『烏頭』ー殺生の業についてー

『烏頭』ー殺生の業についてー

粟谷 明生

 本州最北端の地、青森市で催される「外ケ浜薪能」にて『烏頭』(他流では『善知鳥』)を勤めました。外ケ浜(注・謡曲では外の浜)は『烏頭』の舞台として知られ、また版画家・棟方志功の出身地であります。棟方志功には能『烏頭』を題材にした「善知鳥版画巻」があり、今年は彼の生誕百年祭である為、今回の実行委員の方々が『烏頭』を選曲されました。
 能『烏頭』は陸奥・外の浜でうとう鳥(ウミスズメ科の海鳥)を獲る猟師が、死後地獄の責めに苦しみ、僧に救いを求める物語です。
 舞台は、越中の国(富山県)立山へ禅定(ぜんじょう=山中の霊場を廻る修業)した僧(ワキ)が目のあたりに地獄の光景を見て感慨し下山するところから始まります。そこに、去年の春、外の浜で死んだ猟師の霊(シテ)が老人として現れ、禅定を終え陸奥へ向かう僧に、死別した妻子に麻衣の袖を届け、蓑笠を手向けてほしいと伝言します。立山といえば嶮しい霊山。今は立山黒部アルペンルートがあり、室堂あたりまでは容易に入ることができますが、その昔は、修験の山として信仰され、霊が集まる恐山、峻厳な秘境であり、立山に入ることが修行とされていました。殺生を生業にする人間の罪という重いテーマを、前場、峻厳の地の立山と、後場、本州最北の地の外ケ浜とを結んで描くところに、能『烏頭』の展開の面白さが感じられます。
 今回は、初めてご覧になる方も大勢いらっしゃると思い、少し解りやすいように手を加えてみました。
 一つは、既存の簡略化されたアイの言葉の見直しです。横道萬里雄氏は著書「能劇そぞろ歩き」に『善知鳥』のアイの試案を書かれています。今回ご承諾を頂き、そのアイの言葉を野村万作氏のご協力を得て深田博治氏に勤めていただきました。通常、僧(ワキ)が外の浜在所の者(アイ)に猟師の家を訪ねると、「さん候、去年の春みまかりたる猟師の家は、あれに見えたる高もがりの内にて候。あれへ御出であって、心静かに御尋ね候へ」と非常に手短に、ややそっけなく答えます。それに対してワキは「ねんごろに御教へ祝着申して候」とたいそう仰々しく受けて謡いますが、私はここを不自然に感じていました。今回はご当地ソングでもあり、外ケ浜や主人公の猟師の説明などを丁寧に語ることにより、内容もわかりやすく、身近に親しみを感じていただけるのではと思い試演してみました。
 また「出し置き」の手法をとらないことにしました。出し置きとは、本来その場にいない人物を、最初から舞台に出しておくやり方です。『烏頭』の前場は立山が舞台ですから、外ケ浜の妻子がいるはずがないのですが、子方とツレは最初に登場してワキ座に座っています。初めて能をご覧になる方は、戸惑いを感じるところだと思います。「出し置き」は、能という中世の日本の演劇の特徴的な手法で面白いとは思いますが、敢えてわかりやすさに重点を置いて、中入り後、場面が外ケ浜に転回するところで、子どもと妻(子方とツレ)を登場させ、アイはワキに呼び出され幕から登場していただくことにしました。
 面は前シテが小牛尉、尉としては品のよい顔で、喜多流では『高砂』や『弓八幡』などの脇能に使用しますが、なぜ身分の低い猟師の霊が小牛尉を使用するのか、品位の落ちる三光尉でよいと思うのですが、その理由がはっきりしません。研究の余地がありそうです。
 前シテは呼掛で橋掛りにて留まり、片袖を脱ぎ取りワキに渡します。シテは本舞台へ入るぎりぎりのところで、ワキは決して橋掛りに入らずに受け渡しをするのが心得です。シテのいる橋掛りは霊界、ワキの立つ本舞台は現世とされています。その境で「立ち別れゆくその跡の」と二人の離れ行く歩みが糸を引くように同じようになると良いといわれています。ワキとよくよく稽古しないかぎり、なかなか難しいところですが、一つの見せ場です。
 『烏頭』のメッセージはシテ自らが謡う「何しに殺しけん」に集約されていると思います。人間が生きていくために、他の動物の命を奪わねばならぬ悲しい業。地球上のあらゆる生き物は弱肉強食のルールの上で成り立ち、人間もまた例外ではないのです。もし猟師の殺生が罪というなら、それは人間の背負った宿命的な罪というべきでしょう。
 生きるための生業なら致し方ないと思う殺生ですが、『烏頭』の猟師は地獄に落ちて呵責の責めを負い続けています。能では『烏頭』『阿漕』『鵜飼』の三曲を三卑賎と呼び、いずれも殺生を生業にする猟師達の話ですが、『阿漕』と『鵜飼』の猟師達が弔われ成仏していくのに対して、『烏頭』は最後まで成仏出来ずに消えていきます。救われない何かがあり、それが『烏頭』の特徴ともいえます。
