『安宅』 延年之舞について

『安宅』―― 延年之舞について ―――  
粟谷明生


粟谷能の会(平成21年3月1日)で『安宅』を十年ぶりに「延年之舞」の小書を付けて再演しました。
延年之舞とは、延暦寺や興福寺などの大きい寺で大法会の後の余興として、僧侶や稚児が舞ったもので、鎌倉時代には盛んに舞われていました。能の「延年之舞」は常の男舞に特殊な囃子方の手組「延年の手」が入り、それに合わせ喜多流ではシテが特殊な足踏みをする小書です。
この小書はシテ方の五流にあり、各流とも独自の扱い方をしています。
森田光春著「能楽覚え書帖」には「延年の型は、扇を左に取り右袖捲いて飛び上がる延暦寺の型(観世)、ハネ扇して左斜めに少し飛び上がる興福寺の型(金剛)がある」と記載されています。
喜多流の中興の祖、喜多健忘斎は「延年之舞」について、「三段目、数珠扇取リ替エ右廻リ袖ヲ巻処ニテ身入、数珠持チナガラ右手ウツムケ前ヘ突出シ、左手ヲ後ヘ廻シ、アオムケ腰ヘ付ケ左足ヨリ一クサリ拍子踏、マタ左手ウツムケ前へ突出シ・・・・拍子踏ミ夫ヨリ常ノ舞ニナル」と記していますが、現行のように掛け声と共に跳び上がる記載はありません。
いつ、どのような理由で今のような「延年之舞」になったのか、私は疑問を抱くようになりました。
先代・十五世喜多実宗家は掛け声をかけて跳んでいらしたと先輩方のお話ですので、十四世喜多六平太宗家または十二世宗家あたりの発案ではないか、と私は推察します。
現在の喜多流の「延年之舞」は、伝書にある特殊な足拍子を踏むものに、跳ぶ型を加えた形となっているので、「能楽覚え書帖」による系統で分ければ、延暦寺型を取り入れたことになりそうです。
ではこの跳ぶ意味、また特殊な拍子はなにを表しているのか、私は疑問を抱くようになりました。
山中玲子氏はご自身の著「『安宅』の小書・延年之舞の成立経緯」で、観世流も以前は足踏み拍子だけの演出を観世元章あたりの新工夫で跳ぶ型を導入したのでは・・・と記されています。徳田隣忠著「隣忠集」には、跳ぶ動作は「延年之舞ハ法会ニ児等ノ舞コト也。
其舞ニ両手ヲ肩ヘ打掛、両ヘ飛事アリ」と記されていますが、跳ぶ理由は記載されていません。


観世流が三回跳ぶところを、喜多流は一回だけで、「エイ!」と掛け声と共に高く跳びますが、実はそのことよりもその後の独特な抜き足のような足踏みの拍子を大事にしているのが喜多流の特徴なのです。
笛の譜と囃子方の掛け声に合わせて、五つ拍子、四つ拍子、三つ拍子と順番に踏みます。型は片手を腰に当て、もう一方の手で大地を抑えるような動きとなりますが、これも伝書には何を表しているのかは記載されていません。
いろいろ説はありますが、跳ぶことと関連して、やはり『翁』の三番叟の影響は大きいと思います。揉みの段や鈴の段の型を踏襲して、足踏みは大地を整地する心、手の動きは鈴の段の種まきの風情を真似ている、この説が今、最有力ではないかと思います。『安宅』の延年之舞は寺院の行事でありながら、翁の神事にも通じる、この両者の重なり具合が延年之舞を余計に興味深く面白くさせているのかもしれません。もっとも、延年をする衆徒が法会の間の場を取り持つ動きの一つとして、滑稽な動きを見せ観衆や聴衆の人目を引いたということも捨てがたい説ではあります。
 演能後、弟子の宮地啓二氏に資料集めを依頼したところ、寛永寺・土谷慈得氏のご協力により、日光山・輪王寺や平泉・毛越寺からの資料を入手することができました。現在、寺院で「延年之舞」が舞われるのは、この二寺だけです。その資料によると、喜多流の「抜く足拍子」は毛越寺の老女の舞の腰を屈めた姿に似ています。腰を屈め、鈴を鳴らす動作は、田畑への種まきを表しているようです。(くわしくは、演能レポートの追加編「延年之舞の疑問点を解明」をご覧ください。)


