったの。

明生 父の鏑木岑男さんと連吟している写真や、新太郎伯父が厳島御神能のNHK録画の時も連吟していまして…。一人で読むのもいいですが二人で寄り添って謡う景色が私は好きなので。

能夫 演出的なことを明生君が見直そうとした、その萌芽がそこにあったのかもしれないね。いいことですよ。

明生 それで、常好さんに「こうしたい、ここはこのように」と注文したら、「あっそう、了解」なんて、いとも簡単に返事してくるんです。こちらは初めてでも、おワキの方は何回もやられているから。

能夫 ワキ方はいろいろな人のお相手をしているから対応できるんだね。『湯谷』は親父や菊生叔父、友枝喜久夫先生、みんな好きだったね。僕はそんなに好きな曲ではないけど。六平太先生がお好きだったから、みんな憧れて、自分もああいう風に舞いたいというのがあったのだろうね。

明生 能夫さんの好みは現在物より幽玄物だから。『湯谷』よりは『野宮』『定家』『松風』でしょ。

能夫 そうね。『野宮』『定家』だったら喜んで舞うね。

明生 『杜若』もそうでしたが、『湯谷』にしても、我々と父たちの世代とは好みが違いますね。それは時代もあるし、憧れる人の違いもあるのではないでしょうか。父たちは六平太先生に憧れ、能夫さんは実先生に教わり、寿夫さんに憧れてということですから。そういう違いがあっていいと思いますね。

能夫 それでも、考えてみれば僕はいい環境にいたと思うな。父もいて菊生叔父もいて、それぞれに一生懸命やっていた。実先生も、そして六平太先生もおられて、寿夫さんたちもいて、いい環境にあったんだな。

明生 いいですね。それから『自然居士』を私が『道成寺』の翌年、能夫さんが三年後に勤めていますね。

能夫 『自然居士』はすごく面白い曲ですよ。憧れもあったしね。何をやりたいと聞いてもらえる立場になって、自分から『自然居士』をやりたいと言った気がする。羯鼓とかクセはあるパターンでできるんだけれど、やっぱり会話が難しい。ただセリフを言っていれば通じるんだと思っていたのが、そうじゃないゾと、発見するときだね。

明生 それは『道成寺』をやって祈りを体験するから感じられるんですよね。それまでは、相手とは関係なく、自分のなかでまっすぐに謡っていたものが、相手と対話するという工夫が必要になる。一度買い取った子は返さないと言いはる人商人から、自然居士は子を取り戻さなければいけないわけだから、平坦な言葉では通じませんね。

能夫 大きく包み込んで勝たないといけないわけでしょ。相手の出方によって、すごく動いていなければならない。相手の裏をかくこともあればおちょくることもあり諧謔もあったりと、いろいろな言葉のニュアンスがある。『自然居士』はパターンでできる能じゃないんだよ。ほんと、セリフ劇だからね。そこが楽しいところですよ。

明生 能楽師が役者にならなければいけないというイメージがありますね。

能夫 そうそう、そういうものをしょわないとね。

明生 それで『自然居士』、一人で稽古していると馬鹿馬鹿しくなるんですよ。謡本を覚えて、間も覚えて、でも相手がいないと…。

能夫 確かに一人で稽古していると何か空虚だよね。

明生 それで常好さんと一緒に稽古する事になり、アイの野村耕介(野村万之丞)さんにも参加してもらいいろいろ相談していくうちに、萬舞台できちっとやろうということで、佃良勝さんが役ではないのですがアシラヒをして下さり、地謡がいないなーと困っていたら観世暁夫(現 観世銕之丞)さんが「僕が謡うよ」ということで…。

能夫 すごくいいじゃない。僕のときは実先生のもとにあって、なかなかそういうことはできなかったけれど。

明生 その後『野守』「居留」でもそういうことをやりました。あのときは金春国和さんと地謡は宝生流の武田孝史さんで、特に緩急の付け方をみんなでいろいろ試みたことが楽しかったです。みんなに、寿司ぐらい奢れよと言われて、食べて飲んで話して、いい思い出ですね。

能夫 いい仲間がいたってことじゃない。明生君は恵まれているなあ。幸せな時間を過ごせたということですよ。

明生 能夫さんの『自然居士』のワキは?

能夫 工藤和哉さん。工藤さんはもう百戦錬磨の人、いろいろな人の相手をされているでしょ。そうこちらは披きだからね、コチンコチンになってぶつかっていくわけだから。今考えると、あの『自然居士』は子供っぽいものだったと思うよ。

明生 百戦錬磨の人に太刀打ちできるわけないですよね。

能夫 そう。第一回の『自然居士』では無理!(笑い)でも、それでコンチキショウとなって次の道があるわけだから。次の『自然居士』はお相手が宝生閑さんだったけれど、結構面白くできたと思っているんだ、こういうことが楽しいよね。

明生 『道成寺』が終わると少し自信がつくというか余裕が生まれる、それで曲をどういう風に演出し演じていこうかということを意識しだす。

能夫 自分で考える余地をもってやっていくという、それが少しずつやれるようになるのが『道成寺』以降ということなんだろうね。

コメントは停止中です。