『翁』付『弓八幡』を勤めて

『翁』付『弓八幡』を勤めて
――― 翁と繋がる弓八幡のクセ ―――
粟谷明生



平成19年4月16日、厳島神社御神能で4年ぶりに『翁』付脇能『弓八幡』を勤めました。披キの『翁』は同じ御神能で平成7年(39歳)ですから、丁度12年前、そのときの脇能も『弓八幡』でした。

現在、御神能は初日と三日目を喜多流の出雲家と粟谷家が、二日目は観世流大江家が受け持って、この伝統を継承しています。近年、喜多流の翁大夫は執事の出雲康雅氏が隔年に、その間を粟谷能夫と私が交代で勤め、すでに14、5年が経っています。
初日の番組は『翁』付の五番立が基本で、脇能は『高砂』『弓八幡』『養老』の三曲のうちの一曲が、二番目物も勝修羅の三曲『田村』『八島』『箙』のうちの一曲がそれぞれ順番に組まれ、毎年演じられています。

『翁』は「能にして能にあらず」といわれ普通の能とは異なり別格です。発生は平安時代や鎌倉初期といわれ、中世室町時代初期に出来上がった能に比べ、演出や構成に特異性が見られます。室町時代後期に吉田神道の影響を受けましたが、その形はほぼ現在まで大きな変化はなく伝えられています。

私が厳島神社で『翁』を勤める喜びのひとつに、屋外しかも海の上という特殊な場所で舞えることがあります。晴雨に関わらず翁烏帽子に装束を纏い日光や風、大地の香り、そしてここでしか味わえない潮の織りなすいろいろな現象を肌で感じながら勤める『翁』は貴重なひとときです。屋内の能楽堂では得られない自然の中で舞える喜びを満喫し、無事奉納が終わると能楽師として、さあこれからまた一年がはじまる、とけじめも付き意欲も湧いてきます。

さて観客の皆様は『翁』をどのようにご覧になっているのでしょうか。

もちろん、どのようにご覧になろうと自由ですが、『翁』は演劇を観賞するというよりも、神への儀式を芸術的に表現している芸能の鑑賞、と思っていただければと思います。

翁大夫は「天下泰平、国土安穏」とご祈祷を謡い、演じるというよりも神事に奉仕する気持ちで勤めます。しかしこの言葉に甘えて芸能者の精神まで神棚に上げてしまってはいけないと思います。
生意気な私見ですが、『翁』を勤める能楽師は能にあらずといわれる『翁』であっても、その大夫役者でなくては味わえない魅力を発揮し、大夫の個性を感じさせなくてはいけないと思います。芸能者として磨き上げられた択一した動きや謡の技が始終見え隠れしていなくては、信仰思想と遊離している現在の『翁』を奏す意味がないのでは、と最近思うようになりました。
昔、厳粛な行事の始まりには必ず『翁』が出され、江戸時代に江戸幕府の式楽とされてからは『翁』は完全冷凍保存されたように形式が整い、伝えられてきました。しかし近年、冷凍庫から取り出した『翁』は少しずつ溶け始めているように思えます。

元の冷凍保存されたままの形でよいのか、見せ物的要素を繰り広げご覧いただくか、それは今、現代人がどのような『翁』を求め、演者がどのように提供していくかで、いかようにも変化していくでしょう。

能楽師にとって『翁』は位が高く大曲です。しかし『翁』を数回勤めて、何故これが大曲であるのか、と疑問を抱くようになりました。
軽視はしませんが、喜多流の『翁』では、大夫が勤める時間は出入りの儀式を含めても僅か30分程度で実質舞うのは15分ほどです。いろいろ秘事はありますが所詮短時間で済みます。

私は『翁』を勤めるための秘事云々を学習していくうちに、神事を芸能化した『翁』を済ませた後に脇能を勤める、後シテでは神体となって颯爽と舞う、そのために2時間半を超す演能時間、支度から最後の三役への挨拶が終わるまでの時間を入れれば、有に5時間を超すこの長丁場の『翁』付脇能を勤めてこそ『翁』という曲や翁大夫云々を語れるものであると思うようになりました。

