『張良』を勤めて ー中国の題材に相応しい演出ー


平成20年12月の喜多流自主公演で『張良』を勤めました。
『張良』は漢の高祖(劉邦)に仕えた若き日の張良が黄石公(こうせきこう)の試練に耐え、兵法の秘伝を伝授される話です。この張良の忠義心は鞍馬山の大天狗が牛若丸に兵法を伝える『鞍馬天狗』の一場面にも謡われています。老人の黄石公は若者の張良に何度も沓を拾わせ、その忠義心を試しますが、その模様を作品化したのが観世小次郎信光(音阿弥の第七子)作の『張良』です。

信光は『船弁慶』『紅葉狩』『龍虎』『羅生門』など、それまでにはなかったワキが活躍する劇的で動きのある能を数多く創りました。信光は大鼓の上手でもあったようで、『船弁慶』の間狂言の波頭(なみがしら=荒れる海を表現する手組)を創案し、音楽的に新たな工夫を残した能役者です。喜多流には生憎ありませんが、『胡蝶』や『吉野天人』なども創り、また晩年には老木の柳をテーマにした『遊行柳』も創りと、その幅広い作風は観阿弥や世阿弥そして金春禅竹とはまた別な新たな能の世界を作り出し、その作品が今日でも上演され続けているということは、その優秀さを立証していると思います。

ではまず、『張良』のあらすじをご紹介します。
張良はある夜、老人が沓を落としたので履かせると、五日目にまたここに来れば兵法の奥義を伝授すると言われる夢をみます。夢のこととは思いながらも、五日後に出向くと老人はすでに待っていて遅参に怒り、さらに五日後に来いと言い捨てて消え失せます。
そして五日後、今度は早暁に出向くと、老人はまだ到着しておらず、そこへ黄石公と名乗る老人が馬に乗って現れて、履いていた沓を川へ落とし、再度、張良の心を試します。
張良は沓を拾おうと川に飛び込みますが、激流に阻まれなかなか取れないでいると、龍神が現れ沓を取り上げてしまいます。しかし張良は剣を抜いて龍神を威嚇し沓を取り返し、川よりはい上がって黄石公に沓を履かせます。黄石公は喜び、張良に兵巻物を与え兵法を伝授します。龍神は実は黄石公の分身で、これからは張良の守護神となると約束して川へ消え、また黄石公も高い山へと消えて行きます。
以上があらすじです。

能は史実と異なることがたびたびあります。
この『張良』の場合も同様で、ワキの名乗りで「漢の高祖に仕える・・」と語りますが、実は兵法を伝授された時点では、まだ張良は劉邦には出会っていません。
ここで張良なる人物を大まかにご紹介します。

張良は戦国時代(紀元前475年?221年)の韓の宰相たる名門の出身で、この韓は秦により滅ぼされますが、その時のことが張良の秦に対する復讐心と祖国再興への思いを強くさせます。旅行好きの秦の始皇帝が陽武(ようぶ)に来たとき、張良は暗殺を試みますが、幸か不幸かこれは失敗に終わります。これ以後、逃亡生活を送り、下邳(かひ)での沓の話はこの時のことです。やがて劉邦と出会い自分が仕えるに足る人物と見込み、配下となります。項羽と劉邦で有名な「鴻門の会」では、劉邦の危機を張良の冷静な計らいで乗り越え、最後は項羽を烏合にて自害へと追い込むのも張良の策略だといわれています。漢帝国建国に尽力した張良ですが、実は生来虚弱多病で身体も小柄であったというのは意外でした。

さて話を能に戻します。
歴史がどうあれ、舞台鑑賞の観点からすると、逃亡生活中で風来坊の青年張良より、劉邦に仕える、身分ある、位ある者の忠義心の方が映りはよく、そのように設定したのは信光の工夫だと思われます。
能『張良』は、この張良役をワキが勤め、特にワキの重い習とされ大事に扱われています。今回私が『張良』を勤めることになり、ワキをどなたにと考えた時に、出来ればまだ披らかれていない若い方のチャンスになればと思い、宝生欣哉氏にご相談して、大日方寛氏にお願いすることとなりました。
ワキが重い位になるのは、ワキの型どころが多いことによります。特に重要な型所は川に落ちた沓を取ろうとする場面で、見せ場になっています。一畳台に飛び上がると、直ぐに川に飛び込む心持ちで飛び降り、急流に流されながらも沓を取ろうとする有様を、特有の流れ足と身体の反り返りと回転で演じます。これはなかなか特異な動きで、ワキの唐冠に捲かれた赤い色鉢巻きが床につくくらいに反り返れ、というのが心得と聞いています。

