『盛久』と観世音信仰

『盛久』と観世音信仰
ワキと共に創り上げる舞台
粟谷 明生




喜多流自主公演(平成19年7月22日)にて『盛久』を勤めました。
『盛久』は若過ぎても、また逆にあまり老体でも不似合いです。流儀ではやや重く扱っているためか若手能楽師が青年能などで勤めることはまずありません。演者の適齢期は40代後半から50代のようで、今回私はその時期に演能出来、良い機会となったと思っています。

『盛久』はシテ謡が多く謡っても謡っても終わらず、謡・言葉の多さが演者にとってプレッシャーの一つとなっています。喜多流では、若い時に能『盛久』の稽古を受けることが少なく、先輩方が演じられるのをつぶさに見て勉強するという環境もないので、楽屋内では遠い曲、やりにくい曲としてやや敬遠されているのが実状です。

まず簡単に、あらすじを記しておきます。
平家の侍、主馬判官盛久は捕らわれ鎌倉に護送されます。前場は京都から鎌倉までの道行を名文で綴り、鎌倉で幽閉された盛久は流転の身を嘆き、死を願います。処刑される前に観音経を読み上げ、仮寝した盛久は夢を見て観音の告げを受けます。
いよいよ処刑の時が来ると刑場の由比ヶ浜へと移ります。太刀取が太刀を振り上げると経巻から発する光に目がくらみ太刀を落としてしまい、太刀は二つに折れます。

後場は、このことを聞いた頼朝が盛久を呼び自分の見た夢と盛久の夢が同じであることを確かめます。
夢の一致に奇特を思った頼朝は盛久を助命し盃を与え、舞の達人と呼ばれた盛久の舞を所望します。
盛久は頼朝を寿ぎ、我が身の喜びも添えて舞を舞いますが、舞い終えると急ぎ御前を退出して帰京します。
この場面展開が多い曲を他の演劇のように幕間(まくあい)を作らず、主にシテ(平盛久)とワキ(土屋某)の二人の謡や動きと地謡で話を進めます。
また、後場の頼朝邸では頼朝の存在なしで、これもシテとワキが創り上げていきます。
作者は『歌占』『隅田川』『弱法師』などの名作を手がけた観世十郎元雅です。世阿弥が「子ながらも類なき達人」と讃えたほどの人物です。
主人公の心の動きを、この場面展開や歌舞によって巧みに描きながらも、背後に大きなテーマを感じさせる曲作りは元雅らしいと思います。

この能はワキ役が大事で、シテとワキの息のあった舞台運びが必須です。元雅により巧みに作られたこの曲はワキに恵まれなければ成立しません。
今回、その重要な役を旧友の森常好氏にお願いし、『盛久』を演じる上で大きな助け・力となりました。
ワキ役は年齢に関係なく舞台では超越しているものです。
しかし例外もあり、私は『満仲』のワキやこの『盛久』のワキなどは、シテの年齢を考慮して配役すべき曲だと思います。シテ側の気持ちとして、あまりに年上の先輩では遠慮が生まれ、若年ではシテ同様土屋某には成りきれないでしょう。
森氏とは演能前より意見交換をして、立つ位置や謡の詞章などの確認や打ち合わせをしました。
通常、喜多流自主公演の申合はシテ方だけで行います。
しかし位が重い曲や稀曲などの特別な曲は三役の方々にお集まりいただきます。
昔ならば『盛久』ぐらいでは三役をお呼びすることはなかったと思いますが、近年は事前の打ち合わせ、申合の重要性を尊重してか、シテの希望で三役を呼べるようになりました。
『盛久』は細かな打ち合わせなくして曲の充実は計れないと思います。
成果が出たかどうかは別として、事前の打ち合わせにより、双方が気持ちよく出来たことは事実です。



それでは舞台経過を追って今回のレポートをします。
シテの出(登場)は我が家の伝書には「輿に乗り出る」と記載されていますが、輿に乗る場面が多いと、舞台景色上少々うるさく感じるのではと懸念して取りやめました。