 このようなことは演能後に分かってきたことですが、実は舞台で弁慶を演じているときの私の心の内側は、型の意味合いよりは、窮地に立たされた弁慶がどのように義経一行を逃すか思案する時間稼ぎ、または、三塔(比叡山)の遊僧として昔手慣れた動きがふと自然に顕れてしまった、といった解釈になっていたのが正直なところです。
『安宅』「延年之舞」を勤めるにあたってもう一つ気になったことがありました。それは「延年之舞」自体が、囃子方との約束事を重視した囃子の面白さだけに焦点を当て、物語の展開という本筋から少々はずれた演出になっているのではないかということで、私にはそう思えて仕方ありませんでした。
招かざる関守の前で舞を舞うことになった弁慶。しかし一刻も早くこの場から退出したい心持ちのはずです。ところが、延年之舞は「延年掛(えんねんかかり)」となり、通常より一クサリ長く伸びて、仰々しいシテの達拝が導入されます。囃子方の強くゆったりとした掛け声は神聖感が漂い悪くはありませんが、どうもこの達拝が不似合いです。早くどうにかして退出したい弁慶の心持ちを最大限に活かし、観客の心にも強くアピールする、『安宅』という物語に似合った演出はないものか、と考えました。そのとき、山中氏の『安宅』が創られた当初は破掛り(はがかり)で行われていたという記載が目にとまり、私の背中を押してくれました。そして、我が家の堀池家の伝書に「瀧流之掛(たきながしのかかり)」は破掛りと記されているのを見つけました。~「鳴るは瀧の水」と謡い直ぐにサシ・男舞・破掛~とあります。これが私の演じたい気持ちに似合うと思い、今回の試演となりました。


お囃子方(笛・松田弘之 小鼓・鵜澤洋太郎 大鼓・柿原弘和)のご協力を得て、堀池家の書き付けを配り、それを頼りに全員で新たな演出を考え試演しました。
安宅の関を通り、一安心していた処に、酒を持参して乗り込んでくる関守、しかし無碍に断ることも出来ない弁慶の心。兎に角、ひとまず飲んで座を持ち、一行をうまく早く奥州へ逃がす気持ちを観客に伝える、そのためにはどうしたらよいか?と囃子方に説明しました。そこで「落ちて巌に響くこそ」の「響く」で笛のヒシギに合わせてシテは足拍子を踏み、瀧を見上げ、落ちる水を見回しながら、「鳴るは瀧の水」と謡い、しぶしぶと舞に入る段取りにしました。瀧の水音は小鼓の乙流し(ポンポンと同じ拍子で打つ)の連打で表現し、弁慶の気持ちが乗らない心は大鼓の中々打ち出さない技法で表現してみることにしました。
ご感想などがあれば、忌憚なくお聞かせいただきたいと思っています。

今回のこの新しい演出、「目先の目新しいことばかりして・・・・従来通りに伝承を守るのが第一・・・」とのご批判もあるかもしれません。が、しかし、これは物語重視の思考の上でのことです。能役者・粟谷明生が能の台本を読み込み何を表現するか、何を伝え得るか、そこが大事でそれを蔑ろにする能役者人生は送りたくないのです。能役者の個性が舞台に表れてこそ、その演者の能になる。それがよい能となるかどうかの決め手、そう信じたいのです。書き付けを元にその先を読み込み演出に工夫をする、舞台を勤める演者たちの大事な作業であると思います。今回、この作業を囃子方の面々と共に真摯に楽しくできたこと、その充実感を、今堪能しています。

