『小督』という曲で シテ・仲国を描く

『小督』という曲で
シテ・仲国を描く
粟谷 明生


『小督』は曲名にもなっている絶世の美女、小督の局がシテではなくシテツレとして配役され、シテは帝からの使者役、源仲国を演じます。
仲国は史実に従うと皇宮警察の部長といった役職の人で60歳近い老人! と「能楽手帖」(権藤芳一著)に書かれています。国立能楽堂からの出演依頼が来たときには、「直面物であまりお爺さんでは似合わないから、今ならばまだ間に合う大丈夫だろう」と快諾しましたが、もしかすると国立能楽堂の担当者は「粟谷明生は60歳ぐらい。『小督』を依頼するには丁度いいだろう」と考えたかもしれません。適齢期? 老人? とやや複雑な心境での稽古となりました。ここから9月15日国立能楽堂で勤めた『小督』についてレポートします。

能『小督』は平安時代後期の話。高倉帝の深い寵愛を受けていた小督の局は、平清盛の娘、徳子が中宮に立つと、平氏の権勢を恐れて宮中を去ります。
これを知った帝は日夜お嘆きになり、「小督が嵯峨野のあたりに身を隠している」「片折戸の家に住んでいるらしい」という噂を聞くと、仲国に小督を探させます。
折から八月十五夜。小督は琴の名手。名月に惹かれて琴を弾くだろう、仲国は帝から拝領した馬に乗り、琴の音を頼りに探しに出かけます。


仲国という人物像はどういうものであったか。高倉帝としてはある程度の年齢で信頼できる人間を使者としたかったでしょう。あまり若く美しい男性が小督のもとに行ったのでは、何か間違いでも、と心配です。仲国は若くなくしかも楽人で笛の名手、昔小督と合奏したこともあり、小督の琴の音色も知っている。「片折戸」に住むという庶民の暮らしも分かっている者ならば、きっと小督を探し当て誠実に使者の任を果たしてくれるという信頼が帝にはあったのでしょう。琴の音、秋の夜空、駿馬に乗って出かける美しい風景を、能は描いています。


能『小督』は美しい小督の人生を描くというよりは、あくまでもシテである仲国の心境や行動がメインになって展開していきます。
その場面展開を、序破急の構成で説明しますと、序は前場のごく短い場面です。ワキ(勅使)が仲国の私宅を訪ね、小督の局の行方を尋ねて参れとの帝の宣旨を伝えると、仲国は「今夜は八月十五夜、名月の夜だから、きっと琴を弾かれるだろう。小督の局の調べはよく聞き知っているから、安心してください」と引き受け、探しに出かけます。ここまでが序にあたります。

破は三段構成になっていて、一段目はがらりと場面を変え、小督の住む嵯峨野の隠れ家。小督は秋の夜、琴を弾きわびしい心境を謡い、侍女たちと語り合っています。

二段目は一声によるシテの登場から、名月の夜、仲国が嵯峨野に馬を馳せ巡らせ、法輪寺のあたりでかすかな琴の音を聞きつけ、その音を頼りに小督の局を探し当てる「駒の段」と、そして面会を果たし、帝の文を届け、小督も感涙し仲国に返事を伝え、酒宴となるところまでを描きます。

三段目は名残りを惜しむ男舞。
そして最後の急は、キリの仕舞を舞い、小督が見送るなか、仲国は帰っていき終曲するまでです。

中入り後、破の一段目で片折戸と柴垣の作り物が舞台上に運ばれます。片折戸の両脇に5つの柴垣が連なる、作り物としては大掛かりなものです。他の作り物のように、公演のたびに能楽師が作り運び込むのは難しいので、各能楽堂には、この一曲のための作り物が作り置きされています。今回も国立能楽堂の作り物を使わせていただきました。


この作り物は小督の家と嵯峨野の当たりの景色を想像させるに効果的なもので、鑑賞する手助けになっています。

作り物を、喜多流は舞台中央より脇座寄りに置きますが、宝生流は舞台中央、観世流や金春流は舞台中央より脇正面側に配置し、各流儀で違います。破の二段目、仲国が登場し駒の段を舞うときに、喜多流は舞台に入り舞うため、作り物をシテツレ側に置き、舞うスペースを広くしているのです。他流は駒の段を橋掛りで舞うため、作り物が舞台中央よりやや脇正面側でもよいわけです。作り物一つ置くだけでも、それぞれの流儀の主張があります。

今回、申合せで喜多流の基本を守りながら、作り物をどのあたりに置くのがよいか、出演者で意見を出し合ってみました。伝書に書かれたやり方では片折戸が正面から垂直になりよく見えないので、やや斜めにして、観客席から戸がよく見えるようにしてみました。能楽は「昔通り」を頑なに守っているように思われがちですが、決してそうではなく、今に合うやり方をいつも考えているのです。


駒の段のあと、宣旨の使いが来たと知っても、最初はなかなか取り合わない小督ですが、供女のとりなしでようやく対面することになります。仲国が小督の宅に入ることを許されると、片折戸と柴垣の作り物は舞台から運び出され、舞台は小督の宅となります。


