『百萬』について 舞い尽くしの芸

『百萬』について
舞い尽くしの芸

粟谷明生


『百萬』を喜多流自主公演(平成24年4月22日)で勤めました。過去に稽古能で一度勤めたことがありますが、公式の場としては、はじめてでした。

まず『百萬』のあらすじをご紹介します。

奈良の西大寺のあたりで幼い子ども(子方)を拾った僧(ワキ)は、その子を連れて京都嵯峨の清涼寺を訪れます。門前の男(アイ)に子どもに何か面白いものを見せたいと尋ねると、「百萬」という女物狂いが面白く音頭を取り躍ると勧めるので、それを呼び出します。
門前の男が下手な念仏を唱え踊り出すと百万(シテ)が現れ、「あら悪の(わるの:下手な)大念仏の節や」と自ら念仏の音頭をとり歌い舞いはじめ、仏前に向かい我が子との再会を祈ります。それを見た幼い子どもは自分の母親であると僧に明かし、僧はそれとなく百萬に事情を聞き問いただします。百萬は子に生き別れたことを嘆いているので、僧は信心によって子どもと再会出来ると諭します。僧の言葉に慰められた百萬はふたたび奈良から京の都までの道中のことを舞って見せ奉納しますが、多くの群衆の中に我が子を捜し出せないことを悲しみ、遂に仏に手を合わせ狂乱してしまいます。僧は百萬が幼い子どもの母親である事を確信し引き合わせると、百萬はもっと早く名乗ってほしかったと恨みはしますが、仏の徳により再会出来たことを喜び、我が子を連れて奈良の都に帰って行きました。


母子再会のお目出度い曲目と言えば『桜川』『三井寺』『柏崎』と『百萬』、喜多流にだけある『飛鳥川(あすかがわ)』などがあります。
これら狂女物の全般に言えることは、子を捜し求める形式をとりながらも実は親子再会が主要ではないということです。
『桜川』は桜を取り上げ春の景色を、『三井寺』は秋の月景色を琵琶湖や園城寺の夜景なども組み入れながら紹介します。『柏崎』は善光寺信仰と亡夫への恋慕などを主題としています。これら代表的な三曲では、愛子との再会は戯曲を組み立てる上での味付け程度で、主要部分は別にあります。

能は、このように主題のためならば、なんでも取り付けてしまう大胆な手法を取り入れ、それが却って能ならではの味わいになっているかと思います。
『桜川』『三井寺』『柏崎』の三曲は、中入りのある複式形式です。前場では愛子を失う経緯や状況説明の場面を設け、中入り後に子を捜す旅模様の道行から話が展開する方法がとられていますが、それは我が子の探索に焦点を当てているかのように思わせる見せかけであると言っていいでしょう。


一方、『百萬』と『飛鳥川』は中入りもなく道行もありません。特に『飛鳥川』は我が子を訊ねる母親の気持ちが稀薄で、逆に愛子の友若の方が母を捜し求めている異色な作品です。主題は母子再会よりも初夏の田植えの模様を描く方に重点が置かれ、友若との再会はまさに取って付けたような付録的な扱いです。
『百萬』も『飛鳥川』同様の構成で、親子再会のドラマは付録的に処理されていますが、二曲の違いは、『百萬』のほうが随所に行方がわからなくなった我が子のことを語り、母親の子に対する愛情が溢れているということです。

私は『百萬』という曲が、なにを見せたく、なにを訴えたいのか、を考えました。そして出した答えは「年増の女芸人の舞ぶりを見せつける」、これに極まると思います。
歌舞伎役者が芝居の物語の云々よりも踊りを披露することを第一とするに似た、能役者の舞っぷりを見せつける作品だと思い勤めました。
百萬という女は実在した曲舞の名手であったという伝承があります。また、奈良の西照寺には百萬供養塔があり、百萬について記載されたものがありましたので、ここでご紹介します。