近年『翁』のみの興業は多くなりました。しかしそれは『翁』が持っている本来のものとは似て非なりで、まさに見せ物化してきています。見せ物が悪いとはいいません。芸能をいろいろな方に観ていただく一つの方法として私は歓迎しますし協力もします。

いま私がいいたいことは現場にいる能楽師がショーはショーとして勤め、楽をしてもいいですが、もう一方で『翁』付脇能という辛い本来の形もあるということを忘れないこと、と思うのです。これは私が演じる立場であるからこそ言える感想なのです。身近で手頃で楽な『翁』と同時に長くきつい『翁』付脇能を勤めることで、自分自身に何か見えてくるものがある、今回の『翁』付『弓八幡』はそれを強く感じさせてくれました。

今回『翁』の演能レポートは、私が下掛の能役者として白式尉の部分のみ記します。
一部他流と異なることや黒式尉に伴う記載がないことなど、予めご承知おきいただきご高覧いただければと思います。
では当日の進行を追ってレポートしていきます。

『翁』の構成は大きく白式尉と黒式尉の二つに分けられます。
前半の白式尉の舞の前には露払いの千歳の舞があり、上掛はシテ方が勤めますが、下掛では狂言方が勤めます。千歳は颯爽と力強く舞い、大夫は千歳の舞の途中に舞台上で白式尉の面をつけ、ご祈祷とどっしりとした位のある翁の舞を天地人と三個所の拍子で神に祈り捧げます。
後半の黒式尉の舞は、揉みの段と鈴の段に分けられ、どちらも狂言方の三番三(和泉流は三番叟)が舞いますので、下掛の『翁』は大半を狂言方が担っていると言っても過言ではありません。

つまり喜多流の『翁』でシテ方が受け持ち舞っている時間が15分程度となるのはこのためで、三番三を勤める役者に比べその疲労度は格段の違いです。それでもシテ方が『翁』を大事にしているのは、秘事云々もさることながら、脇能も勤めなければいけない長(おさ)の立場、その責務からです。

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江戸時代公儀の伝えでは「三日前より別火を喰い、殊に潔斎すべし」と、『翁』を勤める前の心得が記されています。我が家の伝書にも「翁大夫を勤める者の演能心得、前日、昼午の刻に沐浴、別火して精進潔斎して舞台に臨む」と記載してあります。これらは今の時代、生活環境のこともあって、現実問題としてその通りに行うのは難しい状況です。私は『翁』を勤める精神性を軽んじるつもりはありませんが、時代に合ったやりかたで、大夫がそれなりに真摯に対応していけばいいと思います。

今回は前日に宮島に入り、個室に宿泊し、朝5時に起床して身を清め、朝食は『弓八幡』で初ツレを勤める弟子の佐藤陽君ととり、気持ちを引き締めて舞台に臨みました。形は大切です、しかし形だけでなくそこに込められる気持ちの充実はもっとも大切にすべきことではないでしょうか。

翁大夫の装束は伝書には厚板色無、俗名「浮糸」と書かれていますが、ここ厳島では紅無柳模様の厚板がお決まりで紫指貫、狩衣となり腰帯は緞子となります。他流には金襴模様の狩衣を使われることがあるようですが、当流は使わないようにと伝書に注意書きがあります。

『翁』には翁飾りと呼ばれる祭壇が置かれます。翁飾りは上段中央に白式尉と黒式尉の二面、そして鈴を入れた面箱を置き、左に大夫の翁烏帽子、右に中啓が置かれ一時的に飾られます。下段に厳島では煎り子(煮干し)と洗米、横に土器が置かれ、御神酒が置かれます。本来、翁飾りは鏡の間に置かれますが、厳島では場所が狭いため楽屋に設置されています。装束を着けた大夫は最後に翁烏帽子を付け中啓を取り、翁飾りの前に着座し礼をして最初に後見から御神酒をいただきます。次に千歳、三番三と、まず役の者がいただき、その後に侍烏帽子に素袍上下を着した囃子方、狂言後見、地謡が同様に順番に御神酒を頂きます。御神酒を頂いたお囃子方はすぐにお調べをはじめ、千歳は面箱を戴いていよいよ出となります。(注意・お調べや御神酒の頂きかたは場所により異なることがあります。)残念ながら、これらを観客がご覧になることは出来ません。また女人禁制ですので、女性は楽屋入りも許されません。

