植林


粟谷能の会通信 阿吽


植林

粟谷菊生

 ふり返ってみると、どこの社中にも、必ず一人や二人は能狂い、謡気ちがいといった能好きの人がいるものだ。
 その人たちは必ずといっていいほど、子供のころとか、学生時代に、仕舞や謡の稽古をした人たちで、それが年をとった今日に続いてきていることが多い。

 私の社中でも、今は故人になられたけれど、毎年、能を舞われた、日立の副社長のあと、動燃の理事長であられた清成廸さんにしても、学生時代に清成さんに将来を托して、骨身を惜しまず謡を教えてくれた人があってこそのおかげで、それが最後に実ったところで、私の会で能を二十四番も舞っていただき、私は大いに恩恵を蒙ったものであった。
 であるから、私も若い人たちに植林をと思って、将来の喜多流発展のために、早くから東大喜多会、阪大喜多会を作って教えてきたが、阪大は毎年、学生の自演能が催されて、それが二十五回を終え、この十二月で二十六回になる。

 ある人に「菊ちゃんはいつまで学生と遊んでいるのだ」といわれたけど、昔、観世寿夫さんが「炎天の砂浜に水を撒けば、あっという間に吸い込んでしまうような、覚えのいい人に教えたい」といわれたそうだが、水を撒いても、ほうぼうに水たまりができたり、中にはボウフラがわくしまつ。吸い込みの早い、覚えのいい学生たちと共に、ある時間を過ごし、夏は合宿に参加して、学生の見つけてきた宿に泊まり、彼らと同じ物を食べて、共に過ごす何日間は、今では私の回春剤となり、若やぎの秘訣となっているのがうれしい。

 学生たちも既に立派な医者になっているが、昔、その一人の福田君が「先生、白内障になったら手術してあげますよ」といい、泌尿器科の寺川君が「小便の出が悪くなったら通してあげます」とか、あるいは福本君が「先生、ぼけたら、ぼくの家の病院でめんどうみますよ」とかいってくれたけれど、ぼくは七十四歳の今日でも、まだ三人のお世話にならずに過ごせているのを幸せと思い、自慢にも思っている。

 若い頃から植林の仕事に励み、逆に、若い人たちの情熱をいただいて、今日の私があることを、たいへんうれしいと思う。


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