湯谷の手紙

朝日新聞の朝刊の第一面には「折々のうた」がある。
5月26日のこのコラムに在原業平の母の歌が書かれていました。
「老いぬればさらぬ別れのありといへば、いよいよ見まくほしき君かな」

この歌は能『湯谷』(他流は熊野)の文の段にあり、謡を嗜んでおられる能楽ファンならばお馴染みの句だと思います。

湯谷(シテ)は遠江の国(静岡県)池田の宿の長ですが、平宗盛の召しによって都に留まっています。郷里の母が病気となり、湯谷の帰国を促す手紙を侍女の朝顔(ツレ)が携え都へ上ります。湯谷は心弱くなっている母を気遣い、宗盛(ワキ)に手紙を見せて暇を乞います。その手紙の最後のくだりにこの歌は出てきます。

この湯谷の母はどこで病に伏しているのでしょうか。普通は池田の宿と思いますが、確証があるわけではありません。学生時代、『湯谷』の初同に「長岡に住み給う老母…」とあるので、新潟の長岡かな…、随分遠いな…、いや遠江の国の長岡だから…あー地図にあった…。この伊豆長岡のことかなーと的外れな勝手な想像をしていました。謡曲では確かな母の居場所は限定できませんが、この長岡が長岡京で、この歌が業平の母の歌であると判ったのはだいぶ大人になってからで、お恥ずかしいかぎりです。
この辺のことは大岡信氏の「折々のうた」をご覧頂ければ、よくお判りになると思い引用させていただきました。

「この歌は『古今集』巻十七雑歌。業平の母は桓武天皇の皇女伊登内親王。この歌、古今集では長い前書きがある。当時都は京都に遷都していたが業平の母は遷都前の長岡京に住み続けていた。息子の業平は宮仕えの身で母のところに訪れることも出来ずにいた。すると年の暮急用ですと母から便りがくる。開けてみれば何の文章もなくただ歌一首が書かれていた。それがこの歌です。さらぬ別れは避けられぬ別れ、つまり死別。」

写真 『湯谷』 シテ 粟谷明生     撮影 あびこ喜久三

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