この見どころ、実は私はその場に居ても面を掛けているので残念ながらよく見えません。後日、大日方さんのその俊敏な流れ足とスピード感溢れる動き、若き勇士の威風ぶりを、映像を通してですが、見ることが出来ました。
この若さ、俊敏さを際だたせるために、シテを動きの少ない老人という対照的な設定にする、このことを作者は意図的に考えたのではと思います。

今回『張良』を演じるにあたり、シテ方にはあまり手柄もなく、特にどうのということはないので、稽古をしていても少々消化不良、物足りなさを感じてしまうのが正直なところです。しかしシテを勤めるからには、シテの心得を外さないで勤めるべきで、それは、ただただ黄石公のどっしりとした貫禄とスケールの大きさを演じきる、この一言に尽きると思います。ご覧になられて、さしたる動きが無く、簡単で楽であると思われるかもしれませんが、自然にどっしりとした貫禄を表現することこそ、能役者の表現力の一つだと思われます。そのために、それなりの技術的な作業が行われているのですが、私としてはそこを見ていただきたい、というのが本音なのです。
貫禄、というもの、これが若年では出来そうで出来ない不思議なものなのです。それが少しわかる年齢になった、ということは自分も既に若者ではないというお墨付きを頂いたような、嬉しいような悲しいような、複雑な私の気持ちです。



今回、私としては、この曲でなければという演出にこだわって、喜多流独自の沓を履く演出はもとより、装束も中国風にと気を遣ってみました。
我が家の伝書に「後シテ鼻瘤悪尉、長範頭巾ノ内ニ垂、狩衣半切・・・沓ハク静成ル早笛橋掛立つ」とあります。
能で沓を履く、しかも歩いて登場することは大変珍しく、これは喜多流のみの演出です。
沓を使用しての演能の歴史は、私の知る限りでは、20年近く前に、京都在住の職分・高林白牛口二氏が沓を購入され、福王茂十郎氏の会の『張良』にて沓を履いて演能されたのが最初です。それ以前は宗家や職分家に履ける沓がなかったためか、従来通り足袋での演能でした。もっとも江戸時代、明治、大正時代の記録を捜した訳ではありませんが、伝書には「沓ハク」とあるので、昔はたぶん履いていたと思われます。当時それを観た観客はもとより、その場に居合わせた能楽師達もみな、屹度その奇抜な演出に目を見張ったことだと推察します。ごく最近では従兄弟の能夫が高林家の沓を拝借して粟谷能の会にて『張良』を勤め、また『大会』でも同じ沓を履いて勤めています。
この沓の形は、現在禅宗のお寺などでは出頭沓と呼ばれているものに近い形です。
沓を履いて運び(歩行)をすると、沓底が固いフェルトで出来ているため、いつものように足裏で舞台を感じる事が出来ず、特に一畳台への乗り降りは危険が伴い、注意が必要です。やりにくい面も多々ありましたが、流儀にしかない稀な演出であり、今回は観客の目を引く演出として、敢えて挑戦してみました。
これは53歳の私の感想ですが、沓を履くという慣れないことは、あまり高齢になってからは危険が伴うので、履かない方がいいのではないか、履くとしたら何度も履いて慣れるようになしなければ、とここに記しておきます。



そして、中国風の装束選びは観世銕之丞氏のご協力を得て、前シテには尉髪の上に淵明頭巾をつけ、後シテは長範頭巾に替えて唐帽子に白垂とし、狩衣の上から裲襠(りょうとう=中国風のチョッキのようなもの)を着ることにしました。これによって中国らしい、異国風な情緒を出してみました。
前シテの装束は通常、神能の『養老』や『烏頭』の前シテの尉と変わりません。日本人と中国人が全く同じ格好である、そこに違和感を持ちました。お狂言方も中国物にはそれに似合った装束を着用しているのですから、シテ方がその工夫をしないでいるというのは、少しサービス精神に欠けている、というか無頓着過ぎるように思いはじめました。
中国が舞台の話を、日本人と同じ装束でこなしてきた歴史には訳があります。
昔、猿楽師が旅役者として少ない装束で、何の曲にでも対応出来るようにと装束を選び、持ち運びを工夫してきました。しかしそれは過去の話であって、現代それに甘えているのはどうも、私としては性分に合わないのです。
過去の歴史や資料は大事にしたいと思いますが、今の時代は、もっと観客の立場に立って考え、異国物にはそれなりの、想像しやすい環境作りが必須だと思います。私はその一つとして装束選びは重要なポイントであり、演じる立場がいつも心掛けなければいけない事だと思っています。



