懐かしい食堂車

国立劇場おきなわ開場記念公演で初めて沖縄に参りました。沖縄は、東京から飛行機で2時間半、北京が成田から3時間と思うと、沖縄の地までの距離を改めて感じました。

交通機関の発達は目覚ましいものがあります。
祖父、益二郎や父、菊生の若い時は、九州を始め、みちのくや北海道へのお稽古には大変な時間を費やしました。
昔、父は札幌の稽古場へ夜行寝台車で行っていました。夕食、朝食、昼食、夕食、朝食と5回も食堂車のお世話になったとの話には、その道のりの長さを感じさせられます。その代わり、当時は移動時間が長かったため、その間に咽を休ませることが出来たのだと父は言います。今のように沖縄でも北海道でも日帰りが可能になると、ついつい仕事を入れ過ぎて無理をし、気づかずに身体を壊していく、自分で自分の首を締めているのかもしれません。

話題を食堂車に当ててみます。
子方時代、広島公演には特急「あさかぜ」「はやぶさ」など夜行寝台車に乗って参りましたが、その時食堂車での夕食が楽しみでした。私はエビフライが好物で必ずオーダーしていたので、「海老のあっくん」と呼ばれるようになり、今でも海老を食べると「変わっていないねー」と周囲からひやかされる始末です。

青年時代はまだ飛行機の便数は少なく、特にみちのく地方は電車、汽車という時代でした。
伯父の故新太郎の青森や秋田の会は、旧国鉄で奥羽線や陸羽西線、上越線と一日かけてののんびりとした旅であったことを思い出します。帰京は食堂車で朝食をとり、昼もまた食堂車に向かいビールで乾杯! 日本海を見ながら食事を楽しむうちに、いつの間にかテーブルの上はサントリーオールドウイスキー・ミニチュアサイズが山のようにころがっていました。
スポーツから、芸談へと移り変わる大人の話に耳を傾け、酔うほどに自分も生意気にしゃべっていたなと思い出すと、なんだか恥ずかしいです。

以前、東海道新幹線には食堂車が有りました。合理化の時代なのでしょう、今は廃止され寂しいかぎりです。
京都や大阪、広島の公演を終えて新幹線で帰宅するときは必ず、食堂車に集まり、ビール片手に食事をしながらその日の舞台の話に花を咲かせました。若者はまず真っ先に食堂車に向かい席を陣取り、先輩の席を確保する、それがお決まりでした。
お酒もすすむ程に話も次第に佳境に入り、周りのお客様がこちらを気にするぐらいになったら最高潮です。声が大きくなってきたらもう大変。どうしてかくも私の周りの能楽師は呑んだら声が大きくなるのかと思いますが、自分も同罪だと反省しております。
「今日の能はあーだ、こうだ」と話が始まると、あっという間に熱海が過ぎ、テーブルには何枚もの勘定書きが並びます。支払いはその時の年長者、これもお決まりで、諸先輩には散々ご馳走になりました。これからは私が支払う番になってきそうですが、食堂車がないのがまことに残念。

先輩に混じり芸談を聞き、また若輩ながら自分の意見も述べる、そんな時の流れの中で、能の楽しさ、難しさ、演ずるコツなどを教わり貴重なひとときであったと思い出します。
今、食堂車はなく、帰路は皆それぞれで、語ることも少なくなりました。なんだか、昔のほうが時間はかかリましたが、ストレスが発散できて充実していたように思えます。食堂車が懐かしい、古きよき時代、いや、ついこの間なんですがねえー、のお話でした。

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