『昭君』を勤めて 不条理な演出の見直しを

『昭君』を勤めて
ー不条理な演出の見直しをー

粟谷明生



曲名になっている王昭君は、中国四大美人のひとりです。
漢の皇帝は胡国(匈奴 現・モンゴル)との和睦の条件として、胡国の韓耶将(かんやしょう)のもとへ宮女をひとり差し出すことを了承します。

その宮女の選出がふるっています。絵描きの画によって、三千人いる宮女の中から一番劣れる容色の者を、皇帝が選び出し決めることにしたのです。美貌に自信のない宮女達は絵描き師に賄賂を渡し、美しく描いてもらいましたが、美貌に自信があった王昭君は賄賂を渡さなかったので絵描き師はわざと醜女に描きました。そのため帝は醜女と思われる昭君を選んでしまいます。

さて胡国へ旅立つ日、昭君が帝に拝謁すると、その美しさに帝は驚き悔やみます。しかし君子に私の言葉なし(私心なし)と諦め、韓耶将の元へ送るのでした。後日、帝は似せ絵を描いた絵描き師をすべて処刑したと言われています。

能の『昭君』はしかし、その美人の昭君が主役ではありません。愛娘を遠い異国の僻地に嫁がせる境遇になった老父母の悲しみの心境を描いています。美人の昭君役を幼い子方に演じさせるやり方はいかにも能らしい演出です。
今回は金子天晟君(小学校3年生)が勤めてくれました。


物語は里人(ワキ=大日方寛)が昭君を弔うために、昭君の父母の私宅に出向く由を述べる名乗りからはじまります。続いて昭君の父・白桃(はくどう)(前シテ=粟谷明生)と母・王母(おうぼ)(ツレ=内田成信)の老人夫婦が一声で登場します。愛娘の昭君が胡国に嫁つぐ所以や、胡国への旅行の様子を涙ながらに語ります。



一声から初同前までのシテとツレの連吟は詞章が多く長い時間がかかります。ここはどうしてもだれ気味になり退屈してしまうところです。ここを情景が想像出来るような、説得力のある謡がいかに謡えるか、能役者の力量が試されるところです。今回は内容に沿って謡に緩急を付け、動きも少し加えましたが、ご覧頂いた皆様は如何に思われたでしょうか。

実は今回、謡と装束で、中国の老父らしさを彷彿とさせたい、と考えました。装束については後で述べますが、謡については中国人の会話を聞いていて一つの発見がありました。それは口調の強さです。気持ちが昂ぶり、相手を必死に説得させようとするときの発音の強さ。語気は日本人のものとは大いに違います。



今回、試しに強い口調の発音で、ゴツゴツとした固い感じで謡うように試みました。ヒントとなったのは『昭君』の三個所の秘伝、口伝の謡です。

前シテ「この柳も枯れ候…」の「枯れ」、そして「鏡に映して影を見ん」の「見ん」、後シテでは「韓耶将が幽霊なり」の「なり」です。いずれも強い気持ちを、調子の張りで表現します。「なり」は「鬼節(おにぶし)」と呼ばれ、最も甲高い鋭い声を張り上げて夷の大将の威勢をみせる特別な節です。

これらは謡本に特別な謡い方である記載はなく、私たちは先人からの口伝で伝承しています。私は前シテの二個所の強い気持ちを込めた謡が老父の性格を裏づけています。この老父に老いの柔和な感じは不似合いです。気の強い性格の老人を演じ切るように心掛けました。それが出来たかどうかは別として、この取り組み方に間違いはないと自信はあります。面も性格の強さに合った、特に強めの野卑な表情の三光尉を選びました。



老人夫婦はしきりと柳の木陰を清め、自らの心を慰めています。この柳は娘の昭君が胡国に送られるとき、自分が死んだらこの柳も枯れるでしょうと言って植えた形見の木。最近枯れはじめたので老父は悲しんでいます。

この柳は物語の重要な役割を担っています。しかし、現行の喜多流の『昭君』では柳の木はありません。シテもワキもあたかも柳が有るかのように会話しますが、実際に柳は舞台に存在しないので、能をご覧になる方は、本舞台正面先に柳の木があると想像しなければなりません。

