『葛城』について 小書「古式の神楽」を再考する

『葛城』について
小書「古式の神楽」を再考する
  
                            粟谷 明生

『葛城』というとすぐに思い浮かぶのは、私が平成6年、粟谷能の会で勤めた小書「古式の神楽」のことです。『葛城』の小書「神楽」には、後シテ(葛城明神)が舞う「序之舞」を単に「神楽」に変える「普通の神楽」と、特別な序が入る「古式の神楽」があります。この「古式の神楽」は、昭和31年に先代宗家・喜多実先生が演じられてから途絶えていました。従兄弟、粟谷能夫から『葛城』に「古式の神楽」があることを聞かされ、その掘り起こし作業をしたいと思いました。平成6年、38歳の時でした。この3年前に能夫と「研究公演」を立ち上げ、様々な試みを研究し、よりよい演能をしようと、既成伝承を見直し、埋もれている演出を再考し演じる、それが私のライフワークとなりました。特に小書には積極的に取り組み、能を様々な角度から見つめ深めるには小書は打って付けの目標ターゲットとなりました。


「古式の神楽」はしばらく演能が絶えていたことや、囃子方が限定されていること、伝書が限られた者にしか残っていないこともあって、掘り起こしにはいろいろ難儀しましたが、そのとき背中を押してくださったのが金春惣右衛門先生でした。先生のご助言もあり、囃子方のご協力もいただき「古式の神楽」に取り組むことができました。そのときは伝書通り、「特殊な序」に「神楽」を三段舞い、幣(榊)を捨て、三段目の後半からはゆっくりとした「序之舞」をまたじっくりと三段舞うという形でした。これはとても時間がかかり、やや冗漫な印象を与える演出になってしまいました。
そこで今回、第94回粟谷能の会(平成25年10月13日)では、この「古式の神楽」に少し手を加え短縮し、観ていて飽きない神楽にしたい、と心掛けて再演しました。まだまだ再考の余地は残っていますが、前回に比べて、少し目標値を上げることが出来たのではないかと、自分なりには満足しています。
今回ご一緒いただいた、笛・杉信太朗氏、小鼓・横山幸彦氏、大鼓・亀井広忠氏、太鼓・金春国和氏の皆様には、ここに深く感謝お礼を申し上げます。

神楽の縮小方法については後ほど述べるとして、『葛城』という曲を勤めるにあたって私の感想などをご紹介します。


『葛城』は、古今和歌集から引いた「しもと結う葛城山に降る雪は間なく時なく思ほゆるかな」を象徴的に、間なく時なく降る真っ白な雪景色と、そこで出会う山伏達(ワキとワキツレ)と里女(前シテ)の温かい交流の場(前場)から描かれます。「しもと」とは細い枝のことで、これを薪として暖をとるものです。舞台となる葛城山は古くは修験霊場であって、金剛山をはじめとする連山を指し、雄大な自然が息づき、神々が宿る神仙でもあります。そこを訪れた山伏一行は突然の大雪に見舞われます。あたり一面の白色の世界は、前シテの白色の装束、笠としもとに付いた雪で表しています。突如として現れた女は苦渋している山伏達を自分の庵へと誘います。寒さを凌ぐために、火をくべて暖をとり休ませると、女は自らの苦悩を明かし、実は葛城明神の化身であることも明かします。化身は役の行者(えんのぎょうじゃ)に葛城山と吉野山を結ぶ岩橋を架ける工事を命じられたが、顔が醜いことを苦にして夜しか作業をしなかったので、ついに役の行者に怒られ蔦葛で呪縛され苦しんでいると語り、救済を求めて姿を消します。後場は葛城の女神が蔦葛の這いまとった小忌衣をひるがえして、ここを高天原とみなして、神楽、大和舞を舞い、夜明けと共に岩戸に姿を消す、という神の苦悩を描いた物語です。


顔容の醜さを恥じて昼は姿を現さない女神。しかも身は蔦葛で縛られ苦しみを受けている。そのような神様であることを後シテの姿を観て想像することは正直むずかしいです。実際に縛られた形相ではなく、また醜い顔の面を付けているわけではありません。むしろとても綺麗で魅力的な表情の「増女(ぞうおんな)」を付けて登場します。私は稽古を重ねる毎に、女神の苦悩理由が、どうもはっきりせず気になって仕方がありませんでした。女神が役の行者から罰を受けること、山伏の法力を頼みとすることなど、私のこれまで生きて来た生活や宗教観には当てはまらない環境設定です。さてどのようにこの能と向き合い勤めたらよいのか・・・と、少々悩み考えました。

ある尊敬する師には「能は不真面目ではいけないが、ある程度いい加減なもの。偏見を持たず、取り敢えずボッとやっておけばよい。桜の花も全体を霞として見るので花弁の一ひら一ひらを見るものではないでしょう」とご指導いただき、なるほどと得心もいたしました。その通り、と思うのですが、どうも一ひらが気になって仕方が無いのが私の性分なのです。少し細かなお話をします。