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揚げ幕の内側では橋掛りの中央に役者が並び待機しています。橋掛中央部に立つことは『翁』だけに許された特権です。千歳が面箱を高々とかかげ、大夫の「おまーく」の掛け声で翁渡りが始まります。
幕が上がり、千歳に続いて大夫はどっしりと一歩一歩位をもって運びはじめます。

この位取りはなんでもないように見えますが、演者としては、ここがなかなか難しいのです。父はここの位取りは、歳を重ねれば自然と出来る、若い大夫はあそこにどうしても風格が出ない、と教えてくれました。確かに自分の披きのビデオを見ると、なるほど軽いと痛感しますが、今回もまだまだ、どっしりとまではいかなかったと反省しています。
他流の『翁』には初日之式、二日目之式、三日目之式、四日目之式とありますが、喜多流に伝えられているのは四日目之式と云われています。流儀の主張は、御神事であり見せ物ではないので毎回同じで構わない、と喜多六平太芸談に記載されています。

大夫は舞台正中から正面先まで進み、座礼します。
伝書には「偉い方は南に向いて座るから、北を向いて礼をする、北斗へ向かう心」と意味ありげな事が記載されています。北斗へ向かう心、これをどのように解釈するか、そこが味噌です。私は貴人や神社関係者に対しての礼ではなく、空を見上げ神に「これからご祈祷と舞を捧げます」とご挨拶の気持ちを込めて深々と礼をしています。

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座礼が終わり、大夫が地謡座近くに座ると千歳は面箱を大夫の前に置き、面箱から翁の面を取り出します。これを手際よく出来るのも千歳の技量の一つです。千歳が脇座に移動するのを合図に、橋掛りに着座していた囃子方から一同順に舞台に入ります。地謡は『翁』に限り囃子方の後(後座)に着座します。これは『翁』が平安末期か鎌倉時代初期に作られた名残だといわれています。囃子方が着座すると笛はすぐアシライを吹きはじめ、その間に小鼓三人は素袍上下の上を脱ぎ道具を取って連調となります。今は番組に小鼓三名の名前があり、その真ん中が頭取と呼ばれ主導権を持ち、その左右に脇鼓(見所から見て、右が手先、左が胴脇)が並び囃します。なんでも古い時代は一番初めに道具を持った者が頭取になったとも言われていますが、今はそのような事はありません。
三丁の小鼓の打つ手組を聞いて、大夫の「どうどうたらりたらりら、たらりあがり、ららり、どう」と意味不明な謡となります。

我が家の伝書には詳細に意味が書かれていますが、これは音だけでも充分楽しめますし、また呪文と思えば、それはそれで意味不明でもかまわないと思います。『翁』は詞章より、ノリ、躍動感あるリズムが命と思い勤めています。

千歳の舞は露払いです。この役は『翁』の中で唯一若やいだ役です。千歳の「所千代までおわしませ」の謡で大夫は舞台上で堂々と観客の前で面を付けますが、『翁』ならではの演出です。
昔、足利義満公の前で、観阿弥が敢えて若い息子 藤若(世阿弥)にこの大夫役を勤めさせたのは、舞台の一番はじめに美少年の世阿弥の素顔を見せ印象づけ、そして舞台で面を付け変身する舞台効果を充分知り尽くしてのことだったのでしょう。

面を付けた大夫は三番三と大小前で向き合い、三番三は揉みの段に備えて後見座にくつろぎ、大夫は正面に向きご祈祷となります。
「ちわやふる」「千年の鶴も萬歳楽と謡うたり、また萬代の池の亀は甲に三極を備えたり、天下泰平国土安穏 今日のご祈祷なり、ありはらや、なじょの翁ども」

