『三輪』における小書「神遊」の効果

『三輪』における小書「神遊」の効果
女姿の男神

粟谷明生



第82回粟谷能の会 粟谷菊生一周忌追善(平成19年10月14日・於 国立能楽堂)にて『三輪』「神遊」(かみあそび)を披きました。
「神遊」は青年時代から先人たちの舞台を楽屋裏や地謡座から拝見しながら、「いずれ自分もあのような装束で、あのように舞えれば」と憧れた小書です。
『道成寺』を披いてから許される、という流儀内の暗黙の了解事項があるくらい位が高い小書でもあります。

今回の番組を決めたのは二年前、父に地頭を謡ってもらいと考えていましたが、まさかその父の追善でこの大曲を勤めることになろうとは思ってもいませんでした。
能楽師の憧れであるこの大曲を勤められたことを、きっと父は喜んでくれていると思っています。

『三輪』はよく演じられる秋の代表曲です。
私の初演は平成六年(三十九歳)とやや遅いですが、稽古は若いときからでも受けられ、青年の会の番組にもよく載ります。
我々喜多流では先輩方の地謡を謡い、また仕舞や舞囃子の稽古を積みながら理屈抜きの反復による稽古方法で習得してきました。「老いても間違えないでいられるには、若い時分に謡や舞を身体に染みこませておくこと」、父が話していたことが、いま52歳になり舞台への恐怖感を少し覚えるようになって実感しているところです。

しかし単に、体に染みこませ、覚えただけで作品の真意を見据えることを蔑ろにしてはいけない、『三輪』神遊の主旨は何か、また「神遊」とは何か、単に囃子の秘事の解明だけではなく、曲の深層部、真意などを探りたいと思っていました。
今回の演能ではいまの自分の状況を客観視でき、今後の方針も考えるよい機会となりました。

単純にみえて実はかなり混雑したこの物語を理解するために、まず、私なりの解釈であらすじを追ってみたいと思います。

奈良、三輪山麓に庵を結ぶ玄賓という高僧(ワキ)のもとに、三輪の里に住む中年の女(前シテ)が毎日樒と水を供えにやってきます。
女はただ徒に年月日を送った身を嘆き、罪の救いを求めて庵へ通います。
秋の日、いつものように救済を願う女は僧に衣を所望します。
観世流は「夜寒になり候へば」の詞章の通り、寒さから衣を所望するようですが、喜多流は「わらわに御衣を一衣賜り候へ」としか告げないため、私は衣を拝領して弟子になると解釈して演じます。
前シテの女は実は三輪明神の化身ですが、これで神が仏に帰依するという意味あいになり、現代人の我々には一寸しっくりこない複雑な関係で展開されます。

衣をもらった女は帰り際に住み家を尋ねられると、「三輪山の杉の立っている門を訪ねよ」と言って姿を消し中入となります。

里人(アイ)が三輪山に参詣すると御神杉に玄賓の衣が掛かっているのを見つけ僧に知らせます。玄賓は杉に掛かっている衣に金色の文字で記された御神詠を読み上げると、御神杉の陰から三輪明神(後シテ)の「神にも願いがある、人に逢うことは嬉しいこと」と声が聞こえ、シテは烏帽子と狩衣を纏い女姿で現れます。
明神は「神も人間同様に罪を背負っている」と嘆くと、僧は「神は人間を救う為に人間と同じ立場になっているだけですよ」と慰め諭します。すると明神は神代の昔物語として、神婚説話や天の岩戸の神隠れ伝説の神楽を再現して見せ、伊勢の神と三輪の神は本来一つであるが、仏が衆生の為にと仮に別々の姿で現れていると告げると、夜も明けはじめ僧の見ていた夢はそこで醒めます。

『三輪』は三輪明神が男神であるにも関わらず女神として現れます。クセでは古来より三輪山に鎮座する別の祭神、蛇神の神婚説話を取り入れ里の女になりすまし、また天の岩戸の伝説のくだりでは天照大神にも代わります。
単に三輪神社の祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、別名、大己貴神(おおなむちのかみ)という設定だけではない、様々なものが混じりあっています。