幕が上がり橋掛りをシテ、ワキ、ワキツレ太刀取、ワキツレ輿舁の順に出て、シテは笛座前で床几に腰掛けます。ワキは一旦後見座でクツロギますが、シテが床几にかけるのを見計らって常座で名乗ります。
観世流や金春流の『盛久』は京都清水寺で捕まる設定のため、ワキの名乗りはなくシテは橋掛りを歩みながら「いかに土屋殿に??」と呼びながら始まります。
この奇抜な始まり方は元雅らしいところです。
喜多流は丹後の国、成相寺(なりあいじ)で捕えられ京都に護送されたと改変しているので、残念ながらこの面白い演出は出来ません。
成相寺は天橋立の近辺の山頂にあり、私も一度行きましたが、急坂を登りとても辺鄙なところです。
よくこんなところまで逃げたものだ、よくここで捕えることが出来たと感心しました。
ワキの名乗りに「よき案内者をもって易々と生け捕り、云々」とあります。
今でいう内部告発でしょうか、簡単に捕まえたと語るあたりが頼朝側の名乗りらしいところです。

喜多流の演出は成相寺から一旦京都に護送される設定ですので、道中囚人の心持ち、捕らわれた体で勤めます。
ワキの名乗りを聞き、シテは床几にかけたまま「いかに土屋殿」と呼び掛け、清水寺の方角に輿を向けてほしいと頼みます。
シテは正面先に下居して「南無大慈悲の観世音」と謡い、いよいよ鎌倉までの道行となります。
この街道下りはシテと地謡のかけ合いで進みますが、謡愛好家には謡い甲斐のある名文が続くところです。
シテの「いつかまた清水寺の花盛り」に地謡が「帰る春なき名残かな」と受け、もう桜も見られないと死を暗示し、刑地に赴く寂しさの心で謡います。

この道行、本来喜多流はシテやワキなど全員が動かずじっとして長い街道を下っていく様子を表現しますが、この演出が今の時代にご覧になる方々がお判りになるか、少し不安に思い、今回は「熱田の浦の夕汐」の段で一度、一の松まで移動して、大井川や富士山、三保の浦を橋掛りで眺め、舞台に戻ると鎌倉に着くという動きを入れてみました。
これは他流にある演出ですが、喜多流としては今回はじめての試みです。
これが可か不可か、楽屋内にも観客の方にも賛否両論あると思います。
しかし、試すことが可能な演者がその危険を恐れずに一度ぐらい挑んでみてもいいのではないかと、いつもの好奇心から試してみました。
みなさまのご意見をお聞きしたいと思っています。

鎌倉に着いた盛久は、この曲のもっとも難しい謡いどころ「夢中に道あって・・・」の独白となります。過去を顧み、生きて人前に面をさらす自分を嘆き、それならば来世での往生を願い、死を覚悟します。
ここの謡は大きな声だけでは成り立たず、しかし蚊の泣くような声ではこの深い思いは観客に伝わりません。
深く込められた気持ちを見所の隅々まではっきりと独り言として伝える、演者の技量の見せ所です。
このあたりが若者には適わないところで位が高いのかもしれません。

土屋を呼び出し死期を知ると、観音経の読誦を祈願して読み上げます。観音経、これがこの曲のキーワードでもあります。
今回経文の謡い方に工夫を凝らしてみました。
経文は四字または五字で区切り謡うという約束事があります。
今回の観音経は五字で区切ります。
若い時に経文の区切り方を知らずに「生老病死苦 以漸悉令滅」を死と苦の間で息継ぎして「苦以漸」と謡い、「五字で区切るんだ」と叱られたことを思い出します。

盛久が土屋に経文を聞かせるところは、「或遭王難苦」(ある王の怒りにふれて苦難にあい)、「臨刑欲寿終」(刑に臨んで寿命が終わろうとしている)、「念彼観音力」(観音の力を信じて念ずれば)、「刀尋段々壊」(刀もいくつかに折れ、ばらばらに壊れるだろう)と、5字で区切って謡います。これはその後、現実の刑場でその通りのことが起こる重要な偈文ですが、ここの謡をよりお経らしく謡えないものかと考えました。
謡は平坦にだらだら謡っていると「お経じゃあるまいし! 謡を謡え!」と父の注意が飛んだことを思い出しますが、ここは逆に、謡らしくなく、お経らしく謡ってみよう・・・と。

