私が百八十年ぶりの『伯母捨』を勤めて、もう九年が過ぎた。七月には素人会ではあるが、素謡と舞囃子でこの曲を謡うことになり、今準備に入っている。
今回の菊ちゃんの一言は、あの『伯母捨』を思い出し、思うことを記したいと思う。老女物といえば、当時、兄の新太郎が『鸚鵡小町』を舞い、僕が『卒都婆小町』を舞って、親父が果たせなかった老女物を兄弟で一番ずつ舞っていたのだから、あの世へのよい土産物もできたし、もうこれで老女物はよいと思っていたのだ。
ところが能夫と明生に「『伯母捨』を舞ってほしい」と言われてしまった。『伯母捨』は喜多流では、百八十年前に井伊掃部頭(かもんのかみ・宮中の施設・掃除などをつかさどる役所の長官)の邸において上演され、そのときは太鼓が加わる出端であったという記録があるばかりで、その後舞われたことがなかった。僕の知る先輩たちは誰一人として舞ったことがないのである。『卒都婆小町』のように謡で親しまれているわけでもなく、喜多流ではほとんど廃曲のような曲だったから、これはえらいことになったと思った。
私は次男に生まれ、重い曲は長男がやるものと思っていたから、次男の自分が『伯母捨』を勤めるなどと夢にも思っていなかった。それが平成六年十月粟谷能の会で実現することとなったのである。私をやる気にさせたのは能夫と明生の説得上手、その技以外の何ものでもなかったと思う。
決意した翌日からおよそ二年間、僕は『伯母捨』の掘り起こしに没頭した。喜多流では百八十年間誰も勤めていない曲なので、他流の方からも素人の方からも、いろいろな方からお力添えいただいた。本当にありがたく感謝してしきれるものではないと思っている。
とりわけ銕仙会の観世静夫さん(故観世銕之亟さん)が力になってくれた。「菊ちゃん、一緒に見ようよ」と言って、銕仙会の楽屋に誘ってくれ、静夫さんが舞ったときのビデオをみせてくださった。そこで二時間、二人だけの部屋で、静夫さんは『伯母捨』を熱っぽく語った。「菊ちゃん、僕はここをこうやりたかったんだ」「ここはもっと違う型もあるよ」「月はあるときは満ち、あるときは陰るでしょ。それをたった一つの扇の上げ下ろしで表現するんだ」などと、段々お互い興奮し、盛り上がったのである。まことにありがたい二時間だった。
装束も銕仙会から拝借することになった。静夫さんの暖かい心づかいが身にしみたが、装束を借りるということは、すでに負けなのである。負けたのだから徹底的に下手に出て、どうぞ私に力をお貸しくださいという態度で教えを乞うのでなければならない。安易に「ビデオでもあったら貸してよ」などは失礼千万な言い方で、とんでもないことである。僕はそう思って教えを乞うてきた。
「朧月の型」を考えていたとき、橋岡久太郎先生の一枚の写真が思い出された。全身力を抜いてすっと立ち尽くされた姿、僕はこれだと思って、その型をいただいた。そこからいろいろなイメージが湧いてきたのである。
『伯母捨』は捨てられた身でありながら、恨み言を言うでもなく、「わが心なぐさめかねつ更科や伯母捨山に照る月をみて」と月に情趣が注がれ、月光に興じ、遊ぶ、品格のある曲のように解釈されやすい。しかし、僕は『伯母捨』という曲は、お能の品というものだけに逃げてはいけないと思っている。僕の『伯母捨』は月夜に座ってじわっとおもらしをしながらそのまま死んでしまう老女だよ、それでいいならと言ったことを覚えている。
『伯母捨』に挑むときに、動かぬところは微動だにせず、舞いかつ謡う、徹底的に老女になって舞うからな、だから、お能としての品格は閑ちゃん(宝生閑氏)がつくってくれ、太良ちゃん(野村萬氏)がアイで語ってくれ、囃子方も含めて、あなたたちが品格というものを供えてくれとお願いした。囃子方も、菊生という人間の芸をよく知っている人ばかりだったから、僕の老女に添ってくれ、すばらしいものをつくり出してくれたと感謝している。当時の配役をここに記しておこう。ワキは宝生閑、ワキツレが宝生欣哉、殿田謙吉、アイが野村萬(当時、野村万蔵) 地頭が友枝昭世。囃子方は笛が一噌仙幸、小鼓が横山貴俊、大鼓が亀井忠雄、太鼓は金春惣衛門であった。
百八十年前の『伯母捨』は太鼓が入る出端であったという。竹馬の友であり、天才的な太鼓打ち、金春惣衛門という男がいるのだから、今回も出端でやってみよう。それに絶妙な大小鼓、百八十年ぶりの囃子はすばらしい音色で能楽堂に響きわたった。
そして曲の最後。「恋しきは昔」と、月に興じ、月に遊び、夜もしらじらと明けてくると、老女を残して旅人は帰って行く。その帰っていくときの宝生閑と欣哉、謙吉のできがすばらしかった。三人がぴたっと息が合い、すこしの崩れも感じさせない。ワキとワキツレの後ろ姿を見ながら、老女が「一人捨てられた女が」と謡うところが哀しく難しい。そこをワキとワキツレがちょっとでも不揃いでシテの前を通ったのでは、この曲はおしまいなのである。シテの僕がいくら夢の世界だ、死の世界だと情感込めていても、それだけでは能は成り立たないのだ、役者が役者らしいことの最善の努力をして、囃子方が最高の音色や掛け声を奏でることがすべてだと思う。あとは観る人が想像してくれるのだ、と思っている。
『卒都婆小町』も一生懸命だったが、『伯母捨』は我を忘れるほど没頭した。僕にとって忘れられない曲となった。喜多流に見本となるものがなかったから、いわばすべての型が処女だった。演技しようなどという余裕もなかったから、一つ一つをきちんと確実にやろうと、そのことばかりだったようにも思う。しかし、それだけに僕の心の中はきれいだったかもしれない。
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