この複雑な神の役をどのように演じればいいのか。そんな素朴な疑問を抱いてしまいました。女姿ですから艶やかに、天照大神ならば堂々として、などといろいろ考えますが結局、一能役者の習得した謡と型の美に落ち着くのではないでしょうか。
天照大神また蛇神云々と言っても、型として清麗なもの、神楽を厳かに華麗に舞うことを第一とするしかないようです。
また先人たちもそのように取り組んでこられたのでは、と思いました。

能『三輪』は四番目ものですが、脇能的な要素も多い曲です。宗教的なメッセージを多分に持ちながらも、芸能を観て楽しんでいただくという娯楽的要素が強い能と言えます。
ですから演者は脇能を勤めるときと同様に宗教的な意識は持たず、淡々と落ち度なく、神舞や神楽を舞えればよいのだと、と勤めました。

(神遊について)
次に、今回取り組んだ重い習「神遊」という小書について触れてみます。
この小書は我が家の健忘斎の言葉を書きとどめた寿山の伝書には記載がありません。
つまり九代目古能健忘斎が文政十二年頃に逝去し、十代目寿山盈親は天保二年に没していますので、たぶんそれ以後の演出であると推察されます。我が家の小書伝書には記載されていますので、たぶん十一代古能の子、七大夫長景(嘉永四年没)から十二代能静(明治二年没)までの間に出来たものではないかと推察されますが、確かではありません。

『三輪』には各流独自の重い習の小書があります。観世流では宗家の「誓納」、片山家ご自慢の「白式神神楽」、金剛流では「神道」が演能され、金春流は近年金春信高氏が「三光」を作られています。喜多流の小書は「神遊」と呼ばれ、宝生流のみ小書を持ちませんが、作品の主旨を外したくない意図が強く残った結果かもしれません。

では、喜多流の「神遊」はどのようにして命名されたのでしょうか。
そもそも神遊とは、天照大神の岩戸隠れによりこの世が暗闇となり、それを嘆いた神々が相談し岩戸の前で舞い歌い魂を呼び入れたことをいいます。その鎮魂の奏法全体を表現しようとするのが喜多流の「神遊」です。ですから神々の戯れや歓喜する様すべてを表したいため、巫女的要素を入れず、また天鈿女命(あまのうずめのみこと)の舞であると考えられる御幣や榊などを敢えて持たずに、扇(中啓)で舞い通します。

『三輪』は小書が付くと吉田神道の影響からか、囃子事に関する秘事口伝が加わります。流儀の「神遊」でも、前場はワキ方に音取(笛の独奏)や置鼓(小鼓の独奏)が囃され、シテ方は習次第(ならいのしだい)に三編返(さんべんがえし=次第、地取、次第と繰り返す)と脇能的で儀式的な演出に替わります。

これは得てして楽屋内の約束事に縛られすぎて作品の本位から外れることになりがちです。囃子方の腕自慢とも思われますが、一説には習次第を打つための手馴れとも言われています。今回芸術的な趣向とかけ離れるのを避け、ワキの宝生欣哉氏と御相談して脇方の習の音取や置鼓はやめて、自らも三編返を行なわずに勤めました。

習次第と呼ばれる特殊な次第は、喜多流では老女物の『卒都婆小町』『檜垣』と『道成寺』そして『三輪』「神遊」にのみ囃されます。老女物二曲は老いの位を特に際立たせる演出といえますが、『道成寺』と『三輪』も勿論、位を上げることに変わりはありませんが、両曲に共通する「蛇体」の執心の強調とも神聖視とも捉えられると言われています。観客にはシテの重々しい登場が、あの正体はなんだろうと興味をそそるような雰囲気を持たせます。

昔、観世銕之亟先生(八世静雪)が、「『三輪』の次第は、三輪山への距離感ね。いまのように簡単に楽には行けないんだよ。だって三輪の山本道も無しって謡うだろ? サラサラ出てきたんじゃダメだよ」と仰ってました。いつか自分が演じるときには、と心がけてきた言葉です。幕の内から橋掛り、そして常座まで運ぶこの歩みに思いをこめ、勿論、謡い出しまでの寸法調整や位の確保を熟知していなければ囃子方とうまく咬み合わなくなりますが、そこに単に囃子にあわせるだけではない、役者の思いが感じ取れるようでなければいけないのです。これが至難の業です。