能は想像の世界と言われていますが、度が過ぎます。他流では、このような不親切な現行の演出を見直して、柳の作物を置いたり、柳に鏡を付けるなどの新演出を工夫し、判り易くしています。

例えば、『羽衣』や『松風』は正面先に「松」の作物を出し、三保の松原や須磨の浦の一木の松(ひときのまつ)の情景をシンプルな一本の松で想像させます。効果は抜群です。『昭君』も当然「柳」があるべきですが、ありません。

何故このようになったのでしょうか。私は能役者側の行き過ぎた合理主義が原因だと推察します。猿楽の能が江戸幕府の式楽となり、観る側が大名など謡の詞章がすでに頭に入って内容を予め理解している場合、自ら松を思い描き楽しみたいのかもしれません。

その様な高尚な相手に、わざわざ柳を出す説明的な演出を能役者は故意に避けたのかもしれません。想像にお任せする、という極めて高度な演出を選んだのではないでしょうか。

それが近代まで続いて来たのが悲劇です。今は通用しません。
現代はより判り易い演出が求められていて「柳の木」は当然出るべき小道具だと思います。



老人夫婦が柳の木陰を清め終えると、里人が昭君の弔いのためと訪ねて来ます。老父は弔いの来訪を感謝しますが、心の底では娘の死を認めてはいません。なかなか納得出来ないでいるのです。

東日本大震災で「妻は、父母は、我が子は、まだ見つかりません。しかし…死んだとは思いたくない。納得出来ない…」と嘆かれる被災された方々を思い出します。同じなのです。

ですから、恋しく想う人の姿が鏡に映るという故事を聞くと居ても立ってもいられなくなり、ついに老父は鏡を荒く持ち出し、柳の下に置き鏡に娘の姿を望み号泣するのです。ここの怒りにも似た激しい動きを、老人らしさを忘れずに演じるのが能役者にとって難しいところです。荒くなり過ぎると若さとなり、荒さを怖れると勢いがなくなる、このバランスを保っての演技こそ能らしいところなのです。

最近、能舞台で気になることがあります。
それは中国の話でも、その姿・格好が日本人役とまったく同じであることです。これも、江戸期の能役者の合理主義の影響で、一概に悪いと断定はしませんが、やはり中国は唐っぽく、日本人は日本らしい扮装で想像しやすい環境を創るべきです。



今回、前シテとツレは水衣の上に側次(そばつぎ)を着て、少しでも舞台が中国っぽくなればと試みました。後シテの出立ちは、従来、法被(はっぴ)半切袴(はんぎりはかま)ですが、我が家の伝書に「法被を二つ重ね着し、上の法被を襷に取るも有り」と面白い記載があり、粟谷能夫は以前この扮装で勤めています。

私は、古代武官の礼服で、鎧のイメージも湧く裲襠(りょうとう:打掛け)を着ることで、より胡国の蛮族の大将らしさを出したいと思いました。(裲襠は山中家から拝借しました。)また、「もとゆい更にたまらねば、眞葛(さねかずら)にて結び下げ」の詞章から、伝書の「赤頭を鬘帯にて飾り出るも有り」も試み、赤頭に鬘帯を元結のように結び装飾しました。これは赤頭の後ろ側のため、目立つほどではありませんでしたが、常とは違う異なる雰囲気に気付かれた方は、異国人らしさがお判りになったのではないでしょうか。



これらの工夫は、似合うと賛同のご意見もあれば、首をかしげる方もいらっしゃるかもしれません。ご感想は様々であって良いと思います。

しかし、私は周りや楽屋内の苦笑を怖れて何も挑まないで勤めるよりも、作品を生かすためにいろいろな試みをする能役者を目指します。


今回、頭の毛の色についても、赤頭にするか、黒頭にするかで悩みました。

『昭君』にはどちらが良いのか、どれが似合うのか。

後シテの韓耶将は死霊です。鬼のように見えますが鬼ではありません。
赤頭は畜類系の鬼のイメージが強くなりがちなので、より人間っぽい黒頭がよい、とはじめは思いました。実際、観世流では黒頭が主流のように変わって来ました。しかし、故観世銕之亟(静夫)先生の「赤頭は紅毛人(こうもうじん)のイメージ」、このお言葉が私の赤頭の選択を後押ししました。赤頭について、鬼という一辺倒の発想ではなく、紅毛人、異民族の象徴のようなイメージまでもっていく大きな発想に感服です。もう即座に赤頭と決めました。