以前、野村四郎氏が、「寿夫先生が『通盛』の弘誓深如海歴却(ぐぜいじんにょかいりゃっこう)をお経のように謡われた」と仰っていました。これがヒントになりました。悪い謡の代表を雨垂れ謡と言ったり、お経謡と戒められますが、今回はまさにそのように謡ってみたわけです。

由比ケ浜の刑場での刑の執行場面、ワキツレ太刀取が盛久を切ろうとすると、観音経で唱えられているように刀がばらばらに折れてしまいます。
この太刀の落としどころは流儀により様々で、喜多流はシテの左前方ですが、ここにうまく落としてもらわないとシテは困ります。
今回は太刀取役の舘田善博氏がとてもいいところに落として演りやすく助かりました。

いよいよ後場、盛久が頼朝の御前に出る場面になります。
シテは後見座で袈裟を外し直垂をまといます。
囚人ですが、頼朝に謁見するというので、鎌倉方が用意してくれた晴れ着に着替えます。
以前、父が『盛久』を勤めた時の写真を見ると、シテもワキも同じ黒い直垂を着ていました。
両者の装束が同じである方が自然なのかもしれませんが、私はシテとワキの区別をしたく変えたいと思いました。
森氏は「当然、ワキは黒を使うよ。処刑人は黒でしょう」との意見、それではシテ側を替えるしかないと思いましたが、生憎粟谷家にあるのは黒色のみです。
困っていると、森氏から「白地の直垂があるから貸してあげるよ」といわれたので、さっそく見せてもらい、柄も問題なし、寸法もピッタリ、少し派手かとも思いましたが、盛久の平家らしさが出るのではないかと思い拝借させていただきました。
これも旧友との緻密な話し合いがもたらしたご褒美だと思っています。

さて元雅は『盛久』で何をいいたかったのか。
平家の侍、盛久という人物の死を目前にした諦観でしょうか。もちろんそれもあるでしょうが、私は観世音信仰と舞台には顔を出さない頼朝の存在を意識しているように思えます。
宗教と政治、宗派と幕府の二点が気になります。
元雅の生きた時代は、末法思想にあって、人々は観世音信仰に没頭して、現世や来世への救いを求めた時代でした。
『盛久』には全篇を通して観世音信仰が満ちています。

京都に着いて、千手観音をご本尊とする清水寺に輿を向けてと頼んで自ら拝む場面、鎌倉に着いてからは「あっぱれ疾く斬られ候はばや」と一人ごとを言い、念仏すれば来世で救われると日夜観音経を読誦する場面、少し居眠りして観世音の尊い霊夢をこうむり、頼朝が同じ夢を見たことから命を助けられるという物語展開、全てに観世音信仰が語られます。
そして頼朝もまた観世音の信仰のもと、罪人を許す、慈悲ある人として描かれています。宗教と体制側への贔屓があったのでしょう。

盛久という人物は、平家物語では長門本にのみ登場し、主馬判官盛国の末子として描かれていますが、実在した人物かどうかは疑わしいところです。
主馬判官という役職も、馬署の役人というほどのもので、それほど重要な地位とも思われません。
盛久の人物像がこのようにはっきりしないことから、演者は、盛久という人物を演じにくい一面もあります。
しかし、元雅の関心は盛久その人にあるというより、観世音信仰があれば二世(現世と来世)で救われるという信仰のありがたさであったのではないでしょうか。観音信仰の宣伝歌、それを描くために、実在したかどうか分からない盛久という人物を借りて、劇的な物語を作り上げた気がしてなりません。

観世音信仰という難しい信仰の言葉を散りばめながら、それでいて、盛久という刑死を目前にした切羽詰った人物の心の襞を描き、観客をあきさせず、一つのドラマチィックな物語にして見せつける、シテも物語や謡に運ばれて演者自身の姿で勤め演じ切る、そのような戯曲を元雅は求めていたのかもしれない、と思います。

『隅田川』や『弱法師』、『歌占』を勤めたときと同じように、今回もまた元雅の、父よりも祖父・観阿弥に似た作風、現在能という形で人の心と信仰心を感じさせる戯曲作りの才能と成功をしみじみと感じました。

(平成19年8月 記)

写真 『盛久』シテ 粟谷明生 撮影 あびこ喜久三

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