小書「延年之舞」には、狂言方の小書「貝立(かいだて)」が付き物です。
「貝立」は、アイ(強力)が関の様子を報告した後に、再度橋掛りに立って「ズーワイ、ズーワイ」とほら貝を吹いて出立を知らせる小書です。今回は野村萬斎氏がアイを勤めてくれましたが、申合後に「どんな感じで吹いたらいいでしょうか。シテの謡い方によって貝の吹き方が違ってきます」と言われました。どういうことかというと、「さあらば御立ちあろうずるにて候(さあ、出発しましょう)」と、弁慶が義経に告げる、その謡う心持ちによって、「ズーワイ」の吹き方も違う、というのです。勢いよく「さあ、行こう!」という明るい陽の謡い方なら、陽の吹き方になり、「大変だけれど、身を引き締めて参りましょう」という暗い陰の謡い方なら、陰の吹き方にと、吹き方はシテの謡い方に合わせるということです。私が後者の陰のやり方で謡う、と伝えると、萬斎氏は「ではそのように吹きましょう」と快く対応してくれました。
このようにちょっとしたこまかな言葉のニュアンスまでも配慮して舞台をつくる、当然のことなのですが、こうしたことがよい舞台作りには不可欠な作業だと改めて思い、当日はより新鮮な気持ちで舞台へ出られました。『安宅』の最後の場面では、シテが強力に笈をもって先に行けと合図し、それをうけてアイは笈を素早く肩にかけ、さーっと走り込みます。私の思い通りの、素早いながらも綺麗な型として萬斎氏が勤めて下さったことに、私は感謝しています。

今回のレポートは「延年之舞」の小書を中心にまとめました。このように書いてくると、延年之舞ばかりを考えていたように思われそうですが、決してそうではありません。
重ねて言いますが、小書の「延年之舞」は重い位の習です。もちろん大事にしなくてはいけませんが、『安宅』という能を演じるとき最も忘れてはいけないことは、物語の展開の面白さをきちっと伝えることです。現在物と呼ばれる曲は、お芝居にならずに能の手法の内側ギリギリで、いかに表現できるかにかかっています。私は幽玄物と現在物とを意識して演じ分けています。

『安宅』では、シテや子方と立衆全員から関を突破する意気込みが感じられなくては、観ていて面白くありません。そのためには各役者がそれぞれ謡い方に緻密な緩急をつけ、ひとつひとつの所作も冷静と興奮というような動と静が繰り広げられ、心の陰陽が彷彿されるように心掛け、観客の心を引きつけなくてはいけないと思います。それをしないと観客の心は醒めてしまうでしょう。能は伝統的な様式美によって表現されるものです。しかし、その言葉に甘え過ぎる危険が能役者には付きまとうようです。私は現在物に取り組む時、常にその危険な落とし穴を意識していたいと思っています。

たとえば、強力に身をやつした義経が疑われた後、郎党が一気に立ち上がり、刀に手をかけ一触即発、弁慶が郎党を押しとどめ、シテ方とワキ方の「押し合い」となる場面があります。ここでいつも気になることがありました。それは富樫に迫るとき、七人~九人の演者がまるで満員電車に乗っているかのように身体をすりつけ窮屈なさまを舞台中央で展開します。あの三間四方のなかで、肩と肩、体が触れ合うことで緊迫感が出せる一面もありますが、一方でもう少しそれぞれの役者が離れていても富樫への闘志が表現出来るのでないか、その方がお能らしいのでは・・・。全員が型として押されれば下がる、下がれば押し返すという動きができないものか、と提唱しました。前の人にぶつかりながら下がる、後ろの人に押されながら出るという身体同士の触れ合う感覚ではない、離れていても様式を整えた型としての動きです。それでいて、全員がまっすぐに富樫を見据え、一歩も引き下がらないという気持ちで・・・・。芝居心を持つ能役者の動きを能の様式美として観ていただく、能の表現ギリギリのところで演じ力強さも出せれば、それが私の理想です。
シテだけではなく、郎党たち(シテツレ)、富樫と太刀持ち(ワキ方・狂言方)、すべてがこの『安宅』という物語、能を創り出すための意識を上げる、今回、それの手応えが私には感じられて嬉しく思っています。