さて、話をシテ登場の場面に戻しましょう。
破の二段目は、一声でシテが登場すると、「駒の段」(牡鹿鳴く此の山里と?想夫恋なるぞ嬉しき)となります。仲国が馬を走らせ、嵯峨野あたりから法輪寺を過ぎ、そして最後は想夫恋の琴の音が聞こえ小督の家を探し当てるところまでを「駒の段」と呼び、謡い舞う、聞かせどころ舞いどころとなります。シテは馬の手綱を両手で持ち、馬を一時止めては耳を傾け、琴の音を聴く型が続きます。それ自体は難しい舞というわけではありませんが、馬に乗って琴の音を聴いていると観客に思わせるのがなかなか難しいところです。しかも直面ですから顔に表情をつけることもできず、自然と役者の顔が面に見えるようになるには、稽古だけでは作れない時間が生む、という父の教えが思い出されます。


駒の段の最後、琴の音が聞こえてきて、まさしくそれは小督が弾く想夫恋と気づくところの謡、「峰の嵐か松風かそれかあらぬか。尋ぬる人の琴の音か、楽は何ぞと聞きたれば。夫を想ひて恋ふる名の想夫恋なるぞ嬉しき」は、なかなかの名調子、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、黒田節の二番と被っています。

「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲み取る程に飲むならば これぞまことの黒田武士」は、おなじみの黒田節の一節ですが、二番は「峰の嵐か松風か 訪ぬる人の琴の音か 駒引き止め立ち寄れば 爪音高き想夫恋」です。もちろん黒田武士と源仲国の関連は毛頭ないのですが、ちょっと気になりましたのでご紹介しておきます。


小督の宅に入れてもらい、仲国は帝からの文を渡します。そこには小督への想いの言葉が書き連ねてあったでしょう。小督は喜び泣きながら返事をします。観世流は実際に返事を「お文(ふみ)」として手渡しますが、喜多流は「直(じき)の御返事賜り」と「文」ではなく、言葉でのお返事と解釈しています。もし清盛に知られることになっては困る言葉が形として残ってはいけない、仲国を信頼してのお返事、と解釈して演じました。


そして破の三段目、男舞となります。通常、男舞というと颯爽とした武士の舞ですが、ここは颯爽と、とはやや風情が違う舞になります。小督を探し当てることはできたが、今後どうなるかわからない。が、酒宴となれば舞は付き物、小督への慰めの気持も込めて仲国は舞います。明るく晴れやかな祝言の舞ではない、若者の颯爽としたものでもない、そこを意識し、落ち着いて、やや速度を緩めて舞うのが心得です。囃子方にもゆっくり囃していただき気持よく舞うことが出来ました。

後シテの装束は、着付は鬱金色の厚板に淡い浅黄色の大口袴、そして花色の長絹にしました。替装束で、やや位の高い風情となる狩衣・指貫の選択もありますが、仲国が皇宮警察の部長さんとなれば、太刀を差しているので、従来通り、大口袴と長絹にしました。


小督については、平家物語で後日談があります。
高倉帝はその後小督の局を秘かに内裏に迎え、親王(範子親王)も生まれます。しかし、すぐに清盛の知るところとなり、小督は帝から引き離され尼にさせられてしまいます。それを悲しみ高倉帝は間もなく亡くなられます。小督という美しい人には悲しい人生の結末が待っていたのです。

平家物語は清盛の非道さを際立たせ、ゆえに滅びに向かうという、その物語の流れの中に、高倉帝と小督の悲劇をドラマチックに描いていて、その描写が史実かというと定かではありません。しかし小督という女性は実在し、尼となって生きたということは事実のようです。
能『小督』は小督という女性の人生を直接描いたものではなく、その後の小督がどうなったかも記していませんが、そのような数奇な運命をたどった人なのだということを心に止めて鑑賞すると、また違う深味も出てくるのではないでしょうか。

シテ方にとってよい能を作るにはシテとツレとの配役のバランスが大事です。
例えばシテがいくら立派でもツレが未熟だとよい能になりませんし、逆でももちろん然りです。

両者には充実した謡と型の力量が求められます。私が『小督』を披いたのは平成2年4月、厳島神社桃花祭の神能のときで、34歳でした。私が30代でしたので、ツレは当然私より若い20代の粟谷浩之君と友枝雄人君でした。この時はまだ能としての作品を深く考えず勤めていたなあ、と反省しています。もちろん、能楽師は将来のために、若いうちにいろいろな曲に挑んでいなければいけないのですが、本当に曲の深さがわかるのはやはり似合った年齢での再演なのかもしれません。老女物は一生に一度きりということもあるでしょうが、それ以外は早めに挑み、それを深めるのが肝要です。


私が『小督』を披いて30年近くが過ぎ、今回の演能は、私(シテ)が61歳、ツレ(小督)が佐々木多門氏45歳、供女の大島輝久氏が41歳でした。もちろん年齢だけでなく、芸力が大きく左右しますが、丁度良い配役、それぞれが役柄に似合った謡を謡い込め、ツレだけでなく、三役も、そして関わってくださった方々すべてが、「大人の舞台作り」にご協力いただいたことに感謝しています。ただ、ご覧になった方から「粟谷さん、お若い、とても60歳の老人には見えませんでした」というお声を聞き、「いや60歳ぐらいの老人に見えなくてはいけないのだが・・・」と素直に喜べない複雑な心境となったことも事実で、「もう少しお爺さんになってまた、もう一度勤めないといけないのかな・・・」などと感じた『小督』となりました。
(平成29年9月 記)

写真提供 石田 裕
写真 小督 シテ粟谷明生  

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