また頭の上に載せる冠も同じです。「唐冠(とうかんむり)」は漢民族の象徴のような冠です。胡国の遊牧民族の大将・韓耶将に唐冠は似合わないと否定していました。

しかし「敢えて唐冠を付けることで漢と胡国の和睦を意味するのでは?」と説明を受けると、これもまた納得してしまう私です。従来通り唐冠を着用する根拠が発見出来ました。


面は喜多流の本面といわれる「小ベシミ(こべしみ)」を付けました。面の裏に能静の目利きが記されている歴史ある古面で、前から一度付けたいと思っていた名品です。ただ残念なことに、過去に真っ二つに割れた形跡があり、大胆な修復の跡がある危険な状態の面です。

しかし慎重に気を配り使用して、何事も無く、この面を経験出来たことは、私にとってたいへん貴重な経験で喜びでした。

『昭君』の中入りは早装束(はやしょうぞく)です。前場と後場の間に間狂言がないので(注・大蔵流山本家にはシテの所望によりアイが出る場合もある)、前シテは中入りしたら、ワキの退場、子方の登場という短い時間に着替えなければなりません。予め装束に仕掛けを施し、付ける者も着せられ者にも手際のよさ、要領のよさが求められます。

今回は、着附をして下さった狩野了一氏、佐々木多門氏、そして後見の内田安信氏の手際よいご協力のお陰と感謝しています。あっという間に短時間で着替えられたのは、念入りな事前の仕掛けのお陰ですが、そのために演者は出番の前に一度装束を着なければならず、体力的に消耗し疲労するのは目に見えています。

しかしそこは我慢で、より綺麗な着附で出たいという気持ちが優先されます。仕込み作業のたいへんさを痛感しながらも、効果を優先したいのです。


この能は、本来は前シテがそのまま舞台に居残り、韓耶将役は別人が勤めるのが自然です。現行の演出では、柳の木を鏡に映せば昭君が鏡に現れると聞くと老父は鏡を持ち出し映らぬ鏡に向かって泣き伏し、そのまま中入りして早替りし、後シテの韓耶将役を演じます。これはシテ一人に演出を集約する江戸期の手法の名残でしょうが理屈に合いません。また、一曲の最後は、昭君の美しさを讃える部分ですから、当然子方の昭君に脚光があたり昭君が舞うのが筋で当たり前ですが、現行は韓耶将が昭君の代わりに舞うというちぐはぐな演出になっています。


観世流の方々の中には、この従来のまずい演出を見直し、理にかなった本来あるべき姿に戻す作業をなさっている方があります。古典を現代に合った演出にして、また本来あるべき形が良ければそこに戻すことは、現代能役者の仕事であり使命だと思います。

喜多流も積極的な対応をすべき時期が来ていると思うのですが、しかし反面、喜多流自主公演だからこそ、不備でも現行のスタイルが見られることを期待する観客もおられる、それも現実です。

今回は不条理でも従来通りの型付けで勤めましたが、柳の作物を出し、韓耶将は別人が勤め、終曲の昭君の舞は子方が舞うという、ごくあたりまえの新演出の発掘作業が早く起こればよいと願っています。

(平成23年6月26日 喜多流自主公演にて)

写真提供  撮影 石田裕
1,後シテ 粟谷明生
2,子方 金子天晟 小鼓 曽和正博
3,橋掛にて 左 シテ 粟谷明生 右 ツレ 内田成信
4,前シテ 粟谷明生
5,前シテ 掃く型 粟谷明生
6,鏡を持ち出す型 粟谷明生
7,ツレと
8,赤頭に鬘帯 楽屋にて 撮影 粟谷明生
9,後シテ 橋掛にて
10.後シテ 鏡台の前にて
11,後シテ 飛び安座
12,後シテ

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