蛇足ですが、『三輪』神遊は『道成寺』を勤めた者に許されると書きましたが、この二曲を同日の番組にするのはあまり良くないといわれています。それは『三輪』での神婚伝説で蛇が出現し、『道成寺』でまた蛇体が登場するので、重なることを嫌う能楽界の慣習から「悪し」と記されています。
実際の舞台では両曲共に習次第になるのを囃子方が嫌うことから来ていると言われています。

装束は通常の長絹が狩衣に変わり、鬘は喝食鬘で結います。この格好では鬘帯を使用しないため、王朝趣味が取り除かれ太古のイメージが膨らみます。三輪明神は男神ですが、女姿に男の烏帽子と狩衣を着るという不思議な取り合わせが魅力的です。

喜多流では小書が付くと位が上がるので装束も同様に袷(あわせ)狩衣になるのが本来です。先人たちは『三輪』神遊、『絵馬』女体、『融』遊曲、曲水之舞などで袷を着ておられ、父もまたそうしていました。しかし伯父新太郎が晩年体力面を配慮して、白地の単衣狩衣で勤めた舞台がありましたが、その姿が美しく印象深く残っています。袷ではがっちりした固い感じになり、単衣独特の織りは華麗で柔らかな優しいラインになります。
いつか自分が演るときは是非単衣でと思っていましたが、幸い近年、袷では位や強さが強調され過ぎて小面に似合わないと敬遠されて単衣の着用が普通になってきたので、今回はその例に従い単衣を着ました。


面については、前場の曲見は常と変わらず、後場は父が生涯愛用した「堰」の小面を使いました。
喜多流は後場では小面が決まりですが、天照大神というスケールの大きな神を、かわいい、愛らしい表情の小面では成立しにくいので、他のものをとも思いましたが、初演であり父の一周忌でもあるので、父が大事にしていた「堰」をつけて手向けようと思いました。
「堰」は父のもの、これからもそっとしておいてあげよう、との思いもありましたが、能夫の「使ってみて今度は明生君の魂を吹き込んでみたら・・・」という言葉に押され使うことにしました。

今回、折角の面が少し照りぎみ(上向き)だったことは悔いが残る反省点でした。作り物の中での作業は懇ろに打ち合わせたつもりでしたが、面のつけ方やウケに関してももう少し配慮したい、烏帽子の紐も少々長すぎたなど反省すべきところは二度と同じことのないようにと、心がけていきたいと思っています。

後場の作り物の中から謡う「ちはやふる・・・」の謡がむずかしいところです。
引廻しがはられた作り物の中で謡うため、声が籠もりがちで聞こえづらくなるので大きな声が必要です。
では大きければいいのかというと、そうではなく、高音で透き通るように張りながらも芯がしっかりしているように謡うのが心得ですがだれもが苦心するところです。
ワキは呼び止められると振り返り、シテとの掛け合いとなります。
地謡の「女姿と三輪の神」で引廻しが下ろされると床几にかけたシテが現れます。仕舞所となるクセの前半はじっくり動かずに床几に掛けたままで、進行を地謡に任せ上羽前の「さすが別れの悲しさに」からシテは作り物から出て舞い始めます。作り物に左袖を掛けたり、留めに足拍子を踏み、「語るにつけて恥ずかしや」と面を隠す型など、「神遊」特有の型となります。そしていよいよロンギから神楽となります。

「神遊」の面白さは神楽の構成にあります。
序は六つと通常より増え、足拍子も常と替わり複雑になります。何故このようになるのか根拠は明らかではありません。

通常の神楽は神楽の部分と神舞(時には中の舞や序の舞)が一体となって構成されていますが、「神遊」は神楽と後半の舞とを分けています。後の神舞を破之舞に替え、短い二段構成とします。神楽が終わると「天の岩戸を引き立てて」のシテ謡になり「人の面、白々と見ゆる」で破之舞となります。