人は、いや女性は特に、自分の顔容、容色、容姿に対して引き目を持っているように思えます。太っていないのに、痩せたい、痩せなきゃ、と言います。
可愛い眉毛を、こんなに生えて嫌と切ってしまいます。私から見て少しも悪くないのに欠点ではないのに嫌がるのです。それは単に、己が自分勝手に抱くコンプレックスではないでしょうか。能が葛城の神を女神に仕立てあげたのは、神も同じように劣等感があるのだから人間が持つのは当たり前、それでいいの、よくそこら辺を考えてみては? というのが作者の意図であり狙いではあるように思えてなりません。私は危険な目に遭い、なにかに縋りたくなった時、思わず「神様!」とお願いしてしまいますが、『葛城』の神は、そのような神ではなく、もっと人間に近い存在のようにも思われます。いや、実は両者とも同じなのかもしれません。しかし故意に違う一面を見せる手法を展開したのが『葛城』ではないでしょうか。神を人間味あふれる話として身近に感じられる、不思議な曲というのが私の感想です。

能は見て美しいと感じるだけでよい一面もあるでしょう。それは間違いではありません。ただそれだけではないものをどこか深層部に持ち合わせていて、それが能の魅力の真髄であるとも言えます。シテ方の演者は、老若男女、神や鬼にも、そして時には死者にも化けます。そして、その心を借りて曲のテーマと取り組みメッセージを伝えるのが役目ですが、常に「人に観ていただく」という感覚、意識を忘れてはいけないと思います。太古の芸能は神への奉納が主であったでしょうが、申楽の能の創設者、観阿弥、世阿弥以降の戯曲家たちは観客を強く意識し始めます。観客への技芸、能は永年このことを忘れずに継続してきました。

葛城山の神(一言主神)は本来男神ですが、能『葛城』では葛城明神を女神としています。女神とするのは金峰山縁起にも見えますが、醜いとコンプレックスを感じるところや、簡単に呪縛されるという弱々しさの演出は、女神に設定した方が想像し易いからでしょう。想像しやすいためなら、なんとでもする。それぐらい大胆なやり方をする能、それが魅力で、そのいい加減さの面白さが、ようやく少し判るようになって来ました。それもこれも『葛城』を再演したお陰で、それこそ神の力なのかもしれません。

さて、また小書について、感想などを織り交ぜて記載します。ここからは専門的になることをご了承下さい。


今回、装束の選択については、一面の雪化粧をイメージして、白を基調にしました。里女(前シテ)は腰巻に白練を坪折(つぼおり)にして着るか白水衣にするか両用ありますが、前回が坪折でしたので、今回は白水衣にしました。
後シテの葛城明神は醜いといいながら、あくまでも女神です。美しさが欠けてはいけません。喜多流では本来、緋色の大口袴が決まりですが、今回は前回同様あえて萌黄大口袴に、通常は長絹(ちょうけん)を白地楽器模様の舞衣にしました。頭の天冠には赤色の蔦葛を付け、面は前後を通して「増女」を使用し、美しさを前面に出すことを心掛けてみました。

では、「神楽」を掘り下げます。原初の神々の物語には「神楽」が似合います。 
我が家の伝書には「それ神楽の始は、昔、日神天の磐戸に引籠もり給う時、諸神集会して神事有り」と天照大神が籠もった天之岩戸の前に神々が集まり神事をして慰めたときの、天鈿女命(あまのうずめのみこと)の踊りから音楽が始まったとあります。まずは神々が手拍子をはじめ、ばらばらだった手拍手がひとつのリズムにまとまり、そこに掛け声や口笛が吹き込まれ、そのうち足拍子も入り、身近なものを叩き始める、そしてメロディーが出来上がり音楽となります。このようなリズムにあう原始音楽は単純でありながらも、なんとなく身体に躍動感を持たせてくれるリズムの音です。これが神遊と言われ「神楽」の起こりとなり、能の「神楽」へ導入されるようになったのではないでしょうか。私はそのように推測します。

『葛城』に小書「神楽」が付くと、後シテの舞が「序之舞」から「神楽」に変わります。通常の「序之舞」は女体の葛城明神がしっとりと静かに山伏に舞を見せる演出ですが、「神楽」は神事的、儀式的な宗教性が重視されて、尚かつリズムは小鼓が八拍子の一拍ずつを等間隔に連打することにより、非常に乗りのよい音楽となり、より呪術的な雰囲気を感じさせてくれます。この単純なリズムは、また、単純であるからこそ誰にでも音に慣れ、馴染み、次第に乗ってきて楽しくなる、「神楽」はそんな音楽なのです。