「百萬とは女性の名で春日大社の巫女で一男児があった。ある日、西大寺の念仏会に親子で詣でたが、あまりの混雑に我が子十萬を見失った。その後、百萬は狂女となって必死に十萬を探し求め歩き、京都嵯峨の清涼寺の念仏会で遂に我が子に巡り会い、奈良に戻り親子仲睦まじく暮らし、やがて十萬は唐招提寺の道浄上人になったとも、清涼寺の十遍上人になったともいわれる」と。


神道の巫女が仏教の念仏会でという設定は神仏混合とはいえ、現代の感覚では、しっくり来ないところもありますが、そのようなことはさておき、『百萬』は女芸能者たる百萬という母親のいろいろな舞を見せるのが作者の狙いなのです。その工夫として狂女物に太鼓まで入れるのですから、これは大胆なやりかたで、百万の舞ぶりをいかに賑やかに囃すかという意図がありありと伺われます。

『百萬』には舞いどころが羅列されています。念仏の段、車の段、笹の段、二段曲(にだんぐせ)の舞、二度のイロエと、舞う場面がふんだんに盛り込まれています。この羅列された各種部分をシテの能役者がいかに綺麗にしっとりと、時には激しく舞うかが、この能の善し悪しの決め手となります。綺麗にきっちりと舞ってこそ、鑑賞者は各種の舞の起伏を自分なりの世界で感じ想像してご覧になれるのです。


清涼寺・釈迦堂門前の者(アイ狂言)の下手な念仏がはじまると、百万は笹を持ちいきなり登場します。シテは一途な思いの狂気の様を表す笹を片手に持ち、最初から立烏帽子を被り長絹姿という舞人の扮装です。通常、曲の後半や途中で物着(ものぎ=着替え)をしてこの姿になり、舞人に変身することが多いですが、百万は最初から舞姿で登場します。このことからもいかに舞を見せることに重点がおかれているかが判ります。


自ら念仏を唱え出す百万。「力車に七車・・・」「重くとも引けやえいさらえいさ」と車の段と呼ばれる部分、実はなぜ車が出てくるのか知りませんでした。百萬はもともと車の上で舞っていた芸人のようで、そのため車の段と呼ばれています。ここのシテの心持ちは上機嫌で、調子も張り上げ、ほどよい乗りで謡い舞う躁の意識で、との教えがあります。

しかし狂女というのは、躁と鬱が交互にやってくる特徴があります。次の笹之段と呼ばれる「げにや世々ごとの親子の道に・・・」がまさにそうで、一転して鬱な部分の舞となります。謡い方も陰気に暗く謡います。しかし私はこの笹之段があまりに陰気になりすぎるのは吉としません。
ただひたすらの鬱ではない、不安定な感情とでもいいましょうか、陰気だけではない、少し躁が見え隠れするような笹之段を舞いたいと思い、地頭(粟谷能夫)にお願いしてシテと地謡の感情の起伏が感じとれるようなものにしたいと演じてみました。観ていただいた方々のご感想はいかがでしたでしょうか?


笹之段を舞い終えると、母親百萬は愛子に会いたいと「南無や大聖釈迦牟尼仏、我が子に逢わせてたび給え」と仏前で祈ります。
それを見た子(子方)は僧(ワキ)にこれこそ自分の母であると告げます。しかし、そのあとの対応が現代劇になれている我々にはしっくりきません。

私は子方時代に「自分が、母親だと僧に教えているのに、何故ワキの僧は目の前にいる母親に子どものことを教えないのか」、また「何故母親も近くに居るのに知らん顔をするのだろうか」と、子ども心に疑問に感じていました。
しかし、親子再会が副次的なことで、終始女芸人の舞い姿を見せるのが主題ですから、ここで二人が名乗り合ってしまっては、事はここでおしまいになってしまいます。僧が確信出来るまで、子と再会させない手法をとり、女芸人の舞をふんだんに披露させる。ここが理詰めで物語の進行重視という現代劇とは異なる能らしい演出です。

ワキとの問答で百萬の心境は次第に興奮して語られていきます。
そしていよいよ曲舞が始まりますが、その前にプロローグのようなイロエがあります。
『百萬』には二つのイロエがありますが、最初のイロエはさしたる意味を持たない舞台を一周するだけの舞です。これはいわば舞を舞う前の能役者の準備運動のようなものと思ってくだされば良いと思います。このようなことを堂々とやってしまう、これも能の面白さのひとつです。


