『夕顔』を勤めて 儚く逝った夕顔の執心

『夕顔』を勤めて
儚く逝った夕顔の執心



秋田県大仙市の唐松能舞台(平成25年8月25日)で『夕顔』「山の端之出」を勤めました。屋外の舞台、猛暑の夏もあとわずかと感じさせるさわやかな風が吹く中での演能でした。

能で源氏物語の「夕顔の女」を題材にした曲は『夕顔』と『半蔀』の二曲があります。『夕顔』は『半蔀』に比べるとあまり頻繁には演じられず、観世、喜多、金剛の三流にしかありません。『半蔀』の作者は内藤左衛門。出生不明の夕顔という女性を白い夕顔の花に重ね合わせ、花のイメージを強調した演出となっています。蔀戸に夕顔の花や実が飾られた藁屋(作り物)の中から、後シテ夕顔の精が蔀戸を押し開いて出てくる場面はとても華やかです。さらに「立花」の小書がつくと、生け花が舞台中央先に置かれ、より豪華な演出となり、観ていて美しさがストーレートに伝わってきます。


一方、『夕顔』は作り物もなく前場の曲(クセ)は居曲(いぐせ)という動きがないもので、後シテも序の舞と短いキリの仕舞所があるだけの地味な演出です。薄幸な「夕顔の女」の霊が成仏を頼みにこの世の僧の前に現れ、法華経の功徳で救われ成仏するという単純な構成で、短く儚い人生を嘆く夕顔という人物に焦点を当てた宗教色濃い作品です。世阿弥作と言われています。
見せ場も乏しく、舞うところも少なく、いろいろ舞いたい、動きたい私としては、やや物足りなさを感じないでもないというのが正直なところです。しかしだからこそ、一層演じる側の力量もまた観客の観る力も必要となる曲と言え、能の究極はこのような簡素な形で、完成度を高めているのかもしれません。
であれば、まことに能は難解な芸能と言えるでしょう。
『夕顔』はその意味でも味わい深い、能らしい能で、シテを演じる者の意識としてレベルアップする先に『芭蕉』という曲が見えてくるように思えます。
これらの「能の味わい」を感じるには作品への理解と想像力が不可欠で、舞台上の動きを観るだけでは力及ばないつくりになっています。謡われる詞章から
観客側が作品の背景を思い浮かべ想像する、このような鑑賞法が「能を味わう」ということなのかもしれません。


演者の力量も観る側の力も問われる『夕顔』、さてどのように勤めたらよいかと考え、まずは「夕顔の女」とはどんな女性なのかを頭に入れるところから始めました。『半蔀』の時はさほど気にせずに勤められたものが、今回は夕顔の女そのものが気になりました。「夕顔の女」の生き様、源氏との関係などを知ることが自分の演能に何らかの力を与えてくれるだろう、と考えました。

「夕顔の女」は源氏物語の帚木の巻の「雨夜の品定め」で頭の中将が控えめな女と語った女です。正妻の手前、中将は夕顔の女を身近に置くことをさけ五条辺りの荒ら屋に住まわせます。そして夕顔の女との間には玉蔓という女子をもうけています。そのような状況でありながらも光源氏(当時17歳)は大胆に行動します。乳母の見舞いに行く途中に、ふとしたことで夕顔の女(19歳)と出会います。供の惟光に垣根に咲く夕顔の花を折って持って来るようにと頼むと、童が香を焚きしめた扇を差し出し「これに置きて参らせよ」と言います。扇には「心あてにそれかとぞ見る白露の、光そへたる夕顔の花」という歌が書かれていました。どうもあのお方は源氏の君のようにお見受けしますが・・・というような、ちょっとしゃれた詠いぶりです。やがて源氏も「寄りてこそ、それかとも見めたそがれに、ほのぼの見つる花の夕顔」と、寄ってみてこそ分かるでしょうと返し、つき合いが始まります。上流階級で名誉も資産もあるイケメン青年の源氏が、中流階級の可愛い女性との逢瀬は女の身の回りの環境、珍しい風景などすべてが目新しく、殊の外楽しかったことでしょう。