淵明頭巾の着用は喜多流では初めての試みでした。淵明頭巾という名前も知らない、付け方も判らない状態でしたので、観世流・銕仙会の方々に教えていただきました。
装束付けは狩野了一氏と佐々木多門氏、その他の方々にもいろいろとご意見やお知恵を拝借しながらの出来映えとなりましたが、私の我が儘を皆様が助けて下さって、いろいろとご苦労をお掛けしたこと、ここで皆様にお礼を申し上げます。

面についても触れておきます。
伝書に面は「鼻瘤悪尉」と記載れていますが、「上手ニテハ悪尉ベシミ掛ケルモ」とありましたので、今回は思い切って我が家の「大悪尉」を使いました。面の収集に力を注いだ故粟谷新太郎伯父が、この面が手に入ったことを喜び、面をかけたまま寝ていてそれを見た伯母がびっくり仰天した、という曰く付きの「大悪尉」です。迫力ある黄石公に似合っていたと思っています。



次に、沓の演出について記載しておきます。
伝書には、シテが沓を脱いで蹴り落とす、とありますが、今回は敢えて後見に投げていただくことにしました。高林家の沓は頑丈で重いため、シテ自らが蹴った場合近くに落ちる可能性が高いのです。ワキは沓が落ちると、すぐに沓を拾いに激流の中に飛び込み、流れ足や反り返りなど激しい動きのある型どころになりますが、もし沓が舞台の中央辺りに落ちると、動く範囲が狭くなり思う存分に型を演じることができません。
中央やまた別な所に落ちた時のために替えの型はありますが、大日方氏は初演でもあり、そういうわずらわしい思いをさせたくなく、存分に動いてほしいと考えました。後見の方には、沓が舞台から落ちてもかまわないので、出来る限り遠くに投げてくださいとお願いしました。
今回は本当に舞台から落ちてしまいましたが、その場合、龍神が沓を持って登場する方法(替えの型)と、今回のように、早笛と同時に後見が所定の位置に沓を置き、当初の通り、それを龍神が拾うというやり方があります。いずれにしても、落ちたときの用心に沓は3つ用意してあります。
私が聞き慣れた教えは、龍神が抱え持ち出る方法ですが、実は伝書には、その記載はありませんでした。むしろ早笛で堂々と後見が持って出ること、と書かれていました。
私はいざという時、二つのやり方のどちらを選択するかを考えました。そして、龍神が沓を持って出る替えの型よりも、伝書に書かれた方を採用しました。
それはワキ(張良)もシテツレ(龍神)も、沓の落ちどころで、わずらわされることなく、稽古してきた型で存分に演じてほしい、そういう場を設定するのが大夫としてのシテの役割ではないかと思ったからです。沓の処理については賛否両論ありますが、今回は、私はそのような意図で演出しました。

『張良』はワキの重い習いです。重い習いだから特別というわけではありませんが、ワキの型や龍神の型をシテがよく解釈し、深く理解し共に創り上げていかなければならないと思います。ワキの難しい動きをよく理解して、それに合わせるように謡う、ワキの溌剌とした若々しい動きに対してシテはどっしりと構えるなど、今回はとくにワキやツレを意識して勤めました。ワキの大日方さんが、流れ足、反り返り、謡と、難しい型どころ、謡どころを、青年張良らしくさわやかに力強く勤め、よいお披キになりました。私もシテとして微力ながらも力を貸すことができてよかったと思っています。
沓の演出、装束のことなど、一曲を創り上げるためにすみずみまで細かい配慮をする、今回のことは、シテが大夫としてするべきことの勉強であったような気がしています。
 

                    (平成20年12月 記)
写真
(1)『張良』後
シテ 粟谷明生
ワキ 大日方寛
龍神 内田成信
小鼓 成田達志
太鼓 助川 治
後見 金子敬一郎
(2)前シテ 粟谷明生
(3)沓 近影
(4)後シテ 粟谷明生
(5)淵明頭巾を付ける 左内田安信氏と狩野了一氏
(6)大悪尉 粟谷蔵 

(1)(2)(4)あびこ喜久三 撮影 
(3)(6)   粟谷明生   撮影
(5)      佐藤 陽   撮影

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