このご祈祷の謡は、朗々とはっきりと張って、なお奥深い広がりが感じられれば最高位の良い謡、と評されるでしょう。私も屋内ではそのようにと意識していますが、ここ厳島では意図的に少し変えています。
ここで『翁』を勤めるには全身全霊で神に届くが如く、大声で張って謡うものだと思います。当然役者の年齢によりその声は違います。30代の張る声量や声質は40、50、60代のものよりもいたらないところが多々あるでしょう。若さ故は百も承知です。60代や70代の年を経れば、自然と落ち着いてきて、それでいて張りのあるものが出来上がるのは当然です。役者には自然と年を重ねることで体得出来ることもあるでしょうが、ここ厳島での『翁』はそのような言葉に甘えずに、老若関係なくその場を受け持つ役者が精一杯大きな声で唱えることに意味があり、そのような謡い方が必須だと思います。それが屋外の『翁』を勤める時の心構えだと信じています。

能楽師は例えば、厳島というロケーションであれば、その場をどのように思い考え、謡い方を探り見い出すか、その作業を怠っては八百万の神々がお怒りになるのでは、と私は怖れています。

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ご祈祷が済むと翁の舞となります。
喜多流は中啓を持つ右手をかかげ目付柱まで行き、そこで少し屈んで天の拍子を踏みます。次に脇柱近くに移動して地の拍子を同じように踏みます。

踏み終わると位が少し早まり、翁独特の型、左袖を頭部に翳し中啓で面を徐々に隠して天の磐戸隠れを現します。袖を返したり巻いたりして、そして最後に舞の終わりは人の拍子を踏み、萬歳楽・萬歳楽と大夫と地謡の掛け合いの謡で最後に礼をして大夫の舞は終わります。大夫は元の座に戻り面を外し、面に礼をして面箱にしまい、また正面先まで出て座礼をして幕へと帰ります。
これを翁帰りといい、高安流ワキ方は装束を着て幕の内で脇能のワキ役者が大夫を出迎え、受けるのが決まりです。
さて大夫が幕に入ると、大鼓は床几に掛けて揉みの段となり、三番三の出番となりますが、それらを大夫は脇能(今回は『弓八幡』)の前シテの装束を着けながら聞くことになります。

我が家の伝書に「太子伝の翁、云々」と記載があり、これが喜多流の『翁』の基盤となっていますので、その一部をここにご紹介します。

又其ノ後人皇三十三代推古天皇ノ御時、諸国疫癘多ク様々ノ天災有リ。其ノ時聖徳太子摂政シ給フ故、神仏ニ御祈願有シ時、天ヨリ面降リ下ル。太子是レヲ御覧ジテ、是レ翁ノ神楽ノ面也。天是レヲ下シ給フハ、此ノ神楽ヲ奏シテ災ヲ退クベシトノ御託也トテ、翁ノ神楽再興有リ其ノ時、庭上ノ御池ヨリ亀浮カミ出ル。甲ニ文有リ。「トフトフタラリタラリラタラリアラリララリトウチリヤタラリタラリラタラリアラリララリトウ」太子此ノ文ヲ考ヘ、諸鳥ノ囀ヲ以テ調子ヲ調ヘ、神楽ヲ作リ給フ。今ノ翁ココニ始ル。太子伝ニ曰ク、撥調ヲ改テ手調ト為ス。此ノ時ヨリ今ノ世ノ笛始リ、臺拍子ヲ改テ小鼓ト為シ、太鼓ヲ改テ大鼓ニ成ル。「千年ノ鶴ハ萬歳楽ト謡フタリ」トハ諸鳥ノ囀ニ依テ調子ヲ調ヘタル儀也。「萬代ノ池ノ亀ハ甲ニ三曲ヲ備ヘタリ」トハ則チ此ノ文ニ依ル也。此ノ時ノ神楽ハ五人立チニテ翁ハ聖徳太子自ラ舞謡フ。而シテ此ノ神楽ヲ秦河勝ニ伝ヘタフ。
河勝ガ子孫、大和国竹田ニ住ミ、世々御祈祷有ル時毎ニ勅ヲ蒙リテ此ノ神楽ヲ奏ス。世ヲ経テ後、竹田家故有リテ断絶シ、翁ノ神楽ハ神祇官 卜部家ニテ奏ス。又其ノ後、兵乱ニ依テ、卜部家翁ノ神楽断絶ス。足利義満公ノ時、武威盛ンニシテ武家ニ諸禮ヲ定メラレ、住吉神功皇后御凱陣ノ吉例ニ依テ、翁ヲ武家ノ式楽ニ定メラル。此ノ時翁ノ神楽「堂上」ニ絶ヘテ古実ノ伝ノミ 卜部家ニ残ル。今ノ世、吉田家ヨリ翁ノ古実ノ相伝有ル事此ノ故也 云々