 では、救われない何かとは何か。答えは狩猟方法にあるのではないでしょうか。幼い雛鳥を狩猟する悪業を重ねていくうちに、殺生自体が快楽になってしまった猟師。目の色を変えて雛鳥を散々に打つ姿は、正気の沙汰とは思えず、まるで何かに取りつかれているように見えます。
 猟師が鳥を打つ様を描く「カケリ」は「追打之カケリ」とも言われ、修羅道に堕ちた武者たちの苦悩や、狂女の心の狂いの様を表すカケリとは明らかに違います。この型は正先に置かれた笠を巣に見立て、はじめは親鳥を狙い打ち、逃げられると空を見上げ悔しがります。二度目は橋掛りで「うとう」と親鳥の声をまねて謡い、それに答える雛鳥を見つけ、散々に打ち殺し捕獲します。親鳥はそれを見て空から血の涙を流し、泣き叫ぶという悲惨な場面です。
 生まれたばかりの雛鳥の生命を絶つという罪の深さ、それを人間と鳥類の親子の情にからめて描いたところに、『烏頭』の主張があります。うとう鳥は親子の情愛が深い鳥と言われています。「平沙に子を産みて落雁の儚や親は隠すと」も、外敵に見つからないように、親は懸命に巣を隠して子を守ろうとします。ところが、親鳥が「うとう」と鳴くと「やすかた」と答える習性があり、その親子の絆の深さがかえって命取りになっているわけです。そして親子の別離は猟師の霊にも降りかかります。ひと目妻子に会いたいと外ケ浜までやって来る猟師の霊ですが、子供の髪を撫でようとしても、「横障の雲の隔てか」と阻まれてしまいます。まさに因果応報、罪の深さを鮮烈に描き出しています。
 救済なき罪にもがく猟師の心境。そこをどう表現するかが演者の力。後シテの「一見卒都婆永離三悪道、この文の如くんば・・・」と経文を唱えれば助けてもらえるはずなのに、何故俺は救われないのか・・・という悲痛な謡を、単に朗々と謡ってはその苦しみが表現できるはずがなく、陰々滅々と気持ちを埋没して謡うだけでは、あの苦しみの訴えは通じないのではないか…。父は淡々と落ち着いて力強く謡う中に本当の強さが生まれ、それが聞いている人の想像力を掻き立てる、あまり前面に押し出すような謡ではいけないと教えています。演じる心に余裕をつくり、下の下の身分の嘆き、実盛や頼政などの武将のような訴えかけの強さとも違う、低い身分にありながらもそこに強い張りと内圧のある叫びのような謡ができればと思うのですが、今回もつくづくその難しさを実感させられました。
 私が『烏頭』の子方を初めて勤めたのは六歳の時、父菊生がシテの時です。シテツレは二十三年前の昭和五十五年に父菊生のシテで、これも青森公演でした。私自身シテは、十年ほど前の妙花の会以来の二回目の演能となります。
 子方で思い出すことはたった一度の稽古で「ツレが立たせに来たら立ってシテの傍まで行きなさい、シテが触ろうとするから、触られないように長袴を踏まないようにもとに戻り、あとは最後まで座っていて、終わったら立って帰るんだよ」とこの程度の指示で、最初から舞台に出させられたあのときの心境です。中入りが過ぎるうちに段々、いつシテの近くに行くのだろうと不安がつのりました。シテが我が子の髪を撫でようと寄って来るところを、スッと後ずさりして逃げる動作は子ども心にも難しいと思い緊張しましたが、何よりもシテと向き合って、その面の顔をまともに見た瞬間、本当に恐ろしいと驚きました。これは髪を撫でてくれるのではない、殺しに来るから逃げるのだと思いました。それほどの恐怖を覚えたのです。もちろん、その場面はただ恐ろしいというものではありませんが、触りたいけれども触れない無念さで歩みよるその緊迫感が、子方の私には異常な恐ろしさと映ったのでした。
 恐ろしい形相のシテ、永遠に子に触れることのできないシテ。何故作者はシテの猟師に救済処置を施さなかったか、成仏させず永遠に地獄の責めを負わせることにしたのか。それは幼い命を奪うことがいかに悪であるかという大事な教えであるように思えます。最近の幼児殺害という悲惨な事件の数々。大人、子どもを問わず人間のもって生まれた残虐性と愚かさをこの作品は戒めているのではないか、現代にも通じる強いメッセージになっているように思えてなりません。人間が生きるかぎり『烏頭』は、永遠のテーマとして舞台で演じ続けられるでしょう。猟師の魂はあの恐ろしい地獄の有り様を表す立山の霊山に永遠に彷徨い続けていると、私は思っています。

(平成十五年七月 記)
写真 「烏頭」 シテ 粟谷明生 平成15年7月 外ケ浜薪能  撮影 石田 裕

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