伊東近郊の謡蹟

平成21年7月恒例の「ゆかた会」は伊東温泉・ホテル聚楽で行われました。
下準備のために前日入りした私たちは伊東近辺の謡蹟や名所旧跡を訪ねて来ました。
伊東市は日本三大仇討ちの一つ、曽我物語のゆかりの地です。
曽我物語は、従兄弟の伊東祐親に所領を奪われたことを恨んだ工藤祐経が腹心の大見小藤太(おうみことうた)と八幡三郎(はつまさぶろう)に伊東祐親の命を狙わせたのが事件の発端です。
大見と八幡は赤沢の椎の木三本の地に隠れ、祐親を狙い矢を放ちますが、遠矢は長男の河津三郎祐泰に当たり祐泰は討死にします。その後、大見と八幡の二人は祐泰の弟、祐清に討たれますが、祐泰の二人の遺児は工藤祐経に対して恨みが残りました。二人の母、満江御前は親戚の曽我家に嫁ぎ、兄弟は曽我を名乗ります。成人後、兄弟は冨士の巻き狩の夜、夜討をかけて念願の父の敵・祐経を斬り本望を遂げます。しかし兄の十郎祐成は仁田忠常に討たれ、弟の五郎時致は生け捕られます。頼朝は命を助けようとしましたが、祐経の子、祐時の歎願により斬首されます。
(参考・ふるさとコミック伊東むかし物語)
さて、いつものようにタクシーを借り切り見物しました。
音無神社―葛見神社の楠―東林寺―伊東祐親の墓―物見塚公園―赤沢の血塚―わさび筏場―萬城の滝―大見小藤太館址実成寺―大見小藤太の墓―曽我物語発祥の碑相撲場跡
では写真をご覧下さい。

音無神社
頼朝と八重姫(伊東祐親の娘)が恋の逢瀬を楽しんだ神社です。二人には千鶴丸が生まれています。 伊東市音無町1-13
葛見神社 葛見の庄の初代地頭・伊東家次(別名・工藤祐隆 伊東祐親の祖父)が守護神として社殿を造営した神社です。本殿の左には樹齢1100年の立派な樟(クスノキ)があります。
伊東市馬場町1-16-40
東林寺
開祖は伊東祐親公。我が子河津三郎祐泰の菩提を弔うために仏門に入り、東林院殿寂心入道と称しました。この寺はその法名に因んで東林寺となりました。伊東市馬場町2-2
河津三郎祐泰の墓
祐泰は相撲四十八手の一つ「河津がけ」の名を残す剛力の武将で相撲の名人としても有名になりました。
隣に子どもの曽我兄弟の首塚があります。東林寺の左手に参道があり急な登り坂を3、4分歩くと三人の墓があります。
曽我十郎祐成の首塚
兄が十郎で弟が五郎になったのは、十郎が伊東九郎祐清を頼り、五郎が北条四郎時政を頼ったため。
曽我五郎の首塚
捕らえられた五郎は祐経の遺児・犬房丸(後の工藤祐時)に斬首されます
伊東祐親の墓
河津三郎祐泰の父、頼朝挙兵後、伊東家は平家方へ、工藤家は源氏方へ従い、伊東祐親は平家方につき最後は自害しています。伊東市大原町
伊東祐親の銅像
銅像は伊東祐親の館址と言われている物見塚公園にあります。公園の隣は伊東市役所ですが、近代的な建物に驚かされます。
河津三郎血塚(上から)
旧国道には「血塚」の標識がありますが、その後別荘地を通り、車を止め、さらに徒歩2分ほどで血塚にたどりつきます。ここが祐泰が落命したところです。
河津三郎血塚(前より)
伊東家が供養のために積石塚と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を作ったと言われています。宝篋印塔は南北朝の時代のものと推測されます。ここは伊東市指定の文化財になっていて昼でも暗いところです。墓の前の道はよく整備され、江戸幕末のころ役人が江戸と下田をしきりに行き来した旧道下田街道の名残です。 
筏場のわさび田
総面積14.7ヘクタール、棚田の枚数1500枚で、戦国時代の落人がここを開拓したと言われています。
萬城の滝
以前は滝の裏側も通れたといいますが、今は通れません。
わさびの大見屋
タクシー運転手の丸山さんも大見小藤太の墓が判らず、大見屋さんでお勤めの女性の方に聞くと、「子どもの頃、あの辺で遊んでいて、確かあったと思う~」と教えて下さいました。ここのわさびはやはり新鮮でおいしい。
実成寺(じつじょうじ)
大見小藤太の館址と言われ、以前は実相寺と言っていました。中伊豆柳瀬
来宮神社
八幡三郎館跡と言われる八幡来宮神社ですが、今はなんとも静かなところです。田方郡中伊豆町八幡(はつま) 
大見小藤太成家の墓
大見小藤太は八幡三郎とともに河津三郎祐泰を射止めたあと、祐泰の弟、祐清の軍勢に攻められ討ち死にしました。
この場所は大見屋さんの店員さんの言葉を頼りに探すこと2、30分、やっとのことでタクシー運転手の丸山さんが見つけて下さいました。戦没者慰霊碑の隣に小さな墓石があり、「あ!あった!」と見つけた途端、全員で叫んでしまいました。
大見小藤太成家の墓
大見川の川岸で討たれ、ここ馬場沢に葬られました。
奥野相撲場跡
伊東祐親が奥野の地で数日間巻き狩をしたときに、余興として相撲が始まり、俣野五郎景久が数十番勝ち、土肥實平を挑発すると烏帽子親を侮辱されたと祐泰が挑みました。祐泰が俣野を倒すと、木に躓いたからだ、もう一番と言われ、もう一度取り組むこととなりますが、今度は軽々と持ち上げて勝ったということです。このときの相撲の手技が、河津がけと呼ばれる相撲の四十八手の一つです。以前、相撲場があったところは、ダム建設により集落がなくなってしまい、跡が残るばかりです。
松川湖のモニュメント
松川公園の梅林近くにあります。伊東祐親がここで巻き狩が行われなければ、息子の祐泰は殺されなかったかもしれず、また曽我物語もなかったかもしれません。
モニュメントの前で
ちょっと真似てみましたが…。
タクシー運転手の丸山進さんと。
丸山さんはモニュメントの場所もお友達に聞いて、教えて下さいました。
とても親切で、楽しい一日が過ごせました。