イロエの後、序、サシ謡と続き、本命の二段曲の舞となります。「奈良坂や、この手柏の二面」と奈良から京都への旅道中を舞い聞かせます。見せ場の型どころが続き、演者の力量が判るところです。我が子を捜し歩く百萬の気持ちを謡い舞いますが、次第に興奮状態となり気分は高揚していきます。

この『百萬』の二段曲は少年期や青年期に舞囃子でよく稽古させられました。
若い時に覚えた動きは年を経ても忘れません。父が若い時に謡い込んでおけ、舞込んでおけ、と教えてくれたことがひしひしと胸にせまります。私も未熟ながらも積み上げて来たもので舞えたことを喜んでいます。そして今回はじめて、百萬という母親になりきって舞っている自分を、遠くからまた別な目で見ながら舞っている自分を発見出来て不思議な気がしました、「離見の見」とはお恐れ多いことですが、なんとなくそのような体験が出来たことがとても面白く貴重に感じた能でした。

そして、「あら我が子」「恋しや」で二度目のイロエとなり、子を捜す型を囃子に乗り表現します。「これほど多き人の中に、などや我が子の無きやらん、あら我が子恋しや」と捜しても捜しても我が子に会えない百萬は遂に狂気も最高頂に達します。
この感情を表現するには舞という動きだけではむずかしくなります。興奮し高揚した気持ちは謡で表現するしかないのです。その謡い方は、音の高低や早い遅いの違いだけではなく、陰と陽、そして減り張り、出る息と引く息、これらすべてを駆使してようやく表現出来るものです。そこが能役者の力量を計れるところで、演者にとっての腕の見せ所ともなります。

私を含めて喜多流の若者が挑んだ『百萬』は、この大事な謡を疎かにしがちなため、最後の盛り上がりが足らず何か薄っぺらな心打たない舞台印象を与えて来ました。私も56歳となり、正直あれで合格か?と言われれば、まだまだ上があるのですが、なにかそれなりの手応えが感じられた、それが嬉しい、これが本音です。


終盤は、ようやく我が子を目の前にする母の百萬ですが、すぐには素直になれない性格のようです。「もっと早く名乗ってくれたら・・・」と愚痴って立ち去ろうとしますが、やはり母親です。気を取り直して我が子をやわらかく抱き、すべて清涼寺のご本尊のお陰と讃え、親子二人で奈良に帰ります。
これらの舞や動きをスムーズに女らしく、母親らしく見せてこそ大人の『百萬』を演じたと言えるのだと思います。


今回使用した面については、百萬は年増の女芸人ですが、あまり生活感のある表情の面では演じたくない、ちょっと艶がある、綺麗な表情の面が使いたいと思い、伯父・新太郎が愛用していた「曲女(しゃくめ)」を選んでみました。「深井」よりも若くみえる面はどこかエロチックな表情で、いつかつけてみたいと思っていた曲見の特殊版で、我が家の名品です。お客さまにも、また楽屋内にも反響がよく、私としては大満足しています。


今回子方を勤めてくれた金子天晟君は小4になりました。月日の経つのは早いもので、ついこの間、『鞍馬天狗』の花見をしていたのに、あっという間に成長されて驚いています。
今回、後見にお祖父様の金子匡一氏、地謡には父親の金子敬一郎氏と三代で、私の『百万』に協力していただき、伝統芸能を守る家、守る人々に、妙に感心してしまいました。
将来の能楽界を展望すると、親子三代という環境にとてもあたたかな気持ちになれて、なんだか本当に百万の母親になったような嬉しい気分になりました。 

(平成24年5月 記)

能『百万』舞台
シテ 粟谷明生 小鼓 曽和正博 大鼓 大倉慶之助       撮影 石田 裕

清涼寺、釈迦堂、百萬供養塔、面「曲女」    
 撮影 粟谷明生

百萬と清涼寺合成写真 
 作成 川畑博哉

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