能『半蔀』はこの初めての出会いの喜び、一番美しい思い出に焦点を当て、「寄りてこそそれかとも・・・」(詞章では「寄りてこそ」が「折りてこそ」に)の歌を引きながら、最後は夕顔の花の精でもあるかのように夢の中に消えていく演出です。


さて、度重なる荒ら屋での逢瀬、ふと気分を変えたくなる。そんな男女の心境間柄は古今変わらぬもの。源氏は思い立ってある場所を選びます。それが不幸を招きます。
8月15日の夜、源氏は廃墟となった源融の大臣の邸宅跡・河原の院に、虫の知らせなのか、気の乗らない夕顔を連れ出し一夜を過ごします。夜半二人の枕元に女の物の怪が現れ、驚いた源氏は供の者を呼びますが、だれも来ません。ふと夕顔を見るともう息途絶えています。物の怪の正体は、作者は明かしていませんが、おそらく六条御息所の生霊でしょう。葵上にも取り憑くほどの御息所の執心、嫉妬心は、彼女自身もう自分で自分を押さえられないまでになっていたのです。夕顔を失った後の源氏のうろたえぶり、悲しみ、打ち沈む姿は「源氏物語」にあますところなく描かれています。秘された逢瀬、夕顔の死も、源氏との関係も秘されなければなりません。供の惟光が夕顔の亡骸(なきがら)を上蓆に包んで車に乗せ、東山まで運び、源氏や右近(夕顔の乳母)ら、わずかな人たちで荼毘に伏します。薄命の夕顔は御息所を恨んで死んだのでしょうか。それともこのような運命を恨んだのでしょうか。最後までお互いの素性を明かさないままでした。夕顔は娘「玉蔓」を残しての突然の早世です。源氏への執心だけでなく、現世への執心も残ったことでしょう。ここに焦点を当てたのが能『夕顔』で、夕顔の霊はただひたすら僧に救済を願うのです。


通常の舞台進行は、ワキが名乗り、道行を終え着き台詞を謡うと、アシラヒ出となり前シテは一の松前にて「山の端の心も知らで行く月は、上の空にて影や絶えなん」と謡います。
「山の端の・・・」の歌は、河原の院に着いたとき、源氏に「昔の人はこんな風に恋のために惑い歩いたのだろうか。私は初めての経験なのでわからないが、あなたは経験がありますか」と聞かれて、夕顔が答えて詠んだ歌です。山の端=源氏の心も知らないで、ついて行く月=自分、夕顔は、(そのうち捨てられ)、上の空で消えていくのではないだろうか、といった意味で、夕顔の不安で心細い気持ちが詠われています。これがシテの最初の出で謡われるのは、能『夕顔』の全体を暗示しているように思われます。この歌は『半蔀』にも出てきますが、これほど強調したものではありません。
曲(クセ)も河原の院の暗く荒れ果てて恐ろしげな様子を切々と謡い、シテは居曲で片膝を立てて座り、内面の心のゆらぎを地謡が表現する手法で、けだし能の演出の特徴です。さらに「あたりを見れば烏羽玉の闇」「泡沫(うたかた)人は息消えて」「帰らぬ水の泡とのみ散り果てし夕顔」と、地謡は夕顔の儚く逝った運命を淋しく謡い上げます。

その夜、僧が法華経を読経し弔うと、夕顔の女の霊が生前の姿で現れます。
「優婆塞が行ふ道をしるべにて、来ん世も深き契り絶えすな」(優婆塞=俗体の仏道修行者。源氏が夕顔の隣家に住む行者の勤行の声を聞いて、夕顔を思って詠んだ歌)を僧と共に謡い、源氏と契りを結んだ時を追憶して舞い、法華経の功徳で解脱できたと喜んで、僧の回向に感謝し雲に紛れて消え失せます。
途中、「女は五障の罪深きに・・・」と女性であることが罪深いということや、「変成男子の願いのままに解脱の衣の・・・」と、法華経によって男子に変成して女性も成仏できるという、当時の宗教観も描かれています。現代なら、男女差別だ、承服できないといわれそうですが、能が創られた室町時代はこのような考え方があり、こう謡うことも自然だったのでしょう。このように、後半は宗教色の濃いものになっています。