謡については、最初の道行の謡と、弁慶の勧進帳を読む謡が、聞かせどころです。
道行の謡は特に力強くノリよく謡いたいところです。ダラダラ謡っていては緊迫感が生まれません。ある能楽評論家が「落ちていく義経一行の姿と喜多流の力強い謡とは似合わない」と評したそうですが、私はそうは思いません。なぜなら、落人だからといって弱々しく謡っては、またいつか再興を、と志す武士団の強い気運がでないからです。もちろん強い声と乱暴な大声を取り違えてはいけませんが、私が子方時代に聞いた諸先輩の道行は物凄い迫力で子供ながらにぞくぞく興奮するものでした。私はその時の記憶をもとに今回の立衆にも同じように強さをもって、と強調し協力してもらいました。

弁慶の勧進帳の読み上げは、節扱いも拍子のあたりも難しく囃子方との呼吸で謡う特殊な謡で最大の聞かせどころです。囃子方との呼吸は、ただ拍子に合わせて謡うだけではなく、ここでもやはり、『安宅』という物語を意識しての演じ方が必要です。富樫に勧進帳を読めと言われて、そのようなものはもともとないわけです。空白の巻物を取り出して、本当に困って、しぶしぶ、しかしそれらしくどのように読むか、苦心の心持ちが聞かせどころです。最初はしぶしぶ読んでいるものが、そのうちだんだん流暢になって言葉が溢れてくるようなスピード感、ノリのよさが大事です。最後は「天も響けと、読み上げたり」と高らかに宣言するのですから、本当に見所の奥まで響き渡るほどの大音声で謡わなければ説得力に欠けます。囃子の拍子あたりだけに満足しない、謡本の詞章を読み上げることに意識を高めてこそ、本当の勧進帳が成立すると思うようになりました。それを観客は楽しみにしているということを、遅まきながら最近判るようになったのです。


能『安宅』では、安宅の関を通ったのは、弁慶一党の信仰の力、仏の力で通ったのだという描き方です。歌舞伎の『勧進帳』は、富樫が義経一行だと分かりながら、武士の情で通したという描き方になっていますが、これとは全く違います。能の富樫の心の中ではそれまで何人もの山伏を殺していて、仏罰が落ちるのではないかといった恐怖心があったと思います。それは富樫本人だけではなく家族や親族、何代にもわたるのでは、との怖れです。だからもし、この一行が本当の山伏なら、殺してしまってはたいへんなことになる。弁慶たちは富樫にそういう恐れを持たせ、安宅の関を突破しなければならないのです。子方のとき、なぜまた富樫が戻って来るのか、なぜ弁慶は招き入れるのかと不思議に思っていましたが、富樫が本当の山伏だと思ったからこそ、これまでの非礼をわびる意味で酒を持参してやってくるのであり、弁慶らはそれを平然と招き入れなければならない。史実とは違うのかもしれませんが、能はそのように描き、その緊迫感を能役者に求めていると私は解釈しています。

『安宅』は現在能、夢幻能とは違います。三番目物のようなしっとりした能の世界とは全く違うこのような現在能が、芝居としての面白さを持ちながら、能の枠組みを超えず、能として多くの人に支持され、今も人気曲として伝わっています。

今回も能の幅広さ、懐の深さを感じ、これからも多様な能に挑戦し続け、様々な試みも手がけていきたいと思いました。

能楽師人生も様々です。私は私なりの道を歩んでいく覚悟はありますが、正直なところ不安もあります。このような演出でよいのか、もっと違う考え方があるかもしれない・・・などと。先輩はじめ多くの人に忌憚のないご意見をいただき、それを自分のなかで咀嚼して次の演能にも活かしていきたい。今回のように、囃子方や狂言方、ワキ方、郎党を勤めてくれた喜多流の若い人たち、みんなと創り上げていくことの面白さ、素晴らしさを満喫しながら更なる能の世界の追及をしていきたい、そう思っています。

生意気かもしれません、考え過ぎるなとも言われそうですが、「い~や、それでいいんだ!」という弁慶の声が、私には聞えてならないのです。
                      (平成21年3月 記)
写真
1・2・3・4 撮影・吉越 研
5・6・7   撮影・あびこ喜久三

シテ 粟谷明生
ワキ 森 常好
強力 野村萬斎
立衆 狩野了一・内田成信・佐々木多門・大島輝久・塩津圭介・佐藤寛泰・友枝雄人

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