第16話 道成寺の鐘

人気の高い「道成寺」には最も大きな作り物のひとつである鐘が出てきます。

作り物は一般的に非常に簡素で抽象的とも言えるデザインが多いのですが(第13話「作り物」参照)

道成寺」の鐘は能を初めてご覧になる方でもひと目でお寺の鐘だと分かる写実的なデザインになっています。

(1) 鐘を作る
喜多流では、他の作り物と同じように能楽師自身が作ります。大曲に相応しい大きな作り物ですが、他の作り物と同じように作成の伝承を受けた者が、時には未経験者を交えて作り方を伝授しながら、若い能楽師が中心となり作成しています。
鐘が大きいのは現実的な理由からで、シテが鐘の中で後シテの装束に着替えるためです。具体的には、高さが竜頭(りゅうず)を除いて160cm程度、重量が70kg から 80kg 程度ありますが、元々、このような狭い空間で装束を着替えるのは一苦労なうえ、今の能楽師は昔よりも大柄になっているので更に着替えるのが大変です。
鐘を巻く緞子(どんす)の布を「鐘包み」と呼んでいますが、流儀によって色が異なります。喜多流では写真のような萌黄色を使いますが、観世流では紺色を使っているようです。また、鐘を吊るための竜頭も流儀によって形状が変わります。
昔は鐘の下の方に五銭銅貨を付けることがあったそうです。そうすれば、鐘を落としたときに銅貨の金属音が効果音になるからです。舞台が終わると、その銅貨はすべて作り物師への祝儀になっていました。ですから、作り物師がご祝儀ほしさにやたら銅貨を付けすぎて鐘が重くなり過ぎたため、実際の舞台で吊り上げるのが大変だったという話しを聞いたことがあります。今はシテ方自身で作っているため、このような事はもちろんありません。

下の写真は昭和60年 福岡での粟谷幸雄の道成寺の鐘作りです。
制作は粟谷能夫 粟谷明生 長島茂 高林呻二があたりました。


(2) 鐘を吊る
観世流や宝生流では囃子方が登場した直後、曲が始まる前に狂言方によって鐘が運ばれ吊られます。一方、喜多流では曲が始まってから、ワキがアイ狂言に鐘を吊るように命じる台詞があり、竜頭に渡した棒を両手で支えながら狂言方が鐘を舞台中央に運び出します。竜頭の引き綱を天井の滑車にかけると、綱は狂言方からシテ方の鐘後見に渡されます。現在、鐘は前段早々から笛柱に取り付けた鐶(かん=金属製の輪)に引き綱を結んで固定します。ただし、「六平太藝談」にもありますが、本来固定するのは後シテが出てからだそうで、以前は、前段でも鐘の位置を高くしたり、低くしたりして効果を出していたようです。また、鐶がなかった大昔は鐘後見が交替で引き綱を持ち続けていたそうですが、この事からも当時の鐘が今のものより軽量だったということが想像できます。

写真左より 滑車 金鐶 竜頭

(3) 鐘入り
「道成寺」の最大の眼目は「鐘入り」でしょう。
重い鐘が上から下へ落ちる瞬間と、シテが下から上へ飛び入るタイミングを見計らい鐘後見が綱を放します。大きな事故にもつながりかねない危険な型ですから、舞台にも見所にも緊張が走ります。「鐘入り」は流儀ごとに独自の型があり、喜多流では片手を上げ、鐘には直接触れないで、鐘の真下で拍子を踏み、飛び入ります。
鐘の中は意外と暗くなく、緞子を通して薄明るい程度の視界が確保されています。内側には左右にポケット状の袋をこしらえ、後場に必要な装束、般若面(破損した場合を考えて二面)、銅鑼(どら)、装束を補正するための糸針を入れておきます。また、装束や面の着付けの確認には、普段使いのガラス鏡では割れる危険があるので、15センチ程度の小さな銅版の鏡がよく使われています。通常、鬘(かずら)は前場と同じものを使い、逆毛を立てるようにして髪を乱し(掴み出しと言います)、憤怒、執念の象徴を表現する演出をとりますが、替えの演出として赤頭を着ける場合があります。

写真は粟谷明生、道成寺、鐘入りの瞬間  撮影 吉越 研氏


(4) 余談
鐘入りしてから、喉を潤すために炭酸飲料の詮を抜いた途端、シュポーッという音が鳴り響いたという笑い話しは有名ですが、もうひとつ興味深いお話しをご紹介します。
昔、殿様が道成寺を舞う際、鐘の中に入っても、お殿様自身で装束を替えることはなかったそうです。鐘の中には着付師があらかじめ入っていて着替えを手伝ったというのです。江戸時代の成人男子の平均身長が150cm程度だったこと、昔の鐘が今よりもずっと軽かったとしても、吊る方も吊られる方もさぞかし大変な事だったと思います。

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