今回は小書「山の端之出」で勤めました。この小書は、前シテの出の演出が変わります。ワキの道行の後すぐに、幕の中で姿を見せずに「山の端の・・・」を謡い、ワキはそれを聞いて「不思議やな・・・」と応じ、その後にシテの出となります。通常は普通の一声となりますが、今回は「巫山の雲は忽ちに、陽臺の下に消え易く・・・」と謡いながら一の松前まで出たかったため、今回に限った特殊な一声を打っていただき幕内より謡い出しました。この曲を象徴する「山の端の・・・」の歌をより印象づけ、シテの心細い境遇を際立たせる効果があればと思い試演してみました。


大仙市まほろば唐松能舞台は青空が見え、緑が美しく、そして心地よい風も流れる、屋外の舞台です。そんなロケーションであるため、演出を少し変えてみるのも一興かと考えました。『夕顔』の小書には、「山の端之出」のほかに、序の舞の最後の寸法が短くなる「合掌留」がありますが、囃子方の伝承には「合掌留」は「山の端之出」とセットになるように記されているようです。


今回、屋外の演能で天候や時間的な制約もあり、序の舞を短縮する必要もあったので、舞の寸法が短くなる「合掌留」は好都合でした。前場ではシテの下げ歌と上げ歌を省略し、間語りも短くし、後場では序の舞の短縮などして、60分で演能することが出来ました。また本来座りっ放しの居曲も、上羽の後より立ち、「闇の現の人も無く」と面遣いしながら正面先に出、「いかにせんとか思い川、泡沫人は息消えて」と下に心を付け、「帰らぬ水の泡とのみ」と少し引き下がり、「散り果てし夕顔の、花は再び咲かめやと」と左へまわり、「夢に来たりて申すとて」と脇に出る型をしてみました。


実はこれは私の新発想と思っていましたが、演能後に伝書を読み返すと、替の型として記載されていて、驚きと安堵という不思議な気持ちになりました。
新発想と喜んでいながら、実はそうではない。このようなことが昔から繰り返されている、伝統や伝承の意義など深く考えさせられました。



終盤、解脱を喜んだ後、「明け渡る横雲の迷いも無しや」では、通常、幕の方角の東をカザシ見る型となりますが、屋外で実際の大自然の青空に浮かぶ横雲を見ることができたため、方向を青空の雲を見る型に変えて、地謡の「明けぐれの空かけて雲の紛れに失せにけり」と謡の中で入幕してみました。


演能にあたり、以上のようにいろいろ考えましたが、『夕顔』を勤めるには、結局、あまり考え過ぎずに無心になるのが一番、これが正論だと思います。余計なことは考えずに・・・なのですが、どうしてもいろいろなことをしたがる自分が耳元で囁くのです。昔の型通り真似することばかりが正しい伝承ではないだろう? 昔から伝わる型も伝承も申楽発祥の当時はすべて新しいもののてんこ盛りだったはずだろう? と。


これからの私の演能は、もちろん演じる側の仲間の同意があってのことですが、常に新たな演出を工夫し再考し、より良いものを創り出していく、そうしたいと思っています。そして後世に書き残す作業も必要であると感じています。この思いが善か悪かは時が経って判断されればよいと思います。書き残し、演じる、このことは目新しいことでも新発想でもありません。申楽創始者の世阿弥や元雅、禅竹、信光たち申楽師は戯曲家を兼ねていて、創り、演じ、興行し、書き残してきたのです。このことこそが、今日の能が出来る所以です。自分もこれを真似たい、今、そう信じて止まないのです。
ただ古いものをそのまま真似るだけで満足していたら、創始者たちはうす笑いを浮かべ、きっと模写族に対してなにか、ひとことふたこと言うでしょう。

屋外の開放的な舞台で、今回もまた共演者のご協力と観て下さった方々のお力とに感謝しています。10月の粟谷能の会では『葛城』神楽を勤めますが、もう新たな演出が浮かび上がって来ています。

(平成25年 8月記)
写真提供 
能『夕顔』シテ 粟谷明生 撮影 石田裕
宝増と唐織        撮影 粟谷明生

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