ここからは秘事が多くなりますので、中断させていただきますが、室町時代後期に吉田神道と繋がりを持ち、どのようになったのかが詳細に書かれています。
要約すると、往古に金春家と吉田家が争論して故実は吉田より伝えられたが、舞様は金春より伝えられた、よって観世大夫、宝生大夫、金剛大夫は吉田家より故実を相伝して、金春大夫と当流は太子伝故、吉田伝は受けない、とあります。
喜多流はもっとも新しい流儀ですが、『翁』だけは金春と姻戚関係になったこともあるので、古いやり方が継承されているというわけです。

この伝書には、『翁』が災いを退くために天からのご託宣として降りてきたこと、「とうとうたらり・・・」の詞章、囃子の位置づけなどが生き生きと描かれています。しかも、その精神はここまでレポートしてきた現在の『翁』のなかに生きて伝えられていることがわかり興味尽きないものです。聖徳太子自らが舞い謡ったという記載も面白いではありませんか。
また、先に述べたご祈祷の謡、喜多流の謡本には「千年の鶴も・・・・・甲に三極を備えたり」とありますが、これは三曲の誤りで、このような間違いを今頃になって気づくのは少々勉強不足でお恥ずかしいのですが、これも伝書を読めたからこそ、とつくづくと伝書の大切さと面白さを感じました。

『弓八幡』について



『翁』が一通り終わると、脇能の『弓八幡』となります。
『弓八幡』は脇能の中でも渋い曲で演者にとっては、さほど遣り甲斐のある曲ではありません。世阿弥も「すぐなる體は『弓八幡』なり、曲もなく真直なる能、當御代の初めに書きたる能なれば秘事もなし」と世子申楽談儀に書いているように、特別演出する小書もなく特別な型所があるわけでもないので、『高砂』に比べると面白みは少々下がるように思います。

『弓八幡』のような簡素な曲は演者が見せるというより『翁』と同じように真摯に、ただただきっちりと正統に脇能らしく謡い、脇能らしい力漲る構えや運びに心がければいいと思います。観客はその中から泰平の御世を祝う心を想像されればよろしいかと思います。
今回初ツレを経験したのは昨年より我が家で勉強している佐藤陽君で、東北大学で勉学中にこの道に入りたくなり、今能楽師を目指している者です。
喜多能楽堂改修工事も無事終わり、4月には本舞台も使用出来るようになったので、佐藤君と本舞台で二、三度稽古しましたが、やはり厳島の能舞台は橋掛りの位置が喜多能楽堂とは違い特殊なので、前日に場当たりをして舞台に慣れておくことにしました。その成果があり、見当違いや間違いもなく無事勤めてくれたことは嬉しいことでした。これからの益々の精進を期待しています。

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『弓八幡』を再演するにあたって再度伝書を見ましたが、やはり「常の通り」とあるだけです。但、桑弓をワキに渡すところは通常初同で渡すとされていますが、意味合いからも「今日ご参詣を待ち申し、これを君に捧げ物と申し上げ候」とワキとの問答の時に渡した方がよいので、前回同様そのようにしました。

『弓八幡』の主題はこのワキとの問答にあると思います。弓矢をもって戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめるという平和主義者世阿弥の思想がここにあります。
スポンサーである武人足利氏を褒め称えながらも、帝を尊重する曲作りには世阿弥の芸能者魂がこのすぐなる能から伺えます。




『弓八幡』脇の五段次第、道行、シテの眞之一声、下げ歌、上げ歌、問答、初同となり、続いて序、サシ、クセ、ロンギ、中入となり舞があってキリの仕舞所と、典型的な脇能の構成で進行していきます。