さて、さらに細かく「神楽」の構成を説明します。
(0)序+掛、(1)初段、(2)二段、(3)三段、(4)四段、(5)五段の六段構成です。(0)から(2)までが神楽のリズム、(3)から(5)までは普通の舞となります。つまり「神楽」と言われながらも実際は半分が神楽で残りは舞となり、『葛城』ではこの部分が序之舞の位となります。それは『葛城』が元来序之舞の曲であるからです。ただ、すべてを神楽で舞う「総神楽」(喜多流では五段神楽という。『巻絹』のみ)というものもあります。
神楽から普通の舞に変わる変わり目は幣を捨て中啓(扇)に持ち替える時です。それが変化の合図です。乗りの良いリズムの「神楽」で憑依を意識し、普通の舞に変わったときに、私はその憑依を和らげる意識で舞っています。今回の『葛城』では幣の代わりに榊を使いました。

では、「古式の神楽」はどこが「普通の神楽」と違うのか?
囃子方が限定されることはすでに述べました。笛・森田流、小鼓・幸流、大鼓・葛野流、太鼓・金春流と明記され限定されています。「古式の神楽」が滅多に演じられることがない理由はここにあります。文化11年に演じられたものなど、数少ない演能記録をこのレポートの最後に資料として付けましたのでご覧ください。


「神楽」の構成については、(0)の掛の序が変わるのが大きな特徴です。
「普通の神楽」では軽快なリズムに乗りながら八拍子の二拍目に足拍子を3度踏んで楽しげな様に演じますが、「古式の神楽」では序之舞の序のようにリズムに乗らず慎重に儀式的な足拍子に変わります。しかも3回とも踏む個所が変わり難易度も上がります。そして榊や幣を持っての神への祈りも下居して丁寧に拝み、御神事、儀礼的な雰囲気が漂います。雪が降る景色であったり、厳粛な儀式を想像させる太鼓の特殊な手配りはより手が混んでいて一層荘厳さを演出します。


先に述べたように、平成6年に勤めに「古式の神楽」は時間がかかり過ぎたとの反省から、今回は時間を短縮しながらも神楽のエキスを失わない「古式神楽」を創作したいと試みました。
その新案は(0)序+掛、(1)初段、(2)二段、の(2)を省略、後半の序之舞部分も(3)三段、(4)四段、(5)五段の三ブロックの、(4)をまるまる省略することで、引き締まり感を出しました。
儀式の序はゆったりとはじまり、掛からリズムがやや乗ってきて、初段から憑依的な部分も持たせ、榊を捨てる時にはクライマックス、最頂点となます。
その後、少し落ち着き中啓に持ち直すとやや軽めの中之舞の位となり、オロシと呼ばれる特別な譜になるところでリズムが絞まりゆったりとした舞の位にしました。そしてまた次第にリズムを上げて来てほどよい乗りをと試行してみました。


『葛城』はしっとりとした情趣がありながら、ただ美しいだけではなく、やや陰の部分があり、それでいて、原初の神物語の神秘性と軽やかさが挨まった曲です。この曲をより面白く魅せるには小書「神楽」は最適です。今回、その「神楽」を「古式の神楽」で、しかも再考・創作できたことは喜びでもありました。
今回の試み、まだまだ改善の余地があります。これからもっと頻繁に演じられるようになり、名称も例えば「古式」などではなく「大和神楽」とでも変えて、変化しながら後世に残ればよい、と願っています。
              (平成25年10月 記)

「古式の神楽」の演能記録
文化11年に二回勤められた記録があります。
●『葛城』「神楽」、文化11年3月27日、松平越前守殿へ一橋大納言様御立寄りの節、三番目に勤む。
シテ 喜多十太夫
ワキ 進藤権右衛門
笛  森田庄兵衛光淳 
小鼓 幸小左衛門
大鼓 葛野市郎兵衛
太鼓 金春惣右衛門国義  
以上、金春國義伝書より

●文化11年甲戌9月21日御本丸表、日光遷宮相済為御祝儀御表能。
ここでは、ワキが宝生新之丞に代わっていますが、その他の申楽師は同じ者が勤めています。注意書きに「神姿恥ずかしや、までスラスラと、よしや吉野の山葛、より地頭・野村理兵衛シッカリ謡う」と書かれていて、「此の序、昔は家元ばかり、弟子に伝えず相勤め候」と権威主義が垣間見られて面白いです。

●昭和31年10月28日喜多別会にて。
シテ 喜多実
ワキ 松本謙三
笛  藤田大五郎
小鼓 幸 祥光
大鼓 亀井俊雄
太鼓 柿本豊次
笛は森田流と限定されたはずですが、一噌流・藤田大五郎氏がお勤めなのが興味を引き面白いです。古いしきたりにひとつの新風がおこったように感じられます。

●平成6年、粟谷能の会にて
シテ・粟谷明生、ワキ・殿田謙吉、笛・中谷 明、小鼓・亀井俊一、
大鼓・亀井広忠、太鼓・金春惣右衛門、地頭・香川靖嗣。

●平成25年、粟谷能の会にて。
シテ・粟谷明生、ワキ・殿田謙吉、笛・杉信太朗、小鼓・横山幸彦、
大鼓・亀井広忠、太鼓・金春国和、地頭・長島 茂。

以上

写真1、5、        撮影 前島写真店 成田幸雄 
写真2、3、4、7、8   撮影 石田 裕
写真6、9、        撮影 青木信二

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