破之舞ははじめを舞台で舞い、途中から橋掛りに行き、二の松で左袖を頭上に担いで岩戸隠れを表す『翁』と同様の型をして、すぐに橋掛りから舞台に戻りはじめます。はじめはゆっくり、徐々に勢いを増して日がさす有様を見せ、本舞台に入ると袖をはねて『翁』の左袖を巻く型となり、神々の歓喜を表して「妙なるはじめの物語」と一段落します。

神楽の譜は笛方の流儀により異なります。一噌流が常の神楽の譜と変わらないのに対して、森田流は「神遊」特有の譜があり、したがって森田流でなくては「神遊」の面白さは半減します。
森田流は序のあとに、ラア、ラア、ラア、ラア、ラア、ラアと長い反復の吹き返しから始まり、二段目に十のユリや七つユリなどの、見ている者も陶酔するような特殊な譜となり雰囲気を盛り上げます。

楽屋内の話ですが、一時森田流寺井政数家では、大小鼓・太鼓と手組が揃わず具合が悪く、いつか改善出来ないものかと思っていました。我が家の伝書は、現在森田流のまとめ役をなさっている杉市和氏の譜と同様なので、この度中谷明氏のご了解を得て、槻宅聡氏には杉家の譜で吹いていただきました。
これで長年のかけ違いが改善されました。

今回、小書「神遊」を調べ、独特な譜や重い習を学び、クセの神婚説話のくだりも改めて読み直し、幼くてはわからない艶やかな内側の部分も知りました。若い時分は門前の小僧習わぬ経を読むように、ただ闇雲に意味もわからず丸暗記するだけでしたが、そこで止まっていた自分に気付き、「神遊」に憧れ始めた時からのことも思い出しました。

演能レポートを書いて十年以上が経ちましたが、演能にあたり資料を調べ、稽古を重ねていくと、次第にその曲の持つ魅力を知り、その作品に引きつけられます。
『野宮』や『井筒』などはもとより、はじめは気乗りのしなかった『千寿』や『盛久』でさえ勤めるとその魅力に惹かれていきます。
これは正直能楽師でしか味わえない喜びです。

『三輪』は魅力ある曲で、且つ憧れる曲ですが、稽古を積めば積むほど、その深さや味わいを知れば知るほど、不思議と演じにくさを覚えました。
禅竹の『野宮』や世阿弥の『井筒』、元雅の『隅田川』、『歌占』など人間の苦悩に焦点を当てたものは、繰り返しの稽古でその演じ方の深みや幅広さを感じ面白さを知りますが、『三輪』はそのようには感じられませんでした。
どうしてなのか?


勝手な私見ですが、「神遊」は破之舞で『翁』の型があるように、『翁』と共通する祭事の儀礼的要素がふんだんに込められ、それが人間の感情的なものを拒んでいるように思えます。女神のような気高さと色模様を含む神話の豊かさ、流麗な型と躍動感あるリズムに酔うこの曲の良さは充分判りながらも、いま一つ踏み越えられないものがあるとしたら、それは人間を扱うものとそうでないものの違いではないでしょうか、それがいまの私の感想です。

『翁』や『高砂』、『絵馬』も同様、祭事としては手応えがある位高い曲です。しかし、私の心に活力や遣り甲斐を持たせてくれるお能は、人間の苦悩や喜びをテーマにしたものなのです。
ですからこれを書きながら心はもう次回の『邯鄲』傘之出に移り初めています。もしかして、もっと年を経て人間の苦悩や喜びを突き抜けて憂き世を達観するほどになればまた違った感想になるのかもしれませんが、今の私がその年々の能を見つめるとき、そんな思いにとらわれているのも事実です。そう思わせてくれたのは『三輪』の神力かもしれません。
                (平成19年10月 記)
写真
『三輪』 シテ 粟谷明生 粟谷能の会 撮影 石田 裕
     シテ 粟谷菊生(モノクロ)撮影 清水 一

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