サシから居クセまでは神功皇宮が三韓を従えさすために九州で祭壇を飾り祈ったこと、そして敵を滅ぼし応神天皇を生んだこと、その神が八幡山について石清水八幡宮となった故事を語ります。そしてこのクセの詞章が神楽発祥や『翁』に通じ、寿山が記載する伝書に同様に書かれていたのを知り興味が湧きました。

居クセが終わり、前シテの尉は自ら高良神(かわらのしん)であると名乗り消え失せ、中入となります。後場は高良の神躰として現れ、御世を寿ぎ泰平の御世を祝い舞を舞います。
では下記に『弓八幡』のクセと通じる『翁』の伝書の一部をご紹介します。
『翁』と『弓八幡』のは繋がりをご覧下さい。

人皇十五代神功皇后、三韓退治ノ時、九州筑前国博多郡ニテ諸軍勢ヲ集メ大酒ヲ給フ時、烏帽狩衣着シタル人、出来シテ、神功皇后ニ申サシ難所ノ瀬渡ヲ御渡リ給フ間、供奉申スベシトテ、則チ大酒シ給フ。此ノ時 神楽在リ武持神楽舞給フ。是レ武内神、高良ノ明神也。老人ハ「興玉神」「住吉大明神」也。千歳振、「高良明神」。翁ハ「八幡太神」。神功皇后懐妊ニシテ舞給フ故ナリ。

三番叟「住吉大明神」、此ノ時榊ノ枝ニ金ノ鈴ヲ附テ持チ給フト云フ。又一説ニモチノ枝ニテ舞給フトモ云フ。是レ鈴ヲ振ル始メ也。此ノ以前ハ竹ノ枝ヲ用ヰル也。今ノ世ニモ、三番叟ニ錫杖ヲ用ヰル事有ト云フ。竹ノ杖ヲ象リタルナルベシ。神功皇后三韓御退治ノ吉例ニ依テ武家祝儀ニ必ズ翁ヲ用フル也。其ノ時翁三人成ル故、武家ノ祝儀ニハ三人ニ立ニ限ル也。云々

『翁』は随所に秘事、秘技があり、芸事上いろいろな約束事を秘密に伝承しながら現代に伝えられています。今回、伝書を注意深く読み、面白い発見がたくさんありました。喜多流の『翁』の基礎となっている「太子伝の翁」の話や、『弓八幡』のクセが『翁』に密接につながっていること、こういう発見があると『翁』や脇能が自分の中で大きく広がって一つの宇宙をつくり上げてくれるようで、私の役者魂が躍ります。

伝書の記載事項が秘事であることは能楽師の一般常識です。もちろん秘すべしは悪くありません。公開しないことで浸食されず守りぬくことは大事でしょうが、今回敢えて、限度と節度を考慮しながら公開を決断しました。けしからんとお叱りを受けるかもしれません。しかし私は能の真髄を演者も観客も、ともに見極め共有することは必要だと思います。そのために資料公開がすこしでもお役に立つのであれば、それは悪とは呼ばれない、そう信じています。

伝承とは正しく伝え承ることです。
御神能後、体調を崩し私自身初めての入院を経験して、人間、万が一ということを身近に感じました。
書きとどめる作業、それがネット上であれ書きとどめたことで、私の役者魂が形をなして存在するかと思うと、花火のようにぱっと消えてしまう演劇活動に携わっている人間としては、たまらなく面白く、つい執筆に力が入ってしまうのです。

演能レポートを書きはじめて10年を超えましたが、これからも自分自身の能を見つめるために書きつづけていきたいと思っています。
今回の「『翁』と脇能」の演能レポートは、私事ですが健康であることの有り難さ、自然の中での体験のすばらしさ、伝書という先人たちの功績によって演能する意欲がさらに膨らんだことなど、たくさんの経験を書きとどめることができました。そして書くことでその思いを更に強くし、それだけでも充分価値あることだったと思っています。

(平成19年4月 記)

写真
能『翁』『弓八幡』 シテ 粟谷明生          撮影 石田 裕
面 翁 小牛尉     厳島神社蔵          撮影 粟谷明生
厳島神社能舞台楽屋                  撮影 粟谷明生

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